枕もとに子供用の本をあつめてヒルネの前後によむ。暑さにたえかねて編みだした方法である。
面白さについヒルネも忘れがちだったのはシートンの「動物記」(評論社)だけ。次にアンデルセンの童話がちょっと面白いナと思ったぐらいのもので日本の作者のものは教訓くさくてつまらなかった。
アンデルセンの童話はシンから子供向きの本格的な童話だろうと考えて、この年になるまで読んだことがなかったのだが、なるほど子供向きには相違ないが日本式に考えるとザンコクな童話である。
魔力の後援をうけたりしてメデタシメデタシになるのは善玉とは限らない。人殺しや泥棒がメデタシメデタシになることもある。教訓というような屁理窟はどこにも一行もでてこない。日本の子供はとにかくとして日本の親が納得しそうもない童話も少くなかった。
バカ者がメデタシメデタシになって利巧者が失敗するのもある。今日の童話にはこの類型は甚だ多いが、バカがメデタシになるという特殊なテクニックは
シートンの「動物記」はそのモドカシサを感じる必要のない読み物である。動物の世界は明快だ。ずるくて力の強い奴が概ね勝つ。まれに雑種犬のようなバカが旺盛な生活力によって生き残ることはあっても、それは童話的なモドカシサと関係のない必然性によることでそのような動物の生態に対するシートンの観察眼は鋭くて深い。
特にシートンがコリーの二重人格、ジキルとハイド的性格を指摘しているのにはシャッポをぬがざるを得なかった。なぜなら私も数年前からコリーという牧羊犬に興味をもって飼ったり殺したりまた飼ったりしているが、その特癖の片鱗を認めながら、本態を見逃していた事柄であったからである。
シートンは犬の二重人格について六例を知っているが、それは全部コリーであったといっている。
コリーは羊の番をする犬だ。彼が羊を護って闘争するのは概ね狼が相手であるが、ふだんは人なつこくて、これ以上柔和な動物はないように見えるが、単身狼の群の中へとびこみ、当るを幸い噛み殺して追い散らしてしまうという怖しい黒色の魔王(シートンの言葉)でもある。彼はまた狼のずるさ――犬で言えば利巧さと言うべきだろうが――を具えてもいる。
あるコリーは、昼は完全に忠実な牧羊犬の役を果し、夜になると家をぬけだしてよその牧場の羊を殺す快楽に耽っていたという。昼は忠実そのものの牧羊犬であるし、往復に河の中を一マイルも歩いて足跡を消してくるので、この犬がジキルとハイドの二重生活を行っていることは長い間わからなかった。
ついに彼の主人がそれに気がついたとき、彼は許しを乞うように床上にはい、主人の足をなめににじり寄ったと思うと、とつぜんノドをめがけてとびかかった。
コリーを飼っている者にはこの挙動は思い当るはずである。すべてが思い当るはずだ。もっとも、狼や羊のいない家庭で飼われているコリーが実際にハイドとなる機会は少いけれども、シートンのいう二重人格の片鱗は常に目にするところで、それを見逃していた私の観察眼がどうかしていたのだ。犬は主人に忠実なものと日本の伝説的な考え方に目がだまされていたのであろう。日本にはそういう甘い盲点が多いようだ。