本日は、弘法大師の御降誕に際しまして、眞言宗各派の管長の方々、並に耆宿碩學の賁臨を忝うし、又滿堂の諸君の來集の中に於て、此の演壇に立ち、宗祖大師の時代につきまして、一塲の卑見をぶることを得まするは、私にとりまして、光榮至極のことゝ存じます、演題は、茲に掲げました通り「大師の時代」と云ふのであります、從來、宗祖大師の降誕會を擧行せらるゝ度毎に、緇素の諸名流方が、此の演壇の上に現れまして、或は大師の文章につき、或は才學につき、或は建立せられた教義につき、或は功業遺徳につき、演述せられたものは甚だ多い、此等は、弘法大師の面目其のものを描き出したもので、濃淡の差はあり、色彩の別はありましやうが、謂はば、大師の御肖像を描き出す上に於て、全部又は一部の貢與をなされたものと私は信じます、由來、肖像畫は、畫の中でも、困難なものであつて、就中、宗祖大師のごとき方を言説の力で描き出して聽くもの、見るものをして、其の眉目生動の御姿を彷彿せしむるは、困難至極のことであると想像致しますが、從來發表せられた講演の筆記を拜見致しますに、中々巧にやりとげられたやうに窺はれますが、私の只今諸君の清鑒に供しまするのは、大師の御肖像ではありませぬ、大師の埀跡せられ、活動せられた時代そのものであつて、大師の御一身を、假りに龍に倫擬しますれば、今迄此の演壇に立たれた方々の御講演は、雲に駕し、雨を呼んで、九天の上に飛翔せらるゝ龍を描き出し、又は、描き出んと勉められたもので、其の苦心は、尋常一樣でなかつたことは、谷本、松本、内藤の諸博士の御演説集を一見致しましても、判然致します、此等は、孰れも、龍の全部を描出したものであるが、しかし、龍と申すも雲を得て、始めて、靈ある次第でありまして、風に駕し、雲を御して、始めて四海の上に飛翔することが出來るのである、私は、自から揣るに、到底龍其のものを描くことは、其の器でない強ひて、やれば、或は、蛇となる恐があるから、此の際、寧ろ、龍のつきものでありまする雲を描きたいと思ひ、又風を描きたいと思ひましたのが、即ち、大師の時代と云ふ題目を選擇しました所以で、大師の肖像ではないが、其の背景であり其の周圍であります、大師が、よりて以て飛翔せられた風雲であります、龍を描いて、雲を描かなかつたら、如何にして、其の靈を示すことが出來ましやうか、大師の文章才學を述べ、其の功業遺徳を讃歎しましても、大師を出した時代、大師が飛翔せられた雲霄の光景が、明かでない以上は、大師の面目が完全に描き出されんとは、云へない、此の點より申せば、私の選擇しました題目も、大師の遺徳を紹述します上に於ても决して、關係がないものとは、申されぬ次第と確信致します、私の家は、世々新義眞言宗の檀徒で、生れた故郷は、興教大師の御事跡と關係ある紀伊岩手の莊でありまして、幼少の時代から、嗜んで、弘法大師の御傳記などは、讀んだものであり、又義理は一切了解しませなんだが、般若心經や、光明眞言などは、七つ八つの時代から暗誦したもので、今でも、やつて見よと云はるれば、巧ではないが、素人仲間に伍すれば、その導師ぐらゐは、勤まる積である、かゝる次第でありましたから、弘法大師の傳記は種々讀みまするし、又傳聞もしましたが、幼少の頃は、想像に富み、空想に馳せ易いから、大師の傳記などは、字義通り、解釋し、又信じまして、自分が、小石を拾うて、紀の川に抛げても、一町とは飛ばぬに大師のごとくなりさへすれば、唐土から、三鈷杵を投げても、必ず雲山萬里の距離を飛び越して、高野山の松の枝にかゝるものと信じました、又村のはづれにある松原を、黄昏の頃に通りて、同行二人と書いた笠を戴いてひとり、とぼ/\と疲れた足を曳きづつて來る四國巡禮のものに遭ふと、かう見えても、もしや、是は、高野山の奧の院に今なほ居らるゝ大師が、假に身を扮じて、巡禮者となつて來たのではないかと思つたこともあつた、其の後、年が段々たけて、種々の學問や、種々の經驗などをしましたが、幼少の頃に、讀んだ宗祖大師の傳記は、時につれ、折に觸れて、私の心を動かし、感ぜしめたことが、尠くない、これと同時に、其の傳記に對する自分の見解が、變化して來て、最初の程は、超人間的であつたが、漸次人間的となつて來り文字通り解釋して來たものが、譬喩的に解釋する樣になり、幼少の頃は、彩霞雲の上に光明赫奕として居らるゝ大師の姿を望んで居たが、年が長ずると共に、大師の姿は、自分の身に接近せらるゝ樣に感じ、自分の師傅として、又自分の伴侶として、眉睫の間に、大師を見る樣な心地となつた次第で、以前は、「大師だから、かくかくである、自分では、とても」と思つたのが、後には、「大師がかく/\であるから、自分も」と云ふ樣になつて來た、隨つて、自分の所謂大師の面目なり、又御姿の輪廓なりが、明白になつて來たつもりである、殊に八年前、文部省の留學生となつて、佛國巴里に赴き、前後二年滯在して居つたときは、殊に、此の感が深かつた、「プラース、ド、ラ、コンコード」の廣塲から「ジヤンゼリゼー」の廣衢が、「ナポレオン」の建てた凱旋門を貫きて、「ブーローンヌ」の林につらなつてあるが、そこを午後三時から、夜にかけて輕車肥馬の來往が、織るがやうで、夜に入ると、車につけた燈火が、旁午入り亂れて、流星の亂れ飛ぶかと怪まるゝさまであつて、東海の一遊士たる自分は、此の光景を見るたび毎に、大師の長安に居られた時は、長安の大道は、坦として砥のごとく、佳人才子が、銀鞍白馬春風を渡つて、慈恩寺の塔の邊に行樂したさまは、かゝるものであつたらうと感じだ、又かの國の先輩や、同窓に親切に世話になつたときなどは、恐多い話ではあるが、宗祖大師が在唐の當時、青龍寺惠果和尚や、西明寺の志明談勝法師などに厚遇せられたことなどは、屡々心の中に浮び出た次第で、要するに、自分が今日に至るまで、理想として仰ぎ、伴侶として親み、順境の時にも、逆境に處した時にも、心裡に、慰藉を與へ、光明を放つて呉れた古今東西の偉人は、决して、鮮くないが、幼少の頃から、今に至るまで、忘れられないのは、歴史としては弘法大師の傳記で、稗史小説ではあるが、演義三國史[#「三國史」はママ]に現はれた關羽の性格である、殊に大師の傳記が、自分の年の長ずると共に、閲歴見聞の加はると共に、了解せられ、氷釋するがごとき趣があるは、自から顧て、不思議の感がある。
大師の時代を論ずるには、當時の日本と支那とを了解せねばならぬが、當時の日本は、今日の日本とは異つて居つて、とりたて、世界に對し誇るべき程の文明はなかつた、すこし、矯激に亘る嫌はあるかも知れませぬが、當時大師の活動せられて居た奈良や京都の都は、要するに、支那の摸倣であつて、其の都に居つて、全日本を支配する位置に居られた方々の思想、並に好尚は、一に支那の摸倣に過ぎない、今日宮内省の所轄である正倉院の御物を、私は拜觀いたしたことがありましたが、同時に、近頃支那や、中央亞細亞などで、發掘した唐代のものと覺ぼしき美術文書などを見て、竊かに比較憶度致しましたが、從來、奈良の古社寺などで、何々天皇の御宸筆であるとか、何々皇后の御筆であるとか、又は何々大臣の作であるとか傳へられました古經古書などは勿論、古美術品でとりましても、果して、所傳のごとく、僞でないとすれば、實に眞に逼つた支那の摸倣であつて、如何にして、かくまで、眞物に似たものを摸倣し得たかと疑はるゝ次第であるが、これを以てしても、當時の上流社會が、如何に支那に文物を好尚したかが明瞭である、しかし、自分の考へでは摸倣にしても當時かくまで巧になし得たか否やを疑ふもので、平安朝の初は暫らく論ぜぬことにして奈良朝の中葉のつきて論して、見ますに當時の知識ある階級、即ち卿相僧侶の方々が、正倉院御物に於て、或は、奈良の古社寺などに存在する文書、繪畫等を自分の力で製作し得た程、進んで居つたか、どうか、甚だ疑はしい、自分の信ずる所では、某卿の作とか、某大臣の作だとか、或は何某の高僧の手に成つたものだとか云はるゝものゝ中に、支那朝鮮からの輸入品と認むべきものは甚だ多い、殊に古經などは、豊滿含潤、見るからに、骨董好きの人々に埀涎せしむる樣なものは、當時の純粹の日本人が書いたものでない、皆支那からの輸入したものか、支那の寫經生が書いたもので、現に正倉院の御物の中に、當時の日本人が、確かに書いた文書もありますが、比較して見ますると、書の巧拙に於て、雲泥の差があります、奈良朝の中葉に於ける支那の書風の摸倣は、未だ其の堂に上つたとは、思はれない、以上云ふたことは、必ずしも、區々たる書風につきてのみ云ふのではない、美術工藝の上でも、これに類したことゝ思ふ、今日保存せられて居る美術上の逸品は、或は、支那、朝鮮の歸化人が、作つたものか、然らざれば、輸入したものであると云ふのは、私の斷言して憚らぬ所である、もし當時の日本人が、日本にのみ居つて、支那の美術工藝の品を摸倣したものがありとすれば、これを支那の手本と比較すると、其の差は、盖し、巴里の春の「サロン」と、文部省が毎年東京の上野で開催する展覽會との差以上のものあつたと確信する次第である、しかし、繪畫と彫刻とか、工藝とかは、ともかくも、目で見れば、わかるもので、所謂胡蘆によりて、樣を畫き、支那傳來の樣式を墨守して、正直に摸倣すれば、精神はとても移すことは出來ぬとしても、形式だけは、具備することは、左程の難事でない、獨り、宗教や學術の如きは、其の主要なる所は、精神の機微に存する次第であるから、これを外國より傳へ來るにしても、傳へるものは、先づこれを會得し體得して、自分のものとせねばならぬ、殊に學術の中でも、哲學などは、たゞ/\書物ばかり讀んで、字義ばかり、たどつたとて、會得が、出來るものでなく、又宗教の中でも、形式の部分は、比較的移植され易いが、教相の部分は、哲學と同じく、暗默の中に悟入することを要する所がある、師資相對して、問ふことを得ず、教ふる事の出來ぬ部分がある、隱約の間に、双方の心が融會することを必要とする部分がある、かゝる次第であるから、如何に留學生を送り、如何に明師を迎へても、又如何に書籍を輸入しても、到底充分會得せられぬ部分があることは、免れない、奈良朝の佛教と云へば、先づ指を法相三論華嚴に屈するが、かゝる哲學的宗教は、これを輸入するには、如何に書籍を輸入し、又留學生を送りたりとて、完全に、會得せられ、領解せらるゝには、幾多の歳月を必要とする次第でありて、要は、俊邁達識の士が、良書を得て、其の中に於て、自己を發見するか、然らざれば、明師に遭うて、其の意見は、自己の考へと默契する所があつて、始めて、完全に、教は了解せられ、師資相傳するものである、しかし良書は、孰れの世でも得難い、明師と俊邁達識の士とは、遇ひ難きものである、されば、奈良朝の佛教と云ふものは、輸入佛教ではあるが、其の當時、輸入の困難であつたことは、想見に餘ある次第で、早い話が法相宗の輸入である、これは、更めて申すまでもなく、玄奘三藏が、渡天の上、戒賢其の他の論師から受けて、唐土に輸入したものであるが、かゝる教義は、本來發生の土地の語で書いたものならば、其の語に通したものが、讀めば比較的了解には困難ではなからうが、日本がこれを傳へたは、玄奘の支那から傳へたもので、支那語の學習が、當時已に日本の人々には、一大事業であるに加へて、衣裝は支那語であつても、中身は、印度思想であるから[#「あるから」は底本では「あるら」]高遠な概念を有した哲學上の術語が多い、故に、日本から、支那に出掛けて學ぶにも、一人や二人の力の及ぶ所でない、第一には、孝徳天皇の白雉四年に、元興寺の道照が入唐し、玄奘につきてこれを學んだが、次には、觀音寺の、智通智達が、齊明天皇のときに、入唐して、同じく玄奘につきて、これを受け、又も、文武天皇の大寶三年に、智鳳だとか、智鸞だとかと云ふ連中が、入唐して、智周から學んで、日本に傳へ、又も、元正天皇の靈龜二年に、玄が入唐して、同じく、智周から受けたとの事であるが、かくの如く、一法相宗の輸入でも、道照から始まつて、玄に至るまで、我が國の俊才の士が、數度入唐し、時代は六十有餘年からかゝつて居る、其の後とても、屡々留學生を送つて、法相宗の教義を學習さして居るが、これでも、當時、果して完全に、玄奘や慈恩大師の著作が、日本に於て、了解せられたか否やは、私どもの大いに疑ふ所である、もし了解されて居つたと云ふ人があれが[#「あれが」はママ]、何時でも、其の然らざる所以を擧證し得る積りである、宗教にしても、文學にしても、美術にしても、奈良朝の全部平安朝の初期のものは、要するに、支那朝鮮よりの輸入品でなくば、其の摸倣であることは、私の確信する所であり、又世間一般の定説であると信ずるから、特に喋々する必要はなきことゝ思ふ、しかし、其の輸入又は摸倣の迅速であつたことは、世間一般の想像するよりも、一層迅速であつたことは、私の又信じて疑はぬ所であります、玄奘が、印度から歸りて、戒賢論師から法相宗を傳へると、日本から早速道照が出掛けて、其の弟子の窺基、即ち慈恩大師と同宿の上で、教旨を學ぶとか、義淨三藏が印度から歸りて來て、一切有部の律が翻譯せられ、從來支那で闕けてあつた律も、漸く補足せられた爲めと、又其の少々以前で、道宣や懷素等の、諸高僧が、律のことを、喧しく唱導した爲とであるが、支那には、律宗の氣勢が加はつたと思ふと、やがて、義淨の入寂後、十五年とすぎぬ間に、開元十四年大安寺の普照と、元興寺の永叡とが、國主の命、即ち聖武天皇の勅命で、支那に赴き、僧伽梨幾領かを以て、中國即ち支那國に於ける高行律師達に施す旨が、佛祖統記第四十卷に見えてある、して見れば、其の少し以前、義淨三藏の入寂後間もなく、又は、在世中、既に初唐の律宗の流行が、日本にも、影響したものと斷言出來る、是れやがて、鑑眞律師の來朝の動機となり、又律宗の本山たる唐招提寺の建築の動機となつた次第で、其の外、唐僧道律師が、賢首大師の後を承けて、聖武天皇の天平八年、西暦で云へば、七百三十六年、華嚴宗を始めて、日本に傳へたことは、何人も知悉せる事實であるが、假りに、賢首大師の入寂を、西暦七百十二年とすれば、華嚴宗が日本に傳はるには、僅に二十四年の間である、交通不便の當時にあつては、思想の傳播に要する時日としては、二十四年は僅少の時間と云はねばならぬ、思ふに遣唐使の來往以外に、留學生の來往、唐の諸高僧并に碩學の來朝、又は、史乘に現はれてあるよりも、なほ多くあり、此等の媒介によりて、唐代の新思想、新衣冠、新風尚は、波蕩響應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひますが、別に説明をした人がありませぬ、然し、法相宗の本山であつて、かく名稱を改めたは、當時、建立者たる藤原氏の人々の中には、慥に、唐の玄奘三藏が居つた三寺の隨一たる興福寺の名稱を、其の儘に用ひたものと私は確信致します、長安の興福寺には、唐の大宗の御製で、東晋の王羲之が書いたと云ふ、一寸聞くと妙に思ふ、かの大唐三藏聖教の序があつた所で、大宗が太穆皇后の追福の爲に、建立した寺で、其の聖教序は、今もなほ西安府學の文廟の後にある碑林にあるとの事である、尤も唐の興福寺は、最初弘福寺と云ふたが、高宗皇帝の時に、興福寺と改めたものであります、日本の興福寺は、其の改名後の名を採用したことは云ふまでもない、其他、唐僧道慈が建てた大安寺も、當時の長安の西明寺に規したものである、其他唐招提寺なども、唐代の建築に則り、唐より來朝した工匠の手に成つたことは言を待たない、私共が奈良で、古き時代の寺院を見ると、其の中に、一種の感想が、起つて來る、それは、日本人の手になつた事業、又は製作品に於て、見ることを得ないものであつて、外でもないが、堅牢壯大と云ふ感想で、英語で云へば、「ソリダリテイ」の考へである、これが建築の上に表現されて居るやうな氣がする、奈良朝の時代に成り、又は、奈良朝の時代のものに摸した寺院は、其の起原は、唐代にあり、又支那の大陸にあるのであるから、日本の土地に存在するが、其の實、支那の建築であり、且つ支那でも、最も氣宇廣大であつた、唐代の人々の精神が、現はれて居るから、かゝる感想を起させるものと私は思ふ。
要するに奈良朝の全期、又は、平安朝の初期は、唐服を着け、唐書を讀み、唐の詩文を屬し、唐の語を操るは、上流社會の誇りとした所であるから、苟も[#「苟も」は底本では「荀も」]、功名利達の志あるものは、これに務むるは、自然の情である、又、唐の文物が交通不便の當時であるにも拘はらず、比較的短き歳月を隔てゝ、日本に傳來し、波蕩風響して來るから、新を趁ひ、奇に馳せるは、自然の勢であり、隨つて、他の知らざる所を知り、他の有せざるものを有して、人に誇ることはせないまでも、自から恃みとするは、人の至情であつたらうと思はるゝ、又心を功名利達に絶ちて、身を宗教に委ねた人々でも、新奇の經が渡來するとか、未見の論が手に入ると、難解の點が多きに苦んだであらう、又宏才達識の人々でも、如何にして、新學の氣運に乘じ、新思想の潮流に掉して、國家民衆に貢献すべきかに迷ふたことゝ想像する、又一波一波と寄せ來る唐代の文明が、如何にせば我が國體と調和すべきか苦心したことゝ思ふ、聖武帝が東大寺の毘盧舍那佛を建立せられた當時、行基などの頭には、此の苦心が、ほの見えて居る、平安朝の初期に至ると、奈良朝の中葉に比すれば、大分支那の文物が理解せられたやうで、思想風尚も大分了解せられた、嵯峨帝が、小野篁に對し、新に渡來した白居易の詩にある、登樓空望往來船といふを、試に、登樓遙望往來船と改められて、これに意見を下問せられたとき、篁は、白居易の書を未だ見ないに、聖作誠によろしいが、遙の字を空と云ふ字にせられたらなほよろしからんと存ずる旨申上げたいたところ、嵯峨帝は御叡感あつたと云ふ話がある、なる程、遙の字より、空の字の方が、此の塲合よろしい、これを、一瑣談と見れば、それまでゝあるが、私はこれを以て、當時の上流社會は、已に深く、支那文學の趣味を有して居り、又其の精髓まで味ひ得たと云ふことの證據であると思ふ、小野篁は元來學問嫌の人で、若いときは、遊獵騎射に耽けて、青年時代を徒消した人である、年がかなりにゆきてから、嵯峨帝の御感化で、學問を始めた人であるが、此の人にして斯の如しだ、當時の上流社會が、漸やく、支那文學を修めて、其の精髓を得たと云ふことが推測せらる、今日の學者は、歐洲の文學をもて囃すが、英文學や、獨逸文學で、其の精髓に達し得たことは、果して、小野篁の如きもの幾人あるか、ものゝ十人とあるか否やは、余輩の疑ふ所である。
宗祖大師の入唐は、嵯峨帝の時代より二代前の桓武帝の延暦二十三年でありますが、桓武帝の御宇は、二十四年であつて、次に即位せられた平城帝は、在位僅に四年であるから、大師の入唐以前の日本の時代と、其の後とは、大差なきことゝ思ふ、大師が入唐以前は、御遺告書にも見ゆる通り、御生年十五の時に、已に今日で申す普通教育を終り、入京の上大學に入りて、經史を修め、佛經を好まれたとの事であるが、中々教育の順序としては、整頓した制度である、御生年二十の時に、剃髮せられて、出家せられたが、其の前後の時には、御自身の告白がある、今日の語で云へば、青年時代にある、煩悶の時代である、殊に天才を有する青年の煩悶時代であるが、匹夫匹婦の煩悶は、飮食の爲めであり、凡庸の人の煩悶は、色欲又は功利の爲めであるが、大師の煩悶は、如何にせば、三乘五乘十二部經が、完全に理解出來るか、會得出來るか、佛法の要諦は何であるかと云ふにある、青年時代に、かゝる眞摯にして、高尚な煩悶は、疑問としても、實に、凡庸人の夢想し得ざることで、今の學生ならば、如何にして、學校を出たのち「パン」を得やうか、はた如何なる妻を迎へやうかと煩悶するのであらうが、大師は、左樣でない、しかし、其の煩悶は、餘程熱烈であつたと見えて、名山大川を跋渉し、毫も艱險を憚らない、或は高嶽の上に孤棲して、修行し、或は怒濤澎湃として、孤峭削れるが如き巖頭に坐して、靜かに、妙理を思索して居られたことがある、殊に私が讀んで、感心致す所は、大和高市郡久米道塲の東塔の下で、大日經を尋ね當てられたときの御告白である、普覽衆情有滯、無所彈問、と云はれた、又更作發心、以去延暦二十三年五月十二日、入唐、爲初學習と云はれて居る、成程大日經と云ふ御經は、今日でこそ、研究もされて居り、註釋もあるから、或は、容易に了解さるゝことゝ思ふが、當時では何人も、讀んで、了解することが出來なかつたに相違がない、一行禪師と善無畏三藏とがこれを譯した時は、西暦七百二十四年であるから、大師が、入唐の年代、即ち西暦八百〇四年迄には、約八十年の間がある、元正帝の養老年間に善無畏三藏は、日本に來られたと云ふ傳説があるが、是れは少しく疑はしいことゝ思ふが、當時のことであるから何人かが、其の手に成つた大日經を、日本に持ち來たことゝ思はれる、しかし、三論や法相など在來の宗派の所依の經典とは、違つて、如何にも、梵語が澤山あり、印度の、風俗などの事も、會得せねば、了解し難き所もある、故に渡來はしても、又一應讀むものがあつても、徹底して、了解することが出來ぬから、自然興味が生ぜず、放任すると云ふ工合であつたが、流石に、大師である、一讀して、難解の書であると同時に、日本では、誰も就きて學ぶ人もない、しかし、是れこそ、吾が年來求めて居つた經典である、これが意義闡明したいものであるとと云ふが、大師入唐の動機である、やうに窺はるゝが、しかし、大師入唐の動機は、これのみではあるまい、なるほど、大日經は大師にとりて貴重の經典であつて、是非唐に赴きて、徹底するまでに學習したいと思はれたに相違はなからうが、入唐せられんとする當時には、二十年間支那に留學する御豫定であつた、大日經七卷の學習に、二十年の歳月が要するとは、我々とても思はない、唯識に關する文學を渉獵せんには、三年はかゝり、倶舍に關する文學を渉獵し盡さんには、八年かゝると云ふは、今日の日本の佛學者の常に云ふ所ではあるが、これは、末書の末書まで、調べ上げることを云ふのであつて、單に大日經の學習に二十年もかゝると云ふは、何人も首肯し難き所である、又日本で今日やつて居る樣な學風なら、或は二十年もかゝるかも知れぬが、唐代の學風は、决して、かゝる迂遠な學風でない、然らば、大師入唐の最大動機は何であるかと云ふと、云ふまでもなく、一は唐代一般文明の精華を探ぐり、一は當時最も隆盛を極はめた宗教をば、日本に將來せんとするのである、當時最も隆盛を極はめた宗教とは、何かと云ふと、答は、極めて簡單で、即ち密教であつたのである、大師の大遺告文などを見ると、かゝることは見えて居らぬ、孰れの御文書にも現はれてない、しかし、これは、明白なことで、大師が、たゞ、これを公にせられなかつたのみである、大師の師と云はれた石淵寺の勤操僧正に對しても、入唐の目的は、單に大日經の學習であると云はれたのみで、恐らく密教を我が國に將來せんとは云はれなかつたことゝ見える、これはさもあるべきことで、密教の將來と云ふことは、容易でない、一大事業である、長安には幾多の明師も居つて、其の名も、大師には、入唐以前に於て、判明して居つたであらうが、果して、此等の明師が、評判の通りであるか、或は評判の通りであるとしても、快く、自分に、其の法を傳へて呉れる人々であるか、假令ひ傳へて呉るゝものとしても自分は、果して其の器であるか否やは、大師の心頭に不絶往來した問題であつたことゝ思ふ、故にかゝる問題の解决せられぬ以前に、密教將來の大目的を、他に語らるゝやうな大師ではあるまいと、自分は信ずる次第である、しかしこれに依つて、大師が入唐の目的は、密教將來でなかつたと斷ずるは、迂濶千萬の事と私は思ふ、前にも述べた通り、當時日本と支那とは、交通不便の時代であるが、今日の人々の想像するごとく、日本の人々は、支那の事情に暗かつたものではない支那に流布する思想并に趣味は、短日月の間に、日本に波蕩風響し來たものである、日本のことも、比較的支那留學の人々には、速に傳はつたのである、現に大師の入唐に先づ、一年前、即ち延暦二十二年、入寂せられた行賀などは興福寺の別當であつて、法相の學匠であつたが、此の人は、入唐した人である、其の入唐留學の期間は、七年であつたか、或は、其れ以上であつたか、判然せぬが、東大寺の明一の爲めに、留學久しかつた割合に學殖は淺薄であると叱責せられた所を見ると、在唐の年月は久しかつたものと見える、隨つて、當時、支那に於ける宗教の状態は、詳知して居つたに、相違ない、又近江の梵釋寺の永忠なども、稱徳帝の寶龜年間に入唐し、長安は、西明寺に滯在して、十數年の久しきに亘り、延暦の初に歸朝したのである、大師は必ずしも、此等の人々と面會せられて、唐の事情を聽かれたとは云はないが、苟も、萬里の波濤を凌ぎ、身命を賭して、入唐せられやうとする大師にして、唐の長安の事情は、豫め調査しないで、渡唐せらるゝとは、思はれない、調査せられば、當時唐の天子の信仰せられた宗教は、密教であり、又長安に於ける上流社會の信仰を鍾めた宗教、朝野一般の風尚となつて居つた宗教は、密教であつたことは、入唐以前豫め知悉せられて居たことゝ、私は確信する、然も、これを學習するには、二十年かゝると思はれたのである、自から偉人であつて、而も偉人たることを知らないのは眞の偉人である、故に事に當つて、刻苦する、自から天才であつて、而も、天才たることを知らないのが、眞の天才である、故に學に志して、勉勵する、大師が、日本國に於ける、御自身の使命を自覺せられたのは、入唐以前であつたらうが、眞に御自身が、これに堪ゆる天才なることを意識せられたは、入唐後惠果和尚に遭ふた時である、故に惠果の如き明師に遭ふまでは、遠くは法相の玄や、近くは梵釋寺の永忠などと同じく、二十年の星霜を長安に送らなければ、御自身の目的を達せられないと云ふ考らしかつた、私は、これを以て、大師の御性格が如何に眞摯で、誠實であつたかを想見する次第であり、又今日でも、昔時でも、凡眼は、常に英雄を知らず、己を以て他を推し、洋行したことのあるものは、洋行せないものを一向輕蔑し、又長く洋行して居つたものは、二三年しか洋行したことのなきものを罵りて、少しも十年位は洋行せねばいかぬ、二年や三年では何もならぬなど云ふと同じく、大師入唐以前に、奈良や京都の學匠どもは、定めて、大師に向ひ、二年や三年では、いけない、往くからには、二十年も往くがよいなどと、云はれたことと想像する、大師も不幸にして、日本では、明師に遭はれず、知己にも會せず、成る程と思はれて、留學二十年と定められたことと思ふ。
大師の入唐は、我が朝では、桓武帝の延暦二十三年で、唐朝の方では、徳宗皇帝の貞元二十年であります、これは何人も知つて居る事で、更めて云ふまでもないが、西暦で申すと、紀元八〇四年でありますから、即ち、九世紀の始めで、二十世紀の今日から、遡りて、數ふると、十一世紀以前の出來事で、當時の世界を見渡すと、亞細亞と歐羅巴との二大陸には、文明の國として見るべきものは、五ある、第一は、支那、第二は、印度、第三は、バクタツトを中心として、絶世の明君「ハルン、アル、ラシツト」の下に咲き出でた回教徒の文明、第四は、囘教徒の建設した、「クラナダ」の都を中心として、西方地中海沿岸の地に光被する西班牙の文明、第五は、「シヤールマンヌ」の武力の下に漸く頭を上げかけた西羅馬の文明、第六は、今の君主但丁堡、昔の「ビサチユーム」を中心として、對岸の小亞細亞一帶の地に光被する東羅馬の文明であるが、中にも、支那の文明は、今日地理學に云ふ支那一國の文明でなく、實は、葱嶺の東、扶桑の西に亘りた東方亞細亞の民族を代表する一大文明であつて、南は、今の南洋諸嶋に至り、北は漠北に連りた土地に生息する民族が、仰で、文明の儀表としたものである、當時の支那の都の長安は、支那人の長安あるばかりでなく、實は、東方亞細亞の民族の首都である、恰も、今日の巴里が、佛蘭西人の首都であると共に、歐州大陸の首都であると同一な趣がある、東は、日本、北は渤海、南は今の印度支那、爪哇、蘇門多羅、西は印度西藏、中央亞細亞、波斯などの民族が、風を望み、化を慕うて、朝宗した所で、萬國の衣冠は、長安に湊つた次第で、長安に起つた風尚は、全支那を支配したのみならず、東方亞細亞一帶の地を支配したのである、又幾多の宗教并に思想が、民族の麕集すると共に、長安に麕集したのである、大師の長安に到着せられて、最初居住せられた所は、西明寺の中であつたことは、大師の文章にも見えてあるが、此の西明寺のあつた坊は、惟ふに、延康坊と云つた所で、其の西南隅にあつた西明寺は、隋の時代に、權威朝野を傾けた楊素の宅の址で、顯慶二年高宗皇帝の時に、皇太子の病が癒えたと云ふので、報謝の爲めに寺を建つることになり、落成の時は、顯慶三年であつたことが、續高徳傳第四、玄奘の傳の下に見えて居る、此寺の建築は、印度の祇園精舍の規模によつたとかで、我朝でも、此の規模に擬して、聖武帝の神龜年間に、唐僧道慈律師が、奈良に建てたのは、即ち大安寺である、これは、前に已に述べたことゝ思ふ、西明寺が、延康坊にあつたとすると、それから、北へ光徳坊、延壽坊と往くと、布政坊と云ふ坊があつた、其處の西南隅に胡祠と云ふ廟がある、又布政坊に隣りて、西に醴泉坊と云ふがある、其處の西門の南には、祠と云ふがあつた、次で醴泉坊の北は、金城坊と云ふのであるが、其の金城坊の西には、義寧坊と云ふがある、其の中に、波斯胡寺と云ふがあつて、大宗皇帝の貞觀十二年、西暦六百三十八年に、大宗が、大秦國胡僧阿羅本の爲に立てたと云ふことになつて居る、即ち大師の入唐以前、百六十有餘年の時から、茲に存在したのである、又義寧坊の北が普寧坊と云ふので、其の西北隅に祠と云ふがある、又大師が後に居られた青龍寺と云ふは、長安の都の東部で、新昌坊と云ふ處にあつた寺と思はるゝが、新昌坊の直ぐ北は、靖恭坊と云ふのであつて、茲にも、祠と云ふがあつた、抑も、胡祠と云ひ、波斯胡寺と云ひ、又祠と云ふは、如何なる宗教の寺かと云ふと、祠とは、教の祠廟と云ふのであつて、教は即ち、「マズデイズム」(Mazdeism)を云ふのである、波斯胡寺とは、少しく漠然として居るが、大秦國胡僧阿羅本の爲めに建立したと云ふより見れば、基督教の一派景教の寺である、景教は、西人の所謂、「ネストリアニズム」(Nestorianism)である、西暦第四世紀の後半に、支那で云ふ大秦即ち今の
しかし、茲に諸君に注意を願ひますことがある、外でもないが、般若三藏が、景淨と共に、胡語から、理趣經を譯したと云ふことは、何人も知悉する所であるが、其の所謂胡語とは、如何なる國語であるかゞ、一問題である、當時般若三藏は、梵語は出來るも、支那語は充分でなく、已むを得ず、景淨の手を煩はして、理趣經の胡譯から、支那語に譯して貰ふたのであるが、其の所謂胡語とは决して、胡越一家など云ふときの南越に對する北胡ではない、胡馬嘶北風など云ふときの北胡ではない、即ち匈奴でもなければ、突厥でもない、當時支那の文明と比較して、遜色ない文明を有して居つた、波斯語系の國民の語であつて、今日から云ふと、「サマルカンド」一帶の地方の語である、即ち、「ゾグデイアナ」と云ふ地方の語で、其の國語は、「ソグド」(Sogd)と云ふたのである、由來此の地方は、印度、支那、並に波斯以西の諸國との交通の廣衢に中りて、佛教なども、夙に此の地方に流布したと見え、漢魏の時代には、此の地方から、支那へ來た高祖が少くない、康僧鎧だの、康孟詳だの、康巨だの、康僧會だのと、康の字を冠した連中は、此の地方の出身で、大法を支那に傳へん爲め、流沙葱嶺の險を凌ぎて、支那に來たのである、此等の高僧の譯した、經を見ると、中には必ずしも、梵語から譯したものとのみ見るべからざるものがある、よく/\、[#「、」は底本では「。」]調べたら、或は、其の國語から重譯したものと思わるゝものもあるであらう、景淨は、其の本名「アダム」と云つたことが明白であつて見ると、波斯又は其の傍近の國の出身たることは、明白であるが、其の所謂胡語と云つたは、「ソグド」の語であつたとすれば、當時大乘理趣六波羅蜜多經は、梵語から、「ソグド」に譯せられたか、又はこれに類する傍近の國語に譯せられたことが明白で、基督教の一派である景教の僧ではあつたが、景淨は、已にこれを知つて居つたのである、して見れば、當時密教流布の地域は、獨り印度のみでなく、西藏のみでなく、支那のみでなく、波斯語系の民族の間にも普及して居たことは、推察出來る次第である、若し般若三藏が、後に梵語から更らに譯し改めなかつたなら、景淨が、自國の語から重譯した理趣六波羅蜜多經が、今日諸君の所依の經典となつたかも知れない。
以上説いた所で、大師在唐の當時には、長安には、教と景教とが流布して居つたことが、明白であるが、これは、所謂教を、我が國の東洋學者の嚴密な解釋に從つて、「マズデイズム」とのみ解釋した結果であるが、我々局外者の目から見れば、長安志や、佛祖統記などに所謂教とは、果して、「マズデイズム」と云ふ宗教のみを指したに止まるが、否やは疑しい、現に、佛祖統記には、貞正觀[#「貞正觀」はママ]五年の記事に、初波斯國、蘇魯支立末尼火教とあり、註に火煙反胡神即外道梵志也、とし、又勅於京師、建大秦寺云々とあるが、蘇魯支と云ふは、英語などに云ふ「ゾロアスター」を云ふにあるも、英語の「ゾロアスター」は、希臘語の「サズラウテース」(Zathrautes)又は「ゾロストロス」(Zoroastros)から來たのであつて希臘語の方は、「ゼント」語の(
此の教は、其の根本の主義から云ふと、二元論であつて、かゝる思想は、悠古の時代から、「イラン」民族の中に存在したが、これを組織して、一の體系ある宗教とした人は、即ち「ゾロアスター」であつたことゝ信ずる、昔は、波斯で中々勢力あつた宗教で、西暦第七世紀の半に至るまでは、殆んど波斯の國教であつた、今でも、印度の西海岸に、孟買だとか、「ゾロダ」とか云ふ地方にある「パーシイ」は、拜火教徒と云ふが即ち、教の徒である、波斯自身にも、異教徒即ち「クエープル」の名の下に、此の信徒が殘つて居る。
此の「マスデイズム」を、基礎として、これに基督教と、佛教と、其の他の東洋思想とを合せ、融會し、合糅して西暦第三世紀の後半に波斯に於て、建設した新宗教は、即ち、末尼教である、西洋人の所謂「マニデイズム」(Manicheism)は、是れである、其の教祖は「マネース」又は、「マニ」と云つて、西暦二百四十年波斯に生れ、二百七十四年に死した、生存の歳月から云ふと、基督教と同じく、三十有餘歳に出でないが、教義の流布したことは、非常で、地中海の沿岸を席捲し、一時は、基督教の勢力を凌駕せん許りで、有名な「オーガスチン」なども、若い時代は、此の教徒であつたのでも判る、其の教旨は、前に申した通り、波斯在來の教を基礎としたものであるから、二元論で、善惡眞僞の二元は、假りに、明暗の二元で代表せしめ、善の方は、精神又は光明の神、惡の方は、暗黒の神、即ち惡魔で、また物質そのものである、かゝる次第であるから、一般支那人の目から見たときは、末尼教も、教も殆んど同一の樣に見えたに相違なく、少くも、大同小異のものであるから、或は摩尼火教と一括し、大秦胡寺などゝ一括した名稱で、此等の二種の宗教を呼んだものと見える。
して見れば、長安志の所謂祠と云ふは、必ずしも、「ゾロアスター」の建てた「マズデイズム」の殿堂とは、限られない、末尼教の殿堂とも、解し得べきであると私は信ずる、現に末尼教は、大師の入唐以前百十年武周の延載元年に、長安に入つたことは、佛祖統記に出て居る、其の原文は、波斯國人拂多誕(西海大秦國人)持二宗經僞教來朝とある、二宗經僞教とは、即ち摩尼教を指したものである、二宗とは、二元と云ふと同じく、明暗の二元を指したもので、其の二、所謂二所とは、「パーラ」語か、「ソグデイヤナ」語の D-bn の翻譯に外ならない、明暗生死の二元過去現在未來の三際は、末尼教徒が、受戒するときに、必ず會得すべき教理であるから、かく二宗經僞教と云ふたものと信ずる、又拂多誕とあるは、一寸見ると、波斯の人名であるやうに見ゆるが、是れも恐らく Fur-sta-dn 即ち、法教師と云ふ「パーラ」語の音譯であるとの事であるが、私もこれには賛成する。
要するに、大師入唐の時代には、長安には、波斯の宗教が一つ又は二つ、基督教の一派の「ネストリヤニズム」も入つたことは事實である、即ち教も、景教も、事によると、摩尼教も、長安にあつた次第である、摩尼教は、長安にあつたことが疑はしきとするも、支那には、當時流布して居つた事は、動かすことが出來ない、佛祖統記によると、開元二十年即ち金剛智三藏が示寂の年に、玄宗皇帝の詔勅が出て居る。
末尼本是邪見、妄託佛教、既是西胡師法、其徒自行、不須科罰、とある、又大師入唐に先つ僅に三年即ち八百〇一年に完成した杜祐の通典には、此の事を開元二十年七月勅として、末摩尼法本是邪見、妄稱佛教、誑惑黎元、宜嚴加禁斷、以其西胡等既是郷法、當身自行、不須科罪者とある、末摩尼とは
大師は、在唐の時日は、僅に滿二年で、隨分多忙であつたと想像せらるゝが、長安の市中を逍遙せられたとき、又般若三藏の許に通はれたとき、此等胡の祠廟の前を通られたと想像するが、大師の目には、何と映じたであらうか、又時には、峩冠盛服の胡僧を見られたり、祠より悠揚として空に騰る、香烟を見られたとき、如何に思はれたであらうか、千百歳の下、竊に大師の當時に於ける感想を忖度するに、身は東海の一遊子であるが今は、東方亞細亞の大都會に居るのである、自分の前に展開する事物は、是れ東方亞細亞の文明の精華であると考へられたに相違ないと思ふ。
唐代の支那が、印度又は印度系の文明に影響せられたことは、茲に喋々するまでもない、波斯又は波斯系の文明が、如何に唐代の文明に影響したかは、今猶ほ研究中であつて、成案には達せないが、研究の歩武を進むると、ますます、其の影響の淺からぬことが、明瞭になる、唐代の繪畫は、一派學者の云ふ通り、果して、波斯の影響を受けたか否やは、吾が局外者の賛否孰れとも、未だ决することが出來ぬが、工藝の上には、明かに波斯の意匠などは、認むることが出來る、奈良に保有せられて居る、蜀江の綴錦などは、其の意匠は波斯意匠たることは、一見明白である、又、波斯の星占學、天文學が唐代に於て、支那に入り、支那の暦法に影響したことは、史乘の載する所、决して、誣ふるべからざるものがある、冊府元龜によると、玄宗皇帝の開元七年六月大食國、吐火羅國、南天竺國、南天竺國、遣使朝貢、其吐火羅國、支汗那母王帝上表、獻解天文人慕闍、其人智慧幽深、問無不知、伏乞恩喚取慕闍、親問臣等事意及諸教法、知其人有如此之藝能、望請令其供奉并置一法堂とある、吐火羅は、大月氏の故地で、今の「トカレスタン」であり、支汗那は Jaghniyn で、王の名は、帝と云ふが、是れは、T-sa と云ふ王の名を寫したもので、大慕闍と云ふは、其の語の本源は、未だ判然しないが、「ソグト」の語で Mwck と云うて、これから轉した、突厥の語では Meak, mozak であるから、其の意味は、單に法師とか、教師とか、云ふに過ぎぬ、當時、かゝる天文學者を、唐に獻じたは、甚だ宜を得たもので夫れより以前には、唐では從來の暦法の不完全なることを發見して、暦法に關する論爭は、中々喧しかつた、高宗皇帝の麟徳年間に、李淳風が上つた暦が、採用せらるゝことになつて、麟徳二年即ち西暦六百六十五年から實行した、麟徳暦は、即ち是れである、しかし當時、印度の暦法家が、三族も、支那の朝廷に仕へて居つて、此等は中々承知しない、其の三族とは、
然る處、九執暦も、不完全であつたと見えて、中々採用せられない、九執暦が出來た翌年即ち、開元七年西暦七百十九年に、吐火羅の
日曜、太陽、胡名蜜(
月曜、太陰、胡名莫(
火曜、惑、胡名雲漢(
水曜、辰星、胡名咥(
木曜、歳星、胡名鶻勿斯(
金曜、大白、胡名那歇(
土曜、鎭星、胡名枳院(院)(
此の中、波斯の名稱は、皆森勿と云ふ音で終つてあるが、森勿とは
唐代の支那人は、氣宇濶達で、自國のみは、宇内の中心で、自余の國は藩屏であり、自國の皇帝は、百王の主として、天に代り、宇内を統治して居るものと思うて居つたらしい、だから、自國の文化を慕うて來た外人は、善く待遇したものであつて、我が國では、安部仲麿などは大にもてた一人である、官仕して秘書監となつた許りでなく、李白だの其の他の連中と徴逐して、交をした、其の他の留學した連中も、公私共に世話になつたことは、掩ふべからざる事實である、唐代の支那ではないが、少し以前、隋の煬帝の時代に、日本から遣唐大使をやつて、日出の天子が、日沒の天子に問ふが、日沒の天子は恙ないかと云ふ主意の國書を送つたところ、煬帝は、東夷何ぞ、無禮なると怒つた話がある、日本の方から云へば、怒つたは奇怪千萬と云はなければならぬが、支那の方から云へば、煬帝の怒つたにも、聊か理由があることゝ思ふ、又或る遣唐大使のとき、支那の方では不都合にも、日本を西畔第二に置いて、しかも、新羅を東畔第一にしたから、大使は立腹して、大論判を持ち込んで、到頭東畔第一の位についた、成る程日本は政治上獨立國で、新羅のやうに、唐に對して、屬國でない、だから、新羅などの下に置くなどは不都合千萬の話であるから、日本の遣唐大使が殿上で、怒鳴つたは、大に尤だ、しかし、支那の方では、日本も新羅も、文化の上から云へば、同じく、弟子分の國であつて、政治上の關係は、別としても、其の他のことは、大した差違はない、無論不都合は不都合だが、日本を新羅の下につけたは、所謂不行屆で、さまで惡意があつた次第ではなく、支那人の人から見れば、日本も新羅も、共に支那の弟子分であつて、こう云ふ書物がないか、こういふことをする人物はないか、こう云ふ武器はないか、こう云ふものを作るには、どうしたらよいか、何卒教へて貰ひたいなど云ふことになると、新羅の方は、日本よりも、早く、支那の文化を受けて居つたから或は、支那人の目から見ると、日本よりも兄弟子位に見たかも知れない、當時日本の方の主張によると、新羅は、昔から、我が國に朝貢したものであるから、我々は新羅の大使の下に坐する譯はないと云ふにあつたが政治上の關係より見れば、尤の議論で、無學と貧乏とは昔から、日本のつきものだが、腕力の方なら、昔から、先づ日本が、他國に、大した遜色がなかつたから、日本の大使の申分も、支那人が容れて、到頭東畔第一に列することになつたのであるが、第一であつたとした所で新羅に勝つた丈で、支那とは對等の交際と云ふ譯にはいかない、一體國と國との關係は、個人と個人との關係と同じく、腕力の強いものが、必ずししも尊敬せらるゝ譯でなく、富力、智力、殊に道徳などは、國際の關係を定むるに、中々有力な資料であつて、大正の日本も、腕力にかけては、先づ一等國仲間入りが出來たやうであるが、智力と富力とにかけては、一等國の伴侶とはゆかぬ、道徳の方も、昔は、支那でも、日本を君子國と云つた位だから、昔は、よかつたが、今日の道徳では、あまり、君子國でもないやうだ、しかし、これは、餘計な事で、今日の日本はいづれでも、本論には關係がないが、唐代の支那が、傍近の諸國民を弟子扱にし、傍近の諸國民も、支那を仰で、上國とし、其の光を觀て、其の風を釆るもことを以て、よいことにして居つた、支那の方でも、此等の外國の人民を待つことが、中々親切であつたから、日本の樣な、支那から離れて、政治上獨立國の人民はともかく、日本以外の國で支那に近く、又支那に對し附庸、從屬の關係のあつた國々の人々は、支那に赴きて、支那の朝廷に仕へ、支那の官位を帶ぶることは、さまで恥とせぬのみか、却て榮としたことが、恰も羅馬の盛時、
又大師入唐の當時、外國人が如何に支那の朝廷に仕へて、其の官職を受くることを榮としたかは、般若三藏の傳を見ても、判明する、云ふまでもなく、三藏は、迦畢試國の出身である、宋高僧傳第二によると、貞元二年始屆京輦、見郷親神策軍正將羅好心、即慧(般若三藏)舅子之子也、悲喜相慰、將至家中、延留供養とあり、即ち迦畢試生れの般若三藏は、幼少の頃より出家して諸方に流寓し、中印度の那爛陀寺で、大成し、南海を飄浪して、貞元二年に始めて長安に來たが、ふと、神策軍の正將、即ち、今日の語で云へば、禁衞軍の大將であつた、羅好心と云ふのが、自分の母の里方の子、即ち、自分の從兄であることを發見したのである、迦畢試と云ふ國は
かくの如く、東方亞細亞の大帝王、百王の王として、萬國の仰ぎ見た唐代の天子は、抑も、何を信じて居られたか、又天子の身邊を圍繞する大臣宰相の信仰した、宗教は何かと云ふ問題になると、それは、歴代の天子により、又卿相の意樂により、又宗教界から出た偉人の性格により、時の變易があつて、一概に論ずることが、困難であるが、先づ動きのないところは、當時道教が、唐の天子の歸依によりて、中々盛んなものであつたと云ふことである、元來、老子も、李姓なれば、唐の天子も、李姓である、それにつけて、天子は老子の子孫のあると附會したものだから、老子の崇拜が、盛になり、至る所、道觀が起り、道士が勢力を得た、かの老子化胡經などと云ふ書物が、最初は、晋代の王浮が作つたものであるが、唐代に至りて、一層舖張したのである、これは、老子が、西の方關を出でんとしたとき、尹子の乞に應じて、五千言を遺したと云ふ傳説に附會して、其の儘死なすのは、惜しいから、尹子と老子とが印度に入りて釋迦となり、舍利弗目連等を化度したり、波斯に入りて、末摩尼となつたり、して、摩尼教を建てたなど云ふ、ことを書いたもので、王浮の作つたときは、一章であつたが、唐代に至りて、種々の宗教が入つた爲め、老子尹子を、此等の宗教の祖師とする必要から、種々添補して、幾多の章になつたが、此の書物は、日本にも、唐代から傳はつたと見え、藤原佐世の日本見在書目の中にも、出て居る、私共の友人で、桑原博士が、先般「藝文」の中に此の書のことを詳細に論じて居るから、篤志のかたは、是非一讀を願ひたい、かゝる書物が、唐代で流行したのは、全く、道教が盛になつたからで、有名な玄奘三藏が印度から歸つたとき、太宗の勅命で、印度から唐の朝廷へ來る國書の翻譯やら、又唐から印度へやる國書の起草など一に玄奘三藏の手を煩はしたものであるが、東印度の童子王、即ち迦摩縷波國の「クマーラ」王の請により太宗の思召で、老子の道徳經五千言を梵文に譯して、西域の諸國に贈れとの事で、玄奘は、道士等と共に其の翻譯に從事した位である、不幸にして、道士等が、老子の所謂「道」を菩提と譯せんと主張し、玄奘が末伽(Mrga)と譯しやうとし、とかくに玄奘と議論が合はない、ともかくも翻譯して、將に封勒せんとしたが、又議論が出來て、結局西域の方へ送つたのか、送らなかつたか、西明寺の道宣が作つた集古今佛道論衡實録の乙卷や續高僧傳の第四卷に見えたゞけでは、不明であるが、太宗の意では、老子の教を、西域の諸國へ弘布せしめんとしたことが、明白である、如何に老子の教が、唐代の初期に重要なものと思はれたかゞこれでも、判然する、しかし、道教と密教とは呪咀禁厭等の事を語ることは、相似て居る、老子の作つたと云ふ道徳經ばかりでは、左程にも思へないが、唐代の道教に至つては、或は延年の法を談じたり、龍に乘り、雲に駕することなどを言ふことが多い、密教を護持するものは、僧侶で、道教を護持するものは、道士であるから、護持者には、相違があり、又教旨根本の原理は、雲泥の差があるが、世人の目から見れば、其の外形は、甚だ肖似して居る、故に唐代の初期に道教の隆盛を封したと云ふことは、軈て密教興隆の氣運を誘起することゝなり、密教と道教とは、其の間に種々の混一を見るに至つた、今日日本の密教の中には、或は泰山府君の信仰があつたり、司命神だの司禄神だのを祭るは、即ち、道教の神が密教の中に混入して來た一例で、泰山府君の眞言を見ると、Namah[#hは下ドット付き] samanta-buddhnm[#最後のmは上ドット付き] Citra-guptya svh 諸佛に歸命す、「チトラグプタ」に素婆訶」とある(淨嚴の普通眞言藏、下卷參照)「チツトラグプタ」は、印度の冥官で、焔羅王の命を受けて、人間界を案行し善惡の記録をとりて、死者來れば、其の記録によりて、焔羅王を扶けて死者の靈魂を裁判せしむる役目あるものである、今日印度で「カーヤ、ストハ」と云ふ状師書記、主薄などの階級は、遠く其の系統を「チツトラグプタ」に遡及して居る、支那の泰山府君が此の印度の神と同一にされて、密教の中に入つてゐるは、實に奇妙な現象である、又護符の中に、急々如律令などの文句は、道教にも密教にも、同じく使用せられた文句である、太宗皇帝時代の上流社會の風尚は、佛教よりも、寧ろ道教に傾いて居つた樣であるが、何分隋以來の風流餘韻が、唐代の初期に及んで居るから、佛教も、衰へた譯でなく、玄奘だの、玄證だのと云ふ樣な佛教界の英俊が出た時代であるから朝廷の佛教に對する崇敬の念は、増すばかりであつた、高宗皇帝の時代になると、玄照と云ふ高僧などは、勅命を蒙つて、印度に派遣せられ、長年婆羅門盧迦溢多を迎へに行つたことが、義淨三藏の大唐西域求法高僧傳に見えて居る、其の外長年の藥を求めに印度に赴いた、高僧がある、玄照は其の人である此の長年婆羅門とは、抑も、如何なる梵語の譯であるか判然しない、或は、具壽、又は長老の梵語に當る
玄宗召術士羅公遠、與空※[#「てへん+角」、60-9]法、同在便殿、羅時時反手掻背、羅曰借尊師如意、時殿上有華石、空揮如意、撃碎於其前、羅再三取如意不得、帝欲起取、空曰三郎勿起、此影耳、乃擧手示羅、如意復完然在手とある。
佛祖歴代通載の第十七卷には、天寶年間丙戌の記事として前文と大同小異の文が載せてある。
是歳不空三藏自西域還、詔入内結壇、爲帝灌頂、賜號智藏國師、時方士羅思遠者、以術得幸、有旨令與不空驗優劣、他日會干便殿、思遠持如意、向之言論次、不空取如意投諸地、令思遠擧之、思遠饒力不能擧、帝擬自取、不空笑曰、三郎彼如意影耳、即擧手中如意示之、とある。
如意が手中にあつたか、手中になくて、地上にあつた、又如意が輕かつたか、重かつたか、羅公遠と云ふが正しかつたか、羅思遠と云ふが正しかつたかが、吾輩の問ふ所でない、吾輩が、前文を見て、深く心を動かすものは、不空三藏が、大唐の天子、東方亞細亞の大皇帝に對し、三郎と云つて陛下とは云はなかつた一事である、三郎とは、玄宗皇帝の通名である、即ち睿宗皇帝の第三子であるから、親子兄弟親朋の間には、面とむき合つて、三郎と云ふも、差支はなかつたらう、又、玄宗皇帝は、若き時分から濶達の氣質で居らして、盛に壯士と布衣の交をしたものであつたが、皇帝となられても、隨分浮名を流されたことゝ察せらるゝから、民間でも、所謂蔭口では、三郎と云ふたことは、恰も、今日巴里の市民が、我が同盟國である筈の英國の先帝、「エドワード」第七世陛下の御壯年時代を追想して、快濶な「エツード」などと呼ぶがごときものであるが、面と向き合つて、英國の先帝陛下に「エツワード」と呼びかくることの出來た人々は、世界の中、幾人あつたか、玄宗皇帝のことを、單に三郎と蔭口に、民間で云つたことは、いくらも例がある、俗書ではあるが、鶴林玉露と云ふ書の中に、郎當曲と云ふ題下に、魏鶴山の詩を引用して、紅綿繃盛河北賊、紫金盞酌壽王妃、弄成晩歳郎當曲、正是三郎快活時とある、快活三郎とは、民間が、玄宗皇帝を蔭で呼んだときの名である、河北賊とは安禄山のことで、未だ反せぬとき、楊貴妃が紅綿の※[#「女+綵のつくり」、62-7]で、安禄山を包んで、宮中に舁き込ましめたから、かく云ふのである、壽王妃とは、楊貴妃のことで、もと/\、壽王の妃であつたが、早く云へば、玄宗皇帝が、横取して、宮中に納れたから、かく云ふのである、安禄山の變で、蜀に蒙塵せられ、亂平いで、長安に歸らるとき、驛傳の駝馬につけた鈴が、郎當/\と音するから、天子が、妙に感ぜられて侍臣に對し駝馬も人の言語をするやうだと云はれたから、侍臣が、さやうです、三郎郎當/\/\と云ふのでありますと、諧謔したから、天子は、苦笑せられたとあります、しかし、鶴林玉露は俗本であるから、採るに足らぬと云ふなら、さきに引用しました鄭嵎の津陽門の詩中に、三郎紫笛弄煙月、怨如別鶴呼覊雌、玉奴琵琶龍香撥、倚歌促酒聲嬌悲とあるを見ても、明かで、玄宗皇帝は、笛が得意で、いつも、紫玉の笛を吹かれた、玉奴とは、楊貴妃のことで、琵琶が上手、其の構造は、贅澤を極めたもので、琵琶の撥は、龍香柏で作り、其の槽は、邏沙檀とある、邏沙檀とは、恐らく沙邏檀の誤であらうと思ふ、これならば、印度で、非常に珍重する蛇心檀「サルパ、サーラ、チヤンダナ」(Sarpa-sra-candana)であつて、沙邏は惠果も、大唐天子の灌頂の國師であり、三代に歴仕して、徳惟時尊、道則帝師であつたとすると密教は、善無畏三藏や金剛智三藏の來朝以來一行禪師だの、不空三藏だの云ふ樣な連中の努力により、事實上已に、大唐天子の最も心を傾けて歸依せられた宗教となつたのである、密教を組織的に唐に傳へたは、善無畏三藏であるが、かくまで密教の勢力を唐の宮廷に扶植するに至つた始めは、金剛智三藏を推ねばならぬ、玄宗皇帝が、最初の程は道教に歸依して居られたので、三藏の教化が、これを密教に歸依せしめたのである、宋高僧傳の金剛智三藏の傳の下に、干時帝留心玄牝、未重空門とあるを見ても、明白である、玄牝とは、老子の所謂谷神死せず、これを玄牝と云ふに基いたものである、しかし、密教の流行は、當時東方亞細亞一般の氣運であつて、必ずしも支那ばかりでない、印度には、中部の方では那爛陀を中心として、
然らば、いつの時代から、密教が佛教の中に入ることになつたかと云ふと、若し佛教が、其の名目に於ても、實質に於ても、果して、迦毘羅城の一王子の出現以前に於て皆無であり、又其の出現を待つて、始めて出來たものならば、密教が佛教の中に入つたは釋迦佛の出現以後即ち西暦紀元前第六世紀乃至第五世紀の時代より、後であると云はねばならぬが、それは、各自の見方如何によることで、吾輩は、佛教を以て、單に、或る時代、或る方處に於ける印度思想の存在の一形式と見做たものであるから、若し佛教と云ふ名稱だけの起源なら、密教と云ふ名稱とは、文字が異同あるから、名稱の異同を立つるも、不賛成ではないが、實質内容の詮議となると、共に均しく、印度思想と云ふ、大潮流の中にあるので其の潮流が、平風恬波洋々として流るときを、假に小乘佛教と名づくれば、風に煽られ、岩に激して、波浪澎湃としてゐる部分を、大乘佛教と名づけ、瀑布となり廻瀾となつた部分を、假に密教とすると云ふ風に、印度思想の變遷を觀察するが、吾輩の見方で、密教が、佛教に入つたとか、婆羅門教が佛教に入つたとか云ふやうな見方は、私の賛成出來ぬ見方である、若し夫れ、西洋の一派學者の云ふごとく、婆羅門教が佛教に入つて、佛教が墮落したのが密教であるなど云ふは、一顧の價値だになき論で、かゝる論者は、先づ婆羅門教とは如何なる教か、佛教とは、如何なる教かと云ふことの定義を下して見るがよいと思ふ、同時に、南方所傳の佛典には、果して、論者の信ずるごとく、比較的原始佛教の俤を傳へたものであつて、毫も密教的信仰が、其の中に發見出來ぬか否やを、研究したら、かゝる議論は出來ぬ筈であると、私は信じます、今日日本に傳つて居る密教には、瑜伽の哲理と修行は、基礎になつて居る然るに、瑜伽の行と見るべきものは、昔から佛教の中に存在して、其の大乘たると、小乘たるとに論なくこれによりて、神變自在を得んとするのである、かの地想觀水想觀などの、觀行は、即ち、是れで、地想觀ならば、土塊が、小さい堆積を作り、地大即ち、土地と云ふ、元素の形状を、己の心に思ひ浮べ、又一心をこれに集中する爲め、其の名を念誦する、同時に、己の身體は、これと同一體であると觀じる、かくの如くして、久しきに亘ると、觀行圓熟して、目を閉づるも、目を開くも、地大の、形色が、心目に浮び來るが、かく見えるものを、相即ち(
密教の始祖は、印度に於て、龍樹菩薩となつて居るが、これに師事して、密教を、七百有餘年間一人で、護持し、金剛智三藏に傳へたのは、龍智阿闍梨耶と云ふことになつて居る、一體、龍樹菩薩は、密教のみならず、種々の、佛教の教義の始祖となつて居らるゝ、又哲學宗教以外の藝術で、例へば、錬金術とか、醫學とかの始祖又は中興者となつて居らるゝ事は、諸君も、御存知のことゝ思ふが、吾輩は、以上の外に、龍樹菩薩は、
大師が、惠果の學法灌頂壇に上り、大悲胎藏大曼荼羅に臨んで、花を抛ち、偶然、眞中にある毘盧遮那如來の身上に中てられた、これは、不空三藏が、金剛智三藏に就きて、弟子となつたときも、金剛界大曼荼羅に對し此の抛花の法を行つて居りますが、これによりて、師の金剛智が、不空の人物を試驗し得て、他日大に教法を興すべき人であることを知りましたことは、宋高僧傳に見えて居ります、惠果も、大師に對して、同一の試驗を二回せられたのである、然るに二回とも、毘盧遮那佛の本體に花を中てたので、二ヶ月以内に傳法阿闍梨の位に上るべき、灌頂を受けられたのであるが、俊英の士が明師に遇ふた程、世の中に幸福なものはないと思ふ、しかし、これによりて、大師の身には、大唐天子の歸依する密教を、扶桑の東に傳へねばならぬと云ふ責任が、懸つたのである、身は、物外の一沙門であるも、法は、當時東方亞細亞に流布して、大唐天子すら歸依せられて居る法である、從つてこれを日本に傳ふるにしても、匹夫匹婦にのみ傳ふべきでない、閭巷の小人、隴畝の野人にのみ傳へて、甘んずべきではない、かくのごとくんば、惠果和尚の寄託に辜負する次第であり、又遠くは、金剛智三藏や、不空三藏の法統たるに耻づる次第である、苟も責任を解し、師恩の渥きに感謝することの出來る人は、必ず、傳燈阿闍梨の位に上られた大師の双肩には當時、萬鈞の重石が懸かつた感をせぬものはあるまいと私は思ふ、私かに大師當時の御心事を想見するに、是非とも、此の法を日本に傳へて、上は、日本の、天皇陛下から、下は、萬民に及ぶまで、此の法の歸依者となして、日本の國家の鎭護としたいものであると思はれたに相違ない、又惠果自身が、大師に對し、期待した所は、實に此の點にあるのである、現に臨終の遺言にも、義明供奉、此處而傳、汝其行矣、傳之東國と云はれて居る、たゞに惠果の期待したのみならず、傳法阿闍梨の位に上つたとき、その齋莚に列した青龍寺や、大興善寺などの、五百の大徳は、皆これを期待したのである。
しかし、飜つて、日本を見れば、奈良の諸大寺には、倶舍や法相の碩學が居る、三論や華嚴の龍象が居る、最澄も居る、此の中には朝廷に立つて居る人々と、綢繆縁して居るものもある由來、草莽の微衷が、天門の上に達することの難きは、昔も今も同じことで大師が歸朝後、直ちに、請來の經卷を上つて、密教のことを申し上げたが、平城天皇は、あまり、留意せられたらしくない、歸朝後第五年目に至つて、平城帝が退隱せられ、御代が代はつたから、弘仁元年十月二十七日の日附を以て、國家の爲に修法せんことを請はれた上書が、性靈集に見えてあるが、其の中には、大唐天子の例を援引して、宮中則捨長生殿、爲内道塲、復毎七日、令解念誦僧等持念修行、城中城外亦建鎭國念誦道塲、佛國風範亦復如是と云はれて、日本も又唐朝の例に倣ふべきことを主張して居られる、是れ實に大師の衷情から出た主張である、又恐らく、入唐の上密教を傳へられた素懷であると信ずる、それから、七年を經て、弘仁七年十月十四日の日附で以て、嵯峨天皇の、御乖豫を祈誓せられて、神水一瓶に藥石を添へて進献した表啓がある、かくのごとく、寸進尺進、徐々として、密教の根柢を宮廷の中に扶植せられて居るが、又承和元年即ち大師の入寂以前に先つ僅に一年に至りて、宮中の一室を莊嚴して、眞言を持誦することを恒例となすと云ふ敕允が、出た、それまでは、大師の苦心は、御一生を通じて、眞に想見に餘あるものと云つてよい、大師の遺弟たるものは、今日を以て、昔日を推して、大師の御一生は、芝居で見るやうに、始から、六方を踏んで、花見から出てくるやうに見るは、是れ、眞に大師の性格を領解したものと云へぬ、大師の歸朝後の生涯は、法の爲め、國の爲め、身命を惜まなかつた歴史で、况んや、朝に立つて、從來の入唐求法の高僧の如く、寵榮を趁うて、奔走するなどの事は、なかつたのである、奈良の連中が、最澄と喧譁をしたり、動もすれば、情誼上、大師も孰れへか卷き込まれさうであつたが、大師が、中立の状態に居られたは、畢竟、世榮に冷淡な故であつて、奈良の連中と、屡々來往したやうに見受くるは、舊友も多かつた上に、眞言の學問は、三論法相の學問を基礎として居るからと私は認める、現に御遺告二十五箇條の第十二に此の事が出てある。
又善く世人に問はるゝ事であるが、大師は、梵語を知つて居られたか否やと云ふ問題であるが、梵字梵語を講習せずして、眞言密教は、完全に領解出來るものでなく、又不空三藏の上足の弟子たる惠果が、梵字梵語を知らなかつた大師を傳燈阿闍梨の位に上すとは思へぬが、世人の中には、往々、かゝる疑問をなすものあるから、私は、茲に説明したいと思ふ、大師は、立派に梵語はやられたので、御請來目録の序中に、梵字梵讃間以學之、と記せられて居る間とは、大師謙讓せられた言で、當時梵學の研究が、中々盛大であり、斯學の才俊が多く居つた唐の長安に入りて、大師たるものは、如何にして、此の必要學科を等閑視することがあり得べきか、畢竟、講習日淺く、長安の才俊に比すれば、大師自身が、劣ると思はれたから、間の字を入れられたまでゝ、講習日淺かつたにしろ、今日の學生の樣に、五年六年とかゝつて、だらしなくやつたのでないから、大師の梵學上の著述あり、意見なりを見ると、一點の誤謬はない、例を擧ぐれば、いくらもあるが、先づ十住心論の卷第七から引用します、文殊自證眞言であるが、
「スマラ」「スマラ」を、憶念憶念と大師が解釋せられたは、「憶念せよ」「憶念せよ」の命令法に用ひたことを云つたのである、「プラィヂュナーム」は先所立所願と解釋せられたのは、又正しい、此の語は「誓約を」と云ふ義である、だから、全體の意味は「ヘー」「ヘー」已に解脱の途に安住する童子よ、さきに誓つた約束を忘れずに憶念せよと云ふにあるので、大師は、醯々童子住解脱道者、憶念本所立願とあるは、一點の非難の打ちやうのない解釋である、しかし、吾輩がかく云ふは、普通の梵語學の見地から云ふので、大師は、已にこれを指摘して、此眞言の淺略であると云うて居る、又、一應何人にも明白な義であるから、顯義だと云はれて居る、かゝることは、大師は、已に十分に承知せられて、其の上に更らに、吾々には了解の出來ぬが、確に古代印度の密教の行者から傳へたと見るべき密教的解釋を加へて居る、倶摩羅迦(Kumraka)の語を分析して倶(Ku)は摧破之義、摩羅[#「摩羅」は底本では「魔羅」](mra)は是四魔五眷屬、此眞言以魔字爲體、即是大空之義、證此大空摧壞一切魔也とせられたは、是れは、密教的解釋で、即ち、眞言宗に獨得な説明法である、世人は單にこの解釋と違つて居るのを見てかれこれ云ふのであるが、大師は普通の解釋は、充分承知して、更らに、密教の上から見た解釋を加へて居ることを忘れてはならぬ、又十住心論の卷の四に、大日經の聲聞の眞言を引用してあるが、
Hetu-pratyaya-vigata Karma-nirjta hm[#最後のmは上ドット付き] とある、是れは、常情から解すれば「因縁より離れ、業より免れたるものよ」と解釋すべきものと思ふが、大師は、これに密教的解釋を下して
初醯字(He)有訶聲(h)是行是喜、即聲聞行、有伊聲(e)即聲聞三昧也、次覩字 tu' 有多聲(t)即聲聞所入如々也、有聲(u)三昧也、次有鉢字(pa)聲聞所見第一義諦、帶羅字(ra)即小乘所離六塵、帝也(tya)乘如之義也、是聲聞所乘之乘、(vi)有縛聲(v)是縛也(Bandhana)縛則煩惱也、有伊聲(i)則無縛三昧、掲多離也行也、已下怖障義云々とある、此等の解釋を普通梵語から解釋すれば、甚だ解し難きが、密教の特色は、茲にあることゝ思ふ、今日保存されて居る諸種の陀羅尼なども、普通の解釋で、一見意義を知ることが出來るもあれば、又どうしても、出來ぬものがある、しかし無意味の聲字を臚列して、これに重大な効能を附したとは、思はれぬ、何か意味が含まれて居たに相違なく、或は、梵語でなくて、南方印度の語であつたか、或は何か秘密結社の中に通用した語であつたか、然らずば今日は絶滅してあるも、以前は、生存して密教を傳へた種族の語であるか、何か根據があり、意味があつたに相違なく、局外ものには、了解せられぬが、傳燈阿闍梨の位にあるものには了解せられたことゝ思ふ、密教的解釋が、到底、局外者の常情で判斷出來ぬと云ふことは、吾輩一家の私言でない、義淨三藏の求法高僧傳の中に、道琳法師の項の下に、呪藏(Vidy-dhara-pitaka[#tは下ドット付き])のことを論じ、もとは、梵本に十萬頌あつたが、龍樹菩薩の弟子に難陀と云ふがあつて、撮集して一萬二千頌として、一家の言をなした、毎於一頌之内、離合呪印之文、雖復言同字同實、乃義別用別、自非口相傳授、而實解悟無因、とある、流石の義淨三藏も、密教には局外者であつた丈に、大に了解に困んだものと見える、しかし、陳那菩薩には、難陀の製作が非常に巧であつたことが、判明したと見えて、撫經歎曰、嚮使此賢致意因明者、我復何顏有乎、是智士識己之度量、愚者闇他之淺深と云つて、後の呪藏を了解出來ぬものを戒めて居る、普通の梵語の解釋法を以て、大師の陀羅尼解釋法を云爲するものは、所謂、愚者闇他之淺深もので、獨り、大師の罪人たるのみならず、又義淨の所謂愚人である、たゞ吾輩は、これに對して、緘默として、他日陳那のごとき智者が、出現するを待つまでゝある、大師が梵語を講習するとき、「アーインドラ」學派(indra school)の語典を用ひたと見えて、大日經疏要文記中に、薄伽を釋した節に、帝釋聲論曰謂女人爲薄伽(Bhaga 是れ女人の根の義なり)云々としてあるを見ても、明白であるしかし此等は惠果の口授を筆記したものとすれば、惠果自身は、帝釋聲論を用ひたものと云ふになる。これを要するに、大師の時代は、東方亞細亞に密教の流布して居つた時代で、已に大唐天子の宮廷の宗教となつて居り、適當な傳法の法器を得れば、將さに、日本にも、渡來せんとする時であつた、大師の識見が、善く此の時代の趨勢を察せられて、大唐の長安に入り、大唐の天子の國師であり、帝師であつた不空三藏の密教を、其の付法の弟子惠果より傳へたのであるから、大師の密教は、日本の宮廷にも入るべきであつた、次第で、大師の一生は、よくこれを遂行して、遠くは、金剛智三藏不空三藏の法統たるに恥ちず、近くは、惠果阿闍梨の寄託に負かなかつた、吾輩は一は、大師の爲めに、惠果のごとき明師を得たことを賀し、一は惠果の爲めに、大師のごとき法器によりて、密教を日出天子の朝廷に扶植し得て、千百歳の下、なほ法燈の光を、扶桑の東に輝すことを得たのを賀する次第である。
しかし、吾輩は、大師の性格につきて、今一つ常に感服して、能ふべくんば、私淑したいと思ふことは、大師が、常に山林烟霞の癖のあつたことで、身は、大唐の上都に入りて、天下の大を見、文章才學一世を曠うした身でありながら歸朝の後は、強ひて卿相に攀縁して、天子の寵榮を徼へよともせず、法の爲め國の爲め、營々として盡されて、遂に身は、深山の白雲の中に隱れてしまつた、是れ吾輩の羨望して已む能はざる所である、仄かに聞く所では、今般、二個の古義眞言宗大學が合併せられて、高野山[#「高野山」は底本では「野山」]の方は京都に移ると云ふことであるが、是は、洵に世の進運に順應したことで、眞言宗全體の上から見て、喜ばしい事である、高野山[#「高野山」は底本では「野山」]は大師の入寂せられた所、平安は、大師の修學せられ、又活動せられた所、長安は、大師が天下の大を見られた所で、大師の遺弟たる青年諸君は、すべからく、大師のなせるに傚つて、大學に入りて修學せられ、古の長安に匹敵する倫敦巴里に赴きて、天下の大を見、歸朝して、密教の擁護に力を効されて、功成り、事遂げたのち、野山白雲の深き所に坐して、靜かに法界秘密心の殿中に自適せねばならぬ、終に臨み下手な長談義に諸君の清聽を汚しゝことは、私の幾重にも、諸君の宥恕を請ふ所であります。(完)