被告席の感情

坂口安吾




 私はチャタレイ裁判ではじめて法廷というものを見た。感じのよい場所ではない。伊藤君が罪人とは考えられない者の目から見ると被告席がいかにも残酷な場所であるのが身にしみるのである。伊藤君は病気中の由で、青ざめて生気がなかったが、
『なぜ告発されたか理解に苦しみます』
 と叫んだときに、彼の生れつき低い声が怒濤どとうのように高まってブルブルとふるえた。弁護人のいかなる言葉も及ばない悲痛なプロテストであった。
 このような感傷的な観察が中正を失って無用なものであることは私も承知している。むろん法廷の論争は感情ぬきに論理をつくさるべきであることは当然であるが、しかし被告が法廷に立つことによって受ける屈辱は論理によっては割りきれない。それが国法にたずさわる人々に、身にしみてお分りになっているだろうか。
 恐らく彼らは法律に感情がない如く、被告席の感情を無視し、むしろ笑殺しているかも知れない。
 しかし私のような法廷を見なれぬ門外漢が、一足法廷に立入ったときに、まず胸に迫るものは、被告席の感情だね。無限の感情がもえたっていますよ。
 果して法律は正しく行われているか、まず胸をうつものはそれである。この被告席に当然立たさるべき大いなる罪人の多くの者を忘れてはいないか。彼らは権勢をもち富をもち王侯の如くにふるまっている。それに対して彼らは何をしたか。法律は何をしたか。
 伊藤君の生れつき小さい声が思わず高まりブルブルふるえたとき伊藤君一個の無罪が叫ばれていると見たらマチガイだね。そこに叫ばれた無罪の声の一つ一つに、国法にたいし、また国家にたいして悲痛なプロテストがなされ、不信がなされていることを感じとりたまえ。法律の関係者はそれに無関心かも知れぬが、庶民が法廷から身にしみて感じることは、被告席の感情、無限の怒りですよ。





底本:「坂口安吾全集16」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二六七三四号」
   1951(昭和26)年5月21日発行
初出:「読売新聞 第二六七三四号」
   1951(昭和26)年5月21日発行
入力:持田和踏
校正:ばっちゃん
2022年12月28日作成
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