茶の間はガラあき

坂口安吾




 第三次世界戦争があるか、ないか。いつ起るか。どこのウチの茶の間の話も、日に一度ぐらいはそれにふれずにいられないような昨今である。そして、どこの茶の間の結論も、要するに「和戦両様の構え」らしい。
 むかし――といっても、そう遠い昔ではないが、軍人政治家がよく「和戦両様の構え」と言っていた。今はもっぱら日本の茶の間の態勢である。茶の間には国政を左右する何らの力もないから、もっぱら和戦両様の構えにまわるのは仕方がない。
 分らないのは政府や政党の構えだが、あなたも和戦両様ですか? ところがむかしの軍人よりも戦争一本槍の構えのようだな。
 思惑で国策をたてるのは弱小国の通例かも知れないが「優秀な」弱小国は必ずしもそうではなかった。
「対立する二大国にはさまれた弱小国は一方に味方のハラをきめなければならない。それとも、どッちつかずにずるく立回ってウマイ汁を狙うつもりかね」
 こう両強国の人に開き直られると、政治家や御用学者はシドロモドロらしいが、案外にも茶の間の旦那やオカミサンは、
「いったい、あなた方は本当に戦争するツモリですか? しないツモリですか?」
 納得するまでそう訊きただしてみたいと思っているのが少くないのである。
 二大強国対立の影におびえる必要はなかろう。現に両強国の頭首は平和への歩み寄りに努力しているではないか。茶の間の論理はその裏面をカンぐるように悪質ではないから、
「まさか平和への道なしと信じて寄り合いを催しているはずはない」
 と思いこんでいる。だから、政府や学者文化人の思惑がケッタイで分らない。
 たとえば大山郁夫氏がスターリン氏から平和賞を貰うのが不都合だという思惑は茶の間にはない。しかるに先輩友人の学者文化人はそのゴホウビを貰うなと反対だという。茶の間にとっては不可解きわまる思惑だ。
 要するに、国家間には永遠に戦争は避けられぬものだという真理がない限り、第三次大戦が不可避だという結論はありッこないね。
 一つの見方では、第三次大戦はすでにはじまっていると言える。朝鮮などがその一例だ。そして、名実ともに世界大戦になるかどうかは、ただ原子バクダンをいつ用いるか、にかかっていると言える。
 だが、原子バクダンをいつ落すかということと同時に、永遠に落さずに、次第に世界の秩序が改まり、かたまって行く、という健全な希望もありうるのだ。一触即発という事態は、理性的にはどこにも存在していない。
 日本はその当事者でもないのに、これぐらい一触即発的に戦争への階段をころがり落ちようとカケゴエをかけている国は他にあまり類がないようだ。
 たとえば、大東亜戦争理念という怪哲学をこしらえた学者が学習院教授に迎えられようとしているなども、実は天野勅語の当然な帰結の一つであるにすぎず、要は戦争への思惑政治のカケゴエがメガホンづきになってきた、というような光景と見るべきであろう。
 しかし、すでに第三次世界大戦ははじまっているが、いままで原子バクダンが落ちなかった如くに、永遠に落ちない可能性が立派にあるということ。また、原子バクダンの使用を遠慮する気風によって、戦争を遠慮する気風に至る可能性が立派にあるということ。
 すくなくとも、両大国の話し合いの様子から、茶の間の旦那はそう考えて希望をもつ。そして和戦両様に構えるのである。ところが本当に原子バクダンのお見舞いをうけたのは日本だけのはずであるが、その国では戦争のカケゴエがメガホンづきになるばかりであるから、その国の茶の間は次第にガラあきになってパチンコ屋に入りびたり、という昨今であるらしい由である。





底本:「坂口安吾全集16」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二六九七四号」
   1952(昭和27)年1月17日発行
初出:「読売新聞 第二六九七四号」
   1952(昭和27)年1月17日発行
入力:持田和踏
校正:ばっちゃん
2024年9月21日作成
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