女忍術使い

坂口安吾




 二、三週間前、熱海へ寄ってきた某記者が、「林芙美子さんからです」
 と云って、ウイスキー一本ぶらさげてきた。例の桃山荘で仕事中の由であった。彼はその翌日、林さんの仕事ぶりを偵察に行くというから、
「よろしく伝えて下さい」
 その晩、彼はくさって戻ってきた。
「坂口さんから、よろしく、という御伝言が宙ブラリンになりまして。この鼻の、ここんところへブラ下ってるんですけど、見えませんか。林さんはすでに東京へ戻ったそうです」
 彼女はよく動く人だったね。私はいつもそれに感心していた。しかし、女というものがよく動くのかも知れん。世界には二ツの女があって、家庭の主婦というものは家の中でしか動かないし、主婦でない女は家の外でしか動かんものだが、とにかく女というものは生きてる証拠に動いてるようだね。林さんだけがよく動くんじゃないらしいや、と云ったら、
「へエ。私はまたどこへ行っても同じ場所に居るようだわねえ。アア、忍術が使いたい」
 と言った。私が上京してモミジで仕事してると、深夜二時半ごろ彼女は男の子のコブン二人つれて遊びにきた。時には男の子と女の子のコブン十人ちかくひきつれて現れることもあった。その深夜に現れた時はあんまり酔っていなくて、
「変だわねえ。午前の二時半だってねえ。ウシミツ時じゃないの。お酒に酔っぱらいもしないで、どこをウロついてたんだろう。シラフで帰るとかえってウチのヒトに怪しまれるから、安吾さん、のましてよ」
 こう云って、ハッハッハ、と笑って、
「私ねえ。あなたッて人が忍術使いに見えんのよ。コロコロコロッと呪文を唱えるとウイスキーと七面鳥の丸焼きをだしてくれるのよ。巴里パリの街には忍術使いらしい人ずいぶん見かけたけど、日本はダメだわねえ。安吾さんぐらいのもんじゃないの」
「オヤオヤ。あなたがそうじゃないのかね」
「私の呪文じゃ出てくれるのはカストリぐらいのもんだわねえ。マッカーサーかなんか招待して、コロコロッて呪文を唱えて、帝国ホテルでカストリだしちゃって。私がねえ。ハッハッハ。でも、ねえ。カストリでもいいわよ。欲しいとき、それがきッと出てきてくれると思いこんで生きられないものかしら」
 彼女はニヤニヤ笑った。
「自分のカラダがフッと消えるといいわねえ。ヒョッと居なくなっちゃうのよ。時々ヒョッと現れるのよ。もう出てこなくッてもいいじゃないの。三百年前の大阪の陣のさなかに敵陣へ忍びこもうとフッと姿を消しちゃって、にわかにオックウになッちゃッて、戦場からそれちゃってさ。今もって姿を現さないスネ者の忍術使いがいるような気がするわね。いまだに、どこかに頬杖ついて退屈してるのよ」
「広島で頬杖ついてたとき、原子バクダンで死んだとさ。そういつまでも生きてちゃ気の毒だよ」
「思いやりがあるわね」
 彼女はかなりお酒をのんでから、今の話を思いだして、
「あなたは六百年あとに勲章もらうわよ」
「誰から」
「退屈と戦える騎士一同に勲章あげる大統領がでてくるわよ。大きなお鍋に海水とムギワラ帽の廃物と何千匹のカナブンブンのような虫を何十年間もグラグラ煮たてて勲章こしらえるのよ。勲章ができあがってお墓の胸ンとこへつけてあげようと思ったら、安吾さんのお墓がないわね。アラどこへなくなっちゃッたと思ったら、はじめからお墓がなかったのねえ。そんな人間がほんとに居たかどうかも怪しいもんだ、なんて。ハッハッハ」
 彼女の話は比喩が童話的であっても内容は甚だ現実的なのが普通であるが、この日に限って、内容も夢物語であった。
「フッと消えちゃダメよ」
 林さんは私にそう言ったあとで、その言葉がそれだけでは気にいらなかったらしく、
「本来、住所不定で、着ながしで、あなたは消える必要がないわよ。私が死んじゃっても、安吾さんだけはお葬式に来てくれないにきまってるんだもの、あなたとツキアッてる時は気楽で、たのもしくなるわよ。この人、私のお通夜にくる人かな、と思うと安心できないわねえ」
 そうは云うが、彼女自身は人のお通夜へでかけるのがキライなんではなかったね。なんしろ、女はよく動くから。
 十日ほど前、私は文藝春秋の用で長崎へ行った。泊る予定の宿が一パイだったから、鉄道案内所で福島屋へ紹介された。どのウチにも庭のない長崎には珍しく旅館の門をくぐってから石ダタミの坂を登り、大きな金看板のようなものが飾ってある玄関から、古色蒼然たる廊下をまがって階段を登って見晴らしのよい部屋へあがる。私は玄関に立った時から、ピクピクと鼻先に直感の閃くものがあったのである。
「林芙美子の匂いがするぞ。あの石ダタミと塀の壁から、もう匂ったぜ。益々匂うな、この玄関は。ウム。益々ムンムン匂うぞ、この廊下は。ヤ。まちがいなし。この部屋は、その物ズバリだ」
 私は連れのE記者に云った。そして宿屋のシッポク料理をくいながら、
「林芙美子さんが長崎で泥棒に四万五千円してやられたというのはこの旅館でしょう。ここのウチの門をくぐったトタンに、林さんの匂いがしたのさ。この拙者の鼻にマチガイはなかろう」
「ハア。マチガイございません。ですが、それ以前と、その後も、二度と盗難はございませんのに。林先生は御運のわるい」
 どうして林さんの匂いをかぎだしたのか、どうも私もよく分らんが、あのとき実は一瞬にして、ここだ。彼女が長崎で泊った宿屋は、と甚だ強く感じたのだけは確かであった。
 林さんと最後に会ってから、もう半年はたつだろう。彼女が熱海へ仕事に、私が伊東へ帰るために、文春の徳田君中戸川君も一しょに新橋から汽車にのった。彼女は重そうな外套をきて自家製のスシの折ヅメをひらいて差しだし、皆さんよく召し上り、拙者だけは胃から血をはいた直後だったらしく、御一統の食慾を見物してましたね。
 しかし、実は、十日前に長崎で彼女に対面してきたばかりなのさ。私にとっては、彼女は実によく動く存在さ。彼女は長崎の風のなかにも確かにいた。これからも諸方の街を吹く風の中で彼女に会うことがあるだろう。そして私が諸方の風の中で会う林さんは、一生懸命な詩人で、いちばんよい林さんらしい。
 せんだって彼女からもらったウイスキーはまだ押入れにあるそうだ。彼女はカストリの忍術使いだなどと御ケンソン遊ばしたが、コロコロコロと、呪文を唱えて、とびきりのウイスキーをおいて行ったよ。そのうち、ゆっくり、のみましょう。コロコロコロ。





底本:「坂口安吾全集16」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「文学界 第五巻第八号」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月1日発行
初出:「文学界 第五巻第八号」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月1日発行
入力:持田和踏
校正:友理
2023年5月8日作成
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