私の探偵小説

坂口安吾




 私は探偵小説が好きなのである。
 私は仕事に疲れ、二三十分ごろりとねころんで休憩するとき、詰碁か詰将棋か探偵小説を読む。探偵小説の在り方はそれでいゝのだろうと思う。探偵小説を書いている人たちは自分が苦労して書いているから芸術品のように尊重されたいと考える。その気持もうなずけるが、そんな風に言う必要のないことだと私は思っているのである。
 私の小説、いわゆる純文学などゝ称しているものでもそうだ。たとえば仕事に疲れた人がゴロリとねころんで、二三十分の休息によむ。詰碁や詰将棋と同じ休息用のオモチャとして読む。それでいゝではないか。色々な人々に、その人各々の様式で読まれたり受け入れられたり投げだされたりする。
 純文学だから娯楽用に読んじゃいけないという規約があるわけのものではない。読む人の自由であり、そこでたとえば私が自分が好きだものだからオレも一つ探偵小説を書いてみようか、というように、休息用に純文学を読んで純文学の面白さや問題の在り方に会得するところのあった御仁がオレも一つ純文学を書いてみよう、そう思ってツレヅレに書きだす、そんな風にして純文学を書いてみようという人が現れても、私はそれもよろしいと考える。一つの極った型はない。人各々自分流に色々の方法様式があるもの、流儀だの流派、主義だのと、いたずらに窮屈な限定をつけるのは最もその道をあやまり易いものなのである。
 私の探偵小説は、私の趣味で、私もずいぶん疲れたとき退屈なとき探偵小説のゴヤッカイになり、恩も深いが、又、探偵小説にも本当に終りまでたのしませてくれる名作がめったにない、自分に及ぶものなら、ひとつ自分で名作を書いて同好の士の退屈のひとゝきにたのしいオクリモノをしてみたい、そう考えているうち、暇々に自分で構想をねってみて、これなら同好の士に馬鹿馬鹿しいとかツマラナイとか思われないだけのオクリモノになるだろうと考えて「不連続殺人事件」を書きだしたのである。
 これは元来「宝石」へ載せる約束のものであったが、今年の春から用紙割当で雑誌が減ページとなり、一冊の雑誌にいくつの作品ものせられなくなった。そこで数に限りの探偵雑誌に、素人の私がわりこんで連載小説など書いては、探偵雑誌にしか作品を売ることのない専門作家の人たちのスペースをとり、好ましいことじゃないと思ったから、どっちみち私が書かねばならぬ方面の純文学雑誌に載せることにしたのであった。私はこれを私の一存でやったから、あとで「宝石」の編輯の人たちに大変恨まれることになったが、私の微意を察して御カンベンねがいたい。
 そこで、私に、代りの探偵小説をと「宝石」から強硬ダンパンで、私もつらいところであるが、探偵小説は私の趣味で、趣味というものは暇々ツレヅレにたのしみながらユックリと、自らタンノウしてやる世界だ。それに探偵小説というものは構想、トリック、よくよく行きとゞいて算術式にメンミツにまとめておいてからやらねばならぬもの、この算式に狂いがあっては、せっかく同好の士へのプレゼントが端物になって、オソマツ、何にもならない。
 だから一年にひとつとか、二年にひとつとか、本当にツレヅレが自然に生んでくれるまで書かないのが当然で、私のようにその趣味をもつ者にとっては、自らツレヅレに新たな構想、トリックが浮んでくるのが自然なのだから、そういう自然の状態まで待っていたゞきたいと思う。いつ書くか分らないけれども、今度書く私の推理小説は必ず「宝石」へ連載することを読者にもお約束しておきます。
 そのときは、必ず新しいトリック、新しい色々な手法をとゝのえて読者に挑戦する考えで、私の推理小説はあくまでゲームをプレゼントする心構えのものだから、私は一生、私の推理小説には、私自身から犯人当てっこの賞金を賭けて、読者にゲームをたのしんで貰うつもりでいる。
 まったく私にとっては探偵小説ぐらい息ぬきになるオモチャはないから、読者もそういうものだという風に仮定しているだけの話、実際、探偵小説は最も高級なオモチャの一つだろうと私は考えている。





底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「宝石 第三巻第一号」
   1948(昭和23)年1月25日発行
初出:「宝石 第三巻第一号」
   1948(昭和23)年1月25日発行
※表題は底本では、「私の探偵小説〔1948. 1. 25〕」となっています。
入力:toko
校正:持田和踏
2022年9月26日作成
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