光を覆うものなし

――競輪不正事件――

坂口安吾




 私はこの事件を告発して、いったん検察庁にまかせたのだから、検察庁の調査が完了して公式の発表が行われるまで、私自身の発言は差し控えるツモリであった。
 ところが十月二日の朝日と毎日の朝刊に妙な記事が現れた。沼津地検へだした証拠物件の写真を静岡国警へ鑑識を依頼し、その結論として写真に修正が施されていないことが明かとなったので(以下は毎日の記事)沼津地検は私の出頭をもとめて事情を再聴取することになった、というのである。
 藤井弁護士はこの記事を見て単独(私には通告なく自分だけの意志で)即日沼津地検へ出頭、検事が不在のため、事務官に尋ねたところ、地検からはそのような発表は行わなかった、という返答であったそうだ。
 また、常識から考えても、検察庁で調査中の事件に、中間的な発表が行われることは考えられないことである。
 私が告発した翌日、振興会はネガを東京へ持ってきて、これがホンモノのネガである。どこにも修正は施されていない、と発表した。立会った新聞記者はこれを調べて、このネガはホンモノである、修正されていない、という結論に達した。当り前の話である。比較すべき写真がなければ、ホンモノかニセモノか分る筈はない。私の写真を複写した某新聞社は、その複写が紛失した由で提出しなかったそうだから、比較の対象がなければ、ネガはホンモノだと判定する以外に手はなかろう。
 私の方は主要な写真は証拠物件として告発状とともに沼津地検へ提出してしまっている。手もとにはなお数葉の写真が残っているが、あいにくなことには、私自身には全然写真の知識がない。私自身にはネガと比較して真偽や修正を指摘する能力が全く欠けているのである。ところが朝早くから頼んでいた写真屋がようやく夕方になって来てくれた始末であるから、その時はすでに、振興会提出のネガはホンモノだという判定にきまって記者団は解散した後だった。
 朝日と読売から、振興会提出のネガからの写真を持ってきてくれた。読売は判定前に持ってきてくれたが、その時は私の方には写真知識の所有者が現れてくれないのだからどうにもならず、朝日は判定があって後に持参してくれたから、どっちみち、記者団の判定決定前に私の方からどうすることも出来なかったのである。私に写真の知識があると、判定写真の不正は大きな問題になる前にカンタンにバクロすることが出来た性質のものであった。
 その後に至って写真屋は次々に現れてくれたが、インチキネガのカラクリはたちまち確証をあげうる性質のものであった。
 ただインチキ判定写真の製法が、私が最初に推定した方法ではなかっただけの話である。私は一着二着のユニフォームの色と番号を修正したカラクリ写真だと述べ、告発状の中にも特に証拠写真にそう説明を加えておいたが、これが写真知識皆無のための私の失敗で、インチキ写真は別の方法で製造されたものであった。
 したがって、十月二日附、朝日と毎日の記事が、たとえば地検の公式発表であっても、私が最初に推定したような「修正の事実はない」という意味ならば、正しくその通りなのである。振興会提出のネガや判定写真には、私が推定したような修正が施されていないことだけは事実であった。写真のカラクリは、別の方法でなされたものであった。そして、そのカラクリは、より悪質、より計画的なものでもあった。
 私はこの告発を行ったとき、検察庁の方々に、自発的にこう申し述べておいた。
「いったん告発して検察庁へお委せした以上は、私自身が文章につづることはなるべく差し控えるつもりです」
 それが当然だろう。私は今日まで多くの不平不満を文章に書いた。わりあいに私心も少なく、己れを利する目的もなく、多少ともより良い祖国の再建を思っての微意が一部の人々の理解を得たことは幸福であった。自ら巷談師と卑称したのも、カマキリぶりを笑覧してもらえば足りる、実質上の改良家が私自身でないことは明かであるし、私がカマキリのおのを振り向けている相手は極めて初歩的な原則上の事柄に属していて、要するに笑劇のアイロニーを別の文学形式で行っているにすぎないようなものであったからである。
 ところが、今回は別である。笑劇のアイロニーだけでは済まない問題である。その理由はやがて後章で説明しますが、告発する以外に手のない問題だ。私自身の文章だけで闘って社会常識上の理否をつけるだけでは不完全である。
 そして私がいったん文章をすてて告発し検察庁にまかせる以上は、私が自分の文章を私用することはなるべく差し控えるべきだ、と考えるのも当り前であろう。とにかく私がいくらか世間に名の知れた人間であるために、検察庁がその告発を直ちに採りあげてくれた。それで足りる、と見るべきである。告発の手段に訴えた以上は、静観するのが当然だと私は考えた。
 告発の翌日、地検が伊東競輪場へネガ没収に行ったのと入れちがいに、振興会はネガを東京へ持参して、私の方の準備の不備をねらって、記者団にネガがホンモノであるという判定を与えることに成功した。
 私はそのときは自分を抑えた。振興会はあせっているだけの話で、告発したからには、相手方の当然なあせりぐらいに取り合う必要はなかろう。こうしてネガはホンモノだと一時的に記者団を説伏しながら、人を介してしきりに告発の取り止めを申し入れてくるだけでも正邪は明かな筈である。
 そこで私は再度検察庁へ出頭して、振興会提出のネガの判定は私の提出した証拠と無関係に行われた一方的なものであるが、私自身はそれに対して発言はさし控え、一切検察庁の調査におまかせする、という意味を言明した。そして私自身は事件の渦をはなれて月々の仕事をしなければならないので、その場から人の知らぬ場所に身を隠した。
 ところへ、十月二日の記事である。先日のネガの場合は振興会の一人ギメにちかい判定だから、世人はその一方的なものであるのを理解しうるし、真の正邪は検察庁の調査によって判明すると見て、私同様静観してくれるに相違ない。
 ところが、十月二日の記事は違う。あたかも証拠写真の公式な鑑定の結果、不正の存在が否定されて、私の告発が誤解によるものであることが公式に判定されたような印象を人々に与えるのである。
 地検がそのような中間発表を行う筈もないのに、一見公的の筋から出たとしか見えないような記事がなぜ現れたか? これは新聞記者がカンやキキコミによって得たものではないことは確実だ。そのようなカンやキキコミによって記事が握られる場合は、一新聞社の特ダネとして扱われるものだ。この記事は毎日と朝日にほぼ同じ文意のものが載っているから、然るべき形式を具えて記者団に発表されたものにきまっています。
 この発表を行って利する者は何者かと申せば、この日この時にこの発表を行うことに大きな利害関係をもつものが実在するのだ。
 十月一日から、伊東競輪がひらかれているのである。十月一、二、三、五、六、七の六日間、第八回目の伊東市営競輪がひらかれている。
 九月の伊東競輪を告発したのは坂口の誤解であった。彼の如くに観察力を商売にする奴でも判定を誤るほど競輪は肉眼によって判じがたいものであるし、奴めの社会的地位をもってしても競輪に一指も加えることはできない。
 告発後の再開第一日目たる十月一日にこの発表が行われたことは、ファン及び競輪に関心をもつ人々に対して右のように信ぜしめる力がある。特にその後の六日間の競輪を思いのままに運ぶのにこの上の威力となるものもないし、また六日間の見物人にとって、この上の圧力となるものもない。ひいては伊東のみならず、全国の競輪にとっても、この発表が見物人に与える圧力は甚大であろう。伊東は云うまでもなく、全国の見物人は、益々去勢されて、彼らが肉眼によって明瞭に不正を看破し得ても、敢て抗議する力を失い、また彼らの正しい抗議も常に不正の抗議であるかのような先入感を世人に与える力をも具えている。
 世間の人々は、私が告発に当って心に期した内容を知る筈はないから、自分の思うことをまるで言いたい放題のように書きまくッている坂口安吾が、この告発後、彼に不利な記事に対して反駁はんばくを試みないのは、彼が己れの誤りを認めたからだ、と思うに相違ない。
 振興会の一方的な工作によるネガ判定の場合とちがって、十月二日附の記事は甚だ悪質で、私がこれを黙認するならば、彼らは私の告発を利用して更に己れの不正の地盤をかため、彼らの今後の不正を安全便利にするために私が片棒かついでしまうようなものである。
 かように悪質なタクラミをもつ記事が発表されては、私も沈黙しているわけには参らない。すでに公平な世人の多くも私の沈黙を誤解しているに相違あるまい。

       ★

 私の告発したレースは九月十六日の伊東競輪で行われた。第一節第一日の第十二レースA級予選で、実力第一の武田選手が消えるといううわさがとんでいた。一番強い選手がアッサリ消える(着外になるの意)のは伊東競輪では特に再々あることで、この日のB級の本命選手が次々と敗れているから、こういう噂がとべば、素人は武田の頭や二着の券にはふりむかなくなる。
 レースは最終回の三コーナーから中川選手が先頭にでて、かなり他をはなして第四コーナーから最後の直線にかかった。
 第三コーナーまで後方にいた武田が外ワクからグングン他をぬいて最後の直線で中川にせまり、前車輪一ツの差まで追いつめた。そこからゴールまでまだ五六十メートルは充分にあったから、中川は抜かれるだろうと思ったところ、意外にもその後の中川のネバリは物凄いものがあった。前車輪一ツの差がどうしてもちぢまらない。同じ差を五六十米もちこたえてゴールインした。
 ゴール前三四十米のところで二人の車輪が接触してインコーナーの中川が内側へ倒れそうになったほど二人の車輪は接近していた。ピッタリ接近して前車輪一ツの差がどうにもちぢまらぬゴールインだから、肉眼でも狂いのないレースであった。
 こういうハッキリしたレースにも拘らず、武田一着、中川二着と発表があった。
 この発表の方法も巧妙である。写真判定の結果などと云えば、見物人が写真を見せろと要求するから、そうは云わない。何コーナーだかで内線を突破した選手があるから審議中だとアナウンスして、長い審議の時間をかけた後に、この内線突破は審議の結果余儀ない事情と認める、と報告し、したがって一着武田、二着中川と何の事もないようにアッサリ発表を了えたものだ。武田、中川以外の別の選手の内線突破に焦点をずらしてゴタゴタと長い審議の時間をかけた後にサッとスリ代えの着順を事もなく報じるという、微妙な心理の盲点をついた方法を用いたのである。
 伊東競輪は見物人の数も少く、よその競輪を見なれぬ素人が大半を占めている。また場外車券が売上げの三分の一を占めるという異例の競輪で、それだけ入場者も少いのである。警官の数が甚しく目立つようなところで、これはクサイと思っても、ファンは抗議ができないのだ。競輪で不正が行われているということは、まだ世上の大関心をひく問題とはなっていない。ただ競輪場で騒ぐということがしばしば大問題として採り上げられ、競輪場で騒ぐ奴が悪い、という印象を世間に与えているから、ファンは競輪騒動に対して必要以上に警戒心をもっているのである。不正があっても、騒ぐ方が負けだという去勢された諦めを持っているものだ。
 よその競輪を見たこともない大半の見物人と売上げの三分の一を占める場外車券売場のファンで持っている伊東競輪では、たいがいのインチキが誰の問題にもされない。競輪を見なれた者にはインチキが分るが、見なれぬ人にはインチキもよく分らないし、とにかく競輪場で騒ぐ者は最下等国民だという印象だけ強くうけているから、抗議する者のないのが自然の情というものなのである。
 しかし競輪を愛する者にとって、このインチキぐらい腹の立つものはない。競輪を愛すれば愛するほど、そのインチキに腹が立つ。
 世間一般に競輪が悪いと云われているが、その汚名は誰がきているかと云うと、第一に騒ぎを起す見物人である。まるで特別の劣等人種で、放火殺人の常習犯のような悪名を蒙っている。その次が選手である。彼らがインチキの張本人だと思われている。
 そして、選手がインチキをやらぬように、また見物人が騒がぬように、明るく正しい競輪のためにカントクしたり努力しているのが振興会や連合会だと思われている。
 ところが、事実はアベコベである。実力充分の選手が力をださずに内ワクへ内ワクへと突ッこんで負ける。あるいは外へ大きく踏みあげて大事のコーナーでおくれてしまう。そういうインチキなレースは見物人にも分るのだから、審判に分らぬ筈はない。しかしそういう妙なレースの仕方が審判にとりあげられて審議をうけたことがないのを見れば、そのような妙なレースをやってムザムザ強い選手が負ける事実が審判によって認められていることを意味する。
 選手が自発的にインチキをやって単に自分を利するためであるなら、審判が奇怪なレースぶりを追求しない筈はない。強い選手が外ワクへでて抜く力がありながら内ワクへ突っこんで負けるような怪しい踏み方は競輪を見なれた者にはすぐ分るもので、審判はその日の選手のコンディションなども分っている筈だから、強い選手が病気でもないのに負けたという事などが、見物人には病気までは分らないが、審判員には分っているし、見物人に怪しく見えることが、審判員に怪しく見えない筈はないのだ。それらのフシギなレースぶりが審判員の問題にならないのは、そのインチキが選手の意志によるものではなくて、審判員も了解している筋のインチキであることが明かである。
 レースに直接タッチしているのは振興会の役員だけで、彼ら自身の発意か、彼らの黙認を得たものでなければ、インチキを行うことはできない筈である。さもなければインチキはカンタンに看破られる性質のものだ。それを看破る立場にいるのは振興会の役員だけで、見物人はレースぶりが怪しいナと思っても、どこを追求する便宜もない。見物人が堂々と提出をもとめることのできる判定写真には、本命選手がわざと負けたコンセキなどは決して現れないから、どんな怪しいレースでも、判定に疑いを立てる以外に方法のない見物人は、腕をつかねてレースの不正を残念無念と見ている以外に手はないのだ。怪しいと思ったレースでも、騒げば見物人の負けとなる。不正レースの確証を見物人からあげることは先ず不可能で、特に当日その場で確証のあがる由もない。
 一般世間では、競輪騒動と云えば、見物人と選手が悪いように考えられているが、選手が自発的にインチキを行うことは不可能だし、見物人は不正レースを知りつつもどうすることもできない哀れな、被害者にすぎないのだ。実に世間的には不正のカントク者と考えられ、競輪向上の心棒のように考えられている振興会や連合会というものが、唯一の不正の元兇だ。
 彼ら以外に競輪の不正を行いうる立場にいる者はいないのである。
 私は自分の住む伊東市を愛しているし、いつの競輪も殆どモウケのない気の毒な伊東競輪に同情してこそおれ、悪意のあろう筈はない。私も競輪は大好きだが、近ごろは忙しくて、地元の伊東競輪にもあんまり行けない有様だが、私がヒマでありさえすれば、何よりのタノシミの一ツなのである。
 レース直後に判定写真の提出をもとめればインチキの証拠を押えるのはカンタンであったが、伊東競輪そのものの不利をはかるのは情に於て忍びないから、翌日に至って判定写真をもとめ、再びこのようなインチキのないように知人に伝言を託しただけであった。
 なぜなら、その日私が写真提出をもとめてからレースぶりはガラリと変って、大がい本命通りのレースとなり、インチキレースは影をひそめたからだ。これだけ反省してくれれば役割はすんだと私は安直に考えたが、それは当然というべきだろう。改める心のある人々を私が追求する必要などはどこにもない。改めてくれれば上乗であろう。
 ところが三日目はガラリと変った。怪しそうなレースの連続だった。おまけに、どのレースも、負けた選手が抗議を申し込んででてくるのが今までにない例でおどろいた。
 そのうちに、いろいろ妙な結論が考えられるようになってきて、誰にも分らないが私にだけは分ること、つまり先方が私だけを相手に行っている多くの何かが、色々のレースの色とりどりの変化の中から、私は次第にその明確なものを感じとりはじめた。
 その日の最終レースから雨になり、翌日は更に豪雨で、予定の競輪は休みとなったが、私はすでに前夜来決意していたのである。
 競輪界に害悪を流しているのは振興会とか連合会のボスどもであるが、一時的に反省の風を見せるのは敵をあざむく時をかせぐためだけで、その準備がととのえば更に大々的にインチキをやりだすだけのことだ。彼らの自粛などはとても本気では考えられないことなのである。
 ともかく、九月の伊東競輪の第一日第十二レースで、一着と二着をアベコベにするという他の競輪では殆ど見られぬ大インチキをやった。他のレースの不正は局外の見物人が証拠を押えることは困難だが、このレースは判定写真を要求することによって、インチキのシッポをつかむことができる。判定写真でインチキの物的証拠をつかみうる例は例外中の例外で、この機会を外すと、再びこのような例に恵まれうるか分らない。
 伊東競輪には気の毒だが、競輪のインチキを叩きつぶす絶好の機会だから、万やむを得なかったのである。私が写真に知識があれば、もっと有利な、ぬきさしならぬ多くの証拠をとりそろえて、有無を云わさず、不正をあばくことができたのだが、写真知識がないために、いろいろな機会や、他により証拠となりうる写真の入手などを失ってしまった。
 しかし、それも、さしたることではない。ただ、そのために不正を立証するまでに多少時間がかかる、というだけの相違にすぎない。だいたい写真の知識がないくせに、判定写真のカラクリに自分流の推定を立てて信じたことが、何よりバカげたことであった。
 私の手もとにかなり多くの未知の人々から手紙やハガキがとどいた。一通をのぞいて、他の全部が競輪ファンと選手からで、競輪界のために不正の根を枯らしてくれというものである。告発したレースの不正を自分も確認したという数通もあり、証人に立つと書いている人もあるが、そういう証人くらべをすれば先方の集める証人が多いにきまっているから、どこまでも物的証拠で争うのが本道であり、それを為しうる稀有な場合なのだ。検察庁の要求があればそれらの手紙ハガキの類は差しだすけれども、それは多くの証拠となりうるものでないことの方がたしかである。ただ多くの競輪ファンが、いかに競輪の不正をにくんでいるか、その正当な怒りと、彼らの正義愛とを知りうることはできる。選手から二通あるが、一通は選手の内情と振興会連合会のやり方について自己の不満をのべ、これを機会に各種の不正も調査してくれというもの。連合会、振興会に生活権を握られている選手生活の哀れさがにじみでているものだった。
 連合会、振興会の命に服し、意に添う以外に生活権の守りようを知らぬ選手こそ哀れな人形であろう。彼らが自発的に不正を行うことができないのは明かだ。彼らが何より熱望していることは、いつまでも競輪選手であること、である。選手であればすでに足り、その上にインチキの必要など毛頭ないのが彼らであろうが、選手たることの生活権の与奪を握る者に迫られれば、その意に添わざるを得ないだけの話であろう。
 一通の例外は新潟県三条市の某氏から。私の告発は私利のためか、公共の利益のためかという長々と理窟を書いたもの。この人だけが競輪を知らない人であった。

       ★

 私が告発状を沼津地検へ提出しての帰り道から、車中に見張りがいて、次から次へとリレーし、横浜から乗った何名かのチンピラはそれとなく脅迫的な内容を私の耳にきかせようと御念の入った作為に多忙であった。
 翌日彼らはネガを東京へ持参して振興会の一人ギメの判定勝を急ぐとともに、私の告発を中止せしめるための親しい人々を通しての工作が行われた。
 特にふだん甚しく親しい人々が、やむを得ぬ筋の頼みをうけて、シラフでは来られぬので酔っぱらってきたりするのが、彼らにとってもそうであろうが、私にとっても、身を切られるように辛らかったのである。君たちも思いだしたくないであろうが、私も思いだしたくない。今度会うとき、私はむろん忘れているよ。思いださないことにしよう。
 何より見るに忍びなかったのは、告発前後三日間、私をかくまってくれた「もみじ」であった。
 なぜなら、この旅館のオトクイ筋は、私が敵に廻している側とレンラクあるのが主であった。
 いつかこの旅館のためにちょッとだけ役に立つことをしてあげたことがあった。たッたそれだけのために、大事なオトクイ筋の義理を欠いて、私の滞在を秘してかくまい、二日間、一切の宴会客をことわった。ここの一晩の宴会客は大そうな数で、その損失がいくばくか計りがたいほどのものであるが、しかし金銭の損失以上に気の毒なのは、オトクイ筋の義理を欠いて私をかくまった現代ばなれの律儀さだった。ちょッとした取るにも足らぬようなことに報いるために、現実的なオトクイをしくじるところまで深入りして、敢て私をかくまった現代ばなれの無計算な情宜には感謝をつくす言葉もない。苦しかったろうと思う。私にとっても、実に切ない三日間であった。
 親しい人々がやむを得ぬ頼みをうけて不本意な対面にくる切なさと、この旅館の厚意の苦しさ。やりきれない三日間であった。
 その後転々とすること十日あまり。平常通り仕事の運ぶ落着きを得て、告発の方は検察庁へ一任の思いを堅くした矢さき、十月二日の記事であった。
 私はその悪質なタクラミにあきれたのである。かくまで悪質なタクラミをなす彼らであるとは思い至らなかったのである。
 十月の伊東競輪開始の日に当ってこの記事が発表されたところを見れば、写真に修正の事実がなく、坂口安吾の誤解と判明した、といういかにも公式のものらしい発表が、一人の私を対象に為されたものでないことは確かであろう。
 また国警の鑑識の結果、写真に修正の事実がない、ということも、後日、いくらでも言い逃れうる伏線の上に行われている。
 つまり私の告発状には、証拠写真の条に、一二着のユニフォームの色と番号を修正したものだ、という間違った推定が書き加えられている。私はその後に至って上申書をだして、右の推定の間違いを取り消したけれども、すでに後の祭である。
 すくなくとも私が告発状に早まって推定したような「修正の事実」がないことだけは確かである。彼らがホンモノと称するネガのインチキなカラクリが後日に至って立証されるにしても、ともかく告発状にあるような「修正の事実」がないことは確かなのだ。
 だから新聞の記事に於ても「修正の事実がないことが証明された」と云うだけで、「振興会のネガの正しいものであることが立証された」とは云っていないのである。
 後日のいかなる事態に至っても責任をまぬがれる伏線は見事に構成されている。しかもこの新聞記事を読み、
「修正の事実がないと証明された」
 とあれば、私の「誤解」で、振興会が正しかったと思う。
 私の「誤解」と判明した、とあるが、これまた正しいのである。つまり「修正の事実ありとした告発状の推定」は、まさしく私の「誤解」にもとづくもので、それはインチキならざるレースをインチキと誤解したのではなく、「インチキ写真の製造をユニフォームと背番号のすり代え修正」にありと「誤解」しただけの話であるが、「誤解」である点については、これも確かに正しいのである。
 しかし、この記事を読んだ人々は、私がインチキ写真の製法について誤解したと思うわけはなく、不正ならざるレースに不正ありと誤解した、と解するにきまっている。
 後日に至って巧妙な言訳となる伏線の上に、物の見事に私の敗北、不正なきレースを不正と誤解したことが鑑識の結果科学的に立証された、という印象を正確に与えることができるように構成されているのである。私はこの巧妙なカラクリに気がついて、彼らの悪質きわまる技術の練達に呆れ果てたのであった。それと共に、怒り心頭に発せざるを得なかった。
 しかも、かくも巧妙な伏線上に、後日の言訳を設けて構成された一見公式発表らしきものが、実は坂口安吾という個人をやりこめる目的でなされたものではないという事実を知らなければならない。
 十月競輪開始の日にこの発表を行ったことは、十月競輪の六日間にこの記事を有効に使用する目的によるものであることは明かであろう。
 一般人にくらべればまア一応その観察眼の秀でたところを売り物にしている坂口安吾という奴でも、競輪の着順を肉眼では見あやまるようなヘマをやる。まして一般人の肉眼なんて全然信用できないことが明かであろう、という意味もあろう。
 次に、坂口安吾という多少の地位を利用したって、結局競輪に一指をふれることもできない。まして一般人がタバになっても、競輪に一指もふれることができないのだ、という無言の威圧を加える意味もあるだろう。
 この記事が、この字面の下に隠されたカラクリを知り得ぬ人々に対して、与える効果は絶大である。
 伊東競輪のファンはいかなるインチキレースが行われてもただ発表通りウノミにして、一言半句の抗議を云う力も失っているに相違ない。それは同時に他の競輪に於ても、ほぼ同様の効果を発揮する力をもっているものだ。
 また、競輪を知らぬ一般人に対しては、競輪に対して肉眼の判定がいかに信じがたいか、という決定的な結論を与える根拠となり、ともかく他の者にいくぶん秀でた観察眼を売り物にする人物にして肉眼の判定を誤る以上、一般のファンが時に騒ぎを起すのも、すべてファンの側に誤解があり、要するに競輪ファンの素質が悪いのが競輪騒動のモトである。競輪には不正がなく、競輪ファンという劣等人種が幻覚上に事を起し、事を好むにすぎない、という決定的な結論を与えるヨスガとなり易いのである。
 かかる考えが競輪ファンならざる人々の常識となれば、それはファンに反映して、彼らを全然去勢された動物と化し、いかなる明確な不正を目にしても、敢て抗議する力を失わしめるに至る。今日に於ても、世論の反映はファンを去勢し、一二着を逆にするというあの明白なレースに対してすらも、私が抗議しなければ、それを敢てする者がいなかった状態であった。
 後日に至ってもその言訳の立証が巧妙に伏せられて、しかし公式の発表であるかのような外見を備えたこの記事の深いカラクリと計算された効能とを知れば、かかるカラクリやインチキに対して彼らの日頃の熟練のほどが思い知られるのである。
 告発を逆用し、新聞を利用し、公式発表らしき形式すらも利用して、すべてに計算された伏線のカラクリがはりめぐらされて水ももらさぬという方法が、彼らの日常生活のものではない告発事件に関聯して行われていることに思い至るべきである。
 非常の突発事に際してすらも、かかる複雑巧妙なカラクリを行いうる彼らである。その日常の職場たる競輪について、不正レースの運営法や、ごまかしや、インチキ写真の製法について、どれほど熟練したカラクリにたけ、術策に長じているかは申すまでもないことであろう。しかしながら、いかに彼らが術策やカラクリの術に長じたところで、偽造というものは、完全にシッポを隠すことはできないものである。
 私は彼らに証拠写真の提出を求めるに当って、カラクリ写真の製造を妨げるためにかなり慎重に行動したツモリであったが、いかんせん写真知識のない悲しさには、容易に入手し得た多くの大事なものの入手を忘れ、哀れ千万にも、敵の写真のカラクリを安易に推定し、一人ぎめに思いこむ、というバカなことをやらかした。
 それが今日に至って彼らに散々利用されるハメに落ちているのだが、私とても、そういつまでもバカのまま、写真知識に不案内のままでいるワケはない。立直れば、私の方には攻撃する手掛りを再発見して、出直すことは決して困難ではなかったのである。
 そして今日では彼らの写真カラクリを証明する多くの事実をも握るを得たが、それは私の手もとに残った不完全な写真を基礎にしての話なのである。すでにそれらは多くの精密な複写と文章とを附して整理分散され、検察庁のもとめに応じて、そのどれを提出して、既出の証拠物件に多少の補強を加える用意も完了した。
 しかし、私は文章の終りに当って改めて言明するが、私はすでに告発して検察庁に全てをゆだねたものである。
 ただ十月二日の新聞記事に伏せられた彼らのカラクリが複雑巧妙をきわめて、放置すれば、彼らが世人をマンチャクする策を成功せしめ、益々彼らの不正を大ならしめ、逆にファンを去勢せしめるに至るのみであること明かであるから、一矢むくいざるを得なかったものである。あいにく、これを発表する雑誌が発行部数の多大な大衆性のある雑誌と異り、多数世人の目にふれぬ怖れが甚だ多いから、この文章のほかにも同様趣旨のものを他に発表せざるを得ないかとも考えている。
 しかし、いずれにしても、今回私が発表する文章は全てこれだけの程度の内容で、告発の事実そのものの証明とは無関係なことである。告発した事実については、検察庁の取調べに一任し、他は随時、かかる不時のカラクリに対し、術策に対してのみ、文章によって応じるだけのことである。至急を要したため文章上の難渋なところは我慢していただきたく存じます。





底本:「坂口安吾全集16」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第一二号」
   1951(昭和26)年11月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第一二号」
   1951(昭和26)年11月1日発行
入力:持田和踏
校正:ばっちゃん
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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