婚姻の媒酌

榊亮三郎




(一)毎々聞くことではあるが、世の中に、何がつまらぬ役目と云つても、祝言の仲人ほど、つまらぬものはない、祝言すんで、新婦新郎仲好く行けば、仲人には用事はない、善く行かずに苦情が出來たときは雙方の家の間に立つて、あちら立てれば、こつちが立たず、こちらの申條を立てやうとすると、あちらの申條を潰すことになり、心配なものである、だから、仲人するやうな愚者は、またと世の中にないと云ふ樣な述懷を、ときどき、耳にするやうなことがある、しかし愚者であつても、賢者であつても、結婚のときに、仲人がなくて、年頃の男女が、夫婦となると云ふことは、將來はいざ知らず今日の日本では、禮即ち善良な風俗慣習でないことになつて居る、法律では、媒酌人と云ふものの存在は、結婚の一要素にはなつて居らぬが、元來日本の法律は、日本の文化の程度に比して、非常に進み過ぎて居る、日本で善良なり、道徳的なりと認められて居る風俗習慣も、日本よりも經濟上、政治上、又學術上進歩した國々では、種々の理由から、夙に消滅してしまつて居るものがある、これらを先進國と云ふが、先進國とは、何もかも先進して居る國と云ふ意でない、殊に道徳などから云へば、經濟上、政治上の影響から、却つて後進國と云はるゝ國より劣つた點もある、斯かる先進國の法律を輸入した結果、一方では先進國との交際に就いては、彼我の便宜鮮くないが、他方では、其の法律智識は未だ國民の間に、充分に浸潤洽浹して居ないから、動もすれば、法律上の智識は、少數者の占有物に歸し、其の少數者は、これを惡用する恐はあつて、道徳上からは社會に批難すべきことであつても、法律上制裁はないことは、どしどしやつて耻ぢないと云ふことが出來る、法律上、結婚の媒酌人の有無は問はぬが、今日の日本で、相當の媒酌人なくして、年頃の男女が結婚すると云ふことは、道徳上善良なることとは云へぬ、又相當の家で正式に縁組をする際、媒酌人のないと云ふことは、先づない、今日の日本では兎も角、古代の支那、印度では、殊に然りである、支那の古代では禮を以つて縁組せねば、野合と云つた、現に孔子の父は叔梁※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)と云つて、顏氏の女と一所になつて、孔子の樣な聖人を生んだが、禮を以つて結婚しなかつたと見えて、野合したと歴史家は云つて居る、如何なる點に於て、禮に缺くることがあつて、孔子の父の結婚を野合と云つたかは知らぬが、いづれの國、いづれの時代でも、年頃の男女が結婚する場合に、相當の媒酌人の存在は、禮に於て必要なことと思ふ、然るに小乘律ではあるが、佛教では、堅く佛弟子に對し媒嫁即ち結婚の媒酌をなすことを禁じて、犯すものには、女人の身に觸るゝことや、男女淫樂のことを説くと同樣に、僧殘罪を以つて問ふて居る、隨分重き罪となつてある、常情から見ると、男女の淫樂の幇助となるやうな媒介は、惡いことに相違ないが、正式の結婚を媒酌することには、何等の支障のありやうはない、戒律上にこれを嚴禁して居るは如何なる理由に基くか、種々支那譯や、「パーリ」文の律典を參照して見ると、假令ひ正式の結婚の場合であつても、結婚後、うまく行けば論はないが、若しうまく行かぬときは、媒酌人は、嫁の兩親眷屬からいろ/\批難せられ、其の媒酌人が、佛弟子であつた場合には、累を僧團に及ぼすからとの事である。
 これを機として、少しく、結婚が其の當事者、當事者の家庭に及ぼす影響に就いて述べて見、引いて、佛教の戒律と、古代印度の法典とを比較して見たい思ふて、本論を草した次第である。

kany※(マクロン付きA小文字) varayate r※(マクロン付きU小文字)pam[#mは上ドット付き] m※(マクロン付きA小文字)t※(マクロン付きA小文字) vittam[#mは上ドット付き] pit※(マクロン付きA小文字) ※(セディラ付きC小文字)rutam|
b※(マクロン付きA小文字)ndhav※(マクロン付きA小文字)h[#hは下ドット付き] kulam icchanti mist※(マクロン付きA小文字)nnam[#stはともに下ドット付き] itare jan※(マクロン付きA小文字)h[#hは下ドット付き]||

(二)中世印度の諺に云ふてあることだが、婚姻の場合に際し、一家の人々の意見がまちまちになることを叙した詩がある、この詩の意義は、大正の今日我が日本にても隨分適用せられ得べきことゝ思はれるから、古代の詩で、しかも梵語で書いたもので、現代式の文明人には迂濶千萬だと思はるゝこともあらうが、こゝに譯出することにした、まあざつとかうである、
未婚の乙女は、とかく姿のよきを撰び、母たる人は、財の多からんことを、父たる人は吠陀(ベーダ)の智識の博からんことを希ひ、親族の人々は門地を、あかの他人は食膳の旨からんことを希ふ
と云ふのである、未婚の乙女子であるから、父母の温き保護の下に生ひ立ちて、深き慈愛の光に青春の氣が溢れて居る、まだ生活とは如何のことであるか、渡世と云ふことは如何ほど苦しいことであるかは知らぬ、米のなる木も知らねば麥の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)きやうも知らぬ、接する人とては、七光もすると云ふ親の威光にあこがれて、何かうまいことにありつかふとて出入する人々であり、讀むものとては稗史小説に現はれた才子佳人の奇遇談か、金殿玉樓に住む人々のいきさつか、ぐらひのもので、夏畦に勞作する農夫のことも、秋旻に澣濯する漂母のことも、きくことはすくない、きくことはあつても自分でやつて見ないから、ほんとの智識とはならない、であるから自分の將來の夫となり、婿となる人は姿は清く、顏たちがよくあることは第一に心に起るべき問題で、働きがあるとか、金儲がうまいとか云ふやうなことは思ふにしても第二にすると云ふは、おしなべての女の情である、これにひきかへ、嫁入頃の娘もつ母親の方にしては、四十歳前後の年頃であるから、舅姑への奉養、主人へのつかへ、兒子の養育、使用人の操縱、出入のものどもに對する心勞、一家の活計等につき、所謂渡世の辛酸はなめた結果、貧しければなほさらのこと、富んで居たからとて、欲には際限がないから、金さへあればと思ふことは常に心一杯になつて居るは、大方の主婦の心情である、支那の話ではあるが、戰國の時代蘇秦が遊學して困んで歸家したとき妻も嫂も見むきすらしなかつたが、後六國の相印を帶びて家に歸つたとき、嫂は、季子が位が高くて錢が多いから、自分は尊敬すると云つたと大史公が書いて居るこのときの位は高いと云ふのはつけたりで、錢が多いと云ふ方が主であると云ふのは後世の史記の文を鑑賞する人々の定評である、由來、世話女房と云ふものは蘇秦の嫂のやうなものである、だから、己が娘の婿となる人は、なるべく富裕で、生活に不自由なく、衣裳萬端の調辨等にも、己の娘をして他に引けをとらさぬやうに思ふから、婿がねを定める上にも、子を思ふ母の慈悲には婿たるべき人の容貌はともかく、普通であれば別に異論はないが、貧乏で人なみの生活は出來ぬやうな人は、後日、己の家に厄介のかゝつてはといふ心配と、さしあたり、娘が生活にこまるやうではと云ふ懸念から、女子の婚姻の話がはじまると、第一に母親の心に浮ぶは己が女子のかたづく家の財産如何を問ふは、なべての母親の情である、母親に引きかへ、父親の方では、自分は普通は家を守ると云ふよりも、世間に出てはたらいて居るのが多いだけに、世間の事はわかつて居る、世間は必ずしも財産あるものばかりの世間でない、智慧材能あるものは、財産はなくとも世間で尊敬もせられるし、又、財産も造ることは出來る、財産はあつても學問はなくば、世間に出でゝ詐欺にかゝつたり脅迫に遭つたりして、ある財産もなくしてしまうなれば、まだしも、財産の爲に却つて身に殃を致す事例も知つて居るし、恃むべきは財にあらずして智識にあると云ふことも會得して居る、殊に古代印度に於ては吠陀は、一切の科學、宗教、法律、歴史、哲學に關する智識を收めた藏であるから、今日から見れば、日常生活には不適當な智識ではあるが、古代ではこれに勝るべき智識はなかつたから、吠陀に關する學問または智識あるものは非常に尊敬せられ、出でゝは卿相となり、處りては王者の封爵を受くることもあれば、己が女子の婿としては容貌よりもまづ古代の印度ならば吠陀の智識、大正の日本ならば人物學問に重きを置くと云ふことは、眞に己が子を愛する父親の情として、至當の事であると思はれる、これらと異りて、親戚の人々は婚姻の際、主として目を付けるは、婿たるべき人の容貌ではない、それも、不具とか、廢疾とか乃至嫌惡すべき疾病ある人とか云ふならば、嫁に行かんとする女子のために、つながる親族の縁もあれば、一應は兩親に異議を申し立つるかもしれぬが、嫁にゆかうとする本人、又は其の兩親が承知の上との事ならば已むを得ぬことゝして引きさがるまでのことである、又財産にも必ずしも目をつけぬ、あればこの上ないことではあるが、あつたからとて、金錢は他人と云ふことであるから、親戚の女子が嫁に行つたさきが、財産家だからとて、自分が金に困つたとき、無心にゆけるものでもなし、いつたからとて、貸てくれると定つた譯でなく、親族つきあひの上から見て、一族の中に財産家があれば、體面上却つて瘠我慢をして、ない袖でも振らねばならぬことがあり、却つて迷惑することがある、だから親族どもは、婚姻のときは、必ずしも婿となる人の財産に目をつけぬ、又其の智識如何にも注意せぬ、婿に智識があつては無學の親戚どもは却つてこまる、平生から使用する言葉も違ふ、理想のおきどころが違ふから、下手すると、卑陋な言葉を自分がつかつて、御里が暴露する恐がある、第一、てんで話があはぬ、殊に古代印度の樣に、吠陀の智識は、或る一階級に限られて他の階級には窺ひ知ることすら出來ない國土ではなほさらである、して見ると一族の女子に容貌がよくて、若い女のすきさうな婿が出來ても、財産があつて、年頃の女もつ母親のすきさうな婿が出來ても智識があつて其の父親が惚れるやうな婿が出來ても、其の女子の親戚にとつては何の利益はない、例外もあるであらうが、おしなべて云へば兩親が子を思ふことは自我を忘れて思ふものである、世の中にこれほど純潔の愛はない、しかし親戚同志と[#「親戚同志と」は底本では「親威同志と」]なると、さう純潔にはいかぬ、幾分かは、自家本位がまぢる、それは無理からぬことで、自分の方も獨立して扶養すべき妻子眷族を有して居る以上、これをすてゝまで、從兄弟、再從兄弟のことを世話する譯にはいかぬ、だから一女子の婚姻によりて、親戚の人々に及ぶ利害關係はといへば、たゞ其女子の婿となる人の門地の尊きか、卑きかと云ふことであつて、これと姻戚の關係が出來たとすれば、自分等の門地も、社會一般の目から見れば、幾分あがつたりさがつたりするやうにも見らるゝし、社會上の位置にも多少の影響があるから、もし其の名門が清貴であると同時に勢利の家であつたら、おしなべての親族どもは、これに依りて光輝を生ずる次第であるし、卑くて社會から爪彈せらるゝやうなことがあつたら、氣のよわい親戚どもは幾分肩身が狹くなつた心地がするから、一族中の女子が結婚をする際、其の親戚としては、餘事はともかく門地だけは將來の交際上、大に注意するは、當然のことゝ思はれる、
以上は婚姻の當事者と其の兩親親族とのことを述べたのであるが、赤の他人となると、中には、例外もあるであらうが、おしなべてまた、みづくさい話で、自分の知り合ひの家の年頃の女子は、どういふ婿を貰ふがどこへ嫁入しやうが、かれこれ云ふべき筋合でもなく、いづれにしても、めでたいことには違ひないから、相談を受けたり、問ひ合はされたときはさして自己に利害關係がないときは、これもよろし、あれもよろしで、なるべくのちのさゝはりのないやうにしておくが一番巧みな方法であるが、いよ/\となつて、日本ならば結納もとりかはし、結婚式もあげ、披露の饗宴にでも、自分が招かれて列席するとなると、茲にはじめて利害關係が生ずる、それは御料理のまづいか、うまいかの問題である、だから古代印度の詩人は「他人は食膳の旨からんことを希ふ」と謳ふた次第である、詩は極めて短く、日本の歌の卅一文字に一つ多い三十二綴音から成り立ち普通首廬迦と云ふ詩體で人生の大禮の一たる婚姻のときに立合ふ人々の心をわづかの文字で叙し去つたものであるから、やまと歌のやうに天地あめつちを動かし鬼神おにがみを泣かすと云ふやうなはたらきはないが川柳せんりゆうのやうに寸鐵骨をさすやうな妙は、たしかにある、古い詩ではあるが人情には變異はない、其の機微を穿つたもので、大正の日本の今日でも適用の出來る詩であると自分は思ふ。

(三)鬼か人非人かならばいざしらず人なみの人で年頃の女子を持つた兩親の心ほど、餘處目から見て氣の毒なことはない、家が富んで居れば居るだけ、不如意ならば不如意だけに心配は多いものである、相當の媒があつて縁談がはじまると女子の意見は第一に問はねばならぬ、自分等同志で相談もせねばならぬ、親族にも相談せねばならぬ、先方の婿の人物も素性も財産も取調べねばならぬから赤の他人であつても平素自分の家へ出入する人々にも問合はさねばならぬ、日本の今日ならば興信所へでも頼むことゝする、問はれた人々は他に理由あれば格別だが元來、めでたい話である以上、縁談が調うて、饗宴に招かれて、うまい酒や、おいしい料理でも出れば、それでよく、興信所ならば手數料も過分に貰へるから、なるべく成立するやうに話をする、先方の話がついたとこで、兩親同志の間に意見の衝突することがある、一方は人物に重きを置き、一方は人物のことは意に介せないではないが、とかく財産に重きを置く、幸にして人物はしつかりして財産も相當あつて、兩親の間に意見が一致しても、娘さんの方では、きれいな容貌の方に重きをおいて居るから、所謂好男子、金と力はとかくないものであるから、茲に一葛藤が生ずる、これも治まつたところで今日の日本のやうに個人主義の色彩が大方の家庭には非常に濃厚になつて來たら、親族の方は苦情申し立てゝ結婚に反對をしても支障はないが古代印度乃至今日の日本の貴族又は上流階級に見るやうな家族主義が勢力を占めて居るやうな場合には、親族どもの意見も大に顧慮せねばならぬ、そこで親族の意見、父親の意見、母親の意見、娘の意見の四種の意見が、上流社會の家庭には結婚の場合に對立することになる、母親の意見が勝てば娘さんはいやでも、應でも、金持の家にゆく、時あつて嫁入りしたさきは、高利貸でも、際物師で家庭の教養もなく、品性の劣等なことも顧慮しないと云ふことになるから、嫁した本人は、自暴自棄で金錢を湯水のやうにつかひ、自分の勝手なことをする、父親の意見が勝つと、娘さんは大學出の秀才で、法學士か、工學士か、醫學士か、商學士か、さもなくば參謀の方に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた軍人か、なるべく鐵砲玉の中る虞の鮮くて、早く出世する軍人かであつて、氣品もあり教養もあり、働きもあるところへゆくが、ともすると、持參金か又は類似の贈與物がいることがある、親族の意見が勝つと今度は時あつて財産家の娘さんは無論持參金つきで、祖先の遺産を[#「遺産を」は底本では「遺薩を」]蕩盡した名家の公達へ嫁に往くことになり、農夫、商人の女は一躍して、夫の餘光で貴族の班に列することになるはめでたいことではあるが、さて往つて見ると如何に兩親の膝下で豫備教育をして居つても所謂畠水練で、さてとなると中々間に合はぬ、先方の親戚の人々と交はつて見ると趣味、態度、言語、技能についてはどことなく引けをとる、これに追隨して行くには、一苦勞である、日本のことはしらぬが米國の富豪が歐洲の貴族に自分の女子を嫁入りさそうとして苦心して居るさまは氣の毒のやうである、女子のしつけは佛國が一番發達して居るからと云つて、家庭教師に佛國人を傭入れ、佛蘭西語をならはせ、音樂を教へ、繪畫、舞踏まで仕込むは勿論、中には巴里の市中又は附近に別莊まで建てゝ兩親とも移つて來て、女子の教養に力を盡して居り、金にあかせて、衣裳をこしらへて、美しく上品に見えるやうにして居るが、氏素性は爭はれぬ、米國の女子は矢張り、米國の女子で金の力でときには歐洲の貴族と結婚はしても結局は甘く行かぬことは多い、姑と話して居る中に「アシユランス」と「アンシユランス」と間違ふて直されたり「エパタン」と云ふやうな市井の語をつかつて叱られたり、やれ衣裳のきこなしがなつて居らぬ、やれ靴が大きすぐるとか云ふて可愛さうに、することなすこと、小言を受けて結局は夫と頼む婿にも飽かれて捨てらるゝ小説が隨分ある、又紐育の十二富豪の隨一たる富豪の家の令孃が帝政時代に出た佛國の某公爵家に嫁入りして、種々の葛藤不和を家庭に起し、結局公爵と親族の一人との間に決鬪すらしたといふやうな實例は、現に十數年前あつた、自分は彼の地に居たとき、新聞で長い間に亙りて、其のいきさつを記述したから、自分は讀んで今もなほ記憶して居る、いづれの時代いづれの國でも、人情には變はりはない、だから親族どもの意見のみに任して門地ある家に女子を嫁入らすと云ふことも、先づ一考を要する次第である、さればとて年齒もゆかず、世事にうとい女子の意見のみに任して、女子の好む人に嫁入らすと云ふことは甚だ危險千萬で、殊に女子の兩親に財産でもあると、これをあてに女子を誘ふものが少くない、かう愛情のない結婚は女子の將來にとりても甚だ危險である、此頃世間の新聞雜誌に喧傳せられて居る東京某名家の椿事なども世に傳ふるところだけでは眞相未だ判然せず、且つ其の中に散見する人々の中には自分の知己友人もあるからこゝに悉しくは述べることは出來ぬが察するところ、自殺せられた令孃の嫁に行つたさきは、相當の資産があつたなら已に出來たことゆゑ、令孃のおつかさんも或はこれを承諾[#「承諾」は底本では「承諸」]したかも知れない、又資産がなくて、裸一貫であつても、立派な人格力量があつて令孃の父たる方が存命であつたなら、無論進んでかの結婚を承認し場合によりては莫大な持參金を持たせて其の立身出世をたすけたことゝ思ふ、現に赤の他人でも父たる人によりて今までに引き立てられ、教育せられて立派な人になつた方々は鮮くないやうである、まして令孃のゆかれた先方は、以前から血を引いて居るとの話であるから、なほさらのことゝ思ふ、また資産はなく、力量はなくても高い門地でもあつて、當人はともかく、祖先の中に、國家に對して勳功があつたと何人も認めるほどの名家であつたならば、たとひ父たる方がなく、母たる方が財産の點から多少の異議を申し立てゝも、已に双方の結婚は事實上出來たことではあるし、他から勸めて、これを承認さしたかも知れず又其の亡父の恩を受けた人々はかく取計ふは至當であると自分は思ふ、然るにこれらの條件の一だに具備せず、又具備して居つたかもしれないが、不幸にして兩親親族の認識さるゝ所とならなかつた男子を選んで己の夫とした女子は、たしかに、不仕合せであると自分は思ふ、

(四)年頃の女子が嫁に行く以前に、一家の中に、これだけの心配があるが、さて嫁入らして見ると、女子の兩親は申すに及ばず、婿となつた方の兩親にも非常な心配がある、支那の諺に痴でなく聾でなくば、阿翁阿家とはなれないと云ふて居る、即ち莫迦でなく、つんぼでなくば、舅や姑になれないと云ふことである、是れはなみなみの人が云つた言でない、唐代の代宗皇帝の云はれたことで、恐多くも御天子樣の仰である、讀者も知つて居らるゝことゝ思ふが、代宗皇帝は、徳宗皇帝の先代で、徳宗皇帝のときに日本から弘法大師や傳教大師が入唐せられたのである。皇帝には、十八人姫君があつて其の中第一第二の姫君は、早くなくなられ、第三の姫君は、裴家に降嫁せられた、裴家は、李唐の先祖が兵を晋陽に起して以來の佐命の臣裴寂の後である、第四の姫君は、昇平公主ときこえさせて、郭家の瞹と云ふ息に降嫁せられたが、この瞹と云ふ人の父は有名な汾陽王郭子儀で、素と身分は卑くかつたが、玄宗皇帝の御宇、天寶の末つかた、安禄山の大亂に、哥舒翰や、李光弼などと共に賊を討し、一旦傾覆せんとした李唐の天下を囘復した功臣で、王に封ぜられた人であるから、無論、息の嫁に天子樣の姫君を頂戴したとて、家柄には不足はないが、どういふものか息と昇平公主とは、夫婦仲はよくない、一方では皇女であつただけに、きてやつたと云ふ風なこともあつたであらふし、一方では、父の功勳を鼻にかけて居たこともあつたらふし、しばしいさかいをしたものと見える、あるとき、いさかひの結果婿さんの郭瞹の方では、云ふことに、こと缺いて公主に對し、御前は、おやぢが天子であると云ふのを恃むのか、自分のおやぢだつて、王さんだから天子に近い、ならうと思つたなら、なれないことはないのだと云つた、嫁さんの公主は、ぐつと癪にさはつて、いきなり、參内して、代宗皇帝に申し上げた、これをきいて、驚いたは、舅の郭子儀で、さなくも、公主を震はし、一門の榮華は世人の嫉視の中心となつて居ることは知つて居るから、謹愼の上にも謹愼して、愛嬌を諸方にふりまいて、なるべく、亢龍の悔なきやうに、心配して居るやさき、こんなことが、湧いて來たから、早速、忰の瞹を捕へて牢に入れ、ともかくも、朝廷の處分を待つて居ることゝし、自から御詫のため、天子に拝謁した處が、これはまた案外で、天子の方では、郭子儀に向ひ、莫迦か、つんぼでなくば、しふと、しふとめにはなれない、こどもたちの痴話喧嘩は一々とり上げるなと、仰せられた、實に捌けた申し條で、御天子樣が、自分の女子を臣下にかたづけられても、これぐらゐに捌けねば、甘くゆかぬものである、代宗皇帝だつて、決して寛仁大度の君主でない、隨分在位十八年の間には、權臣を殺し勢家をも滅したこともある、然るにかう捌けて出たところを見ると、子を思ふ親心に、貴賤の別はないものである、女子もつた親は、御天子樣でも、嫁入り先きへは、遠慮をせねばならぬ、まして、下々のものが、娘をやり、婿をとり、自分達はしふとしふとめとなつて、圓滿に行くには、餘程遠慮をせねばならぬ、これがつらいことで、わけて、女子の兩親は、辛抱の上に、辛抱をせねばならぬことゝ思ふ。

(五)とにかく女子もつ兩親は、心配なものと見えて、古代印度の文學に、これを歌ふた詩は、澤山ある、其の一を擧ぐれば左のごときものである。
j※(マクロン付きA小文字)teti kany※(マクロン付きA小文字) mahat※(マクロン付きI小文字)ha cint※(マクロン付きA小文字) kasm※(マクロン付きA小文字)i pradeyeti mah※(マクロン付きA小文字)n vitarkah[#hは下ドット付き] |
〔datta_ sukham[#mは下ドット付き] prapsyati va_ na veti kanya_pitrtvam[#rは下ドット付き。mは下ドット付き] khalu na_ma kastam[#stはともに下ドット付き].〕||
女子は生れたりとさへ云へば、この世にて何人に嫁入らすべきかと云ふ心配は大なり、嫁したるのちも幸福を得るか否やにつきても心配は大なり、女子をもつ親の境遇は實にうきものなり。
この詩は、さきにかゝげた詩とは、體が異つて、四十四綴音から出來て居り、四分して十一綴音づゝとなり其の十一は、中で二分して五綴音と六綴音との單位に別れて居る、即ち帝釋杵インドラヴヂユラと云ふ詩體である。
女子の結婚の場合は、日本の今日でも印度の古代でも、兩親の心配は、非常なものである、殊に古代の印度では相當な家の女子が一旦[#「一旦」は底本では「一且」]嫁に往つたのち、夫たる人が死んだときは、妻たる人も殉死するがよいと云ふことになつて居るから、親族どもの方でも、自分等の一族から「サティ」(貞女)を出したいと云ふ希望は常にあり、夫に死別れた女は衷心いやであつても、兩方の親族からこれを強制的に勸告することもある、しかし女のことであるから、勸告せられた時は決心をして居ても、いよ/\夫の死體が荼※(「田+比」、第3水準1-86-44)に附せられんとして柴堆の上に載せられ、吠陀の諷吟が始まり、酥油を灌いだ柴堆に火がついて黒煙の中から紅蓮の舌を吐きて、焔が燃え上り、「サーマ」の曲が愁を含んで、寂しい音樂につれて、遠く翠微に響くとき、喪服をつけた婦人が、青春の殘る色香を惜みながら、跣足でしづ/\親族どもに伴はれて火に入らんとする刹那は、如何に鐵心石腸のものでも、正視すらするに堪へぬ光景であると想像せらんるが、習俗の力と云ふものは、えらいもので火の中に身を投ずる女子を見て、これを稱揚し、最後の一段となつて、ためらうときは、親族どもは一族の恥辱であるから、暴力を以て火の中につき落すことすらあるとの話である、よもやと思ふが、古往今來大抵の國の昔には、類似の習俗があつたことから推すと、あり得べきことゝ思ふ、今は英國の支配の下にある印度の部分では、かゝる陋習を嚴禁して居るさうであるが、なほ郷黨の譽を買はんため、僻陬の地、官憲の力の及ばぬ地方では時々かゝることが行はるゝとの事である、印度は大國であると同時に古國である、古國とは喬木あるを云ふのでない、古代の文献の徴すべきが殘て居る意義である、印度で一番舊い文献と云へば吠陀經で、中にも梨倶リグ吠陀と云ふのは一番舊いとのことである、「サティ」即ち夫に殉死する女のことは印度の學者に云はせると梨倶リグ吠陀中の讚誦第十卷、第十八章の七に根據を有して居ると云ひ英國の學者「ウイルソン」は其の曲解に基くことを辨じて居るが、吾人から見れば、いづれでも差支へはない、書物が出來て、風俗習慣は出來るものでなく、風俗習慣が出來てから、これに關する書物が出來るのである、早い話が日本の今日でも、古事記や、日本書紀に書いてない神樣が多い、中には非常に民衆の崇敬の中心となつて居らるゝ神々はある、稻荷さんだことの、金毘羅さんだことのと云ふは其の一例である、いづれも崇敬せらるべき相當の根據があつてのことであらうが、古事記にもなければ日本書紀にもない、書物にあつてもなくても此等の神々は昔から日本の國土のどこかに祀られて居つたことは事實である、「サティ」の習俗も古くから印度に存在して居つたことは否定出來ぬ、だから女子持つ兩親は身分が高ければ高いほど、女子の爲めに將來の婿がねを定むることは心配であつたに相違ない、身分は低ければ、低いだけに、また女子の將來に於ける生活に關し、兩親の懸念は並大抵ではない、隨つて結婚の媒酌をする人の責任も今日の日本に於けるよりは、重大であつて、自己の品位責任を顧慮する人々には、容易に出來ないことである、だから佛は弟子に對して婚姻の媒介を禁ぜられて犯すものは僧殘罪に問はるることになつて居る、僧殘罪とは波羅夷罪についで重大なる犯罪であることは誰も承知のことであるが、僧殘と云ふ語の意義は如何と云はれると恐らく何人も明白に答へ得る人はあるまいと思ふ。

(六)梵語學者は Samghaサングハ[#mは上ドット付き](僧團)ava※(セディラ付きC小文字)esa※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)シエーシヤ[#sは下ドット付き](殘餘)の二語が結合して連聲の規則で「ア」の音が二つつゞくから、長くなつて Samgh※(マクロン付きA小文字)va※(セディラ付きC小文字)esaサングハー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)シエーシヤ[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] 即ち僧團の殘餘又は僧殘と云ふことになるからと云つて毘尼母經第七(寒帙九、三十四丁左)
(一)云何、名僧殘、僧殘者所犯僧中、應懺悔、不應一人邊乃至二三人邊得懺悔、衆中懺悔名爲僧殘、
(二)一切比丘所懺悔事皆應僧中、僧爲作是名僧殘
(三)又言僧殘者、殘有少在不滅名爲僧殘
(四)又言僧殘者殘有少在不滅名爲僧殘、又復殘者如人爲他所斫、殘有咽喉、名云爲殘、如二人共入陣鬪、一爲他所害命絶、二爲他所害少在不斷、不斷者若得好醫良藥、可得除差、若無者不可差也、犯僧殘者亦復如是、有少可懺悔之理、若得清淨大衆、爲如法説懺悔除罪之法、此罪可除、若無清淨大衆不可除滅、是名僧殘除滅罪法(samgh※(マクロン付きA小文字)va※(セディラ付きC小文字)es※(マクロン付きA小文字)pattivyutth※(マクロン付きA小文字)na[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き])教令別住(pariv※(マクロン付きA小文字)sa)六日行摩那※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)(m※(マクロン付きA小文字)natha)阿浮呵那(※(マクロン付きA小文字)varhana[#nは下ドット付き])行阿浮呵那得清淨意於所犯處得解脱、得解脱起已更不復犯、是名僧殘、
とでも援引して説明を試むることであらふが、同じ言葉を説明するに四説あることはこれで明白である、第一説と第二説の二説とは要するに僧殘罪を犯したものは、自己の隷屬する僧團全體の立會つた上で罪の懺悔即ち赦免を請ふべきであつて、一人や、二人三人ぐらゐの少數の前で懺悔して、それでよいと云ふのでないから僧殘と云ふのであると云ふ趣意だが、これによると「僧」即ち僧團全體と云ふ語の存在は明白であるが「殘」の語の存在につきては、さらに、説明がなく強ゐて説明すれば犯者は殘りものとして加へず犯者以外の僧團全員の出席を要するからとも解せられるし、犯者を除いて、殘餘の團員の出席を要するからとも解せらる、又四分律などでは、又此種の犯罪者の處分には、僧團全體に種々の用事が殘るからと云ふやうな解があるがこれも又感服出來ぬ、歸趣する所は同一だが、こゝでは歸趣を問ふて居るのでない嚴正に語意の由來を研究して居るのである、
第三説と第四説とに依ると、僧殘罪の性質は波羅夷罪の性質と比較して輕いから、波羅夷罪の犯者は罪がきまると僧團から放逐せられて御拂ひ箱となるが僧殘罪の犯者は一時は僧團からのけられて別居するが(pariv※(マクロン付きA小文字)sa)、罪を僧團の中にて懺悔し、恭敬謹愼して(m※(マクロン付きA小文字)natha)改悛の實が見えたら再び僧團の中に復歸(※(マクロン付きA小文字)varhana[#nは下ドット付き])することが出來るから、云はゞ波羅夷罪の犯者は首は斬られて、胴體と首とは離れてしまつて、耆婆、扁鵲が來ても、命を取とめることが出來ぬ人のやうに、全然僧團の中から放逐せられて、復歸の見込みはないが、僧殘罪の犯人は首を斬られて[#「斬られて」は底本では「斯られて」]出血はしてもまだ胴體から全く離れた譯でなく、よい醫者が來て治療すれば命をとりとむることの出來る人のやうに、場合により僧團に復歸することが出來るから、僧團外のものともつかず、さればと云ふて僧團の一正員ともつかず、日本の軍律で云へば重營倉に入れられた軍人のやうで文官懲戒令で云へば待命謹愼中のものであり、一家で云へば、勘當とまでは行かぬが、三杯目には、そつと出す居候格の待遇で居る家族である、僧團の殘りもの、あまりものとしての格で居るから、僧殘と云ふのであると云ふ意味だから、大に明白だ、しかし、これで何事も隈なく明瞭になつたと思つたら大間違ひである。

(七)なるほど梵語の方では僧殘罪のことは僧伽婆尸沙サングハー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)シエーシヤと云ふが、困つたことは梵語と同語系の語であつて南方錫蘭や、緬甸や、暹羅や、柬蒲塞などの佛經經典の語である「パーリ」語では、これに相當する犯罪を普通に Samgh※(マクロン付きA小文字)disesaサングハーデイセーサ[#mは上ドット付き] と云ふのである、そしてこれを説明する南方の佛教學者は Samgha[#mは上ドット付き] ※(マクロン付きA小文字)di sesa と分析して僧伽(僧團)のアーデイセーサとなし、種々の牽強附會の説をなして居る、其の一二を擧ぐれば
(一)此種の犯罪により別住(波利婆沙 pariv※(マクロン付きA小文字)sa)の罰を科して反覆してこれを科し謹愼を命じたる上、舊に復歸せしむるは一人これをなすことを得ず、多數の人もこれをなすを得ず、たゞ僧團のみこれをなすことを得、この故に「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」と稱せらる。
(二)僧伽サングハ(僧團)は最初に於ても、自餘の場合に於ても要求せらるべきが故に「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」とは云ふなれ、との文は何の意か、もしこの種の罪を犯してのち、清めんと希望するときは下に云ふが如きは、罪を清むるものなればなり、即ちかれに先づ第一に別住を科せんため、これについで、中間には恭謙、謹愼を命ぜんため、また時宜によりて反覆してこれを科せんため、終に於て舊に復歸せしめんために、僧伽サングハ(僧團)は要求せらるべきものなり、かゝる場合には決して僧團なくして何等の集會の式典を擧行することを得ざるが故に僧伽は始中終に亘りて必ず要求せらる、この故に「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」とは云ふなれ、
右は「チルダース」の「パーリ」語辭典より孫引きしたものであるが、要するに、此の種類の罪を處置するには最初アーデイからセーサまで僧伽の集會が必要であるから「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」と云ふのである、前に引用した毘尼母經第七に擧げた四種の説明中、第一説と第二説とに相當するやうである、して見ると支那で同じく、僧殘罪と云ふても其の原語の名稱の由來は區々多岐に亘りて、一定しないのみならず、名稱すら一方では「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)シェーシャ」と云ふかと思へば他方では「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」と云ふ、「パーリ」語も梵語も同じく印度のアーリヤの言語であるが「パーリ」語は當時の俗語を基礎として梵語の典型にかき改めた一種の雅言であるから、「パーリ」語は佛出世の當時に於て印度のいづれかの地方の俗語であつたなど云ふ説はとるに足らぬ、まして摩羯陀國の語であるとか、阿輸迦王の弟で錫蘭へ佛教をはじめて持つていつたと云はるゝ摩哂陀の生れ故郷の「※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ディシャ」(Vedi※(セディラ付きC小文字)a[#dは下ドット付き])地方即ち今の「ブ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ルシャ」(Bhilsa)地方の方言であつたと云ふ説などは「パーリ」語に限らずいづれの國の言葉でも文學の語と云ふものは、どうして出來るものかと云ふことを知つて居れば、かゝる議論は出來ぬ筈である、これは餘談に過ぎないが「パーリ」語は梵語に比して俗語に近いから聲音の種類も少ない、梵語では「シャ」行「スァ」行「サ」行と三種の遍口聲(シビラント)も「パーリ」語ではたゞ一つの「サ」になつて居る、だから「シェーシャ」と梵語で發音するのを「パーリ」語では單に「セーサ」と發音するのは不思議はないとしたところで、此の際丸くおさまらないのは Samgh※(マクロン付きA小文字)va※(セディラ付きC小文字)esa[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] の「アー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」と Samgh※(マクロン付きA小文字)disesa[#mは上ドット付き] の「アーディ」である、これを無事におさめやうとすると無理が出來る、其の一例は支那の蕭齊の時代(西暦四百八十九年)に僧伽跋陀羅三藏が「パーリ」語から譯出せられたと云ふ善見律毘婆沙サマンタパーサデイカ第十二(寒八、六十八丁右)にある文である
僧伽婆尸沙者僧伽サングハ者僧也、婆者初也、尸沙者殘也、問曰云何僧爲初、答曰此比丘已得罪樂欲清淨往到僧所僧與波利婆沙、是名初、與波利婆沙竟、次與六夜行摩那※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)、爲中、殘者阿浮呵那、是名僧伽婆尸沙也、法師曰但取義味、不須究其文字、此罪唯僧能治、非一二三人、故曰僧伽婆尸沙
と大體の主意は、さきに引用した「パーリ」語の譯文の主意と一致して居るから、これをかれこれ云ふのではないが、第一に不思議に思ふは此の善見律毘婆沙は「パーリ」文から譯出せられたと云ふにかゝはらず、僧殘の語を「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」とせずして「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)セーサ」として居ることである、第二には婆(Va)者初也と云ふて居ることである、こんなことは決してない、梵語にしても「パーリ」語にしても va 又は ava と云ふ音に始と云ふ意味はない、或る學者の云ふごとく、果してこゝに所謂法師とは南方佛典の大注釋家佛音ブツドハグホーサであつて、僧伽跋陀羅三藏の師事した學者であるとの事であらばなほさら不思議である、婆者初也など隨分いい加減のことを云つたものである、殊に妙なのは但取義味不須究其文字と云つたことである、太だ佛音が律藏論藏五阿含などに對する注疏に見えた注釋ぶりなどとは違つて、振はないこと夥しい、恰も教場で學生どもから問ひつめられたとき、先生が逃を張るときのやうな口吻がある、しかし察する所は、これは問ふものと答ふるものとの間に思ひちがひがあつたから、かゝる變な文が出來たものと見える、問ふ方では梵語の方の僧伽婆尸沙サングハー※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)シエーシヤ(Samgh※(マクロン付きA小文字)va※(セディラ付きC小文字)esa[#mは上ドット付き])と云ふ言葉を頭にもつて問ふたるに、答ふる方ではパーリ語の(Samgh※(マクロン付きA小文字)disesa[#mは上ドット付き])を頭にもつて答へたやうだ、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)又は阿婆に決して初と云ふ意味はないが「アーディ」には、前きに、しば/\云つたやうに始と云ふ意味がある、此の邊の思ひちがひから、あのやうな變な文が出來たことゝ思はれる、この事に關しては後に更に論ずることもあるから今は何とも云はぬ、要するに僧殘罪と云ふ支那の譯語に對しては南北の佛教に二樣の原語があつて一樣でないと云ふことだけ讀者の記憶せられんことを望むまでゝある。
しかし戒律を制定せられたかたは、佛自身であつた筈だが、衆學法などのやうな行儀作法に關する輕い規則は時により、處によりて後人が多少の改易もあつたことゝ思ふ、現に支那に存在する諸部の律文を見ても、此の間には、多少の出入損益はある、しかし何はともあれ、波羅夷罪に次いで重大な犯罪である、僧殘罪は決して恣に後人の取捨損益を許さない筈のもので、現に諸部の律文は其數が十三と云ふに於て一致して居る、從つて其の名稱も、佛在世の時代から存在して居つたことゝ見るべきである、然るに其の名稱の由來を見るに、一方では此種の罪を犯したものは、僧團の「あまりもの」とせらるゝからだと云ひ、他方ではこれを處分するには、始中終、僧團の集會の上で定むることが必要だからだと云ふ、佛が在世の當時此の名稱があつたことゝすると、佛が如何なる趣意で此の名稱を制定せられたか、あるときは、一方の趣意、あるときは又、一方の趣意で、かゝる名稱を用ひられたとは信ぜられない、必ずや確固たる理由又は趣意を以てかゝる名稱を用ゐられたに相違ない、然るに、これに種々の趣意を附して、變な説明を附し、はては行き詰つて、たゞ義味をとれ、其の文字を究むる必要はないなどに云つてしまつては、甚だ、佛に對してすまぬ心地がする、何とか二者の中、いづれかにきめたい、自分一個としては犯罪の處置につきて、始中終、僧團全體の出席を要するものは必ずしも僧殘罪には限らない、これより重き波羅夷罪の處分につきても然りである、だから「パーリ」語の「サング※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ーディセーサ」に對する説明は、はなはだ、感服せぬ、何はさておき、この語を分析して Samghaサングハ[#mは上ドット付き]※(マクロン付きA小文字)diアーデイsesaセーサ とするのは、そもそも曲解であると思ふ。これは Samghaサングハ[#mは上ドット付き]adisesaアデイセーシヤ と分析すべきものである、梵語に改めて見れば Samghaサングハ[#mは上ドット付き]ati※(セディラ付きC小文字)esaアテイシエーシヤ[#sは下ドット付き] である、これならば僧始終でなくて、立派に僧殘と云ふ意味になる、ちやうど、日本語で、ヤマと寺との二語で、山中の寺と云ふ言葉を作つたときは「やまでら」と云ふて、「やまてら」とは云はない、即ち「でら」の「て」は「で」となる、「やまてら」と云つたら古では叡山と園城寺とならべ云ふときの略稱である、又、との二語で「矢につくる木」と云ふとすると、「ヤナギ」と云つて「やなき」とは云はない、即ち木の「き」は「ぎ」とかはる、これと同じく古代印度の俗語では、本來の清音は即ち、tとかkとか、pとか云ふやうな音は、もし二個の母音即ちaとかiとかuとか云ふやうな音に挾まつたときは、濁音のbとかgとかdとかになるが常である、一例を擧ぐると「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ラルチ」の俗語語典プラークリタプラカーシヤに Ritv※(マクロン付きA小文字)disu to dah[#Rは下ドット付き。sは下ドット付き。hは下ドット付き] と云ふ規則がある、リツ(ritu[#rは下ドット付き])等の梵語ではtはdとなる意で、ati※(セディラ付きC小文字)esa[#sは下ドット付き] の梵語が adisesa となることは、これで明白である、だから梵語ならば Samgh※(マクロン付きA小文字)ti※(セディラ付きC小文字)esaサングハーテイシエーシヤ[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] と云つたものが俗語で samgh※(マクロン付きA小文字)disesaサングハーデイセーサ[#mは上ドット付き] と發音する慣例になつて居つたに相違ない、前にも申した通り「パーリ」語と云ふものは多數學者の云ふやうに決して佛在世の當時の言葉でもなく、又、印度の一地方の方言でもなく、云はゞ佛教の教團の中に出來た非常に發達した文學語であるから、俗語から「パーリ」文にかき直すときに、てつきりこれは samgha[#mは上ドット付き] ※(マクロン付きA小文字)di sesa だと誤解してdの音を其のまゝに放置したのがそも/\混雜を生じたもとで、少くも二千年間、敬虔なる佛教徒、正直な佛學者の疑惑を誘致して種々の牽強附會の説を惹起したもとであると自分は信ずる、最初から samgh※(マクロン付きA小文字)ti※(セディラ付きC小文字)esa[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] と梵語で傳はつて居たら、こんなことにならなかつたことゝ思ふ、しかし佛教の最初、起つた時代は、文字でかいて傳へるよりも、口から口へ記憶を傳へると云ふが原則であつて殊に戒律の規則などは、たとひ文字で書いてあつたにしても、日常の座臥進退に密接の關係があつたものであるから、必ずこれを記憶して置かねばならぬ、此の頃の法律のやうに文字でかいて、もつて居つて、疑惑あるごとに開いて見ると云ふやうなことではとても間に合はぬ、南方の佛教徒は昔も今も、八日毎に開く布薩の會には、波羅提木叉の戒文を誦するから、すべて覺えて居らねばならぬ、たゞに佛教徒のみならず、古代印度の法典も、またさうであつて、これを專門にして居る人々は、暗誦して居らねばならぬ、また古代印度のみならず、古代羅馬にても、さうであつて、羅馬の市民は少くも十二銅表に刻んである法文は記憶して居らねばならぬ、さもなくば「フオラム」で訴訟があつた場合に、立會つて何の事か自分ではわからぬ恐がある、だから羅馬青年の學科の中には十二銅標の法文暗誦は第一になつて居つたことは「シセロ」の書を見れば明白である。
佛教戒律の文も記憶で傳つた結果、種々其の語の由來について、判明せぬことが少くない、これらのことを明にして、はつきり、佛の本意を闡明したいと云ふのは、前猊下の御思召であつて、まことに結構な御趣意である、これには梵語で見て判然せぬときは、「パーリ」語でしらべて見、「パーリ」語でわからぬときは西藏文で見、なほ判らぬときは、中央亞細亞で、流沙の中から、西洋人、支那人、日本人が發掘した斷簡零楮について見ると云ふ必要が出來る次第である。
餘談はさしおき、「パーリ」語の Samgh※(マクロン付きA小文字)disesa[#mは上ドット付き] は梵語の Samgh※(マクロン付きA小文字)ti※(セディラ付きC小文字)esa[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] に相當することだけは、明瞭になつたとして、然らば現在存在する梵本の中に於て、僧殘罪の原語は Samgh※(マクロン付きA小文字)ti※(セディラ付きC小文字)esa[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] であるかと云ふとさうでなく Samgh※(マクロン付きA小文字)va※(セディラ付きC小文字)esa[#mは上ドット付き。2つめのsは下ドット付き] である、ati※(セディラ付きC小文字)esa[#sは下ドット付き] にしても ava※(セディラ付きC小文字)esa[#sは下ドット付き] にしても「あまり」「のこり」即ち殘と云ふ義であるから、意味は同一であるが音が違ふ、佛在世の當時、いづれの語を使用せられたかと云ふと、それは淺學の自分には、まだ判明しない、これは後日の研究に讓りたい。

(八)僧殘罪の名稱の由來縁起はこれだけとして、この波羅夷罪につぐ重罪の中に、佛は、何故に沙門の結婚を媒介することを入れられたか、一寸局外から考へると結婚の媒介は男女の淫樂を媒介するやうにも見えるから、いけないと意料さるゝが、なるほど、年頃の男女の私通を媒介するは、第一沙門たるの品位をも傷けるし、男女の淫樂の便益を計るのであるから、道徳上、よろしくないことは申すまでもないが、正式の結婚は必ずしも男女の淫樂のためでなく、今日ではいざ知らず、古代では印度でも、希臘羅馬でも一種の宗教的行爲であり、同時に又、法律的行爲である、宗教上から見れば、結婚と云ふ行爲によりて、甲家の女子が乙の家の男子に嫁すると云ふよりも、寧ろ、甲の家の守護神の下に居る一人が乙の家の守護神の下に移る行爲であり、また甲の家の祖先の亡靈が支那流の言葉で云へば永く、血食せんため、印度流の言葉で云へば倒懸地獄の苦みを免れんために祭祀をなし得べき資格あるもの即ち子孫殊に男子を生むに必要な行爲である、家の守護神とは祖先の亡靈又は祭壇に絶えず燃ゆる火又は火神である、印度ならば家の中にある三種の「アグニ」の神、羅馬ならば「※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)スター」、希臘ならば「ヘスチア」である、法律上から見れば、これに依り、舅姑に對する義務を負ひ、また、夫により扶養の權利を得、又結婚後自己名義の財産を所有する權利を得、又、所生の子に財産の相續分配等の權利を附與する一法律行爲である、隨而、正當の結婚行爲其物は、近代思想から云つても男女淫樂のための行爲でない、まして、家族主義の色彩が非常に濃厚であつた古代では決して、かく解すべきものでなく、甚だ純潔な、宗教行爲、法律行爲である、隨而これを媒酌することは、たとひ沙門の身であつても差支へはないと思ふが、佛は何故にこれを禁ぜられたかと云ふと、全く結婚其の物は不淨ではないが、結婚後、男女の遭遇する境遇が幸福であればよいが不幸にでもなると、媒介したものはいろ/\の惡評を世間なり、殊に女子の兩親、親族から受くることになつて、累を僧團に及ぼす恐があるから、かゝる制禁を設けられたものと見える、十誦律第三(張、三、十九、左)や、根本説一切有部毘奈耶第十三(張八、五十六右)などに見えた説明はさうなつてある、善見律毘婆沙第十三(寒八、七十丁左―七十一丁右)に於ても「パーリ」文の「スツタ、ビブ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ンガ」の中に僧殘(samgh※(マクロン付きA小文字)disesa.v[#mは上ドット付き])の第五にも同樣の説明がある、後の二者では、佛は、舍衛國に居られたとき、優陀夷比丘又は六群比丘に對して呵責せられた結果、この制禁を設けられたことになつて居るが、前二者では舍衛國に居られたことだけは、變りはないが、黒鹿子又は鹿子長者の子、迦羅なるものの媒酌に對して、呵責せられた結果、此の制禁を設けられたことになつて居る、黒は k※(マクロン付きA小文字)laカーラ の譯であり、鹿子とは mrig※(マクロン付きA小文字)raムリガーラ[#1つめのrは下ドット付き] の譯であることは否定出來ない、して見ると優陀夷(ud※(マクロン付きA小文字)y※(マクロン付きI小文字))と云ふ語の譯ではないことは、疑ない、佛弟子の中には K※(マクロン付きA小文字)lod※(マクロン付きA小文字)y※(マクロン付きI小文字) と云ふのが居るが、これを以て黒鹿子又は鹿子、長者の子迦羅とは譯されない、このあたり、どういふ風に會通すべきか、自分には出來ない、暫く博雅の教を待つことにする。

(九)私通の媒介をするものは、男ならば印度で d※(マクロン付きU小文字)ta 又は d※(マクロン付きU小文字)taka であり女ならば d※(マクロン付きU小文字)ti 又は d※(マクロン付きU小文字)tik※(マクロン付きA小文字) と云ふて極めて下等なものとなつて居る、十誦律の第三によると私通の種類に女の境遇から見て、十四種であり、有部律の方では十種になつて居る、「パーリ」の「スツタ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ンガ」でも十種である、即ち
十誦律………………有部律……………善見律…………スツタ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ンガ
一、父所護…………一、父護……………一、父護…………2.pitu-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(pitri-raksit※(マクロン付きA小文字)[#1つめのrは下ドット付き。sは下ドット付き])
二、母所護…………二、母護……………二、母護…………1.m※(マクロン付きA小文字)tu-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(m※(マクロン付きA小文字)tri-raksit※(マクロン付きA小文字)[#1つめのrは下ドット付き。sは下ドット付き])
三、父母所護……………………………………………………3.m※(マクロン付きA小文字)t※(マクロン付きA小文字)-pitu-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(m※(マクロン付きA小文字)t※(マクロン付きA小文字)-pitri-raksit※(マクロン付きA小文字)[#1つめのrは下ドット付き。sは下ドット付き])
四、兄弟所護………三、兄弟護…………三、兄護…………4.bh※(マクロン付きA小文字)tu-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(Bhr※(マクロン付きA小文字)tri-raksit※(マクロン付きA小文字)[#2つめのrは下ドット付き。sは下ドット付き])
五、姉妹所護………四、姉妹護…………四、姉護…………5.Bhagini-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(Bhagin※(マクロン付きI小文字)-raksit※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]
六、舅護……………五、大公護…………………………………………………………(※(セディラ付きC小文字)va※(セディラ付きC小文字)ura-raksit※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]
七、姑護……………六、大家護…………………………………………………………(※(セディラ付きC小文字)va※(セディラ付きC小文字)n※(マクロン付きI小文字)-raksit※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]
八、舅姑護
九、親里護…………七、親護……………五、宗親護………6.※(チルド付きN小文字)※(マクロン付きA小文字)ti-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(j※(チルド付きN小文字)※(マクロン付きA小文字)ti-raksit※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]
十、姓護……………八、種護……………六、姓護…………7.gotta-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(gotra-raksit※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]
十一、自護…………九、族護
十二、法護…………十、王法護…………七、法護…………8.dhamma-rakkhit※(マクロン付きA小文字)(dharma-raksit※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]
十三、十四、夫主護…………法護……………………………9.S※(マクロン付きA小文字)rakkha(S※(マクロン付きA小文字)raks※(マクロン付きA小文字)[#2つめのsは下ドット付き]
八、罸護…………10.Sa-paridand※(マクロン付きA小文字)[#nは下ドット付き。2つめのdは下ドット付き](Sa-paridand※(マクロン付きA小文字)[#nは下ドット付き。2つめのdは下ドット付き])

こゝで一寸、御斷りをして置くが「パーリ」語の表に次ぎ、括弧を附して掲げたものは「パーリ」語に基きて自分が假に梵語に直したものである、それから、有部律の第五と第六に、大公護、大家護とあるが、大公大家とは、夫の父母即ち嫁から云へば、舅姑であつて、姑と云ふ場合には大家の語は、「タイカ」と讀んではいけない、「タイコ」と讀まねばならぬ、つまり唐代以前の俗語である、餘計なことであるが梵語との對照上誤解をせないやうに願ひたい、
十誦律の方では、十四種となつてあるが、十三しかない、尤も最後の夫主護と云ふのを夫によりて護らるゝもの、主によりて護らるゝものとの二つにすれば、十四種となる譯である、有部律の方では十種としてあるが實際には王法護の次に法護なるものを擧げて、事實十一種となつてある、善見律の方では十護となつてあるが八しかない、父母護兄弟姉妹護を加ふれば十護となるが恐らくは煩を厭ふて省きたものであらふ、「パーリ」文の「スツタ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ンガ」では十種の婦人を擧げて居る、支那譯の律には十誦律にしても、有部律にしても皆一々精細に十護の女子について説明してあるから、茲には省くことゝして、たゞ「パーリ」文の分だけを「スツタ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ンガ」の中にある説明を和譯して見ることゝした、
(一)母によりて護られたる婦人とは、母はこれを監守し、保護し、自由にし、己が權力の下に置く婦人を云ふ、(二)父に依りて護られたる婦人とは父、(三)父母によりて護られたる婦人とは父母、(四)兄弟によりて護られたる婦人とは兄弟、(五)姉妹によりて護られたる婦人とは姉妹、(六)親戚によりて護られたる婦人とは親戚、(七)種姓によりて護られたる婦人とは同姓のもの、(八)法によりて護られたる婦人とは同法のもの、これを監守し、保護し、自由にし、己が權力の下に置く婦人を云ふ、(九)監守附きの婦人とは、たとひ、華鬘をつけ(年頃の處女の裝をなせる)ものたりとも、此の女は己がものなりと密室の中にすら、占有せられたるものなり(十)罸金附きの婦女とは凡そ、人某婦に通ずるものは、かれにはこれこゝの罸金を科すとて何人かによりて罸金を定められし婦人なり、
これによると「パーリ」文の第九は十誦律の第十三、第十四の夫主護に相當して居るやうで、所謂人のもちものになつて居る婦人を云ふのであるから、妻は勿論、妾、かこはれものだのが、この中に包含せらるゝ筈である、第十の罸金附の婦人とは、當時の印度の社會の現實を遺憾なく云ひ現はしたもので二三人よりて、一の女子をかこひ、又はもちものにして、これ以外のものにして、これに通ずることを拒まんため、豫め一定の罸金を定めて置くと云ふやうな制度で、今日の日本人から見ると可笑しいやうだが、しかし、これに類似の現象は、支那や、西洋には絶無とは云へない。

(十)男子が私通の相手たる婦人の種類は、十種乃至十四種に別れてあるが、今度は法律又は習慣の認むる方法で結婚して人の妻になつた婦人には七種乃至十種あると云ふてある。
  十誦律……………有部律……………善見律……………スツタ、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ンガ
一、索得…………一、水授婦…………一、物賈……………1.dhanakk※(マクロン付きI小文字)t※(マクロン付きA小文字)(dhana-kr※(マクロン付きI小文字)t※(マクロン付きA小文字)
二、水得…………二、財娉婦…………二、樂住……………2.chanda-v※(マクロン付きA小文字)sin※(マクロン付きI小文字)(chanda-v※(マクロン付きA小文字)sin※(マクロン付きI小文字)
三、破得…………三、王旗婦…………三、雇住……………3.bhoga-v※(マクロン付きA小文字)sin※(マクロン付きI小文字)(bhoga-v※(マクロン付きA小文字)sin※(マクロン付きI小文字)
四、自來得………四、自樂婦…………四、衣物住…………4.pata-v※(マクロン付きA小文字)sin※(マクロン付きI小文字)[#tは下ドット付き](pata-v※(マクロン付きA小文字)sin※(マクロン付きI小文字)[#tは下ドット付き]
五、以衣食得……五、衣食婦…………五、水得……………5.oda-pattakin※(マクロン付きI小文字)(udaka-datt※(マクロン付きA小文字)
六、合生得………六、共活婦…………六、鐶得……………6.obhata-cumbat※(マクロン付きA小文字)[#2つめのtは下ドット付き](〔avabhrita-cumbta〕[#rは下ドット付き。2つめのtは下ドット付き])
七、須臾得………七、須臾婦…………七、婢得……………7.d※(マクロン付きA小文字)s※(マクロン付きI小文字) c※(マクロン付きA小文字) bhariy※(マクロン付きA小文字) ca(d※(マクロン付きA小文字)s※(マクロン付きI小文字) ca bh※(マクロン付きA小文字)ry※(マクロン付きA小文字) ca)
八、執作……………8.kammak※(マクロン付きA小文字)r※(マクロン付きI小文字) ca bhariy※(マクロン付きA小文字) ca(karmak※(マクロン付きA小文字)r※(マクロン付きI小文字) ca dhaj※(マクロン付きA小文字)hata[#tは下ドット付き]
九、擧旗婦…………9.dhaja-hrit※(マクロン付きA小文字)[#rは下ドット付き](dhvaja-hrit※(マクロン付きA小文字)[#rは下ドット付き]
10.muhuttik※(マクロン付きA小文字)(tamkhanik※(マクロン付きA小文字)[#mは上ドット付き。nは下ドット付き])(tatksanik※(マクロン付きA小文字)[#sは下ドット付き]

十誦律の第一索得と云ふは、有部の第二の財娉婦に相當する、善見律の第三雇住、第四衣物住は十誦律や有部律の第五以衣食得、又は衣食婦に相當し、第六、第七、第八の鐶得、婢得、執作の三者合して、十誦律、有部律の第六合生得、共活婦即ち梵語で云へば sama-j※(マクロン付きI小文字)vik※(マクロン付きA小文字) に相當する、だから善見律は九種の婦を擧げて居るが、つまり、内容に於て變化はない、たゞ須臾得、須臾婦の目が他の律にはあるが善見律にはないことになる、「パーリ」文の律で、説明を見ると、第一の財物もて買得せる婦と云ふのは、財を出して、購ひ求め己が家に住居さす婦人である、第二の己が意樂で住する婦人と云ふのは好いた同志即ち女の好む男が、男の好む女を己が家に住居せしめたことを云ふので、今日の言葉で云はゞ、戀愛本位の結婚である、第三の食物を以て住居する婦人とは食物を與へて同棲せしむる婦人で、第四の衣裳で住居する婦人とは衣裳を與へて同棲せしむる婦人であり、第五の水得婦と云ふは、水瓶に手を觸れて、同棲せしむる婦人であり、第六の鐶を卸した婦と云ふは、婦人が頭に物を載せて運搬する際、据はりのよい樣に丸い枕のやうなものを髮上に戴く、(京都の近郷の八瀬大原の婦人などは藁で作つた鐶を戴いて居る)これを頭から卸さして、勞働をやめさせ、己が家に同棲せしむるからかく云つたもので、第七は婢であつて同時に婦としたもので、第八は家事を辨ずる女で、同時に婦となつたもの、第九は、旗鼓を樹てゝ戰陣の間に敵の婦女を囚へてつれ歸り、己の妻にしたもの、第十は暫時の間、夫婦關係を結んだもので、今日の言葉で云へば、自由結婚で嫌になれば、すぐ離れてもかまはないと云ふやうなものである、かく精細に婦の種類を列擧したのを見ると佛教の戒律の注釋せられた當時に印度の社會が認めて正當の妻であるとしたものは、ざつと七種乃至十種あつたもので、日本の今日に於て、法律上、妻といふものに比すれば甚だ其範圍は廣い、察するに、此等の戒律の注疏をした人々は自分達が法律家であつたか、然らざれば、當時の法律家の間に用ゐられた專門語を使用したものと思はれる、一讀するに今日の所謂法律家(ヂユリスト)が書いたのではないかを疑はれる、今、此等の語を古代印度の法典で今日にも傳はつてあるものゝ中に探つて見たが一向に見當らない、しかし内容に於ては類似の點がないでもない、古代印度の法典と云へば、日本の法學者間に一番よく知られて、しば/\引用せらるゝのは「マヌ」の法典である、しかし「マヌ」の法典は、各種の法典を集めて大成したもので決して一番舊い法典でないことだけは斷つて置く、「マヌ」の法典で妻と云ふものは左に掲ぐる樣式によつて、女が男と一所になつたときに出來るものである、
一、梵天ブラーフマ式結婚法、この式では年頃の女子をもつて居る父親が婿たる人に水を灌いで己が女を與ふるのである、
二、天神ダイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)式結婚法、この式に依ると、祭祀の際、女子に瓔珞をつけて、着かざらして祭司に與ふるのである、
三、古仙アールシヤ式結婚法、女子の父は婿となるべき人より、一對の牛を受けてこれに女を與ふることになつて居る、
四、健達婆ガーンドハル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)式結婚法、年頃の男女相愛して各自の意樂から結婚をするのである、
五、羅刹ラークシヤサ式結婚法、又は刹帝利クシヤートラ式結婚法、これは即ち掠奪婚である、
六、阿修羅アーシユラ式結婚法、これは賣買婚である
七、生主プラヂヤーパテイヤ式結婚法、女子の父が、婿の方よりの申込を受け、汝等二人共に法を行ぜよと云つて、婿に禮して女子を與ふる式である、
八、毘舍遮パーイシヤーチヤ式結婚法、これは、年頃の女子が睡眠中か藥酒に醉ふて居るか、狂亂に陷つて居るときを伺ふて、これを誘拐し、強ゐて、結婚することを云つたのである、
以上は古代印度の立法者が正當又は已むを得ぬとして、認めた結婚の樣式である、しかし印度は前にも云つたごとく古國であると同時に大國である、文野雜糅して、一律には論じ難い國である、古代の靈賢が認めたものゝ外に結婚の樣式が種々ある、たとへば一婦多夫の陋習は昔もあつたし、今も邊陬の地には存在して居る、叉陋習ではないが、古代の印度では武士即ち刹帝利族の女子に限り、兩親の許可を得て年頃の男子を招き武藝を校べ合はせた上で一番勝つた男子に花束をなげ、擇んで己の夫とすることが出來る、ス※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ヤム、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ラ(自選の式)と云ふがこれである、悉達太子が耶輸陀羅姫を娶られたときは即ち此の式によつたものである、
今、此古代印度の聖人即ち立法者が正當と認め又正當ではないが事實上已むを得ぬとして認めた結婚法と佛教の戒律の上に現はれた結婚法とを比較して見ると、十誦律に所謂索得と云ふは、正に「マヌ」の法典に見えた阿修羅式結婚法で即ち賣買婚である、次に水得と云ふのは梵天式結婚法で、第三に破得と云ふは、正に羅刹式結婚法即ち掠奪婚に相當するやうであり、第四の自來得又は有部律の自樂婦と云ふのは「マヌ」の法典に所謂健達婆式結婚法に相當するやうであるが其の以外の結婚法は、いづれも「マヌ」の法典のみならず古代印度の法典には見えぬ、衣食婦とか、共活婦即ち夫婦共稼ぎの必要から出來た妻であるとか、須臾婦即ち一時の共同生活に基く妻とか云ふ樣な名稱を見るに戒律の注疏の出來た時代は最早、「マヌ」の法典や「ヤヂユナ、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルキア」の法典の編纂せられた印度とは大に社會の事情を異にして居ることが判然する、社會が變遷すれば宗教や法律も變つて來る、自分は、かつて印度の中世に出來た戲曲を讀んで、年頃の男女の戀愛を應酬する際、佛教の尼僧が、戀文使となつて居ることを見て、佛教戒律制定當時の印度に想到し、印度の世相の變遷に驚いて、佛教の尼僧をしてかくあさましきさまに立到らしめたのは果して尼僧のみの罪であるか、中世印度の社會の罪であるかどうかを自ら竊に問ふたことがあつた、しかし、今日になつて考へて見るとかゝることを問ふた自分の愚を笑はずには居られない。(七月二十九日稿)





底本:「榊亮三郎論集」国書刊行会
   1980(昭和55)年8月1日初版発行
初出:「光壽 第二號」
   1921(大正10)年
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2008年3月14日作成
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