檀君が五右衛門を書くために、はじめて大阪へたつという晩、私たちは銀座で酔っ払った。石川淳もいたようだ。新大阪の記者が檀君につきそっていたね。彼が汽車に乗りおくれないように監視するためであった。
酔っ払う檀君と、それを監視しつつある記者君との滑稽な悪関係は、五右衛門が完結するまでひきつづいて行われる運命のようである。
しかし檀君の監視者は新大阪の記者君だけではないのである。彼は年中誰かに監視されている。私のところへ現れるにも、たいがい監視者をひきしたがえて現れる。共に酔い共に泣くという美談があるが、檀君の場合はすこし、ちがうね。監視者が泣くのは原稿ができないためであるし、檀君が泣くのはワッハ、アッハと笑いすぎるためである。
しかし、檀君もよく戦った。五右衛門を書くことは特に勇ましい戦のようであったらしいね。
彼の五右衛門は明るい。そしてカッタツである。監視者の涙のように
だが何よりもこの小説の魅力を構成しているのは、底に鋭くひそみ、みなぎっている作者の詩魂でしょう。
「誰だ?」
と、玄八、おどろく。
こういう文章を、檀君どこで会得したのか知らないが、鋭い刃物のようにひらめき、それ自体が詩でもあるが、それが作中人物に直結して、ついに物語をなして行くダイナミックな構成が美しい。
後編というのがタノシミだね。いよいよ、秀吉現れ、ここにシノギをけずることになるのだそうだが、檀君がどういう「真説」を創りだすか、たまらない興味がある。
すでにこの小説の躍動的な面白さ美しさは、天を飛び、史実の領域を遠く下界へ捨て去って、直線を描いて
これに対抗する秀吉は、タダじゃアすまないね。どんな秀吉が現れるだろう。どんな美人が現れるのだろう。淀君なんかも現れますかね。
前編の五右衛門はもっぱら山野を走り大海を荒れまわったが、これより都会人との人間関係にどういう綾の葛藤を描き、風雲を起すか。檀君すでに勝算歴々、自信マンマンの如くであるが、益々監視者と共に酔い共に泣き、快作の完成をいのりますよ。