チッポケな斧

坂口安吾




 戦後の日本は稀有な幸福にめぐまれていた。それは古い殻の多くのものを捨て去って、一応白紙の状態から自由な再建を試みることができるという幸福にめぐまれたのだ。むろん純粋な白紙というものではないが、とにかく一応はそう云ってもよろしかろう。古い日本には多くの悪因習があった。それを捨てて新しくよりよいものを再建できれば、敗戦も戦禍もツグナイができるし、むしろモウケをとることもできる。
 この歴史的な再建、大手術の時代に生きているということについては、その歴史的な責任を自覚する必要があろうと思う。私が堕落論以来、社会時評や歴史批評、また巷談こうだんのたぐいでガラにもなくチッポケなおのをふりまわしているのは、われわれの小さな力が実は祖国の大きな未来や運命を決することになるのだから、悪く再建されないように、文筆で生きる身の時代的な責任をいくらかでも果したいという多少はケナゲな気持もあるわけです。歴史を読めば分ることですが、戦乱の惨禍、廃墟の後というものは、実は人間が最も希望を託して然るべき大建設の場であります。特にこの敗戦の場合には、占領軍の政策以外には国内に強権がなく、国内的にはすべてが破産状態になって一応白紙にかえったということは日本の歴史では初めてであるし、のみならず我々野人が自由に批判することができるのも初めてだ。私は私の史観によって、特に今に生きることの責任を痛感している点もあります。この時に人ありせば、というのが歴史を読む人の甚だ通俗な感傷ですが、恐らく後世の日本人が、この時にこそ人ありせばと最も痛感するであろう大転換期に我々が生きているのだから、現代に於ては読史家の通俗な感傷ぐらいバカげたものはない。
 この再建は、およそ軽率であってはなりません。一つの新しい制度をつくったり、一つの古い制度を復活させるというようなことに際しては、その可否について多くの角度からメンミツに検討さるべきであって、旧に復する方が手ッとり早く安易であるし、馴れもあるというような軽い気持でやられては、戦争に負けた重大な意義も、何百万の人命を失った意義もなく、再び足もとのオソマツな、土台のグラグラした情けない日本を作ってしまう。
 チャタレイ問題も、まず、その観点から考えてみなければなりません。
 日本の再建は甚しく危険な方向に傾きはじめている。せっかく白紙に還ったことがゼロになり、マイナスになりそうになってきた。天皇制の廃止ということは、まず第一の切開であった。天皇制のために日本人の生活がどれぐらいゆがめられていたか知れません。なにしろ偶像の実存を前提としているのだから、そのために、真理が自由に通用するということが不可能であった。学問は真理を究明するものだ。ところが世界にただ一ツ、真理をマンチャクすること、真理を隠すことを前提としているのが日本歴史である。仏説の故に正しいという宗教と同じように、国撰の史書が前提であって、これを覆す真理は究明できず、むしろツジツマを合せたり、真理をマンチャクすることの合理をもって哲理の基礎とする国学という奇怪な体系が現れ、陰に陽に、日本の学問はこの化け物の支配下にあったと云える。この化け物は学者と称する人間の骨を抜いていたようだ。だから、終戦後六年もたち、一切のタブーが失われて自由の究明が許されても、日本の史家で過去に隠されていた歴史の真相を明かにしようと試みたのは滝川政次郎氏ぐらいのものだ。曲学阿世の徒と云われても、どうにも仕様がないのは、日本の国史家であろう。仕方がないから、私のような素人が一知半解な史実を説くようなことになる。曲学阿世の徒にまかせておくわけにゆかないから、辛いけれども仕方がないのである。
 表向きは学者で通り、真理を明かにすることを仕事にする筈の人たちがこの有様なのであるから、天皇制の廃止という大そう結構な変革が現れても、実は全然その実が挙らなかったということを銘記する必要があろう。つまり、真理をもってタテマエとする、という大事な精神が失われているのだ。真理なんかはどうでもよい。土台からやり直すのは大変だから、今までの焼跡へバラックを復旧させればタクサンだというやり方だ。一応間に合せることは復旧の一方便ではあるが、それが一国を再建する根本精神ではおよそ助からない。性こりもなく昔の愚かな日本が再び出来かかるようなキザシに対して、腹の立たない方がフシギであろう。
 新聞社の人たちからきいた話では、政界の大物が追放解除になっても、松本治一郎氏だけ解除にならないだろうといううわさがあるそうだね。なぜかというと、天皇の前でカニの横ばいのような儀礼を拒否したカドによって、特ににらまれているせいらしいという話である。実にバカバカしい話さ。
 こういうガンコな人間がいるというのは大事なことだ。社交的な儀礼はまア当然だから、横ばいを拒否したのも大人げない、という人もあるが、その大人げないという世俗の感情を適切に割りきったような言い方が、実は正しい目をくらます目ツブシのような曲者くせものらしいね。いろいろ大人げない風変りなことにイコジなガンコ者が居るのは当然だし、居る方がよろしいものだ。バーナード・ショオとか、ヴォルテールとか、そういう憎まれ者も必要なものだ。カニの横バイがイヤだと云って、どうしても横バイに応じない参議院副議長というのが一人ぐらい現れるのは、一ツの国会風景としてもユーモラスで面白い。議場で小便たれたりつかみあいする連中に比べて、このユーモアは真剣で汚らしさがなく、まことに健全ではないか。こういう妙なイコジや、風の変ったガンコが相集り、相論じ、ケンケンガクガクのアゲクに少しずつ真理が生れ、真理に近づいて行くものだ。究理の徒はイコジである。イコジであることによって真理の一部を逸しもするが、イコジでなければ真理をまもれないのが自然であろう。
 カニの横バイがイヤだと云ってどうしても天皇の前で横バイしない副議長の存在を汚れのない健全なユーモアとして認容したり観賞したりすることが大切だ。もっとも、カニの横バイをしないのは怪しからん、という言い分のある人は大いに彼を攻撃するのも結構であるが、しかし、それによって副議長や政治家が失格だという結論が現れるのは奇妙じゃないか。副議長や政治家の条件や手腕はカニの横バイには関係ない。ツムジマガリの生きにくい国は文明が低いと思えばマチガイない。宗教的に統一された原始国にはツムジマガリは生きられない。めいめい存分にその個性を発揚して生きられる国でなければ文明国とは云えないのである。
 松本氏のツムジマガリが特に天皇に対するものであるために許容されないとすれば、再建日本の危険がそこに暗示されているのは一目リョウゼンではないか。
 特に松本氏は特殊部落出身の人だ。奇妙な階級観念で長いこと不当にしいたげられてきた人々の中から松本氏のような代表者が現れて、転換期の国政の枢機に当るというのは賀すべきことであった。その彼がいきなりカニの横バイを拒否したことは、当然なところもあるし、大人げないところもあるし、エゲツないところもあるし、同情すべきところもある。すべてそれらをひッくるめてユーモラスでもある。そして健全でもある。カニの横バイを拒否したことが真理にかなうものではなくて、やや感情的であるにしても、真理に近づく道は一応それの存在を許容してケンケンガクガクすることによって始まるもので、それによって追放の解除が延期されるというようなことは日本が再び真理を失う前提にほかならない。
 なんでもハイハイと習慣にしたがう人間よりも、それを拒否するツムジマガリの方に、大切な要素が含まれていることは当然ではありませんか。そのツムジマガリがなければ、社会の進歩も改良もないね。
 警察予備隊の編成、再軍備の声につれて、右翼や旧軍閥の暗躍、天皇制支持者の大言壮語が大いに復活しはじめましたね。
 敗戦の廃墟から立ち上ろうというドサクサだから、多くの混乱もあろうし、道義のすたれたところもあろう。道義を高めることは重大な仕事であるが、現在の低下を理由として戦前の秩序や制度を合理としそこへ復帰しようというのは安直すぎるね。その安直さは現在の道義の低下よりも更に甚しく悪質な思想の低下、良心や誠実さの低下といえよう。
 道義の低下もいわば敗戦の傷だ。その傷をとがめるよりも、その元兇たる敗戦の要素、古い日本の負うていた悪因習や悪制度に最大の思いを致すべきであろう。戦後の思考はすべてそこから追求されはじめるのが当然であるが、その当然なことが誠実になされたフシはほとんど見られない。安きにつきたいのは一般庶民の常であり、不馴れなものや、特に今までよりも自分に不利らしい変化に反撥して昔をなつかしむのも一般庶民の常であるが、政治や国法の運営に当る者が、旧習の禍根について誠実な追求を怠り、安きについてはこまる。
 庶民の多くは安きにつきたがり昔をなつかしむものであるから、それによって選ばれる政治家、多数党というものは、国民の過半数の代表者には相違ないが、決して真理を代表するものではない。時の民意の多数を制するものが真理ではないのである。民衆の多くは保守的なのが自然で、より進歩した生活の実効を知らずに、旧習への執着だけで進歩に反対するものであるから、いかに多数の民意を代表するのが政治のタテマエでも、それだけだったら生活の進歩も向上もない。多数の民意によって選ばれた政治家でも、民意を行うと共に、進歩的な指導力も必ずなければならぬものだ。
 特に今は、敗戦をもたらしたもろもろの禍根を追及して後世の遺産たるべき新しい日本を再建する空前の機会ではないか。民意に添いつつも、必ずしも民意に添わぬ手術の多くを行わねばならぬ時代である。この時代に処する当然の心得はそれだ。一面には民意を代表しても、一面には民意に添わぬ真理を代表することを時代の心得とすべきである。
 民意に添うか、真理に添うかということの規準は、そのいずれを執る方が旧日本の愚をくり返さぬかという程度をもって心棒とすべきであろう。絶対とか永遠不変の真理というものは生身ナマミの人間の生活には宗教的なものをおいてはほかには実在しない。個性というものにとって、真理(この場合は生活原理というべきか)は宗教的にしか在り得ず、左様な宗教的な生活原理は政治に採用すべきものではない。政治は多数の個性を生かすことであるが、唯一の個性を生かすことではないから。宗教にはユニホームがあるが、政治にユニホームはあるべからざるものであろう。
 政治や国法の運営が、旧日本の愚をくり返さぬ方向に向っているかどうかということは、現代の心棒たる心得であり、論争の出発点でなければならない。チャタレイ問題とても、そうである。
 チャタレイを起訴するという方針が、真理の側から起ったか、民意の側から起ったか。この民意は旧に向って安きにつくという意味もあるが、旧をもって正しとすという意味もある。この両者がまじって多数の民意をなしているようである。
 いろいろのワイセツ文学(旧日本時代に発売禁止であったという意味の)が今日出版せられているのに、なぜチャタレイだけ特に選ばれて起訴されたか。この理由がハッキリしない。意外なことをやったものだと思う。
 金瓶梅が真の大文学だというような声はあんまりきかなかった。人性も割合によく描かれていて単に好色読物というべきではなく、一応の文学でもある、という一部の説は昔から日本にもあった。それにくらべると、戦前に伏字だらけのチャタレイが出版された時には、第一級の新文学、新しいモラル追求の大文学などと大きなセンセーションを起したものだ。私も若干の敬意を表して短い文章を書いたのは覚えているが、戦後に短文を集めて随筆評論集をだすとき、ずいぶん探したが、これをのせた雑誌が手にはいらなかった。しかし、チャタレイが主ではないが、チャタレイにふれた文章はいくつかある筈である。いまの中堅作家で過去にチャタレイにふれた文章を書かなかった人は殆ど居ないだろうと思う。おおむね讃辞であったはずで、中にそうでない者があっても、今日の中堅作家がチャタレイを一度は自分の文学上の問題にとりあげずにいられなかったのが事実である。私は、文壇の時流的な読物には甚だ無関心に、自分勝手の偏した書物を読んでいるのが普通であったが、それでもチャタレイはかなり熱心に読みもしたし、論じもした。新しい飜訳文学としては、昭和時代に最もよまれ、影響を与えたうちの定評ある一作品であろう。
 好色文学として定評あるものを選ばずに、特に純文学の中でも新しいモラルを追求したものという定評あるチャタレイをとりあげて起訴したのはナゼだろう。
 つまり、単なる好色文学よりも、文学として、芸術として定評あるもののワイセツを槍玉にあげる方がワイセツ全般を衝くことになろうという意味でしょうか。それもどうも分ったようで分らん理由だね。
 文学や芸術に結びついたワイセツの方がなぜ全部の代表になるイワレがあるのだろうか。文学や芸術の名に於て、というのが、気にくわない理由があるらしい。純粋にワイセツであるものよりも、文学や芸術の名に於てワイセツである方がもッと悪い、と彼らをして思わしめる理由があるらしい。その理由が、どうにもハッキリ分らないのである。
 純粋にワイセツであることよりも、より悪いワイセツがあるか。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、という意味かな。つまり文学の名で善人ぶったワイセツだという意味だろうか。それも一理あるようであるが、しかし、それだと奇怪なムジュンが現れてしまう。
 チャタレイのモラルの一ツは、文学の名ではないけれども、何かの名で善人ぶった色情の仮面をはぎ、純粋な色情を肯定するところからはじまっているのだから。検事は親鸞しんらんの熱烈な信者かどうか知らないが、善人なおもて往生をとぐ云々のロジックが起訴のクロマクだとも思われないね。
 もっと俗な、文学や芸術に対する敵意や侮蔑があるようだ。文学や芸術の名に於て流す害毒、というような、親鸞の往生論をもっと俗に感情的にした敵意があるとしか思われない。
 通俗な好色読物の方は文章的に風流であり、チャタレイは写実的だというならば、それもまた、根本的に考え違いだ。好色読物は文章が風流的でなければ救われない性質の低俗なものであるが、チャタレイには風流を許さぬマジメさがあるのである。風流読物は良識のワク内で遊んでいるもので、子供には分らぬかも知れぬが、大人がフンフンとやにさがって読む図は、これを健全なる君子生活とでも云うべきか。それまた、よからん。敢て咎めるところはなかろう。しかし、チャタレイには遊びはない。良識とか良俗とか云われて今日的に健全な人性の偽瞞に対して反撃をこころみ、より高度の人生をさがしているものだ。風流とは相容れない性質のものです。風流は今日的な良俗のワク内に於ける遊びにすぎない。根本的に立場が違う。
 あそこまで書かなくともと云うのは大マチガイで、あそこまで書くということは大変なことですよ。それは小説を書く人間が、自分の筆の運びごとに内省してみれば分ることです。風流小説については別ですが、とにかく自分の思想を語ろうとする小説とか論文の執筆中に、別に誰にインネンをつけられているワケでもないのに、自然に妥協したり、にわかに風流的筆法でごまかすようなことをやるものだ。風流的にごまかしても言うべきことの大体はなんとなく言い表しているから自己を偽っておらぬ、と言う人を、私はどうも信用できんね。そういうゴマカシで間に合うということは、ロレンスほどたくましい思想と信念をもたないせいで、私は私自身がその間に合せを行う時に、いつも佗びしいと感じる。別に、羞しいとは思わない。自分がそれだけの人間だと思っているから。そして、私の為し得ぬ正しさを行い得る人を、私などの及びがたい人だと崇めて、敢て己れと比較するようなこともないから。
 ロレンスのように、あそこまで書ききれるということは、彼がマジメだからですよ。そのワイセツなところで読者を釣ろうなどというものではありません。彼があそこを書いている時に争っているのは、ただいわゆる良識とやら云うものだけです。私のようないい加減な筆を弄する文士でも、己れの創作状態から類推してそれが分ります。争う時には、筆が深入りするもので、マジメであるほど、そういう滑り方をするだろうと思う。良識から云うと、あるいは書かでもの部分があるかも知れぬが、あそこまで筆が滑らずにいられなかったロレンスのマジメさや、思いつめた覚悟は、とても私などの及ぶところではない。写実と風流の文章は根本的に異質であるが、ロレンスは写実の許す限りに於て技巧的に汚らしさを避けており、(私は福田恆存君から借りた仏文でその箇所を若干よんだだけであるが)それを見てもワイセツなるものをワイセツのために描こうとしたものとは質的な距りが読みとれるのである。伊藤整君の訳文も亦、ロレンスの良心を日本語に移すために並ならぬ技巧が払われており、卑俗な訳者と異るものを明確に示している。名文である。
 検察官というものは法の運営にたずさわるもの。国家再建の主導力の一環をなすものだ。国法の運営は民意を代表して為さるべきものではあるが、現代に於てはそれ以上に旧日本の愚をくり返さぬため民意よりも真理の側に傾くべきときである。民衆の正義よりも真理の正義のために戦い、再建の正しい基盤を定むべきときである。
 チャタレイ問題に於て、検察側は明かに民意の側についている。チャタレイ文学の思想とか芸術性は問題ではなく、ワイセツの部分だけが問題で、そしてそれが水準以下の一般大衆に与える影響だけが問題であると称して、文学や芸術の高度の目的を完全に無視し、踏みにじっているのである。
 日々の新聞は良俗と相容れぬ犯罪で賑わっているかも知れぬが、調停裁判だの心中だの情痴事件だのという新聞には現れぬようなところで、良俗と称するもののワク内で、または良俗と称するものの不合理からと思われる多くの事件が起っている。情痴殺人などという新聞を賑わす問題でも、情痴は良俗に反する側に附せられた習慣的な悪名であるが、一皮むいて良俗の側の合理性を疑ってみることはできないであろうか。
 文学というものは主として良俗を疑う側で、よりよき生活、より正しい生き方はないかということを目指すものである。
 国法は常識を代表するものだ。検事は良俗の番犬であるのが平時の任務かも知れないが、六法全書をひねくるだけの職業的な立場とは別に、個人としては国法や良俗の不備不合理を痛感する理想ぐらいは有ってもよかろう。より良きもの、より良き生き方をもとめるのは誠意ある人間の当然であろう。そして現代は、六法全書の解釈にとどまったり、良俗の番犬たるにとどまるべき時ではなく、各人がその職域に於て、国家再建のより正しく行われんためにまず旧習を疑うことから出直すべき時ではありませんか。番犬などと云うと牝犬神のデンでお叱りを蒙るかも知れんが、番犬とは、主人のいいつけを忠実に守る犬ということで、これが形容に用いられる時は「主人(国家)のいいつけを忠実に守る。」というのに主点があって、犬という方には意味がないのが通常の慣用です。犬という字がでてくると、つい言葉の用法や解釈を施しておかねばならない気持になってしまいますな。
 しかしチャタレイ起訴の裏面には、国家再建のために旧習を疑るような誠意ある思考や理想の裏づけはないね。より良く正しい生き方をもとめて良俗に反逆したマジメな魂を、情容赦なく土足にかけていますよ。民意に迎合するのみでなく、特に汚らしく読み、汚らしく観察することに努めています。強いて罪に落すために必死である。
 禁止する、というぐらい国を治める安直な方法はないものだ。どんな能なしのデクノボーのバカ殿様でも、見たり聞いたり行ったりすることを禁止して国をおさめることはできる。国を治めるに、これぐらい誰にでも出来る方法はないのである。高い垣を作って動物を飼うのと同じことだ。オリやカゴへ入れれば動物も人間もカンタンに飼ったり治めたりできる。そういう禁止のワク内では自由もなく、進歩もない。
 人間の生活は各人が各自の見解や節度で秩序を維持することによって高まりも深まりもするものだ。殿様があるワク内へ人民を禁足せしめて生活を配給する国には自由もなければ人間もない。人間の生活は、自分の生活を自分で選び、自分で作るのが基本にきまったものだ。人間というものは各人が信頼するに足るもので、いずれも独自の尊厳や権利や自由があるもの、良識というものは、この基盤から育つもので、いったん禁止や配給が行われるようになれば、人間の全体の自由が失われたことを意味する。なぜなら、一を禁止しうる原理を前提とすることは、全てを禁止する原理への階段がつくられたことを意味するから。敗戦をもたらした日本の悲劇は、人間を信頼せず、命令によって動くゼンマイ仕掛けのデクノボーたらしめることで秩序を維持するに成功したことからはじまる。哲学も歴史もデクノボーを合理化するように作られた始末である。人間をデクノボーにすることによって秩序を維持するのはカンタンさ。しかしデクノボーは人間ではない。
 人間は各人が信頼するに足るものだ。人を信頼できないのは、信頼できない人の方が悪いのである。そういう人はアプレゲールという特別な悪い人間が実在すると思いこんでいる。山際君も左文嬢も昔からありきたりの人間にすぎんじゃないか。むしろ二人には、罪はあったが、「一個の人間として」自分の力でよりよく生きぬこうとした努力の跡は認めることができる。彼らが一個の人間として万人に遇されるような環境ができあがっていたら、彼らはあんなにならなかったであろう。人を信頼せず、人を自分より低く見る年寄根性や道学者根性が、若い人たちの正しい芽をゆがめていることの方が多い。彼らに自由を与えてごらんなさい。決していつまでもワイ本に読みふけりはしないから。やがてそれに反撥し、より正しいものを求めたり、高い生活を求めたりするから。私はワイ本に手をふれずに、少年君子ぶった秀才よりも、ワイ本を読むべき時期には読んで、やがて読みすて、より良く高い自分を求めて育つ人間の自然の状態に於ける自由で逞しい成長に期待するのである。ワイ本を読む時期に読むことの当然さをむしろいたわって、次により高きものへと反撥し生長する魂の発展を期待してやりたまえ。そのようにして人間が育つなら、今の日本の年寄のような思いあがった道学者や、ゼンマイ仕掛けのデクノボーは現れやしないさ。
 ワイ本に興味をもつ時期には、それを認めてやることが、むしろ正しい人間を育てる条件ですよ。ある少年の期間に性に興味をもち、ワイ本を読みたがるのは自然のことだ。むしろその自然を利用したまえ。そしてその期間を他の人生の期間と同じように厳粛なものであると知りたまえ。
 ワイ本を読むことがダラクだのときめている年寄どもの方に正しい識見がなくて救われぬ助平根性が多すぎるのさ。自分の偽らぬ心を見つめつつ育つことを知らず、単にデクノボーとして育ったから、人間というものを知らない。彼は自分がデクノボーだということを心得ず、自分を人間だと心得て、自分の無能や汚らしさを若い自由な魂の生長にも当てはめようとしているのである。
 ワイ本も堂々と存在した方がよろしいのだ。若く正しい魂はじきワイ本を卒業し、ストリップを卒業するであろう。そしてワイ本の作者もストリップの踊り子も、若い人たちの識見につれて、次第にその風流も高まり、あるものは芸術の域に至るであろう。それが人間の正しい進歩だ。自由にまかせておけば、じきにそうなるものである。デクノボーどもが考えるほど自由な若い魂は汚れはしない。ワイ本ぐらいで汚れはしないものだ。デクノボーのオセッカイが正しい魂の成長をゆがめさせているのである。
 ましてチャタレイの如き芸術品に於てをや。何の起訴、何の禁止の必要があろう。むしろ、これを起訴し、禁止しようとすることの危険さこそ警戒すべきことの大なるものではないか。国破れてまだ六年しかたたないというのに、再び愚かな日本を作ったら、後世の日本はまた長く暗闇の中で苦しむであろうよ。新しい遺産を残すべき空前の歴史的時代が今だというのに、後世に対するこの空前の責任を自覚しないということは助からないね。
 検事殿。若い人たちの魂がワイ本を読んで汚れるかどうか真剣に考えてみて下さい。私は自分の一生をふりかえり、また周囲の若い魂の生長を見つつ、そうではないと断言できます。デクノボーたちが作っているウス汚い環境や人生観が悪いのさ。あなた方が育った教育も社会秩序も人間観もデクノボーのもので、人間のものは違っているのだ。そう考えてみる方法を、第一に知る必要があります。もちろん私も、いろいろと考えてみるツモリです。
 法廷を人間のものたらしめんことを。アーメン。





底本:「坂口安吾全集16」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第八号」
   1951(昭和26)年7月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第八号」
   1951(昭和26)年7月1日発行
入力:持田和踏
校正:ばっちゃん
2023年10月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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