現代訳論語

下村湖人




「論語」を読む人のために


 東洋を知るには儒教を知らなければならない。儒教を知るには孔子を知らなければならない。そして孔子を知るには「論語」を知らなければならない。「論語」は実に孔子を、従って儒教を、また従って東洋を知るための最も貴重な鍵の一つなのである。
      ☆
「論語」は、孔子の言行を主とし、それに門人たちの言葉をも加えて編纂したものであるが、すべて断片的で、各篇各章の間に、何等はっきりした脈絡や系統がなく、今日から見ると極めて雑然たる集録に過ぎない。しかし、それだけに、編纂者の主観によってゆがめられた点は比較的少いであろう。
 孔子の言葉を記したものとして、「論語」のほかに、しばしば「えき」の「十翼」があげられる。しかし、それには、古来学者の間に多くの疑問があり、それを孔子の書であると断定する根拠は薄弱である。従って、今日では、「論語」は不十分ながらも、孔子の言行をうかがうことの出来る、唯一の確実な書とされているのである。
      ☆
「論語」編纂の年代、ならびにその編纂者が何びとであるかは、まだ十分つまびらかにされていない。しかし、孔子の没後いくらかの年月をへたあと、すなわち西紀前およそ四百数十年ごろ、門人の門人たちの手によって編纂されたものであることは、ほぼ確実なようである。
「論語」という書名は、孔子直接の門人たちが記録しておいたものについて、編纂者たちが、おたがいに意見を交換し、論議しつつ撰定したという意味で名付けられたものであろうと信ぜられている。
      ☆
「論語」は、秦の始皇が天下を統一した時、いわゆる焚書の厄に会った。始皇は儒教の政治思想が自分の専制的統一国家の政治に合致しないという理由から、ちょうど独逸のヒットラーが書を焼いたのと同一の手段をとったのである。そのため「論語」は他の書と共に一時姿を消したが、漢代にいたって再び世に出ることになった。その時発見された「論語」に三種あった。その第一は斉の国から発見されたもの、第二は魯の国から発見されたもの、第三は孔子廟の壁の中にぬりこめられていたものである。それらはかなり内容をことにしていたので、それぞれ「斉論」「魯論」「古論」と呼んで区別されるようになった。「古論」というのは、古体文字で記されていたからである。
 この三種の「論語」は、発見後しばらくの間は、それぞれにそのままの内容で読まれていたが、後漢以後、彼此参酌して内容を修訂し、註解を加えるなどの努力が張侯、鄭玄、何晏等二三の学者によって払われ、宋代にいたって、それらを基にした※(「形のへん+おおざと」、第3水準1-92-63)※(「日/丙」、第3水準1-85-16)の「論語註疏」があらわれた。更に儒教の大成者として有名な同代の朱熹は、「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」の四者を合して、いわゆる「四書集註」を作った。爾来前者を「古註」と呼び、後者を「新註」と呼ぶならわしになったが、今日最も広く読まれているのは「新註」による「論語」である。本訳もまた主として新註により、なお古註その他を参考にすることにした。
      ☆
「論語」がはじめて日本に伝来したのは応神天皇の十六年であるが、それが刊行されたのは約一千年後の後醍醐天皇の元亨二年である。それは、その後つぎつぎに伝来した儒教の他の諸経典と共に、先ず宮廷貴族の思想と行動とに影響を与え、つぎに武家に及んだ。そして、明治維新にいたるまでの約千五百年間に、儒教は仏教と相並んで――仏教の伝来は儒教におくれること約二百年である――国民生活を支配する最大の精神的基調をなすにいたったが、とりわけ「論語」は、階級の上下をとわず、文字を知る国民の多数に読まれるようになり、その影響力は、徳川時代以後文字を知らない国民の家庭生活や社会生活にまで及び、「論語」をはなれては、国民の道徳生活を語ることが出来ないかのような観をさえ呈するにいたったのである。
 かような影響力も、しかし、明治維新後の西欧文化の伝来と共に、急激に退潮しはじめた。そして半世紀とはたたないうちに、儒教は全面的に若き世代の多数によって敬遠され、ついで軽蔑され、最後に忘却され、現在の若き世代の間では、高等の教育をうけた者でさえ、「四書」「五経」の何であるかを知るものが稀有であり、「論語」のごときも、わずかにその名が知られているだけで、専門の学徒以外に進んでその内容を知ろうとする欲望をおこすものは、絶無に近い状態である。
 かような急激な退潮、――約千五百年間に亘って高潮しつづけて来たものが、百年とはたたないうちに底を見せるほどのかような急激な退潮が、果して何に起因するかについては、ここではふれない。今はただ、それが、よかれあしかれ、まぎれもない事実であるということだけを認識するにとどめておきたい。
 しかし、この事実を認識するについて、忘れてならないことがある。それは、そうした急激な退潮は、主として国民意識の表面において行われたことであって、必ずしも生活の事実においてではないということである。むろん意識の表面にあらわれる変化が、生活の事実に何の変化も及ぼさないということは全くあり得ないことで、その意味で、明治以後の国民生活から、儒教的なものがかなりの退潮を示していることはもちろんである。しかし、それは決して意識の表面においてのように底を見せるほど甚しいものではなかった。いや、もっと適切にいうと、底は見せながら、その底にしみとおった儒教的なしめり気が、今もなお国民生活の根をうるおしており、そしてそのしめり気は、次第に眼には見えなくなるかも知れないが、容易に蒸発してしまいそうには思えないのである。
 この事実を認識することは国民にとって極めて重要なことである。というのは、それは、やがて国民をして、儒教の諸経典中、せめて「論語」ぐらいは、もう一度意識の表面に浮かびあがらせることの必要を痛感せしめるであろうからである。私は、このことを、必ずしも儒教精神の復活を希う意味においていっているのではない。ただ私は、儒教精神が、よかれあしかれ、今もなお相当の力をもって国民生活の事実を動かしている以上、国民は当然その精神を研究批判の対象として意識的に取りあぐべきであり、そしてそのためには、少くも「論語」ぐらいは広く国民の間に読まるべきであると思うのである。
      ☆
「論語」を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。
「論語」の中で、理想的人物、或は理想に近い人物を表現するために、「聖人」「仁者」「知者」「君子」等の言葉がしばしば用いられているが、それらが、精神的・道徳的にすぐれた人物を意味することはいうまでもない。しかし、精神的・道徳的にすぐれた人物は、「論語」においては、常に為政家としてすぐれた人物であることをも同時に意味しているのである。むろん、だからといって、修徳の目的が政治的権勢の獲得にあるというのではない。権勢の位置につくかどうかは天命によって決する。しかし、天命は必ず有徳の人に下るべきであり、そして修徳の理想は天命をうけてそれに恥じないだけの資格を身につけることにあるというのが「論語」を一貫して流れている思想なのである。その意味で「論語」はまぎれもなく「政治の書」であり、そのことを忘れては「論語」を正しく解することは不可能なのである。
      ☆
「論語」が「政治の書」であるということは、同時にそれが「未来世の書」でなくて「現世の書」であり、「神の書」でなくて「人間の書」であるということを意味する。その点で、等しく「精神の書」ではあっても、仏典やバイブルとは全くその立脚点を異にするのである。そしてこのことが、孔子自身の性格とその修徳の過程を物語るものであることは、いうまでもない。
 古来聖者の名をもって呼ばれている人々の中で、孔子ほど常識的・現世的な人はないであろう。彼には、その一生を通じて、ほとんど神秘的・奇蹟的な匂いがなく、また従って、その向上の道程において、天啓とか霊感とかによる、いちじるしい飛躍の瞬間がなかった。つまり彼は、自分の置かれた環境において、日常生活を丹念に磨きあげ、一歩一歩と自分の世界を昂揚し、拡大しつつ、あくまでも現実に即して現世の理想を構築し、そしてその理想が、超自然の力をかることなく、人間自からのたゆまざる努力によって実現可能なことを証明しようとした人なのである。
 孔子にも、なるほど「天」の思想があり、天帝に対する厳粛な信仰があった。その点で彼に宗教的なものが全然なかったとはいえない。しかしその「天」は、人間をその罪悪と苦悩から無差別平等に救済せんとする大悲大慈の力ではなく、むしろ静かに人間個々の境遇や、能力や、努力のあとを照覧しつつ、それぞれの運命乃至使命を決定する力、即ち神というよりはむしろ自然法というに近いものであったのである。彼が「天命を知る」という時、それは彼が彼自身を道徳的に鍛錬することによって生み出した自信の叫びであって、決して遠い天上からの神秘的啓示による飛躍を意味するものではなかった。彼は、かくて、天を語る時においてすら、あくまでもその足を地上に立て、その眼を地上にそそぎ、その全心全霊を、人間自らの力による人間社会の秩序立て、いいかえると政治の理想化にぶちこんでいたのである。
「述べて作らず」――これが孔子の学問の態度であり、また教育者としての態度であった。その意は、古聖人の道を祖述する以上に敢て自己の創見によって新しい道徳律を作るのではない、というのであるが、古聖人とは、孔子においては、「大学」にいうところの「明徳を明らかにした」地上の人であり、「修身・斉家・治国・平天下」を実現した理想的為政家であって、決して現世を超越した神秘的存在ではなかった。もっとも、それほどの人物が果して史上に実存したかは頗る疑わしいのであって、むしろそれは孔子自身の修徳をとおして描き出された理想の象徴であり、創作であると見る方が正しいのではないかと思われるが、孔子自身にとっては、それはあくまでも実存の人物であったと信じられていたのである。ここに孔子の現世的性格と現世的修養の道程とが明らかにうかがわれる。すなわち、彼にとっては、人間の理想社会の実現は決して人間自身の努力の限界をこえたものではなく、それは政治の理想化によって可能であり、そしてその実証として過去の歴史に聖人の治績があったわけなのである。
      ☆
 なお、「論語」を読むにあたって、もう一つ大切なことは、その時代的背景を一応心得ておくことである。このことは、「論語」が政治の書であるだけに、政治とは無縁な仏典やバイブルを読む場合に比して、はるかにその重要度が高い。で、それについて簡単にふれておきたいと思う。
 孔子は西紀前五五二年に生れ、同四七九年七十四才で歿したが、この時代は、中国の歴史で普通いうところの春秋時代の末期、すなわち、夏・殷・周とうけついで来た三代の王朝の最後の王朝たる周室が、全くその権威を失って、十二の諸侯が覇権を争い、しかもその諸侯も内部的に決して安全ではなく、内乱が頻発して、徐々に政治の実権が下にうつり、ほとんど無政府的な混乱状態を呈しつつあった時代である。
 周王朝の政治組織は諸侯をその下に従えていたという意味で、もとより封建制度であった。しかし有力な諸侯の大部分は周室の同族で、共同の宗廟を持ち、祭祀を共にする宗族関係で周室に結ばれており、しかもこの関係は、氏族を異にする侯国以下との間にも、社稷(土地の神・穀物の神)を祭ることによって延長されていたのである。だから、周代の国家は、封建国家というよりも、むしろ祭政一致の宗族国家という方が適当であった。そして、それに基づいて、天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民というように、厳格に身分が定まっており、祭祀・礼法のごときもその身分に応じてそれぞれの規定があり、それをみだすことは、やがて国家の秩序や道義をみだす最大の悪徳とされていたのである。
 孔子は、かような国家組織の中に生をうけたのであるが、彼はその組織の根本については何の疑惑も抱いてはいなかった。それどころか、周祖武王をたすけてその組織に基礎をおいた周公(武王の叔父)は、彼にとっては、いわゆる古聖人の一人だったのである。しかも彼の生地魯国(彼は現在の中国山東省曲阜県、当時の魯国昌平郷陬邑に生れた)は、周公の子孫の国で、その宗廟には周公が祭られており、いわば周室の政治と道義の守本尊ともいうべき位置にあった。かくて彼は、周室の諸制度について疑惑を抱くどころか、それを至上のものと考え、誇りをもってその研究に精進することを念願した。「論語」にいわゆる「十有五にして学に志す」とあるのも、少年時代における彼の、この意味での精進を物語るものに外ならないのである。
 かような彼が、春秋末期の諸侯・諸卿・諸大夫の下剋上や、僣上沙汰や、権力争いや、利害本位の取引きや、武力抗争等について、深い憂いと怒りとを感じたであろうことはいうまでもない。そしてまた、それがいよいよ彼の研学心や教育熱に拍車をかけ、実際政治に対する彼の欲望をそそり、ひいては彼の苦難にみちた諸国巡歴の旅への大きな刺戟になったであろうことも、疑いを容れないところである。
「論語」には、彼のそうした憂いや怒りの言葉が、いたるところに散見される。否、考えようでは、「論語」の言葉のすべてが、周朝の政治と道義の維持昂揚のための言葉であったといえないこともない。そしてここに、「論語」を読む者の心しなければならない重要な二点があるのである。
 その第一は、「論語」の言葉のあるものは、今日のわれわれの時代においては、文字どおりに受け容れられるものではなく、また強いて受け容れようとしてはならないということであり、その第二は、しかし、だからといって、「論語」をただちに時代錯誤の書として早計にすててしまってはならないということである。
 なるほど孔子は、中国周代の民として、周公によって基礎をおかれた当時の諸制度を讃美し、その精神を生かすことに努力した。その点で、まぎれもなく彼は封建的宗族国家の忠実な一員であった。従って彼の言行のあるものは、その表面にあらわれたかぎりにおいて、今日のわれわれにはむしろ奇異に感じられ、しばしば滑稽にさえ感じられるものがある。特に、「論語」の中で彼の坐作進退を記した条下や、彼が祭祀その他の礼の形式に関して語るのを読む場合においてそうである。また彼が治者被治者の関係について語るのを読む場合、その中のある言葉については、おそらく今日の何人も重大な疑問を抱かずにはいられないであろう。そして、そうした点から、「論語」が今の日本人の意識の中で影がうすくなって行くことも、一応うなずけないことではない。
 では、「論語」は、周代の封建的宗族国家の経典以上の何ものでもないかというと、決してそうではない。かりに「論語」から周代の色をおびていると思われる一切の表現を消し去って見るがいい。また、今日から見て少しでも時代錯誤だと思われる表現があったら、それをも遠慮なく消し去って見るがいい。そのあとに何も残らないかというと、むしろわれわれは残るものの多きにおどろくであろう。しかもそれらはすべて古今を貫き東西を貫く普遍の真理であり、そしてそれらの真理が、時代錯誤だと思われ、周代の考え方だと思われる表現の底にも、厳として存在していることに気づくであろう。
「論語」を通じて見た孔子は、決して単なる周代の忠実な封建人ではなかった。またむろん事大的曲学阿世の徒でもなかった。仁に立脚して知を研き、詩と楽とを愛して調和に生き、敬慎事に当り、勇断事を処し、剛毅正を守る底の万世の師が、たまたま周代の衣を着、周代の粟を食み、周代の事を憂え、周代の事に当ったが故に、周代の色を帯びたまでのことなのである。
 かくて「論語」は周代の皮に包まれた真理の果実であるということが出来よう。われわれはその皮におどろいて果肉をすててはならないし、さればといって、皮ごとうのみにしてもならない。皮をはいで果肉をたべる、これが要するに「論語」の正しい読みかたなのである。
      ☆
 孔子の詳伝を知ることが、「論語」の理解を助けるであろうことはいうまでもない。しかし、彼の伝記の研究はまだ極めて不十分で、その詳伝に関するかぎり、伝説の域を脱していないといわれている。漢代の史家司馬遷の「孔子世家」は孔子伝中最古のもので、後世の伝記作者の第一のよりどころとなっているが、それは、「論語」の言葉を主要な材料にして、逆に編まれた伝記であり、むしろ創作というに近い。従って「論語」を読む参考として、極めて便利なようでもあるが、実際は「論語」を別の形で読むに過ぎないともいえるのである。とにかく孔子の詳伝にはまだ権威あるものがないので、それは専門学者の研究にゆだね、ここでは、ほぼ確実だとされていることがらの中から、「論語」を読むに最小限必要だと思われる事項を左に列記するにとどめたい。
○ 彼の出生・死亡の年代、並びに出生地は既述の通り。
○ 父は叔梁※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)しゅくりょうこつといい、武功のあった武人で、その社会階級は士であった。母徴在ちょうざいは顔氏の出で父の第三夫人。父母の年齢に五十歳前後の差があった。
○ 三歳にして父を亡い、貧困の中で育ったが、幼より学を好み、十五歳で正式に学に志し、二十二歳頃よりすでに子弟の教育を行った。
○ 青年時代の職業は魯の大夫季氏の委史(倉庫番)司職(家畜番)等で、極めて低い地位であった。
○ 二十五歳、母を亡った。
○ 二十八歳、古代官制に通じた※(「炎+おおざと」、第3水準1-92-72)子が魯に来朝したのを機会に教えをうけた。
○ 三十一歳、はじめて周都に旅してその文物を見、諸家の教えをうけた。
○ 三十六歳、斉に旅した。――この頃、魯には三桓(大夫の三家)の乱があり、昭公は斉に亡命して空位時代であった。
○ 四十三歳、斉より魯に帰り、子弟の教育に専心。
○ 四十四歳、魯の定公即位、空位時代終る。
○ 四十八歳、魯に陽虎の専権が始まった。――陽虎は大夫季氏の臣で、魯公にとっては陪臣であった。孔子は陽虎に任官をすすめられたが応じなかった。
○ 五十一歳、公山不狃(魯の大夫季氏の宰)の乱があった。陽虎の専制終る。
○ 五十二歳、魯に任官、中都の宰となった。その後累進、司空(農事の長官)大司冦(司法長官)となった。
○ 五十三歳、魯、斉と夾谷に会盟の際、外交使節として随行し、大功があった。
○ 五十五歳、魯の大夫三桓子の専横をおさえ、その城を毀たんとしたが、最後に不成功に終った。
○ 五十六歳、大司冦の職にあり、宰相の事を摂行し、逆臣少政卯を誅して治績大いにあがったが、定公が斉の策謀にかかり、美人と戯れ、孔子を疎んじたため、ついに職を退き、外遊、衛に行く。かくて約十四年間の漂泊の旅がはじまった。
 漂泊の国名、順序及び重要事件はおおむね左の通りである。
 衛――陳(匡の難)――衛――曹――宋(桓※(「魅」の「未」に代えて「隹」、第4水準2-93-32)の難)――鄭――陳――衛――陳――蔡――葉――蔡(陳蔡の難)――衛
○ 六十九歳、漂泊の旅より魯にかえる。その後研学と教育に専心。
○ 七十四歳、死。
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訳註その他について


 一、訳文は忠実な逐語訳では理解しがたいものが多いので、原文の真意をそこなわないかぎり、思いきり自由な立場で試みた。従って中には訳文の域を脱して、むしろ解釈に近いと思われるものも少くはない。
 二、仮名は新仮名を用いたが、漢字は固有名詞等の関係もあり、強いて制限しなかった。
 三、各篇の見出しは、訳出不可能(本文三頁参照)なため、原書の篇名をそのまま用いた。
 四、各章に番号を付し、篇ごとにそれを新たにしたが、なお参照の場合の便宜を考慮し、括弧内に全篇の通し番号を付した。
 五、各章の終りに、必要だと思われる語句の註解、訳者の簡単な所見、感想等を記した。そのうち、特に「原文」とあるのは、原文にのみあって訳文にそのまま現われなかった語句を示すものである。
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学而第一



論語の篇数はすべてで二十であるが、その篇名は、いずれも首章の初句の二字もしくは三字をとり、それに「第一」、「第二」と数字をつけただけで、篇名そのものに特別の意味はない。しかし、各篇の内容には、それぞれ多少の特色があり、おぼろげながら、ある程度意識的に分類されているようである。
「学而第一」と題した本篇は、主として学問に志す者の先務とするところ、即ち身を修めることについての言葉を集録したもので、論語の中でも、古来最も重視され、親しまれて来た篇である。

一(一)


 先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」

○ 原文に単に「子」とあるのは孔子を指すのであるが、他にも姓の下に「子」の尊称をつけたものもあるので、それらと区別するため、本訳では、孔子の場合は「先師」と呼び、他の場合は「先生」と呼ぶことにした。
○ 論語において、「学ぶ」ということは、常に道徳的精進を意味し、更に進んでそれを政治に実現する道を学ぶことを意味する。そして孔子の理想とする有徳者乃至政治家は、堯・舜・禹・湯・武等の如き古代の帝王であるが故に、所詮はそうした先王の道を学ぶことが、論語における「学ぶ」ということになるのである。
○ 君子==この語はところによつて多少意味が変るが、主として「求道者」「真人」「上に立つ人」「為政家」等を意味し、場合によつては、そのすべてを含めた意味に用いられる。本章では「求道者」「真人」というような意味であろう。

二(二)


 ゆう先生がいわれた。――
「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめつたにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」

○ 有==孔子の門人、姓は有(ゆう)、名は若(じやく)。孔子の死後、多くの門人が推して師と仰ごうとしたほどの傑出した人物である。
○ 「子」というのは「先生」というほどの尊称であるが、論語の中で、孔子のほかに、その門人で特にこの尊称を附して呼ばれているのは、有子と曾子の二人が主で、他に二三の例外があるだけである。
○ 「仁」は儒教において至高完全な徳を意味する。

三(三)


 先師がいわれた。――
「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、仁の影がうすい。」

○ 参照四五一章。
○ 本章は「巧言令色、すくなし仁」という文語訳で有名である。

四(四)


 そう先生がいわれた。――
「私は、毎日、つぎの三つのことについて反省することにしている。その第一は、人のために謀つてやるのに全力をつくさなかつたのではないか、ということであり、その第二は、友人との交りにおいて信義にそむくことはなかつたか、ということであり、そしてその第三は、自分でまだ実践出来るほど身についていないことを人に伝えているのではないか、ということである。」

○ 曾子==孔子の門人、姓は曾(そう)、名は参(しん)、あざ名は子輿(しよ)。十六歳で孔子の門に入り、門人中の最年少者であつたが、篤学篤行の人として深く孔子に愛せられた。孔子の思想を後世に伝えた人としては門人中随一である。
○ 論語の中で、特に有子と曾子とが「子」という尊称を附して呼ばれているところから、その編述がこの二人に師事した人たちによつて行われたのではないか、という説がある。
○ 原文の最後の句「伝不習乎」を「伝えられて習わざるか」と読み、「教わつたことを復習実践しない」という意味に解する説もある。

五(五)


 先師がいわれた。――
千乗せんじょうの国を治める秘訣が三つある。即ち、国政の一つ一つとまじめに取組んで民の信を得ること、出来るだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと、これである。」

○ 千乘の国==侯国の意。乘は兵車で、天子は兵車萬台、諸侯は千台、大夫は百台を動かすという意味で、それぞれ萬乘の国、千乘の国、百乘の国というのである。孔子が特に千乘の国について語つたのは、その当時の支那が諸侯の封建時代だつたからである。

六(六)


 先師がいわれた。――
「年少者の修養の道は、家庭にあつては父母に孝養をつくし、世間に出ては長上に従順であることが、先ず何よりも大切だ。この根本に出発して万事に言動を謹み、信義を守り、進んで広く衆人を愛し、とりわけ高徳の人に親しむがいい。そして、そうしたことの実践にいそしみつつ、なお餘力があるならば、詩書・礼・楽といつたような学問に志すべきであろう。」

七(七)


 子夏しかがいつた。――
「美人を慕う代りに賢者を慕い、父母に仕えて力のあらんかぎりを尽し、君に仕えて一身の安危を省みず、朋友と交つて片言隻句も信義にたがうことがないならば、かりにその人が世間に謂ゆる無学の人であつても、私は断乎としてその人を学者と呼ぶに躊躇しないであろう。」

○ 子夏==孔子の門人、姓は卜(ぼく)、名は商(しよう)。学才に秀で、「詩経」、「春秋」についての彼の解釈は長く後世に伝えられている。

八(八)


 先師がいわれた。――
「道に志す人は、常に言語動作を慎重にしなければならない。でないと、外見が軽っぽく見えるだけでなく、学ぶこともしっかり身につかない。むろん、忠実と信義とを第一義として一切の言動を貫くべきだ。安易に自分より知徳の劣った人と交っていい気になるのは禁物である。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。」

九(九)


 そう先生がいわれた。――
「上に立つ者が父母の葬いを鄭重にし、遠い先祖の祭りを怠らなければ、人民もおのずからその徳に化せられて、敦厚な人情風俗が一国を支配するようになるものである。」

一〇(一〇)


 子禽しきん子貢しこうにたずねた。――
「孔先生は、どこの国に行かれても、必ずその国の政治向きのことに関係されますが、それは先生の方からのご希望でそうなるのでしょうか、それとも先方から持ちかけて来るのでしょうか。」
 子貢が答えた。――
「先生は、温・良・恭・儉・譲の五つの徳を身につけていられるので、自然にそうなるのだと私は思う。むろん、先生ご自身にも政治に関与したいというご希望がないのではない。しかし、その動機はほかの人とは全くちがっている。先生にとって大事なのは、権力の掌握でなくて徳化の実現なのだ。だから、先生はどこの国に行つても、ほかの人達のように媚びたり諂ったりして官位を求めるようなことはなさらない。ただご自身の徳をもって君主にぶっつかって行かれるのだ。それが相手の心にひびいて、自然に政治向きの相談にまで発展して行くのではないかと思われる。」

○ 子禽==子貢の門人であつたが、また同時に孔子の門人でもあつたともいわれている。姓は陳(ちん)、名は亢(こう)。子禽はその字。
○ 子貢==孔子の門人。姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)。子貢はその字。辯論の才では孔門の第一人者であり、また政治的才幹においても秀でていた。魯(ろ)・衛(えい)の宰相となつて、家に千金を貯えたと伝えられている。

一一(一一)


 先師がいわれた。――
「父の在世中はそのお気持を察して孝養をつくし、父の死後はその行われた跡を見て、すべての仕来りを継承するがいい。こうして三年の間父の仕来りを改めず、ひたすら喪に服する人なら、真の孝子といえるであろう。」

○ 原文の「其志」「其行」の「其」を「子の」と見る解釈もある。その説によると「子の人物は、父の在世中はその志で判断すべきであり、父の死後はその行動で判断すべきだ。なぜなら、前の場合には、子の行動は父に束縛されており、後の場合は本人の自由であるから」という意味になる。しかし、これはあまり立入りすぎた解釈であり、あとの文句とのつながりもわるいように思える。

一二(一二)


 ゆう先生がいわれた。――
「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。」

一三(一三)


 有先生がいわれた。――
「約束したことが正義にかなっておれば、その約束どおりに履行出来るものだ。丁寧さが礼にかなっておれば、人に軽んぜられることはないものだ。人にたよる時に、たよるべき人物の選定を誤っていなければ、生涯その人を尊敬して行けるものだ。」

一四(一四)


 先師がいわれた。――
「君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人に就いて自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ。」

一五(一五)


 子貢が先師にたずねた。――
「貧乏でも人にへつらわない、富んでも人に驕らない、というほどでしたら、立派な人物だと思いますが、いかがでしょう。」
 先師がこたえられた。――
「先ず一とおりの人物だといえるだろう。だが、貧富を超越し、へつらうまいとか驕るまいとかいうかまえ心からすっかり脱却して、貧乏してもその貧乏の中で心ゆたかに道を楽しみ、富んでもごく自然に礼を愛するというような人には及ばないね。」
 すると子貢がいった。――
「なるほど人間の修養には、上には上があるものですね。詩経に、
るごとく、
るごとく、
つごとく、
みがくがごとく、
たゆみなく、
道にはげまん。
 とありますが、そういうことをいったものでございましょうか。」
 先師は、よろこんでいわれた。――
よ、お前はいいところに気がついた。それでこそ共に詩を談ずる資格があるのだ。君は一つのことがわかると、すぐつぎのことがわかる人物だね。」

○ 原文「如切如磋如琢如磨」は詩経(一八章參照)の衛風洪澳の篇に出ている句で、「切磋琢磨」という熟語はここから出ている。「切」と「磋」は骨角細工の工程、「琢」と「磨」は玉石細工の工程であるが、ここでは、そうした区別を立てて解する必要はない。丹念な精進努力の形容と見ればそれでいいのである。
○ 賜==子貢の名。孔子は門人を呼ぶ時には、姓やあざ名を呼ばず、必ず名を呼ぶのである。
○ 原文「往」は「過去」を意味し、「来」は「未来」を意味するが、ここでは必ずしも時間的のことだけに局限されず、「一をきいて二を知る」或は「打てばひびく」というような意味に解すべきであろう。

一六(一六)


 先師がいわれた。――
「人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。自分が人を知らないということが心配なのだ。」
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為政第二



本篇には二三政治に関する言葉があるが、最も目立つて多いのは孝についての言葉である。題名の「為政」はやはり首章の二字をとったに過ぎない。

一(一七)


 先師がいわれた。――
「徳によつて政治を行えば、民は自然に帰服する。それは恰も北極星がその不動の座に居て、もろもろの星がそれを中心に一絲みだれず運行するようなものである。」

二(一八)


 先師がいわれた。――
「詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貴く精神は『思いよこしまなし』の一句につきている。」

○ 詩経==世界最古の詩集の一つで、大体周代の詩を孔子が編纂したものだと伝えられている。総計三百十一首を集録したといわれているが現在に伝つているのは三百五首である。
○ 「思い邪なし」==詩経魯頌ろしょう※(「馬+炯のつくり」、第4水準2-92-82)けい[#「※(「馬+炯のつくり」、第4水準2-92-82)の」は底本では「 の」]詩に「思無邪」の一句がある。心に暗影がなく、素直ですつきりしているという意味である。詩経の詩には、恋愛を歌つたものもあり、時事を諷したものもあり、また、しばしば人民の怨嗟の声と聞かれるものもあるが、孔子はそれらを一貫して流れている民衆の心の素直さにふれ、その中に天の声を聞き、善への意志を発見したのであろう。

三(一九)


 先師がいわれた。――
「法律制度だけで民を導き、刑罰だけで秩序を維持しようとすると、民はただそれらの法網をくぐることだけに心を用い、幸にして免れさえすれば、それで少しも恥じるところがない。これに反して、徳を以て民を導き、礼によって秩序を保つようにすれば、民は恥を知り、自ら進んで善を行うようになるものである。」

四(二〇)


 先師がいわれた。――
「私は十五歳で学問に志した。三十歳で自分の精神的立脚点を定めた。四十歳で方向に迷わなくなつた。五十歳で天から授かった使命を悟った。六十歳で自然に真理をうけ容れることが出来るようになつた。そして七十歳になってはじめて、自分の意のままに行動しても決して道徳的法則にそむかなくなった。」

○ 耳順(原文)==耳が真理に順うというので、何の無理もなく、真理を理解するの意。
○ 本章は孔子一生の向上の道程を端的に表現したものとして有名な言葉である。
○ 原文の「而立」「不惑」「知命」「耳順」は、それぞれ、三十歳、四十歳、五十歳、六十歳の年の形容として日本でも一般に使用されている。例えば「齢不惑に達した」という如きがそれである。

五(二一)


 大夫の孟懿もうい子が孝の道を先師にたずねた。すると先師は答えられた。――
「はずれないようになさるがよろしいかと存じます。」
 そのあと、樊遅はんちが先師の車の御者をつとめていた時、先師が彼にいわれた。――
孟孫もうそんが孝の道を私にたずねたので、私はただ、はずれないようになさるがいい、とこたえておいたよ。」
 樊遅はんちがたずねた。――
「それはどういう意味でございましょう。」
 先師が答えられた。――
「親の存命中は礼を以て仕え、その死後は礼を以て葬り、礼を以て祭る。つまり、礼にはずれないという意味だ。」

○ 孟懿子==魯の大夫。「子」の敬称があるのは大夫の身分だからである。僣上驕慢で礼にそむくことの多かつた人である。
○ 樊遅==孔子門人。
○ 孟孫==魯の大夫には孟孫、叔孫、季孫の三家があつた。孟懿は孟孫家の人だつたので、孔子はそう呼んだのである。

六(二二)


 孟武伯もうぶはくが孝の道を先師にたずねた。先師はこたえられた。――
「父母はいつも子の健康のすぐれないのに心をいためるものでございます。」

○ 孟武伯==前節の孟懿の子。虚弱で病気がちの人であつた。

七(二三)


 子游しゆうが孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「現今では、親に衣食の不自由をさせなければ、それが孝行だとされているようだが、それだけのことなら、犬や馬を飼う場合にもやることだ。もし敬うということがなかつたら、両者に何の区別があろう。」

○ 子游==孔子の門人、姓は言(げん)、名は偃(えん)、子游はその字。

八(二四)


 子夏しかが孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「むずかしいのは、どんな顔付をして仕えるかだ。仕事は若いもの、ご馳走は老人と、型通りにやったところで、それに真情がこもらないでは孝行にはなるまい。」

○ 子夏==七章註参照。

九(二五)


 先師がいわれた。――
かいと終日話していても、彼は私のいうことをただおとなしくきいているだけで、まるで馬鹿のようだ。ところが彼自身の生活を見ると、あべこべに私の方が教えられるところが多い。回という人間は決して馬鹿ではないのだ。」

○ 回==孔子の門人。姓は顔(がん)、字は子淵(しえん)。論語の編者は顔淵(がんえん)と書いて字を用いるが、それには敬意がこもつている。孔門第一の人であつたためであろう。

一〇(二六)


 先師がいわれた。――
「人間のねうちというものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどの辺にその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察して見ると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない。」

一一(二七)


 先師がいわれた。――
「古きものを愛護しつつ新しき知識を求める人であれば、人を導く資格がある。」

○ 原文の「温故知新」は名高い熟語である。

一二(二八)


 先師がいわれた。――
「君子は機械的な人間であってはならぬ。」

○ 原文の器は道具で、使用目的が一定し、自由のきかない機械的人間の意。

一三(二九)


 子貢が君子たるものの心得をたずねた。先師はこたえられた。――
「君子は、言いたいことがあったら、先ずそれを自分で行ってから言うものだ。」

一四(三〇)


 先師がいわれた。――
「君子の交りは普遍的であつて派閥を作らない。小人の交りは派閥を作って普遍的でない。」

一五(三一)


 先師がいわれた。――
「他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない。自分で考えるだけで他に学ばなければ独断に陥る危険がある。」

一六(三二)


 先師がいわれた。
「異端の学問をしても害だけしかない。」

○ 異端==古聖の道以外の学問。

一七(三三)


 先師がいわれた。――
ゆうよ、お前に『知る』ということはどういうことか、教えてあげよう。知っていることは知っている、知らないことは知らないとして、すなおな態度になる。それが知るということになるのだ。」

○ 由==孔子の門人。姓は仲(ちゆう)、字は子路(しろ)、また季路(きろ)ともいう。孔門第一の勇者で正直者ではあるが、自信が強く、勝気で独断的なところもあつたらしい。

一八(三四)


 子張しちょうは求職の方法を知りたがっていた。先師はこれをさとしていわれた。――
「なるだけ多く聞くがいい。そして、疑わしいことをさけて、用心深くたしかなことだけを言つておれば、非難されることが少い。なるだけ多く見るがいい。そして、あぶないと思うことをさけて、自信のあることだけを用心深く実行しておれば、後悔することが少い。非難されることが少く、後悔することが少ければ、自然に就職の道はひらけて来るものだ。」

○ 子張==孔子の門人。姓は※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)孫(せんそん)、名は師(し)、子張はその字。

一九(三五)


 哀公あいこうがたずねられた。――
「どうしたら人民が心服するだろうか。」
 先師がこたえられた。――
「正しい人を挙用して曲った人の上におくと、人民は心服いたします。曲った人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません。」

○ 哀公==孔子の仕えた魯(ろ)の主権者。「哀」というおくり名があつたほど気が弱くて、佞臣を退けることが出来なかつた人である。

二〇(三六)


 大夫の季康子きこうしがたずねた。――
「人民をしてその支配者に対して敬意と忠誠の念を抱かせ、すすんで善を行わしめるようにするためには、どうしたらいいでしょうか。」
 先師はこたえられた。――
「支配者の態度が荘重端正であれば人民は敬意を払います。支配者が親に孝行であり、すべての人に対して慈愛の心があれば、人民は忠誠になります。有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育すれば、人民はおのずから善に励みます。」

○ 季康子==魯の大夫で、季孫家の主。驕慢で失政の多かつた人である。

二一(三七)


 ある人が先師にたずねていった。――
「先生はなぜ政治にお携りになりませんか。」
 先師はこたえられた。――
「書経に、孝についてかようにいってある。『親に孝行であり、兄弟に親密であり、それがおのずから政治に及んでいる』と。これで見ると、家庭生活を美しくするのもまた政治だ。しいて国政の衝にあたる必要もあるまい。」

○ 書経==儒教経典の一つで、歴史と政治学とをかねたような内容のものである。

二二(三八)


 先師がいわれた。――
「人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進が出来よう。人間における信もその通りだ。」

○ 大車==荷車に用い、牛にひかせた。
○ 小車==乗用車で馬にひかせた。

二三(三九)


 子張しちょうがたずねた。――
「十代も後のことが果してわかるものでございましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「わかるとも。いんの時代はの時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところもあるが、根本は変っていない。しゅうの時代は殷の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところがあるが、やはり根本は変っていない。今後周についで新しい時代が来るかも知れないが、礼の根本は変らないだろう。真理というものは、かように過現未を通ずるものだ。従って十代はおろか百代の後も豫見出来るのだ。」

○ 夏・殷・周==支那古代の王朝。孔子は周代に生きた人である。

二四(四〇)


 先師がいわれた。――
「自分の祭るべき霊でもないものを祭るのは、へつらいだ。行うべき正義を眼前にしながら、それを行わないのは勇気がないのだ。」

○ この一章は脈絡のない二つの訓言から成立つている。原典に何かの錯誤が生じたものであろう。
○ 第一の訓言は、迷信的な淫詞邪神を祭つたり、自分の祖先でもない権力者の祖先を祭つたりする風習を戒めたものである。
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※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)はついつ第三



本篇には主として礼楽に関する訓言が集められている。

一(四一)


 先師が季氏きしを批評していわれた。――
「季氏は前庭で※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)はついつの舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう。」

○ 季氏==魯(ろ)の大夫、季孫(きそん)。
○ 八※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)==※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)(いつ)は舞人の行列。たてよこに八人ずつ、計六十四人が一団となるのが八※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)の舞で、天子の礼楽である。諸侯は六※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)、大夫は四※(「にんべん+(八がしら/月)」、第3水準1-14-20)というのが当時の制度であつた。季氏は大夫でありながら、天子の礼楽を行うような僣上の振舞をしたわけである。

二(四二)


 三家のものが、雍の詩を歌って祭祀の供物を下げた。先師がこれを非難していわれた。――
ようの詩には、『諸侯が祭りを助けている。天子はその座にあって威儀を正している。』という意味の言葉もあるし、元来三家の祭りなどで歌えるような性質のものではないのだ。」

○ 三家==魯の大夫、孟孫(もうそん)叔孫(しゆくそん)、季孫(きそん)の三家をいう。
○ 雍==詩経の中にある篇名。

三(四三)


 先師がいわれた。――
「不仁な人が礼を行ったとて何になろう。不仁な人ががくを奏したとて何になろう。」

四(四四)


 林放りんぽうが礼の根本義をたずねた。先師がこたえられた。――
「大事な質問だ。吉礼は、ぜいたくに金をかけるよりも、つまし過ぎる方がいい。凶礼は手落がないことよりも、深い悲みの情があらわれている方がよい。」

○ 林放  魯の人、字は子丘(しきゆう)。孔子の門人らしいが、不確実である。

五(四五)


 先師がいわれた。――
「夷狄の国にも君主があって秩序が立っている。現在の乱脈な中華諸国のようなものではないのだ。」

○ 夷狄==当時野蠻視されていた東夷、北狄などの国々。

六(四六)


 季氏が泰山たいざんの山祭りをしようとした。先師が冉有ぜんゆうにいわれた。――
「お前は季氏の過ちを救うことが出来ないのか。」
 冉有がこたえた。――
「私の力ではもうだめです。」
 先師がため息をついていわれた。――
「するとお前は、泰山の神は林放りんぽうという一書生にも及ばないと思つているのか。」

○ 春山==支那五嶽の一つで、魯の領内の名山。領内の山祭りは天子か諸侯かが行うのが礼であつた。季氏が大夫の身分でこれを行おうとしたのを孔子は非難したのである。
○ 冉有==孔子の門人。姓は冉(ぜん)、名は求(きゆう)、字は子有(しゆう)。当時季氏に仕えてその執事役をしていた。
○ 林放==前出(四四章)。孔子に礼の根本義をたずねた人。孔子がここに林放のことをいい出したのは、泰山の神が非礼をうけないという事を強調するためである。

七(四七)


 先師がいわれた。――
「君子は争わない。争うとすれば弓の競射ぐらいなものであろう。それもゆずりあって射場にのぼり、勝負がすむと射場を下って仲よく酒をのむ。争うにしても君子らしく争うのだ。」

八(四八)


 子夏しかが先師にたずねた。――
「笑えはえくぼが愛くるしい。
 眼はぱっちりと澄んでいる。
 それにお化粧が匂ってる。
 という歌がありますが、これには何か深い意味がありましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「絵の場合でいえば、見事な絵がかけて、その最後の仕上げにごふんをかけるというようなことだろうね。」
 子夏がいった。――
「なるほど。すると礼は人生の最後の仕上げにあたるわけでございましょうか。しかし、人生の下絵が立派でなくては、その仕上げには何のねうちもありませんね。」
 先師が喜んでいわれた。
しょうよ、お前には私も教えられる。それでこそいっしょに詩の話が出来るというものだ。」

○ 子夏==前出(七章)
○ 商==子夏の名。

九(四九)


 先師がいわれた。――
「私はしばしばの礼制の話をするが、夏の子孫の国である現在のには、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。私はしばしばいんの礼制の話をするが、殷の子孫の国である現在のそうには、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。それは典籍も不十分であり、賢人もいないからだ。それらがありさえすれば、私は私のいうことが正しいということを完全に証拠立てることが出来るのだが。」

○ 夏・殷==夏(か)は禹(う)王によつて創始され、殷(いん)は湯(とう)王によつて創始された王朝。いずれもその初期における政治は、孔子のあこがれの的になつていたものである。

一〇(五〇)


 先師がいわれた。――
※(「示+帝」、第3水準1-89-34)ていの祭は見たくないものの一つだが、それでも酒を地にそそぐ降神式あたりまではまだどうなりがまんが出来る。しかしそのあとはとても見ていられない。」

○ ※(「示+帝」、第3水準1-89-34)==天子がその始祖、遠祖を祭る大祭。魯は侯国であるが、その始祖周公が周の王室に大功があつたため、※(「示+帝」、第3水準1-89-34)(てい)の祭を特に許されていた。しかし孔子はこれを礼にかなわないと思つていたので、見るを欲しなかつた。しかも魯におけるその祭のやり方が、形式的で、長くなると敬意を欠いで来るので、いよいよ不快に思つたのである。

一一(五一)


 ある人が※(「示+帝」、第3水準1-89-34)ていの祭のことを先師にたずねた。すると先師は、自分の手のひらを指でさしながら、こたえられた。――
「私は知らない。もし※(「示+帝」、第3水準1-89-34)の祭のことがほんとうにわかっている人が天下を治めたら、その治績のたしかなことは、この手のひらにのせて見るより、明らかなことだろう。」

○ ※(「示+帝」、第3水準1-89-34)==前章参照。孔子は※(「示+帝」、第3水準1-89-34)の祭をくわしく説明すれば、自然魯の非礼を説くことにもなるので、わざと明答をさけ、その代りに暗示的にそれを説いたものであろう。

一二(五二)


 先師は、祖先を祭る時には、祖先をまのあたりに見るような、また、神を祭る時には、神をまのあたりに見るようなご様子で祭られた。そしていつもいわれた。――
「私は自分みずから祭を行わないと、祭ったという気がしない。」

一三(五三)


 王孫賈おうそんかが先師にたずねた。――
おくの神様に媚びるよりは、むしろかまどの神様に媚びよ、という諺がございますが、どうお考えになりますか。」
 先師がこたえられた。――
「いけませぬ。大切なことは罪を天に得ないように心掛けることです。罪を天に得たら、どんな神様に祈っても甲斐がありませぬ。」

○ 王孫賈==衛(えい)の大夫。
○ 奥==家の主神。
○ 竈==台所の神。
○ 孔子は当時衛にいた。王孫賈は孔子が衛に仕えたい希望をもつていると察し、衛王の機嫌をとるよりも自分の機嫌をとれば、何とかなる、という意を、奥と竈にたとえてほのめかしたのである。

一四(五四)


 先師がいわれた。――
しゅうの王朝は、夏殷かいん二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい。」

一五(五五)


 先師が大廟に入つて祭典の任に当られた時、事ごとに係の人に質問された。それをある人があざけっていった。――
「あの※(「聚+おおざと」、第4水準2-90-28)すうの田舎者のせがれが、礼に通じているなどとは、いったいだれがいい出したことなのだ。大廟に入つて事ごとに質問しているではないか。」
 先師はこれをきかれて、いわれた。――
「慎重にきくのが礼なのだ。」

○ 大廟==魯の国祖周公旦(しゆうこうたん)の廟。
○ ※(「聚+おおざと」、第4水準2-90-28)==邑の名。孔子の父がかつてその長であつたところ。孔子は幼時ここで生長した。

一六(五六)


 先師がいわれた。――
しゃの主目的は的にあてることで、的皮まとがわを射ぬくことではない。人の力には強弱があって等しくないからである。これは古の道である。」

○ 射==弓を射る競技。射には礼射と武射とがあるが、ここでは礼射の意。武射では的皮を射ぬくことを主とした。

一七(五七)


 子貢が、告朔こくさくの礼に※(「飮のへん+氣」、第4水準2-92-67)きようをお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師はいわれた。――
よ、お前は羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい。」

○ 告朔==毎年十二月、天子は翌年の暦を諸侯に頒つ。諸侯はそれを各々その祖廟に納め、毎月朔日に羊を供えて朔月報告の祭典を行う。これを告朔というのである。
○ ※(「飮のへん+氣」、第4水準2-92-67)羊==煮燒せぬ生肉の羊。
○ 賜==前出(一〇章、一五章)
○ この一節は、子貢が告朔の礼に魂がぬけ、形式化しているのを慨し、単に形式だけのことなら、羊を供えるのも無用だという意見であつたのに対し、孔子は、それではますます礼がすたれる、形式を破壞するよりも、それを保存して魂を入れることに努力したい。という建設的意見を述べたものと見るべきである。

一八(五八)


 先師がいわれた。――
「君主に仕えて礼をつくすのは当然だ。然るに世間ではそれをへつらいだという。」

○ これは孔子が魯に仕えていた頃にいつた言葉であろう。当時、大夫の権勢が強く、公室に対して礼を守らなかつた。孔子がただ一人礼を守つたので、時の人は大夫にこびて、却つて孔子を公室にこびるものだといつたのである。孔子はそれを憤つたものらしい。

一九(五九)


 定公ていこうがたずねられた。――
「君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ。」
 先師がこたえられた。――
「君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます。」

○ 定公==魯の国君、名は宋(そう)。

二〇(六〇)


 先師がいわれた。――
関雎かんしょの詩は歓楽を歌っているが、歓楽におぼれてはいない。悲哀を歌っているが、悲哀にやぶれてはいない。」

○ 関雎==詩経中の名篇だといわれている詩。

二一(六一)


 哀公あいこう宰我さいがに社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。――
の時代にはしょうを植えました。いんの時代にははくを植えました。周の時代になってからは、りつを植えることになりましたが、それは人民を戦慄せんりつさせるという意味でございます。」
 先師はこのことをきかれて、いわれた。――
「出来てしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、諌めても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない。」

○ 哀公==魯の国君。
○ 宰我==孔子の門人。姓は宰(さい)、名は予(よ)、字は子我(しが)。辯舌に長じ、しばしば言い過ぎるきらいがあつた。
○ 社==土地の神。
○ 松・柏・栗==ここでは音読しないと、「戦慄」という言葉にひびかない。原文には「戦慄」は「戦栗」となつている。
○ 本章の孔子の言葉は、宰我が「栗」を「戦慄」にひつかけて、恐怖政治を示唆するような、よけいなことをいつたのを遺憾に思いながら、一旦いつてしまつたことは仕方がない、とあきらめた意味である。しかし、同時に、周代に栗を植えた目的は宰我のいう通りであるが、それはもう過ぎたことで、今更とやかくいつても仕方がない、という意味がその奥にあるのである。

二二(六二)


 先師がいわれた。――
「管仲は人物が小さい。」
 するとある人がたずねた。――
「管仲の人物が小さいと仰しゃるのは、つましい人だからでしょうか。」
 先師がいわれた。――
「つましい? そんなことはない。管仲は三帰台さんきだいというぜいたくな高台を作り、また、家臣を多勢使って、決して兼任をさせなかったぐらいだ。」
「すると、管仲は礼を心得て、それに捉われていたとでもいうのでしょうか。」
「そうでもない。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反※はんてん[#「土へん+占」、U+576B、259-上-11]を用いるのは諸侯同志の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう。」

○ 管仲==斉(せい)の大夫。名は夷吾(いご)、字は仲(ちゆう)。桓公(かんこう)をたすけて斉の覇業を成功せしめた人。
○ 反※[#「土へん+占」、U+576B、259-下-2]==盃をふせる一種の台、献酬に用いられたもの。
○ 孔子は管仲の斉における功績は十分認めていた。(三四九章参照)しかし、功にほこつて非礼の行があつたため、人物が小さいといつたのである。

二三(六三)


 先師が魯のがく長に音楽について語られた。――
「およそ音楽の世界は一如の世界だ。そこにはいささかの対立もない。先ず一人一人の楽手の心と手と楽器が一如になり、楽手と楽手とが一如になり、更に楽手と聴衆とが一如になって、翕如きゅうじょとして一つの機をねらう。これが未発の音楽だ。この翕如たる一如の世界が、機熟しておのずから振動をはじめると、純如じゅんじょとして濁りのない音波が人々の耳を打つ。その音はただ一つである。ただ一つではあるが、その中には金音もあり、石音もあり、それぞれに独自の音色を保って、決しておたがいに殺しあうことがない。※(「激」の「さんずい」に代えて「白」、第3水準1-88-68)きょうじょとして独自を守りつつ、しかもただ一つの音の流れに没入するのだ。こうして時がたつにつれ、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、その間、厘毫のすきもなく、繹如えきじょとしてつづいて行く。そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される。まことの音楽というものは、こうして始まり、こうして終るものだ。」

○ 本節の原文は、翕如(きゆうじよ)、純如(じゆんじよ)、※(「激」の「さんずい」に代えて「白」、第3水準1-88-68)如(きようじよ)、繹如(えきじよ)、といつたような形容詞をならべたに過ぎない、極めて簡潔なものだが、それを直訳的に邦語にうつしても意味が通らないので、思いきつて言葉を補足することにし、拙著「論語物語」中の「楽長と孔子の眼」に書いたのをほとんどそのまま引用した。

二四(六四)


 関守せきもりが先師に面会を求めていった。――
「有徳のお方がこの関所をお通りになる時に、私がお目にかかれなかったためしは、これまでまだ一度もございません。」
 お供の門人たちが、彼を先師の部屋に通した。やがて面会を終って出て来た彼は、門人たちにいった。――
「諸君は、先生がに下られたことを少しも悲観されることはありませんぞ。天下の道義が地におちてすでに久しいものですが、天は、先生を一国だけにとめておかないで、天下の木鐸ぼくたくにしようとしているのです。」

○ 儀==衛(えい)の邑名。国境に近いので、そこには関所が設けられていた。
○ 木鐸==鐸は鈴である。金属製であるが、その舌が木で出来ているので、木鐸というのである。文教その他平和的政令の布告の際に、これを振つて人民の注意をうながす慣例であつた。舌を金属で作つた金鐸もあつたが。それは軍事の場合にのみ用いられたので、関守は特に木鐸といつたのである。
○ この一節は孔子が魯の官をやめ。天下を周遊して道を説いていた頃のことで、門人たちは。どこに行つても孔子が用いられないので、気をくさらしていたのである。

二五(六五)


 先師が楽曲しょうを評していわれた。――
「美の極致であり、また善の極致である。」
 更に楽曲を評していわれた。――
「美の極致ではあるが、まだ善の極致だとはいえない。」

○ 韶==古代の帝王舜(しゆん)の作つた楽曲。
○ 武==周朝の祖武(ぶ)王の作つた楽曲。
○ 舜(しゆん)は平和裏に帝堯(ぎよう)に位を譲られ、武(ぶ)王は殷(いん)の暴君紂(ちゆう)を武力討伐して位についた。両者の楽曲にもそれが事実あらわれていたかどうかは問題として平和主義者であり、芸術と道徳との一致を理想とする孔子の耳には、それが感じられたらしい。

二六(六六)


 先師がいわれた。――
「人の上に立つて寛容でなく、礼を行うのに敬意をかき、葬儀に参列しても悲しい気持になれない人間は、始末におえない人間だ。」
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里仁第四



この篇には主として仁徳に関する言葉を集めてある。

一(六七)


 先師がいわれた。――
「隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない。」

○ 本章原文の「仁」は至高完全の徳というほど強い意味には用いられていない。

二(六八)


 先師がいわれた。――
「不仁な人間は、長く逆境に身を処すことも出来ないし、また長く順境に身を処することも出来ない。それが出来るのは仁者と知者であるが、仁者はどんな境遇にあっても、仁そのものに安んずるが故にみだれないし、知者は仁の価値を知って努力するが故にみだれない。」

○ 仁==孔子の道徳的理想で、理性愛というに近いが、それでは不十分である。しかもその用法には時に深浅があつて。一定しない。前節でそれを「親切心」と訳したが、その程度の意味に解した方が適切な場合もある。しかし、本章では殆んど孔子の理想に近い意味が含まれているので、むしろ原語のままが適切であろう。

三(六九)


 先師がいわれた。――
「ただ仁者のみが正しく人を愛し、正しく人を悪むことが出来る。」

四(七〇)


 先師がいわれた。――
「志向がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行うことはない。」

五(七一)


 先師がいわれた。――
「人は誰しも富裕になりたいし、また尊貴にもなりたい。しかし、正道をふんでそれを得るのでなければ、そうした境遇を享受すべきではない。人は誰しも貧困にはなりたくないし、また卑賎にもなりたくはない。しかし、道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそれを脱れようとあせる必要はない。君子が仁を忘れて、どうして君子の名に値しよう。君子は、箸のあげおろしの間にも仁にそむかないように心掛くべきだ。いや、それどころか、あわを食ったり、けつまずいたりする瞬間も、心は仁にしがみついていなければならないのだ。」

六(七二)


 先師がいわれた。――
「私はまだ、真に仁を好む者にも、真に不仁を悪む者にも会ったことがない。真に仁を好む人は自然に仁を行う人で、全く申分がない。しかし不仁を悪む人も、つとめて仁を行うし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。せめてその程度には誰でもなりたいものだ。それは何もむずかしいことではない。今日一日、今日一日と、その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえ出来ない人はまさかないだろう。あるかも知れないが、私はまだ、それも出来ないような人を見たことがない。」

七(七三)


 先師がいわれた。――
「人がら次第で過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁不仁がわかるものだ。」

八(七四)


 先師がいわれた。――
「朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない。」

○ 孔子の功利を超越した、燃えるような求道心から出た荘厳な言葉である。

九(七五)


 先師がいわれた。――
「いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない。」

一〇(七六)


 先師がいわれた。――
「君子が政治の局にあたる場合には、自分の考えを固執し、無理じいに事を行ったり禁止したりすることは決してない。虚心に道理のあるところに従うだけである。」

○ 適(原文)==是が非でも行おうと思うこと。
○ 莫(原文)==是が非でも行うまいと思うこと。

一一(七七)


 先師がいわれた。
「上に立つ者が常に徳に心掛けると、人民は安んじて土に親み、耕作にいそしむ。上に立つ者が常に刑罰を思うと、人民はただ上からの恩恵だけに焦慮する。」

一二(七八)


 先師がいわれた。――
「利益本位で行動する人ほど怨恨の種をまくことが多い。」

一三(七九)


 先師がいわれた。――
「礼の道にかなつた懇切さで国を治めるならば、何の困難があろう。もし国を治めるのに、そうした懇切さを欠くなら、いったい礼制は何のためのものか。」

一四(八〇)


 先師がいわれた。――
「地位のないのを心配するより、自分にそれだけの資格があるかどうかを心配するがいい。また、自分が世間に認められないのを気にやむより、認められるだけの価値のある人間になるように努力するがいい。」

一五(八一)


 先師がいわれた。
しんよ、私の道はただ一つの原理で貫かれているのだ。」
 曾先生が答えられた。――
「さようでございます。」
 先師はそういって室を出て行かれた。すると、ほかの門人たちが曾先生にたずねた。――
「今のは何のことでしょう。」
 曾先生は答えていわれた。――
「先生の道は忠恕の一語につきるのです。」

○ 參==曾子(そうし)の名。
○ 忠恕==忠は自分の真心に訴えること、恕は自分の心を他におし及ぼすことで、真心からの同情による愛の実践という意。仁というに近い。

一六(八二)


 先師がいわれた。――
「君子は万事を道義に照らして会得するが、小人は万事を利害から割出して会得する。」

一七(八三)


 先師がいわれた。――
「賢者を見たら、自分もそうありたいと思うがいいし、不賢者を見たら、自分はどうだろうかと内省するがいい。」

一八(八四)


 先師がいわれた。
「父母に仕えて、その悪を默過するのは子の道ではない。言葉を和らげてそれを諌めるがいい。もし父母がきかなかったら、一層敬愛の誠をつくして、根気よく諌めることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親を怨んではならない。」

○ 幾諌(原文)==幾は微に同じ。角立たぬように柔らかに諌める意。

一九(八五)


 先師がいわれた。――
「父母の存命中は、遠い旅行などはあまりしないがいい。やむを得ず旅行する場合は行先を明らかにしておくべきだ。」

二〇(八六)


 先師がいわれた。
「もし父の死後三年間その仕来りを変えなければ、その人は孝子といえるだろう。」

○ この語は一一章の末尾と同一。

二一(八七)


 先師がいわれた。――
「父母の年齢は忘れてはならない。一つにはその長命を喜ぶために、一つには老先の短いのをおそれていよいよ孝養をはげむために。」

二二(八八)


 先師がいわれた。――
「古人はかろがろしく物をいわなかったが、それは実行の伴わないのを恥じたからだ。」

二三(八九)


 先師がいわれた。――
「ひかえ目にしていてしくじる人は少い。」

二四(九〇)


 先師がいわれた。――
「君子は、口は不調法でも行いには敏活でありたいと願うものだ。」

二五(九一)


 先師がいわれた。――
「徳というものは孤立するものではない。必ず隣が出来るものだ。」

○ 隣==共鳴、同感、親近する者の意。
○ 文語訳「徳は孤ならず、必ず隣有り」の方が却つてぴつたりするであろう。

二六(九二)


 子游しゆうがいった。――
「君主に対して忠言の度が過ぎると、きっとひどい目にあわされる。友人に対して忠告の度が過ぎると、きっとうとまれる。」
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公冶長第五



この篇は、ほとんど全部が人物評である。

一(九三)


 先師が公冶長こうやちょうを評していわれた。――
「あの人物なら、娘を嫁にやってもよい。かつては縄目の恥をうけたこともあったが、無実の罪だったのだ。」
 そして彼を自分の婿にされた。
 また先師は南容なんようを評していわれた。――
「あの人物なら、国が治っている時には必ず用いられるであろうし、国が乱れていても刑罰をうけるようなことは決してあるまい。」
 そして兄上の娘を彼の嫁にやられた。

○ 公冶長==孔子の門人。公冶(こうや)は姓、長(ちよう)は名。字は子長(しちよう)。魯の人とも斉の人とも伝えられている。
○ 南容==孔子の門人。名は※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)(カツ)。字は子容(しよう)。

二(九四)


 先師が子賎しせんを評していわれた。――
「こういう人こそ君子というべきだ。しかし、もし魯の国に多くの君子がいなかったとしたら、彼もなかなかこうはなれなかったろう。」

○ 子賤==孔子の門人。姓は※(「宀/必」、第3水準1-47-56)(ふく)、名は不斉(ふせい)、子賤はその字。魯の人。孔子より若きこと四十九歳で、晩年の門人であつた。魯の単父(たんぷ)という土地の代官をしていたが、若年にもかかわらず、無為にして治めたといわれたほど。すぐれた人であつた。

三(九五)


 先師が人物評をやつておられると、子貢がたずねた。――
「私はいかがでございましょう。」
 先師がこたえられた。――
「お前は見事なうつわだね。」
 子貢がかさねてたずねた。――
「どんな器でございましょう。」
 先師がこたえられた。――
瑚連これんだ。」

○ 器==二八章參照。
○ 瑚連==宗廟の祭典に用いた最も貴重な食器で、玉をちりばめたものである。
○ 孔子は子貢を役に立つ人間とは認めていた。そしてその才華を瑚連にさえたとえた。しかし、「器」という言葉を孔子がふだんどんな意味につかつていたかを子貢が知つていたとすれば。恐らく冷汗三斗の思いがしたであろう。

四(九六)


 ある人がいった。――
ようは仁者ではありますが、惜しいことに口下手で、人を説きふせる力がありません。」
 すると先師がいわれた。
「口下手など、どうでもいいことではないかね。人に接して口先だけうまいことをいう人は、たいていおしまいには、あいそをつかされるものだよ。私はようが仁者であるかどうかは知らないが、とにかく、口下手は問題ではないね。」

○ 雍==孔子の門人。姓は冉(ぜん)、字は仲弓(ちゆうきゆう)、魯の人。

五(九七)


 先師が漆雕開しつちょうかいに仕官をすすめられた。すると、漆雕開はこたえた。――
「私には、まだ役目を果すだけの自信がありません。」先師はその答えを心から喜ばれた。

○ 漆雕開==孔子の門人。漆雕(しつちよう)は姓、開(かい)は名、字は子若(しじやく)。蔡の人。
○ 孔子の門人たちの中には仕官をいそぐ者が多かつたが、孔子は常にそれを戒めていた。然るに漆雕開は、孔子が進んで仕官をすすめたにも拘らず、なお自重したのである。

六(九八)


 先師がいわれた。――
「私の説く治国の道も、到底行われそうにないし、そろそろいかだにでも乗って海外に出ようと思うが、いよいよそうなった場合、私について来てくれるのは、ゆうかな。」
 子路はそれをきいて大喜びであった。すると先師がまたいわれた。――
「ところで、ゆうは、勇気を愛する点では私以上だが、分別が足りないので、いささか心細いね。」

○ 由==子路の名。
○ 本章の孔子の言葉は、道の行われないのを歎き、冗談まじりに海外旅行のことなどいいながら、子路の急所をついたところに妙味がある。

七(九九)


 孟武伯もうぶはくが先師にたずねた。――
「子路は仁者でございましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「わかりませぬ。」
 孟武伯は、しかし、おしかえしてまた同じことをたずねた。すると先師はいわれた。――
ゆうは千乗の国の軍事を司るだけの能力はありましょう。しかし仁者といえるかどうかは疑問です。」
「では、きゅうはいかがでしょう。」
 先師はこたえられた。――
「求は千戸の邑の代官とか、百乗の家の執事とかいう役目なら十分果せましょう。しかし、仁者といえるかどうかは疑問です。」
せきはどうでしょう。」
 先師はこたえられた。――
「赤は式服をつけ、宮庭において外国の使臣の応接をするのには適しています。しかし、仁者であるかどうかは疑問です。」

○ 孟武伯==二二章參照。
○ 由==子路の名。
○ 求==冉有の名。
○ 赤==孔子の門人。姓は公西、字は子華、赤はその名。魯の人。
○ 千乗の国==諸侯の国。
○ 千戸の邑==当時の都会。
○ 百乗の衆==大夫の家。
○ 本章において、孔子は孟武伯の問に対し、三人の門人の人物才能を大体から見て大中小の三段にわかち、且つそれぞれの特長を述べている。子路は大きい人物ではあるが、軍事に適して文事に適しない。冉有は中の人物で文官型。公西華は小の人物で、禮の形式に通じていたのである。

八(一〇〇)


 先師が子貢にいわれた。――
「お前とかいとは、どちらがすぐれていると思うかね。」
 子貢がこたえていった。――
「私ごときが、囘と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。囘は一をきいて十を知ることが出来ますが、私は一をきいてやつと二を知るに過ぎません。」
 すると先師はいわれた。――
「実際、囘には及ばないね。それはお前のいうとおりだ。お前のその正直な答はいい。」

○ 囘==門人顔囘。
○ 一をきいて十を知る==十は全体の意。物事の一端を説き聞かされると全体がわかる、というのである。
○ 一をきいて二を知る==二は第二の意。物事の一端を説き聞かされると、つぎのことがわかるというのである。(一五章參照)

九(一〇一)


 宰予さいよが昼寝をしていた。すると先師がいわれた。――
「くさった木には彫刻は出来ない。ぼろ土の塀は上塗をしてもだめだ。お前のようななまけ者を責めても仕方がない。」
 それから、しばらくしてまたいわれた。――
「これまで私は、誰でもめいめい口でいう通りのことを実行しているものだとばかり信じて来たのだ。しかしこれからは、もうそうは信じていられない。いうことと行うこととが一致しているかどうか、それをはっきりつきとめないと、安心が出来なくなって来た。お前のような人間もいるのだから。」

○ 宰予==宰我(さいが)。

一〇(一〇二)


 先師が、いわれた。――
「私はまだ剛者というほどの人物に会ったことがない。」
 するとある人がいった。――
※(「木+長」、第4水準2-14-94)しんとうという人物がいるではありませんか。」
 先師は、いわれた。――
※(「木+長」、第4水準2-14-94)とうは慾が深い。あんなに慾が深くては剛者にはなれないね。」

○ 申※(「木+長」、第4水準2-14-94)==孔子の門人で魯の人だといわれているが、たしかでない。
○ 孔子が剛者といつたのは、道に精進してひるまない人を意味したのである。

一一(一〇三)


 子貢がいった。――
「私は、自分が人からされたくないことは、自分もまた人に対してしたくないと思つています。」
 すると先師がいわれた。――
よ、それはまだまだお前に出来ることではない。」

一二(一〇四)


 子貢がいった。――
「先生のご思想、ご人格のはなというべき詩書礼楽のお話や、日常生活の実践に関するお話は、いつでもうかがえるが、その根本をなす人間の本質とか、宇宙の原理とかいう哲学的なお話は、容易にはうかがえない。」

○ 文章(原文)==普通今日用いられている文章の意ではない。あや、かざり、表面にあらわれた善美なもの、という意味である。
○ この一章は、子貢が孔子の口からめつたに哲学的な話が聞けないのを残念に思つての言葉なのか、或は、たまたまそれをきいて、喜んだ言葉なのか、はつきりしない。いずれにしても、そういうことを問題にしたがるところに、子貢の長所もあり、欠点もあり、そしてそこに、他の門人には見られない彼の特異性があつたのである。

一三(一〇五)


 子路は、一つの善言をきいて、まだそれを実現することが出来ない間は、更に新しい善言を聞くことを恐れた。

○ これは孔子の評語であるか、門人の評語であるか明らかでない。

一四(一〇六)


 子貢がたずねた。
孔文子こうぶんしはどうしてというりっぱなおくり名をされたのでありましょうか。」
 先師がこたえられた。
「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかつた。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ。」

○ 孔文子==衛の大夫。姓は孔、名は圉(ぎよ)。子貢が子という敬語をつけて呼んでいるのは、高官の人であつたからである。この人にはいろいろの非行もあつたので、子貢は特にこういう質問を発したのであろう。

一五(一〇七)


 先師が子産のことを評していわれた。――
子産しさんは、為政家の守るべき四つの道をよく守つている人だ。彼は先ず第一に身を持すること恭謙である。第二に上に仕えて敬慎である。第三に人民に対して慈恵を旨としている。そして第四に人民の使役の仕方が公正である。」

○ 子産==鄭(てい)の大夫。姓は公孫(こうそん)、名は僑(きよう)、子産はその字。春秋時代の名臣であつた。

一六(一〇八)


 先師がいわれた。――
晏平仲あんぺいちゅうは交際の道をよく心得ている人である。どんなに久しく交際している人に対してもれて敬意を失うことがない。」

○ 晏平仲==斉の大夫。晏は姓。平はおくり名、仲は字、名は嬰(えい)。当時の賢人といわれた人であつた。
○ 原文の「敬之」が「人敬之」となつているのもある。それによると、他の人が晏平仲を敬したことになる。

一七(一〇九)


 先師がいわれた。――
臧文仲ぞうぶんちゅうは、諸侯でもないのに、国の吉兆を占うさいをもっている。しかもそれを置くせつには山の形を刻み、※(「木+兌」、第3水準1-85-72)せつには水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。世間では彼を知者だといっているが、こんな身の程知らずが、何で知者といえよう。」

○ 臧文仲==魯の大夫。姓は臧孫(ぞうそん)、名は辰(しん)。文(ぶん)はおくり名、仲は字。
○ 蔡==卜亀。
○ 節==室の柱の頭の桝形(ますがた)。
○ ※(「木+兌」、第3水準1-85-72)==梁上の小柱。

一八(一一〇)


 子張が先師にたずねた。――
子文しぶんは三度令尹れいいんの職にあげられましたが、べつにうれしそうな顔もせず、三度その職をやめられましたが、べつに不平そうな顔もしなかったそうです。そして、やめる時には、気持よく政務を新任の令尹に引きついだということです。こういう人を先生はどうお考えでございましょうか。」
 先師はいわれた。――
「忠実な人だ。」
 子張がたずねた。――
「仁者だとは申されますまいか。」
 先師がこたえられた。――
「どうかわからないが、それだけきいただけでは仁者だとは断言出来ない。
 子張が更にたずねた。――――
崔子さいしが斉の荘公そうこうを弑したときに、陳文子ちんぶんしは馬十乗もあるほどの大財産を捨てて国を去りました。ところが、他の国に行って見ると、そこの大夫もよろしくないので、『ここにも崔子さいしと同様の大夫がいる。』といって、またそこを去りました。それから更に他の国に行きましたが、そこでも、やはり同じようなことをいって、去ったというのです。かような人物はいかがでしょう。」
 先師がこたえられた。――
「純潔な人だ。」
 子張がたずねた。――
「仁者だとは申されますまいか。」
 先師がいわれた。――
「どうかわからないが、それだけきいただけでは、仁者だとは断言出来ない。」

○ 子張==三四章參照。
○ 子文==楚の人。姓は闘(とう)、名は殻於菟(こくおと)。子文は字。
○ 令尹==官名、国務大臣のようなもの。
○ 崔子==斉の大夫。名は抒(じよ)。
○ 陳文子==斉の大夫。名は須無(すうむ)。
○ 十乘==乗は車、一乗に馬四頭をつけるので馬十乗は四十頭の馬になる。
○ 孔子が子文についても、陳文子についても、仁者だといわなかつたのは、両者が真に民を愛し、理想的政治を行う能力をもつているかどうか、子張のいつたことだけではわからなかつたからであろう。

一九(一一一)


 季文子きぶんしは何事も三たび考えてから行った。先師はそれをきいていわれた。――
「二度考えたら十分だ。」

○ 季文子==魯の大夫。名は行父(こうほ)、文はそのおくり名。優柔不断のきらいがあつたといわれている。孔子はその意味で評したのであろう。

二〇(一一二)


 先師がいわれた。――
※(「宀/心/(甬−マ)」、第3水準1-88-41)武子ねいぶしは国に道が行われている時には、見事に腕をふるって知者だといわれ、国が乱れている時には、損な役割を引きうけて愚者だといわれた。その知者としての働きは真似が出来るが、愚者としての働きは容易に真似の出来ないところだ。」

○ ※(「宀/心/(甬−マ)」、第3水準1-88-41)武子==衛の大夫。名は兪(ゆ)、武はおくり名。
○ 原文の「其愚不可及也」(その愚は及ぶべからず)は、日本ではしばしば、「非常な馬鹿者」という意味に俗用されている。

二一(一一三)


 先師が天下を周遊して陳の国に居られたときに、いわれた。――
「帰るとしよう、帰るとしよう。帰って郷党の若い同志を教えるとしよう。彼等の志は遠大だが、まだ実践上の磨きが足りない。知識学問においては百花爛漫の妍を競っているが、まだ自己形成のための真の道を知らない。それはちょうど、見事な布は織ったが、寸法をはかってそれを裁断し、衣服に仕立てることが出来ないようなものだ。これをすてては置けない。しかも、彼等を教えることは、こうして諸侯を説いて無用な旅をつづけるより、どれだけ有意義なことだろう。」

二二(一一四)


 先師がいわれた。――
伯夷はくい叔斉しゅくせいは人の旧悪を永く根にもつことがなかった。だから人に怨まれることがほとんどなかったのだ。」

○ 伯夷・叔斉==殷の時代の末頃、孤竹君(こちくくん)という人の子に生れた兄弟。伯夷は兄、叔斉は弟。二人とも潔癖なほど不正不義をにくんだ人だが、悪をにくんで人をにくまなかつた。家庭的にも、時代的にも常に不遇で、色々の物語が伝えられているが、父の死後、二人がその位を譲りあつたこと、並に、周の武王が殷(いん)を亡ぼしたとき、その祿を食むのを恥じて、首陽(しゆよう)山にかくれ、わらびをとつて食つていたが、ついに餓死した、という話は、とりわけ有名である。

二三(一一五)


 先師がいわれた。――
「いったい誰が微生高びせいこうを正直者などといい出したのだ。あの男は、ある人にを無心され、それを隣からもらって与えたというではないか。」

○ 微生高==微生は姓、高は名。魯の人で、正直者という評判のあつた人である。

二四(一一六)


 先師がいわれた。――
「言葉巧みに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、左丘明さきゅうめいは恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる。」

○ 左丘明==古代の有徳の人。つまびらかにはわからない。左伝の著者とは別人。

二五(一一七)


 顔渕がんえん季路きろとが先師のおそばにいたときのこと、先師がいわれた。――
「どうだ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを語りあって見ようではないか。」
 すると、子路がすぐいった。
「私が馬車に乗り、軽い毛皮の着物が着れるような身分になりました時に、友人と共にそれに乗り、それを着て、かりに友人がそれをいためましても、何とも思わないようにありたいものだと思います。」
 顔渕はいった。――
「私は、自分の善事を誇ったり、骨折を吹聴したりするような誘惑に打克って、自分の為すべきことを、真心こめてやれるようになりたいと、それをひたすら願っております。」
 しばらくして子路が先師にたずねた。――
「どうか、先生のご理想も承らしていただきたいと思います。」
 先師は答えられた。――
「私は、老人たちの心を安らかにしたい。友人とは信をもって交りたい。年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのだ。」

○ 季路・子路==同一人。共に門人仲由の字。

二六(一一八)


 先師がいわれた。――
「何ともしようのない世の中だ。自分の過ちを認めて、自ら責める人がまるでいなくなったようだ。」

二七(一一九)


 先師がいわれた。――
「十戸ほどの小村にも、まじめで偽りがないというだけのことなら、私ぐらいな人はきっといるだろう。だが、学問を愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにあるまい。

○ 本章は、不断の向上に心掛けている人の少いのをなげき、努力の必要をといたものと見るべきである。しかし同時に、努力という点では何人にもまけないという、孔子の自信のほどが、その間にうかがわれる。
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雍也ようや第六



本篇も、その前半は、前篇につづいて人物評が主になっている。

一(一二〇)


 先師がいわれた。――
ようには人君の風がある。南面して政を見ることが出来よう。」

      *

 仲弓が先師に子桑伯子しそうはくしの人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「よい人物だ。大まかでこせこせしない。」
 すると仲弓がまたたずねた。――
「日常あくまでも敬慎の心を以て万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民に臨む、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放慢になりがちだと思いますが。」
 先師がいわれた。――
「お前のいうとおりだ。」

○ 雍・仲弓==同一人。姓は冉(ぜん)、仲弓は字、雍は名。
○ 南面==天子、諸侯の政務を見る座は南面し、臣下の座は北面するのがきまりであつた。
○ 子桑伯子==魯の人といわれているが詳かでない。
○ 本章の原文は、一章につながつている本もあり、二章に区分してある本もある。訳文では、*を附してその区分箇所を示しておいた。前後の意味の関係についても次の両説がある。
一、前の部分に引きつづいてか、或は後日か、とにかくあとになつて後の部分の対話が行われたと見る説。
二、時間的には、後の部分の対話が先で、そういう対話を根拠に前の部分の孔子の評語が生れたと見る説。
 しかしいずれにしても、仲弓の人物をうかがう材料としては変りはないであろう。

二(一二一)


 哀公が先師にたずねられた。――
「門人中で誰が一番学問が好きかな。」
 先師がこたえられた。――
「顔囘と申すものがおりまして、大変学問が好きでありました。怒りをうつさない、過ちをくりかえさない、ということは、なかなか出来ることではありませんが、それが顔囘には出来たのでございます。しかし、不幸にして短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔囘亡きあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はいないようでございます。」

○ 孔子の学問という意味が、道徳的精進を意味することは、本学に極めて明瞭にあらわれている。

三(一二二)


 子華しかが先師の使者としてせいに行った。彼の友人のぜん先生が、留守居の母のために飯米を先師に乞うた。先師はいわれた。――
「五六升もやれば結構だ。」
 冉先生はそれではあんまりだと思ったので、もう少し増してもらうようにお願いした。すると、先師はいわれた。――
「では、一斗四五升もやったらいいだろう。」
 冉先生は、それでも少いと思ったのか、自分のはからいで七石あまりもやってしまった。
 先師はそれを知るといわれた。――
せきは斉に行くのに、肥馬に乗り軽い毛衣を着ていたくらいだ。まさか留守宅が飯米にこまることもあるまい。私のきいているところでは、君子は貧しい者にはその不足を補ってやるが、富める者にその富のつぎ足しをしてやるようなことはしないものだそうだ。少し考えるがいい。」

      *

 原思げんしが先師の領地の代官になった時に、先師は彼に俸祿米九百を与えられた。原思は多過ぎるといって辞退した。すると先師はいわれた。――
「遠慮しないがいい。もし多過ぎるようだったら、近所の人たちにわけてやってもいいのだから。」

○ 子華・赤==同一人。(九九章參照)
○ 冉==門人冉求。原文に子という敬称があるので特に先生と訳した。
○ 原思==孔子の門人。名は憲、字は子思、魯の人。恭謙な人としてきこえた。
○ 本章の米の量は、原文では、「釜」(フ)「※(「广+諛のつくり」、第3水準1-84-13)」(ゆ)「秉」(へい)等の単位であらわしてあるが、すべて日本の量目に換算して訳した。最後の「九百」は原文にも単位が示されていない。

四(一二三)


 先師は仲弓のことについて、こんなことをいわれた。――
「まだら牛の生んだ子でも、毛が赤くて、角が見事でさえあれば、神前に供えられる資格は十分だ。人がそれを用いまいとしても、山川の神々が決して捨ててはおかれないだろう。」

○ 仲弓==名は雍(よう)(一二〇章參照)
○ まだら牛は駄牛とされ、祭典のいけにえには用いられなかつた。全身赤毛で、角の端正なのだけが選ばれたのである。
○ 仲弓の父がつまらぬ人物であつたため。仲弓自身までが悪評をうけていたので、孔子にこの言があつたのである。
○ 孔子が仲弓を励ますために直接彼に対していつた言葉だという説と、間接に仲弓をほめるためにいつた言葉だという説とがある。本書では後者に従つたが、いずれでもいいであろう。

五(一二四)


 先師がいわれた。――
「囘よ、三月の間、心が仁の原理をはなれなければ、その他の衆徳は日に月に進んで来るものだ。」

○ 囘==顔囘。
○ この節は、一般には、「顔囘は三月(永い期間)の間その心が仁をはなれない。その他の門人はある日、ある月に思い出したように仁に近づくだけだ」という意味に解されている。前後が人物評になつているので、本節もそうだと見れば、そう解するより外ないが、本書では、伊藤仁斎や物徂徠の説に従つて、本文の通り訳して見た。その方が胸にひびくものがあるようである。

六(一二五)


 大夫の季康きこう子が先師にたずねた。――
仲由ちゅうゆうは政治の任にたえうる人物でしょうか。」
 先師がこたえられた。――
ゆうには決断力があります。決して政治が出来ないことはありません。」
 季康子――
は政治の任にたえうる人物でしょうか。」
 先師――
は聰明です。決して政治が出来ないことはありません。」
 季康子――
きゅうは政治の任にたえうる人物でしょうか。」
 先師――
「求は多才多能です。決して政治が出来ないことはありません。」

○ 孔子はこの三人の人物を全体的に見て、すでに政治家としての資格を十分認めていたので、単に決断力や、頭のよさや、才能だけで、その資格があるといつたのではない。そういうことはおそらく人物の特質をあげるためにいつたことであろう。

七(一二六)


 魯の大夫季氏が閔子騫びんしけんの代官に任用したいと思って、使者をやった。すると、閔子騫は、その使者にいった。――
「どうか私に代ってよろしくお断り申しあげて下さい。もし再び私をお召しになるようなことがあれば、私はきっと※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)ぶん水のほとりにかくれるでございましょう。」

○ 閔子騫==孔子の門人。名は損(そん)、子騫(しけん)は字。魯の人。徳行をもつてきこえ、二十四孝の一人である。
○ 費==季氏の領地。
○ ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)水==魯の隣国斉にある。川の名。
○ 当時季氏は権力をほしいままにしていたので、潔癖な閔子騫はこれに仕えるを欲しなかつたのである。

八(一二七)


 伯牛はくぎゅうらいを病んで危篤に陥った。先師は彼をその家に見舞われ、窓から彼の手をとって永訣された。そして嘆いていわれた。――
「惜しい人がなくなる。これも天命だろう。それにしても、この人にこの業病ごうびょうがあろうとは。この人にこの業病があろうとは。」

○ 伯牛==孔子の門人。姓は冉(ぜん)、名は耕(こう)。伯牛はその字。魯の人。徳行をもつてきこえた。
○ 原文には癩病とも危篤ともはつきり書いてはないが、これは定説になつている。孔子が病気見舞に行つて、窓ごしに病人の手をとつたというのには色々の説があるが、今一々述べない。重要なのは、悪疾をいとわず手を握つた孔子の愛情である。

九(一二八)


 先師がいわれた。――
かいは何という賢者だろう。一膳飯に一杯酒で、裏店うらだな住居といったような生活をしておれば、たいていの人は取りみだしてしまうところだが、囘は一向平気で、ただ道を楽み、道にひたりきっている。囘は何という賢者だろう。」

一〇(一二九)


 冉求ぜんきゅうがいった。――
「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
 すると、先師はいわれた。
「力が足りないかどうかは、こんかぎり努力して見たうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。お前はたおれもしないうちから、自分の力に見きりをつけているようだが、それがいけない。」

一一(一三〇)


 先師が子夏しかにいわれた。――
「君子のじゅになるのだ。小人の儒になるのではないぞ。」

○ 君子の儒、小人の儒は強いて訳さないで、このまま日本語として通用させる方が面白い。儒は濡(水にひたるの意)を人扁にしたもので、先聖の道を学んで、それに身をひたす人を意味する。「君子の儒」は真実に道を求めて学問をする人、「小人の儒」は、立身出世を求め、利害の打算に終始し、徒らに物知りになるような学問をする人。いつの時代にも小人の儒が多い。

一二(一三一)


 子游しゆう武城ぶじょうの代官をつとめていたが、ある時、先師が彼にたずねられた。――
「部下にいい人物を見つけたかね。」
 子游がこたえた。――
澹臺滅明せんだいめつめいという人物がおります。この人間は、決して近道やぬけ道を歩きません。また公用でなければ、決して私の部屋にはいって来たことがございません。」

○ 武城==魯の公室に属する土地の名。
○ 澹台滅明==澹台は姓、滅明は名、字は子羽(しう)。あとで孔子の門人になつたらしい。子游よりは五六歳年長で、容貌の醜いので有名であつた。

一三(一三二)


 先師がいわれた。――
孟子反もうしはんは功にほこらない人だ。敗軍の時に一番あとから退却して来たが、まさに城門に入ろうとする時、馬に鞭をあてて、こういったのだ。――自分は好んで殿しんがりやくをつとめたわけではないが、つい馬がいうことをきかなかったので。――」

○ 孟子反==魯の大夫。名は側(そく)。
○ これは魯の哀公の時代に、斉軍に攻められて敗れた時の話らしい。

一四(一三三)


 先師がいわれた。――
祝※しゅくだ[#「魚+它」、U+9B80、288-下-8]ほど口がうまくて、宋朝そうちょうほどの美男子でないと、無事にはつとまらないらしい。何というなさけない時代だろう。」

○ 祝※[#「魚+它」、U+9B80、288-下-11]==衛の大夫。字は子魚、祝は官名。口舌を以て外交にあたることを得意としていた人物である。
○ 宋朝==宋国の公子で、朝は名。美貌をもつてきこえていた。衛の霊公の夫人南子は、その生国である宋から、彼を迎えて後宮の風俗をみだしたと伝えられている。

一五(一三四)


 先師がいわれた。――
「外に出るのに戸口を通らないものはない。然るに、どうして人々は、人間が世に出るのに必ず通らなければならないこの道を通ろうとしないだろう。」

○ 「この道」は原文に「斯道」とある。人倫の道である。転じて「斯道の達人」などという風に用いられる。

一六(一三五)


 先師がいわれた。――
「質がよくてもあやがなければ一個の野人に過ぎないし、あやは十分でも、質がわるければ、気のきいた事務家以上にはなれない。文と質とがしっかり一つの人格の中に溶けあった人を君子というのだ。」

○ 質==本質。人格の基底をなすもの。徳性。
○ 文==外のかざり、磨き。知識、技能、礼儀作法、等々。

一七(一三六)


 先師がいわれた。――
「人間というものは、本来、正直に生れついたものだ。それを無視して生きていられるのは、決して天理にかなっていることではない。偶然に天罰を免れているに過ぎないのだ。」

一八(一三七)


 先師がいわれた。――
「真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は真理を楽む者に及ばない。」

○ 孔子はここで求道者の境地を知・好・楽の三段にわかつて表現している。「知」は単なる知的理解の境地、「好」は感情の燃燒を伴つてはいるが、まだ道と自己とが別々であり、相対している境地、「楽」は道と自己とが完全に溶けあつて一如になつた境地をいうのであろう。

一九(一三八)


 先師がいわれた。――
「中以上の学徒には高遠精深な哲理を説いてもいいが、中以下の学徒にはそれを説くべきではない。」

二〇(一三九)


 樊遅はんちが「知」について先師の教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「ひたすら現実社会の人倫の道に精進して、超自然界の霊は敬して遠ざける、それを知というのだ。」
 樊遅はさらに「仁」について教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「仁者は労苦を先にして利得を後にする。仁とはそういうものなのだ。」

二一(一四〇)


 先師がいわれた。――
「知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽み、仁者は永遠の中に安住する。」

○ 孔子が知者を高く評価しつつ、仁者を一層高く評価した気持がよくうかがわれる。

二二(一四一)


 先師がいわれた。――
せいが一飛躍したら魯のようになれるし、魯が一飛躍したら真の道義国家になれるのだが。」

○ 斉は富国強兵主義の国で道義に欠くるところがあり、魯はさすがに周公の後だけあつて道義を重んずる風はあつたが、とかく形式に流れ、魂がこもつていなかつたので、孔子はそれをもどかしく思つたのであろう。

二三(一四二)


 先師がいわれた。――
にはかどがあるものだが、この觚にはかどがない。かどのないだろうか。かどのないだろうか。」

○ 觚==かどのある酒盃。原文には「かど」の意味にも觚という字を用い、「觚、觚ならず」となつている。
○ 孔子はおそらく、その当時の觚の形がくずれて、かどがなくなつていたのを手にしながら、萬事が有名無実になつた世の中を、こういつて諷したのであろう。

二四(一四三)


 宰我さいがが先師にたずねた。――
「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか。」
 先師がこたえられた。――
「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることは出来る。しかし、おとし入れることは出来ない。人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ。」

○ 宰我は「仁者」といい、孔子は「君子」といつているが、ここでは同じ意味である。ただ宰我は、仁者の情深さという点だけを頭に置いてたずねており、孔子はそのあらゆる面を頭において答えているのである。

二五(一四四)


 先師がいわれた。――
「君子は博く典籍を学んで知見をゆたかにすると共に、実践の軌範を礼に求めてその知見にしめくくりをつけて行かなければならない。それでこそはじめて学問の道にそむかないといえるであろう。」

二六(一四五)


 先師が南子なんしに謁見された。子路がそのことについて遺憾の意を表した。先師は、すると、誓言するようにいわれた。――
「私のやったことが、もし道にかなわなかったとしたら、天がゆるしてはおかれない。天がゆるしてはおかれない。」

○ 南子==衛の霊公の夫人。不品行な人であつた。孔子は、巡歴中衛にいた時、南子に対面を求められ、拒絶するのは礼でないとして、やむなくそれに応じたのである。

二七(一四六)


 先師がいわれた。――
「中庸こそは完全至高の徳だ。それが人々の間に行われなくなってから久しいものである。」

○ 中庸==過不及なく、常に平正を保ち、過激極端にならぬこと。

二八(一四七)


 子貢が先師にたずねていった。――
「もしひろく恵みをほどこして民衆を救うことが出来ましたら、いかがでしょう。そういう人なら仁者といえましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「それが出来たら仁者どころではない。それこそ聖人の名に値するであろう。堯や舜のような聖天子でさえ、それには心労をされたのだ。いったい仁というのは、何もそう大げさな事業をやることではない。自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、ただそれだけのことだ。それだけのことを日常生活の実践にうつして行くのが仁の具体化なのだ。」
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述而第七



この篇はおおむね孔子が自分及び自分の教育法について語りつつ人を教誨した言葉、及び孔子の容貌・態度・行動などを記したもの。

一(一四八)


 先師がいわれた。――
「私は古聖の道を伝えるだけで、私一箇の新説を立てるのではない。古聖の道を信じ愛する点では、私は心ひそかに自分を老彭ろうほうにも劣らぬと思っているのだ。」

○ 老彭==殷(いん)の賢大夫。
○ この一節によつて孔子を頑固な保守主義者と断定するのは当らない。孔子が「古」というとき、それは常に彼自身の理想と信念との表現に外ならなかつたのである。なるほど彼は堯舜の時代を讃美した。しかし彼が説くところの、その時代の文化内容は、必ずしも歴史的事実ではなく、彼の理想を仮托するための彼自身の創作であり、孔子あつてはじめて堯舜の時代は理想的時代といわれるようになつたともいえるのである。

二(一四九)


 先師がいわれた。――
「沈默のうちに心に銘記する、あくことなく学ぶ、そして倦むことなく人を導く。それだけは私に出来る。そして私に出来るのは、ただそれだけだ。」

○ これは孔子の謙遜か、それとも大自信か。いずれにしても心ある門人にはつよくこたえたことであろう。

三(一五〇)


 先師がいわれた。――
「修徳の未熟なこと、研学の不徹底なこと、正義と知ってただちに実践にうつり得ないこと、不善の行を改めることが出来ないこと。――いつも私の気がかりになっているのは、この四つのことだ。」

四(一五一)


 先師が家にくつろいでいられる時は、いつものびのびとして、うれしそうな顔をしていられた。

○ 孔子の家居の面目がよくあらわれている。彼は決してこちこちな儀式ばつた家庭人ではなかつたのである。

五(一五二)


 先師がいわれた。――
「私もずいぶん老衰したものだ。このごろはさっぱり周公の夢も見なくなってしまった。」

○ 周公==名は旦。周の文王の子で武王の弟。武王をたすけて周朝の基礎をかため、武王の子成王の時代には、礼楽の制度をととのえた。なお、魯の開祖でもあつたので、とりわけ孔子が尊崇していた人である。

六(一五三)


 先師がいわれた。――
「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい。」

○ 六芸==原文には単に「芸」とあるが、礼・楽・射・御・書・数などをいうのであろう。今日でいえば各種の技能・文学・芸術・健全なスポーツ等にあたる。

七(一五四)


 先師がいわれた。――
「かりそめにも束脩そくしゅうをおさめて教えを乞うて来たからには、私はその人をなまけさしてはおかない。」

○ 束脩==「脩」は乾肉。それを十束たばねたのが「束脩」。入門のしるしにそれを持参する習慣だつたのである。日本でも明治の中葉頃まで、この言葉は入学金の意味に使われていた。
○ 本章についてはいろいろの解釈があるが、私はそのいずれにもよらなかつた。原文の「吾未だかつて誨ゆる無くんばあらず」を単に「教えてやる」とか「教えないことはない」とか解するだけでは、あまりにも浅薄平凡で、殆ど無意味に近いし、ことに「誨」の字には特別の意味があると思つたからである。

八(一五五)


 先師がいわれた。――
「私は、教えを乞う者が、先ず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない。」

○ この一章は、孔子の啓発教育を端的に物語る有名な言葉である。

九(一五六)


 先師は、喪中の人と同席して食事をされるときには、腹一ぱい召しあがることがなかった。先師は、人の死を弔われたその日には、歌をうたわれることがなかった。

一〇(一五七)


 先師が顔渕に向っていわれた。
「用いられれば、その地位において堂々と道を行うし、用いられなければ、天命に安んじ、退いて静かに独り道を楽む。こういった出処進退が出来るのは、まず私とお前ぐらいなものであろう。」
 すると子路がはたからいった。――
「もし一国の軍隊をひきいて、いざ出陣という場合がありましたら、先生は誰をおつれになりましょうか。」
 先師はこたえられた。――
素手すでで虎を打とうとしたり、徒歩で大河をわたろうとしたりするような、無謀なことをやって、死ぬことを何とも思わない人とは、私は事を共にしたくない。私の参謀には、臆病なぐらい用心深く、周到な計画のもとに確信をもって仕事をやりとげて行くような人がほしいものだ。」

○ 原文の「行」と「藏」とは合して「行藏」という熟語となり。現在でも出処進退の意に用いられることがある。また「暴虎馮河の勇」という熟語もしばしば用いられている。
○ 子路は孔子の答をきいて、おそらく、虎をうちそこねて崖から真逆さまに落ちて行くような気がしたであろう。

一一(一五八)


 先師がいわれた。――
「もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい。」

○ 富貴は天命だという孔子の思想を基礎にして、本章を「もし富が求めて得られるものなら云々」という意味に解する人が多いが、それでは「得られるものなら泥棒でもする」ということにもなつて、大変である。

一二(一五九)


 先師が慎んだ上にも慎まれたのは、斎戒さいかいと、戦争と、病気の場合であった。

○ 斎戒==祭事のまえに物忌みをして、身を清めること。

一三(一六〇)


 先師は斉にご滞在中、しょうをきかれた。そして三月の間それを楽んで、肉の味もおわかりにならないほどであった。その頃、先師はこういわれた。――
「これほどのすばらしい音楽があろうとは、思いもかけないことだった。」

○ 韶==舜の音楽(前出、六五章)
○ 肉の味を知らないというのは、飲食を忘れた、というような意味であろう。

一四(一六一)


 冉有ぜんゆうがいった。――
「先生はえいの君を援けられるだろうか。」
 子貢がいった。――
「よろしい。私がおたずねして見よう。」
 彼は先師のお室に入ってたずねた。――
伯夷はくい叔斉しゅくせいはどういう人でございましょう。」
 先師はこたえられた。――
「古代の賢人だ。」
 子貢――
「二人は自分たちのやったことを、あとで悔んだのでしょうか。」
 先師――
「仁を求めて仁を行うことが出来たのだから、何の悔むところがあろう。」
 子貢は先師のお室からさがって、冉有にいった。――
「先生は衛の君をお援けにはならない。」

○ 衛君==出公。霊公の孫。霊公はその世子との間に争いがあり、これを国外に逐うた。霊公の死後出公が位についたが、霊公に逐われた出公の実父は晋の援助を得て衛を攻めた。ここに父子の争が起つたが、それは孔子が衛に滞在中の出来事だつたのである。
○ 伯夷・叔斉==(前出一一四章)の如く兄弟相譲り、不義をにくんで一生を貫き、最後に悲惨な死をとげた人たちである。
○ 子貢が、あからさまに孔子の意をたださず、伯夷・叔斉のことをたずねて、衛君父子の争に対する孔子の態度をさぐつたところに、彼の人物があらわれていて面白い。

一五(一六二)


 先師がいわれた。――
「玄米飯を冷水でかきこみ、ひじを枕にして寝るような貧しい境涯でも、その中に楽みはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」

一六(一六三)


 先師がいわれた。――
「私がもう数年生き永らえて、五十になる頃までえきを学ぶことが出来たら、大きな過ちを犯さない人間になれるだろう。」

○ 易==陰陽の消長、宇宙の運行、人間の運命を説いた深遠な哲理である。孔子が「五十にして天命を知る」(参照二〇章)といつたのと照合して味つて見たい一章である。

一七(一六四)


 先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。

○ 原文の「雅」は「常」と同じ。
○ 「詩」は「詩経」(一八章参照)。「書」は「書経」(三七章参照)。「執礼」は礼の実行。
○ 詩は情操をゆたかにし、書は知見をひろめ。礼は実生活を錬磨するのである。

一八(一六五)


 葉公しょうこうが先師のことを子路にたずねた。子路はこたえなかった。先師はそのことを知って、子路にいわれた。――
「お前はなぜこういわなかったのか。――学問に熱中して食事を忘れ、道を楽んで憂いを忘れ、そろそろ老境に入ろうとするのも知らないような人がらでございます、と。」

○ 葉公==楚の葉(しよう)県の長官、沈諸梁(ちんしよりよう)、字は子高(しこう)。

一九(一六六)


 先師がいわれた。――
「私は生れながらにして人倫の道を知っている者ではない。古聖の道を好み、汲々としてその探求をつづけているまでのことだ。」

二〇(一六七)


 先師は、妖怪変化へんげとか、腕力沙汰とか、醜聞とか、超自然の霊とか、そういったことについては、決して話をされなかった。

○ 原文の「怪・力・乱・神」はそれぞれ「常・徳・治・人」に相対して用いられている。

二一(一六八)


 先師がいわれた。――
「三人道連れをすれば、めいめいに二人の先生をもつことになる。善い道連れは手本になってくれるし、悪い道連れは、反省改過の刺戟になってくれる。」

○ 八三章参照。

二二(一六九)


 先師がいわれた。――
「私は天に徳を授かった身だ。※(「魅」の「未」に代えて「隹」、第4水準2-93-32)かんたいなどが私をどうにも出来るものではない。」

○ 桓※(「魅」の「未」に代えて「隹」、第4水準2-93-32)==宋の重臣。姓は司馬。孔子の門人司馬牛の兄とも伝えられている。
○ 孔子が諸国を巡歴して宋に行つた時。桓※(「魅」の「未」に代えて「隹」、第4水準2-93-32)(かんたい)は孔子を害そうとした。孔子は、そのために、宋には足をとめず、微服して去つたのである。
○ この一章は、孔子の言葉としてはめずらしく壮烈味を帶びたもので、門人たちの危難に際しての狼狽ぶりがうかがわれる。

二三(一七〇)


 先師がいわれた。――
「お前たちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをお前たちにかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は四六時中、お前たちに私の行動を見てもらっているのだ。それが私の教えの全部だ。きゅうという人間は元来そういう人間なのだ。」

○ 丘==孔子自身の名。
○ 孔子の教育態度の真面目がこの一章によくあらわれている。

二四(一七一)


 先師は四つの教育要目を立てて指導された。典籍の研究、生活体験、誠意の涵養、社会的信義がそれである。

○ 学んで行い、心を誠にして人と交るに信を以てするというのが、要するに孔子の修養の眼目でもあり、教育の要目でもあつたのである。

二五(一七二)


 先師がいわれた。――
「今の時代に聖人の出現は到底のぞめないので、せめて君子といわれるほどの人に会えたら、私は満足だ。」
 またいわれた。――
「今の時代に善人に会える見込は到底ないので、せめてうそのない人にでも会えたら、結構だと思うのだが、それもなかなかむずかしい。無いものをあるように、からっぽなものを充実しているように、また行きづまっていながら気楽そうに見せかけるのが、この頃のはやりだが、そういう人がうそのない人間になるのは、容易なことではないね。」

○ 聖人・君子・善人==孔子のいう聖人・君子は常に政治ということと関係がある。現に政治の任に当つていると否とにかかわらず、完全無欠な徳と、自由無碍な為政能力をもつた人が「聖人」であり、それほどではなくとも、理想と識見とを持ち、常に修徳にいそしんで為政家として恥かしくない人、少くとも政治に志して修養をつんでいる人、そういう人が「君子」なのである。これに反して、「善人」は必ずしも政治と関係はない。人間として諸徳のそなわつた人という程度の意味で用いられている。
  かように解することによつて、本章の前段と後段との関係が。はじめて明瞭になるであろう。これは、私一個の見解であるが、決して無謀な言ではないと思う。聖人・君子・善人の三語を、単なる人物の段階と見ただけでは、本章の意味が的確に捉えられないだけでなく、論語全体の意味があいまいになるのではあるまいか。

二六(一七三)


 先師は釣りはされたが、はえなわはつかわれなかった。また矢ぐるみで鳥をとられることはあったが、ねぐらの鳥を射たれることはなかった。

○ 綱==これを「網」の誤りと見て「一網打尽」の意味に解する説もある。しかし、当時の魚獲法に、大綱にたくさんの小綱をつけ、その先に釣針をつけて、それを水に流す方法があり、それを綱といつたというのが正しいようである。しかし、いずれにしても、本章の結局の意味に変りはない。
○ 矢ぐるみ==原文に「弋」(よく)とある。矢に糸をつけ、それを島の羽根にからませ、生擒する方法であつた。

二七(一七四)


 先師がいわれた。――
「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたるみちなのだ。」

○ 作(原文)==「事を為す」の意に解する説もあるが、一四八章の「述べて作らず」の「作」と同じく、道理に関する意見を立てる意味に解する方が、後段との関係がぴつたりする。
○ 次(原文)==一般に「つぎ」「第二」の意味に解されているが、私は「途次」などという場合の「次」と同じく、目標に達する一歩手前の意に解したい。

二八(一七五)


 互郷ごきょうという村の人たちは、お話にならないほど風俗が悪かった。ところがその村の一少年が先師に入門をお願いして許されたので、門人たちは先師の真意を疑った。すると、先師はいわれた。――
「せっかく道を求めてやって来たのだから、喜んで迎えてやって、退かないようにしてやりたいものだ。お前たちのように、そうむごいことをいうものではない。いったい、人が自分の身を清くしようと思って一歩前進して来たら、その清くしようとする気持を汲んでやればいいので、過去のことをいつまでも気にする必要はないのだ。」

○ 本章については異説が多いが、孔子の言葉の真意を動かすほどのものではないので、一々述べない。

二九(一七六)


 先師がいわれた。――
「仁というものは、そう遠くにあるものではない。切実に仁を求める人には、仁は刻下に実現されるのだ。」

三〇(一七七)


 ちん司敗しはいがたずねた。――
昭公しょうこうは礼を知っておられましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「知っておられます。」
 先師はそれだけいって退かれた。そのあと司敗は巫馬期ふばきに会釈し、彼を自分の身近かに招いていった。――。
「私は、君子というものは仲間ぼめはしないものだと聞いていますが、やはり君子にもそれがありましょうか。と申しますのは、昭公はからきさきを迎えられ、その方がご自分と同性なために、ごまかして呉孟子ごもうしと呼んでおられるのです。もしそれでも昭公が礼を知った方だといえますなら、世の中に誰か礼を知らないものがありましょう。」
 巫馬期があとでそのことを先師に告げると、先師はいわれた。――
「私は幸福だ。少しでも過ちがあると、人は必ずそれに気づいてくれる。」

○ 陳==国名。
○ 司敗==官名、司法官。この人の姓名は明らかでない。
○ 昭公==魯の国君、名は稠(ちよう)、襄公(じようこう)の子。
○ 巫馬期==孔子の門人。巫馬は姓、期は字、名は施(し)。
○ 同姓==魯の公室も呉の公室も共に姓は「姫」(き)で、同姓であり、遠く祖先を同じくした。然るに、礼には血族結婚を絶対にさけるため、「同姓は娶らず」と規定しているのである。
○ 孔子が昭公は礼を知つていると答えたのは、自分の国の君主のことを他国の役人の前でそしるのが非礼であり、且つ忍びなかつたからであろう。しかし、事実を指摘されると、それを否定もせず、また自己辯護もせず、すべてを自分の不明に帰した。そこに孔子の面目があつたのである。

三一(一七八)


 先師は、誰かといっしょに歌をうたわれる場合、相手がすぐれた歌い手だと、必ずその相手にくりかえし歌わせてから、合唱された。

○ 孔子自身が当時第一流の音楽家であつたことを忘れては、この一章の妙味は半減する。

三二(一七九)


 先師がいわれた。――
「典籍の研究は、私も人なみに出来ると思う。しかし、君子の行を実践することは、まだなかなかだ。」

三三(一八○)


 先師がいわれた。――
「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地を目ざして厭くことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。それだけが私の身上だ。」
 すると、公西華こうせいかがいった。――
「それだけと仰しゃいますが、そのそれだけが私たち門人には出来ないことでございます。」

三四(一八一)


 先師のご病気が重かった。子路が病気平癒のお祷りをしたいとお願いした。すると先師がいわれた。――
「そういうことをしてもいいものかね。」
 子路がこたえた。――
「よろしいと思います。るいに、汝の幸いを天地の神々に祷る、という言葉がございますから。」
 すると、先師がいわれた。――
「そういう祷りなら、私はもう久しい間祷っているのだ。」

○ 誄==死者を哀しんでその徳行を述べ、その霊前に献ぐる言葉。
○ 子路の祷りは、謂ゆる苦しい時の神頼みで、迷信的祈祷以上のものではない。それに対して孔子は、真の心の祷り、つまり天地に恥じない人間としての精進こそは、幸福に到る道だ、ということを説いた。孔子の教えには宗教がない、とよくいわれるが、「天」という言葉は、孔子によつて常に宗教的な意味に使われているのである。

三五(一八二)


 先師がいわれた。――
「ぜいたくな人は不遜になりがちだし、儉約な人は窮屈になりがちだが、どちらを選ぶかというと、不遜であるよりは、まだしも窮屈な方がいい。」

○ 原文の「固」は、「窮屈」でなくて「頑固」だという説もある。

三六(一八三)


 先師がいわれた。――
「君子は気持がいつも平和でのびのびとしている。小人はいつもびくびくして何かにおびえている。」

三七(一八四)


 先師は、温かで、しかもきびしい方であった。威厳があって、しかもおそろしくない方であった。うやうやしくて、しかも安らかな方であった。
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泰伯第八



本篇には古聖賢の政治道を説いたものが多い。なお、孔子の言葉のほかに、曾子の言葉が多数集録されており、しかも目立つている。

一(一八五)


 先師がいわれた。――
泰伯たいはくこそは至徳の人というべきであろう。固辞して位をつがず、三たび天下を譲ったが、人民にはそうした事実をさえ知らせなかった。」

○ 泰伯==周の大王(たいおう)の長子で、仲雍(ちゆうよう)季歴(きれき)の二弟があつたが、季歴の子昌(しよう)がすぐれた人物だつたので、大王は位を末子季歴に譲つて昌に及ぼしたいと思つた。泰伯は父の意志を察し、弟の仲雍と共に国を去つて南方にかくれた。それが極めて隱微の間に行われたので、人民はその噂さえすることがなかつたのである。昌は後の文王、その子発(はつ)が武王である。
○ 天下==当時はまだ殷の時代で。周室の天下ではなかつたが、後に天下を支配したので、この語が用いられたのであろう。
○ 老子に「善行轍迹無し」とあるが、至徳の境地については、老子も孔子も同一であるのが面白い。

二(一八六)


 先師がいわれた。――
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる。」
 またいわれた。――
「上に立つ者が親族に懇篤であれば、人民はおのずから仁心を刺戟される。上に立つ者が故旧を忘れなければ、人民はおのずから浮薄の風に遠ざかる。」

○ 前段と後段とは、原文では一連の孔子の言葉になつているが、内容に連絡がないので、定説に従つて二段に区分した。

三(一八七)


 曾先生が病気の時に、門人たちを枕頭に呼んでいわれた。――
「私の足を出して見るがいい。私の手を出して見るがいい。詩経に、
深渕ふかぶちにのぞむごと、
おののくこころ。
うす氷ふむがごと、
つつしむこころ。
とあるが、もう私も安心だ。永い間、おそれつつしんで、この身をけがさないように、どうやら護りおおせて来たが、これで死ねば、もうその心労もなくなるだろう。ありがたいことだ。そうではないかね、みんな。」

○ 孝経によると、曾子は孔子に「身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり」という教えをうけている。曾子は、それで、手や足に傷のないのを喜んだことはいうまでもないが、しかし、単に身体のことだけを問題にしていたのでないことも無論である。

四(一八八)


 曾先生が病床にあられた時、大夫の孟敬子が見舞に行った。すると、曾先生がいわれた。――
「鳥は死ぬまえに悲しげな声で鳴き、人は死ぬまえに善言を吐く、と申します。これから私の申上げますことは、私の最後の言葉でございますから、よくおきき下さい。およそ為政家が自分の道として大切にしなければならないことが三つあります。その第一は態度をつつしんで粗暴怠慢にならないこと、その第二は顔色を正しくして信実の気持があふれること、その第三は、言葉を叮重にして野卑不合理にならないこと、これであります。祭典のお供物台の並べ方などのこまかな技術上のことは、それぞれ係の役人がおりますし、一々お気にかけられなくともよいことでございます。」

○ 孟敬子==魯の大夫、仲孫氏、名は捷。武伯の子。「子」は敬語。
○ 政治家の態度、顔色、言語というものは、いつの時代でも共通の弊があるものらしい。

五(一八九)


 曾先生がいわれた。――
「有能にして無能な人に教えを乞い、多知にして少知の人にものをたずね、有っても無きが如く内に省み、充実していても空虚なるが如く人にへり下り、無法をいいかけられても相手になって曲直を争わない。そういうことの出来た人がかって私の友人にあったのだが。」

○ 友人というのは、おそらく顔囘のことであろう。

六(一九〇)


 曾先生がいわれた。――
「安んじて幼君の補佐を頼み、国政を任せることが出来、重大事に臨んで断じて節操を曲げない人、かような人を君子人というのであろうか。正にかような人をこそ君子人というべきであろう。」

七(一九一)


 曾先生がいわれた。――
「道を行おうとする君は大器で強靭な意志の持主でなければならない。任務が重大でしかも前途遼遠だからだ。仁をもって自分の任務とする、何と重いではないか。死にいたるまでその任務はつづく、何と遠いではないか。」

八(一九二)


 先師がいわれた。――
「詩によって情意を刺戟し、礼によって行動に基準を与え、がくによって生活を完成する。これが修徳の道程だ。」

九(一九三)


 先師がいわれた。――
「民衆というものは、範を示してそれに由らせることは出来るが、道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ。」

○ 本章は「由らしむべし、知らしむべからず」という言葉で広く流布され、秘密専制政治の代表的表現であるかの如く解釈されているが、これは原文の「可」「不可」を「可能」「不可能」の意味にとらないで、「命令」「禁止」の意味にとつたための誤りだと私は思う。第一、孔子ほど教えて倦まなかつた人が、民衆の知的理解を自ら進んで禁止しようとする道理はない。むしろ、知的理解を求めて容易に得られない現実を知り、それを歎きつつ、その体験に基いて、いよいよ徳治主義の信念を固めた言葉として受取るべきである。

一〇(一九四)


 先師がいわれた。――
「社会秩序の破壊は、勇を好んで貧に苦しむ者によってひき起されがちなものである。しかしまた、道にはずれた人を憎み過ぎることによってひき起されることも、忘れてはならない。」

○ この一章は、一般の個人に対する戒めと解するよりも、為政家に対する戒めと解する方が適当だと思つたので、思い切つて右のように訳した。国民生活の貧困と苛察な政治とは、古来秩序破壊の最大の原因なのである。

一一(一九五)


 先師がいわれた。――
「かりに周公ほどの完璧な才能がそなわっていても、その才能にほこり、他人の長所を認めないような人であるならば、もう見どころのない人物だ。」

○ 周公==すでに前にも述べたように、周公は武王をたすけて周室八百年の基礎を定めた人であるが、その人となりは極めて謙虚で、「吐哺握髪」という言葉で有名なように、食事や、結髪の最中でも天下の士を迎えて、その建言忠告に耳を傾けた人である。

一二(一九六)


 先師がいわれた。――
「三年も学問をして、俸祿に野心のない人は得がたい人物だ。」

○ 孔子の門人たちの中にも就職目あての弟子入りが多かつたらしい。
○ 本章には拙訳とは極端に相反する異説がある。それは、「三年も学問をして俸祿にありつけないような愚か者は、めつたにない」という意に解するのである。孔子の言葉としては断じて同意しがたい。

一三(一九七)


 先師がいわれた。――
「篤く信じて学問を愛せよ。生死をかけて道を育てよ。乱れるきざしのある国には入らぬがよい。すでに乱れた国には止まらぬがよい。天下に道が行われている時には、出でて働け。道がすたれている時には、退いて身を守れ。国に道が行われていて、貧賎であるのは恥だ。国に道が行われないで、富貴であるのも恥だ。」

一四(一九八)


 先師がいわれた。――
「その地位にいなくて、みだりにその職務のことに口出しすべきではない。」

一五(一九九)


 先師がいわれた。――
「楽師のがはじめて演奏した時にきいた関雎かんしょの終曲は、洋々として耳にみちあふれる感があったのだが――」

○ 摯==魯の楽官ですぐれた音楽家であつた。
○ 関雎==詩経の中にある篇の名。
○ この章は、いい音楽が今はきかれないという孔子のなげきでもあろうか。――諸説は紛々としている。

一六(二〇〇)


 先師がいわれた。――
「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律儀さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない。」

一七(二〇一)


 先師がいわれた。――
「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ。」

一八(二〇二)


 先師がいわれた。――
「何という荘厳さだろう、しゅん帝と王が天下を治められたすがたは。しかも両者共に政治には何のかかわりもないかのようにしていられたのだ。」

○ 舜は堯帝に位をゆずられた聖天子。禹は舜帝に位をゆずられ、夏朝の祖となつた聖王。共に無為にして化するほどの有徳の人であつた。

一九(二〇三)


 先師がいわれた。――
「堯帝の君徳は何と大きく、何と荘厳なことであろう。世に真に偉大なものは天のみであるが、ひとり堯帝は天とその偉大さを共にしている。その徳の広大無辺さは何と形容してよいかわからない。人はただその功業の荘厳さと文物制度の燦然たるとに眼を見はるのみである。」

○ 堯は支那の歴史で知られている最初の聖天子。

二〇(二〇四)


 舜帝には五人の重臣があって天下が治った。周の武王は、自分には乱を治める重臣が十人あるといった。それに関連して先師がいわれた。――
「人材は得がたいという言葉があるが、それは真実だ。とうの時代をのぞいて、それ以後では、周が最も人材に富んだ時代であるが、それでも十人に過ぎず、しかもその十人の中一人は婦人で、男子の賢臣は僅かに九人にすぎなかった。」
 またいわれた。――
「しかし、わずかの人材でも、その有る無しでは大変なちがいである。周の文王は天下を三分してその二を支配下におさめていられたが、それでも殷に臣事して秩序をやぶられなかった。文王時代の周の徳は至徳というべきであろう。」

○ 乱臣(原文)==この語は現在普通に用いられている意味と全く反対に、乱を防止し、乱を治める臣という意味に用いられている。
○ 唐・虞==堯は陶唐氏、舜は有虞氏なる故、堯・舜の時代を唐・虞の時代という。
○ この章の原文は、よほど言葉を補つて見ないと意味が通じない。特に前段と後段とは一連の孔子の言葉になつて居り、その間に意味の連絡がついていない。また、後段においては周が殷に臣事したことを理由に「至徳」と称讃してあるが、前段に出ている武王は殷の紂王を討伐した人であるから、文王時代に対する称讃と見るの外はない。従つて「文王」という言葉を補つて訳することとし、且つ賢臣の問題で前後を結びつけて見た。しかしそれでも前後の連絡は不充分である。というのは、文王の賢臣が武王の時代になると、武王をたすけて殷を討たせたことになるからである。とにかく原文に何等かの錯誤があるのではあるまいか。

二一(二〇五)


 先師がいわれた。――
「禹は王者として完全無欠だ。自分の飲食をうすくしてあつく農耕の神を祭り、自分の衣服を粗末にして祭服を美しくし、自分の宮室を質素にして灌漑水路に力をつくした。禹は王者として完全無欠だ。」
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子罕しかん第九



本篇には孔子の徳行に関することが主として集録されている。

一(二〇六)


 先師はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁とかいうことと結びつけて話された。

二(二〇七)


 達巷たつこうという村のある人がいった。――
「孔先生はすばらしい先生だ。博学で何ごとにも通じてお出でなので、これという特長が目立たず、そのために、却って有名におなりになることがない。」
 先師はこれを聞かれ、門人たちにたわむれていわれた。――
「さあ、何で有名になってやろう。ぎょにするかな、しゃにするかな。やっぱり一番たやすいぎょぐらいにしておこう。」

○ 射・御==禮・楽・射・御・書・数の六芸のうち射(弓の技術)と御(車馬を御する技術)とは比較的容易で下等な技術とされており、とりわけ御がそうである。孔子は戯れに本章のようなことをいいながら、暗に自分の本領は一芸一能に秀でることにあるのではない、村人たちの自分に対する批評は的をはずれている、という意味を門人たちに告げ、その戒めとしたものであろう。

三(二〇八)


 先師がいわれた。――
「麻のかんむりをかぶるのが古礼だが、今では絹糸の冠をかぶる風習になった。これは節約のためだ。私はみんなのやり方に従おう。臣下は堂下で君主を拝するのが古礼だが、今では堂上で拝する風習になった。これは臣下の増長だ。私は、みんなのやり方とはちがうが、やはり堂下で拝することにしよう。」

四(二〇九)


 先師に絶無といえるものが四つあった。それは、独善、執着、固陋、利己である。

五(二一〇)


 先師がきょうで遭難された時いわれた。――
「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、何で、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何が出来るというのだ。」

○ 匡==衛の一地名。陳との国境に近い。伝説によると、魯の大夫季氏の家臣であつた陽虎という人が、陰謀に失敗して国外にのがれ、匡において暴虐の振舞があり、匡人は彼を怨んでいた。たまたま孔子の一行が衛を去つて陳に行く途中匡を通りかかつたが孔子の顔が陽虎そつくりだつたので、匡人は兵を以て一行を囲むことが五日に及んだというのである。
○ 本章は一六九章の桓※(「魅」の「未」に代えて「隹」、第4水準2-93-32)の難にあつた場合の言葉と同様、孔子の強い信念と気魄とをあらわした言葉で、論語の中で極めて目立つた一章である。

六(二一一)


 大宰たいさいが子貢にたずねていった。――
「孔先生のような人をこそ聖人というのでしょう。実に多能であられる。」
 子貢がこたえた。――
「もとより天意にかなった大徳のお方で、まさに聖人の域に達しておられます。しかも、その上に多能でもあられます。」
 この問答の話をきかれて、先師はいわれた。――
「大宰はよく私のことを知っておられる。私は若いころには微賎な身分だったので、つまらぬ仕事をいろいろと覚えこんだものだ。しかし、多能だから君子だと思われたのでは赤面する。いったい君子というものの本質が多能ということにあっていいものだろうか。決してそんなことはない。」
 先師のこの言葉に関連したことで、門人のろうも、こんなことをいった。――
「先生は、自分は世に用いられなかったために、諸芸に習熟した、といわれたことがある。」

○ 大宰==官名であるが、どんな官であるか明らかでない。呉の官吏だろうという説がある。
○ 牢==孔子の門人。姓は琴(きん)、字は子開(しかい)、又は子張(しちよう)。

七(二一二)


 先師がいわれた。
「私が何を知っていよう。何も知ってはいないのだ。だが、もし、田舎の無知な人が私に物をたずねることがあるとして、それが本気で誠実でさえあれば、私は、物事の両端をたたいて徹底的に教えてやりたいと思う。」

○ 両端==首尾、本末、上下、大小、軽重、精粗、等々を意味するが、要するに委曲をつくし、懇切丁寧に教えるということを形容して「両端をたたく」といつたのである。

八(二一三)


 先師がいわれた。――
ほう鳥も飛んで来なくなった。河からはも出なくなった。これでは私も生きている力がない。」

○ 鳳鳥==鳳凰。麒麟・亀・竜と共に四霊と称せられ、それらが現われるのは聖王出現の瑞祥だと信ぜられていた。
○ 河==黄河。
○ 図==八卦の図(と)。大古伏羲(ふくぎ)の時代に黄河から竜馬が図を負つて出た。伏羲はこれに八卦を画したと伝えられている。
○ 本章は孔子がすぐれた君主の出ないのを嘆いた言葉で、それを直接いうのをはばかり、伝説の瑞祥を以てこれに代えたのである。

九(二一四)


 先師は、喪服を着た人や、衣冠束帯をした人や、盲人に出会われると、相手がご自分より年少者のものであっても、必ず起って道をゆずられ、ご自分がその人たちの前を通られる時には、必ず足を早められた。

一〇(二一五)


 顔渕がため息をつきながら讃歎していった。――
「先生の徳は高山のようなものだ。仰げば仰ぐほど高い。先生の信念は金石のようなものだ。ればるほど堅い。捕捉しがたいのは先生の高遠な道だ。前にあるかと思うと、たちまち後ろにある。先生は順序を立てて、一歩一歩とわれわれを導き、われわれの知識をひろめるには各種の典籍、文物制度を以てせられ、われわれの行動を規制するには礼を以てせられる。私はそのご指導の精妙さに魅せられて、やめようとしてもやめることが出来ず、今日まで私の才能のかぎりをつくして努力して来た。そして今では、どうなり先生の道の本体をはっきり眼の前に見ることが出来るような気がする。しかし、いざそれに追いついて捉えようとすると、やはりどうにもならない。」

○ 孔子と顔淵とのそれぞれの面目、並に両者の結びつきがこの一章に躍如としている。さすがに顔淵の言葉であり、彼ならでは出来ない表現である。

一一(二一六)


 先師のご病気が重くなった時、子路は、いざという場合のことを考慮して、門人たちが臣下の礼をとって葬儀をとり行うように手はずをきめていた。その後、病気がいくらか軽くなった時、先師はそのことを知られて、子路にいわれた。――
ゆうよ、お前のこしらえ事も、今にはじまったことではないが、困ったものだ。臣下のない者があるように見せかけて、いったいだれをだまそうとするのだ。天を欺こうとでもいうのか。それに第一、私は、臣下の手で葬ってもらうより、むしろ二三人の門人の手で葬ってもらいたいと思っているのだ。堂々たる葬儀をしてもらわなくても、まさか道ばたでのたれ死したことにもなるまいではないか。」

○ 子路は孔子がかつて大夫の職にあつたので、それにふさわしい禮をもつて葬儀を行いたかつたのであろう。師匠思いの、出過ぎた、しかも病中に葬式のことまで考えるような先走つた、稚気愛すべき子路の性格と、それに対する孔子の烈しい、しかもしみじみとした訓戒とが対照されて面白い。

一二(二一七)


 子貢が先師にいった。――
「ここに美玉があります。箱におさめて大切にしまっておきましょうか。それとも、よい買手を求めてそれを売りましょうか。」
 先師はこたえられた。――
「売ろうとも、売ろうとも。私はよい買手を待っているのだ。」

○ 子貢は孔子が卓越した徳と政治能力とを持ちながら、いつまでも野にあるのを遺憾として、かようなことをいい出したのであるが、子貢らしい才気のほとばしつた表現である。それに対する孔子の答えも、じようだんまじりに、ちやんとおさえる所はおさえているのが面白い。
○ 以上の三章、偶然か、論語の編纂者に意あつてか、孔子の門人中最も目立つている顔渕と子路と子貢の三人をつぎつぎにとらえ来つて、その面目を躍如たらしめている。この三章を読むだけでも、すでに孔門の状況が生き生きとうかがわれるではないか。

一三(二一八)


 先師が道の行われないのを歎じて九夷きゅういの地に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。――
「野蠻なところでございます。あんなところに、どうしてお住居が出来ましょう。」
 すると先師はいわれた。――
「君子が行って住めば、いつまでも野蠻なこともあるまい。」

○ 九夷==九種の蠻族が住んでいるといわれていた東方の地方。

一四(二一九)


 先師がいわれた。――
「音楽が正しくなり、しょうもそれぞれその所を得て誤用されないようになったのは、私が衛から魯に帰って来たあとのことだ。」

○ 詩経の内容を大別すると、風・雅・頌の三つになる。風は民謠、雅は朝廷の歌、頌は祭事の歌である。
○ 孔子が諸国遍歴を終つて魯に帰つたのは。哀公の十一年で、六十八歳の時であつたが、その後は、直接政治の局にあたることを断念し、専心門人の教育と、詩書禮楽の整理とに従事したのである。

一五(二二〇)


 先師がいわれた。――
「出でては国君上長に仕える。家庭にあっては父母兄姉に仕える。死者に対する礼は誠意のかぎりをつくして行う。酒は飲んでもみだれない。――私に出来ることは、先ずこのくらいなことであろうか。」

○ こういう言葉の深刻さがわからないと、論語の妙味はわからない。

一六(二二一)


 先師が川のほとりに立っていわれた。――
「流転のすがたはこの通りだ。昼となく夜となく流れてやまない。」

○ これは孔子晩年の言葉にちがいない。それが単なる無常観か、過去を顧みての歎声か、或は、たゆみなき人間の努力を祈る声かそもそもまた、流転をとおして流るる道の永遠性を讃美する言葉か、それは人おのおの自らの心境によつて解するがよかろう。ただわれわれは、こうした言葉の裏付けによつて、孔子の他の場合の極めて平凡らしく見える言葉が一層深く理解されるであろうことを忘れてはならない。

一七(二二二)


 先師がいわれた。――
「私はまだ色事を好むほど徳を好む者を見たことがない。」

一八(二二三)


 先師がいわれた。――
「修行というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一もっこというところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一もっこでもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ。」

○ 簣==土をはこぶ籠、もつこ。

一九(二二四)


 先師がいわれた。――
「何か一つ話してやると、つぎからつぎへと精進して行くのはかいだけかな。」

○ 囘==門人顔囘(顔渕)

二〇(二二五)


 先師が顔淵のことをこういわれた。――
「惜しい人物だった。私は彼が進んでいるところは見たが、彼が止まっているところを見たことがなかったのだ。」

二一(二二六)


 先師がいわれた。――
「苗にはなつても、花が咲かないものがある。花は咲いても実を結ばないものがある。」

二二(二二七)


 先師がいわれた。
「後輩をばかにしてはならない。彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。だが、四十歳にも五十歳にもなって注目をひくに足りないようでは、おそるるに足りない。」

○ 四十づら、五十づらをさげ、先輩顔をして孔子の前に並んでいた門人たちは、どんな顔をしたであろう。

二三(二二八)


 先師がいわれた。――
「正面切って道理を説かれると、誰でもその場はなるほどとうなずかざるを得ない。だが大事なのは過を改めることだ。やさしく婉曲に注意してもらうと、誰でも気持よくそれに耳を傾けることが出来る。だが、大事なのは、その真意のあるところをよく考えて見ることだ。いい気になって真意を考えて見ようともせず、表面だけ従って過を改めようとしない人は、私には全く手のつけようがない。」

二四(二二九)


 先師がいわれた。――
「忠実に信義を第一義として一切の言動を貫くがいい。安易に自分より知徳の劣った人と交って、いい気になるのは禁物だ。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。」

○ 本章は重出。八章末段參照。

二五(二三〇)


 先師がいわれた。――
「大軍の主将でも、それを捕虜に出来ないことはない。しかし、一個の平凡人でも、その人の自由な意志を奪うことは出来ない。」

○ こんな有名な言葉は、「三軍も帥を奪うべし、匹夫も志を奪うべからず」という文語体の直訳があれば充分かも知れない。

二六(二三一)


 先師がいわれた。――
「やぶれた綿入を着て、上等の毛皮を着ている者と並んでいても、平気でいられるのはゆうだろうか。詩経に、
有るをねたみて
こころやぶれず
無きを恥じらい
こころまどわず、
よきかなや、
よきかなや。
とあるが、由の顔を見ると私にはこの詩が思い出される。」
 子路は、先師にそういわれたのがよほど嬉しかったと見えて、それ以来、たえずこの詩を口ずさんでいた。すると、先師はいわれた。――
「その程度のことが何で得意になるねうちがあろう。」

○ 子路は無邪気ですぐ得意になる。孔子は、すると、必ず一太刀あびせるのである。

二七(二三二)


 先師がいわれた。――
「寒さに向うと、松柏の常盤木であることがよくわかる。ふだんはどの木も一様に青い色をしているが。」

○ 柏==「かや」である。「かしわ」ではない。

二八(二三三)


 先師がいわれた。――
「知者には迷いがない。仁者には憂いがない。勇者にはおそれがない。」

○ 孔子の言葉は、平凡らしく見える時ほど深いということを、私はこの言葉によつて特に痛感する。

二九(二三四)


 先師がいわれた。――
「共に学ぶことの出来る人はあろう。しかし、その人たちが共に道に精進することの出来る人であるとは限らない。共に道に精進することの出来る人はあろう。しかし、その人たちが、いざという時に確乎たる信念に立って行動を共にしうる人であるとは限らない。確乎たる信念に立って行動を共にしうる人はあろう。しかし、その人たちが、複雑な現実の諸問題に当面して、なお事を誤らないで共に進みうる人であるとは限らない。」

三〇(二三五)


 民謡にこういうのがある。
ゆすらうめの木
花咲きゃ招く、
ひらりひらりと
色よく招く。
招きゃこの胸
こがれるばかり、
道が遠くて
行かりゃせぬ。
 先師はこの民謡をきいていわれた。――
「まだ思いようが足りないね。なあに、遠いことがあるものか。」

○ この一章は、一七六章のあの強い言葉と全く同一の意味だが、相対比してそぞろに微笑を禁じ得ないものがある。私は孔子が、「ほれて通えば千里も一里」という日本の民謠を知つていたら、とそれが惜しくてならない。
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郷党第十



本篇は、他の諸篇とちがつて、語録ではない。孔子の風采・態度・日常の起居動作等を、門人の誰かが描写したものである。従つて、ここでは「先師」という訳語をさける。なお特殊の場合をのぞき現在形に訳することにした。

一(二三六)


 孔先生は、自宅に引きこもっておいでの時には、単純素樸なご態度で、お話などまるでお出来にならないかのように見える。ところが、宗廟や朝廷にお出になると、いうべきことは堂々といわれる。ただ慎しみだけは決してお忘れにならない。

二(二三七)


 朝廷で、下大夫とは、心置きなく率直に意見を交換され、上大夫に対しては、おだやかに、しかも正確に所信を述べられる。そして国君がお出ましの時には、恭敬の念をおのずから形にあらわされるが、それでいて、固くなられることがない。

三(二三八)


 君公に召されて国賓の接待を仰せつけられると、顔色が変るほど緊張され、足がすくむほど慎まれる。そして同役の人々にあいさつされるため、左右を向いて拱いた手を上下されるが、その場合、衣の裾の前後がきちんと合っていて、寸分もみだれることがない。国賓の先導をなされる時には、小走りにお進みになり、両袖を鳥の翼のようにお張りになる。そして国賓退出の後には、必ず君公に復命していわれる。――
「国賓はご満足のご様子でお帰りになりました。」

四(二三九)


 宮廷の門をおはいりになる時には、小腰をかがめ、身をちぢめて、恰も狭くて通れないところを通りぬけるかのような様子になられる。門の中央に立ちどまったり、敷居を踏んだりは決してなされない。門内の玉座の前を通られる時には、君いまさずとも、顔色をひきしめ、足をまげて進まれる。そして堂にいたるまでは、みだりに物をいわれない。堂に上る時には、両手をもって衣の裾をかかげ、小腰をかがめ、息を殺していられるかのように見える。君前を退いて階段を一段下ると、ほっとしたように顔色をやわらげて、にこやかになられる。階段をおりきって小走りなさる時には両袖を翼のようにお張りになる。そしてご自分の席におもどりになると、うやうやしくひかえて居られる。

五(二四〇)


 他国に使し、けいを捧げてその君主にまみえられる時には、小腰をかがめて進まれ、圭の重さにたえられないかのような物腰になられる。圭を捧げられた手をいくらか上下されるが、上っても人にあいさつする程度、下っても人に物を授ける程度で、極めて適度である。その顔色は引きしまり、恰も戦陣にのぞむかのようであり、足は小股に歩んで地に引きつけられているかのようである。贈物を捧げる礼にはなごやかな表情になられ、式が終って私的の礼となると、全く打ちとけた態度になられる。

○ 圭==君の代理の証明となるもので、玉で作つてある。

六(二四一)


 先生は衣服にもこまかな注意を払われる。紺色や淡紅色は喪服の飾りだから、それを他の場合の襟の飾りには用いられないし、また平常服に赤や紫のようなはでな色を用いられることもない。暑い時には単衣のかたびらを着られるが、下着なしに着られることはない。黒衣の下には黒羊の皮衣、白服の下には白鹿の皮衣、黄衣の下には狐の皮衣を用いられる。平常服の皮衣は温かいように長目に仕立てられるが、働きよいように右袂を短くされる。寝衣は必ず別にされ、長さは身長の一倍半である。家居には、狐やむじなの毛皮を用いて暖かにされる。喪の時以外は玉その他の装身具をきちんと身につけていられる。官服・祭服のほかは簡略にして布地を節約される。黒羊の皮衣や黒の冠で弔問されることはない。退官後も、毎月朔日ついたちには礼服を着て参賀される。

○ 黒色は吉事に用いられ、喪事には白色を用いるのが禮であつた。

七(二四二)


 ものいみする時には清浄潔白な衣を着られる。その衣は布製である。また、ものいみ中は食物を変えられ、居室をうつされる。

八(二四三)


 米は精白されたのを好まれ、なますは細切りを好まれる。飯のすえて味の変つたのや、魚のくずれたのや、肉の腐つたのは、決して口にされない。色のわるいもの、匂いのわるいものも口にされない。煮加減のよくないものも口にされない。季節はずれのものは口にされない。庖丁のつかい方が正しくないものは口にされない。ひたし汁がまちがっていれば口にされない。肉の料理がいろいろあっても、主食がたべられないほどには口にされない。ただ酒だけは分量をきめられない。しかし、取乱すほどには飲まれない。店で買った酒や乾肉は口にされない。生姜しょうがは残さないで食べられる。大食はされない。君公のお祭りに奉仕していただいた供物の肉は宵越しにならないうちに人にわかたれる。家の祭の肉は三日以内に処分し、三日を過ぎると口にされない。口中に食物を入れたままでは話をされない。寝てからは口をきかれない。粗飯や、野菜汁のようなものでも、食事前には必ず先ずお初穂を捧げられるが、その御様子は敬虔そのものである。

九(二四四)


 座席のしき物がゆがんだり曲がったりしたままでは坐られない。

一〇(二四五)


 村人と酒宴をされる時でも、老人が退席してからでないと退席されない。村人が鬼やらいに来ると、礼服をつけ、玄関に立ってそれをむかえられる。

一一(二四六)


 他邦におる知人に使者をやって訪問させる時には、再拝してその使者をおくられる。
 ある時魯の大夫季康子が先生に薬をおくられたことがあったが、先生は病中拝礼してこれをうけられた。そしていわれた。――
「おいただきしたお薬が私の病気に適するかどうか、まだわかりませんので、今すぐには服用いたしません。」

○ 貴人から食物をいただいた時には、必ずそれを食して後、その家に謝礼に出るのが例であつた。しかし薬はそうも行かなかつたので、率直にそういつて使者をかえしたのであろう。とにかくこの一章は、使者を出したり、受けたりする場合、孔子がいかに礼に厳格忠実であつたかを示すために書かれたものである。

一二(二四七)


 先生の馬屋が焼けた。朝廷からお帰りになった先生は人にけがはなかったか、と問われたきり、馬のことは問われなかった。

○ 孔子に動物愛護の心がなかつたからではない。馬を問題にして責任者を苦しめるに忍びなかつたのである。

一三(二四八)


 君公から料理を賜わると、必ず席を正し、先ず自らそれをいただかれ、あとを家人にわけられる。君公から生肉を賜わると、それを調理して、先ず先祖の霊に供えられる。君公から生きた動物を賜わると、必ずそれを飼っておかれる。君公に陪食を仰せつかると、君公が食前の祭をされている間に、必ず毒味をされる。病気の時、君公の見舞をうけると、東を枕にし、寝具に礼服をかけ、その上に束帯をおかれる。君公のお召しがあると、車馬の用意をまたないでお出かけになる。

○ 東を枕にするのは、君公を南面せしめるためである。

一四(二四九)


 大廟に入られると、ことごとに係の人に質問される。

○ 五五章參照。

一五(二五〇)


 先生は、友人が死んで遺骸の引取り手がないと、「私のうちで仮入棺をさせよう」といわれる。
 先生は、友人からの贈物だと、それが車馬のような高価なものでも、拝して受けられることはない。ただ拝して受けられるのは、祭の供物にした肉の場合だけである。

一六(二五一)


 寝るのに、死人のような寝方はされない。家居に形式ばった容儀は作られない。喪服の人にあわれると、その人がどんなに心やすい人であっても、必ずつつしんだ顔になられる。衣冠をつけた人や、盲人にあわれると、あらたまった場所でなくても、必ず礼儀正しい態度になられる。車上で喪服の人にあわれると、車の横木に手をかけて頭を下げられる。国家の地図や戸籍を運搬する役人に対しても同様である。手厚いもてなしを受けられる時には、心から思いがけもないという顔をして、立って礼をいわれる。ひどい雷鳴や烈しい嵐の時には、形を正して敬虔な態度になられる。

○ 地図や戸籍は、当時は紙がなかつたので、版に記された。従つてそれを運ぶのは相当の労働であり、下役の任務であつた。しかし孔子は地図や戸籍の重要性を思い。特に敬意を表したのであろう。
○ 最後の一句「迅雷風烈必変」(原文)は、名高い言葉で、古来の為政家で、この言葉によつて自己を戒慎したものが非常に多い。

一七(二五二)


 車に乗られる時には、必ず正しく立って車の吊紐を握り、座席につかれる。車内では左右を見まわしたり、あわただしい口のきき方をしたり、手をあげて指ざしたりされることがない。

一八(二五三)


人のさま あやしと見てか、
鳥のむれ 空にとび立ち
舞い舞いて 輪を描きしが、
やがてまた 地にひそまりぬ。

師はいえり「み山の橋の
雌雉めきじらは 時のよろしも、
雌雉らは 時のよろしも。」

子路ききて かいななでつつ、
雌雉らを とらんと寄れば、
雌雉らは 三たび鳴き
舞い立ちぬ いずくともなく。

○ 本章は原文に脱落の文字や誤字が多いと推定されている。従つてその意味についても諸説紛々で。適従するところを知らない。私は少し大胆だと思つたが、思いきつて私の想像をまじえ、一篇の詩に訳して見た。意味するところは、おおむね左のとおりである。
 孔子はある日門人たちと山間に杖をひいていた。橋の近くまで行くと、雉が人の気配におどろいて空にまい立つたが、やがて安全な時と所を見出して再び舞いおりた。孔子はこれを見て、人もあの鳥のように機に臨み変に応じて自然に「時のよろしき」を得た行動に出たいものだ、と嘆じた。子路は時の意味を全くちがつた意味に解し、師のために雉を捕獲しようとした。雉は、しかし、子路の自由にはならなかつた。それはすでにいずくともなく飛び去つていたのである。
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本篇は門人その他の人物評が主になつている。門人中の閔子騫だけには「閔子」という敬称が用いられているので、或は閔子の門人の筆録ではなかろうかという説がある。

一(二五四)


 先師がいわれた。――
「礼楽の道において、昔の人は土くさい野人、今の人は磨きのかかった上流人、と、そう世間で考えるのも一応尤もだ。しかし、もし私がそのいずれか一つを選ぶとすると、私は昔の人の歩んだ道を選びたい。」

○ 形式美のみあつて内容の空虚なのを排したのである。

二(二五五)


 先師がいわれた。――
「私についてちんさいを旅した門人たちは、今はもう一人も門下にはいない。」
 先師に従って陳・蔡におもむいた門人の中で、徳行にすぐれたのが顔渕・閔子騫びんしけん・冉伯牛・仲弓、言論に秀でたのが宰我・子夏、政治的才能できこえたのが冉有・季路、文学に長じたのが子游・子夏であった。

○ 陳・蔡==当時の支那中部の国名。共に小国であつた。孔子は六十二歳の年。蔡にいたが、楚の昭王の招きに応じて楚に行こうとした。その途中、陳と蔡の重臣たちは、もし孔子のようなすぐれた政治家が楚に用いられたら、陳も蔡も危険であると考え、相謀つて兵を発して孔子の一行を囲み、七日間糧道を絶つた。しかし幸に楚の昭王に救出され、事なきを得た。この時の苦難は孔子の巡歴中最大のもので、世にこれを陳・蔡の厄といつている。孔子は、後年、その苦難を共にした門人たちが、或は死し、或は出でて仕え、或は帰国して、一人もその門下にいないのを思い。しばしば感慨にふけつたことであろう。
○ 本章にあげられた十人の門人の名は、論語の記者の附記であるが、世にこれを「孔門の十哲」といつている。しかし、この十人を孔子の門人中の最優秀者であつたと断定するのは当らない。たとえば曾参や有若の如き、年こそ若けれ、十哲中のある者よりは遙かにすぐれた門人だつたのである。なお、十哲中の冉有は、実は陳・蔡の旅には加わつていなかつたのであるが、門人中の古参の一人であつたため、論語の記者によつて誤り加えられたものであろう。

三(二五六)


 先師がいわれた。――
「囘はいっこう私を啓発してはくれない。私のいうことは、何の疑問もなく、すぐのみこんでしまうのだから。」

○ これは無論顔囘の理解と実践力の秀抜さに対する讃辞である。二五章参照。

四(二五七)


 先師がいわれた。――
閔子騫びんしけんは何という孝行者だろう。親兄弟が彼をいくらほめても、誰もそれを身びいきだと笑うものがない。」

五(二五八)


 南容なんよう白圭はくけいの詩を日に三たびくりかえしていた。先師はそれを知られて、ご自分の兄の娘を彼にめあわされた。

○ 南容==九三章参照。
○ 白圭==詩経の大雅抑篇中の詩。「白圭之※(「王+占」、第4水準2-80-66)尚可磨也。斯言之※(「王+占」、第4水準2-80-66)不可為也。」とある。左に意訳しておく。
白玉のかけたるは
みがきても見む、
言の葉のかけたるは
せんすべもなし。

六(二五九)


 大夫の季康子がたずねた。――
「お弟子のうちで、だれが学問の好きな人でしょう。」
 先師がこたえられた。――
「顔囘というものがおりまして、学問が好きでございましたが、不幸にして若くて死にました。もうこの世にはおりません。」

○ 一二一章参照。

七(二六〇)


 顔渕が死んだ。父の顔路がんろは彼のために外棺そとがんを造ってやりたいと思ったが、貧しくて意に任せなかった。そこで先師に願った。――
「先生のお車をいただけますれば、それを金にかえて、外棺を作ってやりたいと存じますが……」
 すると先師はいわれた。――
「才能があろうとなかろうと、子の可愛ゆさは同じだ。私も子供のが死んだ時には、せめて外棺ぐらい作ってやりたい気がしないでもなかった。しかしついに内棺だけですますことにしたのだ。私がその時、徒歩する覚悟にさえなれば、車を売って外棺を作ってやることも出来ただろう。しかし、私が敢てそれをしなかったのは、私も大夫の末席につらなっているので、職掌から、徒歩するわけに行かなかったからなのだ。」

○ 顔路==顔渕の父で、孔子がはじめて教育に従事した時の最初の門人であつた。顔渕の父としては、よほど不肖の父であつたらしい。
○ 鯉==孔子の子。字は伯魚。わかくして死んだが、孔子の子としては不肖の子であつたらしい。因みに、孔子は妻にめぐまれず子にめぐまれない人であつた。

八(二六一)


 顔渕が死んだ。先師がいわれた。――
「ああ、天は私の希望を奪った。天は私の希望を奪った。」

○ 孔子はこの時、齢すでに七十歳であつた。道統をつぐ者を失つた悲痛な歎きである。

九(二六二)


 顔渕が死んだ。先師はその霊前で声をあげて泣かれ、ほとんど取りみだされたほどの悲しみようであった。お供の門人が、あとで先師にいった。――
「先生も今日はお取りみだしのようでしたね。」
 先師がこたえられた。――
「そうか。取りみだしていたかね。だが、あの人のためになげかないで、誰のためになげこう。」

一〇(二六三)


 顔渕が死んだ。門人たちが彼のために葬儀を盛大にしようともくろんだ。先師はそれを「いけない」といって、とめられたが、門人たちはかまわず盛大な葬儀をやってしまった。すると先師はいわれた。――
「囘は私を父のように思っていてくれた。私も彼を自分の子供同様に葬ってやりたかったが、それが出来なかった。それは私のせいではない。みんなおまえたちのせいなのだ。」

○ 死者顔囘の心にもかない、自分の心にもかなう、真情のこもつた質素な葬式を行いたいと思つていた孔子が、門人たちにすべてを裏切られ、最も厭うべき形式と見榮とにみちた葬儀を最愛の門人のために行わなければならなかつた時の怒りが、最後の一句で目に見えるようである。
○ 孔子の葬儀についての考え方は、四四章参照。

一一(二六四)


 季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう。」
 季路がかさねてたずねた。――
「では、死とは何でありましょうか。」
 すると先師がこたえられた。――
「まだ生が何であるかわからないのに、どうして死が何であるかがわかろう。」

○ 一三九章参照。

一二(二六五)


 びん先生は物やわらかな態度で、子路はごつごつした態度で、冉有と子貢とはしゃんとした態度で、先師のおそばにいた。先師はうれしそうにしていられたが、ふと顔をくもらせていわれた。
ゆうのような気性だと、畳の上では死ねないかも知れないね。」

○ 子路についての孔子のこの豫言は適中した。子路は衛に仕官中乱にあつて死んだのである。

一三(二六六)


 の当局が長府ちょうふを改築しようとした。それについて、閔子騫びんしけんがいった。――
「これまでの建物を修理したらいい。何も改築する必要はあるまい。」
 先師はそれを伝えきいていわれた。――
「あの男はめったに物をいわないが、いえば必ず図星にあたる。」

○ 長府==府は藏、財物を入れる建物、長府は藏の名称。

一四(二六七)


 先師がいわれた。――
ゆうしつは、私の家では弾いてもらいたくないな。」
 それをきいた門人たちは、とかく子路を軽んずる風があった。すると、先師はいわれた。――
「由はすでに堂にのぼっている。まだ室に入らないだけのことだ。」

○ 瑟==琴の一種。はじめ五十絃であつたが、後二十五絃に改められた。
○ 堂・室==堂は正庁。表座敷。室はその奥の間。「堂にのぼつて、まだ室に入らない」というのは、すでに水準以上の修練はつんでいるが、奥の手がわからないだけだ、という意味。孔子は無論音楽だけのことでなく、子路の人物全体について評価したのであろう。
○ 孔子が子路の音楽を自分の門内ではききたくない、といつたのは、子路に蠻勇があり、その音楽にも殺伐の風があつたからである。

一五(二六八)


 子貢がたずねた。――
しょうとでは、どちらがまさっておりましようか。」
 先師がこたえられた。――
「師は行き過ぎている。商は行き足りない。」
 子貢が更にたずねた。――
「では、師の方がまさっているのでございましょうか。」
 すると、先師がこたえられた。――
「行き過ぎるのは行き足りないのと同じだ。」

○ 師==門人子張。姓は※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)孫(せんそん)、名は師。
○ 商==門人子夏。
○ 本章の最後の孔子の言葉は、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という文語訳で有名である。

一六(二六九)


 先師はいわれた。――
「季氏は周公以上に富んでいる。然るに、季氏の執事となったきゅうは、主人の意を迎え、租税を苛酷に取り立てて、その富をふやしてやっている。彼はわれわれの仲間ではない。諸君は鼓を鳴らして彼を責めてもいいのだ。」

○ 季氏==魯の大夫。
○ 周公==周の武王の弟で、建国の功労者たる周公旦。魯の先祖でもあるので、孔子は季氏の僣上を責めるため、特にその名を引きあいに出したのであろう。
○ 求==門人冉求。孔子の彼を責めることの特にきびしいのは、それによつて季氏を責める意があるからであろう。
○ 本章のはじめの部分は、原文では孔子の言葉にはなつていない。しかし、「子曰」が中間に来ているのは、最後の重要な部分を強めるための語法だという説もあり、また「求」という門人の呼名によつても、前の部分も孔子の言葉とするのが妥当らしい。

一七(二七〇)


 先師がいわれた。――
さいは愚かで、しんはのろい。はお上手で、ゆうはがさつだ。」

○ 柴==孔子の門人。姓は高(こう)、字は子羔(しこう)、衛の人。
○ 参・師・由==曾参(そうしん)、子張(しちよう)、子路(しろ)(前出)
○ 原文には「子曰」がない。しかし、孔子が門人四人をとらえて冗談まじりに悪口をいつた言葉であることは、柴・参・師・由といういつもの呼名が使われているので明らかである。

一八(二七一)


 先師がいわれた。――
「囘の境地は先ず理想に近いだろう。財布が空になることはしばしばだが、いつも天命に安んじ、道を楽しんでいる。はまだ天命に安んじないで、財を作るのにかなり骨を折っているようだ。しかし、判断は正しいし、考えさえすれば、道にはずれるようなことはめったにないだろう。」

○ 顔囘と子貢とを対比した孔子の人物評は前にもあつたが。端的に全貌をつくしたものとしては、この一章を推すべきであろう。

一九(二七二)


 子張がたずねた。――
「天性善良な人は、べつに学問などしなくても、自然に道に合するようになる、というようにも考えられますが、いかがでしょう。」
 先師がこたえられた。――
「どうなり危険のない道を進むことは出来るかも知れない。しかし、せっかく先人に開拓してもらったすばらしい道があるのに、その道を歩かないというのは惜しいことだ。それに、第一、そんな自己流では、所詮、道の奥義をつかむことは出来ないだろう。」

○ 異説の多い一章だが、独自の見解に基いて訳して見た。

二〇(二七三)


 先師がいわれた。
「いうことがしっかりしているということだけで判断したのでは、君子であるか、にせ者であるか、わからない。」

二一(二七四)


 子路がたずねた。――
「善いことをきいたら、すぐ実行にうつすべきでしょうか。」
 先師がこたえられた。――
「父兄がおいでになるのに、おたずねもしないで、一存で実行するのはよろしくない。」
 冉有がたずねた。――
「善いことをきいたら、すぐ実行にうつすべきでしょうか。」
 先師がこたえられた。――
「すぐ実行するがよい。」
 後日、公西華が先師にたずねた。――
「先生は、善事をきいたらすぐ実行すべきかどうかについて、由がおたずねした時には、父兄がおいでになる、とおこたえになり、求がおたずねした時には、すぐ実行せよ、とおこたえになりました。私には、どうも先生のお気持がわかりません。いったい、どちらが先生のご真意なのですか。」
 先師はこたえられた。――
「求はとかく引込み思案だから、尻をたたいてやったし、由はとかく出過ぎるくせがあるから、おさえてやったのだ。」

○ 公西華==孔子の門人。名は赤(せき)。

二二(二七五)


 先師がきょうの難に遭われた時、顔渕は一行におくれて一時消息不明になっていたが、やっと追いつくと、先師はいわれた。――
「私は、お前が死んだのではないかと、気が気でなかったよ。」
 すると、顔渕はいった。――
「先生がおいでになるのに、何で私が軽々しく死なれましょう。」

○ 匡の難==二一〇章参照。

二三(二七六)


 季子然きしぜんがたずねた。――
仲由ちゅうゆう冉求ぜんきゅうとは大臣たいしんといってもいい人物でございましょうね。」
 先師がこたえられた。――
「私はまた誰かもつと非凡な人物についてのおたずねかと思っておりましたが、由や求のことでございましたか。お言葉にありました大臣と申しますのは、道をもって君に仕え、道が行われなければ直ちに身を退くような人をいうのでありまして、由や求にはまだ及びもつかないことでございます。二人はせいぜい忠実に政務を執るぐらいの、いわば具臣ぐしんとでも申すべき人物でございましょう。」
 季子然がまたたずねた。――
「では、二人は主命には絶対に従うでしょうね。」
 すると、先師はこたえられた。――
「彼等といえども、まさか君父を弑するような命令には従いますまい。」

○ 季子然==魯の権臣季氏の一門で、季桓子(きかんし)の弟、季平子(きへいし)の子。
○ 大臣==卓越した臣下。道義、識見、才能において第一流の人物。日本でいう大臣の意味ではない。
○ 具臣==その任にあれば、どうなりそれだけの役に立ちうる忠実な人。
○ 本章は、孔子の子路・冉求についての人物評価でもあるが、孔子にとつて一層大切であつたのは、その評価を通じて、季氏の僣上は対し[#「僣上は対し」はママ]痛烈な批判を加えることにあつたのである。季氏愚昧にして孔子の真意をさとらず、ついに愚問を発して一刀両断の憂目にあつた有様が、目に見えるようである。

二四(二七七)


 子路が子羔しこうの代官に推挙した。先師は、そのことをきいて子路にいわれた。――
「そんなことをしたら、却ってあの青年を毒することになりはしないかね。実務につくには、まだ少し早や過ぎるように思うが。」
 子路がいった。――
「費には治むべき人民がありますし、祭るべき神々の社があります。子羔はそれで実地の生きた学問が出来ると存じます。何も机の上で本を読むだけが学問ではありますまい。」
 すると、先師はいわれた。――
「そういうことをいうから、私は、口達者な人間をにくむのだ!」

○ 子羔==孔子の門人で、子路よりもはるかに後輩。性質は愚直(参照二七〇章)、学問が未熟であつた。子路は当時、季氏に仕えていたので、季氏に子羔を推挙したのである。
○ 費==季氏の私邑。難治で有名であつた。

二五(二七八)


 子路と曾皙そうせき[#「曾皙と」は底本では「曾晢と」]冉有ぜんゆう公西華こうせいかが先師のおそばにいたとき、先師がいわれた。――
「私がお前たちよりいくらか先輩だからといって、何も遠慮することはない。今日は一つ存分に話しあって見よう。お前たちは、いつも、自分を認めて用いてくれる人がないといって、くやしがっているが、もし用いてくれる人があるとしたら、いったいどんな仕事がしたいのかね。」
 すると、子路がいきなりこたえた。――
「千乗の国が大国の間にはさまって圧迫をうけ、しかも戦争、饑饉といったような難局に陥った場合、私がその国政の任に当るとしましたら、三年ぐらいで、人民を勇気づけ、且つ彼等に正しい行動の基準を与えることが出来ます。」
 先師は微笑された。そして、いわれた。
きゅうよ、お前はどうだ。」
 冉求はこたえた。――
「方六七十里、あるいは五六十里程度のところでしたら、三年ぐらいで、人民の生活を安定させる自信があります。尤も、礼楽といった方面のことになりますと、私はそのがらではありませんので、高徳の人の力にまたなければなりません。」
 先師、――
せきよ、お前はどうだ。」
 公西華がこたえた。――
「まだ十分の自信はありませんが、稽古かたがたやって見たいと思うことがあります。それは、宗廟のお祭りや、国際会談といったような場合に、礼装して補佐役ぐらいの任務につくことです。」
 先師、――
てんよ、お前はどうだ。」
 曾皙そうせきは、それまで、みんなのいうことに耳をかたむけながら、ぽつん、ぽつんとしつを弾じていたが、先師にうながされると、がちゃりとそれをおいて立ちあがった。そしてこたえた。――
「私の願いは、三君とはまるでちがっておりますので……」
 先師、――
「何、かまうことはない。みんなめいめいに自分の考えていることをいって見るまでのことだ。」
 曾皙――
「では申しますが、私は、晩春のいい季節に、新しく仕立てた春着を着て、青年五六人、少年六七人をひきつれ、水で身を清め、※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)ぶうで一涼みしたあと、詩でも吟じながら帰って来たいと、まあそんなことを考えております。」
 すると先師は深い感歎のため息をもらしていわれた。――
「私もてんの仲間になりたいものだ。」
 間もなく三人は室を出て、曾皙だけがあとに残った。
 彼はたずねた。――
「あの三人のいったことを、どうお考えになりますか。」
 先師はこたえられた。――
「みんなそれぞれに自分相応の抱負をのべたに過ぎないさ。」
 曾皙――
「では、なぜ先生はゆうをお笑いになりましたか。」
 先師――
「国を治むるには礼を欠いではならないのに、由の言葉は高ぶり過ぎていたので、ついおかしくなったのだ。」
 曾皙――
「求は謙遜して一国の政治ということにはふれなかったようですが……」
 先師――
「方六七十里、或は五六十里といえば、小さいながらも国だ。やはり求も一国の政治のことを考えていたのだよ。謙遜はしていたが。」
 曾皙――
せきのいったのは、いかがでしょう。ああいうことも一国の政治といえるでしょうか。」
 先師――
「宗廟のことや国際会談の接伴というようなことは、諸侯にとっての重大事で、やはり一国の政治だよ。しかもせきはその適任者だ。謙遜して、補佐役ぐらいなところを引きうけたいといっていたが、彼が補佐役だったら、彼の上に長官になれる人はないだろう。」

○ 曾皙==曾子の父。名は点(てん)。父子共に孔子の門人。
○ 千乗の国==兵車千乗の国、大諸侯につぐ国。
○ 方六七十里==方百里は大国、方七十里は中国、方五六十里は小国とされていた。
○ 沂==川の名。
○ 舞※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)==天に雨を祈る祭壇のあるところ。
○ 孔子の理想は実際政治にある。本章でも、だから、門人たちが政治に志すことに決して反対はしていない。ではなぜ曾皙の言に特別な賛意を表したか。これには二つの説がある。その一つは、曾皙が名利を超越し、青少年を道の友として大自然の中に呼吸せんとした心境を、他の門人達のそれよりも一層高いものと見たからだ、という説であり、もう一つは、孔子は政治に志を得ないですでに老境に入つていたので、自分の境遇上、自然曾皙の言に賛意を表せざるを得ず、一種の感慨を表白したものだ、という説である。私は、この両説のいずれにも軍配をあげない。というのは両説を共に生かすことによつて、この一章の味わいは一層深まるであろうと思うからである。
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顔淵第十二



この篇は、主として、孔子が門人や国君や大夫などとの間にとりかわした問答の記録で成つている。

一(二七九)


 顔渕が仁の意義をたずねた。先師はこたえられた。――
「己に克ち、私利私欲から解放されて、調和の大法則である礼に帰るのが仁である。上に立つ者が一たび意を決してこの道に徹底すれば、天下の人心もおのずから仁に帰向するであろう。仁の実現は先ず自らの力によるべきで、他にまつべきではない。」
 顔渕がさらにたずねた。――
「実践の細目について、お示しをお願いいたしたいと存じます。」
 先師がこたえられた。――
「非礼なことに眼をひかれないがいい。非礼なことに耳を傾けないがいい。非礼なことを口にしないがいい。非礼なことを行わぬがいい。」
 顔渕がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます。」

○ 原文「克己復礼」の四字は、孔子の仁の説明の中でも代表的なものである。「復礼」は、「礼にかえる」と読むのと「礼をふむ」と読むのとの両説があるが、私は前者に従つた。

二(二八〇)


 仲弓が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「門を出て社会の人と交る時には、地位の高下を問わず、貴賓にまみえるように敬虔であるがいい。人民に義務を課する場合には、天地宋廟の神々を祭る時のように、恐懼するがいい。自分が人にされたくないことを、人に対して行ってはならない。もしそれだけのことが出来たら、国に仕えても、家にあっても、平和を楽しむことが出来るだろう。
 仲弓がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます。」

○ 「己の欲せざる所人に施すこと勿れ」――論語といえば、すぐこの言葉を思い出すほど、この言葉は有名である。(一〇三章參照)

三(二八一)


 司馬牛が仁についてたずねた。先師はこたえられた。――
「仁者というものは、言いたいことがあっても、容易に口をひらかないものだ。」
 司馬牛が更にたずねた。――
「容易に口をひらかない、――それだけのことが仁というものでございましょうか。」
 すると先師はいわれた。――
「仁者は実践のむずかしさをよく知っている。だから、言葉をつつしまないではいられないのだ。」

○ 司馬牛==孔子の門人、名は犂(り)、又は耕(こう)。宋の人
○ 司馬牛は多辯の人であつた。孔子の答は謂ゆる人を見て法を説いたのである。前の顔渕に対する答、仲弓に対する答、すべてそうでないものはない。

四(二八二)


 司馬牛が君子についてたずねた。先師はこたえられた。――
「君子はくよくよしない。またびくびくしない。」
 司馬牛が更にたずねた。――
「くよくよしない、びくびくしない、というだけで君子といえるでしょうか。」
 すると先師はいわれた。――
「それは誰にも出来ることではない。自分を省みてやましくない人だけにしか出来ないことなのだ。」

○ 司馬牛は兄桓※(「魅」の「未」に代えて「隹」、第4水準2-93-32)(かんたい)(參照一六九章)をはじめ、兄弟たちの悪行を恥じ、常に悩みおそれていたので、孔子はとくにこんなことをいつて励ましたのであろう。(次章參照)

五(二八三)


 司馬牛が沈んだ顔をして子夏にいった。――
「誰にも兄弟があるのに、私だけにはない。」
 すると、子夏が慰めていった。――
「死生や富貴は天命だときいているが、兄弟に縁のうすいのも、やはり天命だろう。おたがいに道に志して、心につつしみを持ちつづけ、礼をもって社会生活の調和を保って行くならば、四海のいたるところに兄弟は見出せるではないか。道に志す者が何で肉親の兄弟に縁のうすいのをくよくよ思う必要があろう。」

○ 司馬牛には兄弟がなかつたのではない。(前章の註參照)。

六(二八四)


 子張が明察ということについてたずねた。先師はこたえられた。――
「水がしみこむようにじりじりと人をそしる言葉や、傷口にさわるように、するどくうったえて来る言葉には、とかく人は動かされがちなものだが、そういう言葉にうかうかと乗らなくなったら、その人は明察だといえるだろう。いや、明察どころではない、達見の人といってもいいだろう、」

七(二八五)


 子貢が政治の要諦についてたずねた。先師はこたえられた。――
「食糧をゆたかにして国庫の充実をはかること、軍備を完成すること、国民をして政治を信頼せしめること、この三つであろう。」
 子貢が更にたずねた。――
「その三つのうち、やむなくいずれか一つを断念しなければならないとしますと、先ずどれをやめたらよろしうございましょうか。」
 先師――
「むろん軍備だ。」
 子貢がさらにたずねた。
「あとの二つのうち、やむなくその一つを断念しなければならないとしますと?」
 先師――
「食糧だ。国庫が窮乏しては為政者が困るだろうが、昔から人間は早晩死ぬものときまっている。国民に信を失うぐらいなら、饑えて死ぬ方がいいのだ。信がなくては、政治の根本が立たないのだから。」

○ 原文の「足食」を私は主として国庫の充実という意に解した。一般には人民の食糧の意味に解されているが、それでは、後段の「古より皆死あり」が、孔子の思想としては、あまりに残酷である。人民が饑え死にしてもいいなどとは、孔子は決していわないであろうし、またそれでは、国民の信を政治につなぎうる道理もないからである。但、これは私一個の見解で、なお大方の批判をまたなければならないだろう。
○ 原文の「民信之」を「民はこれを信にす」と読んで国民道義の確立の意味に解する説もある。この説に従うと、「足食」も人民の食糧を豊富にする意味に解して、一応筋が通らないこと出ない。即ち、孔子は、人民の動物的生命を維持するための「食糧」よりも、人間的生命を維持するための「信」を重んずることを以て、その政治理想とした、と解するのである。実は、私も最初そういう意味に解して訳文を進めて見たのであるが、あまりに立入りすぎる嫌があり、幾度も本章を読みかえして見て、末尾の「民信無くば立たず」は、やはり、「人民の信を得ることこそ、政治の根本だ」という意味に解する方が、前後の関係語調から見て正しいと思つたのである。

八(二八六)


 衛の大夫棘子成きょくしせいがいった。――
「君子は精神的、本質的にすぐれておれば、それでいいので、外面的、形式的な磨きなどは、どうでもいいことだ。」
 すると子貢がいった。
「あなたの君子論には、遺憾ながら、ご同意出来ません。あなたのような地位の方が、そういうことを仰しゃっては、取りかえしがつかないことになりますから、ご注意をお願いいたします。いったい本質と外形とは決して別々のものではなく、外形はやがて本質であり、本質はやがて外形なのであります。早い話が、虎や豹の皮が虎や豹の皮として価値あるためには、その美しい毛がなければならないのでありまして、もしその毛をぬき去って皮だけにしましたら、犬や羊の皮とほとんどえらぶところはありますまい。君子もその通りであります。」

○ 原文「駟不及舌」は「駟も舌に及ばず」という文語訳で有名である。駟は四頭立の馬車で、速力がはやいが、その速い馬車で追いかけても失言は取消せないの意。
○ 參照一三五章「文質彬々」。

九(二八七)


 魯の哀公が有若ゆうじゃくにたずねられた。――
「今年は飢饉で国庫が窮乏しているが、何かよい案はないのか。」
 有若がこたえていった。――
「どうして十分の一税になさいませんか。」
 哀公がいわれた。――
「十分の二税を課しても足りないのに、十分の一税になど、どうして出来るものか。」
 すると、有若がいった。
「百姓がもし足りていたら、君主として、あなたはいったい誰と共に不足をおなげきになりますか。百姓がもし足りていなかったら、君主として、あなたはいったい誰と共に足りているのをお喜びになりますか。」

○ 有若は、論語の編者によつて、しばしば「有子」という敬称をもつて呼ばれた人で、孔子の門人中では、若年ではあつたが、顔囘につぎ、曾子と並んで有徳の人であつたらしい。風采も孔子によく似た人であつたと伝えられている。

一〇(二八八)


 子張がたずねた。――
「徳を高くして、迷いを解くには、いかがいたしたものでございましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「誠実と信義を旨とし、たゆみなく正義の実現に精進するがよい。それが徳を高くする道だ。迷いは愛憎の念にはじまる。愛してはその人の生命の永からんことを願い、憎んではその人の死の早からんことを願う。何というおそろしい迷いだろう。愛憎の超克、これが迷いを解く根本の道だ。」

○ 本章原文の末尾には、もと「誠不以富。亦祇以異。」の二句があつた。詩経にある言葉だが、全く意味がつながらない。後章四三二にあるべき言葉がまぎれこんだのであろうというのが定説になつているので、ここでは削除することにした。

一一(二八九)


 せい景公けいこうが先師に政治について問われた。先師はこたえていわれた。――
「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの道をつくす、それだけのことでございます。」
 景公いわれた。――
「善い言葉だ。なるほど君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくないとすれば、財政がどんなにゆたかであっても、自分は安んじて食うことは出来ないだろう。」

○ 景公治下の斉は上下をあげて人倫がみだれていたので、孔子は先ずその根本を正すことの必要を説いたのである。しかし景公はそれを単なる言葉として賛意を表したに過ぎなかつた。

一二(二九〇)


 先師がいわれた。――
「ただ一言でぴたりと判決を下し、当事者双方を信服させる力のあるのは、ゆうだろうか。」
 子路は元来、引きうけたことは直ちに実行にうつす人で、ふだんから人に信頼された人なのである。

一三(二九一)


 先師がいわれた。――
「訴訟ごとの審理判決をやらされると、私もべつに人と変ったところはない。もし私に変ったところがあるとすれば、それは、訴訟ごとのない世の中にしたいと願っていることだ。」

一四(二九二)


 子張が政治のやり方についてたずねた。先師はこたえられた。――
「職務に専念して、辛抱づよく、真心をこめてやりさえすれば、それでいいのだ。」

一五(二九三)


 先師がいわれた。――
「ひろく典籍を学んで知見をゆたかにすると共に、実践の軌範を礼に求めてその知見にしめくくりをつけるがいい。それでこそ学問の道にそむかないといえるだろう。」

○ 本章は一四四章と重出。ただ「君子」の二字がないだけである。

一六(二九四)


 先師がいわれた。――
「君子は人の美点を称揚し、助長するが、人の欠点にはふれまいとする。小人はその反対である。」

一七(二九五)


 季康子が、政治について先師にたずねた。先師はこたえられた。――
「政治のせいせいであります。あなたが真先に立って正を行われるならば、誰が正しくないものがありましょう。」

○ 季康子==魯の大夫。

一八(二九六)


 季康子が国内に盗賊の多いのを心配して、先師にその対策をもとめた。すると先師はこたえられた。――
「もしあなたさえ無欲におなりになれば、賞をあたえるといっても盗む者はありますまい。」

○ 季氏は魯の公室を四分してその二を奪つたほどの大盗であつたのである。孔子のこのきびしい言葉もなるほどとうなずかれる。

一九(二九七)


 季康子が政治について先師にたずねていった。――
「もし無道な者を殺して有道な者を保護するようにしたらいかがでしょう。」
 先師がこたえられた。
「政治を行うのに人を殺す必要がどこにありましょう。あなたが、もし真に善をお望みであれば、人民はおのずから善に向います。為政者と人民との関係は風と草との関係のようなもので、風が吹けば草は必ずその方向になびくものでございます。」

二〇(二九八)


 子張がたずねた。――
「学問に励みますからには、いわゆる達人といわれる境地にまで進みたいと思いますが、そのというのは、いったいどういうことなのでしょう。」
 先師がいわれた。――
「お前はどう思うかね、その達というのは。」
 子張がこたえた。――
「公生活においても、私生活においても、第一流の人だといわれるようになることだろうと存じますが――」
 先師――
「それは名聞みょうもんというものだ。達ではない。達というのは、質実朴直で正義を愛し、人言にまどわされず、顔色に欺かれず、思慮深く、しかも謙遜で、公生活においても、私生活においても、内容的に充実することなのだ。名聞だけのことなら、実行の伴わない人でも、表面仁者らしく見せかけ、自らあやしみもせず、平然としてやっておれば、公私とも何とかごまかせることもあるだろう。しかしそんな無内容なことでは、断じて達人とはいえないのだ。」

二一(二九九)


 樊遅はんちが先師のお伴をして※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)ぶうのほとりを散策していた。彼はたずねた。――
「生意気なおたずねをするようですが、徳を高め、心の奥深くひそんでいる悪をのぞき、迷いを解くには、どうしたらよろしうございましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「大事な問題だ。為すべき事をどしどし片付けて、損得をあとまわしにする。これが徳を高くする道ではないかね。自分の悪をせめて他人の悪をせめない。これが心に巣喰っている悪をのぞく道ではないかね。一時の腹立ちで自分を忘れ、災を近親にまで及ぼす。これが迷いというものではないかね。」

○ 舞※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)==雨乞の祭壇を設ける台の名。
○ 子張もほぼ同じような質問をしているが、孔子の答はちがつている。(參照二八八章)

二二(三〇〇)


 樊遅はんちが仁の意義をたずねた。先師はこたえられた。
「人間を愛することだ。」
 樊遅がさらに知の意義をたずねた。先師はこたえられた。――
「人間を知ることだ。」
 樊遅はまだよくのみこめないでいた。すると先師がいわれた。――
「まっすぐな人を挙用して、まがった人の上におくと、まがった人も自然に正しくなるものだ。」
 樊遅は室を出たが、子夏を見るとすぐたずねた。――
「さきほど、私は先生にお会いして、知についておたずねしました。すると先生は、まっすぐな人を挙用して、まがった人の上におくと、まがった者も自然に正しくなる、といわれましたが、これはどういう意味でございましょうか。」
 子夏がこたえた。――
「含蓄の深いお言葉だ。昔、舜帝が天下を治めた時、衆人の中から賢人皐陶こうようを挙げて宰相に任じたら、不仁者がすがたをひそめたのだ。また殷のとう王が天下を治めた時、衆人の中から賢人伊尹いいんを挙げて宰相に任じたら、不仁者がすがたをひそめたのだ。」

○ 樊遅は頭は鈍い方であつたが、探究心の強い人であつたといわれている。
○ 子夏は樊遅よりも先輩であつた。
○ 參照三五章。

二三(三〇一)


 子貢が交友の道をたずねた。先師はこたえられた。――
「真心こめて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない。」

二四(三〇二)


 曾先生がいわれた。――
「君子は、教養を中心にして友人と相会し、友情によって仁をたすけあうものである。」
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子路第十三



この篇は、おおむね、治国修身の訓言を集めたものである。

一(三〇三)


 子路が政治についてたずねた。先師がこたえられた。――
「人民の先に立ち、人民のために骨折るがいい。」
 子路は物足りない気がして、いった。
「もう少しお話をお願いいたします。」
 すると先師はいわれた。――
「あきないでやることだ。」

○ 子路は勇者で実行力に富んでいたが、辛抱づよい人ではなかつたのである。
○ 原文「労之」を民をねぎらう意味に解する説もある。

二(三〇四)


 仲弓ちゅうきゅうが魯の大夫季氏の執事となった時に、政治について先師にたずねた。先師がいわれた。――
「それぞれの係の役人を先に立てて働かせるがいい。小さな過失は大目に見るがいい。賢才を挙用することを忘れないがいい。」
 仲弓がたずねた。――
「賢才を挙用すると申しましても、もれなくそれを見出すことはむずかしいと存じますが――」
 先師がいわれた。――
「それは心配ない。お前の知っている賢才を挙用さえすれば、お前の知らない賢才は、人がすててはおかないだろう。」

三(三〇五)


 子路がいった。――
「もしえいの君が先生をおむかえして政治を委ねられることになりましたら、先生は真先に何をなさいましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「先ず名分を正そう。」
 すると、子路がいった。――
「それだから先生は迂遠だと申すのです。この火急の場合に、名分など正しておれるものではありません。」
 先師がいわれた。――
「お前は何というはしたない男だろう。君子は自分の知らないことについては、だまってひかえているものだ。そもそも名分が正しくないと論策が道をはずれる。論策が道をはずれると実務があがらない。実務があがらないと礼楽が興らない。礼楽が興らないと刑罰が適正でない。刑罰が適正でないと人民は不安で手足の置き場にも迷うようになる。だから君子は必ず先ず名分を正すのだ。いったい君子というものは、名分の立たないことを口にすべきでなく、口にしたことは必ずそれを実行にうつす自信がなければならない。あやふやな根拠に立って、うかつな口をきくような人は、断じて君子とはいえないのだ。」

○ 衛君==出公。当時父と国を争つて居り、大義名分がみだれていた。(参照一六一章註)

四(三〇六)


 樊遅はんちが殻物の作り方を教えていただきたいと先師に願った。先師はこたえられた。――
「私は老農には及ばないよ。」
 樊遅は、すると、野菜の作り方を教えていただきたいと願った。先師はこたえられた。――
「私は老園芸家には及ばないよ。」
 樊遅が引退がると、先師はいわれた。――
樊須はんすは人物が小さい。上に立つ者が礼を好めば、人民が上を敬しないことはない。上に立つ者が義を好めば、人民が上に服しないことはない。上に立つ者が信を好めば、人民が不人情になることはない。そして、そうなれば、人民はその徳を慕い、四方の国々から子供をおぶって集って来るであろう。為政者に農業技術の知識など何の必要もないことだ。」

○ 樊須==須は樊遅の名。
○ 古来支那の政治において最も重んぜられたのは勧農であつた。樊遅はそれを思つて、自らその道に通じたいと念願したのであろう。孔子がそのために彼を小人物だと非難したのは苛酷の嫌いがないではない。ただ、当時は春秋時代の末期で、道義が地に落ち政治の大本がみだれていたので、孔子は時にその方面のことが強調したかつたのであろうと思われる。

五(三〇七)


 先師がいわれた。――
「詩経にある三百篇の詩をそらんずることが出来ても、政治をゆだねられて満足にその任務が果せず、諸侯の国に使して自分の責任において応対が出来ないというようでは、何のためにたくさんの詩を暗んじているのかわからない。」

○ 孔子においては、詩に親しむことは。人情風俗に通じ、政治外交の真髄を会得する道であつたのである。

六(三〇八)


 先師がいわれた。――
「上に立つ者が身を正しくすれば、命令を下さないでも道が行われるし、身を正しくしなければ、どんなに厳しい命令を下しても、人民はついて来るものではない。」

七(三〇九)


 先師がいわれた。――
の政治とえいの政治とはやはり兄弟だな。」

○ 魯の先祖は周公、衛の先祖は周公の弟康叔(こうしゆく)であつた。その点でまさしく兄弟の国であつたが、孔子の時代においては、魯に哀公、衛に出公があり、前者は季氏三家の専横によつて君臣の分が明らかでなく、後者は父子位を争つて国がみだれていたので、その意味でも相似た兄弟の国であつた。孔子はそれを歎いたのである。

八(三一〇)


 衛の公子けいのことについて、先師がいわれた。――
「あの人は家庭経済をよく心得て、奢らなかった人だ。はじめ型ばかり家財があった時に、どうなり間にあいそうだといい、少し家財がふえると、どうやらこれで十分だといい、足りないものがないようになると、いささか華美になりすぎたといった。」

○ 公子荊==荊は名。衛の公子で、同時に大夫であつた。

九(三一一)


 先師が衛に行かれた時、冉有がお供をして馬車を御していた。先師はいわれた。――
「この国の人口は大したものだ。」
 すると冉有がたずねた。――
「これだけ人が集れば結構でございますが、この上は、どういうことに力を注ぐべきでございましょう。」
 先師――
「経済生活をゆたかにしてやりたいね。」
 冉有――
「もし経済生活がゆたかになりましたら、その次には?」
 先師――
「文教を盛んにすることだ。」

○ 当時支那の民衆は、平和な国、善政の国を求めて集つていたので。人口の多いことは、その国の誇りになつていたのである。

一〇(三一二)


 先師がいわれた。――
「もし私を用いて政治をやらせてくれる国があったら、一年で一通りのことは出来るし、三年もあったら申し分のないところまで行けるのだが。」

一一(三一三)


 先師がいわれた。――
「古語に、単なる善人に過ぎないような人でも、もしその人が百年間政治の任にあたることが出来たら、人間の残忍性を矯め、死刑のような極刑を用いないでもすむようになる、とあるが、まことにその通りだ。」

○ 善人==人の上に立つための学問修養はつんでいないが、本質的には善良な人。(参照――一七二章、二七二章)

一二(三一四)


 先師がいわれた。――
「たとえ真の王者が現われても、少くも一世代を経なければ、民をあまねく仁に化することは出来ない。」

○ 王者==聖徳をそなえ、天命をうけて王となる人。
○ 原文の「世」は一世代、即ち三十年。

一三(三一五)


 先師がいわれた。
「もし自分の身を正しくすることが出来るなら、政治の局に当っても何の困難があろう。もし自分の身を正しくすることが出来ないなら、どうして人を正しくすることが出来よう。」

一四(三一六)


 ぜん先生が役所から退出して来られると、先師がたずねられた。――
「どうしてこんなにおそくなったのかね。」
 冉先生がこたえられた。――
「政治上の相談がひまどりまして。」
 先師がいわれた。――
「いや、そうではあるまい。季氏一家の私事ではなかったかね。もし政治向きのことであれば私にも相談があるはずだ。」

○ 冉==冉有のこと。原文に「冉子」とあつて敬称になつている。
○ 冉有は当時魯の大夫季氏の執事をつとめていた。季氏は専横で国政を他の重臣に謀らず、私邸で家臣と謀議するのを常としていた。孔子は現職ではなかつたが、かつて大夫の職にあたつたので当然国政の相談にはあずかるはずであつた。思うに孔子は、冉有が公私の別を正さないのを戒めると共に、間接に季氏の専横を難じたのであろう。

一五(三一七)


 魯の定公がたずねられた。――
「一言で国を興隆させるような言葉はないものかな。」
 先師がこたえられた。――
「いったい言葉というものは、仰せのようにこれぞという的確なききめのあるものではありません。しかし、世の諺に、君となるのも難しい、臣となるのもたやすくはない、ということがございます。もし、君となるのがむずかしいという言葉が支配者に十分のみこめましたら、その言葉こそ一言で国を興隆させる言葉にもなろうかと存じます。」
 定公がまたたずねられた。――
「一言で国を亡ぼすというような言葉はないものかな。」
 先師がこたえられた。――
「いったい言葉というものは、仰せのように、これぞという的確なききめのあるものではありません。しかし、世の諺に、君となっても何の楽みもないが、ただ何をいってもさからう者がないのが楽みだ、ということがございます。もし善いことをいってさからう者がないというのなら、まことに結構でございますが、万一にも、悪いことをいってもさからう者がないという意味でございますと、それこそ一言で国を亡ばす言葉にもなろうかと存じます。」

一六(三一八)


 葉公しょうこうが政道についてたずねた。先師はこたえられた。――
「領内の人民が悦服すれば、領外の者も慕って参りましょう。」

○ 葉公==楚の大夫。楚領内の一地方を領し、王を僣称していた人である。

一七(三一九)


 子夏が※(「くさかんむり/呂」、第3水準1-90-87)きょほの代官となった時、政道についてたずねた。先師はこたえられた。――
「功をいそいではならない。小利にとらわれてはならない。功をいそぐと手落ちがある。小利にとらわれると大事を成しとげることが出来ない。」

○ ※(「くさかんむり/呂」、第3水準1-90-87)父==魯国の邑名。

一八(三二〇)


 葉公が得意らしく先師に話した。――
「私の地方に、感心な正直者がおりまして、その男の父が、どこからか羊が迷いこんで来たのを、そのまま自分のものにしていましたところ、かくさずそのあかしを立てたのでございます。」
 すると、先師がいわれた。――
「私の地方の正直者は、それとは全く趣がちがっております。父は子のためにその罪をかくしてやりますし、子は父のためにその罪をかくしてやるのでございます。私は、そういうところにこそ、人間のほんとうの正直さというものがあるのではないかと存じます。」

○ 葉公==三一八章參照。
○ 原文「直躬者」を「直躬という者」と読んで、人名とする説もあるが、「躬を直くする者」と読んで、正直者と訳する方が。意味がよく通ずるし、興味もある。

一九(三二一)


 樊遅はんちが仁についてたずねた。先師がこたえられた。――
「休息している時にもだらけた風をしない、執務の時には仕事に魂をぶちこむ、人と交っては誠実を旨とする。この三つのことを、時処の如何をとわず、たとえば野蛮国に行っても忘れないようにするがいい。」

○ 原文では、恭・敬・忠の三語を用いてあるが、この中、「恭」は外にあらわれる態度。敬は心の持方を主とする。
○ 樊遅が孔子に仁についてたずねたのが、本章のほかに二度出ており、答えはその都度ちがつている。学者の説では、本章が最初で、一三九章、三〇〇章の順序であろうと、いうことになつている。内容の程度から考えて。おそらくそうであろう。

二〇(三二二)


 子貢がたずねた。――
たる者の資格についておうかがいいたしたいと存じます。」
 先師がこたえられた。――
「自分の行動について恥を知り責任を負い、使節となって外国に赴いたら君命を辱しめない、というほどの人であったら、士といえるだろう。」
 子貢がまたたずねた。――
「もう一段さがったところで申しますと?」
 先師――
「一家親族から孝行者だとほめられ、土地の人から兄弟の情誼に厚いと評判されるような人だろう。」
 子貢――
「更にもう一段さがったところで申しますと?」
 先師――
「口に出したことは必ず実行する、やり出したことはあくまでやりとげる、といったような人は、石ころ見たようにこちこちしていて、融通がきかないところがあり、人物の型は小さいが、それでも第三流ぐらいのねうちはあるだろう。」
 子貢が最後にたずねた。――
「現在政務に当っている人たちをご覧になって、どうお考えになりますか。」
 すると先師はこたえられた。――
「だめ、だめ。ますではかるような小人物ばかりで、まるで問題にはならない。」

○ 「士」は士農工商の士で、現在では時代錯誤的な匂いのする社会階級の観念が含まれている。
○ 原文の「斗※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)之人」を「桝ではかるような小人物」と訳したが原語のままでも、ある程度通用している。「斗」も「※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)」も量器である。

二一(三二三)


 先師がいわれた。――
「願わくば中道を歩む人と事を共にしたいが、それが出来なければ、狂熱狷介な人を求めたい。狂熱的な人は志が高くて進取的であり、狷介な人は節操が固くて断じて不善を為さないからだ。」

○ 孔子は、無理想で、妥協的で、沈香も焚かず屁もひらないような、いいかげんな人が、いかにも中道を歩んでいるかのような顔をしているのに一撃を加えたのであろう。

二二(三二四)


 先師がいわれた。
「南国の人のことわざに、人間の移り気だけには、祈祷師のお祈りも役に立たないし、医者の薬もきかない、ということがあるが、名言だ。また、易経に、徳がぐらついていると、いつかは、だれかに恥辱というお土産をいただくだろう、という言葉があるが、これもまちがいのないことだ。」

○ 原文の「不可以作巫医」を「巫医ふいるべからず」と読んで、「祈祷師や医者のような賤しい職業にもつけない、」と解する人が多いようだが、祈祷師はとにかくとして、医者を賤しい職業と見るのは無理である。また、「祈祷師や医者には不変の誠意がなければならないから、移り気の人には不適当だ、」という風に解する人もあるが、それでは、他の職業ならいいということになつて、可笑しなことになる。やはり、「巫医を作すべからず」と読んで、拙訳のように、手のつけようがない、という意味に解する方が、妙味もあり、また後段との照応からいつても妥当だと信ずる。

二三(三二五)


 先師がいわれた。
「君子は人と仲よく交るが、ぐるにはならない。小人はぐるにはなるが、ほんとうに仲よくはならない。」

○ 原文の「同」は「附和雷同」の「同」である。
○ 參照――三〇章。

二四(三二六)


 子貢がたずねた。
「その土地の人みんなにほめられるような人でございましたら、りっぱな人といえましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「必ずしもそうとはいえまい。」
 子貢――
「では、土地の人みんなに憎まれるような人が却ってりっぱな人でございましょうか。」
「そうはいえまい。土地の善人にほめられ、悪人ににくまれるような人が、一番りっぱな人なのだ。」

○ 子貢の第二の質問は、いかに辯舌の人とはいえ、あまりに奇矯な質問で、納得しかねる。しかし通説に従つて一先ず右の如く訳した。レツグ博士の英訳では、その質問を「悪人といえるか」の意味にとつて、孔子の答をそれに応ぜしめているが、「未可也」という原文が、「悪人とはいえぬ」という意味に解されるかどうか、やはり疑問が残るし、そのあととのつながりも、ぴつたりしないように思える。なお研究を要する一章である。

二五(三二七)


 先師がいわれた。
「君子は仕えやすいが、きげんはとりにくい。きげんをとろうとしても、こちらが道にかなっていないといい顔はしない。しかし人を使う時には、それぞれの器量に応じて使ってくれ、無理な要求をしないから仕えやすい。小人は、これに反して、仕えにくいがきげんはとりやすい。こちらが道にかなわなくても、きげんをとろうと思えばわけなく出来る。しかし人を使う時には、すべてに完全を求めて無理な要求をするから仕えにくい。」

二六(三二八)


 先師がいわれた。――
「君子は泰然としている。しかし高ぶらない。小人は高ぶる。しかし泰然たるところがない。」

二七(三二九)


 先師がいわれた。――
「剛健な意志、毅然たる節操、表裏のない質朴さ、粉飾のない訥々たる言葉、こうした資質は、最高の徳たる仁に近い徳である。」

○ 「剛毅木訥は仁に近し」という文語訳はあまりにも有名で、すでにわれわれの言葉になつている。新たに冗長な口語訳を必要としないであろう。
○ 三章參照。

二八(三三〇)


 子路がたずねた。――
「どういう人物を士というのでございましょう。」
 先師がこたえられた。――
「こまやかな情愛、かゆいところに手のとどくような親切心、春風のようにやわらかで温かい物ごし、そうしたものが士にはそなわっていなければならない。とりわけ朋友に対しては情をこまやかにして、懇切に交るがいいし、兄弟に対しては顔色をやわらげることに気をつけるがいい。」

○ とかく、がさつな性質を丸出しにしたがる子路に対しての教訓であることを忘れては、本章の妙味がない。

二九(三三一)


 先師がいわれた。――
「有徳の人が人民を教化して七年になったら、はじめて戦争に使ってもよいようになるだろう。」

○ 本章原文の「善人」は、他の章の「善人」のように、聖人・君子と区別して特に限定した意味で用いられているのではない。というのは本章における孔子の言葉は、おそらく、次章と同様、人民を戦争に用いるのは容易ならぬことで、よほど高徳な人が長年月の間教化した後でなければ、軍紀が紊れ、掠奪その他の恐れがあるということを強調したのであろうと思われるからである。

三〇(三三二)


 先師がいわれた。――
「教化訓練の行き届かない人民を率いて戦にのぞむのは、民を棄てるのと同じである。」

○ 棄==普通には、敗戦によつて兵を失うことだけを意味するように解せられているが、孔子の真意は、もつと深いところにあるであろう。前章とあわせて味読したい。
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憲問第十四



この篇は、門人原憲が筆記したものであろうといわれている。列国の士大夫についての人物評がかなり多い。

一(三三三)


 けんが恥についてたずねた。先師がこたえられた。――
「国に道が行われている時、仕えて祿ろくむのは恥ずべきことではない。しかし、国に道が行われていないのに、その祿を食むのは恥ずべきである。」

○ 憲==孔子の門人。原憲(げんけん)、字は思(し)。(参照――一二二章)ここに「憲」という名だけをいうたのは、原憲自らこの文を書いたからだと想像される。
○ 本章は。「国に道があろうと、なかろうと、俸祿をうけて仕えるのは恥ずべきだ」という意味に解する説もある。しかし、それでは一九七章、及び三八五章の孔子の言と一致しない。

二(三三四)


 憲がたずねた。――
「優越心、自慢、怨恨、食欲、こうしたものを抑制することが出来ましたら、仁といえましょうか。」
 先師がこたえられた。
「それが出来たらえらいものだが、それだけで仁といえるかどうかは問題だ。」

○ 原文では、この質問者の名は出ていないが、定説に従つて原憲の質問として訳した。

三(三三五)


 先師がいわれた。――
「士たる者が、安楽な家庭生活のみを恋しがるようでは、士の名に値しない。」

○ 参照 一四章。

四(三三六)


 先師がいわれた。――
「国に道が行われている時には、信ずるところを大胆に言い、大胆に行うべきである。国に道が行われていない時には、行いは無論大胆でなければならないが、言葉は多少ひかえて、婉曲であるがいい。」

○ 本章の後段の意味を「舌禍をさけるための用心」と解する説があるが、それでは、孔子に気の毒である。孔子はおそらく、言論の効果について考えていたのであろう。直言して却つて火に油をそそぐような結果になり、悪の勢力を増大してはならない、というのが、その真意ではなかろうか。

五(三三七)


 先師がいわれた。――
「有徳の人は必ずよいことをいう。しかしよいことをいう人、必ずしも有徳の人ではない。仁者には必ず勇気がある。しかし勇者必ずしも仁者ではない。」

六(三三八)


 南宮※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)なんぐうかつが先師にたずねていった。――
※(「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29)げいは弓の名手であり。ごう[#「(戛−戈)/介」の「人がしら」に代えて「大」、U+5961、372-下-12]は大船をゆり動かすほどの大力でありましたが、いずれも非業の最期をとげました。しかるに、しょくとは自ら耕作に従事して、ついに天子の位にのぼりました。これについての先生の御感想を承りたいと存じます。」
 先師はこたえられなかった。しかし、南宮※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)がその場を去ると、いわれた。
「あのような人こそ、まことの君子だ。あのような人こそ、まことに徳を尊ぶ人だ。」

○ 南宮※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)==門人南容(参照九三章)だという説と、魯の賢大夫といわれた南宮敬叔だという説とがある。いつたい論語では、一般に孔子のことを単に「子」と呼び、貴人との応対の場合に限り特に「孔子」と呼んでいるが、本章では「孔子」となつている。従つて南宮敬叔とする説の方が正しいのではあるまいか。
○ ※(「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29)==古代有窮国の君主で弓の名人であつた。夏の王、しょうを亡ぼして天子の位を奪つたが、後、臣寒※(「さんずい+足」、第4水準2-78-51)さくに殺された。
○ ※[#「(戛−戈)/介」の「人がしら」に代えて「大」、U+5961、373-上-13]==寒※(「さんずい+足」、第4水準2-78-51)の子、強力の人であつた。後、夏の王。相の子少康に殺された。
○ 禹==禹は治水に大功のあつた人で、治水を終ると耕作に従事していたが、舜帝が崩ずると、その位をゆずられた。
○ 稷==堯・舜の二朝に仕え農業の振興に大功のあつた人。後、禹と共に自ら耕作に従事した。自分は帝位にはつかなかつたが、その子孫の周の武王に至つて、天下の主となつた。
○ 孔子が南宮※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)の問に答えなかつたのは、問の意が、※(「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29)・※[#「(戛−戈)/介」の「人がしら」に代えて「大」、U+5961、373-下-1]を当時の無道な権力者に比し、孔子を禹・稷に此して、徳ある者が天下の主となるべきことをほのめかしていたからだ、と解されている。

七(三三九)


 先師がいわれた。――
「道に志す君子にも不仁なものがないとはいえない。しかし道を求めない小人はすべて不仁だ。」

八(三四〇)


 先師がいわれた。――
「人を愛するからには、その人を鍛えないでいられようか。人に忠実であるからには、その人を善導しないでいられようか。」

九(三四一)


 先師がいわれた。――
てい[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、374-上-2]の国では、外交文書を作製するには、※(「言+甚」、第3水準1-92-13)ひじんが草稿をつくり、世叔せいしゅくがその内容を検討し、外交官の子羽しうがその文章に筆を入れ、更に東里とうり子産しさんがそれに最後の磨きをかけている。」

○ 原文には※[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、374-上-6]国という語はないが定説に従つて補つた。
○ 列挙されている四人はみな賢大夫であり、子産が総理格であつた。
○ 東里==子産の居住地名。
○ ※[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、374-上-10]は小国で、晉・楚の二大国の間にはさまれながら、よく命脈を保つていた。孔子は、それにはそれだけの理由があるということをいつたのである。

一〇(三四二)


 ある人がてい[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、374-上-14]の大夫子産の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「めぐみ深い人だ。」
 の大夫子西の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「あの人か、あの人は。」
 斉の大夫管仲の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「人物だね。あの人は大夫伯氏はくしの罪をただして、その領地であった駢邑へんゆう三百里を没収したが、当の伯氏は、その後やっとかゆをすするほどの困りかたであったにもかかわらず、死ぬまであの人に対して怨みごとをいわなかったというのだから、大したものだ。」

○ 子産・子西・管仲==子産と管仲については一〇七章、六二章参照。子西は楚の公子申で、平王の長子であつたが、平王の死後国を弟(昭王)にゆずり、自らは大夫となつて、治績をあげ、賢大夫の誉があつた。しかし、楚が候国でありながら、王を僣称していたのをやめさせることが出来ず、また昭王が孔子を用いようとした時にこれを妨げ、後では白公を迎えて禍乱の種をまいた。孔子が彼を賞讃しなかつたのは、そうしたことのためであろう。
○ 三百里==原文には単に「三百」とあつて、三百家か、三百里か不明である。里が正しいとすれば、一里は二十五家であるから七千五百家となる。

一一(三四三)


 先師がいわれた。――
「貧乏でも怨みがましくならないということは、めったな人に出来ることではない。それに比べると、富んでおごらないということはたやすいことだ。」

○ そのたやすいことが門人たちになかなか出来ないので、孔子はこの言を発したのであろう。こういう言葉を単なる難易の比較だと見て、甲論乙駁するようでは論語は死ぬ。

一二(三四四)


 先師がいわれた。――
孟公綽もうこうしゃくは、たといしんちょう家や家のような大家であっても、その家老になったらりっぱなものだろう。しかし、とうせつのような小国でも、その大夫にはなれない人物だ。」

○ 孟公綽==魯の大夫であつた。寡欲清廉な人ではあつたが、政治的識見才能に乏しく、たとい小国でも、一国の政治を任される人ではなかつたので、孔子は彼が魯のような大国の大夫であることに。大きな疑問を抱いていたのであろう。

一三(三四五)


 子路が「成人」の資格についてたずねた。先師がいわれた。――
臧武仲ぞうぶちゅうの知、公綽こうしゃくの無欲、卞荘子べんそうしの勇気、冉求ぜんきゅうの多芸をかね、更に礼楽をもつて磨きをかけたら、成人といってもいいだろう。」
 さらにいわれた。――
「しかし、今のような乱世では、そこまでは望めまい。利得の問題では道義を考え、国家の危急に臨んでは身命をなげうち、古い約束や、平常の誓いを忘れずに実行する、というような人であったら、今ではまずまず成人といえるだろう。」

○ 成人==今日普通にいう成人ではない。完成された人、理想的人物、少し軽く見て、具わつた人といつたような意味である。
○ 臧武仲==魯の大夫、名は※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)。知者として聞えた。
○ 公綽==前章の孟公綽。
○ 卞荘子==魯の一邑卞の大夫。虎を刺殺したので名高い。
○ 冉求の芸==一二五章参照。
○ 孔子は前段において、色々の能力の点にまでふれたが、後段においては、節操の点だけを強調している。節操を欠いでは問題にならぬというのである。

一四(三四六)


 先師が公叔文子こうしゅくぶんしのことを公明賈こうめいかにたずねていわれた。
「ほんとうでしょうか、あの方は、言わず笑わず取らず、というような方だときいていますが?」
 公明賈がこたえていった。――
「それはお話しした人の言いすぎでございましょう。あの方は、言うべき時になってはじめて口をひらかれますので、人があの方を口数の多い方だとは思わないのです。あの方は心から楽しい時にだけ笑われますので、お笑いになるのが鼻につかないのです。また、あの方は、筋道の立つ贈物だけをお取りになりますので、お取りになっても人が気にしないのです。」
 すると先師がいわれた。――
「なるほど、その通りでしょう。うわさなどあてになりませんね。」

○ 公叔文子==衛の大夫、公孫抜。
○ 公明賈==衛の人、公叔文子の門人だろうという説がある。
○ 孔子の最後の言葉は、「それ然り、豈それ然らんや」という文語訳で通用しており、「なるほど。しかし、あやしいものだね。」というような、疑いと冷やかしとをふくめた意味に用いられている。本章でも、その意味に解するのが通説になつているが、しかし、遠来の客が、自分の国の大夫のことを話したのを、そんな風に冷やかすのは、たとえ疑うべき根拠があつたとしても、無礼であり、軽薄であり、普通人でも敢てしないところである。況んや孔子においておやである。しかも、公明賈の答はすばらしい。うそにしてもこれだけの答をして自分の国の大夫の名誉を護ろうとしたのは見上げたものである。それ点から[#「それ点から」はママ]いつても、孔子が深くうなずいたと見る方が適当である。このことについては三五八章の※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉の使者に対する孔子の態度をも参考にしたい。とにかくこれまでの通説は、孔子の名誉のために、そして論語の権威のために、断じて訂正さるべきであろう。但、公明賈が遠来の客でなく、また公叔文子の支配下の人でも、門人でもなく、萬一にも孔子の一門人であつたとすれば、話はまた別である。その場合は、通説に従つても、それを孔子の教育の一手段として、是認出来る理由がたしかにあるのである。

一五(三四七)


 先師がいわれた。――
臧武仲ぞうぶちゅうは、罪を得て魯を去る時、その領地であったぼうにふみとどまり、自分の後嗣を立てることを魯君に求めたのだ。彼が武力に訴えて国君を強要する意志はなかったといっても、私はそれを信ずるわけには行かない。」

○ 臧武仲は魯の大夫孟孫のために叛逆者と讒言され、斉に出奔したが、その前に、領地防に行き、魯君に向つて先祖の祭を絶たないために後継者を立てたいと願い、兄の臧為を立てることが出来たあとで斉に去つたのである。彼は三四五章にもあつた通り知者ではあつたが、有徳の人とはいえなかつた。
○ 原文は甚だ簡単で、逐字訳をしても意味が通らないので、右のことを補つて訳した。

一六(三四八)


 先師がいわれた。
しんの文公は謀略を好んで正道によらなかった人であり、斉の桓公かんこうは正道によって謀略を用いなかった人である。」

○ 孔子が特にこの両者を比較したのは、両者が共に諸侯の盟主となり、夷狄をはらい周室を尊んだ人で、形にあらわれた功績は相似たものであるが、その盟主としてのやり方が、前者は謀略に基き、後者は大義名分に出発していたからである。

一七(三四九)


 子路がいった。――
せい桓公かんこうが公子きゅうを殺した時、召忽しょうこつは公子糾に殉じて自殺しましたのに、管仲かんちゅうは生き永らえて却って桓公の政をたすけました。こういう人は仁者とはいえないのではありますまいか。」
 先師がこたえられた。――
「桓公が武力を用いないで諸侯の聯盟に成功し、夷狄いてきの難から中国を救い得たのは、全く管仲の力だ。それを思うと、管仲ほどの仁者はめったにあるものではない。めったにあるものではない。」

○ 公子糾==桓公の庶弟。糾は名。
○ 斉の襄公は無道であつたので、弟の小白は賢臣鮑叔牙と共に※(「くさかんむり/呂」、第3水準1-90-87)に逃れていた。その間に襄公が弑せられた。すると今度は公子糾が管仲・召忽の二人に伴われて魯に逃れた。魯は糾をたすけて斉に入れようとしたが、それが成功しないうちに、小白が斉に入つて位についた。これが桓公である。その後、糾は魯の助けを得て斉に入ろうとし、桓公の軍と戦つたが敗れて魯に逃げ帰つた。その結果、桓公は魯に要求して糾を殺させ、且つ管仲・召忽の二人を引渡すことを求めたが、召忽は自殺した。管仲は捕虜となつて罪を謝しようとしたが、腎臣鮑叔牙の取りなしで、却つて斉の宰相に任ぜられた。

一八(三五〇)


 子貢がいった。――
「管仲は仁者とはいえますまい。桓公が公子糾を殺した時、糾に殉じて死ぬことが出来ず、しかも、桓公に仕えてその政を輔佐したのではありませんか。」
 先師がこたえられた。
「管仲が桓公を輔佐して諸侯聯盟の覇者たらしめ、天下を統一安定したればこそ、人民は今日にいたるまでその恩恵に浴しているのだ。もし管仲がいなかったとしたら、われわれも今頃は夷狄いてきの風俗に従って髪をふりみだし、着物を左前に着ていることだろう。管仲ほどの人が、小さな義理人情にこだわり、どぶの中で首をくくって名もなく死んで行くような、匹夫匹婦のまねごとをすると思ったら、それは見当ちがいではないかね。」

○ 覇者==覇は諸侯の長。力をもつて天下の実権を握る人。王者とは異る。孟子によると、天命をうけ徳をもつて天下を治めるのが王道であり、力を以て天下を私するのが覇道である。
○ 本章は前章と共に管仲の人物論であるが、孔子のかような意見には古来かなりの反論がある。孔子自身としても、伯夷・叔斉を絶讃しているのだから(參照一六一章)矛盾なしとはいえない。思うに、管仲の功績を無視するに忍びず、その辯護に急であつたため、勢い召忽の死を非難するかの如き言葉にもなつたのであろう。なお、孔子の管仲に対する批評は六二章にもあつたが、そこでは、「人物が小さい」といつている。そういう点から判断すると、或は論語の記者に何か書き誤りがあつたのかも知れない。

一九(三五一)


 公叔文子こうしゅくぶんしの家臣であった※(「にんべん+饌のつくり」、第4水準2-1-88)せんは、大夫となって文子と同列で朝廷に出仕した。先師はそのことを知っていわれた。――
「公叔文子は文の名に値する人だ。」

○ 公叔文子は衛の大夫であつたが、家臣※(「にんべん+饌のつくり」、第4水準2-1-88)を自ら大夫に推挙して自分と同役にした。「文」は彼のおくり名である。従つて孔子のこの言は彼の死後に発せられたものである。――「文」のおくり名をうける人は徳の高い人でなければならない。

二〇(三五二)


 先師が、衛の霊公は無道な君主だと非難された。すると大夫の季康子きこうしがいった。――
「仰しゃるとおりだとしますと、どうして国が亡びないのでしょう。」
 先師がいわれた。――
仲叔圉ちゅうしゅくぎょが外交に任じ、祝駝しゅくだが内政を司り、王孫賈おうそんかが国防の責を負っています。これだけの人物がそろっていて、どうして国が亡びましょう。」

○ 原文の「賓客」は外国の使臣、「治賓客」は外交を意味する。
○ 原文の「宗廟」は祭祀の意味だが、祭祀は内政の最重要事とされていた。

二一(三五三)


 先師がいわれた。――
「恥かしげもなく偉らそうなことをいうようでは、実行はあやしいものである。」

二二(三五四)


 斉の大夫陳成子ちんせいしがその君簡公かんこうを弑した。先師は斎戒沐浴して身をきよめ、参内して哀公に言上された。――
「斉の陳恆ちんこうが君を弑しました。ご討伐なさるがよろしいと存じます。」
 哀公がいわれた。――
「先ずあの三人に話して見るがいい。」
 先師は退出して歎息しながらいわれた。――
「自分も大夫の末席につらなっている以上、默っては居れないほどの重大事なので、申上げたのだが、ご決断がつかないと見えて、あの三人に話せと仰せられる。いたしかたもない。」
 先師はそういって三家に相談に行かれた。三人は賛成しなかった。先師はまた歎息していわれた。――
「自分も大夫の末席につらなっている以上、默っては居れないほどの重大事なので、いったのだが、三人とも気にもかからぬと見える。何ということだろう。」

○ 斉は魯の隣国であつたが、孔子は大義名分に関する天下の大事だと考えたのである。
○ 「三人」は魯の権臣季氏三家の季孫、孟孫、叔孫である。哀公はこの三人をはばかつて、独断では何事も出来なかつたし、三人は、むろん大義名分の如きは問題でなく、ただ斉の強大をおそれていたのである。

二三(三五五)


 子路が君に仕える道をたずねた。先師はいわれた。――
「いつわりのないのが先ず第一だ。そして場合によっては面を犯して直言するがいい。」

二四(三五六)


 先師がいわれた。――
「君子は上へ上へと進む。小人は下へ下へと進む。」

二五(三五七)


 先師がいわれた。――
「昔の人は自分を伸ばすために学問をした。今の人は人に見せるために学問をしている。」

二六(三五八)


 ※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉きょはくぎょくが先師に使者をやった。先師は使者を座につかせてたずねられた。――
「御主人はこのごろどんなことをしておすごしでございますか。」
 使者がこたえた。――
「主人は何とかして過ちを少くしたいと苦心していますが、なかなかそうは参らないようでございます。」
 使者が帰ったあとで、先師がいわれた。――
「見事な使者だ、見事な使者だ。」

○ ※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉==衛の大夫、名は※(「王+爰」、第3水準1-88-18)かん、賢人の誉が高かつた。孔子は、巡歴して衛に行つた時、この人の家に入つていたことがある。
○ 四〇八章の孔子の言葉を參照しつつ本章を味いたい。

二七(三五九)


 先師がいわれた。――
「その地位にいなくて、みだりにその職務のことに口出しすべきではない。」

○ 本章は一九八章の重出である。

二八(三六〇)


 曾先生がいわれた。――
「君子は自分の本分をこえたことは考えないものである。」

○ 古註では、前章と合して一章となつている。

二九(三六一)


 先師がいわれた。――
「君子は言葉が過ぎるのを恥じる。しかし実践には過ぎるほど努力する。」

○ 原文「而」が「之」になつている本がある。それだと、「君子はまだ実行の出来ないことを口にすることを恥じる」という意味になる。

三〇(三六二)


 先師がいわれた。――
「君子の道には三つの面があるが、私はまだいずれの面でも、達していない。三つの面というのは、仁者は憂えない、知者は惑わない、勇者はおそれない、ということだ。」
 子貢がいった。――
「それは先生がご自分で仰しゃることで、ご謙遜だと思います。」

○ 孔子の同様の言葉が二三三章にもあつた。ただ知・仁・勇の順序がちがつている。
○ 原文の最初の「道」は「みち」、最後の「道」は「言う」の意味である。
○ 子貢の言葉を「その三つのことこそ、先生ご自身のことを仰しやつたものでございましよう。」という意味に解する人もある。しかし原文が「自道」となつているので、「自分のことをいう」と解するのは無理ではあるまいか。

三一(三六三)


 子貢がある時、しきりに人物の品定めをやっていた。すると先師はいわれた。――
はもうすいぶん賢い男になったらしい。私にはまだ他人の批評などやっているひまはないのだが。」

○ 賜==子貢の名。

三二(三六四)


 先師がいわれた。――
「人が自分を認めてくれないのを気にかけることはない。自分にそれだけの能力がないのを気にかけるがいい。」

○ ほぼ同様の言葉が一六章、八〇章、三九七章に見えている。

三三(三六五)


 先師がいわれた。――
「だまされはしないかと邪推したり、疑われはしないかと取越苦労をしたりしないで、虚心に相手に接しながら、しかも相手の本心がわかるようであれば、賢者といえようか。」

三四(三六六)


 微生畝びせいほが先師にいった。――
きゅう、お前は何でそんなに、いつまでもあくせくとうろつきまわっているのだ。そんなふうで、おべんちゃらばかりいって歩いているのではないかね。」
 先師がいわれた。――
「いや、べつにおしゃべりをしたいわけではありませんが、小さく固まって独りよがりになるのがいやなものですから。」

○ 微生畝==どういう人か明らかでない。多分当時世を避け、孤高を誇つていた老荘流の隱士で、孔子より老人であつたろうと想像されている。
○ この対話は、おそらく、孔子が諸国を巡歴していたころのことであろう。最後の一句は、むろん、孔子が相手に一本釘をさすつもりでいつた言葉にちがいない。

三五(三六七)


 先師がいわれた。――
「名馬が名馬といわれるのは、その力のためではなく調教が行き届いて性質がよくなっているからだ。」

三六(三六八)


 ある人がたずねた。――
「怨みに報いるに徳をもってしたら、いかがでございましょう。」
 先師がこたえられた。――
「それでは徳に報いるのには、何をもってしたらいいかね。怨みには正しさをもって報いるがいいし、徳には徳をもって報いるがいい。」

○ ここに、ある人というのは、おそらく老荘流の人をさすのであろう。老子は明らかに「怨みに報いるに徳を以てす」といつているのだから。
○ 孔子には、老・荘・仏・基のように、飛躍ということがなかつた。つまり孔子は常にこつこつと地上を歩いた人であり、現実社会の秩序ということを忘れて、一挙に理想に突入し、愛の燃燒によつて罪を浄化するというような心境には終生なれなかつたのである。そういう点で、孔子に霊感的なものを求めるのは比較的困難である。しかし、そこに基督などとはちがつた彼の偉大さ、いわば平凡人の偉大さとでもいうべきものがあつたと思う。理想としては、「汝の敵を愛する」のが見事だとしても、現実社会は永遠に「怨みに報いるに正しさを以てする」必要があるであろうことを、われわれは忘れてはならないのである。

三七(三六九)


 先師が歎息していわれた。――
「ああ、とうとう私は人に知られないで世を終りそうだ。」
 子貢がおどろいていった。――
「どうして先生のような大徳の方が世に知られないというようなことが、あり得ましょう。」
 すると先師は、しばらく沈默したあとでいわれた。――
「私は天を怨もうとも、人をとがめようとも思わぬ。私はただ自分の信ずるところに従って、低いところから学びはじめ、一歩一歩と高いところにのぼって来たのだ。私の心は天だけが知っている。」

○ これは孔子が七十歳をこしてからの言葉だろうといわれている。ここに「人に知られない」というのは、諸侯のうち一人として真に自分を信任して存分に政治をやらしてくれるものがなく、ついに古聖の道を実現することが出来なかつた、という意味である。
○ 子貢の言葉は、「どういうわけで先生を知らないのでしようか」という疑問の意味に解する人もあるが、私は、おどろきと慰めとをふくめた否定的な意味、即ち「そんなことはありません」という意味に解するのが、自然であると思う。
○ 最後の孔子の言葉は、おそらく老境に入つた孔子のいつわらない心境であろうが、いかにも深く、高く、且つさびしい。しかも徹底してこつこつと地上を歩いたものの声である。

三八(三七〇)


 公伯寮こうはくりょうが子路のことを季孫にざん言した。子服景伯しふくけいはくが先師にその話をして、いった。――
「季孫はむろん公伯寮の言にまどわされていますので、心配でございます。しかし、私の力で、何とかして子路の潔白を証明し、公伯寮の屍をさらしてお目にかけますから、ご安心下さい。」
 すると先師はいわれた。――
「道が行われるのも天命です。道がすたれるのも天命です。公伯寮ごときに天命が動かせるものでもありますまいから、あまりご心配なさらない方がよいと思います。」

○ 公伯寮==魯の人というだけで、どんな人か不明。
○ 季孫==魯の権臣、三家の一人。
○ 子服景伯==魯の大夫の一人。
○ 市朝(原文)==当時、刑人の屍は、大夫以上の人は朝廷に、士以下は市中にさらしたので、市朝二字をもつて「さらし場」の意味に使つたのである。
○ 子服景伯の言葉のはじめの部分は、本訳とは全く反対の意味、即ち「公伯寮の言を疑つて信じない」という意味に解する説もある。しかしそれでは、その次の「わが力」がきいて来ないのではあるまいか。
○ 孔子が、こういう場合に、天命をもち出したのは、おそらく魯の政治に見切りをつけていたためだろうと想像される。彼もその当時は、まだ大夫の一人であつたが、季氏の専横が日に日につのつて、手がつけられなくなつていたのである。

三九(三七一)


 先師がいわれた。――
「賢者がその身を清くする場合が四つある。世の中全体に道が行われなければ、世をさけて隠棲する。ある地方に道が行われなければ、その地方をさけて、他の地方に行く。君主の自分に対する信任がうすらぎ、それが色に出たら、その色をさけて隠退する。君主の言葉と自分の言葉とが対立すれば、その言葉をさけて隠退する。」

○ 本章は原文が極めて簡単で、ほとんどその意味が捕捉されない。古来の諸説を參考にして説明的に訳して見た。

四〇(三七二)


 先師がいわれた。――
「立ちあがったものが、七人だ。」

○ 本章もこれだけでは何のことか全然わからない。前章と合して一章になつている本もあるので、おそらく「隱退者が七人になつた」という意味だろうと解釈されている。しかし、それにしてもどこの国の何人がその七人なのかはわからない。

四一(三七三)


 子路が石門せきもんに宿って、翌朝関所を通ろうとすると、門番がたずねた。――
「どちらからおいでですかな。」
 子路がこたえた。――
「孔家のものです。」
 すると門番がいった。――
「ああ、あの、だめなことがわかっていながら、思いきりわるくまだやっている人のうちの方ですかい。」

○ 石門==地名、魯の国境に近い。
○ やはりこの門番も老荘的隱士であろう。

四二(三七四)


 先師が衛に滞在中、ある日けいをうって楽しんでいられた。その時、もつこをかついで門前を通りがかった男が、いった。――
「ふふうむ。ちょっと意味ありげな磬のうちかただな。」
 しばらくして、彼はまたいった。――
「だが、品がない。執念深い音だ。やっぱりまだ未練があるらしいな。認めてもらえなけりゃあ、ひっこむだけのことだのに。」
 それから彼は歌をうたい出した。
「わしに添いたきゃ、渡っておじゃれ、
水が深かけりゃ腰までぬれて、
浅けりゃ、ちょいと小褄こづまをとって。
ほれなきゃ、そなたの気のままよ。」
 それをきいていた門人の一人が、先師にそのことを話すと、先師はいわれた。――
「思いきりのいい男だ。だが、思いきってよければ、何もむずかしいことはない。大事なのは、一身を清くすることではなくて、天下と共に清くなることなのだ。」

○ 磬==石の楽器、矩形の石をつるしたもの。
○ 歌の原文「深則※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)、浅則掲」は詩経にある。歌の中二句がそれにあたる。前後の二句は訳者で補足した。
○ 門前を通りがかつた男は、やはり老荘的隱士であろう。

四三(三七五)


 子張がいった。
「書経に、高宗こうそうは服喪中の三年間口をきかなかった、とありますが、どういう意味でございましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「それは高宗にかぎったことではない。古人はみなそうだったのだ。君主がおかくれになると、三年の間は、百官はそれぞれの職務をまとめて、すべて首相の指図に従うことになっていたので、あとに立たれた君主は口をきく必要がなかったのだ。」

○ 書経==儒教経典の一つで、歴史と政治学とをかねたようなもの。
○ 高宗==殷の天子、名は武丁。
○ 時代がちがうので、こうしたことになると、論語も全く興味がない。ただ親の喪につつしむ心だけは永久に生かさるべきであろう。

四四(三七六)


 先師がいわれた。――
「為政者が礼を好むと、人民は快く義務をつくすようになる。」

四五(三七七)


 子路が君子の道をたずねた。先師がこたえられた。――
「大事に大事に細心な注意をはらって、自分の身を修めるがいい。」
 子路――
「それだけのことでございますか。」
 先師――
「自分の身を修めて人を安んずるのだ。」
 子路――
「それだけのことでございますか。」
 先師――
「自分の身を修めて天下万民を安んずるのだ。天下万民を安んずるのは、堯舜のような聖天子も心をなやまされたことなのだ。」

○ 原文の「敬」はつつしむことであるが、細心の注意ということが重要な内容になつている。孔子は、相手が子路であるために、特にこのことを強調したのであろう。子貢が仁を問うた場合と比較すると面白い。(参照――一四七章)

四六(三七八)


 原壤げんじょうが、両膝をだき、うずくまったままで、先師が近づかれるのを待っていた。先師はいわれた。――
「お前は、子供のころには目上の人に対する道をわきまえず、大人おとなになっても何一つよいことをせず、その年になってまだ生をむさぼっているが、お前のような人間こそ世の中の賊だ。」
 そういって、杖で彼のすねをたたかれた。

○ 原壤==孔子の少年時代からの友人。母が死んだ時、孔子がくやみに行くと、彼は悲しんでいる様子もなく、外棺の上に乗つて歌をうたつていたとか、孔子に葬儀の世話をたのんで、自分は木に登つて歌をうたつていたとか伝えられている。老荘的な変り者ではなかつたかとも想像されているが、たしかでない。孔子が杖でうつぐらいだから、その時も、よほど始末におえない態度を示したのであろう。
○ それにしても、孔子が友人に対する忠告に暴力を用いたということが論語に記されているということは、変である。或は軽くさわつたぐらいのことかも知れぬ。

四七(三七九)


 けつという村の出身だった一少年が、先師の家で取次役をさせられていた。そこである人が、先師にたずねた。――
「あの少年もよほど学問が上達したと見えますね。」
 先師はこたえられた。――
「いやそうではありません。私はあの少年が成人おとなの坐る席に坐っていたのを見ましたし、また先輩と肩をならべて歩くのを見ました。あの少年は学問の上達を求めているのでなく、早く成人おとなになりたがっているのです。それで実は取次でもやらして、仕込んで見たいと存じまして……」

○ 闕==邑の名、原文に「党」とあるのは五百戸の村のこと。
○ 取次役は大事な仕事でもあり、孔子に接近する機会も多いのでかような質問が出たのであろう。
○ 孔子の答は、その教育法をうかがう好材料である。
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衛霊公第十五



この篇は一般的訓言を集めたもので、一篇としての特色はない。

一(三八○)


 衛の霊公が戦陣のことについて先師に質問した。先師がこたえていわれた。――
「私は祭具の使い方については学んだことがありますが、軍隊の使い方については学んだことがございません。」
 翌日先師はついに衛を去られた。――
 ちんにおいでの時に、食糧攻めにあわれた。お伴の門人たちは、すっかり弱りきって、起きあがることも出来ないほどであった。子路が憤慨して先師にいった。――
「君子にも窮するということがありましょうか。」
 すると、先師がいわれた。――
「君子もむろん窮することがある。しかし、窮しても取りみださない。小人は窮すると、すぐに取りみだすのだ。」

○ 衛の霊公は、まえにもしばしば出たとおり、道を求める君主ではなかつた。孔子は公に戦争のことをとわれて失望したのである。彼は礼についての質問を期待し、その最も重要な祭事のことをいい出してみたが、ついにその事がなかつたので、衛を去ることにした。孔子に軍事上の知識がまるでなかつたわけではなかつたのである。
○ 陳の難については前に委しく書いた。(二五五章の註参照)
○ 孔子の子路に対する答は、「君子もとより窮す、小人窮すればここに濫す」という文語訳で有名である。日本の「貧すれば鈍する」にあたるか。子路が憤慨したのは、すでに「濫」したのである。

二(三八一)


 先師がいわれた。――
よ、お前は私を博学多識な人だと思つているのか。」
 子貢がこたえた。――
「むろん、さようでございます。ちがっていましょうか。」
 先師――
「ちがっている。私はただ一つのことで貫いているのだ。」

○ 賜==子貢の名。
○ 孔子は曾参にも同じことをいつている。(八一章参照)

三(三八二)


 先師がいわれた。――
ゆうよ、ほんとうに徳というものが腹にはいっているものは少いものだね。」

○ 由==子路の名。
○ 原文の「知」は「体得」の意味に解すべきである。徳は実践上のことであり、実践なくしてはその真味を知ることが出来ないからである。
○ 孔子が特に子路を名ざしてこういつた理由は、想像して見るより仕方がない。

四(三八三)


 先師がいわれた。――
「無為にして天下を治めることが出来たのは、舜であろう。舜は何をしたか。ただ恭しい態度で、正しく南面していただけである。」

○ 舜については二〇二章、二〇四章、三〇〇章参照。
○ 「無為」は老子の「無為」とは異る。老子においては政治を行わないことであり、孔子においては、各般の政務をそれぞれの責任者に任せ、支配者はひたすら仁の心に徹して、大綱をにぎることである。
○ 南面==君主の座は南面、臣下はそれに対して北面するのがきまりである。

五(三八四)


 子張が、どうしたら自分の意志が社会に受けいれられ、実現されるか、ということについてたずねた。先師がこたえられた。――
「言葉が忠信であり、行いが篤敬であるならば、野蛮国においても思い通りのことが行われるであろうし、もしそうでなければ、自分の郷里においても何一つ行われるものではない。忠信篤敬の四字が、立っている時には眼のまえにちらつき、車に腰をおろしている時には、ながえの先の横木に、ぶらさがって見えるというぐらいに、片時もそれを忘れないようになって、はじめて自分の意志を社会に実現することが出来るのだ。」
 子張はこの四字をしんに書きつけて守りとした。

○ 紳==大帶を前に結んでたれたところ。

六(三八五)


 先師がいわれた。――
史魚しぎょは何という真直な人だろう。国に道があっても矢のように真直であり、国に道がなくても矢のように真直だ。」
 またいわれた。――
※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉きょはくぎょくは何という見事な君子だろう。国に道があれば出でて仕え、国に道がなければただちに才能を巻いて懐におさめる。」

○ 史魚==衛の大夫。史は官名(史官)という説と姓という説とがある。字は子魚。
○ ※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉==衛の大夫。(參照――三五八章註)
○ 孔子が衛の二人の大夫を批評して、共に賞讃はしているが、一方を「直」といい、一方を「君子」といつている。おそらく※(「くさかんむり/遽」、第4水準2-87-18)伯玉を一段上と見、史魚にはまだ十分の満足を覚えていなかつたのであろう。しかし、これだけの材料では、われわれにはまだ優劣の判断はつかない。日本人の気持としては、むしろ史魚に好感を覚えるものも多いであろう。

七(三八六)


 先師がいわれた。――
「共に語るに足る人に会いながら、その人と語らなければ人を失うことになる。共に語るに足りない人に会って、みだりにその人と語れば言葉を失うことになる。知者は人を失わないし、また言葉を失わない。」

○ 「言葉を失う」のは、単に言葉が「むだになる」だけでなく、「大害の原因になる」ということも忘れてはならないだろう。

八(三八七)


 先師がいわれた。――
「志士仁人は生を求めて仁を害することがない。却って身を殺して仁を成しとげることがあるものだ。」

○ あまりにも有名な句なので、出来るだけ原文の形をくずさないで訳した。
○ 「志士」は仁に志す人、「仁人」は成徳の人である。

九(三八八)


 子貢が仁を行う道についてたずねた。先師がこたえられた。――
「大工はよい仕事をやろうと思うと、必ず先ず自分の道具を鋭利にする。同様に、仁を行うには、先ず自分の身を磨かなければならない。それには、どこの国に住まおうと、その国の賢大夫を選んでこれに仕え、その国の仁徳ある士を選んでこれを友とするがよい。」

○ この場合の「士」は「大夫」に対していつたのである。「賢」と「仁」とは大夫にも士にも共通する形容詞と見ていい。

一〇(三八九)


 顔渕が治国の道をたずねた。先師がいわれた。――
の暦法を用い、いんくるまに乗り、周のかんむりをかぶるがいい。舞楽はしょうがすぐれている。てい[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、395-上-8]の音楽を禁じ、佞人ねいじんを遠けることを忘れてはならない。※[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、395-上-9]の音楽はみだらで、佞人は危険だからな。」

○ 夏・殷・周==王朝の名。
○ 夏の暦法は今日の大陰暦で、農事に便利。
○ 殷の輅は質素で堅牢。しかも威厳がある。
○ 周の冕は華美でも粗末でもなく最も中庸を得ている。
○ 韶は舜の音楽(參照六五章、一六〇章)
○ ※[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、395-下-1]の音楽(參照四五二章)
○ 佞人は口上手にへつらう人。
○ 孔子は範を過去歴代の長をとることを子貢に説いたのである。

一一(三九〇)


 先師がいわれた。
「遠い将来のことを考えない人には、必ず間近かに心配ごとが待っている。」

○ これも文語訳で有名である。

一二(三九一)


 先師がいわれた。――
「なさけないことだ。私はまだ色事を好むほど徳を好むものを見たことがない。」

○ 二二二章と同一の言葉。ただはじめに「巳矣乎」が多いだけである。

一三(三九二)


 先師がいわれた。――
臧文仲ぞうぶんちゅうは位をぬすむ人というべきであろう。柳下恵りゅうかけいの賢人たることを知っていながら、彼を推挙して共に朝廷に立とうとはしなかったのだ。」

○ 臧文仲==魯の大夫。一〇九章參照。
○ 柳下恵==魯の大夫、名は展獲、字は禽、恵はおくり名、柳下というところに領地があつたので、柳下恵と呼ばれた。

一四(三九三)


 先師がいわれた。――
「自分を責めることにきびしくて、他人を責めることがゆるやかであれば、人に怨まれることはないものだ。」

一五(三九四)


 先師がいわれた。――
「どうしたらいいか、どうしたらいいか、と常に自らに問わないような人は、私もどうしたらいいかわからない。」

○ 一五五章參照。

一六(三九五)


 先師がいわれた。
「朝から晩まで多勢集っていながら、話が道義にふれず、小ざかしいことをやって得意になっているようでは、見込なしだ。」

一七(三九六)


 先師がいわれた。――
「君子は道義を自分の本質とし、礼にかなってそれを実行にうつし、へり下ってそれを言葉にあらわし、誠意を貫いてその社会的実現を期する。それでこそ君子だ。」

一八(三九七)


 先師がいわれた。――
「君子は自分に能力のないのを苦にする。しかし、人が自分を知ってくれないのを苦にしないものだ。」

○ 殆ど同じような意味の言葉が一六章、八〇章、三六四章に出ている。

一九(三九八)


 先師がいわれた。――
「君子といえども、死後になっても自分の名がたたえられないのは苦痛である。」

○ 原文「没世」は「世を終るまで」と解する説と、「世を終つたあと」と解する説とがある。私は後者に従つたが、いずれでもいいであろう。孔子のいわんとするところは、名を求むるのはよくないが、一生何の為すところもなく、従つて何等世に称せられることもないような醉生夢死の人間では困る、というにあるであろう。ほぼ同じような意味の言葉が二二七章にもある。

二〇(三九九)


 先師がいわれた。――
「君子は何事も自己の責任に帰し、小人は他人の責任に帰する。」

二一(四〇〇)


 先師がいわれた。――
「君子はほこりをもって高く己を持するが、争いはしない。また社会的にひろく人と交るが、党派的にはならない。」

○ 本章の後段と同じ意味の言葉は、三〇章、三二五章にも出ている。

二二(四〇一)


 先師がいわれた。――
「君子は、言うことがりっぱだからといって人を挙用しないし、人がだめだからといって、その人の善い言葉をすてはしない。」

二三(四〇二)


 子貢がたずねた。――
「ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「それはじょだろうかな。自分にされたくないことを人に対して行わない、というのがそれだ。」

○ 孔子のこの有名な言葉は、二八〇章の仲弓の問に対する答の中にも出ている。

二四(四〇三)


 先師がいわれた。――
「私は、成心をもって人に対しない。だから誰をほめ、誰をそしるということはない。もし私が人をほめることがあつたら、それは、その人の実際を見た上でのことだ。現代の民衆にしても、過去三代の純良な民衆と同じく、その本性においては、まっすぐな道を歩むものなのだから、ほめるにしても、そしるにしても、実際を見ないでめったなことがいえるものではない。」

○ 原文の末尾の一句は、忠実に訳しただけでは意味が通らないので、言葉を補足した。
○ 「三代」は夏・殷・周三代のこと。

二五(四〇四)


 先師がいわれた。――
「私の子供のころには、まだ人間が正直で、いいことが行われていた。たとえば、史官が疑わしい点があると、調査研究がすむまでは、そこを空白にしておくとか、馬の所有者は気持よく人に貸して乗らせるとかいうことだ。ところが、今はそういうことがまるでなくなってしまった。」

○ この章の原文は、極めて難解で、ほとんど意味が通らない。古来の通説に従つて、いろいろ言葉を補つて一応訳しては見たが、その通説が果して正しいかどうか疑問である。「吾猶及」の三字を「私の幼時にはこんなことを聞いたこともある」と解するのに第一無理があるし、「史之闕文」と「有馬者云々」とを並べるのも変である。一説には、「闕文」は本章の文章に闕文があつたので、誰かがその二字を書いておいたのが、いつの間にか本文になつてしまつたといわれている。あるいはそれが最も真実に近いかも知れぬ。もしそうだとすれば、本章は意義不明として訳などしない方が賢明であろう。

二六(四〇五)


 先師がいわれた。――
「口上手は道義をやぶり、小事に対する忍耐心の欠乏は大計画をやぶるものだ。」

二七(四〇六)


 先師がいわれた。――
「多数の人が悪いといっても、必ず自分でその真相をしらべてみるがいい。多数の人がいいといっても、必ず自分でその真相をしらべてみるがいい。」

二八(四〇七)


 先師がいわれた。――
「人が道を大きくするのであって、道が人を大きくするのではない。」

○ 人なくして何の道ぞ、というのである。人をはなれて超越的に道というものがあり、その力が人を左右すると考えるのは、思考の遊戯であり、抽象概念に過ぎない。道が成るも成らぬも、すべては人の力だ、というのである。

二九(四〇八)


 先師がいわれた。――
「過って改めないのを、過ちというのだ。」

○ 論語の全篇を通じて、孔子はしばしば過ちを改めることの必要と、その価値とを説いている。(八章、一二一章、二二九章、四七九章、四九二章)しかし、過つてはならぬとは一度も説いてない。これは注目すべきことである。

三〇(四〇九)


 先師がいわれた。――
「私は、かつて、一日中飯も食わず、一晩中眠りもしないで思索にふけったことがあった。しかし何の得るところもなかった。やはり学ぶにこしたことはない。」

○ 三一章や一六五章の孔子の言葉とは矛盾するようにも思える。しかし、これは考えてばかりいて学ばないものに対して、ある場合に自然に発した言葉であろうと思われる。

三一(四一〇)


 先師がいわれた。
「君子が学問をするのは道のためであって食うためではない。食うことを目的として田を耕す人でも、時には饑えることもあるし、食うことを目的としないで学問をしていても、祿がおのずからそれに伴って来ることもある。とにかく、君子にとっては、食うことは問題ではない。君子はただ道の修まらないのを憂えて、決して食の乏しきを憂えないのだ。」

三二(四一一)


 先師がいわれた。――
「知見においては為政者としての地位を得るに十分でも、仁徳を以てそれを守ることが出来なければ、得た地位は必ず失われる。知見において十分であり、仁徳をもって地位を守り得ても、荘重な態度で人民に臨まなければ、人民は敬服しない。知見において十分であり、仁徳をもって地位を守ることが出来、荘重な態度で民に臨んでも、人民を動かすのに礼をもってしなければ、まだ真に善政であるとはいえない。」

○ 本章は君道を説いたものという説があるが、必ずしも君道と限らず、広く為政者の道を説いたものと見たい。

三三(四一二)


 先師がいわれた。――
「君子は、こまごましたことをやらせて見ても、その人物の価値はわからない。しかし大事をまかせることが出来る。小人には大事はまかされない。しかし、こまごましたことをやらせて見ると、使いどころがあるものである。」

○ 本章の君子・小人は単に道徳的の差異だけでなく人物の大小をいつたものであろう。

三四(四一三)


 先師がいわれた。――
「人民にとって、仁は水や火よりも大切なものである。私は水や火にとびこんで死んだものを見たことがあるが、まだ仁にとびこんで死んだものを見たことがない。」

○ 原文の「民」を広く「人間」と解する人も多い。私もその方が面白いという気もしたが、原文をくりかえし読んでいるうちに。やはりこれは孔子が政治に仁の大切なことを説いたものだという気持が強くなつて来て、原文の用語例に従つてそのまま素直に訳することにした。

三五(四一四)


 先師がいわれた。――
「仁の道にかけては、先生にも譲る必要はない。」

○ 謙譲の点においても先生に譲らぬ、ということを忘れると、この言葉は厳しく強いだけに危険でないとはいえない。

三六(四一五)


 先師がいわれた。――
「君子は正しいことに心変りがしない。是も非もなく心変りがしないのではない。」

三七(四一六)


 先師がいわれた。――
「君に仕えるには、恭敬の念をもって職務に精励し、食祿は第二とすべきである。」

三八(四一七)


 先師がいわれた。――
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない。」

三九(四一八)


 先師がいわれた。――
「志す道がちがっている人とは、お互いに助けあわぬがいい。」

四〇(四一九)


 先師がいわれた。――
「言葉というものは、十分に意志が通じさえすればそれでいい。」

○ 一説には「十分意志が通ずるまではやめない。あいまいにしておいてはならぬ」という意味に解する。原文の「達」という字には、むろんそういう意味が含まれているし、孔子もいい加減でいいとは決して考えていない。しかし、「達したらそれ以上しやべる必要はない」というのがこの言葉のねらいだと思う。

四一(四二〇)


 めくらの音楽師のべんがたずねて来た。階段のところまで来ると、先師はいわれた。――
「階段だよ。」
 やがてべんが座席の近くまで来ると、先師はいわれた。――
「さあ、ここにおかけなさい。」
 みんなが座席につくと、先師は、誰はここ、誰はそこ、というふうに、一々みんなの坐っている場所をべんに告げられた。
 べんが帰ったあとで子張がたずねた。――
「あんなふうに、一々こまかにおっしゃるのが音楽師に対する作法でしょうか。」
 先師がこたえられた。――
「そうだ。相手はめくらなのだから、むろんあのぐらいなことはいってやらなければ。」

○ 昔は楽師には盲人が用いられた。聴覚が鋭敏だという理由から、また、盲人に仕事を与えるという理由から。
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季氏第十六



本篇における孔子の言葉は、最初の一章をのぞくと、すべて門人以外の人に対する言葉である。そのためか、「子曰」がすべて「孔子曰」となつている。内容的にも他の諸篇とは多少趣を異にするものがあるようである。

一(四二一)


 季氏が魯の保護国※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)せんゆを討伐しようとした。季氏に仕えていた冉有と季路とが先師にまみえていった。――
「季氏が※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)せんゆに対して事を起そうとしています。」
 先師がいわれた。――
きゅうよ、もしそうだとしたら、それはお前がわるいのではないのかね。いったい※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)せんゆという国は、昔、周王が東蒙とうもう山の近くに領地を与えてその山の祭祀をお命じになった国なのだ。それに、今では魯の支配下にはいっていて、その領主は明らかに魯の臣下だ。同じく魯の臣下たる季氏が勝手に討伐など出来る国ではないだろう。」
 冉有がいった。――
「主人がやりたがって困るのです。私共は二人とも決して賛成しているわけではありませんが……」
 先師がいわれた。――
きゅうよ、昔、周任しゅうにんという人は『力のかぎりをつくして任務にあたり、任務が果せなければその地位を退け。盲人がつまずいた時に支えてやることが出来ず、ころんだ時にたすけ起すことが出来なければ、手引きはあっても無いに等しい』といっているが、全くその通りだ。お前のいうことは、いかにもなさけない。もしも虎や野牛が檻から逃げ出したとしたら、それはいったい誰の責任だ。また亀甲や宝石が箱の中でこわれていたとしたら、それはいったい誰の罪だ。よく考えて見るがいい。」
 冉有がいった。――
「仰しゃることはごもっともですが、しかし現在の※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)せんゆは、要害堅固で、季氏の領地のにも近いところでございますし、今のうちに始末をしておきませんと、将来、子孫の心配の種になりそうにも思えますので……」
 先師がいわれた。――
きゅう、君子というものは、自分の本心を率直にいわないで、あれこれと言葉をかざるのをにくむものだ。私はこういうことを聞いたことがある。諸侯や大夫たる者はその領内の人民の貧しいのを憂えず、富の不平均になるのを憂え、人民の少いのを憂えず、人心の安定しないのを憂えるというのだ。私の考えるところでは、富が平均すれば貧しいこともなく、人心がやわらげば人民がへることもない。そして人心が安定すれば国が傾くこともないだろう。かようなわけだから、もし遠い土地の人民が帰服しなければ、文教徳化をさかんにして自然に慕って来るようにするがいいし、すでに帰服して来たものは安んじて生を楽むようにしてやるがいい。今、きいていると、ゆうきゅうも、季氏を輔佐していながら、遠い土地の人民を帰服させることが出来ず、国内を四分五裂させて、その収拾がつかず、しかも領内に兵を動かして動乱をひきおこそうと策謀している。もっての外だ。私は、季孫の憂いの種は、実は※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)せんゆにはなくて垣根のうちにあると思うがどうだ。」

○ 季氏==魯の三家の一人、季孫。
○ 季路==子路。
○ 周任==古代の史官であつた。
○ 冉有と子路とでは、子路の方が先輩であるのに、冉有だけがものをいつているのは、彼が季氏に信任され、主として謀議にあずかつていたからだろうと想像されている。
○ 「乏しきをうれえず、均しからざるをうれう」という名高い言葉は、ここに出所がある。

二(四二二)


 先師がいわれた。――
「天下に道が行われている時には、文武の政令がすべて天子から出る。天下に道が行われていない時には、文武の政令が諸侯から出る。政令が諸侯から出るようになれば、おそらくその政権が十代とつづくことはまれであろう。政令が大夫から出るようになれば、五代とつづくことはまれであろう。更に陪臣が国政の実権を握るようになれば、三代とつづくことはまれであろう。天下に道が行われておれば、政権が大夫の手にうつるようなことはない。天下に道が行われておれば、庶民が政治を論議することもない。」

○ 大夫==諸侯の大臣。
○ 陪臣==「またげらい」天子からいえば大夫がそれであるが、ここでは大夫の臣、即ち諸侯からいつて「またげらい」である。
○ 孔子の言葉も、こうしたことになると、あまりにも今日の時代とかけはなれて、ぴんと響かない。ことに最後の一句には異論さえ出るであろう。しかし、封建的社会組織が精算されても、人倫の道は永遠であり、そして道が行わるれば社会秩序も立ち、政令も出るところから正しく出るであろうし、庶民の政治談義も、仕事そつちのけでやるほどの必要がなくなり、おのおのその独自の生命力をのびのびとのばすことが出来るであろう。従つて、こんな言葉も読み方次第では、やはり現代にも生かされうるのである。

三(四二三)


 先師がいわれた。――
「国庫の収入が魯の公室をはなれてから五代になる。政権が大夫の手に握られてから四代になる。従って三桓の子孫が衰微して来たのも当然である。」

○ 本章は、前章に大夫が政権をにぎると五代とつづかぬといつたのをうけた言葉である。
○ 三桓==魯の権臣、孟孫・叔孫・季孫の三家。三家は桓公の子孫なる故「三桓」というのである。

四(四二四)


 先師がいわれた。――
「益友に三種、損友に三種ある。直言する人、信実な人、多識な人、これが益友である。形式家、盲従者、口上手、これが損友である。」

五(四二五)


 先師がいわれた。――
「有益な楽しみが三つ、有害な楽しみが三つある。礼楽の節度を楽しみ、人の善をいうことを楽しみ、賢友の多いのを楽しむのは有益である。驕慢を楽しみ、遊隋を[#「遊隋を」はママ]楽しみ、酒色を楽しむのは有害である。」

六(四二六)


 先師がいわれた。――
「君子のそばにいて犯しやすい過ちが三つある。まだ口をきくべき時でないのに口をきく、これは軽はずみというものだ。口をきくべき時に口をきかない、これはかくすというものだ。顔色を見、気持を察することなしに口をきく、これは向う見ずというものだ。」

○ ここに君子というのは、単に有徳の人というだけでなく、目上の人という意味をもつている。

七(四二七)


 先師がいわれた。――
「君子に戒むべきことが三つある。青年時代の血気がまだ定まらないころに戒むべきは性慾である。壮年時代の血気が最も盛んなころに戒むべきは闘争である。老年時代の血気がおとろえるころに戒むべきは利慾である。」

○ ここに君子というのは道に志すものという意である。

八(四二八)


 先師がいわれた。――
「君子には三つのおそれがある。天命を畏れ、長上を畏れ、聖人の言葉を畏れるのである。小人は天命を感知しないのでそれを畏れない。そして長上にれ、聖人の言葉をあなどる。」

○ ここに「畏れる」というのは恐怖ではない。敬虔の念を以ておそれつつしむのである。

九(四二九)


 先師がいわれた。
「生れながらにして自然に知るものは上の人である。学んで容易に知るものはその次である。才足らず苦しんで学ぶものは、またその次である。才足らざるに苦しんで学ぶことさえしないもの、これが下の人で、いかんともしがたい。」

一〇(四三〇)


 先師がいわれた。――
「君子には九つの思いがある。見ることは明らかでありたいと思い、聴くことはさとくありたいと思い、顔色は温和でありたいと思い、態度は恭しくありたいと思い、言語は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑いは問いただしたいと思い、怒れば後難のおそれあるを思い、利得を見ては正義を思うのである。」

一一(四三一)


 先師がいわれた。
「善を見ては、取りにがすのを恐れるようにそれを追求し、悪を見ては、熱湯に手を入れるのを恐れるようにそれを避ける。――そういう言葉を私はきいたことがあるし、また現にそういう人物を見たこともある。しかし、世に用いられないでも初一念を貫き、正義の実現に精進して、道の徹底を期する、というようなことは、言葉ではきいたことがあるが、まだ実際にそういう人を見たことがない。」

一二(四三二)


 先師がいわれた。――
「斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで饑死したが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。詩経に、
黄金も玉も何かせん
心ばえこそ尊けれ。
とあるが、そういうことをいったものであろう。」

○ 本章の原文にカツコを附した部分は、もと闕文になつていたのを、学者が研究の結果補つたものである。(二八八章の註參照)
○ 原文の「駟」は四頭の馬。それを一組として数えた。なお当時は馬の数を以て富の程度をあらわす習慣であつた。

一三(四三三)


 陳亢ちんこうが伯魚にたずねた。――
「先生もあなたにだけは、何か私共に対するとはちがった特別のご教訓をなさることでしょう。」
 伯魚がこたえた。――
「これまでには、まだこれといって特別の教えをうけたことはありません。ただ、いつでしたか、父が独りで立っていましたおり、私がいそいで庭先を通り過ぎようとしますと、私を呼びとめて、詩を学んだか、とたずねました。私が、まだとこたえますと、詩を学ばない人間は話相手にならぬ、と叱りました。それ以来私も詩を学ぶことにしています。またある日、父が一人で立っていました時、私がいそいで庭先を通り過ぎようとしますと、私をよびとめて、礼を学んだか、とたずねました。私が、まだとこたえますと、礼を学ばない人間は世に立つ資格がない、と叱りました。それ以来、私も礼を学ぶことにしています。私が父に特別に何かいわれたことがあるとすると、まずこの二つぐらいのことでしょう。」
 陳亢は、伯魚とわかれたあとで、よろこんでいった。――
「今日は一つのことをたずねて、三つのことをきくことが出来た。詩を学ぶことの大切さをきき、礼を学ぶことの大切さをきき、そして、君子は自分の子をあまやかすことがないということをきいたのだ。」

○ 陳亢==門人子禽(參照一〇章)
○ 伯魚==孔子の子、名は鯉(參照二六〇章)
○ 原文「不学礼無以立」の「立」を「人としての根本が立つ」という意味に解する人があるが、礼の性質からいつて、「社会に立つ」という意味に解すべきであろう。
○ 原文「遠其子」の「遠」には色々の説がある。その中で、「自分の子だからといつて、他の門人以上には近づけない、つまり差別して特別によく教えることはない」という意味に解する人が最も多い。しかし、私は、いずれの説にも従わないで、本文の通り訳した。つまり私は、孔子の伯魚に対する厳しさを、伯魚の言葉によつて陳亢が知つた、と解したいのである。むろん、その意味で、孔子が他の門人たちと自分の子とを差別しなかつたということにはなる。しかし、「特別によく教えることがない」というのとは全然意味がちがうのである。

一四(四三四)


 国君の妻は、国君が呼ぶ時には「夫人」といい、夫人自ら呼ぶ時には「小童」といい、国内の人が呼ぶ時には「君夫人」といい、外国に対しては「寡小君」といい、外国の人が呼ぶ時にはやはり「君夫人」という。

○ こういう言葉が論語の一章になつているのは可笑しい。「孔子曰」も「子曰」も原文にないところを見ると、何かがまぎれこんだのではないかとも想像される。もし孔子の言葉であるとすれば礼を正す意味で、何かいつた場合の一部ではなかろうか。孔安国はそういう意味のことをいつている。
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陽貨第十七



本篇には、孔子が世道人心の衰えたるを歎き、門人その他に警告を与えた言葉が比較的多く集録されている。

一(四三五)


 魯の大夫陽貨ようかが先師を引見しようとしたが、先師は応じられなかった。そこで陽貨は先師に豚肉の進物をした。先師は陽貨の留守を見はからってお礼に行かれた。ところが、運わるく、その帰り途で陽貨に出遇われた。すると陽貨はいった。――
「まあ、私のうちにおいでなさい。話があるから。」
 先師が仕方なしについて行かれると、陽貨がいった。――
「胸中に宝を抱きながら、国家の混迷を傍観している人を、果して仁者といえましょうか。」
 先師――
「いえません。」
 陽貨――
「国事に挺身したい希望を持ちながら、しばしばその機会を失う人を、果して知者といえましょうか。」
 先師――
「いえません。」
 陽貨――
月日つきひは流れ、歳は人を待ってはくれないものですが……」
 先師――
「よくわかりました。いずれそのうちには、私もご奉公することにいたしましょう。」

○ 陽貨==季氏の家臣、名は虎。主人の季桓子を拘禁して自ら大夫に押しあがり、一時国政を専らにしていた。彼が孔子を挙用しようとしたのは、むろん真面目な考えからではなく、社会の批判を避け、自分の政治に箔をつけるためだつたのである。
○ 当時、大夫が士に物を贈つた場合、もし士が留守中であつたらあとでその士は大夫の家に出向いて謝辞を述べるのが礼になつていた。陽貨はそこをねらつて、わざと孔子の留守中に豚を贈つた。ところが、孔子もさるもの、陽貨の手をそのままつかつて、陽貨の留守中にお礼に行つたのである。
○ 陽貨の孔子に対していつたことは、言葉としては一々もつともで、正面から反対が出来なかつたので、孔子は、すべてを肯定した。そして、最後には「奉公しよう」とまでいつたが、しかし、これが陽貨に仕える意味でなかつたことは、いうまでもない。ただ、いい加減にあしらつていたまでのことである。原文の「吾将仕矣」の「将」の字は見おとしてはならない字である。
○ 陽貨が孔子の匡における遭難の遠因を作つた人であることは前に述べた。(參照二一〇章註)

二(四三六)


 先師がいわれた。――
「人間の生れつきは似たものである。しかししつけによる差は大きい。」

○ この言葉は、どう訳して見ても、「性相近し、習相遠し」という文語訳に及ばないであろう。
○ 孔子のかような言葉は、現代人の耳には、さほど強くは訴えないようである。だが、孔子の教育に対する終生の熱意が、この確信に出発したものだと思うと、恐ろしいまでに厳粛な言葉なのである。

三(四三七)


 先師がいわれた。――
「最上位の賢者と、最下位の愚者だけは、永久に変らない。」

○ 原文の「不移」は「上知」にとつては「求道心の不変なること」を意味し、「下愚」にとつては「愚昧の不変なること」を意味する。
○ 本章もまた、「上知と下愚とは移らず」という文語訳を、そのまま生かしたい言葉である。

四(四三八)


 先師が武城ぶじょうに行かれた時、町の家々から弦歌の声がきこえていた。先師はにこにこしながらいわれた。――
※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を料理するのに、牛刀を使う必要もないだろうにな。」
 武城は門人子游しゆうがその代官をつとめ、礼楽を盛んにして人民を善導し、治績をあげていた小さな町であった。
 で、子游は先師にそういわれると、けげんそうな顔をしていった。――
「以前私は、先生に、上に立つ者が道を学ぶとよく人を愛し、民衆が道を学ぶとよく治まる、とうけたまわりましたが……」
 すると、先師は、お伴をしていたほかの門人たちをかえりみて、いわれた。――
「今、えんがいったことはほんとうだ。私のさっきいったのは、じょうだんだよ。」

○ 武城==魯の邑名。
○ 偃==子游の名。
○ 弦歌==絃歌。孔子の耳に入つたのは、いい音楽だつたので、子游が正しい礼楽を以て民を導いているのを知つたのである。
○ 「※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を割くに牛刀を以てす」は有名な言葉だ。
○ 孔子はこんなシヤレをいつて「子游ほど有能な人が、こんな小さな町を治めているのは、惜しい」といつたつもりだつたが、子游は、「こんな小さな町を治めるのに、礼楽など大げさなものを用いる必要はあるまい」といわれたと思つて、むきになつて反問した。それを、孔子はべつに辯解もせず、子游のいうことを肯定して、ほかの門人たちにさとした、という風に解する人もある。少しうがち過ぎているようにも思うが、面白い。しかし、通説としては子游がうけとつた通りの意味で孔子はたわむれに子游をひやかして見た、ということになつている。これも孔子の一面を物語つて面白い。

五(四三九)


 公山弗擾こうざんふつじょうが、に立てこもって叛いたとき、先師を招いた。先師はその招きに応じて行こうとされた。子路はそれをにがにがしく思って、いった。――
「おいでになってはいけません。人もあろうに、何でわざわざ公山氏などのところへおいでになるのです。」
 先師がいわれた。――
「いやしくもを招くのだ。いいかげんな考えからではあるまい。私は、私を用いるものがあったら、第二のしゅうをこの東方に建設しないではおかないつもりだ。」

○ 公山弗擾==公山は氏、弗擾は名。季氏の家宰であつたが、陽虎(二一〇章、四三五章の註參照)と共謀して季桓子を拘禁した。陽虎は敗れて出奔したが、弗擾は費邑に拠つて叛いたのである。
○ 原文「東周」の「周」は文王武王が建設した道義の国、周である。魯は周都の東方にあるので、そこを第二の周にするという意味で「東周」といつたのである。
○ 古来、この章については、子路の言に共鳴し、さすがの孔子も仕官にあせつて反逆者の招きに応じようと[#「応じようと」は底本では「応じよう」]した、といつて非難する人が多い。なるほど、これだけで見ると、誰しもそういう感じになるし、孔子の言葉は自己辯護であり、虚勢であるとしか思えない。しかし、孔子が事実それほど無節操で、自他を欺く人であつたとしたら、その教えが今日まで生命を持続する道理はないだろう。われわれは、四三五章において、すでに孔子が陽虎の招きに応じなかつたことを知つている。その孔子が陽虎の相棒であつた公山氏の招きに応じようとしたとすれば、そこには何か特別の理由がなくてはなるまい。たとえば、公山氏を説伏することによつて魯の不安を救うというような目的があつたのではないかと思うのである。由来論語の文章は極めて簡潔で、委曲をつくさない場合が非常に多い。われわれはその点を考慮に入れ、みだりに小人の心を以て聖賢の心をおしはかる過ちを犯さないようにしたいものである。なお、史実の証明するところでは、孔子は結局公山氏の招きには応じていない。この点も參考にして考えたい。

六(四四〇)


 子張が仁について先師にたずねた。先師はいわれた。――
「五つの徳で天下を治めることが出来たら、仁といえるだろう。」
 子張はその五つの徳についての説明を求めた。すると、先師はいわれた。――
「恭・寛・信・敏・恵の五つがそれだ。身も心もうやうやしければ人に侮られない。他に対して寛大であれば衆望があつまる。人と交って信実であれば人が信頼する。仕事に敏活であれば功績があがる。恵み深ければ人を働かせることが出来る。」

七(四四一)


 ※(「月+(八がしら/十)」、第4水準2-85-20)ひつきつが先師を招いた。先師はその招きに応じて行こうとされた。すると子路がいった。――
「かつて私は先生に、君子は、自分から進んで不善を行うような人間の仲間入りはしないものだ、と承ったことがあります。※(「月+(八がしら/十)」、第4水準2-85-20)ひつきつは、中牟ちゅうぼうに占拠して反乱をおこしている人間ではありませんか。先生が、そういう人間の招きに応じようとなさるのは、いったいどういうわけでございます。」
 先師がいわれた。――
「さよう。たしかに私はそういうことをいったことがある。だが、諺にも、ほんとうに堅いものは、っても磨ってもうすくはならない、ほんとうに白いものは、そめてもそめても黒くはならない、というではないか。私にもそのぐらいの自信はあるのだ。私をあのふくべのような人間だと思ってもらっては困る。食用にもならず、ただぶらりとぶらさがっているあのふくべのような人間――どうして私がそんな無用な人間でいられよう。」

○ 仏※(「月+(八がしら/十)」、第4水準2-85-20)==晋の大夫趙簡子の領地中牟の代官。
○ 本章もまた、四三九章の公山弗擾の場合と同様、孔子に対する批難の材料になつている。私のこれに対する見解はあらためて述べない。ただ、この場合も孔子が実際に仏※(「月+(八がしら/十)」、第4水準2-85-20)の招きに応じたという史実はないということ、並に、仏※(「月+(八がしら/十)」、第4水準2-85-20)の乱があつたのは孔子六十歳のころで、孔子が魯の大司冠を辞したのが五十五歳の時だから今更仕官のために一代官ぐらいの招きに応じようとしたとは想像されない、ということだけをつけ加えておきたい。

八(四四二)


 先師がいわれた。――
ゆうよ、お前は六つの善言に六つの暗い影があるということをきいたことがあるか。」
 子路がこたえた。――
「まだきいたことがございません。」
 先師――
「では、おかけなさい。話してあげよう。仁を好んで学問を好まないと、見さかいのない痴愚の愛に陥りがちなものだ。知を好んで学問を好まないと、筋道の立たない妄想を逞しうしがちなものだ。信を好んで学問を好まないと、小信にこだわって自他の幸福を害しがちなものだ。直を好んで学問を好まないと、杓子定規になり、無情非礼を敢てしがちなものだ。勇を好んで学問を好まないと、血気にはやって秩序を紊しがちなものだ。剛を好んで学問を好まないと、理非をわきまえない狂気じみた自己主張をやりがちなものだ。」

○ 原文の「六言六蔽」は名高い言葉である。

九(四四三)


 先師が門人たちにいわれた。――
「お前たちはどうして詩経を学ぼうとしないのか。詩は人間の精神にいい刺戟を与えてくれる。人間に人生を見る眼を与えてくれる。人とともに生きるこころを培ってくれる。また、怨み心を美しく表現する技術をさえ教えてくれる。詩が真に味わえてこそ、近くは父母に仕え、遠くは君に仕えることも出来るのだ。しかも、われわれは、詩をよむことによって、鳥獣草本のような自然界のあらゆるものに親しむことまで出来るのではないか。」

○ 一八章の「思無邪」という簡単な表現とあわせ読むと、孔子の詩に対して抱いていた考えが、ほぼつかめるような気がする。
○ 原文「可以怨」は、くだいていうと、「怨むにも詩にあらわれているような怨み方なら罪がない、怨みごとをいうなら詩に学べ」といつたような意味である。

一〇(四四四)


 先師が子息の伯魚にいわれた。
「お前は周南しゅうなん召南しょうなんの詩を研究して見たのか。この二つの詩がわからなければ、人間も土塀に鼻つきつけて立っているようなものだがな。」

○ 周南・召南==詩経の最初の篇が周南、その次の篇が召南で、共に十首の詩から成つており、修身斉家の道を歌つたものである。

一一(四四五)


 先師がいわれた。――
「礼だ、礼だ、と大さわぎしているが、礼とはいったい儀式用のぎょくはくのことだろうか。がくだ、がくだ、と大さわぎしているが、楽とはいったい鐘や太鼓のことだろうか。」

○ 玉・帛==儀式の時に諸侯その他が捧げもつもの。帛は絹製。
○ 本章はむろん礼楽の精神を忘れて、形式の末に走つているのをなげいた言葉である。

一二(四四六)


 先師がいわれた。――
「見かけだけはいかにもいかめしくして、内心ぐにゃぐにゃしている人は、これを下層民の場合でいうと、壁をぶち破ったり、塀を乗りこえたりしながら、びくびくしている泥棒のようなものであろうか。」

一三(四四七)


 先師がいわれた。――
「郷党のほめられ者の中には、得てして、道義の賊がいるものだ。」

○ 原文「郷原」の「原」は「愿」に同じ。「愿」は謹厚を意味する。ここでは、周囲の人々に調子を合せ、批難をうけないように細心の注意を払つている人。日本の田舎でも、人格者などといわれている人の中に、こうした種類の人がよくあるものである。いや田舎だけではない、行政官などの中にも、こうした意味での謹直型の人は決して少くはないだろう。「郷原は徳の賊なり」――この言葉は、日本の各方面にもつと広く流布されてもいい言葉ではあるまいか。

一四(四四八)


 先師がいわれた。――
「途中でよいことをきいて、早速それを途中で人にいつて聞かせる。それでは徳を棄てるようなものだ。」

○ 原文の「道聴塗説」は熟語として通用している。
○ 孔子は、実践も出来ないくせに、論語の現代語訳などやるのは徳を棄てるのも甚しいものだと、叱つているわけである。

一五(四四九)


 先師がいわれた。――
「心事の陋劣な人とは、到底いっしょに君に仕えることが出来ない。そういう人は、まだ地位を得ないうちは、それを得たいとあせるし、一旦それを得ると、それを失うまいとあせるし、そして、それを失うまいとあせり出すと、今度はどんなことでもしかねないのだから。」

一六(四五〇)


 先師がいわれた。
「昔の人に憂うべきことが三つあつたが、今はその憂うべきことを通りこして、全く救いがたいものになっているらしい。昔の理想狂の弊は、自由奔放で小事にこだわらない程度であった。然るに今の理想狂は徒らに放縦である。昔、ほこりをもって己を高くした人々の弊は、廉直に過ぎて寄りつきにくい程度であった。然るに今のそうした人々は強情でひねくれている。昔の愚か者は正直であった。然るに今の愚か者はずるくて安心が出来ない。」

一七(四五一)


 先師がいわれた。――
「ご機嫌とりにろくな人間はいない。」

○ 本章は、三章と全く同一で、重出である。同一の訳文をくりかえす代りに、ここでは思い切り。くだけた意訳を試みてみた。三章と対比されたい。

一八(四五二)


 先師がいわれた。――
「私は紫色が朱色を圧して流行しているのを憎む。※声ていせい[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、420-下-6]雅楽ががくを乱しているのを憎む。そして、口上手な人が国家を危くしているのを最も憎む。」

○ 紫・朱==当時朱は正色として貴い色とされ、紫は間色で、いやしい色とされていた。然るに、紫のなまめかしさを愛する者が多く、次第に朱を圧して着物の流行色となつていたのである。
○ ※[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、420-下-12]声==※[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、420-下-12]の音楽。極めて淫猥なものであつた。
○ 楽雅==正しい音楽。

一九(四五三)


 先師がいわれた。――
「私はもう沈默したいと思っている。」
 子貢がいった。――
「先生がもし沈默なさいましたら、私共門人は何をよりどころにして、道をひろめましょう。」
 先師がいわれた。――
「天を見るがいい。天に何の言葉があるのか。しかも四季の変化は整然と行われ、万物はたゆみなく生育している。天に何の言葉があるのか。」

○ 本章の孔子の言葉の解釈にはつぎのような四つの異説がある。
(一)「言葉よりも実行が大切だ、天に学べ、」と教えたという説。
(二)一七〇章に「われなんじに隱すことなし」とあるが、それと同じく、「自分がたとい沈默していても、自分の実行を見ればわかるはずだ。天はものを言わないが。あの通り事実においてわれわれにすべてを示しているではないか」と暗に自分を天に比して抱負の大なるを示しつつ、言葉のみを求める門人を戒めた、という説。
(三)「道が世に行われない。もう言葉は無益だ。沈默しよう。」という歎息をもらしたが、子貢の言葉にあうと、「あの天に学ぼう。天はものをいわないで、あの通り見事な仕事をしている」と自ら慰めた、という説。
(四)「子貢よ、私などの言葉をきくより、この大自然を見よ。そこには人生一切の法則と教訓とが明白に示されている。この大自然を凝視する者にとつては言葉は無用だ。だから私は沈默したい。」と自分の心境の変化をもらした。という説。
 以上のうち、(一)と(二)との説には相通ずるものがあり、また、(三)と(四)との間にも相通ずるものがある。そしてそのいずれが正しいかは容易に決しがたい。ただ私は、原文の全体の調子から見て、どちらかというと(三)と(四)に同意したい。(一)と(二)のような教訓と見るには、孔子の言葉に、あまりにも詩的な、また哲学的な響きがこもり過ぎているように思うのである。では、(三)と(四)のうち、いずれが正しいかというと、これも容易にはいいがたい。或は両者共に真実であり、(三)の歎息に出発して、おのずから(四)の心境を語ることになつたのではあるまいか。いずれにせよ、この章は、論語の中でも、最も響きの高い言葉の一つである。

二〇(四五四)


 孺悲じゅひが先師に面会を求めた。先師は病気だといって会われなかったが、取次の人がそれをつたえるために部屋を出ると、すぐしつを取りあげ、歌をうたって、わざと孺悲にそれがきこえるようにされた。

○ 孺悲==魯の人。哀公の命で、かつて孔子に喪礼を学んだと伝えられているだけで、どんな人か明らかでない。
○ 孔子がなぜ仮病をつかつて会わなかつたか。また、なぜわざと仮病だということがわかるように、歌をうたつたりしたか。これには、三つの説がある。
(一)孺悲には何か不都合なことがあつて、孔子に面会を求めるのは自分から差しひかえなければならなかつたのに、押し強く出て来たので、それを断り、わざと仮病だということを知らせて反省を求めた。
(二)誰の紹介もなしにやつて来たので、右のようなことになつた。
(三)孔子は当時、人との面会を謝絶し、俗事に遠ざかり、天を友とする生活をおくつていた。歌をうたつたのも、暗に訪客にその心境を知らせたいためだつたのである。
 以上いずれも、孔子の平常の対人的態度から推して首肯しがたいし、あと味がわるい。要するに本章は疑問符を付してなお将来の研究にまつべきであろう。

二一(四五五)


 宰我さいががたずねた。――
「父母の喪は三年となっていますが、一年でも結構長過ぎるぐらいではありますまいか。もし君子が三年間も礼を修めなかったら、礼はすたれてしまいましょう。もし三年間もがくに遠ざかったら、がくがくずれてしまいましょう。一年たてば、殻物も古いのは食いつくされて新しいのが出てまいりますし、火を擦り出す木にしましても、四季それぞれの木が一巡して、またもとにもどるわけです。それを思いますと、父母の喪にしましても、一年で十分ではありますまいか。」
 先師がいわれた。――
「お前は、一年たてば、うまい飯をたべ、美しい着物を着ても気がおちつかないというようなことはないのか。」
 宰我――
「かくべつそういうこともございません。」
 先師――
「そうか、お前が何ともなければ、好きなようにするがよかろう。だが、いったい君子というものは、喪中にはご馳走を食べてもうまくないし、音楽をきいてもたのしくないし、また、どんなところにいても気がおちつかないものなのだ。だからこそ、一年で喪を切りあげるようなことをしないのだ。もしお前が、何ともなければ、私は強いてそれをいけないとはいうまい。」
 それで宰我はひきさがった。すると先師はほかの門人たちにいわれた。――
「どうもは不人情な男だ。人間の子は生れて三年たってやっと父母の懐をはなれる。だから、三年間父母の喪に服するのは天下の定例になっている。いったいは三年間の父母の愛をうけなかったとでもいうのだろうか。」

○ 予==宰我の名。晝寝をして孔子にひどく叱られたので有名だが(一〇一章參照)ここでもまたきびしい小言を食つている。
○ 原文「鑽燧改火」==「燧を鑽りて火を改む」とよむ。「燧」は磨擦によつて火をおこす木。木の板にくぼみを作り、同じ木の棒をそこにあてて、錐をもむようにして発火させたのであるが、その木の種類は春夏秋冬によつてちがつていた。それが一年で一巡してまたもとにかえつたのである。
○ 原文の「期」は一年の意味。

二二(四五六)


 先師がいわれた。――
「たらふく食ってばかりいて、終日ぼんやりしている人間ほど始末におえない人間はない。雙六とか碁とかいうものもあるではないか。そんなつまらん遊びごとでも、何もしないよりは、まだしも取柄があるよ。」

二三(四五七)


 子路がたずねた。
「君子は勇をたっとぶものでございますか。」
 先師がこたえられた。――
「君子にとって何より大事なのは義だ。上に立つ人に勇があって義がないと、反乱を起し、下に居る人民に勇があって義がないと盗みをする。」

二四(四五八)


 子貢がたずねた。――
「君子も人を憎むということがありましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「それはあるとも。他人の悪事をいい立てるものを憎むのだ。下位にいて、上をそしる者を憎むのだ。勇のみあって礼のないものを憎むのだ。思いきりがよくて道理にもとるものを憎むのだ。」
 それから、子貢にたずねられた。――
「お前にも憎む人があるのか。」
 子貢がこたえた。――
「先まわりして物事をさぐっておいて、知ったかぶりする者を憎みます。傲慢不遜を勇気だと心得ている者を憎みます。人の秘密をあばいて正直だと思っている者を憎みます。」

二五(四五九)


 先師がいわれた。――
「女子と小人だけには取扱いに苦労をする。近づけるとのさばるし、遠ざけると怨むのだから。」

○ 「女子と小人は養いがたし」は、あまりにも有名な言葉で、孔子は論語の中にこの一句を残すことによつて、後世からその女性観に痛烈な批難をあびている。ところで、この批難は実は多少酷である。というのは、古来の論語学者の解説が正しいとすれば、ここにいう「女子」は婢妾を意味し、「小人」は下僕を意味するからである。もし孔子が、「女子」という言葉を用いて広く一般の女性を指し、「小人」という言葉を用いて道徳的に低劣な人間を指していたとすれば、なるほどこの一章は女性に対する大なる侮辱であり、孔子の極度に封建的な女性観を物語るものであつて、いささかも辯護の余地がない。況んや論語の全篇を通じて、孔子が女性を正面から問題にしたのはこの一章以外にはなく、これだけがその女性観を物語る材料であるにおいておやである。しかしもし諸学者の解説の通りだとすれば、少くとも女性の問題としては、この一章をさほど重大視する必要もあるまい。もしこの一章に問題があるとすれば、むしろ孔子の婢僕(男女にかかわらず)に対する封建思想にあるのではあるまいか。しかし、だからといつて、私は孔子の女性観が本来正しいものであつたとは決して信じない。元来孔子は父権時代、一夫多妻時代に生活して、その社会組識に[#「社会組識に」はママ]何の疑いも抱いていなかつたし、女性の向上の重要性というようなことについて真剣に考えて見たこともなかつたのである。もし孔子が女性について何か考えていたとすれば、それは、女性は常に悪の根元であり、士君子にとつて最も警戒すべき対象である、というぐらいなことに過ぎなかつたであろう。従つて孔子の女性観が今日批難の的になるのはやむを得ない。ただ私のいいたいのは、本章の一句だけをとらえて孔子の女性観を判断するのは誤りであるということである。

二六(四六〇)


 先師がいわれた。――
「人間が四十歳にもなって人にそしられるようでは、もう先が見えている。」
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微子第十八



本篇には、聖人、賢人、及び孔子自身の出処進退について記したものが多い。

一(四六一)


 微子びし箕子きし比干ひかんは共にいんちゅう王の無道を諌めた。微子は諌めてきかれず、去って隠棲した。箕子は諌めて獄に投ぜられ、奴隷となった。比干は極諌して死刑に処せられ、胸をかれた。先師はこの三人をたたえていわれた。――
「殷に三人の仁者があった。」

○ 本章は原文があまりに簡約で、そのままではわからないので、筋がとおるだけに補足して訳した。
○ 微子==微国の子爵、名は啓、殷の紂王の庶兄、諌めてきかれなかつたので、宗廟の祭器を抱いて去り、祖先の祭祀を絶たなかつた。
○ 箕子==箕国の子爵、名は胥餘、紂王の叔父。獄に投ぜられると髪をふり乱し、狂人をよそつていた[#「狂人をよそつていた」はママ]。後出獄を許されたが、奴隷となつた。
○ 比干==紂王の叔父。極諌三日にわたつてやめなかつたため、紂王は怒つてついに彼を殺し、「聖人の胸中には七つの穴があるそうだから見てやろう」といつて、その胸をさいて見た。
○ ついでに紂王の暴虐について伝えられるところを記しておこう。彼は、殷朝の最後の王で、妃姐己だつきの愛におぼれて政治をかえりみず、宮中に九つの酒場を作り、謂ゆる酒池肉林の宴遊を事とした。そして、興を助くるため、多数の男女を裸体にして相追わせ、また炭火の上に油をぬつた銅の柱をおき、罪なき者にその上を歩ませたり、灼熱した金属を握らせたりして楽しんだ。前王朝、夏の最後の王、桀と相並んで、支那歴史にあらわれた暴君中の代表的な人物とされている。

二(四六二)


 柳下恵が法官となつて三たびその職を免ぜられた。ある人が彼にいった。――
「どうしてこんな国にぐずぐずしておいでです。さっさとお去りになったらいいでしょうのに。」
 柳下恵がこたえた。――
「どこの国に行ったところで、正道をふんでご奉公をしようとすれば、三度ぐらいの免職は覚悟しなければなりますまい。免職がおそろしさに正道をまげてご奉公するぐらいなら、何も父母の国をすてて、わざわざ他国に行く必要もなかろうではありませんか。」

○ 柳下恵==參照三九二章註。
○ 本章には孔子の評語がないが、これには、評語が落ちたのだろうという説と、柳下恵のいうことが義理明白で評語の必要がなかつたのだろうという説と、両説がある。

三(四六三)


 せい景公けいこうが、先師を採用するにつき、その待遇のことでいった。――
「季氏ほどに待遇してやることは、とても力に及ばないので、季氏と孟氏との間ぐらいのところにしたいと思う。」
 しかし、あとになって、またいった。
「自分も、もうこの老年になっては、孔子のような遠大な理想をもっている人を用いても仕方があるまい。」
 先師はそのことをもれ聞かれて、斉の国を去られた。

○ 季氏・孟氏==共に魯の大夫で、季氏は最上席、孟氏は末席であつた。

四(四六四)


 斉が、魯の君臣を誘惑してその政治をみだすために、美人の歌舞団をおくった。魯の権臣季桓子きかんしが喜んでこれをうけ、君臣共にこれに見ほれて、三日間朝政を廃するにいたったので、先師はついに職を辞して魯を去られた。

○ 本章は意味が通ずるだけに補足して訳した。
○ 孔子は当時魯の司冦[#「司冦」は底本では「司寇」](司法長官)の職にあり、悪大夫小正卯しょうせいぼうを誅して綱紀を粛正し、国がよく治つていたが、斉は魯の強大になることをおそれて、女楽をおくり誘惑したのである。定公十四年孔子五十六歳の時のことであつた。

五(四六五)


 楚の国で、狂人をよそっていた接輿せつよという人が、先師の車のそばを通り過ぎながら、歌った。――

鳳凰ほうおうよ、鳳凰ほうおうよ、
神通力は、どうしたか。

すんだことなら仕方がない。
これから先はしっかりせい

国の舵取りゃあぶないぞ
やめたらどうぞい。やめたらぞい。」

 先師は車をおりて、接輿と話をしようとされた。しかし、接輿が大急ぎでどこかにかくれてしまったので、お話しになることが出来なかった。

○ 接輿==やはり隱者の一人であろう。名はわからない。孔子の車に接近したので、かりに接輿と名をつけられたのだろうといわれている。(參照三七三章、三七四章)
○ この話は、孔子六十四歳の時で、楚に行こうとした頃のことだといわれている。

六(四六六)


 長沮ちょうそ桀溺けつできの二人が、ならんで畑を耕していた。巡歴中の先師がそこを通りがかられ、子路に命じて渡場をたずねさせられた。すると長沮が子路にいった。――
「あの人は誰ですかい。あの車の上で今手綱をにぎっているのは。」
 子路がこたえた。――
孔丘こうきゅうです。」
 長沮――
「ああ、あの魯の孔丘ですかい。」
 子路――
「そうです。」
 長沮――
「じゃあ、渡場ぐらいはもう知っていそうなものじゃ。年がら年中方々うろつきまわっている人だもの。」
 そこで子路は今度は桀溺けつできにたずねた。すると桀溺がいった。
「お前さんはいったい誰かね。」
 子路――
仲由ちゅうゆうと申すものです。」
 桀溺――
「ほう。すると、魯の孔丘のお弟子じゃな。」
 子路――
「そうです。」
 桀溺――
「今の世の中は、どうせ泥水の洪水見たようなものじゃ。お前さんの師匠は、いったい誰を力にこの時勢を変えようとなさるのかな。お前さんもお前さんじゃ。そんな人にいつまでもついてまわって、どうなさるおつもりじゃ。この人間もいけない、あの人間もいけないと、人間の選り好みばかりしている人についてまわるよりか、いっそ、さっぱりと世の中に見切りをつけて、のんきな渡世をしている人のまねをして見たら、どうだね。」
 桀溺はそういって、まいた種にせっせと土をかぶせ、それっきり見向きもしなかった。
 子路も仕方なしに、先師のところに帰って行って、その旨を話した。すると先師はさびしそうにしていわれた。――
「世をのがれるといったところで、まさか鳥や獣の仲間入りも出来まい。人間と生れたからには、人間と共に生きて行くよりほかはあるまいではないか。私にいわせると、濁った世の中であればこそ、世の中のために苦しんで見たいのだ。もし正しい道が行われている世の中なら、私も、こんなに世の中のために苦労はしないのだ。」

○ 長沮・桀溺==両者共老荘的隱者にちがいない。それが姓名であるか、どうかは、たしかでない。ただ楚の人であろうと想像されている。

七(四六七)


 子路が先師の随行をしていて、道におくれた。たまたま一老人が杖に草籠をひっかけてかついでいるのに出あったので、彼はたずねた。――
「あなたは私の先生をお見かけではありませんでしたか。」
 老人がこたえた。――
「なに? 先生だって? お見かけするところ、その手足では百姓仕事をなさるようにも見えず、五穀の見分けもつかない方のようじゃが、それでいったいお前さんの先生というのはどんな人じゃな。」
 老人はそれだけいって杖を地につき立てて、草をかりはじめた。――
 子路は手を胸に組んで敬意を表し、そのそばにじっと立っていた。
 すると老人は何と思ったか、子路を自分の家に案内して一泊させ、鶏をしめたり、黍飯きびめしをたいたりして彼をもてなしたうえに、自分の二人の息子を彼にひきあわせ、ていねいにあいさつさせた。
 翌日、子路は先師に追いついて、その話をした。すると先師はいわれた。――
「隠者だろう。」
 そして、子路に、もう一度引きかえして会って来るように命じられた。
 子路が行って見ると、老人はもういなかつた。子路は仕方なしに、二人の息子にこういって先師の心をつたえた。――
「出でて仕える心がないのは義とはいえませぬ。もし、長幼の序が大切でありますなら、君臣の義をすてていいという道理はありますまい。道が行われないからといって自分の一身をいさぎよくすれば、大義をみだすことになります。君子が出でて仕えるのは、君臣の義を行うためでありまして、道が行われないこともあるということは、むろん覚悟のまえであります。」

○ 子路の言葉は、孔子の意をつたえたのであるか。自分の考えをのべたのであるか、また、誰に向つてそういつたのであるか、原文だけでは明らかでないが、諸説を參考にして補足して訳した。なお、子路が、特に長幼の序を引きあいに出したのは、前日老人が二子をして長者に対する礼を以て子路を迎えさせたからであろうと想像されている。

八(四六八)


 古来、野の賢者として名高いのは、伯夷はくい叔斉しゅくせい虞仲ぐちゅう夷逸いいつ朱張しゅちょう柳下恵りゅうかけい少連しょうれんなどであるが、先師はいわれた。
「あくまでも志を曲げず、身を辱かしめなかったのは、伯夷と叔斉であろう。」
 柳下恵と少連とについては、つぎのようにいわれた。――
「志をまげ、身を辱しめて仕えたこともあったが、いうことはあくまでも人倫の道にかなっていたし、行動にも筋道が立っていた。二人はその点だけで、十分立派だ。」
 虞仲と夷逸については、つぎのようにいわれた。――
「隠遁して無遠慮な放言ばかりしていたが、しかし一身を守ることは清かったし、世を捨てたのは時宜に適した道だったと言えるだろう。」
 先師は、それにつけ加えて更にいわれた。――
「私は、しかし、こうした人たちとはちがう。私は、はじめから隠遁がいいとかわるいとかを決めてかかるような、片意地な態度には出たくないのだ。」

○ 列挙された人々のうち、伯夷・叔斉(一六一章參照)柳下恵(三九二章參照)以外の人々は、どんな人か詳らかでない。
○ 朱張についての孔子の評言がないのは、多分脱落したのであろう。
○ 孔子の最後の言葉、原文の(無可無不可)は、「可もなし不可もなし」と読まれ、今では普通に「平凡だ」という意味に使われている。しかし、本来は、訳文のような意味に解するのが通説になつている。またそうでなければ本章の意味は通らない。

九(四六九)


 楽長のは斉に去った。亜飯あはんかんに去った。三飯のりょうさいに去った。四飯のけつしんに去った。鼓師つづみし方叔ほうしゅくは河内に逃げた。鼓師つづみしは漢に逃げた。楽官補佐のようと、けい打ち役のじょうとは海をこえて島に逃げた。

○ 亜飯・三飯・四飯==王の食事は毎日四回で、食間に音楽を奏させたので、その時々の受持の楽師を「何飯」と呼んだ。「亜飯」は第二の食事の時の楽師をいうのである。
○ 魯の政治がみだれ、礼楽がおとろえて、有能の楽師が国外に去つて行くのを歎いた言葉である。原文に「子曰」がないが、多分孔子の言葉であろう。

一〇(四七〇)


 周公が魯公にいわれた。――
「君主たるものは親族を見捨てるものではない。大臣をして信任のうすきをかこたせてはならぬ。古くからの臣下は、重大な理由がなければ棄てないがいい。一人の人に何もかも備わるのを求めてはならぬ。」

○ 周公==參照二六九章。
○ 魯公==周公の子伯禽、魯公に封ぜられた人。
○ この言葉は伯禽が封をうけてはじめて魯に入国した時に与えられた訓戒である。
○ 本章にも原文に「子曰」がないが、全体が孔子の言葉であろう。

一一(四七一)


 周に八人の人物がいた。伯達はくたつ※(「二点しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)はくかつ仲突ちゅうとつ仲忽ちゅうこつ叔夜しゅくや叔夏しゅくか季随きずい季※きか[#「馬+咼」、U+9A27、433-下-2]がそれである。

○ これも原文に「子曰」がないが孔子の言葉であろう。
○ 列挙された人物は、周の成王の時代の人ともいわれ、宣王の時代の人ともいわれている。また、母が四回のお産で毎回双児を生んだので、伯・仲・叔・季とそれぞれ二人ずつになつているという説もある。それ以上にはくわしいことは伝えられていない。
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子張第十九



本篇はすべて門人たちの言葉を記録したもので、子夏と子貢の言葉が最も多い。

一(四七二)


 子張がいった。――
「士たるものは、公けの任務において危難に直面したら生命を投げ出してそれに当るべきだ。利得に恵まれる機会があったら、それをうけることが正義に合するかどうかを思うべきだ。そして祭事には敬虔の念があふれ、喪には悲哀の情があふれるならば、士と称するに足るであろう。」

二(四七三)


 子張がいった。――
「何か一つの徳に固まって、ひろく衆徳を修めることが出来ず、正道を信じても、それが腹の底からのものでなければ、そんな人は居ても大して有りがたくないし、いなくても大して惜しくはない。」

三(四七四)


 子夏の門人が人と交る道を子張にたずねた。子張がいった。――
「子夏は何といったのか。」
 子夏の門人がこたえた。――
「為めになる人と交り、為めにならない人とは交るな、といわれました。」
 子張がいった。――
「それは私の学んだこととはちがっている。君子は賢者を尊ぶと共に衆人を包容し、善人を称讃すると共に無能の人をあわれむ、と私はきいている。自分がもし大賢であるなら、誰と交ろうと平気だし、自分がもし賢くなければ、こちらが相手をきらうまえに、相手がこちらをきらうだろう。」

○ 二六八章において、孔子は子張を「行きすぎる」と評し、子夏を「行き足りない」と評している。本章の二人の言葉と対比して興味が深い。万事にひかえ目な子夏は、おそらく門人に、人と交る道を問われて、「交友の道」を説いたのであろうし、気の大きい、行き過ぎがちな子張は、「ひろく人と交る道」を説いたのであろう。

四(四七五)


 子夏がいった。――
「一技一芸の小さな道にも、それぞれに意義はある。しかし、そうした道で遠大な人生の理想を行おうとすると、おそらく行き詰りが来るであろう。だから君子はそういうことに専念しないのである。」

五(四七六)


 子夏がいった。――
「日ごとに自分のまだ知らないことを知り、月ごとに、すでに知り得たことを忘れないようにつとめる。そういう心がけであってこそ、真に学問を好むといえるだろう。」

六(四七七)


 子夏がいった。
「ひろく学んで見聞をゆたかにし、理想を追求して一心不乱になり、疑問が生じたら切実に師友の教えを求め、すべてを自分の実践上の事として工夫するならば、最高の徳たる仁は自然にその中から発展するであろう。」

七(四七八)


 子夏がいった。――
「もろもろの技術家はその職場においてそれぞれの仕事を完成し、君子は学問において人間の道を極める。」

八(四七九)


 子夏がいった。――
「小人が過ちを犯すと、必ずそれをかざるものである。」

○ この言葉は痛い。論語の中でも最も痛い言葉の一つである。

九(四八〇)


 子夏がいった。――
「君子に接すると三つの変化が見られる。遠くから望むと儼然としており、近づいて見ると柔和な顔をしており、その言葉をきくと確乎として犯しがたい。」

一〇(四八一)


 子夏がいった。――
「君子は人民の信頼を得て然る後に彼等を公けのことに働かせる。信頼を得ないで彼等を働かせると、彼等は自分たちが苦しめられているように思うだろう。また、君子は君主の信任を得て然る後に君主を諌める。まだ信任されないうちに諌めると、君主は自分がそしられているように思うだろう。」

○ ここでの君子はむろん郷大夫の如き為政家を意味する。

一一(四八二)


 子夏がいった。――
「大徳が軌道をはずれていなければ、小徳は多少の出入りがあっても、さしてとがむべきではない。」

○ 大徳は五倫五常といつたような道徳の大本になるもの、小徳は坐作進退の如きものを指すであろう。
○ この言葉は、万事にひかえ目で細心な性格の子夏の言としてはめずらしい。次章における子夏と照らし合せると一層そういう感じがする。

一二(四八三)


 子游がいった。――
「子夏の門下の青年たちは、掃除や、応対や、いろんな作法などはなかなかうまくやっている。しかし、そんなことはそもそも末だ。根本になることは何も教えられていないようだが、いったいどうしたというのだろう。」
 子夏がそれをきいていった。――
「ああ、言游もとんでもないまちがったことをいったものだ。君子が人を導くには、何が重要だから先に教えるとか、何が重要でないから当分ほっておくとか、一律にきめてかかるべきではない。たとえば草木を育てるようなもので、その種類に応じて、取りあつかいがちがっていなければならないのだ。君子が人を導くのに、無理があっていいものだろうか。道の本末がすべて身についているのは、ただ聖人だけで、一般の人々には、その末になることさえまだ身についていないのだから、むしろそういうことから手をつけるのが順序ではあるまいか。」

○ 言游==子游。
○ 原文の「君子之道」の意義については「君子のふむべき道」と解するのと、「君子が人を導く方法」と解するのと二説がある。私は後者に従つた。前者に従つても、意味が全然通らないことはないが、無理があるように思う。

一三(四八四)


 子夏がいった。――
「仕えて餘力があったら学問にはげむがいい。学問をして餘力があったら、出でて仕えるがいい。」

○ この語は前段と後段との順序が逆になつているのではないか、という説がある。なるほど、それがわれわれの常識に合致する。

一四(四八五)


 子游がいった。――
「喪にあたっては、哀悼の至情をつくせばそれでいいので、形式をかざる必要はない。」

一五(四八六)


 子游がいった。――
「友人のちょうは、困難なことをやりとげる男ではあるが、まだ仁者だとはいえない。」

○ 張==子張

一六(四八七)


 曾先生がいわれた。――
「堂々たるものだ、張の態度は。だが、相たすけて仁の道を歩める人ではない。」

○ 前章といい、本章といい、子張は同門の人たちにきびしく批難されているが、よほど人と相容れないところがあつたと見える。

一七(四八八)


 曾先生がいわれた。――
「私は先生がこんなことをいわれたのをきいたことがある。人間が自己の全部を出しきってしまうということは、先ずないものだが、せめて親の死を悲しむ時ぐらいは、そうありたいものだ、と。」

一八(四八九)


 曾先生がいわれた。――
「私は先生がこんなことをいわれたのを聞いたことがある。孟荘子もうそうしの親孝行も、ほかのことはまねが出来るが、父の死後、その重臣とその政治方式とを改めなかった点は、容易にまねの出来ないことだ、と。」

○ 孟荘子==魯の大夫、仲孫速。父の孟献子は賢大夫としてきこえた人であつた。

一九(四九〇)


 孟氏もうし陽膚ようふを司法官に任用した。陽膚ようふは曾先生に司法官としての心得をたずねた。曾先生はいわれた。――
「政道がみだれ、民心が離散してすでに久しいものだ。だから人民の罪状をつかんでも、なるだけあわれみを、かけてやるがいい。罪状をつかんだのを手柄に思って喜ぶようなことがあってはならないのだ。」

○ 孟氏==魯の大夫、孟孫氏。
○ 陽膚==曾子の門人。

二〇(四九一)


 子貢がいった。――
いん紂王ちゅうおうの悪行も実際はさほどではなかったらしい。しかし、今では罪悪の溜池ででもあったかのようにいわれている。だから君子は道徳的低地に居って、天下の衆悪が一身に帰せられるのを悪むのだ。」

○ 紂王については四六一章註參照。

二一(四九二)


 子貢がいった。――
「君子の過ちは日蝕や月蝕のようなものである。過ちがあると、すべての人がそのかげりを見るし、過ちを改めると、すべての人がその光を仰ぐのだから。」

二二(四九三)


 えい公孫朝こうそんちょう子貢しこうにたずねていった。――
仲尼ちゅうじは誰について道を学ばれたのか。」
 子貢がこたえた。――
「文王・武王の道は地におちてほろびたわけではありません。それはまだ人々の間に生かされています。賢者はその大道を心得ていますし、不賢者もその小道ぐらいは心得ていますので、万人に道が残っているともいえるのです。かようなわけでございますから、私共の先生にとっては、すべての人が師でありまして、これといってきまった師があるわけではありません。」

○ 公孫朝==衛の大夫。
○ 仲尼==孔子のあざ名。

二三(四九四)


 叔孫武叔しゅくそんぶしゅくが朝廷で諸大夫に向っていった。――
子貢しこう仲尼ちゅうじ以上の人物だと思います。」
 子服景伯しふくけいはくがそのことを子貢に話した。すると子貢はいった。――
「とんでもないことです。これを宮殿の塀にたとえて見ますと、私の塀は肩ぐらいの高さで、人はその上から建物や室内のよさがのぞけますが、先生の塀は何丈という高さですから、門をさがしあてて中にはいって見ないと、御霊屋みたまやの美しさや、文武百官の盛んな装おいを見ることが出来ないのです。しかし、考えて見ると、その門をさがしあてるのが容易ではありませんので、大夫がそんなふうにいわれるのも、或は無理のないことかも知れません。」

○ 叔孫武叔==魯の大夫。名は州仇。
○ 子服景伯==三七〇章註參照。
○ 原文に「夫子」という語が二回出ているが、前の「夫子」は孔子を指し、後の「夫子」は叔孫武叔を指す。

二四(四九五)


 叔孫武叔しゅくそんぶしゅく仲尼ちゅうじをそしった。すると子貢がいった。
「そういうことは仰しゃらない方がよろしいかと存じます。仲尼先生は傷つけようとしても傷つけることの出来ない方です。ほかの賢者は丘陵のようなもので、ふみこえることも出来ましょうが、仲尼先生は日月のように高くかかっていられて、ふみこえることが出来ません。仲尼先生をそしって、絶縁なさいましても、日月のようなあの方にとっては何の損害もないことです。却ってそしる人自身が自分の力を知らないということを暴露するに過ぎないでしょう。」

○ 子貢が孔子のことを「仲尼」と呼んだのは、相手が大夫で、孔子より高位の人であつたからである。

二五(四九六)


 陳子禽ちんしきんが子貢にいった。――
「あなたはご謙遜が過ぎます。仲尼先生といえどもあなた以上だとは私には思えません。」
 すると子貢がいった。――
「君子は一言で知者ともいわれ、一言で愚者ともいわれる。だから、口はうっかりきくものではない。先生が、われわれの到底及びもつかない方であられるのは、ちょうど天に梯子をかけて登れないのと同じようなものだ。もし先生が国家を治める重任につかれたら、それこそ古語にいわゆる、「これを立つればここに立ち、これを導けばここに行われ、これを安んずればここに来り、これを動かせばここにやわらぐ。その生や栄え、その死やかなしむ。」とある通り、民生もゆたかになり、道義も作興し、人民は帰服して平和を楽しみ、先生の御存命中はその政治をたたえ、亡くなられたらその徳を慕うて心から悲しむだろう。とても、とても、私などの及ぶところではないのだ。」

○ 陳子禽==一〇章註參照。子貢の門人であつたことはたしかだが、同時に孔子の門人であつたかどうかは、はつきりしない。一〇章では孔子のことを「夫子」と呼び、ここでは「仲尼」と呼んでいる。「夫子」は現に大夫であるか、或はかつて大夫であつた人に対する敬称でもあるから、それで子禽が孔子の門人であつたと断定するわけには行かない。本章で「仲尼」と呼んでいるところから判断すると、孔子と直接の師弟関係がなかつたのではなかろうか。
○ 本章は孔子の死後の対話だという説もある。
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堯曰第二十



本篇はわずかに三章から成つている。第一章は直接孔子とは関係なく、古帝王の道を述べたもので、おそらく論語の篇者が、全体の結語のつもりで書いたのであろうといわれている。この説に従うと、あとの二章は、後世になつてつけ加えられたものだということになる。

一(四九七)


 堯帝が天子の位を舜帝に譲られたとき、いわれた。――
「ああ、汝、舜よ。天命今や汝の身に下って、ここに汝に帝位をゆずる。よく中道をふんで政を行え。もし天下万民を困窮せしめることがあれば、天の恵みは永久に汝の身を去るであろう。」
 舜帝が王に位を譲られるときにも、同じ言葉をもってせられた。
 けつ王にいたって無道であったため、いんとう王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。
「小さき者、、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、敢て至高至大なる天帝にことあげいたします。私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、天帝に罪を得た者を誅しました。天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳が蔽われないよう致したいと思います。私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります。」
 更に諸侯に告げていわれた。――
「もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、万民の罪ではない。もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、われひとりの罪である。」
 いんちゅう王にいたって無道であったため、周の武王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、武王は天帝に誓っていわれた。――
「周に下された大きな御賜物を感謝いたします。周には何と善人が多いことでございましょう。いかに親しい身内のものが居りましょうとも、仁人の多きには及びませぬ。かように仁人に恵まれて、なお百姓ひゃくせいに罪がありますならば、それは私ひとりの罪でございます。」
 武王はこうして、度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、すたれた官職を復活して、四方の政治に治績を挙げられた。また、滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、野にあった賢者を挙用して、天下の民心を帰服せしめられた。とりわけ重んじられたのは、民の食と喪と祭とであった。
 かように、君たる者が寛大であれば衆望を得、信実であれば民は信頼し、勤敏であれば功績があがり、公正であれば民は悦ぶ。これが政治の要道であり、堯帝・舜帝・禹王・湯王・武王の残された道である。

○ 本章の原文は、書経などにある言葉をひろつてつないだようなもので、そのままでは、誰の言葉であるかも見当がつかない。で学者の註解をたよりに、一通り筋道が立つだけに説明の言葉を補つて訳した。
○ 堯帝、舜帝、夏の禹王、殷の湯王、周の武王は支那古代の理想的帝王とされた人々であるが、禹王までは謂ゆる禪譲によつて位をつぎ、湯王と武王は謂ゆる放伐によつて位に上つた。
○ 履==湯王自身の名である。

二(四九八)


 子張が先師にたずねていった。――
「どんな心がけであれば政治の任にあたることが出来ましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「五つの美を尊んで四つの悪をしりぞけることが出来たら、政治の任にあたることが出来るであろう。」
 子張がたずねた。――
「五つの美というのは、どういうことでございましょう。」
 先師がこたえられた。――
「君子は恩恵を施すのに費用をかけない。民に労役を課して怨まれない。欲することはあるがむさぼることはない。泰然としているが驕慢ではない。威厳はあるが猛々しくはない。これが五つの美だ。」
 子張がその説明を求めた。先師はこたえられた。――
「人民自ら利とするところによって人民を利する、いいかえると安んじて生業にいそしませる、それが何よりの恩恵で、それには徒らに財物を恵むような失費を必要としないであろう。正当な労役や人民が喜ぶような労役をえらんで課するならば、誰を人民が怨みよう。欲することが仁であり、得ることが仁であるならば、貪るということにはならないではないか。君子は相手の数の多少にかかわらず、また事の大小にかかわらず、慢心をおこさないで慎重に任務に当る。これが泰然として驕慢でないということではないか。君子は服装を正しくし、容姿を厳粛にするので、自然に人に畏敬される。これが威厳があって猛々しくないということではないか。」
 子張がたずねた。――
「四つの悪というのは、どういうことでございましょう。」
 先師がこたえられた。――
「民を教化しないで罪を犯すものがあると殺す、それは残虐というものだ。何の予告も与えないでやにわに成績をしらべる、それは無茶というものだ。命令を出す時をいい加減にして、実行の期限だけをきびしくする。それは人民をわなにかけるというものだ。どうせ出すものは出さなければならないのに、勿体をつけて出し惜しみをする、それは小役人根性というものだ。」

三(四九九)


 先師がいわれた。――
「天命を知らないでは君子たる資格がない。礼を知らないでは世に立つことが出来ない。言葉を知らないでは人を知ることが出来ない。」

○ 「君子」という言葉は「天命」に関してだけ用いられているが他の二つの場合にも共通するものと見るべきであろう。
○ 「天命を知る」というのは、境遇の順逆にとらわれず、安んじて為すべきを為し、為すべからざるを為さないという、人間としての根本の立脚地を指したものであり、そして、礼を知るというのは、社会人としての具体的な起居動作についていつたものであり、「言葉を知る」というのは、正言、虚言、僞言等を正しく判別し、言葉に欺かれない用意があつて、はじめて人間の価値判断を適正ならしめ、為政者として誤りのない人事を行うことが出来る、ということをいつたものであろう。





底本:「下村湖人全集 第五巻」池田書店
   1965(昭和40)年5月15日発行
※「參」と「参」、「參照」と「参照」、「万事」と「萬事」、「帯びた」と「帶びた」、「野蛮」と「野蠻」、「禮楽」と「礼楽」、「晋」と「晉」、「萬一」と「万一」、「昼寝」と「晝寝」、「回」と「囘」、「民謡」と「民謠」、「祝[#「魚+它」、U+9B80、288-下-8]」と「祝駝」、「鄭」と「[#「猶のつくり+おおざと」、U+2871F、374-上-2]」、「大司冦」と「大司冠」、「礼」と「禮」、「乗」と「乘」、「糸」と「絲」、「焼」と「燒」、「台」と「臺」、「隠」と「隱」、「栄」と「榮」、「予」と「豫」、「双」と「雙」、「偽」と「僞」の混在は、底本通りです。
※各章の終りの語句の註解、訳者の簡単な所見、感想等の拗音、促音の大書きは、底本通りですが、ルビの拗音、促音は、小書きしました。
※なお各章本文の拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:酒井和郎
2016年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「土へん+占」、U+576B    259-上-11、259-下-2
「魚+它」、U+9B80    288-下-8、288-下-11、288-下-8
「(戛−戈)/介」の「人がしら」に代えて「大」、U+5961    372-下-12、373-上-13、373-下-1
「猶のつくり+おおざと」、U+2871F    374-上-2、374-上-6、374-上-10、374-上-14、395-上-8、395-上-9、395-下-1、420-下-6、420-下-12、420-下-12、374-上-2
「馬+咼」、U+9A27    433-下-2


●図書カード