金剛智三藏と將軍米准那

榊亮三郎




 私は大正二年六月十五日、本校に於て開催せられた宗祖大師の降誕記念會の講演に、「大師の時代」と題した一場の講演を致しました。其の時より今日に至るまで、支那流で申しますれば、裘葛約三十年になりますが、其の間に於ける我が國の東洋學の進歩は驚歎すべき程のものであり、佛教に關する研究も、幾多英俊の士が輩出して長足の進歩を致しましたが、西洋の所謂東洋學者の研究も中々に進んで居りまして、殊に從來研究の資料が缺乏して居つたため、とかくに忽諸に附せられて居た支那日本の密教研究も、眞言宗では、碩學長谷寶秀大僧正等の御盡力により、幾多の貴重なる研究資料が本校から出版せられ、また新義眞言宗では、權田雷斧大僧正、富田※(「學+攴」、第4水準2-13-72)純大僧正等の秘密辭林の出版以後、智山、豐山の龍象の方々が幾多の貴重なる研究を發表せられ、其の内容は内外の密教學者を刺戟したものと見えまして、或は梵語の材料から或は西藏方面蒙古滿洲の方面から集めました材料などを基礎と致しました研究が、續々發表せられて居ります。就中、昨年物故致された大谷派出身の西藏學者で、京都帝大文學部講師大谷大學の教授であつた寺本婉雅師が、金剛智三藏の入唐に先だつ數年前吐蕃即ち西藏から入唐せられ我が國へも元正天皇の御宇の養老年間に來朝せられたことがあるとまで傳へらるゝ密教の高僧善無畏の御名前は、梵名は戍婆羯羅僧伽シユブハカーラシンハであるから淨獅子と譯するは納得出來るが、「善無畏」と云ふは畢竟戍婆羯羅シユブハカーラの西藏譯 Bzan[#nは上ドット付き]-byed の音譯に外ならぬことを世に發表せられたのは、敬服の外はない。また佛國の官吏で、永らく支那または佛領印度に於て司法官として勤務し、檢事總長まで勤めたギユスターブ・ツサンと云ふ方は、煩雜極まる司法事務鞅掌の餘暇を以て、金剛智三藏の南印度から入唐せるに對し、北印度のウデイヤーナ(Udy※(マクロン付きA小文字)na)國から西藏に入つて、印度密教を西藏に扶植した蓮花生菩薩パドマサムブハバ(Padma-sambhava[#2つめのmは上ドット付き])の傳記 Padahi[#hは下ドット付き] Tan-yik を、十數年の星霜を費して西藏原典から流麗な佛蘭西語の詩に譯し出版せられ、世界の學者を驚歎せしめた。私も著者より一本の寄贈を受け、再三通讀致しましたが、從來、米人で支那の駐剳公使であつたロツクヒルや、英人で英領印度駐屯軍附きの軍醫ワツデル(Waddel)などの著述で、蓮花生菩薩パドマサムブハバと西藏本來の宗教「ボンパ」教の道士等との爭を概略しか知るより外はなかつた私どもには、ツサン氏の名著で洵に精しく知ることが出來て、西藏に於ける密教の發展の徑路を髣髴と眼前に浮び出すやうに感ぜられて、室町時代の末期に出來たと思はるゝ宗祖大師の繪傳抄などと比較して、甚だ興味を覺える次第であります。其の外、内外學者の御著述など、拜讀致す毎に種々の點に於て教へらるゝこと多きは常に感謝の外はありませぬ。
 唐の開元年代に出來た開元録には金剛智三藏の御出生の地は、南印度摩頼耶マラヤ國(Malaya)で、三藏は婆羅門種の家に生れたとなつてあります。然るに稍※(二の字点、1-2-22)遲れて出來ました貞元録には金剛智三藏は中天竺刹利王伊舍耶靺摩イーシヤーナ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン※(マクロン付きI小文字)※(セディラ付きC小文字)※(マクロン付きA小文字)na-varman)の第三子と云ふことになつて居ります。これによりますれば、金剛智三藏の種姓は刹帝利の筈であります。また海雲記によりますれば、南天竺の國王の第三子であつたとの事ですが、たゞ國王の子とのみありまして國王の名を擧げて居ません。海雲記は長谷大僧正の御示教によりますると、海雲は、眞如親王の師惠果阿闍梨の弟子法全ハツセンの弟子でありましたから、宗祖大師が唐より御將來の金剛智三藏に關する記録に比すれば後から出來たもので、貞元録も開元録に比すれば後に出たものでありますから、私は金剛智三藏は、南天竺の摩頼耶國に生れ、婆羅門種であつたことを確信致すもので、三十有餘年前、私の意見を發表致して置きましたから更めて茲に申上げません。貞元録によりましても金剛智三藏は、南天竺將軍米准那の薦聞によつて遂に南天竺の人と云ふことになつたとの事でありますから、御出生地は南天竺であつたか中天竺であつたか、種族は刹帝利種であつたか、婆羅門種であつたかは、暫らく詮議を見合はすことにして、三藏が活動した地域は、中天竺でなく南天竺であつたことは明白で、また南天竺の國王が支那に派遣した舟師に乘られて、支那へ來られたことは確實でありますから、これにつきて私の論議を進めたいと思ひます。
 密教に關し内外學者の研究を湊合して比較稽考致しますると、日本密教の光が、他の國々の密教に比較して一段と輝きて居るやうに思はれ、一千一百有餘年前、宗祖弘法大師が支那海の驚風狂瀾を冒し瘴癘のレイ[#「さんずい+珍のつくり」、133-7]氣乃至寇賊をも顧慮せられずして、當時の世界の中で至高至大の文化を持つて居た支那の首都長安に於て、惠果阿闍梨から傳法大阿闍梨の灌頂を受けられて、當時の東洋諸國に於て最も隆盛を極めた密教を我が國に傳へられた御功績に對し、益々感謝景仰の念を増すばかりであります。惠果和上の師は不空金剛三藏で、不空金剛三藏の師は金剛智三藏であつたことは、諸君の已に熟知せらるゝ所でありますが、傳法大阿闍梨の位に登られた宗祖大師の法名は、遍照金剛即ち※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イローチヤナ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヂラ(V※(マクロン付きA小文字)irocana-Vajra)でありますから理智の相即圓融を表幟した法名で、實際、日本密教は、金剛、胎藏の二界を兼備した密教でありますから世界無比のものであることは申すまでもありませぬ。惠果和上が宗祖大師に期待し、また大師灌頂の齋會に參列した五百の大徳が宗祖大師に期待した所のものは、此の遍照金剛の法名でも判明する次第であります。
 本日の講演の題は、惠果阿闍梨の師の師、即ち、宗祖大師から遡りて、四代目の傳法大阿闍梨でありました「金剛智三藏と將軍米准那」とにつきて諸君の清聴を汚す次第でありますが、先づ金剛智三藏の生れ又は活動せられた南天竺摩頼耶國とは、如何なる國であつたか、また今現にあるかを申上げたいと思ひます。
 摩頼耶と云ふ國名は、本來印度「アーリヤ」語族の言葉ではありません。土語で「山」と云ふ意味の語でありますが、雪山または雪藏と云ふヒマーラヤ Him※(マクロン付きA小文字)laya とは言語學上何等の關係もありませぬ。此の國の廣さは時によりて大小の差はありますが、英領印度の南部で、北緯十度から十三度に亙り、東經七十三度五分から七十五度四十分に亙り、大體今の「トラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・コール」「コチン」地方、梵語ならばトリ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンダラム Trivandrum コーンカナ Konkana[#前のnは上ドット付き、後のnは下ドット付き] を包括したマラバール Malabar 梵語ならば、マラヤバーン Malayav※(マクロン付きA小文字)n(山國)に相當する地域であります。耶蘇の弟子で一番耶蘇が生前中鍾愛したと[#「鍾愛したと」は底本では「鐘愛したと」]云はるゝセントトーマス(Saint Thomas)一派の耶蘇教徒が、何時頃よりか知りませぬが、滄海の一粟のやうに、印度人の間に昔からポツンと存在して居つた地方で、此の教徒の居つた地方から産出した織物は徳川時代に我が國にも桟留サントメ織と稱する布の一種です。Saint Thomas セント、トーマスと云ふ發音は英語風の發音で、西班牙語や葡萄牙語で、San Thom※(アキュートアクセント付きE小文字) サン、トメと發音致しますから、自然斯く我が國でもこれに傚つたことと思ひます。英語ならばセント、フランシスと云ふべきだが、舊西班牙領であつたから亞米利加の太平洋沿岸の一都府をサン、フランシスコと云ふがごときものです。
 此の地方は、地名から申しましても山岳がちの地方ではありますが、何分にも熱帶地方でありますから、非常に天惠厚き地方で、産物は豐饒であります。中にも栴檀、沈香、胡椒等の香料の産出は全世界に比類なく、中世印度の文學にもマラヤの栴檀と云うて讚歎いたしてあります。またマラヤ國では、ブヒラ(Bhilla)族の主婦は飯を炊くに伽羅栴檀を薪に用ふるなどの諺があります位で、其の産出の多かつたことはこれでも知れます。其の外、米、ゴム、椰子油などの産物は夥しく、古から有名でありますが、昔も今も造船に缺くことの出來ぬテイク(Teak)と云ふ木材の産地でありましたから、レバノン(Lebanon)の山の松柏材で昔のフヱニキヤ人が船を造り、航海者として有名であつたごとく、此の國はテイク材の産地であつたから、造船術も發達し、人民は航海の經驗と知識がありましたから、金剛智三藏が將軍米准那の舟師にとりかこまれて支那に向はれたことは、大いに理由のあることであります。しかし熱帶地方であるだけに、天與の恩惠が厚いと同時に、颱風が屡※(二の字点、1-2-22)起り、其の都度災害がいちじるしく、海は、平風恬波のときは航海には極めて安全でありますが、一旦荒れだすと古代の航海者には非常な恐怖を生じたものであつたと見えて、英領印度の南端に、コモリン(Cape Comorin)海角と申しまして梵語のクマーリイ(Kum※(マクロン付きA小文字)r※(マクロン付きI小文字))と云ふ女神の殿堂の名からとつて名づけた土地があります。昔から航海安全の祈願所であります。なほ日本の瀬戸内海の航海者が讚岐の象頭山に對し、日本海の西部の航海者が伯耆の大山に對し、日米間の太平洋航海者が富士山に對するやうな信仰が印度洋の航海者にありました。普陀落觀音(Potalaka)の信仰の起源は恐らく此の地方にあつたと私は思ひます。何分亞剌比亞海から吹き寄せて、濕氣と雨とを持つて來る西南恒信風が、印度の大陸に眞先きに吹きつけるのは此の摩頼耶國であります。この恒信風を利用して、亞剌比亞海から印度に來る船が眞先きに寄航する土地は、此の國であります。果して西暦紀元一千四百九十八年、葡萄牙の有名なる航海者※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)スコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、舟師を率ゐて亞弗利加の喜望峰を迂回し、亞弗利加の東海岸ザンヂバール(Zanjibar)から、亞剌比亞人を水先案内と致しまして南西の恒信風に任せ帆を上げて、眞先きに印度の大陸に到着した地點はカリカツト(Kalicut)でありますが、これはマラバール即ち金剛智三藏の出生または活動せられた地方の一海港であります。また亞細亞からの冬から春にかけて吹く東北の恒信風を利用して、亞細亞の産物を亞弗利加東海岸に齎らす商船が、印度から出發する場合には、亞剌比亞半島の南にある阿曼オーマン亞丁アーデン等の諸地方に寄舶する便宜上、必ず此のマラバール即ち摩頼耶國の何處かの海港に寄舶せねばならなかつた。また波斯灣の兩岸に存在する諸都市の船舶も、印度洋、南洋、支那海に來往する場合にも、同樣でありました。殊に印度の哲學宗教史專攻の人々にとりて注意せねばならぬことは、今日印度の知識階級の思想を支配して居る吠陀論師(※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ーダーンタ)の開祖シヤンカラーチヤリヤ(※(セディラ付きC)ankar※(マクロン付きA小文字)carya[#nは上ドット付き])の出生地はこの摩頼耶國であつて、其の活動の時代は、金剛智三藏の時代と略※(二の字点、1-2-22)同時代であつたと云ふ事であります。
 金剛智三藏は、印度の大陸に生れ、大陸に活動したとは云へ、實際は摩頼耶と云ふ海國に生れ又は活動せられたのであるから、所謂海國男子であつたと思はれます。宗祖大師と同じく、瀕海の國で生れられて、海洋とは如何なるものか、海洋の中に於ける船舶内の生活とは如何なるものかは、蓋し幼時から充分會得實驗せられたことと思はれる。金剛智三藏の生家は、婆羅門族であつたか刹帝利族であつたか疑問としましても、所謂清貴の家であつたことは疑ひない。古代から印度に輩出した立法者、北方ではマヌ(Manu)ヤーヂユナ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リキヤ(Y※(マクロン付きA小文字)j※(チルド付きN小文字)avalkya)を始め、南方ではアーパスタンバ(※(マクロン付きA)pastamba)アーガステイヤ(※(マクロン付きA)gastya)等の法典には、婆羅門族または刹帝利族に對し、其の清貴の性質を失はざらしめんため、冠婚葬祭の四大禮は申すに及ばず、職業、交遊、服裝、住居、飮食等に至るまで、種々の制限を加へて居ります。殊に海外に出づることは禁じて、一旦海外に出たものは、歸國するも其の清貴の性質を失うてアーリヤ即ち正信の印度人たる權利はないものとせられた。祭政一致、宗教法律の區別なき時代にあつてはさもあるべきことと思ひますが、金剛智三藏時代の南海印度洋の諸國は、印度アーリヤ文化の光被せる地方であつて、古代印度の立法者の立法を解釋せる者の中では、此等の諸國に來往したりとて等しく、アーリヤ正信の人たることを失はないと云ふことで、此等の諸國を神州即ち印度アーリヤ地方の延長であると看做して居つたものです。だから、支那國に法を傳へんため、南印度の國王捺羅僧伽補多跋摩ナラシンハ、ポータ、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン王の舟師に將として支那に向はんとした將軍米准那の舟に乘られて本國を出發せられたのであります。茲に諸君に御賢察を願ひたきことは、金剛智三藏が國王派遣の船舶に乘られたことを以て、恰も今日、歐米から東洋に派遣せらるゝ歐米諸國の宣教師乃至日本諸宗教各派の布教師などが、割引の賃金または無料で、官營また民營の鐵道船舶などの交通機關を利用すると同樣の見解を懷かざらんやう御願ひ申します。もしかゝる見解を抱かるれば、古代に於ける海陸の交通の性質を全然誤解して居るのであります。佛經の經典中、海に入りて寶を求む、即ち航海して異邦人と通商することを叙した經典に於ても見らるゝ如く、清貴の家に生れて操行清白の婆羅門または刹帝利種の人々は、國の瑞祥であり、社會の人々から見て、自分らよりも一層神に近く佛に近いものと信ぜられたから、天災地異の到底人力では如何とも致し難き災難に際しては神佛に近き人々の媒介によりて、災難を免れることが出來ると信じました古代では、航海または征戰の如き危險を冒す旅行には、必ず高行清貴の婆羅門の同伴を求むることになつて居りました。これは印度のみではありません。希臘羅馬は云ふまでもなく、日本支那の古代でも同樣であつたのです。將軍米准那の船に金剛智三藏が乘込まれたことは、米准那か又は國王の懇請に依つたもので、金剛智三藏が頼みこんだものでない事は申すまでもない。これによりて米准那の舟師の人々が、如何に心強く感じたかは蓋し想見に餘りあると想像せられます。要するに、此の遠洋航海に於ける將軍米准那の舟師に對しては、金剛智三藏は希臘羅馬の古代宗教の語を借りて云へば、クリマルク(Klimarque)の位置に居られたものであります。別に古代希臘の宗教の用語から援引しなくても、宗祖大師が大唐より歸朝の途中に於ける波切不動の勸請の話や、慈覺大師が同じく歸朝の途中山東沖で赤山神社の祈誓の話などを讀んだ方々は、當時の航海者は、密教の高僧に如何なる期待を持つて居たか判明する。また壬生狂言で源頼光が大江山の鬼退治に出掛くる一行の科を見た人は、かの狂言製作當時の京都人が、如何に密教の護持者に對し信頼の念が薄かつたかと知るでありませう。これに反して謠曲の船辨慶を御記憶の方は、「辨慶押しへだて、打物業にては叶ふまじと、珠數推もんで、東方降三世南方軍※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王」云々を御想起せらるれば、かの謠曲製作の時代には、如何に日本の航海者は密教の護持者に對し信頼の念が篤かつたかを推察することが出來ませう。
 要するに、陸上の交通にしても、海上の交通にしても、少數のものだけの交通は長途の旅行や久しきに亙る航海など不可能で、大部隊、大商隊、大舟師、大艦隊を編成して交通または通商をせねばなりませぬ。故にこれを統率するものは、商人であると同時に、地理學者でなくてはならず、武人でなくてはならず、立法者でなくてはならず、同時に天文學者でなくてはならず、氣象學者、醫學者である上に、一大信仰を有して居る宗教家でなくてはなりませぬ。陸上では舊約全書にある出埃及記に見ゆるやうな摩西モーゼスの樣な人物でなくてはならず、普通世に流布するモハメツトの傳記に於て見るやうな、モハメツトのやうな人物でなくてはなりません。また佛本生經に見ゆるやうな商主即ち商隊を引率する菩薩のやうな人でなくてはなりませぬ。また史記に見えたるやうな帝舜のやうな人でなくてはなりませぬ。
 海上ではホーメロスの詩に見えて居る希臘軍の將帥のアガメムノーン、近世ではコロムブスの傳記、ラ・ベルイスの傳記、乃至カピテン・クツクの傳記に見えるやうな近代航海探檢者のやうなものでなくてはなりませぬ。まして西暦紀元七世紀の頃の印度洋・南洋の航海には、薩珊サツサン王朝は亡びて亞剌比亞人がバグダツドに奠めた首都の文化武威が、未だ舊波斯民族の信頼と心服とを贏ち得るに[#「贏ち得るに」は底本では「羸ち得るに」]至らず、波斯灣一帶の地方から印度の西海岸乃至亞剌比亞の東海岸に碁布羅列せる波斯民族の植民地は、海賊の占據する所となりしのみならず、印度の東海岸から南洋諸島を經由して支那の廣州に達する船舶の引率者が、天文地理乃至潮流・氣候等の知識も充分でなかつた事は、此の頃續々發見せらるゝ波斯亞剌比亞の航海者の圖に於て見らるゝ如く不完全極まるもので、大部分は冒險者の個人的勇氣と運勢とに任すより外なかつたのであります。されば、金剛智三藏にしても、金剛智三藏の乘られた艦隊の司令官將軍米准那にしても、印度より安全に支那に達するまでの間の冒險は、吾人の今日想像以上のものであつたことは疑ひない。もしこれを疑ふ人があるならば、私は此等の人々に對して、今日一切經の中に保存せられて居る法顯傳や、義淨三藏の南海寄歸内法傳や、大唐求法高僧傳などに見えて居る海洋交通の有樣を精しく今日の地理に照らして讀まんことを御勸め致します。神經の弱き人には、讀むだに身毛は竪立し、手に汗するやうな感が致すことと推察致します。
 將軍米准那の舟師が、印度を出發して支那に向ふ際には國王の使節でもあり、金剛智が乘つて居らるゝことでもあり、定めて盛大なる祈祷祝福の儀式は、印度の古代宗教の規定通り營辨せられたことと思はれます。吉祥成就の祈誓のため、出發の日取時刻などを定むるに喧しきことであつたと想像せられますが、果して、此の艦隊が闍婆島即ち今のスマトラ島に到着したのちは、三藏は、己の後繼者で宗祖大師の師の師であつた不空金剛三藏と云ふ法器を得られ、これと共に西域人の所謂支那即ち廣州に來られ、それから西域人が所謂摩訶支那即ち長安に入られた次第でありますことは諸君も御存知のことでありますが、茲に一つの問題になりますることは、將軍米准那の名の讀方であります。將軍と云ふ二字は義譯で、何か米准那の帶びて居た官職又は業務の飜譯であることは明白でありますが、問題となるのは米准那の三字であります。マイヂユンナと讀んでよいか、ベイヂユンナと讀んでよいか、また久米の仙人など云ふ場合の「米」の字は「メ」と申しますから、メヂユンナと申して宜しきや、一向昔から定まりませぬ。また音譯には相違ありませぬが、如何なる國の語を支那で音譯したものかは、更に判明致しませぬ。私は今より三十餘年前、眞言宗の碩學で學徳共に高き長谷寶秀師の苦心になつた弘法大師全集を讀みまして、金剛智三藏の入唐の御事歴に附帶して、此の米准那の原音を内外學者の著述または論説を見聞致しましたが、不幸にして何等の意見を知ることは出來ませぬ。只一つの例外として茲に掲ぐることの出來るのは、佛蘭西の或る學者で、或る學術雜誌に米准那をアルヂユナ(arjuna)と事もなげに還源して、何等説明なしに日本密教のことを述べて居つたことです。なる程、准那の音は、印度密教の始祖と云はるゝナーガールヂユナ(N※(マクロン付きA小文字)g※(マクロン付きA小文字)rjuna)のヂユナとは聲音相邇く、また金剛智三藏を通して何等かの關係を龍樹菩薩と有して居つたと思はれぬではありませんが、此の場合に准那をヂユンナまたはジユンナとしますると、「米」の字を是非ともアルと讀まねばなりませぬ。また密教を離れて、廣く印度の普通に用ひらるる名の中で此のアルヂユナと云ふ名前程、戲曲または叙事詩に於て評判の善き名前はありませぬから、何氣なく無造作にアルヂユナと還源しましたことと思ひますが、如何にせん、「米」の字には、昔から支那には、アルと云うた例は決してありません。「米」は姓として准那を名にし、准の字の上に曷羅とか、※(「口+羅」、第3水準1-15-31)とか云ふやうな字が脱落したものと見れば、將軍と云ふ言葉に對して、古から勇武を歌はれたアルヂユナの名は如何にもふさはしき感じを生じますが、さりとて、一千一百年來、弘法大師が支那から御將來の經または文書にいづれも米准那とあつて三字以外にありませぬから、種々の點から見て、遺憾ながら此の三字以外に他の字がなかつたものと諦めて、この三字だけで解釋を致さねばなりませぬ。
 凡そ地名にしても、人名にしても、固有名詞だからと云うて打棄てて、其の意義を檢討せずに居ることは、眞個の學者たるものの忍びぬ所で、正しきにせよ、誤れるにせよ、何等かの解釋を加へて世に公にすることは學者の責務であります。私は茲に諸君に對し、一千餘年間等閑に附せられて居た米准那の三字の原音を尋繹致したいと思ひます。
先づ第一に「那」の字音でありますが、これは「ナ」と云う場合は普通であります。同時に「タ」又は「ダ」と云ふ音を表幟する場合にも用ひられます。かゝる場合は娜の字を用ひますが、時ありて、「女」扁をなくして娜那混同して用ひることはあります。一例を擧げますれば、義淨三藏の作だと古代より傳説せられ、新義古義兩方の碩學から校訂出版せられて居りまする梵唐千字文、又の名は梵語千字文の中で、「聲」と云ふ字に對し攝那(セブダ ※(セディラ付きC小文字)abda)の音譯を配し、那の字を「ダ」に響かせてあります。然るに「響」と云ふ字に對し鉢※(「口+羅」、第3水準1-15-31)底攝娜(プラテイセブダ prati※(セディラ付きC小文字)abda)の音譯を附し、同じく攝那の音を寫すに那の字に代はりて娜の字を使用してあります。要するに那娜二字とも「ダ」の音を寫す場合に混同してある事實を認めねばなりませぬ[#「なりませぬ」は底本では「なりせぬ」]。故に私は米准那の那を「ダ」と發音して差支へはないと思ひます。いづれこの音譯は、金剛智三藏が、廣州に到着せられた場合嶺外節度使が中央政府に報告する文書作成の際か、中書令か又は鴻臚卿の方で廣州の觀察使に回答する文書作成の際かに出來たものでありませうから、苟も舟師提督閣下、アドミラル閣下の名稱に對し、たとひ音譯とは云へ、女の「アダツポイ」ことを形容するに用ひる娜の字を使用するやうな失禮なことはなかつたかとも云へます。次は「准」の字であります。元來、此の字は準の字の俗字で、我が國でも、准后とか、批准とか、准許とか、准之とか云ふ場合に於けるごとく、「なぞらへる」「ひとしくする」「ゆるす」など云ふ意味のときは、「ジユン」と發音致します。かゝる場合には、支那では、上聲に發音します。然れど、もし鼻と云ふ意味に用ひますときは、必ず入聲に發音致しまして、「セツ」と發音せねばなりませぬ。例せば隆準龍顏リユウセツリヤウガンなどと云つたり、隆準而リユウセツニシテ日角ニツカクなど云うて、支那の史官が西漢の高祖皇帝や東漢の光武皇帝の容貌を形容する場合の準は必ず入聲に讀みます。金剛智三藏が支那の洛陽で入寂してから十五年目に、孫孝哲と云ふ安禄山の武將が、長安で唐の宗室の人々を虐殺した有樣を目撃して、杜甫が漢を借りて唐を歌うた哀王孫の詩の中に、高帝子孫盡隆準と云ふ句がありますが、これも準の字を入聲に讀んだ一例です。准那の二字を「ヂユンナ」又は「ジユンナ」と發音しても、何の意義をも發見出來ぬとすれば、發音を變更して「セツダ」又は「ゼツダ」と讀むより外に讀方はありませぬ。然らば斯く讀みて、何等か意味が發見出來るかと申せば、それは出來ます。これは中世波斯語の「ゼーダ」又は「ザーダ」(Z※(マクロン付きA小文字)da)で、生れたるもの、子または孫、と云ふ意味の言葉の音に相當致します。語源から申しますれば、梵語の j※(マクロン付きA小文字)ta と同じき起源を有するものであります。
 かくの如く准那の二字は波斯語系の言葉の「ゼーダ」又は「ザーダ」の音譯であるとして、然らば「米」の字もやはり波斯語系の言葉の音譯であるかと云ふと、左樣容易くは參りませぬ。漢晉以來唐に至るまで、西域東陲から支那に歸化した外人は多くありまして、其の姓氏は或は出身郷土の名をとり、又は職業官爵等の名から採用したものが多くあります。米姓のものも晉唐の時代にはちらほら歴史上に見受けまするが、さほどに多くはありませぬ。是等の姓名の起源に關して、今は故人となりましたが、私どもの畏敬の友人の一人で、諸君も中學の東洋史で御眤みの桑原隲藏博士が、「隋唐時代に支那に來住した西域人に就いて」と云ふ論文を昭和二三年頃に發表し、私も其の論文の別刷を博士から頂戴致して居りますから、諸君の中で密教の研究史上東洋一般のことが知りたいと思はるゝ方は是非一讀を願ひたいが、桑原博士の論文中には、今日講演の問題となりて居る米准那のことは何等の記載もなく、隨つて研究もありませぬ。しかし其の他の點では、私共の蒙を啓くことが多くありまして、流石に生前中は、東洋史專攻の人々から泰山北斗の如く仰がれただけあります。亡友に對する感想の發露はやめに致しまして「米」の字の研究にとりかゝります。
「米」(イ)此の字を國名にした國が、中央亞細亞「サマルカンド」の東にありました。彌秣賀と云ふのはこれであります。唐代ではこれを「米」國と申しましたが、これは彌秣賀の初の字彌の音譯か、また全部の字の義釋であるか判然しませぬが、ともかくも、唐代ではこの國を「米」國と云つた例から見れば、米准那の三字は、「米國生れ」と云ふ義になります。即ち、中央亞細亞の一小國で何等海洋に縁故のない國に生れて、南印度の國王に仕へ、其の舟師を率ゐて支那に向つた將軍の姓名としては、如何にもふさはしくない樣な心地は致しまするが、かゝる事は絶無とも云へませぬから一概に否定出來ませぬ。
(ロ)次には、支那には用例はありませぬが、准那の二字が波斯語系の語の音譯であるに適合せんがため、同語系の語で、「米」字の音に邇く且つ姓字に用ひられた例もあるものは、宿曜經などに「蜜」と音譯してある、中世波斯語「ミール」(Mihr)であります。太陽または日の波斯語であります。これならば、かの世親菩薩が教育したと云はるゝ幼日王バーラーデイテイヤと對して、印度中原の鹿を爭うた「マヒーラ・クラ」又は「ミヒラ・クラ」又は「ミヒル・ゴラ」王の姓名の一部をなすものであるから、准那と連ねて讀むと、「ミールゼーダ」と云ふことになり、太陽の子、日の御子、又は日曜日に生れたる子などの解釋が出來て、如何にも將軍、水師提督、「アドミラル」閣下の姓字として適當のやうでありますが、如何にせん、かゝる姓字または名稱は中世波斯の文學には見當りませぬ。
(ハ)中世波斯の文學にも人名としての用例があり、支那人の加へた將軍の二字にもふさわしく、水師提督の身分經歴門地などを表幟するに足る語として、「米」字の發音に邇き語はなきかと云ふと、本來の波斯語には見當りませぬが、亞剌比亞語の「アミール」又は「ヱミール」から轉訛して、波斯または土耳其の語となつて居る「ミール」と云ふ語があります。これは一番適當な語であります。米准那と續けて發音しますると、「ミール、ゼーダ」「ミール、ザーダ」で、公子公孫の意味の言葉ともあり、將軍の子、方伯連帥の子などの意味を標幟する尊※(「禾+爾」、第4水準2-83-10)ともなりまして、中世波斯の文學中には人名として時々見當りまするのみならず、今日でも回々教徒の間に使用せらるゝ姓字であります。元來亞剌比亞語の「アミール」(Amir)又は「ヱミール」(Emir)の語は、將帥方伯・宰相等すべての文武の大官を示す語でありまして、後には實職なき人々でも、身分の高貴を標幟する尊稱に用ひられましたが、實職實務のある人々には、其の官職の名稱を此の語に附着さして呼ぶのが本筋でありました。例せば水軍の司令官でありましたら「アミール、アル、マ」(Amir al ma)とか「ヱミール、アル、マ」(Emir al ma)と呼んだもので、いつしか最後の「マ」の字を略して、「アミラル」とか「ヱミラル」と云ふ風になりまして、「サラセン」帝國の文化が地中海沿岸の諸國に光被し、其の武力が海陸共に基督教國の人民王侯を威壓した時代には、基督教國の陸海軍の將帥は自國語で呼ぶ官職の名を捨てて、喜んで「アミラル」(Amiral)又は「ヱミラル」(Emiral)の稱呼を用ひたものであります。佛蘭西の國王路易九世(Louis IX)の時代には、陸軍の將帥が「アミラル」の號を用ひました例があります。今日の歐米各國で、海軍の將帥を「アミラル」と云ひ又「アドミラル」と云ふは、「サラセン」帝國の國威の旺盛なりし頃、後進の基督教國の國々が其の後塵を拜して名實共にこれに模倣した遺風であります。因に申しまする。英語で「アドミラル」と云ふときの「ド」の音は、もとたゞ「ア」をつめて短く發音さす爲にいつの世にか添加せられたもので、拉丁語の「アトミラーリス」と云ふ形容詞とは何等の關係があつた譯ではありませぬ。又「アミール」と云ひ「ヱミール」と申しまするは、畢竟亞剌比亞語の發音は、日本語の「ア」でもなく又「ヱ」でもありませぬから斯く二樣に發音致しましたので、もともと一つのものを云ふのでありますから、二つの異つた官名または尊稱を云うたのではありませぬ。恰も英語で「a」を書いたり、佛語で「e」を書いたりすると同樣であります。
 話は岐路に向ひましたから、本筋に戻りまして、米准那即ち「ミール、ゼーダ」の言語は、中世の波斯語または亞剌比亞語でありますから、今日では最後の音のダを通例省略致しまして、「ミール、ゼー」又は「ミール、ザー」と申します。印度の宗教都市で一番有名なる、「ベナーレス」(Benares)梵語で申しますると「バーラナシイ」の南西の方角に當りまして大約日本里數で十五里許りの地に「ミールゼープール」(Mirzapur)と申す都市があります。陶器の産地で、人口が六七萬位の小都市で、格別取立てて申上げる程の都市ではありませぬが、其の名は、公子または公孫の都市と云ふ義であります。「プール」は新嘉坡の坡と同じく、都城と云ふ梵語から來た言葉で、其の前に來る「ミール、ゼー」は「ミールザーダ」又は「ミール、ゼーダ」の「ダ」が省略された結果であります。其の他、印度及び波斯の人名または地名で、此の語を前節に用ひ、後節に邑落、都市の義を有する名詞を用ひた例は少くありません。
 かく説き來れば、諸君の中には或は疑惑の念を起さるゝ方も皆無ではありますまいと存じます。先づ第一に起りさうな疑念は米准那の「米」字は、亞剌比亞語の「アミール」又は「ヱミール」に起源を有する「ミール」の音を寫したとして、如何なる次第で最初の「ア」又は「ヱ」は省略せられて單に「ミール」となつたかと云ふことでありませう。これは「ミール」の聲音を強く力を入れて發音せねばなりませんから、自然最初の「ア」又は「ヱ」は省略さるゝに至つた譯で、殊に准那と云ふ語の發音を後に控へて居りますから、なるべく發音し易く、簡易に發音出來るやうに、最初の「ア」又は「ヱ」を省きたものと思はれます。第二には、然らば最後の「ダ」を何故に省略するに至つたかと云ふ疑念でせう。これも「ヱミール」の場合と似て、「ゼーダ」又は「ザーダ」の「ゼ」「ザ」を強く力を入れて發音せねばなりませぬから、所謂勤勇所要の勞力を儉約せんがために遂に「ダ」の音を省略したのであります。かゝる現象は、我が國の言葉にでも屡々見受けられます。一例を擧げますれば、國名の發音に於て、武藏相模の場合です。此等の地方は上總下總などの國名に於てなほ見らるゝごとく、「プサ」と云ふ、麻か苧か楮か知りませぬが、とにかく、纖維工業に必要な植物の培養に適した地方であつたことは、建國の始め、天富命が天孫の命によりて此の地方に楮麻を植ゑられたと云ふ史實からでも推定出來ます。此の地方を「プサガミ」「プサシモ」と昔から區分して名附けましたところ、いつしか、「プサシモ」の「モ」が發音せられずになりまして、其の鼻音性だけを初めの「プ」の音に添加しましたから、同じく唇音ではあるし、其のうへ鼻音性が加はつたものですから「プ」は「ム」となりました次第で、これに類似した音を漢字で武と藏とを配しましたが、「サウ」と音こそあれ、如何に考へても藏字に「サシ」と云ふ音がありませぬ。しかし昔から實際の發音は「ムサシ」で、神代ながらの「プサシモ」の俤を保有して居ります。次に相模の國名でありますから、武藏の國名がもと「プサシモ」であつたにむかへて、「プサガミ」でありましたが、いつしか最初の音の[#「音の」は底本では「昔の」]「プ」が呼稱の便利から消滅して、「サガミ」とのみ呼ぶやうになりました次第であります。以上は言葉の初めと終とが省略せらるゝ好適例として掲げましたが、場合により中間の音が變化し、又は省略せらるゝこともあります。上總と下總との國名は好適例であります。これは、もと/\「カミプサ」と云ひ「シモプサ」と呼んだことに相違ありません。然る處「カミプサ」の場合には、第二位の「ミ」は、いつしか單に鼻音化せる母音となり、これに影響せらるゝ第三位の「プ」は、第四位の「サ」の摩擦音の硬音性にも影響せられ結局以和爲貴とあつて、第二位の「ミ」から軟音性をとり、第四位の「サ」から摩擦音性をとりて結局「プ」の音は軟音の摩擦音即ち「ズ」となつたものと思はれます。下總の國名の場合には、今日の實際の發音は「シモーサ」で、先年文部省で制定した字音假名遣の[#「字音假名遣の」は底本では「字音假名遺の」]棒引法では、洵によく現實の發音が寫されて宜しきやうでありますが、民間ではやはり「シモフサ」と書きまして今日に至つて居ります。半濁音の性質を失つただけで、やはり民間の假名遣法には神代ながらの俤を保存して居ることには、私ども老人には何となく嬉しき心地があります。
 私は金剛智三藏や將軍米准那のことにつきて講演致しながら、何等これと關係のなき「プサ」の國の由來を持出して、長々しく諸君の清聽を汚した事を恐縮致して居りまするが、また一方ではあながち金剛智三藏や米准那と、日本の東部の江戸灣、靜岡灣即ち富士の靈峰が、朝日の光を受けて影を太平洋上になげる地方のこととは無關係であると斷定出來ぬと思ひます。甚だ牽強附會のやうでありますが、金剛智三藏が開元七年または八年、長安に入り、二十九年入寂せられるまでは約二十有餘年間ありますが、其の間は日本に於て、開闢以來と申しませうか、建國以來と申しませうか、とにもかくにも、古より未だ曾てなき文化事業が經營せられ、完成された時代で、日本が支那を介して印度または西域の文化を吸收するに最も力を効した時代でもあり、また支那人の間には日本を認めて、日出の國、義和が建てた國だと信ぜられ、神仙の棲遲する國、長生不死の靈藥の生ずる地域であると信ぜられたのみならず、航海者として支那海に往來する西域の船舶が、日本または朝鮮に潮流の工合に漂着した事もあり、殊に東大寺落慶の齊會または庭儀に參列した樂人の中には林邑即ち今の佛領印度の南部、コシン、チヤイナに國を建てた占城の樂人も居つたことを見ると、これらの國から乘つた人々の船舶は、支那の船舶のみであつたとは信ぜられませぬ。昔から、支那の書物に著はされてある扶桑の國の位置は、もし架空の神話からでなく幾分の現實性ある知識から出でたものとすれば、富士の靈峰が太平洋の清波に影を投ずる地方即ち昔時のプサ國でなければなりませぬ。今日に於てもアイヌ語でプサと云ふ語が存在して、麻苧のことを意味して居りますが、此の語は、アイヌが本來の語であるか、或は天富命に從うて、江戸灣、靜岡灣一帶の地に楮麻を植ゑた大和民族の言葉から借り用ひたものか、否やの問題に至りては暫らく後賢の研究を待つことにいたします。
 將軍米准那の舟師を支那に遣はした南印度の王は、捺羅僧伽補多跋摩ナラシンハポータ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマンと云ふ名の方で、跋摩(鎧)と云ふ語で終つてあり、正眞正銘の刹帝利種である事が明白であるのみならず、またパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族の王者であると云ふ事も判明して居ります。また捺羅僧伽ナラシンハは、韋紐天第四の化身の名であります。即ち人身獅頭の化身で、惡鬼を退治せんため天より下界に降臨した韋紐天の名をつけたものでありますから、正眞正銘の印度アーリヤの信仰を持つた王者であつた事はこれでも知れます。たゞ問題となるは其の次に來るポータの語の意味です。船と云ふ義もあり、また四足獸の子と云ふ意味もあります。シンハは獅子ですから獅子の子と解しても差支へはなく、またパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王族が以前から鑄造せしめて其の領内に流通せしめた硬貨の紋章には、流石に通商立國の國是の國だけあつて二本の帆檣を建てた船の紋章が刻印せられてありますから、ポータを船と解しても差支へはありませぬ。孰れにしてもこれは大した問題とはなり得ませぬ。何故かと申しますると、今日まで知られて居るパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王族出身の王者の名には、單に捺羅僧伽跋摩と云ふ名の王は二人ありますが、いづれにも補多に該當するポータの語は名前の中に見えませぬからであります。しかし、私だけの意見を申上げますと、漢字の音譯、捺羅僧伽補多の六字の次に羅の字が一つ落ちて居るのではないかと思ふのです。さうとすれば、補多羅の三字に、梵語の pautra(孫)と云ふことになります。事實この王は別表に於ても御覽の通り、西洋紀元六百三十年から六百六十八年まで王位に居つたナラシンハ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン王の孫に當つたと見えまして、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族の習慣に從ひ祖父と同じ名を稱して居ります。ですから、補多の二字をパウトラの俗語化ポータと解して、俗語の形で支那に傳はつたと見ても差支へはありませぬ。金剛智三藏が支那に向はるゝ時代に、南印度の王で、捺羅僧伽の名を冠した王者は此の以外に居りませぬ。此の王の在位の年時は、西暦紀元六百九十年から七百十五年に亙つて居りますから、開元七年または八年、金剛智三藏の入唐の年は西暦紀元で申しますると七百十九年か、または七百二十年ですから、當時は、王位を去りてのち、四年乃至五年經過して居ります。次の王は、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王族の習慣に基づき、祖父の名を襲うてパラメーシ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ラ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマンと申しまして、西暦紀元七百十五年から七百十七年まで位に居りました。國を享くること甚だ短くて、至つて薄祐の王であつたらしいのであります。

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Sinha[#nは上ドット付き]-varman(550-575)
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Sinha[#nは上ドット付き]-visnu[#snはそれぞれ下ドット付き](575-600)
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Mahendra-varman(668-670)
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Nara-sinha[#nは上ドット付き]-(pautra? pota?)-varman(690-715)
  │
Parame※(セディラ付きC小文字)vara-varman(715-717)
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 話がこゝまで進んでまゐりますと、此のパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王朝のことにつきて御話申上げねば、佛作りて魂を入れぬやうな心地が致しますから、暫時話さして戴きます。パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) pallava 王朝の名は、梵語として見れば「花の蕾」とか「木の若芽」とか、「梢」とか云ふ意味の言葉でありますが、これはもと/\「パツフラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」(pahlava)とも「パツルハ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」(palhava)とも申しまして、俗語から來たものである事は貨幣または碑文から證明せられてありますから、一概に花の蕾王朝、乃至若芽王朝など云ふ陽氣な景氣のよい名前に解することは出來ませぬ。而してパツフラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)とかパツルハ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)とか云ふ俗語の形は、純粹のインド、アーリヤ系の言葉とも見えませぬ。寧ろ別の系統の言葉から轉訛したものの樣でありますから、之に便乘してパルテイヤ即ち支那で申しまする安息アルサケス國の國名と同一であつて、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)即ちパールダ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)説が出現して、一時は西洋の印度波斯學者の間に殆んど定説のやうになりましたのであります。序ながら申上げますが、パルテイヤ Parthia と申しますのもペルシヤと申しますのも畢竟するに方言的發音の相違で、東部北部のイラーン高原邊陲の波斯帝國の部分ではパルテイヤと申しまして舊い形を保有し、西部南部のイラーン高原の部分ではテイがシとなつて Parasia Persia となつただけであります。いづれも梵語のパルツフ又はプリツフ(parthu, prthu[#「prthu」のrは下ドット付き])、英語のブロード(broad)、獨逸語のブライト(breit)と、同系の印歐語系の言葉で「廣きもの」又は土地、國土の義を有する語であります。また安息アルサケースは、イランの東部から起りてバクトリヤから印度の北西部に亙りて國を建てた波斯語系の王朝の名で、西朝紀元前二百五十年頃から西暦紀元後二百二十六年までつゞいた王朝で、支那の歴史では秦の始皇帝頃から東漢の孝獻皇帝の禪讓の時までに亙つて居ります。日本では孝靈天皇の御宇の始頃から神功皇后の御攝政時代の第二十六年に相當致しまする年間で、印度ではかの孔雀王朝の阿育王の時代から龍樹菩薩と交渉のあつたと云はるゝ娑多婆漢那王朝の末期までの年代に相當し、隨分長くつゞいた王朝でありました。陸軍は強く、流石の羅馬の武力を以てしても、波斯と羅馬との勢力範圍の境であつたテイグリス(又はタイグリス)河を一歩も東へ進むことが出來なかつた。この王朝の王樣達の名前のつけやうを見ますと、きつぱりとは申されませぬが、大體から見て祖父または父の名を襲用した點は、前刻申上げました通り南印度のパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王朝の王樣達の名前のつけやうと類似して居ります。此等の點等から見て、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王朝は安息國即ちパルテイヤ王朝の枝分であるとの説が出たものと考へられないこともありませぬ。今日ではパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族を以て、安息王朝の建設し君臨したパルテイヤ國出身であつたと云ふ説は下火になつて居り、また肝腎、此の説を提出して一時印度學者波斯學者をして、隨喜驚歎せしめた英國の學者が、進んで自説を取消して居るやうな有樣であるから、私どももかれこれ云うて進んで死灰再燃の勞に服せんとするのではありませんが、此の説はあながち反對論者の説にのみ耳を傾けて其の云ふまゝに任することは、學者の良心上出來ないのであります。反對論者は、パルテイヤ帝國の陸軍の強きことのみを見て、當時の波斯民族の海軍がアケメニード(Achemenides)王朝時代の波斯民族と同じく、依然印度洋亞剌比亞海の制海權を保有して居つたことに想到せず、ひたすら安息王朝の武士が肥馬に跨り堅甲を披て、勁弓大箭を以てイラン高原から出で、印度を蹂躙し、征服した歴史上の確證がないから、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族の名稱がパルテイヤの名稱とは何等の關係ないと云ふが、アケメニード王朝以來、波斯民族の船舶は、西は阿弗利加の東岸から支那海に至るまで陸上に於ける王朝の興亡、隆替に煩はされずして活動を續けたことを思へば、印度の東海岸に通商立國の國是を以て國を立てたパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族を以て波斯民族の一支派でないとすることは、吾人の輙く承服出來ぬ所であります。
 今日でも東は南方支那から西は阿弗利加に至るまで、或は水夫となり或は水先案内などを業務として海上生活をして居る、「ラスカール」(Lascar Lashkar)と云ふ種族があります。東洋から印度洋を通過して西洋に赴く船が港に寄ると、船に荷物を積み又は船から荷物を上げる人夫の中には、色こそ多少黒きやうだが、言葉から見ても又は容貌から見ても、深目隆準明かに波斯系のものであるのはこの「ラスカール」で、二千五百年の昔から「フヱニキヤ」人や「アラビア」人と共に波斯灣から出でて印度洋南海支那海の水上交通に貢獻した波斯民族の殘した種族であります。其の名稱から見ても、兵士または軍卒と云ふ意味ですから波斯語系の民族であることは明白です。以上申上げたことから舊説ではあるが、これに反對する人々の説も俄かに贊成出來ない譯であります。
 波斯の古代「アケメニード」王朝時代と安息王朝時代との研究が未だ東西の學者の間に充分でなく、また波斯の中世紀薩珊王朝の時代の研究が未だ充分でない結果、古代を論ずるごとに、常に希臘史家の資料に基づきて事毎に希臘を推し、中世を論ずるごとに、亞剌比亞人の資料にのみ基づきて事毎に「アラビヤ」を推して、波斯の民族の文化と武力とを閑却する傾向あるを私は常に遺憾とするものであつて、古代のことは暫らく措きて論ぜざるも、西部亞細亞に於て、西暦第七世紀に於て、亞剌比亞人が「モハメツト」の指導の下に大帝國を建設し得たる所以は、畢竟するに「メソポタミヤ」と「ナイル」河流域との兩文化の繼承者たりし波斯帝國の文化を、亞剌比亞人が繼承し得た結果に外ならぬと私は常に思ふ所であります。今日に至るまで亞剌比亞語と思はれたものは、波斯民族の語であつて、亞剌比亞語となつたのは非常に多い。通商、工藝、政治、法律、宗教などの領域に於て、亞剌比亞人が波斯人に負ふ所は尠くない。就中、通商または航海に於ては、古代中世の波斯人は明かに亞剌比亞人の先輩であつた。のちに亞剌比亞人の領土となつたが、其の開拓者または最初の施設者は波斯人であつた。一例を擧ぐれば、亞弗利加の東海岸に於て「ザンヂバル」と云ふ國があります。亞剌比亞人が此の國から奴隸を買取つて諸國に賣出すから奴隸の國と呼び、「ザンヂバル」と申しまするが、よく/\其の語の起源を尋繹しますると、「ザンヂバル」の「ザンヂ」は波斯人の言葉で「ヂエンヂ」であつて、黒人と云ふ語から轉訛したものである。また「ターヂツク」(T※(マクロン付きA小文字)jik)即ち、支那で大食國など云ふときの大食でありますが、これは梵語の「ダーサ」例せば「カーリダーサ」など云ふとき「ダーサ」に語源上匹敵する波斯語の「ダーヂツク」から來た言葉で、もと/\波斯の支配階級が農商工の被支配階級に對して用ひた侮蔑の語であつたが、亞剌比亞人が波斯帝國を滅して、其の支配階級を滅したのちでも、農工商の階級に對して從來の呼稱を襲用した次第でありましたから、大食國とは、亞剌比亞人の主權の下にある波斯民族の義でなければならぬ。故に支那で云ふ大食國を以て直ちに亞剌比亞民族の邦とするは、政治的にはともかくも、民族的意味から見ますと聊か不當なる心地がせぬでもない。
 論じて茲に至れば將軍米准那の姓字は、亞剌比亞系の「ミール」と波斯系の「ゼーダ」又は「ザーダ」とから成立して居るから、將軍の民族的所屬は大食國ではなかつたか如何、と云ふ問題に到達するが、これに對して私は、唐代に所謂大食國の地理的位置、殊に天寶十二年の初頭に於て、玄宗皇帝が含元殿に於て内外國人の年賀を受けた際、我が國から派遣せられた遣唐大使、藤原の清河や古麿等が最初西畔第二大食國の下に置かれましたが、其の時の大食國はいづれの亞剌比亞人の國であつたか知る由もなく、たゞ舊唐書に大食國は波斯の西にあり、兵刄銛利、戰鬪に勇なりとの記事だけではあまり漠然として居るから、今日の處では「パルテイヤ」帝國の王族と、本末枝幹の關係が甚だ濃厚であつたと見るべき「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」國の所屬であつたと云ふに止める。

[#ここから横組み]
    Skanda-varman
      │
    Vira-varman
      │
    Skanda-varman(450-475.A.D.)
   ┌─────┴────┐
   │          │
Sinha-varman(475-500)   Visnu-gopa
              │
Skanda-varman(500-520)  Sinha-varman
              │
Nandi-varman(525-550)   Visnu-gopa
              │
           Sinha-varman(550-575)

[#4段目、Sinhaのnは上ドット付き、Visnuのsnはともに下ドット付き]
[#6段目、Visnuのsnはともに下ドット付き]
[#7段目、Sinhaのnは上ドット付き]

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

Sinha[#nは上ドット付き]-varman(550-575)
  │
Sinha[#nは上ドット付き]-visnu[#snはともに下ドット付き](575-600)
  │
Mahendra-varman(600-630)
  │
Nara-sinha[#nは上ドット付き]-varman(630-668)
  │
Mahendra-varman(668-670)
  │
Parame※(セディラ付きC小文字)vara-varman(670-690)
  │
Nara-sinha[#nは上ドット付き]-varman(690-715)
  │
Parame※(セディラ付きC小文字)vara-varman(715-171)
[#ここで横組み終わり]

 たゞ此の際此の王朝の起源について、はつきり申上ぐることの出來ることがあります。此の王朝は、西暦紀元第三世紀の前半まで南印度に君臨して居つた娑多婆漢那シヤータ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーハナ王朝(※(セディラ付きC)※(マクロン付きA小文字)tav※(マクロン付きA小文字)hana)の後を承けまして、最初は方伯連帥の資格で那伽ナーガ族、チユフツ族等の諸侯伯と駢立して、南印度の東岸「クリシユナ」(Krisna[#rsnはそれぞれ下ドット付き], Kitsna)河の河口に都を建て後に王位を稱するに至つたと云ふ事であります。龍樹菩薩と同時であつたと云ふ市演得迦王、宋の求那跋摩の譯した龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈の經名に見えて居りまする禪陀迦王は、恐らく娑陀婆漢那シヤータ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーハナ王朝の末期に出でて、佛教の僧侶を保護して、或は阿育王の建てた「ブヒルサ」古代の「※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)デイサ」(Vedisa, Bhilsa)の塔を修築し、或は諸方に洞窟を掘つて僧坊に宛て、或は盛んに佛寺を建立した ※(セディラ付きC)※(マクロン付きA小文字)ta-karniシヤータ、カルニ[#nは下ドット付き] 王の名の訛略即ち「シヤーンタカ」※(セディラ付きC)※(マクロン付きA小文字)nta-ka(rna)[#後のnは下ドット付き] であるまいかと私は思ひまするから、茲に問題になつて居りまする「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」王朝とは何等の關係はありませぬ。また此の王朝の特徴は、航海通商に力を効したことで、支那に於ける禪宗の始祖と云はるゝ達磨大師は香至國(K※(マクロン付きA小文字)※(チルド付きN小文字)ci-pura)の王子であつたとの事から見ると、「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」種族の出身と見なければならぬ。達磨大師は南北朝時代に梁の武帝の普通元年廣州即ち廣東に來たとの事であるから、西暦紀元五百二十年で金剛智三藏の入唐に先立つこと二百年であります。此の時代の「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」王朝は二分せられ、香至國以外に「グンツール」(Gunthur)と「ネロール」(Nellore)との間にあるパラクカダ(Palakkada)と云ふ地に都がありましたから、いづれの王朝の王族であつたか判然せぬが、とにもかくにも、達磨大師は、「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」族の王子であつたに相違ない。刹帝利種で、金剛智三藏のやうな婆羅門族でなかつたことは明白である。其の廣州に入つた當時は世壽幾何であつたか判然せぬが、西暦紀元五世紀から六世紀に至りて、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)種族の王には、一方では「スカンダ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり(四百五十年―四百七十五年)、(別紙表參照)「シンハ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり(四百七十五年―五百年)、「スカンダ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」(五百年―五百二十年)、「ナンデイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」(五百二十五年―五百五十年)あり、他方では、「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)シユヌ・ゴーパ」あり、「シンハ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり、また「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)シユヌ・ゴーパ」あり、また「シンハ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり(五百五十年―五百七十五年)、達磨大師は梁の武帝の大通元年遷化した筈だから、いづれ前に掲げた王樣の誰かの子であつた筈である。其の血脈の中には、印度の武人の血が流れて居たに相違ない。梁の武帝の小乘的思想を無功徳の三字で喝破しただけの勇氣はあつた人に違ひない。また見樣によつては、羅馬武士に劣らぬ「パルテイヤ」武士の血が流れて居つたとも見られる。世人は、達磨大師の面壁九年の話やら、神光との問答の話や、大師に關する種々の奇怪なる話が如何にも常情を以て測ることの出來ぬを見て、達磨大師西來の眞面目につき種々の懷疑的評論をなす人もある。私どもも、達磨大師の支那に來たのちの傳説は後人の作であつたと云ふ説には、或る程度まで尤もだと思ひますが。達磨大師に限らず、當時印度に於て漸く組織的になり、體形を具するに至つた新佛教の哲學及びこれに基づきて現はれた修養・教育方法を傳へんため、支那に來た眞諦三藏等が、實利一點張りの南方支那人、官仕して利禄を求むることに終生專念する南方の支那人、華靡、駢儷對偶の文體に浮身をやつす支那の文人または知識階級に接して、適當なる法器を發見し得るに如何に苦心し失望したか、達磨大師に關する物語から推測することが出來ると思ふものであります。達磨大師が印度から支那へ西暦紀元五百二十年に來たか否か、梁の武帝と問答したか否か、乃至一葦の葉に身を托して、揚子江を渡つて北方支那に向つて赴いたか否か、私どもの問ふところでない。たゞこれによりて、印度に起つた大乘佛教の思想が南方支那を見限つて北方支那に移り、北方支那にも僅に履半足だけを殘して再び流沙葱嶺の西に歸つたと云ふことで、西暦第六世紀の前半には、南北支那いづれも大乘相應の國でなかつたことを認知すれば、それでよろしいのであります。それから約二百年を距てて、同じ「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」族の國から、印度宗教の精華、大乘佛教の極致たる眞言密教を金剛智三藏が來りて支那に傳へ、支那の民族的宗教の道教と融合して、渾然相支吾することなき密教を、儒道佛の三教に通じた宗祖大師によりて、達磨大師の時代から三百年の後に我が國に將來せられたのであります。其の間に、達磨大師の提唱にかゝる新興佛教に驚魂駭魄の支那の知識階級は、これを理解し、體得するまでに、先づ具舍の研究から始めて確實に佛教の經論に用ひられたる用語、術語の觀念を把握せねばならなかつた。唯識の知爲眞の認識論から出發して、八不中道、百非皆遣、人法無我の高遠なる哲理を把握せんとして把握出來ず、體得出來ずして、動もすれば、淺薄皮相の懷疑に陷り、絶望の地獄に陷らんとするに臨みて事事無礙、理事圓融の哲理が現はれて、やがて即事而眞、色心一如、凡聖不二の宗教が建立せられ、小乘の佛教に説く地獄極樂の説に拘泥し、現世死後の應報の説に心を奪れた民衆は、天空海濶の自由の天地に活動の場所を發見し、輪王無價の髻珠は外に求むるまでもなく、却つて大なる自我の中にあり、胼胝窮子の辛苦して尋ね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はる眞の父は、遠きに求むるまでもなく、却つて自己の眼前に居ることを悟らねばならなかつた。今日より遡りて考へて見ると、達磨大師が通商立國を國是とした南印度の國土、海に入りて寶を求むる事を建國の主義とした南印度の都邑に於て、※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)釀發生した印度文化の最高潮に達した時代の思想を支那に齎らした時代、また眞諦三藏が、南北印度交通の要衝として印度の天文地理學者が經度メリデヤン線の起點として定めた鬱邪尼ウヂヤイニイの都の學術科學を將來した時代、即ち西暦紀元第六世紀の前半から、同じ通商立國の國即ち香至國カーンチプラの艦隊に護られて金剛智三藏が入唐の時代まで、大約二百年の間かゝつて、支那に於て漸やく眞の大乘思想が會得せられ體認せられた次第でありまして、法顯三藏が其の著、佛國記中、巴連弗邑 P※(マクロン付きA小文字)tali-gr※(マクロン付きA小文字)ma[#tは下ドット付き] の節に於て述べ居られる如く、僅に羅越宗 r※(マクロン付きA小文字)jya-sv※(マクロン付きA小文字)mi, また智猛の所謂羅汰私寐迷 rattha-sv※(マクロン付きA小文字)m※(マクロン付きI小文字)[#tはともに下ドット付き](r※(マクロン付きA小文字)stra[#stはともに下ドット付き]-sv※(マクロン付きA小文字)m※(マクロン付きI小文字))と稱せらるゝ一婆羅門子により北方印度に於て保護し支持せられたに過ぎなかつた大乘思想は、此の二百年の間に於て、支那に於ける知識階級の常識となり、士大夫修養の指導精神となり終せたのであります。かくなりまするまでには、印度に於ては、善財童子は道を求めて五十三の智識を訪問して請益せねばならなかつた。常啼 Sada-prarudita 菩薩も出現せねばならなかつた。支那に於ては、流沙葱嶺の險を冒し南海風濤の難を凌ぎて、幾多の名僧高僧が來住せねばならなかつたことは云ふまでもない。斯くして支那の指導階級一般の常識となり畢つた大乘思想の精髓は、華嚴の色彩を帶びて眞言密教となり、支那の大衆的宗教の道教と合糅混一せる状態にあること大約一百年、遂に、儒道佛の三教を兼ねて會得した一大天才によりて、支那より日本に傳へられて、今日に及んだ次第であります。其の一大天才とは何人か、云ふまでもなく、宗祖大師即ち弘法大師其の人であります。かく論じ來れば、西暦紀元第九世紀の初頭に於て宗祖大師が、支那海の波濤を乘り切りて遣唐大使の一行と共に福州に漂着せられたことは、單に支那より密教を傳へんためと見るべきでなく、實は、西暦紀元第二世紀の頃より中央印度南方印度に於て胎動しつゝあつた新文化・新思想が、三百年を經て支那に入らんとして入らず、更にまた二百年を經て、金剛智三藏次いで不空金剛三藏を經て、漸やく支那に入つたものを日本に始めて將來せんためと見るべきものである。此の意味に於て、我が國の眞言宗の宗徒は宗祖大師の我が國に於ける降誕の日を記念すると同時に、不空金剛三藏の入寂の日を忘れてはならない。また不空金剛三藏の入寂の日を記念すると同時に、其の師、金剛智三藏の生國を忘れてはならない。金剛智三藏の生國は印度のいづれにあたつたかを詳にすると同時に、これを伴うて來た「アドミラル」米准那將軍の名を忘れてはならない。また誤讀してはならない。若しそれ、金剛智三藏より以前の龍猛・龍智神の事蹟に至りては、これを無責任なる俗學者の云爲に任せず、眞言宗全體の碩學と共に研究して余は更に合理的説明をなさんとするものであります。





底本:「榊亮三郎論集」国書刊行会
   1980(昭和55)年8月1日発行
底本の親本:「弘法大師と其の時代」創元社
   1947(昭和22)年8月
初出:「大乗 第二二卷第七號」
   1943(昭和18)年7〜12月
※底本は表題に「金剛智※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヂラボードヒ三藏と將軍米准那ミールザーダ」とルビを付しています。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2008年3月14日作成
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