次郎物語

第二部

下村湖人




一 それから


 母に死別してからの次郎の生活は、見ちがえるほどしっとりと落ちついていた。彼は、なるほど、はたから見ると淋しそうではあった。彼の眼の底に焼きつけられた母の顔が、何かにつけ、食卓や、壁や、黒板や、また時としては、空を飛ぶ雲のなかにさえあらわれて、ともすると、彼の気持を周囲の人たちから引きはなしがちだった[#「だった」は底本では「たった」]のである。しかし、母が、臨終の数日まえに、
「あたしは、乳母やよりももっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるよ。だから、……だから、腹が立ったり、……悲しかったりしても……」
 と息をとぎらせながら言った言葉が、いつも力強く彼の心を捉えていた。で、彼自身としては、彼が孤独に見える時ほど、かえって気持が落ちついていたとも言えるのだった。
 彼は、正木のお祖母さんといっしょに、よくお墓まいりをした。お墓の前にしゃがむと、彼は拝むというよりは、じっと眼をすえて地の底を見とおそうとするかのようであった。彼は、母の屍体が日ごとにくずれて行っているなどとは、微塵みじんも思いたくなかった。彼が地下数間のところに想像するものは、いつも、ほのかな光のなかにうき出した大理石像のようなものだった。この大理石像は、お墓詣りがたび重なるにつれて、いよいよ鮮明になって行った。しかも、不思議なことには、その顔は、彼の記憶に残っている母の顔そのままのものではなかった。それは、もっと美しい、神々しい顔だった。やや伏眼に半眼にひらいた眼つきには、どこかに観音さまを思わせるものさえあった。
 次郎は、学校の綴方の時間に、このごろ感じたことを何でもいいから書け、と先生に言われて、「地下に眠る母」という題で、お墓詣りのおりのこうした感じを、そのまま書いて出した。すると、そのつぎの綴方の時間には、先生は、みんなのまえでそれを朗読したあと、黒板の横の壁にピンで貼り出した。題のうえには三重圏が朱で大きく書いてあり、文末には、
「先生も思わず静かな気持に誘いこまれてしまいました。君の孝心がこの名文を書かせたものと思います。」
 と記してあった。
 次郎は、しかし、先生が朗読をはじめた瞬間、後悔に似た感じに襲われた。ひとりで大事にしまっておいたものを、だしぬけに人に見つかったような気がしてならなかったのである。彼は最初顔をまっかにした。が、朗読が終るころには、むしろ青ざめていた。そして、休み時間になって、みんなが黒坂のそばに押しよせた時には、飛びこんでいってそれを引っぱがしたいような気にさえなった。
 次郎にとっては、彼の記憶に残っている実際の母の顔と、墓詣りをするうちに描き出した母の顔とは、決してべつべつのものではなかった。彼自身では、母の顔を二様に思い浮かべているとは、ほとんど意識していなかったほど、まったく自然に、時に応じて、そのどちらかが彼の眼に浮かんで来たのである。彼が、彼なりに社会を持っている場合、つまり、学校や、家庭や、その外の場所で、周囲の人たちと何かの交渉がある場合に、自然に彼が思い出すのは、彼の記憶に残っている実際の母の顔であり、仏壇の前に坐ったり、墓詣りをしたり、夜中にふと眼をさましたりするときに、ひとりでに浮かんで来るのは、観音さまに似た母の顔だった。
 もっとも、月日がたつにつれて、この二つの顔は、次郎のその時の気分しだいで、どちらになることもあった。そして、三四ヵ月もたったころには、彼は自分でも気づかないうちに、観音さまに似た顔ばかりを思い出すようになっていたのである。
 彼は、乳母のお浜におりおり手紙を書くことを忘れなかった。お墓詣りをした時には、葉書ぐらいはきまって出した。また、綴方の時間に「地下に眠る母」を書いて出したのを後悔していたにもかかわらず、お浜には、三重圏のついたその綴方をそのまま送ってやり、教室で先生に朗読してもらったことまで書きそえてやった。
 お浜に手紙を書く時の彼の気持は極めて自由だった。彼は、彼自身のことについてはむろんのこと、彼の周囲のことについても、町の本田一家のことについても、彼の知っていることなら、何でも書いていいような気がしていた。もっとも、実際に書いたのは、たいていお浜が喜びそうなことばかりだった。本田のお祖母さんについては、ただ一度だけ、「お祖母さんは、まだ僕をあまり好きでないようだが、僕はもうちっとも困らない。」と書いたきりだった。
 これは、しかし、いやなことをつとめて避けようとする彼の心づかいからではなかった。お浜へあてた手紙を書き出すと、彼は、ちょうど甘い果物にでもしゃぶりついているような気になって、自然、不愉快なことを書く気がしなかったのである。
 むろん、墓詣りをしたおりの彼の手紙には、母の追憶やら、墓場の光景やら、それに伴う彼自身の感傷やらが、かならず何行かは書きこまれてあった。しかも、時としては、彼はそのために誇張としか思えないような文句まで考え出すのだった。これは、しかし、彼の母への思慕の不純さを示すものだとはいえなかった。彼は、まだ、思いきりお浜に甘えてみたい気持だったのである。母への思慕を濃厚に表わすことが、今では、お浜への思慕を濃厚に表わすことであり、彼はそうすることによってのみ、存分にお浜に甘えているような気持になることが出来たのである。
 次郎にとって、何の自制心も警戒心も必要としないただ一人の相手、嘘であろうと、誇張であろうと、そのままにうけ入れてくれるただ一人の相手、そして、かりに腹をたてあうとしても、腹を立てあうそのことが、愛のしるしでさえあるようなただ一人の相手、それは今でも、お浜だけであるということを、読者はやはり忘れてはならない。
 ところで、次郎は不思議にも、お浜自身に対する彼の思慕を、彼の手紙のなかに、あからさまに書いたことなど、一度だってなかった。彼は、お浜自身に関しては、いつも手紙の末には、「乳母や、では、たっしゃでお暮しなさい。」と書くだけだった。そのほかに、もし彼のお浜に対する深い愛情を示す直接の言葉を求めるとすれば、恐らく、母の葬式後別れてからの最初の手紙に、「僕が大きくなるまで丈夫にしていて下さい。」と書いたのだけであったろう。これもしかし、何も不思議なことではなかった。というのは、次郎のお浜に対する思慕は、次郎にとってはあまりにも自然であり、それを意識的に言い表わす必要など、彼は少しも感じていなかったからである。
 お浜からの返事は、いつも簡単だった。たいていは郵便葉書に、まず手紙を受取ったお礼を書き、そのあとに、勉強して一番になってもらいたいとか、おとなしくせよとか、病気をするなとか、お墓詣りを怠るなとか、いったような意味のことを、きまり文句でしるしてあるに過ぎなかった。たまには、まるで返事さえ来ないこともあった。次郎は、それを物足りなく感じながらも、少しも不服には思わなかった。というのは、彼は、お浜が字が書けなくて、いつも誰かに代筆させていることをよく知っていたからである。
 もっとも彼は、その代筆者を多分お鶴だろうと想像していた。そしてもしそうだとすると、もっと何とか書きようがありそうなものだ、お鶴はもう僕のことを忘れてしまっているのだろうか、などと考えたりした。
 彼は、母を思うとすぐお浜を思い出し、お浜を思うときっと母を思い起した。彼が二人からうけた印象は、色も匂いもまるでちがったものではあったが、それは彼にとって、決して調和しがたいものではなかった。それどころか、彼は、いわば、高く澄みきった暁の星を、咲きさかる紫雲英れんげ畑の中からでも仰ぐような気持で、二人の思い出にひたることが出来たのである。暁の星と紫雲英畑とは、もはや彼にとって同時に必要なものになっていた。暁の星だけでは、清澄に過ぎて寂しかったし、紫雲英畑だけでは、何か知ら心の奥に物足りなさが感じられた。彼は、この二つを同時に持つことによって、緊張感きんちょうかんと幸福感とを共に味わいつつ、無意識のうちに、彼自身の魂を、永遠と現実との二本の軌道のうえに正しく転じはじめていたのである。
 むろん、彼の周囲には正木一家のひとびとがいて、あたたかく彼を見まもってくれた。正木のお祖父さんは、やはり懐しくも怖くも思われる人だった。お祖母さんは母の死後いよいよやさしくなってきた。墓詣りのたびごとに、母の思い出を語り、ついでにお浜のことを言い出して、次郎を慰めるのは、いつもこのお祖母さんだった。次郎は、しかし、母の死後、この二人が目立って元気がなくなったように見えて、何となく淋しかった。
 謙蔵夫婦や、従兄弟いとこたちには、べつに変ったところもなかった。どちらかと言うと、次郎自身が彼らに対して不必要に気をつかったり、小細工をしたりしなくなっただけに、彼らの次郎に対する態度にも、一層こだわりがなくなって来たと言えたであろう。
 ともかくも、こうして、次郎は正木一家のひとびとに取りかこまれ、しばしば、お浜に手紙を書き、自由に母の追憶にふけっているかぎり、大して不幸な生活をおくっているとは言えなかったのである。
 もっとも、竜一の姉の春子が、いよいよ正式に縁づくことになり、母の死後間もなく、東京にって行ってしまったと聞いた時には、腹も立ったし、悲しくも思った。このまえ彼女が東京に行って、一旦帰って来た時に、すぐにも訪ねたいと思ったが、そのころは母が危篤で、学校も休んでいたし、いよいよ葬式がすんで学校へ通えるようになってからも、忌中におめでたまえの人の家を訪ねるものではないと、正木のひとびとに言いきかされていたので、とうとう会えないでしまったのが、とりわけ心残りでならなかった。しかし、それも母の死という大打撃のあとだったせいか、このまえ春子が東京に行くと聞いた時にくらべると、不思議なほど、心にうけた痛みが軽かった。そして、時がたつにつれて、学校で竜一の顔を見ても、めったに春子のことを思い出さなくなり、たまに思い出しても、それは、春子の東京土産にもらった硝子製のライオンとともに、むしろ甘い追憶の一つになりかけて来たのである。
 ただ、彼の心にいつも暗い影になってこびりついていたのは、やはり本田のお祖母さんだった。彼は、もう一人でも町に行けるようになっていたので、行きたいとさえ思えば、土曜ごとに泊りがけで行けるのだったが、実際に行くのは、せいぜい月一回ぐらいのものだった。それも、自分から進んで出かけようとしたことなど、ほとんどなく、たいていは、正木の老人たちにつれられたり、あるいはすすめられたりして、しぶしぶ出かけるといったふうだった。
 それも、しかし、本田のお祖母さんの彼に対する仕打が、以前より一層ひどくなって来ている以上、無理もないことだった。本田のお祖母さんは、このごろでは、次郎をまるで本田の子供だとは思っていないかのようにあしらった。小学校を出たあと本田に帰って来られては迷惑だ、と言わぬばかりの口吻をもらしたことも、一度ならずあった。ある時など俊亮に向かって、
「この子もやはり中学校に出す気なのかえ。」とか、
「正木でお世話ついでに何とか考えてもらったら、どうだえ。」とか、次郎を目の前に置いて、平気でそんなことをいったことさえあった。
 俊亮は、むろんそれには取りあわなかったが、次郎としては、将来の希望を打ちくだかれたような気がして、その時は正木に帰ってからも、永いこと暗い気持になっていた。
 何よりも、次郎を不愉快にしたのは、お祖母さんが彼に向かって、正木の人たちのことを何かと悪く言うことだった。しかも、その悪口は、どうかすると、亡くなった母の上にまで飛んで行くのだった。
「親の気位が高いと、自然その娘も気位が高くなるものでね。このお祖母さんは、お前たちのお母さんでどれほど苦労をしたか知れやしないよ。」
 これが、何かにつけ、お祖母さんの言いたがることだった。また、
「気がきつくて、素直でないところは、次郎がお母さんそっくりだよ。恭一なんかお母さんにはちっとも似ていないがね。」
 などとも言った。これには、はたで聞いていた恭一も、いやな顔をした。次郎はなおさらいやだった。自分が悪く言われるのは、慣れっこになっていて、もうさほどには腹も立たなかったが、彼にとっては神聖なものになりきっている母が少しでも傷つけられることは、何としてもたえがたいことだった。
 彼は、しかし歯噛みをしてそれをこらえた。こらえなければ、一層母が悪者になるような気がしたのである。
 彼が本田に行きたがらない理由は、正木一家にも、むろん、よく解っていた。で、正木のお祖父さんは、最近しばしば俊亮にそのことを話して、次郎が中学校へ入学したあとの始末について、十分考えてもらうことにした。しかし、俊亮はその話になると、いつもため息をつくだけだった。
 寄宿舎に入れる手もあり、また、少しは無理でも正木の家から自転車で通わせるという方法も考えられないではなかったが、いずれにせよ、近くに自家うちがあるのにそんなことをしては、ますます次郎をひがましてしまうのではないか、という心配が俊亮にはあった。実は、次郎本人が知ったら、その方をどのくらい望んだか知れなかったのだが、俊亮としては、そのことについて次郎の気持をきいてみることさえ、よくないことのように思われるのだった。それに、商売の方も、不慣れなために、とかく手ちがいだらけであり、次郎のために特別の支出でもすることになれば、それこそお祖母さんが默ってはいまいし、正木から通わせることにすればその方の心配はないとしても、世間の思わくというものを、元来そんなことにはわりあい無頓着むとんちゃくな俊亮も、さすがに無視するわけにはいかなかったのである。
(いっそ養子にでもやってしまおうか。)
 俊亮は、ふとそんなことを考えてみたこともあった。しかし、それは、彼の良心、――というよりは、彼の次郎に対する愛情が許さなかった。
 彼は、次郎を見ると、このごろ涙もろくさえなっていたのである。
 この問題は、実を言うと、お民の葬式がすむとすぐから、ないない誰の気にもかかっていたことで、法事のたびごとに、ひそひそとささやかれていたのだが、四十九日が過ぎ、百ヵ日が過ぎ、その年も暮近くになって、やっと正木の老人から俊亮に話し出したのだった。
 それでも、結局、解決がつかないままに年があけてしまったのである。

二 万年筆


「次郎、父さんは、今日正木へ行く用が出来たんだが、いっしょに行かないか。」
 朝飯をすまして、火鉢のはたで、手紙の封をきっていた俊亮が、だしぬけに言った。
 次郎は正月を迎えるために本田に帰って来ていたが、むろん、一日だってお祖母さんに不愉快な思いをさせられない日はなかった。恭一や俊三といっしょに、父と一度映画館につれて行ってもらったほかに、正月らしい気分は何一つ味わえず、とりわけ、食卓での差別待遇が、母にわかれてからの彼のしみじみとした気持を、めちゃくちゃにしそうだった。で、休みはまだあと二日ほど残っていたが、父にそう言われると、彼は飛び立つように嬉しかった。
「すぐ行くの? 僕、じゃあ、カバンを取って来るよ。」
 彼は、そう言って、二階へかけあがった。
「だしぬけに、どうしたんだね。」
 と、まだちゃぶ台のそばで茶を飲んでいたお祖母さんが、不機嫌そうに、俊亮にたずねた。
「いや、歳暮くれにも無沙汰をしていますし、どうせ一度行って来なければなりますまい。」
「でも、今年はまだいみがあるんじゃないのかい。」
「そりゃそうです。しかし、べつに年始というわけではありませんから。」
「じゃあ、松の内でも過ぎてからにした方が、よくはないのかい。あんまり物を知らないように思われても、何だから。」
 俊亮は苦笑した。そして、ちょっと何か考えていたが、
「じつは、今、正木から至急の手紙が来ましてね。」
 と、膝の前に重ねて置いた四五通の手紙に眼をやった。
「何を言って来たのだえ。」
 お祖母さんは、急いでちゃぶ台のそばをはなれ、不機嫌と好奇心とをいっしょにしたような眼つきをして、俊亮の火鉢の前に坐った。
「今日の夕刻までに、是非来てくれというんです。」
「そんな急な用件って、何だね。」
「それは、行ってみないと、はっきりしませんが……」
「何とも書いてはないのかい。」
「ええ……」
 俊亮の返事は少しあいまいだった。
「用件も書かないで、人を呼びつけるなんて、ずいぶん失礼だとは思わないのかい。」
 俊亮はまた苦笑しながら、
「親類仲でそうこだわることもありますまい。それに、こちらのことを気にかけてのことらしいのですから。」
「こちらのこと? すると何かい、こちらのことで何か相談がある、と書いて来ているんだね。」
 と、お祖母さんは、何か不安らしい眼をして、じろじろと手紙に眼をやった。
「そうらしく思われます。ご覧になりたけりゃ、ご覧下すってもいいんです。」
 俊亮は、渋い顔をしながら、正木からの手紙をぬきとって、お祖母さんの方につき出した。
「べつに、わたしが見なけりゃならん、ということもないのだけれど……」
 お祖母さんは、そう言いながら、手をひろげて、念入りに読みだした。しかし「委細いさい拝眉はいびの上」とあるきりで、はっきりしたことは何も書いてなかった。ただ「次郎の行末とも、自然関係ある儀に付、云々うんぬん」という文句だけが、強くお祖母さんの眼を刺戟した。
 俊亮は、お祖母さんに構わず立ち上った。
「夕方までに行けばいいのなら、お午飯ひるでもすましてからにしたら、どうだえ。手紙を見たからって、そういそいで行くこともあるまいじゃないかね。」
 お祖母さんは、もう一度、読みかえしていた手紙を膝の上に置いて、俊亮を見た。俊亮が出かける前にもっとよく話し合っておきたい、というのがそのはららしかった。俊亮は、しかし、
「日も短いし、早く行って、早く帰った方がいいんです。」
 と、すぐ立ち上って次の間の箪笥たんす抽斗ひきだしから自分で羽織を出しかけた。
 次郎は俊三と肩を組んで元気よく二階からおりて来た。そのあとから恭一もついて来た。
「お祖母さん、次郎ちゃんはもう帰るんだってさあ、まだ休みが二日もあるのに。」
 俊三が訴えるように言った。
 お祖母さんは、しかし、それには答えないで、次郎のにこにこしている顔を、憎らしそうに見ながら、
「お前は正木へ行くのが、そんなに嬉しいのかえ。」
 次郎の笑顔は、すぐ消えた。彼は默って次の間から出て来た父の顔を見上げた。
「何か、お土産になるものはありませんかね。」
 俊亮は、その場の様子に気がついていないかのように、お祖母さんに言った。
「何もありませんよ。」
 と、お祖母さんは、極めてそっけない。
「じゃあ、次郎、店に行って、壜詰びんずめを三本ほどゆわえてもらっておいで。」
 次郎はすぐ店に走って行った。
「店の品じゃ可笑おかしくはないかい。それに重たいだろうにね。」
 お祖母さんは、店の壜詰棚が、このごろ淋しくなっているのをよく知っていたのである。
「なあに――」
 と、俊亮は一旦火鉢のはたに坐って、ひろげたままになっていた手紙を巻きおさめながら、
「何か、次郎にやるものはありませんかね。」
「次郎に? ありませんよ。」
「食べものでもいいんです。……もしあったら、お祖母さんからやっていただくといいんですが……」
 お祖母さんは、じろりと上眼で俊亮を見た。それから、つとめて何でもないような調子で言った。
「飴だと少しは残っていたかも知れないがね。でも、珍しくもないだろうよ。毎日次郎にもやっていたんだから。」
 俊亮は、もう何も言わなかった。そして、巻煙草に火をつけて、吸うともなく吸いはじめた。すると、その時まで默っていた恭一が、お祖母さんの方を見ながら、用心ぶかそうに、
「僕、次郎ちゃんに、こないだの万年筆やろうかな。」
歳暮くれに買ってあげたのをかい。」
 と、お祖母さんは、とんでもないという顔をした。
「ええ。」
「お前、どうしてもいると言ったから、買ってあげたばかりじゃないかね。」
「僕、赤インキをいれるつもりだったんだけれど、黒いのだけあればいいや。」
「また、すぐ買いたくなるんじゃないのかい。」
「ううん、色鉛筆で間にあわせるよ。」
「でも、次郎は万年筆なんかまだいらないだろう。」
「いらんかなあ。でも、次郎ちゃん、ほしそうだったけど。」
「あれは、何でも見さえすりゃ、ほしがるんだよ。ほしがったからって、いちいちやっていたら、きりがないじゃないかね。」
 お祖母さんは、恭一に言っているよりは、むしろ俊亮に言っているようなふうだった。
 恭一は默って俊亮の顔を見た。俊亮は、巻煙草の吸いがらを火鉢に突っこみながら、
「お前は、次郎にやってもいいんだね。」
「ええ……」
 と、恭一は、ちょっとお祖母さんの顔をうかがって、あいまいに答えた。
「じゃあ、やったらいい。お前のは、また父さんが買ってあげるよ。」
 お祖母さんは、ひきつけるように頬をふるわせた。そして、急にいずまいを正しながら、
「俊亮や、お前は、あたしが次郎にやりたくないから、こんなことを言うとでもお思いなのかい。あたしはね、どの子にだって、いらないものを持たせるのは、よくないと思うのだよ。それに……」
 俊亮は顔をしかめながら、
「ええ、もうわかっています。お母さんのおっしゃることはよくわかっています。しかし、私は、恭一のやさしい気持も買ってやりたいと思ったんです。次郎の身になったら、それがどんなに嬉しいでしょう。兄弟の仲がそうして美しくなれたら、万年筆一本ぐらい、いるとかいらないとか、やかましく言う必要もないじゃありませんか。」
 お祖母さんは、恭一のやさしい気持を買ってやりたい、と言った俊亮の言葉には刃向かえなかった。しかし、そのあとがいけなかった。次郎を喜ばせることは、お祖母さんにとっては、むしろ不愉快の種だったし、それに、万年筆一本ぐらいどうでもいいようなふうに言われたのには、何としても我慢がならなかった。
「ねえ俊亮や――」
 とお祖母さんは声をふるわせながら、
「ほしがるものなら何でもやるがいい、と、お前がお考えなら、あたしはもう何も言いますまいよ。だけど、子供たちのさきざきのためを思ったら、ちっとは不自由な目も見せておかないとね。……何よりの証拠しょうこがお前じゃないのかい。一人息子で、あまやかされて育ったばかりに、お前も今のような始末になったんだと、あたしは思うのだよ。そりゃあ、悪かったのはあたしさ。あたしの育てようが悪かったればこそ、御先祖からの田畑を売りはらって、こんな見すぼらしい商売を始めるようなことにもなったんだろうさ。だから、あたしは、罪ほろぼしに、孫だけでもしっかりさせたいと思うのだよ。それがあたしの仏様への……」
 お祖母さんは、袖を眼にあてて泣き出した。俊亮は、恭一と俊三とが、まん前にきちんと坐って、いかにも心配そうに自分を見つめているのに気がつくと、さすがにたまらない気持になったが、あきらめたように大きく吐息をして、店の方に眼をそらした。
 その瞬間、彼は、はっとした。一尺ほど開いたままになっていたふすまのかげから、次郎の眼が、そっとこちらをのぞいていたのである。次郎の眼はすぐ襖のかげにかくれたが、たしかに涙のたまっている眼だった。
「次郎!」
 俊亮は、ほとんど反射的に次郎を呼び、
「さあ、行くぞ。」
 と、わざとらしく元気に立ち上った。そしてマントをひっかけながら、
「じゃあ、恭一、万年筆はせっかくお祖母さんに買っていただいたんだから、大事にしとくんだ。」
 それから、お祖母さんの方を見、少し気まずそうに、
「お母さん、では、行ってまいります。」
 お祖母さんは、まだ袖を眼に押しあてたまま、返事をしなかった。
「次郎ちゃん、今度はいつ来る?」
 俊三は、重たそうに壜詰をさげて部屋にはいって来た次郎を見ると、すぐ立ってたずねた。恭一は、考えぶかそうに次郎を見ているだけだった。
「うむ――」
 と、次郎はなま返事をしながら、壜詰を上りがまちにおくと、いそいで仏間の方に行った。仏間には田舎にいたころのぴかぴかする仏壇がそのまま据えてあり、その中にまだ白木のままの母の位牌いはいが、黒塗りの小さな寄せ位牌の厨子づしとならんで、さびしく立っていた。次郎はその前に坐ると、眼をつぶって合掌した。
 観音さまに似た母の顔が、すぐ浮かんで来た。お浜のあたたかい、そして励ますような眼が、それに重なって浮いたり消えたりした。彼は悲しかった。つぶった眼から急に涙があふれて、頬を伝い、唇をぬらした。彼は、なんとなしに、この家の仏壇を拝むのもこれでおしまいだ、という気がしてならなかったのである。
「次郎ちゃん、父さんが待ってるよっ。」
 俊三が仏間に這入って来ていった。
 次郎はあわてて涙をふいた。そして俊三といっしょに茶の間の方に行きかけると、恭一が、足音を忍ばせるようにして、二階からおりて来た。彼は、俊三の方に気をくばりながら、
「次郎ちゃん、ちょっと。」
 と呼びとめた。
 次郎が近づいて行くと、恭一は、梯子段はしごだんをおりたところで、自分のからだをぴったりと次郎のからだにこすりつけて、ふところにしていた右手を、すばやく次郎の左袖に突っこんだ。
 次郎は、わきの下を小さな円いものでつっつかれたようなくすぐったさを覚えた。彼はそれが万年筆であるということを、すぐ覚った。そして嬉しいとも、きまりがわるいとも、怖いともつかぬ、妙な感じにおそわれた。
「何してるの。」
 と俊三がよって来た。
「くすぐってやったんだい。だけど、次郎ちゃんは笑わないよ。」
 恭一はやっとそうごま化した。そして、顔をあからめなから、変な笑い方をしていた。これは、しかし、恭一にしては精一ぱいの芸当だった。
 俊三は笑わない次郎の顔を、心配そうにのぞいて、
「怒ってんの、次郎ちゃん。」
 次郎はますますうろたえた。が、こうした場合の彼のすばしこさは、まだ決して失われてはいなかった。彼は、恭一の方にちょっと笑顔を見せたあと、いきなり俊三の脇腹をくすぐった。俊三はとん狂な声を立てて飛びのいた。同時に恭一と次郎が、きゃあきゃあ笑い出した。
「何を次郎はぐずぐずしているのだえ。感心に仏様にご挨拶あいさつをしているかと思うと、そんなところで、ふざけたりしていてさ。行くなら、さっさとおいで。」
 お祖母さんの声が、するどく茶の間からきこえた。俊三は、口を両手にあてて渋面をつくった。恭一は心配そうに次郎の顔を見た。次郎は、しかし、ほとんど無表情な顔をして、茶の間に出て行き、お祖母さんのまえに坐って、
「さようなら、お祖母さん。」
 と、ていねいにお辞儀をした。そして、脇腹に次第にあたたまって行く万年筆の感触を味わいながら、元気よくカバンを肩にかけた。
 本田の家を出てからの次郎の気持は、決して不幸ではなかった。俊亮は、自転車に壜詰をゆわえつけて、それを押しながら家を出たが、町はずれまで来ると、次郎をいっしょにのせてペタルをふんだ。風は寒かったし、からだも窮屈だったが、次郎は、父のマントをとおして、ふっくらした肉のぬくもりを感ずることが出来た。
 彼は、恭一に万年筆をもらったことを、すぐにも父に話したかったが、なぜかいつまでも言い出せなかった。大方一里あまり走ったころ彼はやっと言った。
「あのねえ、父さん、……恭ちゃんが、そっと僕に万年筆をくれたよ。」
「ふうむ――」
 俊亮はえたいの知れない返事をしたきりだった。次郎もそれっきり默っていた。そして自転車の合乗りでは、どちらも相手の顔をまともにのぞいて見るわけには行かなかったのである。
 それから一丁あまり走ったころ、俊亮が思い出したようにたずねた。
「いつ、くれたんだい。」
「僕、母さんのお位牌を拝んで出て来ると、梯子段のところで、くれたよ。」
「ふうむ――」
 俊亮は、またえたいの知れない返事をしたが、今度は半丁も走らないうちに、ちょっと自転車の速力をゆるめながら、
「じゃあ、恭一には、父さんがもっと上等なのを買ってやろうね。」
「うむ。」
 次郎は造作ぞうさなく答えた。答えてしまっていい気持だった。
 彼はもっと上等の万年筆を、しかも、父自身に買ってもらう恭一の幸福を、少しもねたましいとは感じなかった。彼は、むしろ、恭一に万年筆をもらった喜びの奥に、何かしら気にかかっていたものが、父のその言葉で、すっかり拭い去られたような気がして、はればれとなった。そして、それから五六分もたって、もう一度、落ちついて父の言葉を頭の中でくりかえしてみたが、やはり妬ましい気には少しもならなかった。
(恭ちゃんが僕より上等の万年筆をもつのは、あたりまえだ。)
 彼は何の努力なしに、そう思うことが出来た。また、恭一に万年筆をもらわないで、そのかわりに、父に買ってもらうとしたらどうだろう、とも考えてみたが、これもむしろ、恭一にもらったことの方が嬉しいような気がした。
 二人は、それからあまり口もききあわなかった。口をききあうには、二人の気持が、少し複雑になり過ぎていた。それに、二人とも、口をききあわなければ物足りない、とも感じていなかったのである。
 荷馬車に出あったり、土橋を渡ったり、そのほか、少しでも危険を感するような場所では、二人はかならず自転車をおりた。そんな時には、俊亮は、きまって次郎の顔をまじまじと見た。次郎も父の顔を見たが、いつもすぐ眼をそらして、少しはにかむようなふうだった。
 二人は、正木につく前に、ちょっと寄道よりみちをして、お民の墓詣りをした。そこでも二人はあまり口をきかなかった。しかし、墓地の出口まで出て来たときに、ふと俊亮が言った。
「お前が恭一に万年筆をもらったのを、お母さんもきっと喜んだろうね。」
 次郎は默って自分のカバンを見た。その中には、恭一にもらった万年筆が、もう何よりも大事にしまいこまれていたのだった。

三 大きなくぼ


 二人が正木のうちについたのは十一時を少し過ぎたころだった。正木では、俊亮が午前中に来ると予想していなかったらしく、門口をはいると、みんなが、「おや」という顔をした。
 老夫婦は、しかし、二人の顔を見ると、次郎の方にはろくに言葉もかけないで、せき立てるように、俊亮だけを座敷に案内した。
 次郎には、それが物足りないというよりは、何かしら気になった。で、カバンを二階の子供部屋の机の上におくと、自分もすぐ座敷の方に行ってみるつもりで、梯子段を降りかけた。しかし、梯子段の下には、もう従兄弟たちが待っていて、やんやとはしゃぎながら、彼を蝋小屋の方にひっぱって行った。
 ろう小屋の蒸炉むしろには、火がごうごうと燃えていた。従兄弟たちは、そのまえに行くと、めいめいに火かきや棒ぎれをにぎって、さきを争うように、炉口ろぐちにうずたかくなっている蝋灰をかきおこしはじめた。蝋灰のなかからは、まるごとに焼けた薩摩芋がいくつもいくつもころがり出た。
 次郎は、もうすっかり腹がっていたので、その香ばしい匂いをかぐと、すぐその一つに手を出した。火傷やけどしそうに熱いのを、両手で持ちかえ持ちかえしながら、二つに折ると、黄いろい肉から、湯気がむせるように彼の頬にかかった。彼はふうふう吹いては、それを食った。従兄弟たちもさかんに食った。食いながら、みんなでいろんなおしゃべりをしては、笑った。
 次郎は、急にのびのびしたあたたかい気持になり、きのうまでの不愉快な生活を夢のように思い浮かべた。そして今更のように、正木の家はいいなあ、と思った。
 しかし、一方では、どうしたわけか、しばらくぶりでった従兄弟たちが、何とはなしに物足りないように思われてならなかった。むろん、彼らが次郎に対して、いつもよりは冷淡だったというのではない。それどころか、芋を焼いていた彼らが、次郎が帰って来たのを知ると、彼をも仲間に入れようとして、すぐ飛んで出て来たのには、むしろいつも以上の親しさが感じられた。それにもかかわらず、次郎は、彼らとこうしていっしょにおしゃべりをしたり、笑ったりしているのが、何とはなしに、いつもほどしっくりしない。
 彼は、自分ながら変な気がした。
 従兄弟たちは、いったいに、学校の成績はいい方ではない。久男は、恭一よりも二つも年上だが、少し耳が遠いせいもあって、中学校には二度も失敗し、やっと私立の商業学校にはいって、今二年である。源次は次郎より一つ年上で、気はきいているが、ずぼらなところがあり、やはり一度は中学校に失敗して、この三月に、次郎といっしょにもう一度受験することになっている。しかし、今でもちっとも勉強しようとはしない。この二人にくらべると、彼らの義理の弟になっている誠吉の方が、ずっと出来がいいのだが、彼はまだ尋常四年だし、次郎の勉強の相手にはてんでならない。次郎が、そんな点で、ふだんから彼らにいくぶんの物足りなさを感じていたのはたしかだった。
 しかし、きょうの物足りなさは、それとは全くちがった物足りなさだった。従兄弟たちの好意は十分にみとめながらも、それがしっくり身について来ないといった感じだったのである。
 これは、しかし、実は不思議でも何でもなかった。彼は、彼自身ではっきり意識していなかったとしても、やはり、心のどこかで、まだ万年筆のことを思いつづけていたにちがいなかったのである。いや、万年筆をとおして、たまたま数時間まえに示された肉親の兄の愛が、久しく彼の血管の中に凍りついていた本能の流れを溶かして、従兄弟たちの好意を、その流の上に、木の葉でも浮かすように、浮かしはじめていたにちがいなかったのである。
 血は水よりも濃い。そして濃い血は淡い血よりも人の心を濃くする。次郎が今日従兄弟たちの愛をいつも程に味わい得なかったとしても、それは決して彼の軽薄さを示すものではなかったのだ。
 だが、実をいうと、次郎の気持を従兄弟たちから引きはなしていた理由は、ただそれだけなのではなかった。彼の心の動きはいつも単純ではない。生れた瞬間から、八方に気をつかうように運命づけられて来た彼は、焼芋を頬張ったり、おしゃべりをしたりしている最中にも、やはり、老夫婦がせき立てるように父を座敷につれて行ったことを忘れてはいなかったのである。
 彼は、焼芋を三つ四つ食い終ったころ、ふと思い出したように言った。
「僕、まだお祖父さんにご挨拶してないんだよ。」
 これは、むろん嘘だった。彼はさっき茶の間にあがるとすぐ、まっさきにお祖父さんに挨拶をすましていたのである。
 彼は、言ってしまって嫌な気がした。このごろめったに小細工をやらなくなっている彼ではあったが、何かの拍子に、われ知らずそれが出る。そしていつも後悔する。後悔はするが、すなおに小細工をひっこめる気にはなかなかなれない。その結果、一層まずい小細工をやって、あとでは手も足も出なくなってしまうことが多い。そんな時にかぎって、彼には母やお浜の顔を思い浮かべる余裕がない。それを思い浮かべるのは、たいてい何もかもすんでしまったあと、ひとりで、にがい後悔のあと味を噛みしめている時なのである。
「じゃあ、すぐ行っておいでよ。」
 久男が年長者らしく言った。むろん次郎がどんな気持でいるのか、それにはまるで気がついていなかったらしい。
「すぐまた、ここにおいでよ。これから餅を焼くんだから。」
 源次が芋の皮を炉に投げこみながら言った。
 次郎は変にそぐわない気持で立ち上った。すると誠吉が、
「餅なら、僕がとって来らあ。……次郎ちゃん行こう。」
 と、次郎と肩をくみそうにした。次郎の手は、しかし、ぶらさがったままだった。
 蝋小屋を出て、母屋の土間にはいると、誠吉は、台所で午飯の支度をしていたお延に言った。
「母さん、源ちゃんが餅を下さいって、次郎ちゃんと、蝋小屋で焼いて食べるんだってさ。」
 次郎には、誠吉のそうした卑屈な言葉が、いまはとくべついやに聞えた。
「もうすぐお午飯ひるだのに。……でも、少しならもっておいでよ。」
 お延は、そう言って、次郎の方をちらと見た。次郎には、それもいい気持ではなかった。
 彼は茶の間をぬけて、座敷の次の間まで行ったが、そこで立ちすくんでしまった。襖のむこうからは、ひそひそと話声がきこえるが、落ちついて立ち聞きする気にはもうなれない。さればといって、思いきって座敷にはいって行く勇気も出ない。結局、従兄弟たちに言った嘘をほんとうらしくするために、わざわざここまでやって来たに過ぎないような結果になってしまったのである。
 彼はすぐ次の間から引きかえそうとした。が、もう一度蝋小屋に行って、いかにもお祖父さんに挨拶をして来たような顔をするのがいやだったので、ちょっと思案していた。
 すると、急に座敷の話声が、高くなった。
「いや、先方はまだ何も知りませんのじゃ。」
 お祖父さんの声である。つづいてお祖母さんの声がきこえる。
「先方では、あんたが、きょうこちらにお見えのことも知らないでいるはずでございますよ。きょうは私どもの急な思いつきで、顔だけでもあんたに見ておいてもらったら、と思いましてね。幸い先方が訪ねて来るというものですから。」
「なあに、いけなけりゃ、いけないで、ちっとも構いませんのじゃ。じゃが、仏に対する遠慮なら、もう無用にしてもらいましょう。ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 次郎はもう動けなくなった。
「そりゃあ、気が利かないうえに、学校も小学校きりでございますから、何かと足りないがちだろうとは思います。ただすなおなのが取柄でございましてね。」
生半可なまはんかに気が利いたり、学問があったりするのは、こういう場合には、かえってよくないものじゃ。ことに、次郎にはやさしいのが何よりじゃでのう。」
 次郎はいつの間にか、襖の方に二三歩近づいていた。彼にはもう、話の内容がおぼろげながらわかりかけて来たのである。
「しかし――」
 と、はじめて俊亮の声がきこえた。次郎はごくりと固唾かたずをのんだ。
「この話は、次郎本位に考えるだけでいい、というわけでもありませんし……」
「ご尤も。」
 とお祖父さんが言った。俊亮は少し声を落して、
「何しろ、ご存じの通りの内輪の事情ですから、誰に来てもらったところで、すいぶんつらいことがあるだろうと思います。」
「それはいたし方ない。先方も初婚というわけではないし、それに、さっきから話しましたような事情じゃで、とくと話せば、大ていのことは我慢する気になるだろうと思いますがな。」
「しかし、それも程度がありますのでね。それに、万一来て下さる方が、次郎の方にだけ親しみが出来るというようになりますと、いよいよ面倒になりまして、次郎のためだと思ったことが、かえって悪い結果にならんとも限りませんし……」
「なるほど、そこいらはよほど気をつけんとなりますまい。じゃが、かげになって次郎をかばってくれる女が、一人は居りませんとな。」
 しばらく沈默がつづいた。次郎はただ頭がもやもやしていた。父にどう返事をしてもらいたいのか、それさえ自分でもわからなかった。第二の母、そんなことは、まだこれまでに彼が考えてみようとしたことさえなかったことなのである。
「とにかく、会ってやって下さるぶんには、差支えございませんでしょうね。」
 お祖母さんの声である。次郎は固唾をのんだ。
「ええ、それはかまいません。どうせ今日は、おそくなれば夜になるはらであがったんですから。」
 次郎は、失望に似た感じと、好奇心に似た感じとを、同時に味わった。
「次郎ちゃん、――何してんだい。――餅が焼けたよう――。」
 誠吉が土間の方から呼んでいる声がきこえた。彼は、はっとして、急いで部屋を出た。
 蝋小屋に行ってみると、もう餅がふくらんで、熱い息を吹き出していた。むしろのうえには、醤油と黒砂糖を容れた皿が二つ置かれていた。しかし、彼には、もうほとんど食慾がなかった。彼は、蒸炉にもえさかっている火の勢いで、自分の頭がぐるぐる回転しているような感じだった。
 間もなくお延が、彼らを午飯に呼びに来た。
 次郎は、しかし、ちゃぶ台のまえに坐っても、お延が盆をもって座敷に往ったり来たりするのに気をとられて、たった一杯しかたべなかった。従兄弟たちは、それをべつに変だとも思わなかったらしい。――彼らの腹も、蝋小屋で食った薩摩芋と餅とで、もう相当にふくらんでいたのである。
 次郎は食事をすますと、一人で二階に行って、お浜に手紙を書きはじめた。
 彼は先ず、町から正木に帰って来たことを知らせ、それから、さっきの座敷の話について何か書くつもりだった。しかし、彼はそれをどう書いていいのか、さっぱり見当がつかなかった。で、町で一度父に映画を見せてもらったことや、恭一に万年筆をもらったことや、父といっしょにお墓詣りをしたことなどを、多少の感傷をまじえて書いた。本田のお祖母さんのことは、何とも書かなかった。書きたくなかったのである。正木のお祖父さんや、お祖母さんについては、何かちょっとでも書いておきたいと思ったが、書こうとすると、ついさっきの話がひっかかって、筆が進まなかった。で、とうとうそれを思いきって、最後に、例のとおり、「では乳母や、からだに気をつけてください」と書き、すぐ封筒に入れて封をしてしまった。
 彼は、しかし、何だか物足りなくて、それからしばらくは、ぽかんと机に頬杖をついていた。
 そのうちに、継母を持っている数人の学校友達の顔が、ひとりでに思い出されて来た。そのある者は彼の非常にきらいな子供だったし、またある者は彼がかなり親しんでいる子供だった。彼は、しかし、それらの顔を思い浮かべたために、一層不愉快にもならなければ、慰められもしなかった。
 彼は、そのうちに、万年筆のことを思い出して、カバンの中からそれを取り出した。そしてキャップをとって、ためつすかしつ眺めはじめた。それは吸上ポンプ式だったが、まだインキが入れてなかった。彼は町で、恭一がそれに水を入れたり出したりしたのを見ていたので、どうすればインキがはいるのかがわかっていた。彼は部屋を見まわして、久男の机の上にインキ壺を見つけると、すぐそこに行ってインキを入れた。そして、自分の机のところに持って来ると、それでお浜に出す手紙の上がきを書いた。筆や鉛筆で書くのとちがって非常に書きづらかった。ペン先に紙がひっかかって、インキが点々と散った。それでも彼は、お浜あての手紙に、兄にもらった万年筆をはじめて使ったのが心からうれしかった。そして何度も封筒をひっくりかえしては、青みがかった文字の色をながめた。
 彼はそれでいくらか気が軽くなって、階下したにおりた。そして従兄弟たちを探すために、蝋小屋の方に行きかけた。
 すると門口から、の馬鹿に高い、頭のつるつるに禿げた、真白な顎鬚あごひげのある老人がはいって来た。次郎は、一目見ると、それが母の葬式の時に来ていた人だということを、すぐ思い出した。天狗の面を思わせるような顔が、次郎の記憶に、はっきり残っていたのである。
 老人は、そりかえるように背をのばして、大股おおまたに土間を歩いて行った。
 次郎が、ぼんやり突っ立ってそれを見送っていると、つづいて三十あまりの年頃の女が門口をはいって来て、小走りに彼のそばをすりぬけた。彼はちらとその横顔を見たが、少しも見覚えのある顔ではなかった。色が白くて、頬がやわらかに垂れさがっているような感じの女だった。
 彼は、しかし、その瞬間はっとした。そして吸いつけられるように、うしろ姿に視線をそそいだ。
「まあ、よくいらっしゃいました。さあどうぞ。父もたいへんお待ち申して居りました。」
 お延があいそよく二人を迎えた。
「きょうはお延さんにお造作ぞうさをかけますな。はっはっはっ。」
 老人は肩をそびやかすようにして、そう言いながら、さっさと上にあがった。女の人は、上り框のところで、土間に立ったまま、何度もお延に頭をさげていたが、これも間もなく障子の向こうに消えた。
 次郎は、それまで、一心に女を見つめていた。そして障子がしまると、急に自分にかえって、あたりを見まわした。あたりには誰もいなかった。
 彼は、これからどうしようかと考えた。
 むろん、もう従兄弟たちを探す気にはなれなかった。二階に一人でいる気もしなかった。彼は、何度も門口を出たりはいったりしたあと、いつの間にか、母屋と土蔵との間の路地をぬけて庭の方にまわり、座敷の縁障子のそとに立った。しかし障子が二重になっていて、内からの話声はほとんどきこえなかった。ただ、みんなの笑声にまじって、さっきの老人の声が一きわ高くひびいてくるだけだった。
 彼は、障子の内に、父とさっきの女の人との坐っている位置をさまざまに想像しながら、寒い風にふかれて、しばらく植込をうろつきまわっていたが、ふと、従兄弟たちが自分のいないのに気づいて、探しに来てもいけない、と思った。で、何食わぬ顔をして、急いで蝋小屋の方に帰って行った。
 蝋小屋には、しかし、もう従兄弟たちはいなかった。仕事も早じまいだったらしく、炉の中には、灰になりかかったおきが、ひっそりとしずまりかえっていた。
 次郎は、一人でいるのが結局気安いような気がして、蓆の上にごろりと寝ころんだ。そして、次第に白ちゃけて行く燠にじっと眼をこらした。
「ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 そう言ったお祖父さんの言葉が思い出された。それはいいことのようにも思えたし、また悪いことのようにも思えた。自分のために、悪いことを考えるようなお祖父さんではない。――そうは信じていたが、ふだんのお祖父さんの言葉のように、彼の心にぴったりしないものがあった。
「かげになって、次郎をかばってくれる女が一人は居りませんとな。」
 そうもお祖父さんは言った。が、次郎にはやはりそれもぴんと響かなかった。
(もし、さっき見た女の人がそうだとすると、あんな人に、乳母やのような親切な心があるわけがない。だいいち、あの女は自分がこれまで見たこともない人ではないか。)
 彼は、それからそれへと、いろんなことを考えつづけた。しかし、考えれば考えるほど、いよいよわけがわからなくなって来た。
 そのうちに、あたりがそろそろ暗くなり出し、おりおり炉の中でくずれるおきが、ぱっと明るく彼の顔をてらした。そして彼の眼に浮かんで来るのは、母や乳母やの顔ではなくて、いつも、さっき見た女の人の横顔だった。
 彼は、しかしそう永くは蝋小屋にも落ちつけなくて、間もなく茶の間の方に行った。
 茶の間には、もうあかあかと電燈がともって居り、客用のお膳がいくつも用意されていた。
 彼は、火鉢のそばに坐ってそれを見ているうちに、お膳の上のものをめちゃくちゃにひっくりかえしてみたいような衝動を感じた。
「ひとりでいるの? みんなどこに行ったんだろうね。」
 お延が忙しそうに立ち仂きながら、次郎に言った。
「どこに行ったんかね。」
 次郎は、気のない返事をして、相変らずお膳を見つめていた。
「喧嘩をしたんではない?」
「ううん。」
「誠吉もいないの。」
「僕、知らないよ。」
 お延は、心配そうに何度も次郎の顔をのぞいていたが、そのうちに、女中と二人で座敷にお膳を運びはじめた。次郎は、お膳が一つ一つ眼の前から消えて行くごとに、座敷の様子を想像して、ただいらいらしていた。
 ご馳走がおわって、客が帰ったのは九時すぎだった。
 ほかの子供たちはもう寝てしまっていたが、次郎だけは茶の間に頑張っていて、みんなに挨拶している女の人の顔を注意ぶかく観察した。それは幅の広い、ぼやけたような顔だった。ただ、笑うと右の頬に大きな笑くばが出来るのが、はっきり次郎の眼にうつった。
 次郎は、その顔からべつに不快な感じはうけなかった。しかし、記憶に残っている母の引きしまった顔とくらべて、何だか気のぬけた顔だと思った。
 俊亮は、座敷に残ったまま、二人を送って出なかった。そして、それから老夫婦と二十分ほど何か話したあと、帰り支度をはじめた。次郎は彼の顔にも注意を怠らなかったが、別にいつもと変った様子がなかった。
「次郎はまだ起きていたのか。」
 あっさりそう言って、上りがまちをおりた父の様子には、次郎だけが味わいうるいつもの親しさがあった。次郎は何か知ら安心したような気持になった。
 俊亮は土間で自転車にを入れながら、お祖母さんに向かって言った。
「急にっていうわけにも行きますまいが、いずれ母の考えもききました上で、手紙ででもご返事いたしますから。」
 次郎はそれでまた変な気になった。
 彼は床にはいってからも、ぼやけたような顔だと思った女の顔を、案外はっきり思いうかべた。そして何度もねがえりをうった。

四 寝言


 正月も終りに近いころだった。次郎が学校から帰って来ると、茶の間でお針をしていたお延が、いかにも意味ありげな微笑をもらしながら、言った。
「お帰り。……今日は次郎ちゃんに嬉しいことがあるのよ。」
 次郎は、土間に突っ立ったまま、きょとんとしてお延の顔を見ていたが、
「はやくお座敷に行ってごらん。お祖母さんが待っていらっしゃるから。」
 と、お延にせき立てられ、あわてたようにカバンを茶の間に放り出して、座敷の方に走って行った。
「お祖母さん、ただいま。」
 次郎は元気よく座敷の襖をあけた。が、その瞬間、彼は全く予期しなかった人の眼にぶっつかって、そのまま立ちすくんでしまった。――座敷には、こないだの女の人が、お祖母さんと火鉢を中にして坐っていたのである。
「お帰り。どうしたのだえ、そんなところに突っ立って。」
 お祖母さんがにこにこしながら言った。次郎があわててふすまをしめようとすると、
「おはいりよ。そして、お辞儀をするんですよ。」
 次郎は、敷居に坐って、お辞儀をした。
「まあ、おかしな子だね。いつもにも似合わない。ちゃんと中にはいって、お辞儀をするんだよ。」
 次郎は、しぶしぶ膝をにじらせて敷居の内側にはいった。そしてもう一度お辞儀をしたが、それをすますと、急いで立って行こうとした。
「ここにいてもいいんだよ。お客様ではないのだから。……もっと火鉢のそばにおより。」
 お祖母さんは、そう言って立ち上り、自分で次郎のうしろの襖をしめた。次郎は監禁かんきんでもされたかのように、窮屈きゅうくつそうに坐っていた。
「どうしたのだえ、次郎。お客様ではないと言ってるのに。……この方はね……」
 と、お祖母さんは、もとの座にかえりながら、
「この方は、これからうちの人になっていただくんだから、そんなに窮屈にしないでもいいのだよ。そばによってお菓子でもおねだり。」
 すると女の人がはじめて口をきいた。
「次郎ちゃん、こちらにいらっしゃい。お菓子あげますわ。」
 何だか張りのない声だった。彼女は、そう言いながら、お菓子鉢から丸芳露まるぼうろを一つ箸にはさんで次郎の方に差し出した。
 次郎は、しかし、手を出さなかった。
「おきらい?」
 次郎は、伏せていた眼をあげて、ちらと相手の顔を見た。相手は笑っていた。右頬の笑くぼがこないだ見た時よりも、一層大きく見える。ふっくらした頬の形は、どこかに春子を思わせるものがあった。しかし吸いつけられるような感じには、ちっともなれなかった。
「おいただきなさいよ。」
 お祖母さんがうながした。それでも次郎は手を出そうとしない。女の人は箸にはさんだ丸芳露を、ちょっともちあつかっている。
「まあ、ほんとにどうしたというんだね。いつもはお菓子に眼がないくせに。……くださるものは、すなおにいただくものですよ。」
 次郎は、お祖母さんにそう言われると、だしぬけに手をつき出して、丸芳露を受取ったが、いかにも厄介な預り物でもしたように、すぐそれを膝の上においた。
「はじめて、お目にかかるものですから、きまりが悪いのですよ。」
 と、お祖母さんは取りなすように言って、
「次郎、おたべよ、……お芳さんもひとついかが。次郎が一人ではきまりが悪そうだから、あたしたちもお相伴しょうばんいたしましょうよ。」
「ええ、いただきますわ。」
 二人は次郎の様子に注意しながら、丸芳露をたべだした。次郎は、しかし、食べようとしない。
 彼は「お芳さん」という女の名を何度も心の中でくりかえした。そして、さっきお祖母さんが、
「これからうちの人になっていただくんだから――」と言ったのを思いだして、変だなあと思った。
 誰もしばらく物を言わない。二人がむしゃむしゃ口を動かしている音だけが聞える。
 次郎は畳のうえに落していた眼をあげて、もう一度、そおっとお芳の顔をぬすみ見た。ほんの一瞬ではあったが、相手が都合よく彼の方を見ていなかったので、かなりこまかに観察することが出来た。下唇が少し突き出ている。顎の骨も、肉で円味を帯びてはいるが、並はずれて大きい。その唇と顎とが盛んに活動している様子は、次郎の眼にあまり上品には映らなかった。
「たべたくないのかえ。」
 お祖母さんがもどかしそうに言った。
「ううん」
「じゃあ、おたべよ。」
 次郎はやっと丸芳露を口にもって行った。しかし、たべだすと、またたくうちに平らげてしまった。
「もう一つあげましょうね。」
 お芳が、丸芳露を箸ではさみながら言った。次郎は返事をしなかったが、差し出されると、今度はすぐ受取って、ぱくぱく食べ出した。
 お祖母さんとお芳とがいっしょに笑い出した。
「さあ、もうきまり悪くなんかなくなったんだろう。もっとそばにおより。」
 お祖母さんが火鉢を押し出すようにして言った。
 次郎の気持は、しかし、まだちっとも落ちついてはいなかった。彼は、一刻も早く部屋を出て行きたいと思った。
「僕、宿題があるんだけれど――」
 彼はとうとうまた嘘を言った。が、この時は不思議に気がとがめなかった。
「そう?」
 と、お祖母さんはちょっと思案してから、
「じゃあ、宿題をすましたら、すぐまたおいでよ。お話があるんだから。」
 次郎は、お話があると言われたのが気がかりだったが、それでも、何かほっとした気持になって、座敷を出た。
 茶の間には、お延が微笑しながら彼を待っていた。
「次郎ちゃん、どうだったの、いいことがあったでしょう?」
 次郎はむっつりして、お延の顔を見た。そして、返事をしないで、放り出しておいたカバンを乱暴にひきずりながら、二階の方に行きかけた。
 お延の顔からは、すぐ微笑が消えた。
「どうしたの、次郎ちゃん。」
 彼女は縫物をやめ、次郎のまえに立ちふさがるようにして、その肩をつかまえた。
「まあ、ここにお坐りよ。」
 次郎はしぶしぶ坐った。しかし顔はそっぽを向いている。
「どうしたのよ、次郎ちゃん。何かいやなことがあったの。叱られた?」
 次郎はそれでも默っている。
「まあ、おかしな次郎ちゃん。この叔母さんにかくすことなんかありゃしないじゃないの。」
 すると、次郎は急にお延の顔をまともに見ながら、
「お芳さんって、どこの人?」
 お延は、ちょっとあきれたような顔をした。が、すぐわざとのように笑顔をつくって、
「まあ、お芳さんなんて、駄目よ、そんなふうに言っちゃあ。」
「どうして?」
「どうしてって、お祖母さんは何ともおっしゃらなかったの。」
「言ったよ。これからうちの人になるんだって。」
 お延はちょっと考えてから、
「そう? いいわね。うちの人になっていただいて。」
「うちってどこ?」
「うちはうちさ。」
「ここのうち?」
「そうよ。」
「どうしてうちの人になるの。」
「さあ、どうしてだか、次郎ちゃんにわからない?」
 お延は探るように次郎の眼を見た。
「うちの何になるの?」
「あたしのお姉さん。……あたしより年はおわかいのだけれど、お姉さんになっていただくの。」
 お延の姉――亡くなった母――と、次郎の頭は敏捷びんしょうに仂いた。もう何もかもはっきりした。彼は、しかし亡くなった母の代りに、いま座敷にいる「お芳さん」を「母さん」と呼ぶ気にはむろんなれなかった。
「じゃあ、僕、あの人を何て言えばいいの、やっぱり叔母さん?」
「そうね――」
 と、お延はちょっと考えていたが、すぐ思い切ったように、
「叔母さんでもいけないわ。――ほんとはね、次郎ちゃん、あの方は次郎ちゃんのお母さんになっていただく方なの。あとでお祖母さんから次郎ちゃんに、よくお話があるだろうと思うけれど。……」
 お延はそう言って次郎の顔をうかがった。
 次郎は、しかし、もうちっとも驚いてはいなかった。また、そう言われたために、まえよりも不機嫌になったようにも見えなかった。彼はただ考えぶかそうな眼をして、じっとお延の顔を見つめていた。
「ね、それでわかったでしょう?――」
 と、お延は、いくらか安心したような、それでいて一層不安なような顔をしながら、
「だから、叔母さんなんて言ったら、可笑しいわ。今のうちは叔母さんでも構わないようなものだけれど、今度いよいよお母さんになっていただいた時に、すぐこまるでしょう。だから、はじめっから、お母さんって言う方がいいわ。」
 次郎は、あらためて「お芳さん」の顔を思いうかべてみた。しかし、その顔が母らしい顔だとはどうしても思えなかった。
「恥かしがったりして、はじめにぐずぐずすると、あとでよけい言いにくくなるのよ。きょうから思いきってお母さんって言ったら、どう?」
「だって――」
 と、次郎は、火鉢にさしてあった焼鏝やきごてを灰の中でぐるぐるまわしながら、
「だって、母さんのようじゃ、ちっともないんだもの。」
「そりゃあ、はじめてお目にかかったばかりなんだから、そうだろうともさ。だけど、きっと次郎ちゃんを可愛がってくださるわ。次郎ちゃんのために来ていただいたんだもの。」
「僕、もう、お母さんなんか、なくてもいいんだがなあ。」
 次郎は歎息するように言った。お延はしばらくじっと次郎の顔を見ていたが、
「でも、もう間もなくよ、次郎ちゃんが町に帰るのは。……町にかえったら、ひとりで淋しかあない?」
「町にはお父さんがいるからいいや、それに恭ちゃんや、俊ちゃんだって、このごろ仲よく遊んでくれるんだもの。」
 彼は、その時、万年筆のことを思い出していたのである。
「だけど、女の人はお祖母さんだけなんでしょう。お祖母さんだけだと――」
 お延は言いかけて、口をつぐんだ。そしてしばらく考えたあと、急にお針の道具を片方に押しやって、次郎のひびだらけの手をにぎりながら、
「ねえ、次郎ちゃん、お父さんはね、次郎ちゃんが可愛いばっかりに、お母さんをお迎えになるのよ。だから、もし次郎ちゃんが、どうしてもお母さんがいらないってお言いなら、お父さんは無理をしてもお止しになると思うわ。だけど、どう? ほんとうにいらない? 町に帰っても大丈夫? 女の人、お祖母さんだけでもいいの?」
 次郎はだまりこんだ。それは、しかし、町での生活が心配だからではなかった。正木の老夫婦と、父とが、自分のために考えてくれたことを、ぶちこわしてしまうのが、何となく大へんなことのように思えて来たからである。
「そりゃあ、次郎ちゃんがどんな気持だか、この叔母さんにもよくわかるわ――」
 と、お延は、あたりをはばかるように声をおとして、
「誠吉のように、この家で生れてさえ、まだあんなだからね。何といったって他人だもの、そりゃあほんとうの親子のような気持にはなれないだろうともさ。だけど、あの方は、本田のお祖母さんよりか、きっと次郎ちゃんを可愛がって下さるわ。」
 次郎は、お延がいくぶんかでも自分の気持に同情してくれているのが、妙に嬉しかった。
「それに――」
 と、お延は、次郎の手をなでながら、
「もし次郎ちゃんが、嘘でもいいから、今日から思いきってお母さんと呼んであげたら、どんなにお喜びでしょう。あの方はね、そりゃお気の毒な方よ、ちょうど次郎ちゃんと俊ちゃんぐらいな男のお子さんがお二人あったんだけれど、お二人とも、お亡くなりになってしまったんだってさ。だから、誰かにお母さんて呼ばれてみたいのよ。」
 次郎は、はっとしたように、伏せていた眼をあげて、お延を見た。
「だのに、次郎ちゃんが寄りつきもしないようだと、どんなにあの方、がっかりなさるでしょう。……それにね、次郎ちゃん、あの方はもう正木の人になっておしまいになったんだよ。お祖父さんと、お祖母さんとでね、亡くなったお母さんの代りをしていただく方なんだから、そうしてもらった方がいいっておっしゃってね。わからない? わかるでしょう。」
 次郎はうなずいた。
「だから、もしかして、あの方が次郎ちゃんとこに行けなくなったら、そりゃ大変なことになるのよ。だいいち、あの方どこにどうしていていいか、わからなくなっておしまいになるわ。せっかく、次郎ちゃんのために来てくださろうとおっしゃっているのに、お気の毒じゃないの? お祖父さんや、お祖母さんだって、もしかそんなことにでもなったら、どんなにおこまりでしょう。」
 次郎は、もう、世間というものがまるでわからない子供ではなかった。むしろ、そうしたことでは、兄弟や従兄弟たちの誰よりも、ませているともいえるのだった。それに、彼の持ちまえの侠気きょうきというか、功名心というか、そうしたものが、彼自身でも気づかない間に、そろそろと頭をもたげていた。
「僕、じゃあ、母さんって言うよ。」
 彼はいかにも無雑作むぞうさに答えた。しかし、答えてしまって妙な味気あじけなさを覚えた。それはちょうど精いっぱい力を入れて角力をとっている最中、何かのはずみで、がくりと膝をついたような気持だった。
 お延には、次郎の返事があまりにだしぬけだった。彼女は、もっと何か言うつもりでいたらしかったが、一瞬、あっけにとられたように眼を見はった。それから膝をのり出し、次郎の顔を下からのぞくようにして、
「そう? ほんとう?」
 と、念を押した。
 次郎は念を押されると、何だかあともどりしたくなって来た。そのくせ、首を強くたてに動かした。そして、お延がまだ疑わしそうな眼をして、自分の顔をのぞいているのを見ると、
「ほんとうさ。」
 と、おこったように言って、ぷいと座を立った。
「じゃあ、お祝いに、叔母さんがこれから御馳走をこさえるわ。」
 お延は、追っかけるようにそう言って、お針の道具をしまいはじめた。
 次郎は、ふり向きもしないで土間におり、門口を出たが、足はひとりでに墓地に向かっていた。
 墓地をかこむ女竹めだけ林は、暮近い風に吹かれて、さむざむと鳴っていた。次郎は、母の墓がきょうは妙に寄りつきにくいような気がして、しばらくは、五六間もはなれたところから、じっとそれを見つめていた。
 そのうち、彼はふと、去年の夏休みに、恭一と俊三とが久方ぶりに母の見舞に来ていたのを、本田のお祖母さんが、いろいろと口実こうじつを設けてつれ帰った時のことを思い起こした。
 彼は、恭一たちが帰ったあと、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが真珠のようにこぼれ落ちたのを、今でもはっきり覚えている。ことに、うるんだ眼で微笑しながら、「次郎だけはいつもあたしのそばにいてもらえるわね」と言った、あの悲しい言葉は、忘れようとしても忘れられない言葉だった。
(次郎だけは――次郎だけは――)
 と、彼は何度も心の中で母の言葉をくりかえした。そして、ひきつけられるように墓に近づいて行った。
 墓はまだ土饅頭どまんじゅうのままだったが、ところどころに、しめった落葉がぴったりとくっついていた。彼は手で一枚一枚それをはがして行くうちに、急に悲しさがこみあげて来た。
 彼はしゃがんでを合わせ、ひたいをその上にのせて眼をつぶった。そして、このごろ忘れがちになっていた母の顔を、一心に思い浮かべようとした。
 しかし、彼の眼にすぐ浮かんで来たものは、母の顔ではなくて、「お芳さん」の顔だった。えくぼがはっきり見える。彼はそれを払いのけるように頭をふった。そして、小声で、
「母さん――母さん――」
 と呼んでみた。しかし母の顔はどうしてもはっきり浮かんで来ない。浮かんで来たと思った母の顔は、いつも「お芳さん」の幅の広い顔にかくれてぼやけていた。
 彼は、もう、悲しいというよりは、何か恐ろしいような気になって来た。そして、手の甲でやけに眼をこすりながら立ち上ったが、一瞬、土饅頭に視線を落したあと、逃げるように墓地の入口に向かって走り出した。

     *

 夕飯には、お芳も台所に来て、みんなといっしょにちゃぶ台についた。ご馳走は大したこともなかったが、赤飯がいてあり、のものがついていた。次郎はお芳とならんで坐らされたが、始終むっつりしていた。
 お芳の方は、はた目には物足りないほど平気な顔をしていた。強いて次郎にちやほやするのでもなく、さればといって、次郎のむっつりしているのを不快に思うようなふうもなかった。彼女は、ただ、自分の食べるものだけを食べてさえいればいい、といったふうに、はた目には見えた。
 お祖母さんとお延とが、おりおり、気をきかして、
「次郎のお母さん、これいかが。」
 と、丼のものなどを二人の前に押しやったりした。お芳は、それでも、
「はい、ありがとう。」
 と言ったきり、次郎の皿にそれをわけてやろうとするぶりも見せなかった。
 次郎には、丼のものはどうでもよかった。彼は、しかし、「次郎のお母さん」という言葉をきくごとに、従兄弟たちの視線を顔いっぱいに感じて、気が重くなり、物を噛むのでさえおっくうになった。
 夕食後、「次郎のお母さんのお土産」だといって、みんなに煎餅せんべいがふるまわれた。大人たちも子供たちも茶の間に集まって、それを食べた。
 お祖父さんは朝から留守だったが、ちょうどその最中に帰って来た。そして、
「ほう、にぎやかだのう。」
 と、みんなのなかに、次郎とお芳の顔をさがしながら、座敷の方に行った。お祖母さんとお芳とがすぐそのあとについた。
 しばらくすると、お芳がまた茶の間の入口に来て、例のえくぼを見せながら、
「次郎ちゃん、ちょいと。」
 と手招てまねきした。
 次郎は相変らずむっつりしていたが、呼ばれるままに立っていった。するとお芳は、襖のかげの小暗いところで、包紙にくるんだ平たい箱を次郎に渡しながら言った。
「これはね、次郎ちゃんへのお土産。きょうお祖父さんが町にいらしったので、お頼みして買って来ていただいたの。」
 次郎は、顔を真赧まっかにして、茶の間に帰った。お芳もそのあとからついて来た。みんなの視線がいっせいに次郎のさげているお土産の包にそそがれた。次郎は、もとの場所に坐るには坐ったが、その包の置き場に困って、膝にのせたり、尻のあたりに置いたりしていた。
「次郎ちゃん、あけて見せろよ。」
 源次が言った。次郎はすぐそれを源次の前につき出した。
 源次はさっさと包の紐を解いた。中は文房具の組合わせだった。赤、黄、青、金、緑などの色がまばゆくみんなの顔をた。
「いいなあ。」
 誠吉が、心から羨ましそうに、まず言った。それから、下男やおんなたちまでがいっしょになって、「くずすのは惜しい」とか「そのまま飾物にしてもいい」とか、「これだけあったら何年もつかえるだろう」とか、口々にほめそやした。
 次郎も嬉しくないことはなかった。しかし、はしゃぐ気にはなれなかった。彼は、お延と何度も視線をぶっつけあっては、顔を伏せた。そして、お芳がほとんど自分の方に注意を向けていないのを、不思議にも思い、気安くも感じた。
 間もなく、座敷からお祖父さんとお祖母さんとが出て来た。お祖父さんはにこにこしながら、言った。
「次郎にはちと上等すぎたようじゃのう。」
 すると源次が、
「僕のにちょうどいいや。」
 それで、みんながどっと笑い出した。次郎も思わず笑った。
「次郎、誰も知らないところにしまっておかないと、みんなにとられてしまうよ。」
 お祖母さんが言った。それでまたみんなが笑った。次郎の気持は、いつとはなしに少しずつほぐれて行くようだった。
 寝る時刻になった。
 次郎の寝床は、従兄弟たちとはべつに、座敷の次の間に、お芳のとならべて敷かれてあった。次郎はそれを知った時には、きまりが悪いような、淋しいような、変な気がしたが、何も言わずに、お芳よりさきに、ひとりで床についた。
 しばらくは眼がさえて寝つかれなかった。それでも、お芳がいつ寝たのかは、ちっとも知らないで眠っていた。
 翌朝は、いつもより一時間あまりも早く眼をさました。お芳は、もう起きあがって帯をしめているところだったが、次郎が眼をさましたのを知ると、例の大きなえくぼを見せながら言った。
「次郎ちゃんは、ゆうべ夢を見たんでしょう。」
「ううん。」
「でも、何度も寝言を言っていたのよ。」
 次郎は何だか気がかりだった。しかし、どんな寝言だったかを問いかえしてみるだけの楽な気持には、まだなっていなかった。するとお芳が、またえくぼを見せながら、
「どんな寝言だったと思うの。」
「わかんないなあ。」
「教えてあげましょうか。」
「ええ。」
「それはね――」
 とお芳は少し間をおいて、
「母さん、母さんって。――」
 次郎は、はっとしてお芳を見た。お芳のえくぼは、まだ消えていなかった。しかし、次郎の眼には、そのえくぼが妙にゆがんでいるように見えた。
 次郎は、いそいでふとんを頭からかぶってしまった。するとお芳が枕元によって来て、
「次郎ちゃんは、きっと亡くなったお母さんを呼んでいたのね。でも、あたしもうれしかったわ。」
 次郎はふとんの中で、思わず身をちぢめた。そして、心のうちで、
「うそつけ!」
 と叫んでみた。しかしそれはまるで力のない叫びだった。彼は生まれてこのかた感じたことのない妙な感じに包まれていた。それは嬉しいような、それでいて腹が立つような感じだった。
(どうして母さんと呼ばなければならないのだろう。もし叔母さんと呼んでもいいのなら、どんなにでも気安く話が出来るのに。)
 彼はそんな気がしていた。そして、いつまでもふとんから顔を出そうとしなかった。

五 外科手術


「実は、ぶちまけたところ、そんなような事情なんです。……むろん、正木の方から、一応申上げたはすだと存じますが、私からじかに申上げてみたら、また、いくぶんお感じの上でちがう点もあろうかと存じまして……」
 と、俊亮は、まるっこい膝を、手のひらでこすりこすり言った。
「なるほど、それでわざわざお出でくだすったとおっしゃるのか。じゃが、正木さんから伺ったところと、ちょっともちがってはいませんな。」
 大巻運平老は、とぼけたようにそう答えて、顎鬚あごひげをぐいとひっばった。その大きな眼玉は、天井を見ている。あまり愉快そうな表情ではない。――運平老は、お芳の父で、次郎が天狗の面に似ていると思っている人なのである。剣道に自信があり、裏の土蔵を道場代りにして、村の青年たちに、おりおり稽古をつけてやっている。鉄庵と号して画も描く。四君子のほかに、鹿の密画が得意である。
 俊亮は、運平老の気持をはかりかねて、用心ぶかくその顔色をうかがった。すると運平老は、急に脊骨せぼねを真直にし、天井に注いでいた視線を、射るように俊亮の顔に転じて、かみつくように言った。
「あんたは、つまるところ、今度の話を取消しにおいでになったわけじゃな。」
「いや、決してそんなわけでは……」
「なるほど、あんたの口から取消そうとはおっしゃらん。じゃが、その代りに、わしに取消させようというのが、あんたの本心じゃろう。」
「とんでもない。そんなふうにとられましては……」
「すると、やっぱりお芳は約束どおりもらってくださるのかな。」
「そりゃあ、もう、こちら様さえ、ただ今申上げたような事情を、十分ご承知くだすったうえのことであれば……」
「その事なら、はじめから承知していますがな。」
「そうですと、きょうわざわざお邪魔じゃまにあがる必要もなかったんです。ただ、私としましては、どの程度に正木からお話申上げてありますか、実はその点が非常に気がかりだったものですから……」
「あんたも、よっほど神経質じゃな、はっはっはっ。じゃが、わしもそれで安心しましたわい。」
 と、運平老は、がらりとくだけた態度になり、
「いや、恥を言えば、おたがいさまでしてな。何しろ、お芳という女は、ご覧のとおりののろまで、女学校にもとうとうあがれなかったし、かたづいた先からは、子供が亡くなったのを幸いに追い出されるし、実は、もう、わしの方で、一生かい殺しの腹をきめて居りましたのじゃ。ところが、正木さんでは、そののろまなところが、かえって気に入ったとおっしゃるのでな。」
「恐縮です。」
「それで、あんたにも、そののろまなところを買っていただきたい、と思っていますのじゃ。のろまなだけに辛抱はいくらでもしますぞ。あんたが無理やり引きずり出すようなことさえなさらなきゃあ、めったなことで、自分からおんでるような、気のきいた女ではありませんのでな。そこは、あんたとちがって、豚のように無神経ですよ。」
「これはどうも……」
「いや、ほんとうじゃ。豚ではちとかわいそうなら、まあ山出しの女中と思っていただけば、まちがいありますまい。」
「何をおっしゃいます。」
「いや、山出しの女中と言えば、あいつにも一つだけ取柄がありますのじゃ。それは漬物がなかなか上手でしてな。あいつの漬けた糠味噌ぬかみそじゃと、お母さんにもきっとお気に召しますわい。」
 運平老はすこぶる真面目である。俊亮は、むずゆそうに頬をゆがめた。
「ところで――」
 と、運平老は、急に思い出したように、うしろの茶棚にのせてあった一枚の葉書をとって、それを俊亮の方にさし出しながら、
「きのう、次郎君がわしにこんな葉書をくれましてな。字はあまり上手でもないようじゃが、書くことが気がきいとりますわい。これには大巻運平も一本参りましてな。」
「へえ――」
 俊亮は、葉書を受取って、すぐそれに眼を走らせた。ペン書きである。恭一にもらった万年筆をつかったものらしい。慣れないせいか、字は、なるほど鉛筆書きの時ほどうまく書けていない。文句にはまずこうあった。
「お祖父さん。こないだは大へんお世話になりました。僕は、剣道を教えてくださるお祖父さんが出来て、うれしくてなりません。このつぎの日曜日も、きっと参りますから、また教えて下さい。」
 俊亮は、そこまで読むと、葉書から眼をはなして、
「へえ――。もうこちらにお邪魔にあがったんですか。」
「この前の土曜に、お芳がつれて来ましてな。一晩泊って行きましたのじゃ。」
「それに、さっそく剣道の稽古までしていただいたんですね。」
「大いにやりましたよ。……じゃが、まあ、葉書を終りまで読んで貰いましょうか。」
 俊亮は読みつづけた。
「しかし、お祖父さん、こんど教わる時には、もう「かあっ、かあっ」とかけ声を出すのはよしたいと思います。お祖父さんが出せとおっしゃっても出しません。それは、昨日から、そんなかけ声を出さなくってもいいようになったからです。こんどの日曜には、もっとほかのかけ声を教えてください。さよなら。」
 俊亮はわけがわからなくて、何度も読みかえした。運平老は、ひとりでにこにこしながら、
「な、どうです。なかなか要領を得とりましょうが。」
「はあ――」
「もうそんなかけ声を出さなくてもよいようになった、という文句には、まさに千きんの重みがありますわい。」
「はあ。――しかし、私には、何のことだか、ちっともわかりませんが――」
「いや、なあるほど。こりゃ、あんたには、ちとわかりかねますかな、はっはっはっ。」
 と、運平老は膝をゆすった。それから、急に真面目な顔をして、
「実を言いますと、わしはお芳を正木さんにお預けしたあと、次郎君との仲がどうだろうかと、そればかりが気になっていましてな。で、お芳に手紙を出して、わしも助太刀をしてやるから一度次郎君をこちらにつれて来い、と申し附けましたのじゃ。ところが、来てみると、二人の仲は案じたほどわるくない。こりゃあお芳にしては上出来じゃ、と思いましたわい。」
「そのことは、私の方にも正木かららしてもらっていましたので、内心喜んでいたところです。」
「もっとも、これはお芳ひとりではどうにもならんことじゃで、次郎君の心がけがよいからでもありますのじゃ。」
「いや、あいつ、まったく一筋縄ひとすじなわでは手におえん子供でして――」
「そう言えば、なるほどそういうところもありますな。じゃが、お芳との仲は、案外うまくいっとりますぞ。そこは、わしがちゃんとにらんでおきましたのじゃ。お芳ののろまも、こうなると、まんざら捨てたものではありませんな。はっはっはっ。」
 俊亮は挨拶に困っている。
「ところで、わしがひとつ気になりましたのは、次郎君の口から、まだどうしても、母さんという言葉が出ないことでしたのじゃ。あんたは、それはまだ早過ぎる、とおっしゃるかも知れん。じゃが、こんなことは、はじめが大事でしてな。はじめに言いそびれると、あとでは、いよいよむずかしくなりますのじゃ。」
「ごもっともです。」
「それも、いっそ、そんなことが気にならなければ、何でもないようなものじゃが、なかなかそうは行きませんのでな。母さんと呼べないばかりに、さきざきちょっとした用事を言うにも、奥歯に物がはさまったような言葉づかいをしなけりゃならん。一生そんな気まずい思いをしちゃあ、ばかばかしい話ですよ。」
「ごもっとも。」
「そりゃあ、母でもないものを母と呼ばせようとするのが、そもそもの無理じゃで、そんな無理をしないですめば、それにこしたことはない。じゃが、必要があって無理をするからには、思いきりよくやる方がよいと思いますのじゃ。無理というやつは、外科手術のようなもので、用心しすぎると、かえってしくじりますのでな。」
「ごもっとも。」
 俊亮は、ただ「ごもっとも」をくりかえしている。そのうちに、運平老は、次郎の葉書のことなど忘れてしまったかのように、家じゅうにひびきわたるような声で、ひとくさり「なさぬ仲論」を弁じ立てた。
 それによると、なさぬ仲はあくまでもなさぬ仲で、自然の親子ではない。自然の親子でないものに、自然の親子と同じような気持になれと求めるのは、そもそも間違いである。そんな間違った要求をするから、何でもないことまでが、ややこしくなって、かえって二人の仲が他人より浅ましいものになる。それは、ごまかそうとしてもごまかせないものを、強いてごまかそうとして、人間が不純になるからである。何よりもいけないのは、この不純だ。人間が不純でさえなければ、なさぬ仲はなさぬ仲のままで楽しくなれないわけはない、というのである。
 俊亮もこれにはまったく同感だった。しかし、それでは強いて「母さん」と呼ばせなくてもいいことになりはしないか、という気もして、運平老のそれに対する意見を、内心興味をもって待っていた。
 運平老は、しかし、その点になると、論理の筋道を立てる代りに、相変らす外科手術の比喩を用いた。つまり、なさぬ仲は、人間と人間とを外科手術で縫いつけるようなものだから、縫いつけるに必要な手数だけはびくびくしないで、やっておかなけれはならぬ。子供に「母さん」と呼ばせるのも、その手数の一つで、それは世間ていや何かのためではない。それが手おくれになると、きずがうまく癒着ゆちゃくしない、というのである。
「世間体など、どうでもよいことですよ。外科手術の疵は、どうせかくれませんからな。ただ、わしは、その疵がどんなに大きい疵でも、よく癒着していさえすりゃよい、とそう思いますのじゃ。」
 運平老は、そう言って正月以降考えぬいていたらしい「なさぬ仲論」をやっと終った。
 俊亮は、次郎にとってこれはいいお祖父さんが出来たものだ、と思い、次郎の葉書に、意味はわからないが、何となく愉快な調子が出ているのも、なるほど、という気がした。そうして、もう一度葉書に眼をとおした。
「そこで、次郎君のその葉書じゃが――」
 と、運平老も、やっと葉書のことを思い出したらしく、
「わしは、次郎君に、母さんと呼ぶのを、剣道で仕込んでみたいと思いつきましてな。」
「へえ? 剣道で?」
「そうです、剣道で。……こいつは、自分ながら妙案じゃと思いましたわい。」
 運平老は、そう言って、ひとりで愉快そうに笑った。俊亮は、まるで狐にでもつままれたような顔をしている。
「次郎君なかなか元気者でしてな、竹刀しないを握らせると、もう夢中になって打込んでまいりましたわい。ところで、これははじめのうち誰でもそうじゃが、うまく懸声かけごえが出ない。出ても気合がかからない。そこをうまく利用しましてな、口を大きくあけてかあっかあっと怒鳴ると気合がかかる、と言ってやりましたのじゃ。」
「へえ――?」
「すると、次郎君、言われたとおりに、かあっかあっと叫んで打込んで来る。そのかあっという声がうまく出るたびに、わしが、わざとわしの面を打たせてやりますと、次郎君いよいよ調子づきましてな。」
「へえ――」
「次郎君は案外素直な子供ですぞ。」
 俊亮は、眼をぱちくりさせた。
「素直じゃから、かあっと気合をかけさえすれば、面がとれると思いこんで、一所懸命に打込んでまいりますのじゃ。」
「なるほど。」
「それで、うんと汗をかきましてな、それからいっしょに風呂に入りましたのじゃ。すると、次郎君、風呂小屋の中でも、ときどき思い出しては両手をふりあげて打込みの真似をする。相変らずかあっかあっと気合をかけましてな。」
「へえ――」
「そこをすかさず、わしが、小声でさんとあとをつけましたのじゃ、そのたんびに。」
「なるほど。」
 俊亮は、しかし、まだちっとも、なるほどだという顔をしていない。
「次郎君も、最初のうちはそれに気がつかないでいたようじゃが、何度もやっているうちに、けげんそうな眼をしてわしの顔を見ましてな。それから、しばらく突っ立って何か考えるようなふうでいましたが、急に、ああそうか、と言って恥ずかしそうに横を向きましたわい。」
「いや、なるほど。」と、俊亮は笑いながら、
「それで、風呂を出たあと、うまく母さんと言いましたか。」
「いいや、なかなか言いません。そりゃあ、そう急に言うわけがありませんわい。わしも、そんなに急に言わせるつもりもありませんでしてな。わしは、しかし、次郎君は剣道が好きじゃと見込みまして、それに望みをかけましたのじゃ。」
「はあ――」
「剣道が好きじゃとすると、またここに来て稽古がしてみたくなる。稽古がしてみたくなると、きっとかあっという懸声のことを思い出す。ついでに風呂小屋でのさんを思い出す。さあ、そうなると、剣道をよすか、思いきって母さんと言うか、二つに一つじゃが、そこは次郎君が自分で考えることになりますわい。それも、次郎君が、母さんと呼ぶのを心から嫌っておれば話になりませんがな。」
「なるほど。」
 俊亮は、今度はいくぶん、なるほどという顔をした。
「ところで、どうです。この葉書は? わしもこんなに早く計画が図に当るとは思いませんでしたわい。はつはっはっ。」
 運平老はいかにも愉快そうに、からだをそらして笑った。
 俊亮は、しかし、笑わなかった。彼は、むしろ涙ぐんでいるようにさえ見えた。そして握っていた次郎の葉書に、じっと眼をおとしながら、いかにも感慨深そうに言った。
「次郎も、すると、まだ子供らしいところがいくらかはありますかね。」
「そりゃ、ありますとも。次郎君はやっぱり子供ですぞ。はっはっはっ。」
 運平老はもう一度大きく笑った。
 俊亮も微笑した。しかし彼は、鼻の奥に甘酸っぱいものを感じて、眼を伏せたままだった。
 運平老は、それから、襖の向こうにいた夫人を呼んで、湯豆腐と酒とを用意させた。まだ夕食には早い時刻だったし、俊亮はそれを辞退して帰ろうとしたが、運平老が、息子の徹太郎ももう帰るころだから、ぜひ会っておいてくれと言うので、腰をおちつけることにした。
 大巻夫人は、でっぷりと肥ったお婆さんだった。俊亮も、口をきくのは今日がはじめてだったが、無口なわりに人が好さそうで、いかにもお芳の母らしいにぶさがあった。運平老がとう然となって、
「お芳も、これでいよいよ落ちつくところがきまって、安心じゃな、婆さん。」と言うと、
「どうか末永くお頼みいたします、徹太郎の嫁をもらうにも、あれが居りましては、何かと工合が悪うございましてな。」
 と、正直なところを言って、俊亮の前に丁寧に頭をさげた。その様子が、俊亮をほろりとさせた。
 徹太郎が帰って来たのは、もう暗くなるころだった。彼は師範出の秀才で、附属の訓導をつとめて居り、一里ほどのところを自宅から通っている。今年ちょうど三十歳で、眼鼻立のいかついところが、運平老そっくりである。背も高い。俊亮との初対面の挨拶も、きびきびしていて気持がよかった。
「次郎君のことは、父からいろいろ聞いています。こないだは、あいにく学校の用件で出張していたものですから、お会い出来なくて残念でした。これから僕も出来るだけお相手をしてみたいと思っています。中学校の入学試験も、もう間もなくですが、それがすみましたら、ひとつ山登りにでもおつれしましょうかね。」
 彼は俊亮に酒をすすめながら、しきりに次郎のことを話題にした。
 俊亮もつい気持よく盃を重ねて、九時近くに大巻の家をした。彼は自転車で寒い風を切りながら、きょうの訪問が決して無駄ではなかったと思い、重荷をひとつおろしたような気がした。が、また、一方では、何ひとついい条件なしにお芳を迎えなければならない家庭の事情を思って、いよいよ気が重くなるのであった。

六 卑怯者


 三月にはいると、まもなく中学校の入学試験だった。次郎たちの学校からは、昨年不合格だった源次たちの仲間を加えて、都合十五名が願書を提出した。
 毎年の例で、みんなは一名の先生につきそわれて、試験のはじまる二日まえから、西福寺という町のお寺に合宿することになった。二日もまえから合宿をはじめるのは、町の地理や、中学校の建物の様子などに、まえもって、いくらかでも慣れさしておくことが、みんなの試験度胸をつくるのに必要だと思われたからである。しかし、みんなとしては、そんなことよりも、一日も早く賑やかな町に行き、そこでいっしょに寝泊り出来るということが、ただわけもなく楽しかった。――一般にこの辺の児童は、入学試験に対しては割合にのんきで、競争意識で神経をいら立たせる、といったようなことはあまりなかったのである。
 附添いの先生は、次郎や竜一たちを四年から受持ってくれていた権田原先生だった。
 この先生は、児童たちが何かいたずらでもやっているのを見つけると、その大きな眼をむいて拳固げんこをふりかざしておきながら、すぐその手でやさしく児童たちの頭をなで、「これから気をつけるんだぞ。」と言って、それっきり、けろりとなるといったふうな飄然ひょうぜんとしたなかに、いかにも温情のあふれている先生で、年歳としはもう四十を越していたが、師範を出ていないせいか、学校での席次は、まだ四席かそこいらのところだった。毛むくじゃらな、まんまるい顔を、羊羹色ようかんいろの制服の上にとぼけたようにのっけて、天井を見ながらのっそりと教壇に上って来るくせがあったが、その様子が、不思議に児童たちの気持を真面目にもし、またなごやかにもするのだった。
 この先生が附添いときまってからは、合宿はみんなにとっていよいよ輝かしいものに思われ、彼らはよるとさわるとその話をして、町に行く日を首をながくして待っていた。
 ただひとり楽しめなかったのは次郎だった。彼は、むろん、合宿に加わりたいのが精いっぱいで、町に自分の家があるのがうらめしい気にさえなり、
(先生の方で、みんなを合宿させることにきめてくれるといいが――)
 と、心のうちで祈ったりしていた。しかし、権田原先生は、自分が附添いときまった日に、みんなを集めて合宿に必要な諸注意や、費用のことなどを話したあと、次郎の頭をなでながら言った。
「本田は合宿の面倒がなくていいね。だが、試験の時間におくれんように気をつけるんだぞ。いずれ先生が君のうちに寄って、よく打合わせておくが。」
 次郎はがっかりした。それでも、彼は、正木のお祖父さんが、「源次は本田にお世話になるより、合宿の方で先生に面倒を見ていただく方が安心じゃ」と言ったのを知っていたので、自分から願いさえすれば、源次と同じにしてもらえそうな気もして、それを言い出す機会をねらっていた。しかしそんな機会はとうとう見つからなかった。お祖父さんも、お祖母さんも、試験の話にさえなると、「このごろは恭一が、次郎をきっと試験にうかるようにしてやると、張り切って待っているそうだ。」といったような話をして、次郎を励ますことばかりに熱心になるのだった。
 次郎は、合宿が駄目なら、源次か竜一のうち、せめて一人だけでも町の自分の家に泊ってくれればいいと思って、そっと二人にそれをすすめてみだ。源次は、しかし、即座に「いやだ」と答えた。そして、
「お祖父さんだって、僕は先生のそばにいる方がいいって言ってるじゃないか。」
 と、いかにもお祖父さんが自分の肩をもって、そんなことを言いでもしたかのような口振りだった。
 竜一の方は、次郎の家に泊るのが、まんざらいやでもなさそうだったが、その場でははっきりした返事もせず、翌日になって、
「うちでいけないって言うよ。」
 と、気の毒そうにことわった。
 次郎は、そうなると、いよいよみんなにのけ者にでもされたような気になり、幼いころから本田の家で味わって来た不快な感情が、どこからともなく甦って来て、誰かが合宿の話でもし出すと、つい荒っぽいことを言ったり、皮肉な態度に出たりしたくなるのだった。――過去の深刻な運命というものは、それに似た新しい小さな運命をあざけるとばかりは限らない。それは、ちょうど骨のずいをいためた古疵と同じように、ちょっとした寒さにもうずき出すことがあるものなのである。
 町に出て行くのは、次郎もみんなといっしょだった。その日、みんなは、いつもの朝礼の時間に学校にあつまり、全校児童のまえで、校長先生からの激励の辞をうけ、万歳の声におくられて、権田原先生を先頭に、寒い春風のなかを粛々しゅくしゅくとして校庭を出た。
 校門を出て五六分も行くと、天満宮の前だった。
 権田原先生は、そこでみんなにひとりびとり拝殿の鈴を鳴らさした。それから、また列を作って歩き出したが、しばらくたつと、みんなはもうわいわいはしゃぎ出し、列もいつの間にか乱れて、道いっぱいにひろがり、先頭も後尾もないようになった。先生は、それでも何とも言わないで、例のとおり、ふとった頸の肉を詰襟のうえにたるまして、のそのそと歩いていた。が、だしぬけに立ちどまって、うしろをふり向いたかと思うと、
「こらあっ!」
 と、破鐘われがねのような声でどなりつけ、にぎり拳を高くふりあげた。
 みんなは、一瞬ぴたりと足をとめて、先生を見た。しかし、誰も心から恐怖を感じているようには見えなかった。先生のにぎり拳はいかにも豪壮だったが、その眼は微笑をふくんで、みんなの頭ごしにずっと遠くの方を見ているように思えたのである。
 先生は言った。
「勝手に列をくずしたり、おしゃべりをしたりするのは卑怯ひきょうだぞ。先生の眼はうしろにはついとらんからな。」
 そして、そう言ってしまうと、すぐまたくるりと向きをかえて、のそのそと歩き出した。みんなは、自分たちで、校庭を出た時のようにきちんと列を正し、しずかにそのあとについた。が、それで一丁ほども歩いたかと思うと、先生は、今度は、前を向いたまま、弁当をぶらさげていた左手を高くふりあげて言った。
「うむ、それでいい、もうそれでおしゃべりをはじめても構わん。ついでに列をくずすことも許してやろう。別れっ。みんな先生より先に行くんだ。いつまでも先生のあとにばかりついているような人間は偉くなれん。試験も落第だ。」
 みんなは、いっせいにわっとわめいて、先生を半丁ほども追いぬいた。中には一丁以上も追いぬいたものがあった。次郎もみんなといっしょに先に出るには出たが、しかし、みんなのなかでは、彼が一番あとで、先生との距離は五間とははなれていなかった。彼は、みんなといっしょになってはしゃぐ気がしなかったのである。
 おおかた十四五分間も、彼は誰とも口をきかないで歩いた。まだ芽をふかない道ばたのはぜの木から一羽の大きなからすが、溜池の向こうの麦畑に舞いおりて、首をかしげながらこちらを見ているのが、妙に彼の心をひいた。彼は、その鴉を見た眼で、ひょいとうしろをふりかえって見た。すると、権田原先生もその鴉を見ていた。しかし、次の瞬間には、二人の眼がぶっつかった。先生の眼は無表情なような、それでいて次郎の心を捉えずにはおかない、深い眼だった。
 次郎は、何かきまりわるいような気がして、いそいで正面を見た。すると先生が言った。
「本田、お前は先生といっしょに歩け。」
 二人はすぐ並んで歩き出した。しかし、どちらも、しばらくは口をきかなかった。
「君は中学校にはいると、いよいよ本田の人になるんだね。」
 五六分もたってから、先生がやっと言った。
 次郎は、答える代りにそっと先生を見上げた。すると先生がまた言った。
「君が正木のお祖父さんのうちに行ってから、もうどのくらいになるかね。」
「四年生からです。」
 次郎は今度ははっきり答えた。しかし彼の眼は自分の足先ばかり見ていた。
「ふむ、そうだったね。先生が君らの受持になった年の夏からだったね。……ふむ。」
 次郎は、正木のお祖父さんが、その頃めずらしく学校にやって来て、権田原先生と教員室で何かしきりに話しあっていたことがあったのを思い起した。
「ふむ、するともうあれから二年半になるんか、ふむ」
 先生は、それから、何度も思い出したように、「ふむ」をくりかえした。次郎は、その「ふむ」を聞きながら、いまに先生が、亡くなった母や、今度の母のことを言い出しそうな気がして、妙に緊張した気分になっていた。先生は、しかし、とうとうそれにはれなかった。
「先生、合宿ってどんなことをするんですか?」
 かなり沈默がつづいたあと、今度は次郎がたずねた。
「合宿か――」
 と、権田原先生はちょっと言葉をきって、
「合宿は何でもないさ、いっしょに食って寝るだけだよ。」
 次郎は、先生がわざとそんなふうに言っているような気がして、何か物足りなかった。
「合宿なんかより、自分のうちがいいさ。」
 権田原先生は、しばらくして、またぽつりとそう言った。次郎は、しかし、それも先生の本心から出た言葉でないように思って淋しかった。
 ほかの児童たちは、もうその頃には、めいめい一本ずつの竹ぎれや棒ぎれを握って、ちゃんばらの真似をしたり、並木の幹や枝をなぐりつけたりしながら、歩いていた。先生は、それに気がつくと、だしぬけに例のどら声をはりあげて怒鳴った。
「おうい、默って立っている木をなぐるのは卑怯だぞうっ。」
「卑怯だぞ」というのは、先生の口癖だったが、次郎には、それがその時いかにも面白く響いた。で、つい笑顔になって先生の横顔を見上げた。先生の眼は、しかし、まっすぐに児童たちの方に注がれていた。
 二人は、それからまたかなり永いあいだ口をきかなかった。
 次郎は、児童たちのちゃんばらの真似から、ふと、大巻のお祖父さんに剣道を教わった事や、お芳を「母さん」と呼ぶようになったことなどを連想しながら、歩いていた。すると、先生は、ひょいと帽子の上から次郎の頭に手をあて、それをゆさぶるようにしながら、言った。
「本田はいろんな人に可愛がってもらって、仕合せだね。」
 次郎は、これまで、自分で自分を仕合せな人間だと思ったことなど、一度だってなかった。また、周囲の人々にそんなふうに言われた覚えも、かつてないことだった。自分も周囲の人々も、自分を不幸な子供だときめてしまっているところに、自分のその日その日が成立ってでもいるかのような気持で、あらゆる場合をきりぬけて来たのが、彼の物ごころづいてからの生活だったのである。だから、彼は、権田原先生にそう言われても、変にそぐわない気がするだけだった。
「どうだい、自分ではそう思わないかね。」
 と、先生は次郎の頭をもう一度ゆさぶった。次郎は顔をあげて、ちらと先生の眼を見たが、やはり返事をしなかった。
「世の中にはね――」
 と、先生は次郎の頭から手をはずして、ゆっくり言葉をついだ。
「沢山の幸福にめぐまれながら、たった一つの不幸のために、自分を非常に不幸な人間だと思っている人もあるし、……それかと思うと、不幸だらけの人間でありながら、自分で何かの幸福を見つけ出して、勇ましく戦って行く人もある。……わかるかね。……よく考えてみるんだ。」
 次郎には、先生の言い方が少しむずかしかった。しかし、まるでわからないというほどでもなかった。で、何度もその言葉を心のうちでくりかえしているうちに、先生が何のためにそんなことを言ったのかが、次第にはっきりして来た。彼は、乳母、父、正木一家、春子、恭一、そして最近の大巻一家と、つぎからつぎに、自分と交渉の深かった人たちのことを思いうかべてみた。そして、現在自分の不幸の原因になっている人は、けっきょく本田のお祖母さんだけだと気がついた時に、彼は、自分というものが急にまるでちがった世界におかれたような気がして、何か驚きに似たものを感じずにはおれなかった。
 この驚きは、彼にとって決して無意味ではなかった。むろん、それは、まだ何といってもかるい知的な驚き以上には出ていなかったので、それによって、彼がはじめて母の愛を感じた時のような大きな転機を、彼に求めるわけにはいかなかった。しかし、彼の年配での、物ごとの知的理解というものは、これまでそれをくらましていた主観の雲が濃ければ濃いほど、時としては、かえって大きな力になって行くものなのである。
 実際、権田原先生は、自分の予期した以上の変化を次郎の様子にみとめて、自分ながら驚いた。重かった次郎の足は、それから見ちがえるほど軽くなり、口のきき方も次第にはればれとなって来たのである。
 次郎は、それからかなりたってから、だしぬけに言った。
「先生、僕、これまで、まちがっていたんです。僕、こんどはうちで恭ちゃんに教えてもらって、うんと勉強します。」
「うむ。……恭ちゃんって、君の兄さんだったね。」
「ええ、中学校の二年生です。僕と仲好なんです。」
「そりゃいいね。だが、試験間ぎわの勉強はかえってよくない。それよりか、気持を愉快にしていることだ。つまらんことで腹を立てたりしちゃいかんぞ。ひょっとして腹が立つことがあったら、すぐ合宿の方に遊びにやって来い。」
「はい。でも、僕、もう腹を立てません。」
 次郎は、先生が自分のことをなにもかも知っていてくれるような気がして、うれしかった。で、彼は誓うように、はっきり答えたのである。
「そうか、うむ。……だが、君は、合宿に加われんぐらいなことで、こないだから腹を立てていたようだね。」
 次郎は頭をかいた。先生は微笑しながらその様子を見ていたが、また急に真面目な顔になって、
「君を合宿に加えるのは何んでもないことさ。だが、それでは本田次郎は卑怯者になってしまう。先生は、君を卑怯者にしたくなかったんだ。正木のお祖父さんだって、先生と同じ考えにちがいない。……偉い人にはね、本田、嫌いな人間もなければ、嫌いな場所もないんだ。それは勇気があるからさ。正しい勇気さえあれば、どんなことにだってぶっつかって行ける。本田のように好き嫌いがあるのは、ちと卑怯だぞ。」
 先生はまた「卑怯だぞ」と言った。そして次郎には、この時ほど先生の「卑怯だぞ」がぴんと心にひびいたことはなかった。
(そうか、先生はそんなことを考えていたんか――)
 次郎は、何度も心の中でそう思いながら、このごろにない快い興奮を感じた。
 間もなく、みんなは一軒の茶店にはいって弁当をひらいたが、その頃には、次郎はもうほかの児童たちといっしょになって、いつものとおり元気よくものを言っていた。

七 枕時計


 入学試験の第一日は無事にすんだ。その日は、次郎の得意な読方や綴方だったので、彼は成績にも十分の自信を得て帰って来た。
 第二日目は算術だった。
 算術は、どちらかというと、次郎には苦手なのである。恭一はそれを心配して、次郎が正木から帰って来たその日から、ほとんどつきっきりで、その方の勉強を手伝ってやった。二人は頬をよせあって問題を解いた。次郎は、学校で先生に教わるのとは何かちがった、身にしみるような新しい気持で勉強に熱中するのだった。
 だが、その試験も明日にせまると、恭一は、いかにも心得顔に言った。
「算術の試験には、うんと頭をやすめて置く方がいいんだぜ。だから、きょうは早くねようや。」
 で、九時近くになると、二人は床につく用意をはじめた。
 二階の勉強部屋が、二人の寝間だった。二人は自分たちの机のまえに、ほとんど重なりあうようにして、床をのべるのだった。恭一はこれまで、自分の家に寝るかぎり、一晩だってお祖母さんと部屋をべつにしたことがなく、いつも俊三と三人で座敷に枕をならべる習慣だったが、今度次郎が帰って来ると、さっそく二人で相談して、勉強の都合を理由に、そんなことにきめたのだった。
 むろん、それがお祖母さんに気に入るはずがなかった。お祖母さんにしてみると恭一が自分の遊ぶ時間もないようにして、次郎の勉強の相手になっているのが、だいいち心外にたえなかった。もうそれだけで、恭一がひどく馬鹿をみているように思えたし、それに恭一の親切をいいことにして、あくまでも図にのっている次郎が、小面憎こづらにくくてならなかった。次郎のため少しでも恭一が犠牲になるなんて、全くあるまじきことだ、というのが、お祖母さんの永い間の信念みたようになっていたのである。だから、恭一が寝間を二階にかえる話をし出すと、お祖母さんは、とんでもないというような顔をして言った。
「馬鹿になるのもいい加減におしよ。お前、そんなふうだと、次郎にどこまでも甘く見られて、今にお尻までかされるよ。」
 恭一は、そう言われて默りこんだ。生れつき繊細せんさいな彼の神経は、お祖母さんのそんな物の言い方を、正面からはねかえすことが出来なかったのである。
「だって、どうせ次郎ちゃんは座敷にいっしょに寝られないんでしょう。狭いんだもの。」
 恭一はしばらく考えたあと、やっと自分の言うことが見つかったらしかった。
「そりゃあ寝られないとも、八畳に四人はね。」
「すると、次郎ちゃんはどこに寝るんです。」
「そんなこと、お前が心配しなくてもいいじゃないかね。次郎はどこにだってねるよ。」
「やっぱり父さんとこにねるんですか?」
「それが好きなら、それでもいいさ。」
「でも、僕と俊ちゃんがいっしょで、次郎もやんがべつになるのは、いけないと思うんです。」
「それがどうしていけないのかい、どうせ三人のうち一人はべつになるんだろう。」
 お祖母さんは、兄弟三人をいっしょにして、自分がべつの部屋にねることなんか、ちっとも思いつかないらしい。
「一人だけ別になるんなら、僕がならなくちゃあ。」
 恭一はいつになく吐き出すような調子で言った。
「お前、どうしてそんなことをお言いだい。お祖母さんといっしょのお部屋に寝るのが、いやにでもなったのかい。」
「ううん、そんなことありません。だって、次郎ちゃんより僕の方が年上なんだもの。」
「まあ、まあ、急にお兄さんにおなりだこと。」
 と、お祖母さんは、冗談じょうだんのように言って笑ったが、すぐまた真顔まがおになって、
「そりゃあね、恭一、年ではお前の方が兄さんにちがいないともさ。だけど、何もかも兄さんだと思ったら大間違いだよ。次郎には、そりゃあお前たちの思いもよらない悪智恵があるんだからね。いつかも、ほら、お前、うまいこと万年筆をきあげられたんだろう。うっかりあれの手にのって、二人っきりで二階に寝たりしていると、ろくなことはないよ。」
「お祖母さん――」
 と、恭一はもう泣きそうな顔になって、
「万年筆は次郎ちゃんにねだられたんじゃないんです。僕、いらないからやったんです。二階に寝るのだって、僕の方から言い出したんです。次郎ちゃんはかわいそうです。ずるくなんかないんです。お祖母さんは、どうして次郎ちゃんがそんなにきらいですか。」
 恭一も、もう間もなく中学の三年だった。彼は、精いっぱいにその正義感を唇にほとばしらせながら、青ざめた頬を涙でぬらしていた。
 これには、さすがに、お祖母さんもすっかりあわてたらしかった。三四歳ごろ、よくひきつけていた恭一の顔つきまでが思い出されて、恐ろしい気さえしたのである。そうなると、お祖母さんは折れるより仕方がなかった。
「お祖母さんが悪かったんだよ。二階に寝て、お前が風邪かぜでもひいてはいけないと思ったものだから、ついあんなことを言ってしまったんだよ。二階に寝たけりゃあ、寝ていいともさ……次郎も喜ぶだろうよ。」
 恭一と次郎とか、二人で二階に寝るようになったのには、お祖母さんとのこんないきさつもあったのである。それだけに、恭一は、床について次郎と顔を見合わせると、安心とも興奮ともつかない、異様な感じになるのだった。
 次郎はそんないきさつについては全く知らなかった。彼は、恭一が、その晩、お祖母さんに相談してくると言って階下したにおりたきり、三十分近くも帰って来ず、やっと帰って来たその顔がいくぶん青ざめているように思えたので、どうしたのかと、ちょっと不安にも感じたが、恭一がすぐ、
「お祖母さん、いいって言ったよ。」
 と、何でもないように言ったので、その後、べつに気にもとめないでいたのだった。
 二人は電燈をつけたまま床に入り、恭一は寝ながら枕時計を六時半にかけて、ねじを巻いた。それからしばらく顔を見あったあと、今度は次郎が手をのばして電燈のスイッチをひねった。しかし、いつも十時過ぎに寝るのを、今夜は九時にならないうちに寝たので、ちょっと寝つかれなかった。
「あすは落着いてやるんだよ。」
「うん。」
「むずかしい問題があったら、あとまわしにして、出来るのからさきにやる方がいいぜ。」
「うん。」
 そんなようなことをしばらく話して、二人は眼をつぶった。が、やはり眠れなかった。二人はしばらくは代る代る眼をあけ、やみをすかして、そっと相手をのぞいたりしていたが、夜具のけはいで、おたがいに相手がまだ眠っていないのがわかると、ついまた言葉を交すのだった。
 話が、いつの間にか、今度来る母のことになった。恭一も、もうその話をお祖母さんに聞いていたのである。
「どんな人だい。」
「肥った人さ。大きいえくぼがあるんたぜ」
「次郎ちゃんを可愛がるかい。」
「うむ。――だけど、よくはわからないや。亡くなった母さんとは、まるっきりちがった顔だもの。」
「次郎ちゃんは、もうその人に母さんって言ってるんかい。」
「ああ、きまりが悪かったけど、とうとう言っちゃったよ。言ったっていいんだろう。」
「そりゃあいいさ。どうせ、言わなきゃあならないんだから。」
「恭ちゃんも、言うんかい。」
「ああ、言うとも。……だけど変だなあ。まるっきり知らない人に、母さんなんて。僕、ほんとうは、そんな人来ない方がいいと思うよ。」
「そうかなあ――」
 次郎は何か考えるらしかったが、
「でも、大巻のお祖父さん、僕、大好きだよ。」
「大巻のお祖父さんって誰だい。」
「母さんになる人の父さんさ。剣道を教えてくれるよ、うちに行くと。」
「ふうむ。……次郎ちゃん行ったことあるんかい。」
「ああ、もう何度も行ったよ。いつも土曜から行って泊るんさ。」
「そんなにいいお祖父さんかい。どんな顔の人? 正木のお祖父さんみたい?」
「ううん、天狗の面そっくりだい。正木のお祖父さんも背が高いんだけど、もっと高いよ。いつも肩をいからしてらあ。」
「ふうむ。……それでやさしいんかい。」
「やさしいかどうか知らないけれど、面白いよ。僕、あのお祖父さんだと、どなられたって怖くなんかないや。」
「どなられたことある?」
「うん、あるよ。僕、あのうちの泉水の鯉をつりあげちゃったもんだから。」
「泉水の鯉って緋鯉かい。」
「ううん、本当の雨鯉さ。大っきいのがいるぜ。」
「ふうむ。そして、その人、何て言ってどなったんだい。」
「ただこらあって言ったきりさ。僕、びっくりしてすぐ鯉を逃がしてやったら、惜しかったなあって、笑ってたよ。」
「次郎ちゃんがつるのをどっかから見てたんだね。」
「見てたんだよ。座敷から。でも、僕にはとてもつれないと思って、安心していたんだろう。」
「そりゃ面白かったなあ。次郎ちゃんより、そのお祖父さんの方がびっくりしたんだろう。」
 二人は笑った。それから、恭一は、しばらく何か考えているらしかったが、
「お祖母さんもいるんかい。」
「いるよ。豚みたいに大っきいお祖母さんだけれど、やさしいよ。それから、附属の先生もいるんだ。僕、その人も好きさ。」
「附属の先生? ふうむ……それから?」
「三人きりさ。僕たちの母さんになる人まで合わせると四人だけど。」
「附属の先生って、いくつぐらいの人?」
「よくわかんないけど、三十ぐらいかなあ。……弟だろう、母さんになる人の。……徹太郎っていうんだってさ。」
「母さんになる人、何ていう名?」
「お芳。大巻お芳だよ。……でも、正木のうちの人になったっていうから、正木お芳かなあ。」
「今度は本田お芳になるんか。……次郎ちゃんは変な気がしない。」
「ふふふ。」
 次郎は笑った。彼は、しかし、はじめてお芳にあった時のことを思い出して、恭一が今どんな気持でいるかがわかるような気がした。
 恭一の眼はいやにえていた。彼は、襖の向こうの梯子段が、かすかにきしむように思ったので、ちょっと耳をすましたが、それっきり、またしいんとなった。
「次郎ちゃんは、亡くなった母さんの名を知ってる?」
「知ってるとも、お民っていうんだろう。」
 二人は真暗な中で、ぽつりとそう言って、また默りこんでしまった。
 恭一は、梯子段がまたきしむように思った。彼は枕からちょっと頭をもたげて、その方に注意したが、べつに人の気配はしなかった。
「ねむたくないね。」
 と、次郎が言った。
「うむ、まだ九時半ぐらいだろう。だけど、もうねむった方がいいよ。」
「僕、十時に眠ればいいや。もっと話そうよ。」
「うむ――」
 と恭一は生返事なまへんじをしたが、すぐ、
「その人、いつごろうちに来るんかね。」
「母さんになる人?……もうすぐだろう。僕の入学試験がすんだら、すぐって言ってたから。」
「でも、次郎ちゃんは、また正木に行くんだろう。」
「そうさ。まだ卒業証書をもらわないんだもの。」
「すると、べつべつになるんかい、その人と。」
「ちょっとだよ。卒業したら、僕、またすぐここに来るんだから。」
「僕、次郎ちゃんがいないと、いやだなあ。」
「どうして?」
「次郎ちゃんがいないで、その人と話すの、何だかきまりがわるいや。」
「平気だい、そんなこと。だって、ここのお祖母さんのような意地悪なんかじゃないよ。」
 恭一は默りこんだ。
 次郎は、恭一に默りこまれたので、自分が何を言ったかにはじめて気がついて、はっとした。恭一にお祖母さんの悪口を言うのはいけなかったんだ。そう思うと、自分の言った言葉が、いやに耳にこびりついてはなれない。
 恭一は、しかし、まもなく言った。
「次郎ちゃんは、正木にいるのが一等好きなんだろう。」
 次郎は返事をしない。恭一も、強いて返事をうながすのでもなく、しばらくじっとしていたが、
「今度の母さんのうち、――大巻だったんかね、――そのうちだって、次郎ちゃんには、ここよりはいいんだろう。」
 次郎は、それにも返事をしなかった。
「ね、そうだろう。ちがう?」
 次郎はやはり默りこくっている。
 恭一は、ちょっと身を起こして次郎の方をのぞいたが、またすぐ枕に頭をつけ、今度は、寝たまま腕をのばして、次郎の夜具の中を手さぐりしはじめた。
 次郎は胸に両手をあててねていた。彼は、恭一の手を自分の夜具の中に感じたが、身じろぎもしなかった。しかし、その手が自分のひじから腕、腕から手の甲へと伝わって、最後に指をぎゅっとにぎりしめた時に、彼は、自分のもう一方のあいている手で、しっかり恭一の手の甲をおさえた。
「次郎ちゃんの気持、僕にだってよくわかるよ。」
 と恭一が顔を近づけて言った。
「僕――」
 と、次郎はため息に似た声で、
「父さんや恭ちゃんは誰よりもすきなんだがなあ。」
「もしお祖母さんがいなかったら、ここのうちどう? ほかのうちより好き。」
「うん。――だけど、恭ちゃんはお祖母さんが好きなんだろう。」
「ううん、この頃はそうでもないや。」
「だって、お祖母さんは恭ちゃんを一等可愛がるんじゃないか。」
「僕だけ可愛がって、次郎ちゃんを可愛がらなきゃあ、何にもならんよ。お祖母さんのすること、僕、もうきらいになっちゃったさ。いやぁな気持がするんだもの。」
 次郎には、恭一の気持がそのままぴったりとはのみこめなかった。彼はただ、それを自分への同情の言葉として聞いただけだった。――むろん、公平ということのいかに望ましいかは、彼が彼自身の過去から、みっちり学んで来たことだった。しかし、彼の乗せられている天秤てんびんの皿は、恭一のそれとは、いつも反対の側についていたのである。えた者の求める正義と、飽いた者の求める正義とは、同じ正義でも、気持の上で大きな開きがあることは、次郎と恭一との場合だけには限られないであろう。
「そうかなあ。」
 と、次郎はせないといった調子だった。
「そうだとも。だから、僕、これからなるたけお祖母さんのそばにいないようにするよ。そして何かお祖母さんがくれたら、半分はきっと次郎ちゃんにもわけてやるよ。」
「ほんとう?」
「ほんとうさ。」
「じゃぁ僕も、正木のお祖父さんや、大巻のお祖父さんにもらったもの、恭ちゃんにわけてやるよ。」
「ああ、俊ちゃんにもね。」
「そうだい。俊ちゃんにもわけてやるんだい。」
 次郎は妙に力んで言った。
「三人で仲よくなりゃあ、次郎ちゃんも、ここのうち嫌いではないんだろう。」
「うん。――もうお祖母さんなんか、へっちゃらだい。一人ぽっちにしてやらあ。」
 次郎はすっかり調子にのっていた。恭一には、しかし、次郎のそうした言葉が、あまり愉快でなかった。で、彼は、握っていた次郎の手をその胸の上で神経的にゆさぶりながら、言った。
「そんなこと言うの、よせよ。僕ら、ただ三人で仲よくすれはいいんだよ。」
 次郎は真暗まっくらな中で思わず眉根まゆねをよせ、五体をちぢめた。温い夜具をとおして、何か冷やりとするものが、彼の心臓のあたりに落ちて来たような感じだったのである。
 彼はしばらく自分の気持を始末しかねていた。むろん適当な言葉も見つからなかった。お座なりをいう気には一層なれなかった。
 と、だしぬけに、そして、ちょうど銀幕に暗い夜の場面が映し出されたかのように、襖がすうっと開いて、梯子段の下からさしているほのかな光線の中に、人影が浮いた。
 恭一も次郎も、一瞬いっしゅん息をつめて、その人影を凝視ぎょうしした。
 人影はせかせかと、しかし、足もとに用心しながら部屋にはいって来た。そして、二人の机のそばまでやって来ると、しばらくぐずついていたが、やがて電燈がぱっとともった。二人とも、人影を見た瞬間、てっきりお祖母さんだと思ったが、果してそうだったのである。
 次郎はすぐ夜具を頭からかぶった。恭一は神経的に眼をぱちぱちさせて、お祖母さんを見た。お祖母さんの頬からのどにかけての肉が、蛙が息をつく時のように動いている。
 お祖母さんは、二人の様子をじっと見くらべてから、恭一の枕もとに坐った。そして、強いて自分を落ちつけているらしい声で、
「恭一や、だから、言わないこっちゃないだろう。お祖母さんは、お前たちの話をみんな聞いていたよ。次郎といっしょに寝たりすると、どうせろくなことは覚えないのだからね。」
 恭一は何と思ったか、くるりと起きあがって、敷蒲団のうえに坐った。寝巻一枚のままだった。
「風邪をひくじゃないかね。どてらをおかけよ。それに、もうこんなところに寝るのは、よした方がいいんだから、階下したにおいで。蒲団はすぐ運ばせるから。」
 恭一は、どてらを着たが、そのまま動かなかった。
「やはり、ここに寝たいのかい。」
 恭一はうなずいた。
「ああ、あ。何というわからない子になったのだろうね。ふだんはあんなによくお祖母さんの言うことをきく子だのに、次郎といっしょになると、こうも変るものかね。」
 恭一の青白い頬がぴくぴくとふるえた。何か言おうとするが、唇のところで声がとまるらしい。彼は、次第に首を深くたれた。お祖母さんは、それを自分の言ったことに対するいい反応だと思ったのか、手をのばして彼のどてらの襟を合わせてやりながら、
「さあ、早く階下したにおいで。わるいことは言わないから。いつまでもこうしていると、ほんとに風邪をひくよ。」
「僕、いやです!」
 恭一は、きぬをさくような声で、そう叫ぶと、敷蒲団の上につっぷして、はげしく息ずすりをした。
 お祖母さんは、ぎくりとして、しばらくその様子に眼をすえていたが、急に自分も恭一の背中に顔を押しあてて、泣き出した。
「恭一や、お前がそれほど階下したにおりるのが、いやなら、……もう、むりにおりておくれとは……言わないよ。……だけど、だけど、お前、さっき、なるだけお祖母さんのそばにいないようにするって、お言いだったね。……あれは、ほんとうかい。そんなにお前は、このお祖母さんが、きらいになったのかい。……ねえ、恭一や、このお祖母さんは、……何を楽しみに生きているとお思いだえ。……次郎が……次郎が……お前は、そんなにこのお祖母さんより……大切なのかい。」
「お祖母さん、……ぼ……僕、わるかったんです。あんなこといったの、わるかったんです。だけど、次郎ちゃんとも仲よく……したいんです。お祖母さんにも、次郎ちゃんを可愛がってもらいたいんです。」
 恭一は、うつぶしたまま、どてらの中からむせぶように言った。
 次郎は、いつのまにか敷蒲団のうえに起きあがって、二人の様子を眼を皿のようにして見つめていた。しかし、その時、彼の心を支配していたものは、怒りでも、悲しみでも、驚きでもなかった。彼は恐ろしく冷静だった。耳も眼も、これまでに経験したことのないほど、えきっていた。彼は、恐らく、お祖母さんが彼の方に鋒先を向けかえて、何を言い、何をしようと、そのどんな微細な点をでも、見のがしたり、聞きのがしたりはしなかったであろう。それほど彼は落ちついていたのである。
 むろん、彼のこうした落ちつきは、彼が幼いころから、窮地きゅうちに立った場合いつも発揮して来たところで、いわば彼の本能であった。しかし、この場合、その中身は、以前のそれとはずいぶんちがっていた。この場合の彼には、すこしもずるさがなかった。自分を安全にするために策略を用いようとする気持などは、微塵も動いていなかった。彼はただ無意識のうちに真実を見、真実を聞き、真実を味わっていたのである。
 なるほど、彼の心のどこかには、お祖母さんに対する皮肉と憐憫れんびんとの妙に不調和な感情が動いていた。また、自分のこれまで持っていなかった、ある尊いものを、恭一の言葉や態度に見出して、単なる親愛以上の高貴な感情を、彼に対して抱きはじめていた。しかし、そうしたことのために、真実が、次郎のまえに、少しでもその姿をゆがめたり、曇らしたりはしていなかったのである。いな、かえって、真実をはっきり見、聞き、味わった結果として、そうした感情が彼の心に動きはじめていたといった方が本当であろう。
「運命」と「愛」と「永遠」とは、こうして、いろいろの機会をとらえては、次郎の心の中で、少しずつおたがいに手をさしのべているかのようだった。だが、次郎はまだ何といっても少年である。「永遠」は見失われやすいし、「愛」は傷つきやすい。ただ「運命」だけは、どんな場合にも彼をとらえてはなさないであろう。
 お祖母さんは、それから、いつまでたっても恭一のそばをはなれなかった。二人とも、もう泣いているようでもなかったが、やはりつっ伏したままだった。口もききあわなかった。次郎は次第に凝視につかれて来た。少し寒くなって来た。枕時計を見ると、もうやがて十一時だ。あすの試験が気になって来る。彼は、お祖母さんが自分を叱るなら叱るで、さっさと叱ってくれるといい、と思ったが、恭一の背中に押しあてたその頭は、石のように頑固がんこだった。彼はそろそろ腹が立って来た。
(お祖母さんは、あんなことをして、僕の試験の邪魔をしているんだ。)
 彼はふとそう思った。亡くなった母に対して、自分でもしばしばそうした押しつよい態度に出た経験のある彼としては、そう思うのも自然であった。また、そのぐらいのことは、実際お祖母さんのやりかねないことでもあったのである。その点では、お祖母さんと次郎とは、さすがに争えない血のつながりであった。しかし、悪魔の心を最もよく見ぬく者は悪魔であり、そして、それゆえに悪魔と悪魔とは永遠に親しむことが出来ない、ということが、もし二人の場合にもあてはまるならば、二人は、何というのろわれた星の下に生まれあわせたものだったろう。
 時計は容赦ようしゃなく三分、五分と進んで、もう十一時を過ぎてしまった。お祖母さんはやはり動かない。次郎は何かをその頭になげつけてやりたいような衝動しょうどうを感じた。また、三四年まえに、お祖母さんが自分にかくしてしまいこんでいた羊羹の折箱を、そっと盗み出して、裏の畑で存分にふみつけてやったことを思い出し、何か武者振むしゃぶるいいのようなものを全身に感じた。彼は、しかし、さすがに、もうそうした乱暴なまねをするまでに、自分を忘れることが出来なかった。それに、彼のまえには、お祖母さんのほかに恭一がいた。そのつっ伏している姿は、お祖母さんのそれとはまるでべつな意味をもって、彼の眼にうつった。それは、彼の目には神聖なもののようにさえ思えて来たのである。
 彼はいきなり立ちあがって便所に行った。そして帰って来ると、すぐふとんを頭からかぶって、ねた。電燈はつけたままだったし、お祖母さんの姿勢しせいは、便所に立つまえとはいくぶんちがっていたが、やはり二人ともつっ伏したままだった。
 彼は、むろん眠れなかった。枕時計の音がいやに耳につく。何度も、もぞもぞとふとんのなかで動いては、大きなため息をつき、そのたびに、そっと二人の様子をのぞいたり、枕時計を見たりした。
 十一時を三十分以上も過ぎたと思うころ、お祖母さんがやっと起きあがって、恭一にふとんを着せてやる気配がした。
「そんなにまるまっていないで、足をおのばしよ。」
 お祖母さんの声は、もうふるえてはいない。やがて電燈のスイッチをひねる音がした。暗くなったのが、ふとんをかぶっていても、よくわかる。
 が、またすぐぱっと明るくなった。そして枕元に足音が近づいたかと思うと、次郎のふとんの襟がすうっとあがった。お祖母さんが次郎の顔をのぞきこんだのである。
 次郎は眼をはっきり開き、上眼づかいでお祖母さんを見た。
「そんな根性で、中学校にはいったって、何の役に立つんだね。」
 お祖母さんは、毒々しく言って、ふとんの襟をばたりと次郎の顔に落した。次郎はしかし、身じろがなかった。
 やがてまた電燈が消えて、お祖母さんの階下におりて行く足音がした。
「次郎ちゃん、すまなかったね。早く寝よう。」
 恭一が涙声で言った。
「うん。」
 次郎はふとんの奥からかすかに答えた。答えると同時に、彼の眼からは、とめどもなく涙がこぼれ出した。彼が、やっとほんとうに眠ったのは、恐らく二時にも近いころであったろう。

八 蟻にさされた芋虫


 翌日、次郎は、枕時計がまだ鳴らないうちに眼をさましてしまった。
 彼は、かなり眠ったような気もし、またまるで眠らなかったような気もした。頭のなかには、水気のない海綿かいめんがいっぱいにつまっているようだったが、それでいて、どこかに砂のようにざくざくするものが感じられた。
 部屋はまだ暗かった。枕時計を手さぐりして、それを自分の方に引きよせていると、恭一が声をかけた。
「もう眼がさめちゃったの? 僕、七時過ぎてから起きても大丈夫だと思って、めざましのベル、とめといたんだがなあ。……今日は九時からだろう。」
「うん。もっと寝ててもいいね。」
 次郎は、そう言いながら、枕時計の表字板に眼を据えたが、暗くてはっきりしなかった。
(恭ちゃんは、まるで眠らなかったんじゃないかなあ。)
 彼は、蒲団の襟に顔をうずめて、そんなことを考えていたが、つい、またうとうととなった。が、ほとんど眠ったような気がしないうちに、
「次郎ちゃん、もう七時半だぜ。起きろよ。」
 と言う恭一の声を、耳元できいた。
 眼をあけると、もう洗面をすましたらしい恭一の顔が、すぐ自分の顔の上にあった。
 彼は、はね起きた。敷蒲団の上で重心をとりそこねて、ちょっと、よろけかかったが、そのまま泳ぐように壁ぎわに行って、そこにかけてあった学校服を着た。
「すぐ顔を洗っておいでよ、床は僕があげとくから。」
 次郎は、言われるままに急いで階下におりた。そして洗面をすまして、梯子段のところまで来ると、恭一がもう次郎の筆入と帽子とをもっておりて来ていた。筆入には、鉛筆、小刀、メートル尺、消しゴムなど、試験場に入用なものが全部入れてあったのである。
 二人は、すぐ台所に行って、ちゃぶ台のまえに坐った。飯を食べながら、昨夜来はじめてしみじみとおたがいの顔を見あったが、どちらも相手の顔色がいつものようでないのに気づき、ともすると眼をそらしたがるのだった。
 お祖母さんが仏間の方から出て来て、ちゃぶ台につきながら、じろりと次郎を見た。しかし何とも言わなかった。きのうの朝は、恭一が次郎のために生卵なまたまごをねだったりしたが、きょうは誰もそんなことを思い出すものさえなかった。
 お祖母さんは、それからも、じっと坐って二人の顔を見くらべていたが、
「恭一、お前、顔色がよくないようだよ。今日は次郎について行くの、よしたらどうだえ。」
 そして、わざとのように、恭一の額に手をあてて、
「少し、熱があるんじゃないのかい。」
 恭一は、その神経質な眼をぴかりとお祖母さんの方に向けた。が、すぐうつむいて、
「ううん、どうもないんです。」
 と、首を強く横にふった。お祖母さんもそれっきり默ってしまった。
 茶の間で新聞を見ていた俊亮が、ちょっと台所の方をのぞいて、何か言いそうにしたが、思いかえしたように眼を天井にそらして、ふっと大きな吐息をした。
「次郎ちゃん、便所すました? まだ時間はゆっくりだぜ。」
 恭一は、食事をすまして立って行こうとする次郎に言った。
「ううん、大丈夫。」
 二人が家を出たのは、八時を十二三分ほど過ぎたころだった。中学校までは二十分とはかからなかったが、途中、西福寺によって、合宿の連中といっしょに行く約束になっていたのである。西福寺までは七八分だった。
「頭がいたいことない?」
 恭一が家を出るとすぐたずねた。
「ううん、何ともないよ。」
 次郎はわざと元気らしく答えたが、やはり耳鳴がして、頭のしんがいやに重かった。
 西福寺の門をくぐると、もうみんなは本堂の前に出そろって、わいわいさわいでいた。権田原先生も、間もなく庫裡くりの方から出て来たが、次郎を見ると、
「どうしたい? 眼が少し赤いようじゃないか。」
 それから、恭一を見、また次郎を見て、何度も二人を見くらべていたが、
「二人で夜ふかしをしたんだろう。駄目だなあ、そんなことをしちゃあ。」
 二人は默って顔をふせた。
「ゆうべ、何時に寝たんだい。」
「九時少しまえです。」
 次郎がすぐ顔をあげて答えた。
「九時まえ? そうか。じゃあ、みんなよりも早く寝たわけなんだね。……ふうむ。……」
 先生はけげんそうな顔をして、またしばらく二人の顔を見くらべていたが、間もなく外套がいとうのかくしから、黒い紐のついた大きなニッケルの時計を出して、時刻を見た。そして、
「みんな便所はすましたかね、大便は?……じゃ行くぞ。」
 みんなは元気よく門を出た。次郎もそのなかにまじったが、妙にしょんぼりしていた。恭一は、一番あとから、権田原先生とならんで歩いた。
「ほんとうに九時まえに寝たんかね。」
 権田原先生がたずねた。
「ええ。寝るには寝たんです。」
「すると、寝てから何かあったんだね。」
「ええ、……二人で話しこんじゃったんです。」
「話しこんだ?……ふうむ、……そんなに晩くまで。」
「ええ、少し晩くなり過ぎたんです。」
「何をそんなに話したんだい。」
 恭一は首をたれて、返事をしなかった。
 権田原先生も、それ以上強いてたずねようとはしなかった。そして、中学校の門をくぐってからも、先生は、誰とも口をきかないで、校庭のポプラのみき腕組うでぐみをしてよりかかっていたが、合図の鐘が鳴る五六分前になると、急に何か思い出したように、みんなのかたまっているところに来て、いきなり次郎の頭をゆさぶりながら、言った。
「あせるな、いいか。今日は試験場で居ねむりをするつもりでやって来い。……先生の友達にね、よく試験の時に居ねむりをしていた人があるが、その人はいまは大学の先生になっている。」
 みんなが笑った。次郎も淋しく笑って頭をかいた。すると、源次がはたから口を出した。
「その人、落第したことないんですか。」
「む、落第したこともあるが、大ていは及第した。」
 みんながまた笑った。今度は竜一が、
「そんな人、先生、ほんとうにいるんですか。」
「ほんとうだとも、その人は非常な勉強家でね、よく本を読んで夜更かしをしていたんだ。しかし、それは試験のためではなかった。試験なんかどうでもいいっていう気でいたんだから、眠くなりゃあ、試験の最中でも眠ったのさ。」
「でも、その人、落第したのは、居ねむりをしたためじゃありません?」
 他の一人の児童がたずねた。
「うむ、それはそうだ。その時はちょっと眠りすぎたんだね。まだ一問も書かないうちに眠ってしまって、鐘が鳴るまで眼がさめなかったんだ。しかし落第したのはその時いっぺんきりだぜ。」
「でも、試験に居ねむりするの、いいことなんですか、先生。」
 更に他の児童がたずねた。
「大してよくもないだろう。だから、お前たちに真似まねをせいとは言っとらん。真似せいたって、どうせお前たちには真似も出来んだろうがね。しかし、本田はゆうべあまり寝ていないそうだから、ひょっとすると、真似が出来るかも知れん。……まあ、とにかく、そのぐらいの気持でやるんだね。はっはっはっ。」
 みんなは先生がほんの冗談にそんなことを言ってみたのだど思ったらしかった。しかし、先生の気持は、次郎と恭一とには、よくわかった。
 やがて入場の鐘が鳴って、みんなはぞろぞろと校舎にはいった。二百人の募集に千人近くの応募者だったので、昇降口はかなり混雑していた。次郎は、きのうまでは何とも思わなかったその光景が、いやに気になり出した。
 試験場にはいってからの次郎は、それでも案外落ちついていた。問題紙が配られると、彼はゆっくりそれに眼をとおした。すべてで十問だった。べつに手におえない問題もなさそうに思えたので、彼はいよいよ落ちついて鉛筆を動かしはじめた。
 最初に手をつけた三問だけは、わけなく出来た。次に手をつけたのが、小数や分数がごっちゃになっている計算問題だった。ところが、これがやってみると見かけに似ずうるさかった。
 やっと答を出すには出したが、何だか不安だったので、もう一度やり直してみると、まるでちがった答えが出た。で、少しあせり気味になりながら、更にやり直してみた。すると、またちがった答が出た。そのうちに頭がじんじんし出して来たので、一応その問題を思い切って他の問題にうつることにした。
 しかし、それからは、気ばかりあせって、ちっとも頭がまとまらなかった。すぐうしろの席で、がしがしと鉛筆をけずる音が、一層彼の神経をいら立たせた。彼の膝はひとりでに貧乏ゆるぎをはじめた。しかも、何という不幸なことか、その頃になって大便を催して来たのである。それは、さほど烈しい要求ではなかった。しかし、頭をまとめるのに、それが非常に邪魔になったことはいうまでもない。
 それでも、自信のある解答が、それからどうなり二つだけは出来た。まえの三つと合わせて五つである。しかし、十問中七問以上が確実に出来なければ及第けんにはいらない、というのが次郎たちの常識だった。あと二問! 彼は残った問題のうち、どれを選ぶべきかを決めるために、鉛筆を机の上におき、強いて自分を落ちつけた。しかし、腰部の生理的要求は、もうその時はかなりきびしくなっていた。それに、教壇の上から、監督の先生がだしぬけに叫んだ。
「あと三十分!」
 次郎は、反射的に鉛筆をとりあげた。そして、まえにやりそこなった小数と分数との問題を、もう一度計算してみた。その結果、最初にやった時の答と同じだった。
(何だ馬鹿を見た。)
 彼は心の中でそうつぶやいたが、それでも、それがひとつかたづいて、いくらか気が楽になった。そして、時間はたっぷり二十分はあまされていたのである。で、もし、腰部の要求さえ彼を邪魔しなかったら、彼はあと二間ぐらいは、確実に片づけることが出来たかも知れなかった。だが、すべては運命であった。自然の要求の切迫は、たといそれが爆発点ばくはつてんにまで達していなかったとしても、残された彼の時間をたえず動揺させ、彼の頭を混乱させていたのである!
 鐘が鳴るまでに、彼は、残された四問のうち二問だけを、まるで芋虫が蟻に襲撃されてでもいるかのように、いらいらした気持で片づけた。それが自信のある解答でなかったことは無論である。答案を提出して試験場を出ると、彼はすぐその足で便所に走っていった。便所から出て来た時の彼は、ちょっと気ぬけがしたような気持だった。が、もうほとんど人影のない渡り廊下を、校庭の方に向かって歩いて行くうちに、何ともいいようのない無念さがこみあげて来て、ひとりでに涙がこぼれた。彼は廊下の柱に両腕をあて、顔をうずめて、しばらく動かなかった。すると、
「次郎ちゃん、こんなところにいたんか。……どうしたんだい。」
 と、恭一の声がすぐうしろの方からきこえた。
「ぼ、……僕、駄目だい。」
 次郎は柱によりかかったまま、息ずすりした。恭一は悲痛な顔をして、しばらくうしろから彼を見つめていたが、
「みっともないよ。それに権田原先生が待ってるじゃないか。」
 次郎は、やっと涙をふいて、恭一といっしょに校庭の方にあるき出した。そして問われるままに、成績のだいたいを話した。恭一は、国語の方の成績次第では、望みがまるでないこともない、といって慰めたが、そういう恭一本人が、非常に暗い顔をしていた。
 権田原先生は、校庭で児童たちに取り囲まれ、両腕を組んで二人の近づくのを無言で待っていた。
「便所に行ったんだそうです。」
 と、恭一がいいわけらしく言うと、先生は、
「ふうむ……」
 と、うなるように答えて次郎の顔を見、それっきり何も言わないで、つっ立っていた。それから、かなり間をおいて、
「ふむ、そうか、ふむ。……じゃあ、みんな帰ろう。」
 と、さきに立って校門の方に歩き出した。
 校門を出て、しばらく行くと、先生はうしろをふりかえって、
「あとは口頭試問と体格検査だけになったね。きょうは本田も合宿に遊びに来い。恭一君もどうだね、いっしょに? 午飯ひるめし二人分ぐらいどうにでもなるぜ。」
「でも、うちで心配しますから……」
 と、恭一は次郎の顔をのぞきながら答えた。
「うむ、それもそうだね。……では、先生があとで君の家へ行くから、お父さんにそう言っといてくれ。」
 恭一と次郎とは、酉福寺の門前でみんなにわかれ、家にかえって、まずそうに午飯をすますと、そのまま、人眼をさけるように二階にあがってしまった。そして、しばらくは、机に頬杖をついて、お互いに顔を見あっては、眼を伏せていたが、あとでは二人ともぽたぽたと涙をこぼしはじめた。
 恭一は、そのうちに、ふいに立ちあがって、押入から二人分の夜具を引出し、それをいつものとおりひろげた。そして、
「次郎ちゃん、寝ようや。」
 と、自分で先にその中にもぐりこんでしまった。
 次郎は、やっと顔をあげ、恭一がのべてくれた自分の寝床をみつめていたが、急に飛びかかるように恭一の蒲団ふとんのうえに身を伏せた。
「僕、……来年はきっと及第するんだから、許してね。」
 恭一は、返事をしないで、ふとんの中に身をちぢめた。が、しばらくたつと、顔をかくしたまま息づまるように言った。
「僕、悪かったんだよ。……ゆうべ、次郎ちゃんにいろんなことをいたの……悪かったんだよ。」
 二人は、それからかなり永いこと同じ姿勢しせいでいた。
 しかし、そのうちに次郎もやっとあきらめたらしく、恭一の蒲団ふとんから身を起して、校服のまま自分の寝床にはいった。そして、二人共、さすがに疲れていたらしく、権田原先生がたずねて来て俊亮と階下で話していたのも知らないで、夕方まで眠った。

九 靴


 次郎は、案外悪びれずに、翌日の口頭試験や体格検査をうけた。しかし、ほかの受験者たちが、ちょいちょい昨日の算術の試験について話しあっているのを、耳にはさんだりしているうちに、自分の駄目なことが、いよいよはっきりして来た。
 彼は、くやしいというよりも、何か気ぬけがしたようなふうだった。
 彼にとって何よりもつらかったのは、正木に帰って不成績を報告することだった。で、万一に望みをかけて、及第の発表をまって帰ろうかとも考えた。しかし、いよいよ受からなかった場合のことを考えると、本田に残っている気にはなおさらなれなかったので、合宿の連中といっしょに、ともかくも正木に帰る決心をし、源次と竜一とにもそのことを約束していたのだった。
 ところが、試験場からの帰りに、権田原先生は、例の無表情なような、奥深いような眼をして言った。
「本田は、もう三四日こちらに残るんだそうだね。ひょっとすると、成績発表の日まで残ることになるかも知れんが、失敗していても、平気で学校に帰って来るんだぞ。落第の仲間は沢山いるんだ。」
 次郎は、先生にはじめて成績のことを言われて、眼を伏せたが、それよりも、三四日こちらに残るといわれたのがいやに気になった。で、そのわけをたずねると、先生は微笑しながら、
「それは、帰ってお父さんに訊いてみるとわかるよ。」
 と言ったきり、べつにくわしい説明をしなかった。
 彼は、恭一と二人で、急いで家に帰ってみた。しかし、父は留守だった。お祖母さんに訊けばわかるだろうと思ったが、一昨夜のことが、まだ大きな壁になってのしかかっているようで、二人とも訊いてみる気がせず、そのまま二階にあがってしまった。
 すると、俊三が、すぐあとからついて来て、声をしのばせながら、しかし、いかにも大仰おおぎょうらしく言った。
「僕たちに、母さんが来るんだってさ。」
「なあんだ、そうか。」
 と次郎は、それで何もかもわかったという顔をした。恭一は、しかし、何かにうたれたように俊三の顔をみつめた。
「え? いつ? いつ来るんだい?」
「あさっての晩だって。」
「ほんと? 父さんがそう言ったんかい。」
「ううん、お祖母さんにきいたよ。」
 恭一は次郎の顔を見た。次郎は、しかし、母が来るのはあたりまえだ、といったような顔をしていた。
「お祖母さんはね、――」
 と、俊三はまた、声をひめて、
「そんな人、来なくてもいいんだけど、正木のお祖父さんがそう言うから仕方がないって、言ってたよ。」
 今度は、次郎が眼を光らせて、恭一を見た。恭一は非常に複雑ふくざつな表情をして、次郎と俊三とを見くらべた。三人は、それっきりおたがいに顔ばかり見合っていたが、恭一が、しばらくして、
「俊ちゃんは、どう? 母さんが来る方がいい? 来ない方がいい?」
「僕、どっちでもいいや。……恭ちゃんは?」
「う……うむ……」
 と恭一は妙に口ごもって、
「僕だって、どっちでもいいさ。」
「次郎ちゃんは?」
 と、俊三はずるそうに次郎を見た。
「僕も、どっちでもいいよ。」
 次郎は、わざと平気らしく答えて、そっぽを向いた。
「だって、お祖母さんは、今度の母さん、次郎ちゃんを一等かわいがるんだって、言ってたよ。」
「…………」
 次郎は、ちょっと顔をあからめて、横目で恭一を見た。恭一も彼の方をちらと見たが、すぐ視線を俊三の方に向けて、
「そんなことないよ。……そんなこと言うの、悪いよ。」
「どうして?」
「どうしてって、はじめっから、そんなわけへだてなんかする人だって思うの、悪いよ。」
「だって、お祖母さんがそう言ったんだもの。」
「お祖母さんが言ったって、悪いさ。お祖母さんは次郎ちゃんが……」
 と言いかけて、恭一は急に口をつぐみ、落ちつかない眼をして次郎を見ていたが、
「ねえ、俊ちゃん――」と調子をかえ、
「僕たちこれから、誰にでも同じように可愛がってもらうようにしようじゃないか。」
 俊三はわかったような、わからないような眼をして、恭一を見た。恭一は今度は次郎に向かって、
「今度の母さん、そんなわけへだてなんかしないね、次郎ちゃん。」
「うん、……しないだろう、……きっと。」
 次郎は、とぎれとぎれにそう言って、妙にくすぐったそうな顔をした。
 三人は、それっきりまた默りこんで、めいめいに何か考えているらしかったが、俊三はそのうちに、つまらなそうな顔をして、ひとり階下したにおりていってしまった。
 すると、間もなく、階段の下から、
「恭一や、ちょっとおいで。」
 とお祖母さんの声がきこえた。恭一は、しばらく次郎の顔色をうかがってから、しぶしぶ立って行った。
 次郎は一人になったが、べつにそれが気にもならず、また、何でお祖母さんが恭一を階下に呼んだのか、そんなことは考えてみる気もしなかった。彼はいつの間にか、また入学試験のことを思い出していたのである。
(あさっての晩までは、成績の発表はない。だが、母さんが来たら、きっといろいろ訊くにきまっている。それにどう答えたものだろう。いっそ、母さんと入れちがいに、正木に帰ってしまおうか知らん。)
 彼はそんなことを考えて、小半時間もひとりで机に頬杖をついていた。
 しかし、恭一があまり永いこと帰って来ないので、そろそろそれが気になり出した。で、自分も階下におりてみようかと思ったが、思いきって立ち上る気にはなれなかった。階下に行けば、何かきっと気まずいことがあるにちがいない、と、思ったのである。
 彼は、いらいらしながら、とうとう夕飯時まで、ぽつねんと一人で二階に坐っていた。
「ご飯だようっ、次郎ちゃん。」
 階段の下から俊三にそう呼ばれて行ってみると、みんなはもうちゃぶ台の前に坐っていた。見ると、恭一は泣いたような顔をしており、お祖母さんは怒ったような顔をしていた。父はまだ帰ってきていないらしく、そのお膳にはおおいがしてあった。
 みんなむっつりして箸をうごかした。恭一はやっと一杯だけかきこむと、すぐ箸を置いて、二階に行った。次郎も間もなくそのあとについた。二人は、しかし、どちらからも口を利こうとしなかった。
「どうしたんかい。」
 次郎がやっと口を切った。
「ううん、何でもないよ。」
 それっきり二人は電燈もつけないで、默り込んで坐っていた。
 七時過ぎになって俊亮が帰って来たが、飯をすますと、すぐ兄弟三人を座敷に呼んで、ごくあっさりと母を迎える話をした。「亡くなった母さんの代りに、正木の家の人として来て貰う。」ということと「お祖母さんに何もかもお骨折いただくわけにはいかんから。」というのが、話の要点ようてんだった。そして、
「なあに、そう窮屈に考えんでもいい。親切な小母さんにでも来てもらったつもりでいればいいんだ。ただ、母さんと呼んであげることだけは、忘れんようにしてもらいたいね。」
 と、ちらっと次郎の顔を見て微笑した。
 お祖母さんもその席にいたが、俊亮がそう言うと、膝をにじり出すようにして、
「恭一や、お前が一番の兄さんだから、次郎や俊三のお手本になるように、今度のお母さんに孝行をするんだよ。このお祖母さんのことなんか、もう忘れてしまってもいいんだからね。」
 恭一の眼が悲しそうに光った。俊亮は、一瞬、眼をつぶって眉根まゆねをよせたが、すぐわざとらしく笑い出して、
「孝行だなんて、そんな大袈裟おおげさなことは、今度の母さんにはいらないんだ。孝行は、お祖母さんとお父さんだけにすればいい。母さんには、三人共うんとわがままを言うんだね。」
「わがまま言ってもいいの?」
 と、俊三が真面目になってたずねた。
「いいとも。」
 と俊亮は、笑いながら答えた。
 お祖母さんは、はぐらかされたような恰好になったので、不機嫌らしかった。恭一は何かそぐわない気持だった。次郎は、しかし、数日来の憂鬱な気分が、それでいくらかぬぐわれたような気がした。そして、母と入れちがいに正木に帰ってしまおうかと考えていたことも、いつの間にか忘れてしまっていた。

     *

 翌々晩の、俊亮とお芳との結婚式は、極めて簡素かんそだった。お芳は式服も着ず、紋のついた羽織をひっかけて、正木夫婦と青木医師――竜一の父――とに伴われてやって来た。ほとんど同じ時刻に大巻夫婦も来た。それだけの顔がそろうと、みんなが狭い八畳の座敷に座蒲団を重ねあうようにして坐り、青木医師の肝煎きもいり簡略かんりゃく盃事さかすきごとをすました。
 恭一たち三人にお芳の盃をまわしながら、青木医師は言った。
「これが今日の一番大事な盃です。」
 恭一は、その盃をいやにかたくなってうけた。次郎には、その様子がいかにも可笑おかしく感じられた。盃事が終ると、すぐ大人だけの酒宴になった。正木のお祖母さんに促されて、お芳はすぐおしゃくやお給仕きゅうじをはじめ、茶の間や台所にも何度かやって来た。恭一たちはそのたびに彼女の顔に注意したが、彼女は大きな笑くぼを見せるだけで、一度も口をきかなかった。
 座敷では、大巻運平老がひとりで座を賑わした。老はここでもまたお芳の漬物上手なことを話し出したが、そのあとで、
「じゃが、本人は少々塩気が足りませんのでな。これはお母さんにこれから程よくもんでいただかなければなりますまい。はっはっはっ。」
 と、例の張りきった声で笑った。
 運平老は、座敷を賑やかにするだけでなく、茶の間にいた恭一たちの気持まで浮き浮きさした。三人はあとでは襖のかげから中をのぞいていたが、
「ね。似てるだろう。天狗の面に。」
 と次郎が言うと、
「うん、そっくりだい。」
 と俊三が答え、恭一までが、
「あれでもう少し鼻が高いと、いよいよ本物だぜ。」
 などとささやいたりした。
 十時頃になると、お芳だけを残し、みんな人力車をつらねて帰っていった。運平老は、わかれぎわに、子供たち三人の頭をかわるがわるなでながら、言った。
「この祖父さんが剣道を教えてやるから、三人そろって、母さんといっしょにやって来るんじゃぞ。」
 みんなを見送ったあとで、お芳は、お祖母さんと子供たち三人に、それぞれ持参のお土産みやげを差し出した。お祖母さんには、大島か何かの反物、恭一には小さな置時計、次郎には靴、俊三には、いつか正木の家で次郎がもらったのと同じような、文房具のつめ合わせだった。
 お祖母さんはじめ、その晩はみんな上機嫌だった。ただ次郎だけは、靴を見た瞬間から、また妙に気が重くなり出した。それは、中学校に入ったら靴を買ってもらいたいというのが、お芳との前からの約束だったからである。

一〇 鋤焼


 入学試験の失敗は、気づかわれたほどには、次郎の心を傷つけなかった。彼は正木に帰ってから、ひととおり周囲に顔をやぶってしまうと、案外元気に学校にも通い、遊びにも出た。それをいつまでも気にやんでいたのは、むしろ恭一の方だったらしく、自分の学年試験が目前にせまっていたにもかかわらず、しばしば次郎にあてて長い手紙を書いたりした。
 源次も竜一も不合格組だった。竜一は、誰に向かっても、
「全甲の次郎ちゃんでさえうからなかったんだから、僕がうからないのはあたりまえだい。」と言った。
 源次は、二度目なので、さすがに少々てれてはいたが、二三日すると、どこで覚えて来たのか、「大器晩成だよ」などと言って、けろりとしていた。
 合格者は、尋六から四名、高一から二名で、十五名の受験者中、都合六名が合格したので、他校に比べて、結果は非常にいい方だった。もっとも、六名が三名になっても、決してはずれっこない、と思われていた次郎が失敗したのには、学校側としても非常に残念だったらしく、しばらくは、どの先生も次郎の顔さえ見ると、
「惜しかったなあ。」
 と言った。
 ただ、何とも言わなかったのは、権田原先生だけだった。先生は、次郎に対してだけでなく、どの児童に対しても、合宿を引きあげて以来、試験の成績のことなど忘れたような顔をしていた。次郎には妙にそれが嬉しかった。そして、何かといえば自分を引きあいに出して、入学試験の話をしだす先生たちや、児童たちがうるさくてならなかった。
 入学試験の失敗にからんで、もっと大きな問題になったのは、次郎が四月から町の小学校に転ずるか、あるいは、もう一年正木の家に厄介やっかいになるか、ということであった。
 これについては、俊亮と正木の老夫婦とが、いろいろ首をひねったあげく、一応、お芳の考えを訊いてみたら、ということになった。ところが、お芳にはまるで自分の考えというものがなかった。彼女は、ただ、「皆さんでおよろしいように」とか、「次郎ちゃんの好きなように」とか言うだけで、それが自分にどんなかかわりがあるかさえ考えていないかのようだった。で、結局、次郎本人の考えに任せるのが一番よかろう、ということに落ちついたが、さてそうなると、今度は次郎が非常に迷い出した。
 俊亮と恭一とは、むろん、今では次郎にとって最大の魅力みりょくだった。お芳は、二人にくらべると、まだそれほどでもなかったが、しかし、彼女のうしろには大巻運平老がいて、不思議な力で彼の心をとらえていた。お芳にはなれていては、運平老の家を訪ねる機会もめったにない、と思うと、彼は何か淋しい気がした。しかし、そうした魅力の陰から、いつも本田のお祖母さんの冷たい眼が、彼をのぞいた。その眼を思い出すと、一も二もなく本田の家に飛び込んで行く気にもなれなかったのである。
 一方、正木の家には、最近彼が恭一に対して感じはじめていたような、涙ぐましい感激の種はなかったとしても、その伸び伸びとした空気は、何といっても捨てがたいものだった。また、むろん、まるで知らない町の学校に転校なんかするよりは、これまで通いなれた学校で権田原先生の教えを受け、竜一たちを遊び仲間にしている方が、はるかにいいにきまっていた。それに、はっきり自分で意識していたわけではなかったが、故郷の自然というものが、隠微いんびの間に彼をひきつけていたこともたしかだった。
 彼は二日も三日もそのことばかり考えつづけた。これまで、魅力のある二つの道を与えられて、自由にその一つを選んでもいいような境遇にいなかった彼だけに、そして、さほど決定を急ぐ必要もなく、少くとも一週間や十日は考えてから決めてもいいことだっただけに、彼はよけいに迷ったらしい。とうとう、彼は、自分では解決が出来なくて、卒業式の二三日前、わざわざ権田原先生の家をたずねてその意見を訊いてみた。
 すると権田原先生は、如何にも無造作むぞうさに答えた。
「もう一年こちらにいるさ。そして、来年は君も合宿に加わるんだね。……転校なんかすると入学試験の間際になって、また糞づまりになるかも知れんよ。はっはっはっ。」
 次郎は、こうして、結局もう一年間、正木の家に厄介になることに落ちついた。むろん、それは、ついこのあいだまでは、次郎の周囲の誰の心にも予定されていなかったことなのである。だが、人生の進路における予定の役割というものは、所詮大したものではない。予定は砂丘のように変りやすいものだし、人間の一生は、非常にしばしば、予定外の生活によって、その方向を与えられるものなのである。
 だいいち「次郎のために」ということで迎えられたお芳が、その母としての生活を、次郎とべつの屋根の下で始めなければならなくなったということは、次郎にとって、何という皮肉な運命だったろう。
 それは、いうまでもなく、お芳自身にとっても、――もし彼女が、「次郎のために」ということを真面目に考えて嫁いで来たとすれば、――まことに変なめぐり合わせだと感じられたにちがいない。だが、次郎にとってそれが重大な運命であったほどに、彼女にとっても重大な運命であったかは疑問である。というのは、そのことによって、自然二人の愛情が、どちらからか薄らいでゆく場合があるとして、それが次郎の方からであった場合にお芳の受ける打撃は、その反対の場合に次郎のうける打撃にくらべて、はるかに軽くてすんだであろうからだ。彼女には、次郎のほかに恭一や俊三がいた。彼女が三人のうちで最初に親しんだのが次郎であったとしても、もともと「次郎のために」ということが、周囲の人々の作為的さくいてきな希望であって、彼女自身の自然な心の動きから出発したものでなかったとすれば、彼女が、次郎に対して感じた以上の親しみを、恭一か俊三に対して感じないとは限らなかったのである。しかも、彼女が、その気楽な性分から、周囲の人たちのそうした期待をそう重く見さえしなければ、彼女は、次郎の代りに恭一や俊三を愛することによって、姑との間の感情を滑らかにし、彼女自身の生活を一層気楽なものにさえすることが出来たのである。
 だが、次郎にとって、事柄はそう簡単なものではなかった。お芳は、今となっては、彼にとってただ一人の「母さん」であり、彼のお芳に対する思慕は、まだ十分深まっていたとは言えなかったにせよ、彼女の愛を失うことは、彼の本田における唯一の新しい希望を失うことであった。しかも、一年後、いよいよ本田に帰った場合の彼の生活は、お芳の存在によって、かえってこれまで以上のみじめなものにさえなる恐れがあったのである。
 あるまじきことだ、と考える人があるかも知れない。だが、「自然」はいつも人間の「願望」よりも強い。そして、人間が「あるまじきことだ」と思うことを、しばしばあらしめるものだ。「願望」が「自然」に打克うちかつように見えるのは、その「願望」が「自然」に即し「自然」の流れにさおざしている時だけなのである。お芳から次郎を遠ざけ、その代りに、恭一と俊三をいつもお芳の身辺しんぺんに近づけておくことが、「次郎のため」の願望を自然の流れに棹ざさせる道であったとは、決していえなかったのであろう。
「自然」の最も深いところに根を張っているはずの肉親の愛ですら、何かの不自然を敢えてすることによって、或はゆらめき、或は枯れる。意義と理性とによって、その不自然を出来るだけ自然に近づけて行くことを知らない女性において、とりわけその危険が多いのだ。それは、お民と本田のお祖母さんとにおいて、すでに十分証明されたことではなかったか。まして、お芳は、もともと不自然な、しかも、ゆさぶってみるにはまだあまりに早すぎる接穂つぎほでしかなかったのである。次郎に、かつての里子の経験が、再び新しい形ではじまろうとしていたとしても、それは「あるまじきことだ」とばかりは、必ずしも言えなかったのではあるまいか。
 事実を語ろう。
 次郎は、入学試験後、正木に来てから約一ヵ月ぶりで、土曜から日曜にかけて、はじめて本田の家に帰って行った。その日、彼は、お芳にもらった靴をわざわざいて行くことにしたが、靴はまだ十分に新しかった。小学校では、ふだん靴を用いることになっていなかったので、彼はその日はじめてそれを履いたようなものだったのである。
 恭一や、俊三や、お祖母さんの顔にまじって彼を迎えたお芳の顔には、相変らず大きなえくぼがあった。べつだん、飛びつくように彼を迎えるふうはなかったが、正木にいっしょにいたころのお芳を知っていた次郎には、そのえくぼだけで十分だった。で、彼は、本田の家に帰って来てこれまでに感じたことのない、ある新しいあたたかさを感じながら、靴の紐をときはじめたのだった。
 するとお祖母さんが言った。
「おや、今日は靴を履いて来たのかい。母さんにこないだいただいたのを、もうおろしたんだね。田舎の小学校では靴はいるまいに。」
 次郎は、思わずお芳の顔を見た。お芳は、しかし、何の変った表情も見せてはいなかった。次郎は、安心したような、物足りないような変な気になりながら、上にあがった。
 それから、みんなは茶の間の長火鉢のまわりに坐ったが、偶然だったのか、そうなるのが自然だったのか、いつも俊亮の坐るところにお祖母さんが坐り、その左に恭一、お祖母さんと向きあってお芳、その右に俊三、そして次郎は、恭一と俊三との間に一人だけ横向に坐ることになった。そして坐ると同時に、四人はすぐ火鉢に手をかざしたが、次郎だけは、手を出さなかった。四月に入ったばかりで、陽気はまだ寒かったが、四里近くの道を歩いて来たばかりの次郎には、火の気の必要がほとんど感じられなかったのである。
 しかし、この瞬間、次郎は何ということなしに、変に冷たいものが、ふと自分の胸をとおりぬけるような気がした。それはあるかなきかの、ごく淡い感じではあった。しかし、次郎にとっては何よりもいやな種類の感じだったのである。
 彼は、いてその感じを払いのけようとつとめた。しかし、それは無駄だった。というのは、それから恭一と俊三とが、何か二こと三こと彼に話しかけたあと、話がいっこうにはすまず、妙に白けた空気が火鉢のまわりを支配してしまったからである。
 この時、もしお芳が、次郎に何か話しかけるか、或はちょっと気をきかして、すぐそばの茶棚から、次郎の眼にも見えていた菓子鉢でもおろして、みんなの前にさし出したとしたら、かりにそれがお祖母さんの機嫌を損じて、次郎にかえって不愉快な思いをさせる結果になったとしても、次郎は一ヵ月前の「母さん」をはっきり本田家に見出すことによって、十分そのうめ合わせをすることが出来たであろう。
 だが、お芳には、そんな気ぶりは少しも見えなかった。気がつかなかったのか、勇気がなかったのか、あるいはそれがあたりまえだと思っていたのか、彼女は、まるで気のぬけたおかめのような顔をして坐っているだけだった。
 それに、次郎の心を一層刺戟したのは、俊三がおりおりお芳にしなだれかかるようなふうをすることであった。彼は、俊三のそうした様子を見ているうちに、ふと、彼の六、七歳ごろの記憶をよび起した。それは、乳母のお浜と自分との間に恭一が割りこんで、お浜の愛を奪っていると想像した結果、恭一のカバンをそっと便所になげこんだおりのことであった。彼は、そのころ恭一に対して感じたものを、俊三に対して感じはじめたのである。
 それは、その時ほど狂暴きょうぼうなものではなかった。しかし、それだけに、胸のしんに何か食い入るような気持だった。彼はもうお芳と俊三とを見ている勇気がなくて、ひとりでに眼を恭一の方にそらした。
 恭一は、いやに注意深い眼をお芳に注いでいたが、次郎の視線しせんを自分の顔に感ずると、
「次郎ちゃん、二階に行こうや。」
 と、急に立ち上った。それからお芳のうしろにまわって、
「お祖母さん、これもらっていいでしょう。」
 と、茶棚の上の菓子鉢をとりあげた。お祖母さんは、ちょっといやな顔をして、
「二階に持って行くのかい。」
「ええ。いけないんですか。」
「食べたけりゃ、ここでいっしょに食べたらいいじゃないかね。」
「ここでは、おいしくないや。ねえ、次郎ちゃん。」
 恭一としては、いつもに似ない言い方だった。
 次郎はお祖母さんとお芳の顔を等分に見くらべていた。お芳は、しかし、相変らず無表情な顔をしていた。すると俊三が、
「僕、ここで食べる方がいいや。」
 と自分のからだでお芳のからだをゆさぶるようにして言った。
「俊ちゃんは、じゃあ、ここで食べろよ。」
 恭一は、そう言って、菓子鉢の中のものを、わしづかみにして、いくつか俊三にやった。それは亀の子煎餅だった。俊三は平気でそれを受取った。
「次郎ちゃん、行こう。」
 恭一は、そう言いすてて、さっさと階段を上って行った。
 次郎もすぐ立ちあがった。彼は立ちがけに、もう一度お芳の顔を見た。
 お芳はその時、少し眼を伏せていたが、めずらしく光を帯びた視線を次郎にかえした。それには、たしかにある表情があった。次郎には、しかし、それが何を意味するかは少しもわからなかった。
 彼は、同時に、お祖母さんの視線を強く自分の頬に感じたが、それには頓着とんちゃくしないで、すぐ恭一のあとを追った。
 二階に行くと、二人は菓子鉢を机の上においたまま、しばらくじっと顔を見あっていた。
「次郎ちゃん、がっかりしなかった?」
 恭一がやっとたずねた。
「どうして?」
 と、次郎はわざととぼけたような顔をして見せたが、その頬の肉は変にこわばっていた。
「だって――」
 と、恭一は言いよどんで、菓子鉢を見つめていたが、
「これ食べようや。」
 と、急に亀の子煎餅をつまんだ。しかし、二人とも、それを口に運ぶというよりは、それに浮き出している模様をぼんやり眺めている、といったふうだった。
「母さん、変じゃあない?」
「どうして?」
「だって、次郎ちゃんが来ても、ちっとも嬉しそうな顔をしていないじゃないか。」
「そうかなあ。」
「次郎ちゃんは、そう思わなかった?」
「…………」
 次郎は眼を伏せた。そして、亀の子煎餅を指先でくだいては、鉢におとした。涙がこみあげて来るような気持だったが、彼はやっとそれをこらえた。
「僕、あんな人、きらいさ。」
 恭一はき出すように言って、急に煎餅をぼりぼり噛み出した。
 次郎は、しかし、すぐ恭一に合槌をうつ気にはなれなかった。彼には、何かしら未練があった。さっき立ちがけに見たお芳の眼の表情も思い出されていた。
「じゃあ、恭ちゃんも、可愛がって貰えないの?」
 次郎は妙に用心深い眼をしてたずねたが、それには、かなり複雑ふくざつな気持がこめられていた。恭一が可愛がられていないことは、彼としては安心なことのようにも思えたし、また、それだけお芳の愛が俊三に集中されていることのようにも思えたのである。
「僕?」
 と恭一は、いかにも冷たい微笑を浮かべて、
「僕は誰よりも大事にしてもらうんだよ。僕、それがいやなんさ。」
 次郎には、その意味がわからなかった。しかし、恭一はすぐつづけて言った。
「母さんはね、次郎ちゃん、お祖母さんの言うとおりなんだよ。僕を大事にするんだって、俊ちゃんを可愛がるんだって、みんなお祖母さんがいろいろ言うからさ。」
 次郎は、そう聞くと、かえって救われたような気がした。そして、さっきのお芳の眼の表情を、もう一度思い浮かべた。
「じゃあ、母さんは、俊ちゃんをほんとうに可愛がっているんじゃないの。」
 彼は、彼がふれるのを最も恐れていた、しかし、ふれないではいられなかったものに、巧みにふれる機会をとらえた。
「そりゃあ、ほんとうに可愛がっているかも知れんさ。だけど俊ちゃんを可愛がるからって、次郎ちゃんが久しぶりで来たのに知らん顔しているなんて、ひどいと思うよ。次郎ちゃんが可愛いなら、お祖母さんの前だって何だって、あたりまえに可愛がりゃあいいじゃないか。僕、ごまかすのが大きらいさ。」
 次郎は恭一の言葉がうれしいというよりは、もどかしい気がした。彼は、お芳がほんとうに俊三を愛して自分をうとんじているのか、それとも、単にお祖母さんの手前そんなふうにみせかけているのか、それをはっきり言ってもらいたかったのである。
 彼は、自分の俊三に対する嫉妬しっとを恭一にさとられないで、それをどうたずねたらいいかに苦心した。
「俊ちゃんは、あれからすぐ母さんが好きになったんかい。」
「好きになったんかどうか知らないけど、すぐ、わがまま言い出したよ。おおかた、父さんが、わがまま言ってもいいって言ったからだろう?」
「わがまま言っても、母さん怒らない?」
「ちっとも怒らないよ。わがまま言うと、よけい可愛ゆくなるんだってさ。」
 次郎の眼は異様に光った。彼は、自分がお芳に対して出来るだけ従順じゅうじゅんであろうとつとめていた一ヵ月まえまでの生活を思い起して、何かくやしいような気がした。彼はさぐるような眼をして、
「じゃあ、恭ちゃんもわがまま言えばいいのに。」
「馬鹿言ってらあ。僕、そんなこと、大嫌いだい。」
 恭一は、いかにも不快そうに答えた。次郎には、それは意外だった。自分が愛せられることだけに夢中になっていた彼には、恭一の潔癖けっぺきな気分がよくのみこめなかったのである。
「ねえ、次郎ちゃん――」
 と、恭一はしばらくして、
「僕、やっぱり、母さんなんか来ない方がよかったと思うよ。」
「どうして?」
「みんなが正直でなくなるからさ。母さんが来てから、みんな自分で考えてないことを、言ったり、したりするようになったんだよ。」
「母さんは、そんなにいけない人かなあ。」
「母さんがいけないんじゃないかも知れんさ。だけど、母さんが来るまでは、みんなもっと正直だったんじゃないか。このごろ父さんだって、嘘をつくことが多いぜ。お祖母さんなんか、しょっちゅう嘘ばかりだよ。」
 恭一は食ってかかるような調子だった。
「恭ちゃんも嘘をつく?」
「僕は嘘なんかつくもんか。僕、何でも思ったとおりに言ってやるんだ。だから、みんな困るんさ。困ったって、平気だよ。」
 次郎には家の中の様子が何もかも想像がつくような気がした。しかし、今の場合、彼にとって大事なのは、そんなことよりも、俊三とお芳との間が実際はどうだかを、はっきり知ることであった。
「じゃあ、俊ちゃんは?」
「俊ちゃん?」
 と、恭一はちょっと考えてから、
「俊ちゃんは僕にはよくわかんないや。母さんにわがまま言うのは、わざとじゃないだろうと思うけれど。」
「じゃあ、母さんが俊ちゃんを可愛がるのも、嘘じゃないんだろう。」
 恭一はまた考えた。そして、
「それも、僕には、はっきりわかんないさ。」
 次郎は物足りなさそうな顔をして、默りこんでしまった。
 二人はそれから、やたらに煎餅をかじりはじめた。もう日が暮れかかって、ただでさえうす暗い部屋が、一層暗かった。その中で、煎餅をかじる音だけが、異様に、二人の耳に響いた。
 菓子鉢も間もなくからになり、部屋はしんとして寒かった。しかし、二人はいつまでも階下したにおりようとはせず、机に頬杖をついたまま、からになった菓子鉢の底に、ぼんやりと眼をおとしていた。
 そのうちに、梯子段をのぼる重い足音がして、俊亮がのっそりと部屋にはいって来た。次郎は、あわてたようにいずまいを正して、ぴょこんとお辞儀をした。
「来たのか。」
 俊亮は、それだけ言って、つっ立ったまま、しばらく二人を見おろしていたが、
「二人とも階下におりたらどうだ。ここには火もないだろう。」
 次郎は、すぐ立ちあがりそうにして、恭一を見た。恭一は、しかし、いやに鋭い陰気な視線を次郎にかえしただけで、相変らず頬杖をついたままだった。
「今日は次郎が来たから、母さんに御馳走してもらおうかな。次郎、何がいい?」
 俊亮はそう言って微笑した。次郎は、また恭一の顔をのぞいた。恭一は、頬杖のまま顔をちょっと父の方に向けたが、すぐまた眼を伏せてしまった。
「牛肉の鋤焼すきやきかな。……そう、それがよかろう。みんなで、つっつけるからな。……恭一、お前、肉屋まで走って行って来ないか。」
 俊亮は愉快そうにそう言って、財布から五円札を一枚とり出し、それを机の上にほうりなげた。
「どのぐらい買って来るんです?」
 恭一は、急に元気らしく、五円札をつかんだ。
「食べたいだけ買って来るさ。……二斤もあればいいかな。」
 恭一はすぐ部屋を出た。しかし、梯子段のところまで行くと、ふりかえって言った。
「次郎ちゃんも一緒に行かないか。」
 その時、次郎は、俊亮に默って頭をなでてもらっているところだった。恭一にそう声をかけられると、彼はあわてたように、
「うん、行くよ。」
 と、とんきょうに答えて、急いで俊亮のそばをすりぬけた。
 俊亮は微笑した。次郎はあかい顔をして、恭一のあとを追った。
 二人が牛肉を買って来ると、めったに台所のことに口を出したことのない俊亮が、めずらしく、あれこれと指図さしずしてお芳に鋤焼の準備じゅんびをさしていた。俊三も、はしゃぎきって、お芳といっしょに、台所から茶の間に物を運んだりしていた。ただ、むっつりと火鉢のはたに坐りこんでいたのは、お祖母さんだけだった。
 すっかり準備が出来たのは、六時をかなり過ぎたころだった。
 明るい茶の間の電燈の下で、父と兄との間にはさまれて、鋤焼鍋をかこんだ時の次郎の気持には、何とも言えない温かさがあった。鉢に盛られた肉や、ねぎや、焼豆腐の色彩、景気のいい七輪の火熱、脂のはじける音、立ちのぼる湯気の感触とその匂い、――彼は、彼の味覚を満足させる前に、すでに彼の五官のすべてを鋤焼というものに集中さして、恍惚となっていた。
 彼にとっては、こうした食事の経験は、本田の家ではむろんのこと、正木の家でも、これまでに全くなかったことなのである。
「次郎、もうここいらが煮えているよ。」
 さっきから手酌で晩酌をはじめていた俊亮は、煮え立った鍋のなかに箸をつきこみながら、まや次郎をうながした。次郎は、しかし、まごまごして恭一の顔ばかり見た。そして、恭一が卵を割ると自分も割り、肉をはさむと、自分もはさんだ。
 子供にとって、味覚の世界はしばしば他のすべての世界を忘れさせるものである。次郎は、それから夢中になって鍋のものを口に運んだ。俊亮と恭一とが、かわるがわる、「もうここいらが煮えているよ」と言って、肉や葱を彼の前に押しやってくれるので、彼はほとんど箸を休める必要がなかった。お祖母さんがどんな眼をして彼を見ていたかも、俊三が鍋のなかのものをとるのに、どんなふうにお芳に世話をやいてもらっていたかも、彼はまるで知らないでいるかのようであった。しかし、食慾が満たされるにつれ、そして、鋤焼というものの刺戟が、次第にその新鮮味を失ってくるにつれ、彼の注意も、そろそろと周囲の様子にひかれて行った。
「母さん、僕、豆腐はいやだい。」
「ああ、そう、じゃあそれ母さんの皿にうつしてちょうだい。もうじき肉が煮えるから、待っててね。」
 俊三とお芳との言葉が、ます次郎の耳を刺戟した。しかし、なお一層彼の注意をひいたのは俊亮と俊三とのつぎの対話だった。
「俊三、お前母さんに甘ったれてばかりいるね。」
「甘ったれてなんかいないよ。」
「だってそう見えるぞ。」
「馬鹿にしてらあ。」
「じゃあ、今夜は次郎が母さんのそばに寝るんだが、いいかね。」
「そんなの、ないよ。」
「どうして?」
「だって、恭ちゃんはお祖母さん、次郎ちゃんは父さん、僕は母さんときまっているじゃないか。」
「誰がそんなこと決めたんだ。」
「お祖母さんが、いつもそう言ってらあ。」
 この対話が、次郎だけでなく、みんなの心を刺戟したのはいうまでもなかった。一瞬、鍋の煮立つ音が、いやに誰の耳にもついた。
 次郎は、しかし、同時に気持のうえで妙な矛盾むじゅんに陥っていた。というのは、もし、家族六人を二人ずつ組み合せるとすれば、俊三の言った組合わせこそ、次郎にとっては、最も好もしい組合わせだったからである。
(母さんなんか、どうでもいいや。)
 彼は、そんなふうにも、ちょっと考えてみた。しかし、そう考えると、やはりまた気持が落ちつかなかった。
「父さん!」
 と、その時、沈默を破って、だしぬけに恭一が言った。
「僕、そんなふうに二人ずつ組み合わせるのは、非常にいけないと思うんです、父さんは、それをいいと思うんですか。」
「そうさね。」
 と俊亮は、わざとお祖母さんの方を見ないようにして、ちょっと考えていたが、
「まあ、しかし、そんなことはどうでもいいだろう。」
「どうでもよくないんです。」
 恭一はがらりと箸を投げすてて、泣くような声で叫んだ。
「お祖母さんは僕だけのお祖母さんではないんです。次郎ちゃんにも、俊ちゃんにも、お祖母さんです。父さんだって、母さんだって、やっぱり三人の父さんと母さんでしょう。」
「そうさ。あたりまえじゃないか。」
「じゃあ、なぜ、次郎ちゃんが久しぶりで帰って来たのに、お祖母さんも……母さんも……」
 恭一はそう言いかけて、両手で顔をおおうた。そして、やにわに立ちあがって二階にかけ上ってしまった。
 俊亮は大きなため息をついた。お祖母さんは不安な眼をして恭一のあとを見送ったが、すぐその眼を転じて鋭く次郎を見つめた。お芳はじっとうなだれていた。俊三は牛肉をかみやめて、お芳の顔をのぞきこんだ。そして次郎は箸を握ったまま、ぽたぽたと涙を膝にこぼしていた。
 鍋の中のものは、かなり景気よく煮立っていたが、その音は何か遠くの物音を聞くようであった。

一一 蘭の画


 変にもつれた気分が翌朝になっても解けなかった。
 沈默がちな、まずい朝飯をすますと、俊亮は、茶の間の長火鉢のはたで、いつまでも一枚の新聞に目をさらしていた。恭一と次郎とは、何度もその前を行ったり来たりして、座敷の方に姿を消した。お祖母さんは仏間で何かかたことと音を立てていた。そしてお芳は、おくれて起きてきた俊三のために、台所でお給仕をしてやっていた。
 そこへ、だしぬけに、家の中の空気にそぐわない、はればれとした声で、
「お早う!」
 と挨拶をして、黒のつめ襟の服を着た人がはいって来た。大巻徹太郎だった。
「やあ、お早う。さあどうぞ。」
 と、俊亮は坐ったままで彼に挨拶をかえし、長火鉢の向こうに敷いてあった座蒲団をうらがえしにした。徹太郎はその上に無遠慮ぶえんりょにあぐらをかきながら、
「ゆうべは宿直で、今帰るところです。」
「そう。それはお疲れでしょう。……ご飯は。」
「学校ですまして来ました。……ところで次郎君は来ていませんかね。」
「来ていますよ。」
「じゃあ、今日は、今から私のうちにつれて行きたいと思いますが、どうでしょう。恭一君も俊三君もいっしょに。」
「それは、よろこぶでしょう。……おい、次郎……恭一。」
 俊亮が呼ぶと、二人はすぐ座敷の方から出て来た。
「やあ、次郎君、やっぱり来ていたんだね。どうだい、きょうは三人そろって叔父さんについて来ないか。お祖父さんもお祖母さんも待ってるぜ。」
 次郎は突っ立ったまま恭一の顔を見た。彼は徹太郎にこんなふうに親しく話しかけられるのが、きょうは何かそぐわない気持だったのである。
 恭一も変に落ちつかない眼をしていた。
「まあ、徹太郎さん、しばらくでございます。よくおいで下さいました。」
 と、その時、お祖母さんが仏間から出て来て徹太郎に挨拶をした。それから、突っ立っている二人を見て、
「お前たち、どうしたのだえ。お行儀がわるい。お辞儀を申しあげたのかえ。」
 二人はあわてて畳に手をついた。
「やあ。」
 と、徹太郎は二人に軽くお辞儀をかえし、
「どうだい、次郎君、正木には夕方までに帰ればいいんだろう。ついでに大巻にも寄って行くさ。少しまわり道になるが、今からすぐ出かけると、やいぶんゆっくり出来るぜ。」
「恭ちゃん、行こうや。」
 次郎は、もう乗気だった。
「うむ――」
 恭一は、まださっぱりしないふうだったが、強いて拒む理由も見つからないらしかった。
「俊三はどうだ。大巻のお祖父さんとこに行かないか。」
 まだ台所でお芳に世話をやいてもらっていた俊三に向かって、俊亮が言った。
 俊三は返事をしなかった。次郎がそっとその方をのぞいて見ると、彼はお芳の耳元に口をよせて何か囁いているところだった。次郎の眼は、われ知らず、それに吸いつけられた。
「どうだい、俊三。」
 もう一度俊亮がうながした。俊三はやはり返事をしない。そして相変らずお芳に何か囁いている。
 お芳は困ったような顔をして、何度も首を横にふっていた。
「俊ちゃん、早くしないと、恭ちゃんと二人で行っちまうよっ。」
 次郎がだしぬけに叫んだ。それはいかにも怒っているような声だった。
「いいんだようっ。母さんが行かないって言うから、僕も行かないようっ。」
 俊三は、鬼ごっこでもするような、ふざけた調子で答えて、ふりむきもしなかった。
 次郎はこみあげて来る無念さをごま化そうとして、変な作り笑いをしたが、さっきから自分を見つめていたらしい俊亮の眼にぶっつかると、急に立ちあがって二階にかけ上った。
 二階からおりて来た彼は、もう帽子をかぶっており、手には恭一の帽子まで握っていた。
「叔父さん、行きましょう。」
 彼は恭一の前に帽子をつき出しながら、徹太郎をせきたてた。
「まだお茶もあげないのに、何だね、次郎。」
 お祖母さんがそう言って叱ったが、彼はもうそれには頓着せず、さっさと靴をはき出した。
「お茶はもう結構です。……じゃあ、俊三君はこのつぎにするかね。」
 と、徹太郎は台所の方をのぞき、すぐ俊亮とお祖母さんとに挨拶して立ち上った。お祖母さんはいかにも不機嫌そうな顔をしていた。
 三人が門口を出るときには、お芳も俊三も見送って出ていたが、次郎はつとめて二人の眼を避けているようなふうだった。
「じゃあ、お宅を三時頃にはおいとまさして下さい。日が暮れると、正木で心配しますから。」
 俊亮のそんな心づかいをうしろに聞きながら、次郎は真っ先に立って歩いた。彼の足はやけに早かった。そして、町はずれを出てからも、誰とも口をきかなかった。
「中学校も三年になると、ちょっと学科がむずかしくなるねえ。」
「ええ。東洋史に覚えにくい名前が出て来て困るんです。」
「武道はどちらをやってるんだい。剣道?」
「いいえ柔道です。」
「君の体では、剣道の方がよくはないかな。」
「ええ、……でも、僕、面をかぶるのが嫌いなんです。臭くって。」
「だいぶ神経質だな。……べつに何か運動をやっているんかね。」
「やりません。」
「登山はどうだい。」
「好きです。僕、ときどき一人で登ります。この辺の山だけれど。」
「一人で? そうか。しかし登山はいいね。そのうち叔父さんが高い山につれていってあげようかな。」
「ええ。」
 徹太郎と恭一とが、そんな話をしているのを聞きながら、次郎はいつも一間ほど先を歩いていた。
「次郎君は、どうだい、登山は?」
 次郎はそう言われて、やっと二人と肩をならべながら、
「大好きです。」
「しかし、まだあまり登ったことはないんだろう。」
「学校の遠足で二三度登ったきりです。」
「じゃあ、もう少し暖くなったら、恭一君と三人で、天幕をかついで行って、山に寝てみようね。」
 次郎は眼を輝かした。徹太郎は、それからしきりに登山や露営の面白さを説き立てて、二人を喜ばした。
 大巻の家までは、せいぜい一里だった。で、十時近くには、三人はもう、そのふう変りなまきの立木の門をくぐっていた。
 運平老は、座敷に画仙紙をひろげて、絵をいているところだったが、恭一と次郎とが挨拶に行くと、老眼鏡をたかい鼻先にずらして、じろりと二人の顔を見た。そして、
「ほう、来たな。よし、よし。」
 と言ったきり、またすぐ絵筆を動かしはじめた。
 二人はちょっと手持無沙汰だった。しかし、運平老が絵を描いているのを実際に見るのは、二人ともはじめてだったので、そのまま坐って、絵筆の運びに見入っていた。
 画仙紙には、えたいの知れない線や点がべたべたとなすられていた。それが見ているうちに断崖のような形になった。そしてその中程から、長いひげみたようなものが、くねくねと幾筋も飛出して、それがたちまち蘭になった。
 蘭を描き終ると、運平老は画筆をおろして、ちょっと腕組をした。それから、今度はべつの筆をとり上げて、絵の右上の余白に一行ほど漢字を書いた。それは恭一にも次郎にもまるで読めない字だった。最後に運平老は「鉄庵居士」と書いて筆をいたが、この四字だけは、恭一にも次郎にも見覚えがあり、それが運平老の雅号がごうだということも以前からわかっていた。
「どうじゃ、学校の図画とはだいぶ違うじゃろう。」
 運平老は、やっと眼鏡をはずして、二人の方に向きなおった。
「学校の図画、あれは形だけのものじゃ。形だけでは、ほんとうの絵にはならん。ほんとうの絵は心で描くものじゃ。心の邪念じゃねんをはらって絵筆を握る。すると絵筆の先から自然に自分の気持が流れ出る。それがほんとうの絵じゃ。」
「邪念って、何です。」
 と、恭一がだしぬけにたずねた。その調子はいかにも真面目だった。
「うむ……」
 と、運平老は、ちょっと説明にきゅうしたらしく、その大きな眼玉をぱちくりさしていたが、
「邪はよこしま、念はおもいじゃ。よこしまなおもいと書いて邪念と読む。つまり迷いじゃな。人間はとかく自分に都合のよいことばかり考えて、怒ったり、悲しんだり、喜んだりする。それが迷いじゃ。心に迷いがあるとそれが絵筆に伝わって、自然に絵も下品になるのじゃ。」
 次郎には、運平老の絵が上品だか下品だか、さっぱりわからなかった。学校の図画の手本のような美しい絵が描けないくせに威張っているな、という気が彼にはしていた。しかし、運平老の言った言葉は、べつの意味で妙に次郎の心にひっかかった。彼はきのうからのことを考え、「迷い」という言葉が何か自分に関係のあることのような気がしたのである。
「お祖父さんは、きょうは蘭ばかり描くんですか。」
 恭一は運平老が今朝から描いたらしい何枚もの蘭の絵が、壁にピンでとめてあるのを見まわしながら、たずねた。
「うむ、今日は蘭じゃ。気持のいい蘭が出来るまでは、何枚でも描くのじゃ。」
 運平老はそう言って、いま描きあげたばかりの、まだ墨のかわかない絵を、以前のと並べて壁にとめた。その前に坐って、しばらく一心に見つめていたが、
「うむ、うむ。」
 と、一人で何度もうなずき、それから、また二人の方に向き直って、
「どうじゃ、これなら文句なかろう。」
 文句があるも、ないも、二人はどの絵を見ても同じ感じがするだけであった。で、返事をしないで、くすぐったそうに眼を見あわせた。すると、運平老は言った。
「蘭が一株、千仭せんじんの断崖に根をおろしてにおっているのじゃ。よいかな、たった一株じゃぞ。その一株の下は深い谷じゃ。断崖をつとうて、すっと見おろすと、白いあわをふいて水が流れている。流れにそうて森もあれば、畑もある。どこかに小さな人影も見えていよう。その上を鳶が輪に舞っているかも知れん。いい景色じゃ……。」
 運平老は、そこでちょっと言葉を切った。そしてまた何度もうなずいてから、
「今度は上を見るんじゃ。断崖は何十丈と上の方にものびている。じゃが、もうそこには一本の木も草もない。丸裸まるはだかの岩がただ真青な天に食い入っているだけじゃ。白い雲が一ひらぐらいは浮いているかも知れんがの。どうじゃ、これもいい景色じゃろう。」
 次郎には何のことやらさっぱりわからなかった。しかし、恭一が案外真剣な眼付をして絵に見入っているので、自分も仕方なしに、画面の天地の何も描いてない部分を、きょろきょろと見上げ見おろしていた。
 運平老は今度は絵と子供たちとを等分に見比べながら、
「天地をつなぐ断崖に根をおろして、天地を支配している蘭の心には何の迷いもないのじゃ。たった一株で淋しいとも思わんし、雨風にたたかれても苦にならん。花が咲く時には花を咲かせ、枯れる時が来たら括れるまでじゃ。わしも今日はひさびさで気持のよい絵を描いた。もうこれでおしまいじゃ。」
 そしていかにも愉快そうに、ひとりでうなずきながら、絵筆を筆洗にひたしていたが、
「二人とも、ようおとなしく坐っていたのう。いったい、いつ来たんじゃ。」
 二人は思わず顔見合わせて笑い出した。恭一は、しかし、すぐ真顔になって、
「お祖父さんが今の絵を描きかけた時です。」
「ああ、そうだったか。で、二人で来たかの。」
「叔父さんといっしょです。」
「おう、そうそう。徹太郎はゆうべは宿直じゃったな。なるほど、きょうお前たちをつれて来る約束じゃったわい。はっはっはっ。」
 運平老は、絵の世界から、やっとほんとうに自分にかえったらしかった。
 そこへ、大巻のお祖母さんが二人を呼びに来たので、運平老もいっしょに茶の間に出て行き、みんなで餅菓子を頬張った。
 餅菓子を頬張りながら、徹太郎はまた登山の話をはじめた。そして崖に生えている植物の採集の話をし出すと、運平老は得たりとその話をさっきの蘭の絵にもって行き、徹太郎にさっそくそれを見て来るように言った。徹太郎は、
「またお父さんの独りよがりではありませんかね。」
 と、笑いながら座敷の方に立って行ったが、間もなく帰って来て、
「やっぱりあれはただの蘭ですよ。高さの感じがちっとも出ていません。あれじゃあ、庭石の横っ腹に生えた蘭だと見られても、仕方がありませんね。」
 運平老は眼をくるくるさして、
「なに、庭石の横っ腹じゃと。お前のような平凡な学校の先生には、墨絵の心は到底わからん。お前よりは恭一君の方がよっぽどわかりがよさそうじゃ。」
 恭一の顔がかすかに赧らんだ。
「ふ、ふ、ふ。」
 と、徹太郎は悠然とあぐらをかいて、餅菓子に手をのばしながら、
「恭一君、お祖父さんの説明にだまされちゃいかんぞ。説明つきの絵なんて、元来印刷物より外にはないはずだからな。」
「けしからんことを言う。水彩画や油画こそ、絵全体が説明ではないか。わしの描く墨絵には、一点の説明もありゃせん。」
「そのかわり、口で説明するんでしょう。」
「そりゃあ、素人には一応の説明をしてやらんと、絵の深さというものがわからん。説明してやっても、お前のような低能には、結局わからんがな。」
「また低能か。まあそこいらで負けときましょう。……ところで、どうだい、恭一君、君にはほんとうのところ、あの絵が高い崖に生えている蘭のように思えたのかい。」
「はじめはそんな気がしなかったんです。だけどお祖父さんの話を聞いているうちに、何だか高い崖のように思えて来ました。」
 恭一はすこぶる真面目だった。
「そうれ、どうじゃ。」
 と、運平老は得意そうに、
「恭一君は素直じゃから、話せばわかるんじゃ。」
「話せばわかるんで、話さなかったらわかりますまい。」
「いいや、素直な心があればわかるんじゃ。恭一君のような素直な心で、少し絵になれてさえ来ると、わしの話など聞かなくても、おのずとわかるようになるものじゃ。そこはお前のようなあまのじゃくとはわけがちがう。」
「今度は、あまのじゃくか。いよいよ僕の敗北らしいな。」
 徹太郎はにやにや笑いながら、次郎を見て、
「どうだい、次郎君は。君もお祖父さんの話でわかった方なのかい。」
 次郎には返事が出来なかった。彼は最初のうちは、徹太郎が運平老を冷やかしているのがばかに面白かった。むろん、彼自身も、蘭が断崖の高いところに生えているというふうには、少しも感じていなかったのである。しかし、運平老が恭一をほめ出してから、彼の気持は急に変った。そして自分の感じを率直に言うことが、何か自分のねうちを落し、運平老から離れて行く結果になりそうな気がしてならないのだった。
「いやに考えてるね。考えることなんかないだろう。お祖父さんの絵が駄目なら駄目と、思ったとおりに言うだけなんだから。」
 徹太郎にそう言われると、次郎はいよいよまごついた。そして徹太郎と運平老との顔を何度も見くらべてから、やっと答えた。
「僕、わかんないなあ。」
 答えてしまって彼はすぐ後悔した。誰の様子にもべつに変ったところはなく、ただほんの二三秒間沈默がつづいただけだったが、その沈默の間、これまでとはちがった、かたい空気が、急にその場を支配したように彼は感じたのである。
「わかんないか。そいつぁ、次郎君、少しどうかしているぞ。……しかし、まあいいや。きょうは恭一君がお祖父さんの味方らしいから、名画が一枚出来たことにしておこう。」
 徹太郎はそう言って、大きく笑った。運平老も笑った。そして肩をつんといからしながら、
「誰が何と言おうと、あれだけはわしの近来の傑作じゃ。その証拠には、わしは二人がいつ座敷にはいって来たかも知らないで、無心に筆を運んでいたんじゃ。」
 それはいかにも変な論理だった。しかし、もう徹太郎には、それを攻撃の材料にする気はなかった。そして絵の話はそれでけりがついた。お祖母さんは、さっきから気乗りのしない顔をしてふたりの話をきいていたが、茶棚の置時計に眼をやって、
「おやもう十一時だよ。ご馳走は何にしようかね。」
「さあ、なるだけうまいものがいいですね。蒲鉾かまぼこなら、僕、町から買って来て、戸棚にしまっておいたんです。」
「今日は大堀がさるんで、ひるからだと小鮒と鰻が手にはいるんだがね。」
「あっ、そうそう、今日でしたね、大堀の干さるのは。じゃあ、僕行ってみましょう。もういくらか受籠うけかごにはいってるかも知れません。」
 徹太郎は、せき立てるように恭一と次郎とをうながして、いっしょに大堀に行った。
 大堀というのは、村で一番大きな灌漑かんがい用の溜池だった。この辺では、春になると溜池の水を順ぐりに川に落し、底にたまった泥を汲みあげて畑の肥料にするのだったが、今日はその大堀を干す番になっていたのである。
 三人が着いた時には、堀の上にしつらえられた二つの足場に、百姓たちが二人ずつ立って、八本の綱でつるしたいびつな桶を巧みにあやつりながら、もう泥を汲みあげているところだった。堀の底にも泥まみれになった人が五六人居り、小桶で泥水を足場の方にかきよせていたが、おりおり鰻や鯰を揃えては岸にほおりあげていた。汲みあげられた畑の泥の中には、小鮒がぴちぴち動き、隅の方の泥のよどんだところには、もう田螺たにしがそろそろと這い出していた。
受籠うけかごの方はどうだったい。ちっとは這入ったかね。」
 徹太郎がたずねると、堀底の一人が大声で答えた。
「鮒は少のうござんしたよ。その代り今年は鰻が豊作でな。」
「少々でいいが、早速わけてもらえないかね。町から小さいお客を二人つれて来たんだが。」
「ようがすとも。」
 気持よくそう答えて、その男は大堀の出口に築いてあるせきをこえて向う倒に姿を消した。
 徹太郎たちが、岸をおりてその方に行くと、受籠はもう引きあげられて、その中には鮒がはね、鰻がぬるぬると動いていた。
 三人は、次郎のさげていた魚籠びくに、いくらかの鮒と鰻をわけてもらって、すぐ帰った。
 帰ると、徹太郎は、鮒だけをお祖母さんに渡し、鰻は蒲焼にするために自分できはじめた。次郎は始終熱心にそれを見ており、自分でも何かと手伝ったりしたが、恭一は、鰻の頭にきりが突きさされるごとに眼をそらした。
 午飯は一時近くになった。
 大巻の家としては、近来にない賑やかな食卓だった。ご馳走は、鮒の味噌汁のほかは、すべて鉢盛りにしてあり、めいめい好きなものをとって食べるようになっていたが、これは恭一にも、次郎にも、いつもと勝手がちがっていた。しかし、二人は、何か自分たちの経験したことのない、なごやかな空気を、そんなことにも感じるらしかった。
 次郎は盛んに鰻に箸をつけ、恭一は鰻よりも蒲鉾の方を多く食った。
 食事がすんで小半ときもたつと、運平老は次郎に剣道の稽古をつけてやった。恭一にもすすめたが、彼はどうしても面をかぶろうとしなかったので、徹太郎は彼を二階の書斎につれて行って、勝手に本を見さした。
 本棚には、少年読物から哲学書まで、かなり広い範囲はんいの本がならべてあった。絵の鑑賞かんしょうに関する本も二三冊あった。恭一は午前の話を思い出して、先ずそのなかの一冊を引き出してみた。
「恭一君は、やはり絵に趣味があるんだね。」
 徹太郎にそう言われて、彼は頭をかいたが、それでも、挿画になっている名画の説明に、いつまでも眼をさらしていた。
 次郎と運平老とが剣道をすまして帰って来ると、またみんなが茶の間に集まって、パイナップルの罐詰かんづめ[#ルビの「かんづめ」は底本では「かんずめ」]をあけた。運平老と徹太郎とは、何かにつけ恭一と次郎とをそっちのけにして、例の調子で論戦を始めるのだったが、話題はいつも世間ばなれのした、罪のないことばかりだった。そして、どちらに歩があっても、最後はきまって高笑いに終った。恭一と次郎とは、話がわかってもわからなくっても、何か自分たちの知らない新しい世界を見せられるような気持だった。
 三時きっかりになると、徹太郎が、だしぬけに言った。
「さあ、もう帰る時間だ。これから叔父さんが迎えに行かなくても、ちょいちょいやってくるんだぜ。」
 次郎は未練らしく恭一を見たが、恭一はすぐ帰る挨拶をした。するとお祖母さんが、心配そうに、徹太郎を見て、
「次郎ちゃんは正木に帰るんじゃないのかい。一人でいいのかね。」
「いつも一人ですよ。……ねえ次郎君。」
 と、徹太郎は次郎の頭をくるくるなでた。次郎はうつむいていた。
「ほう、いつも一人か。」
 と、運平老はまじまじと次郎の顔を見ていたが、
「これからは、町に行ったら、帰りにはきっとここにも寄ることにするんじゃぞ。恭一君もその時にはいっしょにやって来い。君にはこれから絵を教えてやる。」
 それで徹太郎はまた笑いながら、
「そうれ始まった。恭一君、めったに陥落かんらくしちゃいかんぞ。」
 大巻の家を出ると、次郎はなぜか急にしょんぼりとなった。県道に出るまでは、二人はいっしょの道だったが、しばらくはどちらからも口をきかなかった。
 村はずれに来たころ、恭一が言った。
「大巻の家って、いい家だね。」
「うん。」
「あんな家だと、誰でも正直になれるね。」
 次郎は、ちらりと恭一の顔を見ただけで、返事をしなかった。
「次郎ちゃんは、そんな気がしない?」
「するよ。」
「僕たち、今日来たの、よかったね。」
「うん。」
「僕、こないだお祖母さんと来たんだけど、その時はつまんなかったよ。」
「お祖母さんと? 一度っきりかい。」
「そうさ、一度っきりだよ。」
「母さんとは来なかったんかい。」
「ううん。お祖母さんと来たっきりさ。お祖母さんは、僕が母さんと大巻に行くの、嫌いなんだよ。」
「俊ちゃんは?」
「俊ちゃんはもう母さんと何べんも来たんだろう。」
 次郎は默りこんだ。恭一はそれに気づくと、あわてたように話頭を転じた。
「大巻のお祖父さんの絵の話は面白かったね。」
「うん。」
「あんな話、非常に僕たちのためになると思うよ。」
「うん。」
 次郎には、正直のところ、話の意味がはっきりとわかっていなかった。しかし、恭一にそう言われると、何か自分に忠告でもされているような気がするのだった。恭一は独りごとのように、
「僕、教えてもらえるんなら、ほんとうに稽古をしてみようかなあ。」
「絵をかい? 大巻のお祖父さんに。」
「うん。町からだと近いんだから、僕、いつでもこれるよ。」
 次郎はまた默りこんだ。恭一は、しかし、今度は少しもそれを気にしなかった。そしてしきりに、大巻のお祖父さんにもっと近づいてみたいような話をした。
 別れ道に来ると、恭一は立ちどまってたずねた。
「こんどは、いつ来る?」
「わかんないや。」
 恭一には、それがいかにも投げやった調子にきこえた。
「町に来るの、いやなんかい。」
「…………」
 次郎は眼を伏せた。
「ねえ、次郎ちゃん――」
 と恭一は次郎の肩に両手をかけて、
「負けちゃあ、つまんないよ。僕たち、大巻のお祖父さんが描いた蘭になるんだ。誰にだって負けるもんか。正しい人を憎む人があったら、その人が悪いさ。僕、そんな人を軽蔑するよ。お祖母さんだって、母さんだって。」
 次郎は涙ぐんでいたが、
「僕、憎まれたってもう何ともないよ。……僕、これから正直になるんだい。」
 恭一は、次郎の言った言葉の前後の関係が、はっきりしなくて、ちょっと考えていた。
 すると次郎は、
「さようなら。」
 と、だしぬけに身を引いて、自分の行く方角にさっさと足を運び出した。
 恭一は、次郎が小半町もはなれるまで、突っ立って彼を見おくっていたが、やっと気がついたように、
「さようなら!」
 と叫んだ。次郎もふりかえって、もう一度、
「さようなら!」
 と叫び、それから急に足を早めた。
 ちらほら咲き出していた菜種の花が、うす日をうけてはだ寒い春風の中にそよいでいた。次郎にはいやにそれが淋しかった。二里あまりの道を、彼はうつむきがちに歩いた。そして考えるともなく昨日からのことを考えはじめた。
 本田の家でのことを思うと、彼の気持はめちゃくちゃだった。夢中で牛鍋をつついた時の喜びでさえ、今はかえってにがい思い出でしかなかった。それにくらべて、大巻の家の空気は何という明るさだったろう。それは同じ人間の世界だとは思えないほどちがった世界で、誰も彼もが好意にあふれ、すべてが賑やかで、しかも力にあふれていた。次郎は、大巻の家のことを考えると、それがお芳とどういう関係の家であるかも忘れてしまうくらいであった。
 ところで、大巻の家の楽しい思い出にまじって、彼の胸には、何か割りきれないものが残っていた。それは運平老に絵の話を聞かされたり、徹太郎に質問されて、あいまいな答えをしたりした時から、そろそろ芽を出していた感じだったが、一人になってその時のことを思うと、いよいよそれが重くるしく彼の胸をおさえつけるのだった。
 これまで、彼が不快な思いをする時には、その原因はいつも周囲の人にあったが、この時だけはそうでなかった。彼は自分自身に、ある大きな物足りなさを感じはじめていたのである。
(自分は、自分を可愛がってくれる人が、なぜこんなに、ほしいのだろう。そして恭ちゃんや俊ちゃんが誰かに可愛がられているのを見ると、なぜいつもいやな気持になるんだろう。また自分は、人が正直でないと誰よりも腹が立つくせに、自分はなぜ嘘をついたり、ごまかしたりするんだろう。これが大巻のお祖父さんの言った「迷い」というのだろうか。)
(自分は卑怯なのだろうか。これまで、恭ちゃんなんかより自分の方がずっと強いと思っていたが、何だかあやしくなって来た。恭ちゃんはいつも真っ直な心で押しとおしているし、心にもないことを言ったりして、人に可愛がってもらおうとはしない。それに、このごろ恭ちゃんといっしょにいると、なぜかときどき恐いような気にさえなる。)
 はっきりとではないが、彼の頭の中には、そんなような疑問が往復していた。幼年時代からの運命につちかわれて来た彼の心理の複雑さが、こうして、そろそろと自覚的な仂きをみせるまでに、彼も今は成長していたのである。
 えた者が食物をつかもうとして、われを忘れて手をのばしている間は、まだ仕合わせである。だが、手をのばした自分の姿の弱さや醜さに嫌悪けんおを覚え、ひもじさをこらえて、じっと立ちすくんだ時のみじめさは、どうであろう。それを思うと、次郎はある意味では、これまでにない大きな不幸、しかも、周囲の人たちに同情してもらうにはあまりに底に沈みすぎた不幸に、自分自身を押しやっていたともいえるだろう。
 夕雲に包まれた春の陽光は、一足ごとに鈍くなった。次郎の靴音も重かった。
 ふだんなら、二里や三里は彼にとって何でもない道のりだったが、正木についた時の彼は、誰の眼にも、疲れきっているように見えた。そしてみんなが不思議がっていろいろたずねても、彼は、
「何でもないよ。」
 と答えるきりで、ともすると、何かをじっと見つめがちになるのだった。

一二 考える彼


 さて、読者の中には、次郎がいつまでも同じ年頃に停滞ていたいしているのを、いくぶんもどかしく思っている者があるであろう。考えてみると、次郎は、母に死に別れてから、まだやっと半年を少しこしたばかりである。話の進行は、実際、のろすぎたようだ。次郎に一日も早く恋をさせたり、広い世間を見させたりしたがっている読者のためには、私は私の物語をもっと急ぐべきであったかも知れない。
 だが、誰もが知っているように、人間の「運命」の波というものは、恋をする時とか、広い世間と取っくみあう時とかばかりに、高まって来るものではない。次郎のように、まだ生まれたばかりの時に、一生のうちの頃も高い「運命」の波をくぐりぬけなければならない人も、ずいぶん多いのである。そして、私がこの物語を、単なる興味本位の小説に仕組もうとしているのでなく、次郎という一個の人間の生命を、「運命」と「愛」と「永遠」との交錯こうさくの中に描こうとしているかぎり、私は、この半年ばかりの彼の生活についても、そう無造作に筆をはぶくわけにはいかなかったのである。というのは、元来、継母を迎えるということは、人間の一生にとって、恋に落ちたり、広い世間の風にもまれたりすることよりも、小さな運命だとは決していえないし、ことに次郎の場合は、それがいろいろの事情とからみあって、ついに十四歳の少年としてはあまりにもむごたらしい、自己嫌悪けんおにまで彼をり立てようとしていたからである。
 だが、私としても、そういつまでも十四歳の次郎ばかりにこびりついているつもりはない。もっと成長した彼について、これから語らねはならないことも非常に多いのである。ここいらで、次郎がいよいよ中学にはいってからの話に飛んで行きたいと思うが、しかし、自己嫌悪というような、人生の重大な危機におちいりかけた彼から、一年近くも全く眼をはなしてしまうのも心もとないし、それでは、やはり、彼の「運命」を忠実に語ることにもならないと思うので、ついでに、彼が中学にはいるまでのことを、ごくかいつまんで話しておくことにしよう。
「次郎もめっきり大人おとなになった。」
 それがその後、正木一家の人たちが次郎について語る時の合言葉のようになっていた。むろんこの言葉の意味は単純ではなかった。その中には、「あの子も苦労をしたものだ」という燐憫れんびんの情や、「ともかくも変にそれなくてよかった」という安心の気持や、また時としては、「もっと子供らしいところがあってもいいのに」という遺憾いかんの意味やがこめられていたことは、たしかである。だが、それ以上の意味でその言葉をつかっていた者が、果してあっただろうか。
 十四歳の少年が、自分というものを一瞬も忘れることが出来ないでいる! 愛を求める自分の心に嫌悪を感じはじめている! 自己をいつわる自分の姿のみにくさにおびえて、手も足も出なくなっている! そんなことを誰がいったい想像することが出来たろう。
 自分を忘れかねている次郎の心を一層窮屈きゅうくつにしたのは、正木のお祖父さんが、おりおり考え深い眼をして、じっと彼を見つめることだった。次郎はその眼に出っくわすと、いよいよ手も足も出ない気持になったのである。次郎の記憶する限りでは、お祖父さんがそんな眼をして彼を見つめるのは何も今はじまったことではなく、彼が正木に預けられてこのかた、よくあることではあったが、このごろになって、彼はそれがとくべつ気になり出して来たのである。それがなぜだかは、彼自身にもわからなかった。彼はただ、自分が用心ぶかくなればなるはど、その眼に出っくわすことが多くなり、その眼に出っくわすことが多くなればなるほど、いよいよ用心ぶかくならないでは居れない気がするのだった。
大人おとなになった」という言葉が、自然彼の耳にじかに聞えて来ることも、決してまれではなかった。そんな時には、彼は、自分が、いかにもしっかりした人間になった、と言われたような気がして、心の底でいくぶんの誇りを感じた。しかし、同時に、何か淋しい気もした。また、ほめられて喜ぶ自分の心をあざけるような気持にもなろた。彼はそうした複雑な気持をかくすために、人々のまえで、つとめて平気を装うのだった。
 こんなふうで、正木の家での彼は、表面取りたてて問題になるようなこともなかったが、それだけに、彼はいつも自己の天真をいつわり、彼自身をますます不愉快なものにしていたのである。尤も、彼がこうして自己嫌悪に似たものを感じていたとしても、それは、もともと彼の負けぎらいから来た人相手の感情でしかなく、その点では、彼はまだ何といっても子供であった。だから、正木の家で、「めっきり大人になった」ということは、必ずしも、彼が全く救いがたい人間になった、ということではなかったのである。
 本田の家での彼は、正木にいる時とはまるで様子がちがっていた。
 彼はやはり月に一度ぐらいは、正木の老夫婦にすすめられて、町に訪ねていったが、もう、お祖母さんに対しても、少しも負けてはいなかった。彼はずけずけと口答えもするし、食べたいもののありかがわかると、勝手に自分でそれを引き出して来て食べもした。そのために、お祖母さんは俊亮の前で、「末恐ろしい子」だとか、「孫にまでこんなに馬鹿にされては、生きている甲斐がない」とか、やたらに大げさな言葉をつかって、泣いたり、わめいたりするのだったが、次郎はそんな時には、わざとのように自分から二人のまえに坐って、父に叱られるのを待っているようなふうを見せた。そして、俊亮がお祖母さんの手前、何か小言めいたことを言い出すと、次郎はすぐ、
「僕、恭ちゃんや俊ちゃんの真似をしては悪いの?」
 と、いかにも皮肉な調子で問い返すのだった。
 俊亮は、むろん次郎のそうした態度を心からうれえた。で、ある時、次郎だけをわざわざ散歩につれ出して、野道を歩きながら、しんみりと言いきかせたこともあった。しかし、次郎はその時も、変に真面目くさった顔をして答えた。
「でも、父さん、僕正直になる方がいいんでしょう。」
 これには俊亮もあっけにとられて、つい、突っ放すように言った。
「そんなふうでは、もう誰にも可愛がってもらえないよ。」
 すると次郎は、急に立ちどまって、じっと俊亮の顔を見つめていたが、
「僕、人に可愛がってもらうことなんか、きらいになっちゃったさ。」
 と吐き出すように言い、さっさと一人で先に帰ってしまったものである。
 お芳に対しては、彼は、まるで赤の他人に対するような冷淡さを示した。自分の方から言葉をかけることなどほとんどなく、お芳に何か言われても、極めてそっけない返事をするだけだった。そして俊三がお芳の近くにいるかぎり、彼はつとめてその場をさけようとするかのようであった。
 彼の相手はいつも恭一だけだった。恭一と二人きりだと、彼の様子はほとんど以前と変りがなかった。ただ、おりおり、祖母や母に対する自分の態度の変化を誇るような口ぶりを、それとなくらすことがあった。そして恭一がそれについて少しでも彼に忠告めいたことを言い出すと、彼はすぐ、
「僕、正直になりたいんだよ」とか、
「人に可愛がってもらったって、つまんないさ」とか、妙に力んだ調子で言って、あとは変に默りこんでしまうのだった。
 彼が一番のんきな気持になれたのは、大巻を訪ねる時だった。そこでは、彼は、自分のこの頃の変な気持を示す余地をまるで与えられないかのようであった。というのは、運平老と徹太郎との、例の飄々乎ひょうひょうことした話っぷりや、高笑いが、彼の気持、というよりは、彼の存在そのものにまるで無頓着らしく思えたからである。それはちょうど、泣いている子供が、泣いていることを無視されることによって、泣きやむようなものであったのかも知れない。
 もっとも、運平老にしろ、徹太郎にしろ、次郎がこのごろどんなふうだかを、お芳の口から何も聞いていないわけではなかった。お芳は元来口下手だったし、自分から進んでくわしい話をしたがるようなふうもなかったが、やはり次郎のことを苦にはしていたらしく、本田のお祖母さんの手まえ、表面だけでも俊三によけい親しんでやらなければならないということ、親しんでやっているうちに、末っ子のせいか、自分ながら不思議なほど彼に愛情を感じ出したということ、また、次郎に対しても愛情を感じないわけではないが、ついそんな事情から、しだいに気持が離れて行くような結果になり、次郎本人に対しては無論のこと、俊亮に対しても心苦しく思っているということなどを、ぼつぼつもらしていたのである。
 で、大巻一家、ことに運平老と徹太郎の二人は、お芳以上にそのことを心配して、日曜ごとに次郎が訪ねて来るのを待ち、ついにその姿が見えないと、翌日は徹太郎がわざわざ本田の家に寄って、それとなく様子をさぐって来るといったふうであった。
 しかし、運平老は、次郎が訪ねて来さえすれば、もうそれだけで嬉しくなってしまったというふうに見え、眼をぱちくりさして、ひょうきんなことを言い出すし、徹太郎は徹太郎で、運平老の言葉尻をとらえたり、それに調子を合わせたりして、次郎をすぐ愉快な空気の中にまきこんでしまうのであった。そして、多少でも次郎が何かにこだわるようなふうが見えると、運平老はすぐ彼に竹刀を握らせるし、徹太郎だと、登山の話をしたり、彼を田圃たんぼにつれ出してひっぱりまわしたりするのだった。
 登山というと、徹太郎が、約束どおり、恭一と次郎とをつれて山に寝たことも何度かあった。そんな時には、次郎は徹太郎をまるで友達ででもあるかのように心得て、おしゃべりもし、いたずらもした。そして、天幕を張ったり、薪を集めたりする時には、恭一とはくらべものにならないほどのすばしこさで仂いた。
 恭一と次郎とでは、登山の楽しみ方がまるで違っているように思われた。恭一はいつも考えながら歩き、おりおり手帳を出しては何か書きつけるといったふうだった。次郎は、これに反していつも棒ぎれで岩や木を叩いたり、大声を出して山彦と問答をしながら歩いた。正木や本田の家での次郎を知っている者の眼には、山に登る時の次郎は、まるで別人だと思われたかもしれない。
 もっとも、ただ一度だけ、徹太郎と恭一とを非常に心配さしたほど次郎が考えこんでしまったことがあった。それは、ある山の中腹で、弁当を食べながら、近くの大きな岩の裂目に根を張っている松の木について、三人が語りあったあとのことだった。
「君たちには、あの岩が動いているのがわかるかい。」
 徹太郎が、松の木の根元の岩を指しながら、だしぬけにたずねた。恭一と次郎とは、けげんな顔をして、その岩を見たが、岩はしんとして日光の中にしずまりかえっているだけだった。
 徹太郎は笑いながら、
「眼で見たってわからんよ、心で見なくちゃあ。」
 すると恭一がすぐ、
「ああ、そうか。」
 と言って、次郎の顔を見た。次郎は、しかし、まだきょとんとしていた。
 それから、恭一と徹太郎との間に次の問答がはじまった。
「叔父さんは、子供の時分からあの松の木を見ていたんですか。」
「うむ、見ていたとも。」
「じゃあ、その時分から岩がどのくらい動いたか、わかってるんですね。」
「どのくらい? それはわからんよ。何しろ、見たところは、私の子供のころとちっとも変っていないからね。しかし、いくらか動いたことはたしかだろう。松の木が大きくなって行くんだからね。」
「昔は、あの岩は、一つにつながっていたんでしょうね。」
「むろん、そうだろう。松の木をぬきとって両方から押しよせてみたら、今でもぴったりくっつきそうじゃないか。」
「松の木って強いもんですね。」
「うむ強い。しかし強いのは松の木ばかりではないさ。命のあるものは、何だって強いんだ。草の根でも、それがはびこると石垣を崩すことがあるんだからね。」
「ほんとうだ。」
 と恭一はしばらく考えて、
「この松の木だって、もとは草みたいなものだったんですね。」
「そうだ。最初岩の割目に根をおろした時には、指先でもふみつぶせるほどの柔いものだったんだ。それがどうだ、このとおり固い岩を真二つに割って、それをじりじりと両方に押しのけている。眼には見えないが、今でも少しずつ、押しのけているにちがいないんだ。この松の木を見たら、命というものがどんなものだか、よくわかるだろう。」
 次郎の眼は光って来た。そして、徹太郎と松の木とを等分に見くらべながら、耳をすましてきいていた。
「だが――」
 と、徹太郎はちらと次郎を見て、
「命も命ぶりで、卑怯な命は役に立たん。卑怯な命というのは、自分の運命を喜ぶことの出来ない命なんだ。……わかるかね。自分の運命を喜ぶって。」
「ええ、わかります。」と恭一が答えた。
「次郎君はどうだい、むずかしいかな。」
 次郎はちょっとまごついたが、すぐ、
「運命って、わかんないな。」と素直に答えた。
「なるほど、運命がわからんか。じゃあ境遇と言ってもいい。たとえばあの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂目さけめに落ちこんだとする。それはその種にとって運命だったんだ。つまり、そういう境遇に巡り合わせたんだね。そんな運命に巡り合わせたのはその種のせいじゃない。種自身では、それをどうすることも出来なかったんだ。わかるだろう。」
「わかります。」
 と次郎はちょっと眼をふせた。
「そこで、運命を喜ぶということなんだが、どうすることも出来ないことを泣いたりうらんだりしたって、何の役にも立つものではない。それよりか、喜んでその運命の中に身を任せることだ。身を任せるというのは、どうなってもいいと言うんじゃない。その運命の中で、気持よく努力することなんだ。それがほんとうの命だ。あの松の木の種には、そういうほんとうの命があった。だから、しまいには運命の岩をぶち破り。それをつきぬけて根を地の底に張ることが出来たんだ。松の木は今でも岩にはさまれたままたが、もうそんなことは、松の木にとって何でもないことになってしまったんだ。」
 次郎はふと、運平老の蘭の絵のことを思い起した。そして、お祖父さんはあの時どんな話をしたんだろう、と考えてみたが、はっきり思い出せなかった。
 それから、三人とも默りこんで、めいめいに何か考えているふうだったが、しばらくして徹太郎がまた話し出した。
「君らはこれまで、運命と闘うように教えられて来たかも知れん。それも嘘じゃない。結局は運命に勝たなければならんからね。だが、闘うことばかり考えていると、つい、無茶をやるようになるんだ。無茶では運命に勝てん。勝とう勝とうとあせって、自分の力に及ばないことや、道理にはずれたことをすると、かえって負ける。芽を出したばかりの松は、どんなに力んでみてもすぐには岩は割れない。また大きくなった松でも、幹の堅さだけで岩を割るわけにはいかない。岩を割る力は幹の堅さでなくて、命の力なんだ。じりじりと自分を伸ばして行く命の力なんだ。だから、運命に勝ちたければ、じりじりと自分を伸ばす工夫をするに限る。勝つとか負けるとかいうことを忘れて、ただ自分を伸ばす工夫をしてさえ行けば、おのずとそれが勝つことになるんだ。」
 徹太郎の調子は、ふだんとはまるでちがって来た。次郎は何か叱られているような気持だった。
「だが――」
 と徹太郎は少し考えて、
「自分を伸ばすためには、先ず運命に身を任せることが大切だ。岩の割目で芽を出したら、その割目を自分の住家にして、そこで楽しんで生きる工夫をするんだね。岩を敵にまわして闘うのじゃない。むしろ有難い味方だと思って、それに親しんで行く。それでこそほんとうに自分を伸ばすことが出来るんだ。運命を喜ぶものだけが正しく伸びる。そして正しく伸びるものだけが運命に勝つ。そう信じていれば、まず間違いはないね。……どうだい、叔父さんの言うことは少しむずかしかったかね。恭一君にはわかったろう。」
「ええ。」
 と恭一はうなずいて次郎を見た。
 次郎は、その時、一心に松の木を見つめていたが、日がかげっていたせいか、その顔色は、何となく、くすんで見えた。
 三人は、間もなく弁当がらの始末をして、そこを去った。そしてそれっきり松の木の話は誰の口にものぼらなかった。しかし、次郎が、徹太郎と恭一とを心配させたほど考えこんだのは、それからのことであった。次郎は、その日じゅう、自分からはほとんど口をかなかった。そして大きな木の根さえ見ると、立ちどまってじっとそれを見つめる、といったふうであった。
 もっとも、このことが、その後次郎の気持にどれだけの影響を与えたかは、はっきりしなかった。彼は相変らす正木では「大人」であり、本田では反抗的であり、大巻では割合無邪気だった。ただいくらか変ったところがあったとすれば、それは徹太郎に対する彼の態度だった。徹太郎は、もう次郎にとって、ただの愉快な叔父さんではなくなっていた。その前で、べつに非常な窮屈きゅうくつさを感ずるというふうでもなかったが、何か知ら、これまでのように彼を友達あつかいに出来ないものを感じるらしかった。そして、いつとはなしに、権田原先生に対すると同じような気持で、彼に対するようになって来たのだった。
「やっぱりお前は平凡な先生じゃ。」
「いや、今度は何と言われても、私の失敗でした。」
 運平老と徹太郎とが、そう言って笑ったのは、それから間もなくのことだったのである。
 学校での次郎の様子には、表面取り立てて言うほどの変化はなかった。どちらかというと、正木の家でと伺じように、いくぶん「大人になった」と先生たちの眼には映っていたらしい。中学校に失敗した連中のなかでも、彼の成績はずばぬけてよく、自然、級長もやらされていたが、彼はやるだけのことはきちんきちんとやってのけた。また、仲間に対する威力も相当で、彼が口をきくと、たいていのことは治まる、といったふうであった。こうしたことは、以前からもそうであったが、日がたつにつれて、それがいよいよがっちりとなって行くように、誰の眼にも見えたのである。
 ただ、権田原先生だけは正木や本田といつも連絡れんらくがあり、また徹太郎とも知合いで、いろんな機会に次郎の話をすることであったせいか、次郎の表面だけを見て、安心してはいなかった。そして、例の猪首を窮屈そうに詰襟のうえにそらし、我かんせずえんといったふうでいながら、教室では無論のこと、廊下を歩いている時でも、次郎には特別の注意を払っていたのである。
 権田原先生が何よりも気がかりだったのは、次郎の顔から、大っぴらな笑いと怒りとが、次第にその影をひそめて行くことであった。笑うには笑っても、彼の笑いには時としてまるで声がなかった。以前のような、血の気にあふれた怒りなどは、ほとんど見られなくなっていた。そしてしばしば、可笑しくも何ともない、といった顔をしてみたり、腹を立てていながら、せせら笑いをしたりすることがあった。
「これはいかん。」
 権田原先生は、おりおり一人でそうつぶやいた。そして、わざと教室でひょうきんなことを言ってみたり、校長に小言を食うほどの乱暴な競技を、組の生徒にやらしてみたりして、次郎の様子に注意していたこともあった。しかし次郎は、そんな時にも、いつも「大人」であり、めったに笑いも怒りもしなかった。
 ところが、ある朝――それは夏休みが過ぎて間もないころのことだったが、――権田原先生が出勤すると、もう校長が教員室に待っていて、いかにも仰山らしく言った。
「君、ゆうべは大変なことがありましたね。何でも君の組の本田が主謀者しゅぼうしゃらしいですよ。」
 だんだん聞いてみると、次郎たちの仲間が十四五名で、隣村の青年たち四五名と、大川の土堤で乱闘をやり、相手にかなりひどい傷をわせたというのである。
「とにかく、さっそく本田を取調べてみて下さい。授業の方は、その間、私が代ってやっておきますから。」
 校長にそう言われて、権田原先生は次郎をさがしに校庭に出てみた。しかし次郎の姿はどこにも見えなかった。時計を見ると、始業までには、あと三四分しかない。
 先生は念のために校門を出てみた。すると、二丁ほど先の、小高い丘になった櫨林の中に、十四五名の児童がかたまって、何か話しあっているのが見えた。先生は、それを見ると、すぐ、大声をあげて、
「おおい。」と叫んだ。
 児童たちは、一せいに先生の方を見た。それから、またお互いに顔を見合って、何か相談しているらしかったが、しばらくすると、その中の一人だけが、さっさと丘をおりて先生の方に近づいて来た。それは次郎だった。
 ほかの児童たちは、いつまでも立ったまま次郎を見おくっていたが、先生がもう一度、「おおい」と叫ぶと、いかにも気が進まないかのように、しぶしぶと丘をおりはじめた。
 権田原先生は、次郎が校門のところまで来ると、ほかの児童たちに頓着せず、彼一人だけをつれて、宿直室に入った。
 やがて鐘が鳴り、授業がはじまって、校内は急にしずかになった。それまで、畳にあぐらをかき、顎鬚あごひげをむしって天井ばかりを見ていた権田原先生は、思い出したようにたずねた。
「どうしたんだい、ゆうべは。」
「喧嘩しました。」
 次郎は平然として答えた。
「正木のお祖父さんは、まだ何も知らないんだな。」
 権田原先生の調子も平然たるものだった。
「はい。知りません。」
「そうか、じゃあ、先生に話してみい。いったい何で隣村の青年なんかと喧嘩をしたんだ。」
 次郎の説明したところによると、こないだの夏祭りの晩に、素行のよくない隣村の青年たちが、五名ほど見物にやって来て、村のある女にけしからぬいたずらをした。次郎の友達でその女の弟になるのが、怒って彼らに石をぶっつけると、彼らは、あべこべにその子を捉えてさんざんぶんなぐった。次郎たちもそばに居合わせたが、その時は手が出せなくて残念だった。そのことを、あとで村の青年たちに話し、仇をとって貰おうと思ったが、あんなならず者を相手にしてもつまらん、と言って、誰も相手にしてくれなかった。そこで、次郎が中心になり、子供たちだけで仇討の計画を定め、相手をゆうべ大川の土堤に呼び出すことにした、というのである。
「呼び出すのには、どうしたんだ。」
「僕が呼びに行きました。」
「ほう、そして、何と言った。」
「今夜、土堤でこないだの仇討をするから、五人共出て来いって。」
「そしたら、すぐ承知したのか。」
「はい。」
「向こうでは、こちらも青年だと思ったんだろう。」
「ちがいます。僕、はっきり言ったんです。僕たち子供だけでやるんだって。」
「そしたら、相手はどう言った。」
「生意気だって笑いました。」
「ふむ。……それで、お前たちの方は人数は何人だった。」
「十五人です。だって、僕たちの方はみんな子供だから、そのぐらいはいてもいいと思ったんです。」
 次郎はいそいで弁解した。
「うむ。そりゃあ、まあいいだろう。で、どんなふうにしてぶっつかったんだ。」
「僕たちの方は、五人が竹竿を持って行きました。」
「竹竿? ふむ。得物えものはそれっきりか。」
「いいえ。そのうしろから、五人が棒をもって、ついて行きました。」
「ほう。棒をね。それから?」
「もう五人は、懐にいっぱい砂利を入れて、一番うしろにいました。これも、棒の短いのを腰にさしていたんです。」
「ふうむ。そしてその砂利をなげたのか。」
「はい、向こうが二十間ぐらいのところまで近よって来た時に投げました。」
「暗い所で、それが相手の青年だということがよくわかったね。まちがったら大変だったぜ。」
「月が出ていましたから、よくわかりました。」
「なるほど、ゆうべは月夜だったね。それで相手はどうした。」
「一人は石にあたったらしかったんです。あっと言ってすぐ土堤のかげにしゃがみました。すると、あとの四人が、どなりながら僕たちの方に走って来たんです。」
「みんな素手すでだったんか。」
「はい。」
「それを竹竿でなぐったんだね。」
「はい。だけど、竹竿はあまり役に立たんかったです。」
「どうして?」
「すぐ、たぐりよせられてしまいました。」
「そうか、そいつぁ困ったろう。」
「だけど、棒を持ったのがすぐ飛出して行って、なぐったんです。」
「なるほど。砂利の連中も棒をもっていたとすると、十人がかりになるわけだね。四人に十人だと、すいぶんなぐったんだろう。」
 次郎はにやりと笑って、うつむいた。
「竹竿の連中は、その時どうしていた。」
「どうしていたか、その時はもう、僕にもわかんないです。」
「で、結局、勝負はどうなったんだ。」
「勝ちました。だって、それからすぐ向こうは逃げたんです。」
「君らの方にけがをした者はなかったんだね。」
「ありません。頬っぺたが少しはれてる者はあります。」
「青年たちには、ずいぶんけがをさしたらしいね。」
 次郎は首をたれて默りこんだ。権田原先生も默ってしばらく顎鬚をむしっていたが、
「いったい、竹竿とか、棒切とか、砂利とかをつかって、そんな陣立じんだてをしたのは誰の考えなんだ。」
「僕です。」
 と、次郎ははっきり答えた。
「面白い陣立だね。戦うからには、そのくらいの智慧は出す方がいい。それは卑怯だとは言えん。」
 次郎は少し得意だった。
「だが、本田――」
 と、権田原先生は相変らすず顎鬚をむしりながら、
「お前は喧嘩をするのが、やはり今でもそんなに面白いのか。」
「面白くなんかありません。」
 次郎は少し憤慨したような調子だった。
「じゃあ、何でそんな真似をしたんだ。」
「僕、正しいと思ったからです。」
「正しい? なるほど相手が悪いことをしたんだから、これをらすのは正しいともいえる。だが、お前は誰に頼まれてそれをやったんだ。」
「誰にも頼まれてなんかいません。」
 次郎は昂然こうぜんとなった。
「ふむ。……じゃあ、誰に許されてやったんだ。」
 次郎はせないといった眼付をして、じっと権田原先生の顔を見つめた。権田原先生もしばらく次郎の顔を見ていたが、
「いや、それよりも、いったい誰のためにやったんだ。」
 次郎はやはり返事をしない。
「まさか、相手の青年たちのためにやったとは言うまいね。そこまでは、お前も考えていまい。」
 これは次郎にとっては、全く意外の言葉だった。「相手の青年たちのために」――そんなことは彼の思いもよらないことだったのである。
 権田原先生は、彼のまごついている眼を見えながら、
「お前は多分、青年たちになぐられたお前の友だちや、その姉さんのために、仇を討ってやったつもりでいるんだろう。」
 次郎は、うっかり「そうです」と答えるところだった。ところが、権田原先生は急に言葉の調子を強めて言った。
「だが、それもうそだ。お前の本心はそうじゃなかったはずだ。」
 これも次郎には意外だった。今度は、あまりに当然だと思っていたことを否定されたのが、意外だったのである。
「よく考えてみるんだ。」
 権田原先生はそう言って、顎鬚をむしるのをやめ、少し体を乗り出すようにして次郎を見つめた。次郎には、しかし、何を考えていいのかさっぱりわからなかった。彼は、少し腹が立つような気もし、また、何か知ら、うっかり出来ないような気もして、ただおし默っていた。すると、権田原先生がまた言った。
「考えてもわからんかね。じゃあ、先生が言ってやろう。お前はこのごろ何かむしゃくしゃしている。それで、つい、あばれてみたくなっただけなんだよ。ね、そうだろう。」
 そう言った権田原先生の眼は笑っていた。次郎は、しかし、笑えなかった。彼は権田原先生の眼を気味わるくさえ感じたのである。
「ねえ本田、――」
 と、権田原先生は次郎の肩に手をかけて、
「先生には、君があばれてみたくなる気持も少しはわかっている。だから、ゆうべのことで君を叱ろうとは思わん。だが、もし君がそれで正しいことをしたつもりでいたら、それは大間違いだ。正しいことというものはね、まだ、自分のことしか考えられない人間に出来ることではないんだ。」
 次郎には、先生の言っていることが、はっきりのみこめなかった。しかし、「自分のことしか考えられない人間」と言われたのが、妙に彼の心にこびりついた。
 そのあと、権田原先生はまた顎鬚をむしりはじめた。そして天井ばかり見て、ほとんど口をきかなかった。
 そのうちに鐘が鳴った。すると、先生はのそのそと立ち上りながら、
「あとのことは先生がいいようにしておくから心配するな。お前は、いま先生が言ったことをよく考えてみるだけでいいんだ。……とにかく、自分のやったことに得意になってはいかん。尤もらしい理窟をつけて安心しているのが一番いけないんだ。それでは、心から笑うことも出来なけりゃあ、怒ることも出来ん。……いいか、本田、お前はもっと無邪気になるんだぞ。」
 権田原先生は、そう言って部屋を出ようとしたが、また立ちどまって、
「だが、無邪気になるといったって、いまさら赤ん坊になるわけにもいかん。そこがむずかしいんだ。赤ん坊は、自分のことだけ考えていれば、それが無邪気だし、お前くらいの年輩になると……」
 先生は、そう言いかけて思案した。それから部屋のなかを何度も行ったり来たりしていたが、
「いや、これは少しむずかしい。先生にも、どう言っていいかわからん。……とにかく君は考えんでもいいことを考え、考えなくちゃならんことを考えていないようだ。そこがはっきりすると君は無邪気になれるんだ。……が、今日はまあこれでいい。いずれまた二人で話そう。……今度の時間から教室に出るんだぞ。」
 権田原先生は、考え考え部屋を出た。次郎もそのあとについたが、彼は、なぜか、この時も運平老の蘭の絵を思い出していた。
 喧嘩の一件は、次郎に関する限り、それで終りだった。学校でも、正木でも、そのことについて、次郎にその後訓戒したりすることなど、まるでなかった。そして、権田原先生が、「いずれまた二人で話そう」と言ったことも、それっきりになってしまった。
 次郎は何だか拍子ぬけの気味だった。
 しかし、権田原先生が宿直室で言った言葉――というよりは、その言葉ににじんでいた先生の気持――は、その後、徹太郎の松の木についての話と共に、何かにつけ彼の心によみがえって来た。そして、彼がいよいよ中学校にはいるまでの間、いくぶんかでも彼の心を正しい方向に鞭うっていたものがあったとすれば、それは、彼が、この二人の言葉と、運平老の蘭の絵とからうけた感銘であったにちがいない。

一三 がま口


 ともかくも、こうして、一年近くの月日が流れた。
 次郎にとって、それは、むろん、愉快な一年であったとはいえなかった。だが、いつも心を外に向け、喜びも、怒りも、悲しみも、すべて周囲の人々の愛情によって左右されて来た彼が、善かれ悪しかれ、自分というものに眼を向け出したことは、たしかに一つの進歩であったにちがいない。そして、もし「考える生活」というものが、人間を人間らしくする最も大事な条件の一つであるならば、彼は、一生のうち比較的早い時期に、しかも、なまなましい彼自身の生活に即してそれをはじめていたという点で、むしろ祝福さるべきであったかもしれない。
 彼は、実際、この一年間で、自分の置かれている立場を、ほとんど第三者的な冷静さで観察する術を学んだ。また、多少の身びいきや偏見がまじっていたとしても、自分というもののほんとうの姿を、だいたいにおいて正しく見きわめることが出来た。そして、それが、自己嫌悪に似た感情に彼を引きずりこんでいたこともたしかだったが、一方では、彼は彼自身と彼の周囲とに対していつの間にか、新しい闘いを闘いつつあったのである。その闘いは、もう以前のような気分本位の闘いではなく、その中には、幼稚ながらも、ある思想と、比較的永久性のある感情とが流れていた。それは、むろん、まだ「永遠」への思慕と呼ばるべきものではなかったのであろう。しかし、何かより高いものを求めないではいられない気持が、「運命」と「愛」との現実の中で、ほのぼのと息をつきはじめていたことだけは、たしかだった。
 で、彼が第二回目に中学校の入学試験をうけた時には、彼はもう世間なみの受験生ではなかった。少くとも中学校の制服制帽にあこがれるといったような子供らしさは、すっかり超越ちょうえつしていた。そして入学後の生活というものに、ある真面目な期待をかけて、試験場にのぞんだのである。合宿――権田原先生の注意で、今度は彼も合宿に加わることになったが、――での彼の様子も、じっくりと落ちついており、いつも考え深そうな顔をしていた。試験場から帰って来て、権田原先生を中心に、みんなが、試験問題の解答について、興奮した調子で話しあっている時でも、彼は、一人で、何かべつの本を読んでいた。それは、彼が成績に十分な自信があったからばかりではなかったのである。
 それでも、いよいよ成績の発表があり、中学校の生徒控所に張り出された合格者のなかに、自分の名を見出した時には、彼もさすがに落ちつけない気持だった。そして、家に帰ると、さっそく俊亮に教科書や学用品を買ってもらうようにねだった。俊亮も、次郎のそうした子供らしい様子を見るのはひさびさだったので、その日、忙しい仕事があったのをあとまわしにして、すぐ次郎をつれて書店に出かけた。
 ひととおり必要な教科書や学用品を買ったあと、次郎は絵はがきがほしいと言い出した。すると俊亮は、いかにも無造作に、
「買いたいものがあったら、何でも今買っとくんだ。父さんは、めったにいっしょには来れんからな。」
 次郎は、そう言われて、思わずじっと父の顔を見つめた。そして、
「ううん、絵はがきだけで、いいんです。」
 と、十枚ほどの絵はがきを買うと、自分から先に立って書店を出た。何か、父の愛にあまえたくない気持だったのである。
 書店を出て半丁ほど行ったころ、俊亮がふとたずねた。
「次郎は財布をもっているのか。」
「ううん。」
「じゃあ、一つ買ってあげよう。」
「僕、財布なんかいりません。」
「でも、もう中学生だから、買いたいものがすぐ自分で買えるように、いくらか小遣こづかいを持ってる方がいいんだ。」
 次郎は答えないで、自分の足先ばかり見て歩いた。
 小間物屋のまえに来ると、俊亮は默ってその中にはいった。次郎がその小さな飾窓かざりまどのまえに立って待っていると、俊亮は間もなく、小さな蟇口がまぐちを、ぱちんと音をさせながら出て来た。そして、それを次郎に渡しながら、
「一円ほど入れといたよ。なくなったら母さんにそう言えばいい。まあ、しかし、小遣は月二円ぐらいで我慢するんだな。」
 二円という金は、次郎にとってはむろんすくない金ではなかった。それが、これから毎月自分で勝手につかえるんだと思うと、うれしいというよりは、何かそぐわない気持だった。だが、同時に彼の心にひっかかったのは、「なくなったら母さんにそう言えばいい」と言った父の言葉だった。父は何でもなくそう言ったらしく思えた。しかし、また、それを言うために、わざわざ蟇口を買ってくれたのではないか、とも疑えたのである。
 家に帰ると、彼は一人で自分の机のまわりを整頓しはじめた。新しい教科書を本立にならべた気持は、決してわるいものではなかった。中には金文字のはいったものも二三冊あり、それがとりわけ彼の眼に新しく映った。恭一はもう今年は四年で、その本立には、分厚な字引類や参考書などが沢山ならんでいた。それに比べると自分の本立はいかにも物淋しかったが、それでも、新しい世界に足をふみ入れた、という気持を彼に起させるには十分だった。
 彼は、いつの間にか蟇口のことを忘れていた。
 ひととおり整頓を終ると、彼は、さっき買って来た絵はがきをとり出して、それに入学試験合格の通知を書きはじめた。先ず正木、大巻、権田原先生、竜一という順序に書いていった。源次も竜一も、幸いに、合格していたので、思うことが気楽に書けた。権田原先生は、わざわざ成績発表を見に来ていたので、あらためて通知を出さなくてもよかったはずだったが、何か書かないではいられない気持だったのである。
 竜一宛のを書き終ったあと、彼はかなり永いこと頬杖をついて考えた。それから、ざら半紙を二枚、紙挟みからとり出して、それに鉛筆で、考え考え何か書いていった。書いていくうちにそれはだんだん長くなって、とうとう紙一ぱいになってしまった。彼は何度もそれを読みかえし、消したり、書き加えたりしたあと、今度は作文用紙に、ペンで念入りにそれを清書した。
 それはお浜宛の手紙だった。文句にはこうあった。
「ばあや、おたっしゃですか。もう大かた一年も手紙を出さないで、ほんとうにすまなかったと思います。きっと心配していたでしょう。しかし、これにはわけがありました。僕は昨年、中学校の入学試験にしくじったので、どうしてもばあやに手紙を出す元気が出なかったのです。しかし、安心して下さい。今年はいよいよ僕も中学生になりました。今日それがわかったのです。だから、これからは、ばあやにも時々手紙を書くことにします。
 中学校に一年おくれたのは残念でなりませんが、その代り、僕はこの一年のうちに、ほんとうに偉くなるにはどうすればよいか、といつもそれを考えました。これは僕には非常にためになったと思います。僕はこれまで、人に可愛がられたいとばかり思っていましたが、それはまちがいだったということがわかりました。それで、僕はもうどんなことがあっても、腹を立てたり悲しんだりはしないつもりです。
 僕は、これから、ほんとうに正しい人間になりたいと思います。勇気のある人間になりたいと思います。そして、誰にも可愛がられなくても、独りで立っていける人間になりたいと思います。中学校にはいってからも、そのつもりで勉強していく決心です。
 けれども、僕はばあやだけにはいつまでも可愛がってもらいたいと思います。ばあやはいつも僕のそばにはいないのだから、どんなにばあやに可愛がってもらっても、僕はちっとも弱くはならないと思うのです。
 ではごきげんよう、さようなら。」
 お浜宛の手紙を書き終ったあと、彼は春子にも、せめて絵はがきででも、中学校に入学したことを知らしてやりたいと思った。しかし、彼女の東京の住所を書いたのを、もうなくしてしまっていたので、今度竜一にあって、それをたしかめてから書くことにした。
 絵はがきはまだ六枚あまっていた。彼は、それを全部、彼がこれまで比較的親しくしていながら、いっしょに中学校に受験出来なかった友達にあてて出すことにした。それには、「はなれていても、いつまでも仲よくしたい。そしてお互いに正しい勇気のある人間になろう」といったような意味のことを書いた。書き終ると彼はすぐ郵便局に行った。
 切手代を払うために蟇口をあけた瞬間、彼はまた、さっきの父の言葉を思いおこした。
「なくなったら、母さんにそう言えばいい。」
 彼は何度もそれを心の中でくりかえしながら、ふたたび自分の机のまえに帰ってきた。
 恭一は、その日、何か友達に約束があるからと言って、次郎の成績がわかったあと、すぐどこかに出かけていったが、夕方帰って来るとお祖母さんに向かって、しきりに次郎の入学祝いにご馳走をするように主張した。お祖母さんはそれに対して、
「今日でなくてもいいじゃないかね、もうおそいのだから。あすはお祖母さんが赤飯でも炊く心組でいたんだよ。」
 と、いくぶん恭一をなだめるような調子だった。
 すると恭一は今度はお芳の方を向いて、いかにも詰問するように言った。
「母さんも、あすの方がいいと思ってるんですか。」
 お芳は、例の笑くぼをかすかにゆがませ、お祖母さんの顔をうかがったきり、返事をしなかった。
「じゃあ、もういいんです。」
 恭一は、捨台詞すてぜりふのようにそう言って、すぐ二階にかけあがった。
 二階では、次郎が一人、蟇口を机の上において、ぽつねんと坐っていたが、恭一の顔を見るとすぐ言った。
「僕、今日、父さんにこの蟇口を買ってもらったよ。」
「ふうん、小遣も入れてもらったんかい。」
「うむ、一円だけ。」
「一円じゃあ、雑誌なんか買ったら、すぐなくなっちまうよ。それでひと月分だって言ったんかい。」
「ううん、二円ぐらいはつかってもいいんだって。」
「二円ならまあいいや。それで、あと一円は、いつくれるんだい。」
「この金がなくなったら、母さんにそう言ってもらうんだって。」
「ふうん――」
 恭一はせないといった顔だった。
「恭ちゃんは誰にもらってるの?」
「父さんでなけりゃ、お祖母さんさ。お金を母さんにねだるのはいけないよ。」
「どうして。」
「だって、うちの会計はまだお祖母さんがやっているんだろう。僕、それは母さんがやるのがほんとうだと思うんだけど、仕方がないさ。」
 次郎はあらためて自分の蟇口を見た。そして、その蟇口をとおして、父と母と祖母との心を、また自分自身のこれからの生活の一部を、はっきり見ることが出来たような気がした。

一四 ふみにじられた帽子


 次郎が、中学校入学式で講堂にはいった時、まず第一に眼についたのは、正面右側に掲げてある、すばらしく大きな額だった。それには「進徳修業」の四字が、まるで箒の先ででも書いたように、乱暴にならんでいた。次郎は、ただその大きさと乱暴さとに驚いただけで、ちっともいい字だとは思わなかった。
(どうして、こんな乱暴な字を額になんかしてあるんだろう。)
 彼は、そう思って、すぐ眼を左の方に転じた。
 左正面にも、同じ大きさの額がかかっていた。しかし、それには、平仮名まじりの文章が四箇条ほど箇条書きにしてあったので、さほど大きくは見えなかった。字もていねいだった。書体は少しくずしてあったが、次郎にも読めないほどではなかった。彼は、他の新入生たちが何かこそこそ囁きあっているひまに、念入りにそれを読んでみた。文句は次のとおりであった。
一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事
一、主君の御用に立つべき事
一、親に孝行仕るべき事
一、大慈悲をおこし人の為になるべき事
 次郎は、武士道という言葉の意味を、はっきりとは知っていなかった。しかし、第一条はよくわかるような気がした。第二条と第三条とは、これまで修身の時間で十分教わって来たことだし、べつに珍しいとも思わなかった。親孝行のことを、自分の境遇にあてはめて考えてみようという気にも、まるでならなかった。ただ、この二箇条をなぜはじめの方に書いてないのだろう、と、それがちょっと不思議に思えた。
 第四条の「慈悲」という言葉が、妙に彼の心をとらえた。彼はその言葉の意味を「武士道」という言葉の意味以上に知っていたわけではなかったが、その字を見た瞬間、すぐ正木のお祖母さんのことを思い起したのだった。
「慈悲深い方だ。」――「仏様のような方だ。」
 これが正木のお祖母さんの噂をする時に、村人たちがいつも使う言葉だったのである。
 次郎は、何度も大慈悲の一条をよみかえした。そして、正木のお祖母さんが、自分や、家庭の者や、村人たちに対して、言ったりしていたことを、いろいろと回想してみた。そのうちに、彼は、嬉しいとも淋しいともつかぬ、妙な感じに襲われて来た。そして、それからそれへと連想がつづいて、正木のお祖母さんとお墓詣りをしたことから、ついには、亡くなった母の顔までが思い出されて来るのだった。
 左側の窓の上の壁には、一間おきぐらいに大きな油絵がかかっていた。それは、すべて、郷土出身の維新当時の偉人の肖像画だった。次郎は、見るともなくそれを見ているうちに、その下に、新入生の父兄たちが、顔をずらりとならべているのに気づいた。次郎は、すばやく、その中に父の顔を見つけた。父も彼を探していたらしく、視線がすぐぶっつかった。次郎は少し顔を赧らゆて、眼をそらし、今度は右の方を見た。
 右側の壁には、軍人の写真の額が一尺おきぐらいにかかっていた。次郎は、多分学校出身の戦死者の額だろうと思い、いちいちその下に書いてある名前を見たいと思ったが、自分の位置がずっと左側になっていたので、よく見えなかった。
 やがて、型どおりの式が進んで、校長の訓辞がはじまった。
 校長は、五分刈で、顎骨の四角な、眼玉の大きい、見るからに魁偉かいいな感じのする、五十四五歳の人だった。いくぶん中風気味らしく、おりおり顎や手が変にふるえていたが、その大きな眼玉からは、人を射るような鋭い光が流れており、しかも、その中に、どこか人の心をひきつけるようなやさしさが漂っていた。
 次郎は、校長が壇に立った瞬間から、何かしら、気強い感じがした。
「私が本校の校長、大垣洋輔じゃ。」
 校長はまずそう言って口を切った。訓辞は、そう永くなかった。
「君らは日本の少年の中の選士である。選士に何よりも大切なのは、へりくだる心と慈悲心でなければならない。そういう心をもった人だけが、ほんとうに正しい努力をする。正しい努力をする人だけが、ほんとうに伸びる。伸びる人であってこそ真の選士といえるのだ。……傲慢な人や、無慈悲な人には正しい努力がない。そういう人は一見強そうに見えて弱いものだ。それは生命の伸びる力がとまっているからだ。君らは決してそんな人間になってはならない。学問においても心の修養においても、伸びて伸びやまない人間になってもらいたい。それでこそ日本が伸びるのだ。へりくだる心、慈悲心、そして伸びる日本。――諸君を迎える私の第一の言葉はこれである。」
 だいたいそういった意味のことであった。それでも、二三の実例をあげてわかりやすく話したので、十四五分間はかかった。そのあと校長は、父兄の方に向かって自分の教育方針を話し、それで式は終った。
「りっぱな校長先生だな。」
 式がすんで、校門を出ると、俊亮は次郎を顧みて何度もそう言った。次郎は嬉しかった。

     *

 翌日はさっそく始業式だった。
 次郎が驚いたことには、組主任の先生に引率されて講堂にはいると、新入生の坐るすぐ右側の席に、もう五年生らしい生徒が高い塀のように並んでおり、その多くが、気味のわるい眼付をして、じろりじろりと新入生たちを睨めまわしていることだった。
 次郎は、席につくと、頸をちぢめ、そっと隣の新入生にたずねた。
「僕たちの右の方に並んでいるの、五年生?」
「そうさ、五年生だよ。五年生の右が四年生で、三年生と二年生とが僕たちのうしろに並ぶんだよ。この学校では、一学期の始業式には、新入生との対面式があるんだから、いつもそうだってさ。」
 隣の新入生は、いかにも物り顔に答えた。次郎は、なぜかいやな気がして、それっきりうつむいてばかりいた。
 やがて先生たちの顔がそろい、最後に校長がはいって来て、すぐに壇上に立った。そして、一同の敬礼をうけると、
「唯今より、二年以上の生徒と、新入学生との対面式を行う。」
 と言った。
 対面式は、べつに面倒なものではなかった。一年が右に、四年五年が左に、それぞれ向きをかえ、二年三年はそのままで、体操の先生の号令で、同時に敬礼をしあうだけだった。しかし、次郎の気持をいよいよ不愉快にしたのは、すぐ眼の前の五年生が、号令では頭を下げないで、一年生が顔をあげた頃になって、やっとばらばらに、礼を返したことだった。しかも、その顔付は、礼を返しているというよりも、あざ笑っているといった方が適当であった。
 対面式がすむと、校長の始業式の訓話が始まった。まず新入生の方を向いて、上級生に兄事する心得を説いたが、それはほんの二三分で、校長の顔はいつのまにか五年生の方を向いていた。顔が五年生の方に向くと同時に、言葉の調子も高くなり、その眼付も光って来た。そして、
「どんなわずかな力でも、それを不正なことに使ってはならない。不正なことというのは慈悲心のない行いじゃ。武士道におくれをとらないというのも、慈悲心が内にみなぎっていてはじめて出来ることで、それがなくては、武士道も何もあったものではない。よろしいか。本校の生徒はみんな涙のある人間になってくれ。涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
 と、演壇の端まで乗り出して来て言った時には、もうどう見ても、五年生にだけ話しているとしか思えなかった。
 その時、五年生の中にはごく少数ではあったが、お互いに顔を見合って、変ににやにやしたり、傲然とのび上って、校長の顔をにらみ返すようなふうをしたりする者があった。次郎は、横からでよく見えなかったが、出来るだけ五年生の表情に注意していた。そして、何かしら、不安なものを胸の底に感じた。
 式がすんだあと、教室で組主任からこまごまと注意があった。それでその日の予定は終りであった。ところが、組主任の先生は、自分の注意が終ったあと、気の毒そうな顔をして言った。
「五年生たちが、校風をよくするために、君らに雨天体操場に集まってもらって、何か話したいと言っている。これは毎年の例だ。間もなく誰かが迎えに来るだろうから、しばらくここで待っていてもらいたい。自分は今から職員会議があるから、その方に行く。」
 そう言って先生はすぐに出て行った。残された新入生たちは、おたがいに顔を見合わせて默りこんだ。間もなく、五年生らしい生徒が、二人で、のっそり教室にはいって来たが、その一人は教壇に立って、じろじろとみんなを見まわした。人相がよくないうえに、制服のボタンが、五つのうち三つしかついていない。しかも一番上のと一番下のとがはずれていて、垢じみたシャツが上下からのぞいているのが、いかにもきたならしく見える。次郎は軽蔑したい気持になって来た。
 と、だしぬけにその生徒がどなった。
「上級生に対して尊敬の念を持たない奴は、顔を見るとすぐわかるぞ!」
 次郎は、あぶないところで冷笑を噛みころした。
「立て! 俺について来い!」
 その生徒はまたどなった。そして肩をいからしながら教壇をおりて、廊下に出た。
 新入生たちは、ぞろぞろと、しかし、何となくおたがいに先をゆずりたがっているようなふうで、そのあとについた。誰の口からも、囁き一つもれなかった。
 もう一人の五年生は、みんなが教室を出るのを、入口に立っでじっと見ていたが、最後の一人が出てしまうと、默ってそのあとについた。この生徒の制服にはボタンが五つともそろっており、顔付もおとなしそうだった。次郎は、教室を出しなに、ちらと彼の顔をのぞいたが、べつに不愉快な感じも起らなかった。
 雨天体操場までは、渡り廊下づたいで、かなり遠かった。次郎たちの組がついた時には、他の組の新入生たちは、もう、きちんとその中央にならばされていた。次郎たちは三つボタンの五年生の指揮で、その左側に四列縦隊にならんだが、トタン屋根をふいただけの、壁も何もない広々とした土間が、次郎には何か物凄く感じられた。
 それまで、あちらこちらに散らばっていた五年生たちは、新入生の整列が終ったと見ると、急にそのまわりをぐるりと取りまいた。それは、ちょうど地曳網じびきあみをおろしたといった恰好であった。
 それが終ると、体操の指揮台のうえに、一人の五年生が現れた。三つボタンとはちがって、非常に品のいい、聡明そうな顔つきをしている。彼は、かくしから小さな紙片を取り出し、割合しずかな調子で演説をはじめた。
 演説の内容は、次郎にはよくわからなかった。言葉の言いまわしが変にこみ入っている上に、まだ聞いたことのない漢語が多過ぎたのである。しかし、悪いことを言っているようには、ちっとも思えなかった。
「校風は愛と秩序によって保たれる。上級生は愛を以て下級生に接するから、下級生は秩序を重んじて上級生に十分の敬意を払ってもらいたい。」
 だいだいそんなような意味に受取れた。そして最後に、
「以上、五年生を代表して、新入生諸君に希望を述べた次第である。」
 と言って、その生徒は指揮台をおりた。次郎はそれで万事が終ったつもりになって、ほっとしていた。
 ところが、それからあとが大変だった。そのつぎに指揮台の上にあらわれたのは、見るからに獰猛どうもうな山犬のような顔の生徒だった。そして、「貴様たちの眼付が、第一横着だ。」とか、「新入生のくせに、もう肩をいからしている奴がある。」とか、「講堂で五年生の方をぬすみ見ばかりしていたのは誰だ。出て来い。」とか、まるで酔っぱらいと気違いとをいっしょにしたような声でどなりはじめた。しかも、それを声援する役目を引きうけたのが地曳網の連中である。「そうだ!」――「その通りだ!」「引きずり出せ」――「ぶんなぐっちまえ!」
 そうした声が、横からも、うしろからも、新入生たちの耳をつんざくように襲い、それがトタン屋根に反響して異様なうなりを立てた。
 新入生たちの中には、もう誰も顔をあげている者がなかった。次郎はせいが低くて、しかも組の中では右側の前から十番目ぐらいのところにいたので、五年生に顔を見られる心配は比較的少かったが、それでもひとりでに頭が下っていた。で、もし、そんな狂気じみた状態が、そう長くつづかなければ、べつに大したこともなしに済んでいたかも知れなかったのである。
 ところが、その獰猛な顔が引っこんだらしいと思うと間もなく、今度はかんの強い声が指揮台から聞え出した。新入生たちはちょっと顔をあげてその声の主をぬすみ見た。それは凄いほど眼の光った、青白い狐みたいな額の男だった。この男は、いかにも皮肉な調子で、ゆっくり、ゆっくり、新入生に難癖をつけはじめた。そして前の獰猛な顔の男とはちがって、地曳網の連中の声援があるごとに、それがひととおり終るのを、一種の余裕をもって待っているかのようであった。
 そのうちに時間は三十分とたち、四十分とたって行った。次郎は次第にいらいらして来た。そしてたまらないほどの憎悪の念が腹の底からこみあげて来るのを覚えた。それでも、歯を食いしばって我慢していたが、指揮台の狐は、新入生を見渡しながら、つぎつぎにいろんな難癖の種をみつけ出して、いつまでもねばっていた。そして、しまいには、とりわけ皮肉な調子で、こんなことを言った。
「上級生が訓戒をしてやっているのに、君らは地べたばかりを見ている。それを無礼だとは思わんか。」
 これには、地曳網の連中も、さすがに意想外だったらしく、すぐには声援が出来なかった。しかし一人が思い出したように、「そうだ失敬千万だ!」と言うと、つぎつぎに、「こいつら、聞いちゃおらんぞ」とか「上級生を馬鹿にするにもほどがある」とか、いろんな罵声ばせいが方々から起って来た。
 新入生たちは、おそるおそる顔をあげた。しかし、みんな眼のつけどころに困っているようなふうだった。その中で、次郎一人だけが、わざとのように首をのばし、狐の顔をまともに睨んでいた。
 しばらく沈默がつづいた。狐は新入生たちの顔を一人一人丹念に見まわしていたが、次郎の眼に出っくわすと、その視線はぴったりとそこでとまった。つぎの瞬間には、彼の頬に、つめたい微笑が浮かんだ。微笑が消えたかと思うと、彼のかん走った声がトタン屋根をびりびりとふるわすように響いた。
「おい、そのちび! 貴様はよっぽど生意気だ。出て来い!」
 次郎は動かなかった。そして彼の眼は依然として狐を見つめたままだった。
「出て来いと言ったら、出て来い!」
 もう一度狐が叫んだ。しかし次郎はびくともしなかった。
「上級生の命令をきかんか! ようし!」
 狐は、そう叫んで指揮台を飛びおりると、新入生の列を乱暴に押しわけて、次郎に近づいた。そして、いきなり彼の襟首をつかみ、引きずるようにして、彼を指揮台のまえにつれて行った。すると、ほかの五年生が四五名、ぞろぞろとそのまわりによって来た。その中には、最初演説した生徒や、獰猛な山犬の顔は見えなかった。しかし、その代り、三つボタンが恐ろしい眼をして彼を見据えていた。
「名は何というんだ。」
 狐がたずねた。
「本田次郎。」
 次郎はぶっきらぼうに答えた。
「ふむ、生意気そうだ。」
 三つボタンがはたから口を出した。
「貴様はさっき俺を睨んでいたな。」
 狐が今度はうす笑いしながら言った。
「見てたんです。」
「何? 見ていた!」
「ええ、見てたんです。地べたを見るのは無礼だって言うから、顔を見てたんです。」
「理窟を言うな!」
 鉄拳が同時に次郎の頬に飛んで来た。しかし、次郎の両手が狐の顔に飛びかかったのも、ほとんどそれと同時だった。
 それからあと、次郎は何が何やらわからなかった。ただ真っ黒なものが周囲をとりかこみ、そこから手や足が何本も出て、自分のからだを前後左右にはねとばしているような感じだった。
「もう、よせ! もうこのくらいでいいんだ。」
 山犬の声に似たどら声がきこえて、彼の周囲が急に明るくなったと思った時には、彼は地べたに横向きにころがっていた。彼の顔のまんまえには、ペンキのはげた指揮台が、二つ三つ節穴を見せて立っていた。
 彼は、じっと耳をすました。
「馬鹿な奴だ。」
 そんな声がどこからかきこえた。
 彼は、その声をきくと、無意識に起きあがった。そして、くるりと向きをかえて新入生の方を見た。彼はもうすっかり落ちついていた。新入生たちは、みんな青い、おびえきったような顔をして、彼を見ていた。その青い顔の両側に、五年生たちが、にやにや笑って立っているのが、はっきり見えた。
 次郎は、その光景を見ると、これからどうしたものかと考えた。もとの位置に帰る気には、とてもなれなかった。かといって、いつまでもそのまま立っているわけには、なおさらいかない。彼は、しばらく、じろじろと周囲を見まわしていたが、ふと目のまえに、ふみにじられたようになってころがっている帽子が眼についた。それは、彼がついこないだ父に買ってもらったばかりの、そして、きのうはじめて、組主任の先生に渡された新しい徽章をつけたばかりの、彼の制帽だった。
 彼は思わずかっとなった。同時に、鼻の奥がすっぱくなって、そこから、熱いものが眼の底にしみて来るような気がした。しかし、彼は唇をゆがめてじっとそれをおさえた。そして、しずかにその帽子を拾い、ていねいに形を直し、ちりをはらってそれをかぶると、そのままさっさと渡り廊下の方に向かって歩き出した。
「こらっ! どこへ行くんだ!」
 五年生の一人が叫んだ。それは三つボタンらしかった。次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。
「あいつ、いよいよ生意気だ!」
「このまま放っとくと、上級生の権威けんいにかかわるぞ!」
「つかまえろ!」
 五年生全体がざわめき立っているのをうしろに感じながら、次郎はもう渡り廊下を二三間ほども歩いていた。
 彼は、そこで、ちょっとうしろをふりかえってみた。すると雨天体操場の中から無数の視線がまだ自分をのぞいており、その視線の一部を遮って、二人の五年生が入口の近くに向きあって立っているのが見えた。その一人は三つボタンであり、もう一人は最初に演説した生徒だった。
 次郎は、三つボタンが自分を追っかけるのを、演説した生徒がとめているんだな、と思いながら、足を早めた。
 次郎が本校舎の前まで来ると、ちょうど職員会議が終ったところらしく、先生たちがぞろぞろと玄関から出て来るところだった。彼は先生たちに顔を見られるのがいやだったので、校舎の陰にかくれて、人影の見えなくなるのを待つことにした。
 その間に、彼は、自分の着物――制服が出来るまで和服にはかまだった――が破けていないかをしらべてみた。不思議にどこにも大した破損はなかった。ただ袴の右わきに二寸ばかりの綻びがあるだけだった。時間割をうつすために持って来ていた手帳と、父に買ってもらった蟇口とを懐に入れていたが、それらは無事だった。
 肩やもものへんに二三ヵ所鈍痛どんつうが感じられ出したが、次郎はほとんどそれを気にしなかった。彼が最も気にしたのは、頬がはれぼったく感ずることだったが、手でさわってみると、さほどでもないらしいので安心した。
(これなら大丈夫、自家うちで気がつく人はない。)
 そう思って、門の方をのぞいて見ると、もう人影は見えなかった。彼は思いきって立ち上り、あたりに注意を払いながら門を出た。
 門を出ると、無念さが急にこみあげて来て、涙がひとりでに頬を流れた。だが、同時に、不正に屈しなかったという誇りが、彼の胸の中で強く波うっていた。彼の涙はすぐとまった。彼は一人で歩きながら、少しも淋しいという気がしなかった。「武士道」――「慈悲」――今日講堂で見たり聞いたりしたそんな言葉が、いつの間にか思い出されていた。そして、「慈悲」という言葉は、もう正木のお祖母さんを思い出させるような、そんなやさしい言葉ではないように思われて来た。
「涙のある人間だけが、すべてを支配することが出来るんじゃ。」
 大垣校長の言ったそんな言葉が、今更のように強く彼の胸にひびいて来た。
 歩いて行くうちに、山犬や、狐や、三つボタンのいやな顔がひとりでに思い出された。しかし彼はもう、それらをちっとも怖いとは思わなかった。それどころか、彼らのまえに青い顔をして並んでいた新入生達のことを思うと、一種の武者ぶるいみたようなものを総身に感ずるのだった。
 家に帰ると、彼は何事もなかったような顔をして、すぐ机のまえに坐った。そして、懐から手帳と蟇口とを出して、それを抽斗ひきだしにしまいこんだが、つい今朝まで、何かしらまだ気がかりになっていたその蟇口も、もう全く問題ではなくなっていた。
 彼の人生は、中学校入学の第一日目において、すでに急激な拡がりを見せていたのである。

一五 親爺


 雨天体操場事件は、翌日になると、もう全校生徒の噂の種になっていた。恭一の教室でも、始業前からその話でにぎやかだった。
「その新入生、ちびのくせに、いやに落ちついていたっていうじゃないか。」
「五年生の方が、かえって気味わるがっていたそうだよ。」
「まさか。」
「いや、ほんとうらしい。さんざんなぐられていながら、涙一滴こぼさないで、じろりとみんなを睨みかえして、悠々ゆうゆうと帽子の塵をはらって出て行った様子は、ちょっと凄かったって言っていたぜ。」
「それよりか、狐の奴がその新入生に頬ぺたをひっかかれたって、ほんとうかね。」
「それはたしかだ。」
「何でも最初になぐったのは狐だそうだが、なぐったと思った時には、もう頬ぺたをひっかかれていたそうだ。」
「その新入生、よっぽどすばしこい奴だな。」
「狐もさすがに面喰ったろう。」
「少々てれているらしいよ。」
「いい気味だ。あいつも、たまにはそんな目にあう方がいいだろう。」
「しかし、今年の五年生もそれで台なしだな。しょっぱなから、しかも新入生に対して味噌をつけたんでは。」
「少々気の毒になってくるね。」
「しかし、頭の悪い奴ばかりそろっているんだから、それがあたりまえだろう。」
「そんなこと言ってるが、来年はいよいよ僕たちの番だぜ、自信があるかね。」
「あるとも。われわれはもっと堂々たるところを見せてやるさ。少くとも、狐の奴みたいな、へまはやらんよ。あいつ、自分からわなに飛びこんだようなものだからね。」
「狐がわなに飛びこんだって! そいつは面白い。いったいどうしたっていうんだい。」
「何でも、新入生に対して、上級生が訓戒をしているのに、地べたばかり見て聴いているのは無礼だとか言ったそうだ。」
「なるほど、それではそのちびの新入生が狐の顔を穴のあくほど見つめていたっていうわけか。」
「そうだよ。だから、狐としては、それを生意気だとは、どうしても言えんわけさ。」
「それを生意気だって難癖をつけたとすると、五年生も実際へまをやったもんだ。頭の程度がうかがわれるよ。」
「そこで、四年生の責任いよいよ大なり、だね。」
 みんなは愉快そうに笑った。四年生と五年生とのそりがあわないのは、毎年のことだが、今年の五年生には、とくべつ無茶な連中が多いので、四年生の反感もそれだけ大きいのだった。
「それにしても、そのちびの新入生って、痛快な奴だな。」
「うむ、しかし相当生意気な奴にはちがいないよ。」
「生意気でも、そのぐらい勇敢だと頼もしいじゃないか。入学早々、五年生全部を向こうにまわして悠々たる態度を見せるなんて、この学校としても、全く歴史的だよ。」
「歴史的とは驚いたね。はっはっはっ。」
「いったい、何というんだい、そいつの名は?」
「本田とか言ってたよ。」
 恭一は、それまで大した興味もなく、はたで聞いていたが、本田という名が出ると、ぎくっとして眼を見張った。
「そうだ、本田次郎っていうんだそうだ。」
「どこの奴かね。……おい、本田君、知らんか。君と同姓だが。」
 みんなは一せいに恭一を見た。恭一の青ざめた顔は、今度は急に赧くなった。
「まさか、君の弟じゃないだろうな。」
 他の一人が追っかけるようにたずねた。
「次郎だと、弟だが……」
 恭一は、やっと答えて、眼をふせた。
「弟? そうか。そう言えば、今度君の弟が入学試験をうけるって、いつか言っていたようだね。」
「しかし、本田の弟にしちゃあ、すごく勇敢だね。ふだんから、そうなんか。」
 恭一はまた顔を赧らめたが、
「うむ、小さい時から乱暴だったよ。しかし、この頃はそうでもなかったんだが……」
「それで、その次郎君、どうしていたんだ、昨日は?」
「べつに何ともなかったよ。」
「君に、その話、しなかったんか。」
「ううん、ちっとも。……僕も君らの話をきいて、今はじめて知ったんだよ。」
「そうか。そうだと君の弟はいよいよ変った奴だな。」
「本田の手には負えんのじゃないかね。」
「だいいち、弟の方が本田を相手にしていないのだろう。」
 みんながどっと笑った。恭一はてれくさそうに苦笑して、顔をふせた。
「冗談はよそう。……どうだい、本田、君の弟ってのは、いったい、物がわかる方なのか、それとも、ただの向こう見ずか。」
 そう言って、まじめにたずねたのは、大沢雄二郎という生徒だった。彼は、小学校を出てから三年も町の鉄工場で仂いたあと、ある人に見込まれて中学校にはいることになったので、全校一の年長者だった。どっしりと落ちついて、思いやりがあり、しかも頭がいいので、「親爺おやじ」という綽名あだなでみんなに親しまれていた。とりわけ恭一は彼に親しんだ。親しんだというよりは、心から尊敬していたといった方が適当かも知れない。性格はまるでちがっていたが、物の考え方はいつも同じで、しかも世間を知っているだけに、大沢の方にずっと深みがあった。大沢の方でも恭一を真実の弟のように愛した。日曜などには、二人は、終日、人生観めいたような話をして暮すこともあった。
「物はわかる方だと思うがね。」
 恭一は、多少みんなに気兼ねしながら答えたり
「もの事をよく考える方かね。」
「うむ、去年一度入学試験で失敗したんだが、それから一年ばかり、しょっちゅう、いろんなことを一人で考えていたようだ。」
「僕、いっぺんも会ったことがないようだね。君の家でも。」
「ずっと田舎の親類の家にいたもんだから……」
「そうか……。」
 大沢は何か考えるふうだったが、それっきり口をつぐんだ。すると、ほかの一人が言った。
「どうだい、本田の弟だったら、これから狐なんかにいじめられないように、四年生でバックしてやろうじゃないか。」
「よかろう。」
 すぐ賛成者があった。
「どうせやる以上は、堂々のじんを張って、だらしのない今度の五年生を反省させるところまで行くんだな。」
「むろんだ。個人の問題じゃつまらんよ。」
「しかし、そうなると、いよいよ四年対五年の対立になるが、それでもいいかね。」
 と自重論が出て来た。
「かまうもんか、これも校風刷新さっしんのためだ。」
「しかし、下級生をバックして五年生に対抗するのは、やぶ蛇だぜ。来年は僕らが五年生だからね。」
 と、今度は伝統尊重論があらわれて来た。
「そんな馬鹿なことがあるもんか。われわれのまもりたいのは正義だ。正義のあるところには必ず秩序が保たれる。正義は秩序に先んずるんだ。」
「秩序を破って、正義がどこにあるんだ。」
 そこいらまでは、さほど真剣だとも思われなかった議論が、当面の問題をはなれて次第に観念的になるにつれて、かえってみんなの調子が烈しくなって来るのだった。
 大沢は、しばらくは、にこにこしてそれを聴いていたが、そろそろみんなが喧嘩腰になって来たのをみると、だしぬけに怒鳴った。
「よせ! そんな議論をしたって、なんの役に立つんだ。」
 それから恭一の方を見て、
「本田はどうだ。四年生にバックしてもらいたいのか。」
「僕は、いやだ。」
 恭一は、唇のへんを神経的にふるわせながらも、きっぱりと答えた。
「そうだろう。僕も四年生全体の名でバックするのは不賛成だ。」
 大沢はゆったりとそう言って、みんなを見まわした。
「どうしてだい。」
 と、最初の提案者ていあんしゃが、ちょっと間をおいて、たずねた。それはいかにも自信のないたずねようだった。
「本田の弟を侮辱したくないからさ。」
 みんなは、それで默りこんだ。すると大沢は恭一を見ながら、
「しかし、本田、このまま放っとくと危いぜ。ことに狐の奴と来たら執念しゅうねん深いからな。頬ぺたを下級生にひっかかれて默っちゃおらんだろう。」
「僕もそうだろうと思うが……。」
 恭一はいかにも不安そうな顔をしている。
「だから、陰ながらバックしてやるさ。僕だって、それはやるよ。五年生にも話せばわかる奴はいるんだから、狐だけぐらいは何とか手出しさせんですむかも知れん。……四年生全体がバックするなんて言うと、大げさになるし、そうなると、五年生だって負けてはいないだろう。それでは学校が大騒ぎになる上に、君の弟のためにもかえって悪いよ。四年生に侮辱された上に、五年生全体にいじめられることになるんだからね。……どうだい、諸君、みんながそのつもりで、目立たないように本田の弟をバックしてやろうじゃないか。」
 方々で賛成の声がきこえた。
「なるほど、そいつは名案だ。そんな工合にやると、五年生に対して自然四年生の権威を示すことも出来るわけだ。」
 誰かがそんなことを言った。
「おい、おい――」
 と、大沢はその生徒を見て、
「そんなけちなことを考えるのは、よせ。僕らは、四年とか五年とかいうことにこだわる必要はないんだ。それよりか、一年から五年までの正しい生徒が、たてに手を握りあうことが大切じゃないか。本田の弟も、その正しい生徒の一人だ。だから僕らはそれをバックしようと言うんだ。……四年生にだって、つまらん奴はいくらも居る。――僕らは――少くとも僕だけは――そんな奴とは手を握りたくない。そんな奴と手を掘って、五年生に対抗したって、それが何になるんだ。」
 彼は、いつの間にか、演説でもするような態度になって、つづけた。
「元来、正義は階級にあるんじゃないんだ。どんな階級にだって、正しい人もいれば、正しくない人もいる。正義は、それをもっている一人一人の胸にしかないんだ。五年生は五年生なるが故に正義の持主ではない。同様に僕らも、四年生なるが故に正義の擁護者だと主張するわけにはいかない。四年生とか五年生とかいうことは、要するに正義とは何の関係もないことなんだ。それをいかにも関係があるかのように思いこんでいるところに、この学校の病根があり、校風のあがらない大きな原因があるんだ。この学校では、上級の名においていつも正義が蹂躙じゅうりんされている。現に本田の弟の場合がそれだ。僕はもう一度はっきり言う、正義は階級になくて人にあるんだ。もしそうでなければ、全校一致も期待出来ない。それが期待出来るのは、正義が階級の独占物どくせんぶつでなくて、何人の胸にも宿りうるからだ。だから僕は、同級生の団結よりも、正しい人の団結が先ず必要だと思う。僕は四年生を愛し、五年生を憎むために、本田の弟をバックしようと言うんじゃない。僕は学校全体を愛するんだ。学校全体の正義を愛するんだ。そのためには、本田の弟のような、不正に屈しない魂をあくまでも擁護しなければならんのだ。問題は、四年生の権威がどうの、名誉がどうのというような、そんなけちけちしたことにあるんじゃない。大垣校長のいわゆる大慈悲の精神に生き、全校の正義を護ろうと言うんだ。おれの言ったことを誤解せんようにしてくれ。」
 大沢にしては、めずらしく激越な調子だった。みんなは鳴りをしずめて聴いていた。
 誰よりも感激したのは、恭一だった。正義感の鋭いわりに、気の弱い彼は、大沢のこの言葉で、力強い支柱を得たような気がした。彼は、何よりも、それを次郎のために喜んだ。そして、その日の授業が終るまでに、彼は、次郎の生い立ちや、彼自身の次郎についての考えなどを、何もかも、大沢に打ち明けた。
 大沢は、恭一の話をきいているうちに、いよいよ次郎に興味を覚えたらしかった。彼は最後の、授業が終ると、言った。
「さっそく会ってみたくなったね。今日、君の家に行ってもいいかい。」
「いいとも。今からいっしょに行こう。」
「よし行こう。しかし、僕らがバックする話は秘密だぜ。うっかりしゃべらんようにしてくれ。」
「うむ、わかってるよ。」
 二人は校門を出てからも、しきりに次郎のことを話しながら歩いた。
 二人よりもちょっとまえに、次郎も帰って来ていた。彼はもう机について、日記か何かをしきりに書いていたが、恭一のあとから大沢がはいって来たのを見ると、思わずいやな顔をした。五年生にしてもけている大沢の顔付や、その堂々たる体格が、恭一の同級生だとは、彼にはどうしても思えなかったのである。彼の頭には、すぐ雨天体操場の光景が浮かんで来た。山犬や、狐や、三つボタンの仲間ではあるまいか。そう思うと、恭一がそんな生徒をつれて来たのが、腹立たしい気がした。彼は、しかし、仕方なしに、大沢に向って窮屈そうなお辞儀をした。
 大沢は「やあ」とお辞儀をかえして、あぐらをかきながら、
「次郎君だね。」
 と、恭一にたずねた。
「うむ。」
 次郎の神経は敏感に動いた。
(二人は、自分のことを、もう何か話しあったにちがいない。)
 彼は、そう思うと、同時に大沢の襟章に注意した。それは四年の襟章だった。彼は、おやっ、という気がした。
「大沢君っていうよ。僕の親友で、同じクラスなんだ。」
 恭一にそう言われて、次郎はあらためて大沢を見た。張りきった浅黒い顔には、頬から顎にかけて一分ほどにのびた髯さえ、まばらに見える。どう見ても恭一の仲間らしくない。彼は、大沢が五年生でないことがわかって急に楽な気持になったが、同時に、何か滑稽なような気もした。
「みんなで僕を親爺って言うんだよ、わっはっはっ。」
 大沢は自分でそう言って、次郎を笑わした。次郎は、それですっかり彼に好感を覚えたらしく、坐りかたまで楽になった。
 三人はそれから、恭一が階下から持って来た煎餅をかじりながら、いろんな話をした。これといってまとまった話題もなかったが、三人とも少しも飽いた様子がなかった。学校の話もおりおり出た。しかし、次郎は、雨天体操場事件について、自分から話し出そうとは決してしなかった。
 おおかた一時間ほどもたったころ、とうとう大沢がたずねた。
「きのうは、どうだったい、雨天体操場では?」
 次郎は大沢には答えないで、恭一の方を見た。そして、
「恭ちゃん、何か聞いた?」
「うむ、きいたよ。もう学校ではみんな知ってるよ。」
「そうか。……だけど、うちじゃ誰もまだ知らんだろう。」
「そりゃあ、知らんだろう。」
「誰にも言わんでおいてくれよ。」
「どうして? いいじゃないか、ちっとも恥ずかしいことなんかないんだもの。」
「父さんだけならいいけど……」
 次郎の気持は、恭一にはすぐわかった。
 しばらく沈默がつづいたが、大沢はにこにこして、
「学校がいやになりゃしない。」
「そんなこと、ありません。」
 次郎は怒ったような調子だった。
「五年生、こわくない?」
「平気です。だって、僕、何も悪いことしてないんだから。」
「僕は五年生に友達がいくらもあるんだが、これからいじめないように頼んでおこうか。」
「馬鹿にしてらあ。――」
 と、次郎は大沢をさげすむように見て、
「そんなこと頼むの、卑怯です。」
「だって、うるさいぜ。今年の五年生には、あっさりしないのが、ずいぶんいるんだから。」
「いいです、うるさくたって、卑怯者になるより、よっぽどましです。」
「そうか。で、どうするんだい、これから?」
「どうもしません。あたりまえにしているだけです。」
「あたりまえにしていても、生意気だって言ったら?」
「しようがないさ。」
「默ってなぐられているんだな?」
「默ってなんかいるもんか。」
「しかし喧嘩したって、かないっこないぜ。それに、あんな連中を相手にしたって、つまらんじゃないか。」
「すると、あいつらにぺこぺこする方がいいんですか。」
 次郎は、もう、食ってかかるような勢いだった。
「だから、ぺこぺこしないでもすむようにしてやろうかって、言ってるんだ。」
 次郎はそっぽを向いて、返事をしなかった。大沢は、恭一と顔見合わせて、微笑しながら、
「負けたよ。今日は次郎君にすっかり軽蔑されちゃった。わっはっはっは。……今日は、ここいらで失敬しよう。」
 大沢が立ちかけると、次郎がだしぬけに恭一に言った。
「僕たち、自分のことっきり考えないのは、いけないことなんだろう。」
「あたりまえじゃないか。」
 恭一は次郎と大沢の顔を見くらべながら、答えた。大沢は立ったまま、それをきいていたが、にっこり笑って、また腰をおちつけた。
「僕だって、なぐられるの、いやだよ。だから、自分のことっきり考えないでいいんなら、五年生のまえで、もっとおとなしくしていたんだよ。」
「じゃあ、どうしておとなしくしていなかったんだい。」
 大沢がはたから口を出した。
「だって、五年生は無茶ばかり言うんです。あんなこと言われて、僕、へこんでいたくないんです。」
「癪にさわったんか。それじゃあ、やっぱり自分のためじゃないか。」
 次郎はちょっとまごついた。しかし、すぐ、一層りきんだ調子で言った。
「ちがいます。新入生みんなのためです。」
「うむ、新入生のために戦うつもりだったんだね。」
 次郎は、そう言われて、まだ何か言い足りない様な気がした。そしてちょっと考えてから、
「新入生のためばかりではありません。五年生は、ちっとも校長先生の教えを守ってないです。あんな五年生は、僕、学校のためにならないと思うんです。」
「ようし、わかった。」
 と、大沢は、次郎の肩に手をかけて、
「しっかりやってくれ。君は僕たちの仲間だ。しかし、ほんとうの仲間は少いぜ。だから、みんなが一本立ちのつもりでやるより、ないんだ。いいかい。」
 次郎は、あっけにとられたような顔をして、大沢を見つめた。
 大沢は、しかし、そう言ってしまうと、
「じゃあ、失敬。」
 と、二人にあいさつして、さっさと部屋を出て行った。恭一はすぐあとについて、階段をおりた。そして次郎が自分にかえって、急いで下におりた時には、大沢は、もう、門口を出ているところだった。
 大沢を見おくってから、二人はまたすぐ二階に行ったが、次郎は机に頬杖をついて、何かじっと考えこんだ。その様子を見ていた恭一は、しばらくして言った。
「次郎ちゃん、大沢君って、偉い人だと思わない?」
「思うよ。だけど年とっているなあ。」
「中学校にはいる前に、三年も工場で仂いていたんだよ。」
「ふうむ、そうか。」
「だから、よけい偉いんだよ。」
 次郎の頭には、一年おくれて中学校にはいった自分のことが、自然に浮かんで来た。が、彼の考えは、すぐまたもとにもどっていった。
(自分は、大沢に、心にもない偉がりを言ったつもりは少しもなかった。しかし、自分の言ったことに、ほんとうに自信があったかというと、そうでもなかったようだ。)
 彼は何だかそんな気がして、不安だった。しかし、一方では、大沢に励ましてもらったことがうれしくてならなかった。そして、
(これからやりさえすればいいんだ。それで偉がりを言ったことには決してならないんだ。)
 と、自分で自分を励まし、どうなり気持を落ちつけることが出来た。
 二人は、それからも、しばらくは大沢の噂をした。次郎には、「親爺」という綽名が、いかにも大沢にぴったりしているように思えた。そして、そんな友達をもっている恭一を一層尊敬したくなった。同時に、彼の昨日からの気持が次第に明るくなり、これからの闘いが非常に愉快な、力強いもののように思えて来たのである。

一六 葉書


 花が散り、梅雨つゆが過ぎ、そろそろ蝉が鳴き出す季節になったが、その間、次郎の身辺には、心配されたほどの事件も起らなかった。
 彼は毎日むっつりして学校に通った。
 学課には彼はかなり熱心だった。また、教科書以外の本も毎日いくらかずつ読んだ。たいていは少年向きの雑誌や伝記類だったが、恭一の本箱から、美しく装幀された詩集や歌集などを、ちょいちょい引きだして読むこともあった。むろんそのいずれもが、彼にはまだ非常にむずかしかった。しかし、恭一におりおり解釈かいしゃくしてもらったりしているうちに、詩や歌のこころというものが、いつとはなしに彼の感情にしみ入って来た。そして、時には、寝床にはいってから、自分で歌を考え、そっと起きあがって、それを手帳に書きつけたりすることもあった。
 恭一は、もうその頃には、詩や歌をかなり多く作っており、年二回発行される校友会誌には、きまって何かを発表していた。次郎には、それが世にもすばらしいことのように思えた。そのために、彼の恭一に対する敬愛の念は、これまでとはちがった意味で深まって行った。が、同時に、彼が、何かしら、恭一に対してねたましさを感じはじめたことも、たしかだった。
(今に、僕だって、……)
 彼は校友会誌に目をさらしながら、おりおり心の中でそうつぶやいた。彼が幼い頃恭一に対して抱いていた競争意識は、こうして、知らず織らずの間に、形をかえて再び芽を吹きはじめているらしかった。
 次郎と詩、――読者の中には、この取合わせを多少滑稽だと感じる人があるかも知れない。なるほど、次郎は、詩を解するには、これまで、あまりにも武勇伝的であり、作為的であったといえるだろう。
 だが聰明な読者ならば、彼のそうした行為の裏に、いつも一脈の哀愁あいしゅうが流れていたことを決して見逃がさなかったはずだ。実際、哀愁は、次郎にとって、過去十五年間、切っても切れない道づれであったとも言えるのである。彼の負けぎらい、彼の虚偽きょぎ、彼の反抗心と闘争心、およそそうした、一見哀愁とは極めて縁遠いように思われるもののすべてが、実は哀愁のやむにやまれぬ表現であり、自然が彼に教えた哀愁からの逃路だったのである。そして、もし「自然の叡智えいち」というものが疑えないものだとするならば、次郎の心がそろそろと詩にひかれていったということは、必ずしも不似合なことではなかったであろう。というのは、何人も自己の真実を表現してみたいという欲望をいくぶんかは持っているし、そして、哀愁の偽りのない表現には、詩こそ最もふさわしいものだからである。
 だが、彼の詩について、これ以上のことを語るのは、今はその時期ではない。何しろ、彼はまだ、歌一首作るにも、指を折って字数を数えてみなければならない程度の幼い詩人だったし、それに、恭一の詩に対してある妬ましさを感じていたとしても、彼の身辺には、詩以上に切実な問題がまだたくさん残されていたからである。
 第一、入学の当初から、五年生の間に「生意気な新入生」として有名になっていた彼は、彼らに鉄拳制裁の口実を与えまいとして、校内では無論のこと、ちょっと散歩に出るのにも、始終頭をつかい、気を張っていなければならなかった。「狐」や「三つボタン」のような上級生に対して、卑屈ひくつにもならず、言いがかりもつけられないようにするには、次郎の苦心も、実際並たいていではなかったのである。彼はちょっと門口を出るのにも、必ず制服制帽をつけていた。街角では、一応四方を見渡して、五年生の姿が見えると、相手がどこを見ていようと、それに対してきちんと敬礼をした。むろん、校則は、どんな些細なことでもよく守った。その点では、人一倍細心な恭一ですら、彼の几帳面きちょうめんさをおりおり冷やかしたくらいであった。その代り、彼は、今後五年生に無法な暴行を加えられたら、退学処分の危険を冒しても、思いきって反抗を試みようと、固く心に誓っていた。彼が彼の小刀ナイフを筆入に入れないで、いつも衣嚢かくしに入れていたのも、実はそのためだったのである。
 彼は、一年生の全部とはいかなくとも、少くとも彼の組の生徒だけでも、彼と同じ気持になってもらうことを、心から望んでいた。彼はある日、五六名のものに真剣にその気持を話してみた。しかし、誰もが反対もしなければ賛成もしなかった。落第して同じ一年にとどまっていた一生徒などは、嘲るように「ふふん」と答えたきりだった。で、彼はそれっきり、誰にもそのことを言わなくなってしまった。
 何よりも彼がなさけなく思ったのは、彼の同級生が――竜一や源次ですらも――彼と親しくしているところを上級生に見られると、妙にそわそわして、彼のそばを離れようとすることだった。彼はすぐ彼らの気持を見ぬいた。そして心の中でひどく憤慨した。思いきって彼らを面罵してやろうかと思ったことさえ何度かあった。しかし彼はいつもそれを思いとまった。
(五年生に口実を与えてはならない。)
 それが、その頃、彼の行動を左右する第一の信条だったのである。
 こうして、彼は、彼の同級生の間に、一人として心の底から交わりうる新しい友人を見出さなかった。そればかりか、竜一や源次ですら、もう彼にとっては、心からの親友でも、従兄でもなくなったのである。むろん、小学校時代に培われた温い感情が、そう無造作に冷めてしまうわけはなかった。で、次郎の彼らに対する気特には、他の同級生に対するのとは、まだかなりちがったところがあり、また、彼が土曜から日曜にかけて彼らの家を訪ね、見たところ以前と少しも変らない親しさで遊んだりすることもしばしばだったが、そうしたことは、所詮しょせん、過去の酒甕さかがめからしたたって来るしずくのようなもので、彼の注意が一旦明日のことに向けられると、二人は、もう、彼にとって、他の同級生と少しもえらぶところのない存在だったのである。
 彼は、しかし、彼のそうした孤独をたいして淋しいとは感じていなかった。また、憤りや侮蔑の念も、たびかさなるにつれて、次弟にうすらいで行き、あとでは、かえって、同級生に対して憐憫に似た感じをさえ抱くようになった。こうした感情の変化は、彼にとって、元来さほど不自然なことではなかった。それは、つまり、彼がかつて算盤そろばん事件で、弟の俊三に対して示した感情の変化と、同じものだったのである。
 彼にとっての最も大きな失望は、彼の教室に出て来る先生の中に、権田原先生のような人を、ただの一人も、見出せなかったことであった。彼の眼に映じた中学校の先生というのは、小学校の先生にくらべて、何か専門らしいことをほんの少しばかりよけいに知っているだけで、およそ人間らしいところを少しも持合わせない人達ばかりだった。貧しい知識を教室で精一ぱいにしぼり出すこと、点数や処罰で生徒をおどかすこと、この二つの外には、用はないといった顔をしている人間、それを次郎は中学校の先生において発見したのである。
 もっとも、生徒間の噂によると、校内に二人や三人は、尊敬に値する先生がいないでもないらしかった。また、入学式の時に、彼が校長からうけた印象も、まだすっかり消えていたわけではなかった。しかし、そうした先生たちは、次郎たちとはまるでべつの世界に住んでいるようなもので、めったにその顔をのぞくことさえ出来ないのだった。次郎は、そのために、中学校というところは、小学校にくらべてずっと奥行があるような気もしたが、またいやに不便なところのようにも思った。
 とにかく、このことは、彼が中学校の先生にかけていた期待が大きかっただけに、彼をこのうえもなく淋しがらせた。そして、ある先生の授業のおりなどは、その時間じゅう、小学校の教室で権田原先生に教わっていた頃のことを思いうかべて、筆記帳にその似顔をいくつも書き並べていたことさえあった。しかし、一ヵ月、二ヵ月とたつうちに、中学校というところは、どうせそうしたものだ、と諦めるようになり、その淋しさも、いつとはなしにうすらいで行ったのだった。
 諦めるといえば、彼は家庭でも、お芳に愛してもらうことを、もうすっかり諦めていた。同時に、お祖母さんに対しても、これまでのような、わざとでも反抗してみたいという気持はなくなっていた。
(母さんやお祖母さんなんかを相手にするのが、ばかばかしい。)
 彼は、いつとはなしに、そんな気がしていた。はっきり意識して、そうなろうと努めたわけでもなかったが、中学に入学して以来、日一日と、母や祖母の問題がその深刻さを減じて行き、このごろでは、よほどのことがないかぎり、たいして気にもかからなくなって来たのである。それは、たしかに、中学校というものの空気が、彼にいろいろの新しい問題をあたえ、彼の関心を、急に家庭以外の世界にまで拡げてくれた結果にちがいなかった。その意味では、中学校というところも、尊敬すべき先生がいるいないにかかわらず、人間を成長させる何かの魔術をもったところだ、といえるであろう。
 乳母のお浜には、次郎は、それからも、たびたび手紙を出した。返事には、いつもきまって、一番になれとか、偉い人になれとかいうようなことが書いてあり、また、それとなく、今度の母との折合いがうまく行っているかどうかを、知りたいような文句がつらねてあった。次郎は、しかし、そのいずれにも、たいして心を動かさなかった。彼は、そうした手紙によって、お浜の自分に対する愛情を十分に味わいながらも、すでに一段と高いところに立って、その中の文句の意味を読もうとする気持になっていた。それはちょうど、多くの大学生が故郷の母から来る訓戒の手紙を読む時の気持と、同じようなものであったらしい。
(「一番」――「偉い人」――乳母やのおきまり文句はいつもこれだ。乳母やは、しかし、何がほんとうに偉いのかわかっているのだろうか。)
 彼はそんなふうに思った。また、お芳との関係についても、乳母やはいつまで自分を子供だと思っているんだろう、という気がしていた。尤も、この気持のなかには、何かしら、まだ割りきれないものが残っていた。ゆさぶると、底から、にがいものが浮いて来そうな気さえした。「一番」や「偉い人」を微笑をもって読んで行く彼も、「今度の母さん」のくだりになると、だから、いくぶん顔がひきしまって来たのである。
 さて、七月になって、お浜から、俊亮にあてて一通の葉書が来た。
 俊亮あてのお浜の便りは、全く珍しいことだった。文字も、いつもとちがって、誰か相当の人に頼んで書いてもらったものらしかった。それには、四角ばった時候の挨拶のあとに、次のような文句が書いてあった。
「本月八日御地に参上の用件これあり、その節は久々にて次郎様にもお目にかかり度、それを何よりの楽しみに致居候」
 俊亮は、次郎が学校から帰ってくると、待ちかねていたように、彼にその葉書を見せた。そして、久方ぶりに彼の頭をかるくぽんとたたいた。
 次郎は、さすがに心が躍った。しかし、彼は、
「ふうん。」
 と言ったきり、葉書を父にかえして、二階にかけ上った。
 机のまえに坐った彼の眼には、たった今、茶の間で、自分の顔を見つめていた祖母と母との眼が、いつまでもはっきり残っていた。

一七 小刀


 七月八日は、ちょうど土曜だった、普通の授業は午前中ですみ、午後に、剣道の時間が一時間だけ残されているきりだった。
 次郎は、教室で弁当を食べながら、お浜のことばかり考えていた。
(あの葉書には、汽車の時間が書いてなかったが、もう、うちに来ているのだろうか。来ているとすれば、今ごろは、自分のことがきっと話の種になっているにちがいない。お祖母さんはどんなことを乳母やに話しているのだろう。……乳母やと今度の母さんとははじめて会うのだが、おたがいに、どんなふうな挨拶を交わしたのだろう。)
 次郎は、それからそれへと想像をめぐらし、はては、みんなの坐っている位置や、ひとりびとりの表情などをこまかに心に描いてみるのだった。そんなことは、このごろの彼には、あまり似つかないことだったのである。
 弁当は、いつの間にか空になっていた。次郎は、しかし、箸を握ったまま、いつまでも机に頬杖をついてぼんやり窓の外をながめていた。
 窓の五六間さきは道路で、学校の敷地との境は、木柵で仕切ってある。次郎は、見るともなく木柵を見ているうちに、急に「おや」と思った。木柵の外を二人づれの女が通り、その一人がお浜そっくりに見えたからである。
 彼は、弁当がらをそのままにして、やにわに外に飛び出した。そして、木柵と銃器庫との間を、その女の歩いて行く方向に走った。
 うしろ姿は、どう見てもお浜だった。次郎はあぶなく声をかけるところだった。しかし、彼女と並んで向側むこうがわを歩いている女が、赤い日傘をさした十五六歳の少女だと気がつくと、声をかけるのが妙にためらわれた。もし人ちがいだったら……と思うと、少女の手前、いよいよ声が出せなくなるのだった。
 彼は、顔を正面に向けて、そのまま彼らを追いこした。そして三四間も抜いたと思うころ、廻れ右の練習でもやっているようなふうを装って、木柵の隙間から二人の顔をのぞいて見た。
 やはりお浜にちがいなかった。向こうもこちらを見ていた。そしてこちらが声をかけるまえに、
「まあ!」
 というお浜の頓狂な声がきこえた。
 木柵をへだてて、次郎とお浜とは向きあった。お浜の顔は、もう半分、木柵の間から、こちらに突き出している。
「まあ、まあ、お宅にあがるまえに、こんなところでお目にかかれるなんて、全く不思議ですわ。……でも、……」
 と、お浜はけげんそうに柵の内を見まわしながら、
「どうして、こんなところに、たったお一人でおいでなの?」
「僕、乳母やだと思ったから、ここまで追っかけて来てみたんだよ。」
「そう? そうでしたの? よく見つけて下すったのね。あたし、今朝着きましたけれど、この近所に用があったものですから、ついでに、坊ちゃんの学校をそとから覗かせていただきたいと思って、わざとこの道をとおってみたところですの……。でも、こんなところでお目にかかれるなんて、ちっとも思っていませんでしたわ。」
 次郎はうつむいて制服のボタンをいじくっていた。お浜は彼の姿を見あげ見おろしながら、
「あれから、もうそろそろ二年ですわね。でも、なんて大きくおなりでしょう。そうして制服を着ていらっしゃると、よけいお見それしますわ。今は坊ちゃんお一人だったから、すぐわかりましたけれど。」
 お浜はそう言って、うしろをふり向いた。
「坊ちゃん、あの子、誰だかおわかり?」
 次郎はうなずいた。彼は、お浜のうしろに立っている少女がお鶴であることが、もう、さっきからわかっていたのである。
 お鶴は、ややうつむき加減に、左頬を見せていた。白いものを少し塗っているので、以前ほどに眼立たなかったが、お玉杓子に似たあざは、やはり、もとのままだった。
「あの子も大きくなったでしょう。今日は、今から二人でお宅にお伺いしますわ。……坊ちゃんは何時ごろお帰り?」
「二時までだけれど、剣道だから、ちょっとおそくなるよ。」
「でも、三時頃には、お宅にお帰りになれるでしょう。あたしも、ちょっと買物をしますから、たいてい、ごいっしょごろになりますわ。お宅でゆっくり話しましょうね。」
「僕、なるだけ早く帰るよ。」
 次郎は、そう言って、柵をはなれながら、ちらっとお鶴の方に眼をやった。お鶴も、その瞬間、まともに彼の方を見た。
 二人は、視線がぶつかると、あわてたように下を向いた。
 次郎は、すぐ教室の方に、帰りかけたが、途中でもう一度立ちどまって、柵の隙間を縫って行く赤い日傘を見おくった。
 次郎の心は、もう五六歳頃の昔に飛んでいた。お鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことが、つい昨日のことのようにはっきり思い出された。――お鶴の様子はすっかり変っている。今ではもう自分の姉さんとしか思えないほどだ。だが、お玉杓子だけは、相変らず、昔のままにくっつけている。お鶴にとっては、むろんいやなことにちがいない。しかし、思い出というものは、何と甘い、そして美しいものだろう。――
 次郎は、つい、うっとりとなって立っていた。と、だしぬけに、うしろの方から、いやに落ちついた声がきこえた。
「おい……本田。」
 次郎は、ぎくっとしてふり向いた。すると、ちょうど銃器庫の角のところに、一人の上級生が、巻煙草を吸いながら、にやにや笑って立っていた。
 それは「三つボタン」だった。――尤も、この時は、彼の制服のボタンは四つにふえていたが。――
「貴様、そこで何をしていたんだ。」
 三つボタンは、肩をゆすぶりながら、次郎に近づいて来た。
 次郎はきちんとお辞儀だけをした。そして、そのまま默って、睨むように相手の顔を見つめた。
「ふん、知っているぞ。」
 三つボタンは、煙草の吸殻を捨てて、それを靴でふみにじりながら、両腕をくんだ。次郎は、やはりじっと彼を見つめているだけである。
「白状せい、白状せんと、なぐるぞ。」
 三つボタンは、腕組をといて、右手の拳を次郎の顔のまえにつき出した。次郎はそれでもたじろがなかった。そして、いくぶん血の気を失った唇をふるわせていたが、
「僕、何も悪いことなんかしていません。」
 と、食ってかかるように言った。
「何? 悪いことしていない? じゃあ、何でこんなところに一人でいたんだ。」
「用があったからです。」
「何の用だ。それを言ってみい。」
 三つボタンはにやりと笑った。
 次郎には、その下品な笑いが、鉄拳以上の侮辱のように感じられた。彼は返事をする代りに、思わず手を衣嚢かくしに突っこんで、小刀ナイフを握った。
 三つボタンは、しかし、それには気がつかないで眼を柵の外に転じながら、
「言えないだろう。中学生が学校の柵の内から、道を通る女を眺めていたなんて、そりゃ自分の口から言えんのがあたりまえだ。」
 衣嚢の中で小刀を握りしめていた次郎の手は、もうすっかり汗ばんでいた。
「本田、――」
 と、三つボタンはいかにも訓戒するような調子になって、
「貴様の行いは全校の恥だぞ。しかも、貴様はまだ一年生じゃないか。一年生の時から、女に興味を持つなんて、生意気千万だ。将来の校風が思いやられる。」
 次郎は、相手が真面目くさった顔をして、そんなことを言うのを聞いているうちに、妙にくすぐったい気持になって来た。同時に、彼の態度にはかなりの余裕が出来た。彼の機智きちが動き出すのは、いつもそんな時である。
 彼はすまして言った。
「僕、女なんか見ていません。」
「馬鹿! 現に見てたじゃあないか。」
「見てたっていう証拠がありますか。」
「何! 証拠だと? ずうずうしい奴だな。証拠は俺の眼だ。」
「じゃあ、どんな女を見てたんです。」
「こいつ!」
 と、三つボタンは真赤になって次郎を睨んだ。が、すぐ、どうせ相手は鼠でこちらは猫だ、というような顔をして、
「貴様はなるほど偉い。俺も一年生に詰問きつもんされたのは、はじめてだ。五年生も、こうなっては駄目だね。……まあ、しかし、折角の詰問だから、答えてやろう。俺がいいかげんな当てずっぽを言っているように思われてもつまらんからな。……貴様は、さっき、赤い日傘をさした女を眺めていたんだろうが。……どうだ、参ったか。」
 次郎はかすかに笑った。しかし、それは相手に気づかれるほどではなかった。彼はすぐ、いかにもせないといった顔をして、言った。
「そんな女が通ったんですか。」
「とぼけるな!」
 と、三つボタンは大喝だいかつして拳をふりあげた。もういよいよ我慢がならんといった彼の顔つきだった。
 が、その時には、次郎もすでに二三歩うしろに身をひいていた。しかも、彼は、彼の右手に、二寸余の白い刃を見せて、しっかと小刀を握りしめていたのである。
 次郎は、その小刀を腰のあたりに構えながら、青ざめた微笑をもらした。そして、唾を一息ぐっとのみこんだあと、吐き出すように言った。
「五年生だと、女が通るのを見ていいんか!」
 次郎のあまりにも思い切った態度や言葉づかいは、病的な伝統をそのまま上級生の正義だと心得ている三つボタンにとっては、全く信じられないほどの無礼さだった。彼は、一瞬あっけにとられたような顔をして次郎を見た。
 が、次の瞬間には、彼は世にもみじめな存在だった。彼は、次郎をなぶろうとして、あべこべに次郎になぶられていたことに気がついたのである。――何という辛辣しんらつな皮肉だ。そして何という上級生としての恥辱だ。こうなった以上、もう言葉だけで何と次郎をおどかそうと、ただ自分をいよいよ滑稽なものにするばかりだ。かといって、上級生の権威を護るための最後の手段に出ることは、次郎の右手に光っている小刀の危険を冒すことなしには、今や全く不可能である――彼は、実際、自分以上の無法者を、だしぬけに、しかも自分の小さな獲物を発見して、進むことも退くことも出来なくなってしまったのである。
 行詰った三つボタンは、変なせせら笑いをするよりほかなかった。それは、多くの人々が自分の不正と卑怯とをごまかすために、しばしば用いる手段である。だが、それがいくらかでも役に立つのは、相手がこちら以上に不正で卑怯な場合だけである。次郎に対しては、むろん何のききめもなかった。しかも、次郎を動かしていたのは、もはや彼の機智だけではなかった。彼は公憤に燃えていた。いや、公憤というようは、もっと全生命的な、己を忘れた、そして、ただちに死に通ずるといったような気持が、彼を三つボタンに対して身構えさしていたのである。
 三つボタンのせせら笑いを見ると、次郎はそれをはじきかえすように叫んだ。
「馬鹿! 何を笑うんだ。あの女の子は僕の乳母やの子じゃないか。僕は乳母やと今までそこで話していたんだ。それから二人を見おくっていたんだ。それが悪いんか! 自分で知りもしない女の子を眺めていた貴様と、どっちが悪いんだ!」
 次郎の眼からは、もう涙があふれていた。彼は、しかし、罵りやめなかった。
「五年生は、制服のボタンがついてなくともいいんか! こんなところにかくれて、煙草を吸ってもいいんか! そんな五年生が僕たちの上級生なら、僕はもうこの学校にいなくてもいいんだ! なぐるならなぐってみい! 貴様のような奴に死んだって負けるものか! ち、ちく生! 卑怯者! ごろつき!」
 次郎は、自分の声に自分で興奮して、何を言っているのか、もう、まるで夢中だった。
 いよいよみじめだったのは、三つボタンである。そうまで言われては、彼も、いつまでもせせら笑いばかりはして居れなかった。されはといって、彼が「卑怯者」で「ごろつき」であることが、次郎の言うとおりであるかぎり、次郎が決死的になればなるほど、彼としては、始末がつけにくくなるのであった。
 だが、彼にとって何という仕合わせなことか、――たしかにこの場合に限っては、彼もそれでほっとしたにちがいないと思うが――そのせっぱつまった場合に、ひょっくり校内巡視の先生がやって来たのである。
 巡視は当番制で、ほとんど大ていの先生に割当てられていた。その日の当番は朝倉先生だった。朝倉先生は、尊敬に値すると噂されている先生の一人だったが、一年の教室に出ないので、次郎は、まだ、しみじみとその顔を見たことがなかった。
 先生がやって来たのは、次郎が三つボタンに対して最後の罵声をあびせ終って、まだ三十秒とはたたないころだった。
 それを最初に見つけたのは、三つボタンだった。それは、先生が次郎のうしろの方からやって来たからである。
 先生は、ほんのちょっと、次郎の一間ほどうしろに立ちどまって、二人の様子を見た。それから、默って二人の横に立った。
 三つボタンは、もうその時には、すっかりうなだれていた。しかし、次郎はあくまで身構えをくずさなかった。
 先生の眼は、すぐ次郎の小刀にとまった。しかし、やはり口をきかない。そして、その眼はすぐ三つボタンの顔にそそがれた。それからおおかた二分近くもたったころ、先生は、だしぬけに草深い地べたにあぐらをかきながら、重いさびのある声で言った。
「まあ二人とも腰をおろしたまえ。」
 三つボタンはすぐ腰をおろした。が次郎はまだ身構えたまま、先生を見ていた。すると、朝倉先生は、にっこり笑って次郎を見かえした。次郎は、それですっかり身構えをくずし、気がぬけたように腰をおろした。
「小刀はもう握っていなくてもいい。しまったらどうだ。」
 先生にそう言われて、次郎は、自分がまだ小刀を握っていたことに、はじめて気がついたらしく、あわててそれを衣嚢に押しこんだ。
「君は一年だね。名は?」
 朝倉先生は次郎の襟章を見ながらたずねた。
「本田次郎です。」
「本田か、ふむ。……だが、室崎と一うちでは、ちょっと骨だったろう。」
 次郎は、三つボタンは室崎というんだなと思った。
「しかし立派だった。実は、君が室崎に言っていたことは、私もかげで聞いていたんだ。」
 次郎は、あらためて先生の顔をみた。色の浅黒い、やや面長の、髯のない人だった。眼がすきとおるように澄んで、よく光っていた。年は権田原先生より少し若いくらいだった。
「だが、本田、――」
 と、先生は言いかけたが、ちょっと思案して、
「まあ、しかし、室崎の方からきこう。どうだ、君の気持は?」
 室崎は、ただうなだれていた。先生は、あわれむように彼を見ながら、
「正しい人間の強さというものが、今日こそしみじみわかったろう、いい教訓だ。本田を下級生だと思うな。先生にも出来ない教訓を君に与えてくれたんだ。逆怨さかうらみはそれこそ恥の上塗うわぬりだぞ。何を恥ずべきかがわかれば、君もほんとうの強い人間になれる。今のままだと、君ほど弱い人間は恐らくないだろう。私は、はっきりそれを言っておく。いいか。室崎。」
 朝倉先生は、そう言って、室時の首がさかさまになるほど垂れているのを、じっと見つめ、
「およそ何が恥ずかしいと言っても、無慈悲なことをするほど恥ずかしいことはないぞ。無慈悲な人間は、強いように見えて、実は一番弱いものなんだ。私は、君らが何の理由で喧嘩をやり出したかは知らん。また、このまま無事に治りさえすれば、強いて知ろうと思わん。だが、室崎の下級生に対する無慈悲な態度が、その理由の一つであったことに、間違いないだろう。講堂の額は、ただの飾りではないぞ。大慈悲を起し人の為になるべきこと、――君は、もう四年以上も、それを見つづけて来ているんではないか。校長が訓話のたびに慈悲心を説かれるのを、君は何と聞いて来たんだ。……ねえ、室崎、君は、校長が口で説かれるとおりの慈悲の人であったればこそ、今日まで無事に学校にいられたんだぞ。先生たちのうちに、誰ひとり君を弁護する者がなかった時でも、校長だけは、頑として君の退学処分を承知されなかったんだ。あんな生徒であればこそ見放してしまってはかわいそうだ、と言われてね。校長のその気持が少しでもわかったら、自分がもっと真面目になるのはむろんのこと、下級生にだってもう少しは人間らしい接し方がありそうなものだ。君は、元来、それほどのわからずやでもないはずだがね。」
 朝倉先生の言葉は、切々せつせつとして、はたで聞いている次郎の胸にも、深くしみていった。
「じゃあもういい。もう間もなく午後の時間だ。二人とも、これを縁に仲よくせい。それも大慈悲の一つのあらわれだ。……それから、今日のことはほかの生徒には秘密だぞ。喋ったって誰の名誉にもならん。」
 朝倉先生が立ち上ると、二人も立上った。そしていっしょに銃器庫の角をまがりかけたが、朝倉先生は思い出したように、
「おお、そうだ。本田にはまだ言うことがあった。本田は今度の時間は何だ。」
「剣道です。」
「じゃ道場の方にいっしょに歩きながら話そう。教室にはもう用はないかね。」
「竹刀をとって来ます。」
 次郎は走って自分の教室に入り、机の上に放ってあった弁当がらを始末して、すぐ朝倉先生のあとを追った。
 朝倉先生は、渡り廊下を通らないで、白楊ポプラの並木を仰ぎながら、ぶらりぶらり外をあるいていた。次郎が追いつくと、ちょっと時計を見て、
「まだ少し時間がある。腰をおろそう。」
 と、一本の白楊の根もとの草に腰をおろし、次郎を手招きした。次郎が多少はにかみながら、並んで腰をおろすと、先生はすぐ話し出した。
「自分より強いと思っていたものに一度勝つと、そのあと善くなる人もあるが、かえって悪くなる人もある。君は多分よくなる方だと思うが、気をつけるがいい。とにかく自惚うぬぼれないことだ。いい気になって増長しないことだ。自分は強いと自惚れたら、もうそれは弱くなっている証拠なんだからね。やはり慈悲心さ。慈悲心がある人は、どんなつまらん人間をでも軽蔑はしない。それから――」
 と、朝倉先生は微笑しながら、
「君は小刀を握っていたね。あの時はやむを得なかったかも知れんが、これからは、もう兇器だけはよした方がいい。戦争じゃないからな。日本人同士が傷つけあうようになっては大変だ。それにあんなものを使って勝ったところで、ほんとうの勝にはならん。心で勝つのが、ほんとうの勝だ。つまり、相手を恐れさせるんでなくて、慕わせる。それが最上の勝だ。そうなるとやはり慈悲心だね、一番強いのは。……とにかく刃物はいかんよ。相手のために危険であるというよりか君自身のために危険だ。なあに、自分がなぐられる覚悟をきめさえすれば何でもないよ。なぐられるたびに偉くなると思えば、なぐられるのがありがたいくらいなもんだ。」
 先生の言っている言葉の意味は、次郎にもよくのみこめた。しかし、気持としては、まだどこかぴったりしないところがあった。彼はいくぶんためらいながら、たずねた。
「先生、剣道は何のためにやるんですか。」
「うむ――」
 と、先生は、澄んだ眼で、じっと次郎の顔を見つめたあと、いかにも静かな調子で答えた。
「それは見事に死ぬためさ。」
 次郎には、全く思いがけない答えだった。彼は驚いたように、先生を見た。
「むずかしいかな。」
 と、先生は、ちょっと首をかしげて、微笑した。そして、しばらく考えていたが、
「山岡鉄舟という人は、非常な剣道の達人たつじんで、しかも幕末の血なまぐさい頃に仂いた人だが、一生、人をったことのない人だそうだ。むろん戦場に出たら、そういうわけにも行かなかったろうさ。しかし、その機会もなかったらしい。だいいち、日本人同士で戦うのを非常に残念がっていた人で、徳川慶喜の旨をうけて、官軍の方に使いをしたこともあるんだ。そういう人だから、決してむやみに人を殺さなかった。つまり活人剣――人を活かす剣だね――それが山岡鉄舟の信念だったんだ。――」と先生はちょっと言葉を切って、
「この活人剣というのは、自分にけちな根性があっては握れるものじゃない。己につ、――聞いたことがあるだろう、己に克つって。――その己に克つことが、活人剣を握る人の心構えなんだ。己に克つというのは、自分だけの利益とか、名誉とか、幸福とかいうものをすてて、一途に国のため、世のため、人のためにつくそうとする心になることなんだ。つまり、見事に死んで、見事に生きよう、というのだね。武士道ということは死ぬことと見つけたり、――葉隠はがくれにはそんなことが書いてある。君らには、葉隠はまだ少しむずかしいかも知れんが、少しずつ読んでみるといいね。講堂にかかげてある額も、葉隠にある言葉だよ。四誓願といって、それが葉隠の大眼目なんだ。武士道、忠孝、大慈悲、この四つを神仏に念じて、尺取虫のようにじりじりと進んで行こうというのだ。しかし、四誓願といっても四つがべつべつではない。心はただ一つだ。忠も、孝も、武士道も慈悲も、つまり見事に死ぬことだよ。見事に死んで、見事に生きることだよ。君らは剣道でその稽古をしているわけなんだ。」
 鐘が鳴った。
 朝倉先生は立ち上ってズボンの塵を払いながら、
「じゃあ、そのつもりで、しっかり稽古したまえ。大慈悲を起し人のためになるべき事、――いいかね。」
 次郎は、お辞儀をすますと、いっさんに道場の方に走った。朝倉先生は、そのいきいきした姿が見えなくなるまで、彼を見おくっていたが、やがて大きく息をして、白楊の高い梢を見あげた。
 真っ青な空には、一ひらの白い雲がしずかに浮いていた。

一八 転機


 大巻のお祖父さんの仕込みもあって、入学の当初から次郎は剣道に熱心だったが、その日はとりわけ懸命に稽古を励んだ。彼の心構えには、何か知らいつもとちがったところがあり、打っても打たれても気分は爽やかに落ちついていた。ふだんだと、打たれていきり立つとか、勝ちほこって相手をからかってみるとか、いうようなことがないでもなかったが、その日は、ふしぎに、そんな気には少しもなれなかった。
 稽古を終えて、校門を出ると、すぐ前の昔の城址に、こんもりともりあがっている樟の青葉がしずかな輝きを彼の眼に送った。彼は、何かこう、胸の中がすきとおるような気持だった。道場で流した汗は、まだ流れつづけていたが、暑い日ざしもさして苦にはならなかった。
 彼は朝倉先生のことを思いながら、歩いた。先生の一つ一つの言葉よりも、先生の人がらからうけた感じが、彼の心を強くとらえていた。
 歩いて行くうちに、彼の連想は、つぎつぎに時間を逆に進んで行った。白楊の蔭、銃器庫の裏、三つボタン、赤い日傘、そしてお浜との柵をへだてての対話、そこまで行くと、彼の足どりはやにわに早くなった。
 彼は、しかしそれからまだ一丁とは行かないうちに、ふと、何かにぶっつかったように立ちどまった。そして、すぐまた歩き出したが、その一歩一歩は何かにひっかかってでもいるかのようにのろかった。彼は、これまで彼の心にかつて浮かんだことのない、ある妙な考えに捉われはじめていたのである。
(自分がきょう朝倉先生を知ることが出来たのは、室崎のおかげだ。朝倉先生は彼を無慈悲だと言ったが、その無慈悲な彼が、自分をあのりっぱな先生に結びつけてくれたのだ。)
 これは次郎にとって、たしかに大きな驚きの種であった。が、彼の驚きは、ただそれだけではなかった。
 彼はまた考えた。
(室崎が自分に無法な言いがかりをしたのは、お鶴のためだった。そして、お鶴をつれて学校のそばを通ったのはお浜だった。お浜はなぜ学校のそばを通る気になったのか。それは自分の乳母やだったからだ。そうしてみると、自分を今日朝倉先生に結びつけてくれたのは、ほんとうは乳母やだったということになる。)
 彼はそこまで考えて、世の中というものは実に不思議なものだと思った。「めぐり合わせ」という言葉が思い出された。かつて徹太郎に聞いた「運命」という言葉も顔に浮かんで来た。やはりどこかに神様というものがいて、いつも自分たちをみており、自分たちのために伺か考えているのではないか、という気もした。
 しかし、それまでは、彼の気持は、まだ割合に静かだった。彼の考えは、つぎの瞬間には、乳母やから亡くなった母のことに飛んで行ったのである。
(自分を乳母やの家に預けたのは、亡くなった母さんだったのだ。そして、母さんがもし自分を乳母やに預けていなかったとしたら乳母やは今日学校のそばを通りはしない。すると――)彼は、そう考えて、思わず大きな息をした。彼の眼には、ひさびさで、地下の母の顔がはっきり浮かんで来た。やはり、観音様に似た顔だった。笑っているようにも思えた。心配している顔のようにも感じられた。
 やがて朝倉先生の顔が母の顔にならんで現れた。するとその二つの顔が、何か自分のことについて話しあっているようにも思えて来た。
 次郎は、人間同士のつながりの広さと深さというものを、幼い頭ながらも、考えてみないわけにはいかなかった。そして、悲しいような、恐ろしいような、それでいて、何か気強いような、そしてまた楽しみなような、一種不思議な感じに包まれながら、いつの間にか、自分の家の前まで来ていた。
 門口をはいると、茶の間からきこえるかん高い話し声で、もうお浜の来ていることがわかった。
 お浜は次郎の姿を見ると、跳び上るように立って来て、彼を上り框にむかえた。お鶴も、はにかみながら、お浜のうしろに坐ってお辞俵をした。
 次郎は、しかし、さきほどからの感動から、まだ十分にはさめていなかった。彼は、何か不思議なものでも見るように、お浜を見、お鶴を見、そしてお祖母さんや、俊亮や、お芳や、俊三を見まわして、突っ立っていた。
「どうかなすったの?」
 とお浜が心配そうにたずねた。
「ううん、――」
 と、次郎はほとんど無意識に首をふった。それから、急に思い出したように、
「唯今。」
 と、みんなに挨拶して、そのまま、さっさと二階へ上って行った。
 お浜はうろたえた顔をして彼を見おくった。俊亮はちょっと厳めしい顔をした。お祖母さんはじろりとお浜とお芳の顔を見くらべた。お芳には、これといってとくべつの表情は見られなかった。そして、俊三とお鶴とは、不思議そうにみんなの顔を見まわした。
 次郎は自分の机のうえに学校道具をおくと、立ったまま、何か思案した。恭一はまだ帰っていないらしく、帽子も雑嚢も見当らなかった。
 見るともなく恭一の本立を見ているうちに、次郎の眼はその中の一冊にひきつけられた。仮綴の袖珍本で、背文字に「葉隠抄」とあった。次郎はいきなりその本を引き出して、頁をめくった。
 最初の頁に、学校の講堂の額になっている「四誓願」が大きな活字で印刷してあった。つぎの頁には、朝倉先生の言った「武士道ということは死ぬことと見つけたり。」という文句が見つかった。それには朱線がひいてあった。彼はそれから、つぎつぎに、朱線のひいてあるところだけを見て行った。わかりにくい文句がかなり多かったが、また、彼の今の気持にぴったりする文句もちょいちょい見つかるので、吸いつけられるように、さきへさきへと眼を通して行った。
「……人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。……」
「……損さえすれば相手はなきものなり。……」
「……大慈悲より出ずる智勇が真のものなり。……」
「……よきことをするとは何事ぞというに、一口にいえば苦痛をこらうることなり。……」
「……わがために悪しくとも、人のためによきようにすれば、仲悪しくなることなし。……」
「……若きうちは、随分不仕合わせなるがよし。不仕合わせなるとき、くたびるる者は役に立たざるなり。……」
 そうした文句は、どれもこれも、彼自身のために書かれているような気がした。とりわけ、最後の二句は悲しいまでに彼の心に響いた。彼は読み進むのに夢中だった。
「おや、もうお勉強?」
 いつの間にか、お浜がうしろに立っていた。次郎がふりむくと、お浜はぴったりと彼によりそって坐りながら、
「お試験でもありますの? 今日は土曜でしょう。」
 お浜の眼は何か淋しそうだった。次郎ははっとして本を閉じた。そして、いきなりお浜の膝に両手を置いて言った。
「僕、きょう、乳母やのおかげで、先生にこの本の話をきいたもんだから、ちょっと読んでいたんだよ。」
「乳母やのおかげですって?」
「うん、そうだよ。乳母やのおかげだよ。」
「坊ちゃんてば。……ほほほほ。」
「ほんとうだい。ほんとうに乳母やのおかげさ。嘘なもんか。」
 次郎は怒っていると思われるまでに、真剣だった。
「そう? じゃあ、そのわけ聞かしてちょうだい。」
 お浜は、まだ信じられない、といった顔をして笑っている。
「話すよ。……だけど、父さんにも聞いてもらおうかなあ。……そうだ、お祖母さんにも、母さんにも、聞いてもらった方がいい。階下したにおりようや。」
 次郎は何か喜びに興奮しているようだった。
「階下に?」
 と、お浜は、もうしばらく二人きりでいたいようなふうだったが、すぐ思いかえしたらしく、
「そう、階下にいらしって下さる方がいいわね。どうせ乳母やは今夜はとめていただきますから。」
「恭ちゃんは、まだ帰らないかなあ。僕の話、恭ちゃんにも、いっしょにきいて貰うといいんだけれど。」
 次郎はそう言ってさっさと先きにおりた。お浜は、ちょっと恭一と次郎との机の様子を見くらべてから、そのあとにつづいた。
 二人が階下におりると間もなく、恭一も帰って来た。それまで、あまり機嫌のいい顔をしていなかったお祖母さんも、すると、急に顔がほぐれ出した。座はわりあいに賑やかだった。少くとも次郎には、何かしら、いつもより賑やかなように感じられた。
 彼は今日の出来事を話し出すいい機会をねらっていたが、なかなかそれが見つからなかった。お浜は、そのことを忘れてしまっているかのように、お芳に向かって昔の話ばかりした。そして、
「今日学校でお会い出来たのも、ただごとではございませんよ。だって、生徒さんもずいぶん沢山でしょうのに、たまたま坊ちゃんが一人でおいでの時に、通りあわせるなんて。」
 と、もうまえに何度も話したらしいことを、もう一度仰山ぎょうさんに言った。それから、
「ああ、そうそう。」
 と、次郎を見て笑いながら、
「さっきのお話、どんなことですの、乳母やのおかげで、ご本がどうとかって?」
 次郎は、そこで、父の方を見ながら、今日学校でお浜にあってからの出来事をくわしく話した。何もかもかくさなかった。小刀のこともむろん話した。ただ室崎のことだけは、五年生とだけで名を言わなかった。朝倉先生をほめあげたのはむろんだが、室崎のことも、事実を話す以外には、決して悪くは言わなかった。
「だって、朝倉先生にいろいろ教えて貰ったのは、五年生のおかげでしょう。もとは乳母やのおかげだけれど。」
 彼は非常に真剣な顔をしてそんなことを言った。
 亡くなった母のことが、話しているうちに何度も彼の頭に閃いた。彼は、しかし、それだけは決して口に出さなかった。最後に、彼は、両膝の間に握り拳をならべて、きまりわるそうに体をゆさぶりながら、
「僕、もうきっと誰とも喧嘩なんかしません、学校でだって、家でだって。……これまで、僕、自分のことっきり考えてなかったことが、よくわかったんです。だから……だから……」
 彼は何度も言いよどんでは、お祖母さんと、お芳の顔を見くらべていたが、そのまま首をがくりと垂れて、涙をぽたぽたと拳の上に落した。
 一瞬、しいんとなった。
 それまで、お祖母さんは、小刀のことでいつ俊亮が次郎を叱るかと、それを待っているかのように、眼ばかりじろじろさしていたが、次郎の涙を見ると、ちょっと意外だという顔をした。それから、ちらとお浜を見たあと、少してれたような、そして、うわべだけでもなさそうな笑顔をして、言った。
「次郎もそこに気がついたのかえ。なあに、そこに気がつきさえすれば、お祖母さんだって叱ってばかりはいないよ。やっぱり中学校には行くものだね。」
 お芳はただうなだれていた。
 お浜は、少しけんのある眼をして、お祖母さんとお芳とを見くらべていたが、そのまま唾をのみこんで、今度は俊亮の方を見た。
 俊亮は眼をつぶって木像のように坐っていた。
「次郎ちゃん、僕、すっかり次郎ちゃんに負けちゃったよ。」
 と、恭一が、その時、膝を乗り出すようにして、
「しかし、朝倉先生はやっぱり偉いなあ。僕、これまで偉いとは思っていたんだが、それほどだとは思っていなかったよ。……そして、その五年生って誰だい。」
「ううん、誰にも名前は言えないよ。」
 次郎は、うつむいたまま答えた。
「そうか、多分あいつだろうと思うけれど。……しかし、まあいいや、誰だって、よくなりさいすりゃ、いいんだから。」
 俊亮は、その時、やっと眼を見開いて、
「父さんも、もう次郎には負ける。うちで一番偉いのは次郎らしいね。これも乳母やのおかげかな。」
「坊ちゃん!……」
 と、お浜はやにわに次郎に飛びついて、その肩を抱きすくめた。
 お鶴は顔を赧らめて見ており、俊三はきょとんとして眼を見張った。

一九 夜の奇蹟


 お浜には、しかし、まだ何か割り切れないものが残っているらしかった。
「一晩泊めていただくつもりで、あがりましたの。」
 彼女は、来ると、すぐ、そう言っておきながら、夕飯ごろになると、お鶴に向かって、
「でも、やっぱり、おいとましましょうかねえ。」
 などと言って、お祖母さんとお芳との顔色を読んだりした。それでも、俊亮が、
「何を言うんだ。次郎ががっかりするじゃないか。あすは日曜だし、次郎も、一日、うちにいるんだぜ。」
 と、叱りつけるように言うと、変に浮かない顔をしながらも、結局、泊って行くことにしたのである。
 夕食の食卓は、わりになごやかだった。以前だと、本田の家で、お浜たちがみんなと同じ食卓につくことなどめったになかったのだが、きょうは俊亮の言いつけもあって、二人は、むしろお客あつかいにされた。
 お浜は、しかし、そんなことよりも、やはり次郎の皿の中のものが気になった。彼女は、食卓につくと、すぐ、じろりと兄弟三人の皿を見まわした。そして、べつにわけへだてがあっている様子も見えなかったので、やっと安心したように箸をとった。
「次郎ちゃん、今夜は、乳母やと二階に寝ろよ。僕は階下に寝るから。」
 恭一は、夕食がすんだあとで、そう言って自分の夜具を二階から座敷に運んだ。夜具といっても、夏のことで、敷ぶとんと丹前たんぜんぐらいだった。
「じゃあ、蚊帳がせまくて窮屈だろうけれど、お鶴もいっしょに二階に寝てもらったら、どうだえ。」
 お祖母さんが、わりあい機嫌のいい顔をして言った。
「それがいい。狭いのも、かえって昔を思い出していいだろう。校番室だって、そう広い方でもなかったからね。」
 と、俊亮が笑った。
 お浜も、やっと笑顔になった。
 そのあと、お芳が、一人でこそこそと夜具をそろえて、それを階段の方に運びだした。それに気づくと、次郎がすぐ立って行き、階段のところでそれを受取って、二階に運んだ。
 二人はべつに口をききあわなかった。次郎は、しかし、妙に心がおどるような気持だった。それはお浜と二階に寝るようになったからばかりではなかったらしい。
「まあ、すみません。あたしたちの夜具まで、坊ちゃんに運んでいただいて。」
 次郎が夜具を運び終ったころ、お浜が二階にあがって来て、言った。お鶴もそのあとについて来ていた。
 六畳の蚊帳の中に、三人の夜具を入れるのは、かなり無理だった。それでも、どうなり蚊がはいらないだけの工面をして、三人は、はしゃいだ笑い声を立てながら、もう一度、階下におりた。
 みんなが床についたのは、十一時ごろだった、二階では、お浜がまん中に、その右に次郎、左にお鶴が寝た。さほど寒い夜でもなかったので、寝てみると案外楽だった。三人の胸の中には悲しいまでの喜びが、しっとりしみ出ていた。
 むろん、誰もすぐにはねむれなかった。お浜の口からは、校番室の頃の思い出が、つぎつぎにくりひろげられて行った。次郎とお鶴とはほとんど聞き役だった。ことにお鶴は無口で、合槌もめったにうたなかった。それでも、彼女が耳をすましていたことは、何か可笑しい話が出ると、すぐ「くっくっ」と笑い出すので、よくわかった。
 お浜の思い出話の中には、次郎の記憶に残っていないことが、かなり多かった。次郎とお鶴がよく乳を争って泣いたこと、それがやかましいと言って先生に叱られ、お浜が一人を抱き、一人をおんぶして田圃道を歩きまわったこと、抱かれた方はすぐ泣きやむが、おんぶされた方はなかなか泣きやまなかったこと、――また、三歳か四歳ごろ、次郎が昼寝をしているお鶴の耳に豌豆えんどうを押しこんで、大騒ぎをしたこと、改作爺さんの入歯を玩具にして、一日、どうしてもそれを返そうとしなかったこと、北山の山王祭の人ごみの中で、買ってもらったおもちゃの風車をやたらにふりまわし、若い女の結い立ての髪にそれをひっかけて、その女を泣かしたこと――お浜は、そうしたことを、次から次に話していったが、次郎にとっては、たいていはもう覚えのないことだった。
「それでも、あたし、坊ちゃんがどんなにおいたをなすっても叱ったことなんて、一度もありませんでしたよ。お鶴の方がしょっちゅう叱られ役でしたわ。その代り、勘さんが、よく坊ちゃんを叱りましたわね。」
 次郎は、そう言われて、すぐお鶴の頬ぺたのお玉杓子をつねった時のことを思い出した。そして、そのお鶴がこんなに大きくなって、お浜のすぐ向こう側に寝ているんだ、と思うと、何だかうそのような気がするのだった。
「でも、乳兄弟って、いいものですね。小さい時には、自分の乳をとられたうえ、いつもいじめられてばかりいたお鶴が、坊ちゃんからの手紙っていうと、そりゃ大さわぎで私に読んできかせるんですもの。ほんとの兄弟でも、なかなかそんなじゃありませんわね。」
 お浜は、しみじみとした調子でそう言った。次郎は、お鶴の顔を闇の中で想像しながら、きょう学校の帰りにふと頭に浮かんだ「運命」という言葉を再び思い出して、深い気持になった。
 お浜にとって、何よりも悲しい思い出は、何といっても、校舎の移転と同時に校番をやめなければならなくなったおりのことだった。彼女は、その話をし出すと、もう涙声になり、その当時の村長や校長を何かとこきおろすのだった。
「あたしたち、その頃はもう校番をやり出してから、十年近くにもなっていたんですよ。それを、学校が新しくなったからって逐い出すんですもの。あんな不人情の人たちってありゃしませんよ。それに、だいいち、私には坊ちゃんて方があったんでしょう。これで坊ちゃんにもいよいよお別れかと思うと、もう、くやしくって、くやしくって、いっそ一思いに新しい校舎に火をつけてやろうかと思ったこともありましたよ。」
 次郎にも、そのころの記憶は、まだまざまざと残っていた。彼は言った。
「僕、あれから、毎日一度は、きっと古い校舎に遊びに行ってたよ。」
「そう? 坊ちゃんも、やっぱり、乳母やにわかれて、淋しくっていらしったのね。」
「でも、あの校舎がなくなって、野っ原になった時には、いやだったなあ。僕、校番室のあとに残ってた石に腰かけて、泣いたことがあったよ。」
 次郎は、お鶴から来た年賀状のことを思い出したが、それについては何とも言わなかった。
 部屋の中は、しばらくしいんとなった。が、やがてお浜の夜具がもぞもぞと動いたかと思うと、次郎は、もう夜具の上から、彼女の腕に抱かれていた。
「坊ちゃん、ほれ、このお乳ですよ。お鶴と二人で取りあいっこなすったのは。」
 お浜は、次郎の手を探して、むりに自分の乳を握らせた。
「もうこんなにしなびてしまいましたわ。あのころは、坊ちゃんのお顔をすっかり埋めてしまうほどでしたのに。」
 次郎は、お浜のあばら骨にへばりついている、つめたい、弾力のない肉の上に、ちょっぴり盛りあがっている乳房を指先に感じて、変に気味わるく思いながらも、何か、こう、泣きたいような甘さを胸の奥に覚えた。
「坊ちゃんが、お母さんのお乳をおいただきになったのは、たった二十日ばかりで、あとは、みんなこのお乳でしたのよ。だから、あたし、心のうちではいつもお母さんに威張っていましたの。……でも、……」
 と、お浜は、かなり永いこと默りこんでいたが、急に身をおこして、自分の夜具にもぐりこみながら、
「ああ、あ、そのお母さんも、もういらっしゃらないし、乳母やも、威張るのに、ちっとも張合いがありませんわ。こうしてひさびさでお伺いしても、坊ちゃんのことを、どなたとしみじみお話ししていいのやら……」
 お浜は、それから、お民の危篤の電報を受取って正木の家に駆けつけたおりの話をし出し、
「お母さんは、乳母やに、一度あやまっておかないと気がすまないって、おっしゃって下さいましたわね。覚えていらっしゃるでしょう。」
 と、鼻をつまらせた。そして、
「気がお強くって、あたしも、しょっちゅう叱られてばかりいましたけれど、そりゃあ、何でもよくおわかりの方でしたわ。坊ちゃんのことだって、ああして最後までお気にかけて、わざわざあたしをお呼び下すったんですものねえ。それに、何と言ったって、実のお母さんですわ。実のお母さんなればこそ、あたしのようなものにまで、あやまるなんておっしゃって下すったんですわ。血をひかない他人には、とても出来ないことですよ。」
 お浜の言葉にさそわれて、亡くなった母の思い出にひたりきっていた次郎は、そこで、急に何かにつきあたったような気がした。
(乳母やは、今度の母さんのことで、何かいけないことを言おうとしているんだ。)
 彼はすぐそう思って、落ちつかなかった。そして、お浜のつぎの言葉を待つのが、何だかいやだった。で、彼はとっさに言った。
「そんなこと、あたりまえじゃないか、乳母や。」
「あたりまえって言えば、あたりまえですけれど……」
 と、お浜は、そのあとをどう言ったら、自分の言いたいことが言えるのか、ちょっとまごついたらしかったが、急に調子をかえて、
「あたし、ねえ、坊ちゃん、きょうお伺いして、ほんとうは、がっかりしていますのよ。」
「どうして?」
 次郎は、不安な気がしながらも、そう問いかえさないわけにいかなかった。
「どうしてって、あたしは坊ちゃんの乳母やでしょう。それがきょうしばらくぶりでお訪ねしたんじゃありませんか。そしたら、かりにも坊ちゃんのお母さんと言われる人なら、何とか、もう少しぐらい、しみじみと坊ちゃんのお話をして下さるのが、あたりまえですわ。」
「母さんは、ふだんから、あまり物を言わないんだよ。」
「そうかも知れませんが、それにしても、あんまりですよ。坊ちゃんが学校からお帰りになるまえだって、一言も坊ちゃんのことはおっしゃらなかったのですよ。お話しになるのは、お祖母さんばっかり。……ねえ、お鶴、そうだろう。」
「ええ、そうだわ。」
 お鶴は、いかにも不平らしく、強く合槌をうった。
「それに、お祖母さんのお話ったら、きいてて腹が立つことばかりなんでしょう。そりゃあ、もう、お祖母さんは、どうせそうだろうと、諦めてはいましたのさ。だけど、あたしだって、ひさびさでお訪ねしたんですもの、坊ちゃんにちっともいいところがないように言われると、何ぼ何でもねえ。」
 次郎は、默ってきいているより仕方がなかった。
「そんな時に、ですから、お母さんがはたから何とかおっしゃって下さるのが、あたりまえだと思いますわ。そりゃあ、お祖母さんのおっしゃることに、まともに反対も出来ますまいさ。だけど、その気がありさえすれば、何とかとりなしようがありそうなものですよ。そうすりゃあ、あたしだっていくらか察しがつきますわ。それでお母さんがいくらかでも、坊ちゃんのことを考えて下さるってことがね。だのに、まるで知らん顔でしょう。あたし、失礼だと思ったけれど、わざわざお母さんに、はばかりに案内していただいたんですよ。それでも、坊ちゃんのことはひとこともおっしゃらないんですもの。あたし、がっかりしたのあたりまえでしょう。」
「だって、母さんは物を言わない人なんだから、仕方がないさ。」
「いいえ、少しでも坊ちゃんのことをお考えなら、あんなにまで知らん顔は出来ませんよ。やっぱりお祖母さんといっしょになって、坊ちゃんを憎んでおいででしょう。」
「乳母や――」
「でなけりゃあ、馬鹿か気違いですわ。」
「乳母やったら――」
「坊ちゃんがおかわいそうなばかりに、お父さんがあの方をお呼びになったりていうじゃありませんか。それだのに――」
 お浜は、自分の言うことに自分でげきして行くらしかった。
「乳母や、よそうよ、もうそんな話――」
「坊ちゃんは、どうしてそんな意気地なしなんでしょうね。お手紙では偉そうなことばかり書いておよこしのくせに。」
 次郎は、自分の手紙に書いてやる文句のほんとうの意味が、お浜にはちっともわかっていないのが淋しかった。同時に、きょう自分がみんなの前で学校での出来事を話し、将来を誓ったことを、乳母やはどんなふうにとっているのだろうか、と心細くなって来た。で、彼は、わざとはぐらかすような調子でたずねた。
「だって、父さんは、うちで一番偉いのは僕だって言ったんだろう。」
「まあ、坊ちゃんは、お父さんにあんなこと言われてほんとうに偉くなったおつもりでしたの。ご自分は泣きながら、お祖母さんやお母さんにあやまっていらしったくせに。」
「じゃあ、どうして、父さんは僕を偉いって言ったんだい。」
「そりゃあ、あの時、坊ちゃんがあんまりおかわいそうでしたからですわ。」
「でも、恭ちゃんも、僕に負けたって言ったんじゃないか。」
「坊ちゃんは、どうしてそんなにお人よしにおなりでしょうね。恭さんだって、やっぱり坊ちゃんをかわいそうだと思って、取りなして下すったんですわ。」
「だって、乳母やも、あの時は喜んでいたんじゃないか。」
「喜んでなんかいませんわ。あたし、癪で癪でならないでいた時に、お父さんが、ああ言って、お祖母さんやお母さんの鼻をあかして下すったのが、ありがたかっただけなんですわ。……坊ちゃんは、何てじれったいお気持でしょうね。」
 お浜は、そう言ってため息をついた。
 次郎は、自分とお浜との気持のへだたりが、あまりにも大きいのに驚いた。
(いつの間に、二人はこんなにちがって来たのだろう。以前は、乳母やの気持と自分の気持とがべつべつであったことなど、一度もなかったのに。)
 彼はそう思わないではおれなかった。そして、はっきりとではないが、母が亡くなった頃のこと、入学試験にしくじったあとのこと、いよいよ中学にはいってからのこと、と、つぎつぎに考えて来て、やはりこの二年ばかりの間に、自分が次第に伸びて来たのだ、という感じを深くした。しかし、最後に、
(もし乳母やの来るのが、今日でなくて昨日だったとしたら、どうだろう。今度の母さんのことを、さっきのように乳母やが悪く言うのを、自分は、果して、味方を得たような気にならないで聞いていられただろうか。)
 と、考えた時に、彼は今更のように、きょうの学校での出来事を思いおこし、何か厳粛な気持にさえなるのだった。
 同時に、彼は、お浜が自分を意気地なしだと言って、一途に腹を立てているのが、あわれに悲しいことのように思えて来た。
「乳母や――」
 と、彼は、お浜の方に手をのばして、その腕を握りながら、
「乳母や、おこってる?」
「…………」
 お浜は返事をしないで、またため息をついた。
「乳母やは、僕が可愛いんだろう。」
 次郎に握られたお浜の腕が、ぴくっと動いた。しかし、やはり返事がない。
「ね、可愛いんだろう。ちがう?」
「坊ちゃん――」
 と、お浜はいきなり次郎を自分の方に引きよせて、
「坊ちゃんは、どうしてそんなことを乳母やにおききになるの?」
「ほんとうに可愛いんなら、僕、乳母やに言うことがあるからさ。」
「そりゃあ。可愛いんですとも、可愛いんですとも。乳母やがこんなにおこったりするのも、坊ちゃんが可愛いからですわ。だから乳母やがおこったからって、心配することなんかありませんわ。おっしゃりたいことがあったら、何でもおっしゃい。乳母やになら、何をおっしゃっても、かまいませんよ。……どんなこと? 乳母やのまだ知らないことで、なにかきっといけないことがあるんでしょう? お祖母さんのこと? それともお母さんのこと? きっとお母さんのことでしょう? ね、そうでしょう。」
 次郎は、自分の言おうとすることと、お浜のききたがっていることとが、まるであべこべなことだと知ると、出鼻をくじかれたような気持になり、しばらく默っていた。すると、またお浜が言った。
「じれったいわね、坊ちゃんは。……お鶴がいるのがいけませんの? だって、お鶴は坊ちゃんの味方じゃありませんか。乳兄弟ですもの。」
「お鶴がいたっていいさ。」
「じゃあ、早くおっしゃいね。」
「ねえ、乳母や。――」
「ええ。」
「僕の言いたいことは、乳母やの考えてるような悪いことじゃあないんだよ。」
「そう?」
「お祖母さんのことでも、母さんのことでもないんだよ。」
「そう?」
 お浜は、何か拍子ひょうしぬけがしたような調子だった。
「ねえ、乳母や――」
「ええ……?」
「僕は乳母やよりもえらいんだろう。偉くない?」
「乳母やより? まあ、可笑しな坊ちゃん。乳母やどころですか、ほんとうはやっぱり恭さんよりも、お父さんよりもお偉いんですよ。誰よりもお偉いですよ。」
「ほんとうにそう思ってるんかい?」
「思ってますともさ。」
「でも、僕には、乳母やが嘘ついてるように思えるんだよ。」
「どうして? さっき、あたしがあんなこと言ったからですの?」
「うむ。……乳母やには、僕、ほんとうは意気地なしに見えるんだろう。」
「そんなことあるもんですか。あの時はちょっと言ってみただけなんですよ。坊ちゃんがあんまり負けてばかりいらっしゃるようだから。」
「負けるの、意気地なしなんだろう?」
「そ……そうね、そりゃあ、ほんとうに負けたら、意気地なしですともさ。」
「だから、僕、やっぱり意気地なしだろう。偉くなんかないんだろう。乳母やはそう思ってるんだろう。」
「まあ、坊ちゃん! 坊ちゃんは、どうしてそんなにひねくれてお考えになるの? 坊ちゃんらしくもない。」
「ひねくれているんじゃないよ。」
「だって――」
 と、お浜は、もう泣き声だった。
「乳母や、……乳母や……」
 と、次郎は、お浜のからだをゆすぶりながら、
「僕は、ちっともひねくれてなんか、言ってるんじゃないよ、ほんとうにそうだよ。」
「じゃあ、ど……どうして、あんな意地悪なことおっしゃるの?」
「意地悪じゃないよ。だって、乳母やの考えてることと、僕の考えてることとが、まるでちがってるんだから、しようがないよ。」
「じゃあ、どうちがっていますの?」
「乳母やは、僕がみんなに負ける、だから偉くないって、そう思ってるんだろう。」
「ほれ、また。」
「わかんないなあ、乳母やは。」
「わからないのは坊ちゃんですよ。」
 次郎は笑い出した。お浜も、つい、つりこまれて淋しく笑った。次郎は、しかし、すぐまじめになって、
「乳母や、負けるって、どんなこと?」
「負けるって、負けることですよ。」
 次郎はまた笑った。すると、今度はお浜がたずねた。
「じゃあ、坊ちゃんは、どうお考えなの?」
「僕はね、乳母やが勝ちだって考えていることが負けるってことで、負けるって考えてることが勝ちだってことだと思うよ。」
「まあ! 変ですわね。それ、どういうことですの?」
「乳母やは、人の喜ぶようなことをするの、いいことだと思う?」
「そりゃあ、いいことですともさ。」
「僕がお菓子をもってる。それを俊ちゃんがほしがるから、やる。すると俊ちゃんが喜ぶから、いいことだろう。」
「ええ、……それは……まあいいことでしょうね。」
「お祖母さんや、母さんに、僕がこれまでわるかったってあやまる。すると二人とも喜ぶ。それもいいことだろう。」
「ええ、……でも……」
「悪いの?」
「時と場合によりますわ。どんなに無理を言われても、坊ちゃんがあやまってばかりいらしったんでは……」
「だって、それで、お祖母さんも母さんもやさしい人になったら、いいんだろう。」
「それならいいですとも。」
「僕、きっと二人をやさしい人にしてみせるよ。」
 次郎は、きっぱり言いきった。お浜は默って考えこんだ。
「僕、ね、乳母や――」
 と、次郎は、また、しばらくして、
「僕、これまで人に可愛がられたいとばかり考えたのが悪かったんだよ。僕、これから、人に可愛がられるよりも、人を可愛がる人間になりたいと思うよ。いつか、僕、乳母やにやった手紙に、人に可愛がられなくても、独りで立って行けるような強い人間になりたい、って書いたと思うんだけど、あれだけではいけないんだよ。ほんとうに強い人間になるには、人を可愛がらなくっちゃ駄目なんだよ。僕たちの校長先生は、いつもそう言ってるよ。」
「坊ちゃんは、まあ、何てお偉くおなりでしょう。」
 お浜は、またきつく次郎を抱きしめた。次郎は抱きしめられながら、
「乳母やよりも、だから、僕、偉いんだろう。」
「ええ、ええ、……」
「父さんが僕を偉いって言ったの、うそじゃないんだろう。恭ちゃんが僕に負けたって言ったのも。」
「ええ、ええ、……乳母やはほんとうに駄目でしたわねえ、さっきはあんなこと言って。……あやまりますわ。ほんとうにあやまりますわ。そして、これから、坊ちゃんにお手紙でいろんなことを教えていただきますわ。……でも――」
 と、次郎を抱いていた腕を、少しゆるめて、ひとりごとのように、
「こんなおやさしい坊ちゃんを、お祖母さんもお母さんも、どうしてこれまで、いじめてばかりいらっしたんでしょうねえ。」
「僕、わるかったからさ。正木のお祖父さんが、僕のちっちゃい時、人間に好き嫌いがあっては偉くなれない、って言ったことがあるんだけど、僕、それが今までわかってなかったんだよ。」
「でも、坊ちゃんだけがお悪いんじゃありませんわ。坊ちゃんは何ていったって、子供ですもの。やっぱりお祖母さんやお母さんが……」
「乳母やは、駄目だなあ。まだあんなこと言ってる。乳母やは、僕がお祖母さんや母さんを嫌いになるのが好きなんかい。」
「そうじゃありませんけれど……」
「なら、よせよ。僕がお祖母さんや母さんが嫌いになったら、お祖母さんだって、僕を嫌いになるだろう?」
「…………」
 お浜は深い吐息といきをした。
「おっかちゃん!」
 と、その時、お鶴がだしぬけに声をかけた。
「駄目ね、おっかちゃんは。……あたしだって、次郎ちゃんの言ってること、もうわかってるわよ。」
「乳母や、まだわかんないの――」
 と、次郎はお浜の頸に手をかけて、
「お鶴だって、もう乳母やより偉いんだぜ。」
 お浜は、もう一度軽い吐息をした。そして、
「ほんとうにね。」
 と、しみじみと言ったが、
「だけど、それでいいんでしょう? 許して下さるでしょう。だって、誰よりもお偉い坊ちゃんをお育てしたのは、この乳母やですもの。」
 お浜は、そう言って、もう一度そのしなびた乳房を次郎の手に握らせた。
 三人は、涙ぐましい気持を、そのまま夢の中に運んで行った。そして、その夜は、抱く者と抱かれる者とが、全くその位置をかえたような一夜であった。

二〇 朝の奇蹟


 子供の健気けなげな道心というものは、しばしば大人の世界に奇蹟きせきを生み出すものである。次郎は一夜にして、お浜の盲目的な愛情に理性の輝きを与えた。そして、この奇蹟は、その翌日には、本田一家の生活に、更に一つの奇蹟を生み出す機縁になったのである。
 お浜は、翌朝は、もう五時まえに眼をさましていた。そして、床の中で何かしきりに考えているようなふうだったが、店の戸を開ける音が聞えると、そっと、お鶴を起し、二人で台所に行って、何かとお芳の手伝いをした。やがて、みんなが起出し、家の中がひととおり片づいたあとで、彼女は、茶の間に一人で茶を飲んでいた俊亮の前に坐って、言った。
「あたし、今日は、ついでに、大巻さんにもごあいさつに上っておきたいと存じますが……」
「大巻に?」
 と、俊亮はちょっとにおちないといった顔をして、
「そりゃ行くにこしたことはないし、向こうでも喜ぶだろうが、そう無理をせんでもいいよ、私から、そのうちに、お前の気持はつたえておくから。」
「でも、やっぱり、一度はぜひお伺いしておきたいと思いますし、またと申しておりますと、今度はいつ出て来れますやら……」
「そうか。しかし、今日そんな時間があるのかい。」
「ええ、朝のうちにお伺いすれば、夕方の汽車には間にあいますから。」
「すいぶん忙しいね。」
「もしか間にあわないようでしたら、迷惑でも、こちらにもう一晩泊めていただくつもりで……」
「そりゃあ、ここに泊るぶんには、幾晩いくばんでもいいさ、お前の都合さえつけば。……じゃあ行ってくるかな。」
「はい、是非そうさしていただきます。……それで、あのう、坊ちゃんをおつれ申したいのですけれど。」
「なあんだ、そうか。ゆうべのうちにちゃんと次郎と約束が出来ていたんだね。はっはっはっ。」
「いいえ、決してそんなわけではございません。あたし、大巻さんへは、はじめてですし、だしぬけに一人でもどうかと思いますものですから……」
 お浜はまじめだった。俊亮はやはり笑いながら、
「そりゃあ、次郎をつれて行くのに相談はいらんよ。行くなら、やはりあれをつれる方がいいね。しかし……」
 と、俊亮は急にまじめな顔になって考えていたが、
「お芳も、大巻にはしばらく行かないようだが、あれもいっしょだと、なおいいね。」
「そうお願い出来れば何よりですけれど、急に、ご無理じゃございませんかしら。」
「そんなことはないよ。お前さえ、その方がよければ。」
「そりゃあ、もう、そうしていただけば……」
 二人の気持は、いつの間にか、よく通じているらしかった。
「おい、お芳。」
 と、俊亮は台所の方を見て、
「お浜が、きょう、大巻にごあいさつに行きたいって言っているが、どうだい、久しぶりで、お前も次郎といっしょに、案内かたがた行って来ないか。」
 お芳はすぐ茶の間に顔を出した。そして、
「あたしは行ってもよろしゅうございますが、ちょっとお祖母さんにおたずねしてみませんと。」
 彼女はそう言って仏間の方に行った。その時、二階から、お鶴も交じって子供たちが四人でおりて来た。俊亮は微笑しながら、
「次郎、お前、きょう大巻に行くのか。」
 次郎は、きょとんとした顔をしていたが、
「どうして?」
 と、俊亮とお浜の顔を見くらべた。
「なるほど、約束があっていたわけじゃなかったのか。」
 と、俊亮はてれたように笑いながら、
「乳母やが今日は母さんと大巻に行くんだ。お前も行って来たらどうだい。」
「うん。」
 次郎はすぐうなずいた。が、自分のそばに立っている俊三に気がつくと、
「僕だけ? 俊ちゃんは?」
「俊三か。そうだね、行きたけりゃあ、行ってもいいが……」
 俊亮の答は変にしぶっていた。次郎は、しかし、それに、頓着せず、
「行こうや、俊ちゃん。母さんも行くんだから。」
「うん、行くよ。」
 俊三はもう乗気だった。すると、次郎は、今度は恭一に向かって、
「恭ちゃんも行くといいなあ。どうする恭ちゃん。」
「行ってもいいよ。」
 恭一はあっさり答えた。
「なあんだ、それじゃあ、みんなが行くことになるんじゃないか。」
 と、俊亮は、ちょっと苦笑して、
「お鶴もいっしょだと、六人だぜ。大巻でびっくりしやしないかな。」
「大ぜいの方が、大巻のお祖父さんだって、喜ぶんです。」
 次郎は、俊亮が何を考えているのか、まるで気がついていないらしく、そう言って、一人で喜んでいた。そこへ、お祖母さんとお芳が仏間から出て来たが、お祖母さんは、すぐ俊亮に言った。
「お芳さんまでが、わざわざついて行くにも及ぶまいよ。あたしは、次郎だけの方が、かえっていいと思うのだがね。」
 お祖母さんは、べつに皮肉を言っているようなふうでもなかった。しかし、俊亮は、変に顔をゆがめながら、
「ええ――」
 となま返事をして、しばらく眼をつぶっていたが、
「じゃあ、母さんはよすか。ねえ、次郎。」
 次郎はちょっと失望したらしかった。が、すぐ、
「ええ。」
 とすなおに答えて、
「すると、俊ちゃんは?」
「俊三は、行きたければ行ってもいいさ。」
「どうする? 俊ちゃん、母さんが行かなくても、行く?」
「ううん――」
 俊三はあいまいに答えて、お芳を見た。すると、お祖母さんが、けげんそうに、
「俊三も行くことになっていたのかい。」
「ええ、実は、私は次郎だけのつもりだったんですが、次郎が俊三をさそったものですから。」
「次郎が? 俊三を? そうかね。」
 お祖母さんは、まじまじと次郎を見て、何か考えるらしかった。
「だって、母さんも行くのに、俊ちゃん残るの、つまんないや。ねえ、俊ちゃん。」
 俊三はあかい顔をした。俊亮も、次郎がそう言うと、じっとその顔を見つめて、考えていたが、
「お祖母さん、どうでしょう、やっぱりお芳もやることにしては。」
「そうだねえ――」
 と、お祖母さんは、お芳の方を見て、
「じゃあ、俊亮もああ言っているし、やっぱり行ってやることにしますかね。」
「はい。ではそういたしましょう。」
 お芳はちょっとお浜を見て、台所の方に立って行った。お浜はその時、次郎の顔を見ていたが、その眼は、いくぶん涙ぐんでいるようだった。
「すると結局、六人になってしまったな。大巻では、だしぬけに大変だろう。ご馳走はこちらから用意して行くんだな。」
「六人っていうと?」
 と、お祖母さんがまたけげんそうな顔をした。
「恭一とお鶴、それで六人でしょう。」
「おや、おや、恭一も行くのかい。」
「次郎がみんなをひっぱり出すもんですからね。」
「そうかい。……次郎がね。……そうかい。」
 と、お祖母さんは、やたらにうなずいた。
「どうだ、次郎、ついでにお祖母さんもひっぱり出しちゃあ。」
「ええ――」
 次郎は顔を少しあからめて、お祖母さんの顔を見ていたが、
「そうだなあ、お祖母さんも行くといいや。ねえ、恭ちゃん。」
 恭一はにがい顔して、じっと次郎を見つめた。見つめられて、次郎ははっとしたように目を伏せた。
(ませっくれ!)
 彼は恭一にそう叱られているような気がしたのである。
 俊亮も、二人の様子にすぐ気づいた。彼は、しかし、今は次郎の努力を買ってやりたい気持でいっぱいだった。いつもなら、次郎のませっくれた態度が誰よりも気になる彼だったが、なぜか今日は、次郎をそんなふうにみる気には、少しもなれなかったのである。
「ほんとうにお祖母さんもどうです。こんなときに、お祖母さんがついて行って下さると、大巻でも、そりゃあ喜びますよ。」
「そうねえ。」
 と、お祖母さんは、気のあるような、ないような返事をして、しばらく思案しあんしていたが、ふと何かを思いついたように、
「そうそう、こうなれば、あたしより俊亮が行くのが、ほんとうだよ。ねえ、次郎、そうじゃあないかい。」
 お祖母さんは、ずるそうな、しかし、まったく上機嫌な顔をして俊亮と次郎との顔を見比べた。
「私が?」
 と、俊亮は、次郎のどぎまぎしている様子に、ちらりと眼をやりながら、自分もいくぶんうろたえて、
「そ、それはいけません。私は店のこともありますし、やはり、今日はお祖母さんに行っていただく方がほんとうですよ。」
「いいや、お前の方がほんとうだよ。店は、お前が留守でもこれまでだって、一日ぐらいどうにかなっていたんじゃないかね。」
「でも、お祖母さんがお一人でお留守番では……」
「なあに、留守番なら、あたしの方がお前より、はまり役だよ。男の留守番では、お茶をわかすにも困るじゃないかね。」
「いっそ、父さんも、お祖母さんも、行っちまったら、どうです。」
 と、恭一がだしぬけに口を出した。もう、さっきの不愉快そうな顔は、どこにもなく、何か喜びに興奮しているようなふうだった。
 みんなが、いっしょに声を立てて笑った。
「なるほど、そいつも一案だ。どうです、お祖母さん、恭一がああ言っていますが。」
 俊亮が、そう言うと、恭一は、お祖母さんが答えるまえに、
「一案じゃないんです。絶対案です。ねえ、お祖母さん。」
 お祖母さんは、眼をきょろきょろさして、
「ぜったいあんって、何だね。」
 俊亮と恭一が、それでまた高笑いした。俊亮は、
「名案だって言うんですよ。」
 すると、恭一が追っかけるように、
「きょうは、お祖母さんも、僕の言うとおりにならなきゃあならないことですよ。」
「まあ、まあ大変なことになったね。」
 と、お祖母さんはお浜を見て、にこにこしながら、
「じゃあ、あたしもお浜のおともをさしてもらいましょうかね。」
 お浜は、もうその時、眼にいっぱい涙をためていたが、やにわに畳につっ伏して、
「みなさん、ありがとうございます。勿体のうございます。」
 みんなは、それから、涼しいうちにというので、大急ぎで朝飯をすまし、支度をはじめた。俊亮は、その間に、店の者に命じて、蒲鉾かまぼこだの、罐詰だの、パンだのを買い集めさせ、それをいくつにもわけて包ませた。ビールが何本か縄でしばられたのはいうまでもない。
「夕飯まえには帰って来るが、おひるは、何かですましておいてくれ。」
 そう店の者に言って、みんなが家を出たのは九時近くだった。
 お祖母さんのほかは、めいめい何か包をぶらさげていた。ビールは恭一と次郎の二人が捧につるしてかついだ。陽はもうかなり強く照りつけていたが、風があって、さほどの暑さでもなかった。みんなはいかにも楽しそうだった。お芳でさえいくぶんはしゃぎ気味だった。実際こんなことは、本田家はじまって以来の出来事だったのである。
 むろん、誰も次郎をませっくれだなどと思っているものはなかった。次郎自身でも、さっきそんなことを自分で気にしたことなど、もうすっかり忘れていた。彼の眼には、おりおりお鶴の赤い日傘がちらついた。そして、今日こうして、みんなで大巷を驚かすのも、あの日傘がもとだと思うと、彼はまた「運命」というものを考えないでおれなかった。
 彼は町はずれまで行くと、恭一に言った。
「きょうは何だか嘘みたいだなあ。父さんやお祖母さんまでが、いっしょに来るなんて……。でもあの時は恭ちゃんもうまくやったよ。」
「なあに、あんな工合になったのは、やっぱり次郎ちゃんの力さ。」
「そんなことないよ。」
 次郎は、そうは答えながらも、何か誇らしい気持だった。
(自分は、もう、どんな運命にぶっつかっても、それを生かしてみせるんだ。)
 そうした自信が、大巻の家に近づくに従って、彼の胸の底に次第に強まりはじめていたのである。

     *

「次郎物語第二部」は、こうして、次郎にとってこれまでにない幸福な日曜日に、その結末を告げることになった。次郎の一見極めて不幸であった過去の「運命」は、今から考えると、むしろ、その幸福な日曜日の準備であったらしく思われる。彼の「愛」についての理解が、人に愛せられることから、人を愛することに一だい飛躍ひやくをとげ、従ってまた彼の魂が「永遠」への門を、たしかに一つだけはくぐることが出来たのも、全く彼の過去の「運命」のおかげだった、と言わなければなるまい。
 だが、次郎はまだようやく中学一年である。彼の「運命」の波はこれからまたどう高まって行くか知れたものでない。彼も恐らくそれを覚悟していることであろう。そして、彼がその覚悟どおりの人間であるかどうかは、実際に彼をその「運命」の波を漂わしてみなければわからないことである。で、もし私が、今後も、これまでどおり彼の身ぢかにいて、彼を見守ることが出来さえすれば、「青年次郎物語」とでもいったようなものを書いて、その報告をしたいと思っている。しかし、そうした縁が果して都合よく私に恵まれるか、どうか、それはやはり「運命」に任せるより仕方がないであろう。
「なぜもっと早く次郎を青年に育てなかったか」という一部の読者の抗議に対しては、どんな人間でも育つ時が来なければ育つものではない、ということをお答えするだけで十分であろう。無理な育て方は人間を虚偽きょぎにする。次郎は筆者の空想で無理に育てあげられてはならない。空想で、偶然をつなぎ合わせて、手軽に次郎の「小説」をこしらえあげてしまうことは、これからも生きた「運命」の中で育とうとしている次郎本人にとって、実はこの上もない迷惑なのである。次郎に好意を持つ読者は、このことをよくのみこんでおく必要があろうかと思う。
[#改段]

あとがき

 昨年二月末、「次郎物語」を上梓してから、すでに一年三ヵ月になる。私は、あの物語の最後に、「次郎のほんとうの生活はこれから始まるであろう。」と書いておきながら、その当時、自分でそれを書きつづけるかどうかを、まだはっきり決めていなかった。ところが、その後間もなく、小山書店主にすすめられて、同店発行の「新風土」誌上に、その「ほんとうの生活」の一部、「続次郎物語」と題して連載することになり、この五月、十三回目で一まずけりがついた。けりがついたというのは、次郎の成長が一段階に達したという意味で、彼の「ほんとうの生活」が全部それで終ったというわけでは、決してない。しかし、ともかくも、一つの段階に達したのを機会に、それを一冊にまとめ、「次郎物語第二部」として世に送ることにした。
 もっとも「新風土」に連載しただけでは、多少書き足りない点もあったので、いよいよまとめることになってから、書き足した部分がある。一五、一九、二〇の三章がそれである。

     *

 念のために一言しておきたいのは、「次郎物語」第一部と第二部とは、次郎という一少年の成長記であるという点で、むろん一連の物語であるが、主題的には、両者はそれぞれ独立した物語になっているということである。
 前者においては、私は、運命の子次郎の生い立ちを描きつつ、実は主として「教育と母性愛」との問題を取扱った。その意味では、次郎は物語の主人ではあっても、問題の持主ではなかった。彼の生活の大部分は、むしろ、世の親達にそうした問題を考えてもらいたいための材料として描かれたようなものだったのである。
 だが、後者においては、次郎はもっと独立性をもった存在になっている。彼は、依然、母性愛に恵まれない運命の子として、世の親達にいろいろの問題をなげかけるではあろうが、最も大きな問題の持主は、実は彼自身である。「自己開拓者としての少年次郎」――それが、つまり、この篇の主題なのである。
 第一部において、彼の幸不幸を決定したものは、主としてその環境であった。そして、彼はその環境に対して、いつも、自然児的、本能的、主我的な闘いを闘って来たのである。だが、第二部においては、彼は徐々に彼自身の内部に眼を向けはじめ、そこに、周囲から与えられる幸福以上の何ものかを、探し求めようとしている。かくて彼の闘いは、次第に、理性的、意志的、道義的になって行くのである。

     *

 では、かような変化が、彼にどうして起ったか。それはいろいろなことが考えられるであろう。年齢か、環境か、教育か、愛か、運命か、人間共通の自然か、そもそもまた、そうしたことのすべてか。それについては、本篇に描かれた次郎の生活の実際に即して、読者と共に考えて行くことにしたいと思う。

昭和十七年五月五日
湖人生





底本:「下村湖人全集 第一巻」池田書店
   1965(昭和40)年7月10日発行
※「黒+犬」は、「默」で入力しました。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2005年12月9日作成
2015年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード