競輪場はうるさいものだ。あと五分で投票を〆切ります、投票を〆切ります。拡声器の間断ない絶叫の合間にベルが脳天をドリルで突きさすように鳴りつづける。人間が殺気立つのは仕方がないような、気違いじみた騒音であるが、今度の選挙はそれよりもひどかった。東京も大変だったそうだが、私は上京しなかったから知らない。関西へは旅行したが、朝七時前、京都大阪間のまだ人の通行のほとんど見られない路上でもう候補者が無人の空間に向ってメガホンで叫んでいるのが車窓から見られた。全然選挙の気配を見なかったのは、花の吉野山だけだった。ウネビで自動車にのり、「山の辺の道」を走る。大国主命の王国の地かね。彼を祀る総本山を三輪山というが、その山に沿うて西麓を北上する旧道を「山の辺の道」という。歴史以前から今に残る日本最古の道だという。ハッキリ根拠があるのかどうか知らないが、物はタメシに通ってみた。その道でも選挙の自動車にすれちがったね。しかし、総じて、私の通過した地は古代帝都の地とはいえ今は
私の住む温泉市の騒ぎには驚いたね。県会議員の候補者が二人で争ってるだけなのだが、二人ともにトラックに拡声器をつけて、絶叫しつつ走りまわる。せまい市のことだから、どちらかの声が必ずきこえている。自動車のほかに歩いて廻るオッサン部隊、オバサン部隊、娘部隊、アンチャン部隊がある。しかし十人かたまってもメガホンなどというものは無にちかい。それほど拡声器はすさまじい。鉄砲と原子バクダンぐらいの違いだね。この新兵器の出現が今度の選挙の兵器革命というものだ。この新兵器で演説するのかと思うと、そうではなくて、演説は小さな劇場で百人ぐらい相手にやる。拡声器の方はもっぱら、私は△△であります、なにとぞ△△に御投票下さい、御投票下さい。競輪と同じ筈だね。あの女アナウンサーを雇ったらしいな。自由党の候補の方は、炭坑節かなんか自分の選挙節をつくって唄っていたね。また彼は猫八や木下華声のような物マネ、虫の泣き声などをやっていたね。彼自身ではないらしい。彼自身はトラックの最後尾に後方正面に向って椅子に腰かけて威儀を正しているのである。私は△△であります。そう拡声器で叫んでいるのは彼ではなくてアンチャンだ。彼は六十何歳かの近藤勇のような顔をして眉毛一ツ動かさない。フランスの近代劇にこういうのがあるよ。マルセル・アシャールの「ワタクシと遊んでくれませんか」というのさ。カミシモをつけた親方が(フランスにもカミシモありと思いなさい)舞台の中央正面に五幕の間一言も
ちょうど山の上の「かにや」という旅館で、呉清源九段と高川格七段の碁の対局があった。この対局、呉氏の三目負に終ったが、御両氏、選挙の声に悩まされたらしいな。山上というものは下界の声が集り、のみならず割れるように大きくまッしぐらに飛びこんでくるからね。両棋士は両候補の名と選挙節までちゃんと覚えてしまった。私の住居は山の上ではなく、かつ殆ど町外れで、この市では最も静かなところだが、それでも殆ど休みなくこの絶叫をきいていた。その絶叫が絶えているのは、朝、昼、晩の食事の時間だけだということを自然に理解するほど執拗に悩まされたのである。そしてそれは時に深夜十一時半までつづいたね。それはダンスホールの許される時間という意味に解すべきかも知れん。だが、奇妙なことに、日中の一定の食事時間はピタリと声がやみ、その静寂を破る例外が完璧に一人の声すらもないのだ。なんという時間的なサムライであろうか。要するにこのサムライたちは食事の時間というものを如何に大切に重大にしているかということを私はキモに銘じたのである。私はトラックの通過を見るたびに、規則的な十あまりの胃袋がそこにひしめいているのを確実に見た。それらはまさしく胃袋であったが、最後尾にイスに腰かけてジッと後方正面を正眼に見つめている六十何歳かの武芸者然たる存在はいかなる臓モツであるか。脳であるか。ノオ! 心臓であるか。否、否。それは臓モツではない。そして規則的な胃袋に食物を供するララ的な象徴でもないらしい。こういうのもフランスの近代小説にあったね。ジャン・コクトオの「ポトマック」というのさ。タコのような口をもった怪物で、人間に吸いついて臓モツも骨もみんな食べてしまう。たべすぎてゲロをはく。しかし日本の彼はゲロを吐かないかも知れない。胃袋の健康さだけはサムライ風らしいや。
私もついに投票に行ったね。私が投票にでかけるなどとは、私自身考えてもいなかった。すくなくとも三四日前までは。私も結局、絶え間なき騒音に屈服したらしい。しかし、私は、一人の男を、かの六十何歳かの武芸者然たる存在を、どうしても当選させたくないというヤケクソな気持に襲われ、そのヤケな思いをさらにヤケ的に満足させるためにシガない一票を用いたようだ。
彼と争っていた人物は民主党の候補者だった。私は民主党という政党が共産党の次にキライである。否、彼らが再軍備を主張しはじめてから、共産党と同じぐらいキライであった。しかし、この際はもはや政党の問題ではなかったのである。
かのトラックの最後尾に腰かけてジッと正眼に見つめている存在は、自由党の候補で、この町のボスであった。私はボスというものがキライだね。金力とボスの力に物云わせて票をかきあつめようというだけで、政策や識見は殆どないようだ。もっとも田舎の小ボスぐらいに目くじらたてる必要もなかろうから、私は元々投票には行かないつもりにしていたのさ。
私がムラムラと投票に行く気持になったのは、まったく妙な理由さ。拡声器の声はずいぶん遠方の演説までコクメイにきこえる。投票の二三日前になって、ふと妙な演説がきこえた。民主党の候補がそこで演説して立ち去ってまもなく、どこからか彼のトラックが同じ場所に現れて、ただ今この場所で民主党の誰それが私を中傷致しましたが……と云って、今演説して立ち去ったばかりの敵の効果をコクメイに叩きつぶしているのである。
それは時と場合によっては、極めて然るべき、又、効果的な作戦であるかも知れん。しかし、この選挙の場合、彼にそういうことができるのは彼がボスであり、あらゆる区域に手先の住宅があって、それをすぐ彼の本部へ電話するような組織網が完備しているせいだろう。智能的な作戦勝というよりも、この際はボスならではの作戦だね。猫が捕えた鼠を
民主党の候補はインテリの要素の豊かな人で、ボス的なところはなく、識見もあり、政策もある人のようであった。党派ということを別に、人間的にどれぐらいマシだか分らない。充分好感はもっていたが、わざわざ投票にでかける気持はなかった。
私は選挙の投票にはてんで行く気がないのである。選挙は国民の義務だというような考えは私にはない。私は私自身の一票の義務を問題にしていないのだ。私は自分の文学の中に私の社会的な役割の全てが含まれていると思っているのさ。選挙に投じた一票によって私はその責任を問われたり罰せられたりすることはなかろうが、私は自分の文学では社会的な責任を自覚もしているし罰も覚悟していますよ。追放になろうと、死刑になろうと、覚悟しています。私にとって文学の仕事は全的なものだから、とにかく私はそれでタクサン、選挙にも行かないし、訪客にも会いません。今日的な現象に私の生活を強いてあわせる必要はなしと考え、私の文学についての責任のみならず、それに附随するそれらモロモロの日常生活にも自信と責任は持っております。ですから投票に行く考えなど、その時までなかったのですよ。民主党の候補が後々とシラミつぶしに叩かれ、自由党の候補が叩き廻りつつ気勢とみに上って、すでに当選したように、皆さん、ありがとう、すでに優勢ではありますが
仕事が一段落つくと、いつもの夕方の散歩の時間に、投票所へ行きましたよ。投票に敬意を払って、この日はわざわざ靴をはきました。ガランガラン下駄音をたてるのは失礼だと思ったからさ。
ところが、どうです。投票所は靴をぬがなきゃいけないのだ。私はすぐさま廻れ右、家へ帰ろうとしました。戻りかけて、立ちどまり、戻りかけて立ちどまり、三べんぐらいやりました。
白タビの首相がわざと土足で選挙場へ入場した気持は分りますよ。こういう人間の義務というものは、できるだけ簡便な方式ですむようにするものだ。一々クツをぬがなきゃ
ところが、驚いたことが起ったね。八三五〇票と七三五〇票だかの、丁度千票の大差でボスの方が問題なく落ッこッたのさ。まったくアベコベの結果であった。このボスは現県議でもあったし、県会は絶対多数党であり、中央の幹部は応援にくる、彼の本拠たる漁師町ではみんな彼に一票を投ずる筈であるから、殆どもれなく駆りだされて九割七分いくらという投票率だが、その本拠に於てすら彼は絶対多数を得ていなかったそうだね。私は、シマッタ! と思ったよ。イヤな思いをしてクツをぬぐには及ばなかったのさ。投票なんぞしなくとも溜飲が下ったのだ。
しかし、これは、どういうことだろうね。たしかに、これは全国的な現象ではないらしい。しかし、自由党は全国的に大勝しているようだが、案外、ボス的な人物は落選しているのだろうか。だが、隣接の温泉市はここ以上に自由党の勢力が強く、ここ以上の強力なボスがいるのだそうだが、自由党候補は勝つには勝ったが六百票という差で、大勝でもなかった。他の地区、自由党圧倒的だね。私は白タビの首相の識見と気骨だけは高く評価しているが、他の自由党の大臣諸先生には敬服すべき人物は居ないようだし、特に地方の自由党幹部は田舎ボスがそろっているね。
とにかく伊東や熱海には、ボスと生活の場でカカリアイのない人間が相当数居住しているから、それら別荘人種的なまた疎開者的な移住者が反ボス的な一票を投じるのは自然だが、その人々の力だけでは今回のような現象は起らなかったろう。なぜなら、この選挙に於てわがボス先生は、その本拠たる地域ですら、過半数を制していないそうだから。
当選した人が相当の人物であったせいもあるかも知れん。彼自身も
とにかく、政治にボスは禁物にきまっているが、地方政治のボスと権力の直結した害悪には目にあまるものがあるね。特に終戦後は全国いたるところ小ボスの横行している時代だ。どの田舎町へ行ってもチンピラどもがひけらかしており、その上にギャングがおり、その上に県会あたりの田舎ボスがいるというような順序になっているようだ。
しかし、私のすむ町で、ボスが相当の差で落選したのは、うれしかったね。まだ祝杯はあげていないが、これを書き終ったら、祝杯をあげよう。ちょッとした正理がたまたま行われた喜びによってさ。
私は、しかし、この町の選挙の結果、面白いことをきいた。この町の左翼のある者は共産党に投票しなかったそうだね。入れても当選の見込みがないからだ。共産党候補の得票は三五〇票ぐらいしかなかった。そして左翼の方々はボスに投票したのだそうだね。その理由は、このボスは無能であるから
ところで、今度の選挙のように、トラックに拡声器をのせて、他のあらゆる音を征服して八方に駈けめぐる戦術が常套的になると、金のない候補はいよいよ存在すらも分らないような哀れな結果になるだろうね。人間の感官はそういうものさ。路傍でメガホンなんぞでいくら熱弁をふるっても、その音声の大小に於て原子バクダンと鉄砲ぐらいの差がある以上、感官的に候補者を失格しているようなものである。ボスを倒すには、ボスの用いる新兵器を同様にある点までは使いこなす資力がなければ、全然感官的に失格するだけだろう。反ボス的な傾向はむしろ女性の中に生来的にあるもののようだ。ところが彼女らは特に感官的であって、感官に訴える差があまり甚しいと、そのものは全然黙殺される傾向にあり易いからである。たとえば今度の私の住む町の場合にしても、とにかくボスと同じ兵器を用いてやや匹敵する程度に感官に訴えたから生来不注意で不熱心な浮動票をあつめることができたのだろう。反ボス的なものの最大な味方たる可能性は浮動票であるが、浮動票は感官的に前述のような欠点がある。
日本の選挙は当分ボス退治が第一だと私は思うね。ボスと共産党は思想に対して暴力的であり、利益に対して策略的で超理論超党派的である点で、同じような存在だ。政党などということよりも、先ずボス退治である。ボスさえ居なければ、何党が政治をやっても、とにかく、そう狂いのある筈はない。しかし、私の住む町のように、金力権力あらゆる点で格段に優勢だったボスが物の見事に落選するというようなことは、にわかに全国的に望めることではなかろう。私の町の場合は浮動票組が多いことと、また候補者の人柄もよかったのだろう。要するに人かね。
当り前のことのようだが、政治家になりたがる人間に限ってロクな人間がいないから困るね。その時はボスでなくとも、当選するといつかボス的になるのが普通だ。金でつくられる政治家が、利権と金を交換するのも自然であろうし、また選挙を食い物にする例の胃袋階級に選挙運動の実力が握られている限りは、ボス的な人間以外はなかなか当選の見込みがないね。
あたかも原子兵器のような拡声器はやめた方がよいかと思うが、しかし、お祭り騒ぎ的なところがないと浮動票組の関心がうかないから、お祭り騒ぎを禁止すると、浮動票組は棄権して、ボスの組織だけが
スイセン候補が何よりだと云っても、スイセンする人や団体によりけり。誰でも一ぱし自分の見識を誇り公平を誇りたがるが、自ら任ずる如くに人が認めてくれないね。
投票するあらゆる人間そのものにも、それぞれの欠点はある。誰しも真に公平な者はあり得ない。そういう根本的な欠点は、どこまで行ってもあるのだから、公平に選良が選びだされることはまず殆どないだろうさ。
しかし、要するに、私の町の当選者を決したような浮動票的存在が多くなり、候補者にも常に然るべき人材が出そろえば、徐々にボスどもの影をひそめしめることは確かであろう。私は伊東市の選挙の結果をわが住む町の好ましき出来事としてお報らせできるのを嬉しく思うのである。