私はスタンダアルが好きであるが、特に私に興味のあるのは、彼の文体の方である。
然し彼には人を性格的に把握する能力が欠けていたわけではない。欠けているどころか人並以上に眼光が鋭く性格把握の能力が勝れているのは「バイロン論」を読めば分る。バイロン論と言ったって、実はバイロンとの交遊録で、バイロンの性格や人物だけを書いている。
結局彼は、文学の
彼の小説は一行ずつ動いて行く。それも非常に線的な動き方をするのである。百行のうちに二十人くらいの人物が現れ、なんの肉体もなく線のように入りみだれて動きまわっていると思うと、突然それらの人物が肉体をもち表情をも
文学にはいつも奇蹟が必要だ。然しスタンダアルのこの奇蹟は奇蹟中の奇蹟であって、スタンダアルの天才にだけ許されたものであった。直接模倣することは無意味である。
私は従来の文学に色々の点で不満を持つが、その最も大なるものは人間や人間関係の把握の仕方の惨めなまで行きづまったマンネリズムに
もとよりスタンダアルの描いた人間は新鮮ではない。彼は性格を主目的に描かなかったとはいえ、結局最後に性格が滲みでてくるわけであるが、それらの性格も新鮮でない。別に新鮮な角度から認識されてはいないのである。
けれども私に興味のあるのは、こういう文体も可能であるということであった。全然性格を無視した人間の把握の仕方、常に事件の線的な動きだけで物語る文体、そういうものが百年前にもあったのである。それが直接私の文学の啓示にはならないまでも、そういう荒々しい革命的な文体すら可能であるということを知ると、私は自分の文学の奇蹟を強く信じ期待していいような元気のあふれた気持になる。私も人間の性格なぞはてんで書きたいと思わない。然しスタンダアルの描いた人間は平凡である。
(「文芸汎論」昭和11年11月1日)