花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。なぜなら、新人発掘が商売の
私は雑誌はめったに読まない性分だから、新人などに
花田清輝は「現代文学」の同人ではないが、時々書いていた。
小説家には太宰治という才人があるが、いわば花田清輝は評論家のそういうタイプで、ダンディで才人だ。小説だと、まだ読者には分るけれども、評論となると
今度我観社というところから「復興期の精神」という本をだした。マジメで意気で、類の少い名著なのだが、僕は然し、読者の多くは、ここに花田清輝のファンタジイを見るのみで、彼の傑れた生き方を見落してしまうのではないかと怖れる。彼の思想が、その誠実な生き方に裏書きされていることを読み落すのではないかと想像する。この著作には「ユウレカ」と同じく見落され、片隅でしか生息し得ない傑作の孤独性を持っている。だから、花田清輝の真価を見たいと思ったら、もっと俗悪な仕事をさせてみることだ。つまり、文芸時評とか、谷崎潤一郎論だとか、そういう愚にもつかない仕事をやらせてみると分る。
彼は戦争中、右翼の暴力団に襲撃されてノビたことがあった筈だ。
戦争中、影山某、三浦某と云って、根は暴力団の親分だが、自分で小説を書き始めて、作家の言論に暴力を以て圧迫を加えた。文学者の戦犯とは、この連中以外には有り得ない。
花田清輝はこの連中の作品に遠慮なく批評を加えて、襲撃されて、ノビたのである。このノビた記録を「現代文学」へ書いたものは抱腹絶倒の名文章で、たとえばKなどという評論家が影山に叱られてペコペコと言訳の文章を「文学界」だかに書いていたのに比べると、先ず第一に思想自体を生きている作家精神の位が違う。その次に教養が高すぎ、又その上に困ったことに、文章が
だが、これからは日本も変る。ケチな日本精神でなしに、世界の中の日本に生れ育つには、花田清輝などが埋もれているようでは話にならない。
(「新小説」昭和22年1月1日)