ジエィン・エア

ブロンテイ

十一谷義三郎訳




解説


 最初に、「ジエィン・エア」の意圖と特長を簡敍しよう。
「ジエィン・エア」は、十九世紀の半ば(一八四七)に出版せられて、英吉利の讀書界に、清新な亢奮と、溌剌とした興味を植ゑつけた名篇である。
 傳記に依れば、或る時、作者は、妹のエミリー(詩人作家)とアン(作家)に向つて、かく云つたといふ――
 ――一體小説の女主人公を、既定の事實として一列一體に美人に描くのは間違つたことだ、人道上から見ても、間違つたことだ。
 ――でも、女主人公は、美人でなければ、讀者の興味を牽かない。
 と妹達が答へた。
 ――そんな筈はない。わたしが、實地に、證明して見せてあげよう。
 さう云つて書いたのが、この「ジエィン・エア」だといふ。
 既に、出發點から、常套を脱してゐる。
 次に作者は、當時の英文壇に於ける第一流の批評家リュイスに與へた書簡の中で、この作品に對して作者のとつた態度を、かく説明してゐる――
 ――わたしは、自然と眞實とを、わたしの唯一の道しるべとして、その跡を辿つた。わたしは、空想を抑制し、浪漫ローマンスを制限し、毒々しい粉飾を避け、たゞ、穩やかに、眞面目に、眞實であることをのみ念とした……
 この作者の態度が、作品に將來した結果は如何?
 作中の一節に、こんな意味の文句がある――
 ――女性は、淑やかにあるべきものと、一般に考へられてゐる。しかし、女性も、男性と同樣に「感じる」のである。女性も、男性と等しいだけの、才能と努力の活動世界を持たねばならぬ。女性を、たゞ、プディングを作つたり、靴下を編んだり、ピアノを彈いたりする世界にのみ閉ぢ込めて置かうとするのは、男性の偏見である。
 また、こんな言葉もある。
 ――わたしは、獨立の意志を持つた、自由な個人です。
 それから、また――
 ――もし、わたしがゼントルマンなら、わたしは、地位や利益の爲にする結婚はしない。わたしは、たゞ、自分の愛する相手をのみ、妻として迎へるであらう。
 以上の數例のほか、作中、ロウトンの慈善學校の僞善を、深い洞察眼を以て、活寫してゆくあたり、所謂暴露小説の到底企及し得ぬ鋭さが見られる。
 ――あなたは、獨創的だ。あなたは、大膽だ。あなたの精神は活溌で、あなたの眸は、洞察する。
 さう、ロチスターが、ジエィンに云ふ。
 この言葉は、そのまゝ、作者に振り向けらるべきだ。
 果然、「ジエィン・エア」は、赤裸々な、舊套を脱した、奔放な、熱烈な、眞新しい言葉で綴られた物語として、讀書界に、センセイションの旋風を捲き起した。
 ――女性の尊嚴を、かくまでに高く揚示した物語は、未だ英吉利の文壇には存在しない。
 とある評家は云つた。
 ――この作者は、淑女らしくない言葉で、淑女らしくない物語を綴つた。これは良家の子女に讀ませてはならない本である。
 と或る人は批難した。
 また、ある評家は
 ――現實、深酷な、有意義な、現實――それが、この物語の特長だ。この物語は、讀者の鼓動を高め、心臟をとゞろかせる。
 さう評した。
 兎に角、甲是乙非、囂々たる輿論の渦の中に、「ジエィン・エア」は、記録的な賣行を示した。
 今日の小説手法テクニックから見れば、メロドラマ風の點が、多少鼻につくし、また當時にあつても、作者の處女作(――嚴密に云へば第二作)的な多少の生硬さが、眼についた。
 しかし、それは、殆ど問題外として、この「ジエィン・エア」にられたイプセン的な精神と熱意、及び、それを表現する嵐のやうな筆觸は、たしかに、尚、現代の讀者の胸に、何物かを與へると信じる。
 ブロンティの作品は、この作のほかに三つ――中に就いて、「シヤァリ」は、手工業時代が機械工業時代に入らうとするその革命的雰圍氣を背景にしたスケールの大きな、野心的な長大篇で、部分部分に、素晴らしい描寫があるが、未完成の謗りは免れない。「プロフェッサー」は處女作――平板である。「ヴィレット」は、一番圓熟してゐるが、「ジエィン・エア」ほどの清新味と熱意が失せてゐる。
 つまり、あらゆる點から見て、この「ジエィン・エア」は、作者の代表作、古典クラシックの列に入る傑作である。
 作者が、いかに常人と異つた生ひ立ちを持つたか――作者が、いかに、家政婦的日常煩雜事のあひ間に、「ジエィン・エア」を完成して、これを匿名で發表して、世を騷がせたか――作者が、いかに淋しい、烈しいラヴ・レターを書いたか――さうして、いかに晩い、短い、結婚生活を持つて、死んだか――人、女、藝術家としての作者の一生は、かの「クランフォード」の作者ギャスケル夫人の有名な「ブロンティ傳」に、いつさいを盡してゐる。
 こゝには、たゞ年譜式に、彼女の一生の重要事項を列記して、讀者の參考に供するにとゞめることゝする――
 父はパトリック・ブロンティ、愛蘭土アイルランドの貧家の出、立志傳的苦學を續けて劔橋ケンブリッヂ大學を卒業して牧師となる。母は、マリヤ・ブランヱル、コオンウオルの商家の女、一八一一年、父が牧師補時代、ヨオクシヤーのハーツヘッドで結婚。
 一八一三年、長姉マリヤ生る。
 一八一四年、次姉エリザベス生る。
 一八一六年、著者シヤーロット誕生、當時一家は、ソオントンに住す。
 一八一七年、長男パトリック・ブランヱル生る。
 一八一八年、妹エミリー生る。
 一八一九年、末の妹アン生る。
 一八二〇年、一家、ヨオクシヤー北方の寒村ハワースの牧師舘に移る。風吹き荒む高原の沼地、滿目荒寥たる風物、母は、年々の出産の結果、心身衰へて、多く病床に在り、父は、峻嚴孤獨の讀書人、長姉マリヤが、年齡漸く八歳にして、父に怯え、母を案じながら、弟妹五人の世話をしてゐたと云ふ。
 一八二一年、母、癌を病んで歿す、時に三十九歳。母の姉、老孃ブランヱル來つて、爾後二十年間、家政を看る。
 可憐な子等は、長姉マリヤを中心にして、稚い眼で新聞を見、まはらぬ舌で、毎日の話題トピックを論じ、家庭新聞を作つて、「宰相を評したり」童話を寄稿したりして、興じあつてゐたと云ふ。皆、驚くべく夙慧。
 譯者は、先年、古い倫敦の月刊「ストランドマガヂン」のクリスマス號で、本篇の著者が、當時(六、七歳頃)ものせしと云ふ童話の遺稿を讀んだ。それは、著者の良人が、愛蘭土に隱棲してゐたその農家の天井に、煤にまみれて吊つてあつたのを、雜誌の記者が乞ひうけて公けにしたものであつた。稚拙ながら、著者の天分を窺ふに足る作品であつた。
 一八二四年、長姉マリヤ、次姉エリザベス、著者及び妹エミリー、相繼いで、カウアン・ブリッヂの慈善女學校(――牧師の娘のみに入學を許す學費の低廉な學校)へ入學。
 學校は、本篇中のローウッド學院のモデルで、濕地不健康地に在つて、設備食事ともに粗惡、生徒に病者續出、社會問題をひき起す。
 一八二五年正月、長姉マリヤと次姉エリザベス、この學校の犧牲となり、肺患を病み、姉妹四人皆、ハワースへ戻る。
 同年五月、マリヤ長逝、おなじく七月、エリザベス長逝。
 爾後、著者は、長姉として、弟妹達の面倒を看る。
 一八三一年、著者、ロウ・ヘッド女學校に學び、卒業後、そこに教鞭をとる。いくばくもなくして、病を得て歸る。
 その後七年間、次妹エミリーは、家に留り、著者と末の妹アンは、諸方に家庭教師を勤めて、彼女等の唯一人の男兄弟パトリック・ブランヱルの爲に學資を稼いだ。パトリックは、美術家志望で、倫敦に出て、遊惰無頼の道を辿つてゐた。
 一八四二年、著者は、私塾經營の計畫を立て、その準備として、更に學力を養ふ爲に、妹エミリーを連れて、ブラッセルのヘガー氏の學校に入學、佛蘭西語と獨逸語を勉強した。學費その他は、前記の伯母、亡母の姉、老孃ブランヱルに借りた。
 居ること半歳、伯母の訃報に接して歸り、エミリーは、そのまゝ家に留まり、著者のみ再び、ブラッセルへ赴き、英語の教鞭をとりながら、勉強をつゞく。
 校長ヘガー氏へ、祕めたる片戀――その切々たる情は、著者が、爾後數年間、春風秋雨、をり/\に、ハワースの牧師館から送つた手紙の紙面に溢れてゐる。その手紙は、皆、ヘガー夫人の手に握り潰されたと云ふ。むろん、一通の返書も、著者の手へは達しなかつたと云ふ。フロイド流に云へば、この片戀の悶々の情が、發して、この「ジエィン・エア」の熱烈な戀愛描寫となつたものであらう。
 弟パトリック、惡化墮落、著者傷心憂苦。
 一八四四年、ヘガー氏の學校を辭して歸り、妹達と、私塾の計畫を實現したが、入學志望者皆無。
 一八四六年、志を轉じ、妹等と共に詩作に熱中。その收穫を收めて、著者はカーラ・ベル、エミリーは、エリス・ベル、アンは、アクトン・ベルの各匿名に隱れて、一册の詩集を自費出版す。三部だけ賣れた。
 詩の天分は、エミリーが最も優れてゐた。彼女は、死後認められて、英詩壇に、一地歩を占めるに至つた。
 詩集出版の失敗のあと、著者は、妹達と、更に志を轉じて、創作に專念した。
 ブラッセル時代をモデルにした著者の處女作「プロフェッサー」はこの時に脱稿。然し、徒に、出版書肆の冷遇に逢ひ、活字には、ならなかつた。
 一八四七年、やはり匿名で、「ジエィン・エア」脱稿出版。一躍、洛陽の紙價を高む。
 このころ、弟パトリック・ブランヱル、家にあつて酒亂。著者はそれを憂へて、往々食事をとらぬことあり、父は、その爲に狂氣に瀕し、ピストルを亂射したり、椅子の背を鋸で挽いたりなどす。
 一八四八年、八月、パトリック・ブランヱル肺患に倒る。妹エミリーも、おなじ十二月に、おなじ病ひで長逝。末の妹アン、亦肺を病んで病床に横はる。
 一八四九年、アンを連れてスキャーボロに轉地。五月、アン病歿。
 この悲慘を極めし中にあつて、大作「シヤァリ」執筆出版。
 同年より、一八五一年まで、年一囘づゝ倫敦に出て、文人に逢ひ、多少鬱憂を散ず。
 但し、生來の獨居癖――人に逢ふ日は、朝から頭痛がしたと云ふ彼女であつた。一躍文壇の女王にはなつたが、身邊に華々しさは無かつた。
 一八五三年、第四作「ヴィレット」出版。
 彼女のあの片戀の淋しさは、篇中、女主人公が、戀人の手紙を待ち佗びる焦心の描寫に、深酷に表現されてゐる。
 一八五四年、十餘年來、ハワースの牧師補を勤めて來たアーサー・ニコルズと結婚。
 ニコルズは、その十餘年來、彼女に戀をして來たと云ふ。
 一八五五年、産後を病んで寒村ハワースの土となる。
 一八五六年、良人の手に依り、遺稿として、處女作「プロフェッサー」出版。
 一八六一年、老父パトリック歿。
 以上。
[#改丁]


 その日は、とても散歩なぞ出來さうもなかつた。實際、私たちは、朝のうち一時間、葉の落ちた灌木くわんぼくの林の中をぶら/\歩いたが、晝食後(リード夫人は、客のない時は、はやく晝食をませた)は、つめたい冬の風が、陰鬱な雲と、身にしみるやうな雨をもたらしたので、これ以上の戸外運動は、もうすつかり不可能になつた。
 私は、それが嬉しかつた。私は、長い散歩、殊に寒い午後の散歩は、まつたくかなかつた。手足の指を寒さで痛めたり、保姆ばあやのベシーに叱言こゞとを云はれて悲しくなり、また、イライザやジョンやヂョウジアァナ・リードより體質からだの弱いことに敗目ひけめを感じていぢけたりして、いやに寒い夕方、家へ歸つてゆくのは、身震ひするほどいやなことだつた。
 いま云つたイライザやジョンやヂョウジアァナは、もう客間で、おかあさんのリード夫人の周圍まはりに集つてゐた。リード夫人は、爐邊の安樂椅子ソフアもたれながら、子供たち(この時は、喧嘩もしてゐなければ、泣いてもゐなかつた)を身邊まはりに置いて、全く幸福さうだつた。リード夫人は、私をみんなから仲間はづれにした、さうして、云ふには――「ジエィンを離して置かねばならないのは、殘念だ。ジエィンがもつと愛想あいそのいゝ子供らしい性質や、もつと魅力のある、はきはきした態度――つまり、もちつと輕くて、わたかまりが無くて、素直すなほにならうと、心底しんそこつとめるのを、ベシーから聞くなり、親しく見るなりするまでは、不平の無い、快活な子供たちにのみ授ける特權から、ジエィンを除外ぢよぐわいしなければならない。」
「ベシーは、私がどうしたつて、云ふのよ?」と私はいた。
「ジエィン、私は屁理窟へりくつを云つたり、何んでもつべこべきたがる子は、きらひです。それに、子供のくせに、そんな風に大人おとなにさからふなんて、全く許されないことです。どこかに腰をお掛け。そして氣持ちのいゝ口をけるやうになるまで、默つていらつしやい。」
 小さな朝食堂ブレーク・フアスト・ルームが、客間の隣にあつた。私は、こつそり、そちらへいつた。その室には、本箱があつた。私は、早速さつそく※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしゑの澤山ついてるのを選んで、一册取り出した。私は、窓臺の上へのぼつて、兩足を寄せて、マホメット教徒のやうにあぐらをかいた。さうして、赤い綿毛の窓掛カアテンを殆んど引いて、二重の隱れ場所にをさまつた。
 右の方は、深紅しんく窓掛カアテンひだが私の視野しやを遮り、左の方は、透明な窓硝子が私を庇護かばつて呉れたが、荒凉くわうりやうたる十一月の日から私を引き離しては呉れなかつた。私は、書物の頁を繰りながら、とき/″\、冬の午後の風景を眺めた。遠くには、青白い霧と雲が立ちめてゐた。近くには、れた芝生しばふと嵐に打たれた灌木の林の眺めがあつた。さうして、小止みなく降りしきる雨は、長い、悲しさうな音をたてゝゐる疾風しつぷうに、吹きたてられてゐる。
 私は、その書物――ビュヰックの英國鳥禽史――に目を戻した。殆んど本文には注意しなかつたけれど、處々に、私のやうな子供にも、白紙同樣には見過せない、興味をそゝる解説の頁があつた。それらの頁には、海鳥の棲息地のことが書いてあつた。たゞ海鳥だけが棲息してゐる「淋しい岩山いはやまや岬」のことや、諾威ノールウエの最南端リンドネス、一名ネイズからノース・ケエプに到る、小島の點在してゐる諾威海岸のことが――
絶海のシュール群島、その淋しい裸島をめぐつて、
北海は、渦まきつゝ、荒れ狂ふ。
荒れ勝ちのヘブリディズの島々へ
大西洋の怒濤は、注ぎ込む。
 ラップランドや、スピッツバァゲンや、ノーヴァ・ゼムブラや、アイス・ランドや、グリーン・ランドの荒れ果てた海岸に就いて述べてあるところをも、見逃みのがせなかつた――『北極帶の、廣大な一帶、荒凉たる地方――霜と雪の貯藏地、そこには、幾世紀もの冬の堆積たる、堅い氷原ひようげんが、極地きよくち圍繞ゐねうして、アルプス山ほどの高さを幾つも積み重ねたほどに凍りつき、嚴寒の幾倍もの、峻烈な寒氣が凝集ぎようしふしてゐる』この不氣味な蒼白い領域りやうゐきに、私は、私だけの想像をたくましくした。それは、子供の頭にぼんやりたゞよつてゐる總てのなま半可はんかな考へのやうに陰影いんえいの多い、しかし、妙に印象的なものだつた。解説の文章は、次の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪とつながつてゐた。さうして、波濤と潮沫しぶきの中に孤立してゐる岩山や、人影も無い海岸に打ち揚げられた難破船や、雲を透かして、まさに沈まんとしてゐる難破船を照らしてゐる、冷たい、蒼白い月魄つきしろに意味をもたせてゐた。
 文字を刻んだ墓石のある、ひそまりかへつた寂しい教會の墓地や教會の門、二本の樹、こはれた壁に圍まれた狹い平地、夕ぐれ時を示す、昇りはじめた新月しんげつにつきまとうた感情を、私は、云ひあらはすことが出來ない。
 風がいで油のやうに動かない海面に浮ぶ二艘の船を私は、海の幽靈だと思つた。
 惡魔が、泥棒の荷物を彼の背中に釘づけにしてゐる繪は、大急ぎで頁を繰つた。それはこはいものだつた。
 黒い角を生やした鬼が、超然と岩の上に坐つて、絞首臺の周圍まはりに群がつた群集を眺めてゐる繪も、さうだつた。
 ひとつ、ひとつの繪が物語をしてゐた。私の幼稚な理解力と、不十分な感情では判らないながらも、そこには、ぐん/\興味を吸ひ寄せる異樣いやうな力がひそんでゐた。ちやうど冬の夕べ、ベシーが機嫌のいゝ時に、とき/″\聽かして呉れるはなしと同じやうに面白かつた。そんな時のベシーは、火熨臺ひのしだいを子供部屋の爐邊へ運んで來て、私たちを周圍に坐らせ、リード夫人のレースの縁飾ふちかざりを仕上げたり、ナイト・キャップのふちを縮めたりしながら、私たちの熱心な環視くわんしの中に、古いお伽噺とぎばなしや、昔噺や、時とすると(後になつて、私は、知つたのだけれど)、『パミラ』や『モーアランド伯爵ヘンリイ』から拔萃した戀や冒險の幾くさりかを話して聽かせて、私たちの熱心な好奇心を滿足させて呉れた。
 ビュヰックを膝の上に置いて、私は、すつかりいゝ氣持ちになつてゐた。すくなくとも、それで、私は、私なりに樂しかつた。私は、たゞ邪魔されることだけを怖れてゐた。それは、あまりにも早く來た。朝食堂の扉ブレーク・フアスト・ルーム・ドアが開いた。
「やアい、馬鹿野郎。」と、ジョン・リードが、大聲で叫んで、ちよつと息をついた。さうして、部屋が、見たところ空虚からつぽなのに、氣づいた。
「あいつ、何處にゐるんだ! リジイ! ヂョウジイ!(妹たちを呼んで)ジオアンがゐないぜ。ジオアンは、雨が降つてゐるのに、出ていつたつて、おかあさまにお云ひ――畜生!」
 私は、窓掛をめておいてよかつたと思つた。この隱れ場所を、ジョン・リードがどうか見つけなければいゝがと、一生懸命に願つてゐた。事實また、ジョン・リードが、自分で探し出すことは出來ないだらう、ジョンは、目も利かないし、頭の働きもあまりよくなかつたから。しかし、イライザは、ドアから首を突込むが早いか――
「ジエィンは、きつと、台にゐるのよ、ジヤック。」
 と云つた。
 あのジヤックに腕づくで引張り出されることを思ふと、ぞつとして、私は自分から、直ぐさま飛び出した。
「何か御用?」と、怖々こは/″\いた。
「リード樣、御用でございますかつて、云へ。」
 それが、答へだつた。
「こちらへ來い。」とさう云つて、彼は、肱掛椅子に腰掛けて、もつと近寄つて目の前に立てと云ふ身振りをした。
 ジョン・リードは、十四歳の小學生であつた。私より四つ年上で――私は、僅か十歳だつた。年の割合に、からだが大きく、ふとつちよで、うす黒い、不健康な皮膚をして、伸び擴がつた顏に、ぼうつとした目鼻をつけ、不活溌な手足の先がふくれてゐた。卓子テエブルに就けば、いつも、がつ/\と喰ひ、それで膽汁質たんじふしつなので、ぼんやりした眼がたゞれ、頬に締りと云ふものがなかつた。いまごろは、學校へいつてゐなければならない時分だが、お母さんが、彼の「弱々しい健康」を氣遣つて、この一二ヶ月、家に引き留めてゐるのだ。マイルズ先生は、家から送つて寄越すお菓子や甘いものを、もう少し控へると、きつとからだの爲めにいゝのだがと斷言した。しかし、ジョンのお母さんは、そんなむごたらしい意見には見向きもしないで、ジョンの顏色の蒼いのは、勉強のしすぎと、家戀しさのあまりだらうと云ふ、もつと人聞きのいゝ考へであつた。
 ジョンは、母にも妹にも、あまり愛情を持つてゐなかつた。私には、反感を持つてゐた。一週間に二三度どころか一日に一度も二度も、寧ろ續けさまに、ジョンは、私を、いぢめたり、ひどい目に遭はせたりした。私の全身の、あらゆる神經は、ジョンを怖れてをつた。さうして、ジョンにそばへ來られると、骨についてゐる肉が、ことごとく、縮み上つた。ジョンの威嚇や懲罰に對して、私は、どこへも訴へてゆけないので、私は、彼の與へる恐怖の爲めに、戰慄をのゝくことが、屡々だつた。召使ひだつて、私の肩を持つたおかげで、若旦那さまの御機嫌をそこねるのは、氣がすゝまないし、リード夫人に至つては、全然これには眼を閉ぢてゐた。たび/\、眼の前で、ジョンが、私をつたり、罵つたりすることがあつても、母のリード夫人は、見ても見ぬふりをし、聞いても聞かぬふりをしてゐた。さうして、リード夫人のゐないところでは、ジョンは、もつとひどく、私をいぢめた。
 いつものやうに、私はジョンの云ふ通りに、椅子の前へいつた。ジョンは、三分ほどもかゝつて、舌のつけ根を害しない程度で、出來るだけ舌を出して見せた。私は、いまになぐられると思つた。たれるのを怖れながらも、いまにジョンが、どんな、厭な、見苦しい顏付をして見せるだらうかと思つて、内心樂しんでゐた。ジョンは、私の顏から、そのことを讀み取つたのか、いきなり、ものも言はずに、ひどくなぐつた。私は、ひよろ/\とよろけて、一二歩あとずさりして、踏みこたへた。
「さつき、圖々づう/\しく、お母さまに、あんな返答をした罰だ。窓掛の背後うしろになんか、こそ/\隱れやがつて、いまみたいな、あんな眼つきをすると、かうだぞ、この鼠!」と、ジョンは、怒鳴つた。
 ジョン・リードの罵倒には、れつこになつてゐたので、私は、返答なぞしようとは思はなかつた。私の心配なのは、はづかしめられた後に、きつとやつて來る打擲ちやうちやくに、どうして耐へるかと云ふことだつた。
「窓掛の背後うしろで、何をしてゐたんだい?」と、ジョンが詰問きつもんした。
御本ごほんを讀んでたの。」
「その本を、見せろ。」
 で、私は、窓のところへいつて、取つて來た。
「僕らの本を持ち出したりするなんて、君のすることぢやないよ。お母さまは、君を居候ゐさふらふだと云つたよ。君にはちつともお金が無いんだ。君の父親おやぢは、何も君に殘して行かなかつたんだ。僕らのやうな紳士の子供と一緒の家にゐて、同じものを食べ、お母さまのお金で着物を着せて貰はなくつたつて、乞食をするのが當然ぢやないか。いゝか、僕の本箱を、掻きまはしたら承知しないぞ。みんな僕の本だ。うちぢうのものは、みんな僕のものだ。今はさうでなくとも、一二年のうちには、さうなるんだからな。扉のそばへいつて立つてるんだ。鏡と窓んとこをよけるんだぜ。」
 私は、初めはどう云ふつもりか、ちつとも氣がつかないで、その通りにした。しかし、ジョンが、書物ほんをひつ掴んで、投げつけやうとするのを見ると、本能的に恐怖の叫びを上げて身をかはした。が、もう遲かつた。書物ほんは飛んで、私に打ちあたつた。私は、倒れて、ドアに頭を打ちつけて、怪我をした。傷口きずぐちに、血がにじんで、痛みは鋭かつた。恐怖は、絶頂を過ぎて、別な氣持ちが、そのあとにつゞいて起つた。
「意地惡! ひどい人! まるで人殺しだわ、奴隷監督だわ、あなたは、羅馬の皇帝のやうな人だわ。」
 私は、ゴウルド・スミスの『羅馬史』を讀んだことがあるので、ネロやキャリギュラなどに對して獨特の意見を抱いてゐた。さうして、ひそかに、ジョンになぞらへてゐたが、こんなに口に出して、斷言するつもりはなかつた。
「なに? お前は、僕に向つて、そんなことを云ふのか。イライザ、ヂョウジアァナ、君たちも聞いたか? お母さんに云ひつけてやらうか? それより先づ――」
 私は、ジョンがいきなり飛びついて來て、私の肩と髮を掴んだのを感じた。ジョンは、必死になつてゐる私と掴みあつた。ジョンは、正に暴君であり、人殺しであると云ふことを、ほんたうに知つた。頭から血が、一滴、二滴、首筋を傳はつて流れるのを覺えた。鋭い、突き刺すやうな疼痛とうつうがあつた。この知覺は、しばらく恐怖を通り越した。私は狂人のやうになつて、彼に反抗はむかつた。私は、私の手が何をしたか、はつきり知らない。たゞ彼が、卑怯者! 卑怯者! と大聲を揚げて、わめき立てたのを聞いたばかりだ。助太刀が來た。イライザとヂョウジアァナが、二階にゐるリード夫人の許へ馳せつけたのだ。リード夫人は、ベシーと小間使ひのアボットを從へて現れた。私たちは、引き分けられた。私は、こんなことを聞いた。
「おや、まあ、ジョンさまに飛びかゝるなんて、何んて氣狂きちがひ沙汰でせう。」
「こんなおこりん坊は、誰だつて、見たことがありません。」
 リード夫人が、それにつけして云つた――
「赤いお部屋へ連れていつて、ぢやうおろしておしまひ。」
 四つの手が、直ぐに私に差し向けられ、私は、二階へ運ばれた。


 私は、極力反抗した。そんな反抗は、私としては、初めてだつたが、同時に、ベシーやアボットさんの私に對する惡感を一層強めた。實際、私は、ほんのちよつと氣が變になつてゐた、と云ふより寧ろ、佛蘭西人がよく口にするやうに自分を失つてをつた。私は、一瞬の反抗が、私をこんな妙な刑罰に處したのを知つた。
 反抗する奴隷と何等異ることなく、私も、自暴自棄すてばちになつて、どんな事でもやつゝけてやらうと決心した。
「アボットさん、腕を押へて頂戴、まるで氣狂ひ猫みたいよ。」
「まあ、まあ、どうしたんでせうね。」と、御夫人附きの女中が叫んだ。「エアさん、何んてあきれたことをするのでせう、お坊つちやまをつなんて! あなたの恩人の息子むすこさまを、あなたの若主人を!」
「御主人ですつて! どうして私の御主人なの、私は召使ひなの?」
「いゝえ、あなたは、召使ひ以下ですよ。その證據に、自分で食べてゆかれるやうなことを、何ひとつ、してゐないぢやありませんか。そこへ坐つて、あなたの亂暴だつたことを考へて御覽なさい。」
 私は、リード夫人の指圖した部屋の中へ連れ込まれて、腰掛こしかけの上へ投げ出されてゐた。私は、盲動的に、バネのやうにね起きようとしたが、二組の手がすぐ取り押へた。
「靜かにしてゐないと、縛りつけますよ。アボットさん、あなたの靴下止めを貸して頂戴? 私のは、すぐにこの子がちぎりさうよ。」
 アボットは、がつちりした脚から、入用の紐をはづさうとして、背後うしろを向いた。その紐をかうとする用意や、またそのことが暗示してゐる、この上の恥辱を思つて、私は、幾分興奮からめた。
「それ、はづさないで頂戴、もうあばれないわよ。」と、私は叫んだ。
 それを、ほんたうに證明するために、私は、私の手で、自分の押へつけられた場處にしがみついて見せた。
「きつと、動いてはいけませんよ。」
 とベシーが云つた。さうして、私が、ほんたうに鎭まつたのをたしかめると、押へてゐた手をゆるめた。それから、二人は、立ち上つて、手をこまぬいて、正氣かどうか怪しむやうに、漠然と迷ひながら、私の顏を眺めた。
「こんなことは、前にはしなかつたんですけれど。」と、とう/\ベシーが、御夫人附きの女中に向つて、口を切つた。
「だけど、いつだつて、この子は、こんな人だつたのよ。」と云ふのが、その返辭だつた。「私は、よく奧さまに、私の考へを申上げますけれど、奧さまも賛成して下さいますわ。この子は、陰險なのよ、こんな年頃の子供で、こんな猫被ねこかぶりは、私、知りませんわ。」
 ベシーは、答へなかつた。が、やがて、私に呼びかけて、かう云つた――
「あなたはね、お孃さん、リード夫人のお世話になつてゐると云ふことを、よく呑みこまなければいけませんよ。あの方が、あなたを養つてゐらつしやるのですから。もしあの方におつぽり出されてしまつたら、あなたは、救貧院きうひんゐんへでも行くより、仕樣がないでせう。」
 こんな言葉に對して、私は、何も答へることがなかつた。それは、決して耳新しい言葉ではない。私が生れて一番最初の想ひ出が、この種の内容を含んでゐた。寄食者ゐさふらうに對する非難は、始終、私の耳へ漠然と傳はる小唄こうたになつてゐた。とても苦しい、つぶされさうな、それでゐて半分しか意味の判らぬ小唄に。
 アボットが口を入れた――
「それから、あなたは、お孃さまや若旦那さまと同じ身分だと思つてはいけませんよ。奧さまは、まつたく親切づくで、あなたをお子さま同樣に育てゝゐらつしやるのよ。お孃さま方は、やがて大金持におなりになりますが、あなたは、一文無しなんですよ。卑下ひげして、あの方たちのお氣に入るやうにするのが、當り前ですわ。」
「私たちの云ふのは、あなたのためを思つてゐるからよ。」と、そんなに激しくない聲で、ベシーがつけ加へた、「あなたは、お役に立つ、氣持ちのよい子になるように、心がけてゐなければいけませんわ。それでこそ、あなたは、この家に住めるのですけれど、怒つたり、亂暴したりするのでは、奧さまは、いまにきつと、他所よそつておしまひになりますわ。」
「それに、神さまの罰が當りますわ。あなたが腹を立てゝゐる最中に、神さまがいのちつておしまひになるかも知れないぢやないの。そしたら、地獄のほかの、何處へ行くと思つて? ベシー、いらつしやい。この子を一人にして置きませう。私は、何をると云はれても、この子のやうな性質は、眞平まつぴらですわ。エアさん、ひとりになつたら、お祈りなさいよ。悔い改めないと、煙突から惡魔が忍び込んで、連れてつてしまふかも知れませんよ。」
 彼女等は、出ていつて、ドアめた、それから、ぢやうおろして立ち去つた。
 赤い部屋は、四角な部屋で、その中で人が寢るやうなことは、稀にしかなかつた。寧ろ、どうかしてゲィツヘッドホールに客がたて込んで、邸内全部を用立てる必要にでも迫られなければ、全然使用されなかつたと云つてよい。しかも、邸内で一番廣い、一番壯麗な部屋だつた。マホガニの頑丈な柱が支へた寢臺は深紅色しんくしよく緞子どんす帷帳カアテンが垂れて、部屋の中央に、幕屋のやうにすわつてゐた。いつも鎧戸よろひどおろしたまゝの、二つの大きな窓には、同じ色の帷帳カアテン花綵飾はなづなかざりがたるんで、半分覆うてゐた。ゆか絨毯じゆうたんも紅く、寢臺の足許の卓子テエブルにも、眞紅まつかきれが掛かつてゐた。壁はほんのり淡紅色を含む、柔らかい仔鹿色こじかいろに塗られてゐた。衣裝箪笥や、化粧臺や、椅子は、ずゝ黒く磨き上げた古いマホガニだつた。これらの幽遠いうゑんな周圍のなかに、影が高く立ち、積み夜具と枕に、雪白せつぱくのマルセイユ木綿の上掛うはがけが白く光つてゐた。寢臺の枕もと近くの、臺座クッションゆたかな安樂椅子ソフアも、足臺を前に、寢臺とおなじほど白々ときはだつてゐて、私には、それが、蒼ざめた玉座ぎよくざのやうに思はれた。
 部屋は、殆んど火をかなかつたから、冷え/″\として、臺所や子供部屋から離れてゐる爲めに、物音ひとつしなかつた。殆んど開かずの部屋と知られてゐたので、嚴肅でもあつた。この部屋に入るものとては、たゞ女中が、土曜日ごとにやつて來て、一週間の靜かなほこりを、鏡や家具からき取るだけだ。リード夫人自身も、極くたまにやつて來て、衣裝箪笥いしやうだんすの中の、ある祕密な抽斗ひきだしの中のものを調べるだけだつた。そこには、色々な文書類や、寶石の小函や、亡夫の小照ミナチュアなどが收めてあつた。この亡夫と云ふ言葉に、この寢室の祕密が――この寢室の堂々としてゐながら、打ち棄てゝかへりみられないと云ふ魔力が――ひそんでゐるのだ。
 リード氏がくなつてから九年になる。彼はこの室で息を引き取つた。こゝに、彼は安置され、こゝから、彼のくわんは葬儀屋の手によつて運び出された。その日から、陰凄な聖別せいべつの感じがこの部屋を封じて、人々の足をつてしまつた。
 ベシーと酷いアボットが、私を釘づけにしていつた腰掛は、大理石の煖爐に近い、低い褥椅子オットマンだつた。寢臺が、私の前に立つてゐて、右手には、背の高い、くろずんだ衣裝箪笥があつて、薄暗い、斷續的の光線が、鏡板かゞみいたの光澤に強弱をつけてゐた。左手には、日除けシエードりた窓があつた。その間に篏められた大きな姿見が、部屋と寢臺の空漠ないかめしさを反映はんえいしてゐた。私は、ぢやうおろしていつたどうか、はつきり判らなかつたので、動く勇氣の出た時に、起き上つて、調べにいつた。やつぱし! ぢやうりてゐた。どんな牢獄でも、未だ嘗てこれほどではなからうと思はれるくらゐ、嚴重にまつてゐた。ドアから戻つて來るには、どうしても、姿見の前を横切らねばならない。私の眩惑げんわくされた眼は、われ知らず、姿見の深みを探つた。そのまぼろしの虚影のなかでは、何もかもが、現實より一層冷たく陰鬱に思はれた。白い顏と、兩腕が暗闇くらやみ汚點しみのやうで、一さいが靜まり返つてゐる中で、恐怖の眼を光り動かして、私を凝視ぎようししてゐる、不思議な子供の姿が、本當の幽靈のやうに見えた。あのベシーの夜噺しに出て來る、曠野の淋しい谷間から現れて、路に行き暮れた旅人の前に姿を見せる半分妖精えうせい半分鬼の、小さな化物ばけものの一匹に見えた。私は、元の場處へ歸つた。
 迷信が、その時、私の心を襲つてゐた。だがまだその時は、全くそれに打ち負かされてはゐなかつた。血は、まだあつかつた。謀叛むほんする奴隷のやうな氣持ちが、私を尚も力強くき締めてゐた。眼の前の光景の陰慘いんさんさに、畏怖ゐふする前に、私は、私の過去の思ひ出が、激しく湧き出て來るのを抑へなければならなかつた。
 すべての、ジョン・リードの理不盡りふじんな虐待振りや、彼の妹の權高けんだかな冷淡さや、彼等の母が私に示す嫌惡けんをの情や、召使ひの寄せる依怙えこひいきが、濁つた井戸の暗い沈澱物ちんでんぶつを掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すやうに、心の底から浮び上つて來た。何故、私は、いつも苦しまねばならぬか? いつも威壓され、非難され、責めとほしに責められねばならぬか? どうして私は、人の氣に入ることが出來ないのだ? どんなにつとめても、誰も可愛がつて呉れないのは、どう云ふわけだ? 強情で身勝手なイライザは、みんなに敬はれる。我儘なヂョウジアァナは、毒々しい執念しふねんさや、口喧くちやかましい尊大な態度にも拘らず、みんなの愛に甘えてゐる。彼女の美貌、桃色の頬、金色の捲き毛、こんなものが、彼女を見る誰にも喜ばれ、どんな惡いことをしても叱られずに濟むのだ。ジョンに至つては、鳩の首をぢようが、孔雀の雛を殺さうが、犬をけしかけて羊を追ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)さうが、温室の葡萄のをちぎらうが、一番大事な花のつぼみ※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしらうが、誰ひとりとして、邪魔するものもなければ、まして罰する者のありやうがないのだ。彼は、自分の母を「ばゝあ」と呼んだり、自分が同じやうに受繼いでゐる肌の黒さを、罵倒することもある。母親の云ひつけなぞ、てんで聽き入れない。彼女の絹の着物を引き裂いて、滅茶々々めちや/\にすることも、珍らしくないのだ。それでもなほ、リード夫人の「大切な一人ツ子」であつた。私は、どんな過失あやまちをかさないようにした。私は、毎日、あらゆる努めを果たさうと努力してゐた。さうして私は、朝から晝まで、晝から晩まで、横着で、なまけ者で、すね者で、卑屈者だと云はれ通した。
 先刻さつきジョンになぐられてころんで怪我をした私の頭は、未だに痛みがまず、血が流れてゐた。ジョンが、無法な打擲ちやうちやくの手を私に加へても、たしなめる者も無いのだ。しかも、それ以上の暴行に我慢出來ないから、抵抗すると、私は、家内中の非難を、悉く背負しよはされてしまつた。
「無理だ! 無理だ!」こらへ切れない苦しみのために、一時的ながら大人おとなびた力を喚び起されて、私の理性が、さう叫んだ。決斷心も、理性に劣らず刺※[#「卓+戈」、U+39B8、10-下-12]されて、こらへきれない壓迫からのがれる爲めに、思ひもよらぬ手段をそゝのかした。逃げるか、それが出來ないなら、絶食して死なうと決心した。
 寂しいその日の午後、私のたましひは、どんなにおどろいたことか! 頭はかき亂れ、心は反抗に燃え立ち、しかも、どんなに、五里霧中な、心の鬪ひが、戰ひつゞけられたことか! ひつきりなしに起る内心の疑ひに對して、私は、答へることが出來ない。何故なぜこんなに苦しめられねばならないか? その後何年つたか、わざと云はない――今になつて、私は、そのわけが、はつきり判つて來た。
 私は、ゲィツヘッドホールでは、不調和物であつた。私は、飛びはなれてゐた。私は、リード夫人とも、その子供たちとも、またそのお氣に入りの召使ひたちとも、融合ゆうがふすべき何物も持たなかつた。もし、彼等が私を愛しなければ、それだけ、私も、事實、彼等を愛しない。さうして、彼等は、彼等の仲間の一人と、氣心を合し得ないやうな者に對しては、優しく交際つきあふ義務を持たなかつたのだ。氣質や才能や嗜好の點で、彼等と反對な變り者、彼等のためには何の役にも立たない、彼等の愉快を増すことも出來ない無用な子供、彼等の待遇に憤懣の種を持ち、彼等の思案を侮蔑ぶべつする、そんな私に優しくする必要は無いのだ。
 もしも私が、多血質で、利發で、無頓着で、強要的で、縹緻きりやうのいゝお轉婆娘だつたら、同じ寄食者ゐさふらふの、よるべない者であるにしても、リード夫人は、もちつと滿足して、私の存在を我慢したであらう。そしたら、子供たちも、もつと仲間同志と云ふ親しみを私に對して持つたらうし、召使ひたちも、私を子供部屋の贖罪羊しよくざいひつじにすることが、尠かつたらう。
 晝間の光が、赤い部屋に薄れていつた。もう四時過ぎだ。雲の多い午後が、陰暗いんあんな夕空明りへかたむいてゆく。階段の窓を叩く雨の音が、まだ聽え、邸の背後うしろ灌木林くわんぼくりんに風が騷いでゐる。私のからだは、だん/\に石のやうにつめたくなつて來た。私の勇氣は、くじけていつた。いつものしひたげられた氣持や懷疑心や孤獨な憂鬱いううつが、くづれゆく憤激の餘燼よじんに、めと落ちかゝつた。みんなは、私が惡いと云ふ。多分、さうかも知れない。いまさき、自分で餓死うゑじにしようと考へたのは、なんとそら恐ろしいことだ。それは、確かに罪惡だ。しかも、私は、今死んでも用意が出來てゐるだらうか? またゲィツヘッド教會の内陣ないぢんの下の納棺所なふくわんじよは、私にとつて樂しい目的地であらうか? その納棺所に、リード氏が埋葬されてゐると聞いてゐる。さう思つて、私は、こはさをつのらせながら、リード氏のことを追憶つゐおくした。彼は、憶ひ出せないけれど、私自身の伯父(私の母の兄)であることや、私が親の無い乳呑み兒の時に、私をこの家へ引取つて呉れたこと、またその臨終には、私を彼女自身の子供の一人として、養育するようにと、リード夫人に誓はせたことを、私は知つてゐる。リード夫人は、多分約束は果たしたと考へてゐるかも知れない。事實また、彼女は、彼女の性質の許す限りに於て、果たしてゐる。しかし、夫が死んでしまへば、何の結縁けつえんもない、あかの他人の邪魔者を、何の縁故で心から愛することが出來ようか。無理矢理に誓はされた約束の爲めに、自分が愛することも出來ない、見も知らぬ子供の親代りになつてやらねばならず、彼女の家族のつどひの中に、永久に闖入ちんにふして來た氣心も知れぬ外來者の面倒を見なければならぬことは、最も煩はしいことに違ひなかつた。
 妙な考へが、私の心にきざした。もしも、リード氏が、この世に生きてゐたら、私を可愛がつて下さるだらうと云ふことを、私は疑はなかつた――決して、疑はなかつた。私は、眞白な寢臺と、すつかりかげつた壁を凝視みつめて、坐つてゐた――とき/″\、ぼんやり光つてゐる鏡の方へ、眩耀まぶしい眼を向けながら――。私は、死人の話を思ひ出しはじめた。生きてゐる人々が遺言を守つてくれないので、お墓の中で成佛じやうぶつ出來ないでゐる死んだ人が僞善者を罰し、しひたげられた者に代つて、復讐する爲めに、再びこの世にやつて來ると云ふ話を思ひ出してゐた。リード氏の魂が、自分の妹の子の受けてゐる不法な待遇に惱まされて、教會の納棺所なふくわんじよ、または何處か知らない、死者の世界にある棲處すみかを去つて、この部屋の私の前に現はれるかも知れないと思つた。私は、涙を拭いて、咽び泣きの聲を抑へた。あまりひどく悲しむ容子をすると、この世のものでない聲をして、私を慰めに來たり、薄暗闇うすくらがりの中から、後光ごくわうにつゝまれた顏を現はして、不思議な憐れみをこめて、私の上にかゞみかゝりはしないかと、心配になつて來たから。
 これは、理窟から云へば、慰藉なぐさめだが、實際さうなつたらこはいだらう。私は、ありつたけの力で、その考へを抑へようとつとめた。私は、しつかりしようと努めた。髮を目から振りのけ、頭を上げて、思ひ切つて、薄暗い部屋の中を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)さうとした。恰もこの時、一條の光が、壁に耀いた。月の光が、鎧戸よろひど隙間すきまから洩れるのだらうか。いや、月光なら、ぢつとしてゐるが、その光は動いた。見てゐるまに、天上へすべり、私の頭の上にふるへた。今の私ならば、咄嗟に誰か提灯を持つて、芝生しばふを横切つていくのに違ひないと察しるんだが、しかし、この時には私の心は恐ろしいものを待受け、神經がたかぶつてゐたので、その早く走る光が、他界から出て來る幽靈の先觸れのやうに思へた。私の胸は烈しく動悸どうきし、私の頭は熱くなつた。音が、ぐわんと響く。翼のはしる音に思へた。何か近づいて來るらしい。私は苦しくなり、息が詰つた。我慢が出來なくなつた。ドアに飛びついて、死物狂ひになつて錠前ぢやうまへを搖すぶつた。そとの廊下に跫音あしおと[#ルビの「あしおと」は底本では「あしあと」]が駈けて來て、鍵がはづされて、ベシーとアボットが這入つて來た、
「どこかお惡いの? エアさん。」ベシーがいた。
「何んて恐ろしい物音を立てるんでせうね! ぞうつとしたわ!」とアボットが叫んだ。
「出して頂戴。子供部屋へ連れてつて頂戴。」私は叫んだ。
「何の用で! あなた怪我けがをしたの! 何を見たの!」
 再びベシーが訊いた。
「光が見えたのよ。幽靈が來ると思つたのよ。」
 私は、ベシーの手を掴んだが、彼女は別に振り放さうともしなかつた。
「この人はね、わざと、わめいたのよ。」アボットが、憎々にく/\しげに云ひ放つた。「何て聲でせう。ひどく苦しいのなら、堪忍かんにんして出して上げるけれど、この人は、たゞ私たちを呼び寄せようと思つたのよ。私は、ちやんと、この人のずるい計略を知つてるわ。」
「どうしたと云ふのです。」と横柄わうへいな別の聲がいた。さうして、リード夫人が、帽子のレイス飾を廣くひるがへしながら、激しく衣擦れの音を立てゝ、廊下傳ひにやつて來た。
「アボット、ベシー、私が來るまでジエィン・エアは、赤い部屋に一人で入れて置けつて云ひつけなかつて?」
「ジエィンさんが、迚も大きな聲で騷ぎましたの、奧さま。」
 ベシーが言ひ譯をした。
「あつちへお遣り。」返辭はこれだけであつた。「ベシーの手をお放し。こんなやり方では出して貰へないことがよくわかつたゞらうね。私は小細工こざいくは大嫌ひだよ。殊に子供がするなんて。計略は効目きゝめのないことを、私はお前に教へてやらねばならない。もう一時間、こゝにおゐで。全く云ふことを聞いて、おとなしくなるのでなければ、出しては上げられません。」
「伯母さま、お願ひですから、許して下さい。もう辛抱出來ません、もつと外の罰を受けさして下さい、私、死んでしまひさうです……もしも……」
「お默り。この亂暴なざまつて、見るのも胸がわるくなるよ。」
 實際彼女の氣にさはつたらしかつた。私は彼女の眼には、おませな役者に見えたのだった。彼女は、私を毒々しい激情と下劣げれつな精神と危險な僞瞞との混成物と見なしてゐた。
 ベシーもアボットも引下り、リード夫人は私の、いまの氣狂きちがひのやうな苦悶と、荒々しい泣き聲に我慢が出來なくなつて、それ以上口をかずに、ふいと私を突き戻してめ込んだ。さつさといつてしまふのが聽えた。さうして、彼女がいつてしまふと、私は氣絶したらしい。無意識状態が、この場面の幕を閉ぢた。


 次に私の覺えてゐるのは、恐ろしい夢魔むまに襲はれたやうな感じで目が覺めて、目の前に凄まじい紅い炎が、太い黒い棒と交叉かうさしてゐるのを見たことだつた。
 私はまた誰かゞ空虚な音を立てゝ、また恰も一陣の雨風に抑へられたやうな聲で、話してゐるのを聽いた。昂奮と、不安と、他の何よりもまさる恐怖の感情が、私の精神機能を混亂させた。やがて、私は、誰かゞ私をいぢつてゐるのに氣がついた。私をかゝへ起しながら坐る姿勢にして支へてゐるのだ。それが、これまで起されたり、抱き上げられたりしたことがないほど優しいのだ。私は、頭を枕か腕かにもたせて、らくになつた。
 五分もつと、混亂の雲が消えた。自分が自分の寢臺にあることや、あの紅いほのほが子供部屋の煖爐の火であることが判つた。夜であつた。蝋燭が卓子テエブルの上に燃えてゐた。ベシーが手洗ひをもつて寢臺の足許に立つてをり、一人の紳士が枕もとへ椅子を近づけて、私の上にかゞみこんでゐた。
 部屋の中にゲィツヘッドのものでもなく、リード夫人に關係のない一人の見知らぬ人がゐるのを知つた時、私は云ひやうもない安堵と、快い、もう大丈夫の自信とを感じた。ベシーから目を轉じて(ベシーは傍に居合せても、例へばアボットなんかに居られるよりずつと厭ぢやなかつたが)その紳士の顏を探り見た。その人は私の知つてゐる人だつた。召使ひが病氣になると、リード夫人に招かれる藥劑師やくざいしのロイドさんであつた。リード夫人は、自分や子供たちの病氣の時は醫師を招いたのだが。
「私がわかりますか。」彼が訊ねた。
 私は、彼の名前を言つた。同時に私の手を差し伸べた。彼は、その手を執つて微笑みながら、「今にだん/\よくなりますよ。」と云つた。それから、彼は、私を横にして、今夜はそつと寢させておくように、よく氣をつけなければいけないと、ベシーに命じた。それから尚二三の指圖をして、また明日見舞ふからと云つて歸つていつたが、私は悲しかつた。彼が枕もとの椅子にゐる間は、十分にかばはれまもられてゐるやうな氣がしてゐた。彼が出ていつて、背後うしろドアしまると、部屋中が暗くなつて、ふたゝび、氣が沈み、名状し難い悲しさが、のしかゝつて來た。
「お孃さん、ねむれさう?」ベシーがどうやら物柔ものやはらかな調子でいた。
「寢てみるわ。」二の句が荒々しいだらうと思つたので、漸くこれだけ答へた。
「何か飮みたい? それとも、何か食べられて?」
「結構よ、ベシー。」
「ぢや、私もうやすみます。十二時過ぎですから。何かしくなつたら、夜中でも私を呼んでもいゝわ。」
 これは、何と云ふ素晴すばらしい親切さだらう! 私は大膽になつて、質問した。
「ベシー、わたしどうかして? 病氣なの?」
「赤いお部屋で泣いたので、わるくなつたと思ひますわ。でもきつときよくなつてよ。」
 ベシーは近くの女中部屋へいつた。彼女が言つてゐるのを聞いた――
「サラーさん、子供部屋へ來て、私と一緒に寢てよ。今夜はどうしても、あの可哀想な子と二人つきりでゐられないわ。あの子は死ぬかも知れない。あの子が、あの發作ほつさを起したのは全く變よ、何か見たのぢやないかと思ふけれど、奧さんもひど過ぎたわ。」
 サラーはベシーと戻つて來た。彼等は二人とも床へ入つた。寢入るまで、半時間もさゝやき合つてゐた。彼等の話の斷片を聞き取つた。全くはつきりと、その話の眼目を推量出來た。
「全身白裝束しろしやうぞくをした何物かゞ、彼女の側を通つて、消えちまつたの。」――「彼のうしろに大きな黒犬。」――、「部屋の扉を三つ音高に敲く。」――「教會のお墓のちやうど眞上に一筋の光が……。」など/\。
 とう/\、二人とも寢ついた。煖爐も蝋燭も消えた。私には氣味惡く、寢つかれないで、その長い夜の時間が、過ぎた。耳も、目も、心もすべて一樣に恐怖の爲めに張り切つた。それは子供だけが感じ得るやうな恐怖だ。
 この赤い部屋の出來事があつた後、私はひどい、永びく病氣にかゝらなかつた。たゞそれは、私の神經に衝動しようどうを與へた。その反響を今日まで私は感じてゐる。さう、リード夫人よ、あなたのおかげで、私は、身震ひするやうな精神的受難じゆなんの恐ろしい苦痛をめた。しかし、あなたは、自分のなすつたことがわからないのだから、許して上げねばならない。私の心のち切りながら、あなたは、私の惡い根性こんじやう根絶ねだやしするとばかり思つていらつしやる。
 翌日の晝には、私は、起きて、着物を着て、ショールにくるまつて、子供部屋の圍爐裏ゐろりの傍に坐つてゐた。私は自分のからだが弱り、打ちのめされたやうになつてゐるのを感じた。しかし、それよりももつと惡い私の煩ひは、云ふにも云はれない心のみじめさだつた。そのみじめさは、無言のなみだになつて、私の眼からぼろ/\とこぼれた。鹽つからい一滴を私の頬から拭ひ切らないうちに、もう次の一滴が落ちてゐた。それでもまだ、私は、現在は幸福に違ひないと思つた。何故なぜなら、リード家の人は、一人もこゝにゐないのだから。みんなは母親と馬車に乘つて出かけた留守だつた。アボットもどこか他の部屋で縫ひ物をしてゐた。ベシーは、あちこち動き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、玩具を片附けたり、抽斗ひきだしを整理したりしながら絶えず私に話しかけて、耳慣みゝなれない親切の言葉をあびせた。これは毎日々々しつきりない譴責けんせきと決して感謝されることのない雜役とに慣れ切つた私には、平和のパラダイスに違ひなかつた。しかし實際は、私の過度に疲勞した神經は、いかなる平和も和らげることの出來ない、また、如何なる愉樂も氣持ちよく樂しさを感じさせることの出來ないやうな状態であつた。
 ベシーは、臺所へいつて、美しく彩色さいしきされた陶器の皿に果物入パイを運んで來た。皿の、晝顏や薔薇の蕾に巣くつた極樂鳥ごくらくてうの模樣はいつも私に熱狂的な感嘆を呼び起したものである。そして私はそれを手に執つてもつとよく調べさせて貰ひたいとしば/\嘆願を重ねたが、これまではそんな恩典おんてんには價ひしないと見做されて拒絶され續けて來たものであつた。その貴重な皿がいま私の膝の上に置かれ、それに載せたおいしさうな小さな丸いお饅頭まんぢゆうを食べるやうに親切にすゝめられた。空しい好意! かねてから願つてゐたのに、延々のび/\になつて叶はないでゐた、外ののぞみと同じく、あまりに來やうが遲かつた。私はその果物入のパイを食べることが出來なかつた。鳥の羽、花の色彩も妙に色褪せてゐるやうに感じた。私はお皿もお菓子も押しのけた。ベシーは本はいらないかと訊ねた。本と云ふ言葉はちよつと私の心を引き立たした。私は書齋から『ガリヴァ旅行記』を持つて來てくれるやうに頼んだ。私は、この本をこれまで喜びをもつて繰返し/\耽讀たんどくしたものである。私は、これを實際にあつた物語だと考へてゐた。さうして、その中にお伽噺に發見するよりも、もつと深い一脈の興味を發見した。何故なら、妖精えうせいなんてヂキタリスの花や葉の間やきのこのかげや、古壁の隅をつた連錢草れんせんさうの下を探したけれど、どこにも見附からないので結局、そんなものはもうみんな英吉利を立退いてもつと自然のまゝに森が生茂つて人氣の少い未開の蠻地へ行つたに違ひないと云ふ悲しいあきらめを信ずるやうになつたから。ところが『ガリヴァ旅行記』に於ては小人島も巨人島も私の信ずる所によれば地球の表面に確固たる地域ちゐきを占め、いつか、將來私が長い航海でもしたならば、私自身の目でガリヴァの行つた國の小さい畑、小さい家や、木や、小人こびとを、また小つぽけな牛、羊、鳥などを、それから、も一つの國の、森のやうな高い麥畑、巨大な猛犬、怪物のやうな猫、塔のやうな男や女を目撃するであらうことは、疑ひをはさむ餘地がなかつた。だのに今私の大事な本が私の手の中に收められてゐるのに――私がその頁を繰つて、これ迄にきつと私が見出したところの興味を、すてきな※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪、頁の中に探した――すべての繪は、氣味惡く、物すごいばかりだつた。巨人はやせこけたお化けであり、小人は意地の惡い恐しい鬼であつた。ガリヴァは、一番恐しい危險な國々を淋しく旅しつゞけた放浪者だつた。私は、もう續けて讀みたくなかつたので、本を閉ぢた。そしてそれを、卓子テエブルの上の、手をつけてないお菓子の傍へせた。
 この時までにベシーは部屋のお掃除と取かたづけを濟ましをつた。そして手を洗つてから、絹や繻子しゆすやきれいな小切れの一ぱい詰つた抽斗を開けてヂョウジアァナの人形の新しい帽子を作りはじめた。作りながら唄を歌つた。唄は、
むかし、むかし
乞食旅に出たときは、
 この唄は、前にも再々聽いて、いつも生々した喜びをもつたものである。
 ベシーはいゝのどをしてゐたから――少くとも私はさう思つた。しかし今の私には彼女の聲は相變らずいいけれど、その調べメロデイの中に名状し難い悲しさが感じられた。時々ベシーは仕事に氣をとられて繰返しを非常に長くゆつくり引張つた。「むかし、むかし」の一節が挽歌ばんかの悲痛極まる抑揚よくやうのやうに響いた。彼女は、ほかの小唄を唄ひ出した。こんどのは本當にしめつぽい唄だつた。
私の足は痛み、私の手脚てあしは疲れてゐる
道は遠く、山路は險しい。
やがて黄昏が月無く、凄く、
哀れな孤兒の行手にかぶさるだらう。

何故に、みんなは、わたしを來さしたの、こんな遠い、こんな淋しい處へ、
沼地ぬまちが擴がり、灰色はひいろの岩が積み重つてゐる處へ?
世間は無情で、優しい天使さまだけが、
哀れな孤兒の歩みを見そなはす。

さあれ、遠く、靜かに、夜風吹き、
雲は無く、澄んだ星、優しく輝く。
神さまは、その惠みをもつて、
保護と慰安と希望を、哀れな孤兒に示し給ひつゝある。

こはれた橋を渡つて落ちようとも
狐火きつねびに迷はされて、沼地に踏み入らうとも、
父なる神は希望と祝福もて
哀れな孤兒をみ胸に引き取り給ふ。

われを勵ます思想おもひあり、
宿もよるべも無き身にも、
天は我家、安息は我を見捨てず
神は哀れな孤兒の友となり給ふ。
「ジエィンさん、泣くんぢやありません。」唄ひ終るとベシーが云つた。しかし、彼女は火に向つて「燃えるな!」と云つた方がよからう、どうして私のさいなまれてゐる病的な受難を彼女がはかり知り得ようか。朝の中にロイド氏がまた來た。
「おや、もう起きたの!」と彼は、子供部屋に入るなり、云つた。「お孃さんはどうですか?」
 大變いゝんだと、ベシーが答へた。
「それぢあ、もつと元氣に見える筈だが。ジエィンさん、こちらへいらつしやい。あなたの名はジエィンさんでしたつけ。」
「さう、ジエィン・エアです。」
「泣いてゐましたね。ジエィン・エアさん。何故だか云へますか、どこかいたみますか。」
「いゝえ。」
「あゝさう、奧さんたちと馬車に乘つて出かけられなかつたから、泣いてゐるんですわ。」とベシーが口を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさんだ。
「そんなねたことを云ふ年ぢやあるまい。」
 私もまたさう思つた。私の自尊心は、間違つた非難できずつけられたので即座そくざに答へた。「今まででも、そんなことで泣きなんかしませんわ。私は馬車で出かけるのは嫌ひです、私は、私が可哀さうで泣いてるの。」
いやアよ、ジエィンさん。」ベシーが云つた。
 人のいゝ藥劑師は、ちよつとまごついたやうに見えた。私は、彼の前に立つてゐた。彼は目をぢつと私に見据ゑた。彼の目は小さくて、灰色だつた。そして、決して光つてはゐなかつたが、その時はたしかに鋭かつたやうに思つた。彼は、むつつりしてゐるが、性質たちのよささうな顏付をしてゐた。
 しばらく、私のことを考へて、云つた――
「昨日はどうして病氣になりました?」
「倒れたの。」とベシーがまた口を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はさんだ。
「倒れたつて! おや、まるで赤ちやんのやうだね! そんな年になつても、歩けないんですか、もう八つか九つになるんでせう。」
「私はぶつ倒されたの。」と云ふのが、私のきずつけられた矜持ほこりの痛みが、私をして吐き出すやうに云はした露骨な説明であつた。「だけど、それで病氣になつたのぢやないの。」私は附け加へた。その間、ロイド氏は、一つまみのかぎ煙草をいでをつた。
 彼がその函をチヨッキのポケットにしまつた時に、けたゝましい呼鈴ベルが、召使ひ等に食事を告げた。
 彼は、それが何んであるか知つてゐたので、「女中さん、あなたですよ、行つていらつしやい。あなたが戻つて來るまで、ジエィンさんに云つてきかせておきませう。」
 ベシーは居りたかつたやうだったが、仕方なく、いつてしまつた。ゲィツヘッドホールでは食事時間が嚴格に勵行れいかうされてゐた。
「倒れて、病氣になつたんぢあないつて、ぢあ、どうしたんです?」ベシーが去るとロイド氏は追窮した。
「暗くなつてしまつても、私は、幽靈の出る部屋にぢ籠められてゐたの。」
 私は、ロイド氏が微笑して、同時に眉をしかめるのを見た。「幽靈? 矢張り赤ちやんだね。幽靈がこはいんですか。」
「リード伯父さんの幽靈のことを云つてゐるのよ。あの部屋でくなつて、そこにお棺が安置してあつたの。ベシーだつて、誰だつて、行かずに濟むなら、夜中にはその部屋へ行かないでせうよ。それにひどいわ、蝋燭らふそくも無しにひとりぼつちで閉ぢこめて置くなんて、ひどいわ――まつたく酷いんで、決して、忘れないわ。」
「馬鹿々々しい! それがあなたをみじめにしたわけですか。晝間ひるまなのに、今でもこはいのですか。」
「いゝえ、でももうぢき、また夜になるでせう。それに私はほかの事で不幸なの、ほんとに不幸なの。」
ほかの事つて何ですか、私にすこし話してみませんか。」
 この質問に、私はどんなに心ゆくまで答へたかつたことか! しかし、一つの答へをまとめることが、どんなにむつかしかつたことだらう! 子供は、感じることが出來ても、その感情を理解することが出來ない。考へて、多少理解し得たとしても、子供等は、その順序の結果を言葉で云ひあらはす方法を知らないのだ。しかし、私の悲しみを人に語つて、それを晴らす最初の、唯一の機會を失ふことを恐れたので、私はしばらくためらつた後、貧弱だが、出來るだけほんたうの答へをまとめようとつとめた。
「一つのことの爲めなの。私には父も母も姉妹きやうだいもないんですもの。」
「あなたには親切な伯母さまと從兄妹いとこたちがありますよ。」
 私は、ふたゝび、ちよつと考へた。それから、ぎこちなく云つた。
「しかし、その時ジョン・リードが私をなぐり倒したの。そして、伯母さまは、私を赤い部屋へぢこめたのよ。」
 ロイドさんは、またかぎ煙草のはこを取り出した。
「ゲィツヘッドホールは、立派な家だと思ひませんか。こんな立派な家に住んでゐて結構だと思ひませんか。」
「私の家ではありませんもの。私は、こゝにゐる權利が召使ひよりもないのだつて、アボットが云ひましたわ。」
「こんな立派な家を出たいなんて、そんな馬鹿ぢやないでせうね。」
「ほかに行く所さへあれば、喜んで出て行きます。だけど、大人おとなになるまでは出られないんです。」
「さうかも知れない。いや、わかりませんね。リード夫人のほかに親類はないのですか。」
「ないと思ふわ。」
「お父さんの方のお身内みうちもないのですか。」
「知らないの。一度伯母さまにいたのですが、エアと云ふ貧乏な、身分の低い親戚しんせきがあるかも知れないけれど、何も知らないと云つてゐましたわ。」
「もし、あつたら、あなたは、そこへ行きたいですか。」
 私は考へた。大人おとなには貧乏がおそろしく見える。子供には、尚更のことだ。子供は、勤勉な、働く、尊敬すべき貧乏に就いてあまり知らない。貧乏と云へば、ぼろの着物、とぼしい食物、火の氣のない煖爐だんろ野卑やひな擧動、下劣な不品行を聯想する。貧乏は、私にとつては墮落と同じ意味であつた。
「いやよ、貧乏人といつしよにゐたくはないわ。」と私は答へた。
「あなたを可愛がつても。」
 私は頭を振つた。私には貧乏人がどうして人に親切が出來るのかわからなかつた。彼等のやうな口をき、彼等のやうな容子ようすを眞似、無教育に育てられるのを考へると――ゲィツヘッドの村の小屋の戸口で、着物の洗濯をしたり、子供をあやしたりしてゐるのをよく見かける、あの貧乏な女みたいに育つのを考へると――いや身分を犧牲にしてまでも自由を得ようとするほどの勇氣はなかつた。
「あなたの御親戚ごしんせきはそんなに貧乏なのですか。勞働者なのですか。」
「知らないの。リード伯母さまは親類があるとしたら乞食こじきの仲間だらうと云つてゐますのよ。私は物乞ひなんかしたくないわ。」
「學校へ行きたいですか。」
 私は、また考へた。私は學校がどんなものだか殆んど知らなかつたが、そこでは若いお孃さんたちが足枷あしかせをはめ、背中に板をつけさせられ非常に上品じやうひん几帳面きちやうめんでなければならないところだと、ベシーが時々話したものである。ジョン・リードは、學校が嫌ひで、先生を罵倒したが、ジョンが學校をかうとくまいと私は構はない。ベシーの學校の訓練に就いての話(ゲィツヘッドに來る前に彼女のゐた家の令孃から見聞きしたのだ)は、なんだか恐ろしかつたけれど、學校にゐる令孃たちの學ぶ才藝さいげいに就いてのベシーのくはしい話は、それに劣らず私を惹きつけると、私は思つた。彼女は、令孃たちの描き上げた花や風景の美しい繪を誇つた。その歌ふ唄や、そのかなでる曲や、その編み上げられた紙入れや、飜譯出來る佛蘭西語の本を誇つた。私がその話を聞いてゐるうちに、私の心は、つひにけん氣を起した。その上に、學校は、完全な變化であらう。それは、一つの長い旅で、ゲィツヘッドから完全に離れること、新らしい生活へ這入ることを意味してゐた。
「ほんたうに學校へ行きたいんです。」と私は、私の瞑想した揚句あげく、聽き取れるように云つた結論であつた。
「ふゝん、どうなるかね。」と、ロイド氏は、立上りながら云つた。「この子は轉地てんちさせる必要がある。神經が衰弱してるわい。」と附け加へて、獨りごとを云つた。
 その時ベシーが戻つて來た。と同時に、馬車が砂利じやり道をきしませて歸つて來る音が聽こえた。
「あれが奧さんですか、保姆ばあやさん?」とロイド氏がいた。「私は、歸る前に、奧さんにお話がしたいのですが。」
 ベシーは、朝食堂ブレーク・フアスト・ルームへ行くように、彼を招いて、案内して出た。彼がリード夫人との會見に於て、私を學校へやるように説きつけ、即座そくざにその推薦が採用されたのが、後の出來事によつて推測された。或る晩、私が床へ這入つた後、ベシーとアボットが子供部屋で縫ひ物をしながら、私が寢ついて居ると思つて、そのことを話しあひながら、アボットが云ふには、「奧さんが仰しやつてましたわ、あの厄介者やくかいもの氣立きだての惡い子供を追拂おつぱらへるので嬉しいつて。いつでも人のすることをうかゞつてゐて、こつそり惡企わるだくみをするやうな子をね。」と。アボットは、私に、ガイフオウクスのやうな子供だと折紙をりがみをつけてゐた。
 その時始めて、アボットがベシーに告げてゐたことから、私の父が貧乏な一牧師だつたこと、私の母は不釣合ふつりあひだと云ふ友達の意見にそむ[#ルビの「そむ」は底本では「そた」]いて、私の父と結婚したこと、祖父のリードは大いにその不從順を怒つて彼女に一文も與へずに追ひ出したこと。二人の結婚後一年の後、父が、牧師補の職を持つてゐた大工業都市の貧民窟を訪問してゐる間に、その當時流行してゐたチブスにかゝつたこと、母は父から傳染して、二人とも一月のうちに相繼あひついで死んだことを知つた。
 この話を聞いた時、ベシーは溜息ためいきをついて云つた。
「ジエィンも可哀さうぢやありませんか、アボットさん。」
「さうよ、あの子が可愛らしい、いゝ子だつたら、誰だつて、獨りぽつちの身の上に同情するわ、だけど、あんないやな奴では、ほんたうに心配してあげられないわ。」
「まつたく、大してはね。」とベシーも同意した。
「とにかくヂョウジアァナさんのやうに可愛ければ、同じやうな境界きやうがい[#ルビの「きやうがい」は底本では「きまうがい」]でも、もつと動かされるでせうに。」
「えゝ、私はヂョウジアァナさんはほんとに好きだよ。」
 アボットが熱くなつて叫んだ。「可愛いゝお孃さん! 長い捲毛まきげ、青い眼、顏の色艷いろつやのいゝこと、まるでいたやうだわ。ベシーさん。あたしは、夕飯にはウェルス・ラビットを食べたいわね。」
「さう、私もよ……熱い玉ねぎつきでね、さあ、行きませうよ。」彼等は去つた。


 私は、ロイド氏との話や、前に述べたベシーとアボットとの會話からして、よくなりたいと望む動機たるに十分の希望を得た。變化が近づくやうに見えた――私はだまつてそれを待ちこがれてゐた。けれどもそれはひまどつた。何日も何週間も過ぎた。私は、私の平常の健康を囘復したのに、私が考へてゐたそのことには、何らの新らしい暗示もなされなかつた。リード夫人は時々いかめしい眼つきで私をさぐり見たが、めつたに話しかけはしなかつた。私の病氣以來、彼女は、その子供たちと私との間に、前にもましてもつとはつきりした隔てをつけてしまつた。私がたつた獨りで眠る小部屋を私にあてがひ、食事も獨りぽつちでするやうにと云ひわたし、また私の從姉妹いとこたちが、いつも客間で過してゐる時に、一日中私は子供部屋で過すようにと命じた。しかし、私を學校へやることについては、何のけはひも見せなかつた。けれど、それでも私は、彼女が、長く私と一つ屋根切れの下にゐるに堪へないのを、本能的にたしかに知つた。私の方へ向けられる時、彼女の一べつは、いまは以前にもまして壓へ切れない、根強ねづよ憎惡ぞうをを表はしてゐたから。
 イライザとヂョウジアァナとは、明かに命令どほりに、出來るだけ私には話をしなかつた。ジョンは私に會ふ度に、頬を舌でふくらました。そして一遍は私を懲らさうとした。けれど、かつて私の惡徳を惹き起したことのあるはげしい怒と必死ひつしの反抗と同じあの感情に動かされて、私が咄嗟とつさに向きなほつた。すると、ジョンは止めた方が得だと考へて、呪ひを云ひ、私が彼の鼻を打ち碎いたと斷言して、私から走つていつた。私は、實際、こぶしが加へ得る限りのはげしい打撃を彼の鼻にねらつた。そのことか或は私の顏付が、彼をひるますと知るや、私は勝に乘じてその上に、彼をやりこめようとした。しかし、彼は、もうとつくに母親のところにゐた。彼が泣き聲で「あのジエィン・エアの畜生」がまるで氣狂きちがひ猫のやうに自分に飛びついたんだと話し始めるのが聞えた。が、彼はむしろ荒つぽくさへぎられた。
「あの子のことを、私にお話しぢやないよ、ジョン。あの子のそばへ行かないように云つておいたぢやないか。あのはとやかく云ふに足りないんだよ。私は、お前もお前の姉妹も、あんな子とつきあふのは、好まない。」
 手すりに凭りかゝりながら、私は不意に呶鳴つた。自分の言葉をまるで考へもしないで――
「あんな子たちは、私とお仲間になれないのよ。」
 リード夫人はむしろふとつた女だつたが、この思ひがけない大膽な宣言を聞くと、彼女は素早く階段を駈け上つて、旋風せんぷうのやうに、私を子供部屋につれこんだ。そして寢臺のふちに叩きつけて、激しい調子で、今日中そこから立てるなら立つてみよ、一言でも物が云へるなら云つて見ろときめつけた。
「リード伯父さまが何と仰しやるでせう、もし生きてゐらしたら。」殆んど自發的に云つた私の望みだつた。殆んど、自發的じはつてきであつた。まるで私の舌は私の意志の同意を待たず喋べつたかのやうだつたから。何事かゞ私の口から出た。しかも私はそれを抑へることが出來なかつたのだ。
「何だと!」リード夫人は絶え入りさうに云つた。いつもひややかな落着いた彼女の灰色の眼が、おびえたやうに混亂した。私の腕から手を引いて、私が子供なのか、それとも惡魔なのか、實際見當がつかないといふ風に私を見つめた。私はもうのがれつこはなかつた。
「リード伯父さまは天國にゐらつしやる。そしてあなたがすることや考へてることはみんなお分りになるんです。私の父さんだつて、母さんだつて分るんです。あなたが一日中私をぢ込めたことも、あなたが私を死ねばいゝと思つてることもみんな知つてらつしやるんです。」
 リード夫人は、間もなく氣をとり直した。彼女ははげしく私をゆすぶつて、兩耳をなぐり、一言も云はず行つてしまつた。それから一時間もの間、ベシーがなが/\と説教をした。彼女は、屋根の下で育てられた子供の中で、私が一番たちが惡く、無頼ぶらいだと云つた。
 私は、彼女の云ふことを半ば信じた。私は、實際、私の胸の中にたゞ惡い感情のみが波立なみだつてゐるのを感じたから。
 十一月と十二月と、一月の半ばも過ぎた。クリスマスとお正月がゲィツヘッド邸でも、いつものやうに樂しい喜びで[#「喜びで」は底本では「喜びて」]祝はれた。贈物おくりものが交換され、晩餐會や夜會が催された。勿論私は總ての樂しみからのけものにされてゐた。私に分け與へられた娯樂ごらくは、たゞイライザとヂョウヂアァナの毎日のよそほひを見てゐることゝ、彼女等が薄いモスリンを着、赤い帶をしめ、髮を美しくちゞらせて、客間サロンりて行くのを眺めてゐることだつた。その後はたゞ階下でかなでられるピアノかハァプの響きや、召使長や給仕が往來する足音や、茶菓さくわが渡される時のコップや茶碗の響や、客間の扉が開閉する時の切れ/″\の話聲などに耳を澄ますことであつた。こんなことに飽きると、私は手摺てすりから、淋しいひつそりした子供部屋に引込んだ。そこにゐれば何となく物悲しくはあつたが、私はみじめではなかつた。眞實を云へば、私はちつともお客の中に行く氣はなかつた。私は殆んど注意されなかつたからだ。だからもしベシーが親切で、つきあへたなら、紳士や淑女の一ぱいゐる室で、リード夫人のおそろしいまなざしを受けてゐるよりは、彼女と二人で毎夕を靜かに暮す方がよほど樂しかつたゞらうに。しかしベシーは、お孃さんに着物を着せてしまふと、たいてい蝋燭を持つてすぐに、明るいお勝手かつてか、取締りの女の部屋へ、行つてしまふのだつた。そこで私は、人形を膝の上にのせて、火が消えかゝるまで、坐つてゐた。この薄暗い部屋には、自分自身よりも惡いものが出て來ないことを確めようと時々見まはしながら。燃え殘りの炭がにぶい赤色になると、ひもや結び目をひつぱつて、手ばやく着物を脱ぎ、寒さと闇とからの避難所を私の寢床ねどこの中に求めるのだつた。この寢床にはいつもお人形をつれて行つた。人間は何ものかを愛さねばならぬ。だから私は、自分の愛情にもつとふさはしい相手がないから、小さな案山子かゞしのやうにぼろ/\になつた、色褪せた人形を愛することに、喜びを見出さうとつとめた。生命や感覺があるやうになかば考へながら、私がこの小さな玩具を、どんな馬鹿げた眞實で、溺愛できあいしてゐたかを、今思ひ出すことはむづかしい。私は、それを、夜着の中に抱いてゐなければ寢られなかつた。さうして、そこで人形が安らかに暖かく寢てゐると、私は、人形も私と同じやうに嬉しいだらうと思つて、かなり嬉しかつた。お客の歸るのを待ち、ベシーが階段をのぼつて來る跫音あしおとを聽き澄ましてゐる間は、永い時間のやうに思はれた。時々、あひまに、彼女は、彼女の指輪ゆびわはさみを探し、またはひよつとすると私に夕飯として、なにか――甘ぱんだとかチーズのパイだとか――を持つてやつて來た。そんな時は私が食べる間寢床の上に坐つてゐて、私が食べてしまふと、私を蒲團で包み、二度接吻をして「おやすみなさい、ジエィンさん。」と云ふのが常であつた。こんなにやさしい時は、私にはベシーが世界中で一番立派な、美しい親切な人に見えた。そして、私は彼女がいつもこのやうに機嫌きげんがよくてやさしくて、度々すぎるほど彼女がさうしたやうに私を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したり、叱つたり、法外はふぐわいに用をさせたりしないようにとねがつた。ベシー・リイは確かに生まれつきよい才能をもつた娘だつた。何をしても手際てぎはよくやつたし、また話を面白く聞かせるこつをも心得てゐた。彼女のお伽噺とぎばなしから受けた印象によつて、少くとも私はさう考へる。顏や姿についての私の記憶が正確なら、彼女はまた美しくもあつた。私は、彼女が黒い髮と、くらい色の眼と、非常によい姿と、善良な明るい顏をもつた、すらりとした女だと覺えてゐる。しかし、彼女は氣まぐれで、せつかちで、道義とか正義とかにはまるで無頓着だつた。彼女はそんな風な人間だつたが、それでも私はゲィツヘッドホオルで他の誰よりも彼女が好きであつた。
 一月十五日、朝の九時頃だつた。ベシーは朝御飯に行つてゐた。從姉妹いとこたちも、まだ母親の處に呼ばれてゐなかつた。イライザは、帽子をかぶり、温かい庭着ガーデン・コートを着て、彼女の家禽かきんの處に行つてをやらうとしてゐた。その仕事を彼女は氣に入つてゐた。が、卵を女中頭に賣つて、その金をめるのもこれに劣らず好きだつた。彼女は、商賣氣があり貯蓄することが目立つて好きだつた。そのことは、卵やひなを賣ることで分るばかりでなく、花の根や種や小枝等を園丁に高く賣りつけることでも察しられた。その園丁は、彼女が自分の花壇で出來たものを賣らうと思ふ時は、いつでもそれを買ふやうにリード夫人から云ひつけられてゐたのだ。イライザは、もしそれで、いゝまうけがあるなら、頭から自分の髮を賣り拂つてしまつたゞらう。そのお金はと云ふと、最初彼女はそれをぼろや古い縮らし紙カアルペイパアにくるんで方々の隅つこに隱しておいた。しかし、その貯蓄が、二つ三つ女中に見付けられたので、イライザは、大事な彼女の寶が何時いつか無くなりやしないかと心配して、高い利子りしで――五割か六割の――母親にそれを預けることにした。彼女は、その計算を、非常に正確に、小さな帳簿に記入して、年四囘の囘收日に、その利子を嚴重に取り立てた。
 高い腰掛こしかけに坐つて、ヂョウジアァナは鏡に向つて、髮をつてゐた。屋根裏の抽斗の中で彼女が前にさがしておいた造花ざうくわと色のせた羽根はねを捲き毛に編み込まうといふのだ。私は、ベシーが戻つて來るまでにきちんとして置くようにと、ベシーから嚴しい命令いひつけを受けて、寢臺ねだいを整へてゐた(今は、ベシーは、屡々私を小間使ひの下働きのやうに、部屋をかたづけたり、椅子のほこりを拂つたりなどする爲めに使つた)。掛蒲團を擴げ、自分の寢着ねまきをたゝんでから、そこいらに散らかつてゐる繪本とお人形の家の道具をかたづけようと、窓ぎはに行つた。すると、ヂョウジアァナが自分は玩具おもちやはそのまゝにしておくようにと突然命令して、私の仕事を中止させた(その小さな椅子いすや、鏡や、美しい皿や茶碗は彼女のものだつたから)。それで他に仕事もなかつたので、私は、窓硝子まどガラスに、花のやうに凍りついてゐる霜を息でかしはじめた。かうして、硝子ガラスがすき透ると、そこから私は地面を見ることが出來た。そこには、激しい霜で、何もかもが、しんとして化石くわせきされてゐた。
 この窓からは、門番の家と車道とが見えた。窓硝子の銀白色の曇りを、ちやうど外が眺められるほどにかした時、門が開け放たれて、馬車がそこをすべり込むのが見えた。私は、それが、車道をのぼつて來るのを、ぼんやり眺めてゐた。色々の馬車が、よくゲィツヘッドにやつて來たけれど、まだ一度も、私が興味を感じたお客さんを連れて來たことはなかつた。馬車が家の前に止まつて、呼鈴ベルが音高く鳴り、訪問者は通された。こんなことは、みんな私にはつまらないものだつたので、私のうつろな心は、小さな飢ゑた一羽の駒鳥こまどりの姿に、より生々いき/\と惹きつけられた。それは、窓の傍の壁にくぎづけになつてゐる、葉の落ちた櫻の小枝にやつて來て啼いてゐたのだ。私の朝御飯のパンとミルクの殘りが卓子テエブルの上にあつた。卷パンの一片をこまかく碎いて、しきゐの上にパン屑をのせてやるつもりで、窓をけようと窓框まどかまちを力まかせに引つぱつてゐると、その時ベシーが階段を駈け上つて子供部屋に這入つて來た。
「ジエィンさん、前掛まへかけをおとりなさい。そこで何をしてらしたの。今朝お顏と手を洗ひましたか。」私は返辭をする前にもう一度窓框を引つぱつた。是非小鳥がパンを食べられるやうにしてやりたかつたから。窓は開いた。私はパン屑を撒いてやつた。石のしきゐの上にも櫻の枝の上にも落ちた。それから窓を閉ぢて私は返辭をした。
「いゝえ、ベシー、今やつとお掃除がすんだところなの。」
厄介やくかいな、不注意な子だこと! そして、何をしてゐるの? すつかり眞赧まつかになつてまるでおいたをしようとしてゐたやうぢやないの? 窓をけて、何をするつもりだつたの?」
 私は、返辭をしないで濟んだ。何故なら、ベシーは、とてもあわてゝゐて、云ひ譯を聞いてゐる暇もなさゝうだつた。彼女は、私を洗面臺に引つぱつていつて、石鹸と水とかたいタオルをとつて、無慈悲に、だけど幸ひにも簡單に、顏と手を摩擦まさつした。剛毛こはげのブラッシュで髮を撫でつけ、前掛を脱がせると、階段のきはまで私をせき立てゝ、朝食堂ブレーク・フアスト・ルームで待つてゐるから、まつ直ぐりて行くようにと命じた。
 さうでなかつたら、私は、誰が呼んでゐるのか、リード夫人がそこにゐるのかどうかを訊いたに違ひなかつたが、ベシーは、既にいつてしまつて、私の上には、子供部屋のドアとざされた。私は、ゆつくり階段を下りた。もうリード夫人の前に呼ばれなくなつてから、殆んど三月にもなる。そんなにも永い間、子供部屋へ拘束こうそくされてゐたので、朝食堂や食堂や客間は、そこへ侵入することが私を狼狽らうばいさせるほど、私にとつて恐ろしい場處となつてゐた。
 私は、人氣ひとけのない廊下に立つてゐた。私の前には、朝食堂のドアがあつた。私は、おびえ震へながら、立ち止つた。不法な處罰を受けての恐怖が、私をその頃、なんと、みじめな臆病者にしたことだらう! 私は子供部屋へ戻るのを怖れ、客間へ這入つていくのもこはかつた。十分間、私は、心をどきつかせながら、躊躇ためらつて立つてゐた。朝食堂のけたゝましい呼鈴ベルの音が、私を決心さした。もう這入るより仕方がない。
 私は、兩手で、一二秒は云ふことをきかなかつた、かたい把手ノッブ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しながら、「誰が呼んだのだらう?」と、心ん中で問うた。「部屋の中には、リード伯母さんの外に、誰がゐるのだらう?――男かしら、女かしら?」把手ノッブ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、ドアが開いた。室内なかへ進んでいつて、つゝましくお辭儀をして、私が見上げると、黒い柱――さう、少くとも一見、私にはさう見えた――眞直ぐな、幅の狹い、黒い着物を着たものが、敷物の上に棒立ちになつてゐた。その頭部に見える物凄い面相かほは、柱頭のつもりで、柱身の上に載せられた、彫刻の假面めんのやうであつた。
 リード夫人は、爐邊ろへんのいつもの席にすわつてゐた。私に、彼女は、もつと近くに來るようにと、合圖あひづした。私が近づくと、リード夫人は、その、石のやうな、未知の客に、次のやうな言葉で、私を紹介した。
「これが、あなたにお願ひした子供でございます。」
 その人――男であつた――は、靜かに、私が立つてゐる方へ頭を向けて、毛の濃い眉毛まゆげの下に、きらめいてゐる灰色の疑ひぶかさうな眼で、じろりと私をさぐり見た。さうして、おごそかに、低音バスの聲で云つた。
がらが小さいが、幾つですか?」
十歳とをです。」
「そんなに?」といふ疑はしさうな返辭であつた。そこで、彼は、數分間、私をじろ/\眺めた。やがて私に話しかけた。
「お孃さん、あなたの名は?」
「ジエィン・エアです。」
 かう云ひながら、私は、その男を見上げた。彼は非常に背の高い人に見えた。だが、その時は、私はずゐぶん小さかつたのだが。目鼻めはなの大きな、そしてそれらと、體格のすべての線は荒々しく、しかつめらしかつた。
「ふん、ジエィン・エア、で、あなたはいゝ子かね。」
 肯定こうていして返辭することは出來なかつた。私の周圍の人たちは、みんな反對の意見を持つてゐた。私は默つてゐた。リード夫人は、私に代つて、意味あり氣に頭を振つて見せた。そして、直ぐ附け加へた。「ブロクルハーストさま、そのことは、申せば申すほど、わるくなりますの。」
「さうとはまつたく遺憾ゐかんですな、少しこの子と話し合つてみなければなりますまい。」で、彼は直立の姿勢だつたのを、少し屈めながら、リード夫人と差向ひの安樂椅子ソフアに腰かけた。「こゝへ來なさい。」と云つた。
 私は敷物の上を横切つた。彼は私を自分の眞正面に立たせた。かうして、私の顏と彼の顏が殆んど同じ高さになつた時に、何んと云ふ顏で、それはあつたらう! 何んと偉大な鼻! 何んと云ふ口! 何んて尨大ぼうだいな突出した齒だらう!
 「云ふことをきかない子を見るくらゐ悲しいことはない。殊に云ふことをきかない女の子はね。惡いものは死んでからどこへ行くか知つてるかね。」
「地獄へ行きます。」私は即座そくざに正式の答へをした。
「地獄つて何んです。私に説明出來るか。」
「火が一面に燃えてるあなです。」
「それで、あなたは、その火のあなん中へ落ちたいのですか。そして永遠に燒かれたいのですか。」
「いゝえ。」
「さうされない爲めには、あなたはどうしなければなりませんか?」
 私は一寸ためらつた。答へが口に出た時に、それは、不都合なものであつた。「からだを丈夫にして死なゝいようにしなければなりません。」
「どうしてあなたは丈夫でばかりゐられる? あなたより小さな子供でも毎日死んで行くよ。私は、ほんの一二日前に、たつた五つの子供のお葬式をした――おとなしいいゝ子だつた。今はもうその魂は天國にある。あなたがこの世から召されたとしても、その子と同じやうなことは、あなたには云はれないだらう。」
 彼の疑惑うたがひを除く状態ではなかつたので、私は、敷物の上に植ゑつけられた二本の大きな脚に私の眼を落して、溜息をして、早く遠くにはなしてくれるように願つてゐた。
「その溜息は、あなたの心からのもので、あなたの恩人のお心にそはなかつたことを、あなたが悔悟してゐるのであれば結構だ。」
「恩人! 恩人!」と、私はおなかの中で叫んだ。「みんなが、リード夫人を私の恩人だと云つてゐる。もしさうだとすれば、恩人と云ふものは、いやなものだ。」
「朝晩、お祈りしますか。」私の訊問者じんもんしやはなほ續けた。
「えゝ。」
「聖書は讀みますか。」
「時々。」
「喜んで讀みますか。好きですか。」
「好きなのは默示録もくじろく、ダニエルの本、創生記[#「創生記」はママ]、サムエル、出埃及記の一部、列王記傳、ヨブ、ヨナです。」
「で、詩篇は? 好きでせうね?」
「いゝえ。」
「え、嫌ひ? ほう、驚いた! 私はあなたよりも年下の男の子があるが、その子は詩篇の中六つも諳誦あんしようしてゐる。生姜しやうがパンを上げようか、それとも[#「それとも」は底本では「それでも」]詩篇を覺えた方がいゝかと、くと、きつと『詩篇! 天使のうたふ詩篇、』と彼は云ふ。『私は地上の小さな天使になりたいんです。』だからその時には、子供らしい敬虔けいけんの念にむくいて、お菓子を二つ與へるんですよ。」
「詩篇は面白くありません。」と、私は云つた。
「それは、あなたがよくない心を持つてゐる證據だ。神さまにその心を變へていたゞくように、お祈りしなければなりません。――新らしい清らかな心を戴くように、その石の心を捨てゝ、肉の心を下さるように。」
 どう云ふ風にして、私の魂を入れ替へられるのか、その方法に就いて、私は質問をしようとしたが、この時、リード夫人が横合よこあひからくちばしを入れて、私に坐るようにと云つて、自分一人で話をすゝめた。
「ブロクルハーストさま。三週間前、差上げた手紙で、この子はとても私の望むやうな性格や性質を持つてないとお知らせしました。あなた、この子をローウッド學校にお入れ下さいませんか。校長先生始め先生方に嚴格な監視かんしをしていたゞき、就中、この子の一番惡いくせうそをつくことを防いでいたゞけますなら、私は嬉しいんですが。ジエィン、私は、これを、お前がブロクルハーストさまをだまさないように、お前の聞いてるところで云ふのだよ。」
 私がリード夫人を恐れるのも無理ではなかつた。嫌ふのも無理ではなかつた。殘酷ざんこくに私をきずつけるのが彼女の性質だつたから。彼女の前で、私は幸福だつたことはない。どれ程私が注意深く云ふことを聞いても、どれ程一生懸命彼女の氣に入らうとつとめても、私の努力はなほ上に述べたやうな言葉ではねつけられ應酬された。かうして見知らぬ人の前で云はれた非難は、私の胸に突刺さるゝやうだつた。私は、彼女が私をこれから入れようとしてゐる新らしい生活から、私の希望を既にもぎとらうとしてゐるのを朧氣おぼろげながらわかつた。その氣持ちを言ひ現すことは出來ないが、私は、彼女が私の行手ゆくての路に、嫌惡けんをと不親切の種を蒔きつゝあると云ふことを感じた。私は、私自身がブロクルハーストの前に狡猾かうくわつ邪惡じああくな子とされてしまつてゐるのがわかつた。そして、この汚名をめいすゝぐ爲めに、私は一體何をすることが出來るのか?
「本當に、何んにもない。」と、私は、すゝり泣かうとするのを抑へつけようとつとめながら、考へた。そして私の苦しみの無力な證據たる數滴の涙をいそいで拭きとつた。
「人をだますことは子供にとつて、悲しむべき缺點です。」とブロクルハースト氏は云つた。「それはうそをつくのと同じだ。嘘つきはみな硫黄ゐわう業火ごふくわに燃える湖に落ちなければなりません。兎に角リード夫人、この子を監督致させませう。テムプル先生にも他の教師にも云つて置きませう。」
「この子の行末ゆくすゑ相應ふさはしい方法で教育していたゞきたうございます。」と私の恩人は言葉を續けた。「役に立つやうに、つゝましくなるように。休暇きうかは、お願ひ出來るなら、いつもローウッドで、過すようにして下さい。」
「奧さん、あなたのお考へは至極結構です。」とブロクルハースト氏が答へた。「謙讓けんぢやうはキリスト教徒の美徳です。それは特にローウッドの生徒に相應ふさはしいものです。私はそれの涵養かんやうに特別の注意を拂ふやうに指導してゐます。私は生徒たちに虚榮心をどうすれば最もよく抑制できるかを研究してゐます。そしてついこの間も、私はその成功の喜ばしい證據を得ました。私の次女のオウガスタが母と學校へ行つてたが、歸つて來てからかう云つた。『ローウッドの生徒はどうしてあんなに靜かで質素しつそなのでせう。髮を耳の後へき上げて、長い前掛をして、麻布あさぬののポケットのついた着物を着て、――まるで貧乏人の子供みたいね!』それから彼女はかう云つた。『生徒たちは私とママの着物をまるで初めて絹の着物を見たやうに、珍らしさうに眺めてゐましたよ』と。」
「さう云ふやり方は、まつたく私、賛成ですわ。」
 と、あのリード夫人が答へた。「英國中を私探しましたけど、これ以上ジエィン・エアみたいな子に相應ふさはしい學校は見つかりませんでしたわ。堅實、ねえ、ブロクルハーストさま――私はすべての中で堅實をおもんじますの。」
「堅實は、キリスト教徒の第一の義務です、奧さん。そして、それがローウッド學校に關聯するあらゆる制度に見受けらられるところのものです。簡衣粗食かんいそしよく見得みえばらぬ設備、不屈な活溌な習慣――これらが、私の學校及び生徒たちによつて、毎日守られてゐることです。」
「まつたくで御座います、先生。それで、私もこの子をローウッドの生徒としてお受けとり下さるようおまかせいたします。そして、この子の境遇と行末とにおうじて訓練されますように。」
「奧さん、承知いたしました、よりぬきの樹ばかりの植樹園しよくじゆゑんにこの子を置いてあげます。やがてこの子もこの選ばれた高價な特權に對して感謝を現す時機が來るに相違ございません。」
「では、ブロクルハーストさま、なるべく早くこの子をお送りしませう、このわづらはしい責任を私の肩からおとり下さるように、おまかせしたくつて仕樣がないのですから。」
「いや奧さん、まつたくです、まつたくです。ぢや失禮申上げませう、私は一二週間うちに、ブロクルハースト學校に歸りませう。それより早くは友達の副監督が歸さないでせうからな。しかしテムプル先生に新入生が一人あると通告つうこくして置きますから、さうすれば、この子をいつでも引受けてくれるでせう。ではさやうなら。」
「さよなら、ブロクルハーストさま。奧さまにもお孃さまにも、それからオウガスタさんにも、テオドラさんにも、ブルウトン・ブロクルハーストさまにもよろしくね。」
「かしこまりました、奧さん。ぢやお孃さん、こゝに『子供のみちびき』と云ふ本があります。お祈りをして、よくお讀みなさい。特にうそとごまかしで固まつたマルサ・ジイと云ふ強情がうじやうな子供が、どうして急に死ぬかつてことが書いてあるところをお讀みなさい。」
 この言葉と共にブロクルハースト氏は、私の手に表紙をぢ付けた薄いパンフレットをれた。そして呼鈴ベルを鳴らして、馬車を呼んで、歸つて行つた。
 リード夫人と私が取り殘された。默つて數分間過ぎた。彼女は縫物ぬひものをしてゐた。私はそれを見てゐた。リード夫人はその頃三十六七だつたらう。彼女は骨格こつかく屈強くつきやうな、肩の張つた、手足の頑丈な、脊の高くない、ぶく/\してはゐないがふとじゝの婦人だつた。稍大顏で、二重顎の下ががつしり發達してゐた。ひたひは低くて、顎が大きく突出してゐた。口と鼻は尋常にとゝのつてゐた。うすいまつ毛の下に、憐憫あはれみのない目がまたゝき、皮膚は黒く濁つてゐた、亞麻色あまいろに近い頭髮。鐘のやうに堅牢な體質――病氣も決して彼女に近づかない。几帳面きちやうめん拔目ぬけめない管理者で、家族も小作人も完全に制御されてゐた。
 子供だけが時として、母の權威けんゐを馬鹿にして、笑ひ飛ばして了つた。夫人はいゝ服裝をして、それを引き立てるやうな風采と態度を持つてゐた。
 彼女の肱掛椅子から數ヤード離れた低い腰掛にかけさせられて、私は彼女の容子をまじ/\と眺め、顏付をうかゞつた。手には、うそつきの急死の事を書いたパンフレットがあつた。その話がふさはしい忠告であるかのやうに、私の注意はその本の物語に注がれてゐた。たつた今起つたこと、私のことに就いて、リード夫人がブロクルハースト氏に告げたこと。彼等の會話の大體のあらましは生々いき/\しく、そして、私の心をちく/\刺してゐた。ひとつ/\の言葉は、あからさまに聽いてゐたと同じ鋭さで私に感じられた。さうして今私の心の中には憤怒ふんぬの情が燃え立つてゐた。
 リード夫人は仕事から目を上げた。私を見つめて、同時に忙しい縫ひ物の手を休めた。
「出ておくれ。子供部屋へお歸り。」それが彼女の命令であつた。私の顏付か態度か何かゞ、氣にさはつたらしく、こらへてゐたが、ひどくいら/\とした調子で云つた。
 私は、立ち上つて、戸口へ行つた。私はまたふたゝび元の場處へ戻つた。部屋を横切つて、窓際まどぎはへ歩いていつた。それから彼女の身邊へ近づいた。
 私にはどうしても云ひたいことがある、私はひどく踏みにじられた、私ははねかへさなければならない。でも、どんな方法で? 私の敵に復讐を投げつける爲めに、私は、どんな力を持つてゐるか? 私は元氣を振ひ立たして、このにぶい言葉で云ひ切つた。「私は人をだましなんかしませんよ。そんなことが出來るなら、私はあなたが大好きだと云つたでせう。だけど、私はあなたを好かないと云ひます。ジョン・リードをのぞけば、世界中で誰よりもあなたが一番嫌ひです。うそつきの話を書いたこの本は、あなたの子のヂョウジアァナにおやりになるがいゝわ、うそを云ふのは、あの子で、私ぢやありませんから。」
 リード夫人の手はまだ動かずに休んでゐた。
 彼女の氷のやうな眼は、まだこほりついたやうに私の眼を見つめてゐた。
「云ひたいことはそれでおしまいかい。」普通の人が聞いたら、とても子供に使ふ言葉とは思へない、まるで大人おとなを相手にしてゐるやうな調子で、彼女はいた。
 その眼は、その聲は、私のあらゆる反感を湧き立たせた。頭から足まで搖れ、おさへ切れない興奮に震へて、私は續けた。「私はあなたが私の親類でなくつてよかつたと思ひます。私は生きてる間、決して再びあなたを伯母さんとは呼びません。一人立ちをしたら、決してあなたなんかにひに來るものですか。人が、私があなたをどれだけいてゐたか、またあなたがどんなに私を取扱つたかを聞いたら、私はあなたのことを思つたゞけでも胸がわるくなると云つてやります。そして、あなたがお話しにならないやうな惨酷ざんこくな目にはせたことを云つてやります。」
「どうしてそんなかたい口がきけるの、ジエィン・エア。」
「どうしてかつて? リード夫人、どうしてかつて? それがほんたうのことだからです。あなたは私が感情を持たないものだと思ひ、愛も親切の切れつぱしもなしに暮せるものだと思つてゐらつしやる。だけど私はそれでは生きて行けません。あなたはあはれみを知らない、あなたがどんなに私を押し込んだか、どんなに無法むはふに亂暴に私を赤いお部屋へやに押し込んでじやうを下したか、私は死ぬ日まで忘れませんわ。私は悲しみに息をつまらせながら、苦しんではゐたけれども、泣いてはゐたけれど、伯母さま助けて下さい、助けて下さいつてお願ひしたぢやありませんか。それにあなたはあなたの息子が私を理由もなく打倒したと云ふので私に罰を與へたぢやありませんか、私は誰でもこの事を聞く人に本當の事を聞かせてやります。世間ではあなたを善良な婦人だと思ふでせう。だけどあなたは本當は意地いぢの惡い無情な人です。あなたこそ人をだましてゐらつしやるのです。」
 この返答の終らぬ中に、私の心は今まで曾つて持たなかつた自由と勝利の念にふくれ上り、初めて、喜びに躍つた。見えない束縛そくばくが破れて、思ひがけない自由の世界へ飛び出したやうな氣がした。と云ふのは、リード夫人は驚愕したやうに仕事をひざからずり落し、兩手をひたひへあてゝ、體を前後にゆすぶりながら、泣き出しさうに顏をしかめたのだ。
「ジエィン、お前は間違へてるよ。一體どうしたの、どうしてさうぶる/\震へてゐるの。水でも飮むかい。」
「いゝえ、飮みません、リード夫人。」
「まだ何かお話があつて? ジエィン、私はお前の友達になつて上げたいよ。」
「あなたに申上げることはありません。あなたは、ブロクルハーストさんに、私が性質たちの惡い子で人をだますくせがあると云ひました。私は、ローウッド中の人にあなたがどんな人であるか、私にどんなことをしたか教へてやります。」
「ジエィン、お前は、はつきり事がわかつてゐないのですよ。子供の惡いところはなほして貰はなければいけません。」
「嘘なんて、私の缺點ではありません。」私は腹立ち紛れの甲高かんだかい聲で叫んだ。
「だけどお前は怒りつぽいよ、それはお前も一ごんもなからう。子供部屋へお歸り――いゝ子だから――そして、そこでしばらくお休み。」
「私はあなたのいゝ子ぢやありません。私は寢ることなんか出來ません。ぐに學校へやつて下さい。私はこんな所に居るのはいやです。」
「さうだ、ぐに學校へやらなければ。」と、リード夫人は低い聲で呟やいた。そして仕事を拾ひ上げると、あわたゞしく部屋を出ていつた。
 私は、一人取殘された。戰場の勝者として。それは私の今まで戰つた中で一番激しい戰だつた。そして始めてた勝利であつた。私はブロクルハーストさんの立つてゐた敷物しきものの上に、しばらくつゝ立つて征服者の孤獨の感を樂しんでゐた。最初おのづと微笑が浮び、昂然と氣勢が上つた。しかし、この猛々たけ/″\しい喜びも、はやまつてゐた脈搏がしづまると同じはやさで鎭まつていつた。子供と云ふものは、私がしたやうにその年長者と爭ひ、また私がしたやうにはげしい感情をやけに働かせる時には、きつと後になつて、悔恨くわいこんの苦しみと反動の肌寒はださむさを經驗するものである。生物せいぶつのやうにうごめき、きらめき、なめつくす野火のびに燒かれるヒースの山が、リード夫人を呪ひ脅迫けふはくした私の心の状態に、ぴつたり適合するに違ひない。炎の消えた後の黒くこげた同じ山が、そのまゝ、後の私の氣持ちを表してゐた。半時間沈默反省したとき、私の行爲が氣狂きちがひじみてゐたこと、そして自分からいやがる境遇と他からいやがられる境遇のみじめなことを、わかつた時の氣持ちを表してゐたらう。
 私は何か香氣かうきあるものをはじめて味つた。飮むとあたゝかくて、新鮮な香り高い酒のやうだつた。そして後味あとあぢつぱく、腐敗して毒を呑まされたやうな氣持ちだつた。リード夫人の許へかけつけて、許しを乞ひたい氣持ちで一杯だつた、しかし、半ばは經驗と半ばは本能から、その事は却つて二重の叱責しつせきを以て、彼女に私を排撃させ、そしてその爲めに私の生れつきの凡ゆる亂暴な衝動を興奮さすだけであると云ふことを知つてゐた。
 出來ることなら毒々しい口をくより、もつといゝ才を働かしたかつた。また陰慘な憤怒よりも、もつと人間らしい感情のかてが、發見したかつたらうに。私は本を――アラビア物語を――とり上げた、腰かけて、それに沒頭しようとした。その題目は、私には何の事かてんで解らなかつた。私自身の思ひは私と私がいつも魅せられるページとの間をさまよつてゐた。私は、朝食堂の硝子のドアを開けた。灌木林くわんぼくりんはまるで靜かであつた。日にも風にもけなかつた、草木くさきもこほるほどの寒さが、邸内を支配して居つた。着物の裾で、頭と手をおほつて、奧まつた木立の奧の方へ歩きに行つた。しづもりかへつた木も、結晶した秋の遺物――もみの實が落ちて來るのも風に吹きよせられて、かたまりついた腐つた葉つぱも、何もかもちつとも面白くなかつた。私は門にもたれて、羊の一匹も出てゐない、短い、いぢけた白茶しらちやけた草が生えてるばかしの人氣ひとけのない牧場を眺めた。灰色の陰鬱な日だつた。どんよりした空が「末は雪」になつて垂れかゝつた。空からは雪が時折ちら/\して、敷石道の上へ落ち、白つぽい野原の上に落ちて溶けもしなかつた。みじめな子は、何度も/\かう繰返して呟やいてゐた。「どうすればいゝのだらう。どうすればいゝのだらう。」
 私は、たちまち、きとほるやうな聲をきゝつけた。
「ジエィンさん、どこ? ごはんにいらつしやい。」
 私にはベシーの聲だといふことがよく解つてゐたが、動かなかつた。彼女は、輕やかな歩調ほてうで、小路をこちらへ歩いて來た。
強情がうじやうぱりなだね! どうして呼ばれたらないの。」
 ベシーが來たので、私の今まで考へ續けてゐた氣持が一時に輕くなつた。しかし、彼女の機嫌はいつものやうに惡かつた。實は、私はリード夫人とぶつゝかつて、しかも勝つた後なので、保姆ばあやの一時の不機嫌等は大して氣にならなかつた。そして、いつもの通り彼女の心の若々しい明るさによくしたいと思つた。私はちよいと兩腕で彼女を抱いて、
「ね、叱らないでよ。」と云つた。
 この行爲は常よりももつと自然に、こだはらずになされたので、彼女を少し喜ばせた。
「變な子ね、ジエィンさんは。」と彼女は私を見下しながら云つた。「小さな淋しくうろついてる子供。ね、學校へ行くのでしよ。」
 私はうなづいた。
「ベシーをおいてけぼりにして、悲しくないの?」
「ベシーが私のことを何とか思つてくれるかしら、叱つてばかしゐたのに。」
「あなたが風變ふうがはりなおど/\した内氣な子だからよ、もう少し大膽にならなくちや。」
「まあ、もつとなぐられる爲めに?」
「まさか。だけど、あなたは、たしかにいぢめられ過ぎてるわよ。おつかさんも先週會ひに來た時、自分の子をあんな目に遭はせたくないと云つてゐたわ。さう、いゝしらせがあるわ。家へお這入はいんなさい。」
「そんなものがあるとは思へないわ。」
「この子は何を云ふの、悲しさうな顏をして見上げて。あのね、奧さまとお孃さま方とジョン・リードさまは、お茶の御招待ごせうだいで行かうとしてますから、私とあなたとお茶をいたゞきませう。コックに頼んで、あなたにお菓子を燒いて貰ふわ。そしてあなたの箪笥たんすを調べるのを手傳つて頂戴。直ぐにあなたの荷作にづくりをしなくちやならないのよ。奧さんはもう一日か二日の中に送り出すつもりよ。あなたの持つて行きたい玩具おもちやつていゝわ。」
「私が居る間は、もう叱らないつて約束する?」
「えゝ、叱らない。だけど、いゝ子にならなくつちや駄目よ。そして私をこはがつちや。少々物の云ひ方がひどくつても逃げちや駄目よ。それは本當に腹が立つんだから。」
「もうこはくないと思ふわ、ベシー、あんたにれたから。だけどまた別の人達がこはくなるだらう。」
「こはがつちやきらはれますよ。」
「さう、ベシー、お前みたいに?」
「私はあなたを嫌つてゐませんわ。他の誰よりも好いてゐるつもりですわ。」
「ちつともそんな風はみせてくれないのに。」
「かしこい子。あなたは話し方がまるで變つて來たのね。どうしてさう思ひ切つたことが惜まず云へるやうになつたの。」
「どうしてつて、もう直ぐあなたにも別れる――、それに――」私とリード夫人との間に起つた事について何か話をしようかと思つたけれど、考へ直したらそのことについてだまつてゐる方がいゝらしかつた。
「それぢや、私と別れるのが嬉しいの。」
「うゝん、ちつとも、ちつともよ、ベシー。今になつてみればむしろ悲しいわ。」
「まあ、今になればつて、むしろ悲しい方だつて。私の大事な小さいお孃さんはつめたいことを云ふわね。私が今接吻せつぷんして頂戴と云つたら、きつといやだと云ふわね、むしろいやだつて。」
「喜んで接吻するわ。頭をかゞめてよ。」
 ベシーはかゞんだ。私たちはお互に抱きあつた。私はすつかり愉快になつて、ベシーの後から家へ入つた。その午後は平穩無事に暮れて行つた。夜はベシーが彼女の知つてる中で最も面白い話をいくつか聞かせ、もつとも美妙なる歌を選んで歌つてくれた。私のやうなものにも人生には太陽のきらめきがあつた。


 一月十九日の朝、五時を打つか打たぬに、ベシーは、手燭てしよくを私の部屋に持つて來た。私は、もう起きて、殆んど着物を着てしまつたところだつた。私は、彼女が此處へ這入つて來る半時間前に起床きしやうして、顏を洗ひ、寢臺ベッドの側の狹い窓から流れ込んで來る、ちやうど沈みかゝつてゐる半月の光で着物を着てゐたのだつた。その日、私は午前六時に邸の門前を通る驛馬車でゲィツヘッドを出發することになつてゐた。ベシーだけが起きてゐた。彼女は、子供部屋に火をおこして、私の朝飯をそこでこしらへ始めてゐたところだつた。旅行の思ひで昂奮してる時に、御飯の喰べられる子供は、殆んど無い。私もまたその例に洩れなかつた。ベシーは、私の爲めに作つてくれたパンやかした牛乳を幾匙か食べるようにとすゝめたが、無駄だつたので、ビスケットを幾らか紙に包んで、私の鞄の中に入れて呉れた。それから、彼女は私に長コートを着せ、ボンネットを冠るのを手傳てつだつて呉れた。さうして、彼女がショールをかけて、私と一緒に子供部屋を出た。私たちが、リード夫人の寢室を通る時に、ベシーは云つた。
「這入つて奧さまにお別れの挨拶あいさつをなさらない?」
「しないわ、ベシー。伯母さまは、昨夜あんたがお夕飯に下りていつた時に、私の寢床ねどこに來て、私が朝、伯母さまや從兄妹いとこたちを騷がせるには及ばないと云つたんですもの。そして伯母さまは自分がいつも私の一番いゝ味方だつたことを、忘れないように、そしてね、伯母さまのことを話し有難く思ふようにと、仰しやいましたわ。」
「何んて云つて? お孃さん。」
「何んにも云はなかつたの、私は顏に敷布しきふをかぶせて、壁の方を向いてゐたわ。」
「それは、いけなくつてよ。ジエィンさん。」
「あたりまへよ、ベシー、あんたの奧さまは私の味方ぢやなかつたんですもの、私の敵だつたんですもの。」
「まあ、ジエィンさん、そんなことを云ふもんぢやありません。」
「左樣なら、ゲィツヘッド!」私たちが廊下らうかを通つて玄關へ出ていつた時、私は叫んだ。
 月は沈んで、大へん暗かつた。ベシーは提灯ちやうちんを持つてゐた。その光りが濡れた階段と、近頃の雪解けでびしよぬれになつた砂利道じやりみちとを照してゐた。冬の朝は、ひどく寒かつた。私が馬車道へ急いで下りてゆく時に、齒がガタ/\と鳴つた。門番の小屋にはあかりがあつた。私達が門番小屋につくと、門番のお内儀かみさんは丁度火をおこしかけてゐるところだつた。前の晩運び下しておいた私のトランクは、細引ほそびきが掛かつて入口のところにあつた。六時までには、ほんの數分しかなかつた。六時が鳴つて、すこしすると、遠くから響いてくるわだちの音が、馬車の近づいてるのを知らせた。私は入口のところへいつて、馬車のランプがはやく近づいてるのを暗闇を透して見守つてゐた。
「お孃さんは獨りでいらつしやるの?」と門番のお内儀かみさんは訊ねた。
「えゝ。」
道程みちのりは、どれくらゐ?」
「五十哩。」
「まあ、遠いこと! リード奧さまは、そんな遠くまでひとりで行かして、氣がかりではないんでせうかしら?」
 馬車は停つた。四頭の馬と、客を乘せた車蓋しやがいとが、門のところにあつた。
 車掌と馭者ぎよしやとが、大聲で、急ぐようにとせき立てた。私のトランクは、積み上げられた。接吻をして縋りついてゐたベシーの首から、私は引き放された。
「よく面倒を見て下さいよ。」と、車掌が車内なかへ私を抱き載せる時に、ベシーは、彼に叫んだ。
「えゝ、えゝ。」といふのが答へであつた。ドアぴちやつしまつて、「オールライト!」といふ聲が叫んだ。さうして、馬車は、動いていつた。かくして、私は、ベシーやゲィツヘッドから離れた。かくして、私は、未知みちの、その時、さう思つたのであるが、遠い、神祕の世界へと、運ばれ去つた。
 その旅のことは、ほとんどまつたく、記憶してゐない。その日が不思議に長いやうに思つたことゝ、數百哩以上の道程みちのりを旅行したやうに思つたことだけ、私は知つてゐる。私たちは、色々の町を通り過ぎた。一つの町――大さう大きな町――で、馬車はとまつた。馬がはづされて、乘客たちは、晝食のためにりた。私は、旅籠屋はたごやへ連れて行かれた。そこで、車掌は、私に食事をすることをすゝめた。が、私は、何も食べたくなかつたので、彼は、私を廣い部屋に殘して行つた。その部屋には、兩端に壁爐かべろがあり、天井からはシャンデリアが下つて、壁の上の方に樂器がはいつてゐる小さな赤い戸棚があつた。誰か這入つて來て、私をかどはかしはしないかと云ふ、大へん妙な、恐ろしい不安を感じながら、そこで、永い間、歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。ベシーの爐邊ろばたの物語の中に、人さらひの手柄話が屡々出て來たので、私は人さらひがゐると信じてゐたから。やつと、車掌が戻つて來た。ふたゝび、私は、馬車に乘せられた。私の保護者は、自分の席にのぼつて、角笛つのぶえを鳴らした。さうして、私たちは、エル町の「石だらけの道路みち」を、がら/\と通つていつた。
 午後になつて、鬱陶うつたうしく、やゝ霧がかゝつて來た。暗くなるに從つて、私はゲィツヘッドから、隨分遠く離れつゝあることを感じはじめた。町を通過することはなくなつた。土地が變つたのだ。大きな灰色の丘陵きうりようが、地平線に沿うてり上つてゐた。夕闇が深くなる頃、樹木で暗い谷間を下つた。夜が風景を蔽ひ隱してから永い間、樹々の間を突進する野風のかぜの音を、私は聽いた。
 その風音にあやされて、私は、つひに、睡眠ねむりに落ちた。大して寢ないうちに、急な停車が、私を目醒めざめさした。馬車のドアが開いた。召使ひふうの者が、ドアのところに立つてゐた。私は、ランプの光で、その顏と服裝を見た。
「ジエィン・エアと云ふ、小さい娘さんは、ゐませんか?」と、彼女がたづねた。
「はい。」と、私は答へた。さうして、おろされた。私のトランクは、とり下されて、馬車は、直ぐ動いていつた。
 私は、長く坐つてゐたので、こはばつてゐた。さうして、馬車の騷音と動搖で、混亂してゐた。私は元氣を出して、自分の周圍を見た。雨と風と暗闇くらやみとが、大氣に瀰漫びまんしてゐた。それにも拘らず、私の前の塀と、その、開いてゐる塀の戸がぼんやり見分けられた。この戸口を、私は、新しい案内人とくゞつた。彼女は、背後の戸を閉め、ぢやうをかけた。そこには、多くの窓のある、そして、そのいくつかの窓にともつてる一軒の家、或は數軒の家――何故といへば、その建物たてものは、遠方までつゞいてゐたから――が見えた。私たちは、廣い、水のはねる、濡れた砂利道じやりみちをのぼつていつた。さうして、玄關を這入つた。それから、召使ひは、廊下を通りぬけて、煖爐のある室へ案内した。さうして、私をひとり殘して去つた。
 私は、立つて、かじけた手の指を、火の上にかざして温めた、そのとき周圍を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。蝋燭はなかつたが、からのぼんやりした光が、とき/″\、張り壁や、絨毯じうたんや、窓掛や、光つてゐるマホガニの家具を明かにした。それは、ゲィツヘッドの應接間ほどの廣さも、壯麗さもない居間パーラーであつたが、十分居心地ゐごゝちがよかつた。私は、壁に掛つてる繪の趣題を考へ出さうと困つてゐた。その時、ドアが開いて、ともし火を持つた人が這入つて來た。その人の直ぐ背後にも一人つゞいてゐた。
 最初の人は、黒い髮と、黒い眼と、蒼白あをじろい廣いひたひとを持つた、背の高い婦人であつた。彼女のからだは、半ば肩掛ショオルに包まれてゐた。彼女の風貌は重々しく、姿勢は、すつきりしてゐた。
「こんな小さい子を獨り旅させるなんて。」と、蝋燭を卓子テエブルの上に置きながら云つた。彼女は、一二分の間、私を注意深く觀察して、更に云ひ加へた。
「この子は、直ぐやすませた方がいゝでせう! 疲れてるやうですから。くたびれて?」と彼女は、私の肩に手を置いて訊いた。
「少し疲れました。」
「そして、ひもじいでせう、きつと。る前に何か御飯を食べさせておやりなさい。ミラアさん。御兩親を離れて、學校へ來たのは、最初はじめてなの、お孃さん?」
 私は、彼女に兩親が無いと云ふことを述べた。彼女は兩親がくなつてから何年になるかといた。それから、幾歳いくつになるか、名は何んと云ふのか、讀んだり、書いたり、お裁縫はりが少しは出來るかといた。それからまた、彼女は、私の頬をやさしく、人差指でさはつて、「いゝ子におなりなさい。」と云つて、私をミラア先生と一緒にひきさがらせた。
 私が今別れた、その婦人は、二十九歳ぐらゐだつたらう。私と一緒に去つた婦人は、二つ三つ若いやうに見えた。最初の婦人は、聲と顏付と容子で、私に印象を與へた。ミラア先生は、ずつと平凡だつた。苦勞のためやつれてはゐたが赤味を帶びた顏色をしてゐた。歩きつきや動作どうさは、まるで仕事をいつもどつさり抱へこんでる人のやうに、せか/\してゐた。實際、彼女は、後になつて事實さうだとわかつたのだが、助教師のやうに見えた。私は、彼女に連れられて、大きな不規則な建物たてものの室から室へ、廊下から廊下へと通り拔けた。私達が通つて來た建物のその部分にみなぎつてゐるやゝ物凄い靜寂から出ると、人の騷ぎ聲のするところへ來た。さうして、たゞちに、その廣い、長い部屋へ這入つた。その部屋には、兩端に、大きな松の卓子テエブルが二つづゝあり、その卓子テエブルのひとつ、ひとつに一對の蝋燭が燃えてゐ、九歳または十歳から二十歳になるまでの年齡としごろの女の子の群が、卓子テエブルをとりまいて腰掛けてゐた。脂蝋燭のほのかな光で見るとその人數は數へ切れない程に見えた。然し實際のところ八十名はえてはゐなかつたのだけれど、皆は一樣に、見慣れない型の褐色かつしよく毛織けおりの服を着、長い和蘭風オランダふうの前掛をかけてゐた。丁度自習の時間であつた。明日の學課を諳記してゐるのである。そして私が聞いたガヤ/\した聲は、彼等が小聲で云ふ諳誦が一緒になつたものであつた。
 ミラア先生は戸口の近くの腰掛に坐るやうに合圖あひづをしてから、その長い部屋の上席の方へ歩んで行つて、大きな聲で叫んだ――
「級長、教科書を集めて片附けなさい。」
 四人の背の高い女の子が各自かくじ卓子テエブルから立ち上つて、卓子テエブル※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りながら本を集めて片附けた。ミラア先生はまた命令をした。
「級長、夕食のお盆を持つておいでなさい。」
 背の高い女の子は出て行つて、めい/\、私には何だかわからないが何人前もの食物を載せた、そしてそれ/″\のお盆のまん中に、水差みづさし湯呑ゆのみが載つてゐるのを持つて直ぐに戻つて來た。食物はぐるりにそれ/″\渡された。水を飮みたい者は、湯呑ゆのみがみんなに共通であつたから一口づゝ飮んだ。私の順番になつた時、私は喉がかわいてゐたから水は飮んだけれども、昂奮と疲勞とで食べる氣がしなかつたので、食物には、手をれなかつた。だがやがて、それは小さく割つた薄い燕麥からすむぎの菓子なのだと知つた。
 食事が濟み、ミラア先生がお祈祷いのりをすますと、級の生徒は列を作つて、二人づゝ二階へとのぼつて行つた。この時はもう私は疲勞で打ちのめされてゐたので、寢室は教室とおなじやうに大さう長い室だといふ事以外にはどんな風なのだか殆んど氣が附かなかつた。その夜、私はミラア先生がして呉れるやうになつてゐた。彼女は私に手傳つて着物をがしてくれた。私が横になつたとき、寢臺ベッドの長い列があつて、それ/″\の寢臺ベッドが二人の占有者でさつさと占められたのを見た。十分後にたつた一つのあかりが消された。そして私は沈默と眞暗闇まつくらやみの中で寢入つた。
 その夜は直ぐとつてしまつた。私は甚しく疲れてゐたので夢さへ見なかつた。ほんの一度目が醒めて、はげしい音を立てゝ俄かに風がれ、雨が瀧のやうに降り注いでゐるのを聞き、ミラア先生が私の側に寢てゐるといふことを感じただけであつた。二度目に目をけた時には、大きな音の呼鈴ベルが鳴つてゐた。娘達は起きて着物を着てゐた。まだ夜は明け初めてはゐなかつた。部屋の中には一つ二つかすかながついてゐた。私も嫌々いや/\ながら起きた。ひどい寒さであつた。ぶる/\身體が慄へるのでどうにか着物をきて、金盥かなだらひくのを待つて顏を洗つた。この金盥かなだらひは、六人の子供に一つしかないので、部屋のまん中近くの臺の上に直ぐに載せられるやうなことはなかつた。また呼鈴ベルが鳴つた。全生徒は二人づゝ列を作つて、その順序のまゝ階段を下り、寒いぼんやりしたともつた教室へ這入つた。此處で、ミラア先生がお祈りをんで、それから彼女は叫んだ――
「組に分れなさい!」
 大變な騷々しさが數分間つゞいた。その間ぢう、ミラア先生は、「靜かに!」や「きちんと!」を繰返して叫んだ。靜かになつた時私は全生徒が四つの卓子テエブルの前に置いてある四つの椅子いすの前に、四つの半圓を作つたのを見た。一人殘らず手には本を持つてゐた。聖書のやうに大きな本が空席くうせきの前のそれ/″\の卓子テエブルの上に載つてゐた。生徒達の低いとりとめのない私語さゝやきで充ちた幾分かゞ續いた。ミラア先生はこの不分明な音をしづめに組から組を歩いて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。
 遠くの呼鈴ベルが鳴つた。間もなく三人の婦人がこの室に這入つて來た。銘々めい/\卓子テエブルについて座をめ、ミラア先生は四番目の空席くうせきに腰を下した。その椅子いすは戸口に一等近く、まはりには最年少の子供たちが集つてゐた。私はこの下級に加へられて、その末席ばつせきに坐らせられた。
 授業が始まつた。その日の短祷コレクトの諳誦、聖書のある節の講話、それに續いて聖書の句節の間の間伸まのびのした朗讀が一時間位行はれた。學課が終つた時にはもうすつかり夜は明けはなれた。四度目に、根氣こんきのいゝ呼鈴ベルが鳴つた。全級の生徒は整列して朝食てうしよくの爲めに別の室へと進んで行つた。何か食べられるといふ見込で、私はどんなに嬉しかつたことだらう。前の日に殆んど何も食べてゐなかつたから空腹くうふくで殆んど病氣になる程だつたのだ。
 食堂は大きな、天井の低い薄暗い室であつた。二個の長い食卓しよくたくには、何かしらあたゝかい物のはひつてゐる鉢から煙が出てゐた。ところが、面喰めんくらつたことには、食慾を起させるどころか、大變な臭氣を發してゐた。この食物の香りが、これを吸ふべく運命づけられてゐる、子供らの鼻にはひつたとき、明かに凡ての生徒には不滿の色が現はれた。列の先頭の上級生の大きい生徒は低い聲で云つた――
「胸が惡くなる! お粥ポリッヂをまたがしたんだわ。」
「靜かに!」といふ聲がした。ミラア先生ではなく、上席の先生の一人で背の低い髮の毛の黒い人で、きちんとした服裝をしてゐたが、氣むづかしい顏付で、一つの食卓しよくたくの上座に坐つてゐた。別にこの先生よりずつと肉付のよい婦人が他の食卓の上座を占めてゐた。私は前の晩にはじめて會つたひとを探したけれど、見當らなかつた。彼女は姿を現はさなかつたのであつた。ミラア先生は私の坐つた食卓の下座しもざに就いた。そして一人の見慣れない、外國人らしい年をとつた婦人――あとで佛蘭西語の先生だとわかつた――は別の食卓のおなじやうな下座についた。長い食前の祈りがあり、讃美歌がうたはれた。それから召使ひが先生の爲めにお茶を少しばかり持つて來た。そして食事が初まつた。
 おなかつてもう氣が遠くなつた私は、味なんぞ考へないで、私の分を一さじさじむさぼり食べたが空腹くうふくのせつない苦痛が和らいで見ると、實に不味まづい食物を手に持つてゐることがはつきりして來た。げたおかゆは腐つた馬鈴薯じやがいもとおなじ位ひどいものだつた。餓死しさうな人でもそれを食べればすぐにむか/\してしまふだらう。みんなの匙ものろ/\と動いた。どの子を見ても、自分の食物を口に入れて、つとめて呑み込んでゐたが、その努力は間もなく斷念されるのが多かつた。朝食は終つたが誰も朝食を濟ましたものはなかつた。この食べなかつたものに感謝の祈りが捧げられまた第二の讃美歌が歌はれてから、私たちは食堂を出て教室へと行つた。私は出てゆく最後の生徒の一人だつた。食卓を通り過ぎる時、一人の先生がおかゆの鉢を手にとつて味はつてゐるのを見た。その先生は他の先生の方を見た。先生の顏にはみんな不快な色が浮んだ。中で、頑丈ぐわんぢやう身體からだつきの先生が呟いた――
「ひどい御馳走だ! こんなものをすなんて!」
 授業が始まる前に十五分あつたが、その間中教室は大騷ぎだつた。この時間は大聲で、そしてずつと自由に話してもよいことになつてゐるらしかつた。それで生徒らは(自分達のこの特權を使用した)。みんなの會話は朝食のことでもちきりだつた。一人殘らずひど口汚くちぎたなくく罵つてゐた。可哀さうな子供たち! それが彼等の所有する唯一の慰安だつたのだ。ミラア先生は、その時この室にゐたたつた一人の先生で、彼女をとりまいて立つてゐる大きい生徒のむれは、眞面目なけはしい顏付で喋舌しやべつてゐた。私は或る生徒がブロクルハースト先生といふ名前を口にしたのを聞いた。それを聞くと、ミラアさんは非難するやうに頭を振つたが、彼女はみんなの怒をおさへるために、それほど努力もしなかつた――きつと彼女も一緒に怒つてゐたのだ。
 教室の時計が九時を打つた。ミラア先生は自分の仲間を離れて、教室のまん中に立ちながら叫んだ――
「靜かに! 着席!」
 規律きりつが守られた。五分の後に、今までゴタ/\になつてゐた群が整然となり、バベルの塔のおしやべり(喧騷)が止んで比較的靜肅せいしゆくになつた。上席の先生が、その時を違へずキチンとそれ/″\の受持に就いた。けれども、依然として、みんなは待つてゐるやうだつた。教室の兩側にある腰掛にそつて、八十名の生徒は身動みうごきもせず姿勢よく坐つてゐた。妙な集りに見えた。一人殘らずひたひから無造作むざふさに髮の毛をすき上げてゐて、捲毛まきげを縮らしてゐるものは見當らなかつた。のどもとまできちんとつまつた狹い襟のついた褐色の着物を着て、上着うはぎの前の方にお針袋はりぶくろに使ふことになつてゐる麻布の小さい袋(スコットランド人の財布のやうな型のもの)を結びつけてゐた。また一人殘らず羊毛製やうまうせいの長靴下と、眞鍮のびぢやうどめになつてゐる田舍出來ゐなかできの靴を履いて居た。こんな着物を身につけてゐる生徒の内約二十名以上は、十分生長した女の子であつた。と言ふよりむしろ若い婦人であつた。この人たちには、この着物は似合にあはなかつたし、大變綺麗な娘にさへ妙な風采を與へた。私はその娘たちをずつと見てゐた。また時々先生の方を吟味してゐたが――誰もまつたく私には氣に入らなかつた。何故なら頑丈な先生は少し下卑げびてゐたし、黒い毛の先生はひどく恐ろしかつたし、外國人の先生はガラ/\で變挺へんてこであつたし、ミラア先生は、可愛想に! 紫色でやつれ果てゝ、過勞くわらうで打ちのめされたやうな顏をしてゐたから。――すると、私が顏から顏へと眼を轉じてゐた時、全部の者が、共通のバネで、はじかれたやうに、一齊に起立した。
 何が起つたのか。私は命令なんか聞かなかつた。私は當惑した。私が氣をとりなほし、級の生徒が再び着席しない内に、しかし今や全生徒の眼が一點に向けられた時に、私の眼も、みんなの眼の方向のあとをつけて、前夜、私を應接おうせつしてくれた例の人に止まつた。この婦人は長い教室のの側の末席の方に立つて――兩側に煖爐だんろがあつたから――默つて、まじめな顏をして、二列の生徒を見渡してゐた。ミラア先生は近寄つて行つて、この婦人になにかたづねて、その返辭を得てから、自分の位置に戻つて、大きな聲で言つた。
「上級生の級長、地球儀ちきうぎを持つて來なさい。」
 命令が行はれてゐる間に、相談をうけた婦人は靜かに教室の上席の方へ歩いて行つた。私は生來餘程尊敬器官を持つてゐるやうに想へる。何故なら私の眼が畏敬ゐけいの念を持つて彼女の歩みの跡をつけたその時の氣持を未だ持ちつゞけてゐるからである。今一面に擴がつて居る太陽の光りで見ると、彼女は背が高く、色白の、恰好のよい樣子をしてゐた。虹彩こうさいの内に優しい光りをたゝへてゐる茶色の目と、それをかこんでゐる長いまつ毛が描いたやうに揃つてゐることが、彼女の大きなひたひの白さを殊更きは立たせてゐた。兩方の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみには、暗い褐色かつしよくの髮がその時の流行のやうに、――當時は撫でつけて捲いたのや、長い捲毛まきげは流行してゐなかつた――丸みをつけた捲毛でふさになつてゐた。着物はまたこの當時の型によつて、紫色の服地で出來てゐて、黒天鵞絨くろびろうどのスペイン風の飾りが目立つてゐた。金時計(時計はその當時現在ほど一般的ではなかつた)は彼女の帶の所で光つてゐた。この叙述をはつきりさせる爲めに上品な容貌すがた蒼白あをじろくはあつたがしみ一つない綺麗な顏、威嚴のある樣子態度を讀者に附言するならば、讀者は少くとも言葉の及ぶ限り精確に、テムプル先生――マァリヤ・テムプルと云ふこの名は、私がその時彼女から教會へ祈祷書を持つて行くやうに頼まれた時、その本に書いてあつたので知つたのであるが――の外觀が正しく解るだらう。
 そのローウッドの監督(この婦人は監督であつたが[#「監督であつたが」は底本では「監督あつたが」])は一つの卓子テエブルの上に置かれた一組の地球儀ちきうぎの前に坐つてから、自分のまはりに上級生を集めて、地理の授業をし始めた。下級の生徒たちは先生に呼ばれて、歴史や文法その他の諳誦が一時間程行はれ、その次に習字と算術が續けられた。テムプル先生は數人の年長ねんちやうの生徒に音樂を教へた。各の學課の時間は時計で計られてゐた。とう/\十二時が鳴つた。監督は立ち上つた。「私は皆さんにお話したいことがあります。」と口を切つた。
 授業が終つたので、既に騷々さう/″\しくなりかけてゐたのであつたが、彼女の聲で靜まつた。彼女は續けて云つた。
「あなた方は今朝朝食てうしよくが食べられなかつたのでせう。お腹がいてゐるに相違ありません。それでチイズ附のパンを晝食に皆さんに御馳走するように私は云つておきました。」
 先生たちは一種の驚きを以て彼女を見た。
「これは私の責任ですることなのです。」と彼女は先生たちに説明するやうな口吻くちぶりで附加へてから、早速教室を去つてしまつた。
 チーズ附のパンが早速運び込まれて、分配せられた。これは間もなく全生徒を大層よろこばせ、彼等に大層元氣を與へた。その時「校庭へ!」といふ命令が與へられた。どの生徒も染めたキャラコの紐のついた、粗末な麥稈帽子むぎわらばうしと灰色の粗羅紗あららしやの外套を着てゐた。私も同じ服裝をして、列について戸外に出た。校庭は、一目の遠望をも許されない程の高さの壁で圍まれた、廣い一區劃であつた。屋根のあるヴェランダが一方に續き、幅の廣い歩道に沿うて、中央の地面が幾つもの小さな花壇に仕切られてあつた。この花壇は、生徒たちが栽培さいばいする庭園として割當わりあてられてゐるのであつた。花が一杯咲き亂れてゐる時は、勿論綺麗に見えることであらうが、一月の終りに近い今では、すつかり霜でしぼんで、褐色に枯れてゐた。立ちながら、まはりを見たときに私は身慄ひした。戸外體操には、險惡けんあくな日であつた。雨が降つてゐるといふのではなかつたが、しと/\した黄色の霧で暗くなつてゐた。地面はすつかり、まだ昨日の大雨でジメ/\してゐた。生徒の中の丈夫さうな娘たちは走り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて活溌な遊戲をしてゐたが、五六人のあをい顏をした痩せた生徒達は、一緒に集つて、ヴェランダに身を寄せ、寒さをしのいでゐた。そして濃霧がこの娘たちの震へてゐる身體にこたへて行くので、彼等のうちに屡々力のない咳の音を聞いた。まだ私は、誰にも話もしなければ、また誰も私に注意するでもなかつたから、全くひとりぽつちで立つてゐた。しかし可成り孤獨のこのわびしさには慣れてゐた。――それはもう、大して苦痛ではなかつた。私はヴェランダの柱に寄りかゝつて、灰色の外套をしつかりと身に引き寄せ、外で私を苦しめる寒氣さむけと、内で私を惱ます滿されない空腹とを忘れようと努めて、視察と、もの思ひに耽つた。私の囘想はとりとめなく、斷片的であつたから、こゝに書き立てることは出來ない。私は未だ自分が何處にゐるのかはつきり知らなかつた。ゲィツヘッドと私の過去の生活は、ずつと遠い彼方かなたへ流れ去つたやうに思へた。現在は漠然として異樣なものであつた。そして將來について、私は何も想像出來なかつた。私は修道院に似た庭をずつと家の方まで見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。その家は大きな建物たてもので、その半分は灰色で古く見えた。そして殘りの半分はまつたく新らしかつた。――教室と寄宿舍のある新らしい方は、壁に仕切があり、格子かうしのある窓が光つてゐて、それはこの建物たてものに、教會風の樣子を想はせてゐた。入口の上にある石の額面に、次のやうな彫刻があつた。
『ローウッド學院インスティチユション――この校舍は基督紀元××年――當地ブロクルハースト・ホオルのネイオミ・ブロクルハーストに依りて再建せられたり。』
『斯くの如く汝等の光りを人の前にかゞやかせ、これ人の汝等が善き行爲を見て、天にゐます汝等の父をあがめんためなり、マタイ傳五章十六節』私はこの言葉を何度も何度も繰返へして讀んだ。これは説明してもらふ必要があると思つた。私はその言葉の意味に十分通ずることが出來なかつた。「學院インスティテユーション」といふ字の意味を考へながら、最初の言葉と聖書の句との間の關係を知らうとつとめてゐる時に、私の直ぐ背後で咳拂せきばらひがしたので頭を向けた。見ると近くの石の腰掛に一人の少女が坐つて、本の上に身をかゞめてゐた。この少女は全くその本に夢中になつてゐるやうに見えた。私が立つてゐる場所から、その本の表題を讀むことが出來た。それは『ラシラス』(Rasselas)といふ私に聞馴れない、從つて私の心を引附ける名であつた。頁をめくりながら彼女は偶然に顏を上げたので、私は直ぐ彼女に話しかけた。――
「あなたが讀んでゐらつしやる御本は面白いの?」
 私は、もうその時、數日後それを貸してもらふつもりであつた。
「私は好きです。」と彼女は、チラと一瞥して答へた。
「どんなことが書いてあつて?」と私は續けて言つた。私がこのやうに見知らぬ人に、どうして斯うあつかましく話しかけるやうになれたか、自分にもよく分らなかつた。――この行動は私の性質と習慣に反してゐた。――がしかしこの少女のしてゐることには、何んだか共鳴出來るやうな氣がした。と云ふのは、とりとめの無い、子供らしい讀者にしても、私はそれが好きだつたから。私には眞摯まじめな、しつかりした本は讀みこなすことも、理解することも未だ出來なかつた。
「あなた、御覽になつてもいゝわ。」と、娘は私に本を渡しながら云つた。
 私はその本を讀んで見た。一度目を通すと何んだか内容は表題みだしよりも心を惹かないやうに思へた。『ラシラス』は私のくだらない趣味には退屈のやうに思へた。小妖精フエアリイや魔神のことは何んにも見當らなかつた。素晴らしい變化が、この細かくられた頁にはみなぎつてゐるやうに思へなかつた。私は本を彼女に返した。彼女は靜かに受取つて、何も云はず元通りに只管讀み耽らうとした。私は又思ひ切つて彼女の邪魔をした――
「あの入口の上にある石に書いてあるのは何のことだか教へて下さらない? ローウッド學院インスティチユションて何のこと?」
「あなたが住みにいらしたこの家のことです。」
「では何故學院インスティテユションといふのでせう。他の學校と何か違つてゐるの?」
「半分慈善學校なのです。あなたも私もその他私たちはみんな慈善學校の子供なのよ。あなたは孤兒なんだと思ひます。お父さんかお母さんがいのでせう。」
「二人とも私の物心ものごゝろづかないうちにくなつてしまつたのよ。」
「さうですか。此處にゐる者はみんな親が片一方か、でなければ兩方ないかなのですよ。それで、こゝのことを親なし子を教育する學校と云はれてゐるのです。」
「私たちはお金を支拂はないの? 無料たゞで置いて貰つてゐるの。」
「一人に一年十五ポンドだけ私たちか私たちのお友だちかゞ支拂ふのよ。」
「ぢや何故私たちのことを慈善學校の生徒なんて云ふんでせう。」
「何故つて十五ポンドでは寄宿代や授業料には足りないんですもの。そして不足額ふそくがくは寄附で補ふのよ。」
誰方どなたが寄附してくれるの?」
「この近くや、倫敦ロンドンの色々な惠み深い婦人や紳士方が。」
「ネイオミ・ブロクルハーストつて誰?」
「あのがくに書かれてゐるやうに、この新らしい校舍を建てた方よ。その方の令息が、此處の萬事を管理して指揮していらつしやるの。」
「なぜ?」
「その方がこの學校の會計係で管理者なんですもの。」
「それではこの家はチイズ附のパンを食べるやうに仰しやつた、時計をつけた、あの背の高い婦人かたぢやないの。」
「テムプル先生のですつて? いえ、いえ、さうぢやないの。さうならいゝけれど。あの方は御自分のなさることには何んでも、ブロクルハーストさんに對して責任を持たなければならないの。ブロクルハーストさんは私たちの食物や着物をすつかりお買ひになるのよ。」
「その方は此處に住んでいらつしやるの?」
「いゝえ――二哩離れた大きなおやしきに住んでいらつしやるの。」
「いゝ方?」
「牧師さんだから良いことをいろ/\となさると云はれてゐるわ。」
「あの背の高い人はテムプル先生ですつて?」
「えゝ。」
「ぢや、他の先生方は何んといふ名前なの?」
「赤い頬をした方はスミス先生。裁縫を教へて下さるの。そしてちものもね。――何故つて衣類や上着うはぎや外套やその他色んなものを私たちは作るんですから。髮の毛の黒い小さい方は、スキャチャード先生で、この先生は歴史と文法を教へて、第二級の諳誦を聞いて下さる方です。そしてショールを着てゐる、黄色のリボンでハンカチを腰に結んでゐる先生はピエロさんです。この先生は佛蘭西のリールから入らしつたので、フランス語を教へていらつしやるの。」
「あなた、どの先生もお好き?」
「えゝ、大好きよ。」
「小さい髮の毛の黒い先生もお好きなの? それからマダム・ピエ――私、あなたみたいにその人の名を云ふこと出來ないわ。」
「スキャチャード先生は短氣たんきなのよ。――怒らせないように氣をお附けなさい。マダム・ピエロは惡い方ぢやないのよ。」
「だけど、テムプル先生が一番い方なんでせうね。」
「テムプル先生はとてもい方で頭もいゝの。先生は他の先生よりすぐれてゐらつしやるわ。だつて他の先生よりもずつといろ/\なことを知つてゐらつしやるんですもの。」
「あなたは、もう永いこと、こゝにゐらつしやるの。」
「二年。」
「あなたもみなし子なの?」
「お母さんがくなつたの。」
「こゝに來て、あなた、お仕合せ?」
「あなたは少しいろんなことを聞き過ぎるわ。私もこれで十分お答へしたことよ。もう私は御本が讀みたいの。」
 しかし、その瞬間に、夕食デイナー[#「夕食デイナー」はママ]を告げる呼鈴ベルが聞えた。皆は再び家に這入つた。その時食堂にみちてゐたにほひは、朝食の時私達の鼻についた、それと大して變りのない食慾を感じさせた。夕食デイナー[#「夕食デイナー」はママ]は、二個の、大きな錫張すゞばりの器で出された。その器からは惡臭のある脂のつよい白い湯氣ゆげが立つてゐた。見ると、この食物は、平凡な馬鈴薯じやがいもと古くさい肉の變な切屑とを一緒に煮てあつた。料理は、可成りり澤山で、一人々々に分けられた。私は食べられるだけ食べた。毎日の御飯がこんなのかしら? と心の中で案じられた。
 夕食デイナー[#「夕食デイナー」はママ]が濟んでから、私たちは直ちに教室に集つた。それから授業が始まつて、五時まで續けられた。
 午後にたつた一つ注意すべき出來事があつた。それは、ヴェランダでお話した少女がスキャチャード先生に叱られて、不面目にも歴史のクラスから追ひ出されて、大きな教室の眞中まんなかに立つやうに連れて行かれたことであつた。この罰は非常に不名譽に思はれた。特に、こんなに大きな少女に對しては――彼女は十三歳か、または、それ以上に見えた――。私は、彼女が困惑と羞恥しうちで色を失ふだらうと豫期してゐたが、驚いたことには、泣きもしなければ、顏を赧らめもしなかつた。眞摯まじめではあつたが、落ちついて立つてゐた。さうして、凡ての者の注視のまとになつてゐた。「どうしてかう靜かに――かうしつかりと――耐へてゐられるのだらうか?」私は自分に問うて見た。「若し假りに、私があのひとの立場にあつたなら、地面が割れて私をみこんでくれゝばよいと思つたことだらうに。彼女は、恰も自分の處罰しよばつ以外の――自分の立場以外の、何か身邊を離れたことを考へてゐるやうに見えた。私は白晝夢はくちうむに就いて聞いたことがある――彼女は今白晝夢に耽つてゐるのだらうか。眼をぢつと床上に注いではゐるが、それを見てゐないことは確かである。彼女の眼は内に向つてゐて、彼女の心の中へ入り込んでゐるかのやうに見えた。彼女は、今思ひ出せるものを考へてそれを見てゐるのだ。現在の現實を見てゐるのではないのだ。彼女は、どういふ風な少女なのかしら――いゝ人なのだらうか、横着わうちやくな人なのだらうか。」
 午後五時が過るとすぐ、私たちは、珈琲コーヒを小さい茶碗に一杯と、黒パン半切れの食事をした。私は、パンをむさぼり食ひ、珈琲コーヒ美味おいしく飮んだ。もうこれ位あれば、私は嬉しかつたらうが――私はなほもお腹がいてゐた。それから半時間の休息があつて、勉強時間となつた。次に、水一杯と一切れの燕麥の菓子、祈祷があつて床に就いた。これがローウッドに於ける私の第一日であつた。


 次の日も、前の日と同じやうに始まつた。起きて、薄明うすあかりで着物を着た。しかし、今朝は、私たちは顏を洗ふ儀式なしで濟まさなければならなかつた――水差みづさしの水が凍つてゐた。前の晩から天候が變つて、夜どほし寢室の窓の隙間すきまから、ヒユー/\音をたてゝ吹き込んでゐた、刺すやうな東北ひがしきたの風が、私たちを寢床ベッドの中でガタ/\ふるへさせ、水差みづさしの水を凍らせてしまつたのだ。
 祈祷と聖書朗讀の長い一時間半が濟まないうちに、私は、寒さで、死にさうな思ひをした。やつと朝食の時間が來た。今朝はかゆげてゐなかつた。食べるには食べられたが、りやうが少なかつた。私の分はなんてぽつちりしか見えないんだらう! この二倍もあればいゝのに。
 その日、私は、第四級の生徒の中に加へられ、正規の學課や仕事が定められた。今迄はローウッドに於ける進行過程やりかたの見物人に過ぎなかつたが、これからはその中の行動者になることになつた。初めは、諳記に慣らされてゐないので、私には授業が長くつてむづかしく思はれた。學課から次の學課へと、度々變るのもまた、私をまごつかせた。午後三時頃、スミス先生が、二ヤァドばかしのモスリンの端切はしきれを、針や指輪ゆびわと一緒に私に渡して、教室の靜かな隅つこの方へ引つぱつて行つて、このふちをとるようにと指圖さしづしてくれた時は嬉しかつた。その時間には大部分の者が同じやうに縫ひものをやつてゐた。だが、一クラスだけは、スキャチャード先生の椅子の周圍まはりに立つて、相變らず本を讀んでゐた。そして、すべてが靜かなので、彼等の課業の題目が、各生徒のやつてゆく態度や、その成績についてのスキャチャード先生の批評や讃辭と一緒に聞えて來た。それは英國史であつた。讀んでゐる生徒の中に、私は、ヴェランダで知り合つた少女を認めた。授業の始めには、彼女の席はクラスの首席にあつたが、何か發音の誤まりか、句點くてんの不注意のためにか、いきなり末席にやられた。彼女がそんな人目に立たない場處にゐても、スキャチャード先生は絶えず彼女を注意のまととしてゐた。スキャチャード先生はしつきりなしに、こんな言葉をその子に云つてゐた――
「バーンズ(これが彼女の姓らしかつた。此處の少女たちはみんな男の子のやうに姓で呼ばれてゐた)、バーンズ、あんたは片一方の足を曲げて立つてますね、まつ直ぐキチンと爪先つまさきを開くんです。」「バーンズ、とても不快に顎を突き出してますね、引込めなさい。」「バーンズ、頭を上げてゐらつしやい。先生の前でそんな態度は許せません。」など。
 一章を二囘反復すると、本を閉ぢて、生徒たちは試驗された。その課目は、チヤァルズ一世の治世の一部を含んでゐた。大抵の生徒が答へられないやうな噸税とんぜいや、一ポンド歩合料ぶあひれうや、軍艦建造税に關したいろんな問題があつた。だが相變らず、どんな少なからずむづかしいものでも、バーンズにぶつつかると即座に答へられるのだつた。彼女の記憶は、この學課全部の内容を知つてゐるやうに見えた。事實、彼女はどんな點についてでも答へられる用意があつた。私はスキャチャード先生が彼女の注意力をめるに違ひないと思つてゐたが、その代りに彼女はいきなり呶鳴どなりつけた――
きたならしい、いやな子ですねえ! あんたは、今朝けさ爪のお掃除をしなかつたでせう。」
 バーンズは答へなかつた。彼女の沈默は、私には不思議だつた。
「なぜ、水がこほつてたから、爪のお掃除も顏を洗ふことも出來なかつたと云はないんだらう。」と思つた。
 その時、スミス先生が一※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)かせ[#「一※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)の」はママ]糸を掛けてゐてくれと頼んだので、私は注意を轉じた。絲を捲きながら、彼女は時々私に話しかけて、前に學校にゐたことがあるかとか、肌着はだぎなんぞに名印なまへをつけたり、編物や縫物が出來るかなどゝたづねた。それで、彼女が私を放免するまで、スキャチャード先生の動作どうさに觀察をつゞけることが出來なかつた。私が自分の席に歸つた時、彼女は、なんだか意味の掴めない命令をちやうど與へてゐるところだつた。しかしバーンズは、直ぐに教室を出て、本をしまつてある小さい奧の室に入ると、一方の端がゆはへつけてある一たばの小枝を持つて半分もたないうちに[#「たないうちに」は底本では「ないうちに」]戻つて來た。彼女は、スキャチャード先生にうや/\しくお辭儀をして、その縁起えんぎの惡い道具を差出した。そして彼女は靜かに云ひつけられもしないのに前掛をとつた。すると先生は、直ぐ、その小枝の束で、はげしく彼女の頸を十二だけ打つた。一滴の涙もバーンズの眼には浮ばなかつた。この光景で、どうすることも出來ない感動に、私は指がふるへるので縫物をやめてゐるのに、彼女のもの思はしげな顏のかたちは、いつもの表情を少しも變へなかつた。
強情がうじやうな子だこと!」スキャチャード先生は叫んだ。「どんなことをしたつて、あんたのだらしのない癖は直りやしない。鞭を片づけなさい。」
 バーンズは云はれるまゝにした。彼女が書物部屋から出て來た時、私はじつと彼女を見た。彼女はちやうどハンカチをポケットにしまはうとしてゐた。そして涙のあとが痩せた頬に光つてゐた。
 夕方の遊び時間が、ローウッドの一日の最も樂しい時だと私は思つた。五時にみ込むパンのかけらと、一口の珈琲コーヒとは、空腹をたさないまでも、元氣を囘復させる。一日の長い緊張はゆるんで、教室が午前中よりあたゝかいやうな氣がした。――煖爐だんろの火は、まだ運ばれない蝋燭の代用として、幾らか少し餘計に明るく燃された。あかい薄明りと、許された騷ぎと、大勢の人聲のがや/\するのが、嬉しい自由な氣持を與へるのだつた。
 スキャチャード先生が彼女の生徒のバーンズを鞭でぶつた日の夕方、私は、お友達なしで、けれど淋しいとも思はないで、いつものやうに腰掛こしかけ卓子テエブルや笑つてゐる連中の間を歩いてゐた。窓の側を通ると、私は時々鎧戸よろひどを開けて外を見た。雪が劇しく降つてゐた。もう吹きたまりが、下の方の硝子ガラスにくつゝいてゐた。耳を窓につけると、室の中の樂し氣な大騷ぎと、外の物凄い風のうなりが聽き分けられた。
 多分、もしか私があたゝかい家庭と、やさしい兩親の側を離れたばかりだつたら、これこそ何よりも強く別離を悲しむ時間なのだらう。そして、あの風が私の心を悲しませ、この暗がりの混沌こんとんが私の平和をみだすのだらう。だが、親も家もない私だつたから、變な昂奮や向う見ずや熱狂からではあつたが、風がもつと劇しくえ、薄暗うすくらがりが暗黒になり、この混雜が大騷ぎになればいゝと思つてゐた。
 腰掛を飛び越えたり、卓子テエブルの下をつたりして、私は一つのの側へ行つた。そこで、高い針金製はりがねせいのストオブ圍ひの側に膝を突いたまゝ、燃えさしのほのぐらい光で本を相手に夢中になり、口もきかず、まはりに眼もくれないで讀み耽つてゐるバーンズを見つけた。
「まだ『ラシラス』なの?」彼女の背後うしろに行つて、私はいた。
「えゝ、」彼女は云つた。「丁度讀み終るところなの。」
 それから五分あまりのうちに、彼女は本を閉ぢた。私はうれしくなつた。
「さて、多分話をしてもらへるだらう。」と私は思つた。彼女に寄り添つて、私は床に坐つた。
「バーンズの外のあなたのお名前、何んて云ふの?」
「ヘレン。」
「遠いところから、此處へいらしつて?」
「私はね、ちやうどスコットランドの國境の、遠い北の處から來たの。」
「歸りたくはない?」
「歸りたいわ。だけど誰だつて未來さきの事はわからないわ。」
「ねえ、あなたはローウッドを離れてしまひたいのぢやないの?」
「いゝえ! なぜなの? 私は教育を受ける爲めにローウッドに寄越よこされたのよ。だから、目的をやりとげないうちに離れてしまへば、何にもならないでせう。」
「でも、あの先生ね、スキャチャード先生はとてもあなたにひどいんでせう?」
「ひどい? そんなことないわ! あの人はきびしいのよ。私の缺點をにくんでゐらつしやるの。」
「だから、もしか私があなたと代つてゐたら、私もあの先生を憎んでやるわ。反抗してやるわ。もしかあんなむちで私をぶたうものなら、私、あの人の手から引つたくつて、目の前でへし折つてしまうわ。」
「多分あなただつて、そんなことは出來ないわ。だけど、そんなことをあなたがしたら、ブロクルハースト先生は、あなたを退學させてしまふでせうよ。そんなことにでもなつたら、あなたの御親類の方なんぞ、とても心配なさるわ。早まつたことをして、あなたに關係のある人に迷惑をかけるより、自分だけしか感じない痛みをじつと我慢した方がずつといゝわ。それに聖書にだつて、惡に善をもつてむくいよつて教へてあるでせう。」
「だつて、鞭でぶたれて、人のいつぱいゐる室のまん中に立たせられるなんて、恥かしいと思ふわ、それに、あなたはもうそんなに大きいのに。私なんてあなたよりずつと小さいけれど、とても我慢出來ないわ。」
「でもね、あなたがそれをのがれられないのなら、その場合、我慢することがあなたの義務なのよ。我慢しなければならないことがあなたの運命なのに、それを我慢出來ないなんて云ふのは、弱い馬鹿氣ばかげたことだわ。」
 私は、不思議な氣持ちで、彼女の云ふことを聞いた。私はこの忍耐にんたいの教義を理解することが出來なかつた。まして彼女が自分をらしめる者に對して示した忍從には、理解することも同情することも出來なかつた。その癖、私には、ヘレン・バーンズが何か私の眼には見えない光でものを見てるやうに感じられた。彼女の方が正しくて、私が間違つてゐるのぢやないかといふ氣がした。だが私はそのことを深く考へたくなかつた。フエリクスみたいに、私ももつと都合のいゝ時まで、そんなことは延ばしてしまつた。
「ねえヘレン、あなたには缺點があるつて云つたでせう、どんなもの? 私にはあなたがとてもよく見えるのだけれど。」
「ぢあ、外見ぐわいけんで判斷しないやうに私から學ぶんだわ。私はスキャチャード先生が云つた通りにだらしがないの。物をきちんと置くことも滅多めつたにないし、きちんとすることも滅多めつた[#ルビの「めつた」は底本では「ぬつた」]にないの。不注意で、規則のことを忘れてしまつて、學課を勉強しなければならない時に本を讀んでしまつたりするの。方法つてものが立たないのよ。だから、時々、私もあなたのやうに、組織的な配列に從ふことに、我慢出來ないつて云ひ出すのよ。これがまつたくスキャチャード先生の氣にさはることなの。あの人は、生れつき綺麗好きで、几帳面きちやうめんで、嚴格なんですもの。」
「そして氣むづかしやで意地いぢわるで。」私は附け加へた。だけどヘレン・バーンズは私の追加を認めなかつたやうだ。彼女はやつぱり默つてゐた。
「テムプル先生もスキャチャード先生のやうにあなたにきびしいの?」
 テムプル先生の名を云つた時、彼女のまじめな顏にはやさしい微笑が浮かんだ。
「テムプル先生はほんたうにやさしいのよ。あの方には、どんな者にも、この學校中で一等惡い生徒にさへも、きびしくすることが苦しいのよ。先生は、私の過失あやまちを見て、靜かにそのことを云つて下さるの。そしてもしか私がめられてもいゝやうな事でもしたら、惜しまずにめて下さるのよ。私の性質が缺點だらけのものだつていふ立派な證據は、あんなにやさしい理解のあるテムプル先生の忠告でさへも、私の過失をなほす力を持つてないし、先生の賞讃も、私はそれをこの上もなく高いものに見てゐるのだけれど、それでさへ私に、絶えず注意深くして先のことをよく考へるつていふ氣持を起させることが出來ないのを見てもわかるわ。」
「變ね。」私は云つた。「注意深くしてゐることなんて、何んでもないぢやないの。」
あなたは無論さうなのよ。私、今朝クラスに出てゐるあなたを見てゐて、あなたがとても注意深い人だつてことがわかつた。ミラア先生が學課をやつてあなたに質問しつもんしてゐる時、あなたは決して氣を散らしたりしてゐないの。ところが私となると始終しじうどつかへ氣が散つてゐるのよ。スキャチャード先生の仰しやることをよく聞いて、何でも熱心に覺え込まなきやならない時でも、時々先生のお聲さへうつかり聞き流してしまふの、夢のやうなものに落ち込んでしまふの。時々、私はノオサムバランドにゐるんだと思ふのよ、そして、周圍まはりの騷々しさは、私の家の近くのディープデンを流れてゐる小さい川の泡立つ音だと思つてしまふの。――それから、私がお答へをする番になると、私は眼を醒まさなけれやならないでせう。すると、夢の中の小川に聞きれて、何を讀んでゐたか聞いてゐないものだから、私はお答への用意が何もしてないつてことになるの。」
「でも、今日は、隨分よくお答へをしたぢやないの。」
「ほんの偶然なの、私たちの讀んでゐたところが、私には興味があつたの。今日はディープデンの夢を見る代りに、正しい事をしようと望んでゐるものが、どうして、チヤァルズ一世が時々したやうに、あんなに不正な無分別むふんべつな行動をとれるのかしらと思つてゐたのよ。チヤァルズ一世があんなに圓滿な眞心のある人でありながら、王室の特權以上のものが見えなかつたといふのは、まつたく可哀さうな氣がするわ。もし彼に先見せんけんめいがあつて、いはゆる時代の精神つてものがどう傾いてゐるかゞ見とほせたらねえ。でも私はチヤァルズが好きなの――尊敬するの――氣の毒になるの、可哀さうな暗殺された王樣! さうよ、彼の敵が一等惡いわ。彼奴等あいつらは流す權利のない血を流したんだわ。どうしてあの人たちは王樣を殺すことが出來たんでせう。」
 ヘレンはもう獨言ひとりごとを云つてゐるのだつた。彼女は自分の云ふことが私にはよくわからないといふことを忘れてゐた――彼女の話す題目を私が何も知らない、でなくも知らないのとおんなじだといふことを。私は彼女を自分の高さレベルに呼び戻した。
「ではね、テムプル先生が教へてゐらつしやる時でも、あなたは氣が散るの?」
「いゝえ、ほんとに滅多めつたにないわ。何故つて、テムプル先生は、私の思ひ出よりもずつと新しいことを、大抵云つて下さるんですもの。あの方の言葉は、私には妙に氣に入るのよ。そしてあの方が教へて下さる知識は、いつもちやうど私が欲しいと思つてゐるものなの。」
「さう、ぢあテムプル先生と一緒だとあなたはいゝのね?」
「えゝ、受身うけみの形でね。私、努力なんかしないのよ。愛情に導かれてついて行くだけ。こんな善行には、何の功績もありはしないわ。」
「大ありよ。あなたは、あなたにとつて良い人には良くするんですもの。私いつもさうしたいと思つてゐたのよ。もしか殘酷ざんこくな惡い人達にいつも親切に云ふまゝになつてゐたら、惡い人達は自分のしたいことばかしするわ。そんな人たちは決して恐れを感じないでせう、だから、決して改めないで、たゞ益々惡くなる一方だわ。私たちが何の理由もないのにたれた時は、うんとひどく打ち返してやつていゝんだわ。私たちをぶつた人が二度と同じことをしないやうに教へてやる爲めには、私、さうしていゝと信じるわ。」
「あなたがもつと大きくなれば、あなたの考へ方も變るだらうと思ふわ。今はまだ、あなたは小さな何も教はつてゐない子供なんですもの。」
「だけど、私かう思ふのよ、ヘレン、私がどんなに氣に入るやうにしても、あくまで私をにくむ人を、私は憎まないではゐられないわ。私を不當ふたうに懲らしめる人に、反抗しないではゐられないわ。それは、私を可愛がつてくれたり、私が當然受けるべきだと思ふ罰をくれる人を、私が愛さなきやならないと同じやうに當然あたりまへなことだわ。」
「異教徒や野蠻な人種は、そんな教へを、今も持つてゐるでせう。だけど、基督教徒や文明國の人たちは、そんなものをしりぞけるのよ。」
「どうして。私、わからないわ。」
「憎しみに何よりも強くうち勝つものは暴力ではないの――危害をほんたうに確かにいやすものは復讐ではないのよ。」
「では何?」
「新約聖書を讀んで、基督キリストの仰しやつたことや、なすつたことをよく考へて御覽なさい。基督キリストのお言葉をあなたの規則に、行ひをあなたのお手本にするのよ。」
基督キリストは何て仰しやつたの?」
爾曹なんぢらの敵をいつくしみ、爾曹なんぢらのろふ者を祝し、爾曹なんぢら[#ルビの「なんぢら」は底本では「ねんぢら」]を憎む者を善視よくし、虐遇迫害なやめせむるものゝ爲に祈祷せよ。」
「ぢや、私はリード夫人を愛さなきやならないの、そんなこと、とても出來ないわ。あの人の息子むすこのジョンの爲めにお祈りをするの、そんなこと無理だわ。」
 今度は、ヘレン・バーンズが私に説明を求めたので、私は私のやり方でもつて、自分の受難と鬱憤うつぷんの物語を早速はじめた。昂奮して來ると、私は毒々どく/\しげに殘酷ざんこくになるので、遠慮せず、緩和くわんわせず、思つた通りを話してしまつた。
 ヘレンは辛抱強くおしまひまで聞いてくれた。私は彼女が何か云ふかと待つてゐたが、彼女は何も云はなかつた。
「ねえ、リード夫人は、殘酷な、いけない人ぢやなくて?」私は待ちきれなくなつていた。
「確かにあなたに對して不親切だつたわね。だつて、その方も、スキャチャード先生が私が嫌ひなやうに、あなたの性質せいしつが嫌ひなのよ。ね、さうでせう。だけどまあ、なんてあなたは小さな事まで、その人が云つたり、したりしたことをすつかり覺えてるんでせう。その人のひどい行ひがあなたの心によく/\特別な深い印象を與へたのねえ! 私の心にはどんな虐待ぎやくたいだつて、そんなに燒きつけられはしないのよ。もしかその人のひどいことを、あなたが受けた腹立たしい氣持ちと一緒に忘れようと考へてみたら、あなたはもつと幸福になれはしない? 私には人生は、うらみを心に懷いたり、惡いことを丹念に書きとめたりして過すのには、あんまり短かすぎるやうに思へるの。私たちは、この世では一人殘らず、罪の重荷を負つてゐるのよ。負はなければならないのよ。だけど、私たちがこのちてしまふ肉體をぎ捨てることによつて、その重荷も捨てゝしまふ時が間もなく來ると、私は信じてゐるの。その時には醜いものや罪惡がこの邪魔な肉體と一緒に私たちから消えてしまつて、たゞあとには靈のひらめきだけが――神さまの御手を離れて人の中に吹きこまれた時のやうに、純粹な感覺では知ることのできない生命と思想の要素が、殘るのよ。それは來たところへまた歸つてゆくの。多分また人間以上のものに――多分榮光の段階を通つて、人の魂の光のかすかさから天使の輝やかしさに、移つて行くのかも知れないわ。反對に人間から惡魔にちるなんてことは、きつとありはしないわねえ? いゝえ、そんな事は決してないと思ふわ。私は誰から教はつたのでもない信條をもう一つ持つてゐるのよ、滅多めつたに云はないのだけれど。でもそれは私をよろこばせ、私はそれに縋つてゐるのよ。だつて、それは、總てのものに希望を與へ、永遠を安息所に――恐怖でも地獄でもない、立派な家にするの。その上、この信條で、私は、それははつきりと罪人と、そのおかした罪とを區別することが出來るの。だから私は罪を憎んでゐても、罪を犯した人は眞心からゆるせるのよ。この信條を持つてゐれば、私の心はどんな場合でも復讐ふくしうに惱まされたり、墮落にひどきずつけられたり、不義の爲めにぺしやんこくじかれたりしないで濟むの。私は、最後のものを見つめながら、靜かに生きてゐるのよ。」
 いつもうなだれてゐるヘレンの頭は、彼女がこの言葉を云ひ終つたとき、前よりも少し低く下つた。彼女の顏色で私は、彼女がもうこれ以上私と話したくないことが、いやむしろ自分の心と話さうとしてゐるのがわかつた。だが、彼女は瞑想めいさうする多くの時間を許されはしなかつた。級長の、大きいがさつが、強いカムバァーランドなまりで怒鳴どなりながらやつて來た――
「ヘレン・バーンズ、あんた、行つて抽斗ひきだしの中を片づけて、お仕事をたゝまなけれや、私、スキャチャード先生に云ひつけて、見に來ていたゞくわよ!」
 ヘレンは、彼女の默想が消えてしまふと、そつと溜息ためいきをついた。そして立ち上つて、返辭もせず、ためらひもせず、級長の命令に從つた。


 ローウッドの最初の學期は、一世紀のやうに思はれた。それも決して幸福な時代ではなく、新らしい規則や馴れない學課に自分をらすといふ厄介やくかいな困難と鬪はねばならなかつた。それらの點で失敗しくじるといけないといふ懸念けねんは、うまれつきな身體の弱さにも増して私を惱ました。その身體の弱さの苦勞も並大抵なみたいていではなかつたが。
 一月、二月と、三月の始めの間は、深い雪と、雪解けの後の、殆んど歩くことも出來ぬ道路とは、私たちが、教會へ行く以外は、庭の垣の向うへ出ることをさへはゞんだ。が、この限られた區域の内で、毎日一時間は屋外そとで過さねばならなかつた。私たちの着物は、きびしい寒さを防ぐには十分ではなかつた。私たちは、長靴を持つてゐなかつたし、雪が靴の中に這入つて來て中でけるし、手套てぶくろを嵌めない手は、すつかりかじかんで、兩足と同じく、凍傷とうしやうが出來てゐた。この爲めに、毎晩足がほてつて來ると、氣が狂ふほど痛がゆいのを我慢したことや、ふくれて、生身が出て、固くなつてゐる爪先つまさきを毎朝の靴中に押込むときの痛さを、私はよく覺えてゐる。それから、食事の貧弱なあてがひはみじめだつた。發育どきの子供のさかんな食慾を持ちながら、私たちは弱々しい病人の生命をつなぐのにも殆んど足りない程の物を食べてゐた。この榮養不良から一つの弊害が起つた。そして、より幼い生徒たちをひどく苦しめた。と云ふのは、おなかかした大きな少女等は、機會さへあれば、下級生をすかしたり脅したりして、彼等の分前わけまへを掠めたのだから。私は、お茶の時にくばられた貴重な黒パンのきれを二人の請求者の間に分けたことが幾度もあつた。三人目の人に珈琲コーヒの半分を遣つて、迫り來る空腹くうふくに堪へられないで、人知れず泣きながら、珈琲コーヒの殘りを呑み込むやうなことが幾度もあつた。
 さうした冬の季節には、日曜日はみじめな日であつた。私たちは、二マイルの道を、私たちの保護者が司祭しさいするブロクルブリッヂ教會へ、歩いて行かなければならなかつた。私たちは、出かける時にもえてゐたが、教會へ行き着くと、一層冷たくなつてゐた。朝の禮拜の間、私たちは殆んど感覺を失ふのであつた。晝食ちうじきに歸るには餘りに遠過ぎたので、普段の食事に定められてゐるのと同じほどの、吝々けち/\した分量の冷肉とパンのお辨當が、禮拜の合間にくばられた。
 午後の禮拜が終ると、私たちは吹きさらしの丘陵道をかみちを通つて歸つた。雪の積つた連山の頂きから北へ吹きすさぶ、烈しい冬の風は、殆んど私たちの顏の皮をぐばかりであつた。
 私はテムプル先生が、うな垂れてゐる私たちの列に附き添つて、身輕に元氣よく歩いてゐたのを思ひ出すことが出來る、いてつくやうな風が吹き上げる縞羅紗しまらしやの外套を、しつかと身に引きしめてゐられるのや、私たちが心を引き立てゝ、先生の云はれる「勇敢な兵士」の如く、前進するやうに、訓言や、たとへばなしなどで、私たちをはげましてゐられたのを思ひ出すことが出來る。可哀さうに、他の先生たちは、みんなひど意氣沮喪いきそさう[#ルビの「いきそさう」は底本では「いきさう」]して、他人ひとはげますどころではなかつた。
 私たちが歸りついた時に、あか/\と燃える火の光と熱とを、私たちはどんなに思ひこがれたことだらう! しかし、少くとも幼ない生徒には、この望みは充たされなかつた。教室の煖爐は、どれも、素早く、大きな少女たちが二列に取り卷き、そして、その背後うしろには、小さい子供たちが、痩せた兩手を前掛にくるんで、かたまつてうづくまつてゐた。
 お茶の時間には、小さな慰安なぐさめがあつた。いつもの二倍の大きさの――半切れの代りに一切れの――パンが、薄くバタを塗つて、與へられた。これは私たちみんなが、安息日あんそくびから次の安息日まで、待ちこがれてゐた七日目毎の御馳走であつた。私は、いつも、このたつぷりある御馳走の半分を自分自身のために保存しようとつとめたのだが、その殘りを、私は已むを得ず他人ひとと分け合はねばならなかつた。
 日曜日の夜は、教會問答と馬太傳第五、六、七章を諳誦することと、おさへ切れない欠伸あくびに、疲れの見えるミラア先生が讀み上げる、長いお説教を聞くことに過ごされた。これらのプログラムの間には、頻繁ひんぱんな間の手がはひつた。それは眠むさに征服されてしまつた小さい少女たちが、五六人づゝユテコの役を演じて、三階の窓からではないが四列目の腰掛から落ちて、半分死んだやうになつて起されるのだ。手當てとしては、彼等を教室の眞中まで押出して、お説教が終るまでそこに立たせて置くことであつた。時時、彼等の足はかなくなつた。さうすると、彼等は折重なつて倒れ、それから級長の高い椅子で、支棒つゝかひぼうはれるのであつた。
 私はまだブロクルハースト氏の訪問のことを云はなかつたが、事實、私が此處へ着いてから一月の間は、殆んど自家うちにゐなかつたのだ。大方、彼の友人の副監督のところで逗留とうりうを長びかしてゐたのだらう。が兎に角、彼の不在は、私には救ひであつた。私には彼が來るのをこはがる私自身の理由があつたことは云ふまでもない。しかし、とう/\彼は歸つて來た。
 或日の午後(その時は、私がローウッドに來て三週間になるが)、私は石板せきばんを手にしてむづかしい割算わりざんの答を出すのに困つてゐたが、茫然ばうぜんと窓を眺めた私の眼に、ちやうどそこを通り過ぎる人が見えた。殆んど直覺的に、私はその骨つぽい輪郭りんくわくを識別した。二分の後に、全生徒が、先生たちも一緒に、起立きりつした時には、私はもう誰のお出を皆がお迎へしたかを確かめるために見上げる必要はなかつた。長い足が大胯おほまたに教室をよぎつたと思ふと直ぐ、起立してゐたテムプル先生の側に突立つたのは、ゲィツヘッドの爐邊ろへんの敷物の上から、氣味惡く私をにらみつけたあの黒い柱のやうな人であつた。私は、その時、この建築材料のやうな人を横目で見た。さうだ、それはフロック型の外套をボタンで留め合せて、以前よりも一層のつぽで、痩せて、骨ばつてゐるやうに見えるブロクルハースト氏であつた。
 私は、この出現によつて、周章うろたへ理由わけを持つてゐた。私は、リード夫人が私の性質などに就いて云つた不實な報告や、ブロクルハースト氏が、私のいやな性質のことをテムプル先生やその他の生徒たちにきつと話すと約束したことなどを、よくおぼえてゐたからだ。これ迄ずつとこの約束が果されるのを、私は怖れてゐた――『歸り來る人』が現はれるのを、毎日待つてゐた。私の過去の生活に關する話が、その人の口から洩れゝば、もう私は永久に惡い子供として烙印やきいんを押されることになるのだから。その人が今、そこにゐるのだ。彼は、テムプル先生の側に立つて、何やら小聲で耳打ちしてゐた。私は、きつと私のした惡事をすつかりぐちしてゐるのに違ひないと思つたので、今にもあの黒目がちの眼球が、いとはしげな、さげすんだ眼付を私に向けるだらうと心待ちにしながら、心配に胸を痛めてじつと彼女の眼を見つめてゐた。そして耳もすました。ちやうどよい工合に、私は教室の一等前の席にゐたので、彼の云つてゐることが大抵聞きとれるのだ。話の題目がわかると、私は當座の不安から救はれてほつとした。
「ロートンで買つた糸ですな、テムプル先生、あれは多分役に立ちませう。キャラコの肌着はだぎにはちやうど適當な品です。針も糸に合つたのをりました。縫針ぬひばりの方は、おぼえけておくのを忘れたと、あなたからスミス先生に云つて下さらんか。しかし、來週には屆けるやうにします。そして、どんな事情があらうとも、一人の生徒に對して、一度に一本以上與へてはならぬと云ふことも、云つて置いて下さい。餘計に持つと不始末ふしまつになり易く、失ふものです。それからと、あゝそれ/\、毛絲の靴下をもつと氣を付けて貰はんと困りますな!――この前に來た時、私は、臺所の庭に行つて、綱にかけてある洗濯物をしらべてみたが、大分手入れの惡い黒い長靴下が澤山ありました。いてゐる穴の大きさから見ると、あれは確かに時々つくろつたものぢやありませんな。」彼は息をついた。
「先生のお指圖さしづ通りに、氣をつけますようにいたします。」とテムプル先生は云つた。
「それから、」と彼は續けた。「洗濯女せんたくをんなの話では、生徒の中に一週間に二本、洗つたえりを使ふのが居るさうだが、それでは多過ぎる、規則では一週に一本と限つてある筈だが。」
「その事では、私が事情をお話し申し上げたいと思ひます。前の木曜でございましたが、アグニスとカスリン・ジョンストンが、ロートンで四五人の友だちの[#「友だちの」は底本では「友併ちの」]お茶にばれましたので、さういふ折ならと、私が洗つたえりを着けてもよいと許したのでございます。」
 ブロクルハースト氏は點頭うなづいた。
「成程、まあ一度はよろしい、宜しいが、どうかその事情といふ奴を、あまり度々、顏を出させぬように願ひます。それから外のことですが、驚いたことには、まかなひの決算を見ると、この二週間の間にパンとチイズの間食かんしよくが、二度も生徒に支給されたことになつてゐるが、これはどうした事情ですかな? 私は、規則を點檢して見たのですが、間食かんしよくといふ食事の項は一向に見當らない。一體、こんな改革を斷行したのは誰です? 如何なる權利をもつてしたのです?」
「そのお話ならば、先生、私の責任でございます。」とテムプル先生は答へた。「あの日は朝食が大さう不出來で、子供等はとても食べられない程でございました。それで、私は皆がお晝食ちうじきまで斷食するのを見てゐられなかつたものですから。」
「いやマダム、少しお待ち下さい。御存じだと思ひますが、この子供たちを育てるに就いての私の方針は、贅澤ぜいたくと放縱に馴れさせようと云ふのではない、彼等を不屈ふくつにし、忍耐に富ませ、克己力こつきりよくを養はせるにあるのです。假に今のやうな食事の出來そこなひだの、料理のこしらへかたがよすぎるだの、惡すぎるだのと云ふ類ひの、取るに足りない食慾の不滿を生じる場合があつたとしてもですな、その消滅した慰安より以上のもので埋め合せて、その偶然の出來事を中和させるなどゝ云ふことがあつてはならない。さういふやり方は、肉體を増長させ、また本校の趣旨しゆししりぞけるものです。であるから、その場合には、そのやうな一時的な缺乏にも耐へ得るといふ證據を見せるように彼等を激勵する、といふやうな方法で、事件を生徒たちに精神的薫陶くんたうを與へる材料にしてしまはなければ駄目です。さうした機會をはづさず、貴重な一言を與へるのは、最も當を得たものと思ひます。賢明な教師は、原始基督教徒の樣々な困苦艱難や、殉教者の苦難や、十字架を負ひて我に從へと弟子たちを導き給ふ、我等の尊き主御自身の御教訓や、その他、『人はパンのみにて生くる者に非ず、唯神の凡のことばによる』といふ主の御いましめ、或は『若し爾曹なんぢら我が爲に飢ゑかわく事あらば爾曹なんぢら幸なり』といふ主の御慰めなど、すべてこれらを引用する機會をそこに持つ譯です。あゝ、實に、あなたが子供等の口に焦げついたかゆの代りに、パンとチイズをやられるといふ事は、彼等の滅ぶる肉體を養ひ得るかも知れないが、しかしあなたは彼等の不滅の靈魂をいかばかり飢ゑしめるかを殆んど考へてはゐられない。」
 ブロクルハースト氏は再び口をつぐんだ、多分感に迫つて口が利けなくなつたのかも知れなかつた。テムプル先生は、最初彼に話しかけられた時は伏し眼になつてゐたが、今は眞直に前を凝視みつめてゐた。そして何時も大理石のやうに白い顏は、今はその石の冷やかさと固さをも具へたやうに見えた。殊に彼女の口は、彫刻家ののみの力を借りなければ開かぬものゝやうにかたくしまり、ひたひは次第に石のやうな峻嚴しゆんげんさにすわつてゐた。
 一方ブロクルハースト氏は、手を後に組んで、爐邊ろへんに立ち、傲然がうぜんと全生徒を見渡してゐた。突然、彼は、瞳を何かに打たれたか、くらませられたかのやうにパチとまばたいて振向きざま今迄よりもずつとせきこんだ調子で云つた――
「テムプル先生、テムプル先生、な、なんです、その毛をちゞらした子は? その赤毛の――ちゞらした、全部縮らしたやつ――」そして彼は、ステッキを伸して、そのおそるべき目的物を指示さししめしたが、その手はぶる/\震へた。
「あれはジェリア・セヴァンでございます。」と、極めて靜かな聲で、テムプル先生は答へた。
「ジュリア・セヴァン、ふむ! では何故なぜ、あの子は、あの子でなくても誰でも、捲毛まきげなんぞがあるのです? 何故、この福音的な學院の中で、すべての校規校則かうきかうそくを無視して――頭に捲毛まきげの束をくつゝけて、公然と世間にならふ必要があるのです?」
「ジュリアの髮は生れつきちゞれて居ります。」とテムプル先生は、一層靜かな聲で云つた。
「生れつき! ふん、しかし我々は自然に任せてはならん。私はこの娘達に特に神のめぐみを受けてゐるものになつて貰ひ度いと思つてゐる。ではそのふさ/\してゐるのはどういふ譯ですか? 髮は飾りけなくつゝましく固くひなさいと、あれ程繰返し/\云つてあるのだ。テムプル先生、その子の髮はすつかりつてしまはなければいけません。明日床屋をよこす事にします。それに外にもまだ、この無用の長物ちやうぶつ矢鱈やたらと持つてゐる娘が大分あるやうだ。――その背の高い子だ、その子に向うをむけと云つて下さい。最上級生全部に起立して眞直まつすぐに壁の方を向けと云つて下さい。」
 テムプル先生は、思はず浮かんだ唇の微笑を拭ひ去るやうにハンカチを口に當てたが、しかし號令がうれいはかけた。何を命じられたか合點が行くと、最上級生はおとなしく從つた。私は、少し腰掛のうしろにもたれて、この動作どうさに對する批評を下してゐる、みんなの眼くばせや、しかめつ面を眺めた。可哀さうに、ブロクルハースト氏にはそれが見えないのだ。だが何事によらず、彼にすることは杯や皿の外側そとがはに止まり、内の方には想像以上に彼の干渉の屆かないことを、彼も多分感づいてゐたであらう。
 彼は生きたメタルたちの裏がはをものの五分間もジロジロとしらべ、さて次の判決を下した。その一言々々はとむらひの鐘の音のやうに響いた――「みんなのこのまげつてしまはぬといかん。」
 テムプル先生は、反對の容子を見せた。
「マダム、」と彼は言葉を續けた、「私は、この世ならぬ王國に君臨し給ふ主に、仕へまつる者です。この娘たちの肉體的な欲望を抑制することが、私の使命だ。んだ髮や贅澤ぜいたくな着物を捨てゝ、羞恥しうちと誠實を身に付けるようにと云ひきかせることが私の使命だ。ところが、此處にゐるお孃さん方は、編下あみさげにした長い髮を持つておいでになる、虚榮心で固められた人間がやりさうなことである。で、繰返して申上げるが、斷然つてしまはなければなりません。その爲めに浪費する時間を思ふと――」
 この時、ブロクルハースト氏はさまたげられた。また三人のお客樣、貴婦人たちが教室に現はれたのだ。この人たちはもう少し早く來て、ブロクルハースト氏の服裝に關するお講義を聞くべきであつた。みんな天鵞絨びろうどや絹や毛皮にくるまつた素晴すばらしいなりをしてゐるのだ。中で若い二人(十六と十七の美しい令孃)は、その當時の流行の駝鳥だてうの羽毛を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した鼠色の海狸かいりの帽子を冠り、その優雅なかぶりものゝつばの下からは、念入りにカァルしたふさ/\とたつぷりある明色の捲毛がこぼれてゐた。年長ねんちやうの婦人は、てんの皮でふちをとつた高價な天鵞絨びろうどのショールに包まれ、フランス風な捲毛の附け前髮をつけてゐた。
 この貴婦人たちは、ブロクルハースト氏の夫人及び令孃として、テムプル先生に恭々うや/\しく迎へられ、室の上席の名譽席めいよせきしやうじられた。多分彼女等は尊敬すべきその肉親と共に馬車でおとづれ、彼が取締りと事務を處理したり、洗濯婦に質問したり、監督者に説教したりしてゐる間中、二階の部屋々々をの目たかの目でアラ探しをしてゐたらしい。さて彼等は、今度は寄宿舍の監督と下着類の責任を持つてゐるスミス先生にむかつて、いろ/\と注意をしたり、小言こごとを云つたりしてゐたが、もう私には彼等が何を云つてゐるか聞く暇がなかつた。
 今迄、ブロクルハースト氏とテムプル先生との會話を拾ひ集めてゐた間は、同時に自分自身の安全をまもる爲めに私は警戒を怠らなかつた。見つけられさへしなければ、うまく行くだらうと思つたので。かうもくろんだので、私は、腰掛にずつと深く腰をかけ、さも計算にせはしいふりをし、顏を隱すやうな恰好かつかう石板せきばんを抱へ込んでゐた。だから、私の石板が謀叛氣むほんぎを出してうつかり手からすべり脱けなかつたら、そして無遠慮な音を立てゝ碎けて、いきなり皆の眼を私の方に向けさせなかつたら、多分私は見付けられずに濟んだかも知れないのだけれど。もう駄目だとさとつた私は、二つに割れた石板せきばん缺片かけらかゞんで拾ひながら、最惡の場合に處する爲めに、勇氣をふるひ起した。時は來た。
「不注意な娘だな!」ブロクルハースト氏は云ふより早く、「あれは新入生しんにふせいだな、違ひない。」そして私が息を吸ひ込む間もなく「あの娘のことでは一言注意しなけれやならん。」それから大きな聲で――なんて私には、大きな聲だつたらう! 「その石板せきばんこはした子を前に出しなさい!」
 自分から進んで動くことは、私には出來なかつた――身體はしびれてしまつてゐた。だが、兩側にゐた二人の大きな娘が、私を引立てゝ恐しい裁判官の方に押しやつたので、テムプル先生は、やさしく私を彼の足下に導いた。私の耳には、彼女の囁く慰めの言葉が響いた。
こはがらないでねジエィン、あやまちだと分かつてますからね。ばつしたりはしません。」
 親切な囁きは、短劍のやうに、私の胸にはこたへた。
「次の瞬間が來る。するとテムプル先生は、私のことを僞善者だとさげすんでしまふ。」私は思つた。さう信じると、私の脈搏の中には、リード、ブロクルハースト一味の人々に對する火のやうな忿怒ふんぬの衝動が湧き立つた。私は、決してヘレン・バーンズではなかつた。
「その腰掛を持つて來なさい。」ブロクルハースト氏は、ちやうど級長が立ち上つたばかりの高い腰掛をして云つた。それははこばれた。
「その子を、その上に立たせなさい。」
 さうして、私はその上に載せられた――誰に載せられたのか私にはわからなかつた。小さなことまで注意するやうな場合ではなかつたから。私は、たゞ、みんなが私をブロクルハースト氏の鼻の高さに引揚げたことゝ、私から一ヤール足らずの所に彼が居り、オレンヂと紫色の玉蟲織たまむしおりの絹の上衣うはぎと、銀の羽毛飾はねかざりの雲が一區域だけ、私の下に擴がつたり波立つたりしてゐることだけわかつた。
 ブロクルハースト氏は咳拂せきばらひをした。
淑女みなさん、」彼は、自分の家族の方を向いて、さう云つた。「並びにテムプル先生、諸先生、子供たち、誰方どなたもこの子供を御覽でせうな?」
 勿論、彼等は見てゐた。私の熱いひたひには、彼等の眼が火取ひとりレンズのやうに燒きつくのが感じられた。
「御覽の通り、この子は、まだ若い、姿、形も普通の子供である。神樣は、御寛大にも、我々すべてに與へ給うたと同樣の形をこの子供にも與へられた。特に異常な性質を持つてゐるといふしるしになる畸形きけいな點があるわけでもない。まつたく、この子供が、既に惡魔の下僕しもべで、その身代みがはりであらうとは誰が思ひ得ようか。しかも悲しむべし、事態じたいはその通りなのである。」
 話がちよつととぎれた――その間に、いよ/\運命は決した、もう今となつては、避けることの出來ない試練を、完全に耐へ忍ばなくてはならぬと悟つた私は、麻痺まひした神經をしつかりさせようとしはじめた。
「親愛なる子供たちよ、」黒大理石くろだいりせきのやうな牧師は、悲しみを籠めた聲音こわねで云つた。「これは悲しむべき憂鬱な機會である、といふのは、私の義務として恐らくは神の小羊こひつじ一匹ひとつであつたかも知れぬこの娘が、實は一人の墮落もの――眞の羊の群に屬する者ではなく、明らかに僞者にせものであり、嫌はれものであるとお前たちに注意しなければならぬからだ。お前たちは、この子を警戒して、決してこれにならつてはいけない。また、もし必要な場合には、この子とは仲間にならずともよろしい。遊びのものにしても、口をいてやらなくても構はない。先生方もどうかこの娘をよく監視して戴きたい。擧動に目を付け、口にする言葉を考量かうりやうし、行爲を一々嚴重に審査して、彼女の魂を救ふ爲めに彼女の肉體を罰していたゞきたい――もしも、斯の如き救ひが可能ならば。何故なら、(私の舌はどもつて云へない程だが)この娘は、この子供は、この基督教國キリストけうこく生れの人間は、梵天王ブラアマに祈を捧げ、ジャガノオト(印度神話クリシュナ神の偶像)の前にひざまづく、あまたの異教徒の子供にも劣る……この娘は……うそつきなのである!」
 さて、そこに十分間の休憇があつた――その間、この時にはもうすつかり氣を落ちつけてゐた私は、ブロクルハースト氏の婦人たちが各自ふところ手巾はんけちをとり出して、それを眼に當てるのを見た。その間、年とつた一人は身體を前後に搖り、若い二人はひそ/\私語さゝやき合つた。「まア、どうでせう!」
 ブロクルハースト氏は、またはじめた。
「これは、この娘の恩人、敬虔けいけんな慈悲深い貴婦人から聞かされた事實である。その婦人は、この子を孤兒こじの境界から引きとり、我が子同樣に育てられたのである。然るにその親切と寛容くわんように報ゆるに、この不幸なる娘はかくもいま[#ルビの「いま」は底本では「いは」]はしく恐しき忘恩を以てしたので、遂に彼女の立派な恩人が、己が幼い子供らの純潔を、この娘のむべき例によつて、けがされることを憂ふるの餘り、止むなく彼女をひき離すに到つたほどであつた。で、その婦人は、あたか往時わうじ猶太人ユダヤじんが病人をベテスダの池に送つたやうに、この娘の病氣をなほす爲めにこの學校へ送られたのである。で、私から先生方にも學監にもお願ひしたい。どうかこの娘の周圍の水をよどませぬように注意して戴きたい。」
 この素晴すばらしい結論と共に、ブロクルハースト氏はフロック型の外套の一番上のボタンを合せ、立ち上つた家族へ何か小聲で云ひ、テムプル先生に會釋ゑしやくして、さうして、このえらい人々は、物々もの/\しい容子で、室をり出した。わが裁判官は入口でふり返つて、云つた――
「もう三十分、そのまゝ腰掛の上に立たして置きなさい。今日中は、誰も彼女に口をいてはなりませんぞ。」
 それから、私は、高くのぼつたまゝ、そこにゐた。曾てはこの室の眞中まんなかに自分の足で立たせられる恥辱ちじよくさへ堪へ得ないと云ひ放つた私が、今は汚名をめいの臺上に衆目を集めてさらされてゐた。私の感情がどんなだつたか、とても言葉にも表はせない。しかし、ちやうどありとある感情が一時に湧き立つて、息を止め咽喉のどを締めつけてゐた時に、一人の少女が來て、私の側を通つたのである。通り過ぎようとして、彼女は眼を上げた。おゝ何といふ不思議な光がその眼をえたゝせたことか! なんと素晴しい感動をその光は私に與へたことだらう! そしてその新らしい感情が如何に私をはげましたか! それはあたかも殉教者や英雄が奴隷どれいや犧牲者の側を通つて行く途中、彼等に力を傳へたやうなものだつた。私はこみ上げるヒステリイをおさへつけ、昂然と頭を上げ、そして腰掛の上にしつかりと立つてゐた。ヘレン・バーンズは、スミス先生の學課で、何か質問しつもんをしに行つたのであつた。そしてくだらない質問だと叱られて席へ歸つたが、その時また私の側を通り、私を見て微笑ほゝゑんだ。おゝその微笑! 私は今も忘れない。それは眞の勇氣と叡知えいちの溢れたものだ。それは彼女の特色のある顏付や、痩せた頬や、くぼんだ灰色の眼を、恰も天使の姿から放つた光のやうに、輝かした。しかもその時、ヘレン・バーンズは腕に「怠け者のしるし」を留めてゐたのだが。つい一時間も前にヘレンは練習問題を寫してゐて汚したといふことで、スキャチャード先生から、明日パンと水だけの晝食ひるを貰ふといふ罰を與へられたのだ。世に完全な人はない。最も強く輝く月のおもてにもこんな缺點はあるものだ。そしてスキャチャード先生のやうな人の眼は、そんな些細ささいな缺點ばかりが見えるのみで、天體の強い光線には全く盲目めくら同然なのだ!


 半時間たぬうちに、五時が鳴つた。學校は退けて、みんなはお茶に食堂の方へ行つてしまつたので、私は思ひ切つて降りた。眞暗まつくらだつた。私は、隅の方へ引込んで、ゆかの上に坐つた。これまで私の心を支へてくれた魔力が解けはじめて、反動が起ると直ぐ、襲つて來た悲しみに激しくつぶされて、私は俯向けに仆れた。私は泣いた。ヘレン・バーンズはこゝにゐなかつたし、何も私を支へてくれるものはなかつた。たつた一人になつて、私は落膽がつかりしたのだ。涙は床板ゆかいたぬらした。私は、よい子になり、ローウッドでいろ/\なことをしようと思つてゐた――大勢、お友達をこしらへて、あたゝかい友情や尊敬を得ようと思つてゐた。既に私はめざましい進歩をした。しかも、今朝私はクラスの首席になつた。ミラア先生は、やさしく私をめて下さつた。テムプル先生も微笑ほゝゑんで、褒めるやうな風を示して下さつた。そして畫をく事を教へて上げよう、それからもしも私がもう二月の間おなじやうな進歩をつゞけたなら、佛蘭西語を教へようと約束して下さつた。それからまた、私は仲間の生徒たちの受けもよかつたし、同じ年頃の人たちにも、對等に附合つきあはれ、誰からもいぢめられたりすることもなかつた。今私は、こゝにまたも、打ちのめされ、踏みにじられてゐるのだ。この上、もうき上ることが出來ようか? 「駄目だ」と私は思つた。そして本氣に死なうと思つた。この願ひを泣きじやくりながら、とぎれ/\云つてゐるとき、誰かゞ近づいて來た。私は飛び上つた――またヘレン・バーンズがすぐ傍にゐたのだ。消えかけの火が、この長い空虚くうきよな部屋に彼女がはひつてくるのを示した。彼女は私の珈琲コーヒとパンを持つて來てくれたのだつた。
「さあ、少しお食べなさい。」と彼女は云つた。けれど、今の場合では、一滴の飮物のみものでも一ぺんのパンでも咽喉のどをつまらせるやうな氣持がしたので、私は兩方とも押しやつてしまつた。ヘレンは、多分びつくりして、私を見たのだらう。私は、隨分苦心したけれど、自分の取亂した氣持をしづめることは出來なかつた。私は聲を出して泣きつゞけた。彼女は寄り添つて床の上に坐り、兩腕で膝を抱いて、その上に頭を置いた。そんな風にして、彼女はまるで無言のぎやうをしてゐる印度インドの坊さんのやうにだまつてゐた。やがて、最初に口を切つたのは、私の方だつた――「ヘレンさん、あなた、どうして、みんながうそつきだと思つてゐるやうな子と一緒にゐるの。」
「みんな? ジエィン、なあに、あの時、あなたがあんなことを云はれたのを聞いてゐたのは、たつた八十人ぢやないの。世の中には何千萬つて人がゐるわ。」
「だつて、何千萬の人に何の係合かゝりあひがあるの? 私の知つてる八十人は、私を輕蔑けいべつするわ。」
「ジエィン、あなたは間違つてゐてよ。多分、學校中で一人だつて、あなたを輕蔑したり、嫌つたりする人はないわ。きつと多くの人が、あなたを隨分可哀さうだと思つてるわよ。」
「ブロクルハーストさんがあんなことを云つたのに、どうして、みんなが私を可哀さうだなんて思へる?」
「ブロクルハーストさんは神樣でもなければ、立派な尊敬されるやうな人でもないわ。あの人は、こゝではちつともかれてないのよ。かれるやうなことは、一度もしなかつたんですもの。あの人が、もしあなたを特別なお氣に入りのやうにするのだつたら、あなたのまはりには、影にも日向ひなたにも敵が出來たかも知れない。でもさうぢやないから、みんな、出來ればあなたに同情したいのよ。先生も生徒も、一日か二日は冷淡れいたんにあなたを眺めるかも知れないけれど、心の中には親切な氣持ちが隱してあるのよ。だから、あなたが我慢がまんしてよくしてゐれば、その氣持ちが、暫くの間しつけられてゐただけ、ずつとはつきり現はれて來ると思ふわ。それにね、ジエィン――」彼女は言葉を切つた。
「何? ヘレンさん、」私は手を彼女の兩手に置いて云つた。彼女は、それをあたゝめようと、私の指をやさしくこすりながら云ひつゞけた――
「もし世界中の人が、あなたを憎んだとしても、そしてあなたを惡者わるものだと信じたとしても、あなたの良心りやうしんが、あなたの正しいのを證明し、あなたを罪から解くならば、あなたはお友達なしではないわ。」
「えゝ、私も、自分を正しいとは思はなければならないといふことは知つてゐてよ。でもそれだけでは十分でないの。他の人たちが私を可愛がつてくれないのなら、生きてるより死んだ方がましだわ――獨りぽつちで憎まれてるなんてことは出來ないわ、ヘレンさん。あのねえ、私、あなたかテムプル先生か、それとも誰か、私がしんから愛する人の眞實の愛を得る爲めになら、自分の腕の骨さへ喜んで折らせるわ。でなきや、牡牛をうしに私を突かせてもいゝし、跳ね馬の背後うしろに立つてゐてひづめを私の胸にぶつけさしてもいゝわ――」
「しッ! ジエィンさん。あなたは、人間の愛のことを考へ過ぎてゐるわ。あんまり一で、あんまり烈しいわ。あなたの身體をつくつて、それに生命いのちを與へて下さる神樣の御手は、あなたの爲めに、弱いあなたの肉體や――あなたのやうに弱い人々の肉體以外にたよりになるかてを用意して下すつたのよ。この世界や、この人間の種族の外に、目に見えない世界、靈魂の王國があるのよ。その世界は私たちをとりまいてゐるのよ、何故なら、到るところにあるのだから。そしてさういふ靈魂は、私たちを見守つてゐてくれるの、何故なぜつて、それは私たちを護る使命を持つてゐるんですから。そして、もし私たちが苦しみやはづかしめを受けて死なうとしたり、四方八方から輕蔑けいべつされたり憎まれたりすれば、天使は、私たちの苦しみを御覽になつて、私たちの罪のないことを認めて下さるのよ。(若しも私たちが潔白けつぱくであるのなら。ブロクルハーストさんがリード夫人からの受け賣りで、根據もないのに、大げさに吹聽ふいちやうしたこの嫌疑けんぎを、あなたは受けてゐる譯がないのを、私が知つてゐるやうに。何故つて、私は、あなたの輝かしい眼や、曇りのない顏に、あなたの誠實せいじつ[#ルビの「せいじつ」は底本では「せうじつ」]な性質を讀むことが出來るからだわ。)それから、神樣は十分な報酬むくいを私たちに下さらうと、私たちの身體からたゞ靈魂が離れるのを待つてゐらつしやるのよ。だから、生命いのちは間もなく過ぎてしまふもので、死は幸福への――光榮への確かな入口だのに、私たちは苦しみに負けて弱つてしまふなんてことはない筈ぢやない?」
 私はだまつてゐた。ヘレンは私を落ちつかせた。けれども彼女の與へた靜けさの中には、云ひあらはすことの出來ない悲しみがまじつてゐた。彼女の話を聞いてゐるうちに、私は悲しみで胸が一杯だつた。けれども、それがどこから來たものか、私には云へなかつた。そして、話が終つて、彼女が少しせはしく呼吸いきをつぎ、短いせきをするのを聞くと、私は、漠然と彼女のことが心配になつて、しばらく自分のかなしみを忘れてしまつた。
 私は、頭をヘレンの肩に置いて、腕を彼女の腰にまはした。彼女は私を引き寄せた。そして私たちはだまつて身動みうごきせずにゐた。かうして坐つてゐると、間もなく、また別の人がはひつて來た。重々おも/\しい雲が、一陣の風に吹き拂はれて、月をあらはした。そして月の光が傍らの窓から流れて、私たちと、近づいてくる人の姿とを一杯に照らしたので、直ぐにそれがテムプル先生だといふことがわかつた。
「あなたを探しに來たのよ、ジエィン・エア。」彼女は云つた。「ヘレン・バーンズもゐるのね、一緒に來なさい。」
 私たちは行つた。監督さんのあとについてその室に行くまでには、こみ入つた通路を縫うて、一つの階段をのぼらなければならなかつた。部屋には、火がよく燃え、心地こゝちよげに見えた。テムプル先生は、ヘレン・バーンズに、煖爐だんろの傍の低い肱掛椅子ひぢかけいすにかけるようにと云つて、彼女は別のに坐り、私を側に呼んだ。
「もうすんだの?」彼女は私の顏を見下しながらたづねた。「悲しいことはみんな泣き盡してしまひましたか。」
「とても駄目なやうな氣がしますの。」
「なぜなの?」
「でも、私は、間違つて罪におとされたんですもの。先生、あなたも、他の人たちも、みんな、今は私を惡者だと思つてゐらつしやるわ。」
「私たちは、あなたがどんな子だか、あなたの所作しよさ通りに考へませう。そのまゝで、いゝ子のやうにやつてゐらつしやい、さうすれば私は滿足するのよ。」
「私に出來るかしら? テムプル先生。」
「出來ますとも。」と彼女は、私を腕で抱きながら云つた。「ではね、ブロクルハーストさんがあなたの恩人だと云つてゐらつしやる女の方は誰方どなたなの?」
「リード夫人、私の伯父さまの奧さんなの。伯父さまがくなられて、その人が世話することになつたの。」
「では、その方は、御自分のお考へで、あなたをお世話なすつたのではないの?」
「えゝ、あの人、さうしなければならないのが、面白くなかつたんですの。ですけど、よく女中たちが云つてましたわ、伯父さまは、お亡くなりになる前に、いつまでも私を手許てもとに置くことを、あの人に約束させたんですつて。」
「さう、ではね、ジエィン、あなたも知つてるでせう? でなかつたら、これだけ教へてあげませう。罪人が告訴こくそされた時には、いつでも自分の辯護の爲めに口を利いてもよいことになつてゐます。あなたは間違つて嫌疑けんぎを受けてゐます。あなたの出來るだけ、私に辯護をして御覽なさい。あなたの記憶が本當だといふことは何でも仰しやい。たゞ、一つでも、つけ加へたり、誇張したりしないようにね。」
 私は、心の底で、最も控へ目に、最も正確にしようと決心した。そして、云ふべきことを秩序ちつじよ立てるためにちよつと思案して、自分のみじめな子供時代の話をすつかり彼女に話した。その悲慘な物語を、だん/\つゞけて行くうちに、昂奮のために疲れて、私の言葉は平常いつもよりもずつと抑へられてゐた。そして私は、無暗に人をうらんではいけないといふヘレンの心からの警告を忘れなかつたので、いつもよりはずつと控へ目に、膽汁たんじふ苦蓬にがよもぎ[#ルビの「にがよもぎ」は底本では「はがよもぎ」]怨恨毒意)を、その話に注ぎ込んだ。このやうに抑制よくせいされ、簡單にされて、私の話は、ます/\眞心ほんとうらしく聽えるのだつた。私は、話しながら、テムプル先生が、十分に私を信じてゐると感じた。話の途中に、私は、あの發作ほつさのあとで、私をて呉れたロイドさんのことも云つた。何故つて、私は、あの、私にとつては、恐ろしい、赤い部屋のエピソオドを決して忘れることが出來なかつたから。その事をくはしく話すうちに、私は、確かにいくらか制限を越えて、昂奮してしまつた。だつて、リード夫人が、許して下さいといふ私の死身しにみの歎願を無情にも刎付はねつけて、二度私を暗い幽靈の出る部屋に閉ぢ籠めた時に、私の心を掴んだ苦悶の痙攣けいれんやはらげる何ものも、私の記憶にはなかつたのだ。
 私は話し終つた。テムプル先生は、しばらくの間、だまつて私を凝視みつめてゐたが、やがて云つた――
「ロイドさんのことなら、私も少しは知つてますから、手紙を出してみませう。もしあの人の返事があなたの話と一致すれば、あなたは青天白日せいてんはくじつです。私にはね、ジエィン、あなたはもう青天白日ですよ[#「青天白日ですよ」は底本では「晴天白日ですよ」]。」
 彼女は、私に接吻して、そして私を側に引き寄せたまゝ、ヘレンに話しかけた。(そこに、私は滿足して立つてゐた、何故つて、彼女の顏や、着物や、一つ二つの飾りや、白いひたひや、ふさ/\した艷々つや/\しい捲毛まきげや、輝やかしい黒瞳ひとみをじつと見てゐると、子供らしい歡喜が湧いてくるからだ。)
「今夜はどう、ヘレン? 今日、せきはひどかつて?」
「そんなでもなかつたやうですの。」
「それから胸の痛みは?」
「少しよくなりました。」
 テムプル先生は、立ち上つて、彼女の手をとつて脈をみた。それから彼女は自分の席に戻つた。席に着くとき、彼女の低い溜息が聞えた。彼女は、少しの間、物思ものおもはしげだつた。が、やがて身を起しながら、快活に云つた――
「だけど、あなた方は、今夜、私のお客さまだつたのね。ぢあ、お客さまらしくおもてなしをしなくつちや。」彼女は、呼鈴ベルを鳴らした。
「バアバラ、」彼女は、呼鈴ベルに應じて來た女中に向つて云つた。「私はお茶がまだだつたから、お盆を持つて來て頂戴。それから、このお孃さん方のお茶碗もいつしよに。」
 やがてお盆が運ばれた。私の眼には、火の側の小さな圓い卓子テエブルの上に置かれた陶器の茶碗や光つた急須きふすが、どんなに美しく見えたらう! 飮物の湯氣ゆげ燒麺麭トーストの香りが、どんなにかかうばしかつたらう! だが、その燒麺麭は、驚いたことに(私はひもじくなりはじめてたので)ほんのぽつちりしか分け前がなかつた。テムプル先生もそれに氣づいた。
「バアバラ、バタ付きのパンをもすこし貰へないの? 三人には、足りないわ。」
 バアバラは、出て行つたが、すぐ歸つて來た。
「先生、ハァデンさんは、いつもだけ差上げたと、申しますが。」
 ハァデンさんは、(讀者の御注意を願ひ度いが)家政婦でブロクルハースト氏そのまゝの心意氣こゝろいき、そのまゝの鯨骨くぢらぼねと鐵との構成分子こうせいぶんしで出來てゐた。
「では、よろしい!」とテムプル先生は答へた。「私たちはこれで間に合せて置かねばならないんでせう、バアバラ。」
 そして、その退がると、彼女は微笑ほゝえみながら云つた。「いゝあんばいに、今度だけは、足りない分を私の手で都合がつけられるのよ。」
 ヘレンと私を卓子テエブルに近づかせ、各自めい/\の前に、美味おいしさうなしかし薄い燒麺麭トーストの切れと、お茶のコップを置くと、彼女は、立ち上つて、抽斗ひきだしを開け、そこから紙にくるんだ包みを取り出して、直ぐ、私たちの目の前に、大きなシードケーキを開いた。
「これは、あなた方の持つて歸るおみやげに、切つて上げようと思つてゐたけれど。」と彼女は云つた。「でも燒麺麭トーストが、あんまりぽつちりしかないから、こゝでお上りなさい。」そして、彼女は、それを物惜しみなく分けはじめた。
 私たちは、その夜、神樣の召し上り物ともいふやうな御馳走をいたゞいた。そして、そのもてなしの中でも、とりわけ嬉しかつたのは、たつぷりある御馳走で、死にさうな食慾をみたしてゐる私たちを、じつと見てゐる女主人の滿足氣まんぞくげ微笑ほゝゑみだつた。
 お茶も濟み、お盆が引かれると、彼女は、また、私たちを火の側に呼びよせた。私たちは、彼女の兩側に坐り、話は、今は彼女とヘレンの間に續けられた。それを聞くことを許されたのは、まつたく特典と云つてよかつた。
 テムプル先生は、いつも彼女の容子に何か靜かなほがらかなものを、態度にどことない威嚴ゐげんを、言葉にはひんよく穩かなものを持つてゐた。さうした彼女の氣分には、熱烈な言葉や昂奮した語調の方へれさせず、また、彼女を見、その言葉に耳を傾けるものゝ享樂的な氣持ちを抑制よくせいするやうな畏敬ゐけいの感じで、きよめる何ものかゞあるのであつた。これが、その夜の私の感じだつた。だが、ヘレン・バーンズに就いては、私は、たゞもう驚きに打たれるばかりだつた。
 氣持ちを爽かにする食物、輝かしい火、好きな先生との對面と、その先生の親切、いや、多分そんなことよりも、ヘレン自身の特別な頭にある何ものかゞ、ヘレンに力を振ひ起たせたのだ。その力は、目醒めざめ、燃えた。そしてまづ、今まではあをざめたのないものとしか見えなかつた、彼女の頬のあざやかな紅となつて輝き、次には彼女の眼のうるほひにみちた艷となつて光つた。その眼は、テムプル先生のよりも、もつと不思議な美を不意に現はした――美しい色や、長い睫毛まつげや、描いたやうな眉の美ではなくて、意味と動きと輝きの美だつた。それから、彼女の魂が唇に宿つて、みなもとのわからない言葉が流れ出した。清純な、漲り切つた、熱烈な雄辯の溢れ出るいづみを支へきるほど、そんなに大きな、そんなに強い心を、十四歳の少女が持つてゐるだらうか? かうした印象が、私には忘れられぬ晩の、ヘレンの話の特徴であつた。彼女の魂は普通の人々が長い生涯の間生活するのと同じほどの景を、非常に短い時間の内に生活しようと、いそいでゐるやうに見えた。
 二人は、私が今迄に聞いたこともないやうなことを――昔の民族や時代のこと、遠い國々のこと、自然界の既に發見された、或は推測すゐそくされた祕密等を語り合つた。彼等はいろ/\な本に就いても話した。なんて澤山の本を讀んだのだらう! なんて知識の蘊蓄を持つてることだらう! それに彼等は佛蘭西の有名な人の名前や佛蘭西の著作者などに就いても、大層よく知つてゐるやうだつた。だが、テムプル先生が、ヘレンに、父親に教はつたラテン語を忘れぬようにたまには勉強してゐるかと訊ねて、書棚から一册の本をとり、『ヴァアジル』の中の一頁を讀んで、解釋かいしやくするようにと云つた時、私の驚嘆は頂點に達した。ヘレンは云はれた通りにした。私の尊敬の念は、讀み上げて行く一行毎に大きく擴がつた。彼女が讀み終るか終らない時に、呼鈴ベル就寢時しうしんどきを知らせた。ぐづ/\してはゐられない。テムプル先生は、二人を胸に引きよせて、「神樣の祝福がありますように、私の子供たち!」と云つて我々を抱きしめた。
 ヘレンを、彼女は、私よりもすこし長く抱いてゐた。彼女は、ヘレンの方をもつと未練らしくはなした。彼女の眼が入口の方まで見送つたのは、ヘレンであつた。彼女が二度目に悲しい溜息ためいきを吐いたのは、ヘレンのためだつた。ヘレンのために、彼女は頬の涙をぬぐつたのであつた。
 寢室しんしつに近づくと、スキャチャード先生の聲が聞えた。彼女は机の抽斗ひきだしを檢査してゐるところだつた。彼女がちやうどヘレン・バーンズのを抽き出したところへ、私たちが這入つて行くと、ヘレンはいきなり鋭い叱責しつせきで迎へられた。そして明日は、ごちや/\にたゝんであつた品物を半打はんダースばかり、彼女の肩に縫ひつけとかなければならないと云はれた。「私のものは、ほんたうに恥かしい程、くしや/\だわ。」とヘレンは、低聲こごゑで囁いた。「私、ちやんとしようと思ふのだけれど忘れてしまつたのよ。」
 次の朝、スキャチャード先生は、臺紙だいしの一ぺんに目立つた字體で「不精者ぶしやうもの」といふ言葉を書きつけて、お護符まもりかなんぞのやうにヘレンの廣い、やさしい、怜悧れいりな、おとなしいひたひに結びつけた。彼女は、それを夕方まで、我慢してうらみもせず、當然受くべき罰としてつけてゐた。スキャチャード先生が午後の課業を終へて立ち去るが早いか、私はヘレンのところに飛んで行つて、それを引きちぎつて、火の中に投げ込んだ。ヘレンの哀しいあきらめの容子は、私の胸に堪へきれない痛みをもたらし、彼女には感じられない憤怒いかりが、まる一日私の心に燃えつゞけて、熱い大粒おほつぶの涙が、絶え間なく、私の頬にやけつくやうだつた。
 上述の出來事から一週間程後、ロイドさんに手紙を出したテムプル先生は、彼の返事を受け取つた。彼の云つた言葉は、私の辯解を裏づけたやうだつた。テムプル先生は、全校の生徒を集めて、ジエィン・エアに對して云ひ立てられたとがに就いてなされた穿鑿せんさくを報告し、ジエィンが全ての疑ひからまつたく潔白であると云ひ得る自分は最も幸ひだといふことを發表した。先生たちは、私と握手し、接吻してくれた。そしてよろこびの囁きが私の仲間の列に走り傳はつた。
 このやうに、悲しい負擔ふたんから救はれて、私は、その時から、新しく仕事を始めた。あらゆる困難の中にも、自分の途を開拓しようと決心した。私は一生懸命に努力した。そして成功は努力に隨つて到つた。もと/\強くはなかつた私の記憶力も、練習によつて進歩した。練習が私の知識をみがいた。數週間の内に私は上の級に進んだ。二ヶ月たない内に、私は佛蘭西語と繪を始めることを許された。同じ日に、私は動詞 Etreエートル の一番はじめの二つの時制テンスを習ひ、第一番の小屋(ちなみに、その壁は、傾斜けいしやの點ではピサの斜塔をしのいでゐた。)を寫生した。
 その夜、床に這入つてから、私は、熱い燒馬鈴薯やきじやがいもや、白いパンと新しい牛乳やを、パアミサイドの晩餐のやうに頭の中で調とゝのへるのを忘れてゐた。それで、私は、いつも自分の心の、肉の食慾を樂しましてゐたのだ。その代りに私は暗闇くらやみの中に見える想像の畫で自分を樂しませた。それは、私の手に成つた作品の全部、思ひのまゝに描いた家や、繪のやうに美しい岩や廢址はいし、カイプが好んで描く家畜の群、蕾の薔薇の上を飛びまはる蝶や、れた櫻桃さくらんぼついばむ小鳥や、眞珠のやうな卵のはいつた、若いつたの小枝にまきつかれた、鷦鷯みそさゞいの巣など――であつた。私は、また、心の中で、マダム・ピエロが、その日見せて下すつた、ある小さな佛蘭西の物語の本を、すら/\と解釋かいしやくする力が自分にあるかと考へて見たが、その問題を解かぬうちに、心持ちのいゝ眠りにおちてしまつた。
 ソロモンは、うまいことを云つてゐる――
『愛のこもれる草の食事は、憎惡のじれるえたる牡牛をうしのそれにまさる。』
 今はもう、私はよろづ不自由なローウッドを、ゲィツヘッドと、そこでの毎日の贅澤ぜいたくな生活とに取換へようとは思はなくなつてしまつた。


 しかし、ローウッドの不自由、といふよりも寧ろ苦難くるしみは、だん/\少なくなつて來た。春が近づいたのだ。事實、春はもうおとづ[#ルビの「おとづ」は底本では「おと」]れてゐた。冬の霜は止み、雪も解け、身を切るやうだつた風もなごやかになつた。一月の刺すやうな空氣に、いびつになるほどふくれ上つてちんばを引いてゐた、あはれな私の足も、四月のやさしいいぶきを受けて、跡形もなくなほり始めた。私たちの血管の血までもこほらすほどのカナダらしい氣温の朝夕もいつか過ぎ去り、私たちは、もう遊技いうぎ時間をお庭で過すことに耐へられた。折々、晴れた日などには、却つて樂しく心地こゝちよいとさへ思ふやうになつた。そして一日々々と、朽葉くちは色の花園がよみがへつて、青々あを/\となつてゆくのを見ると、夜「希望」がそこを横ぎるのだと云ふ考へが浮かんだ。さうして、一朝毎に、より美しい彼女の足跡を殘していつた。まつゆき草、さふらん、紫櫻草、金いろの眼の三色菫ぱんじいなど、花は、葉の間から覗いてゐた。私たちは、木曜の午後(半どんの日)の散歩を始めた。さうして、途ばたの生垣いけがきの下に、もつと美しい花が咲いてゐるのを見つけるのだつた。
 私はまた、庭の高い忍返しのびがへしのある塀の向うには、地平線より外に遮るものもない、大きなよろこびやたのしみがあることを發見した。それは、廣々とした丘の凹地くぼちをとりまいてゐる氣高い連山の、こまやかな青緑と陰影の多い見晴しや、黒い岩や泡立つ渦にみちた輝かしい溪流を見ることであつた。あの鋼鐵色の冬空の下で、霜にこほり雪に被はれてゐた時とはこの同じ風景は何と云ふ違ひなのだらう!――死のやうにひややかな霧が、凍風の吹き荒むまゝに、紫いろの峯に沿つて立ち迷ひ、流に籠めたこほつた靄にまじるまで、「野原」や中洲にころげ落ちかゝつてゐた時とは! その時は、この溪流でさへくものもなく濁つた急流であつた。さうして森を切れ/″\にちぎり、もの凄い響きを遠く響かせ、豪雨や渦卷くみぞれたびにいつも水嵩みづかさを増したのだつた。また流の土堤の林と云へば骸骨の行列としか見えなかつたのだ。
 四月は五月へと進んだ。それは輝いた落ちついた五月であつた。來る日も來る日も、青い空と、明るい陽光と、やさしい西風や南風に溢れた一月ひとつきであつた。さうして、今こそあらゆる植物は、生々と生命に滿ちて成熟した。ローウッドは髮をきほぐした。どちらを見ても、緑と花ばかりになつた。大きな骸骨のやうな楡や※(「木+岑」、第3水準1-85-70)とねりこや樫なども、堂々と、いかめしい生活を恢復した。森林地には、木がその奧底から躍動してをつた。無數の異つた種類の苔が、その凹地くぼちを埋めて、咲き亂れた野生やせい櫻草さくらさうの中から、不思議な地面の光を放つてゐた。とても美しい光を飛び散らしたやうに、私は、蔭つた場處で、その蒼白い黄金こがねいろのかゞやきを見た。これらのすべてを、私は、人に見られずに、殆んど獨きりでたのしんだ。このめづらしい自由とたのしみには、一つの[#「たのしみには、一つの」は底本では「たのしみに、は一つの」]原因があつた。屡々十分に自由にそれを、私は、語らなくてはならない。
 私は、住居が森や丘にいだかれ、流れに沿つてゐると云つたが、そこは住むのにたのしい場所ではないだらうか。確かに、十分愉しい、併し健康によいか否かは別問題として。
 ローウッドにある森の低地は、深い霧と、その霧から發生する流行病の搖籃であつた。それが、すべてのものをよみがへ[#ルビの「よみがへ」は底本では「オみがへ」]らす春に蘇つて、この孤兒院こじゐんひ込み、ぎつしり詰つてゐる教室と寄宿舍にチブスを吹きこんだ。さうしてまだ五月にならない内に、學校を病院に變へてしまつたのである。
 半飢餓はんききんとうつちやり放しの風邪かぜが、大部分の生徒を傳染し易くさせてゐたので、八十人の少女等の中、五十五人が一時に病みついた。學級は崩れ、規律はゆるんだ。健康を保つてゐる僅かな生徒に對しては、醫者が頻繁ひんぱんな運動の必要を固く主張したので、殆んど無制限の自由が與へられた。それに假令たとへさうでなかつたとしても、彼女等を監視し束縛する暇を持つてゐる者は誰もゐなかつたのだ。テムプル先生の心遣ひは、まつたく病人たちに奪はれてゐた。彼女は夜にほんの二三時間の休息をとる外は、決してそこを離れず、病室で暮した。先生たちはみな、傳染病の巣から、進んで、自分を引き取つてくれる餘裕のある知人や親戚しんせきを持つてゐる、幸福しあはせな少女たちの出發の爲めに、荷造りをしたり、その他必要な支度をしたり、手一ぱいに働いてゐた。もう既にをかされてゐる多くの少女たちは、たゞ死ぬ爲めに家へ歸るのであつた。あるものは、學校で息を引きとり、病氣の性質が猶豫を許さなかつたので、靜かに手速てばやはうむられた。
 こんな風に病氣がローウッドの居住者となり、死が頻繁な訪問者となつてゐる間に、ローウッドの塀の中に暗影とおそれがひそんでゐる間に、部屋や廊下に病院の匂ひが流れ、藥品や香料が死の惡臭をさうとむなしい努力をしてゐる間に戸外の生々とした丘や、美しい森林地には、あの晴れやかな五月が曇りなく輝いてゐた。學校の花園もまた、花でかゞやかしく飾られた。蜀葵たちあふひは木のやうに高く伸び、百合ゆりは開き、鬱金香チユーリップや薔薇が微笑ほゝゑんだ。小さな花壇の周りは淡紅色ときいろまつばなでしこ深紅しんくの八重の雛菊で賑はつた。はまなすは朝も夕も林檎りんごや香料のやうな香を放つてゐた。さうしてこのよい香の寶庫も、時々お棺に入れる掌一ぱいの草や花を役立たす外には、大部分のローウッドの人々にとつてまつたく無用なものであつた。
 しかし、私や他の丈夫でゐる子供はみんな、かうした眺めや季節の美しさを十分にたのしんだ。私たちは、まるでジプシイのやうに朝から晩まで森の中をさまよひ歩いた。したい事をし行きたい處へ行つた。私たちの生活も、前よりはよくなつてゐた。ブロクルハースト氏一族は、もう一切ローウッドに來なかつた。家政は檢査されなかつたし、傳染病に怖氣おぢけのついた、意地惡いぢわるの管理人が逃げてしまつて、ロートン施療院せれうゐんの看護婦長だつた、彼女の後任者は、まだ新しい家のきまりに慣れてゐないので、比較的にもの惜しみをないでまかなつた。その上、病人たちは殆んど何も食べないので、口もずつと少なくなつてゐた。私たちの朝の御飯のお鉢はもりがよくなつた。正規の晝食ひるの支度をする間がないことがよくあつたが、さういふ時には、彼女はつめたいパイの大切れだの、チイズつきのパンの厚切れを呉れた。さうしてこれを持つて、私たちは森に行き、そこで各自めい/\一番好きな處を選んで、おなか一ぱい晝食ひるを濟ますのであつた。
 私の大好きな場處は、小川のちやうど中程に白々とかわいて現はれてゐる、なめらかな大きな石の上で、其處へは水の中を跣足はだしわたつて行くより外はなかつた。その石は、ちやうど私とお友達とがゆつくりすわれるほどに、十分廣かつた。その頃、私が選んだお友達は――メァリー・アン・ウィルスン、はしつこい、よく氣のつくたちの少女で、一方では、彼女は機轉がきいて、風變りで、また一方では、彼女は私の氣を樂にさせるところがあつたので、私は彼女とのまじはりはたのしかつた。二つか三つ私よりも年長としかさなので、私よりも世の中を知つて居り、私のきたいと思ふことを澤山に話してくれた、彼女と一緒にゐると、私の好奇心は滿足した。私の缺點も彼女は一向氣にしないで、どんな事を云つても決して壓制や支配めいたことはしなかつた。彼女は話好きで、私は聞きたがりだつた。彼女は教へることが好きで、私は質問が好きだつた。それで私たちの間は、いつもすら/\と工合よく行つた。お互ひのまじはりから、多くは啓發されなかつたとしても、それから得るよろこびは大きいものだつた。
 では、そのころ、ヘレン・バーンズは何處にゐたのだらう! なぜ私は、かうしたたのしい自由な毎日を、彼女と一緒に過さなかつたのか? 私は彼女を忘れてしまつたのか、それとも私は、彼女との純なまじはりに飽きて來るやうな、つまらない子だつたのか? 確かに、そのメァリー・アン・ウィルスンは、私の最初のお友達よりもおとつてゐた。メァリーは單に面白い話をしてくれたり、私が耽らうとするきび/\した辛辣しんらつなお喋舌しやべりに應じるのが關の山だつた。しかるに、ヘレンの方は、ほんたうのことを云ふなら、彼女と語る幸ひをもつものには、もつとずつと高尚な物に對する趣味を味はせる資格を持つてゐたのである。
 ほんたうに、讀者よ、私はこれを感じもし、知つてもゐたのだ。さうして假令たとへ、私が多くの缺點を持ち、何んの取柄とりえもないやうな不束ふつゝかな人間だとしても、ヘレン・バーンズに飽きることは決してなかつたし、これまで私の心を勵ましてくれた他のどんなものよりも、強くやさしく、尊敬にみちた彼女への愛着心をはぐくむのを止めはしなかつた。でなくとも、どうしてそんな事があり得よう、ヘレンは、どんな時にも、どんな状況の下に在つても、不機嫌に曇らされたこともいかりに禍ひされたこともない、靜かで信實な友情を表はしてゐるではないか。けれど、いま、ヘレンは病氣だつた。もう幾週間も、彼女は私の眼から離されて、何處か知らない二階の部屋に移されてゐたのだつた。私は、彼女はあのチブスの病人等と一緒に校舍の病室にゐるのではないといふことを聞かされた。彼女の病氣は、チブスではなく肺の方だつたから。さうして私は何も知らないので、肺病といへば、時の經過と看護で、間違ひなくなほせる何か輕い病氣なのだと思つてゐた。
 私は、彼女が大層暖かな晴れた午後などに下りて來て、テムプル先生に附き添はれてお庭に出るやうな事が、一二度あつたといふ事實ことからして、この考へを確信してゐた。でも、そんな時にも、そばへ寄つて話しかけることは許されなかつた。私は、たゞ教室の窓から、彼女の姿を見るきりで、それもはつきりは見えなかつた。彼女はふか/″\とくるまつて、遠いヴェランダの蔭に坐るのだつたから。
 六月の初めのとある夕べ、私は、メァリー・アンと一緒に大變おそくまで森の中にゐたことがあつた。いつものやうに、私たちは、他の子供たちの群を離れて、遠く迄あちこちと歩いた――少し遠く迄だつたので、道に迷つてしまひ、たつた一軒ぽつつりとつてゐた小舍で、その森で樫の實を食べる半野生はんやせいの豚を飼つてゐる夫婦に、道をかなければならないやうなことになつた。で、私たちが歸つて來た頃にはもう月がのぼつてゐた。お醫者樣のだといふ見覺えのある小馬が一匹、庭の小門のそばにゐた。今時分、ベイツさんが呼ばれるといふのは、多分誰かゞひどく惡いのだと思ふとメァリー・アンが云つた。彼女は家に這入つた。私は、手にいつぱいある、森で掘つて來た根のついた草を、自分の花壇に植ゑる爲めに、二三分あとに殘つた、このまゝ朝まで置いては、しぼんでしまふかも知れないと思つたので。これを終へてから、私はまだ暫くぐづ/\してゐた。露がりたので花の群はとりわけ甘い香を放つて、非常にあたゝかくなごやかな、こゝろよい[#「こゝろよい」は底本では「こゝよい」]夕暮であつた。まだ明るく輝いてゐる西の空は、明日の晴天を約束してゐた。月が莊嚴な東の空にかうがうしく昇つてゐた。かうした景色に眼を止めながら、私は子供らしく樂しんでゐたが、その時曾て心に入つたことのない想念おもひに襲はれたのであつた。
「いま病氣で寢てゐて、そしてもう生命があぶないなんて、どんなに悲しいことだらう! この世界はたのしい――こゝから呼ばれて、どうしても誰も知らぬ所に行かなければならないなんて、どんなに寂しいだらう?」
 そしてそれから、私の心は今迄に天國と地獄に關して聞かされて居たことを理解しようと、初めて熱心に考へ出した。さうして初めて途方とはうにくれ、困惑した。初めて身邊をあちこちぐる/\と見まはして、周圍はたゞはかり知られぬ深い淵だと思つた。感じるのは立つたところの一點――現在ばかり、そのほかはみな形のない雲とうつろな深みであつた。ぐら/\する、そしてあのはてしのない混沌こんとん眞中まんなかへ、まつさかさまに落ちる、さう思つたとき、心は震へ上つた。この新らしい考へに沈み込んでゐる時、玄關のドアの開く音がした、そしてベイツさんが一人の看護婦と一緒に現はれた。彼女は、馬に乘つて歸つてゆく醫師を見送つてしまふと、ドアめようとした。私はそこへ飛んで行つた。
「ヘレン・バーンズはどんななの?」
「心細いのよ。」といふ答であつた。
「ベイツさんがにいらしつたのはヘレンさんなの?」
「え。」
「そして何て仰しやつて?」
「先生はね、こゝにゐるのも、もう長くはあるまいつて仰しやつたわ。」
 この言葉が昨日私の耳に這入つたのなら、私は彼女がノオサムバーランドの彼女の家に移されようとしてゐるのだといふ意味にだけとつたゞらう。それが彼女が死にかけてゐることを意味してゐるなどと疑ふよしもなかつたらう。だが今は、私はすぐに知つた。私の頭には、ヘレン・バーンズはもう死期が近づいたので、もしもそんな國があるならば、あの精靈達せいれいたちの國へ連れ去られようとしてゐるのだといふことがはつきりと理解された。身震みぶるひするやうな恐怖に續いて、激しいかなしみの戰慄が全身を走つた。そして、一つの願ひが生れた――私は、ヘレンにはなければならない。そこで、私は彼女の寢かされてゐる室をたづねた。
「テムプル先生のお室ですわ。」と、看護婦は云つた。
「私、行つて話をしてもいゝ?」
「いゝえ! 駄目よ。それにあなたも、もう家に入る時間ですよ。夜露よつゆりる時に外にゐると、チブスにかゝりますよ。」
 看護婦は表玄關のドアめた。私は教室の方に行くわきの入口から這入つたが、ちやうど時間に間に合つた。九時の就床しうしやう時間で、ミラア先生が生徒たちに就寢の號令を叫んでゐるところだつた。
 それから二時間程後、多分十一時近くなのだらう、それ迄眠れなかつた私は、寄宿舍中がまつたくしんと靜まつたので、もうお友達はみんな深い安らかな眠りに包まれてしまつたのだと思つて、こつそり起き上つて、寢間着ねまきの上に上衣うはぎを引かけ、靴なしでそつと寢室を忍び出た、そしてテムプル先生のお室をさがしに出かけた。お室は建物たてもののまつたく反對の端にあつたけれども、私は道を知つてゐた。それに雲の影もない夏の夜の月の光が、あたりの廊下の窓から這入つて來て、苦もなく道を見つけられるやうにしてくれた。チブスの病室の近くまで來ると、樟腦カンフルと焚いた香醋のにほひが警告するやうに私の鼻をいた。私は、夜中起きてゐる看護婦に聞きつけられはしないかと恐れて、その室のドアの前を素早く通り拔けた。私は、見つけられて、歸されるのがこはかつた。私は、どうしても、ヘレンに逢はなければならなかつたから――どうしても、彼女が死ぬ前に彼女を抱きしめて、最後の接吻キスをし、最後の言葉をかはさなければならなかつたから。
 階段をり、階下の校舍の一部を横切り、それから二つのドアを音を立てないやうにうまけて、まためて、別の階段の所まで來た。そこをのぼると、ちやうど私の正面にあるのがテムプル先生のお室であつた。鍵穴かぎあなドアの下から、光が一すぢ洩れてゐるばかりで、深い靜けさがあたりに浸潤してゐた。近づいて見ると、ドア細目ほそめに開いてゐる。多分、め切つた病室に、清淨せいじやうな空氣を通はせる爲めであらう。ぐづ/\してゐる氣になれず、とても我慢出來ない程胸が一杯になつてゐた私は――精神的にも肉體的にも鋭い痛みを感じてぶる/\震へながら――ドアなかへ押してのぞきこんだ。私の眼は、ヘレンを探し、死を發見することを恐れた。
 テムプル先生の寢臺に近く、そのまつ白なカァテンに半ばおほはれて、小さな子供用の寢臺があつた。その掛布團かけぶとんの下には人の型の輪郭が見えるけれど、顏はカァテンの蔭にかくされてゐた。先程私が庭で話をした看護婦が、安樂椅子に腰を掛けて眠つて居り、卓子テエブルの上にはしんを切らない蝋燭が仄暗くゆらめいてゐた。テムプル先生の姿は見えなかつた。後になつて知つたのだが、その時、彼女は、チブスの病室の意識を失つた患者の方に呼ばれてゐたのであつた。私は、進み入つて、寢臺の側に立ち止つた。私の手はカァテンにかゝつた。しかし、そのカァテンをける前に、私は聲をかけることにした。私は、まだ死骸を見るのが恐しくて、びく/\してゐた。
「ヘレン!」と私はそつと囁いた。「起きてゐて?」
 彼女は身じろぎして、自分でカァテンをけた、蒼白あをじろく衰へた、しかし、まつたく安らかな彼女の顏を見ると、私の心配は直ぐ消えてしまつた。それほど、彼女は、變つてゐないやうに見えた。
「ま、あなたなの、ジエィン?」と彼女はその持前の靜かな聲音こわねたづねた。
「おゝ!」と私は思つた。「この人は死にかけてゐない、みんなは勘違ひしてゐるんだ。もしさうなら、こんなに靜かに話したり、眺めたり出來る筈がないもの。」
 私は、寢臺ベッドに近づいて、彼女に接吻した。彼女のひたひは冷たく、双頬も冷たく、そして痩せてゐた、手も手頸てくびも冷たく細つてゐた。けれども彼女はいつものやうに微笑ほゝゑんだ。
何故なぜ此處へ來たの、ジエィン? もう十一時過ぎよ、ちよつと前に、打つてゐるのが聞えたから。」
「あなたをお見舞に來たのよ、ヘレン。あなたがひどく惡いつて聞いて、あなたにつて話をしないうちは、寢られないの。」
「ぢや、私にさよならを云ひに來てくれたのね。ちやうど間に合つたんだわ、多分ね。」
「あなた、何處かへ行くの、ヘレン? お家へ歸るの?」
「えゝ。私の永遠の家へ――私の最後の家へ。」
いやよ、厭よ、ヘレン!」私は胸が一杯になり、何も云へなくなつた。私が泣くまいと懸命になつてゐる間に、ヘレンにはせき發作ほつさが起つた。しかし、その爲めに看護婦の眼を醒すやうなことはなかつた。發作ほつさが止むと暫くの間、彼女は疲れ果てゝ横になつてゐたが、それから小聲で云つた――「ジエィン、あなたの足はむきだしなのね、此處で横になつて、私のお布團ふとんでお包みなさい。」
 私はその通りにした。彼女は私に腕をまはし、私は彼女の側に巣食ふやうにすり寄つた。長い沈默の後に、彼女は、矢張り囁くやうな聲で、また話し初めた――
「私は本當に幸福なのよ、ジエィン。ですから、私が死んだことを聞いても、あなたは、しつかりして悲しまないで頂戴。悲しいことは何もありはしないの。私たちはみんな、何時か死なゝければならないのだし、私を連れて行く病氣はひどく苦しくない、おだやかな漸進的なものなの。私の氣持も安らかよ。私には、私のことをひどく惜しんでくれるやうな人は誰もないの、父さんはゐらつしやるのだけれど、この間結婚なすつたのだし、私がゐなくなつて、お困りになることもないでせう。若くて死ぬお蔭で、私は澤山の苦しみを免かれると思ふの。私には、この世の中でえらくなれるやうな素質もないし、才能もないし、生きてゐてもきつとあやまちを續けるばかりだと思ふわ。」
「だけど、何處へ行くの、ヘレン? あなたに見える? 知つてるの?」
「信じるのよ。私は信仰を持つてゐるの。私は神樣のおそばへ行くのよ。」
「神樣つて何處にゐらつしやるの? どういふかたなの?」
「私やあなたの造り主で、そのかたは、御自分のおつくりになつたものは決しておほろぼしにならないの。私は、すつかり、その方のお力におまかせしてゐるのよ、そして何もかも、その方のおいつくしみにたよつてゐるわけなのよ。私はねえ、私を神樣にかへし、神樣を私にあらはしてくれる、大事な時が來るまで、時間を數へてゐればいゝの。」
「ではヘレン、あなたは、天國のやうな處が在つて、私たちが死ねば魂がそこへ行けると思ふの?」
「未來の國は、確かに在ると思ふの。私は、神樣は善しと信じて、何の心配もなしに、私の中の滅びないものを神樣におまかせすることが出來るのよ。神樣は、私のお父樣でお友達なの、私は神樣を愛してゐるの、神樣もきつと私を愛して下さると思ふのよ。」
「では、ヘレン、私も死ねば、またあなたに逢へて?」
「あなたも、その同じ幸福の國に來られますとも。同じ偉大な、宇宙のお父樣の手に受け入れられて。ほんたうにさうよ、ジエィン。」
 もう一度、私は質問した、が、今度はたゞ心の中で「何處にそんな國があるの? 實際にあるの?」さうして、私は、もつとしつかりと、ヘレンを抱き締めた。ヘレンは今迄よりも一層いとしく思はれ、とても彼女を離すことは出來ないと思つた。私は、顏を彼女の襟もとに隱して、横になつてゐた。間もなく、彼女は限りなく優しい調子で云つた――
「まあ、いゝ氣持ちだこと!――先程さつきせき發作ほつさで少し疲れたわ。何だか眠れさうよ、でも行つてしまつては厭よ、ジエィン。私、あなたに側にゐてもらひたいの。」
「あなたの側にゐるわ、大好きなヘレン。大丈夫、誰も連れに來はしないわ。」
「暖かい、あんた?」
「えゝ。」
「ぢや、おやすみ、ジエィン。」
「おやすみ、ヘレン。」
 彼女は私に、私は彼女に接吻した。そして、私たちは、二人とも、直ぐ安らかに眠つた。
 私が眼をさますと朝であつた。異常な動搖に氣が付いて見上げると、私は誰かの腕の中に居た。それは看護婦が私を抱いて、廊下傳ひに寄宿舍の方へ連れて歸るところだつた。私は寢床ベッドを脱け出したことで叱られなかつた。みんなは、何か考へてゐることがあるらしく、私の澤山な質問に對して、何の説明も與へなかつた。しかし一日か二日後に、初めて、私はその顛末てんまつを聞かされた。テムプル先生が夜明け方、お室に歸つていらつしやると、顏をヘレン・バーンズの肩に押し付け、兩手を彼女のうなじ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したまゝ、あの小さな寢臺ベッドに寢てゐた私をお見付けになつたのであつた。私は眠り、ヘレンは――死んでゐた。
 ヘレンの墓は、ブロクルブリッヂ教會の墓地にある。彼女の死後十五年間は、たゞ草の生茂はひしげつた土饅頭であつたが、今は、彼女の名と『われ再び生きむ。』の一句をきざんだ灰色の大理石の石碑が、その場處をしるしてゐる。


 今迄私は私の些々さゝたる生活の出來事を詳細に亙つて記し、私の生涯の最初の十年の爲めに殆んど同數の章をつひやした。しかしこれは普通の自叙傳となるべきものではない。私は、自分の記憶に尋ねてみて、いくらか興味があると思はれる時に、私の記憶を思ひ起せばいゝのだ。だから私は八年間といふものを今殆んど何も云ふ事なしに經過させる。たゞ前後の聯絡れんらくの爲めに數行だけが必要である。
 あのチブスは、ローウッドで傳染の使命をはたすと、次第に衰へて行つた。しかしそのうちに病氣の害毒と犧牲者の數とが學校に世間の注意を惹くやうな結果を齎した。この疫病の原因がしらべられたが、さうすると次ぎ/\と色々な事實が現はれて來た爲めに世間の人々の憤怒は極度に達したのである。場所が不健康地だといふこと、子供達の食物の質と量、それを拵へるために用ひられた鹽分のある臭い水、生徒達のみじめな着物や設備、これらのすべてが暴露された、そしてその結果は、ブロクルハースト氏の面目を失はせてしまふものであつたが、しかし學校にとつては好結果となつた。
 その土地の裕福な情深い人々が五六人で、もつといゝ場所にもつと設備のいゝ建物たてものを建てる爲めに澤山の寄附を約束したのである。新しい規則が作られ、食物や被服ひふくの改善が始められ、學校の基金ききんは委員の處理にまかされた。ブロクルハースト氏はその富と家族的關係との爲めに見落されないで矢張り會計係になつてゐたが、しかし彼はより寛大な同情心のある人々に助けられながら自分のつとめを遂行するのだつた。彼の監督の役目もまた、道理と嚴格とを、慰安と經濟とを、憐憫れんみん[#「憐憫と」は底本では「隣憫と」]誠實せいじつとをどんな工合に組合せるかといふ事を知つてゐる人々との協力で行はれた。このやうに改善され、暫くたつ内に、學校はほんたうに有用な品位あるものとなつた。私は、更新かうしんの後八年間――六年は生徒として二年は教師として、こゝに留つてゐた。その兩方の資格で、私はローウッド學校の徳と眞價を證明することが出來る。
 この八年の間、私の生活は、變化にとぼしいものではあつたが、不幸福ふしあはせではなかつた。何故なら、それは無爲むゐな生活ではなかつたから。私は自分の手の屆く限りのすぐれた教育を受ける道を講じた。ある若干の學課に對する特別な執心しふしんや、總ての點で卓越したいといふ望みなどが、先生たちを、特に好きな先生を喜ばせる大きな嬉しさと一緒になつて、私を勵ました。私は、自分に與へられた恩典を十分に利用した。やがて、私は最上級の第一の少女となり、次には、先生の職に任ぜられた。それを私は熱心に二ヶ年の間はたしたが、やがて變化がやつて來た。
 かうした種々いろ/\な變化の中にも、テムプル先生は、學校の監督を續けて來てゐた。私の學び得たものゝうちで、最もよい部分は彼女の教育に負うてゐる。彼女の友情とまじはりとは、いつも私の慰めだつた。彼女は私の爲めには、お母さんにも、家庭教師にも、また後には友達にもなつてくれた。その頃彼女は結婚して、夫(牧師で、立派な人で、彼女のやうな賢妻にふさはしい程の人だ)と共に遠い國へ行つてしまつた。隨つて彼女は私からは失はれてしまつたのだ。
 彼女が行つてしまつた日以來、私は以前の私ではなくなつた。私にとつて、ある程度までローウッドを家庭ホウムのやうに思はせてゐた聯想も、落着いた氣持も、彼女と一緒に行つてしまつた。私は、彼女の性質の幾分を、また彼女の習慣の多くを、彼女から吸ひとつて自分のものとした。もつと調和された[#「調和された」は底本では「調和さられた」]思想と、もつと節度せつどのある感情と思はれるものが、私の心に巣喰ふやうになつた。私は、義務と命令とに忠順であることを誓つてゐた。私は、靜かで、自分は滿足してゐると信じてゐた。他人の眼にも、また大抵の時は、私自身の眼にさへ、私は訓練された從順な人間のやうに見えたのであつた。
 しかし運命は、ネイズミス牧師の姿となつて、私とテムプル先生の間に割込んだ。結婚式後間もなく、旅行服を着て驛馬車の中へ乘り込む彼女を私は見た。丘を登つて、その丘の彼方かなたへ消えてゆく馬車を私は見守つてゐた。それから、自分の部屋に引込んで、今日のお祝ひの爲めの半休日を、大方寂しくひとりぽつちで、送つたのであつた。
 そのあひだ、私は殆んど部屋の中を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。私は、自分がたゞなくしたものを悲しみ、どうしてそれをつぐなふべきかと考へてゐるのだと想つてゐた。けれども、私の默想が終つて、私が目を上げて、午後が過ぎ去り、すつかり夕方になつてゐるのを見た時、また別の發見が、私の心にほの/″\と白み初めた。すなはち、その間に、私は變化の道程にあつたのだ。私の心がテムプル先生に借りてゐたすべてのものを捨てゝ――といふよりも、私が彼女の傍で呼吸してゐた靜かな雰圍氣ふんゐきを彼女が持つて行つてしまつて――さうして今、私は生れつきの自分の中に殘されて、もとの落着かない氣持ちを感じ始めてゐたのだ。それは支柱しちうが取り去られたといふよりも、まるで原動力がなくなつてしまつたやうなものだつた。靜穩を支配する力が私を去つたといふよりも、靜穩なるべき理由がもはやなくなつてしまつたのであつた。私の世界は、幾年かの間ローウッドにあつて、私の經驗は、その規則や組織によるものだつた。今、私は、現實の世界は、廣く、さうして、希望と不安に充ちて居り、心をいらだゝせるものや、そゝるものゝ、めまぐるしい曠野であつて、眞の生命の知識を探さうと危險ををかして、そのひろ/″\とした中に進んでゆくだけの勇氣を持つてゐる人々を待つてゐるのだといふことを思ひ出した。
 私は、窓へ行つて、開けて外を見た。建物たてものの兩翼があり庭があり、ローウッドの森のすそがあつた、起伏きふくした地平線もあつた。私の眼はさま/″\なものを越えて、一番遠いまつ青な連峯の上に止まつた。私が登りたいと憧憬あこがれてゐたのはこれであつた。岩やヒースの境界線のこちらはどこもみな、牢獄の庭に、流謫の地に見えた。私は、一つの山の麓をぐる/\※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、山峽やまかはに消えてゆく白い道を、眼で辿つて見た。どんなにか私はその道をもつと遠くまでつけて行きたいと思つたらう! 私は、あの道を馬車に乘つて旅行した時のことを想ひ起した。あの丘を夕暮時に下つたことも思ひ出した。私がはじめてローウッドに來た日から、一世紀もつたやうに思はれるのに、私はその間中一度も、こゝを離れたことはなかつた。休暇はすつかり學校で過した。リード夫人は一度だつて私をゲィツヘッドへんでくれたことはなかつた、彼女もその家族も誰一人として、私に會ひにくるやうなことはなかつた。手紙や使ひによつて外の世界との交通を一度もしたことはなかつた。學校の規則、學校の義務、學校の習慣と考へ方、それから學校内の人の聲、顏、言葉つき、服裝、好き嫌ひ――こんなものが現實の生活に就いて、私の知つてゐるすべてだつた。さうして今、私は、それでは十分ではないと感じたのである。私は、八年の間の慣例ならはしに、たつた半日であき/\してしまつた。私は自由を欲した。自由にあへいだ。自由の爲めに祈をとなへた。だが、それは、その時かすかに吹いてゐた風に乘つて、飛び散つてしまつたやうに思はれた。で、私はその祈を止めて、變化と刺※[#「卓+戈」、U+39B8、86-下-13]を求めて、もつと謙遜へりくだつた嘆願をした。その嘆願もまた、茫漠とした空間の中に吹き拂はれてしまつたやうに思はれた。「では」と私は、半ば絶望的に叫んだ。「せめて、新しき奉仕を與へ給へ。」
 この時、夕食時間の呼鈴ベルが鳴つて私は階下に呼ばれた。
 瞑想の中斷された鎖は、就寢時間までつなぐことは出來なかつた。その時間になつてもまだ、私と同じ部屋にゐる一人の教師が、つまらない話を、長たらしく、くど/\と話しかけて、再び考へてみたくて仕方のない事柄ことがらを考へさせては呉れなかつた。私は、彼女が默つて眠つて了ふようにと、どんなに願つたことだらう。私が窓の傍に立つてゐた時に、最後に心に浮かんで來たあの想念おもひに歸つてゆくことさへ出來たら、何か思ひつきな智慧が、私を救ひに來てくれさうな氣がするのだつた。
 とう/\グライスさんは、いびきをかいた。彼女はウエィルス生れの大きな婦人で、これまでは彼女の例のいびきがうるさいものとしか思ひやうがなかつたのだけれど、今夜の私は、最初の太い響きを滿足をもつて歡迎むかへた。これで邪魔もなくなつたので、半分消えかけてゐた私の想念は、忽ちによみがへつて來た。
「新らしい奉仕! その言葉には何かゞ含まれてゐる。」と私は獨言ひとりごつた(心の中で、といふ意味で、聲には出さなかつた)。「何かゞ含まれてゐることは分る。何故なら、それは餘り快くはひゞかないから。それは、『自由』、『興奮』、『快樂』などゝ云ふ言葉ではない――本當にうれしい響だ。が、私には響以上の何ものでもないのだ。そして空虚で、變り易いので、そんな言葉を聞くのは、時間つぶしに過ぎないのだ。だが『奉仕』! それは、確かな事實でなくてはならないのだ。誰だつて奉仕は出來る。私は此處で八年間使はれて來た。今私の望みは、何處かほかに勤めることだ。そこまで自分の意志をとほすことは出來ないのか? それは實行し得ることではないのか? 出來る! 出來る――もし私にその意志をとほす方法を探し出すだけの敏活びんくわつな頭さへあつたら、目的はさう困難ではない筈だ。」
 私は、さうした能力を呼びさますつもりで、床の上に起き上つた。寒い夜だつた。私はショールで肩を包み、それからまた、あらん限りの努力で考へを續けた。
「私は何を望むのか? 新しい境遇の下に、新しい家の中の、新しい顏にかこまれた、新しい地位を。これ以上のものを望んでもだめだと思へばこそ、これを望むのだ。みんなどういふ風にして、新しい地位を探すのかしら? 多分お友達に頼むのだらう。私にはお友達がない。お友達がなく、自分でつて、自分で自分を助けてゆかねばならない人が、たんとあるのだ。では、その人たちはどうするのだらう?」
 私には解らなかつた、何も答へられなかつた。そこで私は、私の頭腦あたまに、その返答を速く探せ、と命令した。頭腦づなうは、次第にはやく働き出した。私は、頭にも※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみにも脈打つのを感じた。しかし、殆んど一時間近くも、混亂の内に働いたばかりで、その努力からは何等の結果も生れなかつた。むなしい努力に熱つぽくなつて、私は、起き上つて、室を一周りした。窓掛を絞つて、一つか二つの星を見ると、寒さに身震ひして、また床の中に這入つた。
 親切な妖精フエアリイが、私のゐない間に、きつと、私の求めた智慧を枕の上に置いてくれたのだらう。と云ふのは、私が横になると、靜かに、ひとりでに心に浮かんで來たから。「仕事の欲しい人たちは廣告をする。お前も廣告をするのだ、××州報知に。」
「どういふ風に? 廣告のことは、私は何にも知らない。」
 今度は、忽ちすら/\と答へが來た。「廣告文とその代金を××州報知の主筆に宛てた封筒に入れて、機會のあり次第、ロートンのポストに入れるのだ。返事はロートンの局留にして、J・Eあてでなくてはいけない、手紙を出して一週間ほどつたら、行つて何か來てるかどうかいて見ればいゝ。そしてそれによつて行動するのだ。」
 この方法を私は二度も三度も頭の中で繰り返した。それは心の中で消化されてしまつた。私はそれをはつきりした實際的な形で會得ゑとくした。私は滿足して眠入ねいつた。
 翌朝早く目を醒すと、私は廣告を書いて起床の呼鈴ベルが鳴る前に封をし、宛名あてなしたゝめた。それは次の通りである――
「教授に經驗ある若き婦人」(私は二年間先生をして來たではないか)「十四歳以下の子供を有する家庭に就職せんことを望む。」(私は自分がやつと十八だつたので、それ以上私の年に近い子供の指導を引受けることは出來ないだらうと思つた)。「彼女は正則英國教育の普通科目と共に佛蘭西語、畫、音樂をも教へ得る資格を有す」(讀者よ、今思ふと貧弱な簡單なこの才能の目録が、その頃は可成多方面にわたるものだつた)。「××州郵便局、J・E宛」
 この書きものは、終日、机の抽斗ひきだしの中にかぎをかけられて這入つてゐた。お茶の後で、私は、自分の用と仲間の教師の一寸した用をかねて、ロートンへ行きたいと、新任の學監に外出を願つた。すぐに許可きよかが下つたので、私は出かけた。道は二マイルで、雨模樣の夕方ではあつたが、日はまだ長かつた。私は、一二軒の店に立寄り、手紙をポストに滑らせると、ひどい雨の中を、上衣うはぎびしよれにして、しかしほつとした心持ちで歸つて來た。
 次の週が、何だか長く思はれた。しかし、地上の總てのものと同じやうに、それにも遂に終りが來た。そしてもう一度、心地こゝちよい秋のある暮方、私はロートンへの路を歩いてゐた。途中は小川のへりに沿ひ、谷の美しい曲折カアヴの間を縫ふ畫のやうな路であつた。けれどもその日は、草地や流れの美しさよりも、目的の小さな町に私を待つてゐるかも知れない――また待つてゐないかも知れない手紙のことに、私はよけい氣をとられてゐた。
 この時の私の表向おもてむきの用事は、靴をあつらへる爲めに寸法をとらせることだつた。で、私は、最初にその用をすましてしまつてから、清潔せいけつで靜かな小さい通りを、靴屋から郵便局へと歩いて行つた。そこには、鼻の上に鼈甲縁べつかふぶち眼鏡めがねをかけ、黒い手套てぶくろをはめた老婦人が事務をつてゐた。
「J・E宛の手紙が來てませんか。」私はいた。
 彼女は、眼鏡越しに私をのぞいて、それから抽斗ひきだしを開け、その中味を長い間――あんまり長くて私の望みもぐらつき出した位長く、かき探した。やつと一通の手紙を眼鏡めがねの前に五分間も持ち上げて見て、もう一度、穿鑿せんさくするやうな、信用しないやうな目付をくれて、それを窓越しに私に差出した――それはJ・Eに宛てたものであつた。
「一つうきりですか?」と私はたづねた。
「もうありませんよ。」と彼女は云つた。で、私はそれをポケットにしまつて、すぐ歸途についた。開封する暇がなかつたのだ。私は八時までに歸らなくてはならない規則で、もう七時半を過ぎてゐたのだ。
 歸ると樣々の仕事が私を待つてゐた。勉強時間中は子供たちと一緒にゐなくてはならなかつたし、それから、今日はお祈をみ、みんなを寢かす番に當つてゐた。その後で私は他の先生たちと一緒に夕食をすました。いよ/\寢室へ入つた時にも、例のグライスさんが、私と一緒だつた。蝋燭臺には、ほんのぽつちりしか蝋燭がないので、燃え盡きるまで話し込まれてはと、私は氣が氣ぢやなかつた。だが、幸にして、彼女のつた多量の夕食は、催眠の効をあらはした。私が着物をいでしまはないうちに、もう彼女は、いびきをかいてゐた。蝋燭は、まだ一インチばかし殘つてゐた。そこで私は、手紙を取り出した。封印は頭文字イニシアルのFだ。封を切つて見ると、内容は簡單だつた。
「先週の木曜日、××州報知に廣告なされしJ・E樣が記載の才能を所有なされ候はゞ、また、その方が人格及び資格に關して十分なる證明書をお示し下され候はゞ、たゞ一人の子供のみなる家庭に於てその方に地位を提供すべく候――十歳未滿の小さき娘に候。俸給は年三十ポンドに御座候。××州、ミルコオトに近きソーンフィールド、フェアファックス夫人あてに證明書、姓名、住所及びすべて詳細を御送附被下度願上候。」
 私は、長い間、書面を調しらべた。筆蹟は、年老としとつた婦人のものらしく舊式で、どちらかと云へば覺束おぼつかない方であつた。この條件コンデイションはまづ申分がなかつた。が、かういふ風に、自分自身の爲めに行動し、自分自身の指導によつて、何か困難に陷るやうな危險に走つてゐるのではあるまいか、といふひそかな恐れが、私の心を惱ました。そして何を措いても、私の努力の結果が、恥かしくない、適當な、正式なものであるようにと願つた。年をつた婦人といふのは、私がしようとしてゐる仕事にとつて、決して惡いものではないと私は思つた。フェアファックス夫人! 私は黒い上衣うはぎを着、未亡人の帽子を被つた――多分冷淡な、しかし無作法ぶさはふな程ではない彼女、年老いた英吉利人の尊敬すべき人物の型を想像した。ソオンフィールド! それは、疑ひもなく、彼女の家の名である――きつと小綺麗な、きちんとした處だらう。けれどいくら考へても、庭園や附屬館のあるやしきかまへを、明瞭はつきりした圖に描くことは出來なかつた。××州・ミルコオト。私は英吉利の地圖の記憶を掻き探した。さうだ、その州もその町も兩方共、私は見たことがある。××州が、今私が住んでゐる引込んだ田舍よりも七十マイル倫敦ロンドンに近いといふことは、私には好都合だ。活氣ある町に行きたかつた。ミルコオトは、A河の岸にある大工業地で、隨分賑やかな處に違ひない、賑やかであればある程いゝ。少くとも、完全な變化にはなるだらう。私は、高い煙突や、濛々とした煙などに、心を惹かれたのではない。
「だけど、」と私は云つた。「ソーンフィールドは、きつと街からは可成りあるだらう。」
 この時、蝋が落ちて、しんが消えた。
 次の日は、新らしい一歩を踏み出さなければならなかつた。私の計畫は、もう私の胸にしまつて置けないのだ。その成功をつかむためには、實行に移さなくてはならない。お晝休みに學監を探して、私は現在の二倍の俸給で、新らしい地位を得るあてのあることを話した。(ローウッドでは年に十五ポンドしか貰つてゐなかつたから。)そしてその事をブロクルハースト氏かまたは委員の誰かに話して、彼等を私の保證人として先方に名前を通じても、いゝかどうか確かめて下さいと頼んだ。彼女は、深切にも執成方とりなしかたになつて、このことに盡さうと承諾した。その次の日、彼女が委細ゐさいをブロクルハースト氏の前に持ち出すと、彼は、リード夫人が私の元々の保護者であるから、彼女に手紙を出さねばならぬと云つた。そこで、彼の言に從つて、私は、短い手紙を彼女に送つた。返事として、彼女は、私の一身上の事柄ことがらに就いては、もう久しい間干渉しないことにしてゐるから、私の好きなやうにしていゝと云つて來た。この手紙は委員一同に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)された、そしてやつとのことで、私にとつてはこれ以上我慢のならないほど遲れて、もしも私に出來るのなら、私の地位を向上せよといふ正式の許可きよかが下つた。そしてローウッドで、私は、いつもよい生徒であり、よい教師であつた故に、監理者の署名した、人物と才能に就いての保證書をたゞちに與へるといふ保證が附け加へられた。
 かういふ次第で、私はこの保證書を一月ばかりのちに受取つた。そして、そのうつしをフェアファックス夫人に送り、彼女が滿足したといふこと、それから私が彼女の家で家庭教師の役目を引受けるまでの準備の期間を二週間とめたといふその返事を受け取つた。
 私は直ちに準備にいそがしかつた。二週間はまたゝく間にたつてしまつた。私は、たいして大きな衣裳箪笥は持たなかつた。けれども、それで十分に合つた。最後の日はトランク――それは八年前にゲィツヘッドから持つて來たものだ――をこしらへるのに終日かゝつた。
 箱は、紐をかけられ、名札なふだが打ちつけられた。半時間たつと、それをロートンへ運ばせる爲めに運送屋が呼びに遣られた。そこへ私は次の朝早く出かけて乘合馬車のりあひばしやに出會ふことになつてゐた。私は黒い毛織の旅行服に刷毛ブラシュをかけ、帽子と手套てぶくろとマフとを用意し、何も後に殘らないようにと抽斗ひきだし全部を改めて、全く、もう何もすることがなくなつたので腰かけて休まうとした。が、私は休めなかつた。終日立ちつくしてゐたのに、さて休まうとすると、しばらくも休むことが出來なかつた。私はすつかり昂奮しすぎてゐた。私の生涯の一局面が今晩閉ぢようとし、新らしい生活が明日開かれようとしてゐるのだ。その幕間まくあひに眠るなんてとても出來ない。變化が完成されてゆく間は、私は不安な氣持で、じつと見まもつてゐなくてはならないと思つたのだ。
「先生、」と控室ひかへしつで、私に出逢つた召使ひが云つた。そのとき、私は迷つた靈魂のやうに、うろ/\、歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。「誰方どなたか、下でお目にかゝりたいと仰しやつていらつしやいます。」
「運送屋だ、きつと」とさう思つて、き返しもせずに、階下へ走つて行つた。私は、半分ドアの開いた、裏客間でもあり、教師たちの居間でもある室を、臺所の方へ行かうと通りかけた。その時、誰かゞ走り出て來た。
「あの方だわ、ちがひないわ!――どこでだつて、私はお見それすることはないんですもの。」と叫んで、その人は、行手ゆくてを遮つて、私の手をとつた。
 私は見た。晴着はれぎを着た、女中のやうななりをした、お内儀かみさん風の、まだ若くて大層縹緻きりやうのよい、髮と眼の黒い、活々いき/\とした顏色の女だ。
「さあ、誰でせう?」と彼女は、私が半ば思ひ出しかけてゐる聲音こわねと微笑でいた。「まさか、すつかりお忘れになつたのぢやないでせうねえ、ジエィンさん?」
 次の瞬間には、私は夢中になつて彼女を抱いて接吻してゐた。「ベシー! ベシー! ベシー!」それより外には何も云へなかつた。すると、彼女も、笑つたり泣いたりした。私たちは客間に這入つた。火の傍には、三歳位の小さい男の子が格子縞羅紗かうしじまらしや上衣うはぎとズボンを着て立つてゐた。
「あれは私のちびですの。」ベシーは直ぐに云つた。
「ぢあ、あなたは結婚したのね、ベシー?」
「えゝ、もう五年にもなりますよ、馭者のロバァト・レヴンのところへね。あのボビィの外にもう一人小さい女の子があるのですよ、その子はジエィンとつけてやりました。」
「では、あなたは、ゲィツヘッドにゐないの?」
「私共は、門番のぢいさんが殘していつた、あの小屋に住んでゐますの。」
「さう、そしてみんなはどうしてゐて? あの人たちのことをすつかり話して頂戴な、ベシー。だけど、まあおかけなさいな。それからボビィちやんも私のお膝に來ない、え?」けれどもボビィは、母親の方にすべり込んでしまつた。
「あんまり大きくなつてゐらつしやいませんねえジエィンさん。あんまり丈夫さうにもねえ。」レヴン夫人は續けて云つた。「きつと學校で、あんまりよくしてくれなかつたのでせう。リードのお孃さんは、頭と肩位、あなたより高うござんすよ。それからヂョウジアァナお孃さんは、あなたの二倍位幅がありますよ。」
「ヂョウジアァナは綺麗きれいでせうねベシー。」
「えゝ隨分。去年の冬お母樣と御一緒に倫敦にいらつしやいましたがね、あつちで誰も彼もの評判におなりになつて、ある若い貴族の方に想はれなすつたのですつて。でもその方の御親類がその御結婚には反對でねえ。で――どうでせう――その方とジョウジアァナお孃さんとは駈落かけおちしておしまひになつたのですよ。ですがお二人は見付かつて駄目になつちまひました。お二人を見付け出したのはリードお孃さんなんですよ。けたんですわ、きつと。そしてこの頃ぢあ、あの方とお妹さんとはお互に犬と猫の寄り合ひみたいでね、始終しよつちゆう喧嘩ばかししてゐらつしやるのですよ。」
「まあ、ぢや、ジョン・リードはどうなの?」
「あゝ、あの方もお母樣が望んでゐらしつたやうにはゆきませんの。大學へいらしつたんですが――落第つて云ふんですか、なんでもそんなことでね。で、叔父樣が辯護士になるやうに法律をやれつて仰しやつたのですけれど、あんな放蕩息子でせう、叔父樣方は大して力を入れないでせうと思ひますわ。」
「どんな風貌やうすなの?」
「隨分お脊が高いのですよ。立派な若者だつて云ふ人もありますけど、あの厚い唇ではねえ。」
「ぢや、リード夫人は?」
「奧さまはお見かけしたところ、お丈夫さうで、上べは申分のないやうに見えますが、お心の中は、さうお樂でもございすまい。ジョンさんのなさることが、お氣に入らないのです――とてもお金づかひが荒いんですの。」
「リード夫人があなたをこゝへよこしたの? ベシー?」
「いゝえ、どういたしまして。私はもう、長いことあなたにお目にかゝりたくつてね、そこへちやうど、あなたからお便たよりがあつて、今度他所よそへいらつしやるやうなことをうかゞひましたから、早速出かけて、もうまるつきりお目にかゝれなくならない内に、一目おひしなけれやと思ひましたの。」
「あんたが、私にがつかりしなければいゝけれど。ねえ、ベシー。」かう、私は笑ひ乍ら云つた。ベシーの眼差まなざしが尊敬をあらはしてはゐたが、賞讃を示す容子の毫もないのが、私にはわかつたので。
「いゝえ、ジエィンさん、さうでもありません。あなたは、それはお上品で、貴婦人らしくお見えですよ。せんからさういふ風におなりだらうと思つてゐましたの。お小さいときは、お綺麗きれいぢやアありませんでしたけど。」
 私はベシーの率直な答へに微笑ほゝゑんだ。私はその通りだつたとは思つたが、しかし白状すれば、私はその意味に對して全然無頓着ではゐられなかつた。十八といふ年頃には誰でも人によろこばれたいものだ、だから、その望みを助けてくれさうもない容貌を自分が持つてゐるのだと思ふと、さつぱり嬉しくはないのだ。
「でもあなたは、きつと御發明でゐらつしやるでせう。」と慰めるやうに、ベシーは云つた。「何がお出來になります? ピアノは?」
「少しだけ。」
 その室にはピアノがあつた。ベシーは傍へ行つて、蓋を開けて、それから私に、こゝへ來て一曲聞かせてくれと云つた。私は一つ二つワルツをいた。彼女は感心した。
「リードの孃さまたちはとてもこれほどけやしない!」と彼女は雀躍こをどりして云つた。「私は始終しじゆう云つてゐたのですよ。あなたは、學問で、あの人たちをおしのぎになるだらうつてね。それから、畫はなさいますか?」
「あの爐棚の上のは、私が描いたの。」それは水彩の山水で、私の爲めに親切に委員の人たちが執成とりなしてくれたお禮心に私が學監に贈物おくりものにしたもので、それにふちをつけ硝子ガラスを嵌めたものだつた。
「まあ、これは綺麗ですこと、ジエィンさん! この足下あしもとにも及ばないリードのお孃さん方はさておき、リードお孃さんの先生がおきになるのにも負けないくらゐ立派な畫ですわ。それから、佛蘭西語はなすつたのですか?」
「えゝ、ベシー、讀むことも話すことも兩方出來るのよ。」
「ぢや、モスリンやカン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)スの刺繍は?」
「出來てよ。」
「まあ、あなたは、もう立派な貴婦人ですわ! ジエィンさん。あなたは、きつと、さうおなりになると思つてゐました。御親類が、あなたを大事になさらうとなさるまいと、あなたはちやんとやつてゆけますねえ。せんからおたづねしようと思つてゐましたが、お父樣の御親類のエア家の方から、何かお聞きになつたことはありませんか。」
「いゝえ一度も。」
「さうですか。奧さまはいつもその方々は貧乏で身分も大層低いやうに云つてゐらつしやいましたつけね、それは貧乏でゐらしつたかも知れませんが、お家柄はリード家ときつとおんなじ位立派だと思ひますよ。何日でしたか、もう七年も前に、エアといふ方があなたに會ひ度いとゲィツヘッドにいらしたことがありましたよ。奧さまがあなたは五十哩も離れた學校にゐらつしやると仰しやるとひどく落膽がつかりなすつたやうでした。その方は外國へ旅行をなさる所で、一日か二日の内に倫敦ロンドンから船が出るといふので、お泊りになるわけにゆかなかつたのです。その方は本當に紳士らしい方でした。きつとあなたのお父樣の御兄弟でせうよ。」
「外國つて何處にいらつしやる所だつたの、ベシー?」
「何千マイルも離れた島で、葡萄酒ぶだうしゆの出來る處だとかつて――料理番が教へてくれましたつけ――」
「マデイラ?」と、私は提言した。
「えゝ、さう/\、その通りでした。」
「それで、その方は行つておしまひになつたのね?」
「えゝ、おやしきの中には、ほんの暫くしか、ゐらつしやらなかつたのですよ。奧さまはその方をそれは高慢におあしらひになつて、後ではその方のことを『こそ/\商人』だと仰しやつたのですつて。うちのロバートはきつと葡萄酒ぶだうしゆ商人だつて云つてましたつけ。」
「きつとそこいらでせうね。でなけれや、大方その番頭か支配人かでせう。」
 ベシーと私とは、一時間ばかりも昔の頃の事を語り合つてゐたが、やがて彼女は私に別れなければならなかつた。私は次の朝ロートンで馬車を待つ間また暫く彼女に會つた。私たちはつひに其處の「ブロクルハーストアームズ」の入口で別れて各々別のみちを取つた。彼女はゲィツヘッドへ彼女を連れ戻す車に會ふ爲めにローウッドフェルの頂きをして行き私はミルコオトの未知の環境に於ける新しい任務と、新しい生活へ私を運んで呉れる馬車に乘つたのであつた。

十一


 小説の新らしい章は、戲曲の新らしい場面のやうなものである。だから、この度、私が幕を上げると、讀者達よ、あなた方は、ミルコオトの「ジョオヂ旅館」の一室を御覽になつてるつもりでゐていたゞきたい。いかにも宿屋の部屋らしく、壁には、大きな模樣の壁紙を張つてあり、宿屋らしい敷物、家具、爐棚マントルピースの上の飾物かざりもの、ジョオヂ三世や、プリンス・オブ・ウエィルスの肖像を入れた石版刷せきばんずりの畫、ウルフ大將の臨終の摸寫などがある。こんなものが、みんな天井から下つてゐる石油洋燈ランプの光と、私が外套と帽子のまゝ腰かけてゐる傍の、氣持ちのいゝ煖爐だんろの火で、あなた方に見える。私のマフと雨傘は、卓上に置いてある、さうして私は、十月の冷たい外氣に十六時間曝されて得た無感覺と冷たさを暖めてゐる。私がロートンを出發したのは、午前四時で、ミルコオト町の時計は、いまちやうど、八時を打つてゐる。
 讀者よ。私は心地こゝちよくくつろいでゐるやうに見えても、心の中は一向靜かではなかつた。馬車が、此處へ止まつた時、私は、誰か迎へに來てゐることだと思つた。私の名を呼ぶのが聞えるか、それとも馬車か何かゞ、私をソーンフィールドに運ぶ爲めに待つてゐるのが見えるかと、宿の下足番が足場のいゝやうに置いてくれた木の踏臺ふみだいを下りた時、私は、氣づかはしく四邊あたりを見まはした。だが、それらしいものは何んにも見えなかつた。また、もしかして、誰かゞミス・エアを尋ねてはゐなかつたかと給仕にいたけれど、答はノオといふのだつた。で、私は部屋へ案内するようにと云ふより外に仕方がなかつた。さうして、樣々の疑惑うたがひや心配に心を亂されながら、こゝに私は待つてゐるのだ。
 あらゆる關係の綱を絶たれ、目ざす港へは行きつけるかどうかわからず、樣々の障害の爲めに以前のところへ歸つてゆくことも出來ず、世の中にたつた一人だと感じることは、未經驗な若いものにとつて、まつたく變な氣持である。冒險の魅力がその氣持を愉快なものにし、誇りの輝きがそれを温める。けれども、同時に恐しさの動悸どうきがそれをかきみだす。一時間たつてもまだ獨りきりだつた時、恐怖は勝を占めてしまつた。私は呼鈴ベルを鳴らさうと思つた。
「この近くに、ソーンフィールドつて處がありますか?」と私は、呼ばれてやつて來た給仕に向つていた。
「ソーンフィールドでございますか。さあ、私は存じませんが、帳場でいて參りませう。」彼は消えたが、直ぐまた現れた――「あなたさまは、エアさまと仰有いますか、お孃さま?」
「えゝ。」
誰方どなたか、こちらでお待ちでございます。」
 私は、飛び上つて、マフと雨傘を取ると宿屋の廊下へ急いだ。一人の男が開け放した[#「開け放した」は底本では「聞け放した」]戸の傍に立つてゐて、洋燈ランプともつた通りストリートには、一頭立の馬車が微かに見えた。
「これはあなたのお荷物ですな?」と、その男は、私を見て、廊下にある私のトランクを指しながら、幾分ぶつきら棒に云つた。
「えゝ。」
 彼は、その馬車にそれを引き上げた、それから、私も乘つた。彼が私をめ込んでしまはないうちに、私は、ソーンフィールドまでどの位あるかと訊ねてみた。
「六マイル位のものでせう。」
「あちらに着くまでに、どれ位かゝりますかしら?」
「一時間半ほどです。」
 彼は車のドアめて、外側の自分の席に坐つた。私たちは出發した。私たちの進行は遲々ちゝたるもので、十分物を考へる暇があつた。旅もやうやく終りに近づいて來たのが、私には嬉しかつた。優雅いうがな造りではないが、結構居心地ゐごゝちのいゝ乘物に背中をもたせかけて、私は樂な氣持で、いろ/\なことを考へてゐた。
「多分、」と私は思つた。「召使ひや馬車の質素なことから判斷すると、フェアファックス夫人はさう華美はでな人ではないだらう。さうあればあるほど結構だ。私は、たつた一度しか、華美な人たちと一緒に暮したことはない。さうして、その人たちと一緒にゐた時は、隨分みじめだつた。その小さな孃さんのほかには、彼女は、たつたひとりで住んでゐるのかしら。もしさうなら、またもし彼女がいくらかでも優しいのだつたら、私はきつと彼女と一緒にやつて行けるに違ひない。私は出來るだけやつてみよう。最善を盡しさへすればいつでもその甲斐かひがあるとは云へないのは、悲しいことだが。ローウッドでは、ほんとに決心して、それを守つて喜ばせることに成功した。でも、リード夫人の時には、私が最善を盡してやつても、いつも輕蔑けいべつをもつて、鼻であしらはれてゐたことを覺えてゐる。私は、どうかフェアファックス夫人が、第二のリード夫人にならないように神樣に祈る。でも、もしか、フェアファックス夫人が、そんなことをするとしたら、私は、ゐさせようたつて、一緒にはゐない。切破せつぱつまれば、私はまた廣告することが出來るのだ。だけど、道は、もうどれ位來たのかしら?」
 私は、窓蔽ひを下して外を見た。ミルコオトは私たちの背後うしろにあつた。燈火ともしびの數で判斷すると、かなり大きいが、ロートンよりはずつと大きい處のやうに見えた。私の見る限りでは、私たちは、今共有地らしい處にゐた。しかし、そこには家が散在してゐた。私たちはもう、ローウッドとはちがつて、ずつと賑やかではあるが畫趣に乏しく、ずつとせはしげではあるがロマンティックでない處にゐるやうに感じた。
 路はひどく、夜は霧深かつた。馭者ぎよしやは、休みなく馬をつた。さうして一時間半が、私には殆んど二時間位にのびたやうな氣がした。やつと彼はその席から振り返つて云つた。「もうソーンフィールドは大して遠くねえです。」
 また私は外を覗いた。私たちは教會の傍を通つてゐた。その低い幅の廣い塔が、空に向つてゐるのを見た。そして鐘が十五分を打つてゐた。丘の下にもまた、村落か小村を思はせる燈火ともしびの狹い銀河が見えた。十分ばかりつてから、馭者は、降りて門を開いた。私たちが通り拔けると、門は背後うしろでガチヤンとしまつた。こんどは、坂道をゆるやかに下つてとある家の間口の長い正面に來た。窓掛を下した一つの窓から、蝋燭の光が輝いてゐるばかりで、その外は、すつかり暗かつた。馬車が玄關に止まつた。女中がドアを開けた。私は、車を降りて、這入つた。
「どうぞこちらへ。」とそのは云つた。周圍に高いドアのある四角な廣間をよぎつて、私は、彼女にいて行つた。彼女は、とある部屋に私を案内した。そこに燃えてゐる火と蝋燭との二重の光は、私の眼が、二時間もらされて來た暗闇くらやみに對象して、いきなり私をまぶしがらせた。しかし、見ることが出來るやうになると、心地こゝちのいゝ、愉快な畫面が、私の眼の前に現はれた。
 居心地ゐごゝちのいゝ小さな部屋、勢よく燃える爐邊には、圓い卓子テエブル、凭りかゝりの高い、古風な肘掛椅子、そこには未亡人の帽子を冠り、黒い絹の上着うはぎをつけ、モスリンの前掛をした、またなく上品な小柄な老婦人が坐つてゐた。たゞそれほど容子ようすぶつた風がなく、ずつともの優しいと云ふだけで、私の想像したフェアファックス夫人そのまゝだつた。彼女は、編物をしてゐた。その足下には、大きな猫が行儀ぎやうぎよく坐つてゐた。簡單に云へば、家庭的な情味の理想の極致を完全に具へてゐた。新來の家庭教師にとつて、これ以上の安心出來る迎へ入れは、殆んど考へられなかつた。私を壓倒するやうな宏大こうだいさもなければ、當惑させるやうな威嚴もなかつた。そして私が這入つてゆくと、その老婦人は立ち上つて、急いで親しげに私を迎へようと進み出た。
如何いかゞでした? あなた、車ではさぞ御退屈でしたらうねえ。ジョンは、それはゆつくり走らせますから。お寒うございましたでせう、さ、どうぞ火の傍へお出で下さいまし。」
「フェアファックス夫人でゐらつしやいますか?」私は云つた。
「はい、さうでございます。どうぞお掛けなすつて。」
 彼女は、私を自分の椅子の方に連れていつて、やがて私のショールを取つたり、帽子のひもを解いたりしはじめた。私はそんなに面倒を見てくれないようにと願つた。
「おやまあ、何の面倒なことがございませう。きつとあなたのお手は寒いのでこゞえてゐらつしやるにきまつてをりますもの。リアや、熱いニィガスを少しこしらへて、サンドヰッチを一きれか二きれ切つて來て下さい。貯藏室の鍵はこゝにあります。」
 そして彼女は、ポケットから、如何にも主婦にふさはしい鍵のたばを取出して、女中に渡した。
「さあ、もつと、火の傍へお寄りなさいまし。」と彼女は言葉をつゞけた。「あなた、お荷物を持つていらしつたでせうねえ?」
「えゝ、持つて參りました。」
「では、あなたのお部屋へ運ばせるやうにいたしませう。」と云つて、彼女はそゝくさと出て行つた。
「あの方は私をまるでお客樣のやうに取扱つてゐらつしやる。」と私は考へた。「こんな待遇は、ちつとも豫期してゐなかつた。私は、たゞ冷淡と窮屈だけを豫想してゐた。こゝのは、今迄聞いてゐた家庭教師のもてなし方とはちがふ。だが、私はあんまり早く喜び過ぎてはいけない。」
 彼女は、歸つて來た。彼女は、手づから編物の道具や一二册の本を卓子テエブルから取除けて、リアの運んで來たお盆を置く場處を開けた。それから、茶菓さくわを私にすゝめた。今迄に受けたことのない心づかひのまととなつて、しかも、それが雇主やとひぬしで、目上の人からせられたので、却つて、私は、まごついた。けれども、彼女自身、自分のする以外のことをしてゐると思ふ容子ようすも見えなかつたので、彼女の鄭重さをそのまゝに受けた方がいゝと私は思つた。
「フェアファックス孃さんには、今晩お目にかゝれますのでございませうか?」彼女のすゝめるものを食べてから、私はいた。
「え、何と仰しやつたのでございます? 私は、少し耳が遠うございましてね。」耳を私の口の方へ寄せながら、この親切な婦人は答へた。
 私は、もつとはつきり、質問を繰り返した。
「フェアファックス孃さんでございますつて? あゝ、ヴァレンスのことを仰しやつてゐらつしやるんですね! ヴァレンスと申しますのが、これから先の、あなたの生徒さんのお名前でございますよ。」
「さやうでございますか。ぢや、その方は、あなたのお孃さまではゐらつしやらないのですか?」
「えゝ――私には子供はないのでございます。」
 どういふ關係が、ヴァレンス孃と彼女の間にあるかといて、私ははじめの質問をやり通すところだつたかも知れないが、あまり樣々の問ひを出すことは失禮だと思ひ返した。それに何時いつくときもあると思つたので。
「私はほんたうに嬉しいのでございますよ。」彼女は、私と向き合つて腰かけると、猫を膝の上に抱き上げて、言葉をつゞけた。「あなたがいらつして下すつて、ほんとに嬉しいのでございますよ。これからはお仲間つれが出來まして、こゝに暮らしますのは、どんなに樂しいことでせう。それはねえ、何時いつでも樂しいには違ひございません。ソーンフィールドは立派な舊家きうかでございましてね、近頃ちかごろは、どちらかと申せば、打棄てられてゐるやうですが、それにしましても、立派な處なのでございます。でも冬になりますと、立派な住家にまつたくの獨りぽつちで、淋しいのでございますのよ。えゝほんとに獨りぽつちなのでございますよ――それは、もう確かにリアはいゝでございますし、ジョン夫婦も禮儀正しい人たちではございますが、どうしてもあの人たちはたゞの召使ひでございませう。それで對等の間柄あひだがら[#「間柄で」は底本では「柄間で」]話をするといふわけにも參りませんしねえ。權威けんゐくしません爲めには、當然へだてをつけて置かなくてはなりません。確か昨年の冬でございましたよ。(おぼえておゐでになりますかしら、隨分きびしい寒さでしてね、雪が降らないと思ひますと、雨が降つたり、風が吹いたりいたしました。)十一月から二月にかけて、肉屋と郵便屋の外には、人ひとり、この家には來なかつたのでございますよ。それで、もう毎晩々々たつた一人で坐つて居りましてね、すつかりふさぎ込んでしまつたのでございます。とき/″\リアを呼びまして、本を讀んで貰ひましたが、可哀さうにあのは、その仕事がそれほど好きではなかつたやうでしてねえ、窮屈なのでございませうね。春や夏の方が宜しうございました、の光と日が長いのとが、そんな相違をつくるのでせう。それからちやうどこの秋のはじめに、お小さいアデラ・ヴァレンスさまと、お保姆うばさんとがいらしたのでございます。子供といふものは、ぐに家内を活々いき/\させるものでございますね。そして、今また、あなたもお出で下さるし、私は、ほんとに、嬉しいのでございますよ。」
 彼女の話を聽きながら、私の心は、もう既にこの尊敬すべき婦人に對して、親しみの情を持つてゐた。私は、椅子いすを少し彼女に近く寄せて、彼女が豫期した程のいゝお仲間つれに私がなれるようにといふ、私の心からの希望を述べた。
「ですが、今晩はおそくまで、あなたをお起し申しはいたしませんよ。」と彼女は云つた。「もう十二時を打つ時分じぶんでございませう。それにあなたは一日中旅をなすつたのですもの、さぞお疲れになりましたらう。よくおみ足が暖まりましたら、お寢間ねまへ御案内いたしませう。私の隣りの室を用意いたさせましたの。ほんの小さな部屋でございますけれど、表の方の大きな部屋よりも、ずつとお氣に召すでせうと存じましてね。あちらの方には、立派な道具などがあるには違ひないのでございますが、ひどく陰氣いんきでガランとしてをりまして、私なぞとても一人でやすむ氣にはなれませんのでございますよ。」
 私は、彼女の思ひやりのある選擇を謝した。そして、實際、長旅ながたびの疲れを感じてゐたので、もう引き退さがつてもいゝむねを云つた。彼女は、蝋燭をとり、私はその後に從つて、室を出た。先づ彼女は、廣間の戸締りを見にいつた。そしてぢやうから鍵をとつて、二階へ上つていつた。階段も手摺てすりも、樫の木で、階段に沿うた窓は、高くて格子になつてゐた。その窓も、寢室のドアに面した長い廊下も、家といふよりは寧ろ會堂に屬してゐるものゝやうに見えた。やりとした地下室のやうな空氣が、寂しく廣い家の陰氣さを思はせるやうに、階段にも、廊下にも、瀰漫びまんしてゐた。私は、やうやく寢室の中へ案内された時、その室が小さくて、普通に現代向に飾りつけてあるのを見ると嬉しかつた。
 フェアファックス夫人は、やさしいおやすみなさいを云つてくれた。そして私はドアを閉ざして、ゆつくりとあたりを見まはした。あの廣間や、あの暗い廣い階段や、そしてあの長い冷たい廊下などからうけた不氣味ぶきみな印象は、この活々した私の小さな部屋の容子ようすで幾らか消された。その時、肉體的な疲勞と精神的な不安の一日は、もう過ぎ去つて、とう/\今安全な避難所にゐるのだといふことを思ひ出した。感謝の鼓動が、私の胸をとゞろかした。私は寢臺ベッドの傍にひざまづいて、感謝すべきところへ、私の感謝を捧げた。ち上る前に、私は、進むべき道に助けを與へたまへ、なし得ぬうちから既に與へられてゐる、これ程の厚意にふさはしいことを、なし得る力を與へたまへ、と祈ることも忘れなかつた。その夜、私の寢床ねどこには何のうれひもなく、獨りぽつちの部屋にも何の恐怖もなかつた。疲れと滿足とで私はぐつすり眠つてしまひ、眼が醒めた時は全く明るくなつてゐた。
 太陽の光が、ローウッドの裸の床板や、汚れた壁土などゝは比べものにならない、壁紙を張つた壁や絨毯じゆうたんを敷いた床を見せて、明るい空色の更紗木綿さらさもめんの窓掛の間にし込んだとき、寢室は美しい小さな部屋に見えた。それを見ると私の心はおどつた。
 環境は、若い心に大きな影響を與へるものだ。人生の、ひとつの、より輝かしい時期じきが、私にはじまつたと思つた――花やよろこびと共に、荊棘いばらや辛勞をも受けるであらう時期。場面の變化が、希望の世界を開いて、私の才能がいつせいに動きだしてくるやうに思へた。それが期待きたいしてゐることを、明白にすることは出來なかつたけれども、何かしら樂しかつた。――その日か、その月ではなからうけれど、いつかわからぬ未來に於て。
 私は、起きて、注意ぶかく身じまひをした。質素にするやうに餘儀よぎなくされてはゐたが――何故なら、ひどく質素に作つてない着物は、一つも持つてゐなかつたから――でも、私は、もと/\綺麗にしようと氣をつかふたちだつた。身裝みなりを構はなかつたり、自分の與へる印象に不注意だつたりするのは、私の習慣ではなかつた。その反對に、出來るだけよく見せたい、自分のとぼしい美しさの許す限り、人に好い感じを與へたいと思つてゐた。時々は、自分があまり美しくないのをなさけなく思ひ、時々は薔薇色の頬を、鼻筋の通つた鼻を、また小さな櫻桃さくらんぼのやうな口を欲しいとも思つた。脊が高くて、威嚴があつて、姿が美しく伸びてゐるやうになりたいと願つたこともあつた。私が、こんなに小さく、蒼白く、こんなにとゝのはない特徴のある顏をしてゐるのは、まつたく不幸ふしあはせだと思つてゐた。では何故、私は、こんなに野心やしんを持つたり、殘念がつたりするのだらう。それは、ずゐぶん云ひにくいことだ。だから、私は、私自身にむかつてもはつきり云ふことが出來なかつた。しかも、私は理由を持つてゐた、最も合理的な、正當な理由を持つてゐたのだ。しかし、髮をすつかりよくかして、黒い上衣うはぎ――まるでクェイカー教徒みたいだが、少くともきちんと合つてゐるといふだけの價値ねうちはあつた――を着て、そして清潔きれいな白いレースの襟をつけた時には、私は、フェアファックス夫人の前で、十分にひんよく見えるだらうし、また、私の新らしい生徒が、反感を起して、私から遠ざかつたりしないだらうと思つた。寢室の窓を開けて、何ももすつかり、きちんととゝのへて、化粧臺の上に置いてあるのを見ると、私はいさんで室を出た。
 長い敷物しきものを敷きつめた廊下を横切つて、私は滑らかな樫の階段を下りた。そして廣間に出た。そこで、私は、ちよつとの間、足を停めた。私は、壁にかゝつた幾つかの畫や、(私の記憶してゐる一つは、胸甲むねあてをつけた、こはい顏の男の人を寫したもので、一つは髮粉をふつて、眞珠の頸飾りをつけた貴婦人を描いたものだつた。)天井から下つた青銅からかね洋燈ランプや、外側が樫製の、珍らしい彫物のある、年を經たのと手擦てずれで、眞黒になつた大きな柱時計を眺めた。何ももが、莊嚴に、印象的であつた。しかし、その時の私は、さうした壯麗さには、殆んど慣れてゐなかつた。半分硝子ガラスになつてゐる廣間のドアは、開け放してあつた。私は、その敷居しきゐを越えて、歩いていつた。よく晴れた秋の朝で、朝早い太陽が、茶色になりかけた森や、まだ緑色をした畑の上に、靜かに輝いてゐた。芝生しばふの方へ歩きながら、私は、眼を上げて、やしきの前を見渡した。三階建がいだてで、かなりのものだつたが、さう宏大ではなかつた。貴族の邸宅ていたくと云つた構へではないが、紳士の別莊といふやうな建物で、屋根の頂をとりまく鋸壁が、畫のやうな外觀を見せてゐた。その灰色の正面は、白嘴鴉みやまがらすの群を背景に、くつきりと浮き出してゐた。今その群は、啼きながら飛び立つた、さうして、廣い草原に下りようと、芝生しばふや庭を越えて、飛んで行つた。それは伏柵ふせがきで隔てられてゐ、そしてそこには、樫の木のやうに頑丈で、ふしくれだつた、廣く枝を張つた、非常に古い山櫨さんざしの木の列が、直ちにそのやしきの名稱の語源を説明してゐた。遙か遠くの方には、丘陵があつた。それはローウッドをとりまいてゐる丘のやうには高くもなく、巖が多くもなく、また世の中から隔てる防壁のやうでもなかつた。しかし、靜かな物さびしい氣のする丘であつた。さうして、騷々さう/″\しいミルコオト地方のこんな近くにあらうとも思はなかつた靜かな地域で、ソーンフィールドをかこんでゐるやうに見えた。樹々の間に、屋根がまじつてゐる小村が、この丘の一つの中腹に散在してゐた。その地方の教會は、ソーンフィールドにあつた。その古い塔の頂は、家と門との間にある丘の上に見えた。
 私はなほも、靜かな眺望を、新鮮な空氣を樂しみ、白嘴鴉みやまからすの啼き聲をこゝろよく聞きながら、なほも廣い灰白色の廣間の正面を見渡しながらフェアファックス夫人のやうな小さな人が一人で住んでゐるのにしては、何と大きな所なのだらうと考へてゐた。その時、その人が入口に現はれた。
「おや、もうお出まし?」と彼女は云つた。「あなたは早起はやおきでゐらつしやいますね。」私が彼女の傍へ行くと、愛想あいそのいゝ接吻と握手で迎へられた。
「ソーンフィールドはいかゞでゐらつしやいますか。」と彼女はいた。私は大變氣に入つたと話した。
「えゝ、」と彼女は云つた。「いゝ處でございますよ。ですが、ロチスターさんがその氣になつて、始終しよつちゆう、こゝにお住ひになるか、でなくも、せめてもつと度々お出でになるのでなければ、だん/\秩序ちつじよが亂れてくるやうで心配なのでございますよ。大きなおやしきや、立派なお庭などには、持主の方がゐらつしやるのが必要です。」
「ロチスターさん!」と私は叫んだ。「誰方どなたのことでございますの?」
「ソーンフィールドの持主です。」と彼女は靜かに答へた。「その方をロチスターと申上げますことを御存じではございませんでしたか。」
 無論私は知らなかつた――曾て、聞いたことさへなかつた。しかし、この老婦人は、彼の存在は世人周知のことで誰でも天性知うまれつきしつてゐる筈だと思つてゐる容子ようすだつた。
「私は、ソーンフィールドはあなたのものでおりになると思つてをりましたの。」と私は續けて云つた。
「私のですつて? おやまあ、あなたは何を仰しやいます。私のですつて? 私はたゞの家政婦――監理人とりしまりなんでございますよ。えゝ、それは母方で、ロチスター家と私どもとが遠縁になつてをります。少くも私の良人をつとの方はね。良人をつとは牧師でございました。ヘイで――向うの丘の上の小さな村ですが――牧師職に就いてをりました。で、あの御門の近くにある教會は、良人のものでした。今のロチスターさんのお母樣はフェアファックス家の方で、私の良人とは、ふた從姉いとこになるのでございます。でも私はこんなつゞき合ひに附け上つたりなど決していたしませんの――事實そんな事は、私にとつては何でもございませんもの。私は、自分のことをまつたくの普通の家政婦だと思つてをりますの。私の御主人樣はいつも丁寧にして下さいますし、私もこの上、何も望むことはございませんのですよ。」
「では、あの小さいお孃さま――私のお教へする方は?」
「あの方は、ロチスターさんの後見こうけんしてゐらつしやる方でございます。そして、あのお孃様のために家庭教師を一人探すようにと、私にお頼みになつたのでございます。ロチスターさんは、きつと、××州の中でお育てになりたいと思召おぼしめすのでせう。おゝ、あそこへいらつしやいましたよ。ボンヌと御一緒に。保姆ばあやさんのことを、さうお呼びになるんでございます。」これで、謎は説明された。このやさしい親切な小さな未亡人は、立派な奧樣などではなくて、私と同じやうな雇はれの身だつたのだ。でも、その爲めに、私は彼女を好きでなくなつたりはしなかつた。反對に、今までよりも、もつと嬉しい氣がした。私と彼女との間は、事實平等びやうどうなのであつた。彼女の單なる謙遜の結果ではなかつたのだ。さうあればある程いゝ――私の地位は、すつかり、より自由になつた。
 この發見に就いて私が考へてゐるうちに、小さな少女が附添つきそひに從はれて芝生しばふをこつちへ走つて來た。私は、最初は私に氣がつかないでゐたらしい私の生徒に、目をとめた。彼女は、まつたくの子供で、おほかた、七つか八つ位だらう、蒼白い、華奢きやしやな、顏立のほつそりとした身體つきで、ありあまる程の髮がくる/\と捲毛まきげになつて腰のあたりまで垂れてゐた。
「お早う存じます。アデラさま。」と、フェアファックス夫人は云つた。「あなたをお教へして、今にかしこい方にして下さる方のお側へいらして、お話なさいましな。」彼女は近よつて來た。
‘C'est l※(グレーブアクセント付きA小文字) ma gouverrnante?’(この方あたしの先生なの?)」と彼女は私を指して、保姆ばあやいた。その人は答へた。
‘Mais oui, certainemente.’(え、さうでございますよ。)」
「あの方々は外國の方でゐらつしやいますの?」私は佛蘭西語に驚いて訊ねた。
「あの保姆ばあやは外國人でございます。それからアデラ樣は大陸でお生れなすつたので、六ヶ月前までは、きつと大陸をお離れになつたことはないと存じます。初めてこゝへお出になつた時には、英語は一言もお話しになれませんでしたが、今はどうにか間に合はせてゐらつしやいます。でも私にはわからないのでございますよ。佛蘭西語を澤山お交ぜになりますんでね。ですが、あなたは、きつと意味がよくおわかりになりますでせう。」
 仕合にも、私は、佛蘭西の婦人に佛蘭西語を教はる便宜べんぎがあつたし、いつも出來るだけ度々マダム・ピエロと會話をするやうにしてゐたので、それにこの七年間といふものは、毎日一生懸命に、佛蘭西語の方を諳記した――自分のアクセントに苦心して、先生の發音に出來るだけ似せて云ふことに苦心した。佛蘭西語では、ある程度までは、すら/\と正確に云へる自信があつたから、アデェルお孃さんと話しても、それほど、當惑するやうなことは、なささうだつた。彼女は、私が自分の家庭教師だと聞いて、側へ來て私と握手した。で、私は朝食に彼女を連れてゆきながら、彼女の話す言葉で少しばかりものを云ひかけてみた。最初彼女は手短てみじかに答へた。しかし卓子テエブルについてから、彼女はその大きな明るい茶色の眼でものゝ十分も私を凝視みつめてゐたが、不意に續けざまにお饒舌をはじめた。
「あゝ!」と彼女は、佛蘭西語で叫んだ。「あなた、ロウチスターさんとおんなじ位にお上手に、あたしの國の言葉をお話しになるのね。あたし、あの方にお話が出來るやうにあなたにも出來るのね、それからソフィイもね。ソフィイは喜びますわ。こゝにゐる人達は誰もソフィイの云ふ事がわからないの。フェアファックス夫人はすつかり英語でしよ。ソフィイはねえ、あたしの保姆うばなんですのよ。あたしと一緒にけむりの出る煙突のついた大きなお船に乘つて、海を渡つて來ましたの――なんて烟だつたでしよ! そしてあたし氣持が惡くなつたのよ、ソフィイもさうだつたわ、ロチスターさんもさうよ。ロチィスターさんはサロンつて云ふ綺麗なお部屋の安樂椅子ソフアの上におやすみになつたのよ。あたしとソフィイは別の處に小さい寢臺ベッドがありましたの。あたし、も少しでおつこちさうでしたわ、たなみたいなんですもの。あの、先生――あなたのお名前何んて仰しやるの?」
「エア――ジエィン・エアよ。」
「エイル? おや、あたし云へないわ。でね、あたしたちのお船は朝、まだすつかり夜が明けてしまはない内に大きな街に――まつ黒な家があつて、烟だらけな、とても大きな街に着いたのよ。あたしのゐた綺麗な氣持ちのいゝ町とは、まるつきり違ひますの。それからロチスターさんは、あたしを抱いて板の上を通つて、をかへ上げて下さつて、ソフィイは後からいて來て、そして、あたしたちみんな馬車に乘つて、こゝよかもつと廣くて立派なホテルつていふ綺麗きれいな大きなおうちに行きましたのよ。あたしたちは、一週間近くとまつてましたの。あたしとソフィイとは、毎日公園つて云ふ、樹がいつぱいある大きな緑色のところへ散歩するのがおきまりでしたの。そしてそこにはあたしの外に、どつさり子供がゐましたわ。それから綺麗きれいな鳥のゐるお池もあつて、あたしはその鳥にパン屑をやりましたわ。」
「あんなに早くお話しになるのがお解りになりますか。」とフェアファックス夫人がいた。
 私は、マダム・ピエロの流暢に話すのに慣れてゐたので、彼女の云ふことは、よく解つた。
 善良な婦人は、つゞけて云つた。「あなた、この方の御兩親のことを一つ二つおきになつて御覽ごらん遊ばせ。お二人を覺えてゐらつしやいますかしら。」
「アデェル」と私はたづねた。「あなたがお話しになつた、その綺麗な氣持ちのいゝ町にゐらした時は、誰方どなたと御一緒でしたの?」
「ずつと前には、あたし母樣とゐましたの。でも母さまは聖母マリアさまの處へ行つておしまひになつたの。母さまは、いつも踊つたり、歌つたり、詩をそらで云つたりすることを教へて下さいましたのよ。紳士だの貴婦人だのが、大勢おほぜい母さまに會ひに來て、あたしはいつもその人たちの前でダンスをしたり、その人たちのお膝の上に坐つて唄を歌つて上げたりしましたの。あたし、そんな事をするのが好きでしたわ。あのう、今あなたに歌つてお聞かせしませうか?」
 彼女はもう朝食を終へてゐたので、私は彼女の藝能げいのうの見本を見せることを許してやつた。彼女は自分の椅子から下りて、私の膝の上に坐つた。小さな手をおとなしく前に重ねて、捲毛まきげを後に搖りやつて、眼を天井てんじやうの方にあげ、何か歌劇の中の歌を唄ひはじめた。それは棄てられた女の歌だつた。その女が戀人の不實を嘆いた後で、今度は自尊心の助けを求め、最も耀かゞやかな寶石ときらびやかな衣裝いしやうで自分を飾るやうに侍女に云ひつける、そして、その晩、舞踏會でその不實な男に會ひ、こともなげな彼女の態度で男に棄てられても自分は一向平氣だといふことを、彼に見せてやらうと決心するといふのだ。
 その主題は、幼ひ唄ひ手の爲めに選ばれたものとしては、まつたくへんな氣がした。だが、多分その演技の目的は子供の唇に歌はれる戀と嫉妬しつととの調しらべを聽くといふことにあるのだらうが、實にいやな趣味だと、少くとも私は思つた。
 アデェルは、その小唄を大層調子よく、また年相應としさうおうにあどけなく歌つた。これが濟むと彼女は私の膝からび下りて云つた。「今度は先生何か詩を諳誦して上げるわ。」
 氣取きどつた恰好をして、彼女はラ・フォンテエヌのお伽噺の“La Ligue des Rats”(鼠の同盟)をはじめた。その次ぎには、句讀點くとうてんや語勢、聲の抑揚よくやうや場合に應じた身振などに注意して、短かい詩を朗讀した。彼女の年頃にしては、まつたく並々なみ/\ならぬ出來だつた。それは彼女が非常に注意深い訓練をうけたことを示してゐた。
「その詩をお教へになつたのはお母樣ですの?」と私は訊いた。
「えゝ。そして母樣は、いつもこんな風に仰しやつたのよ、“Qu'avez vous donc? lui dit un de ces rats; parlez!”(『では、あなたはどうしたいのか? と鼠の一匹が彼に云つた。お話しなさい。』)あたしに、質問の時に聲をあげるのを思ひ出させようとして――こんな風に――あたしに手を上げさせるの。ぢや今度はダンスをして見せて上げませうか?」
「いゝえもう結構。ですけど、お母さまがあなたの仰しやつた聖母マリアさまの所へいらしてからは、誰方と一緒にゐらつしましたの?」
「フレデリック夫人と旦那樣と一緒に。その方があたしの世話をして下さいましたの。でもあたしとは親類でもなんでもないんですの。あたしね、あの方は貧乏なんだと思ふのよ。だつて母樣みたいな立派なお家ぢやないんですもの。あたし、あそこには長いことはゐなかつたの。ロチスターさんが、あたしに英吉利に行つて一緒にゐないかつておきになつて、あたしもさうしますつて云つたのよ。何故つてあたし、ロチスターさんは、フレデリック夫人より前から知つてるんですもの。それにいつもあたしに親切にして下すつて綺麗な着物や玩具おもちやを下すつたの。だけど、あの方約束をお守りにならないのよ。だつてあたしを英吉利につれていらしてまた一人で歸つておしまひになるんですもの。そしてあたし、それつきりお目にかゝらないの。」
 朝食の後、アデェルと私とは、書齋へ引退ひきさがつた。それは、ロチェスターさんが教室として使ふようにと命じた室らしかつた。大抵の本は硝子ガラス戸の中にしまつてあつたが、一つだけ開けたまゝになつた書棚があつて、初歩の學課に必要なもの全部と數册の輕い文學、詩、傳記、紀行、それと少しばかりの物語等がはいつてゐた。かうしたものが、家庭教師のひとりで讀み得る全部だと彼が思つたのだらうと私は想像した。それに事實、今のところでは、十分に私を滿足させた。ローウッドで、時たま集めることが出來たとぼしい蒐集に比べては、これはまるで娯樂と知識のありあまる收穫を得たやうなものだつた。この部屋には、また、小型の極く新らしい、音のいゝピアノがあり、その外、油畫の畫架ぐわかや一對の地球儀ちきうぎなどがあつた。
 私の生徒は、勉強をするのが嫌ひだつたが、大變すなほなことがわかつた。彼女は、何によらず、規則正しい仕事をするのになれてゐなかつたのだ。私は、最初、餘り彼女を束縛するのは、まづいと思つた。そこで、私は、主としてこちらからいろ/\と話をしてやり、それから彼女に少しばかり覺えさせて、お正午ひる近くになると彼女に保姆ばあやのところへ歸つてもいゝと許した。それから私は、午食ひるめしまでの時間を彼女のお手本にする小さいスケッチを二三枚畫いて過さうと思つた。
 紙挾かみはさみと鉛筆を取りに二階に行きかけると、フェアファックス夫人が私に呼びかけた。「朝の御勉強は、もうお濟みになつたのでございますね。」と彼女は云つた。彼女は、とある部屋にゐて、そこのドアは開いたまゝになつてゐた。彼女に話しかけられたので、私は中へ這入つて行つた。そこは、大きな立派な部屋で、紫色の椅子いすと窓掛、トルコの絨毯、胡桃くるみ[#ルビの「くるみ」は底本では「くるゝ」]の鏡板で飾つた壁、燒付硝子やきつけガラスの立派な廣い窓、ひんのいゝ※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)くりがたのある高い天井などがあつた。フェアファックス夫人は食器戸棚の上にあつた紫泥石しでいせきの、美しい花瓶のほこりを拂つてゐた。
「まあ、立派なお部屋ですこと!」と私は見まはして叫んだ。私はこの半分も立派なものを見たことがなかつたから。
「えゝ、これが食堂ですの。少し風とを入れようと思つて、ちやうど窓を開けたところでした。滅多めつたに使ひませんお部屋は、何ももひどくしめりましてね。あちらの客間なぞまるで地下室のやうでございますのよ。」
 彼女は、窓に相當する廣い迫持アーチの方を指さした。今はしぼつてあつたけれど、やはり窓にするやうにテイリアンいろの窓掛が垂れてゐた。幅の廣い段々を二段上つてずつと見渡してみて、私はおとぎの國を一目のぞいたやうな氣がした。それ程その向うの光景は、新參の私の眼には輝やかしいものだつた。だが、そこは、單に、非常に美しい客間だつた。その中に小さな婦人室もあつて、どちらにもまつ白な絨毯が敷かれ、その上には素晴らしく華麗な花環はなわが置いてあるやうに見えた。また二つとも、白い葡萄と葉のついたつるの模樣の、雪白な※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)くりがたをつけた天井で、その下には深紅しんく[#ルビの「しんく」は底本では「しく」]寢臺ベッド褥椅子オットマンとが、豪奢な對照をなして、燃え立つやうに輝いてゐた。蒼ざめた白大理石の爐棚マントルピイスの上のかざりは、きら/\と光る紅玉色こうぎよくしよくのボヘミア硝子ガラスで出來てゐた。そして、窓の間に、大きな鏡は、これらの雪と火の交錯をそのまゝに映した、
「こんなお部屋をどういふ風にお手入れなさるんですの、フェアファックス夫人?」と私は云つた。「ほこりもないし、ヅックの椅子蔽ひもありません。空氣がひいやりしてゐさへしなければ、毎日お住ひになつてゐらつしやると思へますわ。」
「それはね、エアさん、ロチェスターさんが、こゝにお出になるのはたまのことなのですけれども、いつも突然で、思ひがけないんです。お着きになると、何ももに蔽ひがかけてあつて、ガタ/\大騷ぎをしますものですから、御機嫌が惡いやうなので、ふだんから用意して置くのが一番いゝと思ひましたのです。」
「ロチスターさんは、几帳面きちやうめんな氣むづかしい方でゐらつしやいますの?」
「とりわけさうと申すほどでもありませんが、あの方は紳士らしい好みやくせを持つてゐらつしやいます。それで、萬事御自分のさういふ御氣性ごきしやうにぴつたりするやうにして置くのをお望みなのでございます。」
「あなたは、その方がおきですの? 人にかれてゐらつしやる方ですの?」
「えゝ、えゝ、こゝでは、ロチスター家はいつも尊敬されておゐでになります。この近くの土地は、大抵みなあなたのお目の屆くかぎり、大昔からずつとロチィスター家のものでございますからね。」
「さう、だけど、土地のことなどは別として、あなたは、あの方がお好きですの? ロチスターさん御自身が好かれてゐらつしやるのでせうか?」
「私はもう、あの方を好きだと申上げるより外には何もございません。そして私は小作人たちからも、正しい、寛大な地主だと思はれてゐらつしやると信じてゐます。尤もその人たちと一緒におゐでになつたことは、あんまり、おありになりませんがね。」
「でも、何も特色を持つてはゐらつしやいませんの? 一口で云へば、どんな御性格の方なのでせう?」
「御性質は點の打ちどころもありませんわ! 寧ろ、風變りでゐらつしやるかも知れませんね。隨分旅行を遊ばして、世の中をいろ/\と御覽になつたのでございますよ。私はほんたうにおかしこい方と申上げていゝと思つてをります。尤も私はさうお話しいたした事もございませんけれど。」
「どんな風に、風變ふうがはりでゐらつしやいますの?」
「私にはわかりません――それを申上げるのはむつかしうございます――決して目につく程の事ではございませんけれど、あの方が、あなたに物を仰しやればお解りになりますよ。あなたはあの方が、御冗談だか、眞面目でゐらつしやるのか、また喜んでゐらつしやるのだか、その反對だか、いつだつてはつきりとはお解りになりませんよ。兎に角、あなたには、すつかりお解りになれないと存じますわ――少くとも私には駄目でございますねえ。ですが、こんなことは、何も大したことぢやございません、あの方は本當にいゝ御主人でゐらつしやいますわ。」
 これが、フェアファックス夫人から聞いた彼女と私の雇ひ主に就いての全部だつた。ある性格を描寫したり、人や物の特徴を觀察し説明する場合、まつたく無定見むていけんのやうに思はれる人々がある。この善良な婦人は、明かにこの組に屬してゐるのだ。私の質問は、彼女を當惑させたゞけで、話をさそひ出すことは出來なかつた。彼女の眼には、ロチスターさんは、ロチスターさんであつた。紳士で、地主――それだけなのだ。彼女はそれ以上に、たづねもさぐりもしない。そして彼の正體に就いての、もつとはつきりした意見を掴みたがつてゐる私の望みを、明かにいぶかつてゐたのだ。
 食堂を出ると、彼女は私に邸の他の部分を見せようと申出た。で、私は何處もみなよく配置され、立派なものだつたので、到る所で感嘆しながら、二階や階下を彼女の背後うしろいてまはつた。正面の大きな部屋は、特別に素晴すばらしいと私は思つた。それから三階のいくつかの部屋は、暗くて天井てんじやうが低くはあつたが、その古めかしいさまに趣きがあつた。階下の部屋の用にてゝあつた家具が、流行の變る毎にこゝにはこび移されたのである。そして、狹い窓枠まどわくから入つて來る、ほのかな光が、百年も昔の寢臺ベッドを照らしてゐた。樫か胡桃くるみで作つた櫃には、奇妙な棕櫚しゆろの枝と天童の頭の浮彫うきぼりがしてあつて、ヘブライの經典ををさめた木箱のやうな形に見えた。寄り掛りの高い、狹いいかめしい椅子いすの列、もつと古めかしい腰掛、それには棺の塵になつて二代もつた人の手になつた、やつと見分けられる、すりきれた縫取りの跡がクッションの上に殘つてゐた。これら總ての遺物が、ソーンフィールド邸の三階に、過去の家――追憶の殿堂といふ容子を與へてゐた。晝間ならば、この幽棲の靜けさや暗さや、古雅こがは好ましいものだ、だが、私は、決してその幅の廣いどつしりした寢臺ベッドの一つに、夜の休息を望む氣にはなれなかつた――ある部屋は樫の扉に閉めこまれて居り、またある部屋は、異樣な花や、さらに異樣な鳥や、さらにそれ以上異樣な人間などの像を寫した、もり上るやうに厚ぼつたい刺繍ししゆうに覆はれた、古い英吉利風の垂布カアテンに隱されてあつた――これが蒼ざめた月光に照らし出されたら、まつたくみんな異樣なものに見えるだらう。
「召使ひの人たちは、こちらの部屋で休みますの?」と私はいた。
「いゝえ、あれ達は、裏の方の、もつと小さな部屋の一並びにをります。誰も、今迄こゝに休んだことはないのでございます。若しもソーンフィールドホールに幽靈がゐるのだつたら、こゝがその棲家すみかだらうと申すものもあるやうでございますよ。」
「さうでせうね。では、あなたは、幽靈を御覽になつたことはおありになりまして?」
「いゝえ、聞いた事もございませんわ。」とフェアファックス夫人は、微笑ほゝゑみながら答へた。
「誰かの傳説のやうなものはありませんの――云ひ傳へとか怪談とか?」
「さあ、ないと存じますわ。ですが、ロチィスター家は、昔からおとなしいと云ふよりは、烈しい血統ちすぢの人々だつたと云はれてをります。ですから、却つて、今はお墓の中におとなしく休んでゐらつしやるといふことになるのかも知れませんわ。」
「さうですわね――『人生の激しい激昂げきかうの後、彼等はよく眠つてゐる』」と私は呟いた。「あら、何處へいらつしやいますの、フェアファックス夫人?」彼女は何處かへ行かうとしてゐたから。
鉛板葺レッズ屋根やねの上へ。あなたもおいでになつて、あそこから景色を御覽になりませんか。」
 大變狹い階段を屋根裏へ上つて、そこから梯子はしごを傳つてね上げ戸をくゞり、廣間の屋根へ私はいて上つた。私は、今からすの群と同じ高さにゐる、そしてその巣を覗き込むことも出來た。鋸壁のこぎりかべに凭れて、遠くを見下すと、地圖のやうに展開した土地が見渡せた。つやゝかな天鵞絨びろうどのやうな芝生が、邸宅のいしずゑを近く圍み、公園程もある野には昔ながらの森林が點在し、焦茶色こげちやいろの、葉の落ちた森は、簇葉に蔽はれた樹々よりももつと濃い緑の苔草が生え茂つた小路で區切られてゐる。門の傍の教會、路、靜寂な丘、すべては秋の日の陽光ひかりの中に靜かにやすんでゐる。地平線は眞珠色の大理石模樣をした、快晴の青空に限られてゐる。その景色の中では、異常なものは何もなく、たゞすべては樂しげだつた。屋根の上から戻つて、ね戸を、また潜つた時、私には梯子はしごを傳つて下りる道が殆んど見えなかつた。私が見上げてゐた蒼穹あをぞらや、愉しく見下ろしてゐた、この建物たてものを中心にした、陽に輝いた、木立や草原や緑の丘の景色に比べると、屋根裏は、まるで地下室のやうに眞暗まつくらな氣がした。
 フェアファックス夫人はね戸をめる爲めに、ちよつとの間後に殘つた。私は手搜りで屋根裏からの出口を見附けて、狹いそこの階段を下りようと進んで行つた。三階の表と裏の部屋々々を隔てる階段につゞいた長い廊下で、ふつと私は躊躇ためらつた。ずつと向うの、とつつきに小窓が一つあるばかりで、狹くて低い、その上薄暗く、閉め切つた小さな黒いドアの列が兩側につゞくのが、ちやうどおそろしい『ブリュービアドの城』か何かの廊下のやうに見えるのだつた。
 跫音あしおとを忍ばせて歩く内に、こんな靜かな處で聞かうとは思ひもかけない笑ひ聲が、突然私の耳を打つた。不思議な笑ひ聲――一種獨特な、型でうち出したやうな、少しもをかしくない笑ひ聲だつた。私は立ち止つた。一瞬間でその響は絶えた。が、また前よりも大きく聞えて來た。はつきりしてはゐるが、非常に調子が低いのだ。それは、一つ/\の、もの寂しい部屋の中にゐる木靈こだまを呼び起すやうな騷がしい反響となつて消えて行つた。だが、その聲の源は、一つしかなかつたから、私はどのドアから出てくるかゞわかつた。
「フェアファックス夫人!」彼女が今大きな階段を下りて來るのが聞えたので、私は叫んだ。「あの大きな笑ひ聲をお聞きになりまして? 誰ですの?」
「召使ひの誰かでせう、きつと。」と彼女は答へた。「大方グレィス・プウルでせう。」
「あなたもお聞きになりまして?」と私は再びいた。
「え、はつきりと。彼女あれのをよく聞くのでございますよ。こゝの部屋のどれかでお針をしてをりますから。時々レアも一緒にをります。あの人達はよく一緒に騷ぐのでございますのよ。」
 笑聲は低い、明瞭な調子で繰返されて變なつぶやきに終つた。
「グレイス!」とフェアファックス夫人は呼んだ。
 まつたく私は、グレイスなどといふ人間が返辭をしようとは思つてもゐなかつた。それほど、その笑ひ聲は、今迄聞いたどれよりも悲劇的で奇異なものだつた。そしてそれが眞晝間で、その奇妙な高笑ひに似つかはしい不氣味な有樣もない――こはさを増すやうな場面でも時機でもない、といふのでなかつたなら、私は迷信的にこはくなつたに違ひなかつた。しかしこの出來事は、吃驚びつくりしたりすることさへ、私が馬鹿なのだといふ事を私に示してくれた。
 私の直ぐ傍のドアが開いて、一人の召使ひが出て來た――三十から四十位までの女で、がつしりした、四角張かくばつた體付からだつきで、赤い髮の、きつくて、美しくない顏をしてゐた。これほど殺風景さつぷうけいな、これほど幽靈らしくない幽靈は、殆んど考へられなかつた。
騷々さう/″\し過ぎます、グレイス。」とフェアファックス夫人は云つた。「吩咐いひつけを守るんですよ。」グレイスは、だまつてお辭儀して、這入つていつた。
彼女あれは、お針をしたり、レアの仕事の手傳ひをする者でございますの。」と夫人はつゞけた。「まつたく、缺點がない譯ではありませんが、なか/\よくやりますから。それはさうと、今朝はあなたの新らしい生徒さんとはどういふ鹽梅あんばいでいらつしやいましたか。」
 話はかういふ風にアデェルの事に轉じて、階下の明るい氣持のいゝ處に行くまで續いた。アデェルは、廣間で私たちを迎へようと走つて來乍ら叫んだ――「みなさんお食事ですよ!」そして、「あたし、すつかりおなかがいたわ!」
 フェアファックス夫人の室には、食事の用意が出來て、私共を待つてゐた。

十二


 ソーンフィールドホールへの私の安らかな第一歩が約してくれるやうに思はれた穩かな前途の望は、だん/\場所にれ、住んでゐる人達に親しんでからも裏切られることはなかつた。フェアファックス夫人は、思つてた通りの人で、相當な教育と人並ひとなみの聰明さを持つた、温和な、親切な氣質きだての婦人だつた。私の生徒は、甘やかされ、氣儘にされて、それ故時には我儘も云ふ陽氣な子供だつた。けれど、彼女は全然私の世話に委ねられてゐたし、またどの方面からも、無分別な干渉で、彼女を矯正しようとする私の計畫を妨げなかつたので、すぐ彼女は、氣紛きまぐれな我儘を忘れて從順になり、教へ易くなつて來た。彼女は、すぐれた才能もなく、性質の上でもこれといふ特色もなく、普通の子供の水準レヴェル以上に、一インチでも彼女を上げるやうな、特別に發達した感情も趣味もなかつた。しかし、また水準以下に下げるやうな缺點や惡癖あくへきも持つてはゐなかつた。彼女は、相當の進歩をした、私に對して、快活な、しかし、恐らく大して深くはない愛情を持つた。そして、その無邪氣むじやきさや、陽氣なおしやべりや、氣に入らうとする努力で、お互ひの交際まじはりに滿足する程度の愛着を私の心に起さした。
 ついでに云ふが、これは、子供の無垢むくな性質や、教育家の義務に關して、先づ子供を偶像的に熱愛せよと云ふ嚴肅な主義を抱いてゐる人々には、冷い言葉と思はれるだらう。しかし、私は親の勝手な量見に※(「言+稻のつくり」、第4水準2-88-72)へつらつたり、僞善的口吻こうふんを洩したり、または誤魔化ごまかしの後押しをしようと思つて書いてゐるのではない。私は、たゞ眞實を語らうとしてゐるのだ。私は、アデェルの幸福と進歩を眞心まごゝろからこゝろ懸けてゐたし、幼い彼女がだん/\好きになつた。ちやうど、私がフェアファックス夫人に對して、彼女の親切を嬉しく思ひ、また彼女が私に示すもの靜かな好意や彼女のおだやかな心と性質にふさはしい交際を快く感じるのと同じ程度であつた。だが、とがめたい人は咎めて下さい、私はもつと附け加へたいのだから。私が、時々、たつた一人で、邸内を散歩するとき、門の方へ下りて行つて、そこから、路をずつと眺めるとき、またはアデェルが保姆ばあやと遊び、フェアファックス夫人が貯藏室でジェリイをこしらへてゐる間に、私が三つの階段を上り、屋根裏の刎戸はねどを開けて鉛板葺屋根に出て、遠く離れた野や丘を、また朧げな地平線を遙かにのぞむ時――その時、その限界を越えて見透みとほすことの出來る視力、聞いたばかりで見たことのない生命に充ちた忙がしい世界や、町や、地方に到達することの出來る視力が欲しいと願つた。また、私が持つてゐるよりも一層實際的な經驗を、自分と同じ性格の人と親しく交際し、私の側にゐる人達よりも、もつと性格の違つた人々と知己しりあひになりたいと願つたのだ。私はフェアファックス夫人の長所も、アデェルの長所も尊重した、けれども、もつと違つたもの、もつと生命の溢れるやうな美點がきつとあると信じた。そして、あると信ずるものを見たいと願つた。
 誰か私をとがめるであらうか? 疑ひもなく多數の人が。私は不平家ふへいかと呼ばれるだらう。しかし、私は、どうすることも出來なかつた。じつとして居られないものが私の性質の中に在つた。それが、時々、私をいらだたしめて、苦しめたのであつた。そんな時、私の唯一の救ひは、そこの沈默と靜けさの中に、誰にも妨げられずに、三階の廊下を行つたり來たりして、自分の心の眼に、その前に浮ぶありとある輝やかしい幻想をじつと見つめさせることだつた――確かにそれは數多く輝やかしいものであつた。そしてまた、私の胸は、喜ばしい刺※[#「卓+戈」、U+39B8、114-上-13]で一ぱいだつた。それは、私の心をます/\惱ますけれど、生命を吹き込んでくれる刺※[#「卓+戈」、U+39B8、114-上-14]だつた。中でも一等よいことは、はてしない物語――私が想像でつくり上げた盡きせぬ物語、望んではゐるが、現實の生活には得られなかつた、すべての出來事や活氣や、情熱や感情で活々とした物語に心の耳を傾ける時であつた。
 人間は平穩無事の中に滿足してゐるべきだ、と云ふのは無駄だ。人間には活動がなくてはならない。もしなかつたら、自分で作るだらう。幾百萬の人々は私よりはもつと靜止せいしした生涯に運命づけられてゐる、また幾百萬の人々は彼等の運命にだまつて反抗してゐる。政治的反逆の外にどんなに多くの反逆が、地上に住んでゐる多數の人間の中に、沸き返つてゐるかを誰も知らない。女は一般にきはめて温和だと思はれてゐるが、女も男が感じると同樣に感じ、彼女等の兄弟が要すると同じく、彼女等もその才能を働かし、力を發揮させる場所を要するのである。彼女等もまた男が苦しむとまつたく同じに、餘りきびし過ぎる束縛の爲めに、餘りに絶對的な沈滯ちんたいの爲めに苦しめられるのである。女たちは、プディングをこしらへたり、靴下を編んだり、ピアノをいたり、また袋の縁縫へりぬひをしたりすることに閉ぢ籠つてゐるべきだなどと云ふのは、彼女等よりももつと幸運な境遇にゐる人、即ち、男の考へが偏狹へんけふだからだ。もしも彼女等が今迄彼女等の性に對して、必要だと習慣づけられて來た以上に行爲し、學ばうと欲するとき、彼女等を非難し嘲笑するのは輕卒なことである。
 かうして獨りでゐる時に、私はグレィス・プウルの笑ひ聲――初めて聞いた時ぞつとした、あれと同じ高笑たかわらひ、あれと同じ低い、活氣のない、ハ、ハ、といふ笑ひ聲をしばしば聞いた。私はまた、彼女の笑ひ聲よりも、もつと奇妙な、調子はづれのつぶやきを聞いた。彼女がまつたく何も云はぬ日もあつた。しかしまた、彼女のたてる物音を數へきれないやうな日もあつた。私は、時々彼女を見た。彼女は水鉢みづばちかお皿か或はお盆を手にして自分の部屋から出て來ると臺所へ降りて行つて、直ぐに歸つて來るのが常だつた。大抵は(浪漫的ロマンチックな讀者よ、露骨な眞實を語ることを許せ)黒麥酒くろビールの瓶を持つて歸つて來るのだつた。彼女の外觀はいつでも彼女の奇怪な言葉によつて起される好奇心をにぶらせる役目やくめをした。佛頂面ぶつちやうづらで、落ちつき拂つてゐて、興味が起りうるやうな點は何處にもなかつた。私は幾度か彼女に話をさせようと試みたけれど、彼女は口數の少ない人間と見えて、一言の返辭をするだけで、さうした種類のあらゆる努力はいつも無駄だつた。
 この家の他の人々――即ちジョンとその妻、家婢かひのリア、佛蘭西人の保姆ほぼのソフィ――等は人柄ひとがらのいゝ人たちではあるが、併しこれと云つて面白い所もなかつた。私はソフィとはいつも佛蘭西語で話をしてゐた。そして時々彼女の生れた國の事に就いて質問する事もあつた。けれども彼女は描寫したり物語をしたりする才のある方ではなかつたので大抵の時には質問を續けさせるよりは止めさせる積りのやうな、全く氣のぬけた滅茶苦茶めちやくちやな返辭をするのであつた。
 十月、十一月、十二月と過ぎ去つた。一月の或る午後、フェアファックス夫人は、アデェルが風邪かぜなので、お休みにして欲しいと頼みに來た。それにアデェルは、私自身の子供時代にも時たまのお休み日がどんなに貴いものだつたかといふことを思ひ出させるやうな熱心さで、その願ひを繰り返すので、その點に就いて自分が言ひなりになつてやるのがいゝと思つて、私はそれを許した。非常に寒くはあつたが、その日は晴れておだやかな日和ひよりだつた。長い朝の間ずつと書齋に坐つたきりじつとしてゐるのに私は飽きた。ちやうどフェアファックス夫人が手紙を書いて、ポストに入れるばかりの所なので、私は帽子をかぶり、外套を着て、ヘイまで出しにゆくことを進んで引受けた。二マイル道程みちのりなので、氣持ちのいゝ冬の午後の散歩になりさうだつた。私は、フェアファックス夫人の部屋の煖爐だんろの傍の小さな椅子いす心地こゝちよげに腰かけてゐるアデェルを見に行つて、遊び相手に彼女の一番いゝ蝋人形(いつも私が銀紙ぎんがみにくるんで抽斗ひきだしの中にしまつておくもの)と遊び飽いたときの用意におはなしの本を出してやつて、彼女の「早く歸つてね、私の好いお友達大すきなジャネットルヴネ・ビアントウツ・マ・ボナミ・マ・シエル・マトモアゼル・ジアネット。」に接吻で答へると、私は出かけた。
 つちは固く、空氣は靜かで、私の行く路には人一人ゐなかつた。私は、身體があたゝかになるまで、急ぎ足に歩いた。私は、その時、その場で靜かに浮かんで來たさま/″\な愉悦よろこびを味ひ、分析しようとゆつくり歩いた。三時だつた。鐘樓の下を通ると、教會堂の鐘が時刻を報じた。傾きかけて光のせた陽の中に、次第に近づいて來る夕暮の中に、その時刻の美しさがあつた。私は、ソーンフィールドから一マイルの、夏は野薔薇に、秋は胡桃くるみきいちごに名高い、そして今も猶野薔薇と山櫨さんざしは少しばかりの珊瑚色さんごいろの實の殘つてゐる小徑にゐた。しかし、このあたりの冬の一番の樂しみはまつたくの靜寂と葉の落ちつくした休息とにあるのであつた。かすかな風が動いても、こゝでは何の物音もしなかつた。葉をそよがせるひいらぎも常盤木も一本もないからだ。そして裸になつた山櫨さんざしはしばみの藪も、まるで道路の中央に敷いてある白いり減らした石のやうにじつと身動きもしないのであつた。遠く廣く兩側はたゞ野原ばかりで、今は家畜もそこで草をんではゐない、そして時々生垣の間を飛びまはる小さな茶色の鳥が散り忘れた朽葉のやうに見えた。
 この小徑が丘を上つて、ずつとヘイに向つてゐた。中腹まで來たので、私は野原の方へ下る段々に腰を下した。外套を身體にひきしめて、手をマフの中に入れてゐたので、寒さは感じなかつたが、寒さは、土手道に張りつめた氷を見ても知られるやうに凍りつくほどだつた。そこは今は凍りついてゐるが幾日か前の急な雪解ゆきどけの爲めに小川が溢れた所なのだ。私の坐つてゐる所からはソーンフィールドが見下された。灰色の鋸壁のこぎりかべのあるホオルは、眼下の谷間での目ぼしいもので、その森や暗いからすの巣は西の空を背にして立つてゐた。太陽が樹々の間をすぎて赫々あか/\と鮮やかにそのうしろに沈んでしまふまで私はじつとしてゐた。それから東の方へ向つた。
 見上げる丘の上には上りかけた月が浮かんでゐた。まだ雲のやうにうすかつたが次第に光輝を増し、半ば樹の間にかくれて、僅かな煙突えんとつから青い煙を流してゐるヘイの上を照した。未だ一マイルの距離があつたが、私は、この極めて深い靜寂の中で、その町の活動のかすかな響を明かに聞くことが出來た。私の耳は、また、流れる水を――何處の谷間か山峽か、私には分らなかつたが、感じた。しかし、ヘイの彼方には、澤山の丘があつたから、澤山の小川がその間を縫つてゐたのに違ひなかつた。夕暮の靜けさが、道ばたのせゝらぎの音も、遠くの風の音も一樣に傳へた。
 そのとき、遠く、しかもはつきりした荒々しい響きがその美しい流の音や囁きを壞してしまつた――パカ/\と音高く響く金の音が、やはらかなさゞなみの立つ音を消してしまつた。ちやうど、畫の中で岩石の重いかたまりや、または大きな※(「木+解」、第3水準1-86-22)の木の瘤立つた幹が、黒々と濃く前景に描かれて、空色の丘や陽の照つてゐる地平線や、色と色とがけ合つた斑の雲などの濃淡のうたんのある遠景を消してしまつたやうなものだつた。
 その喧しい響は土手道どてみちからだつた。馬が來るのだ。曲りくねつた小徑は、まだ馬を隱してゐたが、近づいて來た。私はちやうど段々を離れようとしてゐた。しかし路が狹いので、それが行き過ぎるまでと思つて坐つてゐた。その頃は私もまだ若かつたから! いろ/\な明るいまた暗い空想が、私の心に宿やどつてゐた。子供部屋で聞いたお伽噺の記憶も他のくだらないものゝ中に交つてゐた。そしてそれを再び心に思ひ起したときには、成熟しかけた若さといふものが、それに幼い頃與へ得たもの以上の生々しさと本當らしさを附加へた。で、この馬が近づいて來るのを、そして薄暗うすやみのなかに現はれて來るのを凝と見てゐるとき、私はベシーの話の何かを思ひ出した。その中には Gytrashガイトラッシュ といふ北英吉利きたイギリスのおばけのことが語られてあつた。それは馬だの騾馬らばだの大きな犬だのゝ形で淋しい道に出沒し、また時にはちやうど今この馬が私の方にやつて來るやうに、道に行きくれた旅人を襲ふといふのだ。
 馬は、間近まぢかに迫つてゐたが、まだ見えなかつた。その時、蹄の音の他に、生垣の下に騷々しい物音がしたと思ふと、榛の幹の直ぐ下を逞しい犬がすつと走りぬけた。その白と黒の毛色が、木々の中に際立きはだつて鮮やかに見えた。これこそベシーの Gytrashガイトラッシュ ――長い毛と大きな頭とを持つた獅子ししのやうな動物の姿だつた。しかしそれは私の傍をまつたく靜かに通りぬけた。私が半ば期待してゐたやうに、立ち止つて奇怪きくわいな犬以上の眼で私の顏を見上げるやうなことはなかつた。續いて馬が來た――脊の高い馬で、背には乘手のりてがゐた。その男、即ち人間は忽ち咒文を破つてしまつた。何物も Gytrashガイトラッシュ に乘つたものは曾てない。Gytrashガイトラッシュ はいつもひとりだつた。それに私の考へでは、おばけといふものは、口のけないけものの身體を借りるかも知れないけれど、普通の人間の姿を借りることは到底出來ないのだ。だから Gytrashガイトラッシュ ではなくて、これは――ミルコオトへ近道をする一人の旅人に過ぎないのだつた。彼は通り過ぎた。そして私は歩き出した。數歩のところで私はふり返つた。すべつた音と「今になつてチエ、何と云ふことをして呉れるんだ」といふ叫びとたふれる物音が私の注意を惹いた。人も馬も倒れてゐた。彼等は土手道をなめらかに固めた氷の上で滑つたのだ。犬は馳せ歸つた。そして主人のこのさまを見、馬のうめくのを聞くと、身體相當の太いその聲が、丘にこだまするまでに吠え立てた。彼は倒れたものゝ周圍を嗅ぎまはり、それから私の方へ駈けて來た。これは犬に出來るすべてだつた。――呼ばうにも手近てぢかに助けを頼むものは、私の他にないのだから。私は犬の後にいて、頻りと馬から身をふり離さうともがいてゐる旅人の處まで下りて行つた。彼の努力が大變に勇敢であつたので、私は大した怪我ではあるまいと思つたがいて見た――
「お怪我をなすつたのですか。」
 彼は何かぶつ/\のゝしつてゐたらしいが、私にはわからなかつた。がとにかく咒文じゆもんのやうなものをとなへてゐたので、直ぐには返辭をしなかつた。
「私、お手傳ひいたしませうか。」とまた私はいてみた。
「端の方に寄つてゐらつしやらなくてはいけません。」と先づ膝を立て、次には足で立ち上りながら、彼は答へた。私はその通りにした。その時、忽ち犬の吠える聲と一緒に、苦しげな喘ぎやひづめの音が騷がしく相次いで起り、そのお蔭で實に數ヤードか離れたところまで私は飛びのいてゐた。だが飛びのいて初めてわかるまでは、そんなに遠くの方まで逐ひやられようとは思つてゐなかつたのだつた。結局これは仕合しあはせだつた。馬は起き上り、犬も「靜かにしろ! パイロット」と云はれてしづまつたのである。旅人は、今度は身をかゞめて、自分のすねや爪先を怪我がないかどうかしらべるかのやうに觸つてみた。幾分すね爪先つまさきに何か故障があるやうだつた。彼はたつた今私が立ち上つたばかりの段々の方へびつこをひいて行つて、坐つてしまつたから。
 私は役に立ちたい、でなくも少くともおせつかいをしたい氣になつてゐたと思ふ。だから、私は、また彼に近づいて行つた。
「もしか、お怪我けがをなすつたので、人手がお入用でしたら、私、行つて、ソーンフィールド莊からでもヘイからでも、誰かを呼んで參りませうか。」
「いや有難う、どうにかなりませう。骨が折れたのぢやないんだから――なに、一寸くぢいたゞけです。」そして彼は、また立上つて、足の方をためしてみた。しかし、その結果は我にもあらず、「あゝ」といふ聲を出させた。
 晝間の明るみがまだいくらか殘つてゐて、それに月もあはい輝きを増して來た。それで私ははつきりと彼を見ることが出來た。彼の身體は、毛皮襟の鋼鐵はがね留金びじやうのついた乘馬外套にくるまつてゐた。細かなところまではわからなかつたけれど中脊ちうぜいで可成の胸幅だといふ大體のところは知られた。彼は、きつい目鼻めはなだちと、暗い額を持つた憂鬱な顏をしてゐた。今は、その眼も寄せた眉も、思ひ通りにならないので忌々いま/\しさうにいら/\してゐた。彼は、青年期を過ぎてゐたが、まだ中年にとゞいてゐなかつた。恐らく三十五位だつたらう。私は、彼に對して恐れも、またいさゝかはぢらひも感じなかつた。もしも彼が美しい颯爽さつさうとした若い紳士だつたとしたら、私は、相手が氣がすゝまないのに、こんなにものをたづねて、そして頼まれもしない手助けをしようと、強ひて立つてはゐなかつたらう。私は、今まで殆んど美貌の青年を見たこともないし、生れてから一度もまた話しかけたことがなかつた。優美いうび典雅てんが勇侠ゆうけふ、魅力を理論的には尊敬し、讃美してはゐたが、假りにこれ等が男性の姿をとつて、私の眼前に現はれたならば、私は本能的にそれ等のものが私の中の何とも共鳴せず、また共鳴させられないことを悟り、ちやうど人が、火や稻妻いなづまや又は美しいが何となく蟲のすかないものを避ける樣に避けて了つたのだらう。
 私がものを云ひかけたとき、かりにこの見知らぬ人が、私に微笑ほゝゑみかけて、機嫌よかつたとしたゞけでも――私が手傳はうと申出たのを、快活にお禮を云つてことわつたのだつたら、私は自分の途を行つてしまつて、重ねてたづねようとする使命を感じもしなかつたのだらう。けれど、この旅人の眉をひそめた愛想のなさが、私を心安くしたのだつた。彼が私に手を振つて行かせようとしたときも、自分の場所に留つてゐてかう云つた――
「私、こんなにおそく、この寂しい小徑こみちにあなたをお殘ししては置けない氣がします、あなたが馬にお乘りになれるのを見るまでは。」
 私がかう云つた時、彼は私をじつと見た。今迄彼は殆んど私のゐる方へ目を向けない位だつたのである。
「あなたはお宅へお歸りにならなくてはいけないでせう、」と彼は云つた。「この御近所なら。何方どちらからお出になつたのです?」
「直ぐこの下の方から。私、月夜には、おそくなつても、ちつともこはくありません。お望みでしたら、喜んでヘイまで走つて行つて參りますわ。實は、ヘイまで手紙を出しに行くところなのです。」
「直ぐこの下に住んでゐるつて――ぢあ、あの鋸壁のある家のことですか?」と、彼は指した。ソーンフィールド莊の上には、月が灰白色の光を投げて、西の空と對照をなして、今は一塊の影のやうに見える森から建物たてものをしろ/″\と鮮やかに浮き上らせてゐた。
「えゝ。」
「誰の家です?」
「ロチスターさんのですの。」
「あなたはロチスターさんを知つてゐますか?」
「いゝえ、まだお目にかゝつたことはありません。」
「すると、家にゐないのですか?」
「えゝ。」
「何處にゐるか、御存じですか?」
「存じません。」
「あなたはあそこの女中ぢやありませんね、無論。あなたは――」彼は言葉を切つて、私の服裝みなりに目を走らせた。平常ふだんの儘のまつたく質素な黒いメリノの外套と羅紗らしやの帽子、どちらも小間使こまづかひの半分も立派ではなかつた。私が何をしてゐるかを判定しかねてゐる模樣だつたので私は口を添へた。
「家庭教師でございますの。」
「あゝ家庭教師!」と繰返して云つて、「さうだ、すつかり忘れてゐた! 家庭教師!」そしてまた私の服裝をじろ/\見た。二分間ばかりのうちに彼は段々から立上つた。歩き出さうとして、彼の顏はいたみをあらはした。
「人を呼んで來ていたゞくことは出來ませんが、宜しかつたらあなたに少し手傳つて戴きませう。」と彼は云つた。
「どうぞ。」
「杖になるやうな蝙蝠傘かうもりがさをお持ちぢやないですね?」
「えゝ。」
「ぢあ、馬の手綱をとつて、私のところまで連れて來て下さい。こはくはないでせう?」
 私一人きりだつたら馬に觸るのはこはい筈なのだが、彼に言はれるとその通りにする氣になつた。私はマフを段々の上に置いて脊の高い馬の方へと上つて行つた。手綱を取らうと苦心するのだが、疳の強い動物で頭の近くへも寄せつけない。私は幾度か骨折つたが駄目だつた。それに私はその踏みならしてゐる前脚が無性に恐ろしかつた。旅人は暫く待つて凝と見てゐたが、とう/\笑ひ出してしまつた。
「さうだ、」と彼は云つた。「山をマホメットの處へ持つて來ることは出來ないが、マホメットを山の方へ行かせることはあなたにも出來るんだ。あなたにこゝに來て戴かなくちやなりますまい。」
 私は行つた。「失禮ですが、」と彼は續けて云つた。「仕方がありません。あなたに役に立つて戴く外はなくなりました。」彼は、がつしりした片手を私の肩にかけて、いくらかの重みで私にもたれかゝり、馬までびつこを引いた。だが一度手綱たづなを取ると、彼は、すぐにそれをあやつつて、鞍に飛び乘つた――その努力をしてゐたとき、彼はひどく顏を顰めた、挫傷がねぢれたのだ。
「今度は、」と堅く噛んでゐた下唇をゆるませて彼は云つた。「ちよいと私の鞭を取つて下さい。生垣の下にあります。」
 私は、探して、見付けて來た。
「有り難う。では早くその手紙をヘイまで持つてゐらつしやい。そして出來るだけ早く歸つていらつしやい。」
 拍車はくしやのついた踵が一度觸れると、馬は、最初驚いて竿立さをだちになつたが、やがて行つてしまつた。犬はその後を追つた。三つのものはみんな姿を消してしまつた。
荒野の中の灌木ヒイスのごとく
荒々しき風に捲かれて去りぬ。
 私は、マフを取上げて、歩みを續けた。思ひかけない出來事が起り、そしてもう行き過ぎた。それはある意味で重大でもなく物語的でもなく興味を感じる程でもない出來事だつたには違ひない。けれどもそれは、私の單調な生活のたつた一時間を變化で記號しるした。私の助力が必要だつたし要求された。そして私は與へた。私のしたことが喜ばれた。その行爲はつまらない小さなものだつたとしても、なほこちらから働きかけたものであつた。そして私は何もかも受身うけみの生活には飽々あき/\してゐたのだ。あの初めての顏もまた、私の記憶の畫廊の中に持ち込まれた新らしい畫のやうなものだつた。そしてその畫は其處にかゝつてゐる他のものとはすつかり違つてゐた。第一に男性のである故に、また第二に黒くたけいかめしい故に。ヘイに來てからも手紙を郵便局へ入れた時も、まだその顏は私の前に浮かんでゐた。急いで丘を下つて家への道を辿るときも私はそれを見た。先程の段々まで來たとき、私は一寸立止つて、馬のひづめの音がまた土手道に響くやうな、そして Gytrashガイトラッシュ のやうなニウファウンドランドの犬と外套を着た乘手のりてがまた現はれて來るやうな氣がして、四圍あたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はし耳を澄ました。見えるのは月に屆きさうに靜かに眞直に突立つた目の前の生垣を刈り込んだ柳の木ばかりだつた。聞えるのは一マイル向うのソーンフィールドをとりまく樹々の間を時折行く極くかすかな風の音ばかりだつた。そしてその囁きの方をちらと見下したとき、やかたの正面をうつした私の眼は窓に輝やく燈火ともしびを認めた。晩くなつたことに氣がついて私は道を急いだ。
 私は、またソーンフィールドに這入つてゆくのが、いとはしかつた。その閾をまたぐことは沈滯に返ることであつた。しんとした廣間をよぎつて、暗い階段を昇り、人氣のない自分の小さな室に行き、次には靜かなフェアファックス夫人に會つて、長い冬の夜を彼女と一緒に、しかも彼女とのみ過すといふことは、歩くことによつて起されたかすかながらの刺※[#「卓+戈」、U+39B8、121-下-17]をまつたくしつけてしまふことであつた――私の才能に、單調な目に見えない生活のかせをはめることであつた。靜寂と安易の特典をつた生活は、もう私には尊重し得ないものとなりつゝあつた。不安な苦しみの多い人生の嵐にもまれたことや、今は不平を言つてはゐるが平和を得る爲めの困難な苦しい經驗に教へられたことは、そのとき、私にどんなに利益りえきになつたことだらう? さうだ、ちやうど「安樂すぎる椅子」にじつと腰かけて飽々あき/\してゐる人に、遠くまで散歩させると同じ程のいゝことをしてくれたのだ。そして、その人の場合とおなじく、今、私の場合にも動き出したいと願ふのは當然のことであつた。
 私は門のところにためらひ、芝生しばふの上にためらつた。鋪石道を往きかへりした。硝子戸ガラスど鎧戸よろひどしまつてゐて内部を見ることは出來なかつた。そして私の目も心も陰鬱な建物――明りのとほらぬ小室ばかりの、灰色の洞窟と私には思はれる――から、私の前に擴がつてゐる大空、雲のみもない青い海へ引き寄せられるやうに思はれた。月はその空へおごそかな行進をつゞけて昇りつゝあつた。出離れた丘の頂きを遠く遙かに下に見て、測り知れぬ深みと距りにある深夜の暗黒――天心を仰ぎめざすがごとく。月の歩みに從ふまたゝく星の群は見上げる私の心をふるはせた。彼らをながめて私の血は燃えた。ちよいとしたことが我々を地上に呼び戻す。廣間で柱時計が打つた。それで十分だつた。私は月や星を後にして潜戸くゞりどを開け中に這入つた。
 廣間は暗くはなかつた。高くつるした青銅の洋燈ランプの外には灯はまだけてはなかつたけれど。別に暖かみのある光が廣間と※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしの階段の下の方の段をおほつてゐた。このべにを帶びた輝きは大食堂から洩れて來るのであつた。二枚折の戸は開け放しになつてゐて、爐格子ろがうしの中には勢よく火が燃え、こゝろよい光で大理石の灰皿や眞鍮の火箸ひばし十能じふのうに輝き、紫の掛布や磨きをかけた家具類を照し出すのが見えた。それから爐棚ろだなの近くには人の集りが同じやうに照し出された。が、私には殆んどその集りが誰だか見分けることが出來るか出來ぬ中に、また、快活な聲がもつつてゐるのを聞きとることが出來るか出來ぬ中に(その間にアデェルの聲を聞きわけたやうに思ふ)、ドアしまつてしまつた。
 私はフェアファックス夫人の部屋へ急いだ。こゝにも火はあつたが、蝋燭もなければ夫人もゐなかつた。その代りにたゞ獨り敷物の上に眞直まつすぐに坐つて、嚴然と燃える火をみつめてゐる犬、ちやうど、あの小徑で見た、ガイトラッシュと同じやうなたくましい黒白の、毛の長い犬がゐる。あまりそつくりなので私は前に進んで「パイロット」と云つてみた。すると起き上つて私の方にやつて來て私を※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)いだ。撫でゝやると、大きな尻尾を振つた。だがどうも獨りぽつちの[#「獨りぽつちの」は底本では「獨バぽつちの」]お相手には氣味のよくない動物のやうな氣がするし、何處からやつて來たのかもわからないので私は呼鈴ベルをならした。蝋燭を欲しいのと、これはどうしたお客さまだかをかうと思つたのである。レアが這入つて來た。
「これはどうした犬ですの?」
「旦那さまがお連れになりましたの。」
誰方どなたですつて?」
「旦那さま――あのロチスターさんですわ。先刻さつきお着きになつたばかしです。」
「あゝさう。で、フェアファックス夫人は御一緒?」
「え、アデェルさまも御一緒ですの。皆さま御食堂にゐらつしやいます。それから、ジョンは外科のお醫者さまへ參りました。旦那さまがお怪我けがをなすつたもので。うまころんでくるぶしをお挫きになつたのでございますつて。」
「馬はヘイ・レインでころんだの?」
「え、丘を下りようとして、氷の上ですべつたのでございます。」
「あゝ、蝋燭を持つて來て下さらない、レア?」
 レアは蝋燭を持つて來てくれた。後からフェアファックス夫人も來て、今の話を繰り返し、外科醫のカーターさんが來て、今ロチスター氏の所にゐると云ひ足した。それから、彼女はお茶の指圖さしづをする爲めに急いで行つてしまひ、私は着更へをしに二階へ上つた。

十三


 ロチスター氏は、外科醫の命によつて、その晩は早く床に入つた容子であつたが、翌朝になつても却々なか/\起きては來なかつた。彼が階下へ下りて來たのは、事務をる爲めであつた。彼の代理人や小作人達が來てゐて、彼と話をしようと待つてゐた。
 アデェルと私は、その時書齋を立退たちのかなければならなかつた。そこは訪問者の爲めの應接間に毎日使はれてゐたから。二階の室に火がかれてゐたので、私はそこへ書物を運んで、以後そこを勉強部屋にするやうに整頓せいとんした。朝の時間がたつてゆくうちに、私はソーンフィールド莊が變化してゐることを認めた。もう教會のやうな靜けさはなく、一時間ごとか二時間ごとに、ドアを叩く音や、呼鈴ベルを鳴らす音が家中に響いた。廣間を横ぎる跫音あしおとも度々すれば、階下では聞き馴れない聲が樣々な調子で話をしてゐるのも聞えた。外の世界から來た流がこの家の中を通つて流れてゐるのであつた。主人がゐるのだ。私としてはその方がずつとこのましかつた。
 その日アデェルを教へるのは容易なことではなかつた。彼女は勉強に身を入れることが出來なかつた。彼女は始終しよつちゆう入口の所へ駈けて行つては手摺てすりの上から、一寸でもロチスター氏をひと目でも見れはしまいかと覗いた。かと思ふと私はすぐに見ぬいたのだが、書齋へ行く爲めに口實を作つて階下したへ下りて行かうとしたりした。行けば邪魔になるのは私にもわかつてゐた。そこで私が少し怒つて見せておとなしく坐らせると、今度はしつきりなしに、彼女の稱號しようがうに從へば、彼女の友達アミイムシュウ・エドアルド・フェルファックス・ド・ロチスター(私は今迄彼のクリスチヤンネェムは聞いてゐなかつた)に就いて話しつゞけるのであつた。そして、彼がどんなお土産みやげを持つて來たか當てゝみたりした。何故といふのに、前の晩ロチスター氏の荷物がミルコオトから着いた時、その中に彼女を喜ばせるやうな物の入つた小さな箱が一つあると彼がほのめかしておいたらしかつた。
“Et cela doit signifier,”」と彼女は云つた。「“qu'il y aura l※(グレーブアクセント付きA小文字) dedans un cadeau pour moi, et peut ※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tre pour vous aussi, mademoiselle. Monsieur a parl※(アキュートアクセント付きE小文字) de vous: il m'a demand※(アキュートアクセント付きE小文字) le nom de ma gouvernante, et si elle n'※(アキュートアクセント付きE小文字)tait pas une petite personne, assez mince et un peu p※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)le. J'ai dit qu'oui: car c'est vrai, n'est-ce pas, mademoiselle?”(ですからね、あの中には、あたしに下さる贈物カドウがあるのよ、そして多分あなたにもね、先生。小父をぢさまは、先生のことを仰しやつたわ。あたしの先生のお名前をいたわ。そして、小ちやな、可成り痩せて蒼白あをじろい方ぢやないかつて。あたし、さうですつて云つたの。だつてさうなんですもの。ね、先生、さうぢやない?)」
 私も私の生徒も、いつものやうに、フェアファックス夫人の居間で食事をした。お晝過ぎからは模樣もやうで、雪も降り出した。私たちはずつと勉強部屋で過した。暗くなつて、私はアデェルに本とお稽古けいこをしまつて階下したへ行つてもいゝと云つた。割合に階下が靜かになつたことや、入口の呼鈴ベルの響が杜絶えたことからして、もうロチスター氏も暇になつたのだと思つたからである。獨りになると私は窓際へいつた。だが何も見えなかつた。黄昏たそがれと雪片に空氣は曇り、芝生の灌木くわんぼくさへ見えなくなつてゐた。私は窓掛を下して火の傍へ戻つた。
 明るい餘燼よじんを見つめながら、私は前に見たやうな氣のするライン河の岸のハイデルベルクの城の繪に似た景色を想つてゐると、そこへフェアファックス夫人が這入つて來た。それで、私が火を眺めて描いてゐた剪嵌細工モザイクはすつかりこはされて、それと一緒に獨りぽつちの寂しさを襲ひはじめてゐた、なんとなく重い嫌な氣もまた散つて了つた。
「ロチスター氏が、今晩、あなたもあなたの生徒さんも、お客間で御一緒に、お茶を召し上つて下さらないかと云はれます。」と彼女は云つた。「あの方は一日中暇なしでゐらしたものですから、今まであなたにお目にかゝることもお出來にならなかつたのです。」
「お茶の時間は何時でせう?」と私はいた。
「六時ですの、田舍こちらにゐらつしやると、いつも早寢早起をなさるものですから。もうお召換めしかへをなすつた方がようござんすよ。私も御一緒に行つてお手傳ひをしませう。蝋燭はこゝにあります。」
「着物を着換きかへなくてはいけませんの?」
「え、さうなすつた方がようござんす。ロチスターさんがゐらつしやるときには、私も夕方にはいつも着換へますのですよ。」
 この禮儀の追加は少しもの/\しい氣がしたが、とにかく私は自分の部屋に行つてフェアファックス夫人に手傳はれながら、黒い毛織の服を黒の絹のにへた――銀鼠のをのけると、私の持つてゐるものでは最上のそして、たつた一つ餘分に私が持つてゐる晴着なのだ。銀鼠の方は、みじまひについての私のローウッド仕込みの[#「ローウッド仕込みの」は底本では「ローウッド仕み込の」]考へでは、第一の場合でなくては立派すぎて着られないと思ふのであつた。
襟止めブロウチりますね。」とフェアファックス夫人が云つた。私はテムプル先生がお別れの形見かたみに下さつた小さな眞珠の飾を持つてゐた。それを附けて、私たちは階下したに下りて行つた。世慣れない私には、かうして改まつて、ロチスター氏の前に呼び出されることが何だか厄介のやうに思はれた。私はフェアファックス夫人に先に立つて貰つて食堂へ這入り、部屋をぎるときもずつと彼女の蔭になつて、その時にはもう垂布カアテンを下ろしてある例のアアチを通つて、その向うの優雅な奧まつた方へ這入つた。
 卓子テエブルの上には蝋燭が二本、爐棚ろだなの上にも二本ともされて立てゝあつた。明るい爐の火と光と熱に温まり乍ら、パイロットが寢そべり、傍にはアデェルが坐つてゐる。ロチスター氏は少しよりかゝりぎみに長椅子にかけ、足をクッションの上に載せてゐた。彼はアデェルと犬を眺めてゐる、その顏一杯にあか/\と火が輝いた。太く黒い眉、黒い毛を横にかして[#「梳かして」は底本では「溶かして」]あるので益々かくばつて見えるいかついひたひ、それでもつて私は彼をあの旅人だと知つた。美しさよりは性格を表はしてゐる點で眼立つきつぱりした鼻、癇癪かんしやくもちらしい開いた鼻孔びこう、怖ろしい口元、おとがひあご――さうだ、みんな隨分こはさうで、そして間違ひはなかつた。今、外套を脱いだ彼の姿はその顏と調和よくまつ四角だつた。多分體育の方の意味から云へば立派な容姿ようしなのであらう――胸が廣くて腰が細く、脊もあまり高くなくすらりとしてもゐなかつたが。
 ロチスター氏は、フェアファックス夫人と私とが這入つて來たことに氣がついた筈だ。けれども私たちが近づいても頭をあげようともしないのをみると、彼は私たちに眼を向ける氣持になつてゐないらしかつた。
「エア孃をお連れいたしましたが。」とフェアファックス夫人はいつものやうに物靜かに云つた。彼は會釋ゑしやくした、しかしその眼は犬と子供の方から離さないまゝであつた。
「エア孃にお掛けになるやうに。」と彼は云つた。その強ひてしたやうなぎごちないお辭儀じぎにも、氣短かなそれでゐて固苦かたくるしい言葉の調子にも、何かその上にかう云つてゐるやうに思はれるものがあつた。「エア孃がゐようとゐまいと、それが俺にとつてどうなんだ。今俺は彼女に物を云ひかけるやうな氣持ぢやない。」
 私は氣やすくなつて腰かけた。到れりつくせりの挨拶をうけたなら、私は多分困つたことだらう。私はその挨拶に應じるやうな、しとやかさも優雅さも返すことが出來なかつたらうから。しかしひどい氣紛きまぐれであつかはれたので、私もお義理な氣持に縛られなくて濟むのであつた。却つてこの氣紛れなふるまひに相應ふさはしく、靜かに沈默をつゞけてゐることは、私を都合のいゝ位置に置いた。それにこの振舞の突飛とつぴさには、ちよいと味ひがあつた。彼がどういふ風に後をつづけて行くかと思つて、私は興味を感じた。
 彼のやり方は、石像と異ならなかつた――つまり彼は物も云はなければ、身動きもしなかつたのだ。フェアファックス夫人は誰かゞ愛想よくしなくてはいけないと思つたらしく話しはじめた。いつものやうに優しく――またいつものやうにどちらかと云へば平凡に――彼が終日たづさはつてゐた仕事のせはしさのことや、挫傷ざしやうの痛みが彼を苦しめてゐるに違ひないなどゝ彼を慰めたり、彼が仕事を根氣こんきよく運んでゆくと云つて賞讃した。
「マダム、お茶が欲しいんだが。」彼女の得た答は、この一言であつた。彼女はあはてゝ呼鈴ベルを鳴らした。そしてお盆が來ると、彼女は甲斐々々しく、手早く茶碗や匙などの用意をはじめた。私とアデェルとは卓子テエブルの方へ行つた。しかし御主人は長椅子を離れようともしなかつた。
「あなた、ロチスターさんのを差上げて下さいませんか。」とフェアファックス夫人が私に云つた。「アデェルは、きつとこぼすかも知れませんから。」
 私は命じられたやうにした。彼が私の手から茶碗を受け取つた時、アデェルは私の爲めにねだるのに都合のいゝ時だと思つたか、聲を上げた――
“N'est-ce pas, monsieur, qu'il y a un cadeau pour Mademoiselle Eyre dans votre petit coffre?”小父をぢ樣、あの小箱にエア先生に上げる贈物カドウもあるんぢやなくて?)」
「誰が贈物カドウのことを云つたのだ?」と彼は聲荒く云つた。「あなたは贈物カドウをあてにしてゐたのですか、エア孃。あなたは贈物が好きですか。」そして彼は私の顏を探るやうに見た、その眼は暗く腹立はらだたしげで、突き通すやうだつた。
「私よく存じません。私にはそんな經驗が殆んどございませんでしたから。一般には嬉しいものと考へられてゐるやうでございますが。」
「一般には考へられてゐるつて? だが、あなたはどう思ひます。」
理解わかつて戴けるやうな御返辭を申上げますのには私少し手間てまどりさうでございます。贈物にはいろんな意味があるのぢやあございませんかしら。ですからそれに就いて意見を云ふ前にみんなをしらべて見なくてはなりませんでせう。」
「エア孃、あなたはアデェルのやうに、無邪氣ぢやありませんね。あの子は私を見るや否や、やかましく贈物をねだつたが、あなたのは、遠まはしに探りを入れてみるのだから。」
「でも、私はアデェルのやうに御褒美ごほうびをいたゞいていゝといふ確信がございませんもの。あのお子は昔からのお知合しりあひといふ主張をなすつていゝのですし、それから今迄の習慣として權利を持つてゐらつしやいます。あなたがいつも玩具おもちやを下さるのがならはしだつたと仰しやいますもの。でも私がお土産みやげをいたゞく人の一人になるといたしますと、私、困つてしまひます。私は他から來たものでございますし、それにあなたからお禮を頂戴してもよいと思つていたゞくやうなことは何もしてをりませんから。」
「まあ、さう謙遜しすぎるもんぢやありません。私はアデェルを試驗ためしてみたのですよ、そしてあなたがあの子では隨分骨を折つてゐて下さつたことがわかりました。あの子は怜悧れいりでもなければ、才能を持つてゐるのでもない、しかし一寸の間に大した進歩をしたものです。」
「あの、今こそ私の贈物カドウを下さいましたわ。私お禮を申上げます。生徒が進歩したとめていたゞくことが、先生にとつては一等有難い御褒美なのでございますもの。」
「ふむ。」とロチスターは云つて、だまつてお茶を取り上げた。
「火の傍へお出なさい。」お盆が下げられて、フェアファックス夫人が編物あみものの道具を持つて片隅へ落ちついたときに、主人は云つた。ちやうどその時は、アデェルが私の手をとつて部屋をあちこち連れて歩いて、美しい本だの壁にとりつけた小卓こづくゑ小箪笥こだんすの上の飾物だのを見せてゐたのだが、私たちは素直すなほに主人の言葉に從つた。アデェルは私の膝の上に坐りたいと云つたが、パイロットと一緒に遊ぶようにと云ひつけられた。
「あなたはこの家に來て、三ヶ月になるのですね?」
「はい。」
「それでと、あなたが來たのは――」
「××州のローウッドの學校からでございます。」
「あゝ、慈善事業のですか。そこにどれ位ゐ居ました?」
「八年でございます。」
「八年! あなたはねばり強い方なんですね。そんな所にその半時もゐれば、どんな身體でも疲れてしまふと私は思つてたのだが。確かにあなたはまるで彼の世の人間のやうな顏をしてゐますよ。何處からそんな顏を貰つて來たのかと不思議に思つてゐたのです。昨晩ヘイ・レインであなたに逢つたときも、變にお伽噺が心に浮かんで、あなたが私の馬をばかしたのかどうかたづねてみようかと半分思つた程でした。今だつてまだ解らないのですがね。で、御兩親は?」
「どちらもございません。」
「もと/\なかつたのでせう。覺えてゐますか?」
「いゝえ。」
「さうだらうと思つた。すると、あなたは、あの段々に腰かけて、仲間を待つてたのですね。」
「誰を?」
「緑いろの着物を着た人たちをさ。その連中におあつらへむきの月夜でしたからね。あなた方が土手道にあの忌々いま/\しい氷を擴げたあなた方の遊び場を、私は壞しましたか?」
 私は頭を振つた。「緑いろの着物を着た人たちは、みんなもう百年も前に英國からゐなくなつてゐます。」私は彼と同じやうに出來るだけ眞面目まじめくさつて云つた。「ヘイ・レインやあのあたりの野原には、今はもう彼等の跡かたもありません。夏、秋、冬の月夜にも、今はもう妖精フェリアたちの酒盛さかもりはないと思ひます。」
 フェアファックス夫人は、編物を落して、眼をみはつて、これは何の話かといぶかつてゐるやうであつた。
「では。」とロチスター氏は續けた。「兩親がないにしても親類はあるでせう。伯父さんだの、伯母さんだのは?」
「いゝえ、一人も、見たことがございません。」
「では家は?」
「ございません。」
御兄弟姉妹ごきやうだいは何處にゐるのです?」
「兄弟も姉妹もございません。」
「誰が此處へ推薦してくれたのです?」
「私、廣告をいたしました。そしてフェアファックス夫人が私の廣告に御返事を下すつたのでございます。」
「さうですの。」と、今やつと私たちが何を話してゐるかゞ分つたこの善良な婦人は云つた。「私は毎日、神樣のお導きでこの方をおえらみしたことを感謝してゐるのでございますよ。エアさんは、私にとつても、ほんとに有難いお友達ですし、アデェルにとつても、親切な行屆いた先生でゐらつしやるのでございますよ。」
「この人の人物證明なんぞしないでもよろしい。」と、ロチスター氏は言葉を返した。「讃辭は、私には何にもならない。私は自分で判斷します。この人は、手始めに私の馬をころばしたんです。」
「まあ?」フェアファックス夫人は云つた。
「私はこの傷のお禮を云はなくつちやならない。」
 未亡人は途方とはうに暮れてゐる容子であつた。
「エアさん、あなたはまちに住んだことがありますか。」
「いゝえ。」
「人中へ出たことがありますか。」
「いゝえ、ちつとも。たゞローウッドの生徒や先生たちと、それから、今はソーンフィールドにゐる人たちだけでございます。」
「本は、澤山讀みましたか。」
「今迄に私の手に入りましたやうな本だけで、大した數でもなく、さう高い程度のものでもございませんでした。」
「あなたは、尼僧の生活を生活して來たんですな。確かにあなたは、宗教的な樣式によくらされてゐる。ローウッドを支配してゐるとかいふブロクルハーストつてのは牧師ですね?」
「え、左樣でございます。」
「そしてあなた方娘さんたちは、恐らく、その人を尊敬してゐたのでせう。尼僧のいつぱいゐる修道院で、長老を尊敬するやうにね。」
「いえ、いえ。」
「ひどく冷淡だな! 違ふつて! ほう、尼僧が長老を尊敬しないと云ふんですか! それはどうも不敬に當りさうですね。」
「私はブロクルハーストさんが嫌ひでございました。さう思ふのは私獨りではございませんの。あの人はひどい人で、それに尊大そんだいぶつてゐてらない干渉ばかしするのでございます。私たちの髮を切つてしまつたり、儉約の爲めに、使へもしない縫針や絲をよこしたりいたしました。」
「それは大層間違つた儉約けんやくでしたね。」と、今再び、話の意味が解つたフェアファックス夫人が口を出した。
「で、それがあの男が癪にさはらすことの絶頂だつたんですか。」
「委員がまだ置かれない前、あの人一人きりで監督してゐました頃には、私たちをひぼしにいたしました。それから一週間に一度は長いお説教をして、夜にはまた自分の書いた本の中から頓死だの裁きなどに就いて讀んで聞かせたりして、私たちを退屈な目に合はせましたの、それで、私たちは、眠られなくなるほどおびえさせられました。」
「ローウッドへ行つたのは幾つの時です?」
「十歳ぐらゐで。」
「そして、そこに八年ゐた、すると今は十八ですか。」
 私はうなづいた。
「算術は、有益なものですね。そのお蔭がなくては、あなたの年を當てることはなか/\出來なかつたに違ひないですからね。それがあなたのやうに顏の道具と顏の相がくひちがつてゐる場合には、容易に斷定出來ない點なのです。それから、ローウッドで、何を教はりました? ピアノがやれますか。」
「少しばかり。」
「無論さうでせう、それは確かな返辭だ。書齋へ行つて――よろしかつたらといふ意味ですが――(私の命令口調を勘辨して下さい。私はいつも「これをしろ」と云ふとそれが出來てしまふので、新らしいお近づきの方に對しても從來の癖を變へられないのです)――では、書齋へお行きなさい、蝋燭を持つて。ドアは開け放しにして置くのです。ピアノの前に腰かけて、一曲おきなさい。」
 私は、彼の指圖さしづに從つて、出て行つた。
「もう結構!」とすぐに彼は呼んだ。「成程少しばかりきますね。英國の女學生並みに。まあ少しは、ましかも知れないが、上手ぢやない。」
 私はピアノをぢて歸つた。ロチスター氏は續けて云つた――
「アデェルが今朝あなたのだといふ寫生スケッチを四五枚見せてくれましたよ。あれはすつかりあなたがやつたものだかどうか知らないが。多分、先生が手傳つたのでせう?」
「いゝえ、まつたく!」と私は遮つた。
「あゝ氣持を惡くしましたね。よろしい、内容が獨創のものだと保證する氣なら、あなたの紙挾かみはさみを取つていらつしやい。だがあぶなつかしいのなら、斷言なさらない方がいゝ。つぎはぎ細工は私にもわかるから。」
「では、私、何にも申上げません。ですから、どうぞ、御自分で判斷なすつて下さいまし。」
 私は書齋から紙挾かみはさみを持つて來た。
卓子テエブルをこつちへ。」と彼は云つた。私は、それを彼の長椅子ながいすの方へ引き寄せた。アデェルとフェアファックス夫人とは、繪を見ようと寄つて來た。
「たかつちやいけない。」ロチスター氏は云つた。「見てしまつてから、持つて行くのはいゝが、顏をこつちに押しつけないでくれ。」
 彼は、ゆつくりと、一つ/\寫生スケッチや水彩畫を眺めた。三枚だけ別にし、他のは見てしまふと押しやつて、
「それは、あつちの卓子テエブルへ持つて行つて下さい、フェアファックス夫人。」と彼は云つた。「そしてアデェルと一緒に御覽なさい――あなたは(私に眼を向けて)席にかへつて私の質問に答へて下さい。この繪は一人の人の手になつたと私は見たが、それはあなたの手ですか。」
「はい。」
「ぢあ、何時これを仕上げるだけの時間があつたのです? これには相當時間も必要なら、いくらか空想もなくちやならないでせう。」
「ローウッドでの最後の二度の休暇中に、他に仕事がなかつた時いたしました。」
「手本は何處から手に入れたのです?」
「私の頭からでございます。」
「あなたの肩の上にあるその頭ですか。」
「えゝ。」
「その中にはまだかういふので、別な材料がありますか。」
「多分あると思つてをります。私――もつといゝのがあればと思ふのでございますけれど。」
 彼は繪を前に擴げて、再びそれを代る/″\眺めた。
 彼がそれに氣を取られてゐる間に、讀者よ、私はその繪がどんなものだつたかお話しよう。そして先づ第一に、私はどれも決して驚く程のものではなかつたといふことを前置きしなくてはならない。尤もその主題はほんとにいき/\と私の頭に浮んでゐたものだ。私がそれを表現しようとする前に、心の眼で見たときは、それ等のものは素晴らしかつた。しかし私の手は私の思想をたすける力がなかつたと見えて、いつも私のいだいてゐたものゝ蒼ざめた姿を寫し出したにすぎない。
 その繪はみな水彩であつた。第一のは滿々たる海上に捲き起つてゐる低い鉛色なまりいろの雲が描かれてあつた。遠景は唯暗澹と[#「暗澹と」は底本では「暗憺と」]してゐる。前景もまた同樣である――否、寧ろ、一番手前の大波と云はう、其處には陸地りくちはないのだから。閃光が半ば沈みかけた帆檣ほばしら浮彫うきぼりにし、その上には黒い大きな鵜が翼に飛沫を浴びつゝとまつてゐる。そのくちばしには寶石をちりばめた腕環を啣へてゐる。それを私は、私のパレットで出し得る限りの目覺めるやうな色で塗り、私の筆で描き得る限り美しく鮮やかに描いた。溺れた屍が鳥と帆檣ほばしらの下に沈み、緑色の水をとほしてほの見え、腕環うでわが洗ひ流されたか、それとも引きちぎられたかした美しい一本の腕だけが、くつきりと見えてゐるのだ。
 第二の繪は、前景にはたゞ恰も微風に吹かれたやうに傾いた草や、木の葉のある薄暗い丘の頂だけが出してある。彼方かなたの上の方にはたそがれのやうない、藍色の空が擴がり、空の中にのぼつて行く一人の女の半身が、私に合せられる限りの仄暗くやはらかな色で描き出されてゐる。朧げなそのひたひには星の環をまき、その下の顏は霧の覆ひの彼方に見るやうである。眼は暗く烈しく輝き、髮は、嵐か電光に引き裂かれた光のない雲のやうに、暗く流れてゐる。くびすぢには月光のやうな蒼白あをじろい光の反映があり、同じかすかな輝きは、あはい雲の列を染め、宵の明星みやうじやうの夢幻的な姿はそこから現はれて身をかゞめてゐた。
 第三のは極地の冬空に突き立つた氷山の尖塔せんたふを現はしてゐた。北光の集まりが地平線に沿つて槍を並べたやうに密集してほの暗く屹立きつりつしてゐる。これを遠景に投げやり、前景には人の頭――大きな顏が氷山の方に傾いてその上にもたれかゝつてゐる。組み合せた二本の痩せた手が前額を支へて、顏の下部に黒い面紗ヴエイルをかけ、骨のやうに白く、全く血の氣のない額と、絶望に曇つた無表情な眼、空洞うつろな動かない片眼のみが見える。※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみの上の、頭に捲きつけた黒い布の頭被タアバンの襞の眞中には、質も密度も雲のやうにさだかならぬ、白い焔の環が、一際もの凄い青光を放つ火花ひばなちりばめて、光り輝いてゐる。
 このあをじろい新月は、『王冠のかたち』であり、その王冠のいたゞいてゐるものは、『形象かたち無き形象かたち』(――ミルトンの『失樂園』)であつた。
「この繪を描いてゐたときは、幸福でしたか。」やがて、ロチスター氏が云つた。
「すつかり沒頭しました――えゝ、幸福でした。この繪をくことは、一言で云へば、私の知つてゐる限りの大きな樂しみのひとつでございました。」
「それぢあ、大したこともありませんね。あなたの話によれば、あなたの樂しみつてものは、殆んどなかつたのだから。しかし、きつとあなたはこの不思議な色を合せたりいろどつたりしてゐる間は、一種の藝術家の夢の國に住んでゐたのですね。毎日長い間やつたのですか。」
「お休みでございましたから、ほかに何もすることはございませんでした。ですから、朝からお晝までいて、またお晝から夕方までいたしました。眞夏まなつで、日が長くつて、やりたいにまかせてやるのには都合がようございました。」
「で、あなた自身、その熱心な制作の結果に滿足出來ましたか、どうです。」
「とても滿足どころではございませんの。自分の頭で考へることゝ手ですることゝのへだゝりがあまりひどくつて、隨分悲しうございました。何時でも私は自分では到底現はせないやうなものを想像してゐたのでございます。」
「さうでもない、あなたは自分の思想の影は掴まへてゐますからね。だが多分それ以上ぢやないでせう。自分の思想を十分に具體化するには、まだあなたは畫家としての技巧と知識が足りない。しかしその畫は女學生としては變つてますね。思想の方から云へば妖怪じみてゐる。その宵の明星の眼はあなたが夢にでも見たのに違ひない。だが、どうしてかうはつきり見えるやうに出來たものかな。それでゐて少しも光り輝いてはゐない。と云ふのは上にかいてある空の天體がその眼の光を押へてゐるから。それからこの眼のおごそかな深みにはどういふ意味があるんですか。それに誰があなたに風を描くことを教へたんです。こゝの空にも丘の上にも強い風が吹いてゐる。何處であなたはラトモス山を見たんだらう。これはラトモスなのだ。さあ、その繪をあつちへやつて下さい。」
 私が殆んど紙挾かみはさみの紐を結ばないうちに、彼は自分の時計を見るとなく云つた――
「九時だ、どうするんです、エアさん、こんなに何時までもアデェルを起しておいて。寢床ベッドへつれて行つて下さい。」
 アデェルは室を出る前に彼にキスをしに行つた。彼はその愛撫あいぶを我慢してゐた。併し彼は犬のパイロットよりも無愛想な樣子であつた。
「では皆さんお休みなさい。」と彼は、私たちと一緒にゐるのに飽々あき/\して追ひ出してしまひたいのだと云ふやうに入口の方に手を動かして云つた。フェアファックス夫人は編物をたたみ私は紙挾かみはさみを取上げた。私たちは彼にお辭儀をすると、冷淡れいたん會釋ゑしやくを返され、そのまゝ引退ひきさがつた。
「あなたはロチスターさんがさうひどく風變りではいらつしやらないと仰しやいましたでせう、フェアファックス夫人。」アデェルを寢かした後で彼女の室に來て私はさう云つた。
「えゝ、さうぢやなかつたのですか。」
「私、隨分變つていらつしやると思ひますの。あの方は隨分むらでぶつきらぼうですわ。」
「本當にね。初めての方にはきつとさうお見えになるのでせうねえ。でも私はもうあの方の遊ばすことにはよく慣れてますのでさうは思ひませんよ。それに若しあの方がもと/\風變りでいらつしやるのでしたら、大目おほめに見て差上げなくてはね。」
「何故ですの。」
「幾らかお生れつきのせゐもありますんですよ。――私たちは誰だつて天性はどうすることも出來ませんからねえ。それともう一つは確かにあの方を苦しませて、お氣持を偏屈へんくつにさせる心配がおありになるせゐですよ。」
「何の御心配ですの。」
「一つにはお家のごた/\などもね。」
「でもあの方は御家族はおありにならないのでせう。」
「今はね。ですがおありになつたのですよ――でなくも御親戚の方位はね。あの方は何年前かにお兄さまをおくしになつたのですよ。」
「あの方のお兄さまを。」
「えゝ。今のロチスター氏は財産をお受けになつてから、さう長くはおなりになりません。まだ九年位のものでせうよ。」
「九年ならかなりの時ですわ。あの方は、そんなにお兄さまがお好きでしたの、今もまだ、おなくしになつたのがあきらめられなくていらつしやるほど。」
「いえ、ね、――さうぢやありますまい。二人の間には何か誤解があつたのだと思ひますよ。ロウランド・ロチスターさんは、エドワアド・ロチスターさんに對して、正しいふるまひはなさらなかつたのです。そしてお父さまがあの方のことを毛嫌ひなさるやうにお仕向けになつたのです。お父さまはお金を大事になすつて家族の領地をみんな一つにして置かうといふ氣でいらしたのです。財産を分配なすつて減らしておしまひになるのがお嫌でしたのね。その癖、家名の勢力を保つ爲めには、エドワアド・ロチスターさんもお金がなくてはならないといふことを心配なすつていらしたのですよ。それであの方が一人前のお年におなりになると直ぐ、餘り公平とは云はれない手段をお取りになつて隨分ひどいことをなさいましてね。つまりあの方の財産をつくる爲めにお父さまのロチスターとロウランド・ロチスターさんがぐるになつて、あの方を苦しめるやうな地位にあの方をお置きになつたのですよ。それがどういふ地位でしたかはつきりしたことは、私はよく存じませんでしたけれども。そこで、あの方の心がその苦しさをお忍びになることが出來なかつたのです。あの方はさう寛大ではおありにならなかつたものですから、おうちの方とはえんを切つておしまひになつて、今まで長い間まあ云はゞ放浪の生活をなすつていらしたのです。お兄さまがあの方をこの領地の持主にするといふ遺言ゆゐごんもなしにおくなりになつてからこの方、あの方は二週間と續いてソーンフィールドにお止まりになつたことはありませんの。そして、ほんたうに、確かにあの方はこの昔ながらの所を嫌つていらつしやいますよ。」
何故なぜお嫌ひになるのでせう。」
「さあ大方陰氣だとお思ひになるのでせうねえ。」
 その答へは曖昧だつた――私は何かもつとはつきりさせたい氣がした。だが、フェアファックス夫人には、出來ないのか、それともひてしたくないのか、ロチスター氏の苦しみの原因や性質に就いてはこの上明かな説明をしてはくれなかつた。かういふことは、彼女だけの祕密であること、また彼女の知つてゐることといつても、おも推測すゐそくにすぎないことなどを誓ふのであつた。彼女が私にこの話をめて貰ひたがつてゐることは、まつたく明瞭だつたので、私もそのまゝにしてした。

十四


 その後數日の間、私は殆んどロチスター氏に會はなかつた。朝のうちは彼は事務の方で可なりいそがしさうであつたし、午後はミルコオトから、また近くから紳士たちが呼ばれて、時には彼と晩餐を共にする爲めにとまることもあつた。馬に乘ることが許されるまでに彼の挫傷ざしやうなほると、彼はよく馬で外出した――大抵夜晩くまで歸つて來なかつたから多分紳士たちの訪問の返しでゝもあつたのだらう。
 こんな間中は、アデェルでさへも彼の傍には呼ばれなかつた。そして私が彼に近づくのも廣間だの階段だのまたは廊下だので時々出逢であふ位に限られてゐた。そんな時彼は、私のゐるのを認めて、よそ/\しい會釋ゑしやくか冷淡な一瞥をくれたきりで、傲然がうぜんとして冷やかに私の傍を行き過ぎてしまふこともあつたし、また紳士らしい愛想あいそのよさで、會釋ゑしやくしたり微笑したりすることもあつた。彼の機嫌の變化は、私の胸を痛めはしなかつた。何故ならその變化について私はどうしやうもないことがわかつてゐたから。機嫌のよしあしは、私とは全然關係のない原因にかゝつてゐたのだ。
 ある日晩餐の客があつたとき、彼は私の紙挾かみはさみをとりによこした。たしかに、その内容を人々に見せる爲めであつた。紳士たちは、フェアファックス夫人が私にらせてくれたやうに、ミルコオトに於ける或るおほやけの會合に出席する爲めに早めに歸つてしまつた。しかしその夜は雨が降つてゐて、寒さがきびしかつたので、ロチスター氏は彼等と一緒に出かけなかつた。皆が歸つてしまふと、すぐに彼は呼鈴ベルを鳴らして、私とアデェルとに階下したに來るようにといふ使をよこした。私は、アデェルの髮にブラシをかけて綺麗にしてやり、さうして、自分自身はいつもの、どう繕ひやうもないクェイカー教徒の身裝みなり――編み髮も何もあまりに窮屈で、質素で、どう亂れようもない――その身裝で、私共は下りて行つた。アデェルはあの小箱プティ・コフルがとう/\來たのか知らと考へてゐた。何かの間違ひの爲めにその到着が今まで延びてゐたのだ。彼女は滿足した。私共が食堂に這入ると、卓子テエブルの上に小さなボオル箱が載つてゐた。彼女は本能的にそれを知つてゐるやうだつた。
“Ma bo※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)te! ma bo※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)te”(あたしの箱だわ! あたしの箱だわ!)と彼女はその方へ駈け寄りながら叫んだ。
「さうだよ。とう/\お前の『箱』が來たのだ。隅の方へ持つて行きなさい。巴里娘パリつこさん。そして取り出してお遊びなさい。」と火の傍の大きな安樂椅子の中から、ロチスター氏の低い、皮肉ひにくつたやうな聲が云つた。「だが、云つておくがね、」と彼は續けた。「その分解の方法のこまかいことだの、内部の状態の話だので、私の邪魔をしてはいけないよ。することはだまつておやり。tiens-toi tranquill, enfant; Comprendstu?(おとなしくするんだ、孃や、分つたかい?)」
 アデェルは殆んどその警告も耳には入らない容子だつた。彼女は、もうとつくにその大事なものを持つて、とある長椅子ながいすの方へ引込んで。蓋を留めてある紐をとくのにせはしかつた。その面倒めんだうくさいものをとつてしまつて、薄葉うすえふの銀色の包裝紙を取り上げると、たゞもう叫びだした――
“Oh ciel! Que c'est beau!”(ま! なんて綺麗なんでせう!)」そして吸ひ込まれるやうに、うつとりと見入つてゐた。
「エアさんはそこにゐますか。」と主人あるじは、半分席から立上つて、入口の方を見まはしながらたづねた。私はドアの傍にまだ立つてゐた。
「さあ、さあ、こつちへいらつしやい。こゝにお掛けなさい。」彼は、傍に彼の椅子を引寄せた。「私は小兒こどものおしやべりは好かないから、」と彼はつゞけた。「だつて、私のやうな年とつた獨り者にはあれ達の片言かたことから來る愉快な聯想なんてあるもんですか。一晩中ちつぽけな奴と差向ひテエタ・テエトで過すなんて、多分私には我慢出來ませんからね。その椅子をさう遠くへ引かないで、エアさん。私が据ゑたまゝのところにお掛けなさい。――よろしかつたら、ですが。禮儀にはまごつきましてね。始終忘れるんです。それかと云つて、單純なばあさん達が特に好きだといふのでもありませんがね。さう、さう、うちの年寄としよりを覺えてゐなくちや。あの人を忘れるんぢやなかつた。あの人はフェアファックス家の人か、それとも、そこの誰かに嫁入つたかで、血は水よりもしとか云ひましてね。」
 彼は、呼鈴ベルを鳴らして、フェアファックス夫人に來るやうにと云つてやつた。彼女は、編物籠あみものかごを手にして、直ぐにやつて來た。
「今晩は、マダム。お慈悲じひの意味であなたを呼んだんですよ。アデェルにね、贈物カドウのことを、私にしやべつちやいけないつて云つたのです。それにあの子は云ひたくつて胸一杯なんだ。聽手になつたり話相手になつてやつてくれませんか。さうして下されば、今までなすつたうちで一番有難いことに思ひますが。」
 まつたくアデェルは、フェアファックス夫人を見るや否や、彼女を長椅子ながいすに呼びよせてたちまち膝一ぱいに彼女の『箱』の磁器じきだの象牙ざうげだの、蝋などの中味をひろげ、同時に彼女の覺えたあやしげな英語で説明したり喜んだりするのだつた。
「さあ、これでいゝ御主人のお役目やくめを果たした。」と、ロチスター氏は言葉をついだ。「お客樣方は御各自ごめい/\好きなやうにお遊びになればよし、私は自由に自分の樂しみをしなくては。エアさん、椅子をも少し前におよせなさい。まだ遠すぎる。この氣持のいゝ椅子に掛けてる私の位置をくづさなくちや、あなたの顏は見られない。それは御免ですよ。」
 私は命ぜられた通りにした。しかし、寧ろ少しは蔭の方にゐた方がずつといゝと思つた。けれども、ロチスター氏は直截ちよくさいな云ひ方ではつきりと命じたので、すぐに云はれた通りにするのは、當然なことに思はれた。
 今云つたやうに、私たちは食堂にゐた。晩餐の爲めにともされた切子きりこ硝子で飾つた燈の光がにぎやかに部屋にひろがり滿ちてゐた。大きく燃える火は、すつかり眞赤まつかになつてゐて、明るかつた。高い窓とそれにもまして高いアーチとには、紫色の窓掛カアテンがどつしりと廣くかゝつてゐた。すべては靜まつてゐて、たゞアデェルのしのび聲のおしやべりばかりであつた(彼女は思ひ切つて、大きな聲では話せなかつたのだ)。そして、そのあひ間/\を、窓硝子に打ちつける冬の雨の音が滿たしてゐた。
 ロチスター氏は、ダマスク織のきれで覆うたその椅子に掛けてゐると、以前に私が見た彼の容子とは異つてゐるやうに見えた。それほど、いかめしさうでもなく――ずつと陰鬱でなくなつてゐた。唇には微笑が浮び、眼はきら/\輝いてゐた。それが葡萄酒の爲めかどうか確かではないが、どうも私にはさうらしく思はれた。簡單に云へば、彼は晩餐後の機嫌であつた。朝の冷淡な、きびしい容子ようすに比べると、ずつと打解けてゐてあたゝかで、それにずつと我儘であつた。でもまだ、彼は、確かに氣難きむづかしげな容子で、大きな頭を椅子の背のふくらみにもたせかけ、荒削あらけづりの花崗岩みかげいはのやうな顏にも、大きな黒い眼にも、火の光を受けてゐた。彼は大きな黒い眼を、しかも非常に美しい眼を持つてゐた――その眼の深い奧の方にも何かいつもとは變つたものが時々見えるのだつた。それは、やさしみを持つてゐないまでも、少くともそれに近いものだと人に思はせるやうな感じだつた。
 彼は二分間ばかり火を見つめてゐた。そして私は、その間、彼を見つめてゐた。その時、突然に振り向いた彼は、私の眼が彼の顏をじつと凝視みつめてゐるのに氣がついた。
「私を檢査してるのですね、エアさん。」と彼は云つた。「綺麗きれいだと思ふんですか。」
 もし私が落着いて考へてからだつたら、何か世間並せけんなみに曖昧に、丁寧に、この問に答へたであらう。しかしどうしたのか、その答へは、私の口から知らぬ間にすべり出てゐた――「いゝえ。」
「あゝ、確かにあなたは少しかはつてゐる。」と彼は云つた。「あなたには若い修道尼といふところがある。手を前に重ねて坐つて、眼を大抵の時敷物の上に落してゐると(さう/\今やつてるやうに、眞正面まつしやうめんに私の顏に向けてるときは別だが、例へば今のやうにね)、奇妙で、靜かで、嚴肅で、あどけない。それでゐて、誰かゞ問を出すか、返答をしなくちやならないやうなことを云ふと、ない返辭ぢやないが、少くとも、思ひ切つた返答をづけ/\云つてしまふ。それはどんな意味です。」
「私、あんまり露骨ろこつでございました。御免遊ばせ。私、顏のことで訊ねられたとき、すぐさまお答へするのはやさしいことではないと御返辭する筈でございましたの。人によつて好き/″\があるとか、美はちつとも重大なものではないとか、そんなやうなことを何か申し上げて。」
「そんなことを答へてはいけませんよ。美はちつとも重大ぢやない、たしかに。だから、今先刻さつきの暴言をやはらげるやうな、私のなだめすかして氣をしづめさせるやうな振りをして、こつそり私の耳を小刀こがたなで刺すんですね。さあ、それから、私にはどんな缺點があります。手足も顏もすつかり他の人並ひとなみだと思ふのですがね。」
「ロチスターさま、御免遊ばせ。初めのお答を取消しにいたします。私はつきりした即答をするつもりではございませんでした。たゞもううつかりしてゐたのでございます。」
「成程、私もさう思ふ。だが、あなたは、その責任を持たなければいけませんよ。批評して下さい。どうです。私の額はあなたの氣に入りませんか?」
 彼は額の上に水平にかぶさつた眞黒に波うつた髮をかき上げて、知能の器官の十分つまつた量を見せた。しかし慈悲のこゝろを示す柔和にうわな相の現はれるべき場所に優しい仁愛のしるしはきれ/″\であつた。
「さあ、先生、私は馬鹿者でせうかね。」
「まあ、そんなことございませんわ! あの、もし、お返しにあなたが博愛主義者でゐらつしやるかどうかをうかゞふとしましたら、多分、私を無作法ぶさはふだとお思ひになりますでせうね。」
「そらまた! 私の頭を撫でる振りをして、また小刀で突くのだ。それがつまり、年寄としよりや子供と一緒にゐるのがいやだと云つた理由なんですよ(小さな聲で云はなくちや)。いゝえ、お孃さん、私は普通いふ博愛主義者ではありません。但し良心はあります。」そして彼はその能力を示すと云はれてゐる突起を指さした。そしてそれは幸運にも、彼の頭の上の部分に實に特徴のある廣さを與へて、非常に目立つてゐた。「そして、その上に、一度はある種の幼稚な優しい心を持つてゐたのです。私もあなた位の年頃にはまつたく多感な男で、未熟ものや、撫育されないものや、不仕合ふしあはせなものには心を惹かれました。併し運命がその後私を虐待したのです。あいつは握拳にぎりこぶしで私を滅茶々々にこねまはしさへしたのです。だから今は私は護謨毬ゴムまりのやうに堅く頑固ぐわんこになつてる積りですよ。だが、塊の眞中まんなか程に知覺のある點があつたり、まだ、一二ヶ所位は物のみ透る隙間もあるんですがね。さう、それでまだ望みがありますかね。」
「何の望みでございますの?」
護謨毬ゴムまりから人間への最後の逆戻りの望みがね。」
「たしかに葡萄酒を召し上り過ぎたのだ。」と私は思つた。そして、彼の奇妙な問にどんな答をしていゝかわからなかつた。彼に逆戻りの可能性があるかないか、どうして私に云ふことが出來るだらう。
「ひどく困つてますね、エアさん。私が立派でないと同じ位にあなたも綺麗ぢやないが、しかし困つたやうな容子は君によく似合にあひますよ。それにその方が都合がいゝのだ。何故つて、あなたのその穿鑿せんさくずきな眼が私の顏を離れて、敷物の花模樣の方ばかりを見てゐるから。だからもつと困つてゐらつしやい。ねえお孃さん、今晩は、私は人と一緒にゐたい、話がしてゐたい氣持なんですよ。」
 かう云ふと、彼は椅子から起ち上つて、大理石の爐棚に腕をもたせかけて立つた。さういふ態度をとると、彼の姿は顏と同じやうにはつきりと見えた――並外なみはづれた胸のはゞは手足の長さと均整がとれないほどだつた。きつと大抵の人は彼のことを醜男ぶをとこだと思ふだらう。しかし彼の態度には十分に無意識的な威嚴があり、彼の擧動は非常に樂々らく/\としてゐて、彼自身の外形に對してはまつたく無關心の容子であつた。そして、元々身にそなはつてゐたのか、または偶然的なものか、傲然がうぜんとして別種の權力に頼つてゐて、單なる外見上の美しさの缺點をつぐなつてゐるので、彼を見ると、人は必ず共に無關心になつて、盲目的まうもくてきな不完全な氣持ではあつても、彼の自信を信頼するのであつた。
「今晩は、人と一緒にゐて話がしてゐたいのですよ。」彼は繰り返して云つた。「だから、あなたを呼んだのです。火もシヤンデリアも私の相手には十分ぢやないし、パイロットもさうぢやない。あいつらは話が出來ませんからね。アデェルは少しはいゝ、しかしまだ/\落第だし、フェアファックス夫人も同じくだし。あなたこそ、もしその氣になりさへすれば、きつと私の氣に入ることが出來るのです。あなたは私が呼んだあの最初の晩、私を困らせたでせう。あれ以來私は殆んどあなたを忘れてゐた。他の考が私の頭の中からあなたのことをひのけてゐたのです。だが今夜は、私は氣樂になつて、心にしつこく迫つてくるものを退けて、心を愉快にする想ひを呼び返さうと決心したのです。あなたに今口を開かせることは私をよろこばせるでせう――あなたをもつとよく知る爲めに――だからお話しなさい。」
 話す代りに私は微笑ほゝゑんだ。そしてそれは滿足した微笑ほゝゑみでもなければ、從順なものでもなかつた。
「お話しなさい。」と彼は催促した。
「何をお話しいたしますの?」
「何でもきなことを。話題の選擇も、その取扱方も兩方共すつかりあなたにまかせます。」
 そこで、私は坐つたまゝ、何も云はなかつた。「もし彼が單に話しの爲めや見せびらかしの爲めに話すと、私のことを思つてゐるのだつたら、彼は見當違けんたうちがひの人間に話しかけてゐることがわかるだらう。」と私は思つた。
「君はおしですね、エアさん。」
 私はまだ默つてゐた。彼は頭を少し私の方へよせて、私の眼の中まで突きとほりさうな素早い一べつを與へた。
意地いぢるのですか。」と、彼は云つた。「困つたんですか。あゝ道理で。私は、馬鹿々々しい、まつたく失禮千萬なやり方でお願ひしたのですね。エアさん御免なさい。實際、これつきり二度とは云ひませんが、私はあなたを目下めしたの者として取扱はうとは思つてゐはしません――といふのは」(と彼は訂正しながら)「私はたゞ、年から云へば二十も違つてゐたり、經驗から云へば一世紀もさきに進んでゐるといふやうな結果から當然來る、そんな優越いうゑつだけしか求めないのです。これは正當なことです。さう主張しエヂ・チアンますね、アデェルの口吻ですが。だから、この優越いうゑつによつて、たゞこれだけによつて、今ちよいと私に口をいて、私の心を晴れ/″\させて下さるやうにお願ひするのです。私の心はもうたつた一つの場所にばかり住んでゐて、※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)らされてゐます――びた釘のやうに腐蝕してゐるのです。」
 彼は、殆んど、あやまるやうな説明を口にした。私は、彼の謙遜な言葉に無頓着むとんぢやくではゐられなかつたし、またさう思はれたくなかつた。
「私、よろこんで、あなたをお喜ばせいたしますわ。若し出來ましたら――本當に嬉しうございます。でも、私には話題を考へ出すことは出來ませんの、あなたがどんなものに興味を持つてゐらつしやるか、どうして私、存じてゐますでせう。私にお訊ねになつて下さいまし。さうすれば一生懸命にお答へいたしますから。」
「では先づ第一に、今話したやうな理由で私が今の地位にゐて、少々專横せんわう唐突たうとつで、多分時にはやかましく云つたりするやうな權利を持つてもいゝと贊成してくれますか――つまり、私があなたのお父さん位の年だといふことや、あなたが一つの家に一つの家族とおだやかに過してゐる間に、私は樣々の國の樣々の人と數々の經驗をて戰つて來て、地球の上を半分位も歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて來たといふことに。」
「御自由になさいまし。」
「それぢや答へになつてゐない。却つていら/\させる位だ、だつて、ひどく曖昧ですよ。はつきりお答へなさい。」
「私、あなたがたゞ私よりもお年が上だからといふだけの、でなければ私よりも少し餘計に世の中を御覽になつたといふだけの理由で、私に命令なさる權利がおありにならうとは思ひません。私よりすぐれてゐるとあなたが主張なさることの出來る根據は、あなたが時や經驗をやくにお立てになつたところにあると思ひます。」
「ふん、てきぱきした返辭だ。しかし、それは私の場合には一向いつかうに合はないことが分つてるからそれではいけませんよ。何故つて、私はその二つの有利なものを、あへて惡用したとは云はないが、無頓着むとんぢやくな使ひ方をしましたからね。では優越を問題外にしても、まだ、命令の口調で氣を惡くしたり怒つたりしないで、時々私の命令をけてもいゝと云へますか。どうです?」
 私は微笑ほゝゑんだ。私はロチスター氏こそ風變ふうがはりだと、心で思つた――彼は私が命令を奉じて年三十ポンドもらつてゐることを忘れてしまつてゐるらしかつた。
「その微笑はなか/\よろしい。」と素早く、かすめてゆく表情を見てとつて、彼は云つた。「だが話しの方もして下さい。」
「私、考へてをりましたの、給料を貰つてる部下が、命令を受けて、氣を惡くしたり怒つたりしやしないかなどゝ心配する御主人は滅多めつたにございませんわ。」
「給料を貰つてゐる部下! 何! あなたは、私の部下ですつて! さうですか、あゝ、さう/\、お給金のことを忘れてゐた! 成程、ではそのお金の方の立場から、ちよつとばか威張ゐばつてもいゝですか。」
「いゝえ、その立場からでなく、あなたが忘れてゐらしたそして雇人やとひにんがその下にゐて、氣持がいゝかどうかと心配してゐらしたその立場からでしたら、私、心から賛成いたします。」
「では、樣々の世間的な形式だの御挨拶だのをなしで濟まして許して下さいますか、その省略が無體から起るのだと考へずにね。」
「私、決して略式りやくしきと無禮とを間違へやうとは思ひません。前者は私も却つて好きでございます。後者は自由の身に生れたものなら、たとへお給金の爲めだつて、從ひはいたしません。」
「ふん、自由の身に生れた大抵の者が、給金の爲めなら何にだつて從ひますよ。だからあなたも自分を守つて、あなたのまるつきり知らない一般的なことを、生意氣なまいきに云ふのはお止しなさい。それはともかく、少しあやしげだがあなたの返辭に對して、言葉の内容と同樣にその云ひつぷりに對しても、心ではあなたと握手しますよ。卒直で誠實な云ひ方だ。そんなのは滅多めつたに見られるもんぢやない――いや、それどころか、反對に氣取つたり、冷淡だつたり、こつちの云ふ意味をまぬけな、がさ/\した氣持ちでとり違へる位がおきまりの報酬ほうしうさ。未熟な女學生の家庭教師三千人のうちの三人だつて、あなたが今したやうな答へをするものはないだらう。しかし私はあなたにお追從つゐしようを云つてるのぢやありませんよ。大概の人たちと異つた鑄型いがたにはめられて作られたとすれば、それはあなたの徳ぢやない。自然がこしらへたのです。そこで、結局、私はあんまり早く結論に來すぎてしまつた。何故かと云へば、今迄に私が知り得たかぎりでは、あなたはほかの人間よりすぐれてゐるとは云へないかも知れないし、あなたの僅かばかりの美點に平均してまた堪らないやうな缺點を持つてゐるかも知れないから。」
「そして、あなたもさうかも知れません。」と私は思つた。その思ひが私の心をかすめた時、私の眼は彼のと出逢であつた。彼はその一べつを讀みとつたらしく、その意味を想像した通りに話されでもしたやうに答へた。
「さうです、さうです、その通りです。」と彼は云つた。「私にも缺點は澤山ある。それは知つてゐます。それを辯解しようとは斷じて思ひません。神かけて私は他人の缺點にきびしすぎる必要はない。私にも、胸に手を置いて考へてみるべき過去の生活や、いろんな行爲や、墮落に染つた生活がある。それらは、私が他人にむかつて與へる冷笑や非難を、自分自身にあびせるのが尤もな位のものなんです。そして隣人りんじんから非難や嘲弄を受けるやうなものなんです。私は二十一の年に間違つた針路しんろをとつて出發したのです。といふよりはむしろ(他の破産者と同じく私も非難の一半を惡運と不幸な環境に歸したいので)突込まれたのです。そしてそれ以來、かつて正しい針路しんろにかへつたことはないのです。だが私はもつとずつと違つた風になつてゐたかも知れない。私もあなたのやうに善良で――かしこくて――殆んど無疵むきずな人間になつてゐたかも知れない。あなたのその心の平和、その澄んだ良心、そのよごれのない追憶が羨しい。ねえ、汚點しみよごれもない追憶といふものは素晴すばらしい寶玉ですね――んでも盡きない清らかな元氣囘復のみなもとですね。さうぢやありませんか。」
「あなたが十八でゐらした頃の思ひ出はどんなでございますか。」
「何ももよかつたのです、その時は。清らかで健康で、どんなに外から水がみ込んで來ても汚ならしい水溜みづたまりにはならなかつたのです。私も十八の頃にはあなたと同じやうでした――まつたくあなたと同じだつたのです。全體から云へば、造化ざうくわ(自然)は私を善良な人間にしようと思つたのでした、エアさん――よりよい類の者にです。それでゐて私はさうではないでせう。さうぢやないとあなたはいふでせう。少くとも私はあなたの眼の中にあるだけは讀み取つた積りです(ついでに云ひますが、あなたが、その器官で現はすものに氣をおつけなさいよ。私はその言葉をすぐに解釋するのですから)。で、それに對する返辭をするのです。でも私は惡者ではありませんよ。あなたはそんなことは想像しないでせう――そんな惡いことにかけてのえらさなんぞを、私にくつゝけはしないでせう。しかし、確かにさう思ふのですが、私は生來しやうらい性癖せいへきといふよりは寧ろ環境の爲めに、金持ちやくだらない奴等が、生活を刺※[#「卓+戈」、U+39B8、144-上-3]する爲めにやるつまらない道樂だうらくに馴れつこになつて、飽き/\してゐる至つて平凡な道樂者だうらくものなんです。こんな白状をしたんで、あなたは驚きますか。これから先もあなたは幾度か求めもしないのに人から祕密をうち明けられる腹心の友にされることがあるでせう。私がやつたやうに、あなたといふ人は、自分のことを話すのが得手えてではなくて、人の話を聞いてやる方だといふことが人には本能的にわかるのです。そして誰でも彼等が祕密を洩らしてゐるのをあなたは決して惡意のある侮蔑ぶべつを持つて聞いてゐるのぢやない、ある本然ほんねんの同情をもつて、聞いてるといふことを感じます。同情のあらはし方が目立めだたないからと言つて、慰めやはげましにならぬといふことはないのです。」
「どうしておわかりになりますの――どうしてそんなにもすつかりおてになれるんでございますか?」
「私にはよくわかつてゐます。だから私は、まるで日記にでも私の思想を書いてゐるやうに、すら/\續けて話すのです。あなたは、きつと、私が環境を克服こくふくすべきだつたのだと云ふでせう。さうすべきだつたのです――さうすべきだつたのです。しかし、見られる通り私はさうぢやなかつた。運命が私を不公平に扱つた時、私には冷靜にしてゐるやうな智慧がなかつたのです。私は自棄やけつぱちになつて、やがて墮落してしまひました。今、誰か不道徳な馬鹿者が、つまらない下司口げすぐちいて私の胸を惡くするとしても、私には自分がその人間よりも上等だとは、お世辭せじにも云へません。彼奴あいつも私と同じ位置にあるといふことを、白状しなければならないのです。今になつて、私は、堅實にしてゐればよかつたと思ふ――その氣持は神樣が御存じだ! あなたがあやまちに誘ひ込まれた時には、後悔こうくわいといふことをお恐れなさい。後悔は人生の毒ですよ。」
い改めは、その救ひだと申しますわ。」
い改めぢやない、改革がその救ひでせう。で、私は改革することが出來る――私にはまだその力がある――もし――だがそんなことを考へたつて何になるんだ、足械あしかせをはめられ、重荷おもにを負はされ、呪はれた私のやうなものに。その上、幸福がかたく私を拒否したからには、私には人生の快樂くわいらくをとり出す權利がある。どんなに高價なものであらうとも、私は手に入れて見せる。」
「それでは、もつとその上、墮落なさるでせう。」
「多分。だが、もしも甘い新鮮な快樂を手に入れることが出來たら、どうして、私が墮落するでせう? 私は蜜蜂みつばちが野原で集める野蜜のやうに、それを甘い新鮮なまゝに手に入れるのだ。」
「それはすでせう――にがい味がするでせう。」
「どうして、分るのです?――一度も味はつたこともないのに。どうしてそんなに眞面目まじめな――どうしてそんなに嚴肅な顏をしてるのです。あなたはこの浮彫カメオの頭と同じやうにそのことに就いてはまるで知つてはゐないのに。」(爐棚ろだなから浮彫を手にとりながら)。「あなたは私に説教する權利はないのだ、人生の入口をさへ通らない、そしてその祕密には全く近づいたこともない新參者しんざんもののあなたには。」
「私、たゞあなたがおつしやつたお言葉を御注意したまでゝございます。あなたは、罪は悔恨をもたらすと仰しやいました。また悔恨は人生の毒だと仰しやいました。」
「誰もあやまちのことなぞを云つてやしません。私は自分の頭の中を往來した考へがあやまちだつたとは、殆ど思つてはゐない。私はそれは誘惑といふよりはむしろ靈感だつたと信じてゐる。それは本當に親切で、本當にやはらかで――と云ふことを私は知つてゐる。ほら、また、その考へがやつて來た! それは決して惡魔ではない、私は斷言する。それとも、もしさうだとしても、それは光の天使のころもを被つてゐるのだ。それが私の心の中に入つて來たいと云ふ時には、私はそんな美しいお客は迎へなくちやならない。」
「お信じになつてはいけません。それは本當の天使ではございませんわ。」
「またそんなことを云ふ、どうして分るのです。どんな直覺によつて、大膽にも、墮落した地獄の最高天使と永遠の玉座ぎよくざからの使者――みちびくものと迷はすものとの區別を見分ける顏をするのですか。」
「私はあなたのお顏色で判じました。あなたが、その考へがまたかへつて來たと仰しやつた時、あなたのお顏色が曇りました。私、もしあなたがそれに耳をおかしになつたら、それはきつともつとあなたをみじめにするやうに思はれます。」
「いや決して――それは、世界中で一番めぐみ深い使命を帶びてゐます。その他の點では、あなたは私の良心の番人ぢやないから、心配することはありません。さあ、お這入りよ、美しい漂白人さすらひびと。」
 これを彼はまるで彼の眼より他の眼には見えない幻にでも話すやうに云つた。そしてなかばひろげてゐた腕を胸の上に組み合せて、その抱擁の中にその目に見えぬ幻を抱き締めるやうに見えた。
「さて、」と彼は再び私に向つて言葉をつゞけた。「私はその巡禮をけ入れた――私が確かに信ずるやうに、變裝へんそうした神樣をです。もう既にそれは私をよくしてくれました。私の心は今迄は納骨堂なふこつだうみたいなものだつたけれど、もうこれからは神殿です。」
「本當のことを申しますと、私にはまるであなたのことが分りません。私、もうお話を續けることが出來ません。私、心の底から申してゐたのですから。たゞ一つだけ、私に分ります。あなたは御自分がなりたいと思ふ程善良ではないと仰しやいました。そして御自分の不完全さを悲しむと仰しやいました――一ことだけは分ります。あなたは、けがれた記憶を持つてゐることは、絶えざる害毒がいどくだと仰しやいました。私にはかう思はれます。もしあなたが一生懸命にやつて御覽になるなら、やがて御自分で滿足なさるやうなものになることがお出來になると。そして、もし今日からあなたが決心してあなたの考へや行ひを正さうとおはじめになれば、二三年のうちに、あなたは新らしい汚れのない記憶をたくさんたくはへることがお出來になつて、それをあなたは喜んで振り返つて御覽になれるでせう。」
「その考へも、正しい――その言葉も正しい、エアさん、私は、今一生懸命に地獄の鋪道を造つてゐるのです。」(諺に曰く、地獄の鋪道は實行を伴はぬ志で出來てゐる。)
「え、なんでございます?」
燧石ひうちいしのやうに持ちがいゝに違ひないと思ふ、よい心掛こゝろがけの石を置いてゐるところです。これからはきつと、私の仲間も、遊びも今までとは違つてくるでせう。」
「いままでよりはよい?」
「さうです?――まじりけのない粗金あらがねきたな鐵屎かなくそよりも遙かにいゝよ。あなたは私を疑つてるやうですね。私は自分を疑つてはゐない。私は、自分の目的が何か、動機どうきが何かといふことは知つてゐます。そしてたつた今、その目的も動機も正當だといふ法令はふれい(モーゼやペルシヤ人の法令のやうな不變な)を制定します。」
「そんな、正當と認めさせるのに新らしい法令はふれいるやうでは、それは正當な筈がございませんわ。」
「大丈夫ですよ、エアさん、絶對的に新らしい法令はふれいを要求しても。前例のない事情の組み合せは、前例のない法則を要求するんです。」
「それは危險な主義ぢやございませんか。だつて、濫用らんようされるおそれがあるといふことが直ぐに分りますから。」
名言家めいげんかだ! それはさうです。だが、私は荒神(羅馬のレアとペネイトの神)にかけてそれを濫用らんようしないと誓ひますよ。」
「あなたは、人間で、あやまりに陷りやすいものでゐらつしやいます。」
「さうです。あなたゞつてその通りだ――それでどうしたといふのです?」
「人間で、あやまり易いものは、神で、完全なものゝみに安心してまかせて置くべき力を、僣取せんしゆしてはならないのです。」
「どんな力?」
「異常な、みとめられぬ行爲をも『正しくあらしめよ』といふ力でございます。」
「『正しくあらしめよ』――その言葉だ。あなたの云つた通りだ。」
「ではその行動が正當でありますやうに。」と私は立ち上りながら云つた。私にはまるで分らない話を續けることは無用だと思つた。それに私の話相手の性格を洞察どうさつすることは不可能である――少くとも現在では出來ないことである――ことを感じ、また何も知らないといふことが分ると、それに伴つてくる不確實さと漠然たる不安な氣持ちを感じたのであつた。
「どこへ行くのです?」
「アデェルを寢かしに。寢る時間が過ぎてをりますから。」
「あなたは、私がスフィンクスのやうなことを云ふので、こはくなつたんですね。」
「あなたのお言葉は謎のやうでございます。でも、私、當惑してはをりますけれども、決してこはがつてはをりません。」
こはがつてゐますよ――あなたの自愛心が失錯しつさくを恐れてゐます。」
「その意味でございましたら、私はたしかに氣づかつてをります。私、詰らないことをお話したいとは思つてをりませんので。」
「もし話したのだつたら、とても嚴肅な、おとなしい容子でやるんで、私はその意味を取り違へたことでせうね。あなたは笑つたことはないんですか、エアさん。返辭をしなくもようござんすよ――あなたは殆んど笑ひませんね。だがあなたはほんとに明るく笑へるのですよ。私が生れつき不道徳でなかつたと同じに、確かにあなたも生れつきいかめしかつたのではありません。ローウッドの束縛がまだいくらかあなたにまつはつてゐるのです。表情をおさへ、聲をひそめ、手足を束縛して、そして男の人や兄弟や――または、お父さんや主人や、その他何だつていゝが――その前に出て、あまり快活に笑つたり、あまり自由に話したり、または、あまりにすばしこく動作どうさしたりすることを恐れてゐるのです。だが、そのうちに、あなたも、私に對しては、すなほになることが出來るだらうと思ひますよ、私が、あなたに對しては、世間的になれないと同じやうにね。さうすれば、あなたの顏つきも擧止ふるまひも、今よりはずつと活々いき/\として、變化に富んでくるでせう。私は、時々、籠のせまい仕切しきりから覗く不思議な鳥の眼差まなざしを見ますよ――活々とした、そは/\した、氣丈なとらはれ者がそこにゐるのです。自由にしてやりさへすれば、それは空高くかけつて行くでせう。あなたはまだ行きたいんですか。」
「もう九時を打ちました。」
「大丈夫――一寸待つてゐらつしやい。アデェルはまだ寢床ベッドに行く支度をしてはゐませんよ。私の、この背中を火の方にして、顏を部屋の方に向けてる位置はね、エアさん、見渡すのになか/\都合がいゝのです。あなたと話してゐる間に、私は時々アデェルの方も氣をつけてゐたのです(あの子を變つた研究材料と思ふのには、私だけの理由があるのです――その理由はいつかあなたにお話してもいゝ、いや、お話しませう)。あの子は、十分ばかり前に、箱の中から可愛い薄紅色うすべにいろ上着うはぎを引張り出した。それをひろげると、あの子の顏は、嬉しさに輝いた。媚態コケットリは、あの子の血にも流れてゐるし、頭にもまじつてゐるし、骨のずゐまで味をつけてゐるのだ。
“ll faut que je l'essaie!”(あたし、着てみなくつちや!)」彼女は叫んだ。「“et ※(グレーブアクセント付きA小文字) l'instant m※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me!”(いますぐによ!)」そしてあの子は部屋から駈け出して行つた。「今ソフィイのところで着物を着せて貰つてゐます。もうすぐまた這入つてくるでせう。そして何を見るか私には分つてゐる――いつも舞臺に出てくるときのセリィヌ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ァレンの縮圖ミニアチュアだ、幕が――だがそんなことはどうでもいゝ。それはさうと、私の最もおだやかな氣持ちが衝動しようどうを受けようとしてゐる。そんな豫感がしますよ。さあ、それが實際になるかどうか見る爲めにとゞまつてゐらつしやい。」
 やがて、アデェルの小さな跫音が廣間をよぎつて來るのが聞えた。彼女の後見者こうけんしやが豫告したやうに、彼女は、着物を變へて、這入つて來た。薔薇色繻子じゆすの、非常に短かい、スカアトには出來るだけたつぷりとひだがとつてある服が、今まで着てゐた茶色の上衣うはぎと代つてゐた。薔薇のつぼみの花環が彼女の額にまかれ、足は絹の靴下と小さな白繻子しろじゆすの靴とでよそはれてゐた。
“Est-ce que ma robe va bien?”(あたしの着物、よく似合つて?)」と、前進しながら、彼女は叫んだ。「“et messouliers? et mes bas? Tenez, je crois que je vais danser!”(この短靴は? この靴下は? さあ、あたし、踊るわよ!)」
 つひにロチスター氏の所へ來ると、彼女は、爪先トーで、彼の前で身輕くくる/\まはり、それから、彼の足下に片膝をついて、云つた――
小父をぢさま、あたしあなたの御親切に對して千遍せんべんもお禮を申します。」そして立上つて、「お母さまはこんな風になすつたでしよ、ねえ、違つて小父さま?」
「そのとほり!」といふ返辭だつた。「さうして、『“Comme cela”(こんな風)』にしておまへのおつ母さんは、俺の英吉利ヅボンのポケットから英吉利金貨をひ寄せたのさ。私だつて世間知らずだつたのです、エアさん――えゝ、まつたくの世間知らずだつたのです。今、あなたを活々いき/\とさせてゐる青春の色にも劣らぬ色が、曾ては私を活々とさせてゐたのです。けれど、私の春はつてしまつた。しかし、それはあの佛蘭西の小花を私の手に殘して。ある氣持ちから、私はそれを捨てゝしまひたいのです。今は、黄金のほこりより外には養ふことが出來ないやうな種類のものだとわかつたので、その元根を尊重してはゐないし、花もその半分位しか好ましくないのです。特に今のやうに技巧的な容子をするときには。私は却つて、彼女あれを大小樣々の罪を一つの善行によつて贖ふロオマン・キャソリックの主義で守り育てゝゐるぐらゐなんですがね。このことは、いつかすつかり、お話しませう。おやすみなさい。」

十五


 ロチスター氏は、後になつて、それを説明して呉れた。或日の午後のことであつたが、彼は偶々たま/\庭で私とアデェルに出會であつた。そしてアデェルがパイロットとふざけたり羽子はねをついたりして遊んでゐる間に、彼は、アデェルからも見える長いぶなの並木路を歩いて見ないかと私を誘つた。
 その時に、彼は、アデェルがある佛蘭西の歌劇踊り子オペラダンサアであつたセリイヌ・ヴァレンの娘だといふこと、その佛蘭西の女は以前の彼の所謂「首つたけグランパシオン」の對象だつたことを話して呉れた。この首つたけのセリイヌは彼以上の熱烈さで彼の心に報いると見せかけたのであつた。彼は、自分が彼女の偶像だと思つた。醜男ぶをとこではあつたが、彼は、アポロ・ベルヴィディア(羅馬の法王宮殿の一室にあるアポロ)の優美さよりも、彼の「筋骨の逞しさ」の方を、彼女が選んでゐると信じてゐた。
「そして、エアさん、その佛蘭西ゴオルの天女が英吉利の侏儒こびとを選んでくれたと云ふので、私の好い心持ちにさせられようといふものは、或るホテルにその女を安置あんちして、召使も置いてやれば、馬車だの、カシミアだの、ダイヤだの、薄紗ダンテエルだの何だのと不足のない世帶を持たしてやつた程だつたのです。つまり、私も世間の鼻下長連と同樣に、型の通り、自滅の道を辿りはじめた。と云つて、私には不面目と破滅に陷ちてゆく新らしい方法をもくろむやうな獨創力もありはしないのです。たゞもう踏み馴らされた中心から一吋もれない馬鹿正直な几帳面さで、古いわだちを踏んで行つたものです。世の中のあらゆる痴者の運命を――當然受くべきだつたのだが――私も持つてゐたんですね。或る夕方、私はセリイヌが私を待つてゐない時に、ふいと訪ねてゆきました。すると出かけてゐて、ゐないのです。しかし、蒸し暑い晩で、私は巴里の街をずつと歩いて來たので、すつかりくたびれてゐました。そこで、私は彼女の居間に腰を下し、つい今しがたまでゐた女の爲めにきよめられてゐるそこの空氣を呼吸して、幸福な氣持ちになつてゐたのです。いや、これは誇張だ。私にしてもあの女に人をきよめる徳なんぞがあらうとは一度だつて考へなかつたことです。それは神聖な薫りといふよりも、彼女が殘して行つた香晶か何かの麝香じやかうりうぜんかうの匂だつたでせう。間もなく私は撒かれた香水や、温室ものゝ花の香氣で息苦しくなつて來たので、窓を開けて露臺バルコンに出ることにしました。月の光とおまけに瓦斯ガスの光まであるのです。ひどく靜かで澄み切つてゐました。露臺バルコンには椅子も一つ二つありました。で、私は腰をおろして、葉卷を出しました――所で今、失禮して一本吸ひますよ。」
 こゝで、葉卷を取り出して火をける間の沈默があとに續いた。それを唇にくはへて、薫たかいハバナの煙を、ひややかな曇り日の空氣にふかし、彼はまた語りつゞけた。――
「その頃はボン/\も好きでしたよ、エアさん。それで私はチョコレェトのキャンディをくちや/\噛んだり(どうも失禮なことを)煙草をふかしたり代る/″\やり乍ら、一方はなやかな通りを近くの劇場へと驅る馬車の群を眺めてゐると、その時、美しい二頭の英吉利産の馬をつけた華奢きやしやな箱馬車がやつて來ました。輝やかしい夜の街にはつきり照し出されたのを見ると、その箱馬車は私がセリイヌにやつたものだと分りました。彼女が歸つたのです。無論私の胸はもたれてゐた鐵の手摺を焦々いら/\と打ちましたよ。思つた通りに馬車がホテルの入口で止ると、私の情人いろは(これこそオペラ女の戀人に使ふにふさはしい言葉です)、車からりた。ふか/″\と外套に包まれてはゐましたが――ついでながら外套なんてものは暑い六月の夕方には必要のない邪魔物です――女が馬車の踏段から身輕に飛び下りたときに着物の裾からのぞかせた小さな足を見て、私は直ぐにセリイヌだと知りました。露臺バルコンの上に屈みかゝつて、私は『私の天使モナアンジュ』と囁かうとしました――勿論戀するものゝ耳にしか聞えないやうな調子でね――するとその時彼女の後からもう一つの姿が馬車から飛び下りるぢやありませんか。同じやうに外套に包まれてゐるが鋪石しきいしの上にカツ/\と鳴つたのは拍車をつけた靴の音です。そして見るとホテルのアアチがたの正門を通つて行くのは帽子を被つた頭なんです。
「あなたはまだ嫉妬しつとを感じたことはないでせうね。エアさん? むろんない、實際、く必要はないのだ。あなたはまだ戀を知らないのだから。戀も嫉妬もあなたはこれから味ふのだ。あなたの魂は、靜かにねむつてゐて、その眼を醒ますやうな激動はまだ與へられない。あなたは、凡ゆる人生があなたの青春を此處まで運んで來たやうな靜かなしほに乘つて過ぎてゆくものと思ふでせうね。眼を閉ぢ耳を覆つたまゝ漂つてゆけば、潮流の底に、ほど近く峙立そばだいはほも見えず、また、その底に沸き返へる波濤も聞えない。ですがね、お聞きなさい――そして私の言葉を覺えてゐらつしやい――あなたも何時かは海峽の、狹い岩がごつ/\してゐるところに來るでせう。其處に來れば人生のさゝやかな流は皆白く碎ける水泡やどう/\と鳴る音や渦卷や奔流の只中に碎け散つてしまふのです。あなたは岩角にぶつかつて粉微塵になるか、でなければ高みに上げられた拍子に外の大浪にのつてもつとおだやかな潮流の方へ流されるでせう――今の私のやうに。
「私は今日のやうな日が好きだ。あの鋼鐵色の空や、この霜に蔽はれた世界の靜けさとひややかさが好きなのです。ソーンフィールドも好きです、その古風こふう閑寂かんじやくさ、古い、からすの木や枳殼からたちの木、灰色の建物たてものの正面、また鋼鐵色の空をうつす暗い窓の線などもね。しかも、どれ程長く私はソーンフィールドのことを、考へるのも厭に思つてゐたか知れないのです。大きな避病院でゝもあるやうに寄りつかなかつたのです! 今だつてまだどれほど嫌つてゐるか――」
 彼は齒噛はがみして沈默した。彼は歩みを止めて固い地面を長靴で蹴りつけた。あのいまはしい想念が彼を掴んで、一足も前に進めない程、彼をしつかりと引留めてゐるやうに見えた。
 彼がそんな調子で默つてしまつた時、私たちは並木路を上りつゝあつた。やかたは私たちの前にあつた。その鋸壁を見上げながら、彼は、その時限りで後にもさきにも見られなかつたほどの烈しい目付を投げつけた。苦惱、恥辱、忿怒――焦躁、憎惡、嫌忌――それらが瞬間、彼の漆黒しつこくの眉の下に大きく見開かれた瞳の中でぞつとするほどひしめき合つた。どれが勝ちを占めるか、その爭ひは激しかつたが、或る冷酷な、皮肉な、依怙地いこぢな、斷乎とした感情が現はれて、彼を征服してしまつた。それは彼の昂奮を鎭め、顏色を落ちつけた。彼はまたつゞけて云つた――「今默つてゐた間にね、エアさん、私は運命と談判してゐたんですよ。そいつは、そこのあのぶなの幹の側に立つてゐたつけが――フオレスのヒイスの上でマクベスに現れた奴等の仲間みたいな妖婆です。『お前はソーンフィールドが好きだつて?』と指をあげて云ふのです。それからね、そいつが空中に、或るしるしみたいなものを書くと、それが蒼白く光る象形文字しやうけいもんじになつて、ずうつとあの主家の正面にそつて走つたのです。あの二階の窓と下の窓との間の所に。『出來るものならいて見せろ!』『意地いぢをはりたけりやいて見せろ!』」
「『好いてやらう。』と私は云つた。『きつときになつて見せよう。』で、私は(彼は不機嫌らしく云ひそへた)私の云つたことを守つて見せる。幸福を妨げ、善への道をはゞむものは打ち壞してやります――さう、善ですよ。私はこれ迄よりもいゝ人間になりたいんです。現在よりもね――ヨブの大鯨おほくぢら手槍てやりだの投槍だの鎖子鎧くさりよろひだのを滅茶々々にしたのと同じやうに、私は、他の人間が鐵とも眞鍮とも思ふ妨害を、藁か腐つた木片きぎれかなんぞのやうに扱つてやらうと思ふのです。」
 このときアデェルが羽子はねを持つて彼の方に駈けて來た。「あつちへ!」彼は亂暴に呶鳴りつけた。「向うにゐなさい、でなけりやソフィイの所へ行きなさい。」それからまた、彼に從つて默々と歩みつゞけながら、私は彼がすつかり離れてしまつた話題を思ひ出させようと思ひ切つて云つてみた――「あのそれでヴァレンさんが這入つていらした時に、露臺バルコンをお離れになりましたの?」
 この少しも折に合はない質問は、多分はねつけられるだらうと覺悟してゐたのに、反對に、しかめ顏の放心状態から我にかへつて、彼は私に眼を向けたが、そのひたひの曇はすつかり消えてしまつたやうに見えた。
「あゝ、セリイヌを忘れてゐた! よろしい、また始めませう。で、今云つたやうに一人の騎士に附き添はれて這入つて來た私の戀人の姿が目にうつると、しつ/\といふ蛇聲じやせいが聞えて忽ち緑色の嫉妬の蛇が、月の光を浴びた露臺バルコンからうね/\ととぐろを伸して鎌首を持ち上げ、私のチヨッキの内側にすべり込み、二分たつ中には私のしんの髓まで食ひ込んでしまつたのです。變だなあ!」突然彼は其處でまた如何にも驚いたやうに叫んだ。「私があなたをかういふことの『腹心の友』に選ぶといふのは變ぢやありませんか、お孃さん。いや、もつと變なのは、私のやうな男が、あなたのやうに未經驗な、かはつた娘さんに自分のオペラの情人たちの戀物語を聞かせるなんてことが、く世間普通のことでゝもあるやうに、さうやつてあなたが靜かに私の話を聞いてゐるといふことですよ。併し、前に私がちよいと云つたやうに、あなたの人と異つた所がさうさせるんですね。あなたの生眞面目きまじめさや、思慮深さや、つゝましさの所爲せゐで、あなたは祕密な話の聽手になるやうに造られてゐるのです。その上、私にはどういふ種類の心に、自分の心を觸れさせてゐるかゞ分るんです。それは惡いことを聞かされても感染しさうにない一種特別な心なのです、類のないものです、幸、私はそれを毒しようとは思つてゐない、だが假にそのつもりになつたとしても、私から毒を受けるやうな心ではないのです。私とあなたは話をすればする程いゝ、と云ふのは私はあなたを傷つけないし、あなたは私を元氣づけてくれますからね。」この脱線の後で彼は語りつゞけた――
「私は露臺バルコンじつとしてゐました。『彼奴らはこの居間ゐまにやつて來るに相違ない、』と私は考へた。『待ち伏せの場所を用意して置かう。』そこで開いてゐた窓の中へ手を差入れて、こちらから見えるだけの隙間を殘してカアテンを引きました。それから窓の扉も、戀人同士が囁き交す、誓言せいごんの出口に間に合ふだけの幅を殘してめてしまひ、私はこつそり椅子に歸りました。するとそのときその二人づれが這入つて來たのです。私は素早すばやく隙間の上に眼をてがひました。セリイヌの部屋附女中が這入つて來て、洋燈ランプともし、卓子テエブルの上に置いて退さがりました。かうしてこの二人づれがはつきりと私の眼に照し出されたのです。二人が外套をとると、そこに現れたのは繻子しゆすや寶石で――無論私の贈り物ですが――まばゆいばかりのヴァレンと、將校服の彼女のつれの姿でした。所で私はその男を或る若い道樂者の子爵として見知つてゐたのです――馬鹿な上に放埓はうらつな男で、社交界で折々顏は合せてもつひぞ嫌つてやらうとも思はなかつた程に全然輕蔑し切つてゐた奴なんです。彼奴だと分ると嫉妬しつとの蛇のきばは即坐に折れてしまひましたよ。と云ふのはそれと一緒にセリイヌに對する私の戀も蝋燭消しの下に消えたからです。こんな戀敵ライバルの爲めに私を裏切るやうな女なら爭ひ甲斐もない。輕蔑してやりさへすれば、それでいゝのです。だが、それにしても私よりは増しですよ、私と來ては其奴にだまされてゐたんですからね。
「二人は話をはじめましたが、それを聞いてすつかり氣がらくになりました。云ふことが輕佻で功利的で、眞心まごゝろがなくて、馬鹿氣切つてゐて、聞いてゐるものを怒らすよりは、寧ろ退屈させようとかゝつてゐるんぢやないかと思はれる位なんです。私の名刺が一枚、卓子テエブルの上に置いてあつたので、これが目につくと私の名が二人の間に持ち出されましたが、二人共に私を手嚴てきびしくやつゝけるだけの機智や精力の持合せはありやあしない。たゞ彼等相當のけちなやり方で精一ぱい口汚なく私を侮辱するんですね。殊にセリイヌの方は私の姿の缺點にわざ/\光澤つやをつけてくれましたよ――片輪と云つたものです。ところで彼女の口吻こうふんに從へば、私の『好男子ぶりヴオテマル』をべら/\夢中になつてめ立てるといふのが、彼女の癖でした。其處がセリイヌのあなたと全然違ふところですね。あなたは二度目の會見で卒直に私を美男だとは思はないと云つて下すつた。あの時その對照コントラストに私は打たれたのです、そして――」
 この時またアデェルが駈けて來た。
小父をぢさま、今ジョンがね、あなたの代理人が來て、お目にかゝりたがつてますつて云ひましたわ。」
「ぢあ、話を端折はしよるとしなくつちや。で、その窓を開けると私はづか/\這入つて行つたのです。先づセリイヌを私の手から自由にしてやり、ホテルを引拂ふやうに命じ、さし當つての急場のしのぎに財布さいふを差出して、金切聲かなきりごゑにも、ヒステリイにも、嘆願にも、抗議にも、痙攣けいれんにも一切とり合ひませんでした。そして子爵とはブロニュの森で會合することを取りめたのです。次の朝私は彼と決鬪をする喜びを持つた。私は、舌病ぜつびやうに罹つたひよつ子の翼のやうに弱々しくつて、蒼ざめた哀れな相手の片腕に彈丸たまを一つ見舞つて來ました。そしてこれですつかり縁を切つてしまつたと思つたのでした。しかし、不幸なことに、その六ヶ月以前から、ヴァレンは、この小娘のアデェルを私に呉れてゐたのです。私の娘だと彼女は斷言した。多分さうなんでせう。併し私にはアデェルの容貌に、いかつい顏の父系を引いてゐるといふ證據はまるで認められないのですがね。パイロットの方があの子よりはまだ私に似てゐますよ。私とアデェルの母親とが縁を切つてから五六年後に、彼女は子供を置き去りにして、或る音樂家だつたか歌手だつたかと一緒に伊太利に驅落かけおちしたのです。私は、アデェルの方で、私に扶養ふやうされるべき當然の權利があると云ひ立てるのを、全然認めませんでした。今だつて認めてやしませんよ。私はあのの父親ぢやありませんからね。ですが、あのが非常にみじめな暮しをしてゐると聞くと、私は、それでも、その可哀さうなものを巴里の泥濘ぬかるみの中からぬき取つて、英國の田舍の花園の豐饒な土に植ゑへて、けがれなく成長させようと思つたのです。フェアファックス夫人はそれを仕立てゝ貰ふ爲めにあなたを見付けたわけなのです。だが現在、かういふわけで、あのが佛蘭西の歌劇女優の私生兒しせいじだと分つて見ると、恐らく、あなたの任務しごと被保護者プロウテジエイに對するあなたの考へも變つて來るでせう。そのうちに、他に仕事を見つけたからと云ふので――どうか新らしい家庭教師をお探しになつて、などゝ私の所に頼みに來るんぢやないかな――え?」
「いゝえ。アデェルはお母さまとあなたと、どちらの過失に對しても何の責任もございませんわ。私はあの方を可愛かはいく思つてをります。それに今あの方が或る意味では、御兩親のない方だと伺つて――お母さまには捨てられ、あなたからは見離されて――私は今迄よりももつと可愛がつて差上げようと思ひます。どうしたつて、私、まるでお友達のやうに私に頼つて來る獨りぽつちの小さなみなし兒を、家庭教師を厄介者やつかいもののやうに厭がるお金持の家の我儘娘なんぞに見かへることは出來ませんわ。」
「成程、あなたの見地けんちは其處にあるんですね。處で、もう家に歸らなくつちや。あなたもですよ。暗くなつて來た。」
 だが、私は暫くアデェルやパイロットと一緒に外にゐた――彼女と駈けつこをしたり、羽子突はねつきをしたりして。家へ歸ると、私は、彼女の帽子や外套を脱がしてやつて、彼女を膝の上に抱き上げた。人にちやほやされるときに限つてしたがるつまらないことや、何かちよいとした氣儘きまゝさへもとがめず、彼女の好きなやうにお饒舌しやべりをさせながら、私は一時間ばかりもさうしてゐた。彼女のそんな擧動ふるまひは、多分母親の血を引いたものなのであらう、英國氣質にはどうしてもぴつたりしない淺薄な性質を示すものであつた。でも、彼女は、まだ長所をいくつも持つてゐた。そして私は彼女の中のいゝものをみんな最上に評價してやりたいと思ふのであつた。私は彼女の顏付や目鼻だちに、ロチスター氏と似通にかよつた所を探して見た、が何もなかつた――何らの特徴も表情の變化も、血のつながりを示してはゐないのだ。それはあはれなことであつた。もしも彼女が彼に似通にかよつてゐることを明かに證據立てることが出來たなら、それだけでも、彼はもつと彼女を心にかけたであらうに。
 私がロチスタアー氏の話をしつかりと批判したのは、夜、自分の部屋に引きとつてからであつた。彼が云つたやうに、話しそのものゝ持つ意味には、恐らく何らの異常なものもないのであつた――或る佛人の踊り子に對する富有な英人の戀、そして女の心變り、と云へば、確かに交際社會では日常の些事さじに過ぎないだらう――しかし、彼が現在の滿ち足りた氣持ちと、このふる建物たてものと、それをめぐるものゝ中に新らしくよみがへつた悦びを話してゐたときに、突然彼を掴んだ感情の激發には、明かに異常な何かゞあつた。私はこの出來事を深く心にいぶかつたが、今のところ、それをどう解釋しやうもないと氣がつくと、何時か止めてしまつて、今度は私に對する主人の態度に就いて考へはじめた。彼が私に置くのに相應ふさはしいと考へた信頼は、私の思慮に對する讚辭なのかも知れない。私はそれをそのまゝに顧みて受けるばかりだ。この幾週間といふもの、私に對する彼の態度は、最初よりずつと一定してゐた。私は決して彼の邪魔になるとは見えなかつたし、彼も意地惡いぢわる傲慢がうまんな容子を出さなかつた。思ひがけなく私に出會であつてもそれを喜ぶものゝやうに、いつも何か一口言葉をかけたり、時に微笑ほゝゑみも見せるのであつた。また、正式に呼ばれて彼の前に出たときには温かな心からの款待もてなしを受けるので、本當に私には彼を樂しませる力があつて、そしてかうした夜の會談も、私の爲めといふこともあるが、彼自身の樂しみの爲めにもなつてゐると思はれるのであつた。
 實際、私は、比較的口數をきかなかつた。さうして、彼の話を聞いて味はうた。お喋りは、彼の生れつきであつた――彼は、世間知らずの心に、世の中の樣々な情景や生活を示すことを好んだ(と云つても、墮落した情景や惡徳のある生活ではなくして、その規模の大きさが興味を惹き、目新らしい珍らしさが特徴になつてゐる樣々な情景や生活であつた)。だから、私は、彼が提供する新らしい觀念をうけ入れることや、彼が描き出して見せる新らしい繪を心に描いたり、それからひろげて見せてくれる知らない地域を、彼に從つて考へて見たりすることに鋭い喜びを持つのであつた。一度だつて彼の口から出るよくない隱喩いんゆ諷刺ふうし吃驚びつくりしたりまごついたりしたことはなかつた。
 彼の氣易きやすい態度は、私を辛い束縛から自由にした。當を得た、本當に親切な友人らしい氣さくさで――彼は、私を扱ひ、私をひきよせた。時々私は何だか彼が主人といふよりも自分の身内のやうな氣がするのであつた。とは云つても、まだ相變らずの專制君主せんせいくんしゆぶりは時々出るのだが、私は氣にかけなかつた。それは彼の癖なのだと云ふことが分つてゐたから。日々の生活に加はつた、この新らしい興味で、もう肉身にくしん[#「肉身を」はママ]慕つて悲しむこともなくなつた程、ほんたうに幸福な、滿足した氣持ちを持つやうになつた。新月のやうに、細くかよわかつた私の運命は次第に大きくなつて來るやうに思はれた。私の生活の空白くうはくはすつかり充たされた。身體もよくなつて、ずつと肉がつき、氣力も増した。
 では、ロチスター氏は今、私の眼に醜いものだつたか? 讀者よ、さうではなかつた。感謝とすべて快くあたゝかい聯想の數々は、彼の顏を何よりも私の見てゐたいものにしてしまつた。彼がそこにゐるといふことは、あか/\と輝く火よりも部屋を樂しくした。それでも私は、彼の缺點を忘れはしなかつた。實際出來なかつたのだ。彼は屡々缺點を私に見せたので。彼は傲慢で、皮肉で、何に限らず卑俗なのを全然假借かしやくしなかつた。私に對して甚しく親切なのも、私以外の澤山の人に對する不當なきびしさで差引されてしまふと私はこつそり考へてゐた。それにまた彼の氣難きむづかしさは――辯護のしやうもない位であつた。私が時々彼に讀んで聞かせる爲めに呼ばれて行つて見ると、一度ならず彼は腕組をした上に首を垂れて、たつた一人で書齋に坐つてゐた、そして彼が頭を上げた時には、氣難きむづかしい、殆んど惡意のあるしがみがその顏付を暗くしてゐるのであつた。しかし、彼の氣難きむづかしいことも、粗暴なことも、過去の道徳上の失敗も(私は過去といふ、何故と云へば、現在は改められたと思ふから)、みなそのみなもとを運命の、むごい、くひちがひに發してゐるのだと思つた。彼は、環境が育て、教育が染み込ませ、運命が鼓舞するよりも、より純粹な趣味を持ち、よりよい傾向とより高い節義せつぎを持つて生れた人なのだ。彼にはほんたうにすぐれた素質があるのだ。假令たとへ現在はそれらが皆いくらかそこなはれ、こんがらがつて、一つに固まつてゐるとしても。私は何によらず彼の悲しみの爲めに悲しんだことを否定しない、そしてまた、彼のその悲しみを鎭めるのに隨分と役立つたことも。
 私は蝋燭を消して寢臺ベッドに横になつたけれど、あの並木路で彼が歩みを止めて、そして、運命が彼の前に現れて、ソーンフィールドで、幸福になれるならなつてみろと云つたと話した時の彼の面持を思ふと眠れなかつた。
何故なぜ駄目なのだらう?」私は自問した。「何があの方をこの家から遠ざけるのだらう? またすぐ、あの方は行つておしまひになるのかしら? フェアファックス夫人は一度に二週間以上は滅多めつたにおとまりにならないと云つてゐたのに、今度は、もういらしつて八週間になるのだ。もしか、行つておしまひになるとしたら、その變化がどんなに悲しいだらう。もう春も夏も秋も、多分あの方はいらつしやるまい。あゝ、日の光も、美しく晴れた日も、どんなにつまらなく思はれるだらう!」
 考へつゞけてその後は眠つたのか眠らないのか分らないが、兎に角私は變なつぶやきを聞いてはつと眼をみひらいた。奇異きいな陰氣なそのつぶやきは私の直ぐ眞上に聞えたやうだ。私はをつけて置けばよかつたと思つた。夜は物凄いやうに眞暗まつくらで、私の魂はしつけられてしまつた。私は床の上に起き上つて、耳を澄したが、もう音は止んでゐた。
 私はまた眠らうとした。けれども私の心臟は不安らしくどき/\しはじめて、心の靜けさはすつかり破られてしまつた。と、ずつと下の廣間ホールで、時計が二時を打つた。ちやうどその時、何だか私の室のドアさはつたものがある。ちやうど、外側の眞闇まつくらな廊下に沿つて、ドアの鏡板を指で手探りでもしたやうに。「誰です?」私は云つた。答はない。私はぞつとした。
 瞬間に私は思ひ出した。パイロットではないだらうか、彼犬あれは臺所のドアが開け放してあるやうなことがあると、ロチスター氏の部屋の敷居しきゐのところまで上つて來るのは珍らしくないのだから。私は彼の犬がそこで寢てゐるのを、朝になつてよく見たものだ。さう思ひ付くといくらか氣がしづまつて横になつた。四邊あたり[#「四邊が」は底本では「匹邊が」]しんとすると神經も落着く。で、たれこめた沈默が今またやしきの中を支配してしまふと、もう一度睡眠ねむりが私に歸つて來るのが感じられたけれども所詮しよせんその夜は眠るやうに運命づけられてはゐなかつたのだ。夢は私の耳の傍へ近づくか近づかない間に、骨の髓もこほる程の恐ろしい出來事におびやかされて怖氣おぢけづいて逃げ去つた。
 それは惡魔のやうな笑ひ聲だつた――低く、おさへつけられた、そして太いその聲は、ちやうど私の部屋の扉の鍵穴かぎあなのところで聞えたやうだつた。私の寢臺ベッドの頭部はドアの近くにあつたので、最初私はその恐ろしげに笑ふ人は、寢臺ベッドの側に立つてゐるのだと思つた――それどころか私の枕にもたれかゝつてゐるのだと。けれども起き上つてあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしても、私は何も見ることが出來なかつた。でもそのままぢつと眼をみはつてゐると、奇怪な物音はまた起つた、確かに鏡板の向うからだ。私の最初の衝動は飛び上つてドアの横木を堅くさすことであつた。そして再び叫んだ、「誰です?」
 何かゞ咽を鳴らして、低い呻き聲をたてた。暫くすると廊下を三階の階段の方へ歸つてゆく跫音がした、その階段には近頃それを塞ぐドアが造られてゐた。そのドアが開いてまるのが聞え、そしてすべては寂然しんとしてしまつた。
「グレイス・プウルだつたのかしら、惡魔にとつつかれたのだらうか。」と私は考へた。あゝ、もうとてもこの上一人つきりではゐられない。フェアファックスのところに行かなくては。私は大急ぎで上衣うはぎとショールを引つかけて、横木をはづし、ふるへる手でドアを開けた。と、すぐ外側の廊下の敷物の上に一本の火のともつた蝋燭が置いてある。この光景に私は驚いた。だがもつと驚いたことには其處の空氣はまるで煙で一ぱいになつてゞもゐるやうに濛々としてゐるのだ。一體この青い煙は何處から流れて來るのかを知らうと見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐると、私は更に、ひどく焦臭きなくさいのに氣がついた。
 何かゞきい/\鳴つた。一枚のドアが開いてゐるのだ、それはロチスター氏の部屋の扉であつた。そしてうづまく煙は一かたまりになつて其處から吹き出してゐるのだ。最早フェアファックス夫人のこともグレイス・プウルのことも、あの笑ひ聲も私の頭にはなかつた。矢庭に私は其處に飛び込んだ。寢臺ベッドを圍んで投槍のやうに突進する焔の舌。めら/\と火を吐く垂布カアテン。その焔と煙の眞中にロチスター氏は身動みうごきもせず横たはり、ぐつすりと眠つてゐるのだ。
「お起き遊ばせ! お起き遊ばせ!」私は叫んだ――そしてゆすぶつた、が彼は唯呟いて寢返りをしたきりであつた。煙が彼の知覺をにぶらしたのだ。もう一秒もかうしてはゐられない、火は敷布にも移つて來た。私は水差と洗面器の方へ駈け寄つた。幸ひにも一つは廣く一つは深くつて兩方共一ぱい水が這入つてゐた。私はやつとそれを持ち上げて寢臺ベッドとその住居者オキュパントを水びたしにした。そして飛ぶやうに部屋に歸つて、私の水差を持つて來て改めてその寢臺ベッドに洗禮を授けた。さうして神の助か、寢臺ベッドをなめ盡さうとしてゐた火※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)を消し止めることに成功したのであつた。
 燃殼のぷす/\いふ音や、水をけた時にはずみでほふり出してしまつた水差のこはれた響、それに何よりも私が惜しまず施した驟雨浴シヤワアバス水沫しぶきが漸々ロチスター氏を起した。あたりは全く暗かつたが私には彼が眼を醒したのが分つた。何故なら水溜りの中に寢てゐるのに氣がついた彼が、奇妙な呪咀じゆその言葉をぶつ/\呶鳴り散らしたので。
「洪水ですか。」彼は叫んだ。
「いゝえ、さうぢやありません。」と私は答へた。「火事がございました。さ、お起きになつて、どうぞ。もう火は消えました。私、蝋燭を持つて參りませう。」
基督教國クリスンダムのあらゆる妖魔の名にかけて――そこにゐるのはジエィン・エアぢやないか?」彼は詰つた。「私をどうしようてえんだ、え? 魔女奴まぢよめ! 他にもまだ誰かゐるんですか。私を溺らせるつもりだつたんですか。」
「蝋燭を持つて參りますわ。そして後生ごしやうですからお起きになつて下さいまし。誰かゞ何かたくらんだのです。何事だかまた誰の仕業しわざだか、おしらべになるのに早過ぎはしまいと思ひます。」
「さあ、起きました。だがまだ蝋燭を持つてきちやいけない、何か乾いた着物を着るまで二分間待つて下さい――何か乾いたものがあるなら、ですがね――よし、此處に寢間着ねまきがある。ぢや行つて下さい。」
 私は、走つて、まだ廊下にあつたあの蝋燭を持つて來た。彼は、それを私の手から取つて、高く提げて寢臺ベッドしらべた。何ももが眞黒に燻つてゐた。敷布はビショ/\になり、絨毯は水の中をおよぎまはつてゐた。
「こりやなんだ? 誰がやつたんだ?」と彼はいた。
 私はその夜の出來事をいつまんで彼に話した。廊下に聞えた奇怪きくわいな笑ひ聲のこと、三階に上つて行つた跫音あしおとのこと、煙と――私を彼の室に導いた焦臭きなくさい匂ひのこと、私が見つけたときの室の光景、運べる限りの水で彼を水浸みづびたしにした顛末てんまつなど。
 彼は甚だ眞面目に耳を傾けてゐた。話が進むにつれて、彼の顏は單なる驚愕以上に深い懸念けねんを表はした。私が話し終へても、彼は直ぐに口を開かうとはしなかつた。
「私、フェアファックス夫人を呼んで參りませうか。」と私は訊ねた。
「フェアファックス夫人? 冗談ぢやない。一體なんだつてあの人を呼ぶんです? あの人に何が出來ますか。邪魔をせず寢かしてお置きなさい。」
「ではレアを連れて參りませう、それからジョンとお内儀かみさんを起して。」
「いや結構。いゝから靜かにしてゐらつしやい。ショールをしてゐますね? まだ十分にあたゝかでなけりや、あの私の外套を着てもいゝ。あれにくるまつてその腕椅子アームチエアにお掛けなさい。さあ――私が着せて上げよう。そこでらさないやうに足を足臺の上に置いて下さい。私はちよいとの間あなたを置いて行きます。蝋燭は持つて行きます。私が歸つて來るまで其處にじつとして廿日鼠みたいにおとなしくしてゐるんですよ、私は一つ三階をみて來なくちやならないから。いゝですか、動いてもいけない、誰かを呼んでもいけないつてことを覺えてゐらつしやい。」
 彼は行つた。私は遠退とほのいてゆく燭光あかりをじつと見まもつてゐた。彼は極めて靜かに廊下をよぎり、出來るだけ音をたてないやうに階段室のドアを開けて後をとざした。それで燈火あかりの最後の光も消えてしまつた。あやめも分らない闇黒に私は取殘されたのであつた。何か物音がするかと耳をすましたけれど、何も聞えては來ない。長い/\時間が過ぎて私は次第に疲れて來た。外套をとほして寒氣かんきはしん/\と身に沁みた。さうなつてみると私には家人の眼を醒してはいけないと同時に、何だつて此處にじつとしてゐなくてはならないのか、さつぱり譯がわからなかつた。で、あはやロチスター氏の命令にそむいて、彼の不興を買はうとした途端とたんに、燭光が再び廊下の壁に仄暗く輝いて、靴をいだ彼の足が敷物を踏んで來るのが聞えた。「あのかただといゝ。」と私は思つた。「何か他のこはいものではないやうに。」
 彼は蒼ざめてひどく憂鬱な容子で部屋に歸つて來た。「すつかり突きとめて來ましたよ。」彼は洗面臺の上に、蝋燭を置きながら云つた。「想像通りだつた。」
「どうなんでございますか。」
 彼は返辭をしなかつた、たゞ床に眼を落して兩腕を組んで立つてゐるばかりだ。四五分間つて彼は寧ろ變てこな調子でいた――「實は忘れてしまつたんだが、あなたがあなたの部屋のドアを開けたときには何かゐたの?」
「いゝえ、なんにも。たゞ、床の上に蝋燭があつたきりでした。」
「だが變な笑ひ聲は聞いたんですね? 前にもそんな笑ひ聲を聞きはしなかつた? 確か聞いた筈だと思ふが――あんな風なのをね。」
「え、聞きました。こちらのお針をしてゐるグレイス・プウルつて云ふ人――あの人がさういつた笑ひ方をいたしますの。變な人でございます。」
「さう、さうです。グレイス・プウル――あなたの推量通すゐりやうどほりですよ。あの女は變つてる――非常にね。ところで、これは一つよく考へて見ませう。それはそれとして、今夜の出來事の詳細しやうさいを知つてゐる者が私以外にはあなたきりだつたのは幸ひだつた。あなたはお喋舌しやべりぢやない、これに就いては一言も云はぬことにして下さい。こいつは(と寢臺ベッドを指して)いづれ私が何とか理由をつけるとしませう。ぢや、もう部屋にお歸りなさい。私は殘りの時間は書齋のソフアで工合よく休みます。もう間もなく四時だ、二時間てば女中達が起きるでせう。」
「では、おやすみ遊ばせ。」行かうとして私は云つた。
 彼は吃驚びつくりしたやうに見えた――今、私にお歸りと云つたのに、吃驚りするなんて、ひどく矛盾してゐるわけだが。彼は叫んだ。
「おや! もう私をおいてきぼりにしようと云ふんですか。それもそんなやり方で?」
「あなたが行つてもよいと仰しやつたのでございますわ。」
「だがお別れもせず、一言か二言お禮や挨拶の言葉も云はせずぢやいけない、つまりそんなぶつきら棒な冷淡れいたんなやり方ぢやいけませんよ。ねえ、あなたは私の生命いのちの親だ――恐しいひどい死の手から私を取戻してくれたのだ――それにあなたはまるでわれ/\が旅人同志でゝもあるやうに私の側を通つて行つてしまふ!――せめて握手をしようぢやありませんか。」
 彼は手を差し出した。私も自分の手を彼に與へた。最初は片手、それから兩手で彼は私の手を握り締めた。
「あなたは私の生命いのちの親です。私は、あなたに對してそれ程莫大な負債があるのが嬉しい。これ以上は私には云へない。あなた以外の者が、私にこんな恩をほどこして恩人の資格になつたら、私にとつてはこれより我慢のならないものはあるまいと思ふ位だ。だがあなたのは――それとは違ふ。ジエィンの恩惠は私にはちつとも重荷ぢやないんだ。」
 私をじつと凝視みつめて、彼は口をつぐんだ。言葉は殆んど現はれかけて彼の唇の上でふるへた――しかし、彼の聲はしつけられてしまつた。
「では、もう一度、おやすみ遊ばせ。こんな場合には、負債だの、恩惠だの、重荷だの、義務だの、そんなものは何んにもございません。」
「私には分つてゐた、」と彼はまたつゞけて云ふのだつた。「何時いつか、何かの方法であなたが私に盡してくれるといふことがね――初めてあなたにつたときにあなたの眼を見てさう思つたんです。其處に浮かんだ表情と微笑ほゝゑみが私の――(彼はまた口をつぐんだ)――私の(早口に彼はつゞけた)胸の奧底まで、よろこびを感じさせたのはかりそめのことではなかつたのです。相性なんてことを云ひますね。私はいゝ守り神グッドジニアイの話を聞いたことがあるが――原始的なお伽噺とぎばなしの中にだつて眞理のつぶはありますよ。私の大事な保護者――ぢや、おやすみ!」
 彼の聲には不思議な熱が籠つた、その眼差まなざしも不思議な光を湛へた。
「私、本當に、ちやうどよく眼が醒めて嬉しうございました。」さうして私は行かうとした。
「なんだ! あなたは行きたいんですか。」
「私、寒いのですもの。」
「寒い? さうだ――おまけに水溜みづたまりに立つてゐるんだ! では、ジエィン、もうよろしい、あちらへいらつしやい。」でもまだ彼は私の手を離さなかつた、それに振り切つて行くことも私には出來ないのだ。私はふと一策を案じた。
「あの、フェアファックス夫人が動いてるやうでございますわ。」
「あゝ、ぢやあお行きなさい。」彼は指をゆるめた。で、私は出て行つた。
 私はまた自分の寢臺ベッドに歸つて來たけれど眠らうとも思はなかつた。朝が白々と明け離れるまで、私は輝やかな、しかし波立つてゐる大海に搖られ搖られてゐた。憂ひの波はよろこびの巨浪きよらうの下に捲かれてしまふのであつた。私は時々さかまく波の彼方にブラウ(バアニアンの『天路歴程』)の丘のやうな美しい岸邊を見たと思つた。をり/\さわやかな風が希望によび醒されて勇みたちながら、私の魂をその岸邊へ運んでゆく。しかし空想の中でさへ、私はそこまで行くことが出來ない――逆風ぎやくふうをかの方から吹きつけて、始終私を追ひ歸してしまふ。常識が譫忘状態せんばうじやうたいに勝たうとつとめ、判斷力が情熱を警めるのだ。熱に浮かされたやうで休みもとれない私は、夜の白むのを待ち兼ねて起きてしまつた。

十六


 この眠られぬ夜の翌日、私はロチスター氏に會ふことを願ひもし恐れもした。私はふたゝび彼の聲を聞きたいと思つた。けれども彼の眼にふのは恐ろしかつた。朝早いうちに、私は、彼が、いまるか、いま來るかと待ちうけてゐた。彼は勉強室に屡々這入る例はなかつたが、折々ちよつとの間這入ることはあつた。で、私は、その日はきつと彼が來るといふやうな氣がしてゐたのであつた。
 しかし朝はいつもと同じやうに過ぎて行つた。アデェルの勉強の靜かな進行をさまたげるやうなことは何も起らなかつた。たゞ朝食のすぐ後、ロチスター氏の寢室のあたりに、フェアファックス夫人の聲や、レアのや、料理人――といふのはジョンのお内儀かみさんである――のや、ジョン自身のがさつな聲さへまじつて騷いでゐるのが聞えた。「旦那さまがお床の中で燒けておしまひにならなかつたのはほんとに神樣の御惠みだ!」とか「夜中、蝋燭をつけつぱなしにしておくつてのはあぶねえことさ。」とか、「水差のことを思ふほど落ちついてゐたのは、天佑だ!」とか、「誰をも起さないなんて!」とか「書齋椅子ライブラリイ・ソフアでおやすみになつて、御風邪おかぜを召さなければようございますがねえ!」とか、樣々の叫び聲であつた。
 やがてそんな談笑につゞいて、ブラッシュをかけたり、片附けたりする物音がした。そして、食事の爲めに階下へ行かうとしてその部屋の傍を通るとき、開け放したドア越しに、何ももまたきちんと整頓されてあるのが見えた。たゞ寢臺ベッド帷帳カアテンが外されてあるだけだつた。レアは窓臺の上に立つて、煙で曇つた窓の硝子ガラスを拭いてゐた。あの出來事にどんな理由わけがあつたかを私は知りたかつた。しかし、進んでゆくと、その部屋の中には、もひとり――寢臺ベッドの傍の椅子に掛けて、新しい窓掛に環を縫ひつけてゐる女――がゐた。その女はグレイス・プウルのほかの誰でもなかつた。
 彼女は、何時いつもの通り、茶色の毛織の上衣うはぎを着、辨慶縞の前掛をして、白いハンケチに、白い帽子を被つて、落着いたむつつりした顏付でそこに坐つてゐる。彼女は自分の仕事に熱心になつてゐて、すつかりそれに氣をとられてゐる容子だつた。彼女のやさのない額にも、平凡な顏付にも、殺人を企てた女の顏に見られる筈の、蒼ざめた色や絶望は何一つなかつた。しかもその殺さうとした人は、昨夜、彼女の寢所までついて行つて(私が信じた通りに)、彼女にその罪の嫌疑をかけたのではないか。私はまつたく驚いた――混亂した。私がまだ彼女を凝視めてゐるときに、彼女は見上げた。驚きも、感情を示す顏色の變化も、罪の意識も、發見の恐怖も、無かつた。彼女はいつもの鈍重どんぢうなぶつきら棒な態度で「お早うございます。」と云つて、新しい環と紐をとり上げて縫ひつゞけた。
「彼女を少しためしてみよう。」と私は思つた。「こんなに全然冷淡でゐられるなんて考へられない。」
「お早う、グレイス。」と私は云つた。「こゝで何か起つたの? さつき、召使ひ達がみんな、話しあつてゐるのを聞いたやうに思ふけれど。」
「旦那さまが昨夜お床の中で本を讀んでゐらしたのですが蝋燭をつけたまゝ眠つておしまひになつて、掛布カアテンに火がついたのです。けれども、運よく寢臺ベッドの布や木に火の移らないうちにお目覺めになつて、一生懸命水差みづさしの水で火をお消しになつたのでございます。」
「變だこと!」と私は低い聲で云つた。そしてじつと彼女を見つめながら云つた――「ロチスターさんは誰もお起しにはならなかつたの? 誰もあの方のお起きになつたのをきかなかつたんでせうか?」
 彼女はまた眼を上げて私を見た。そして今度はその表情に何かしら意識したものがあつた。彼女は用心深く私を檢査してゐるらしかつた。やがて彼女は答へた――
「召使ひ達はずつと離れたところにやすみます。ねえ、先生ミス。あの人たちには聞えさうもございません。フェアファックス夫人のお部屋とあなたのお部屋が旦那さまのお部屋へは一番近いのです。でも、フェアファックス夫人は何もきかなかつたと、仰しやいます。年をとりますと誰でも大抵ぐつすり眠るものですから。」彼女は言葉をきつた。それから、さあらぬていで、しかしなほ注意深い、意味ありげな容子でつけ加へた。
「ですがあなたはお若いんです、先生、お寢坊ねばうではゐらつしやらない筈です。おほかた、なにか物音をおきゝになりましたでせうね。」
「きゝました。」まだ窓硝子まどガラスみがいてゐるレアに、私の云ふのが聞えないやうに聲を落して云つた。「初めはパイロットかと思つてゐました。でもパイロットが笑ふ筈はない。私は確かに笑ひ聲をきいたのですよ。それも奇妙へんなのを。」
 彼女は新しく入用なだけの糸をとると、丁寧に蝋を引いて、しつかりした手つきで針に通し、さて、落着き拂つて云つた。
「そんな危險に臨んでゐるときに、旦那さまがお笑ひになりさうもないことゝ存じます。が、先生、あなたはきつと夢を見てゐらしたんでせう。」
「夢ぢやありませんよ。」私は少しかつとして云つた。彼女の圖々づう/\しい冷淡さが、私をいら/\させたのである。また彼女は私を見た。しかも同じやうな詮穿せんさくするやうな意識した眼で。
「あなたは旦那さまにその笑ひ聲をお聞きになつたことをお話しなさいましたか。」と彼女はたづねた。
「今朝はまだお話しする折がありません。」
「あなたはドアを開けて廊下を見ようとはなさらなかつたのでございますね。」となほも彼女はたづねた。
 彼女は細かい質問をして、私から不知不識の内に何か消息を引き出さうとするらしかつた。若し私が彼女の罪を知つてゐるか或は疑つてゐると氣がついたら、彼女は私にあのひどいわるいたづらをしかけるかも知れない、と云ふ考が浮かんだ。用心をする方が得策とくさくだと思つた。
「反對です。」と私は云つた。「私は部屋の扉にさんおろしましたわ。」
「ではいつもは、毎晩おやすみになる前にドアさんをおおろしになりませんのですね?」
「畜生! 何か惡企わるだくみをしようと思つて、私の習慣を知りたがるんだ!」腹立たしさが、またこみ上げて、用心深さを壓倒してしまつた。私は鋭く返辭をした。「今迄私は度々さんを下しませんでしたよ、必要だと思はなかつたから。私はソーンフィールドホール[#ルビの「ホール」は底本では「ポール」]に、おそろしい危險なことやうるさいことがあるとは氣が附きませんでしたからね。でもこれからは、」(そして私はその言葉にはつきりと力を入れて)「お床に這入る前には何ももすつかり大丈夫なやうに隨分注意をしませうよ。」
「さうなすつた方が、よろしうございます。」といふのが彼女の返答であつた。「このあたりは私の存じてゐます限り、靜かなもので、このおやしきも、こゝが家になつて以來盜人ぬすびとに襲はれたなどといふことは私も聞いたことがありません。皆よく知つてゐますやうに食器戸棚には何百ポンドといふ値打ねうちのある食器もありますのに。それに御存じのやうに、こんな大きなお邸にしては召使ひたちはく少なうございます。旦那さまはこゝには、ふだんはお住ひになりませんし、お歸りになりましても、お獨り身のことで、おそばつきは殆んど御入用ではありませんからです。けれども用心深すぎる方が何よりだと、私はいつも思つてをります。早速戸締りをしつかりして、間違ひが起らないやうに、くわんぬきをかけておく方がよろしうございます。世間の多くの人たちは何もかも神樣におまかせして安心しようとします。ですが神樣は私共が思慮かんがへ深くしてゐますときにはお惠みを下さいますが、神樣でもわざはひを防ぐ手だては下さいませんですから。」そしてこゝで彼女はその長臺詞ながせりふを終つた――彼女としては長いもので、クェイカ教徒のやうな眞面目さでそれを云つたのである。
 私は自分の眼にうつつた彼女の不思議な落ちつきやうと、とても底の知れない猫つかぶりに、あきれ返つて、ぼんやり突つ立つてゐた。そのとき料理人クックが這入つて來た。
「プウル夫人、」とグレイスに向つて聲をかけた。「下の人たちのお食事がもうすぐ出來ますが、りていらつしやいませんか。」
「いえ、よござんす。黒麥酒くろビールを一杯とプディングを少し、おぼんにのせといて下さい。さうすれば私が上へ持つて行きますから。」
「何かお肉をもつてゐらつしやらないの?」
「ほんの一きれだけ。それにチイズをぽつちりと。それで結構。」
「ではデザァトのセイゴオは。」
「今は結構。お茶にならないうちにりて行きませう。自分でこしらへますから。」
 料理人クックは今度は私の方へ向いてフェアファックス夫人が待つてゐると云つたので、私はそこを離れた。
 食事の間中私はフェアファックス夫人の話す火事の顛末てんまつが、殆んど耳に入らなかつた。それ程私はグレイス・プウルのなぞめいた性質について頭を惱ましてゐた。その上なほ、ソーンフィールドに於ける彼女の地位の問題について考へ、また、何故なぜ今朝彼女が拘引されなかつたか、でなければ少くとも、何故主人からひまを出されなかつたのかと不審でならなかつたのだ。昨晩彼は彼女の犯罪を確信してゐると殆んど斷言した位だ。それに、どんな祕密の原因があつて、彼は告發出來ないでゐるのだらう? 何故なぜ私にも祕密にしろと云つたのだらう? 不思議なことである。大膽な執念深しふねんぶかい、傲然がうぜんとした一個の紳士が、何だか、自分の雇人の中でも一番いやしいものに左右せられてゐるやうに思はれるのだ。彼女が彼の生命いのちをとらうと手を下したのに、彼は公然とその罪を責めもしないし、ましてや、そのことで處罰しようなどゝはしない程、彼女に左右せられてゐるのだ。
 若しもグレイスが若くて美しいのだつたら、用心や、心配よりもやさしい氣持が、ロチスター氏に影響して、彼女をかばふやうにするのだと、私は思つたかも知れない。しかし彼女はあまり目をかけられてるやうでもなく、内儀かみさん風なので、そんな考へは受入れることは出來ない。「だけど、」私は考へた。「一度は彼女も若かつたのだ。彼女の若い時分は、ちやうどこゝの主人も若い頃なのだ――いつぞやフェアファックス夫人は彼女がこゝに長年ながねん住み込んでゐると私に話したことがある。彼女が以前は綺麗だつたとはとても考へられないが、でも若しかしたら彼女には美貌びばうをもつてゐない不足をつぐなふやうな獨創性や性格の力があるのかも知れない。ロチスター氏はてきぱきした、一風變ぷうかはつた者をく人だ。グレイスは少くとも一風變つてゐる。昔の氣紛きまぐれで(彼のやうな性急せつかちな、我儘な性質のものにはよくある缺點だ)、彼が、弱點を掴まれてしまふやうな破目はめに落ち、今更、ふり拂ふことも、無視することも出來なくなつてゐて、彼自身の無分別むふんべつの結果である、めた力を、彼女が彼の行動に及ぼしてゐるとしたら、どうだらう。だが、こゝまで臆測が達したとき、プウル夫人のかくばつた扁平へんぺいな姿と、醜い、愛嬌のない、あらつぽい顏とが、實にはつきりと私の心の眼に浮かんで來たので、私はかう思つたのであつた。「いや、あり得ない事だ。私の臆測は正しい筈がない。けれども。」と私共の心の中で私共に話しかけるあの祕密の聲が口を出した。「お前だつてちつと綺麗きれいぢやない。でも多分ロチスター氏はお前をいゝと思ふだらう。兎も角も、お前は幾度もあの方がさう思つてゐるやうに感じた。そして昨夜もさうだつた――あの方の言葉を思ひ出せ、あの方の顏を思ひ出せ、あの方の聲を思ひ出せ。」
 私は何ももよく覺えてゐた。言葉も、眼差まなざしも、聲の調子も、たちまちまた活々と新らしくなるやうであつた。その時私は勉強室にゐて、アデェルは畫を描いてゐた。私は、彼女の上に身をかゞめて、彼女の鉛筆をもちそへて教へた。彼女は吃驚りしたやうに見上げた。
“Qu' avez-vous, mademoiselle?”(どうしたの先生?)」と彼女は云つた。「“Vos doigts tremblent comme la feuille, et vos joues sont rouges: mais, rouges comme des cerises!”(指が木の葉みたいに震へてるわ、それに頬ぺたが眞赤でほんとよ、櫻んぼみたいに眞赤よ)」
「私は暑いの、アデェル。うつむいてたので。」彼女は寫生をつゞけ、私は考へつゞけた。
 私はグレイス・プウルに關して抱いてゐるいとはしい思ひを自分の心から早くひ拂はうとした。その考は私の胸を惡るくした。私は自分を彼女と比較して見た。そして私共の差異を見出してゐた。ベシー・レヴンは私のことを立派な淑女だと云つた。彼女は眞實を語つたのだ――私は淑女である。そして現在ではベシーと會つたときよりもずつと立派な容子になつてゐる。私はずつと顏色もよく、元氣も付き、快活になつてゐる。輝やかしい希望や心にひゞくやうな樂しみがあるからだ。
「夕方になつたのね。」と窓の方を見て私は云つた。「今日は家の中にロチスターさんの聲も跫音もまるで聞えなかつた。でもきつと夜にならないうちにお目にかゝれる。朝のうちは逢ふのがこはかつたけれど、今はお目に懸りたい。期待が餘り長くまどはしたので我慢出來なくなつてゐたから。」
 黄昏たそがれがすつかり迫つて、アデェルが、私を殘して子供部屋に行つて、ソフィイと遊ぶ頃になると、私は堪へがたく逢ひたいと思つた。階下した呼鈴ベルが鳴りはしないか、レアが傳言をもつて上つて來はしないかと、耳を澄した。或る時は、ロチスター氏その人の跫音を聞いたと思つて、入口の方を振向いて、今にも扉が開いて、彼が這入つて來るかと待つたこともあつた。入口はしまつたまゝで、暗闇くらやみ窓越まどごしに入つてるのみであつた。しかし、まだ遲くはなつてゐない。彼が七時か八時になつて私を呼びに寄越よこすことは珍らしくはなかつた。そしてまだ六時なのだ。今夜のやうに樣々のことを彼に話さうとするときには、決して私は早く失望してしまつてはならない。再び私はグレイス・プウルのことに就いて話し、彼が何と答へるかを聞きたいと思つた。また昨夜ゆうべの恐ろしい放火をしたのは彼女であるといふことを彼は本當に信じてゐるのか、また若しさうなら何故彼女の罪を祕密にしてゐるかをはつきりと彼にたづねたいと思つた。私の好奇心かうきしんが彼を怒らせるかどうかは問題ではない。私は彼を怒らせてみたりなだめてみたりする事に興味を感じてゐた。それは私が主として樂しんでゐた興味であり、またいつも私がらちを越えないやうにしてゐる確かな本能でもあつた。私はもう一歩で相手をおこらせるといふ間際まぎはで踏み止まつた。そのきはどいところで自分の技巧をためすのが好きだつたのである。あらゆる微細な尊敬の形式をも失はず、あらゆる私の分を越えぬ禮を守つてゐて、而もなほ恐れや不安などの束縛を受けずに彼と議論を戰はすことが出來るのであつた。これが彼にも私にも相應ふさはしかつた。
 やつとのことで、階段に跫音が響いた。レアが現はれた。しかし、それはたゞ、フェアファックス夫人の部屋にお茶の用意が出來てゐると知らせたゞけであつた。少くとも階下したへ行くといふそれだけでも嬉しく思へたので、私はそこへりて行つた。それは、自分がロチスター氏の傍に、より近くなるやうに思へたからである。
 私が傍へ行くと、この善良な婦人は、「あなた、お茶があがりたいでせう。」と云つた。「お夕飯のとき、ほんのぽつちりしか召上りませんでしたもの。今日はあなたどこかお加減でもわるいのぢやないかと私、氣にしてをりましたわ。お顏がぽつと赤くて、お熱でもあるやうに見えますよ。」
「まあ、何ともありませんの。とても元氣なんですもの。」
「では澤山召上つてその證據を見せて下さらなくては。私がこの段をんでしまふ間に、あなたはその急須きふすにおぎになつて下さらない。」仕事を濟ましたので、彼女は今まで上げた儘にしてあつたブラインドを下しに立上つた。屹度今は暗闇くらやみが全くあやめも分らぬ程に濃くなつてゐるけれど出來るだけ晝間の光を利用しようとしてゐたのだらう。
「いゝ晩ですこと。」と硝子越ガラスごしに見ながら、彼女は云つた。「星は光つてゐないやうですけれど。ロチスターさんは、どうやらいゝ旅行をなさいましたでせうよ。」
「旅行ですつて――ロチスターさんはどこへかいらつしやいましたの? お出掛けになつたことはちつとも存じませんでしたが。」
「まあ、あの方は朝の食事を召上るとすぐ、御出發になつたのですよ。リイズへいらつしやいましたの。イィシュトンさんのおやしきへ、十マイルばかり行つたミルコオトの一方のはしなのです。きつとそこにお集りの方々で立派な會があるのだと思ひますよ――イングラム卿だの、サー・ジョオジ・リンだの、デント大佐だの、その他の方々などでねえ。」
「今晩お歸りになりますの?」
「いゝえ――明日もだめでせう。結構一週間か、それとももつと滯在なさりさうだと思ひますよ。さういふ立派な、モダンな方たちがお集りになると、優雅な、はなやかなものにとりまかれてはゐらつしやるし、お喜ばせしたり、お款待もてなししたりするやうなものは何もも備はつてゐるししますから、皆さまはお歸りをお急ぎになることなどありません。そんな場合には、とかく、殿方とのがたが特別に必要ですからね。中でもロチスター氏は社交界でも、多才ではなやかな方ですから、何誰どなたにでもかれてゐらつしやると思ひますの。御婦人方は大變にあの方がお好きなのですよ。あの方の御樣子が特別、女の方のお氣に入るだらうとは、あなたもお思ひにはならないでせうが、でも、あの方の學識や才能や、多分はあの方の富や立派な血統でゐらつしやることなどが、ちよいとした外見ぐわいけんきずなどつぐなふのでございませうねえ。」
「リイズには女の方達もいらつしやるのですか。」
「イィシュトン夫人と三人のお孃さま――ほんとにおしとやかなお孃さま方ですの。それから御立派なイングラム家のブランシュさまとメアリイさまは多分一番お美しい方たちでせうねえ。實はね、私も六年か七年か前、あのブランシュさまが、まだ十八のお孃さまでゐらした頃、お見かけしたことがありますの。ロチスターさんのお催しになつたクリスマスの夜會の時こゝにゐらしたのです。その日の食堂をあなたも御覽になつてゐらつしやればねえ――まあどんなに立派に飾つて、まばゆいほどともしびともつてゐましたでせう。五十人位御婦人や殿方とのがたがゐらしたと思ひますが――皆さまのうちでも第一流のお家柄いへがらでしてね。そしてイングラム孃はその晩の第一のお美しい方とされてゐらしたのですよ。」
「その方を御覽になつたと仰しやいますのね、フェアファックス夫人。どんなでゐらつしやいましたの。」
「えゝ、えゝ。お見かけしましたとも。食堂の入口はすつかり開け放してありました。そしてクリスマスですから、召使ひたちも幾人かの御婦人方が歌つたりいたりなさるのを聞きに廣間ひろまに入つてゆくのを許されてゐました。ロチスターさんが入つて來いと云はれたので、私も靜かな片隅に腰かけて、皆さまを眺めてゐましたの。私はあれより立派な有樣は見たことがありませんよ。御婦人方は立派な衣裳いしやうをつけてゐらして、大抵の方は――少くとも大抵のお若い方たちは――御立派に見えるのでした。けれどもイングラム孃は確かに女王さまでしたよ。」
「それで、どんな風でゐらつしやいまして。」
「お脊はすらりとして、お美しい胸、なだらかな肩にすつきりしたお品のよい頸すぢで、お顏は淺黒くてオリイヴ色に澄んでゐて、顏立かほだちもお品よく、眼はどちらかといへばロチスターさんに似て――大きくて黒く、それに身につけてゐらつしやる寶石のやうにまばゆいやうですよ。それからまだその上に、それは/\いゝお髮なので――烏の濡羽ぬればといふやうな眞黒まつくろな色で、それがまた大變よくおうつりになるやうに揚げてゐらつしやいました。房々とした編髮あみかみの冠が後の方にあつて、前には今まで見たこともない位長いつや/\とした捲毛を持つてゐらつしやるのです。お召物は純白で、琥珀色こはくいろのスカーフが肩からかゝつて胸を蔽ひ、腰のところで結ばれ、長いふちを縫つたはしの方は膝の下まで垂れてゐました。髮にも亦琥珀色こはくいろの花をつけてゐらつしやいましたが、それが捲毛の眞黒なふさによく引き立つてゐました。」
「隨分皆さまからもてはやされてゐらしたのでせうね、勿論。」
「えゝ、さうでございますとも。そしてたゞ御器量ごきりやうの方ばかりではなく、おたしなみの方でもさうだつたのですの。あの方は歌をお歌ひになるのですよ。どなたか殿方とのがたのお一人がピアノで伴奏ばんそうをなさいました。あの方とロチスターさんは二部合唱をなさいましたのです。」
「ロチスターさんが? 私、あの方がお歌ひになれるとは氣がつきませんでした。」
「まあ、あの方はいゝ低音バスのお聲なんですよ。そして音樂に對しても立派な趣味を持つてゐらつしやいますよ。」
「そしてイングラム孃は――どんなお聲でしたの。」
「大層豐かな力のあるお聲ですの。それは氣持ちよくお歌ひになりましてね。あの方のを聞くのはまつたく樂しみでした。それから、その後でおきにもなりました。私には音樂などわかりませんけれど、ロチスターさんはおわかりです。そしてあの方の演奏はなか/\いゝと云つてゐらつしやるのを伺ひました。」
「それで、その御綺麗な、多藝な方はまだおかたづきになつてはいらつしやいませんの?」
「まだらしうございますよ。私の思ひますに、その方もお妹さまもあまり大した財産をお持ちではないらしいのです。老イングラム卿の領地はおも限嗣相續げんしさうぞくになり、長男の方が殆んど全部おもらひになつたのです。」
「でも、どうしてお金持の貴族か紳士かゞその方をきにならないのでせう――例へば、ロチスターさんのやうな方が。あの方はお金持でゐらつしやいますね。」
「えゝ、さうですとも。でもねえ、お年齡としちがひがあんまりですもの。ロチスターさんはもう四十近くでいらつしやるし、あの方はまだ二十五でゐらつしやるのですよ。」
「そんなことなんぞ? もつと/\不釣合ふつりあひな御結婚は始終しよつちゆうのことではございませんか。」
「ほんたうにね。でも、ロチスターさんがそんなお考へをお持ちになるなんて、私にはちよつと考へられませんねえ。ですが何も召上りませんね。お茶になつてから、あなたはまだ殆んど何も召上らないぢやありませんか。」
「いえ、ひどくのどがかわいてゐて、お茶の方が結構なんですの。もう一杯いたゞかせて下さいまし。」
 私はまた、ロチスター氏と美しいブランシュとの結婚が事實あるかも知れないといふことを考へはじめてゐた。しかし、アデェルが這入つて來て、話は他の方に變つた。
 ふたゝび獨りになると、私は自分の得た消息を繰り返し考へて見た。自分の心のうちを眺め、その思想や感情をしらべ、はてしのないらちのない、想像の荒野の中を逍遙さまよつてゐるのを嚴格な手で安全な常識のをりの中につれ歸らうと努力した。内省ないせいといふ法廷で審問をうけると、記憶は先づ昨夜以來胸に祕めてゐた希求、願望、感情に就いての證言を提出した――また過ぎ去つた二週間近くの間私がほしいまゝにしてゐた心の状態に就いてもまた證言した。次に理性が進み出て、その特有の落着いた調子で、平明へいめいな、つくり飾りのない話をした。そしてどんなに私が現實を嫌惡けんをし、狂はんばかりに理想を渇望してゐたかといふことを云つた。――そこで、私は次の結果に對して判決を云ひ渡した――
 即ちジエィン・エアより以上の大馬鹿者はかつてこの世にゐた例がない。またこれより以上の、夢を追ふ馬鹿者が、口當りのいゝうそ滿喫まんきつし、毒をまるで甘露かんろかなんぞのやうにんだりした例はない、と。
「お前は」と私は云つた。「ロチスター氏のお氣に入りなのか。お前にはあの方をお喜ばせする力があるのか。お前はあの方にとつて何等かの場合に重要なのか。行け! お前の愚かさには胸が惡くなる。そしてお前は時たまの贔屓ひいきしるしを嬉しく思つて受けてゐる――立派な家柄の紳士で世間に通じた人が、雇人やとひにん、而も新參者しんざんものに向つて示す眞僞も分らぬしるしを。よくもそんなことが出來たものだ。愚かな愚かなだまされ者よ!――自分の爲めを思つてみてももう少し氣がきさうなものではないか。今朝お前は昨夜のあの短い光景を心に繰り返したといふのか。顏を蔽うて恥を知れ! あの方はお前の眼をめるやうなことを、一寸でも仰しやつたか。盲目めくらの生意氣者よ! そのたゞれたまぶたを開けて、お前の淺ましい愚かさを見るがいゝ! 結婚する心のあり得ない年長者からめられることは女にとつて決していゝことではない。そして人知れぬ思を胸に燃させるのは、すべての女の中にある狂氣の仕業だ。人知れぬ思ひを抱くものは、それが相手に知られず、それゆゑむくいられないとなると、生命を滅ぼしつくされるのだ。若しも、氣づかれ報いられたときには鬼火おにびのやうに、救ひやうのない泥濘ぬかるみの野に行くより外ないのだ。
「だから、ジエィン・エアよ、お前の宣告をよく聞いて置け。明日、鏡を前に据ゑて、チョオクでお前の肖像を、忠實に、どんなきずもぼかさず、どんな目障めざはりな皺も略さず、どんな不愉快なゆがみも直さないで描け。その下には『みよりもない、貧しい、不器量ぶきりやうな家庭教師の肖像』と書け。
「その後でなめらかな象牙紙ざうげがみを取れ――お前は、一枚、圖畫箱の中にしまつて持つてゐる。そしてパレットをとつて、一番鮮やかな、一番美しい、一番清らかな色を混ぜ合せ、一番纖細な栗鼠りすの毛の筆を選んで、想像出來る限りの美しい顏を描いて、フェアファックス夫人が話したブランシュ・イングラムの描寫に從つて、最もやはらかな陰と、最も美しい色で彩色さいしきせよ。眞黒な捲毛まきげと東洋風な黒い眼とを忘れぬやうに――何! お前は、モデルとしてロチスター氏の眼をまた思ひ出すのか! 愼め! 泣言なきごとを云ふな!――感情を持つな!――失望するな! 私はたゞ理性と決心とをじつと持ちつゞけよう。威嚴のある、しかも調和した容貌を、ギリシャ型のくびと胸とを想ひ出せ。ふつくらとした、まばゆいやうな腕も纖細な手も見えるやうにし、ダイアモンドの指環ゆびわも金の腕環も忘れぬやうに、ひら/\したレイスやキラ/\光る繻子しゆす、優雅なスカーフや金色の薔薇を、その衣裳も丁寧に寫せ。そして、それを『嗜みのある貴婦人ブランシュ』と呼べ。
「この後ロチスター氏がお前のことをよく思つてゐると思ふやうな時があつたら、いつでもこの二つの畫を取り出してくらべて見よ。ロチスター氏は、若し得ようと欲すれば、あの立派な貴婦人の愛をち得るのだ。この貧しい、みすぼらしい一平民のことを、あの方が眞面目まじめにお考へになることがあり得ようか?』と云へ。」
「さうしよう。」と私は決心した。そして、この決心を固めると、私は心が鎭まつて、眠つてしまつた。
 私は自分の言葉を守つた。堊筆クレヨンで私の肖像を描くには一時間か二時間で十分だつた。そして二週間足らずのうちに私は想像のブランシュ・イングラムの象牙紙ざうげしの肖像を仕上げた。それは實際美しい顏であつた。そしてチョオクで描いた自畫像じぐわざうと比べて見ると、その對照は自制の心が滿足する程に大きなものであつた。その仕事は私には都合のいゝものだつた。といふのは、私の頭も手もその方にとられて、私が消えないやうに心にきざみたいと願つてゐる、新しい印象を力強く確實にしたのであつた。
 間もなく、私は、自分の感情、無理にも受けさせたその有益な訓練を、しておいてよかつたとよろこぶ理由が出來た。で、有難いことに、つゞいて[#「つゞいて」は底本では「つゞいで」]起つた出來事にも、落着いた平靜へいせいな氣持で對することが出來たのだ。もしも、こつちに覺悟が出來てゐないときに、さうした事件が、起つて來たのだつたとしたら、私はきつと心の平靜を、表面だけでも、じつと持ちこたへてゐることは、出來なかつたらうと思ふ。

十七


 一週間過ぎた。しかし、ロチスター氏の便たよりはなかつた。十日つたが、まだ彼は歸つて來なかつた。もしも彼がリイズから眞直まつすぐ倫敦ロンドンへ行き、そこからまた大陸へ行つて、一年ぐらゐもソーンフィールドに顏を見せないにしろ、驚きはしないとフェアファックス夫人は云ふのであつた。彼は、まつたくだしぬけに、思ひもかけないやうな遣り方で、ソーンフィールドを去つたのも、一度や二度ではなかつたのだ。このことを聞くと、私は、何とも云へない心の寒さを感じはじめてゐた。實際、私は、病氣にでもなつてしまひさうな失望の氣持ちを、經驗した。しかし、心をとりなほし、自分のまもるべきことを思ひ浮べて、直ぐに私は、心を鎭めた。その咄嗟とつさ失錯しつさくをどういふ風にして繕つたか――ロチスター氏の動靜どうせいが、私にとつて重大な關係を持つ理由のある事柄であると、かりにも思ふその思ひ違ひを、どういふ風にして拂ひのけたかといふことは、不思議に思はれた。私は、決して、目下めしたの者の持つ卑屈ひくつな考で、自分自身をいやしめることはしなかつた。その反對に、私は、かう云つたのである――
「お前は、彼の被後見者ひこうけんしやを教へて、彼から俸給を貰ふこと、お前が自分のつとめを行ふ限り、彼のそば近くで受けることの出來る、そんな鄭重な、親切な待遇を感謝するより以外ほかは、ソーンフィールドのあるじに對してすることは何もない。あの方とお前との間に、あの方が眞面目まじめに認めてゐられるつながりは、たゞそればかりだといふことを忘れてはいけない。だから、あの方をお前が戀ひ慕つたり、夢中になつたり、惱んだり、そんなことの相手にしてはいけない。あの方は、お前と同じ階級の人ぢやない。お前も、分を守るがいゝ。さうしてもつと自重して、そんな贈物は望まれもしない、それどころかさげすまれるやうなところに、全心、全靈、全力を傾けた愛を惜しまず與へてはいけない。」
 私は、落着いて、自分の日課を續けてゐた。しかし、折々、私がソーンフィールドを立去らなくてはならない理由に對して、漠然とした考へが私の頭をかすめ過ぎて、何時いつの間にか私は廣告文を考へ、新らしい地位のことに思ひをめぐらしてゐるのであつた。私は、この考へを捨てなくてはならないとは、思はなかつた。出來れば、この考へは、芽を出し、實を結ぶかも知れないものであつた。
 ロチスター氏は、二週間以上も家をあけてゐたが、ちやうどその時、郵便で一通の手紙が、フェアファックス夫人の許に屆いた。
「旦那さまからなのですよ。」と名宛なあてを見て、彼女は云つた。「これで、お歸りになるかならないかゞ、きつとわかるでせう。」
 さうして、彼女が封を切つて、なかを讀んでゐる間、私は珈琲コーヒーを飮みつゞけてゐた(私共は朝食をとつてゐたのである)。珈琲コーヒーは熱かつた。それで、私は、ふいに、顏に上つて來た火のやうな熱さをそのせゐにしてしまつた。何故私の手はをのゝいたか、何故私は知らぬ間に手にした珈琲茶碗の中味を半分ばかりも、敷皿しきざらの中にこぼしてしまつたか、そんなことを考へなかつた。
「さう、あんまりことが無さ過ぎると、私も時々思ひますが、でも今度は大分いそがしくなるかも知れませんよ――少くとも、しばらくの間はねえ。」と、フェアファックス夫人は、まだ眼鏡めがねの前にその手紙を持つたまゝで云つた。
 くはしいことをたづねる前に、私は、ちやうどゆるみかけてゐたアデェルの前掛まへかけの紐を結び直してやつた。それから、また、もひとつ甘パンをとつてやり、耳附きの茶碗に、も一杯、牛乳を注いでやつてから、平靜らしく云つた――
「ロチスターさんは、直ぐにはお歸りになりさうぢやありませんの?」
「いえ、なるのです――三日のうちにつて、云つてゐらつしやいますわ。すると次の木曜日になりますわね。そして、お獨りではないのですよ。リイズの、あの、御立派な方たちをお幾人いくたりお連れになるか存じませんが。一等いゝ寢臺全部を用意して、お書齋もお客間も、ちやんと取片づけて、綺麗にするようにとのお指圖さしづです。それから、私は、ミルコオトのジョオジ旅館や、その他出來るだけ方々から、もつと大勢臺所に人手ひとでを集めなくてはなりません。それに、御婦人方はお供の女中を、殿方は從者をお連れになるでせう。だから、家中一ぱいになつてしまふことでせう。」さうして、フェアファックス夫人は、朝食をみ込んで、事を運ばせはじめる爲めに急いでいつてしまつた。
 その三日間は、彼女が前に云つてゐた通りに、まつたくいそがしかつた。それまで、私は、ソーンフィールドの部屋は、どれもこれも美しく清潔で、よく整頓されてゐると思つてゐた。しかし、どうも私は間違つてゐたらしい。三人の女が手傳ひにやつて來た。さうして、ペンキを、ごしごし掻いたり、刷毛ブラッシュをかけたり、上塗りするやら、絨毯をはたくやら、がくをはづしたり掛けたりするやら、鏡や吊燭臺ラスターに磨をかけたり、寢室にけたり、敷布や羽根蒲團を爐の上に乾したり――そんなことは、前にも後にも、見たことがなかつた。アデェルは、大はしやぎで、その中を駈け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。大勢のお客の爲めの準備だの、その人たちの到着の期待だので、彼女は、もうすつかり有頂天うちやうてんになつてゐるらしかつた。彼女は「お衣裳トアレット」と呼んでゐた自分の上衣うはぎ全部をソフィイに改めさせて、「流行後れパツセエ」になつたものは新らしく見えるやうに遣り直させ、新らしいものは風を通して始末させた。さうして、自分はと云へば、たゞもう表の部屋で、寢臺ベッドの上にび上つたりりたり、蒲團の上に横になつてみたり、がう/\と煙突の中に燃え上る火の前に、長枕や枕を積み重ねたりして、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るより外は、何もしなかつた。彼女は、學課の方からは解放されてゐた。フェアファックス夫人が是非にと頼んで、私に用を手傳はせてゐたからである。それで、私は、終日物置にゐて、彼女や料理番の手傳ひをしたり(それとも邪魔をしてゐたのかも知れないが)、カスタアドや乾酪チイズのお菓子や佛蘭西の饅頭菓子を製造つくつたり、獵禽とりの翼や足を縛つたり、デザァトのあしらひつくり方なんかを教はつてゐた。
 お客さま方は、木曜日の夕方、六時の晩餐に間に合ふように到着する筈であつた。それまでの間ずつと、私は妄想まうざうに耽るときなぞなかつた。さうして、確かに、私は、アデェルは別として、他の人々と同じくらゐにはいそ/\と立働いて、快活だつたと思ふ。とは云へ、時々その快活さは消えてくなり、我にもなく、私は、疑惑や、不吉の前兆や暗い臆測に沈み込んでゐるのであつた。これはたま/\三階の階段のドア(この頃は始終しよつちゆう錠をかけてあつた)が、靜かに開いて、きちんとした帽子に白い前掛、ハンケチを着けたグレイス・プウルの姿が現はれるのを見たときとか、彼女がその靜かな跫音あしおと羅紗らしやへりでつくつた上靴で消して、廊下を歩いて行くのをじつと見たときとか[#「見たときとか」は底本では「見たとさとか」]、ごた/\してまるでひつくり返したやうな寢室の内を覗いて――多分日傭女ひやとひをんなに向つて、何でもない、當然の容子で、爐格子を磨けとか、または大理石のを綺麗にしろとか、または壁紙を貼つた壁のよごれを取れとか、ほんの、ひとこと云つて、やがて立ち去つていくのを見たときとかであつた。彼女は、かういふ風に、一日に一度臺所に下りて來て、食事をし、爐にあたつて、手ごろの煙管パイプで煙草をみ、それから内緒の樂しみに黒麥酒くろビール容器いれものを持つて、自分の陰氣な階上の住場處へと歸つて行くのが常であつた。二十四時間のうち、たつた一時間だけ、彼女は、仲間の召使ひ達と階下したで一緒に過すばかりであつた。その他の時間は、すべて三階の、天井の低い※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしはのきの部屋で過した。そこに、彼女は、まるで牢屋の中の囚人のやうに、たゞ一人坐つて縫物をして――さうして、きつとたつた一人で物凄く笑ふのであらう。
 何よりも不思議でならないのは、私をけては、この家にゐる誰一人として、彼女のやることに氣を留めたり、いぶかつたりする者の無いことであつた。誰一人、彼女の地位や、雇入に就いて、話し合ふ者もなく、誰一人、彼女の獨居や、隔離をあはれむ者もなかつた。たゞ一度、グレイスを話題にして、リアと日傭女がしやべつてゐるのをちらと耳にしたことがあつた。リアは何か云つてゐたが、私にはよく聞き取れなかつた。すると日傭女ひやとひをんなの方が云つた――
「あの人はいゝお給金をもらつてるんだらうねえ?」
「さうなの。」とリアが云つた。「私もあれ位欲しいものだと思ふわ。不平を云ふんぢやないのさ――ソーンフィールドでは、けちなことはなさらないからね。だけど、あたしのなんぞ、プウルさんの貰つてる高の五分の一にもならないんだもの。あの人は貯金してるのよ。勘定日毎には、いつもミルコオトの銀行に行くんだよ。こゝをめたいと思へば、結構ひとりでやつて行けるくらゐめてるのは確かだと思ふわ。でもこゝには、もうすつかり落着いてしまつたんだらうよ。それにまだ四十とまでは行かないし、何でも出來る位に丈夫だしねえ。仕事を止めるにはまだ早すぎるわ。」
「きつと腕利うでききだらうね?」と日傭女は云つた。
「そりやもう、自分のしなくちやならないことは、ちやんと心得てるさ――誰もかなやしないわ。」とリアは、意味ありに答へた。「第一あの人の代りをするには、誰でもつて譯にはゆかないんだよ――あれだけのお給金をそつくりやるからつて、代り手はあるまいよ。」
「さうだともね!」といふのが答だつた。「だけど、不思議だねえ、どうして旦那さまは――」
 日傭女ひやとひをんなは續けようとしてゐた。しかし、そこで、リアは振向いて私をみとめた。すると直ぐに彼女は相手をつついた。
「あの人は知らないの?」とその女が、小聲に云ふのが聞えた。
 リアは首を振つた。それで勿論話は途切とぎれてしまつたのだ。それからして得たものは、かういふやうなものになつた――即ち、ソーンフィールドには何か祕密があるといふことゝ、その祕密を聞かされて、その仲間入りすることから私は故意こい除外ぢよぐわいされてゐるといふことであつた。
 木曜日になつた。する事は、すつかり、前の晩にしてしまつてあつた。絨毯は敷かれ、寢臺ベッドの掛布は花綵で飾られ、かゞやくやうに眞白な寢臺の上掛は擴げられ、化粧臺もとゝのへられ、家具も磨かれ、花瓶には花がられてあつた。寢室も客間も兩方共、出來得る限り明るく爽かであつた。廣間もまた、綺麗に掃除されて、彫刻のある大時計も、階段の段々や手摺りと同じく硝子ガラスのやうにきら/\と光澤が出てゐた。食堂では、食器棚が食器でぴか/\輝いてゐた。客間や婦人室には、外國産の植物を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した花瓶が四壁に輝きえてゐた。
 午後になつた。フェアファックス夫人は、彼女の一番いゝ黒繻子くろじゆす上衣うはぎと、手袋と、金の時計を身に※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、178-上-3]つた。お客さまの接待――婦人達を部屋へ案内したりなどするのは、彼女の役だつたからである。アデェルにも着物を着換へさせることにした。少くともその日のうちに、お客さま方に紹介して貰ふやうな機會はとてもあるまいと、私は思つたけれども。とにかく彼女を喜ばせる爲めに、私は、短いひだの多いモスリンの盛裝をさせていゝと、ソフィイに許した。私自身は、何ひとつ取換へることはらなかつた。私は、勉強室といふ聖所を立去るように、呼びに來られる筈はなかつたから。今は、そこは、私にとつては、聖所となつてゐた――「わづらはしき時のいとも心地よき隱家かくれが」に。
 暖かい風もない春の日であつた――三月の終り、四月の初め頃、夏の前觸れとして、輝かしく地上にやつて來る、そんな日であつた。それが、今はもう暮れかけてゐた。しかし、その夕暮は暖かくさへあつたので、私は、勉強室で、窓を開け放したまゝ仕事をしてゐた。
おそうござんすね。」と、衣擦きぬずれの音をさせて這入つて來ながら、フェアファックス夫人は云つた。「ロチスターさんが仰しやつたよりも一時間おくらせて、晩餐を云ひつけといてようござんしたよ。もう六時過ぎなんですからねえ。路に何か見えないかと思つて、ジョンを門まで見に遣つては置きましたが。あそこからなら、ミルコオトの方までずつと遠く見えますからね。」彼女は、窓際まどぎはへいつた。「彼が來ましたわ。」と彼女は云つた。「ねえ、ジョン」(身を乘り出して)「何か見えたかい?」
「いらつしやるところです。」と云ふのが答だつた。「皆さま、十分たないうちに、此處にお着きになりませう。」
 アデェルは窓際まどぎはへ飛んで行つた。私もその後からいつて、窓掛の蔭になつて人に見られずに、見ることが出來るようにと注意して一方の側に立つた。
 ジョンの云つた十分間はなか/\長いやうに思はれた。しかし、とう/\車輪の音が聞えて來た。四人馬に乘つて、駈けてゐた。その後に、二臺のほろをはねた馬車が續いてゐた。ひら/\と飜る面紗ヴェールや搖れ動く帽子の羽毛うまうなどがその乘物に一杯だつた。騎手きしゆの中二人は若い元氣のよさゝうな紳士だつた。三人目は、黒馬のメスルアに乘つたロチスター氏で、その前にはパイロットがねてゐた。彼のすぐ傍に並んで一人の婦人が馬に乘つてゐた。そして彼と彼女とがその一團の先頭をなしてゐた。彼女の紫色の乘馬服は殆んど地にすれ/\に引き、面紗ヴエールは微風の中に長々となびいてゐた。そのき通つたひだに混じり、それを透して房々とした漆黒の捲毛まきげがきら/\輝いてゐた。
「イングラムさん!」とフェアファックス夫人は叫んで、自分の階下の受持うけもちへと急いで去つた。
 騎馬の列は、車道のカーブに沿うて、忽ちやしきの角を曲つて見えなくなつてしまつた。するとアデェルは階下に行きたいとせがむのであつたが、私は彼女を膝の上に坐らせて、今に限らず何時いつだつて、ちやんと正式に呼びに來るのでなければ決してあの貴婦人たちの前に出て行かうとすることなぞ考へてはいけないと云ふこと――ロチスター氏はお怒りになるだらうといふこと等を解らせるやうに云つてきかせた。かう云はれて「彼女は無理もない涙を流した。」けれど、私がひどく嚴格な顏をしはじめたので、とう/\納得なつとくして涙をぬぐつた。
 樂しさうなざわめきが、今玄關の廣間から聽えて來た。紳士たちのふと聲音こわねと貴婦人たちの銀のやうな調子アクセントとが美しくからみ合つてゐた。その中でもはつきりと判るのは、美しい立派なお客をその家に迎へて挨拶してゐるソーンフィールド莊のあるじの、大きくはないがよくとほる聲であつた。やがて輕い跫音が階段をのぼり、廊下を行くかすかな跫音あしおと、つゝましやかな樂しげな笑ひ、ドアてなどが聞えてゐたが、しばらくすると、しんとしてしまつた。
“Elles changent de toilettes.”(着物を換へていらつしやるんだわ)」と注意深く耳を澄してあらゆる動靜を聞いてゐたアデエルは云つた。そして溜息をいた。
“Chez maman,”(お母ちやんのうちでは、)」と彼女は云つた。「“quand il y avait du monde, je le suivais partout. au salon et ※(グレーブアクセント付きA小文字) leurs chambres; souvent je regardais les femmes de chambre coiffer et habiller les dames, et c'※(アキュートアクセント付きE小文字)tait si amusant: comme cela on apprend.〕”(社交會があつた時、あたし、何處へでも隨いてつたわ、お客間だつて、お居間だつて。あたし、小間使ひが奧さまに髮を結つてあげたり、着物を着せてあげるのを、度々見たわ。そりやあ、面白いのよ。あんな風にして、覺えるのね。)」
「おなかかない。アデエル」
“Mais oui, mademoiselle: voil※(グレーブアクセント付きA小文字) cinqu ou six heures que nous n'avons pas mang※(アキュートアクセント付きE小文字).”(えゝ先生、御飯をいたゞいてから五、六時間になるんですもの。)」
「さう、ぢあ、皆さまがお部屋にゐらつしやる間に、私、階下したへ行つて何か食物たべものを持つて來てあげませうね。」
 注意してそつと自分のかくを出た私は、眞直に臺所につゞいてゐる裏梯子うらばしごの方に出た。臺所中は火と騷ぎで一ぱいだつた。スウプと魚とはもう出すばかりになつてゐて、料理番は逆上のぼせきつて、身も心も燃えだしさうになりながら、鍋の上に身をかゞめてゐた。召使たちの溜り部屋には、二人の馭者と紳士たちの從者が三人、火を圍んで立つたり掛けたりしてゐた。侍女たちは女主人たちと一緒に階上うへにゐるのだらう。ミルコオトから雇つた新らしい召使ひたちはあちらこちらに立働いてゐた。この混亂の中を縫つて、やつと、私は食料室に來た。そこで、つめたい鷄肉けいにくと、ロオル・パン一つと、果物入くだものいりのパイを少し、それに一二枚のお皿とナイフにフオクを手に入れた。これだけき集めると私は急いで部屋へ歸りかけた。廊下まで來て、ちやうど背後のドアを閉めようとした。その時急にざわ/\と人聲がして、貴婦人たちが部屋から出ようとしてゐることを、私に警告した。その扉の前を通つて、この食物の荷物を持つてるところに不意ふいうちをくはされる危險を冒さなくては、勉強室の方へは行けなかつた。で、私はじつとこちらの端に立つてゐた。そこには窓がないので、暗かつた。陽が沈んで夕闇が迫つて來てゐたので今はもうまつたく暗かつた。
 やがてその室は、一人づゝその美しい客を吐き出した。みんなは、その暗がりにもきら/\と輝くよそほひをして、快活に輕々として出て來た。一寸の間、彼等は、廊下の向うの端にかたまつて美しいつゝましやかな晴々とした調子で話してゐたが、やがて、まるで輝かしい霧が丘を傳つて下りて行くかのやうに、音もなく階段を下りて行つた。彼等の容子は、全體として、今まで嘗て見たこともないやうな名門のみやびと云ふやうな印象を私に與へた。
 私は、アデェルが勉強室のドアを半開きにしてのぞいてゐるのを見た。「何んて綺麗な方たちなのでせう!」と彼女は英語で叫んだ。「あゝ、あたしもあの方たちのところへ行きたいわ! ねえ、ロチスターさんは今にお夕飯の後に、あたしたちを呼びにお寄越よこしになると思はない?」
「いえ、とても、そんな事はないわ。ロチスターさんは、ほかの事でお忙しいのですからね。今夜はあの方たちのことを考へるのは、おやめなさい。きつと明日はお目にかゝれるでせう。さあ、お夕飯ゆふはんですよ。」
 彼女は本當に空腹だつたので、鷄肉や果物入くだものいりりのパイ等がしばらくの間、彼女の氣持ちを轉じてくれた。私がこんな食料を集めて來たのは好都合だつた。さもなければ、彼女と私とそれに私たちの食事を分けてやつたソフィイもいれて、まるで夕食にありつけなかつたゞらう――階下の人たちは誰も餘りいそがしくて、私たちの方までは氣がまはらなかつたのだから。九時過になるまでもデザァトは出されなかつた。そして十時には、まだ下僕しもべたちがお盆だの珈琲コーヒーの茶碗だのを持つてあちこちしてゐた。私はアデェルにいつもよりはずつとおそくまで起きてゐることを許した。階下したドアが開いたりしまつたりしてみんなが騷いでゐる間はとても眠れないと彼女が云つたからである。彼女が着物をいでしまつた頃に、ロチスター氏から使が來るかも知れないから“et alors quel dommage.”(そしたら、どんなに殘念だらう!)と附け加へて云つた。
 私は彼女が飽きる迄お話しをして聞かせた。それから今度は氣持を變へる爲めに廊下に連れ出した。廣間ひろまのともしともつてゐたので、手摺てすりの上から見下したり、召使達が往つたり來たりするのを眺めたりすることは、彼女を喜ばせた。夜がすつかりけた頃、ピアノをはこばせてある客間から樂の音が聞えて來た。アデェルと私は、階段の一番上の段に腰掛けて耳を澄した。やがて一人の聲が樂器の豐かな音にまじつて聞えて來た。唄つてゐるのは婦人で、その聲音は非常に美しかつた。その獨唱ソロが終ると、續いて二部合唱デユヘ、さうして次に、混聲合唱グリー――樂しげな會話の囁きが、その合間をたした。私は長いこと聽き入つてゐた。ふと氣がつくと、私の耳は、一心に、その混聲を分析して、語調アクセントの混亂の中からロチスター氏の語調を區別しようとしてゐた。それはすぐに聽き取れた。すると、今度は、遠いのではつきりしない音聲を言葉にしようとした。
 柱時計が十一時を打つた。私は頭を私の肩に凭せかけてゐるアデェルを見た。彼女の眼は、今にも閉ぢさうになつてゐた。で、私は腕に抱き上げて、寢床ベッドへ連れて行つた。紳士たちや貴婦人たちが寢室へ行かないうちに、もう一時近くになつてゐた。
 翌日も前日と同じく晴れてゐた。お客さま方の望みによつて、近くの何處かへ遊びに行くことになつた。彼等は、朝早く、或る者は馬に乘り、他の人々は馬車で出發した。出發も歸館も私は眺めてゐた。前と同じくイングラム孃は、唯一人の、馬に乘つた婦人であつた。そして前と同じくロチスター氏は彼女と並んで馬を走らせてゐるのであつた。二人は他の人々とは少し離れてゐた。私は、一緒に窓際まどぎはに立つてゐた。フェアファックス夫人にこの容子を指し示した。
「あなたは、あの方たちが結婚しようとお考へになりさうもないと仰しやいましたが、」と私は云つた。「でも、ロチスターさんは確かに、他のどの方よりもあの方がお好きなやうですわね。」
「えゝ、さうですわ。あの方をめてゐらつしやることは確かです。」
「そして、あの方ね。」と私は附け加へた。「御覽なさいまし、まあ、あんなに頭をあの方の方にかしげて、まるで内緒ないしよばなしでもしてゐらつしやるやうぢやありませんか。お顏が見たいこと。私まだちつともお見かけ申しませんの。」
「今晩は御覽になれますよ。」とフェアファックス夫人は答へた。「私ふとロチスターさんにアデェルがどんなにか御婦人方に紹介していたゞきたがつてゐらつしやるか申上げましたらね、かう仰しやいました、『あゝ、あの子を晩餐の後、客間に寄越よこして下さい。それからエアさんに、あの子と一緒に來るやうに云つて下さい。』つて。」
「えゝ、それはたゞお義理で仰しやつたのですわ。きつと、私、別に行かなくもよろしいのですよ。」と私は答へた。
「えゝ、私も、あなたが大勢の場所には慣れてゐらつしやらないといふことを、申上げましたの。あんなはなやかな方々――まるで御存知ない方々の前に出ていらつしやるのはおきではないだらうと思つたものですから。するといつものせつかちな調子で仰しやるんですの。『くだらん事だ。若しあの人がぐづ/\云ふなら、私の特別の所望だからと云つて下さい。それでも嫌だと云ふなら、どうしても云ふことを聞かなけりや、私が引張ひつぱつて行くと云つて下さい。』とね。」
「そんな手數はお掛けいたしませんわ。」と私は答へた。「致し方がなければ私、參ります。でも私、ちつとも行きたくはないのですけれど。あなたはいらつしやいますの、フェアファックスさん?」
「いゝえ、私は御免蒙りました。あの方はそれをお許して下さいました。一番厄介やくかいな、正式に這入つてゆく面倒をける方法をお教へしませう。皆さまが食卓しよくたくからお立ちにならない前に、誰もゐらつしやらない、お客間に這入つて行かなくてはなりません。そして何處でもようござんす、目立めだたない片端かたはしに席をおとんなさい。ゐたくなければ、殿方とのがたが這入つていらしてから、長くゐる必要はありません。たゞロチスターさんにあなたが其處にゐるといふことをお知らせして、そつと出ておいでなさい――誰も氣附きはしませんから。」
「あの方達は長いこと逗留とうりうなさるとお思ひになつて?」
「多分、二三週間で、それ以上になることはありません。復活祭の議會のお休みが濟みますと、先頃ミルコオトの議員にお選ばれになつたジョオジ・リン卿は倫敦まちへいらして、議席にお着きにならなくてはなりますまい。ロチスターさんも御一緒にいらつしやるだらうと思ひますわ。ソーンフィールドの御滯在がこんなに長びくのに、私は驚いてゐるのですよ。」
 アデェルを連れて、客間に行くべき時が近づいてるのを、私はをのゝきながら見守みまもつてゐた。アデェルは、晩に貴婦人たちに紹介されるのだと聞いてからは、終日嬉しさで夢中になつてゐる有樣であつた。さうして、ソフィイが服を換へさせはじめるまでは、なか/\温和おとなしくならなかつた。やがて着換へに熱心になつて、直ぐに彼女は落着いた。そして捲毛まきげをよくかして房々と垂らし、淡紅色ときいろ上衣うはぎを着け、長い飾帶をめ、レイスの長手袋ミットンをちやんとする頃には、裁判官か何ぞのやうに眞面目まじめくさつてゐた。彼女に服をくしや/\にしないように、云つてきかせる必要はなかつた。服を着てしまふと、彼女は、しわにしないようにと思つて、その繻子しゆすの裾を非常に注意深く持ち上げて温和おとなしく自分の小さな椅子に掛けた。そして私の支度が出來るまで其處を動かないと云ふのであつた。私の支度は、すぐに出來た。私は、一番いゝ服(銀鼠ぎんねずの分で、テムプル先生の御婚禮の時に買つて、あの時以來一度も着なかつた)を手早く着、髮もすぐにかしつけ、私の唯一つの飾である眞珠の衿留えりどめを着けた。私たちは下りて行つた。
 都合のいゝことには、客間へは、皆が晩餐ばんさんの席に着いてゐる客間を通らなくても、他に入口があつた。部屋は空虚からであつた。大理石の爐には火が一杯靜かに燃え、蝋燭は卓子テエブルを飾つた華麗な[#「華麗な」は底本では「空麗な」]花の眞中で、輝かしい孤獨の中に輝いてゐた。アーチの前には深紅しんく窓掛カアテンがかゝつてゐた。この窓掛が作つてゐる隣りの客間の人々との隔りは僅かであつたが、人々は低い聲で話してゐるので、その話聲は、物柔ものやはらかな囁き聲以上には聽き分けられなかつた。
 非常に嚴肅な印象をまだ受けてゐるらしいアデェルは、私の指さした足臺の上に、言葉もなく掛けた。私は、窓際の腰掛の方へ引込んで、傍の卓子テエブルから本を一册とつて讀まうと努力した。アデェルは、自分の臺を私の足許に持つて來た。暫くすると、彼女は私の膝に手を置いた。
「何んです、アデエル?」
“Est ce que je ne puis pas prendre une sevle de ces fleus magnifiques, mademoiselle? Seulement pour completer ma toilette?”(あたし、この綺麗なお花を一つだけとつちやいけない、先生? あたしのおべゝを立派にする爲めに。)」
「あなたはあんまり『衣裳トアレット』のことを考へすぎてよ、アデエル。花は着けてもいゝけれど。」そして私は、花瓶から薔薇を一輪とつて、彼女の飾帶かざりおびに留めてやつた。彼女は、まるで彼女の幸福のさかづきが今一杯になつたとでも云ふやうに、云ひ盡されぬ滿足の溜息をいた。思はずも浮かぶ微笑をかくさうとして、私は横を向いた。この小さな巴里娘パリつこの衣裳のことに對する熱心な本然の願ひには、いたましいと同時にいさゝか滑稽けいなものがあつた。
 やがて、起ち上るらしい靜かな物音が聽えて來た。窓掛カアテンがアーチから引き開けられると、其處から、長い卓子テエブル一杯に並べられた、立派なデザァトの銀や玻璃はりの食器の上に吊燭臺ラスターが光を注いでゐる食堂が見えた。一群の貴婦人たちがその開かれたところに立つてゐた。彼等が這入ると、後のとばりは下りた。
 人は八人しかゐなかつた。しかしそろ/\とはひつて來た時には、何だか、もつとずつと人數が多いやうな氣がした。その中の幾人かは非常に脊が高く、大抵の人は白いよそほひをしてゐた。さうして、みんな盛裝して、裾を長くひき、ひだやレエスの飾やらで幅廣はゞびろになつて、霧が月を立派にするやうにそれが彼等を立派にしてゐた。私はち上つて、彼等にお辭儀をした。一人か二人の人が頭を下げたばかりで、他の人たちは、たゞ私に目をくれたのみであつた。
 彼等は室に散らばつた。彼等の動作どうさの輕快さと陽氣さが白い羽毛うまうの鳥の群を思ひ出させた。或る者は安樂椅子ソフア褥椅オットマンに半ば凭れかゝつたやうな恰好をして居り、或る者は卓子テエブルの上に身をかゞめて花だの本だのを見て居り、他の者は火のまはりに集つてゐた。それが習慣ならはしらしい。皆低いけれど、澄んだ聲音こわねで話してゐた。後になつて私はその人たちの名前を知つたが、今そのことを述べておいた方がいゝだらう。
 先づ、イィシュトン夫人と彼女の二人の令孃たちがゐる。彼女は確かに美人だつたらしく、今もまだ容色ようしよくが衰へてゐなかつた。その令孃の、大きな方のエミイは、どちらかと云ふと小柄こがらな方で、あどけなく、顏付も擧止も子供つぽく、姿には趣があつた。彼女の白いモスリンの着物と青い飾帶かざりおびとは、よく似合にあつてゐた。もひとりのルヰザは、姿態はより脊高く優美で大へん綺麗な佛蘭西言葉の“Minois chiffon※(アキュートアクセント付きE小文字)(人形美人)といふ種類の顏立であつた。姉妹二人とも、百合のやうに美しかつた。
 レイディ・リンは四十位の、大柄おほがらな、肥つた人で、反身そりみで、ひどく傲慢な容子をして、いろ/\に光る繻子の服を着てゐた。彼女のうす黒い髮は、空色そらいろの羽毛飾の蔭や、寶石の紐の環の中にきら/\と輝いてゐた。
 デント大佐夫人はそれほど華美はでではなかつたが、ずつと貴婦人らしいと私は思つた。彼女はほつそりした身體つきと、蒼白い、温和な顏と、美しい髮とを持つてゐた。彼女の黒繻子の服や、高價な外國製のレイスのスカァフや、眞珠の飾は、あの有爵夫人の虹のやうな輝かしさよりも遙かに私を喜ばせた。
 しかし、一番目立つ三人は――たぶん、人々の中で、最もせいが高い故でもあらうが――イングラム未亡人と、ブランシュ、メァリーの二令孃とであつた。彼等は、三人共、非常に脊の高い人たちであつた。男爵未亡人は四十と五十の間位らしく、その姿はまだ美しかつた。彼女の髮は(少くとも蝋燭の光で見れば)なほ黒く、齒もまだ確かに完全であつた。大抵の人は、その年頃にしては素晴らしい女だと云つたゞらう。身體の上から云へば、確かにさうであらう。しかし、同時にその態度容貌には、我慢のならない程の傲慢な表情があつた。彼女は、羅馬型の顏付と、柱のやうに喉へ消えてゐる二重顎とを持つてゐた。この顏付は、高慢さで、ふくらんでゐたり、陰氣になつてゐたりするばかりではなく、その高慢さが深く彫りつけられてゐるやうに思はれた。そして顎も、そのせゐで、殆んど奇異な程、眞直に上を向いてゐた。彼女は、また殘忍な無情な眼をしてゐた――それが私にリード夫人の眼を思ひ起させた。話す時には仰々ぎやう/\しく物を云つた。その聲は低く、その調子の高低はひどく尊大ぶつてゐて、ひどく頑固で――一口に云へば、とても我慢の出來ないやうなものだつた。深紅の天鵞絨びろうどの服や、金絲で縫取のしてある印度織のショールで作つた頭巾タアバンは、彼女に(きつと自分でさう思つてゐたゞらう)まつたく堂々たる威嚴を與へてゐた。
 ブランシュとメァリーは、同じ位の脊丈で――ポプラの樹のやうに眞直まつすぐで高かつた。メァリーは彼女のせいの割合にはほつそりし過ぎてゐたが、ブランシュはまるでディアナ(月の女神)のやうに出來てゐた。勿論、私は、特別の興味を以て彼女を觀察した。先づ、私は、彼女の外貌がフェアファックス夫人の描寫と一致するかどうかを見たかつた。次には、いつたい私が描いた空想の肖像に似てゐるかどうか、そして第三には――おゝ云つちまへ!――それがロチスター氏の趣味に合つてゐさうだと想へるやうなものであるか否かが見たかつた。
 身體からだの範圍では、彼女は要點々々で私の畫にもフェアファックス夫人の描寫にも似てゐた。品のいゝ胸、なだらかな肩、優美なくび、黒い眼と黒い捲毛も、すつかりそのまゝであつた――しかし、彼女の顏は? 彼女の顏は、母のにそつくりであつた。たゞ若くて皺がよつてゐないといふだけで、同じやうな狹いひたい、同じやうな造作ざうさくの大きい顏立、同じやうな傲慢さであつた。但し、それは、そんな、陰氣な傲慢さではなかつた。彼女は始終しよつちゆう笑つてゐた。その笑はあてこすつたやうな笑で、彼女の弓形ゆみがたをした高慢な唇にたえず漂つてゐる表情もまた同じであつた。
 天才はいつも自分を意識してゐると云ふ。イングラムが天才であるかどうか私には分らないが、彼女は自分を意識してゐた――まつたく目に付く程、意識してゐた。彼女は温和おとなしいデント夫人と、植物學の話を始めてゐた。デント夫人は、その科學を學んだことがないらしい容子であつた。たゞ彼女は、花がきで、「特に野生やせいの花が好きだ」と云つてゐた。イングラム孃は學んでゐた。そして彼女は、得意な容子で、その用語を並べ立てた。私は、直ぐに、彼女がデント夫人を(俗に云ふ言葉であるが)「なぶりもの」にしてゐるのを――即ち、彼女の無知を飜弄してゐるのを見て取つた。彼女のなぶり方は、たくみなものかも知れない。しかし、それは決して人の好いものではない。彼女はピアノをいた。その手並てなみは鮮かだつた。彼女は歌つた。その聲は立派だつた。彼女は、母には特別に佛蘭西語を話した――流暢に、アクセントもちやんと正しく、よく話した。
 メァリーは、ブランシュよりもおだやかな、無邪氣な容貌であつた。顏付ももつと優しく、肌もずつと美しかつた(イングラム孃は西班牙人のやうに淺黒かつた)――しかしメァリーには、活々いき/\したところがなかつた。彼女の顏は表情が無く、眼は輝きを失つてゐた。彼女は何一つ話すこともなく、一度席に坐ると、まるで壁龕へきがんの中の彫像のやうに、身動きもしないでゐた。姉妹は、二人共、純白のよそほひをしてゐた。
 さて、私はイングラム孃の事を、ロチスター氏がこのんで選びさうな人だと思つたゞらうか? 私には云へなかつた――私には女性美に對する彼の趣味は分らなかつたのだ。若し彼が威嚴あるものが好きだつたら、彼女は威嚴の立派な典型であつた。大抵の紳士達は彼女を稱讃するであらうと私は思つた。そして彼が彼女を稱讃してゐるといふその確證かくしようを既に私は握つたやうに思つてゐる。最後の疑惑の影をとりのけるにはたゞ彼等が共にゐる處を見ればいゝのだ。
 讀者よ、アデェルがずつと今迄私の足許あしもとの足臺に温和おとなしく坐つてゐたと想像はなさらないだらう。その通り彼女は婦人たちが這入つて來るや立上つてその前に近づき、いかにもあらたまつたお辭儀をして、眞面目くさつて云つた――
“Bonjour Mesdames”(皆さま、こんにちは)」
 するとイングラム孃は馬鹿にしたやうな容子で彼女を見下して云つた。「おやまあ何て小つぽけなお人形でせう。」
 リン夫人は注意した、「そのお子さんが、ロチスターさんの後見こうけんをしてゐらつしやる方だと存じますよ――あの方が話してゐらした佛蘭西の小さなお孃さんよ。」
 デント夫人は親切に彼女の手を取つて接吻してやつた。エミーとルヰザ・イィシュトンとは一齊に叫んだ――
「何んて可愛らしい子でせう!」
 それから二人は彼女を安樂椅子の方へ呼びよせた。其處で、彼女は二人の間に坐らされて、佛蘭西語とあやしげな英語とを代る/″\喋舌しやべるのであつた。それがその若い令孃達の心のみならずイィシュトン夫人やリン夫人までも引きつけて、思ふ存分に甘やかされ可愛がられてゐた。
 とう/\珈琲コーヒーが運ばれ紳士たちが招ばれた。私は蔭の方に坐つた――若しこの輝かしくあかりいた部屋に少しでも蔭があるとしたならば。窓掛が半ば私を隱してくれた。また[#「また」は底本では「まだ」]アーチが開いて彼等が入つて來た。紳士たちが一團になつて現はれた容子は婦人たちのと同じくまつたく堂々としてゐた。皆黒い服裝をして、大抵は脊が高く、幾人か若い人もゐた。リン家のヘンリイとフレドリックは、實に、めかしたてゝ意氣いき伊達者だてしやだ。デント大佐は立派な軍人らしい人、地方長官のイィシュトン氏は紳士らしい人だつた。髮はすつかり白く、まだ黒い眉と頬髯ほゝひげ“P※(グレーブアクセント付きE小文字)re noble deh※(アキュートアクセント付きE小文字)※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)tre”(芝居に出て來る上品な父親)と云つた風な容子を與へてゐる。イングラム卿は姉達と同じく非常に脊が高く、また同じく美しい。しかし、彼はメァリーの感じの無い、冷淡な樣子を同じやうにけてゐる。彼は、血のめぐりや腦の發育よりも手足の方が長すぎるやうに見える。
 だがロチスター氏は、何處にゐるのか?
 彼は最後に入つて來た。私は、アーチの方を見てはゐなかつたが、彼の入つて來るのが見えた。私は、自分の心を、編針あみばりの上に、こしらへかけてゐる財布の編目あみめの上に、集中しようとした――たゞ自分の手にある仕事の事だけを考へ、膝の上にある銀色の南京玉なんきんだまと絹絲ばかりを見てゐようと思つたのである。それなのに、私は、はつきりと彼の姿を見た。そして思はず、あの最後の瞬間を思ひ起した。至要しえうな奉仕と彼が稱することをした直ぐ後で、彼が私の手をとつて顏をのぞき込みながら、滿ち溢れるやうな熱い心情の現はれた眼でじつと私を見つめ、私も同じ思を抱いてゐた、その時のことを。あの時、私はどんなに彼に接近して[#「接近して」は底本では「按近して」]ゐたことだらう! 彼と私との互の關係を變化させると思はれるやうな何かゞ起つたのであらうか。しかも、今はこんなにもへだたり、こんなにも他所々々よそ/\しいとは! 彼が私のところへ來て話しかけようなどとは思ひもよらない程離れ/″\になつてゐるのである。私は彼がこちらの方を見ることもせずに部屋の向う側に座を占めて、幾人かの婦人達と話を始めた時にも別に驚きはしなかつた。
 彼の注意がその人たちの方に集注し、彼に氣付かれないで凝視みつめることが出來ると分ると、私の眼は、我知らず、彼の顏の方に惹かれた。私は眼を伏せたまゝゐることは出來なかつた。眼瞼まぶたはどうしても上へ上り、黒眼は彼を見つめるのであつた。私は見た、そして見ることは強いよろこびであつた――貴重な、しかし有毒なよろこび、苦悶の鋼鐵の一點を持つた純金じゆんきん、今自分の這ひよつた泉は毒の泉だと知りつゝ、なほ身をかゞめて尊い水を飮む、あの、渇して死にさうになつた人が感ずるであらうその歡びであつた。
「美は視る人の眼のうちに在り。」といふのは、眞理に近い。私の主人の血ののないオリイヴ色の顏、角張かくばつた廣いひたい、太い漆黒の眉、引込んだ眼、きつい相、きつと引き締めた、苦味走にがみばしつた口許――すべての、活氣、決斷、意志――は、原則に從へば美しくなかつた。しかし、私にとつてはみんな美しい以上のものであつた。何もも、私をすつかり、支配してしまふやうな興味と、力に充ちてゐた――それが私自身の感情を無力にして、彼の感情の中に、切り離せなくしてしまふのである。私は、彼を戀しようとは思はなかつた。私が、自分の心の中から、探し出せるだけの戀の萠芽を根絶ねだやしにしようと、非常に苦勞してゐたことを、讀者は御存知でせう。それに今、また新らしく彼を見たその瞬間に、それは自然に青々といきほひづいてよみがへつて來たのだ! 彼は、私を眺めずに、私に戀させた。
 私は彼とお客たちを比較してみた。リン家の人たちの意氣いきな容子のよさ、イングラム卿のおだやかな上品さも何であらう――デント大佐の軍人らしい立派さゝへ彼の生れながらの活氣と眞の力にくらべては何んであらう。彼等の外貌に對し彼等の表情に對して、私は些しも心を動かすことはない。しかも大抵の人は彼等の事を人を惹きつけるやうで、立派で、堂々としてゐると云ひ、ロチスター氏の事は一言の下に人相のきつい陰鬱な容子をした人だと云ふだらうと想像することが出來た。私は彼等が微笑を浮かべ、また笑ふのを見た――それは無意味なものであつた。彼等の微笑は蝋燭の光と同じく心なきものであり、彼等の笑ひは鈴の音と等しく無意味なものであつた。私はロチスター氏の微笑ほゝゑみを見た。彼の嚴しい相好さうがうやはらいだ。彼の眼は輝やかしく柔和になり、その輝きは人の心を探るやうに、また温厚になつた。その時ちやうど、彼はルヰザとエミー・イィシュトンとに話しかけてゐるところだつた。私には身にみ渡るやうに思はれるその眼差まなざし[#ルビの「まなざし」は底本では「おなざし」]を彼等が平氣で受けてゐるのが不思議に思はれた。私は、彼等の眼が伏し眼になつて、血のが上つて來ることとばかり思つてゐた。しかし、彼等が少許すこしばかりも動かされた樣子が無いのを見た時、私は嬉しかつた。「彼女にとつてのあの人と、私にとつてのあの人とは違ふのだ。」と私は思つた。「あの方は、あの人達とは異ふのだ。あの方は、私と同じなのだ――確かにさうだ――私はあの方に近しいやうな氣がする――私には、あの方の顏色や意向いかうあらはす言葉が解る。階級と財産などが私共を遠く隔てゝゐても、私は、自分の頭と心のうちに、自分の血と神經の中に、何か精神的にあの方と似通にかよはせるものを持つてゐるのだ。數日前に、私は、あの方の手から俸給を受け取るより外に、あの方に對してすることは何も無いと云つたであらうか? 雇主としてより外の見方で、あの方のことを考へてはいけないと自分に命じたであらうか? 自然に對する冒涜ばうどくだ! 私の持つてゐる、あらゆる善良な、眞實な、活々いき/\とした感情が、前後の考へもなくあの方を取卷いて集つてゐる。私は自分の感情をおほひ隱さねばならぬことも、望みを握り潰さねばならぬことも、あの方が大して私に氣を留めてゐる筈のないことを忘れてはならぬことも知つてゐる。私があの方と同じ型の人間だと云つたとしても、それは私があの方のやうな人を左右する力や人を惹きつけるあの魔力を持つてゐるといふ意味ではない。たゞ、あの方と相似さうじした趣味や感情を持つてゐるといふ意味である。だから、私たちは永久に隔てられたまゝ進行せねばならないのだ――しかも、私が呼吸し、思索する間は、私は、あの方を戀しなければならないのだ。」
 珈琲コーヒーが出された。貴婦人たちは紳士たちが入つて來てから、雲雀ひばりのやうに快活になつて、話は活々いき/\と面白く榮えて行つた。デント大佐とイィシュトン氏とは政治問題を論じ、その夫人たちはそれを聽いてゐる。二人の傲慢な男爵未亡人、レイディ・リンとレイディ・イングラムとは互に打解けて話してゐる。サァ・ジョオジ――さう/\、この人のことを云ふのを忘れてゐたが――は、非常に大きな、活々いき/\とした田舍紳士で、彼等の安樂椅子の前に珈琲茶碗コーヒーぢやわんを手にして立つてゐて、時々言葉を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んでゐた。フレドリック・リン氏は、メッリー・イングラムの直ぐ傍に掛けて、立派な書籍の印畫を見せてゐる。彼女は、それを眺めて、時たま微笑ほゝゑむが、見たところでは、殆んど云はない。脊の高い無神經な容子をしたイングラム卿は、小さく快活なエミー・イィシュトンの椅子の背中に腕を組んでりかゝつてゐる。彼女は、彼を見上げて、まるで鷦鷯みそさゞいか何ぞのやうにお喋舌しやべりしてゐる。彼女はロチスター氏よりも彼の方が好きなのである。ヘンリ・リンは、ルヰザの足下にある褥椅子オットマンに坐つてゐた。そこにはアデェルも彼と一緒にゐる。彼は、彼女と佛蘭西語を話さうとしてゐる。そしてルヰザは彼の間違ひを笑つてゐる。ブランシュ・イングラムは一體誰と組んでゐるのだらう? 彼女は、たゞ獨り卓子テエブルの傍に立つて、しとやかに、身をかゞめて、寫眞帖を見てゐる。まるでさがされるのを待つてゐるかのやうに。しかし何時迄も、彼女は待つてはゐなかつた。自分で相手を選んだ。
 ロチスター氏は、イィシュトン姉妹の傍を立去ると、彼女が卓子テエブルの傍に立つてゐたと同じやうに、たゞ獨りで爐の前に立つてゐた。彼女は、彼の方へ行つて、彼と向ひ合ひに、爐棚マンテルピースの前に立つた。
「ロチスターさん、私、あなたは子供はおきでないと思つてゐましたのに?」
「えゝ、ちつとも。」
「では、どうしてあんな小さなお人形の世話をなさるやうなことにおなり遊ばしたの?」(アデェルの方を指ざし乍ら)「どこでお拾ひになつたの?」
彼女あれは拾つたんぢやないんです。私の手に殘されたのです。」
「學校へお遣り遊ばさなくてはなりませんのね。」
「とても出來ませんよ。學校は隨分費用がかゝりますからねえ。」
「まあ、あなたはあの子に家庭教師をつけてゐらつしやるやうぢやございませんか。たつた今、あの子の傍にゐましたつけ――行つてしまつたのか知ら? あゝ、さうぢやなかつた! 未だあそこに、あの窓掛の蔭にゐますわ。無論、あなたは、あれに俸給をお出しになるのでございませう。それぢあ、學校にお入れになるとおなじ位、費用がかゝるぢやございませんか――それだけではございませんわ。だつて、その上に、どちらも養つておやりにならなくてはなりませんもの。」
 私のことが引合ひきあひに出されて、それでロチスター氏が私の方を見はしまいかと、私はおそれた――それとも望んだと云ふべきであらうか? 我知らず、私は、なほも奧の方へと身をちゞめた。しかし、彼は、まつたく眼を向けなかつた。
「そのことは一向に考へませんでした。」と彼は、眞直まつすぐに前の方を見ながら、何氣なにげなく云つた。
「えゝ、あなた方殿方とのがたといふものは、決して經濟だの常識だのに就いてお考へになることなんぞないんですわ。家庭教師といふ論題では母さまにおきゝにならなければいけませんわ。あの頃少くも、メアリーと私とは、十二人いちダースは雇つたと思ひますわ。その半分は、とてもたまらない程厭なのでしたし、後の殘りは、馬鹿々々しいやうなのばかり、そしてどれもこれも、うなされさうなのばかりでございましたわ――さうでしたわねえ、母さま?」
「何かおはなしでしたか、私の孃マイ・オヴンや?」
 この男爵未亡人の特別の所有物と云はれた令孃は、説明しながら彼女の問ひを繰り返した。
「お前、家庭教師のことなんぞお言ひでない。その言葉は私を苛々させますから。あれたちの無能力と無定見むていけんに、私はもう殉教者の苦しみを致しましたよ。今はあれたちとすつかり縁が切れてゐることを、私、神さまに、感謝します!」
 デント夫人は、この信心深い貴婦人の方に身をかゞめて、その耳に何事か囁いた。云はれた答へからして、それはその呪はれた人種の一人が此處にゐるといふことを注意したのだと私は想像した。
「なほいけませんわ!」夫人は云つた。「それが彼女の爲めになればいゝがと思ひますわ!」それから調子を下げて、しかしまだ十分私に聞える程の聲で、「私、氣を付けて見ましたの。私には人相にんさうが判るんでございますのよ。それで、あの女には、あの階級の缺點がすつかり、あらはれてゐると、私、思ひますの。」
「それはどんなものです、奧さま?」とロチスター氏が、聲高こわだかに云つた。
内密ないしよでお話しいたしませう。」と、いかにも重大らしく、三度、かぶものを振り立てゝ、彼女は答へた。
「しかしさうすると、私の好奇心は食べたさを通り越してしまひます。たつた今、食物を欲しがつてゐるのですがね。」
「ブランシュにおきなさいまし。あれの方が、私よりもあなたのお近くですから。」
「あら、私の方に押しつけては嫌でございますわ、母さま! あゝいふ人たちのことを一口で申しますとね――みんな、しやうのない者でございますわ。私がひどい目にはされたといふ譯ではございませんのよ。私、さかねぢをはせるやうに、いつも用意してをりましたの。まあ、テオドールと私とは、私たちの家庭教師のウィルスン孃だの、グレイ夫人だの、ジュベア夫人だのに、いつも惡戲いたづらをしましたのよ! メアリーは、眠たがりでいつもその計畫に身を入れてはくれませんでしたの。一等面白かつたのは、ジュベア夫人にした時でしたわ。ウィルスン孃は、憐れな病身もので、泣蟲なきむしの、元氣のない、つまり、負かし甲斐がひのない人でしたわ。そして、グレイ夫人は、がさつで無感覺で――たれたつて平氣なんですの。處がジュベア夫人と云つたら! あの人を手も足も出ないやうな目に合はせた時の、非常に激昂したあの人を、今でも、私、見るやうですわ――私たちのお茶をこぼすやら、バタのついたパンをもみくしやにしてしまふやら、私たちの本を天井てんじやうまではふり投げるやら、定規ぢやうぎとで、煖爐圍ストーブがこひと火爐具とで、大騷動を演じるやら大變でしたの。ねえテオドールあの面白かつた頃のことを覺えてゐらして。」
「あゝあゝ、知つてゐるとも。」と、イングラム卿はまだるい云ひ方をした。「そして、あのけち唐變木たうへんぼくの婆さん、何かつてばかう怒鳴つてたつけ『まあ、このイタヅラメ、コドモメ!』つてね――それから樸たちはまた、自分は何も知らない癖して僕たちみたいな悧巧りかうな者に物を教へようとするのは僣越だつて彼奴あいつに云つてきかせたつけ。」
「さう/\。それからテドオ、私、あなたに手をかして、あなたの先生の、色の生白なまちろいタヴァイニング氏の事をぐち(それともいぢめたと云つてもいゝわ)したことがありましたつけ――ほら、何時も、私たちが、憂鬱な人と呼んでゐた、あの人さ。あの人とウィルスン孃とが、兩方お互に勝手に好きになつて――少くとも、テドオと私とはさう思つてゐましたわね。私たちは『美しい熱情』のしるし解釋かいしやくした色々のやさしい眼差まなざしと吐息を不意に襲つて驚かしたつけ。そして世間は直ぐに、その發見を喜びましたのね。私たちはその事件を槓杆てこにして、あの重たい難物を家から追ひ出す工夫をしましたつけ。すると、母さまは、その事を感付きになるとすぐ、それが不道徳な傾向だと云ふ事に氣がおつきになりましたのね。ねえ、さうでせう、母さま。」
「ほんとにさうだよ。そして私の思惑おもわく通りでした。あの場合にはね。女の家庭教師と男の家庭教師との狎合なれあひなどといふものが、ちやんとした家庭では一分間でも我慢すべきではないといふ事には數へきれないほどの理由がございます。先づ第一に――」
「まあ、お願ひ、母さま! 一々數へたてるのはお止し遊ばせ! au reste(おまけに、)私たちみんなその事は存じて居りますわ。子供の無邪氣むじやきに對する惡例の危險、つた方から云へばつとめをゆるがせにする結果と紛亂――互の親和と信頼、それから出て來る自信――それに伴ふ横着わうちやく――反抗――そしておきまりの爆發。これでよろしうございますか、イングラム・パァクのイングラム男爵夫人?」
「孃や、いつもの通り今もお前は正しいのですよ。」
「ではこの上何んにも云ふ必要はございませんわね。別のお話を致しませう。」
 エミー・イィシュトンは聽いてゐなかつたのか、それとも[#「それとも」は底本では「それと」]この言葉に耳を傾けなかつたのか、やさしいあどけない口調で口を挾んだ。「ルヰザも私も矢張り家庭教師を始終しよつちゆうからかひましたの。でもそれはいゝ人で、どんな事でも我慢して、ちつとも怒るなんてことはありませんでしたのよ。私たちにだつて決して不機嫌ふきげんになぞなりませんでしたわ。さうだつたわねえ、ルヰザ?」
「えゝ、決してね。私たちは何んでも好きなことが出來ましたわ――机の中だの針箱はりばこだのを引掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したり、抽斗ひきだしを引くり返したりね。それは善い人で、何んでも、私共の欲しがるものは呉れるんですの。」
「なんですか、もう、」とイングラム孃はあてつけるやうに唇をそらして云つた。「全家庭教師の言行録げんかうろく拔萃ばつすゐが出來てしまひますわ。そんなものをしらべたりすることを避ける爲めに、私は新らしい話題を始めることを提議いたします。ロチスターさん、私の提議に賛成遊ばしまして?」
「奧さま、他のすべての場合と同樣に、この點でもあなたを支持します。」
「では、それを提出する義務は私にございます。エドワルドさま、今夜歌ひますか。」
「ビアンカ夫人、御指名とあらば、たゞちに。」
「では、あなた、私は、あなたがあなたの肺臟や他の發聲器官はつせいきくわんを磨くやうに望むぞよ。王の御機嫌にかなふように。」
「いとも聖なるメァリーの君の御所望ごしよもうとあらば、リツィオにならぬものがありませうか。」
「リツィオなんかつまらない!」と彼女は叫ぶと、捲毛まきげの頭をゆすつてピアノの方へ歩いて行つた。「私、琴彈者ことひきのデヴィッドは面白くない人間だつたに違ひないと思ひますわ。それよりも海賊のボズェルの方がずつと好きですわ。私には惡魔的な處をちつとも持つてゐない男の方など、つまらなくて駄目ですの。歴史の方ではジェイムズ・ヘボンのことを何と云はうとも、私の意見では彼こそ、この手を與へてもいゝ放逸はういつな、剽悍へうかんな野武士といふ氣がいたしますわ。」
「皆さん、お聽きになりましたか! 一體あなた方の中では誰が一等ボスウェルに似てゐます?」とロスター氏が叫んだ。
「その優先權いうせんけんは先づあなたにありませうな。」とデント大佐は答へた。
「いや、まつたく有難くお禮申上げます。」といふのが答だつた。
 イングラム孃は、誇らしげな樣子で、ピアノの前に掛けると、その純白の衣裳を女王のやうに擴げて、はなやかな前奏曲ぜんそうきよくきはじめた――同時に話しながら。彼女は今夜得意の絶頂にある樣子であつた。彼女の言葉も容子もふたつながら聽衆の稱讃のみならず、驚嘆をも惹き起さうとしてゐるやうに見えた。明かに彼女は自分を非常に奇拔きばつな、華々はな/″\しいものとして人々をおどろかせようと、一生懸命になつてゐるのであつた。
「まあ、私、この頃の若い方など大嫌ひですわ!」と彼女は樂器を急調にき鳴らしながら叫んだ。「父さまの莊園の門を越えては一足だつて踏み込めない、母さまのお許しと後見こうけんなしには其處までさへも來られない、憐れな弱蟲よわむしさん! 自分の綺麗な顏だの、白い手だの、小さな足だのゝ手入ていれに魂を奪はれてゐる人たち、殿方とのがたに綺麗なお顏なんぞがお入用なのではあるまいし! 可愛らしさを、女にばかしやつては置けないとでも仰しやるのでせうか――女に當然附屬してゐる親讓りのものをねえ。私みつともな婦人をんなといふものは創造のうるはしい顏の汚點だと見なします。でも殿方とのがたにはたゞ力と勇武だけをおそなへになれば結構ですわ。その座右の銘としては――狩獵、射撃、戰ですわ。その他のものは何んの價もありません。かう云つたものが私の考へなんですの、もし私が男でしたらばね。」
「私、もし結婚いたしましたら何時いつでも、」と誰一人さへぎるものゝない沈默の後に、彼女は言葉を續けた。「自分の良人をつとを競爭者になぞしないで、私の引立て役にしようと思ひますの。私、自分の傍に競爭者を置いて我慢してはゐられません。私は絶對の服從を求めます。良人をつとのまことが私と、鏡にうつる良人の顏とに分け與へられるやうなことはさせませんわ。ロチスターさん、さあお歌ひ遊ばせ、私、いて差上げますから。」
「何事でも服從します。」といふのが答だつた。
「では、此處に海賊の歌がございます。私、海賊が大へん氣に入つてゐるのを御存じでせう。だから『コン・スピリトォ(活溌に)』でお歌ひ遊ばせ。」
「イングラム孃の御口づからの御命令ならば、水をつた乳のさかづきにも酒のスピリットが入りませう。」
「ではお氣をお付け遊ばせよ。若しも私の氣に入らないやうなことを遊ばしたら、どういふ風になさるべきかをお教へして、あなたに恥をおかゝせいたしますよ。」
「それでは、まづく唄ふと御褒美ごはうびを下さるといふことになりますね。ぢあ、私は失敗しくじるように努力致しませう。」
“Gardez-vous en bien!”(御用心遊ばせ)あなたが、わざとお間違へになるやうなら、私だつてそれ相當の罰を考へて置きましてよ。」
「イングラム孃は寛仁でゐらつしやらなくてはなりませんよ。我々人間の堪へ得られぬやうな懲罰ちようばつをお加へになるやうなことをちやんと御自分の力の中にお持ちですからね。」
「ほゝ、まあ、説明なすつて下さいまし!」と婦人は命令した。
「失禮、奧さま。説明の必要はございませんよ。あなた御自身の御心が御存じの筈でございませう、ちよいと眉をおひそめになりましても、それがもう結構死刑にも匹敵ひつてきするのだといふことを。」
「お歌ひ遊ばせ!」と云つて、彼女は、再びピアノに向つて、元氣のよいき方で伴奏をはじめた。
「今がけだすのにいゝ時だ。」と私は思つた。しかし今歌ひ出された曲の音調が私をとらへた。フェアファックス夫人は、ロチスター氏はいゝ聲を持つてゐると云つた。それは本當だつた――何とも云へずこゝろよい、力のある低音バスで、その中には彼の感じ、彼の力がこもつてゐて、耳から心の中に沁み入り不思議な感じを起させるのであつた。私はその最後の低いり切つた顫音せんおんが消えるまで――ちよつとの間止んでゐた話聲が再び元に歸るまで、待つてゐた。そして私は自分の隱れるようにしてゐた片隅を立つて、都合よく間近まぢかにあつた傍戸わきどから出た。そこから狹い通路つうろが廣間の方へ通じてゐるのである。そこを通り拔けようとして、私は靴のひものとけかゝつてゐるのに氣が付いた。それを締めようとして足を留めて、階段のちやうど下の處で敷物の上にひざまづいた。食堂のドアの開くのが聞えて、男が一人出て來た。急いでち上ると、私は彼と面と向ひ合つてゐた。それはロチスター氏であつた。
如何どうです。」と彼がたづねた。
「別に、相變らずでございます。」
「どうしてあの部屋で私のところへ來て言葉をかけなかつたのです?」
 私はさう云ふ彼にその問ひを返さうかと思つた。しかし私はそんな遠慮のないことは出來なかつた。そしてかう答へた――
「お差支へのやうでございましたから、おさまたげしたくないと存じまして。」
「留守の間中、どうしてゐました?」
「これと云つて特別には。いつものやうにアデェルを教へてをりました。」
「そして、前よりも大分あをざめてゐますね――最初はじめ、見たときよりも。どうしたのです?」
「何んでもございません。」
「あなたが私を溺らし損ねたあの晩、風邪かぜを引きましたか。」
「いゝえ、すこしも。」
「客間へかへつていらつしやい。今引込むのは、餘り早過ぎますよ。」
「私、疲れましたの。」
 彼はちつとの間、私をじつと見た。
「そして、少しばかり悄氣しよげてね。」と彼は云つた。「どうしたのです? 云つて御覽なさい。」
「何んにも――何んでもありません。私、悄氣しよげてなぞをりませんわ。」
「いや確かにさうだ。あまりひどく悄氣しよげ込んでるので、もう二三こと云ふと涙が出さうです――それ、もうそこに、キラ/\光つて、濕つて、一滴ひとしづくまつげからこぼれて敷物の上に落ちた。時間さへあれば、それに、其處いらをうろついてる召使ひ共のうるさい口さへ無ければ、この譯をすつかりきくのだが。まあ、今夜はよろしい。だが覺えておいて下さいよ。この客がとまつてゐる間は、毎晩あなたも客間に來るのですよ。これは私の希望です。等閑なほざりにしてはいけませんよ。さあ、もういらつしやい。アデェルの方はソフィイを寄越よこして下さい。お休み、私の――」彼は云ひ止めて唇をむと、急に私の傍を立去つた。

十八


 當時のソーンフィールド莊は毎日たのしくも亦いそがしいものであつた。私がこの屋根の下にすごした靜かな、單調な、淋しい、はじめの三ヶ月にくらべると、何んといふ變り方だらう! 陰氣な感じはすつかり今この家からひのけられ、暗い聯想もすつかり忘られてしまつたやうだ。到る處に生命が漲り、終日ざわめきが續いてゐた。かつてはしんと靜まり返つてゐた廊下を行くにも、また、嘗て人氣ひとけの無かつた正面の部屋に這入るにも、いきスマートな侍女か伊達だてな從者に行き逢ふことなしには出來ないのであつた。
 臺所も、食事方の食料室も、召使ひたちの廣間も、表廣間も、ひとしく活氣づいてゐた。そして客間は、さわやかな春の日の青空と長閑のどかな陽の光が、其處にゐる人々を戸外に呼び出す時だけ、空虚からになつて靜かであつた。お天氣が惡くなつて、幾日か雨續きになつた時でさへ、樂しみが盡きる樣子は見えなかつた。戸外の樂しみが餘儀よぎなく中止された結果、室内の娯樂が却つて活氣を帶びて、樣々に變つてゆくのだつた。
 餘興の變更が提議された最初の夜、私はみんな何をするつもりなのだらうかと思つてゐた。彼等は、「謎芝居なぞしばゐ」と云ふものゝ事を話してゐたが、無經驗な私には、その言葉を理解出來なかつた。召使ひたちがび込まれて、食堂の卓子テエブルが運び去られ、ともし火もいつもと違つた風に置かれ、迫持アアチに向つて椅子いすが半圓形に置かれた。ロチスター氏や他の紳士たちが、この模樣變もやうがへの方の指圖さしづをしてゐる間に、婦人たちは呼鈴ベルを鳴らして小間使を呼んでは、階段を駈けて上つたり下りたりしてゐた。フェアファックス夫人はこの家にしまつてある樣々の肩掛や衣裳や窓掛等の事を話す爲めにばれた。そして三階にある衣裳戸棚を幾つか掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して、鯨骨げいこつはひつた婦人袴スカアト、繻子のうちかけ、黒い流行服モウド、レイスの帽子かざりなどが、侍女たちによつて、一抱へづゝ運び下ろされた。その中からまた選び出して、選ばれたものは客間の奧に在る婦人室に運ばれた。
 ちやうどその時、ロチスター氏は婦人たちを再び彼の周圍にび集めて、その中の幾人かを彼の組に選り出してゐるところであつた。「イングラム孃は無論、私の組です。」と彼は云つた。その後で、彼はイィシュトン家の二令孃とデント夫人とを名指なざした。彼は私の方を見た。ちやうど私は彼の傍に居合せた。デント夫人の腕環うでわがとれかゝつてゐたのを締め直して上げてゐたのだ。
「おやりになりますか。」と彼はたづねた。私は頭を振つた。彼はひはしなかつたが、それを例の調子で押しつけられやしないかと寧ろ私は恐れてゐたのであつた。彼は私をいつもの席に靜かにかへして呉れた。
 さて、彼と彼の助力者たちは、カーテンの後に引き退さがつた。デント大佐に率ゐられた、も一つの組は、半圓形に列べた椅子に掛けた。紳士たちの一人の、イィシュトン氏は私を見て、私もその組に加へてはどうだといふ事を提議したらしかつた。しかしイングラム夫人は直ぐにその意見に反對した。
「駄目ですよ。」と彼女の云ふのが聞えた。「あんまり鈍間のろまらしくつて、こんな遊びには向きさうもないぢやございませんか。」
 やがて呼鈴ベルが鳴つて幕が上つた。アーチの内部に、矢張りロチスターが一緒に選んだサー・ジョオジ・リンの大きな身體が白い敷布にくるまつて見えた。彼の前の卓子テエブルの上には大きな本が開いて置いてある。そして彼の横にエミイ・イィシュトンがロチスター氏の外套を着込んで手には一册の本を持つて立つてゐる。誰かゞ姿をかくして、愉しげに鈴を鳴らした。すると、アデェル(彼女は自分の後見こうけんをしてゐる人の組になりたいと言ひ張つたのである)が、腕にかけた花籠の中の花を撒き散らしながら進み出た。その次に現はれたのは、白いよそほひをして、長い薄絹を頭にかぶり、薔薇の花環をひたひに卷いたイングラム孃の立派な姿であつた。彼女と並んで來るのはロチスター氏で、二人は一緒に卓子テーブルの方に近づいた。そしてひざまづいた。その間、矢張り白いよそほひをしたデント夫人とルヰザ・イィシュトンとは、二人のうしろに位置をとつた。默劇の中に式が始まつた。婚禮の所作事しよさごとであることが直ぐにうなづかれた。それが終ると、デント大佐とその組の人々は二分間ばかりひそ/\と相談し合つた。それからデント大佐が叫んだ――
花嫁ブライド!」ロチスター氏が、お辭儀をして、幕が下りた。
 再び幕が上る迄には可なりの間があつた。二幕目のは先のよりもずつと念を入れて用意した場面を見せてゐた。前に説明した通り客間は食堂よりも二段高くなつてゐたが、部屋の内に一二ヤード後方に置かれた段構だんがまへの上段に大きな大理石の水盤すゐばんが据ゑてあるのが見えた。それは温室の――何時いつも舶來の植物にかこまれて、中に金魚を入れて置いてあつた――裝飾として見おぼえのあるもので、何しろ大きくつて重いのだから、苦勞してその温室をんしつから運んで來たに違ひないものであつた。
 この水盤の傍に絨毯じゆうたんを敷いて坐つてゐるのは、肩掛を※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、198-上-17]ひ、頭には頭被タバアンを被つたロチスター氏であつた。彼の黒い眼と淺黒い顏の色と囘教徒フイ/\けうとのやうな顏立かほだちとが、その衣裳にしつくり合つてゐた。彼は弓矢ゆみやをとる身か、またその矢に當つて死ぬ身かになつた東方のマホメットの末裔まつえいそのまゝに見えるのであつた。やがてイングラム孃が現はれて來た。彼女も矢張り東洋風のよそほひをして――濃紅のスカァフを飾帶かざりおびのやうに腰のまはりにしばり、縁取りのハンケチがひたひの周圍に結ばれ、美しい形をした腕はあらはに出て、その片腕は頭の上に載せてある水瓶みづがめさゝへる爲めに恰好よく擧げられてゐた。彼女の姿も、容貌の工合も、その顏色も、大體の容子も、猶太王國時代の王女を思ひ出させるところがあつた。そしてまた、そのやうなのが、疑ひもなく彼女が演じようとしてゐる役柄やくがらでもあつた。
 彼女は、水盤に近づいて、その上に身をかゞめ、恰も彼女の水瓶を滿すやうな所作しよさをした。そしてそれを再び頭の上に載せた。泉のふちにゐる人物が彼女に言葉を掛ける容子をした――何か願ふやうである。「彼女は急ぎ水瓶みづがめを手に取り下ろし、それを彼に飮ましめた。」すると、彼は、懷中ふところから玉手箱たまてばこを一つ取り出して、それを開け、立派な腕環や耳環を見せた。彼女は驚愕と稱讃の身振みぶりをする。ひざまづいて、彼はその寶物を彼女の足下に置く。信じられぬといふ容子と喜びとが彼女の顏付と身振りとに表はれる。旅人はその腕環うでわを彼女の腕に耳環みゝわを耳に着けてやる。それはエリイザとリベッカとである。たゞ駱駝らくだが無いだけであつた。
 分れた組は再びひたひあつめた。明かに彼等はこの場面の現はした言葉または文句に就いて意見が合はないのであつた。代表者のデント大佐は要求した。「全體の場面を。」そこで幕は再びりた。
 三幕目には客間の一部分丈けが開いてゐて、他は何か黒つぽい、粗目あらめの掛布のかけてある屏風で隱されてあつた。大理石の水盤は持ち去られて、其處には雜木板ざふきいた卓子テーブルと、臺所用の椅子とが置いてあつた。これらの物は角製の提灯ちやうちんの照らす非常にうす暗い光で、ぼんやり見えてゐた。蝋燭は全部消されてゐた。
 このきたならしい場面の眞中まんなかに一人の男が坐つてゐる。握りしめた双の拳を膝の上に置き視線を地上に落してゐた。よごした顏、亂れた服裝(彼の上衣うはぎは、まるで取つ組み合でもして背中から裂けてしまつたかのやうにだらりと腕から垂れ下つてゐた)、絶望したやうな、しかめ顏、粗々あら/\しい逆立さかだつた頭髮等は巧みに人相を變へてはゐたが、私にはロチスター氏であることが分つた。彼が動くと鎖がガチヤ/\と鳴つた。彼の手首てくびには手械てかせがはめられてあつたのだ。
 刑務所(ブライド・ウエル!)とデント大佐が叫んだ。それで謎は解けたのである。
 この役者達は、普通の服裝に着換きかへるのに大分間をとつて、再び食堂に這入つて來た。ロチスター氏は、イングラム孃の手をとつて、連れて這入つて來た。彼女は、彼の演技えんぎめてゐた。
「御存じ?」と彼女は云つた。「あの三つの人物の中では、私は最後のあなたが好きなのでございますよ。あゝあなたがもう五六年も前に生れてゐらしたのだつたら、さぞ立派な紳士追剥おひはぎにおなりだつたでせうに!」
すゝはもうすつかり、顏から落ちてゐますか。」と顏を彼女の方に向けながら彼はたづねた。
「まあ、えゝ、すつかり。いよ/\殘念ですわねえ。あの墨のくまどり程あなたのお顏にお似合にあひになるものつて、御座いませんことよ。」
「ぢや、あなたは道の英雄がお好きなのですね?」
「英吉利の道の英雄は、伊太利の山賊に次いで、いゝと思ひますの。伊太利のは、リ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ントの海賊に負けるだけですわ。」
「成る程。しかし私が何であらうと、あなたはもう私の奧さまですからね。私たちは、此處にゐる人々の面前で、一時間前に結婚したのですよ。」彼女はしのび笑ひをして、赧くなつた。
「さあ、デント、」とロチスター氏は言葉をついだ。「今度はあなた方の番ですよ。」そして、も一つの組が引込むと、彼と彼の組はからになつた椅子に座を占めた。イングラム孃は彼女の指揮者の右手に腰掛け、他の人達は彼と彼女の兩側の椅子を充たした。今はもう私は役者やくしやを見守らなかつた。私はもう興味を以て幕の上るのを待ちはしなかつた。私の注意は觀客の方に惹きつけられてゐるのだ。前にはアーチの方をのみ見つめてゐた私の眼は、今は抵抗し難い力で椅子いすの半圓の方に惹きよせられるのであつた。デント大佐と彼の組とがどんな謎を演じたか、どんな言葉を選んだか、またどういふ風に演じたか、最早私はおぼえてゐない。しかも幕の終る毎にその協議を私は見てをつた。私はロチスター氏がイングラム孃をかへりみイングラム孃が彼の方をくのを見た。私は彼女が、その漆黒の捲毛まきげが殆んど彼の肩にふれさうになり、彼の頬にさはりさうになるまで、頭を彼の方に傾けてゐるのを見た。私は彼等が互に取交とりかはす囁きを聞いた。私は彼等の見交みかは眼差まなざしを思ひ起す。そしてその光景によつて起された或る感情さへも、この瞬間、私の記憶によみがへつてるのであつた。
 私は既に、讀者よ、自分がロチスター氏を愛するやうになつたと云つた。私は、もう、彼を愛してゐなかつた以前に戻れないのだ。たゞ彼が私に氣を留めなくなつたと知つたからと云つて――私が彼の前で幾時間か過しても、彼がたゞの一度も、私の方へ眼を向けないからと云つて――彼の注意がすつかりあの立派な貴婦人に占められたからと云つて――行きずりに衣裳の端が、私にさはるのを蔑み嫌ひ、もし彼女の黒い、傲慢な眼が偶然に私の上にとまるやうなことがあつたら、まるで見るに價しない程いやしいものだと云ふ風に急いでらして了ふであらう人に。私は彼を愛さないではゐられなかつた。彼がこの婦人と結婚するだらうといふ事をはつきり感じたと云つて――彼女に關する彼の眞意しんいに、誇らしい安らひを感じてゐる樣子が毎日彼女に見えたと云つて――また始終彼に求愛の樣子が見えたと云つて――それは、無雜作むざふさで、愛を乞ひ求めるといふよりは、求められるやうにするやり方だが、その、何氣なにげない無雜作むざふさな點が、却つて人をとりこにし、誇らしい態度が却つて抵抗しがたく人を惹きつけるのだ。
 このやうな事情で、戀心がめたり消えたりするものではなかつた。絶望を生むことが多いにしても。また、讀者よ、嫉妬しつとかもすことも多いと、あなた方はお思ひになるだらう――もし私のやうな立場の女がイングラム孃のやうな立場の人を嫉妬するといふことが認められるならば。しかし私は嫉妬はしなかつた――あつても極々ごく/\稀であつた。私が受けた苦痛は、そんな言葉で、表はすことの出來ないものであつた。イングラム孃は嫉妬ねたむに足らぬ人であつた。そんな感情を起すには、餘りに價値のない彼女だつた。逆説のやうに見えますがおゆるし下さい。私は本心の事を云つてゐるのです。彼女は華やかではあるが中味なかみはない。彼女は立派な容姿を持ち、樣々の才藝をそなへてゐるが彼女の頭は貧しく、その心は生來潤せいらいうるほひがない。その上に、何一つ自ら芽生えて花を開くものもなく、一つとして無理のない自然のまゝに出來た實が、新鮮さで人をよろこばせるといふこともない。彼女は善良でない。彼女は獨創的でない。彼女は始終しじゆう書籍の中の仰々ぎやう/\しい文句を繰り返す。が、決して彼女自身の意見といふものを述べることもなく、また持つてもゐないのである。彼女は高尚かうしやうな感情があるらしく云ひたてる。が、女は同情や哀憐の情を知つてはゐない。やさしさや眞實などは彼女のうちにはないのだ。彼女が自分の言を裏切つて、幼いアデェルに對していだいてゐる底意地そこいぢの惡い嫌惡けんをの情を不當に洩らしたことは數へ切れない程であつた――彼女が近よりでもすれば、傲慢な、無禮な語句ことばと共に押しのけ、或る時は室の外に出て行けと命じ、つめたく、棘々とげ/\しい取扱ひをするのは始終しじゆうの事であつた。私のほかにも、この性質のあらはれをじつと見てゐる目があつた――近々と、鋭く、素早すばやく見てゐた。さうだ、未來の良人ロチスター氏その人で、彼の望んでゐる人になき監視の眼を向けてゐるのであつた。そしてこの聰明さ――彼のこの注意深さ――彼の愛する者の缺點に對するこの完全透徹くわんぜんとうてつな良心――彼女に對する彼の感情のこの明白な熱情の缺如、此處に我が身を苦しめてやまぬ私の苦痛はみなもとを發してゐるのである。
 私は、彼女の地位、縁故えんこ等が彼に合つてゐる故を以て、家柄いへがらや、恐らくは政略的な理由の爲めに彼が彼女と結婚しようとしてゐるのだと思つた。私は、彼が彼女を愛してゐないことを、また彼からその寶物たからものを得るには、彼女の資格は相應ふさはしくないことを感じた。これが要點であつた――これが神經にさはり、惱まされる問題點であつた――これが私の熱情が衰へずに養成されてゐる所以であつた。彼女は彼をすることが出來なかつたのだ。
 もし彼女が直ぐに彼を征服し得て彼が彼女の足下そくかに伏し眞實を以て彼女に心を捧げてゐたならば、私は顏を蔽うて壁を向き、(比喩的ひゆてきに)彼等に對して死んでしまつてゐたゞらう。もしイングラム孃が善良な、高尚な女の人で、力、熱、深切、心といふものを持つてゐるのだつたら、私は二匹の虎――嫉妬と絶望とを相手に死物狂しにものぐるひの爭鬪をしたことであらう。やがて私の心は引き裂かれ滅ぼされて、彼女を崇拜し――彼女の卓越たくえつを知り、靜かに餘生を送つたであらう。そして、彼女の絶對的であればある程私の崇拜は深まり、私の靜穩はほんたうに靜かになつたことであらう。しかし實際に於てはロチスター氏を魅惑しようとするイングラム孃の努力を觀察することは、失敗したことに自分では氣がつかないその失敗を繰り返してゐるのを見るのは――彼女の誇りと自己滿足とが彼女の魅惑みわくしようとしてゐるものを次第に遠くへ反撥してゐるのに、放つた矢が悉くまとあたつたと想像し、成功だと思つて夢中になつて己惚うぬぼれてゐる――かう云ふことを見てゐるのは、休みなき昂奮と殘忍な我慢の下に同時に置かれることなのだ。
 何故ならば、彼女が失敗した時、私にはどうすれば彼女が成功することが出來たかといふ事が解つてゐたからである。續けさまにロチスター氏の胸かられ、傷もつけず彼の足下に落ちてしまふ矢が、もしもつと確かな手に射られたならば、彼の自負心じふしんの強い心を鋭く突きさし――彼のきつい眼に愛をび出し、あざけるやうな顏に優しさを喚び出し得たゞらうといふことを、またはそれより以上に、武器などなしに沈默の征服がち得たであらうことを私は知つてゐた。
「あんなにあの方の近くにゐる特典を與へられてゐるのに、どうして彼女にはもつとあの方を感動させることが出來ないのだらう?」と私は自分自身にいてみた。「確かに彼女は眞實にあの方をきになる事は出來ないのだ。でなければ本當の愛情であの方を好いてゐるのではないのだ。もし好きなのだつたら、あんなに始終しじう微笑を浮かべて見せなくも、あんなに繁々しげ/\と視線を送らなくも、あんなに態度を氣取つたり、あんなに樣々な愛嬌をつくつたりしなくもいゝのだ。私には、彼女がたゞ靜かにあの方の傍に掛け、言葉すくなに眼も控へ目にしてゐる方が、もつとあの方の心に近づくことが出來たかも知れないやうに思はれる。私はあの方の顏に、彼女が今陽氣に話し掛けてゐるのに彼の顏を頑固ぐわんこにした表情とはまるでことなつた表情を見たことがある。しかしその時にはその表情は自然に出て來たものであつた。それは手管てくだたくらんだ操縱でもつて引き出されたのではなかつた。そして人はそれをたゞその儘に受けいれゝばいゝのだ――彼の問ふ事にてらはずに答へ、必要な時には氣取らずに彼に物を云ひかける――するとそれはだん/\増し、一層やさしく深切になつてきて、物を養ひ育てるの光のやうに人を暖めてくれるのであつた。二人が結婚したら一體彼女はどうして彼の氣に入るやうにするのだらう。どうも、彼女にはやれさうもない。でも、うまくやればやれないこともないのだが。さう出來たなら彼の妻になる人はこの世の中で一番幸福な人だと私は本當に信ずる。」
 私は、まだ損得そんとくや姻戚關係の爲めに結婚しようとするロチスター氏の計畫に、非難がましいことを何も云はなかつた。それが彼の意向いかうなのだと初めて知つた時、私は驚いた。私は彼が妻を選ぶのにそんなあり來りの動機に動かされるやうな人ではないと思つてゐた。しかしその社會の人々の地位、教養、その他をれば觀る程、確かに子供の時代から彼等にみ込んでゐる思想や主義などに温和おとなしく從つてゐるといふことで、彼をもイングラム孃をも批評したり、非難したりするのは當を得てゐないと私は思つた。彼等の階級全般がこの主義を保守ほしゆしてゐるのだ。また思ふに、彼等は私のやうな者にはかることの出來ない意見を持つのも、そこに理由があるのであらう。私にはかう思はれるのであつた。若し私が彼のやうな紳士であつたなら、私は自分の愛することの出來るやうな妻でなくてはめとらないだらう。然し私のこの案は所詮自身の幸福に役立つことが明瞭で、その明瞭さが私にかう信じさせた――この案を一般に採用することに對しては、私には全然判らぬ反對意見があるに違ひない。でなければ、世間中皆きつと私と同じ行動をとる筈だから。
 しかし、これと同じやうに、他の點でも、私は自分の主人あるじに對して大變寛大になつて來てゐた。嘗てはきびしい注視を怠らなかつた彼の缺點もすつかり忘れかけてゐた。以前私は熱心に彼の性格の總ての方面を知らうとつとめてゐた。善と共に惡をも見て、兩方を正しくはかつた上で公平な判斷をしようとつとめてゐたのだ。今はもう私は、何一つ惡を見ない。私を厭がらせた皮肉も、嘗て私を吃驚びつくりさせた苛酷かこくさも、たゞもう美味な料理についたから藥味やくみのやうなものであつた。それがあると、ぴりつとするし、それが無いと何だか味が無いやうな氣がするだらう。それに漠然とした或るもの――それは不吉なもの、悲しみにみちたもの、運命を定められたもの、落膽しきつたものゝ表象あらはれではなかつたか?――それは時々彼の眼のうちに、じつと見つめてゐる者に向つて開かれ、そのなかば開かれた不可思議な深みをはかり得ぬうちに再び閉ぢられてしまふもの、また恰も火山のやうな小山の間を逍遙さまよつてゐる時、不意に地が震動するのを感じ、また裂けるのを見るかのやうに始終しよつちゆう私をおそれさせ縮み上らせるやうなその或るもの――私は、時々、麻痺した神經ではなく、鼓動する心臟で、靜かに眺めたのである。けようと思ふ代りに、私は却つて思ひ切つて――それを見極みきはめたいと願ふのであつた。そしてイングラム孃は幸福な人だと思つた。何故なら、何日いつか暇な時、その深淵をのぞき、その祕密を探り、その本性を分解することが出來るかも知れないから。
 私が、たゞ自分の主人あるじとその未來の花嫁のことのみ考へ――彼等のみを見、彼等の會話のみを聞き、彼等の動作どうさのみを一生懸命に見てゐたその時、他の人々は各々別々の興味や樂しみに熱中してゐた。リンとイングラムの二人のお孃さんは、まだ互に眞面目まじめ臭つたやうな話を續けてゐて、お互ひに二つの頭被ヴエイルをうなづかせ合ひ、まるで大きなでく人形の一對か何ぞのやうに、次々と話す噂話ゴシップに從つて、お互に驚きだの、不可解だの、恐怖だのゝ身振で、四つの手を擧げてゐた。温和おとなしいデント夫人は好人物のイィシュトン夫人と話してゐた。二人は時々私の方にも丁寧な言葉を掛けてくれたり微笑を送つてくれたりするのであつた。ジョオジ・リン卿とデント大佐とイィシュトン氏とは、政治の事か、地方の出來事か、または裁判事件を論じてゐた。イングラム卿はエミー・イィシュトンとふざけ、ルヰザはリン家の一人に聞かせたり、また一緒にも、いたり歌つたりしてゐた。そしてメァリー・イングラムは、相手の慇懃いんぎんな話をものうげに聞いてゐた。時々、みんな云ひ合はしたやうに彼等のワキ狂言を止して主役のることを、觀たり聽いたりするのであつた。結局ロチスター氏と――彼の直ぐ傍にゐるから――イングラム孃とが、その生命であり魂であつたから。若し彼が一時間でも部屋を留守にすると、目に付く程の倦怠けんたいがお客の心にしのび込むやうに思はれた。そして彼が歸つて來ると、確かに新鮮な刺※[#「卓+戈」、U+39B8、204-下-3]を與へて話をいきほひづけた。
 或る日、その彼の活々いき/\と働きかける力の不足が特別強く感ぜられた日があつた。それは彼が用事でミルコオトに招かれ、おそくなるまで歸りさうになかつた日の事である。その日の午後は雨だつた。從つて、ヘイの彼方かなたの共有地にこの頃張られたジプシイの天幕テントを見に散歩しようと云ひ出してゐたのも延期になつてしまつた。紳士達の幾人かはうまやへ行つてしまつて若い紳士達は令孃達と一緒に撞球室で球を突いてゐた。イングラムとリンの二人の未亡人は靜かに骨牌かるたで退屈をまぎらしてゐた。高くとまつて物も云はないので一人取り殘されてゐたブランシュ・イングラムは、デント夫人とイィシュトン夫人との骨折りで話の仲間に入つて、始めの中は何かセンティメンタルな曲だの歌だのを、ピアノに向つてぽつん/\とやつてゐたが、やがて書齋から小説を一册持ち出して來て、横柄に話等に耳をかさず、空嘯そらうそぶいて長椅子に身を投げて、退屈な留守の時間をまぎらさうとしてゐた。部屋も家も靜かで、たゞ時々撞球者の騷ぎが階上から聞えて來るばかりであつた。
 もう夕方が迫つて、柱時計は、はや晩餐の着換の時間を知らせてゐた。その時、客間の窓の腰掛に私と並んで膝をついてゐた幼いアデェルが不意に聲を上げた。――
“Voila Monsieur Rochester, qui revient!”(ロチスターさんがお歸りになつたわ!)」
 私は振り向いた。イングラム孃は、彼女の長椅子から、突進して來た。他の人達も、何かしてゐるのを止めて、顏を上げた。ちやうどその時、車輪の音と、馬のひづめの地を蹴る音とが、砂利じやりの上から聞えて來た。驛傳馬車えきばしやが近づいて來るのであつた。
「あんなもので、お歸りになるなんて、」とイングラム孃は云つた。
「あの方は Mesrour(黒馬)に乘つていらしたんですのに。さうぢやなかつたかしら、お出掛けになる時には――それにパイロットも一緒だつたのに。馬や犬はどうなすつたんでせう。」
 かう云ひながら、彼女の脊の高い身體と幅廣の上衣うはぎとをぐい/\窓の方によせたので、私は殆んど脊骨せぼねが折れさうになるまでに後に身體を曲げさせられてしまつた。彼女は夢中になつてゐて初めは私に氣が付かなかつたが、氣が付くと侮蔑ぶべつの唇をゆがめて別の窓框まどかまちに行つてしまつた。驛傳馬車は止つて、馭者が入口の呼鈴ベルを鳴らした。そして旅裝りよさうをした紳士が一人降りてきた。それはしかしロチスター氏ではなかつた。脊の高い、ハイカラな容子をした人で、見たことのない人であつた。
「何て憎らしいんでせう!」とイングラム孃は叫んだ。「このうるさい子猿つたら!」(アデェルをさう呼びながら)、「そんなうそしらせなんぞ云はせようと思つて、あんたをこの窓にのぼらせたのは誰?」そして彼女は、まるで私がさうさせでもしたかのやうに、怒つた眼を、私の方に向けるのであつた。
 何か話すらしい聲が、廣間に聞えてゐたが、やがて新來の客が這入つて來た。彼は、其處にゐる最年長者と見て、イングラム夫人に頭を下げた。
「どうも生憎あいにくの時に參つたやうでございますね。」と彼は云つた。「私の友達のロチスターが家にゐません時で。しかし私は隨分長旅をして來ましたし、昔馴染といふのをよい事にして、此處で歸つて來る迄待たしていたゞきませう。」
 彼の態度は慇懃であつた。彼の話の調子は、何かしら變つて響いた――はつきりと外國なまりではないが、と云つて純粹に英國のでもないのであつた。年頃はロチスター氏とほゞ同じ位――三十と四十の間位かも知れない。顏色は變に蒼白あをじろかつた。しかしその他では彼は容貌の美しい人であつた。特に初めて見た時さうである。よく/\見ると彼の顏には何か人に不快いやだと思はすものがあつた。それとも快感を起させるものが足りなかつたとでも云はうか。彼の顏立かほたちは整つてはゐるけれどしまりがなく、眼は大きくて美しく出來てはゐるが、そこからは、意氣地いくぢのないぼんやりした人となりが覗いてゐる――少くとも私にはさう思へたのだ。
 着換きがへリンの音で人々は散つてしまつた。私が再び彼を見かけたのは晩餐後であつた。その時には彼はすつかりくつろいでゐる樣子だつた。しかし私は前よりももつと彼の相好さうがうが好きになれなかつた。それは落着かないと共に生氣にとぼしいといふ印象を與へるのであつた。彼の眼は意味もなしにきよろ/\とあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐた、それがまた私が嘗て見たことも無いと思ふやうな變な樣子を現はしてゐた。男ぶりもよく、愛嬌がないといふのでもないのに、彼はすつかり私を厭な氣にさせてしまつた。そのまつたくの卵形たまごがたをした肌理きめの細かな顏には何一つ力といふものがなく、その鷲鼻わしばなにも小さな櫻桃さくらんぼのやうな口にも斷乎だんこたるものはなく、その狹い平坦へいたんひたひには思慮などなく、その空虚な茶色の眼には何等のもないのであつた。
 私はいつもの自分の席に坐つて、明々あか/\と照らしてゐる爐棚の上の燭架の光で彼を見ながら――彼は火に近々と引きよせた肱掛椅子にかけて、それでもまだ寒いやうに縮こまつて火の方によつてゐた――彼とロチスター氏とを比較してみた。私は(決して無禮の意味ではなくいふのですが)その對照は、があ/\騷ぎ立てる鵞鳥と鋭い鷹との差――おとなしい羊と毛のあらい、鋭い眼をした見張りの犬との差と云つても甚だしすぎることはないと思ふ。
 彼はロチスター氏のことを古くからの友人だと云つて話してゐた。妙な友達同志だつたに相違ない――まつたく古い箴言しんげんにある「兩極端は一致す。」といふ穿うがつた文句のまゝである。
 二三人の紳士たちが、彼の傍に掛けてゐて、時々部屋の此方こつちまで彼等の話の斷片が聞えて來た。初めは耳に入ることの意味がはつきり出來なかつた。私に近く坐つてゐたルヰザ・イィシュトンとメァリー・イングラムとの話が時々聞えて來る斷々きれ/″\の文句とこんがらかつてしまつた。その最後のものは新來の客の事を話し合つてゐるのであつた。二人共彼の事を「お美しい方」と呼んでゐた。ルヰザは彼の事を「れ/″\するやうな人」と云ひ、彼を「讃美する」のであつた。また、メァリーの方は、彼の「美しい小さな口やいゝ鼻」を例にあげて彼女の理想とする美しさだと云つてゐた。
「そして、まあ何んておだやかな顏をしてゐらつしやるのでせう。」とルヰザは叫んだ――「ほんとになだらかで――私の大嫌ひなしかめた立皺たてじわなんぞ一つもありませんわ。それにあの靜かな眼と微笑。」
 すると、まつたくほつとしたのであるが、ヘンリ・リン氏が、ヘイ共有地への延期になつた遠足のことで、何かめると云つて、彼等を部屋の反對の側にんだ。
 そこでやつと火の傍の人々の方に注意を集注することが出來るやうになつた。そしてすぐにその新來の人はメイスンさんと云ふ人だといふことを知つた。それからまた、彼が英國に着いたばかりだといふことや、彼が何處か熱い國から來たといふことも分つた。彼の顏が蒼白あをじろいのも、あんなにに近く坐つてゐるのも、家の中で外套を着てゐるのも確かにそんな理由からなのだ。やがてジャマイカ、キングストン、スパニッシュ、タウン[#「スパニッシュ、タウン」はママ]等の言葉が聞え、彼の住所として西印度諸島の名があげられた。そして程なく、彼が其處で初めてロチスター氏を知り、知り合になつたのだといふことを聽いた時、私は少なからず驚いた。彼は友人がその地方のけつくやうな暑さや、暴風や、雨期などを嫌つてゐることを話した。ロチスター氏が旅行家であつたことは、私も知つてゐた――フェアファックス夫人がさう云つてゐたから。しかし彼の足跡は歐洲大陸に限られてゐたのだと思つてゐた。今まで私はその他の國に行つたことについてのほのめかしをちらとも聞いたことはなかつたのである。
 こんな事を私は思ひ耽つてゐた矢先、或る出來事、思ひ設けないやうな事件が私の思ひの絲を斷ち切つてしまつた。メイソン氏は、誰かゞ扉を開ける度に震へてゐたが、もう燃え盡した、しかしまだ燃屑もえくづの山は赫々かつ/\と赤く輝いてゐる爐の火にもつと石炭をつぐように頼んだ。石炭を持つて來た從僕は、出て行く際にイィシュトン氏の椅子いすの傍に立止つて何か小聲で云つた。私に聞えたのはたゞ「年をとつた女」――「どうも全くうるさい奴で」といふ言葉だけであつた。
「かう云つてやれ。若しひとりで出て行かなけりや足械あしかせをはめるぞつて。」と地方長官は答へた。
「いや――お待ちなさい!」とデント大佐がさへぎつた。「追つ拂はないでおき給へ。イィシュトン。これは利用出來るかもしれない。御婦人方に相談したがいゝだらう。」そして彼は聲を張り上げてまた云つた。「皆さん、あなた方はジプシイの天幕テントを見にヘイ共有地へ行くと云つてゐらつしやいましたが、此處にゐるサムが申しますには年をとつた『バンチ婆さん』の一人が今召使達の廣間に來てゐて、『御歴々おれき/\』の前に來て皆樣の運命をうらなつて差上げたいと云つてきかないさうです。如何ですか。會つておやりになりますか。」
「まあ大佐、」とイングラム夫人は叫んだ。「よもやそんないやしい詐僞師さぎしを私たちにおすゝめなぞなさるのではございますまいね。逐拂おつぱらつておしまひ、いますぐ!」
「はい、でも、私にはとてもひやれませんので。」と從僕は云つた。「他の召使ひも駄目なのでございます。只今はフェアファックス夫人がお會ひになつて出て行くようにと云つてゐらつしやいますけれど、爐邊ろばたの椅子に坐り込んでゐて、此處に參りますお許しがあるまでは動かないと申すのでございます。」
「どうしようと云ふの?」とイィシュトン夫人がたづねた。
「『皆さま方の運命をうらなつて差上げる』と申すのでございます。そして、しなければならない、どうしてもするのだと言ひ張つて居ります。」
「どんな女なの?」イィシュトンの姉妹が、口を揃へて、訊いた。
ぞつとするやうな醜い年寄としよりでございます。まるで藥鑵やくわんのやうに眞黒で。」
「ぢあ、それは本當の魔法使の婆さんだ。」とフレドリック・リンが叫んだ。「びませうよ、勿論。」
「えゝ、きつと、」と彼の弟も賛成した。「こんな面白い機會を逃がしては、どんなに殘念なことだか分りませんよ。」
「まあ、お前たちは、何てことを考へるのですか。」とリン夫人は叫んだ。「そんな不合理なことをするのをだまつて見てゐられません[#「見てゐられません」は底本では「見てゐられまません」]。」とイングラム未亡人が調子を合せた。
「さうね、母さま、でも母さまは……さうね、いゝことよ。」とピアノの腰掛にかけたまゝ此方を向き乍ら、ブランシュの横柄わうへいな聲が聞えた。今まで彼女は其處にだまつて掛けてゐて確かに樣々の樂譜を見てゐたのだ。
「私自分の運命のことを訊いてみたいのですわ。だから、サム、そのお婆さんに來るやうに云つておくれ。」
「お前、ブランシュ! まあ考へて――」
「解つてゐましてよ――仰しやりさうなことはみんな考へてみましてよ。で、私、自分の思ひ通りにしなくてはなりませんわ――ぐだよ、サム。」
「さう――さう――さうですとも」と貴婦人も紳士も、若い人たちはみんな聲を上げた。「來さして頂戴。とても面白いたのしみになるでせう。」
 從僕は矢張り躊躇してゐた。「隨分、ぶしつけな人間らしいのでございますが。」と彼は云つた。
「お行き!」とイングラム孃は呶鳴つた。それでしもべは去つた。
 忽ちにしてみんな興奮してしまつた。サムが歸つて來た時には、揶揄だの冗談だのが次から次へと飛び出して大騷ぎになつてゐた。
「今は來ないでせう。」と彼は云つた。「『俗衆』(と申すのです)の前に出るのは、自分のつとめではないと申しまして。たゞ一人だけ、部屋に案内してやらなければならないさうで、それから觀てもらひたい人が一人々々行かなくてはならないのださうでございます。」
「もうおわかりだらう、女王さまのやうなブランシュや、」とイングラム夫人は云ひ始めた。「その女は家にぢり/\侵入しようといふのですよ。云ふことをおきゝなさい、天使のやうな孃や――そして――」
「お書齋に案内しておやり、勿論。」とこの『天使のやうなお孃さま』はさへぎつた。「俗衆の前でうらなつてもらふのは私のすべきことでもありませんわ。私は自分一人ですつかり聞きます。お書齋には火があつて?」
「はい、お孃さま――ですが隨分ごろつきテインクラスのやうでございますが。」
うるさいね、おめ。馬鹿。私の云ひつけ通りにおし。」
 再びサムは姿を消した。そして、不可思議や活氣や期待が、また高潮に達した。
「婆さんが、お待ちしてをります。」と再び姿を現はして從僕が云つた。「どなたが第一にいらつしやるかうかゞひたいと申してをりますが。」
「御婦人方が誰もいらつしやらない前に、私がちよいと行つて見といた方が、いゝと思ひますね。」とデント大佐が云つた。
「さう云つてくれ、サム。男の方がいらつしやるからつて。」
 サムは行つてまた歸つて來た。
「旦那さま、男子の方は嫌だ、と申します。わざ/\お出で下さる必要はございませんさうで、また、」と彼はやつとの思ひでしのび笑ひを抑へて附け加へた。「御婦人方もお若くつて、御獨身の方のほかはいけないと申すのでございます。」
「こいつは驚いた、り好みをしやがる。」とヘンリイ・リンは叫んだ。
 イングラム孃は重々おも/\しく立上つた。「私が一番に參ります。」と彼女は、仲間の先鋒せんぽうとなつて、城の崩壞口をのぼつて行く決死隊の先導者に相應ふさはしいだらうと思はれるやうな調子で云つた。
「まあお前、まあ大事な孃や、お待ち――考へ直して。」といふのが彼女の母親の叫び聲だつた。しかし彼女は落着き拂つて何も云はずに彼女の前を通りすぎ、デント大佐の開けておいたドアをよぎつて出て行つた。そして私共は、彼女が書齋に這入る音を聞いた。
 打つて變つた沈默が續いた。イングラム夫人は、手をもみ絞るやうな le cas(事件)だと思つた。メァリー孃は自分にはとても思ひ切つて出來さうにもないと云つた。イィシュトンのエミーとルヰザとは、聲をひそめてしのび笑ひを[#「笑ひを」は底本では「笑をひ」]してゐながら、いくらかおそれてゐる樣子であつた。
 時間のつのが非常に遲かつた。書齋のドアが開くまでに十五分はつた。イングラム孃はアアチをぬけて私共のゐる處へ歸つて來た。
 彼女は、笑ひ出すだらうか? 冗談にしてしまふであらうか? みんなの眼は、熱心な好奇の眼差まなざしで彼女を迎へた。そして彼女はみんなの眼を斷然たる拒絶と、冷淡さで、受けとめた。彼女は攪亂みだされた樣子でもなく、また嬉しげな樣子でもなかつた。彼女はつんとして自分の席へ歩いて行つて、何も云はずにそれに掛けた。
「どう、ブランシュ?」とイングラム卿が云つた。
「何か云ひまして、お姉さま?」とメァリーがたづねた。
「どうお思ひになりまして。どんな氣持がなさいましたの。本當の占者うらなひしやでして?」とイィシュトン姉妹がたづねた。
「まあ、まあ、皆さま。」とイングラム孃は答へた。「そんなに攻め立てないで下さいまし。ほんとにあなた方の驚きだの輕信だのゝ器官きくわんは直ぐに騷ぎたがりますのね。あなた方と云つたら、皆さまのその一大事のやうな御樣子では――私の母さまも一緒ですわ――これでもつてすつかりこのおたくにあの惡魔と親類筋の正眞正銘の巫女みこがゐるのだと思ひ込んでゐらつしやる御樣子ねえ。私ジプシイのごろつきに會つて參りましたわ。あの女はあり來りの型通りの手相てさうを覺えてきて、そんな人達の云ひさうなことを私に云ひました。私の物好ものずきもこれで滿足いたしました。私もうイィシュトン氏がおおどしになつた通りに、明日の朝、あの鬼婆に足械あしかせをかけて下さつて結構でございますわ。」
 イングラム孃は本をとり上げると椅子にもたれかゝつた。で、その話は、れてしまつた。私は殆んど半時間位の間、彼女の方をじつと見てゐた。その間中、彼女は一頁もめくりはしないで、彼女の顏は刻々こく/\と暗く、不滿足なやうになり、益々不興ふきやうげな失望の樣子になつて來るのであつた。明かに彼女は、自分に工合のいゝことを、云はれなかつたのだ。そして、陰鬱と沈默とが何時までも消えない彼女の樣子からして、彼女自身、何とも思はないと公言したにも拘らず、彼女に與へられたおげといふものを不當なほどに重大に見てゐるらしかつた。
 その間にも、メァリー・イングラムとイィシュトン家のエミーとルヰザとは、一人ではとても行く勇氣がないと云つてゐた。それでゐて、皆んな行きたかつたのだ。そこで、サムの全權大使を仲介ちうかいとして、談判が開始された。さうして、さん/″\歩いたので、今云つたサムのふくらはぎが痛くなつたに相違ないと思はれる迄に、さん/″\行つたり來たりした揚句あげく、とう/\、やつとのことで、そのきびしい女占者をんなうらなひしやから許しを無理に得て、三人は、一團になつて、彼女のところへ行くことになつたのである。
 彼等のときにはイングラム孃のときのやうに靜かではなかつた。ヒステリカルなしのび笑ひだの小さな叫び聲だのが書齋から聞えて來た。そして二十分ばかり經つとどや/\とドアを引き開けて廣間を駈け拔けてきた。まるで半分おどかされて氣が狂つたやうであつた。
「確かに、あれはすこしあやしいわ。」と彼等は一人殘らず叫んだ。「こんなことを云ふんですの。私達のことはみんな知つてますのよ。」そして彼等は息も絶え/″\に、男の人たちがいそいで持つて來た椅子にくづをれてしまつた。
 その上のくはしいことを問はれて、彼等は彼等がまだほんの子供の時分に云つたりたりした事を彼女が話し彼等が家の部屋に持つてゐる本だの飾りだの――あちこちの親類の者が彼女等におくつた記念品だのゝ事を云つたと云ふのであつた。また彼女は彼等の思つてることでさへも見拔くことが出來て、各々の耳に世界中で一番好きな人の名を囁き、彼等が一番欲しがつてゐるものをげたと云ふのである。
 すると男の人達は、その最後に云つた二つの點をもつとはつきりさせてくれと一生懸命になつて横槍よこやりを入れた。しかし、彼等はそのしつつこい問の返辭の代りにたゞ赧くなつて、叫び聲をあげ、身顫ひし、忍び笑ひをするのみであつた。その間にも刀自達は、氣つけ藥のびんだの、手頃のあふぎだのを與へて、彼等の警告を用ゐないからこんなことになると、繰り返し繰り返し云ふのであつた。そして年をとつた男の人たちは笑ひ出し、若い人達は、胸を騷がせてゐる彼等の好きなひと達の御用をつとめようと、頻りにせまつてゐた。
 この騷ぎの最中に、また私の眼も耳も自分の前の光景にすつかりとられてゐるとき、私はすぐ背後うしろに近く咳拂せきばらひの聲をきいた。振り向くとサムがゐた。
「失禮ですが、あのジプシイが申しますには、お部屋にはまだお目にかゝらない御獨身の方が一人ゐらつしやるといふので。そしてすつかり見るまではどうしても動かないと申すんで、それはあなたに相違ないと思つたのでございます。他にはそのやうな方はゐらつしやらないものでございますから。何と申しませうか。」
「あゝ、私、是非參ります。」と私は答へた。そして自分の可成りに刺※[#「卓+戈」、U+39B8、212-上-2]された好奇心を滿足させる、思ひがけない好機會を喜んだ。私は誰の眼にもつかぬやうに部屋をすべり出た――皆んなは今歸つて來たばかりの聲を慄はしてゐる三人の周圍に一團になつてゐたので――そして私は靜かに私の背後にドアを閉めた。
「何でしたら、」とサムが云つた。「廣間にお待ちしてをりませう。そして若しこはいとお思ひになつたら、一寸お呼びになりや、直ぐに這入つて行つて上げますから。」
「いゝえ、サム、臺所へ歸つてゐて下さいな。私ちつともこはくはありませんから。」私はこはくはなかつた。却つてひどく興味をそゝられ、興奮してゐた。

十九


 私が這入つて行つたときには、書齋はしんと靜まり返つてゐる樣子であつた。そして女占者をんなうらなひしや――若し彼女が女占者なら――は、爐邊ろへんの安樂椅子に非常に居心地よささうに掛けてゐた。彼女はあか上衣うはぎと黒い帽子――と云ふよりは寧ろ、顎の下に縁取のハンケチで結へた、廣縁のヂプシイの帽子を着けてゐた。卓子テエブルの上には消した蝋燭が立つてゐた。彼女は火の上に身體をげて、焚火たきびの光で祈祷書のやうな小型の黒い表紙の本に讀み入つてゐるらしかつた。讀みながら、彼女は、本を讀むとき大抵の年をとつた女の人がするやうにぶつ/\獨言ひとりごとを呟いてゐた。私が這入つて來ても、直ぐには止めず、或る一節を讀み終らうと思つてゐるらしかつた。
 私は敷物の上に立つて手を温めた。客間の火から離れて坐つてゐたので、大分冷たくなつてゐたのである。もう私は平常いつもの通りに落着いた氣持になつてゐた。そのジプシイの樣子には何一つ人の心を亂すやうなものなど無かつた。彼女は本を閉ぢると、ゆつくりと眼をあげた。彼女の顏は半ば帽子の縁で蔭になつてゐたが、顏を上げたとき、變な顏であることを知つた。すつかり茶色と黒に見えた。もつれ毛があごの下に渡してある白い紐の下からはみ出し、半ばは頬の上と云ふよりは寧ろ顎の上にかゝつてゐた。彼女の眼は直ぐに無遠慮に眞直まつすぐに私にそゝがれた。
「えゝと、それでお前さんも自分の運命を聽きたいのかな?」と彼女は、その眼付めつきと同じやうにはつきりと、その顏と同じやうにきつい聲で云つた。
「そんなことはどうでもようござんすよ、お婆さん。あなたのお好きなやうになさい。たゞ云つておきますがね、私は一向に信じてはゐませんよ。」
「ふん、あつかましいお前さんの云ひさうなことだ。さうだらうと思つてゐた。お前さんがしきゐまたいだときに、それは、もう跫音あしおとで分つたからね。」
「へえ、早耳はやみゝなのですね。」
「さうだよ。それに眼もはやいし、頭もすばしつこいし。」
「皆んなあなたの商賣には入用でせう。」
「さうだよ。特別にあんたのやうなお華客とくいをみるときには入用だよ。どうしてあんたは顫へなさらんかな?」
「私、寒くはありません。」
「顏色もあをくならんやうぢや?」
「私、病氣ではありません。」
何故なぜ、私に占術うらなひを頼みなさらん?」
「私はばかぢやありません。」
 しなびた老婆は彼女の帽子と紐の下で、あ、は、は、と笑つた。それから、短かい、黒い煙管を取出して、火をけると、ふかしはじめた。しばらく、この鎭靜劑たばこみ耽つてゐたが、やがて、彼女は、曲つた身體を起し、煙管きせるを口からとると、ぢつと火を見つめたまゝ、極くゆつくりと云つた――
「あんたは寒い。あんたは病氣だ。あんたは愚かだ。」
「證明して下さい。」と私は答へた。
「簡單に云つてあげる。あんたは寒い。何故ならあんたは孤獨だから。誰とも近づきがないから折角せつかくあんたの持つて生れた火を打つて出すものがない。あんたは病氣だ。何故なら男の人に與へる最高の感情、最も高く、最もやさしいものがあんたから遠く隔つてゐるから。あんたは愚かだ。何故なら苦しい思をしてゐながらあんたはその最高の感情を近くにまねかうともしなければ、こちらから、あんたを待つてゐる所でそれに會はうと一あし踏み出さうともしないから。」
 彼女は、再び、短い黒い煙管きせるを口へ持つて行つて、また新らしく盛んにんだ。
「そんなことは、皆んな、大きなおやしきに一人ぽつちで雇はれて、暮してゐることが判つてゐる人には、大方誰にでも云ふのでせう。」
「大方、誰にでも云ふかも知れない。だが、殆んど、誰にでも眞實だと云へませうかね。」
「私みたいな境遇にはね。」
「さうだよ。その通り、あんたみたいな境遇にはね。だがその他にあんたとちやうど同じやうな地位にある人を探して貰ひますかな?」
「幾人でも探して上げるのは容易たやすいことです。」
「一人も探せまいよ。若しあんたが氣を附けば、あんたは特別な地位にゐるんぢや。幸福のすぐ傍に、さうよ、手の屆く處に。材料はすつかり揃つてゐる。たゞそれを結び合せる動きが足りないだけだよ。運命の神樣が、いくらかばら/\に離しておかれたのぢや。一度近づけて御覽じろ、末は吉だよ。」
「私には謎はわかりません。私、はんものなんぞあてることはまるで出來ませんから。」
「若しもつとはつきり云つて欲しいとお望みなら、てのひらを見せなさい。」
「そしてきつと銀貨を握らせておくのでせうね。」
「さうとも。」
 私は彼女に一シルリング遣つた。彼女はそれをポケットから取り出した古い靴下の底に入れた。そしてそれをくる/\捲いてゆはへると、手を差し出すようにと云つた。私はその通りにした。彼女はそのてのひらに顏を近づけて、手を觸れないでじつと見つめた。
「これはあんまりすぎる。」と彼女は云つた。「こんな手には何んにも云ふことが出來ない。殆んど筋なしだ。それに、掌には何があるかな? 運命は此處には書いてない。」
「それは當つてゐますよ。」と私は云つた。
「此處ではない。」と彼女は續けて云つた。「顏にある。――額の上にも、眼の邊にも、眼の中にも、口の線にもある。膝をついて、頭を擧げて御覽。」
「あゝ。それで大分本當らしくなつて來ました。」と彼女の云ふ通りにしながら、私は云つた。「今に私も少しはあなたを信ずるやうになるでせうよ。」
 私は彼女から半ヤードのところにひざまづいた。彼女は、火を掻き起して、燃えそびれた石炭がめら/\と燃え上るやうにした。しかしその輝きは、腰掛けてゐる彼女の顏を益々暗い蔭の中に置き、私の顏を照らすのであつた。
「あんたは一體どんなこゝろで今夜私の處に來なすつたかな?」と暫く私を見つめてから彼女は云つた。「立派な人達がまるで幻燈げんとうの中の人物のやうにあんたの前を飛び過ぎて行くあそこの部屋に坐つてゐる間中、あんたの心にはどんな思ひがいそがしく往來してゐたのぢやらう。あんたとあの人達の間に一向いつかう心が通ひ合ふことがないのは、丁度、あの人達が生きた人間でなく、たゞの人影でゞもあるやうぢや。」
「私はよく退屈になるし、ときには眠くなることもあります。でも悲しくはなりません。」
「では、未來の囁きであなたを引立て、喜ばすやうな何か祕密な希望を持つてゐなさるのか?」
「いゝえ違ひますよ。私が一等望んでゐるのは自分の俸給の中から十分なお金をめて、何時か自分の借りた小さな家に學校を設立したいといふこと。」
「魂が生きて行くには、惡い食物だ。で、あんたは、あの窓臺まどだいに腰掛けて、(私があんたの習慣を知つてるのが分るだらう)――」
「召使たちから聞いたのでせう。」
「あゝ、なか/\拔目ぬけめのないお方だ。さう、まあ聞いたかも知れん。實を云ふと、私はあの中に一人知り合ひがある――プウル夫人と――」
 その名を聞いたとき、とび上る程驚いた。
「さうか、さうなのか?」と私は思つた。「ぢあ、結局これには魔法があるのだ!」
「驚きなさることはない。」と不思議な人物は、言葉を續けた。「プウル夫人は安全な人だよ――祕密をらさんし、落ついてゐるよ。あの人は信用されても大丈夫だ。しかし今云つたやうに、あの窓臺に腰掛けてゐるとき、あんたは未來の學校の他には何も考へないかね? あんたは自分の前の安樂椅子や椅子に掛けてゐる人達の中で誰かに現在興味を持つてはゐないかな? あんたがじつと見つめてゐる顏が一つありはしないかな? 少くとも好奇心をもつて誰かの振舞ひに氣を附けてはゐないかな?」
「私は、皆んなの顏だつて、皆んなの姿だつて、眺めてゐるのは好きです。」
「だがな、皆の中から一人だけ――それとも二人かもしれんな、り出したことはないかね?」
「よくしますよ。二人の人の身振みぶりだの顏付だのが意味ありげに見えるときにはね。それらを見てゐるのは面白いのですから。」
「どんな話を聞くのがお好きかな?」
「えゝ、別に大した好き嫌ひがある譯ではありません。みんな、大抵同じ話題――求婚を話してゐますし。それから、同じ結果――結婚に終るのですわ。」
「そして、あんたはそのつまらない話題がお好きか?」
「ちつとも、氣にしてゐませんわ。私には何でもないことですもの。」
「あんたには何でもないつて? 若くて、生命せいめいと健康に滿ちた、美しくて人を惹きつける、地位と財産といふ賜物たまものを與へられてゐる貴婦人が一人の紳士の前に掛けて微笑ほゝゑんでゐる、その紳士をあんたは――」
「私が、何?」
「あんたは知つてゐる――そして、大方憎からず思うてゐる。」
「私は此處にゐらつしやる男の方たちは知りません。私は殆んどあの中の誰とも一言だつて言葉をかはしたことはありません。それからその方たちを好く思ふといふことでは幾人かは立派な、堂々とした、中年の方だと思ひ、他の方たちは若くて伊達だてで、綺麗で、元氣があるとは思つてゐます。でもあの方たちは、好きな人達の笑顏ゑがほを受けようと自由勝手なんです。そんなことが、私にとつて大事件だなどゝ、私は考へようともしないのですから。」
「あんたは此處にゐる男の人たちを知らないかな? その中の誰とも一言ひとことかはしたことはないかな? この家のあるじのことも、あんたはさうお云ひかな?」
「あの方は、家にはゐらつしやらないのです。」
「意味深長な言葉だ! 實にうまい云ひ拔けだ! あの人は今朝ミルコオトへ行つて、今晩か明日か此處へ歸つて來るだろ。そんなことがあの人をあんたの知人しりびとでなくするかね――たとへば、あの人をこの世から消してしまふかな?」
「いゝえ、ですがあなたの始めた話にロチスターさんが何の關係があるのか、私には殆んどわかりませんわ。」
「私は男の人達の前で微笑ほゝゑんでゐる婦人達のことを話してゐた。そしてこの頃ではロチスターさんの眼は、あふれるほどふんだんに微笑ほゝゑみを送られてゐるので、水を入れすぎた二つのコップみたいにあふれてるんだよ。あんたはそれに氣づいたことはないのか?」
「ロチスターさんはお客さま方と一緒にゐて、たのしむ權利がおありです。」
「權利がどうと、わしはいてはをらん。だが、こんなことに氣が附いたことはないとお云ひかな、結婚について、こゝで話される總ての物語の中で、ロチスターさんは最も陽氣で最も長つゞきのするお話を惠まれてゐることを?」
「聽き手の熱心さは話し手の舌をなめらかにするものです。」と私はジプシイにと云ふよりは寧ろ自分に向つて云つた。その不思議な話、聲、擧動などはこのときまでに私を何か夢のやうなものゝ中に包んでしまつてゐたのであつた。思ひもかけない言葉が次から次へと彼女の口から出て來て、とう/\、私はまどはしの網の中に捲き込まれ、どんな見えない精が幾週間も私の心の傍にゐて、その働きに注目し、あらゆる心の動きを書き留めてゐたのであらうとあやしく思ふのであつた。
「聽き手の熱心さ!」と彼女は繰り返した。「さう、ロチスターさんは、話をする役目やくめをひどく喜んでゐる、人の心をとろかすやうな唇に耳を傾けて、そのときまで、坐つてゐられた。そしてロチスターさんは、さうされるのが大層好きらしく、またその惠まれたたのしみを感謝してる樣子だつた。これは見られたかな?」
「感謝ですつて! 私はあの方の顏に感謝をさぐり出したことなんぞ思ひ出せません。」
「探り出した! といふからには分解したのぢやな。それで何を探り出しなすつた、若し感謝でないのなら?」
 私は何も云はなかつた。
「あんたは愛を見た――違ふかな?――そして先のことを豫想して、あの人は結婚すると思ひ、あの人の花嫁は幸福だと思つたのだらう?」
「ふん、少々違ひますよ。あなたの魔法の術も時々間違ふのですね。」
「一體全體、ぢあ何を見たのかな?」
「御心配なく。私は聞きに來たので、告白に來たのではありません。ロチスターさんが結婚なさるのは分つてゐるのですか?」
「さうだよ。あの美しいイングラム孃とね。」
「近いうちに?」
「形勢から察すると、さういふ結果になるわけだね。それに確かに、あんたは、大膽不敵にもそれを疑ふらしいが、その大膽さを、あんたは、改め直さなくてはならないよ。二人は大層幸福な御夫婦になるだらう。あの方は、あんな美しい、品のある、機智に富んだ、才藝のある婦人は、愛する筈ぢや。そして、多分、あの女も、あのひとを愛するだらうよ。――あの方の人物でなくも、少くとも財布の方はな。あのひとが、ロチスター家の財産を、この上なしの欲しいものに思つてゐることを、私は知つてゐる。だが、(神よ、おゆるし下され!)そのことで私は一時間ばかり前にあのひとが恐ろしく眞面目まじめになるやうなことを云つてやつた。あのひとの口の兩角は、半インチばかり下つたよ。私は、あの女に、あの品行の怪しい求婚者に用心しろと、忠告してやつた。若し、他の人がもつとたくさん溜つてゐる、もつと中味のつまつた、地代帳ぢだいちやうを持つて來ようものなら、あの人は失望させられて――」
「ですが、お婆さん、私はロチスターさんの運命を觀て貰ひに來たのではありませんよ。私は、自分のを聞きに來たのですよ。なのに、そのことはまだ何にも云つてくれないぢやりませんか。」
「あんたの運命はまだどつちとも云へん。あんたの顏を見ると、一つの筋が他のと相反してゐるのです。運命の神はあんたに幾らかの幸福を分けてくれてある。私にはよう分る。それは私が今晩此處へ來ないうちから分つてゐた。運命の神はわざ/\あんたの爲めにそれをとつておいたのだよ。さうだといふことも私は知つてゐる。手を延ばしてそれを取上げるのは、あんた次第だ。しかし、あんたがさうするかどうかゞ、私の見て上げるところぢやよ。も一度敷物の上にひざまづきなされ。」
「長いことしないで下さい。火が燒けつきさうですから。」
 私はひざまづいた。彼女は私の方にこゞまないで、椅子にもたれかゝつてたゞじつと私を見つめた。彼女はつぶやきはじめた――
「焔が眼の中にゆらめいて、眼は露のやうに光つてゐる。やはらかに、思ひに滿ちてゐて、私の言葉に微笑ほゝゑんでゐる。感じ易く、その澄んだ眼球を通つて、次から次へと印象が這入つて行く。微笑が消えたときには悲しいのだ。まぶたの上には氣の附かぬ倦怠が宿つてゐる――それは孤獨から來る憂鬱なのだ。お前の眼は私からそれる。この上見つめられることに堪へられないのだらう。私が發見したものは眞實なのに、その眼はひとを小馬鹿こばかにしたやうな眼付をして、それを信じまいとするらしい――感じやすい、煩悶してゐる、と私がとがめるのを拒んでゐるやうだ。そこに見える誇と遠慮とのみが私の考へを確めるのだ。この眼はいゝ眼だ。
「口の方はと云ふと、時々笑つてたのしさうである。頭の考へることは皆んな話さうとするけれども、恐らく心情の經驗に就いては大抵だまつてゐるだらう。動き易く柔かくて、決して孤獨の中に永久に沈默してゐるやうにしつけようとすることは出來ない。それはよく話し、よく微笑ほゝゑみ、相手に對して人間らしい愛情を持つてゐるやうな口である、その造作も亦いゝ。
「額の外には、幸運な未來へ導くのに邪魔になるものは見えない。そしてそのひたひはかう云つてゐる――『若し自尊心と環境とが私にさうするやうに要求するのなら、私はたゞ一人でゐることが出來る。私は幸福を買ふ爲めに自分の魂を賣る必要はない。私には生れながらに持つてきた内心の寶がある。若し外から來る樂しみがはゞまれ、または私の出し得ないあたひでしか與へられないとしても、それは私の生命を續けさせることが出來る。』又ひだひは言ひ切つてゐる――『理性はしつかりと坐つて手綱たづなを握つてゐる。だから理性は感情を恣まに募らせて、それが、彼女を危い谷間へ追ひ込むやうなことはさせないだらう。熱情はなるほど、生來せいらい闇に迷へるものたるに恥ぢず、烈しく激するであらう。そして慾望はあらゆる果敢はかないことを夢見るだらう。しかし判斷力は、なほもあらゆる議論中で、最後の決定的發言を持ちあらゆる決定に於ては裁決權さいけつけんを持つてゐる。強風や地震や火事などが過ぎて行くこともあらう。けれど私は良心の命令を傳へる靜かな小さな聲に導かれて行かう。』と。
「よく云つたもの哉、ひたひよ。お前の言葉は尊敬されるだらう。私は自分の計畫を立てた――正しい計畫だと私は思ふ――そして私はそれに臨むに良心の要求、理性の意志に從つてした。假令たとへ福祥さいはひ[#ルビの「さいはひ」は底本では「あいはひ」]さかづきられて捧げられたとしても、若しその中に一片の恥、一味の悔があるならば、忽ちにして青春はうつろひ花は枯れてしまふと云ふことを私は知つてゐる。そして私は犧牲も悲哀も寂滅じやくめつも望んではゐない――さういふのは私の好みではない。私はやしなひ育てたいので、枯らしたいのではない。滿足を得たいので、血の涙を――否、たゞの涙だつて絞らうとは思はない。私の收穫は笑ひの中に、寵愛の中に、歡喜の中になくてはならない――それでいゝのだ。私は何だかひどくうかされて夢中でしやべつてゐるやうな氣がする。この今の瞬間を ad infinitum(永遠)に長引かせたいやうに思ふ。しかし思ひ切つては出來ない。今迄はちやん振舞ふるまつて來たのだから。私は今まで心の中で、しようと誓つた通りに振舞つて來た。しかしこれ以上は、私の堪へ切れないことになるかも知れない。お立ちなさい。エアさん。あつちへいらつしやい。『芝居は終つた』んです。」
 何處に私はゐるのか? めてゐるのか、眠つてゐるのか? 私は夢を見てゐたのであらうか? まだ夢を見てゐるのであらうか? 老婆の聲は變つてゐた。彼女のアクセント、彼女の身振、そして何もも、まるで鏡のうちの自分の顏のやうに――自分の話す言葉のやうに私には親しいものであつた。私は、ち上つたけれども、出て行かなかつた。私はた。それから火を掻き起しても、一度視た。しかし彼女は帽子と紐とを顏のあたりにひき寄せて、再び立ち去るやうにといふ手振をした。焔が、のばした彼女の手を照らしてゐた。今はもう目がはつきりとめ、見露みあらはさうとする鋭い注意力で、私は直ぐにその手に注目した。それは老人のしなびた手ではなく、私の愛する人のにほかならなかつた。釣合つりあひよく出來たすらりとした指を持つた、みがき上げたやうなしなやかな手であつた。幅廣の指環が小指にきらめいた。私は身をかゞめてそれを見ると、今迄幾度か見なれた寶石が見えた。もう一度、私は顏を見た。もうそれは私の方からそむけはしなかつた。反對に帽子が脱ぎ棄てられ、紐がとかれて、頭が現はれた。
「えゝ、ジエィン、私が分る?」と聞きなれた聲がたづねた。
「お願ひですから、その赤い上衣うはぎをとつて下さいまし。それから――」
「だけど紐がむすぼれて――手を貸して。」
「切つておしまひなさいまし。」
「さあ、やつと――『げ、汝借り物よ![#「汝借り物よ!」は底本では「汝借り物よー」]』だ。」さうしてロチスター氏は變裝を脱ぎ棄てゝしまつた。
「まあ一體、何て妙なことをお考へになつたのでございます!」
「でもうまく遣りおほせたでせう、えゝ? さう思はない?」
「あの方たちの方はうまくなすつたに相違ございません。」
「だが、あなたにはさうぢやないと云ふの?」
「だつて、私にはジプシイのやうにはなさらなかつたのですもの。」
「何のやうにしました? 私自身のやうに?」
「いゝえ、何か説明出來ないやうなものでした。簡單に云ひますと、私を誘ひ出す――それとも引張り込まうとしてゐらつしやるのだと、私思つてゐましたの。私にくだらないことを話させようとして、御自分でもくだらないことを話してゐらつしやいましたもの。あんなことは公平なことではございませんわ。」
ゆるしてくれますか、ジエィン?」
「も一度そのことをよく考へてみるまでは何とも申されませんわ。反省してみて、若し私が大變に不合理ふがふりなことを云つてないことが分つたら、おゆるしするやうにしたうございますけれど。でも、あれはいゝことではございませんわ。」
「あゝ、あなたは大變に正確だつたし――大變注意深くて、大變敏感でしたよ。」
 私は想ひ出してみた。そして全體としてはさうだつたと思つた。それは愉快なことであつた。が、實際私はこの會見の殆んど當初から要心えうじんしてゐたのだつた。何だか怪しいと疑つてゐたのだ。私はジプシイや卜者うらなひしや達はこの年寄としよりらしく見える女が振舞つたやうには振舞はないといふことを知つてゐた。それに私は彼女のつくり聲や、顏を隱さうと氣にしてゐること等に氣が附いてゐた。だが私の心は――生きてる謎であり、不思議中の不思議と思つてゐたあのグレイス・プウルに走つてゐた。ロチスター氏とは夢にも思はぬことだつた。
「だが、」と彼は云つた。「何を瞑想してゐるのです? その眞面目まじめ腐つた微笑は何といふ意味です?」
「驚きと自慶じけいでございます。もう退つてもいゝと仰しやつたと存じますが。」
「いや、も少しゐて、あつちの客間の人達はどうしてゐるか話して下さい。」
「きつとジプシイのことをはなし合つてゐらつしやると思ひます。」
「お掛けなさい!――皆んなが私のことを何と云つたか、聞かせて下さい。」
「私あんまり長くゐない方がよろしいです。もう十一時近くになる筈でございますもの。あゝ、御存知でゐらつしやいますか、ロチスターさん、今朝お出掛けになりました後で、どなたかゞお着きになりましたことを?」
「お客――いゝえ、誰だらう? 私は誰もあてがないが。もう歸つたのですか?」
「いゝえ、その方は前からのお知り合ひで、お歸りになる迄此處で勝手に待つてゐてもいゝのだと云つてゐらつしやいました。」
「そんなことを云つたのか! 名前は云ひましたか?」
「お名前はメイスンで、西印度から――ジャマイカのスパニッシュ・タウンからいらしたのだと存じます。」
 ロチスター氏は私の傍に立つてゐて、ちやうど椅子いすに連れて行かうとするかのやうに私の手をとつてゐたが、私がさう話すと彼は痙攣けいれんしたやうに私の手首をつかんだ。唇の微笑はこほりついたやうになつた。明かに痙攣けいれんが彼の息を止めてしまつたのだ。
「メイスン!――西印度!」と、物を云ふ自動人形が、同じ一つの言葉を云ふと思はれるやうな調子で、彼は云つた。「メイスン!――西印度!」と彼は繰り返した。そして彼は三度同じ言葉を繰り返して、口を合間々々あひま/\に、段々と、灰の色よりも蒼ざめて來た。彼は自分が何をしてゐるか、殆んど知らないやうだつた。
「御氣分がお悪いのでございますか。」と私は訊いた。
「ジエィン、駄目になつた。私は駄目になつてしまつた。ジエィン。」と彼はよろめいた。
「あゝ、私にもたれてゐらつしやいまし。」
「ジエィン、あなたは前にも一度、私に肩を貸してくれた。今また貸して下さい。」
「えゝ、えゝ、私の腕も。」
 彼は腰掛けた。そして私を傍に坐らせた。私の手を兩手でとつて彼はさすつた。同時に彼は最も困惑した陰鬱な樣子で、じつと私を見つめてゐた。
「私の小さな友達!」と彼は云つた。「あなたと唯二人きりで靜かな離れ島にゐられたなら、困難も危險もいとはしい記憶も私からなくなつてしまつてゐられたならと思ふ。」
「私でおやくに立ちませうか?――お盡しするのなら生命いのちも差し上げたく思ひます。」
「ジエィン、若し助けがるのだつたら、あなたの手に求めます。約束しておきます。」
「有難うございます。どうしたらいゝか、仰しやつて下さい。私、少くともやつてみるだけはみます。」
「ぢあ、ジエィン、食堂から葡萄酒ぶどうしゆさかづき一杯持つて來て下さい――皆んなそこで夕食を食べてゐるでせう――それからメイスンが皆んなと一緒にゐるかどうか、何をしてゐるか見て來て下さい。」
 私は行つた。ロチスター氏が云つたやうに、お客は皆んな食堂で夕食ゆふしよくをとつてゐた。彼等はしかし食卓しよくたくには着いてゐなかつた――夕食は食器棚の上に並べてあつた。そして各々がきなものを取つて、皆此處彼處にかたまつて、手に食器だの洋杯コップだのを持つて立つてゐた。誰も彼も皆、大層面白さうであつた。笑ひ聲や話し聲が一ぱいに[#「一ぱいに」は底本では「一ばいに」]なつてゐて活々いき/\としてゐた。メイスン氏は火の傍でデント大佐夫妻に話しながら立つてゐて、他の人たちと同じやうに愉快さうな樣子をしてゐた。私は葡萄酒を杯に一ぱい注いで(かうしてゐるときイングラム孃が嫌な顏をして、私をじろ/\見てゐるのに氣が附いた。しからぬことをすると思つたのだらう)、そして、私は書齋へ引返した。
 ロチスター氏のひどい蒼白い色は消えてゐて、再びもとのやうにしつかりときびしく見えた。彼はさかづきを私の手から取つた。
「あなたの健康の爲めに、私に奉仕してくれる妖精えうせいよ!」と彼は云つた。中味なかみすとそれを私に返した。「皆んな何をしてゐます、ジエィン?」
「笑つたり、はなしたり。」
「皆んな眞面目な、不思議さうな樣子ではありませんか、何か不思議なことを聞いたやうに。」
「いゝえ、ちつとも。皆さま笑つたり騷いだりしてゐらつしやいます。」
「で、メイスンは?」
「あの方も、矢つ張り、笑つてゐらつしやいました。」
「若しこの人達が皆んな一緒になつてやつて來て、私につばを吐きかけたとしたなら、あなたはどうします、ジエィン?」
「皆んな部屋からひ出してしまひます、若し出來たら。」
 彼はかすかに微笑した。「でも若し私が皆んなのところへ行かねばならなくて、それで皆んなたゞ冷やかに私を見て、さげすんだやうに互ひに囁きかはし、やがて一人々々と離れて私を殘して行つてしまつたとしたら、どうします? あなたは皆んなと一緒に行きますか?」
「そんなことはないでせうと思ひます。私、御一緒に殘つてゐた方がずつと嬉しいのですから。」
「私を慰める爲めに?」
「えゝ、私に出來る限りはお慰めする爲めに。」
「で、若し私についてるといふので、皆んながあなたをのろつて、社會からひ拂つたら?」
「私、多分、そんなのろひなんぞ、何んにも存じませんでせう。でも若しさうなつても、私、そんなことを氣に留めはいたしません。」
「ぢあ、あなたは私の爲めに世間の非難を顧みないでゐられますか。」
「私、どんなお友達でも私がついて行く價値のあるあなたのやうな方の爲めなら出來ます。きつと、私、出來ます。」
「ぢあ、部屋に引返して、そつとメイスンのところへ行つて、ロチスターさんが歸つて來て、お目に掛り度いから、と耳打みゝうちして下さい。此處に案内して、そしたら行つてようござんす。」
「はい。」
 私は彼の命じたことをした。私が眞直まつすぐに皆んなの中を通り拔けたとき、人々は皆んな驚いて私を見てゐた。私はメイスン氏を探して使ひの趣を述べ、彼を部屋から連れ出した。彼を書齋へ案内してから、私は二階へ上つて行つた。
 晩くなつて、私が寢床ベッドに這入つてからもう幾らか經つた頃、お客が寢室へ退くのが聞えて來た。私はロチスター氏の聲を聽き分けた。そしてかう云つてゐるのが聞えて來た。
「こちらへ、メイスン。こゝが君の部屋だ。」
 彼は快活に話してゐた。その明るい調子が私の心を落ち着けた。私は直ぐに眠つてしまつた。

二十


 私は平生いつも引く寢臺のカアテンを引き忘れてゐた。そして窓の日除ひよけも下ろすのを忘れてゐた。その結果は、輝いた滿月が(その夜は晴れてゐたので)、空に昇つて來て、私の窓の彼方に懸つたとき、そしておほひの無い窓硝子まどがらすを透して私の方を覗き込んだとき、そのきら/\した光が私を起してしまつた。眞夜中に目を覺まして、私は眼を開いて白銀の晶玉のやうに澄んだ月の表面を見た。それは美麗ではあつたが嚴肅過ぎるほどであつた。私は半ば身を起して窓掛を引かうと腕を伸ばした。
 おや、まあ! 何と云ふ叫び聲だらう!
 夜――その靜寂、その靜止――は、ソーンフィールド莊の端から端まで鳴り渡つた恐ろしい、鋭い、金切かなぎるやうな物音で二つに裂けてしまつた。
 私の脈搏は止つた。心臟は鼓動を止めた。差し伸べた私の腕はしびれてしまつた。叫び聲は消えて、二度とは聞えなかつた。まつたくどんなものでも、あんな恐ろしい叫び聲を、直ぐに繰り返すことは出來まい。アンデスの山の上にゐる廣い翼の兀鷹コンドルだつて、その巣を蔽つてゐる雲の上から、あのやうな叫び聲を續けて二度は出すことが出來ないだらう。あんな聲を出すものは、その努力を繰り返すことが出來る迄には、休まなければいけない。
 その叫び聲は三階から出た。頭の上を掠めて過ぎたから。そして頭の上、さう、ちやうど私の寢室の眞上まうへに部屋に、今私はもがき爭ふやうな音――その物音から察すると死物狂しにものぐるひのものらしかつた――を聽いた。そして半ば息のつまりかけたやうな聲が叫んだ――
「助けて! 助けて! 助けて!」早口に三度。
「誰も來ないのか?」と聲が叫んだ。それから、よろめいたり足踏みしたりする物音が、荒々しく續いてゐる中に、私は板や壁を通してはつきりと聽き分けた――
「ロチスター、ロチスター、お願ひだ、來てくれ!」
 何處かの部屋のドアが開いて、誰かゞ廊下を駈けて、と云ふよりは疾走して行つた。別の足音が階上の床に響いて、何か倒れた。それからしんとなつた。
 恐怖で手足が顫へてゐたけれど、有り合せの服を着て、私は部屋から出た。眠つてゐた人々はすつかり目を覺まされた。叫び聲だの、恐ろしさうな囁き聲だのが、あちこちの部屋に響き、次から次へとドアが開き、一人また一人と顏を出して、廊下は一ぱいになつた。紳士達や貴婦人達もみんな寢床ベッドを出て來た。そして、「まあ、何事でせう?」――「誰が傷ついたの?」――「何ごとが起つたのでせう?」――「燈を持つて來て!」――「火事ですか?」――「盜人?」――「何處へ逃げるのでせう?」などの問ひがごつちやになつて皆の口から出た。月の光がなかつたら、彼等はまつたくの闇の中にゐるのであつたらう。彼等はあちこち駈け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、また一かたまりに寄り集り、泣きじやくる者だの、ひざまづく者だのもあつて、その混雜は手の着けやうもない程であつた。
「一體全體、ロチスターは何處にゐるのだ?」とデント大佐が叫んだ。「寢床ベッドの中には見えないが。」
「此處です、此處です。」と大きな聲が返辭をした。「落ち着いて下さい、皆さん。今行きますから。」
 そして廊下の突當りのドアが開いて、ロチスター氏が、蝋燭を手に這入つて來た。ちやうど階上から下りて來たところであつた。女の人たちの中一人が眞直まつすぐに彼の處に駈けて行つて彼の腕にすがつた。それはイングラム孃であつた。
「どんなこはいことが起りましたの?」と彼女は云つた。「仰しやつて頂戴! どんな惡い事でもすぐお聞きしなければなりませんわ。」
「だが、私を引き倒したり、窒息ちつそくさせないで下さい。」と彼は答へた。今やイィシュトンの姉妹が彼のまはりに取りすがり、廣い、白の閨衣ねやぎを着た二人の未亡人は、まるで帆を張つた舟のやうに彼を目がけて押し寄せてをつたからだ。
「萬事いゝんです!――いゝんですよ!」と彼は叫んだ。「『空騷からさわぎ』のおさらへに過ぎません。あなた方、離れてゐて下さい。でないと腹を立てゝどうするか分りませんよ。」
 そして、また、彼は物騷に見えた。彼の黒い眼はきら/\と光つてゐた。つとめて氣をしづめて、彼は附け加へた――
「女中が一人うなされたのです。それだけなんです。興奮し易い、神經質な人間で、自分の見た夢をきつと幽靈か何かさう云つたものと解釋して、それで吃驚りして騷ぎ出したのです。さあ、もう、皆樣が部屋におかへりになるのを見屆けなくてはなりません。家中が落着くまでは彼女の世話をしてやることが出來ないのですから。紳士諸君、どうぞ御婦人のお手本になつてあげて下さい。イングラム孃、あなたはきつとくだらない恐れなどを超越してゐるといふことを實證して下さるでせうね。エミーとルヰザとは、その通り二羽の鳩のやうにあなた方の巣におかへりなさい。奧さま方は」(と、未亡人達に向つて)「あなた方はこの寒い廊下にこの上ゐらしては確實に風邪かぜをお召しになつてしまひますよ。」
 かういふ風にして、なだめたり制したりして、彼は、皆をも一度別々の部屋に收めようとした。私は自分の部屋にかへるやうにと云はれるのを待たず、誰にも氣附かれずに出て來たやうに、またそつと引退ひきさがつた。
 しかし、床に入る爲めではなかつた。反對に氣をくばりながら服を着て身支度をした。叫び聲の後に私が聽いた物音と口走つた言葉とは多分、私にだけしか聞えなかつたらしい。何故ならそれは私の上の部屋から出たものであつたから。そして、それ等はあんなに家中を恐怖させたのは女中の夢ではないこと、ロチスター氏の云つた説明は、お客をしづめる爲めに拵へた思ひつきに過ぎないことを、私は確信した。で、私は緊急の時の用意に着換へをしたのである。着てしまふと、私は長い間、窓によつて靜まりかへつた地上や月の光で白くなつてゐる野を見渡しながら、何か分らぬものを待つてゐた。私には、あのあやしい叫び聲、爭鬪、呼聲に續いて何か事件が起るに違ひないと思はれたのだ。
 否、靜寂はかへつた。人々の囁き聲やざわめきは段々と靜まつて、一時間ばかりの内にソーンフィールドホールは再び沙漠のやうにひつそりとなつた。眠と夜とは、再び支配しだしたやうであつた。まもなく月は傾いて來た。沈まうとしてゐた。寒さと暗闇くらやみの中に坐つてゐるのはいやだつたので、私は、着物を着たまゝ寢床ベッドの上に横にならうと思つた。私は窓際を離れて音をさせないやうに絨毯をよぎつて行つた。靴を脱がうと身をかゞめたとき、あたりを憚るやうにしのびやかに私のドアを叩くものがあつた。
「御用ですか。」と私は訊いた。
「起きてゐますか。」と私の待つてゐた聲――即ち私の主人あるじの聲がたづねた。
「えゝ。」
「着物を着て?」
「えゝ。」
「ぢや、出て來て下さい、そつと。」
 私は云はれる儘になつた。ロチスター氏がともし火を手にして廊下に立つてゐた。
「あなたが入用なんです。」と彼は云つた。「こつちへ來て下さい。落着いて、音を立てないやうに。」
 私の上靴は薄くて、敷物を敷いた床の上を私は丁度猫のやうにそつと歩くことが出來た。彼は廊下を行き盡して階段を上り、暗い低い運命を定める三階の廊下で足を止めた。
「あなたのお部屋に、海綿がありますか。」と彼は囁き聲で訊いた。
「えゝ。」
「鹽は――※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)ぎ鹽は?」
「ございます。」
 「引返して、兩方共持つて來て下さい。」
 私は引返して、洗面臺の上に海綿を、抽斗ひきだしに鹽を探して、もう一度踵をかへした。まだ彼は待つてゐて、手には鍵を持つてゐた。小さな黒いドアの中の一つに近づくと彼はそれを鍵穴にさした。彼は手を止めて再び私に向つて云つた。
「あなたは血を見ても氣持が惡くはならないでせうね?」
「ならないでせうと思ひます。まだ一度もためしてみたことはありませんけれど。」
 彼に答へてゐる時、私は戰慄を感じた。しかし寒氣さむけもしなければ、氣が遠くなることもなかつた。
「さあ、手をお貸しなさい。」と彼が云つた。「氣絶したりしてはいけないから。」
 私は指を彼の手の中に置いた。「あたゝかくてしつかりしてゐる。」さう云つて彼は鍵を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してドアを開けた。
 先に、フェアファックス夫人が家中を見せてくれた日に見た記憶のある部屋であつた。そこには、掛布が掛つてゐた。しかし今はその掛布は一所に環でくゝり上げてあつて、先には蔽はれてゐたドアが明らさまに其處に見えてゐた。この扉は開け放されてゐて、その奧の部屋から燈火ともしびの光がしてゐた。そこから、殆んどまるで犬がかみ合つてゐるやうないがむやうなつかみかゝるやうな物音が聞えて來た。ロチスター氏は蝋燭を置くと、私に云つた、「一寸お待ちなさい。」そして彼は内部の部屋へと進んで行つた。鋭い笑ひの叫びが彼の這入つて行くのを迎へた。最初は騷々しく、やがてグレイス・プウルのあの氣持の惡いハ、ハ、に終つた。では彼女は其處にゐたのだ。低い聲が彼に向つて話しかけるのが聞えたけれど、彼は默つて何か整へてゐた。出て來ると彼は自分の背後のドアめた。
「此處へ、ジエィン。」と彼が云つた。で、私は大きな寢臺ベッドの向う側へと※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて行つた。それは引き下してある掛布で、部屋の大部分をかくしてゐた。安樂椅子が一つその寢臺ベッドの枕もとにあつて、その中に上衣を着てない一人の男が掛けてゐた。彼は身動きもせず、頭は後にもたせかけ、眼は閉ぢてゐた。ロチスター氏はその人の上に蝋燭を持ち上げた。その蒼ざめた、死んだやうに見える顏が――お客のメイスンであることを私は認めた。そしてまた彼のシヤツの脇腹わきばらと片方の腕とが殆んど血に浸つてゐるのをも見た。
「蝋燭を持つて下さい。」とロチスター氏が云つた。で私は受け取つた。彼は洗面臺から、水を一ぱい持つて來た。「持つてゝ下さい。」と彼が云つた。私はその通りにした。彼は海綿を取ると、それを浸してその死人のやうな顏をしめし、私の香ひ瓶をとつて鼻孔びこうに持つて行つた。メイスン氏は間もなく眼を開けてうめいた。ロチスター氏は、腕や肩に繃帶のしてあるその怪我人のシヤツを開いてあとからあとから滴り落ちる血を拭ひ去つた。
「もうむづかしいか?」とメイスン氏がつぶやいた。
「馬鹿な! なんの――ほんのかすり傷だよ。そんなにしよげないで、しつかりしろ。今僕が行つて外科醫を連れてくるよ。朝方迄には君は外へ移してもらへるだらう、と思ふよ。ジエィン、」と彼はつゞけた。
「はい。」
「あなたをこの部屋にこの人と一緒に一時間、若しかすると二時間位も殘して置かなくてはなりませんがね。また血が出て來たら私がしてゐるやうに拭いて下さい。若し氣が遠くなりさうだつたら、あの臺の上にあるコップの水を唇に、その鹽を鼻に持つて行つて下さい。どんな口實があつても、あなたはこの人に話さないやうに――それから――リチヤァド、若しこの人に話しかけでもすると、君の生命に關はるのだよ。口を開いたり――騷ぎ立てたりしたら――その結果は知らないぞ。」
 再びこの哀れな男は呻いた。彼は思ひ切つて動くことも出來ないやうに見えた。死に對する、それとも何かその他のものに對する恐怖が殆んど彼をしびらせてゐる樣子だつた。ロチスター氏はもう血に染みてしまつた海綿を私に渡した。そして私は彼がしたやうにそれを使ひつゞけた。彼は一瞬私を見てゐたが「忘れないで!――話をしてはいけないつてことを。」と云ひながら、部屋を出て行つた。鍵が鍵穴の中できしり、彼の立ち去る跫音が聞えなくなつてしまつたとき、私は不思議な氣持に襲はれた。
 その時私は三階の怪しい部屋の一つに閉ぢ込められてゐるのであつた。私の周圍には夜氣が迫り、私の眼と手の傍には蒼ざめた、血に染んだ人の姿がある、人殺しの女とは辛じて一枚のドアで隔てられてゐる。さうだ――それが私には恐しいことだつたのだ――その他のことなら我慢も出來たけれども。また私はグレイス・プウルが私に向つてとび出して來るといふことを考へて身顫みぶるひした。
 しかし私は自分の役目やくめをしてゐなくてはいけない。この蒼ざめた顏――この物云ふことを禁じられた青い動かぬ唇――或る時は閉ぢ、或る時は開き、また部屋の中を逍遙さまよふかと思へば私に注がれるこの暗い恐怖に光つてゐる眼を、見守つてゐなくてはならない。私は幾度も/\手を血と水の混つた水鉢みづばちに浸してしたゝる血を拭ひ去らねばならなかつた。芯をまない蝋燭が仕事をしてゐる内に光が弱り、ものゝ影が私の周りにある刺繍ぬひをした古い帷帳とばりの上に薄暗くうつり、廣い古風な寢臺ベッドの掛布の裾の方は黒く、向う側の大きな箪笥たんすドアの上に怪しくふるへるのを見なくてはならなかつた。その扉の表面は十二の鏡板に分れてゐて、各々額縁に入つてゐるやうにその仕切の中に圍まれて、十二人の使徒の首が恐しい恰好に描き出されその上の頂には眞黒な十字架と死になんなんとしてゐるクリストの像がかゝつてゐた。
 移り動く朦朧とした暗、明滅する燈影が、此處に逍遙さまよひ、彼處にちらつくにつれて、今眉をしかめたのが顎鬚のあるお醫者のルカであつたかと思へば、今搖れたのは聖ヨハネの長い髮の毛であつた。すると忽ちにして惡魔のやうなユダの顏が仕切しきりの外にはみして來ると、だん/\と生きてゐるやうになり、裏切者のかしら――惡魔サタン自身――がその配下のユダの姿の中にのりうつゝてくるやうに見えた。
 こんなことの最中にも、私は見張りもせねばならぬし、聽耳もたてゝゐなくてはならなかつた。あの横手にあるをりにゐる野獸か、それとも惡鬼の動くのを耳をすましてゐなくてはならなかつた。しかし、ロチスター氏が來て以來、それはまるで咒文に縛られたやうであつた。その夜中よるぢうに、私は三つの長い間をおいてたゞ三つの物音――ミシ/\といふ跫音と瞬間的に繼續するいがむやうな犬のやうな騷音と太い人間の呻き聲を聞いたばかりであつた。
 それから自分自身の思ひが私を惱した。この人里離れた邸内に人間の形をして住んでをり、そしてこゝの主人によつてもそれを逐ひ拂ふこともしづめることも出來ないのはどんな犯罪であらうか――眞夜半うしみつ時分に、あるときは火事となり、あるときは血を流すやうなことゝなつて現はれたのは一體どんな祕密であらう? 世の常の女の顏と姿を被りながら、ある時は嘲る惡鬼のやうな、また忽ちにして腐肉を探す肉食鳥のやうな聲を發するあれは一體何物なのだらうか?
 それに、この、私が今かゞみかゝつてゐる男――この平凡な目立たぬ客――一體どうしてこの男がこの恐ろしいことの網に捲き込まれたのであらう。そしてまた何故あの狂婆おにばゝはこの男に襲ひかゝつたのだらう。寢床ベッドに眠つてゐるべきときに、何の爲めに彼はこの時ならぬときに、この家のこんな場所に來たのだらう。私はロチスター氏が彼に階下の部屋を指定してゐるのを聞いてゐた――何の爲めに彼は此處に來たのか? そしてまた、何故今彼は身にふりかゝつた暴力や裏切りの行爲に對してこんなにおとなしいのだらう? 何故彼はロチスター氏が強ひた緘默にこんなに靜かに服從してゐるのだらう? 一體何故にロチスター氏はこの緘默を強ひたのか。あの客が無法な目にひ、その以前には彼自身の生命をとらうと、恐ろしくも企まれてゐた。而も二度の計畫とも、彼は祕密の裡に隱し有耶無耶うやむやの裡に葬つてしまつてゐる! 結局私はメイスン氏がロチスター氏に對して服從的であるといふことを知つた。即ち、後者の激しい意志が前者の無氣力の上に大きな勢力を持つてゐるのである。彼等の間にかはされた數語が私にこの確信を與へた。彼等の以前の交際に於て一方の受動的な性質が他方の能動的な精力に始終しよつちゆう左右されてゐたことは明らかであつた。では一體、メイスン氏の到着を聞いたときのロチスター氏の驚愕は何處から起つて來たのであらう。何故この無抵抗な人間の單なる名前――その人にとつては今彼の言葉はまるで小兒に對するやうに十分に彼を制したのだ――が數時間前にはまるで雷電がかしはの木に落ちたかのやうに彼に打撃を與へたのであらう?
 あゝ、私は彼が「ジエィン、私は駄目になつた――私は駄目になつてしまつた、ジエィン。」とかすれた聲で囁いたときの彼の顏、彼の蒼ざめた色を忘れることが出來なかつた。彼が私の肩の上に支へてゐたその腕がどんなに顫へてゐたかを忘れることが出來なかつた。而もフェアファックス・ロチスターの氣丈な精神を屈せしめ、その力強い體を顫へさせることが出來るのは、輕い些細ささいな事件ではないのだ。
何時いつになつたらお歸りになるのだらう? 何時になつたらお歸りになるのだらう?」夜がなか/\明けぬので――出血してゐる怪我人けがにんくるつたやうになり、またぐつたりとなり、呻き、弱つて、而も夜が明けねば助けが來ないので、私は心の中でかう叫んだ。幾度となく私は水をメイスン氏の蒼ざめた唇に持つて行き、幾度となく氣付けの鹽を彼に與へた。しかし私の努力も無効に見えて、肉體的の、または精神的の苦痛、それとも貧血か、或ひはまたこの結合された三つのものが見る/\彼の氣力を衰弱させてゐた。彼は呻き、弱り果て、混亂した、無感覺な樣子に見えたので、私は彼が死にかけてゐるのではないかと思つた。而も私は彼に話しかけることさへ許されないのだ。
 蝋燭は遂に燃え盡して、消えてしまつた。それが消えたとき、私は仄白い光が幾すぢか窓掛をふちどつてゐるのを認めた。曉がその時近づいたのである。程なく、私はパイロットが中庭のひつそりした犬小舍の外に遙か下の方で吠えるのを聞いた。希望はよみがへつた。それは理由がないでもなかつた。それから五分の内に鍵のきしる音、錠前の開く音が、私の見張りが交替になることを知らせた。それは二時間以上はたつてゐなかつたが、幾週間にも勝る程長く思はれた。
 ロチスター氏が這入つて來た。そして一緒に、彼が雇つてきた外科醫がゐた。
「では、カァター、敏捷びんせふにやつてくれ給へ。」と彼は後者に云つた。「傷の手當をして繃帶を捲いて怪我人を階下したにつれて行つて、その他全部に半時間しか上げられないから。」
「ですが、動かしていゝのですか?」
「それは大丈夫。何も大したことぢやない。あれは氣が弱いのだから元氣をつけてやらなくちやならない。さあ、はじめて下さい。」
 ロチスター氏は厚い窓掛を引いて麻布リネンの日除けを引き上げ、出來るだけの外光を入れた。そして私は曉方あけがたがもうすつかり近づいてゐるのを見て驚きもし歡びもした。何といふ薔薇色のすぢが、東の方を照らしはじめてゐたことだらう。やがて彼はもう外科醫が手當にとりかゝつてゐるメイスンの傍へ行つた。
「えゝ君、どんな工合だ?」と彼はたづねた。
彼女あれのお蔭で、俺はもう駄目だ。」といふのがかすかな返辭だつた。
「ちつともだよ!――元氣を出して! 二週間めの今日になつても、それより惡くなりつこはない。ほんのぽつちり血を流した。それだけのことだよ。カァター、危險はないつてことを保證してやつてくれ給へ。」
「お請合しますとも。」と今繃帶を解いたカァターは云つた。「たゞも少し早くこゝに私が着くことが出來るとよかつたのですが。こんなにひどく血を流すことはなかつたでせう――だが、これはどうしたのでせう? 肩の肉がまるで切られたやうに引裂かれてゐる。この傷はナイフで出來たのではありませんね。こゝに齒の跡がある。」
彼女あれは私にみ付いたんだ。」と彼は呟いた。「彼女あれはロチスターがナイフを取り上げると、まるで牝虎めとらのやうに私に噛みついて苦しめたんだ。」
「君は讓歩するんぢやなかつたのだ。直ぐに彼女あれと掴み合ふべきだつたのだ。」とロチスター氏が云つた。
「しかしあんな場合に、どうすることが出來るだらう?」とメイスンが答へた。「あゝ、恐ろしいことだつた。」と身震ひして彼は附け加へた。「それに私は思ひがけなかつた。初めの中は彼女あれは大變に落着いて見えたからね。」
「警告したぢやないか。」といふのが彼の友達の答だつた。
「私は云つたのだ――君が彼女の傍に行くときには氣を附けろつて。それに、君は明日あすまで待つて、私を連れて行つてもよかつたのだ。今夜、而もたゞ獨りで會はうなどゝするのは愚の骨頂こつちやうだよ。」
「何かためになつてやれるかと思つたのだ。」
「思つたのだつて! 思つたのだつて! 成程、君の云ふのを聞いてると焦々いら/\してくるよ。だがしかし、君は負傷してゐる、而も私の忠告をれなかつたといふかどで結構負傷してもいゝのだ。だからもうこの上、何も云ひはしない。カァター、早く! 早く! 太陽はもう直ぐのぼる。そして私はこの男を行かせなくちやならないのだ。」
「今直ぐです。肩は今ちやうど繃帶したところです。この腕の他の傷を調べなくてはなりません。此處にもその方の齒の跡があるやうですね。」
彼女あれは血を吸つたんだ。彼女は私の心臟を空虚うつろにしてしまふと云つた。」とメイスンは云つた。
 私はロチスター氏が身顫ひするのを見た。明白に、嫌惡、恐怖、憎惡のあらはれた表情が、殆んど面變おもがはりするまでに彼の顏をゆがませた。しかし、彼はたゞかう云つたゞけであつた――
「さあ、默つて、リチヤァド、彼女あれの云ふ譯の分らん話なんぞ氣にとめないがいゝ。二度と云つちやあいけない。」
「それが忘れられゝばいゝがと思ふが。」といふのが、答へであつた。
「この國を出れば、忘れられるさ。君がスパニッシュ・タウンに歸り着いたら、彼女あれのことは死んで葬られたと思へるだらう――それとも寧ろ彼女のことは全然考へる必要もない。」
「今夜のことを忘れることは不可能だ。」
「不可能ぢやない。しつかりしろ。君はこの二時間ばかりにしんのやうに死骸になつてたと思つてたゞらう。それに今ではちやんと生きてゝ口をいてる。御覽――カァターの方は、もう濟んぢまつた、もうぢき濟みさうなのだ。一寸の間にきちんとして上げよう。ジエィン。」(彼は再び部屋に這入つて以來始めて私の方を振向いた。)「この鍵を持つて、私の寢室に行き、眞直に私の衣裳部屋の中へ這入つて行つて、衣裳箪笥の一番上の抽斗ひきだしを開けて、綺麗なシヤツと頭に捲くハンカチとを出して、こゝに持つて來て下さい。早くして。」
 私は行つて、彼の教へた物入ものいれを探し、云はれた品物を見つけて、それを持つて引返した。
「では、」と彼は云つた。「私が着物を着せてやる間、寢臺ベッドのあちら側に行つてゝ下さい。しかし部屋は離れないで。また用事があるかも知れないから。」
 私は命ぜられた通りに退しりぞいた。
「階下に下りて行つたとき、誰かゞ起きた樣子だつた? 、ジエィン?」間もなくロチスター氏がかうたづねた。
「いゝえ、どこもしんとして居りました。」
「我々はうまく君を送り出さう、デイック。さうした方が君の爲めにも、彼處にゐる可哀さうな人間にもいゝだらう。私は長いこと人目に附かないやうに骨折ほねをつて來た。それで今さら露顯といふこともあらせたくないから。さあ、カァター、チヨッキを着る手傳てつだひをしてやつてくれ給へ。君はあの毛皮の外套をどこに置いて來たのだ? このひどく寒い氣候ぢや、あれなしでは君は一哩だつて行けないよ。君の部屋だつて?――ジエィン、メイスン君の部屋に駈けて行つて――私の隣のだ――そこにある外套を持つて來て下さい。」
 再び私は駈けて行つて、毛皮の裏とふちのついた大きな外套を持つて歸つて來た。
「今度はまた他の用事をして貰ひますよ。」と草臥くたびれもしない私の主人は云つた。「もう一度私の部屋に行つて貰はなくちやならない。あなたが天鵞絨びろうどの靴をはいてるのは何んて有難いことだらう、ジエィン!――氣の利かない召使たちぢやあこの急場にとても間に合はない。私の化粧机の眞中の抽斗ひきだしけて、そこにある小さな藥瓶と小さなコップを持つて來なくちやなりません――早く!」
 私は、其處に飛んで行つて、云はれた容器を持つて飛んで歸つて來た。
「宜しい! そこで、ドクトル、勝手ですが獨斷で一服のませますよ。この興奮劑は、私が羅馬で、ある伊太利の藪醫者――あなたなんぞは一しうするでせうが――から貰つたものですよ、カァター。矢鱈やたらに使つてはならないものだが、しかし場合によつては――例へば今なんぞには適したものです。ジエィン、水を少し。」
 彼は小さなコップを差し出した。私は洗面臺の上の水瓶から、それを半分滿みたした。
「それで宜しい。では藥瓶の口をしめして下さい。」
 私はその通りにした。彼は深紅しんくの液體を十二滴はかつて、メイスンにすゝめた。
「飮みなさい、リチヤァド。一時間かそこいらで君に不足してゐる元氣をつけるだらう。」
「しかし、害になりはしないだらうか?――※(「火+欣」、第3水準1-87-48)衝性きんしやうせいのものですか?」
「飮みたまへ! 飮みたまへ! 飮みたまへ!」
 メイスン氏は從つた。反對するのは、明かに無用なことだつたのだから。彼は今はもう衣服を着けてゐた。まだ蒼ざめて見えたが、しかし最早血にまみれても汚れてもゐなかつた。ロチスター氏は、彼がその液體を飮んでから三分間坐らせておいたが、やがて彼の腕を取つた。
「さあ、もうきつと立てると思ふよ。」と彼は云つた――「やつて御覽。」
 怪我人けがにんは立ち上つた。
「カァター、そつちの肩を支へてやつて下さい。元氣を出して、リチヤァド。歩き出して――さうだ!」
「いゝやうだ。」とメイスン氏が云つた。
「確かにさうだらう。では、ジエィン、我々の前に立つてこつそり裏階段の方へ行つて下さい。側廊下のドアを開けて、庭にゐる――それとも、がら/\云ふ車輪を鋪石の上にやらないやうに云つておいたから外側にゐるかも知れないが――驛傳馬車の馭者に支度をするやうに云つて下さい。我々がもうるからつて。それからジエィン、若し誰かあたりにゐたら、階段の下へ來て咳拂せきばらひして下さい。」
 この時はもう五時半になつてゐた。そして太陽はまさにのぼらうとするところだつた。しかし臺所はまだ暗く、しんとしてゐた。側廊下のドアには錠がりてゐた。私は出來るだけ、そつとドアを開けた。庭もすつかり靜まり返つてゐた。たゞ門は廣々と開け放されて、外側に馬具をつけた馬と、馭者臺に馭者の乘つた一臺の驛傳馬車がとまつてゐた。私は彼に近づいて殿方たちが來ることを知らせた。彼は頷いた。それから私は注意深くあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して耳を澄ました。早朝の靜寂が到る所にいこつてゐて、召使たちの部屋の窓にはまだ窓掛が下ろされてあつた。小鳥等が今花で眞白になつてゐる果樹園の樹の間にさへづつてゐた。その枝は庭の一方の側をかこんだ塀の上に、白い花環のやうに垂れてゐた。馬車の馬は、時々狹いかこひの中で足踏みをした。その他は何もしんとしてゐた。
 人々は近づいた。ロチスター氏と外科醫に支へられてゐるメイスンは可なりらくに歩いてゐるらしい。彼等は馬車の中に彼を助け乘せ、カァターがそれにつゞいた。
「氣を附けてやつて下さい。」とロチスター氏は後者に云つた。「そしてすつかり快くなるまで君の家に留めておいて下さい。一兩日中にはどんな工合だか見に馬で行きますから。リチヤァド、どんな工合だ?」
「新しい空氣で力が附いたよ、フェアファックス。」
「彼の側の窓を開けておいて下さい、カァター。風は無いから。さやうなら、デイック。」
「フェアファックス。」
「えゝ、何だい?」
彼女あれに氣を附けてやつてくれ、出來るつたけ、彼女あれを優しく取扱つてやつてくれ。どうか彼女あれを――」彼は云ひさして涙にむせんでしまつた。
「出來るだけのことはしてるよ。今迄もして來たし、この後もする積りだ。」といふのが返辭だつた。彼は馬車のドアざした、さうして、乘物は駈け去つた。
「とはいふものゝ、これでけりがついて欲しいものだ。」と、重い庭の門を閉ぢてくわんぬきをかけたときに、ロチスター氏は附け加へた。
 それが濟むと彼は重い足どりで、放心したやうな風に、果樹園を區切つてゐる塀についた入口の方へ歩き出した。彼はもう私には用濟みだらうと思つて私は家の方に歸りかけた。けれども私は今一度「ジエィン!」と彼が呼ぶのを聞いた。彼は小門こもんを開けて、私を待つて其處に立つてゐた。
「しばらくの間、少しは清々すが/\しいところへいらつしやい。」と彼は云つた。「あの家はまるで牢獄だ。そんな感じがしませんか?」
「私には立派なおやしきに見えます。」
「無經驗といふ霞があなたの眼を蔽うてゐる。」と彼は答へた。「而もあなたはそれを魔法にかゝつた仲介物を通して見てゐるのです。あなたには鍍金メッキが粘土であることも、絹の着物が蜘蛛の巣であることも、大理石が見すぼらしい石板であり、みがきをかけた木材はくだらぬ木屑であり、いやしい樹皮であることも見分けることが出來ない。さあ、此處は、」(彼は私共が這入つて來た葉の繁つたかこひを指した。)「何もも眞實で、甘美で、清淨です。」
 彼は、一方には黄楊つげや、林檎や、梨や、櫻桃さくらんぼ等の樹が立ち並び、他方の花壇には古めかしい樣々の花、紫羅欄花あらせいとうや、亞米利加撫子アメリカなでしこ櫻草さくらさう、三色菫しよくすみれなどが青萵かはらにんじんや、薔薇やその他樣々な香氣のある草に混つて繁り合つてゐる散歩道を逍遙さまよつて行つた。これ等のものは、美しい春の朝に有り勝ちな四月の俄雨にはかあめと光りの連續がもたらし得ると同じやうに、活々としてゐた。太陽はちやうど雲が斑になつてゐる東の空にかゝらうとして、その光は、花のついた、露を帶びた果樹園の樹々に輝き、その下の靜かな路を照らしてゐた。
「ジエィン、花をあげませうか?」
 彼はくさむらに咲き初めたばかりの、半開の薔薇の花を摘み取つて私に差出した。
「有難うございます。」
「こんな日の出が好きですか、ジエィン? 日がだん/\暖かになるにつれて、きつと消えてなくなつてしまふに違ひない高いところの、うすい雲の浮んだあの空――こんな靜かな、かぐはしい有樣は?」
「ほんとに好きでございます。」
「あなたは不思議な晩を過しましたね、ジエィン?」
「えゝ。」
「その爲めにあなたは顏色が惡い――私があなたをメイスンのところに獨りぽつちで置いて行つたときにはこはい氣がしましたか?」
「私、誰かゞあの奧の部屋から出て來さうで、こはうございました。」
「しかし、私はあの入口をとざしておいたのです――鍵は私のポケットに持つてゐました。若し私が小羊こひつじを――私のいとしい小羊を――狼の穴のすぐ傍にまもりもなしに置いておいたら、私は輕率な羊飼だつたに違ひない。で、あなたは安全でしたね。」
「グレイス・プウルは、まだ此處にゐますの?」
「あゝ、さうですよ! 彼女あいつのことで頭を痛めないでゐらつしやい――そんなことは考へないでゐらつしやい。」
「でも、あの人がゐる間はあなたの生命はほとんど安全ではないやうに思はれます。」
「心配しないで下さい。私は自分で注意しますから。」
「昨夜氣遣きづかつてゐらした危險は、もう過ぎてしまひましたの?」
「メイスンが英吉利から立去るまではさうと斷定出來ませんし、さうなつてもまた駄目です。ジエィン、私にとつては生きるといふことは今にも裂けて火を噴き出すかも知れない噴火口の地殼ちかくの上に立つてゐるやうなものですよ。」
「でも、メイスンは容易たやすくどうにでもなる人のやうに思はれます。あなたの勢力はあの方には確かに強く働いてゐます。あの方は決してあなたに反抗したり、故意こいにあなたをきずつけるやうなことはしないでせう。」
「さうですとも! メイスンは私に反抗もしないだらうし、知つてゝ私を傷けるやうなことはしないでせう――だが、その積りはなくとも、ふとしたはずみに、洩らした不用意な言葉が、忽ちにして私の生命でなくとも、永久に私の幸福を奪つてしまふかも知れないのです。」
「氣を附けるようにと、あの人にお話しになつたら。あなたが恐れてゐらつしやるものをお知らせになつたら。危險を避ける方法をお教へになつたら。」
 彼は嘲けるやうに笑ひ出して、つと私の手をとつたが、また急いで離した。
「それが出來るのだつたら、お馬鹿さん、何處に危險なんぞあるのです? そんなものは忽ちのうちに滅亡してしまふのだ。メイスンを知つて以來、私はたゞあれをしろと云へばよかつた。さうすればそのことは出來上つたのです。しかし、今度の場合は命令することが出來ないのです。リチヤァド、私を傷けないやうに氣を附けてくれとは云へないのです。何故なら、私はどうしても、私に害を加へ得るといふことを、あの男に知らせてはならないのですから。あなたは、今困つた樣子ですね。もつと/\わからなくしますよ。あなたは私の友達でしたね、さうぢやない?」
「正しいことならどんなことでもお役に立つて、お聞きしたうございます。」
「確かに、さうらしい。あなたが私の手傳をしたり、私を喜ばせてくれたり――私の爲めに働いてくれたり、私と一緒にゐたりするときには、あなたの足どりにも眼にも顏にも本當の滿足が見える。但し、それはあなたの所謂『正しいことなら何でも』の場合だ。何故なら、若しあなたがよくないと思ふやうなことを私が命じたなら、もう輕い足どりで駈けてくれることも、手綺麗てぎれいな敏活さも、活々いき/\とした眼差も、元氣な顏付もしてはくれないでせう。そのときには私の友達はうしろを向いてしまふのだらうなあ、何も云はずに、蒼ざめて。そして『いゝえ、それは出來ません。私には出來ません。それはよくないことですから。』と云つて。そして恒星こうせいのやうに動かなくなるのだらう。さうだ、あなたも亦私を支配する力を持つてゐて私を傷けることが出來るのだ。しかし忠實で親切なあなたが、直ぐに私を突き通してしまはないやうに、私の痛手いたでの場所は教へないことにしませう。」
「もしあなたが私に心配なさらないやうに、メイスンさんに對してもさうでしたら、あなたはほんとに安全でゐらつしやるんぢやございませんか。」
「あゝさうあつて欲しいものですね、ジエィン! 此處にあづまやがある。お掛けなさい。」
 そのあづまやは、塀の中に出來たアーチで、常春藤アイヴイ[#ルビの「アイヴイ」は底本では「マイヴイ」]が匍つてゐて、中には粗末な腰掛があつた。ロチスター氏は私の爲めに席をあけて、そこに掛けた。しかし、私は彼の前に立つてゐた。
「お掛けなさい。」と彼は云つた。「腰掛には結構二人掛けられますよ。あなたは私の横に掛けるのを遠慮しはしないでせう、ねえ。これはよくないことですかね、ジエィン?」
 私は答への代りに掛けた。ことわるのはかしこいことではないと思つたから。
「さて、私の友達、太陽が露を吸つてゐる中に――この古い庭の花が皆眼を覺まして花を開き、鳥たちがソーンフィールドから子供達の朝飯を取つて來、早起きした蜜蜂が手始めの一働きに出る間に――ある事件を話してあげますが、あなた自身のことだと思つて聞かなくてはなりませんよ。だが、その前に先づ私の方を御覽なさい。そしてあなたが樂な氣持ちでゐることや、私があなたを引留めてるのが惡いことだとか、あなたがこゝに留つてゐるのがいけないことだとかを氣にかけてゐないと云つて下さい。」
「いゝえ。私は滿足してをります。」
「それぢあ、ジエィン、想像力のたすけをおかりなさいよ――あなたはもう育ちのいゝ訓練のとゞいた娘ではなく、幼年時代から氣儘に育つた氣の荒い男の子だとします。あなたは或る遠い異國にゐるのだと想像して下さい。其處であなたは大變な過失ををかすのです。どんな質のものか、またはどんな動機からかはまあいゝとして、その結果はあなたに一生涯つきまとひ、あなたの生存をすつかり毒してしまひます。氣を附けて下さい、私は犯罪と云ふのではない、やつた者に法律の制裁を受けさせるやうな血を流すとか、その他そんな罪になる行爲のことを云つてるのではない、私の云つたのは過失あやまちなのです。あなたのたことの結果はやがてどうにも堪らなくなつてる、で浮び上らうとして方法を採る――非常な方法を。だがしかし、法律違反にもならないし責むべきものではありません。それでもあなたはまだみじめだ。何故なら人生の大事な入口で、希望はあなたを棄てゝしまつたから――あなたの太陽は眞晝間に日蝕につしよくの中に暗闇となり、日沒まではそれがあなたの太陽から去りはしないのです。根深い下劣げれつな聯想があなたの追憶の唯一のかてとなつてゐます。あなたは他郷に安息を求め、また享樂――知性を曇らせ感情をしぼますやうな無情むじやうな官能的な――享樂のうちに幸福を求めて此處彼處と流浪します。心は疲れ、魂も衰へて、我と我身にした配流の幾年間かの後にあなたは故郷いへに歸つて來る。そしてある新らしい知己を得る――どうして、またどこでかは、問題ではない。あなたはこの新らしく知つた人のうちに、あなたが二十年間探しまはつてゐながら今迄かつてはなかつた善良な、輝やかしい性質を見出す。而もそれは何も活々いき/\として健康で汚點もけがれもないのです。そのやうなまじはりが復活し再生して來ると、あなたはより善い生活――高尚な願望、清淨な感情などの日が歸つて來ることを感じます。あなたは自分の生活をつぐなはうと願ひ、あなたの餘生を、不滅の存在にもつとふさはしい方法ですごしたいと思ひます。この理想に到達する爲めには、習慣といふ障害物をび越へて差支へないと思ひますか。良心も是認せず、判斷も賛成しないやうな單なる世間的な障害物を?」
 彼は返辭を待つて口をつぐんだ。私は何と云ふべきであらう? あゝ時宜じきを得た滿足な答へを思ひつかせてくれるやうな妖精スピリットはゐないのか! 空しいのぞみ! 西の風は私の周圍の常春藤アイヴイに囁いたけれどどの優しいエイリエル(妖精の一つ)も言葉の仲介物としてその息を貸してはくれない。鳥は樹の頂に歌つてゐるけれど、その歌はどんなに美しいとは云へ、何を云つてるか分らないのであつた。
 再びロチスター氏は問ひを出した。
「さまよひ歩いた、罪深い、しかし今は安息を求め悔いてゐる人間、その心の平和と生命の再生を齎らしてくれるこの優しい、慈悲深い、親切な人を永久に自分の傍に引き留めておく爲めには世の褒貶はうへんを冒して差支ないでせうか?」
 私は答へた。「さすらひ人が安住し、罪ある人が改心するのには、人間の力をあてにしてはならないのでございます。男も女も死にます。哲學者でも智慧の足りぬ事がございます。クリスト信者でも善の缺ける事があります。もしあなたの御存じの誰方どなたかゞ苦しんだり、過失つみを犯してゐらつしやるのなら、人間以上の高いところにそれを償ふべき力と癒すべき慰藉を求めさすやうにしてお上げなさいまし。」
「しかしその手段――その手段です! 創業をなさる神はその手段を定めてをられる。私は私自身――たとへ話なんぞは[#ルビの「よ」は底本では「や」]しませう――世俗的な、放蕩な、落着くことのない人間でした。で、私は信じてゐるのですが、自分の救ひの手段を、その――」
 彼は口をつぐんだ。鳥は囀り續け、樹の葉は輕く搖れてゐた。私は彼等がこの中絶したおげを聞かうとその歌聲や囁きを止めないのをいぶかしく思ふ程だつた。しかし彼等は長い間待たなくてはならなかつたであらう――そんなに沈默は長かつたのだ。遂に、私は、なか/\口を利かうとせぬ話し手を見上げた。すると彼はじつと私を見つめてゐた。
「小さなお友達、」と彼はまつたく變つた調子で云つた――同時に彼の顏もすつかりその優しさと嚴肅さをなくしてきつく皮肉な樣子に變つて來た――「あなたは私がイングラム孃に好い感情を持つてゐるのに氣が附いたでせう。もし私があの人と結婚したら、あの人は強く、私を再生させてくれるとは思ひませんか?」
 彼は突然に立上つて路の向うのはじまで歩いて行つた。そして歸つて來た時には、彼は何か歌を口ずさんでゐた。
「ジエィン、ジエィン、」と彼は私の前に立ち止りながら云つた。「あなたは寢ずの番のせゐでひどく蒼ざめてゐますよ。あなたを寢かさなかつたんで私に怒つてやしませんか?」
「あなたに怒るのでございますつて? いゝえ。」
「その言葉が間違ひでない證據に、握手して下さい。何んて冷たい指だ! 昨夜私があのあやしい部屋の入口で觸つた時にはもつと温かだつたのに。ジエィン、また何時いつ、あなたは私と一緒に、寢ずの番をしてくれるだらうなあ?」
「お役に立つときには何時でも。」
「例をあげれば、私が結婚する前の晩! きつと眠れないに違ひないと思ひますからね。私の話相手になつて一緒に起きてゐると約束してくれますか? あなたには私は自分の愛する者のことを話すことが出來る。何故なら今はあなたはその人を見てゐるし、知つてもゐるから。」
「さうでございます。」
「あんな人は滅多にありませんねえ、ジエィン?」
「左樣でございます。」
「きりゝとした女の人――眞實ほんたうにきりゝとした女の人だ、ね、ジエィン。大きくて、淺黒くて、快活で、カァセイジの貴婦人が持つてゐたに相違ないやうな髮を持つてゐる――おや! デントとリンとが厩にゐる! あの小門を通つて灌木くわんぼくの林を拔けて行きなさい。」
 私が一方の路を行くと、彼は他の方を行つた。そして中庭の方で快活に云ふのが聞えた――
「メイスンは今朝けさ諸君を出しぬいて出立しましたよ。日の出前でした。私は見送りに四時に起きたのです。」

二十一


 豫感は不思議なものだ! そして、因縁もさうだ。前兆もさうだ。さうして、この三つの結合は、人間が、まだそれを解く鍵を見出してゐない神祕なものを造る。私は、生れてから決して、豫感を嘲笑あざわらふことはなかつた。何故なら、私自身にその不思議な經驗を持つてゐたから。因縁は、存在すると、私は信じてゐる。(例へば、遠く離れ、永い間逢はない、まつたく疎遠そゑんになつた親戚の間に、日頃の疎遠に拘らず、素性を辿れば、源をいつにしてることを主張する)。その働きは、人間の理解の裏をかく。また、前兆は、恐らくは、自然の人間に對する因縁に外ならない。
 私がまだ六歳の少女だつた頃、或る晩ベシー・レヴンがマルサ・アボットに、いま、小さな子供の夢を見たと話した。そして子供の夢を見ると、屹度自身かまたは自分の親族に何か心配するやうなことの起る確かなる前兆などと云つてゐるのを聞いた。その言葉はそれを裏付けるやうな事情が直ぐに起らなかつたなら、私の記憶から消え去つてゐたかも知れない。その次の日、ベシーは彼女の小さい妹の死の床に臨む爲めに、家に呼び返されたのであつた。
 この頃私は頻りにこの話しとこの出來事を思ひ出した。何故なら先週中は殆ど一晩も赤ン坊の夢を見ないで眠つた夜はなかつたのだ。それが、或るときは私の腕に抱いてなだめてゐたり、あるときは膝にのせてあやしたり、またあるときは芝生しばふの上で雛菊デイジイの花を持つて遊んでゐるのを眺めてゐたり、さうかと思ふとまた流れの中で手を水にけてポチヤ/\してゐるところを見てゐるのだ。また今晩泣いてゐる兒を見るかと思へば、その次には笑つてゐる兒だつたり、今私の方にすりよつて來るかと思へばまた走り去るのであつた。しかしその夢に現はれるものがどんな氣分であらうとも、どんな樣子をしてゐようとも、それは續けざまに七晩も缺かさず私が眠に入るや否や現はれた。
 私はこの一つの觀念の反復――この不思議な一つの幻影の繰り返し現はれるのが、いやであつた。そして床に就くときが近づいて、またその幻の出る時間の迫るにつれ、私はだん/\神經質になつた。あの月の夜に叫び聲を聞いて起されたときには、私はちやうどこの子供の幽靈と一緒にゐたのであつた。そしてその翌日の午後、私は誰かゞフェアファックス夫人の部屋で私を待つてゐると云ふ使ひをうけて階下にばれて行つた。行つて見ると、從僕らしい樣子の男が一人私の來るのを待つてゐた。彼は黒つぽい喪服もふくを着てゐて、手にした帽子には黒い縮緬クレイヴのバンドが卷いてあつた。
「多分もうお忘れでせうと存じますが、」と、私が這入ると立上りながら、彼は云つた。「私はレヴンと申します。八年か九年以前にあなたがゲィツヘッドにゐらした頃、リード夫人の馭者をしてをりました。そして、今も、まだ、あそこにをりますのですが。」
「あゝ、ロバァト! 今日は。よく憶えてゐますよ。あなたはヂョウジアァナさんの栗毛くりげ仔馬こうまに時々私を乘せて下さつたのね。そして、ベシーはどうしてゐて? あなたはベシーと結婚なさつたのね?」
「はい、お孃さん。ありがたうございます。家内は大變親切でございます。彼女あれは二ヶ月許り前、また一人小さいのが出來ましてね――今三人なんでございます――母も子も達者たつしやでございます。」
「それで、お家の方々は皆さま御達者ですの、ロバァト?」
「殘念ながら、皆さまのことではあまりいゝお知らせが出來ないのでございます。あの方々は今非常に惡くおなりなので――大變なことにおなりなのでございます。」
「どなたかおくなりになつたんぢやないでせうね。」と私は彼の黒い服を見て云つた。彼もまた帽子に卷いた縮緬クレイヴに眼をやつて答へた――
「ジョンさんが、一週間前の昨日、おくなりになりましたのです、倫敦ロンドンの御自分のお部屋で。」
「ジョンさん?」
「はい。」
「で、お母樣はまあどうして堪へてゐらつしやるでせう?」
「いえ、それがあなた、エアさん、ありふれた不幸ではないのでございますよ。あの方の生活は非常にすさんでゐたのでございます。この三年來あの方は妙な途に這入り込んでしまはれたので、恐しい死に方をなさつたのです。」
「私も、ベシーから、あの方があまりいゝことをしてはゐらつしやらないとは聞いてゐました。」
「いゝことどころか、あれ以上惡いことはなされやしませんよ。あの方は極惡人ごくあくにんの男や女に交つて、健康も財産も臺無しにしてしまはれたのです。借金も拵へるし、牢にもお這入りになりました。二度ばかりはお母さまが救ひ出してお上げになつたのですが、しかし自由になるが早いか直ぐに以前の仲間や癖に逆戻ぎやくもどりなさるのです。あの方は頭のしつかりしてない方で、一緒の仲間だつた惡者共は聞いたこともない位あの方を大馬鹿者にしたのでございます。三週間ばかり前、あの方はゲィツヘッドへ歸つてゐらして、奧さまに財産全部を讓つて欲しいと仰しやつたのです。奧さまははねつけておしまひになりました。財産はもうずつと前からあの方の亂行らんぎやうの爲めに失はれてゐたのです。それであの方はまた引返して行かれました。そしてその次の便りはあの方がくなられたことだつたのです。どういふ風にくなられたか誰が知りませう!――人々は自殺だと申します。」
 私は沈默してゐた。恐ろしいしらせだつた。ロバァト・レヴンは續けた――
「奧さまは御自分でも暫く身體を壞してゐらしたのです。大變おふとりになつてゐらしたのですが、それで御丈夫ではないのです。それにお金の損失や貧乏の不安などがすつかりあの方をがつかりさせてしまひました。ジョンさんのくなられたことと、そのときの樣子の報知しらせが、あまり不意に參りましたので、それがお惡かつたのです。三日ばかりは、口もおきになりませんでしたが、先週の火曜日になるといくらかおよろしいらしく、何か仰しやりたいやうな御樣子で家内に向つて始終しよつちゆう何か身振をなさり、つぶやいてゐらつしやいました。ですが、それがあなたのお名前を云つてゐらつしやるのだとベシーに分つたのはやつと昨日の朝でした。とう/\あの方は仰しやつたのです、『ジエィンを呼んで――ジエィン・エアを連れて來ておくれ、話したいことがある』と。ベシーは奧さまが正氣でゐらつしやるのか、そのお言葉が本氣ほんきかどうだか、はつきりしなかつたのです。が、リードさんとヂョウジアァナさんとに話して、あなたをお呼びになつていたゞきたいと申上げたのです。お孃さま方は初めはねつけておしまひになつたのですが、お母さまがあんまりいら/\なすつて、幾度も幾度も『ジエィン、ジエィン』と仰しやるのでとう/\承知なさいました。私は昨日ゲィツヘッドを出て參りました。で、若し用意がお出來になりますなら、明朝早くおともして歸りたいと存じますが。」
「えゝ、ロバァト、支度しませう。どうしても私が行かなくてはならないやうですから。」
「私もさう思ひます、お孃さま。ベシーはあなたはきつとお斷りにはならないと申してをりました。ですが、おちになる前にお暇をお貰ひにならなくてはと存じますが?」
「えゝさう。今願つて來ませう。」そして彼を召使達の部屋に連れて行つて、ジョンの妻の手にゆだね、ジョン自身にも紹介しておいて、私はロチスター氏を探しに行つた。
 彼は、階下の部屋には何處にもゐなかつた。中庭にもうまやにも、戸外にもゐなかつた。私はフェアファックス夫人に若しや彼を見なかつたかとたづねた――さう/\、確かイングラム孃と撞球をしてゐらしたと彼女は云つた。私は撞球室へと急いだ。球のかち/\といふ音や、がや/\云ふ聲などが其處から反響して來て、ロチスター氏、イングラム孃、イィシュトン家の二令孃、それにその二人を禮讃らいさんする男達など、皆遊びに夢中になつてゐた。そのやうな面白さうな集りを妨げるには幾らかの勇氣がつた。しかし、私の用事は延引えんいん出來ないものだつた。それで私はイングラム孃の側に立つてゐた主人あるじに近づいて行つた。彼女は私が近づくと振り返つて傲慢らしく私を見た。彼女の眼は「この蟲けらみたいな奴が今頃何の用があるのだ?」と云つてるやうであつた。そして私が低い聲で「ロチスターさま」と云つたとき彼女は今にも私を追ひ出しさうな身振りをした。私はそのときの彼女の顏付を憶えてゐる――それは實際優美で目の覺めるやうなものであつた。彼女は空色の青い縮緬クレイヴの朝の着物を着てゐて、薄い空色そらいろのスカーフが髮にからんでゐた。彼女はその遊びゲームですつかり快活になつてゐたが、癪に障る傲慢さはそのつんとした表情を少しもやはらげてはゐなかつた。
「あの人間があなたに何か御用なんでせう?」と彼女はロチスター氏にたづねた。そしてロチスター氏はその「人間」とは誰かと振り返つて見た。彼は何事かと云ふやうに眉をひそめて――彼の妙な、曖昧な表情の一つである――竿キューを置き、私について部屋を出た。
「なに、ジエィン!」と彼はざした書齋のドアに背をもたせかけて云つた。
「若しよろしうございましたら、一週間か二週間、お暇をいたゞきたいのでございますが。」
「何の爲めに?――何處へ行く爲めに?」
「私を呼びに寄越よこしました病氣の女の人に會ふ爲めでございます。」
「どうした病人です?――何處に住んでるのです?」
「△△州のゲィツヘッドにをります。」
「△△州? それぢや百マイルも離れてゐる。そんな遠方からわざ/\呼びに寄越よこす人つて誰です?」
「リードと申します――リード夫人と。」
「ゲィツヘッドのリード? ゲィツヘッドのリードと云ふ人がゐたつけ、地方長官の。」
「その人の未亡人なんでございます。」
「で、その人に何の用があるの? どうして知つてゐます?」
「リードさんは私の伯父でございましたの――母の兄なのでございます。」
「へえ、さうだつたんか! あなたは、今迄一度もそんなことを話さなかつた、親類なんぞ無いつて、何時いつも云つてたでせう。」
「私を親類と認めてくれるやうな人は、一人もなかつたんですの。リードさんはくなりました。そして伯母さんは私を捨てゝしまつたのです。」
「何故?」
「私が貧乏で、厄介者やつかいもので、それに私が嫌ひだつたからですわ。」
「しかし、リードは子供達をのこしてゐたでせう?――あなたには從兄姉いとこがある筈でせう。ジョオジ・リン卿が昨日ゲィツヘッドのリード家の一人に就いて話してゐましたが、その人は倫敦ロンドンでも札つきの無頼漢ぶらいかんの一人だつたと云つてゐましたよ。それからイングラムは同じ土地のヂョウジアァナ・リードつて人のことを話してゐましたが、一年か二年前倫敦ロンドンでは美しいので大分評判だつたさうですね。」
「ジョン・リードもくなりましたの。身を持ちくづして、家族の者まで大方駄目にしてしまつて、それに自殺したと云はれてをりますの。そのしらせが甚く伯母さまにこたへて卒中にお罹りになつたのでございます。」
「それであなたが彼女に何の役に立つのです? くだらないことだ、ジエィン! 私だつたら、そんな、多分着く前に死んでるかも知れないお婆さんに會ひに百哩マイル道程みちのりを駈けつけるなんてことは決して考へはしない。それにあなたを捨てたんだつて[#「捨てたんだつて」は底本では「拾てたんだつて」]云つたぢやありませんか。」
「えゝ、でも、それはずつと以前のことで、あの人の事情もまるで違つてゐたときのことなのでございますから。私は今あの人の願ひを聞き捨てにしては氣が安まりません。」
「幾日位とまるのです?」
「なるべく、少うし。」
「一週間きりと約束なさい。」
「お約束はしない方が宜うございますわ。私、それを破らなくてはならなくなるかも知れませんから。」
「どんなことがあつても歸つて來るでせうね――どんな口實があつても、あちらに一緒に暮すなどゝいふことに誘はれはしないでせうね?」
「えゝ、決して! 若し何も彼もをさまりましたらきつと歸つて參ります。」
「それで誰がついて行きます? 百マイルも獨りぽつちで旅をしはしないでせうね。」
「えゝ、馭者を寄越よこしましたの。」
「信用の出來る人間ですか?」
「えゝ、その男は、あの家に十年間も住んでゐるのでございます。」
 ロチスター氏は思案した。「何時行く積りです?」
「明朝早く。」
「さう、ぢあ、お金を持つて行かなくては。お金なしでは旅行も出來ない。それにあなたはあんまり持つてゐない筈だ、まだお給金をあげてなかつたから――一體、いくら持つてゐるの、ジエィン?」と彼は微笑ほゝゑみながらたづねた。
 私はお金入れを取り出した。ずゐぶん貧弱だつた。「五志ですの。」彼はお金入れを取ると、その中味を掌の上に擴げて、そのぽつちりしかないのが嬉しいかのやうにくす/\笑つた。やがて彼は自分の紙入を取り出した。「これを。」と彼は一枚の紙幣を私に渡しながら云つた。それは五十ポンドで彼が私に拂ふ分は十五ポンドしか無いのであつた。私はお釣錢つりが無いと云つた。
「お釣錢つりなんぞは要らない、わかつてるでせう。お給金をお取んなさい。」
 私はそれより以上いたゞくのは負債になるからと斷つた。彼は初めの中は不興氣ふきやうげな顏をしてゐたが、やがて何か思ひ付いたかのやうに云つた――
「さうだ! さうだ! 今すつかりあなたに上げない方がいゝ。五十ポンド持つて行つたら、きつと三ヶ月は泊つたつきりにするかも知れない。こゝに十ポンドあるけれど、それで十分ぢあない?」
「えゝ、でもさうすると、今度はあなたが私に借りてらつしやることになりますけど。」
「ぢあ、それを貰ひに歸つていらつしやい。私はあなたの四十ポンドの預り手ですからね。」
「ロチスターさん、私この機會にも一つ事務的なことを申上げたうございます。」
「事務的なこと? 聞きたいものですね。」
「近々に御結婚なさるといふことはもうお話し下さつたやうなものでございますね。」
「さうですよ。それがどうしたのです?」
「さうなりますと、アデェルは學校へ行かなくてはなりますまい。きつとその必要をお認めになると思ひます。」
「あの子を私の花嫁さまの邪魔にならないやうにけてしまふことですか。さもなければあんまりきつく踏みつけられるかも知れませんね。その提議にも一がある。確かにさうですよ。あなたが云ふ通りアデェルは學校へ行かなくちやならん。そしてあなたは勿論わき目もふらず――おさらばか?」
「私、さうなりたくはございません。でも、何處かに別の地位を見附けなくてはなりませんわ。」
「勿論!」と彼は聲を鼻にかけて、異樣いやうに滑稽に顏をゆがめて叫んだ。そして暫く私を眺めてゐた。
「そしてリード老夫人かお子さんの令孃かに口を探して下さいと、あなたは懇願されるのでせうね?」
「いゝえ、私とあそこの人達とはこちらの便宜べんぎで頼んで差支へないやうな、そんな間柄の親類ぢやないのでございます。私は廣告いたします。」
埃及エジプトのピラミッドを登るやうなものだ!」と彼は怒つたやうに云つた。「廣告なんぞすると承知しませんよ! 十ポンドの代りに一磅しきや上げあげなければよかつた。九磅お返しなさいよ、ジエィン。入用だから。」
「私も入用なんでございますわ。」と私はお金入れを持つた手を背後にやりながら答へた。「どんなことがあつてもこのお金は手離せませんわ。」
「けちんぼうだな!」と彼は云つた、「お金が欲しいといふ願ひをねつけるなんて! 五ポンドお寄越しなさい、ジエィン。」
「五シリングだつて――五ペンスだつていけませんわ。」
「ぢやあお金を見せるだけ。」
「いゝえ、いけませんわ。信用がならないのですもの。」
「ジエィン!」
「え?」
「一つだけ約束して下さい。」
「何でもお約束いたします、私に出來さうだと思ふことでしたら。」
「廣告しないこと、そしてこの仕事の口は私にまかせるといふことを。間に合ふやうに私が見附けて上げますから。」
「ぢあ、私も、奧さまがいらつしやる前に、私もアデェルも二人共お家から無事に出して下さいますなら、喜んでお約束いたしませう。」
よろしい! よろしい! きつとですよ。ぢあ、明日つのですね?」
「えゝ、朝早く。」
「晩餐の後で、客間に下りて來ますか?」
「いゝえ、旅行の支度をしなくてはなりませんから。」
「ぢあ、しばらくの間の左樣ならを云はなくちやなりませんね?」
「左樣でございます。」
「では、人は別れの禮をどういふ風にするのでせうねえ、ジエィン。教へて下さい、私はよく知らないから。」
「左樣ならとかなんとか、きなやうに申します。」
「では、さう仰しやい。」
「左樣なら、ロチスターさん、當分の間。」
「私は何と云ふの?」
「同じにですわ、お宜しかつたら。」
「左樣なら、エアさん、當分の間。それだけ?」
「えゝ。」
「何だかけちくさくて、素氣そつけなくつて、よそ/\しいやうな氣がしますね。私は何かもう少しその挨拶に附け加へたいな。握手をしたら、例へて云へばね。だが駄目だ――それだつて私には十分ぢやない。ぢあ、たゞ左樣ならと云ふだけでいゝんですか。あなたは、ジエィン?」
「それで十分でございますわ。一ことでも心からのものなら幾言も云つたと同じ位に好意は傳へられますもの。」
「如何にもその通り。しかしそれぢあ、餘りに素氣そつけなくて冷たい――『左樣なら』ぢや。」
「何時までかうして、ドアもたれて立つてらつしやるお心算つもりだらう?」と私は思つた。「荷造りを始めたいのに。」
 晩餐のベルが鳴つた。そして彼はその他に一言も云はずに俄に立ち去つてしまつた。その日中、私は彼に會はなかつた。そして翌朝彼が起きないうちに出發してしまつた。
 ゲィツヘッドの門番の家に着いたのは、五月一日の午後五時頃だつた。私はやしきの方へ行く前に其處に這入つて行つた。そこは大變に清潔で小ざつぱりとしてゐた。飾窓には小さな白い窓掛カアテンがかゝつてゐた。床は汚れ目もなく、爐格子ろがうしも爐道具もきら/\とみがき上げてあり、火がちら/\と燃えてゐた。ベシーはこの間生れたばかりの兒をもりしながら爐の側に掛けてをり、ロバァトとその妹とは片隅でおとなしく遊んでゐた。
「まあ、よく!――きつと、いらつしやると思つてゐました!」と私が這入つて行くとレヴン夫人は叫んだ。
「えゝ、ベシー。」と接吻をしてから私は云つた。「もう間に合はないなんてことはないと思ふけれど。リード夫人はどんな御樣子?――まだ大丈夫、でせうね。」
「えゝ、大丈夫ですよ。そして今迄よりずつと意識がはつきりして、心も落着いてゐらつしやいますの。お醫者さまはまだ一週間か二週間位は持つだらうと仰しやるのです。でも結局、恢復なさるだらうとは、とても思つてはゐらつしやらないのです。」
「この頃、私のことを仰しやつて?」
「ほんの今朝方あなたのことを話して、あなたがいらつしやればいゝがと云つてゐらしたところですの。でも今は丁度十分程前に、私がおやしきにゐたときにはおやすみのやうでした。大抵午後中一種の昏睡こんすゐ状態で横になつてゐらして、六時か七時頃にはお目覺めになりますの。此處で一時間ばかりお休みになつて、それから御一緒にまゐりませうか?」
 そこへロバァトが這入つて來た。ベシーは眠つてゐる兒を搖籠ゆりかごに寢かして彼を迎へに出て行つた。それから彼女は無理に私の帽子をらせ、お茶をすゝめた。私が蒼ざめて疲れたやうに見えるからと彼女は云ふのである。私は彼女の親切を受けるのが嬉しかつた。そして、ちやうど、子供の頃何時いつも彼女に着物を脱がせてもらつたやうに、私は、旅行服をいてもらふにまかせた。
 彼女がせはしく立働いてゐるのを――一番よい珈琲コーヒー茶碗を載せたお茶盆を取り出したり、パンをきつてバタをつけたり、お茶のお菓子を燒いたり、またその合間々々あひま/\には小さいロバァトやジエィンを、丁度昔何時も私にしてゐたやうにちよい/\輕く叩いたり押したりしてゐるのを見てゐると昔のことが思ひ出されるのであつた。ベシーは輕やかな足どりと、いゝ縹緻きりやう[#「縹緻と」は底本では「緻縹と」]同樣、短氣な性格も相變らずだつた。
 お茶の用意が出來て、私は卓子テエブルの方へ行かうとしてゐると彼女は昔とまるでちがはぬ命令口調で私にじつと坐つてゐるやうにと云つた。私はの傍で飮まなくてはいけない、と彼女は云ふのである。そしてまるで子供部屋の椅子いすの上でそつと取つて來た御馳走を何時もよく私に供給してくれたやうに私の前にお茶のコップとトーストのお皿の載つた小さな圓い卓子テエブルを据ゑてくれた。私は微笑ほゝゑんで昔のやうに彼女の言葉に從つた。
 彼女は、私がソーンフィールドホールで幸福であるか、女主人はどういふ風の人かを知りたがつた。そして私が彼處にはたゞ御主人だけしかゐないと話すと、彼はいゝ紳士であるか、また私が彼を好きかどうかなどを知りたがつた。私は彼がどちらかと云へば醜男ぶをとこの方であるが、しかし立派な紳士であること、また彼は私を親切に遇してくれ、私も滿足してゐるといふことなどを話した。それから私は續けてこの頃あのおやしきとまつてゐる賑やかなお客さまの話をして聞かせた。この話に彼女は熱心に耳を傾けて聽いてゐた――これは確かに彼女の喜ぶやうなものであつた。
 そんな話しの内に一時間は忽ち過ぎてしまつた。ベシーは私の帽子やその他のものをちやんと元のやうにしてくれると、私はベシーにともなはれてお邸の方へと番小屋を出た。今私が登つて行くみちを、殆んど九年も前に下つて行つたときも矢張り彼女に連れられてだつた。薄暗い、霧のかゝつた、寒さが身に沁みるやうな一月の朝、絶望的な悲慘な氣持ち――追ひ出され斥けられたやうな、法律の保護もうけられず、また神にも見離された氣持ち――で私は敵のやうな家を後にして遠い見も知らぬ目的地の、ローウッドに、寒い隱家かくれがを探して行つたのだつた。その同じ敵の家が今再び私の眼前に見えて來た。前途はまださだかならず、まだ私の心はいたんでゐるのだ。今もまだ私はこの地上の放浪者のやうな氣がしてゐた。しかし自分自身に、そして自分の力にずつとしつかりした信頼を持つてゐることを、壓迫に對してえ恐れることの少くなつてゐることを感じた。私の受けた虐待の創口きずぐちも今はまたすつかりふさがつて怨恨うらみ※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)も消えてゐた。
「朝食のお部屋に先づいらつしやい。」とベシーは廣間を先に立つて行きながら云つた。「お孃さま方はそちらにゐらつしやいませうから。」
 すぐに私はその部屋に這入つた。樣々の家具は私が初めてブロクルハースト氏に紹介されたあの朝とまつたく同じだつた。彼が立つてゐたあの敷物もまだ爐邊ろばたに敷いてあつた。書棚をちらと眺めて、私はビュウイックの「英國鳥禽史」の二卷が三段目の昔の場所にあることも、「ガリヴァの旅行記」と「アラビアン・ナイト」とがその直ぐ上段に並んでゐることも、分るやうな氣がした。生命のないものは變つてはゐなかつた。しかし生あるものは見分けがつかない程に變つてしまつてゐた。
 二人の若い婦人が私の前に現はれた。一人は非常に背が高く、殆んどイングラム孃位に高く――それに非常に痩せて蒼白く、いかめしい顏付をしてゐた。彼女の樣子には何か禁欲的な風があつた。それがまた飾氣かざりけのないスカァトの、黒い毛織の服や、のりつけの麻衿カラア[#「麻衿や」は底本では「麻矜や」]ひたひからかき上げられた髮やそれに尼僧のやうな黒い珠數じゆずの紐と十字架の飾りの、極端に質素な樣子の爲めに、益々強められてゐた。その細長い蒼い顏には昔の彼女に似たところは殆んど見ることが出來なかつたが、これが確かにイライザだと私は思つた。
 もう一人の方もまた確かにヂョウジアァナであつた。しかし私の覺えてゐるやうな――十一歳のたをやかな妖女フエアリイのやうな少女ではなかつた。これは滿開の花のやうな、むつちりとよくふとつた娘で、蝋細工のやうに白く、美しいとゝのつた顏立かほだちをしてゐて、氣力のない青い眼と、いた黄色い髮を持つてゐた。彼女の服の色も矢張り黒だつた。しかし、その形は姉のとはひどく異つてゐた――ずつとすらりとたれて似合にあつてゐた――一方のが清教徒めいて見えるだけ、こちらはしやれて見えた。
 姉妹の兩方共、母親の面影があつた――一ところだけ。痩せてあをい姉娘の方は母親の煙水晶ケヤアンゴームの眼を受け、花やかな、みづ/\しい妹娘は顎とおとがひの輪廓を受けてゐた――多分幾分かはやはらか味はついてゐるが、それでもまだ顏付に何とも云はれぬ苛酷かこくなところが表はれてゐた。それさへなければ、非常に豐艷で快活だつたのであるが。
 二人は私が這入つて行くと、私を迎へて立上つた。そして二人共私に「エアさん、」といふ名を呼んだ。イライザの挨拶は簡單な素氣そつけのない聲で、笑ひ顏もせずに、述べられた。そして彼女は再び腰掛けると爐の火を見つめたまゝ私のことは忘れたやうに見えた。ヂョウジアァナは「御機嫌ごきげん如何?」と云つて、二言三言私の旅行のことや、天氣その他のおきま文句もんくを、どちらかと云ふとまだるい、ものうげな調子で附け加へた。その間にも、ちら/\と横目で、私の方を頭から足の爪先つまさきまで見るのであつた――褐色メリノの上衣うはぎの襞を見やるかと思ふと、コッティジ風の帽子の質素な飾りに目を留めたりするのであつた。若い女の人といふものは口にはその言語を出さずとも、他人ひとのことを「變物」だと考へてゐることを當人に知らせる非凡なやり方を知つてるものである。傲慢な樣子、冷やかな態度、冷淡な語氣ごきなどが、いくら言葉や行爲に表はした無禮をしなくても、そんな點で自分達の氣持ちを十分に表はしてゐるのであつた。
 しかし内緒ないしよにしろ大つぴらにしろ、今や蔑視は、私の上に左右してゐた力を持たなくなつてゐた。私は二人の從姉妹いとこに間に坐つて、一方からは全然無視され、一方からはなかば嘲るやうな眼で見られても自分の氣持ちは一向に平氣なのが不思議な氣がした――イライザが私を口惜くやしがらせることもなく、ヂョウジアァナが私を狼狽させることもなかつたのである。
 つまり、私は他に考へることがあつたのだ。過去數ヶ月の間、私の内には、彼等が私の心に起させ得るどんな感情よりも強いものが動いてゐたのである――彼等の力が與へ得るどんなものよりも、もつと/\鋭い痛切な苦しみや喜びである――だから彼女等の樣子は私には善くも惡くも何の關係もないものだつた。
「リード夫人はどんな御樣子ですの?」と、すぐ私は落着いて、ヂョウジアァナを見ながらたづねた。それが彼女にはまるで思ひもよらない失禮なことだつたかのやうに、彼女は、このうちつけな言葉に對して、つんと威張るべきだと思つたらしい。
「リード夫人? あゝ、母さまのことを云つてらつしやるの! ひどく加減が惡いんですの。あなた、今晩お會ひになれるかどうか分らないと思ひますわ。」
「若し、」と私は云つた。「あなたがちよいと二階へいらして私が來たことをお知らせして下さると嬉しいのですが。」
 ヂョウジアァナは、殆んどび上らんばかりだつた。そして青い眼を烈しく大きく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。「特別に私に會ひたいと思つてゐらつしやるのを私知つてをります。」と、私は附け加へた。「それに私に會ひたいと仰しやる思召通おぼしめしどほりにするのを必要以上に延ばしたくはございませんから。」
「母さまは、夜、妨げられるのはお嫌ひです。」とイライザが云つた。私は、すぐに立上つて、すゝめられはしなかつたが、靜かに帽子と手袋をとつて、ちよつとベシーのところ――多分臺所にゐるだらう――へ行つて、リード夫人が今晩私に會ふ氣か否かを確かめて來ると云つた。出掛けてベシーを探し出して用事を話し、私はどん/\その上の處置をしてしまつた。今まで私は何時でも尊大にかまへられると、畏縮してしまふのが癖だつた。今日のやうな待遇でも受けようものなら、一年前にはもう翌朝直ぐにも、ゲィツヘッドを去る決心をしたに相違ない。今ではそんなことをするのは、馬鹿げた考へだといふことがすぐ私に分つた。私は伯母を見舞ひに百マイルの旅をして來た。そして彼女がくなるか――でなければくなるまで彼女の許に留つてゐなくてはならないのだ。彼女の娘達の傲慢や愚行ぐかうのことは、見過ごして、無關心でゐなくてはならない。そこで私は家婦に向つて、どこかの部屋に案内するやうに頼み、多分一週間か二週間此處に留らなくてはなるまいといふことを話し、旅行鞄を私の部屋に運んでもらつて私もそこ迄一緒に行つた。階段のをどり場でベシーに遇つた。
「奧さまはお目覺めです。」と彼女は云つた。「あなたがいらしたことを申上げときました。あなたがお分りになるかどうか行つてみませう。」
 私は以前あんなに幾度も折檻せつかん懲戒ちようかいの爲めに呼びつけられてよく知つてゐるあの部屋に案内してもらふ必要はなかつた。私はベシーの前に立つて急ぐと、そつとドアを開けた。おほひをかぶせた燈火あかり卓子テエブルの上に据ゑてあつた。もう暗くなりかけてゐるのだ。そこには昔の通りに、琥珀色こはくいろとばりの掛つた大きな四本柱の寢臺ベッドがあり、化粧机があり、肘掛椅子があり、足臺があつた。私は幾度となく自分の犯さぬ罪のゆるしを願ふ爲めにその上にひざまづけと命令されたのであつた。小さな鬼のやうにび出して顫へる私のてのひらやすくめた頸すぢをむち打たうと待ちかまへて、何時もそこに忍んでゐたあの昔恐れた鞭の細長い形を見ることを半ば豫期して、私は、眼近のとばりの片隅を覗いた。私は寢臺に近よつて、とばりを開けると堆高うづたかく重つた枕の上に身をかゞめた。
 私はリード夫人の顏はよく覺えてゐた。そして私は熱心にあの見なれた面影を探した。時がたつと復讐のねがひも消え失せ、忿怒ふんぬと嫌惡にはやる心ももくしてしまふことは有難いことである。私は苦痛と憎惡の裡にこの女の許を立ち去つた。そして今は彼女の大きな憎みに對する一種の同情と、受けた傷は何も彼も許して忘れようとする――和解して仲好く手を握り合はうとする強い願ひをもつて、今彼女の所に歸つて來たのである。
 よく知つてゐる顏は、昔と同じやうにきびしく慘酷にそこにあつた――どんなものもやはらげることの出來ないあの特有の眼と、いくらか上り氣味の我儘らしい壓へつけるやうな眉であつた。幾度それが威赫ゐくわくと憎惡をもつて私を睨んだことだらう! そして今そのけはしい輪廓を眺めた時どんなにか子供の頃の恐怖と悲哀の追憶が甦つて來たことだらう! でも私は身をかゞめて彼女に接吻した。彼女は私を眺めた。
「ジエィン・エアなのかい?」と云つた。
「えゝさうですの、リード伯母さま。如何ですか、伯母樣?」
 私は彼女を二度と伯母とは呼ぶまいとかつて誓つた。だが今となつてその誓ひを忘れて、破ることが罪だとは思はなかつた。私の指は、敷布しきふの外に出てゐる彼女の手をしつかりと握つてゐた。若し彼女が私のをやさしく握り返したなら、その瞬間にも、私は僞りならぬ喜びを感じたことだらう。しかし感じのにぶい人間はなか/\急には心がやはらげられず、持つて生れた反感はさうすぐにはなくならなかつた。リード夫人は手を引込めた。そして私から顏をそむけるやうにして暖い晩だと云つた。再び彼女は氷のやうにひややかに私を見た。私はすぐに私に對する彼女の意見――私に對する彼女の感情――は、變つてもゐないし、變へ得ないものだといふことを直ぐに感じた。私は彼女の石のやうな眼――やさしさに對して鈍感で、涙にけぬ――を見て、彼女は最後まで私を惡く思はうと決心してゐることを知つた。何故なら私を善いものと信ずることは彼女に少しも寛大なよろこびを與へないで、たゞ屈辱の感を與へるのみだつたからだ。
 私は苦痛を感じた。それから忿怒ふんぬを感じた。そしてその次には彼女に打ち勝たう――彼女の性質がどうあらうとも、意地が強からうとも、こつちが上手うはてに出ようといふ決心を抱いた。ちやうど子供の頃のやうに涙が湧いて來た。その涙に私は源へ歸れと命令した。寢臺の枕もとへ椅子を持つて來て、私は腰掛けて枕の上に身をかゞめた。
「私を呼びにお寄越よこしになりましたのね。」と私は云つた。「それで私まゐりました。そしてどんな御經過か分ります迄ゐさせていたゞく積りでをりますの。」
「あゝ、勿論! 娘達には會つたんだらうね?」
「えゝ。」
「ぢや、私が考へてる事柄をお前と話せる迄お前に此處にゐて欲しいと私が云つてたと彼女あれ達にお云ひなさい。今夜はおそすぎる、それになか/\思ひ出せないから。だけど何か話したいことがあつたのだが――ちよいとお待ち――」
 そのさ迷ふ眼付や變り果てた言葉つきは、あの頑丈な身體が、どんなにやつれ衰へたかを語つてゐた。落着かぬやうで寢返りをしながら、彼女は被せかけてある夜具覆ベッドクロオス[#ルビの「ベッドクロオス」は底本では「ベットクロオス」]を引つ張つた。蒲團の一隅にやすんでゐた私のひぢがそれを押へつけてゐた。すると彼女は急に腹を立てた。
「立つとくれ!」と彼女は云つた。「蒲團をきつく押へて私を困らせないでおくれ――お前、ジエィン・エアかい?」
「私、ジエィン・エアですよ。」
「私はあの子には誰も信じられない位に困らされた。あんな負擔が私の手に遺されるなんて――そしてあの了解出來ない性質と不意にかつとなる氣質とあの始終しよつちゆう變に人の動靜をうかゞふのとで、毎日毎時間どんなに私を惱ましたことか! 私は云ふけれど彼女あれは何時ぞやまるで何か狂氣きちがひのやうに惡魔のやうに私に物を云つたことがあるよ――あの子のやうな口を利いたり、風をしたりした子供はありやしない。あの子を家から出すのが私は嬉しかつた。ローウッドではみんなはあの子をどうしたのだらう。あの熱病が流行はやり出して生徒達がたくさん死んだ。だがあの子は死にはしなかつた。なのに私はあの子が死んだと云つた――死んでゐてくれゝばよかつたのに!」
「不思議なお望みですね、リード伯母さま、どうしてそんなにお憎みになるのですの?」
「私はあの子の母が何時いつも嫌ひだつたのさ。何故かと云へば、彼女あれは私の良人をつとのたつた一人の妹で、おまけに大變なお氣に入りだつたから。彼女が身分のいやしい者と結婚した時にも良人は一族の者が彼女あれと縁を切ると云ふのに反對したんだよ。そして彼女がくなつたといふ報らせが來た時には、あの人はまるで莫迦者ばかもののやうに泣いたのさ。あの人は赤ン坊を呼びよせたいと望まれた。私は里子に出して養育費を出すやうにとお願ひしたのだけれど。私は最初一目見た時からあの子が憎らしかつた――病身らしい、めそ/\した、痩せこけた子だつた! それがまた何時も夜中搖籠ゆりかごの中で泣き續けて――他の子供のやうに思ひつきり泣きわめくのぢやなくて、しく/\泣き呻いたんだ。リードは可哀相だと云つて、まるで自分の子のやうに始終しよつちゆう世話をしたり可愛がつてやつたりしてゐた――いえ、あの位の年の自分の子よりももつとずつと可愛がつてゐた。あの人は家の子供達を、あの小つぽけな乞食娘と仲好しにさせようとした。だが家の子供達はとても我慢出來なかつた。するとあの人は子供達が嫌がる樣子を見せると叱りつけるのだつた。あの人が最後の病氣をしたときには始終しよつちゆう寢床の傍に引きつけてゐた。そしてくなる一時間ばかり前に、あの人はあいつを置いておく、といふ誓ひで、私を縛つてしまつた。養育院から、貧民の餓鬼がきを預つた方が増しな位だつた。だがあの人は弱かつた。生れつき弱かつた。ジョンはまつたく父親似てゝおやにではなかつた。私はそれが嬉しかつた。ジョンは私に似てるし私の兄弟に似てる――あれは立派なギブスン家の人間なのだ。あゝ彼がお金をくれといふ手紙で私をいぢめるのを止してくれゝばいゝのに! 私にはもうあれにやるお金は無い。家は貧乏になりかけてゐる。召使達は半數位暇を出さなくてはならない。そして家作かさくもいくらか疊むか貸すかしなくてはならない。私は暮らしをちゞめる氣にはなれない――けれど私達はどうなつて行くのだらう。私の收入の三分の二は、抵當の[#「抵當の」は底本では「低當の」]利子に拂ひ込んでゐる。ジョンは滅茶苦茶に賭事かけごとをして何時もとられてばかり――可哀相な子! あの子は詐欺師ぺてんしに取圍れてゐるのだ。ジョンは臺なしにされ、墮落させられてしまつてゐる――あの子の顏は身顫ひがするやうだ――私はあの子を見ると恥かしくて顏が赧くなる。」
 彼女はだん/\興奮して來てゐた。「私もうあつちへ行つた方がいゝやうですね。」と私は寢臺の向う側に立つてゐるベシーに云つた。
「それの方がいゝかも知れませんね、お孃さん。ですが、夜になつて來ると、よくかういふ風にお話しになるんですの――朝方はかなり靜まられますが。」
 私は立ち上つた。「お待ち!」とリード夫人は叫んだ。「まだ話したい事があるのだよ。あれは私をおびやかす――始終々々しよつちゆう/\あれは死ぬと云つて、でなければ私を殺すと云って、私をおどす。そして私は時々あれが咽喉に大きな傷を拵へてるのや、むくんだ紫色の顏になつてる夢を見る。私は途方に暮れてゐる。私は重い苦勞を持つてゐる。どうしたらいゝのだらう。どうしてお金を拵へよう。」
 そこで、ベシーは、彼女に鎭靜劑ちんせいざいを一杯飮ませようとした。そして、やつとのことで成功した。やがて、直ぐにリード夫人は、前より落着いて來て、うと/\となつた。それで私は出て行つた。
 再び私が彼女と話をするときもなく十日以上の日が經つてしまつた。彼女は熱に浮されてゐるか、さもなければ昏睡状態が續いて、お醫者は何に依らず彼女を苦しめて興奮させるやうなものを禁じた。その間にも私は出來得る限りヂョウジアァナとイライザとによくして行つた。二人共まつたく初めの内は冷淡だつた。イライザは半日は縫物、讀書、でなければ書きものに坐つたまゝ私にも妹にも殆んど口をかなかつた。ヂョオジアァナは一時間毎に彼女のカナリアに他愛たあいもないことをしやべつてゐて、私を振り向きもしなかつた。しかし私はすることやたのしみがなくて手持無沙汰てもちぶさたに見えないやうにしようと決心してゐた。私の持つて來てゐた畫の道具が仕事と樂しみの兩方の役に立つてくれた。
 鉛筆入と幾枚かの紙を用意して、私はいつも彼等から離れて窓際に席を占め、熱心に想像畫を描いた。二つの岩間にちらりと見える海、のぼりかけた陽とその圓い形を横ぎつて行く舟、一かたまりになつたあし菖蒲しやうぶとそこから出てゐる蓮の花の冠をつけた水の女神の頭、山櫨さんざしの花環の下の籬雀かきすゞめの巣の中に坐つてゐる妖精など、くる/\變つて行く想像の五色眼鏡めがねに刻々と寫つて來る樣々の景色を描いた。
 ある朝、私は、一つの顏を描きはじめた。どんな種類の顏になるか、私は、氣にも留めなかつたし、知らなかつた。やはらかい黒の鉛筆をとつて、先を太くして、そして仕事にかゝつた。やがて、私は、紙の上に廣い大きな額と角ばつた顏の下半分の輪廓を描いた。その形が氣に入つて、私の指はそれに目鼻を附けようとどん/\進んだ。濃い眞直な眉はそのひたひの下に描かれなくてはならない。それから次には當然鼻すぢの通つた鼻孔びこうの張つたはつきりした鼻が來る。その次には柔軟やはらかな、無論引きしまつた唇、その次には中程の下にきゆつとくぼみのあるしつかりした顎、無論黒色の顎髯が要る。それからこめかみのところにふさ/\となつて額の上に波打つてゐる黒い髮が要る。今度は眼である。それは最後まで殘しておいたものだつた。一番注意して描かなくてはならなかつたからである。私はそれを大きく、いい恰好に描き、睫毛まつげは長く暗い陰をつくり、瞳はつやを帶びて大きくした。
「よし、しかし、まだ實物の通りとは行かない。」私は出來上りを眺めてさう思つた。「もつと力強さと鋭氣えいきがなくては。」そして私は、眼の輝きが、もつと、はつきりきらめくやうに陰を濃くした――上手じやうずに一筆二筆でうまく出來上つた。もう私の眼の前には、お友達の顏がある。あの若い女の人達が私に背を向けようとそれが何だらう。私は、それを見て、今にも物を云ひさうな程生き寫しの顏に向つて微笑ほゝゑんだ。私は、それに心を奪はれ、滿足してゐた。
「それは誰方どなたか御存じの方の肖像?」とそつと私の傍によつて來たイライザがたづねた。それはたゞ想像して描いた顏だと答へて急いで他の紙の下に入れてしまつた。無論私は嘘を吐いたのだ。本當はそれは非常に念を入れたロチスター氏の肖像であつた。しかしそれが私以外の彼女にとつてまたは他の誰かにとつて何であらう? ヂョウジアァナも見にやつて來た。他の畫は大分彼女の氣に入つたが、それのことは「みつともない人」と云つた。二人共私の技に驚いたらしかつた。私は彼等の肖像を寫して上げようと申し出た。そして二人は交る/″\鉛筆の下書きをするのに坐つた。やがてヂョウジアァナは自分のアルバムを持ち出した。私は水彩畫を一枚おくらうと彼女に約束した。それが忽ち彼女を上機嫌にした。彼女は邸内を散歩しようと云ひ出した。二時間外に出てゐるうちに、私共はすつかり打明け話までしてしまつた。彼女は二年前倫敦ロンドンで過したはなやかな冬のこと――そこで彼女が湧き立たせた稱讃――彼女の受けた人々の注目などの樣子を話して私に好意を見せてくれた。そして私は彼女が有爵の人の愛を得たといふほのめかしさへ聞かされたのであつた。午後が過ぎ、夕方になるにつれて、この仄めかしはだん/\おまけがついて行つた。樣々の甘い會話が報告された。感傷的な場面が描き出された、そして、まあ簡單に云へば、社交界小説の一卷が私への惠みの爲めに彼女によつてその日即席に作られたのであつた。その消息は日毎に繰り返された。何時も/\同じ主題を繰り返すのであつた――彼女自身、彼女の戀、そして嘆き。不思議なことには彼女はかつて一度でも母親の病氣のことにまたは兄の死にまたは家族の前途についての現在の暗い有樣に言及げんきふしたことがなかつた。彼女の心は過去の快樂の追憶談に將來の道樂の望みにまつたく奪はれてゐるらしかつた。彼女は毎日母の病室に五分間ばかりゐるきりであつた。
 イライザはまだ口をかなかつた。明らかに彼女には話をする暇がなかつたのである。彼女のやうにいそがしさうな樣子をした人間を私は見た事がなかつた。しかし、何をしてるかを云ふことは、いや、寧ろ彼女がせつせとやつてることの結果がどうなるのかを見るのは、困難なことだつた。彼女は朝早く起きるやうに目醒時計を持つてゐた。朝食前に彼女が何うしてゐるのか知らなかつたが、食後、彼女は時間を規則正しい部分に割り當てゝゐた。日に三度彼女は小型こがたの本を勉強した。それをよく見ると通俗祈祷書、英國々教の禮拜式の次第を記した本であつた。ある時私はその本の何がひどく人を惹きつけるのかとたづねてみた。すると彼女は「禮拜規定」だと云つた。三時間は、黄金の針で殆ど敷物になる位廣い四角形の深紅の布に縁飾ふちかざりをするのに使つた。その品物の用途に就いて私が訊ねると、答へるには、近頃ゲィツヘッドの附近につた新しい教會の祭壇に掛けるものだと云つた。二時間は日記をつけるのに、二時間は自分で菜園に出て働くのに、そして一時間は帳簿の整理に當てた。彼女は友達も話も欲しくないらしかつた。彼女は彼女なりに幸福だつたらうと思ふ――このおきまりの仕事で彼女は十分だつたのだ。そしてそのゼンマイ仕掛の規則正しさを變へなくてはならないやうにする出來事が何か生ずる程彼女を惱ますものはなかつた。
 ある晩いつもよりは打解けた氣持のときにジョンの行爲と一家破産に瀕したことは彼女にとつて深い苦惱であつたと彼女は話した。しかし今は心を落着けて決心してゐると云つた。自分の財産は貯蓄してあるから、母がくなつたら――恢復することも長持ちすることもまつたくあり得ないことだから、と彼女は平氣で云つた。――長い間いだいてゐた計畫を實行する積りだと云つた。規則正しい習慣が永久に妨げられることのない退隱所たいいんじよを探して彼女と輕佻な世間との間に安全な障壁を設けようといふのである。ヂョウジアァナも一緒に行く積りなのかと私はたづねてみた。
「無論行きはしません。」ヂョウジアァナと彼女とはまつたく共通な點がない。決してない。いくら報酬をもらつても、ヂョウジアァナと附合ふ負擔は彼女は負はないだらう。ヂョウジアァナは自分のみちを行くべきだし、彼女は、イライザは自分の途をとる積りだらう。
 ヂョウジアァナは、思つてゐることを私に打明けないときには大抵安樂椅子ソフアの上にねそべつて、家の退屈なことにぢれたり、伯母さんのギブスンが街へ來るやうにと招待状をくれゝばいゝと繰り返し/\云つたりしてゐた。「若し一ヶ月か二ヶ月の間、何も彼も濟んでしまふ迄どこかへよけてゐられさへしたらどんなにいゝだらう。」と彼女は云つた。私は「何も彼も濟んでしまふ」がどんな意味かたづねなかつた。しかし彼女は豫期してゐる母の死とそれに續いて來る陰氣なおとむらひを指してゐるのだと私は想像した。イライザは大抵のとき、そんな不平らしく、つぶやいたり、のらくら寢そべつたりしてゐる相手が、自分の前にゐないかのやうに、彼女の妹の怠惰や愚痴を氣にも留めなかつた。しかし、ある日、帳簿をしまつて縁縫ふちぬひを擴げながら彼女は突然に妹を次のやうに非難した――
「ヂョウジアァナ、あなたのやうに世間の場所ふさぎになる仕樣のない動物つたら決してありはしないわ。あなたのやうな役に立たずは生れて來る權利なんぞありはしない。理性のある人間が當然しなくてはならないやうに、自分の爲めに、自分の内に、自分と共に生きて行く代りに、あなたは自分の弱さを誰か他人の力に捲き付けようとばかりしてゐる。男でも女でも、そんなふとつちよの、弱蟲の、自惚うぬぼれの強い役に立たずを背負しよひ込まうつて人が見附からないと、あなたは虐待されたとか無視されたとかみじめだとかつて喚き立てるのでせう。それからまたあなたにとつて人生といふものは始終しよつちゆう變つてゐて大騷ぎしてなくちやならないのよ。でなきやこの世は牢屋ですからね。人から禮讃されなくちやならない、機嫌をとつてもらはなくちやならない、へつらつてもらはなくちやならない――音樂にダンスに交際社界がなくちやならない――でなければがつかりして滅入めいり込んでしまふ。他人の努力、他人の意志とまつたく關係なく自分を獨立させる方法を工夫するやうな[#「工夫するやうな」は底本では「工風するやうな」]氣持は、あなたにはないの? まあ一日をとつて、それを幾つかに分けて御覽なさい。その各部に仕事を割當てゝ、十五分でも、十分でも五分でも使ひ途のない時間を殘さないで――みんな入れて、それ/″\仕事を順次に秩序立てゝきちんと規則正しくやつて御覽なさい。その日は明けたかと思へばもう暮れるでせう。そして人の助をかりて無駄な時間をつぶす世話も要らない。友達もお喋べりも同情も度量も欲しがることは要らない。一口に云へば、獨立した人間がしなければならないやうに生活したのです。この忠告をおきゝなさい――私があなたに云ふ最初で最後のですから。さうすれば何事が起らうとも私も要らなければ他の誰も要りません。なほざりにして――今迄の通りに泣きついたり、泣聲を出したり、のらくらしてゐて御覽なさいよ――あなたの仕出かした痴愚の結果がやつて來るから。それは、でも隨分いやな、堪へられないやうなものでせうよ。私はこのことははつきり云つておきますからね。きいておきなさいよ。何故つて、今私が云はうとしてゐることはもう二度と繰り返さないでも、私はきつとそれにもとづいて行動を取りますからね。母がくなつた後は私はもうあなたから手を引いてしまひますよ。おくわんがゲィツヘッド教會の地下室の納棺所にはこばれたその日から、私達はお互にまるで知らない人同志だつたやうに離れ/″\になるのです。私達が偶然に同じ兩親によつて生れたといふ理由でもつて、あなたが極く僅かな縁故えんこを云ひたてゝ、頼つてくれば、そのまゝ私が寄せつけようなどゝは考へないで下さいよ。このことは云へます――若し私共だけ除いて全人間がゐなくなり、私共二人つきりが地上に立つやうになつたとしても、私はあなたを古い世界に殘して、自分は新しい世界へ行く積りです。」
 彼女は口をつぐんだ。
「そんな長談義ながだんぎを、わざ/\して下さらなくてもよかつたのに。」とヂョウジアァナは答へた。「あなたが世界中で一等勝手な、無情な人間だつてことは、誰だつて知つてゐます。そして私だつてあなたが私を意地惡いぢわるく憎んでることは知つてゝよ。あなたがエドヰン・ヴィア卿のことで先づ私にたくらんだたくらみがいゝしるしだわ。あなたはあたしが、あなたより身分が高くなることや、爵位がつくことや、あなたが思ひ切つて顏出し出來ない社會に持てることが堪らなかつたんでせう。だからあなたは間牒かんてふや密告者の眞似をしたのでせう。そして永久に私の未來をそこねてしまつたのでせう。」ヂョウジアァナはハンケチを取出して、その後一時間位も鼻をかんでゐた。イライザはひややかに平氣な顏をして坐つたまゝせつせと仕事をしてゐた。
 眞實な寛大な感情はある人々には輕んじられてゐる。しかしこゝにゐる二人の人間は、それを缺いてゐる爲めに、一人はこの上もなく辛辣な性質となり、一人は情ない程味も素氣そつけもない性質となつてしまつた。判斷力のない感情はまつたく水つぽい藥である。しかしまた感情にやはらげられぬ判斷力は、人間がのみ込むには、あまりに、苦くひからびた一片の食物である。
 雨の降る風まじりの午後のことであつた。ヂョウジアァナは小説を讀み乍ら安樂椅子の上に眠り込んで了ひ、イライザは新しい教會の祭日の禮拜に出掛けて、ゐなかつた――宗教の事では、彼女は大變な禮式固持者だつたから。どんなお天氣でも彼女が信心のお勸めだと云ふものをきちんと果すのを妨げた事は無かつた。晴れても降つても毎日曜三度、それに平日でも祈祷會のある度に禮拜に行くのであつた。
 私は殆んど打つちやらかしのやうに横になつてゐる、今にも死にさうな病人がどんなになつてゐるかを見に二階へ行かうと思つた。召使達も思ひ出したやうに時々氣を附ける位で、やとひ込んだ看護婦も一向に監督されないので暇さへあればそつと部屋を出てゐるのであつた。ベシーは忠實だつた。しかし自分の家族のことも、氣を附けなくてはならないので、ほんの時々しかやしきに來ることが出來なかつた。思つた通り、病室はつたらかしで看護婦もゐなかつた。病人は身動みうごきもせず昏睡してるかのやうに、横になつて、蒼ざめた顏は枕に埋もれ、火は爐格子ろがうしの中に消えかけてゐた。薪を入れ足し、夜着よぎを直して、今は私を見つめる力もなくなつて了つてゐる彼女をしばらく私は眺めてから、窓際の方へ歩いて行つた。雨はひどく窓硝子に打ちつけ、風も強く吹いてゐる。「間もなく地上の出來事と戰の彼方に行く人が彼處に横はつてゐる。あの魂――今肉體の住家を去らうともがいてゐる――は、遂に解放されたときには、何處に移つて行くのであらう?」と私は思つた。
 この大きな神祕について考へてゐるうちに私はヘレン・バーンズのことを思つて彼女の言葉――彼女の信仰――肉體を離れた魂は平等だといふ彼女の説などを思ひ起した。なほも私は心の中であのよく憶えてゐる調子に耳を澄まし――なほも私は彼女がおだやかな死の床に横はつて、天の父のふところに甦らせて欲しいと熱望してゐた時の蒼白あをじろきよらかな容貌、痩せ衰へた顏、崇高な眼付などを描いてゐた――その時に背後の寢臺から弱々しい聲がした。「誰だい?」リード夫人が、幾日も物を云はなかつたのは私も知つてゐた。彼女は恢復して來たのだらうか? 私は彼女の方に行つた。
「私ですの、リード伯母さま。」
「誰――私とは?」といふのが返事であつた。
「お前は誰?」といぶかしげに、驚きながらも狂氣きちがひじみた樣子もなく私を見上げて、「お前は私のまるで知らない人だ――ベシーは何處にゐるの?」
「番小屋にをりましてよ、伯母さま。」
「伯母さま、」と彼女は繰り返した。「私を伯母と呼ぶのは誰だらう。お前はギブスン家の人ではない。だけど私はお前を知つてゐる――その顏、その眼、ひたひはよく知つてゐる。お前は丁度――さうだ、お前はジエィン・エアに似てゐる!」
 私は何も云はなかつた。同一の人だと云つて、ひどく驚かせてはと思つたからである。
「だが、」と彼女は云つた。「間違ひかも知れない。私の氣の迷ひだ。私はジエィン・エアに會ひたいと思つた。そしてありもしない似通にかよつた點を想像してゐる。それに八年もの間にはあの子は隨分變つてゐる筈だし。」そこで私は靜かに私が彼女の推定した、また、さうであるやうにと望んだ人間であることを納得なつとくさせた。そして私が分つて、彼女の意識もすつかりはつきりしたのを見て、私はベシーがソーンフィールドから、私を連れて來る爲めに彼女の良人をつと寄越よこした次第を説明した。
「私はひどく惡いんだよ。」と彼女は少し經つて云つた。「少し前に私は寢返りをしようとしたけれど手足を動かすことが出來なかつた。死ぬ前には心も樂にしなくてはならない。丈夫なときには殆んど考へもしなかつたことが今の私のやうなときには負擔ふたんになる。看護婦はゐるの? それともお前きりしかこの部屋にはゐないの?」
 私だけだと云つてきかせた。
「さうかい、私は今は後悔してゐるのだけれど二度までお前に惡いことをしてゐるのだよ。一つはお前を自分の子供同樣に育てると良人をつとに云つた約束を破つたこと、も一つは――」彼女は云ひ止めた。「結局、大して重要なことではないかも知れない、」とひとり呟いた。「そして、やがて私がくなる、そして、彼女の前に自分をいやしいものにするのはたまらない。」
 彼女は位置を變へようとしたが駄目だつた。彼女の顏が變つて來た。彼女は何か内心の感動を經驗してゐるらしかつた――多分末期の苦痛のさきがけであらう。
「さうだ、私は打ち勝たなくてはならない。私の前には永遠がある。話してしまつた方がいゝ。――私の衣裳箱いしやうばこのところへ行つて、開けて、其處にある手紙を出しておくれ。」
 私は彼女の云ふ通りにした。「その手紙をお讀み。」と彼女は云つた。
 それは短いもので、次のやうに云つてあつた――
『奧さま――失禮乍ら小生の姪、ジエィン・エアの住所とその近況をお報らせ下されまじく候や。近々書面にてマデイラなる小生がもとに來るやう申したき意志に御座候。小生事僥倖げうかうにも相應さうおうの資産獲得いたし候も、妻もなく、子もなければ、小生生存中は養女となし、死後はのこす可き物は何物によらず讓り渡し度く存じ居り候。小生は、云々
ジョン・エア・マデイラ』
 日附は三年前になつてゐた。
「どうして私このことを聞かなかつたのでせう。」と私はたづねた。
「お前が仕合せな身分になるのに手を貸してやるのが堪らない程、私は心の底からお前が嫌だつたからなんだよ。お前が私に對する振舞ひを私は忘れることが出來なかつた。ジエィン――いつぞや私に刄向かつて來たときの、あの狂氣きちがひじみた怒り方を。世界中で一番惡い人間だと私を嫌つたあの口調を。私のことを考へると氣持が惡くなると云つた、私があさましい程ひどくお前に當ると云ひ張つたときのお前のあの小兒こどもらしくない眼付と聲を。私はあんな風にお前が赫となつてお腹の中の憎しみを吐き出したときの私自身の感動を忘れることが出來なかつた。私はまるで、私が打つか押しのけるかしたけものが、人間の眼をして私を見上げ、人間の聲で私を呪つてゐるやうな恐しさを感じた。――水を持つて來ておくれ! あゝ、早くして!」
「リード伯母さん、」と私は彼女の求める水を出し乍ら云つた。「もうこんなことは何もお考へにならないで、忘れてしまつて下さいまし。私のひどい言葉もお許し下さい。私もあのときは子供でしたけれど、あの日から八年、九年經つてをります。」
 彼女は私の云ふことには耳をかさなかつたが、水を飮んで息をつくと、次のやうに話を續けた――
「私はあのことを忘れることが出來ないと云つた。そしてその返報をした。お前が叔父さんに養はれて安樂な身の上になるのは私には我慢の出來ないことだつたから。私は向うに書いてやつた。失望させてお氣の毒だけどジエィン・エアはくなつた、ローウッドでチブスにかゝつてくなつたと云つたのだよ。さあ、どうとも好きなやうにしておくれ。手紙をやつて私の云つたことに反對おし――今直ぐにも私の嘘言うそをおあばき。お前は私をいぢめる爲めに生れて來たのだ。私の死際しにぎはは、お前さへゐなかつたらをかす氣にもならなかつたらうと思はれる惡い行爲の記憶の爲めに責めさいなまれてゐる。」
「そんなことはもう考へない氣になつて下さつたら、ね、伯母さま、そして好意をもつて勘忍して私のことを考へて下さることがお出來になつたなら。――」
「お前はほんとに性惡しやうわるだ。」と彼女は云つた。「そして今日迄私にはどうしてもわからない人間だ。どうして九年の間どんな目につても我慢して一言も云はないでゐて、十年目にありつたけの鬱憤を晴らすことが出來るか、私にはどうしてもわからない。」
「私はあなたがお考へになるやうに性惡しやうわるではないのです。私は激し易いのですけれど、執念深くはありません。小さかつた頃、幾度も/\、あなたさへ受け入れて下さつたら喜んで私はあなたが好きになつたに相違ありません。そして今は、あなたと打解けたいと心から願つてゐます。接吻キツスして下さいましね、伯母さま。」
 私は頬を彼女の唇に近よせたけれど、彼女はそれにさはらうともしなかつた。彼女は私が寢床にもたれかゝつて抑へつけると云つて、再び水を欲しがつた。彼女を寢かして――彼女が水を飮んでゐる間私は彼女を起して腕に支へてゐたのである――私は彼女の氷のやうに冷い濕つた手を私の手にとつた。痩せ細つた指は、私の手から引込められ、――きら/\した眼は私の視線を避けた。
「それでは私をお愛しにならうとお憎みにならうとお好きなやうになさいまし。」とう/\私はさう云つた。「私はすつかり心からあなたをお許しゝてをります。今は神さまのお許しをお願ひになつてお落ち着きなさいますやうに。」
 可哀相な受難の女! 今は習慣になつた考へを變へようと努力することは彼女には遲すぎたのだ。生きてゐるとき、彼女は私を憎みつゞけた。死に面しても、彼女は未だ私を憎まなくてはならない。
 そのとき看護婦がベシーを後に這入つて來た。それでも私は何か親和の徴候が見えないかと願ひ乍ら半時間ばかりも留つてゐた。しかし彼女は何も示さなかつた。彼女は深い昏睡に落ちたまゝ、再び意識を囘復することもなく、その夜の十二時に息を引取つてしまつた。私は彼女の死目しにめに會はなかつた。娘達は孰れもゐなかつた。二人は翌朝私の許に何も彼も終つたことを告げに來た。そのときにはもう彼女は入棺されてゐた。イライザと私は、彼女に會ひに行つたが、大きな聲でき出したヂョウジアァナは到底行けないと云つた。サラア・リードの嘗ては立派で元氣だつた體が、硬くなつて動かず横はつてゐた。燧石ひうちいしのやうな眼は冷い眼瞼まぶたに覆はれ、額やしつかりした特徴のある目鼻立ちの面影には、未だその頑固な魂の影が殘つてゐた。その亡骸なきがらは私にとつて、不思議な、嚴肅なものであつた。私は暗いいたましい氣持でそれを見つめた。それは柔和な、快い、憐れみ深い、希望にみちた心を鎭めるやうな、それらの感じを、何一つ人に與へなかつた。たゞ彼女の苦難――私の損失ではない――に對する、ゐても立つてもゐられぬやうな焦立いらだゝしい思ひと、そのやうな死態しにざまの恐しさを見る、暗い無情な恐慌ばかりであつた。
 イライザは、平然として母親を眺めてゐた。少時しばらく默して後、彼女は云つた――
「あんな體質なら十分年をとるまで生きてゐる筈だつたのに、苦勞が生命を縮めたのですね。」そしてちよつとの間痙攣けいれんが彼女の口元を引きつらせた。それが過ぎ去ると彼女はきびすを返して部屋を出て行つた。そして私も同じやうに出た。私共の誰一人もが涙一滴落さなかつた。

二十二


 ロチスター氏は一週間の暇しか許してくれなかつたけれど、私がゲィツヘッドを立去らぬうちに早一ヶ月は過ぎてしまつた。おとむらひの後私は直ぐにたうと思つてゐた。しかしヂョウジアァナは、妹の埋葬の指圖さしづと家事萬端の處理との爲めにやつて來た伯父のギブスン氏に今度いよ/\まねかれて倫敦ロンドンつことが出來るまでゐてくれるやうにと私に懇願したのである。ヂョウジアァナはイライザと二人つきりになるのが恐ろしい、と云つた。彼女の憂鬱に同情もしてくれない、恐ろしい時のさゝへにもなつてくれない、また支度の手傳もしてくれないと云ふのであつた。そこで私は出來るだけ彼女の意志薄弱な嘆きや勝手な悲歎をこらへて、縫物をしてやつたり着物の荷造りをしたり、出來る限りのことをした。私が仕事をしてゐる間いつも彼女がなまけてゐるのは事實だつた。私は獨り思つた。「若しあなたと私とが、始終しよつちゆう一緒に暮らすやうに定められてゐたのだつたら、從妹いとこよ、私共は、今とは異つた足場に立つて事をはじめたでせうよ。私は勘忍強いお相手になつておとなしくしずまつてはゐなかつたでせう。あなたに仕事の分前を割當てゝ、それを完成するやうに強制し、さもなければ未完成のまゝはうつておいたでせう。それからまた、あのくだらない、半分も誠意のない不平を御自分の胸の中に收めておくやうにと云つたでせう。こんなに我慢しておとなしく役に立つてあげるのを許してゐるのは、私共の間柄がほんの一時的のもので、特別に悲しいときに遭遇したからなんですよ。」
 とう/\私はヂョウジアァナを送り出した。しかし今度はイライザの番で、彼女は私にもう一週間ゐてくれと頼んだ。彼女の時間も注意もすつかり計畫の方にとられてゐると彼女は云つた。彼女はある未知の目的地にたうとしてゐるのだつた。そして終日自分の部屋に這入つたまゝドアを内側からとざして、旅行鞄に荷をつめたり、抽斗ひきだしからにしたり、紙を燒いたりしてゐて、誰とも口をかなかつた。彼女は私に家の世話や、來客に會ふことや、おくやみ状の返事を書くことなどを頼んだのである。
 ある朝彼女は私に用はなくなつたと云つた。「そして、」と彼女は附け加へた。「大變役に立つて下さるし、行屆いた管理をして下さつて有難う。あなたのやうな方と御一緒に暮すのとヂョウジアァナとゐるのとでは大分違ひますわ。あなたは世の中にあつても御自分の本分をお果しになつて、誰の厄介やつかいにもおなりにならない方です。明日、」と彼女は言葉をつゞけた。「私は大陸へ出發します。そして、リスルの近くにある修道院――あなた方が尼寺とお呼びになる――に住居を定めます。其處で靜かに落着いて邪魔されることもなしにゐませう。私は當座の間はロオマン・カソリックの教義をしへの試驗の爲めと、それとその教義による制度の運轉の工合をよく研究する爲めに專心になるつもりです。もしそれが私の思ひ通りで、私は半分疑つてるのですけどね、萬事を儀禮正しくきちんとしてゆくのに最上の組織だと云ふことが分りましたら、私はローマ教のお弟子になつて、多分尼さんになるでせうもの。」
 私はこの決心をきいて驚いたとも云はなければまたそれを思ひ止まるやうにとすゝめもしなかつた。「その仕事は、あなたにはまつたくよく合つてゐるでせう、」と私は思つた。「それであなたが幸福になれますやうに!」
 別れるときに彼女は云つた。「左樣なら、從妹いとこのジエィン・エア、御機嫌よう。あなたは譯の分つた方ね。」
 そこで私は答へた。「あなたも譯の分らない方ぢやありませんわ。從姉いとこのイライザ。でも多分あなたの持つてらつしやる分別は來年あたりは佛蘭西の尼寺の中にそのまゝ閉ぢ籠められてゐるのでせうね。だけどそれは私のことではありませんから、あなたにはお似合にあひでせう。私は大して氣にかけもしません。」
「その通りですよ。」と彼女は云つた。そして、この言葉で私共は別れて各自めい/\の途を行つた。もう二度と彼女にもその妹にも言及する機會は無いだらうから、ヂョウジアァナがあるお金持の道樂にもあいた上流社會の人とちやうど都合のいゝ結婚をしたことと、イライザが本當に尼になつて、今日では彼女が尼僧見習としての期間を過した尼寺の院長になつてをり、そこに彼女は自分の財産を寄附したといふことを此處で述べておいたがいゝだらう。
 長いにしろ短いにしろ、留守るすにしてゐた家へ歸つて來るとき、人はどんな氣がするか、私は知らなかつた。そんな感動は私には嘗て經驗のないことであつた。子供の頃長い道程みちのりを歩いた後で、ゲィツヘッドへ歸つて行つたとき、活氣がなくて陰氣な樣子をしてゐると云つて叱られた氣持は知つてゐる。そしてその後では、教會からローウッドへ、暖い火と十分な食物を切望して、而もその何れも不可能なのであつたが、歸つて行つた氣持も知つてゐる。この歸宅はどちらも大變樂しくも望ましくもなかつた。何等の磁氣じきも私が近づくにつれて引力を増して行くべき場所へ私を惹きつけることはなかつた。ソーンフィールドへの歸りは未だ試みられてゐなかつた。
 私の旅は退屈――大變に退屈らしく思はれた。一日に五十マイル、一夜を宿屋に明して、次の日はまた五十哩である。初めの十二時間は、私はリード夫人の死際しにぎはのことを考へてゐた。醜くなつて變色した顏が見え、變に變つた聲が聞えた。葬式の日、お棺、柩車、小作人や召使達の黒い行列――親類の者は、殆んどゐなかつた――口を開けて待つ地下の墓所はかしよ、しんとした教會、嚴肅な葬禮などのことが心に浮んで來た。すると今度はイライザとヂョウジアァナのことが思はれた。一人は舞踏室で人目を惹き、一人は尼寺の中に住んでゐる。私は二人の人物や性格の別々な特徴に心を留めて分析してみた。夕方大きな××街に着くと、こんな思ひは散り/″\になつてしまつた。夜はまつたく別な方に思ひが移つて、旅の枕に休み、追憶を去り前途を想つたのだ。
 私はソーンフィールドへ歸つて行かうとしてゐた。しかしそこにどれ位の間ゐるのであらう。長いことではない、といふことは確かであつた。私が留守をあけてゐた間にフェアファックス夫人から便りがあつた。やしきの集りは散つて、ロチスター氏は三週間前倫敦ロンドンに向つてつた。しかしもう二週間のうちに歸つて來る筈だつた。フェアファックス夫人は、彼が新しい馬車を買ふと云つてゐたことから、結婚式の用意に行つたのだらうと推測してゐた。彼がイングラム孃と結婚するといふ考へが、まだ自分には不思議に見えると、彼女は云つてゐた。しかし誰もが云ふところから、また彼女自身が見たところからすれば、それは近い内に擧行されることは疑ひをれ得ないことだとフェアファックス夫人は云つて來た。「若しお疑ひになつたのだつたら、あなたは妙に疑ひ深い方です。」といふのが、私の心の評だつた。「私は疑ひはしません。」
 疑問は續いた。「何處に行つたらいゝだらう。」私は一晩中イングラム孃の夢を見た。曉方あけがたのはつきりした夢の中で私は彼女がソーンフィールドの門を私の前にめ、別の路に行けとゆびさしてゐるのを見た。そしてロチスター氏は手を組んだまゝ――まるで嘲けるやうな笑ひを浮べて彼女と私と兩方を眺めてゐるのであつた。
 私は歸りのはつきりした日取は、フェアファックス夫人に知らせてはゐなかつた。車も馬車もミルコオトまで私を迎へに來て欲しくなかつたからである。その道程を一人で靜かに歩いて行きたいと思つて、馬車を馬丁の手にゆだねてから六月のある夕方六時頃、私は極く目立たぬやうにジョージ旅館を忍び出た。そしてソーンフィールドへの舊道――大抵畑の間を通つてゐて、今は殆んど人の通らぬ道路を行つた。
 輝かしいとかはなやかとか云ふやうな夏の夕方ではなかつたけれど、美しく穩やかであつた。乾草ほしくさを作る人々は道に沿つて仕事をしてゐた。空は晴れ渡つたとは云へないが、來る日の好天氣を約束してゐるやうである。その空色――空色の見える所では――は穩やかに落ちついて、層雲は高く薄かつた。西方もまだ暖かで水のやうな光が冷たく流れることもなく、其處には恰も火が焚いてあつて、大理石のやうな水蒸氣の幕の背後でチラ/\燃えてゐて隙間々々から黄金色きんいろの赤色が輝やいてゐるかのやうに見えた。
 私は目の前の道が短くなつて來るのが嬉しかつた――あまりに嬉しくて、とう/\一度立止つて一體何故こんなに嬉しいのかと自分に訊いた。そして私は自分の家へ歸つて行くのでもなく、永久の休息所へでもなく、また懷しい友が私を求めて私の着くのを待つてゐる場所へでもないといふことを思ひ出した。「きつとフェアファックス夫人は穩やかにお前を迎へて微笑ほゝゑんでくれるだらう。」と自分に云つた。「そして幼いアデェルは、お前を見ると手をつて、び上るだらう。しかしお前にはよく分つてゐる、お前はあの人達とは違つた人のことを考へてゐるのだ。そしてその人はお前のことを考へてはゐない。」
 だが青春程強情がうじやうなものがあらうか。無經驗ほど盲目まうもくなものがあらうか。これが、向うが私を見ようと見まいと、ロチスター氏を再び見ることを得るのは大變な歡びだと肯定したのであつた。そして附け加へて云ふ。「お急ぎ! お急ぎ! 出來る間あの方と一緒におゐで。もう幾日か、多くて數週間位、さうすればお前は永久にあの方から引き離される!」そして私は新しく生れた苦悶――ひたすら求めて得られずつちかふことも出來ない醜いものと鬪つた。そして急ぎつゞけた。
 ソーンフィールドの牧場でも人々は乾草ほしくさを作つてゐた。と云ふよりも寧ろ勞働者達はちやうど仕事を止めて、熊手くまでを肩に歸りかけてゐた。丁度その時分に私は着いたのだつた。もう一つか二つ耕地をえると道を横ぎつて門に屆く位であつた。まあ、まがきは薔薇で一ぱいだこと! しかし何も摘む暇がない。私はあの家に着きたいのだ。私は、葉の繁つた、花の一ぱいついた枝を道にさし出してゐる丈の高い茨の傍を過ぎた。石の段々の狹い踏段ふみだんが見えた。それから――本と鉛筆を手にして、そこに掛けてゐるロチスター氏が見えた。彼は書いてゐるのだ。
 如何にも、彼は幽靈ではない。それなのにあらゆる神經がゆるんでしまつた。暫しが程私は茫然としてゐた。何といふことだらう。彼を見てこんな風に顫へようとは、彼の前に立つて聲も動く力もなくなつてしまはうとは思はぬことであつた。動けたら直ぐにも引返さう。本當に馬鹿なことをして恥をかく必要はない。私は家へ行く別の道を知つてゐる。だが、假令たとへ私が二十も道を知つてゐたにしろ、もう何にもならなかつた。彼が私を見附けたのである。
「やあ!」と彼は叫んで、本と鉛筆をしまつた。「歸つて來ましたね! こゝへいらつしやい、さあ、どうか。」
 私は行くのだらう。だが、自分の動作どうさに氣が附かず、ただもう落着いて見えるやうにと心配して、中にも腹の立つ程私の意志に反して騷ぎ、私が隱さうと思つてゐるものを表に出さうとさからふ私の顏の筋肉のふるへを抑制しようと心配して、どんな風にしたものか判らない。しかし私は薄絹うすぎぬかぶつてゐる――それは垂れてゐる。どうにか品よく落着いて振舞ふことが出來よう。
「これがジエィン・エアだらうか? ミルコオトから來るところなの、而も歩いて? さうだ――いかにもあなたのやりさうなことだ。馬車を寄越よこせと頼んで、當り前の人間のやうにまちや往來を車で來ようとはせずに、まるで夢か影のやうに夕暮時分に、自分の家の近くに忍び込んで來るのだ。一體全體先月中何うしてゐたのです?」
くなつた伯母のところにゐましたの。」
「ジエィンらしい答だ! 天使らよ、われをまもり給へ、だ。この人はあの世から來たのだ――死人の國から。そしてこんな黄昏時たそがれどきにたつた一人で私に遭つてさう云ふのだ! あなたが正體か影か、思ひ切つて觸つてみようか、小さな妖精フエアリー!――だがいつそ沼の中の青い鬼火おにびを捉へようと云つた方がいゝ位だ。なまけ者! 怠け者!」一寸言葉を切つてまた彼は云ひ足した。「まる一ヶ月も留守るすをあけて、私のことなぞ、まるで忘れてゐるなんて、本當に!」
 假令たとへもう間もなく私の主人ではなくなるといふことや、私は彼にとつては何でもないといふことなどで心をきずつけられてゐても、私は再び私の主人に會ふのは嬉しいことを知つてゐた。だが、いつでもロチスター氏には、(少くとも私はさう思つたが)幸福を傳へる豐かな力があつて、彼のまき散らすパン屑をぽつちりでも味ふことは、私のやうな迷つてゐる他國の鳥達には、惠み深くも御馳走だつたのである。彼の最後の言葉は鎭痛劑ちんつうざいであつた。私が彼を忘れるか否かゞ彼に何か關係することがあるやうに暗に意味してゐるやうだつた。而も彼はソーンフィールドのことを私の家のやうに云つてゐた――そこが私の家だつたなら!
 彼は踏段を離れなかつた。そして私はそのまゝ彼を行き過ぎさせたくなかつた。私は直ぐに彼が倫敦ロンドンに行かなかつたのかとたづねた。
「行きましたとも。多分直ぐにあなたには分るでせうよ。」
「フェアファックス夫人が、お便りの中で知らせて下さいました。」
「私が何しに行つたか書いてありましたか。」
「ございましたとも! 何しにいらしたか、誰だつて存じてをりますわ。」
「あなたはあの馬車を見なくちやなりませんよ、ジエィン、そしてそれがロチスターにぴつたり似合ふと思はないかどうか、私に話してくれなくちやなりませんよ。それからあの紫のクッションに背をもたせてボーディシャ女王のやうに見えるかどうかをも。ジエィン、私が見たところでは、もう少しよくあの人と釣り合ふやうに出來てるといゝがと思ひますね。あなたは妖精フエアリーだからきかせて下さいよ――私が美男になるやうな魅力か、媚藥びやくか、それとも何かそんな種類のものは持つてゐませんかねえ。」
「それは魔法の力も及びませんでせう。」そして私は心の中で附け足した。「美しい眼が何より大事な魅力です。その點ではあなたは本當に美しくてゐらつしやいます。それとも寧ろあなたのいかつさが美しさ以上の力を持つてゐるのでございます。」
 ロチスター氏は折々、私には理解出來ない鋭敏さで、私の口に出さぬ思ひを讀んでしまつた。このときも、彼は私の口にした素氣そつけない返答には心を留めないで、彼特有のある微笑ほゝゑみを浮べて私を見た。而もそれは滅多めつたにしか表はさないものであつた。何でもない心意を表はすには、それはよ過ぎると彼は思つてゐるやうに見えた。それは本當の感情の光であつた――彼は今、それを私の上にそゝいだのである。
「お通り、ジャネット。」と彼は踏段を跨ぐやうに場所をあけ乍ら云つた。「家へ歸つて、その疲れた可愛い旅の足を友達の家にお休めなさい。」
 私の爲すべきことはたゞ默つて彼の云ふ通りにすることであつた。この上話す必要はなかつた。私は言葉なく踏段を過ぎて、落着いて彼の傍を立去る積りだつた。衝動がかたく私を掴んだ――ある力が私を振り返らせた。思はず私は云つた――それとも私の内にある何ものかゞ私の代りに云つた。
「有難うございます、ロチスターさん、こんなに親切にして下さつて。またあなたのところに歸つて來るのが不思議に嬉しうございます。そして、何處でもあなたのゐらつしやる處は私の家で――私の唯一の家でございます。」
 私は彼が追ひつかうとしたところで追ひつけなかつただらうと思はれる位早く歩いて行つた。幼いアデェルは私を見ると半分狂氣きちがひのやうになつて喜んだ。フェアファックス夫人は平常ふだんの通りの打解けた親しみを以て私を迎へてくれた。レアは笑ひを浮べ、ソフィイでさへも私に[[#下側の右ダブル引用符、U+201E、269-下-6]bon soir”(今晩は)と嬉しさうに云つた。これは堪らなく嬉しいことであつた。仲間の人々から愛され、その出現が人々の喜びを増すといふことを感ずる程幸福なことはない。
 その夕方は私は自分の眼を未來に向けることをきつぱりと止した。耳も近々の別離と迫つてくる悲嘆とを絶えず私にげる聲に向つて閉ぢてしまつた。お茶が濟んで、フェアファックス夫人は編物あみものを取り上げ、私は彼女の傍の低い腰掛につき、アデェルは絨毯に膝をついて私の傍近く凭れかゝり、互の親しみの氣分が得も云はれぬ平和な雰圍氣となつて私共を取り圍んだとき、私は皆が直ぐに、遠く別れ/\にならないやうにと、沈默の祈りを捧げた。しかし、そのとき、私共がかうして坐つてゐるとき、ロチスター氏が前觸まへぶれもなく這入つて來た。そして私共を見ていかにもむづまじさうなその場の樣子を、樂しく見てゐる樣子であつた――そして彼はあの老婦人が、彼女の養女を再びび戻したから、すつかり快くなつてたのかと思つたと云つた。それから附け加へて彼はアデェルが“pr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te ※(グレーブアクセント付きA小文字) croquer sa petite maman Anglaise”(彼女の英國のお母さんを喰つちまはうとしてゐる)といつた――で、私は彼が結婚後にも私共二人を何處か彼の保護の下にかくして、彼の存在といふ陽の光からまつたく追放しないと彼が思つてゐるのではないかとあやふく希望を持ちさうになつた。
 私がソーンフィールド莊へ歸つて來てから、何れともつかぬ靜けさのまゝ二週間が過ぎた。主人の結婚に就いては何事も云はれず、そんなことの爲めの仕度も行はれてゐる樣子ではなかつた。殆んど毎日のやうに、私はフェアファックス夫人に、若しや何か決まつたことを、まだきかないかとたづねたが、彼女の答はいつも否といふのであつた。一度彼女は面と向つてロチスター氏に何時花嫁をおれになるお積りかと質問を出した。しかし彼は答への代りに冗談と妙な目付をしたばかりで、彼女はそれを何と解していゝやら分らなかつたと云つた。
 特に私を驚かせた一事があつた。それは、行きかへりの旅行もなく、イングラム・莊園パアクへの訪問もないことであつた。確かに隣の州のさかひにある莊園までは二十マイルは隔つてゐる。しかし熱烈な愛人にとつてはそんなこと位何であらう。ロチスター氏のやうな手練の、不撓ふぎやう乘手のりてにとつてはそれ位のことは朝の乘馬位だつたらうに。私は、その婚約が止めになつて、噂は間違ひで、あの二人の内一人か、または二人共が心を變へたのかと、懷く權利もない望みをいだきはじめた。私は若しや主人の顏が悲しくなつてゐるか、けはしくなつてゐるか見ようと、主人の顏を見つめるのが常であつたが、この頃のやうにいつも變らず曇りなく、また邪惡じやあくな感情のなかつたときがあつたことは、思ひ出せなかつた。私と私の教へ子とが彼と一緒に過すとき、若し私が元氣を失つて、どうしやうもなく憂鬱になつても、彼は快活になつた。今迄こんなに彼が私を傍に呼びよせたことは嘗てなかつたし、其處にゐるとき程私にやさしくしてくれることも嘗てなかつた。そして、あゝ、こんなに彼を深く愛したことも私は嘗てなかつたのだ。

二十三


 輝やかしい眞夏が、英吉利イギリス中に照り渡つた。その頃、毎日續いた晴れ渡つた空や、輝やかしいは、殆んど滅多に、この浪に圍まれた英吉利に惠まれたことのないものであつた。まるで伊太利の陽が、晴々とした渡り鳥の群か何かのやうに、南から一塊ひとかたまりになつてやつて來て、アルビオンのがけの上にいこつて、羽を休めてゐるやうであつた。乾草はすつかり取り入れられ、ソーンフィールドの周圍の耕地は、緑色をなして輝き、道路は、白つぽくやけてゐた。樹々は暗くなる程繁り、生籬いけがきや森は、葉が繁り、色が濃くなつて、間にある刈り取つたあとの牧場の太陽えた色と、いゝ對照をしてゐた。眞夏の夕方、半日も、ヘイ・レインで野苺を採つて疲れたアデェルは、太陽と共に、床に這入つた。私は彼女が眠に就くのを見て、そこを立ち去ると、庭の方へ出て行つた。
 丁度二十四時間の中、一番氣持のいゝ時間であつた――晝間の熱い火力は衰へた。」そしてあへぐ野にも燒けつく山頂にも露が凉しく降りた。太陽が靜かに沈んで行つた處には――晴朗な雲――莊嚴な紫色が、一所赤い寶玉と爐の火の光とに輝かされて丘の上に高く廣く、おだやかに、なほも穩やかに半天を蔽うて棚引いてゐた。東の方はまた東の方で、美しい濃青のうぜうの美しさと、たゞ一つ昇つて來た星のおとなしい寶石があつた。もう直ぐそれは月に誇るだらう。しかし月は未だ地平線の下にゐた。
 暫くの間、私は甃石ペイヴメントの上を歩いた。しかし微かに匂ふよく知つた匂ひ――葉卷のである――がどこかの窓から流れて來た。見ると書齋の窓が手の幅位開いてゐる。そこから見られてゐたかも知れないと悟つて私は果樹園の方へ立去つた。やしきの内にこゝより以上に人目を離れて樂園のやうな感じのする場所はなかつた。其處は樹が一ぱい繁つて花も盛りだつた。一方の側は高い/\塀が中庭とのへだてをなし、も一方の側は桃の並木が芝生しばふとの境をなしてゐた。下手しもての方には低い垣があつて、それがひつそりした耕地との唯一の境目であつた。そして月桂樹が兩側に並んで、突き當りは根本が腰掛で取卷かれた、巨大な七葉樹になつてゐるうね/\した道がその塀の方へ下りてゐた。此處では人に見られないで歩きまはることが出來るのであつた。こんな甘い露が落ちて、こんな靜けさがひろがり、こんな黄昏たそがれが迫つて來るとき、私は永久にこんな暗がりに住んでゐられるやうな氣がした。しかしこの廣々とした場所に今昇つて來た月が投げる光に誘はれて、かこひの中の上手かみてにある花壇や果樹床の間を歩く内、私の足は止つた――物音がしたのでもなく、何か見えたのでもなく、前知らせをするやうな匂ひの爲めである。野薔薇や青萵かはらにんじん素馨ジヤズミン石竹せきちく、薔薇などはもうずつと前から夕の香の供物を捧げてゐた。だがこの新しい匂ひは灌木のでも花のでもない、それは――私はよく知つてゐる――それはロチスター氏の葉卷である。私はあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して耳を澄ました。熟した果實で撓んでゐる樹々が見える。半マイル離れた森の中で夜鶯ナイチンゲールの囀るのが聞える。動いてゐる人影も見えず、近よつて來る跫音も聞えない。だがその匂ひは次第に濃くなつて來る。逃げなくてはならない。灌木林へ續いた小門の方へ行くとロチスター氏が這入つて來るのが見えた。私は常春藤の奧の方に避けた。彼は長いことゐはしないだらう。やがて來た方へ引返すだらう。私が凝つとしてゐたら見附かるやうなことはあるまい。
 だがさうではなかつた――夕暮は私と同じく彼にも氣持がよかつた。そしてこの昔風の園も同じやうに捨て難いものであつた。彼はすぐりの枝を持ち上げて梅の實のやうに大きくなつてゐる實を見たり、塀から熟した櫻桃さくらんぼを取つたり、匂ひを吸ひ込む爲めか、花瓣くわべんの上の露の玉を賞する爲めか花の塊の方に身を屈めたりしながら、散歩してゐた。大きな蛾が一匹私の傍をプーンと云ひながらかすめて、ロチスター氏の足下の草に止つた。彼はそれを見附けると、身を屈めて凝つと視た。
「今だ、あの方は私に背を向けてゐらつしやる。」と私は思つた。「それにあちらに氣をとられてゐらつしやる。きつと、そつと歩いたら知れないで行つて了へるだらう。」
 こいしの多い砂利じやりが軋つて私のゐるのを悟られぬやうに、私は芝生しばふの縁を歩いた。彼は私が通らなくてはならない處から一ヤードか二ヤード離れた花床の中に立つてゐた。確かにあの蛾が彼を惹きつけたのだ。「きつと首尾よく行き過せるだらう。」祕かに思つた。月はまだ高くはなかつたが、長く庭に投げた彼の影をよぎつたとき、靜かに、振向きもせずに彼が云つた――
「ジエィン、來て此奴こいつを見て御覽なさい。」
 私は音を立てはしなかつた。彼は背中に眼なんぞ附いてはゐない――彼の影が感ずるなんてことが出來ようか? 初めは、はつと驚いたが、彼の傍に近づいた。
「この翼を御覽、」と彼が云つた。「これはどつちかと云ふと西印度にしインドの蟲を思ひ出させる。英吉利ぢやあこんな大きな綺麗な蛾はあんまり見ませんよ。そら! 飛んで行く。」
 蛾は飛び去つた。私もきまり惡げに退しりぞかうとした。しかしロチスター氏は私の後を追つた。そして私共が小門まで來ると彼は云つた――
「引返すんですよ。こんないゝ晩に家の中に坐つてるなんて馬鹿ですよ。また誰だつてきつとこんなに日沒と月の出とが一緒になつてるときに、床に這入らうなんて思ふやうな人はないね。」
 私の舌が、或るときはてきぱきと返答をするのに、口實を拵へるときには情ないやうに駄目になるときが屡々ある、これは私の缺點の一つである。而もこのあやまちはいつでも私が苦しい困惑から逃れ出る爲めに機敏な言葉とか尤もらしい口實とかゞ特別に必要なと云ふやうな迫つた場合に起るのである。私はこんな時分にロチスター氏とたゞ二人暗い果樹園を歩くのはこのましくなかつた。しかし彼のところを去ると云ひ張るやうな理由も見附からなかつた。ためらひ勝ちな足取りで、心は忙がしくその場をのがれる方法を見附けようとし乍ら私は彼に從つた。しかし彼自身は非常に落着いてゐて而も眞面目な樣子なので、私は自分がそんな當惑を感じたことを恥ぢて來た。惡魔――若し實在の、そして先見の明ある惡魔があるとすれば――は、私にだけは嘘を吐いたのだ。彼の心は何も意識せず靜かであつた。
「ジエィン、」と私共が月桂樹の並木道に這入つて、低い垣と七葉樹の方へゆつくりと歩を運んだとき、彼は、すゝめるやうに私に云つた。「ソーンフィールドは夏はいゝ處ですねえ?」
「えゝ。」
「あなたはいくらかはこの家に惹きつけられてゐる筈ですね――自然の美に對する眼もあり、可成りたつぷり物に愛着を持てる性質のあなたは。」
「惹きつけられてをりますの、まつたく。」
「それからどういふ風にだか知らないけれど、あの馬鹿な子供のアデェルにもあなたは何かと心を向けてゝ下さるやうですね。それにあの單純なフェアファックス小母さんにさへも。」
「えゝ、ちがつた風にですが、私あのお二人共好きなのでございます。」
「で、あの人達に別れるのが悲しい?」
「えゝ。」
「可哀相に!」と彼は云つて、溜息ためいきをつき言葉をきつた。「それがこの世の中のことのなりゆきですよ。」と彼はやがて續けた。「心地こゝちのいゝ休み場所に落着くや否や、もう休息のときは了つたから起きて進めと呼び聲がするのです。」
「私行かなくてはなりませんでせうか。」と私はたづねた。「ソーンフィールドを出て行かなくてはならないでせうか。」
「ならないと思ひますね、ジエィン。お氣の毒だけれど、ジエィン、本當にさうしなくてはならないと思ひますね。」
 これは打撃だつた。しかし私はそれに打ちのめされたまゝではゐなかつた。
「ようございます。行けといふ御命令が下つたら用意いたしませう。」
「今下るのですよ――今晩申し渡さなくてはならないのです。」
「ではやつぱり御結婚なさるのでございますか。」
「た、し、か、に――間違ひなく。いつもの鋭さでもつて眞直ぐに云ひ當てましたね。」
「近々でございますか。」
「もう直ぐにね、私の――ではない、エアさん、あなたは思ひ出すでせう、ジエィン、始めて私が、それとも噂でゞしたか、あなたにはつきりと仄めかしましたね。私のこの古びた獨身者の頸を神聖なる係蹄わなにかけ、結婚といふ神聖な國に這入るといふ事――手つとり早く云へば、イングラム孃を私がめとるといふ事を。(あの人は一抱ひとかゝへもある程大きいが、しかしそんなことは何でもない――美しい私のブランシュのやうな素晴らしい相手は誰もさうたんとは持つてゐませんからね。)いや、私が云つてゐた通り――お聞きなさいよ、ジエィン! まだ、蛾を探して、顏をそむけてるのぢやないでせう、ねえ? あれは何でもない『家へ飛んでかへる女の靴下の飾』ですよ。私が尊敬するあなたの分別ふんべつを以て、――あなたの責任ある、從屬的な地位に似合にあひの先見、用心深さ、謙遜を以て――私がイングラム孃と結婚した場合には、あなたも小さいアデェルも一緒にとつとゝ出て行つた方がいゝと、最初に私に云つたのはあなただつたのだといふことを、私はあなたに思ひ出させたいのですよ。私はこの提議の中に傳へられた汚點しみが私の愛する者の性格を汚してゐるのは見過します。まつたくあなたが遠く去つたら、ジャネット、私は忘れようとしませう。たゞその智慧には心を留めませう。それは私がいつも爲て來たことなんですから。アデェルは學校へ行かなくてはならない。そしてあなたは、エアさん、新しい職につかなくてはならない。」
「えゝ、私は直ぐにも廣告いたします。その間、多分私は――」私はかう云はうと思つてゐた、「多分私は身をゆだねるやうな家を他に見附けるまで此處にとめていたゞくでせう。」しかし私はもう長い言葉を云ふに堪へないやうに感じて言葉を途切とぎらせた。私の聲がもうまつたく思ふやうに出なくなつたからである。
「一ヶ月ばかりのうちに私は花婿はなむこになる積りです。」と、ロチスター氏は續けた。「そしてその間に私があなたの仕事も落着場所も探してあげませう。」
「有難うございます。殘念ですけれど私には――」
「あゝ、あやまることはりませんよ、雇人やとひにんがあなたがしたやうに立派なつとめを果した場合には、都合よく出來るやうな一寸した援助をしてくれと雇主に要求してもいゝと私は思ひますね。實際のところ、私は、もう私の未來の義母をとほして似つかはしい場所をきゝましたよ。それは愛蘭土アイルランドのコンノオトにあるダイオニシウス・オゴオル・オヴ・ビタアナット・ロッヂ夫人のお孃さま達五人の教育を引受けるのです。あなたは愛蘭土アイルランドは好きだらうと思ひますがね。彼處の人間は非常に人情のある人達だと云ひますよ。」
「遠方でございますわね!」
「構はないでせう――あなたのやうな心の娘さんは航海とか遠いことなどでとやかく云やしないでせう。」
「航海ではございません。その遠いことなのです。そしてやがて海が隔てのかき――」
「何から、ジエィン?」
英吉利イギリスから、ソーンフィールドから、――そして――」
「そして?」
「あなたからです。」
 殆んど我知らずかう云ふと、意のまゝにならぬ涙が湧き出た。しかし私は聲を立てゝ泣きはしなかつた。泣くまいと誓つたのである。オゴオル夫人とビタアナット・ロッヂの思ひがつめたく私の心を打つた。そして行くべく定められた海と水沫すゐまつとの思ひが、まるで私と私が今寄添つて歩いてゐる主人との間を流れるかのやうに、なほも冷く、そして私と私がいつはりなく、やみがたく愛するものとの間に介在する海――富、階級、習慣――の記憶が、この上なくつめたくひゞいた。
「それは遠うございます。」と私はも一度云つた。
「さうですね、確かに。そしてあなたが愛蘭土アイルランドのコンノオトのビタアナット・ロッヂに行つてしまつたら、もう二度とあなたに會はないでせうね、ジエィン――それはまつたく確かなことです。私は決して愛蘭土アイルランドへは渡つて行かない。あの國に對して大して夢想することはありませんからね。私共はいゝ友達でしたね、ジエィン、さうぢやなかつた?」
「えゝ。」
「そして友達同志が別れる夕方には、殘つてゐる暫しの間を互に親しく過したいものです。さあ、星があちらの空に輝きはじめる間、半時間かそこら航海のことやお別れのことを一緒に話しませう。そこに七葉樹があります。その古い根本に腰掛がある。おいでなさい。私達はもう決してこゝに一緒に掛けるやうなことはないでせうけれど、今晩は平和に腰掛けませう。」彼は私を掛けさせて自分も掛けた。
愛蘭土アイルランドまでは遠い、ジャネット、そして私の友をそんな退屈な旅に送るのは悲しい。しかしそれ以上のことが出來ないとしたら、どうすればいゝのでせう? あなたは何か私に近いものゝやうに考へますか、ジエィン?」
 今度は何も答へをすることが出來なかつた。私の胸は一ぱいだつた。
「何故かと云ふと、」と彼は云つた。「私は時々あなたに關して奇妙な感じを抱くのです――特に、今のやうにあなたが私の傍にゐるときに。何だかかう自分の左の肋骨ろくこつの下の何處かに絃があつて、しつかりと、解けないやうにあなたのその小さな體の同じ場所にある絃に結び付けられてゐるやうなのです。そして若しあの荒れ狂ふ海峽と、二百マイルもある陸地が、私達の間に茫漠と擴がつたなら、そのつながりの絲はれてしまひさうな氣がする。さうなると私は心の中にきずついてしまひさうな堪らない氣持がする。あなたの方は――あなたは私のことなど忘れてしまふだらう。」
「そんなことがありませうか。あなたは御存知でゐらつしやいます――」その先は云へなかつた。
「ジエィン、森の中で夜鶯ナイチンゲールが啼いてるのが聞えますか。ほら!」
 聞き乍ら、私は身を顫はしてむせび泣いた。もうこの上堪へられないものを抑制することが出來なかつたのである。私は負けてしまつた。そして頭から足までするどい悲嘆にふるへた。口をけばたゞもう生れて來なければよかつた、ソーンフィールドに來なければよかつたといふ、焦れた望みを云ふばかりだつた。
「此處を出て行くのが悲しいからなの?」
 私のうちにある悲嘆と愛とに掻き立てられた激した情緒が高潮し、強い勢力を得ようともがき、卓越たくゑつし、征服し、生き、起ち、遂に支配し、さうだ、――話さずにはゐられない衝動に驅られた。
「私はソーンフィールドに別れるのが悲しいのです。私はソーンフィールドを愛します。――私は愛します。其處にゐて滿ち足りた樂しい日を送つたからなのです。少くとも暫しの間。私は踏みつけられませんでした。私は活氣くわつきを奪はれませんでした。私は下等な人達の考へに埋もれず、輝やいた、勢のある、高尚なものとの交通をいつも、除外されないでのぞくことが出來ました。私は私の尊敬するものと私のよろこぶものと、――見識のある、力強い、廣い心と近々と話しました。私はあなたを知りました、ロチスターさま。そしてどうしてもあなたから永久に引き離されなくてはならないと思ふ事が恐れと苦しみで私を惱まします。お別れしなくてはならない事は分つてをります。しかしそれは死なゝくてはならないと思ふやうなものでございます。」
「どこにその必要があるのです?」と彼は不意にたづねた。
「どこにですつて? あなたが私の前にお置きになつたのではございませんか。」
「どんな形で?」
「イングラム孃の形で――氣高けだかい、美しい人――あなたの花嫁さまです。」
「私の花嫁だつて? どんな花嫁? 私は花嫁なんぞ持つてやしない。」
「でもお持ちになるでせう。」
「さう、――その積りです!――その積りですよ!」彼は齒を喰ひしばつた。
「では私行かなくてはなりません。――あなた御自身がさう仰しやいました。」
「いけない。あなたはこゝにゐなくてはならない。私は誓ふ――その誓ひを守ります。」
「私は行かなくてはならないと申し上げます!」と私は何か激情のやうなものに興奮して云ひ返した。「あなたは、私があなたにとつて何の役にも立たなくなつても留つてゐられるとお思ひになりますか。私が自動人形だとお思ひになりますか?――感情のない機械だと? そして私のパンのかけらが唇からつかみ取られ、私の生命の水がさかづきからこぼれ出てしまふのに堪へ得るとお思ひですか。あなたは私が貧しくて、名もなく、美もなく、小さい故に魂も心もないとお思ひになるのですか。あなたは、間違つてゐらつしやる――私はあなたと同じやうに魂を持つてをります――同じやうに心を持つてゐます! 若し神さまが私にも少し美しさと澤山の財産を授けて下さつたのだつたら、私はあなたにも今私があなたにお別れするのがつらい程に私に別れるのがつらくして差上げるのですけれど。私はもう習慣とか習俗とか、また、この肉體の仲介をとほしてあなたにお話してはゐません――あなたの心に話しかけるのは私の心なのです。二人共墓穴はかあなをくゞつて平等に――ありのまゝに神さまの御前に立つたやうに!」
「ありのまゝに!」とロチスター氏は繰り返した――「だから、」と彼は私を腕に抱き、胸に引きよせ、彼の唇を私の唇につけながら云ひ足した。「だから、ジエィン!」
「えゝ、だから、」と私は答へた。「でもさうではない。あなたは結婚なさつた方でなくも、なさつたも同然な方です。そしてあなたにをとつた人――あなたが同情を持つてゐない人――あなたが心から愛してはゐらつしやらない人と結婚なさるのです。私はあなたがその人を蔑むのを見もしきゝもしたのです。私はそんな結婚を輕蔑けいべつします。だから私はあなたより上です――行かせて下さい!」
「どこに、ジエィン。愛蘭土アイルランドに?」
「えゝ――愛蘭土へ。私は思つてることを申しました。もう何處へでも行けます。」
「ジエィン、落着きなさい。そんなにまるで絶望して羽搏きをする狂氣きちがひの鳥のやうにもがいてはいけない。」
「私、鳥ではありません。網にかけられもしません。私は自由意志をもつた自由な人間です。それが今あなたを去らうとしてゐるのです。」
 もうひともがきして私は自由になつた。そして私は眞直まつすぐに彼の前に突立つた。
「ではあなたの意志一つであなたの運命もきまります。」と彼は云つた。「私の手も、心も、所有物全部の分前わけまへもあなたに捧げます。」
「あなたはおどけてゐらつしやる。私はそれを嘲笑ふだけです。」
「私は、あなたに私と共に生涯を過すやうにと願ふのです――第二の私となり、この世での最上の道づれとなるやうに。」
「その運命ならばもうあなたはおえらびになつたのです。それに從つてゐらつしやらなくてはいけません。」
「ジエィン、一寸の間落着いて下さい――あなたは興奮しすぎてゐる。私も落着きますから。」
 風が一吹さつと月桂樹の並木道を拂つて、七葉樹の枝の間にふるへた。遠く――遠く――無限の彼方へ――さまよひ消えて行つた。今はたゞ夜鶯ナイチンゲールの歌ばかりである。それをきゝ乍らまた私は泣いた。ロチスター氏は優しく眞面目まじめに私を見つめながら默して坐つてゐた。だまつたまゝでしばらくの時が經つた。とう/\彼は口を切つた――
「私の傍へいらつしやい、ジエィン、お互ひに譯を話して理解し合ひませう。」
「私はもう二度とあなたのお傍へは參りません。私はもう引き離されて元にかへることは出來ません。」
「けれどもジエィン、私はあなたを私の妻として呼ぶのですよ。私が結婚しようと思つてゐるのはあなたばかりです。」
 私は默つてゐた。彼は私をなぶつてゐると思つた。
「おいでなさい、ジエィン、――こゝにおいでなさい。」
「我々の間にはあなたの花嫁さまがゐらつしやいますわ。」
 彼は立上つて一跨ぎで私の傍に來た。
「私の花嫁はこゝにゐるのです。」と再び私を引よせながら彼は云つた。「私と同等なもの、私と似てゐるものがこゝにゐるからです。ジエィン、私と結婚してくれますか?」
 未だ私は返事をしなかつた。そしてなほも彼の腕から逃れようともがいた。まだ私は疑つてゐたのである。
「私を疑ふの、ジエィン?」
心底しんそこから。」
「私を信じないの?」
「ちよつとも。」
「あなたの眼に私は嘘つきに見えますか?」と彼は熱した語氣ごきたづねた。「小さな疑ひ屋さん、あなたに得心させますよ。私が何んな愛をイングラム孃に抱いてゐるのです? 何もありはしない――それはあなたも知つてゐる。あの人がどんな愛を私に持つてゐるのです? 何もありはしない――私が證據だてた通りに。私は噂を立てゝ私の財産があの人の想像してる三分の一もないといふことをあの人の耳に入れて、その後で私は結果を見に行つたのです。彼女からもあの人のお母さまからも受けたのは冷淡なもてなしばかりでした。私は、イングラム孃と結婚しようと――思ひもしないし――出來もしないのです。あなたを――不思議な――殆んどこの世のものとは思へない!――私は自分の身體のやうに愛します。あなたに――貧しい、名もない、小さな、目立たぬそのあなたに――私を良人をつととして受けて下さるやうに懇願するのです。」
「何ですつて、私に?」と私は彼の熱心さに――特に彼の粗野そやな容子に――彼の眞實さを信じ始めながら、叫んだ。「世界中にあなたより他には――若しあなたが私の友なら――友もない私に、あなたが下さるより外には一シルリングだつてない私に?」
「あなたにです、ジエィン。私はあなたを私のものにしなくてはならない――すつかり私のものに。私のものになつてくれますか? はいと云つて下さい。今直ぐに。」
「ロチスターさま、あなたのお顏を見せて下さい。月の光の方を向いて下さい。」
「何故?」
「あなたのお顏色を讀みたいのです――向いて下さい!」
「さあ! 皺くちやになつて書きなぐつた頁みたいに、讀み易くないでせうよ。お讀みなさい。たゞ急いで。苦しいから。」
 彼の顏はひどく動搖して、非常に熱してゐた。そして顏は苦しげに動き、眼には常ならぬ輝きがあつた。
「あゝ、ジエィン、あなたは私を苦しめる!」と彼は叫んだ。「その探るやうな、而も信ずべき寛大な眼であなたは私を苦しめる!」
「どうしてそんなことがありませう? あなたが眞實で、あなたの仰しやることが本當でしたら私のあなたへの氣持はたゞ感謝と熱心ばかりです、――それが苦しめる筈はありません。」
「感謝!」と彼は叫んだ。そしてくるほしく云ひ添へた――「ジエィン、承知して下さい、直ぐに。呼んで下さい、エドワアド――私の名を呼んで――エドワアド、私はあなたと結婚しますと。」
「あなたは眞面目まじめでゐらつしやいますか? 本當に私を愛してゐらつしやるのですか? 本氣ほんきで私に妻になつて欲しいと思つてゐらつしやるのですか?」
「さうです。そして若しあなたを滿足させるやうなちかひがるなら、私は誓ひます。」
「では、私はあなたのところへ參ります。」
「エドワアド、と――私の妻!」
「愛するエドワアド!」
「私の傍へ――私の傍へ今はすつかり。」と彼は低い力強い調子で彼の頬を私の頬につけて私の耳に云つた。「私を幸福にして下さい――私はあなたをさうします。」
「神よお許し下さい!」とやがて彼は附け加へた。「人は私に干渉しないやうに。私はこの人を得た。そして守つて行くのだ。」
「誰も干渉する人はをりません、私には妨げるやうな親類はありません。」
「無い――それは何よりのことです。」と彼は云つた。若し私がこんなに彼を愛してゐないのだつたら、有頂天うちやうてんになつた彼の傍に坐つて、彼の語調や樣子を、野蠻やばんだと思つたかもしれない。しかし別離の夢魔むまから呼び起され――ちぎりの樂園に呼び込まれ――私は、たゞ飮めとなみ/\注がれた祝福のみに、心を奪はれてゐた。繰り返し/\彼は「うれしい、ジエィン?」と云つた。そして、繰り返し/\私は「えゝ、」と答へた。その後で、彼はつぶやいた。「つぐなひになるのだ――つぐなひになるのだ。私はこの人が友もなく、寒さうに、慰めもないでゐるのを見たではないか。私はこの人を[#「この人を」は底本では「こ胸の人を」]守り、抱き、慰めないといふことがあらうか。私の胸の中には[#「私の胸の中には」は底本では「私の中には」]、愛がないだらうか。私の決心には眞實がないだらうか。神さまのさばきの座ではそれがつぐなつてくれるのだ。私に造主つくりぬしはきつと私の爲ることを許して下さるだらう。世の中の判斷には――私は、それに係らない。人々に意見には――私はそれを蔑視べつしする。」
 だが一體どうした晩だらう。月はまだ沈まないのに私共はすつかり闇の中だつた。私はこんな近くにゐても殆んど私の主人の顏が見えなかつた。それに何が七葉樹の木を苦しめるのだらう? 樹は身をもがいて唸つてゐるのであつた。同時に風が月桂樹の並木道に轟々と吹き起つて私共の頭上を拂つて行つた。
「這入らなくては、」とロチスター氏は云つた。「お天氣が變つた。朝までゞもあなたと一緒に掛けてゐられたのだけど、ジエィン。」
「そして私もあなたと一緒にをられたんですのに。」と私は思つた。多分さう私は云ふところだつた。しかし青ざめたピカ/\光る火花ひばなが、私が眺めてゐた雲の中からほとばしると、メリ/\、ガラ/\といふ音と直ぐ傍で鳴り渡る轟きが聞えた。そして私はたゞもうくら/\となつた眼をロチスター氏の肩に押しかくすことしか考へなかつた。
 たゝきつけるやうに雨が降つて來た。彼は私を急がせて歩道を上り、庭をぬけて家へ這入つた。しかししきゐを跨がないうちに私共はずぶ濡れになつてしまつた。彼が廣間で私の肩掛をとり、ゆるんだ髮から水を振り落してゐるところへ、フェアファックス夫人が自分の部屋から出て來た。最初私は彼女に氣が附かなかつた。またロチスター氏も同樣だつた。洋燈ランプともされた。時計は十二時を打たうとしてゐた。「早く濡れたものをお脱ぎなさい。」と彼は云つた。「それから行く前に、おやすみ――おやすみなさい、ねえ!」
 繰り返し/\彼は私に接吻キツスした。彼の腕から離れるとき、私が目をあげると、未亡人は眞青まつさをになつて、眞面目な顏をして、呆氣あつけにとられて突立つてゐた。
 私はたゞ彼女に微笑ほゝゑみかけたばかりで階段に走つた。
「説明はまたのときでいゝだらう。」と私は思つた。けれども未だ居間に着いたときには、彼女が見たものをかりにも誤解しはしないかと思つて心苦こゝろぐるしく感じた。しかし直ぐに喜びはあらゆる他の感情を消してしまつた。そして風がどんなに吹きすさんでも、雷が間近にゴロ/\と鳴り渡つても、稻妻いなづまが強くつゞけざまに光つても、二時間つゞいた嵐の間中瀑布たきのやうに雨が降つても、私は些の恐怖も威嚇も感じなかつた。その間、ロチスター氏は三度まで私の入口まで來て、私が安全で落着いてるかとたづねた。それが私には慰めであつた。あらゆる物に對する力だつた。
 朝、私が、まだ床から出ないうちに幼いアデェルが駈け込んで來て、果樹園の下手しもてにある大きな七葉樹が昨夜の雷にうたれて、半ばはけてとんでしまつたことを話してくれた。

二十四


 起きて着物を着乍ら、私は、過ぎしことを考へて、夢ではなかつたかと思つた。私は、もう一度ロチスター氏に會つて、彼が愛とちかひの言葉を繰り返すまでは、それが本當か信じられないのであつた。
 髮を結ひ乍ら鏡の中の自分の顏を見た私は、もうそれが美しくないとは思はなかつた。顏には希望があり、色には活々いき/\とした力があつた。そして眼はまるで成就の源泉を見て、きら/\したさゞなみから輝きを借りたかのやうに見えた。私は屡々自分の主人と會ひたくなかつた。彼が私を見ていゝ氣持になれないのを恐れたからである。しかし今はもう彼に向つて顏をあげても、その表情が彼の愛情をましはしない確信があつた。私は質素な、しかし清潔な輕い夏の服を抽斗ひきだしから取り出して着た。こんなに私に似合にあふ衣裳はないやうに思はれた。こんなに嬉しい氣持で着たのは嘗てなかつたからである。
 廣間に駈け下りて、輝かしい六月の朝が昨夜の嵐の直ぐ後につゞいてゐるのを見ても、開け放した硝子戸ガラスどを通して新鮮なかぐはしい微風を呼吸しても、私は驚かなかつた。私がこんなに幸福なときには自然も喜ばしい筈である。乞食の女とその子供――二人とも蒼ざめて褓襤ぼろを着てゐたが――歩道を上つて來るところだつた。私は駈け下りてお金入れにありつたけのお金を――三シリングか四志ばかりであつたがやつてしまつた。良くも惡くも彼等は私のおめでたのお相伴しやうばんをしなくてはならない。白嘴鴉みやまがらすはカア/\と啼き、樂しげな鳥達は歌つた。しかし私自身の喜びの心程樂しげで音樂的なものは何もないのであつた。
 フェアファックス夫人が悲しげな顏をして、窓から覗いて重々しく、「エアさん、朝のお食事にいらつしやいませんか。」と云つたのが私を驚かした。食事の間中、彼女はだまつてゐてつめたかつた。しかし私はそのときには彼女の迷ひを解くことが出來なかつた。私は主人が説明するのを待たなくてはならないのだつた。そして彼女も同樣である。私は食べるものを食べると、やがて二階へ急いだ。書齋から出ようとするアデェルに出逢つた。
「何處へいらつしやるの? お勉強の時間ですよ。」
「ロチスターさんが子供部屋へ行けつて仰しやるの。」
「何處にゐらつしやるの?」
「其處よ。」と彼女が出て來た部屋を指した。中に這入ると彼が立つてゐた。
「こつちへ來てお早うと云つて下さい。」と彼は云つた。私は喜ばしげに近づいた。もう今は冷淡な言葉ではなく、または握手でさへなく、受けたのは抱擁と接吻であつた。それが自然に見えた。彼にこんなに愛され、こんなに愛情を受けるのは樂しかつた。
「ジエィン、あなたは花のやうで、愛嬌があつて綺麗だ、」と彼は云つた――「本當に今朝は綺麗だ。これが私の青白い小さな妖女フエアリイだらうか? これが私の芥子からし種子たねだらうか? 頬にゑくぼのある、薔薇色の唇をした、襦子のやうなつや/\した淡褐色たんかつしよくの髮と、輝やいた淡褐色の眼をしたこの小さな輝やかしい顏のお孃さまが?」(讀者よ、私は緑色の眼だつた。しかしあなた方はこの間違ひを許さなくてはいけない。思ふに彼にとつてはそれは新しい色をしてゐたのであらう。)
「ジエィン・エアですわ。」
「もうすぐに、ジエィン・ロチスターとなるべき。」と彼は云ひ添へた。「四週間の内にね、ジャネット。それより一日も延びはしない。分りましたか?」
 私はきいてはゐたが、はつきり頭に入つて來なかつた。私はくら/\となつた。その告知こくちが私に傳へた感じは喜びと呼ばれるものよりは、何かもつと強烈なもの――何か苛責かしやくするやうな、氣の遠くなるやうなものであつた。それは殆んど恐怖のやうだつたと、私は思ふ。
「赤くなつて、そして今度は青くなつて、ジエィン、どうしたのです?」
「新しい名を仰しやつたからですの――ジエィン・ロチスターつて。ほんとに變な氣がします。」
「さうです、ミシス・ロチスターです。」と、彼は云つた。「ロチスター若夫人――フェアファックス・ロチスターの花嫁。」
「そんなことはあり得ません。ありさうにも思へません。人間はこの世では完全な幸福を樂しむことは決してありません。私が他の人達とちがつた運命に生れることなど決してありません。そんな運命が私に來ると想像するのはお伽噺とぎばなしです――白晝夢ですわ。」
「それが私には可能なんですよ、そして實現してみせます。今日から始めるのです。今朝、私は倫敦ロンドンの銀行に手紙を出して、預けてある或る寶石――ソーンフィールドの婦人の相續動産を送つて呉れるやうにと云つてやりました。一兩日の中には、あなたの手に入るやうにと思つてゐます。何故なら、若し結婚するのなら貴族の令孃にもふさはしいやうにあらゆる特權、あらゆる慇懃いんぎんがあなたのものになるやうにしてあげたいからですよ。」
「まあ!――寶石のことなど心配なさらないで下さい! そんなことを聞くのは私いやですから。ジエィン・エアに寶石は不自然に變てこに聞えます。私は寧ろそんなものは無い方がいゝのです。」
「私が自分であなたのくび金剛石ダイヤモンドの頸飾をかけてあげますよ。それから額には環を。似合ひますよ――少くともこの額は自然が立派に貴族的につくつてゐますからね。ジエィン。それからこの美しい手首には腕環をまき、この妖女フエアリイのやうな指には指環を篏めてあげよう。」
「いえ、いえ! もつと別のことを考へて下さい。もつと違つたことを話して下さい。もつと違つた話し方で。私が美しい人かなんぞのやうに仰しやらないで下さい。私はあなたの目立たない、クェイカア教徒のやうな家庭教師でございます。」
「私の眼にはあなたは美しい人です。私の心の望みどほりの美しい人です――きやしやで俗離ぞくばなれがして。」
「その意味は貧弱で取る價値も無いといふのでございませう。あなたは夢を描いてゐらつしやるのです――でなければ嘲つてゐらつしやるのです。お願ひですから、皮肉にならないで下さい。」
「私は世間にも、あなたの美しいことを知らせてやりますよ。」と彼は續けた。だが、私は彼の口にする調子に本當に不安になつた。彼が自分自身をあざむいてゐるか、または私をあざむかうとしてゐるやうに感じたのである。「私は私のジエィンに繻子しゅすとレースを着せて、髮には薔薇を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してやりますよ、それから私の一番好きな頭には素晴らしい薄絹を被せるのです。」
「そしたら、あなたには、私が、分らなくなりますわ。もう、私はあなたのジエィン・エアぢやなくつて、道化だうけの着物を着たお猿か――借物の羽根をつけた、樫鳥かしどりになつてしまひます。ロチスターさま、私が女官のやうな服を着ると、あなたには、舞臺の衣裳で飾られたやうに見えるでせう。私は、あなたのことを、美しいなどゝは申しません。どんなにかあなたのことをお愛し申してゐるので、あなたに、お世辭せじなど云へませんわ。私にお世辭は、お止めになつて下さい。」
 しかし彼は私がどうぞ止してと頼むのに耳もかさず、思つてゐることをどん/\續けて云ふのであつた。「今日早速あなたを馬車に乘せてミルコオトへ行きませう。そしてあなたは何か自分の着物を選ばなくてはなりませんよ。私達は四週間以内に結婚するのだと云ひましたね。式はあの下の方にある教會で靜かに擧げませう。それから直ぐにあなたをまちへ送ります。そこに暫く滯在した後、私は大事な人を連れて太陽に近い土地へ行きます。佛蘭西の葡萄園に、伊太利の平原に。それから、昔の話や近代の歴史の中で名高いものは何でも見せてあげます。また都會の生活も味はせてあげませう。また他の人達と比較することによつて自分の價値を知らせてもあげませう。」
「私が旅行しますの?――そしてあなたと御一緒に?」
「あなたは巴里にも、羅馬にも、ナポリにも――フロレンスにも、ヴェニスにも、ヴィエンナにも滯在するのです。私が流浪るらうした土地には悉くあなたも行くのです。私の馬蹄の印されたところには何處にもあなたの輕やかな足跡が同じやうにいんされるのです。十年前私は半ば狂氣きちがひのやうに嫌惡と憎惡と怒りを抱いてヨーロッパを駈けめぐつたのです。今度は私の慰め手であるほんとの天使にいやされ淨められて、再びそこを訪ねるのです。」
 かう彼が云つたとき、私は笑ひ出してしまつた。「私天使ではありませんわ。」と私は云ひ張つた。「また死ぬまでなりもしません。私は私ですわ。ロチスターさま、あなたはそんな天上のものを私に期待なさつてもたしかめてもいけません――ちつとも豫期しはしないのですが、私があなたからそんなことが得られないと同じやうに、あなたも私から得ることはございませんもの。」
「あなたは私に何を豫期するのです?」
「ほんの暫くの間あなたは今のやうでゐらつしやるでせう――それこそほんの一寸の間、やがてあなたは冷淡におなりになる。それから氣が變り易くおなりになる。その次には氣難かしくなつて私はあなたをお喜ばせしようと骨を折らなくてはならなくなるでせう。でもいゝ工合に私に慣れて下さつたら、多分また私がお氣に召すやうになるでせう――お愛しになるとは申しません、お氣に召すのです。多分あなたの愛は六ヶ月間か、もつと短い間しか燃え立たないでせう。私ある人々の書いた本の中で良人をつとの熱心さのつゞく最大限度だとしてその長さが出てゐたのを見たことがありましてよ。でも、結局友達として、伴侶はんりよとして、私の旦那さまにまつたくお氣に召さぬやうにはどうしてもなりたくないと思ひます。」
「お氣に召さぬ! そしてまたあなたが好きになる! 私は何度でもあなたが好きになるでせうよ。私はあなたのことをたゞ好きだと云ふばかりでなく、愛してゐるといふことをあなたに云はせる積りですよ――眞實をもつて、熱をもつて、心から。」
「でもうつではゐらつしやらないの?」
「私は容貌みめかたちばかりで喜ばせる女達に對しては、私はまつたく恐しい人間ですよ、若しそいつ達が魂も心情もないとわかつたときには――おべつかをつかつたり、くだらないことをしたり、それに多分鈍感どんかん下品げひん氣難きむづかしい樣子を私に見せでもしたらね。だが[#「だが」は底本では「だか」]、清らかな瞳や雄辯な舌に對しては、火のやうな魂や――從ふとも折れぬ、從順であると同時に鞏固きやうこな、素直であると同時に堅實な――性格に對しては、私は何時でもやさしく眞實なのです。」
「そんな性格の人につたことがおありになりまして? そんな方を愛したことがおありですの?」
「今私はそんな人を愛してゐるのです。」
「いえ、私の前に――本當に、若し私があなたの難かしい標準に幾らかでも達してゐるのでしたら?」
「あなた程の人にはつたことはないのです。ジエィン、あなたは私を喜ばせ、私を支配するのです。――あなたは服從してゐるやうに見える。そして私はそのあなたの傳へる從順な氣持が好きなんです。そのやはらかい絹の絲束いとたばを指に捲きつけてゐると、其處から顫へるやうな感じが腕を傳つて私の心に來るのです。私は力に左右される――征服される。そしてその力は得も云はれずこゝろよく、私の受けた征服は自分の得るどんな勝利にもまして魅力があるのです。何故笑ふの、ジエィン? 一體その説明出來ない、不思議な顏付の變りやうはどうしたつて云ふのです?」
「ね、私考へてゐたんですの、(こんなことを考へてゝ御免なさい、でも我知らずなのです。)私、ハアキュリイズやサムソンが彼等の好きだつた美女と一緒にゐるのを考へてゐましたの――」
「何だつて、この小さな妖精エルフイシュ――」
「駄目! 今のおはなしはあんまりかしこくはありませんでしたわ――あの人達があまり賢く振舞はなかつたと同じに。でも、あの人達も結婚したらきつと良人をつととしてのいかめしさを求婚者のやさしさと引きかへに取戻したことでせう。そしてあなたもきつとさうだらうと思ひますわ。若し私が、おゆるしになつては御都合の惡い、お嫌やなことをお願ひしたら、今から一年の内にどんな御返事をなさるか知らと思ひましてよ。」
「今、何か欲しいものを云つて下さいよ、ジャネット――一寸したものでも。おねだりをして下さい――」
「本當に私いたします。もうちやんとお願ひすることはありますの。」
「云つて御覽! だがそんな顏をして見上げて笑つてゐると、その何かをも知らないで、私は承知したと約束してしまふ。それぢやあ馬鹿にされたことになつてしまふ。」
「いゝえ、ちつとも。私たゞこれだけをお願ひするのです、あの寶石を取り寄せないで下さい、それから薔薇の花環を頭に捲かないで下さいといふことだけ。それよりも其處に持つてゐらつしやる無地むぢのハンケチのまはりに黄金きんのレースで縁取ふちどりをなすつた方がいゝかも知れませんわ。」
「『純金に鍍金めつき』でもした方がいゝだらう。分りました、あなたの頼みは承知しました、――しばらくね。銀行へ云つてやつたことは取消します。だが未だ何も欲しいものを云つてはゐませんね。あなたは贈物おくりものの取消を頼んだのだから。も一度云つて御覽。」
「え、ではどうぞお願ひですから、私の好奇心を滿足させて下さいまし。それは一つの事柄に甚く刺※[#「卓+戈」、U+39B8、287-上-7]されてゐるのです。」
 彼ははつとした樣子だつた。「何? 何?」といそがはしく云つた。
好奇心かうきしんとは危險な願ひだ。あらゆる願ひをかなへてあげると誓つておかなくてよかつた――」
「だつてこんなことに應ずるのに、危險なんぞある筈はございませんわ。」
「云つて御覽、ジエィン。だが私は、たゞ祕密をきゝ出すなんてことよりは私の領地の半分がしいと云つてくれた方が有難いのだが。」
「ねえ、アハシュアラスの王さま! あなたの領地を半分も私には何になるでせう。あなたはいゝ投資の土地をさがしてる猶太人ユダヤじんだと私のことをお思ひですか。私そんなものより寧ろあなたのありつたけの信頼を得たいと思ひます。心まで私に打ち開いて下さるのでしたら、私を信頼しないなんてことはおありにならないでせう?」
「あなたはありつたけの信頼を、充分得ますよ、ジエィン。しかし、神かけて、役にも立たぬ重荷おもには求めないで下さい。毒を欲しがらないで――私のところで、イヴその儘の女にならないで下さい――」
「何故いけませんの? たつた今あなたは征服されるのがどんなにかこのましく、無理に説得されるのがどんなにか嬉しいことだと話してゐらしたでせう。私あなたが自認なすつたのを利用した方がいゝとお思ひになりません? 早速着手して、なだめたりねだつたり、――必要とあらば泣聲を出したりすねたりしてもようございますわ――たゞ私の力の力試ちからだめしの爲めに。」
「そんな力試しをやるならやつて御覽なさい。侵略したり増長して御覽、それで萬事終れりだ。」
「さうですか? あなたは忽ちにして降參なさいますわ。何て難かしいお顏をなさるのでせう! あなたの眉と云つたらまるで私の指位に太くひそんで、ひたひはいつぞや私が大した詩の中でかう云つてあるのを見たことのある『累々たる層雲がなせる中空の雷の宿り』みたいですわ。それはきつとあなたが御機嫌を損ねてゐらつしやるお顏ね。」
「若しそれがあなたの機嫌を損じた顏だつたら、私は基督教徒としてそんな地精ちせいだの火精だのと連れ添ふ氣なんぞ棄てゝしまふ。だが此奴め、何をお前はきかなくてはならないのだ。――云つちまへ!」
「さあ、もうあなたは禮儀正しくはなくなりました。でも私は粗野そやな方が、おべつかなんぞよりはよつぽど好きですわ。私のおたづねしなくてはならないことはこれなんです――どうしてあなたはわざ/\骨を折つて、あなたがイングラム孃と結婚なさるお積りだと私に信じさせるやうになさつたのですか?」
「それだけなの? 有難い、それより惡いことでなくてよかつた。」そしてやつと彼はひそめた眉を開いて、危險の過ぎたのを見て、ほつとしたかのやうに微笑ほゝゑみ乍ら私を見下した。「白状してあげませうね。」と彼は言葉をつゞけた。
「ジエィン、あなたを少しは怒らせるだらうけれど――そしてあなたが怒つた時には、どんなに恐しい火の精になり得るかも知つてゐるけれど。昨夜あなたが運命に反抗し、あなたの地位が私と同等だと云ひ切つたとき、冷い月の光を浴びてあなたは火のやうになつた。ところでジャネット、あの申し出を私にさせたのはあなただつたんですよ。」
「勿論私ですわ。だけど、ね、若し何だつたら、大事なことを――イングラム孃のことを。」
「うん、私はイングラム孃に求婚するふりをしたんですよ。何故かと云ふと、私があなたに夢中になつてるやうにあなたにもさうさせたかつたからです。そこで、私はその結果を促進させるには、嫉妬と同盟するのが私に出來る一番いゝ方法だと、考へたわけなのです。」
「素敵ですこと! だけどあなたは小さい――私の小指の先より大きくないわ。そんな風にことをなさるのは本當に恥しい堪らない不名譽なことですわ。あなたはイングラム孃の感情のことを何もお考へにならなかつたんですの?」
「あの人の感情は一つのこと――誇りに集中されてゐるのです。それには謙遜が必要です。嫉妬やいた、ジエィン?」
「御心配なく、ロチスターさん――そんなことをお知りになつたつてちつとも面白いことではありませんわ。もう一度本當に仰しやつて頂戴。あなたがいゝ加減に飜弄なすつたことがイングラム孃を損ふことはないとお思ひになりまして? あの方は、捨てられそむかれたとお思ひにはならないでせうか。」
「大丈夫! それどころか、あの人の方が私を捨てたのだと云つたら。私の家資分散の話はあの人の熱を一瞬のうちにました、いや、消しちまつたと云つた方がいゝ位ですよ。」
「あなたは穿鑿せんさく好きなたくらみのある方ですのね、ロチスターさま。私、あなたの道義がある點で常規を逸してゐるのが心配です。」
「私の道義は訓練されてないのですよ、ジエィン。注意がとゞかないので、少々ねぢけて成長したのかも知れませんね。」
「もう一度、眞面目に。誰か他の人に私がこの間感じたやうなつらい苦痛を受けさせることなしで――私は惠まれた大きな幸ひを樂しんでもいゝでせうか?」
「いゝとも、私のいゝ子。私に對してあなたと同じ位な清らかな愛を持つてる人は世界中、他にはありませんよ。私はその喜ばしい熱情を魂の中にしまつておくのです、ジエィン、あなたの愛に信頼するのです。」
 私は肩に置かれた手に唇を寄せた。私は強く彼を愛してゐた――さうだと自分でも信じ難い程――口にも云ひ盡くせぬ程。
「もつと何か望みをお云ひ。」とやがて彼は云つた。「ねだられて、上げるのが私は嬉しいのだ。」
 今度も云ふことは出來てゐた。「フェアファックス夫人の方へもお心をお向けになつて下さいまし。あの方は昨晩さくばん私が廣間であなたと御一緒にゐるのを見て吃驚りなすつたのです。今度私があの方に會ふ前に、何か辯解しておいて下さいましね。私、あんないゝ方に誤解されるのはつらいのですもの。」
「部屋へ行つて帽子を被つていらつしやい。」と彼は答へた。「と云ふのは、今朝、私と一緒に、ミルコオトへ行くつてことですよ。そして、あなたが外出ぐわいしゆつの用意をしてる間に、私はあのお婆さんに得心が行くやうに云つときますからね。ねえジャネット、あの人はあなたが世間と戀とを取かへて、世間なぞ無くなつてもいゝと思つてると考へたのかしら?」
「きつとあの方は私が自分の身分も、あなたの身分も忘れてると思つてゐらしたでせう。」
「身分! 身分!――あなたの身分は私の胸の中に、そして今も、この後も、あなたを侮辱する奴等の首根くびねつこにあるのですよ。――行つてらつしやい。」
 私は直ぐに着換きがへた。そしてロチスター氏がフェアファックス夫人の部屋を出るのをきいていそいでそこへ下りて行つた。老婦人は聖書の朝讀む部分――その日の日課を讀んでゐたのだつた。聖書が前にひろげたまゝ置いてあつて、眼鏡めがねがその上にあつた。ロチスター氏の言ひ渡しによつて、中絶された彼女のお勤めは今は忘られてゐる樣子だつた。向ひ側の白壁を見つめた彼女の眼は、異常な報らせにかき亂されたおだやかな心の驚きを表はしてゐた。私を見ると彼女は身を起した。彼女はひて微笑ほゝゑんで、二言三言お祝ひの言葉を口にした。しかし微笑は消えて、言葉は終らぬ内に途絶えて了つた。彼女は眼鏡めがねを取上げ、聖書を閉ぢて、椅子を卓子テエブルから後の方へ押しやつた。
「私たゞもう吃驚りしてゐます、」と彼女は云ひはじめた。
「あなたに何と申し上げていゝやらわからないのです、エアさん。私はまさか夢を見てはゐなかつたのでせうねえ。時々獨りで坐つてゐると、半分眠つて今迄起つたこともないものを見るのですけれど。一度ならず、私がまどろんでゐると、十五年前にくなつた私の良人をつとが這入つてきて私の傍に坐つてゐるやうな氣がするのです。そればかりか、あの人がいつも呼んでゐたやうにアリスと私の名を呼ぶのをきいたやうな氣さへするのです。ところで、ロチスターさんが、あなたに結婚の申込をなさつたといふのは實際、本當なのですか。私を笑はないで下さいな。だつてあの方が五分ばかり前こゝにゐらして、一ヶ月以内にあなたがあの方の奧さまにおなりになると仰しやつたに違ひないらしいのですもの。」
「私にもその通りのことを仰しやいましたの。」
「さうですかねえ! あなたはあの方を信じてゐらつしやいますか? あなたは承知なさいましたか?」
「えゝ。」
 彼女は困惑したやうに、私を見つめた。
「どうしても考へ得られないことでしたよ。あの方は自負心じふしんの強い方で――ロチスター家の人達は皆さうでしたが――少くともあの方のお父さまはお金がお好きでした。あの方も矢張りいつでも用心深い方だと云はれてをりました。あの方はあなたと結婚なさるお積りでせうか?」
「さう仰しやつたのです。」
 彼女は私の全身を見渡した。だが、其處には謎を解く十分な魔力を發見しなかつたと云ふことを、私は彼女の眼のうちに讀んだ。
「まあ、そんなことが!」と彼女は續けた。「でも、あなたがさう仰しやるからには、本當だといふことは疑ひありませんわねえ。何と申し上げたらよいでせう。私には云へませんわ――實際、私はわかりません。地位や財産の釣合つりあひといふことがそんな場合には屡々心しなくてはならないことなのです。それにまたあなた方の御年齡は二十もちがつてゐらつしやるのですからね。あの方は殆んどあなたのお父さまにもなれる位ですよ。」
「いゝえ、決して、フェアファックス夫人!」と私はいら/\して叫んだ。「あの方はちつとも私のお父さまらしくはございません! 私共を一緒にして見た人は誰だつてかりにもさうは想像いたしません。ロチスターさまはまるで二十五位の方みたいにお若く見え、またお若いのです。」
「あの方があなたと結婚しようとなさるのは本當に愛してゐらつしやるからですか?」と彼女はたづねた。
 私は涙が眼ににじむ程彼女のつめたさと疑ひ深さにきずつけられた。
「あなたを悲しませて、お氣の毒ですけれど、」と未亡人は言葉を續けた。「けれどもあなたはまだお若くて、殿方とのがたにまつたくお近づきがないのですからね。御自分で用心なさるやうにと思ふのですよ。昔のことわざに『輝くものゝ總てが黄金わうごんにあらず』と云ふのがありますが、今度の場合も何かあなたや私が期待してゐるとは異ふやうなものがありはしないかと心配するのです。」
「何故ですか――私は人間ではないのですか? ロチスターさまが私に眞實の愛情をお持ちになるのは不可能なことですか?」
「いゝえ、あなたは大變結構なんですよ、それに近來大變よくおなりです。そして、憚りなく云へば、ロチスターさまはあなたがお氣に召していらつしやるのですよ。あなたがあの方のお氣に入りだといふことは私はいつも氣が附いてゐました。時々あの方が目立つ程御贔屓ごひいきなさるのを見て、あなたの爲めに私は少し不安になることもあつて、あなたが御自分で用心なさるようにと思つたこともありました。けれどあやまちがあるなんて、ほのめかしたくなかつたのでねえ。そんな考へが、あなたを驚かしたり、氣持惡くおさせ申すつてことは、私にも分つてゐましたし、それにあなたは思慮もおありだし、大變つゝしみ深くて、感じの早い方だから、大丈夫御自分で身を守つてゐらつしやるようにと望んでゐたのです。昨夜家中探しても、あなたも旦那さまもゐらつしやらなかつたときには、そして十二時になつてあの方と一緒にあなたが這入つていらしたときには、どんなに私が心をいためたかお話し出來ない位ですよ。」
「いえ、もうそのことは御心配なく、」と私はもどかしく遮つた。「何も間違ひなんぞなかつたといふだけで十分です。」
「お終ひまで間違ひのないようにと思ひます。」と彼女は云つた。「けれども、私の云ふことをよくお聞きになつて下さい。あなたは用心しすぎるつてことはないのですよ。ロチスターさまを、へだてを置いて御覽なさい。あの方と同じにあなた自身にも疑ひをかけて御覽なさい。あんな御身分の殿方とのがたといふものは、そこの家庭教師なんぞと結婚することはありませんからね。」
 私は本當にじり/\してきた。いゝ工合にそこへアデェルが駈け込んで來た。
「連れてつて――私もミルコオトへ連れてつて!」と彼女は叫んだ。「ロチスターさんはいけないつて――新しいお馬車にはあんなにたつぷりきがあるのに。私も連れてくやうにお願ひして、ね、先生。」
「してあげますよ、アデェル。」そして私はこの陰鬱な訓誡をする女のもとを去るのを喜びながら、彼女と一緒に急いで立去つた。馬車は用意してあつた。玄關へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐるところで、私の主人は鋪石しきいしの上を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、パイロットは前になり後になりして、ついて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。
「アデェルは一緒に行つてもいゝのでございませう、いけませんの?」
「いけないと云つたんですよ。子供なんぞ嫌やだ!――あなただけ連れて行くのですよ。」
「連れてつてあげて下さいな、ロチスターさま、どうぞね。さうなすつた方がようございますわ。」
「いけないよ、彼女あれがゐると邪魔だもの。」
 彼の樣子も聲も斷乎だんことしてゐた。フェアファックス夫人の警告のつめたさ、彼女の疑ひの氣配が私に注がれてゐた。何か實質の無い、不確かなものが、私の希望を絶つてしまつた。私は彼に對する力の意識を半ばなくしてしまつた。それ以上彼に抗議することもなく、私は機械的に彼の云ふ通りにしようとした。しかし馬車に私を助けて乘せた彼は、私の顏を見てしまつた。
「どうしたの?」と彼はたづねた――「すつかり悄氣しよげてしまつて。本當にあの子を連れて行きたいの? あの子が殘されるのが辛いの?」
「私、どんなにか、連れて行きたくて。」
「ぢやあ帽子を取りに行つておいで。稻妻いなづまのやうに早く引返すのだよ。」と彼はアデェルに向つて叫んだ。
 彼女はあらん限りの速度で、彼の云ふ通りにした。
「結局、一朝の邪魔位は大したことではない。」と彼は云つた。「近い内にあなたを――あなたの思想、會話、伴侶を――一生の間要求する積りなんですからね。」
 アデェルは馬車にび込んで來ると、私の執成とりなしに對する感謝の意をこめて私に接吻した。が、直ぐに彼の向う側の隅に押込められてしまつた。すると彼女は私の坐つてゐる場所を覗き見するのであつた。ひどく難かしい顏をした隣の人はあまりに窮屈過ぎて――今の氣難かしい機嫌の彼には彼女も流石さすがに話しかけようともせず、説明をきかうともしなかつた。
「私の方に來させて下さいまし。」と私は頼んだ。「きつとお邪魔になりませうから。こちら側には隨分きがありますの。」
 彼は、まるで子犬か何ぞのやうに、彼女を抱へて渡した。「私は今でも未だこの子を學校へやる積りですよ。」と彼は云つた。しかし今度は彼は笑つてゐた。
 アデェルは彼の云ふのをきいて、“Sans Mademoiselle”(エア先生なしに、)學校に行かなくてはならないのかとたづねた。
「さうだよ。」と彼は答へた。「絶對にサン・マドモアゼルで。何故かつて、私が先生を月の世界に連れてつて、其處で火山の頂の間にある白い谷間の中に洞穴ほらあなを見つけて、先生は私と一緒に其處に住むのだよ。私と二人つきりで。」
「食べものが無いわ。ゑ死にしておしまひになつてよ。」と彼女は云つた。
「私がこの人の爲めには、朝夕甘露蜜マナを集めるのさ。月の世界では、原つぱも丘の邊りも、甘露蜜で白くなつてゐるのだよ、アデェル。」
「温たまりたいと御思ひになつたら、火はどうなさるの?」
「火は月の山の中から燃え上るのさ。この人が寒いときには、私が山の頂へ連れてつて、噴火口のふちにおろしてあげるのさ。」
「お! 何んて惡るいんだらう!(Oh, qu'elle y sera mal)なんて不愉快だらう!(peu comfortable)――ぢやあ、着物が古くなつてしまつたら、どうして新しいのを拵へるの?」
 ロチスター氏は困つたやうなふりをした。「エヘン!」と彼は云つた。「お前だつたらどうする、アデェル? 何かいゝ工夫はないか、智慧をしぼつて御覽。白や淡紅色の雪は上衣うはぎにどう思ふかい? それから、虹からは結構綺麗なスカァフが取れるだらう。」
「今のまゝの方がずつといゝわ。」とアデェルは暫く考へた後、云ひ切つた。「それに月の中なんぞにあなたとたつた二人つきりで住んでるんぢや、退屈しておしまひになるわ。あたしが先生だつたら、あたし決してあなたと御一緒に行くことは承知しないわ。」
「この人は承知したのだよ――約束しちまつたのだよ。」
「でもあなたは其處へは連れて行つてあげることはお出來にならないでせう。だつて月に行く路なんぞないんですもの――空氣ばかりでせう。そしてあなたもこの方も飛べないのですもの。」
「アデェル、あそこの畑を御覽。」もう私共はソーンフィールドの門を出て、ミルコオトへの坦々たん/\とした路を輕くすべつて行くのであつた。あの大雷雨の爲めにそこいらのほこりはいゝ工合に落着き、兩側の低い生籬いけがきや大きな立木などは、雨に元氣を囘復して、緑色に輝いてゐた。
「あそこの畑でねえ、アデェル、一寸二週間許り前のある夕方晩く歩いてゐたのだ――お前が果樹園の草地で乾草ほしくさ作りの手傳ひをした日の夕方だつたよ。刈草を掻き集めるのに疲れたもので、出入口に腰掛けて休んでゐたんだよ。それから小さな手帳と鉛筆を取り出して、昔々私に起つた不幸なことや、幸福な日が來るようにといふ願ひなどを書き始めてゐたのだよ。もう明るさが紙の上にはうすらいでいつたけれど、私はすら/\と書きつゞけてゐると、そのとき何か知らみちを上つてきて、私から二ヤードばかりの處に何か止つたのだ。見るとそれは陽炎かげろふのヴェイルを頭にかけた小さなものだつた。私の傍へ來るようにと招くと、直ぐに膝の上に來たのだよ。私はちつともそれにむかつて口をきかなかつた。またそれも私に物を云ひかけはしなかつた。しかしその眼を私は讀んで、それも私のを讀んで、兩方の無言の對話でこんなことがわかつたのだ、――
「それはフェアリイで、妖精の國から來たのだと云ふのだ。そして、その使命つかひは私を幸福にしてやる爲めだつてね。私はそれと一緒に俗世間ぞくせけんから出て、淋しい場所へ行かなくてはならん――例へて云へば、月の世界のやうな處だね――そしてそれは、ヘイ・ヒルの上にのぼつた新月に向つて頷いて、私共が住むといふ雪花石膏アラバスタア洞穴ほらあなのことや銀色の谷のことを、私に話してくれたのだよ。私は行きたいと云つた。だが私もお前が云つたやうに、私には飛んで行くつばさがないつて云つたんだよ。
『まあ、』とフェアリイが云ふには、『そんなことは譯はない! 此處にどんな困難でもなくする護符ごふがある。』つてね。そして美しい金の指環を取り出したのだ。そして云ふには『それを私の左手の藥指くすりゆびにおはめなさい。すると私はあなたのもの。あなたは私のもの。そして二人は地上を去つて、彼處の私共の天國を作りませう。』つてね。それはまた月を見て頷いたのだよ。その指環はね、アデェル、私のズボンのかくしに金貨に化けて這入つてゐるけれど、もう直ぐ、私はまた指環にしようと思つてゐるのだよ。」
「だけど、先生がそれでどうなさらなくちやならないの? あたしフェアリイなんぞどうでもいゝの。あなたが月世界へ連れていらつしやりたいのは、先生だと仰しやつたでせう?」――
「先生はフェアリイなのだよ。」と彼は神祕めいた口調で囁いた。そこで私は彼の冗談を氣にかけないやうに彼女に云つた。彼女は彼女で、本當の佛蘭西人生來じんせいらいの懷疑心をすつかり表はして、ロチスター氏に、「生得しやうとく※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)つき」(un vrai menteur)だときめつけて、自分は彼の「お伽噺」は、ちつとも信用してゐないと斷言した。そして、「その上、決してフェアリイなぞ住んでもゐなかつたし、よし住んでゐるとしても、」フェアリイ達が、彼に現はれることも、指環を彼に與へることも、または月で彼と一緒に暮さうと云ひ出すやうなことは有りつこないのだと云つた。
 ミルコオトで過した時間は、私にとつてはいくらかわづらはしいものであつた。ロチスター氏は私を強ひて、ある絹織物の店へ連れて行つて、其處で、半打はんダース許りも着物を選べと云はれた。その用事が私には堪らなかつた。延期して下さいと願つた。否――それは今やつてしまはなくてはならないのだつた。力を入れた囁き聲で懇願した揚句、私は半打を二つに減らした。これを、併し彼は自分でえらぶと云ひ切つた。私は心配しながら、はなやかな品物の上を、彼の眼が逍遙さまよふのを見つめた。彼は中でも最も素晴らしい紫水晶色の絹と、はでな薄紅色うすべにいろの繻子に眼を留めた。私はまた小聲で、彼が、私の爲めに金の冠と銀の帽子を同時に買つてくれるやうなものだと云つた。私はどんなことがあつたつて、彼の選んだものを着ようとは思はないから。彼は石のやうに頑固なので、私は散々困り拔いた末、やつと地味ぢみな黒の繻子と眞珠色しんじゆいろをした灰色の絹とに換へるやうに、彼を説きつけた。「今度はまあそれでよい。」と彼は云つた。「しかし、彼はまだ花壇のやうに、かざり立てられた私を思つてゐるのだ。」
 彼を絹織物の店から、そして次には寶石商から彼を連れ出して、私はホツとした。彼が私に買つて呉れゝばくれる程、私の頬は迷惑と墮落の感じで、燃えるやうになつた。馬車にかへつて、熱つぽく、疲れて、うしろり掛つた時、私は悲しい喜ばしい樣々の出來事に紛れて、まつたく忘れてしまつてゐたことを思ひ出した――私の伯父、ジョン・エアからリード夫人へ送つた手紙。私を養女となし、私を彼の遺産受取人とするといふ、彼の望みの手紙である、「本當にこれは救ひだ。」と私は思つた。「若し私が殆んど獨立してゐないのだつたら、私はロチスター氏に、まるでお人形のやうに、着物を着せてもらつたり、毎日私の身のまはりに降つて來るお金の雨を受けて、第二のダニイのやうに坐つてゐることに堪へてはゐられない。家に歸つたら直ぐにマデイラに云つてやらう。そしてジョン伯父さんに、私が結婚しようとしてゐること、誰と、といふことも云つてやらう。若し私が何時いつかロチスター氏の許に財産の相續を持つて來るといふ見込みだけでも持つてゐるのだつたら、今彼の世話になつてゐることはまだ我慢出來ることだ。」そしてこの考へ(それを、私は、その日、遂行したのである。)に幾分か慰められて、私は今一度私の主人であり、愛人である人の眼を見ようとした。その眼は、私が顏からも凝視からも避けようとするのに執拗しつえうに私のを求めてゐるのだつた。彼は微笑ほゝゑんだ。私には、彼の微笑がまるで囘教君主くわいけうくんしゆが御機嫌がよくて氣に入つたときに、彼の黄金や寶石を、貰つた奴隷に投げさうなそんなものに思はれた。私は、私の手をいつも求めてくるあの人の手を強くつかんで、腹立ちまぎれに、赤くして、彼の方に投げ返してやつた。
「そんな風に御覽になることはりません。若しそんなになさるなら、私、死ぬまで、あの昔のローウッドの上衣うはぎより外には、何も着ないからようございます。私、この藤色の縞木綿を着て、結婚いたします。あなたはあの眞珠色しんじゆいろの灰色絹で、御自分の化粧着をおこしらへなさいまし。それから、あの黒繻子で、幾枚でも胴着をお拵へになるとようございます。」
 彼はくん/\笑つて手を擦つた。「あゝ、この人の樣子ときたら、云ふことときたら素敵だ!」と叫んだ。「この人は變つてるのか? 皮肉なのか? 私は、この小さな英吉利の娘さん一人を、大トルコ帝の後宮全部、羚羊かもしかの眼、極樂女神の姿にも、何にも換へようとは思はない!」
 その東洋の比喩ひゆが、またもや私の心を刺した。「私、後宮セラリオ美人の代りになんぞ、一寸だつて、成りませんから。」と私は云つた。「だからそんな人と同等に見ないで下さいまし。若しあなたが、そんな調子で、何でもお考へになるのなら、私はもう即刻あなたにおさらばをしてスタムブウルの慈善市に行つて、あなたが、此處で滿足に使ひ切れなくて困つてゐらつしやるらしい、そのらないお金を、手廣い奴隷購賣に使ひますわ。」
「ぢやあ、ジャネット。私が肉何トン、黒眼何種と、大勢の人身ひとみの取引をしてゐるとしたら、あなたはどうする?」
「そしたら私は傳道者になつて、奴隷にされた人々――特にあなたの女部屋の人達に、自由を説きに出かける積りです。私は、其處に這入らせて貰つて、謀叛むほんを起させます。そして三ツ尾のバッショウ(トルコで貴顯を示す)であるけれど、あなたは忽ちに私共の手におちいつたことに氣がつくでせうよ。併し暴君がかつて與へたこともない程最も寛大な契約書にあなたが署名なさる迄はともかく、私あなたの縛りを斷つて差上げることを承知しませんわ。」
「思ふ存分にしても構ひませんよ、ジエィン。」
「ロチスターさま、あなたがそんな眼をして嘆願なさるのだつたら、私、容赦しませんわ。そんな眼付をなさる間は、私きつとあなたが強制されて、どんな契約書を承諾なさつたとしても、それが解除になつた時にあなたが第一になさることは、その條件を滅茶々々になさることだと思ひますわ。」
「ぢやあ一體ジエィン、どうしようつて云ふの? まさかあなたは祭壇の前で擧げた式の上に祕密な結婚式をしろと私に強ひるのではないでせうね。何か特別な條件を約束したいと思つてるのでせう――どんなことなの?」
「私たゞ樂な氣持でゐたいだけなんですの、山のやうな義理に押しつぶされないで。あなた Celineセリイヌ Varensバアレン に就いて仰しやつたことを覺えてゐらして?――あなたがあの人におやりになつた金剛石ダイヤだのカシミアの事を。私はあなたの英吉利のセリイヌ・バーレンにはなりません。私、矢つ張りアデェルの先生のまゝでゐます。それでもつて私、お食事も住居も戴くし、その外年に三十ポンドいたゞきます。そのお金の中から私自分の衣裳いしやうの支度をします。だからあなたは何も私に下さつちやあいけません、たゞ――」
「なに、たゞ何なの?」
「あなたのお心だけ。そしてその代りに、私のを差上げれば、その借りは帳消しになりませう。」
「なる程、だが冷淡な國民的厚顏と純粹な生得しやうとくの誇(傲慢)に對してはあなたに匹敵ひつてきするものはありませんね。もうソーンフィールドの傍に來ましたよ。宜しかつたら今日は私と一緒に食事をしない?」と彼は門を這入るときにたづねた。
「いえ、結構でございます。」
「人がきいたら、『いえ、結構で、』なんぞと云ふ代りに何と云ふのでせうね。」
「私これまで御一緒に御食事したことはありませんし、また今になつてしなくてはならないなんて云ふ理由もないと思ひますわ、たゞそのときになつたら――」
「どんなときになつたら? 半分しか云はないのが好きな人ですね。」
「仕方がなくなつたときには。」
「私と食事を共にするのをこはがるつて、あなたは私がまるで喰人鬼しよくじんき喰屍鬼しよくしきかなんぞのやうに食べるとでも想像するの?」
「そんなこと私考へてはをりませんわ。ですけれど私矢つ張りもう一ヶ月いつもの通りにしてゐたいんですの。」
「先生なんて云ふ奴隷状態は今直ぐ止めてしまふのです。」
「御免下さい。私どうしてもしません。それも私いつもの通りに續けます。今までの慣例ならはしどほり私は終日お妨げしないやうにします。夜になつて、私に會ひ度い氣分におなりのときに私を呼びにおつかはしになつて下さいまし。そしたら私、參ります。その他のときはいけませんわ。」
「煙草がみたいな、ジエィン、それとも※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)煙草を一つまみ。アデェルがいつも云ふ『面目を保つ爲めに』(“Pour me donner une contenance”)の下に私を慰める爲めに。都合惡く煙草入も※(「鼾のへん+嗅のつくり」、第4水準2-94-73)煙草の箱も持つてゐない。だがまあおきゝなさい――小聲でね。今はあなたのときだ、ねえ小さな暴君、しかしやがて間もなく私のものになるのですよ。そして一度手に入れたら離さない程にあなたを確實に私のものにした曉には、私は正に――比喩的ひゆてきに云つて――こんな鎖にあなたをつないでおきませう」(彼の時計の鎖に觸りながら)「えゝ、『うるはしく小さきものよ、我が胸に汝を帶びむ、我が寶石を失はざらん爲め。』」
 かう彼は馬車から私を降しながら云つた。私は彼がその後でアデェルを抱き上げてゐる間に家へ這入つて行つて、二階に引込んでしまつた。
 夜になると彼はきまつて私を傍に呼びよせた。私は彼のすることを用意しておいた。何故なら、私は始めから終りまでさし向ひの話ばかりで過すことはしまいと決心したからである。私は彼のいゝ聲を憶えてゐた。彼が歌ふことをこのんでゐることも知つてゐた――上手じやうずな歌手が大抵さうであるやうに。私自身は決して聲樂家ではなかつた。そして、氣難かしい彼の判斷では私は音樂家でもないのだつた。しかし、私は上手じやうずな演奏ならば聽くのは好きだつた。ロマンスのときである黄昏たそがれが窓格子の上に青い、星をちりばめた旗を下すと直ぐ、私は立上がつてピアノを開け、お願ひだから歌を一つうたつて下さいと、ねだつた。彼は私のことを氣まぐれな魔法使だと云つた。そして、また、いつか別のときにうたふことにしようと云つた。しかし、私は今のやうなときはないのだ、と云ひきつた。
「私の聲が好きだつたの?」と彼は訊いた。
「とても。」私は感じ易い彼の虚榮心を甘やかしたくはなかつたけれど、一度だけ便宜の上から機嫌をとり、はげましさへしたのだつた。
「ぢやあ、ジエィン、あなたが伴奏をかなくちやいけませんよ。」
「ようございますわ。やつて見ませう。」
 私はやつてみたが、直ぐに腰掛から拂ひ除けられ、「無器用な子」と云はれてしまつた。不躾ぶしつけに片側に押しのけられて――それが私には本當に望ましかつたのである――彼は私の場所を奪ふと、自分で伴奏しはじめた。彼は歌ふのと同じくくことも出來たのである。私は急いで窓の引込んだ處へ行つた、そして其處に掛けて、靜まり返つた木立や暮れかけた芝生しばふを眺めてゐる間、かぐはしい大氣に向つて快い調子で次のやうな歌がうたはれた。
火と燃ゆる胸のその奧に
 抱きたる變らぬ戀は、
溢れたるしほを、逆卷さかまきて
 身内めぐらしめぬ。

日毎あのひと來るは我が希望のぞみ
 あのひと去るは痛みなりき。
あのひと足音あのとおそきとき
 我が血凍りぬ。

我は愛し愛さるれば、
 そは云ひやうなき幸なりと想ひて、
そが方に我は走りぬ、
 盲目めしひの如く、熱き心もて。

さはれ我等が生命いのちを分けし隔ては
 途なきまでに遠く遙かなりき。
また緑なす大海の浪の
 泡立ちし流れのごと危かりし。

また荒野を、さては森を拔けし
 盜人のみちのごと安らふときなきを、
我等二人の心へだつる
 勢、權、悲、憤あれば。

我は危ふきを冒し、妨ぐるものをさげすみ、
 前兆に逆ひぬ、
おどすもの、惱ますもの、いましむるもの、
 なべてを我は勇しく越え行きぬ。

光の如く速かに我が虹の橋は懸りぬ、
 我は夢のうちにある如く飛びつ、
雨と光の子なる
 麗しき薔薇の花眼に見えたれば。

暗き苦難の雲の上に猶も明るく
 かのやさしき、聖なる歡びは輝く、
今は我おそれず、逃ぐるすべなく恐ろしき
 わざはひの如何に間近く迫るとも。

我はおそれず、このよきときに、
 我が打ち超えしなべてのもの、
恐しき復讐を叫びて
 強く速く飛び來るとも、

たとへおごれる憎惡我を打ち倒すとも、
 「權力」の障壁我に迫るとも、
またはきば咬みならす「ちから」が凄まじき顏もて
 永遠の敵なりと誓ふとも。

我がいとしき人はたわやかなる手を
 氣高けだかき信もて我が手に置きて、
さて誓ひぬ、婚姻の聖ききづな
 我等まとはむと。

我がいとしき人は接吻の捺印もて誓ひぬ、
 我と共に生き――死なむと。
遂に我は我が云ひやうなき幸を得たり、
 我は愛し、愛されたれば!

 彼は立上つて私の方へ來た。彼の顏は燃え、強い鋭い眼は輝き、顏中にやはらぎと熱情があふれてゐたのを見た瞬間、私はひるんだ――しかしその次にはもう氣力を囘復した。私は情に滿ちた場面や、愛の言葉などを、避けたかつた。而も、その二つの危險に面してゐるのである。防禦の武噐を用意しなくてはならない。私は心をはげまして、彼が私の傍へ來たとき、無愛想にたづねた。「一體あなたは、誰と結婚しようと思つていらしたのです?」
「大事なジエィンからそんな質問が出るのは變ですね。」
「何ですつて! 私いかにも當然な、必然なことだと思ひましたわ。だつて、あなたは未來の妻のことを一緒に死ぬのだと仰しやつたでせう。そんな異教的な思想は一體何といふ意味なんですの? 私、御一緒に死なうなんぞといふ考へは毛頭まうたうありませんことよ――本當なんですよ。」
「あゝ、無論望むことは、願ふことは一緒に生きることぢやありませんか! 死ぬことぢやあない。」
「さうですとも。私だつてときが來たら、あなたと同じに結構死にますわ。だけど私はそのときを待つべきで、寡婦殉死くわふじゆんしなんぞで後を追つたりはしませんわ。」
「そんな勝手なことを考へたのを許して、そのしるしに仲直りの接吻をする?」
「いゝえ、私、御免を蒙つた方がようございますわ。」
 たうとう私は「強情な子」だと云はれてしまつた。その上、こんなことも。「どんな女の人だつて、その人を讃美して歌つたあんな歌をきかされたら、骨のずゐまでとろけてしまふのだけど。」
 私は自分が生れつき強情で――まつたく石みたいで、彼も私がさうだといふことを屡々見せられるだらうと確言した。そして、それどころか、今から先四週間が終らない内に私の性質の樣々の粗暴な點をお目に掛けようと思つてゐること、彼がどんな大變な契約をしたか、まだ取消す餘裕のある間に、十分承知しなくてはならないのだと云ふことなどを話した。
「落着いて理智的に話さないの?」
「お宜しかつたら落着きませう。ですが理智的に話をすると云ふことなら、今私さうやつてる積りですわ。」
 彼は怒つて、ヘンと云つて舌打ちした。「それでいゝ、」と私は思つた。「何とでも怒るなりれるなりなさいまし。だつてあなたと御一緒にやつて行くにはこれが最上の方法なんですもの、本當に。私は言葉に表はせない位あなたをお愛し申してをります。でも感情に溺れはしません。またこの即答の針でもつてあなたをもあぶな瀬戸際せとぎはから守つて差上げるのです。いえ、それ以上に、そんな耳障みゝざはりなことを云ふことで、私共お互ひの本當の幸福にとつて最もためになる二人の間のへだてといふものを保つのです。」
 だん/\と私は彼をかなりらせた末、とう/\彼が怒つて部屋のずつと向うのはじに引込んでしまふと、私は立上つて私らしい、いつものうや/\しい態度で、「お休み遊ばせ。」と云つて、傍戸わきどを拔けて出て行くのであつた。
 かうして始めた仕組しくみを私は試みの間中續けた。そしてそれが最も成功したのであつた。確かに彼はいくらか不機嫌でぷり/\してゐた。しかし全體から云へば彼は大變滿足してゐた。そして彼の我儘を助長する一方、仔羊こひつじのやうな從順さ、斑鳩まだらばとのやうな敏感さが彼の批判心を喜ばせ、常識を滿足させ、いくらか彼の趣味に合ひさへした。
 他の人達のゐる處では私は以前の通りつゝましやかにおとなしくしてゐた。變つた仕打が必要でなかつたからである。さういふ風に彼に楯ついたり、困らせたりするのは夜差向ひで話をするときだけだつた。彼はずつと續けて、時計が七時を打つときまつたやうに私を呼びに寄越よこした。しかしもう私が彼の前に出て行つても「戀人」だの「いとしい人」だのといふ甘い言葉で呼びかけることはなく、私にかける一番よい言葉と云へば「癪にさはる人形」とか、「意地惡の妖精えうせい」とか、「薄情者」、「とりかへ子」等であつた。愛撫の代りに今は私はしかめ面を、手を握られる代りに腕を掴まれ、頬に接吻される代りにはきつく耳を引張られるのだつた。それでよかつた。今では私は確かにこの手荒てあらな愛情の方がどんな優しいものよりもいゝのであつた。フェアファックス夫人も私のことを是認したことが私に分つた。私のことに關する彼女の心配は消えてしまつたのである。だから私は確かに間違つてはゐなかつたのだ。同時にロチスター氏も、私がまつたく彼を大切に思つてゐることを確かめて、もう目の前に近づいてゐる或る時期になつたら、今の私の仕打に對して、ひどい復讐をしてやるからとおどかすのだつた。私は心の中で彼のおどかしを笑つてゐた。「今私は道理に叶つたやうにあなたを喰ひ留めてゐられるのです。」と私は考へた。「またこの後とてもそれが出來ることは疑ひありません。若し一つの手段が效力をくしたら、また別のが工夫される譯ですから。」
 とは云へ結局私の仕事は容易たやすいものではなかつた。幾度か私は彼をらすよりは喜ばせたいと思つた。私の未來の良人をつとは私にとつては全世界となりつゝあつた。否、世界以上――殆んど天上界の希望とまで。恰も日蝕につしよくが人間と赫々たる太陽との間に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)まつてゐるやうに、彼は私とあらゆる信仰心との間に立つてゐるのであつた。その頃、私は神の創造物の故に――それを私は偶像にしてゐたので、神を見ることが出來なかつた。

二十五


 その求婚の月は、過ぎてしまつた。その最後の時間さへ、數へられた。近づいたその日――婚禮の日は、延期されることはなかつた。さうして、その日の用意萬端は、とゝのつてゐた。少くも私だけは、最早何もすることがなかつた。私の小さな居間の壁際には、荷造りして、鍵をかけ、綱をかけられた旅行鞄トランクが、一列に並んでゐた。明日の今頃は、これらが遠く、倫敦ロンドンへの途中にあるだらう。そして私もD・V(神意に適へば)――と云ふよりは、寧ろ、私ではなく、ジエィン・ロチスター氏といふ未知の人間が。名宛札のみが、釘づけにされずに殘つてゐた。その、四枚の小さな四角い紙片は、抽斗ひきだしの中に入つてゐた。そのひとつ/\に、ロチスター氏は、「倫敦ロンドン、××旅館、ロチスター夫人」と自分で名宛なあてを書いて呉れた。私は、それを、自分で附けることも、また、附けて貰ふことも出來なかつた。ロチスター夫人! 彼女は、存在してゐない。彼女は明日、午前八時少し過ぎまでは、生れないだらう。さうして、私は、あの所有物全部を彼女にゆづり渡す前に彼女がこの世に生れて來るのを確める爲めに待つてゐるのだ。あの化粧机の向う側の押入おしいれの中に彼女のものだと云ふ服がもう既に私の黒い毛織のローウッドの服と麥藁帽子むぎわらばうしとに入れ代りになつてゐるだけで十分である。何故ならあの婚禮の衣裳の一揃ひとそろへ――眞珠色の服、奪つてきた旅行鞄から下つてゐる霞のやうな薄絹うすぎぬの被物などは私のものではないのだ。私はそこに入つてゐる不氣味な、亡靈のやうな服をかくさうと押入をめてしまつた。こんな夜――九時――には私の居間の暗がりの中に實際それは幽靈めいたかすかな光を放つてゐた。「青白い夢よ、私はお前を獨り殘して出て行くよ。」と私は云つた。「熱があるやうだ。風の吹くのが聞える。外に出て吹かれて來よう。」
 私を熱つぽくしたのは支度のせはしさばかりでもなく、大きな變化――明日より始まるべき新生――ばかりでもなかつた。(こんな夜更よふけに暗がりの庭に私を出で立たせるやうな落着けない、興奮した氣分をかもしたのには、無論この二つの事情があづかつてゐるのではあるが。)しかし、それ等のものより以上に、第三の原因が私の心にこたへたのである。
 私は何とも云へない氣がゝりな思ひを胸に抱いてゐた。私には理解しがたい何事かゞ起つたのである。その出來事を知つてゐるのも見たのも私より他には誰もない。それが起つたのは先夜のことだつた。その晩、ロチスター氏は留守であつた。今も未だ歸つてもゐないのである。彼は用事の爲めに三十マイルばかり離れたところに持つてゐる二つ三つの農場のある小さな所有地へ行つてゐた――彼が考へてゐる英吉利出發の前に自分で決着をつけておかなくてはならぬ用事である。私はかうして彼の歸りを待つてゐた。私の心の荷を下ろし私を混亂させてゐる謎の解決を彼に求めようとしきりに思ひながら、讀者よ、彼が歸つて來るまで待つてゐて下さい。私が彼に祕密を打ち明けるときに、あなた方もその祕密がお分りになるのですから。
 私は風に吹きやられながら果樹園の隱所かくれがへ行つてみた。茫漠とした風は終日南の方から強く吹きつけてゐたのである、しかし雨は一滴もまじへないで。夜になつてもしづまるどころか益々その勢を増し怒號どがうを強めるばかりで、樹々はあちこちと身もがくかはりに、たゞもう一方に吹きつけられたきり、一時間中たゞの一度だつて枝が元にはね返る瞬間もなく、枝の繁つた樹々の頂は無理やりに北の方にねぢ曲げられたまゝであつた。雲は極から極へ、團一團とあわたゞしく續けざまに流れて行つた。そして、この七月の日に青空の一かけも見えないのであつた。
 この空間を轟きつゝ流れて行く、はかり知られぬ氣流の中に自分の心の苦しみを投げつけながら、風に向つて駈けて行くのは何か知ら或る荒々しい歡びだつた。月桂樹の並木道を下りて行くとき、私は七葉樹の殘骸ざんがいを見た。それは黒く引裂かれて突立つて、眞中まんなかから裂けた幹は物凄く口を開いてゐた。裂けた半分同志は互に離れきらずに、しつかりした地盤と強い根とがその裂け落ちるのをさゝへてゐた。共同の生活力は滅びてしまつたけれども――最早樹液は通ふことが出來なかつた。兩側の大きな枝は死んでゐる。そしてこの次の冬の嵐はきつと一方か兩方共かを地上に倒してしまふだらう。まだ一本の樹をなしてゐるとは云へるかも知れないけれど、しかし廢墟、まつたくの廢墟である。
「お前達はよく互にしつかりと抱き合つてゐる。」と、まるで巨大な木片もくへんが生命を持つてゐて私の云ふことが聞えるかのやうに私は云つた。「お前たちはそんな風にそこなはれ、焦げ燒けてゐるけれど、まだお前たちの中には、あの忠實な正直な根にしつかり着いてゐる、そこから上つて來る生命いのちの意識が少しはある筈だ。もうお前たちは緑色の葉をつける事はないだらう――もう二度と鳥達がお前たちの枝の間に巣を造つて歌を歌ふのを見ることもないだらう。よろこびと愛の時代はお前達から過ぎ去つたのだ。でも、お前達は孤獨ではない。お互にちた木に同情する仲間があるのだ。」私がそれを見上げたとき、その裂目さけめを埋めてゐる空に暫くの間月が現はれた。その圓い姿は血の色で半ば赤く被はれてゐた。月は一瞬亂れた陰鬱な光を私の上に投げたと思ふと、すぐに厚い雲のかたまりの中にかくれてしまつた。一瞬の間、ソーンフィールドの周圍に風は落ちた。しかし遠い彼方に、森や流れを渡つて、狂つた陰慘な叫び聲が流れた。それをきいてゐるのは陰氣なものであつた。私は再び馳せ去つた。
 私は果樹園の中を此處彼處さまよつた。木の根の周圍の草地くさち一ぱいふり撒かれた林檎を拾ひ集めた。そして私はれたのと熟れないのとを選り分けた。それを家へ運んで貯藏室に藏つた。それからいてあるかどうかを確めに書齋へいつてみた。夏でもこんな陰氣な晩には、ロチスター氏は歸つてきて明るいを見るのが好きだといふ事を私は知つてゐた。さう、火はしばらくの間きつけられてあつて、よく燃えてゐた。私は爐邊に彼の肱掛椅子ひぢかけいすを置いて、卓子テエブルをその傍に押しやつた。窓掛を下ろし蝋燭を持つて來てともすばかりにしておいた。かうした支度を終ると、前よりもつと落着けなくなつて、じつと坐つてゐられなくなつて來たばかりか、家の中にゐることさへ出來なくなつた。部屋の小時計と廣間の古い柱時計が同時に十時を打つた。
「隨分夜が更けたこと!」と私は云つた。「門のところまで駈けて行かう。時々、月の光がさすから、結構道は分るだらう。もうあの方も歸つていらつしやる時分だ。あの方にお會ひすれば不安な時がしばらくでもたすかるだらう。」
 風は門を蔽うた大木に高くとゞろいてゐた。しかし道路は目路めぢの限り右も左もしんとして物の影もなかつた。たゞ時々月が覗いたときにそこを横ぎる雲の影があるばかりで、動く物影もない長い蒼白い一筋の道であつた。
 見てゐる間に子供らしい涙が眼を曇らせた――失望と待ちあぐんだ涙である。恥しくなつて私はそれを拭つた。私はためらつてゐた。月はまつたく姿をかくし、深い雲のとばりをぴつたりと引いてしまつた。夜は暗くなり、疾風しつぷうに乘つた雨が慌しくやつて來た。
「歸つてゐらつしやるといゝに! 歸つてゐらつしやるといゝに!」私は病的な前兆におびやかされ乍ら叫んだ。私はお茶の前に彼が歸つて來るだらうと思つてゐた。だのにもう眞暗だ。何が彼を引止めてゐるのだらう? 間違ひでもあつたのか? 昨夜の出來事が再び私の心によみがへつて來た。それを、何か不吉なことの前兆のやうに思つた。私は自分の希望が實現するにはあまりに輝かしすぎるやうで恐しかつた。それに私は近頃あまりに幸福を味ひすぎたので、私の幸運はもうその絶頂を過ぎて、今は傾かなくてはならないのではないかと想像もされるのであつた。
「いや、私はとても家へは歸れない。」と私は思つた。「あの方がこんなひどいお天氣に外にゐらつしやるのに、火の傍に坐つてゐるなんて出來やしない。心を張りつめてゐるよりは、身體を疲らした方がまだしもだ。出掛けてあの方をお迎へしよう。」
 私は出掛けた。急いで歩いたけれど、遠くまでは行かなかつた。四分の一マイルを數へないうちに、ひづめの音が聞えて來た。誰か騎者が、馬を急がせてやつて來る。犬が一疋その傍を駈けてゐる。凶兆きようてうよ去れ! 彼だ。メスルーにまたがつてパイロットを連れた彼なのだ。彼は私を見た。月が大空に青い原をひらいて、水のやうに光りながら浮んでゐたから。彼は帽子をとつて、頭の上で振つて見せた。私は彼を迎へに駈け出した。
「さあ!」手をさしのべてくらから身をかゞめながら彼は叫んだ。「駄目、獨りぢや出來やしない。私の靴の爪先にお上り。兩手をかして。お乘り!」
 私はその通りにした。喜びが私を輕快にした。私は彼の前にび上つた。そして私を迎へる心をこめた接吻キスを受けた。思ひ上つた勝利感、それを私は出來るだけのみ込んだ。彼は喜びを抑へて訊ねた。「だが何事かあつたの、ジャネット、こんな時間に私を迎へに出て? 何か惡いことでもあつたの?」
「いゝえ。だけど私あなたがもう二度と歸つていらつしやらないやうな氣がしたんですの。私、家の中であなたをお待ちしてゐられなかつたんです。特にこの雨と風では。」
「雨と風、まつたくだ! 成る程あなたは人魚にんぎよのやうにびしよ濡れだ。私の外套を卷きつけておきなさい。だがジエィン、あなたに熱があるやうだ――頬も手も燃えるやうに熱い。も一度くけれど、どうかしたの?」
「もう何んにも、私、こはくもなければ嫌な氣持でもありませんの。」
「ぢやあ兩方だつたの!」
「まあね。ですが追々とそのことに就いてすつかりお話ししませう。きつと、あなたは私の苦しんだのをおわらひになるばかりでせう。」
「明日が過ぎたら心からお前をわらつてやらうが、それまでははゞかりませう。私の獲物は不確ふたしかなのだから。この一ヶ月中、このあなたときたらまるでうなぎのやうに掴まへやうがなく、野薔薇のばらのやうに刺したんですからね! どこにだつて一寸手をれゝば突き刺されたんだもの。だがもう今は迷へる仔羊は私の胸に抱きとつたやうだ。あなたは羊飼を探して群をさまよひ出たんだね、ジエィン?」
「私あなたをお待ちしてゐました。でも威張つちや駄目。さあ、ソーンフィールドに着きましてよ。もう降ろして下さいまし。」
 彼は甃石しきいしの上に私を降ろした。ジョンに馬を曳かせて、私に從つて廣間に這入ると彼は私に急いで何か乾いた物を着て書齋の彼の許へ歸つて來るやうにと云つた。私が階段の方へ行かうとすると彼は私を引止めて、長くならないといふ約束をさせた。長いどころか、五分間の内に私は彼の許に引かへした。彼は食事をしてゐた。
「掛けてお相伴しやうばんなさいよ、ジエィン。有難いことだ、もう一度のを除くと、これがソーンフィールド莊で食べる最後の食事になるのですよ。」
 私は彼の傍に掛けたけれど、食べられないと彼に云つた。
「それは、これから旅行をしようとしてゐるからなの、ジエィン? あなたの食慾をなくしたのは倫敦ロンドンへ行くといふことを考へるからなの?」
「私今晩は先のことなどはつきり見えませんの。そしてどんなことを私の心が考へてゐるか殆んど分りませんの。この世の中の何ももがみんな本當ぢやないやうな氣がして。」
「私をのぞいてはね。私は立派な人間ですよ、――さはつて御覽。」
「あなたこそ何よりも幽靈のやうなのです。あなたはたゞ夢なんです。」
 彼は笑ひ乍ら手をさしのべた。「これが夢?」と彼は私の眼近にそれを持つてき乍ら云つた。彼はその長い強い腕と同じやうに、しつかりした、筋ばつた力のある手を持つてゐた。
「いゝえ、それにれたつて、やつぱり夢ですの。」私の顏の前からそれを下ろし乍ら私は云つた。「お食事はおすみですの?」
「あゝ、ジエィン。」
 私は呼鈴ベルを鳴らしてお盆を下げさせた。再び私達だけになると、私は火をかき起して、私の主人の膝元の低い腰掛に掛けた。
「もう眞夜中まよなか近くですのね。」と私は云つた。
「さうね。だがジエィン、覺えてゐるでせうね、私の婚禮の前の晩には私と一緒に起きてゐてくれると約束したのを。」
「いたしましたわね。で、少くとももう一時間か二時間位お約束を守りませう。私ちつともお床に這入り度くはないのですの。」
「そちらの支度はもうすつかりいゝの?」
「え、すつかり。」
「私の方も同樣だ。」と彼は答へた。「何も彼も片をつけてしまつた。私たちは明日、教會から歸つて後半時間以内に、ソーンフィールドをちませう。」
「結構ですわ。」
「何といふ獨特の微笑を浮かべて、その『結構です』といふ言葉を云ふのだらう、ジエィン! 何て明るい色が兩頬に上つてるのだらう! そしてまた、どうしてそんなにいつもになく眼を輝かして! 元氣なの?」
「だと思ひます。」
「思ひますとは! どうしたの? お話し、どんな氣持なの?」
「出來ませんわ。私の氣持は言葉には現はせないのです。この今の時が永久に終らなければいゝと思ひます。この次にはどんな運命に變つて行くか誰が知つてゐませう?」
「それは憂鬱病だよ、ジエィン。あんまり興奮しすぎたのか、でなけりやつかれすぎだ。」
「あなたは落着いた、幸福な氣持がなさつて?」
「落着く?――いや。しかし幸福だ――心の底まで。」
 私は彼の顏に幸福のしるしを讀まうと見上げた。それは熱し、輝いてゐた。
「あなたの祕密といふのを打明けなさい、ジエィン。」と彼は云つた。「私に話してしまつて、あなたの心を壓迫する重荷からすつかり樂におなりなさい。何が恐しいの!――私がよい良人をつとだといふことを證明しないから?」
「そんなこととはすつかりかけ離れたことですわ。」
「あなたはこれから這入らうとしてゐる新しい世界――あなたが這入らうとしてゐる新しい生活のことで氣遣きづかつてるの?」
「いゝえ。」
「どうしたと云ふの、ジエィン。あなたのその悲しさうな、思ひ切つた樣子と云ひ口調と云ひ、私は困らせられ苦しめられる。説明が聞きたいのだよ。」
「では、ね、聞いて頂戴。あなたは昨晩お家にはゐらつしやいませんでしたわね?」
「さうだ――その通りだ。先刻さつき何か私の留守の間に起つたとあなたは一寸洩らしたつけ。――その結果に就いては、多分何も[#「何も」は底本では「何き」]聞かなかつたが、しかし、つまるところそれがあなたをかきみだしたのでせう。聞かせて下さい。多分フェアファックス夫人が何か云つたのか? でなければ召使共の蔭口を聞いたのか? 感じ易いあなたの自尊心がきずつけられたのでせう?」
「いゝえ。」十二時が鳴つた。私は、小時計が銀の鐘聲を、柱時計がしやがれた顫へる打音を終る迄待つて、さて話を進めた――
「昨日は一日中私は隨分せはしく、そしてまた絶間ない騷ぎの中で隨分幸福でしたの。何故つて、私は、あなたが考へてゐらつしやるらしい、そんな新しい世界、その他のことに就いて何も心を惱ますやうなおそれに煩はされはしませんもの。私は、あなたと御一緒に生きて行くといふ希望を持つのは、輝かしいことだと思ひます、あなたをお愛し申してゐるのですもの。いえ、今は私にさはらないで下さい――妨げなしに話させて下さいまし。昨日私は天を信頼して、事はあなたにも私にも、いゝ工合に運んでゐると信じてをりました。お思ひ出しになるでせう、よく晴れた日でした――大氣も空もおだやかで、あなたのお身の安全や旅の氣持のことなど何も氣遣きづかふことはないのでした。私はお茶の後少時しばらくの間甃石しきいしの上を歩きました。あなたのことを考へ乍ら。そして想像の裡ではあなたは私の直ぐ傍にゐらつしやるので、實際ゐらつしやらなくも殆んど淋しいとは思ひませんでした。私は自分の前にひろげられた生活――あなたの生活――私自身のよりはずつと廣く複雜した生活のことを考へてゐました。それは小川が流れ込む海の深みが、その狹い川床かはどこの淺瀬よりもずつと深いのと同じなのです。私は何故道徳家達がこの世界を陰氣な荒野だと云ふか不思議でなりませんでした。私にとつてはまるで薔薇のやうに花咲いてゐるのですもの。ちやうど日が沈む頃風がつめたくなつて空が曇つて來ました。私は家に這入りました。ちやうど屆いたばかりの私の婚禮の衣裳を見に、ソフィイを二階へ呼びました。そして私はその下に箱の中からあなたの贈物を見つけました。――あなたがお金に飽かせて倫敦ロンドンから取り寄せて下すつた被衣なのです。多分、私があの寶石をいたゞかなかつたので、何かうまく私をだまして同じ位高價なものを受取らせようとなすつたのだと思ひました。それをひろげて私は微笑ほゝゑみました。そしてあなたの貴族趣味のことで、また貴族夫人の持物であなたの平民の花嫁を飾り立てようとなさるあなたの努力のことで、どういふ風にあなたをらして差上げようかと工夫したのでした。私はこの生れの低い頭の被物かぶりものとして自分で用意してあつた縫取も何もない四角な絹布をあなたの處へ持つて下りて、財産も、美しさも、身内もないやうな女にはそれで結構ではないかと、おたづねしようと思つてゐました。私にはあなたがどんなお顏をなさるかゞはつきり見えるやうでした。また過激な平民的なお答や、お金入やかんむりなんぞと結婚して富を増したり地位を高めたりする必要はあなたには無いと云ふ誇らしげな拒絶などが、聞えるやうでした。」
「この魔女奴まぢよめ、なか/\うまく私の心を讀み取つたな!」とロチスター氏は口を挾んだ。「だが薄絹うすぎぬの中に縫取の他に何かあつたの? そんな悲しさうな顏をしてるとは、毒か、短劍でもあつたといふの?」
「いえ、いえ。その織物の精巧なことと立派なことの他には、たゞフェアファックス・ロチスターの誇があつたばかりですの。それは何も私を驚かしはしませんでした。惡魔には私慣れてゐるのですもの。ところで、暗くなると風が出て來ました。それが昨日の晩は今吹いてゐるやうな――騷がしく強い――のではなくて、哀れつぽいくやうな音を立てゝ吹いてゐて、氣味惡きみわるい位のことではなかつたのです。あなたがお家にゐらつしやればいゝと思ひました。この部屋に這入つて來ると、空虚うつろの椅子や火のの無い爐が私に身顫ひさせました。お床に這入つてからも暫らく眠れませんでした――不安な興奮した氣持が私を惱ますのです。なほも起つて來る強風は、私の耳には何か嘆き悲しんでゐるかすかな音を包み消してゐるやうに聽えるのです。家の内からか戸外そとからか最初のうちは分りませんでした。けれどもしづまつた合間々々あひま/\に、はつきりしないけれどもかなしげにそれが聞えて來るのです。とう/\私は遠くで犬が吠えてゐるに相違ないと思ひました。それが止んだときにはほつとしました。眠つてゐても私は夢のうちに暗い、ひどい風の夜のことを續けて見てゐました。またあなたの傍にゐたいと思ひつゞけて、私共を押距おしへだてる障壁の怪しい、悲しい自覺を經驗しました。はじめの眠の間中私は何處か知らない曲り曲つた路を歩いてゐました。私のまはりはすつかり薄暗くて、雨が私に降りかゝるのです。私は小さな子供を抱いてゐて――歩けない位小さな、赤ン坊で、それがえ切つた私の腕の中で顫へてゐて、哀れな泣き聲が耳に聞えるのです。路のずつと先の方にあなたがゐらつしやるやうでした。私は力の限りあなたに追ひ付かうとして、一生懸命にあなたの名を呼んで待つて下さいと頼まうとするのですけれど、身體の自由は利かない、聲も矢つ張り消えてしまつて聞き取れなかつた。そしてあなたが次第々々に遠くへ行つておしまひになるのが分るのです。」
「で、そんな夢が今もあなたの心をしつけてゐるの、ジエィン、私があなたのすぐ傍にゐるのに? 神經質な子! ありもしない悲しみなんぞ忘れて、今ある幸福のことだけを考へなさい! あなたは私を愛すると云つた、ね、ジャネット。さう――私はそれを忘れはしない。そしてあなたもいなむ筈はない。その言葉はあなたの口からはつきりと聞えた。はつきりと、やさしく聞えた。多分嚴肅過ぎるが音樂のやうな甘美かんびな考へ――『あなたと暮らすといふ希望を持つてゐることは輝かしいことだと思ひます、エドワァド、私はあなたをお愛し申してゐるのですもの。』あなたは、私を愛してゐる、ジエィン?――も一度仰しやい。」
「お愛し申してをります――をりますわ、心底しんそこ。」
「いや、」と彼は一寸默した後に云つた。「妙なことだが、その言葉は痛く私の心にこたへる。何故だらう? あなたがそれ程迄に熱心な、一筋な心で云つたからだと思ふ。今、私を見上げてゐるあなたの眼差まなざしが信頼と眞實と熱情で非常に崇高だからだと思ふ。何か精靈が私の傍にゐるやうで堪へられない氣持がする。意地惡いぢわるな顏をなさい、ジエィン――どんな顏をするのかよく知つてるやうに。我儘な、はにかんだ、憎らしい微笑を浮べて御覽。私がにくらしいと仰しやい――私をらしたり怒らせたりなさい。私に感動させること以外なら、何でもおやりなさい。悲しくさせられるよりは怒らされた方がまだ増しだもの。」
「私、おはなしが濟んだらお好きな程らしたり怒らせたりして差上げます。でも、おしまひまで聞いてね。」
「私は、ジエィン、もうすつかり話しが濟んだと思つてゐた。あなたの憂鬱のもとは夢なんだと思つてゐたのに。」
 私は頭を振つた。「何! まだあるの? しかし大したことぢやないでせう。私は輕信けいしんしないことを先に云つときますよ。さあ。」
 彼の不安な樣子、何か氣遣きづかふやうないら/\した彼の擧動に私は驚いた。しかしつゞけた。
「私はまた違つた夢を見ましたの。ソーンフィールド莊が陰氣な廢墟はいきよになつて、蝙蝠かうもりや梟の棲家すみかになつた夢を。立派な前面は何一つなくなつて、たゞ貝殼のやうな壁ばかし高く突立つて、今にも落ちさうに殘つてゐるやうな氣がしました。月の夜、私は草のひ繁つた垣を通つてその内側を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りました。大理石のつまづいたり、壞れて落ちた蛇腹じやばらの破片に引つかゝつたりし乍ら。肩掛にくるまり乍ら、まだ私は見知らぬ赤ン坊を抱いてゐるのです。それを私は何處にも下ろすことが出來ないのでした――どんなに腕が疲れても、どんなにその重味が私の歩みを妨げても、私はそれをかゝへてゐなくてはならないのです。路の遠くの方に馬の蹄の音が聞えて來ました。それは確かにあなたです。そしてあなたは長い間、遠い國へ向けて行つておしまひになるところなのです。私はこはれかけた壁を狂氣のやうに危く急いで這ひのぼりました、たゞ一目頂上からあなたを見たいと夢中になつて。石は私の足の下から轉げ落ち、掴んだ常春藤きづたの枝は切れ、赤ン坊は恐ろしがつて私の首にすがりついて危く私をめ殺しさうになるのです。やつと頂上に來ました。白い路に、次第に小さくなつて行く一點の汚點のやうにあなたが見えます。風が強く吹きすさんで立つてゐられない程でした。せまい張り出しに坐つて、驚き恐れてゐる赤ン坊を膝にのせて靜まらせました。あなたは路の曲角まがりかどをおまがりになつた、最後の一目と身を乘り出すとたん、壁が崩れ落ちて私は搖られた。子供は膝からころげ落ち、私は平均を失つて、落ち、それで眼が覺めたのでした。」
「さあ、ジエィン、それだけ。」
「前置だけは。おはなしはまだなのです。眼を覺ますと、何か光が私の眼にまぶしくあたります。私、思ひました――あゝ、陽の光だと! でも間違ひでした。それは蝋燭の光だつたのです。ソフィイが這入つて來たのだと私は思つてゐました。あかりは化粧机の上に置いてあつて、床に這入る前に婚禮の衣裳いしやう被衣かつぎをかけておいた押入の扉は開け放しになつてゐました。そこで何かさら/\と云ふ音がするのです。私は『ソフィイ、何してるの?』とたづねてみました。返事はなく、押入から人影が一つ出て來たのです。それは燈を取つて高く差上げ、旅行鞄から下つてゐる服を見渡しました。『ソフィイ! ソフィイ!』と私はまた呼びました。それでもまだだまつてゐるのです。私は床の上に起き上つて身を乘り出してみました。はじめは驚きが、次には惑亂わくらんが襲つて來ました。その次には身内の血が凍つてしまひました。ロチスターさん、それはソフィイでもなく、レアでもなく、フェアファックス夫人でもなく、また――いえ、間違ひありませんでした、今も――それはあの氣味の惡い女の人、グレイス・プウルでさへないのです。」
「そのうちの誰かに相違ない。」と私の主人はさへぎつた。
「いえ、私、本氣ほんきでさうぢやないと申します。私の眼の前に立つてゐたあの姿は、今迄ソーンフィールド莊の邸内では決して私、見かけたものではありません。あの背丈せたけや恰好は私には初めてなのです。」
「どんなか云つて御覽なさい、ジエィン。」
「丈の高い、大柄おほがらな、黒い毛を長く背中に垂らした女の人のやうでした。どんな服を着てゐたか存じません。白くてひだも何もなしでしたけれど、長上衣ながうはぎだか、敷布だか、それとも屍衣きやうかたびらだか分りませんの。」
「その女の顏を見たの?」
「最初は見ませんでした。ですけど、やがてその人は、私の被衣かつぎを掛けてあるところから取つて、高く持上げながら長く見つめて、今度はそれを自分の頭の上に引かけて鏡の方を向いたのです。その瞬間、暗い長方形の鏡の中にはつきりと顏容のうつつたのが見えたのです。」
「どんなだつたのです?」
「恐しくて、蒼ざめて――あゝ、あんな顏を私、見たことがありません! 變色した顏――恐ろしい顏でした。ぎよろ/\するあの血走ちばしつた眼と、あの恐ろしい黒ずんだふくれ上つた顏を忘れることが出來たなら!」
「幽靈は大抵蒼ざめてゐるけれど、ジエィン。」
「それは紫色でした。唇はれ上つて黒ずんでゐました。ひたひにはしわがよつて、黒い眉毛は血走つた眼の上に亂れてつり上つてゐるのです。それが私に何を思ひ出させたか申しませうか?」
「仰しやい。」
みにくい獨逸のお化の吸血鬼きふけつきなのです。」
「おゝ!――それが何をしたの?」
「それは私の被衣かつぎをその痩せ衰へた頭からとると、二つに引裂いて、床に投げつけて踏みにじつたのです。」
「それから?」
「窓掛を引開けて外を見ました。多分夜明けが近づいたのを見たのでせう。蝋燭をとると、入口の方へ退しりぞきましたの。ちやうど私の傍まで來るとその姿は立止つて、ギラ/\した眼で私を睨むのです。蝋燭を私の顏にすれ/\につきつけると、私の眼の前で消してしまひました。私はその物凄い顏が、私をきつくすやうに見つめてゐるのに氣がつきました。そして私は氣を失つてしまつたのです。生れて二度目――たつた二度目――に、私は恐怖の爲めに氣を失ひました。」
「氣がついたときには傍には誰がゐました。?」
「誰も。たゞ夜はとつくに明け放れてゐました。私は起きて、頭や顏を水で洗つて、一息ひといきに水を一ぱい呑みました。衰へてはゐるけれど、病氣ではないと思つて、たゞあなたにだけこの幻をお話しようと決心したのです。さあ、あの女の人は誰で何んだかを私に云つて下さいまし。」
「興奮し過ぎた頭のせゐです――きつとさうだ。私はあなたを、私の寶を守らなくてはならぬ。あなたみたいな神經の人はあらつぽい扱ひ方をするやうには出來てゐないのだ。」
「確かに、私の神經は間違つてはをりません。あのことは本當です。あの事件は本當にあつたのです。」
「そしてその前に見たあなたの夢、あれも矢つ張り本當だと云ふの? ソーンフィールド莊は廢墟はいきよですか? どうすることも出來ない障害に私はあなたから切り離されてゐますか、私はあなたから離れ去つてゐますか、涙もなしに――接吻キツスもせず――言葉もなしに?」
「それは未だですけど。」
「しようとしてゐますか。ねえ、私共を分たないやうに結び合せるその日はもう始りかけてゐるのですよ。そして一度二人が一緒になれば、もうこんな心の上のおそれなどは二度と起りはしません。私が保證します。」
「心の上のおそれですつて! それ位のことだと信ずることが出來れば、と思ふのです。今迄にもましてさう思ひます。あなたでさへあの恐しい訪問者の祕密を説明お出來にならないのですから。」
「そして私が出來ない以上、ジエィン、それは事實ぢやないに違ひ無い。」
「ですけれど、今朝起きて私も自分にさう云つて、明るい晝間の光の中で、いつも見なれたものゝ氣持のいゝ姿を見て元氣と慰めを得ようと部屋を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すと、そこに――敷物の上に――私の臆説が明らかにうそだと分る物が見えたのです――上から下迄眞二つに裂けた被衣ヴヱールが!」
 私はロチスター氏がぎよつとして身顫ひするのを感じた。彼はあわたゞしく腕で私を抱いた。「有難い。」と彼は叫んだ。「若し何か惡意のあるものが、昨夜あなたの傍に來たとしても、きずつけられたのはあの被衣ヴヱールだけだつたのだ。あゝ、どんなことが起つたかも知れないと思ふと!」
 彼はせはしく息をして、息もつまりさうに強く私を抱きしめた。しばらく默した後、彼は元氣よく言葉を續けた――
「ねえ、ジエィン、そのことをすつかり説明してあげよう。あれは半分は夢で半分は本當なんですよ。女の人は、たしかにあなたの部屋に這入つたんです。その女と云ふのは――きつと――グレイス・プウルに相違ない。あなたは自分でもあの女のことを不思議な人間だと云つてゐる。あなたの知つてゐるすべてから、あなたが、さう云ふ理由があります。私に何をしたでせう? メイスンに何を? 夢現のうちにあなたはあれの這入つて來たことやたことを知つてゐるのです。しかしあなたは熱を出して、うなされる位だつたから、あなたは、あの女の姿とちがつた幽靈の姿だとしたのです。長い亂れ髮や、れ上つた黒い顏や、大げさに高い身長などは想像が作り出したもの、夢にうなされて出來たものですよ。惡意でもつてしたやうに被衣を裂いたのは事實だつたのです――彼女あれのやりさうなことです。何故あんな女をこの家に置いておくのかとあなたはたづねるでせうね。結婚してから一年と一日たつたら話して上げます。今はいけません。これでいゝ、ジエィン? この不思議なことに對する私の解釋で承知しますか?」
 私は考へてみた。そして實を云へばそれはたゞあり得ることだと思はれるだけだつた。私は滿足してはゐなかつた。けれども彼を喜ばせる爲めにさう――本當にさう感じたやうに救はれたやうに見せようとつとめた。だから私は滿足したやうな微笑を浮べて答へた。そしてもう一時をとつくに過ぎてゐたので、私は彼の傍を去らうとした。」
「ソフィイは子供部屋にアデェルと眠つてゐはしない?」と私が蝋燭をともしてゐると彼がたづねた。
「えゝ。」
「そしてアデェルの寢床にはあなたが這入れる位の場所は十分あるでせう。今晩はあの子と一緒でなくてはいけませんよ、ジエィン。あんな出來事があなたを過敏にすることはたしかですからね。それにあなたは獨りで寢ない方がいゝと思ひますから。子供部屋の方へ行くと約束なさいね。」
「私もその方が嬉しうございます。」
「そして内側からドアとざして[#「閉して」は底本では「閑して」]おくのですよ。階上へ行つたらソフィイを起すのですよ、明日時間におくれないやうに起してくれるようにと頼むことにかこつけて。八時前に身仕舞をして朝食を濟ましてゐなくてはならないのだから。さあ、もう陰氣くさいことを考へないで、退屈な心配も追ひやつてしまはう、ね、ジエィン。聞えない? 風が何て靜かなそよぎになつたんだらう? そしてもう窓硝子まどガラスに打ちつける雨の音もしない。御覽(彼は窓掛をかゝげた)――いゝ夜だなあ!」
 さうだつた。半天はんてんは澄んで雲もなかつた。今は西に變つた風に追はれて流れる雲は長い銀色の柱状ちゆうじやうをなして東の空から長々と動き出してゐた。月がおだやかに照る。
「ところで、」と穿鑿せんさくするやうに私の眼の裡を見つめてロチスター氏が云つた。「私のジャネットは今どう?」
「夜は穩やか、そして私もさうですの。」
「そして今夜は別れや悲しみの夢は見ないで、幸福な愛と多幸なちぎりの夢をね。」
 しかしこの豫示よじは半分しか滿されなかつた。實際私は悲しい夢は見なかつた。しかし同じく喜びの夢も見なかつた。まつたく眠らなかつた。幼いアデェルを腕に抱いて、私は幼い者の眠――かくも靜かに、かくも苦しみなき、かくも無邪氣な――を見守つて、來る日を待つてゐた。私の生氣せいきはすつかり目覺めて身體のうちに動いた。そして太陽がのぼるや否や私も起きた。私は思ひ出す、立去らうとするとアデェルが、私にからみ付いたのを、私は思ひ出す。くびから彼女の小さな手をゆるめて接吻をし、不思議な感動で彼女に向つて泣き、私の啜泣すゝりなきが靜かなすこやかな休息を破ることを恐れて彼女の許を去つたのを。彼女は私の過去の生命の象徴しるしのやうに思はれた。そして今私が會ひに行く爲めに身を飾らうとしてゐる彼は、私の知らざる未來の日の不安な、しかし憧憬しようけいの表象である。

二十六


 七時になると、ソフィイが私の支度にやつて來た。彼女は實に長くかゝつてその仕事を終つた。あんまり長いのでロチスター氏は、私の遲いのにいら/\したのだらう、どうして來ないかとたづねに寄越よこした。彼女は正に被衣ヴヱール(結局、あの飾り氣のない四角な絹布)をブロオチで私の髮に留めようとしてゐるところだつた。私は彼女の手の下から出來るだけ早く駈け出した。
「待つて!」と、彼女は、佛蘭西語で叫んだ。「御自分を鏡にうつして御覽なさいよ。一遍も鏡を[#「鏡を」は底本では「銃を」]見ないぢやありませんか。」
 そこで私は入口のところで振り返つた。あまりにもいつもの自分とは似てないので、殆んど他人の像のやうに思はれる、衣裳いしやうをつけて被衣ヴヱールを被つた姿が見えた。「ジエィン!」と呼ぶ聲に私は駈け下りた。階段の下で私は、ロチスター氏に迎へられた。
「おそい人!」と彼は云つた。「もう待ち切れなくて怒つてしまつた。こんなにぐづ/\して!」
 彼は私を食堂に連れて行つて、あますところなく私を觀察して、さて云つた。「百合花のやうに美しく、彼のいのちの誇であるばかりか、彼の眼の希望のぞみだ。」それから十分間だけ何か朝食をる時間をあげると云つて、彼は呼鈴ベルを鳴らした。近頃雇つた召使の一人の從僕がそれに應じた。
「ジョンは馬車の用意をしてゐるのか?」
「は。」
「荷物は階下したろしてあるか?」
「今下ろしてゐるところでございます。」
「お前は教會迄行つて來るのだ。ウッド(牧師)さんと書記がゐるか見て來てくれ。歸つて私に返辭をするのだ。」
 讀者の知つてるやうに、教會は門の直ぐ向うにあつた。從僕はすぐに歸つて來た。
「ウッドさんは法服所はふふくじよにをられて、白法服しろはふふくを着てゐらつしやいます。」
「そして馬車は?」
「馬に馬具をつけてをります。」
「教會へ行くにはらないが、歸つて來たら用意が出來てなくてはならない――箱も荷物もすつかり積み込んで、紐でくゝつて、馭者ぎよしやは馭者臺にゐるのだ。」
「かしこまりました。」
「ジエィン、用意はいゝか。」
 私は立上つた。新郎の從者も、花嫁の附添女も、親族も、待つてゐて連るものもなかつた、――たゞロチスター氏と私だけだつたのだ。フェアファックス夫人は、私共が通り拔けるとき、廊下に立つてゐた。私は彼女に話しかけたかつたけれど、手は鐵のやうな握り方で、掴まれてゐた――私はいて行けないやうな大胯でき立てられた。そして、ロチスター氏の顏を見れば、一瞬の猶豫もどんな目的の爲めにも我慢出來ないと感ずるやうなものであつた。他のどんな花聟はなむこが彼のやうな樣子――こんなに目的を急いで、こんなに恐ろしいやうに決然としてゐることがあらうか、また、誰が、あんなきつとなつた眉の下に、あんな燃えるやうなひらめく眼を、輝やかすことがあらうかといぶかられるのであつた。
 その日は晴れてゐたのか曇つてゐたのかも知らない。車路を下りて行き乍ら、私は空も見なければ地も見なかつた。私の心は眼と共にあつて、その兩方共ロチスター氏の身體の中に這入り込んでゐたやうに思へた。歩いて行き乍ら、彼が烈しく殘忍ざんにんきつと見つめてゐるらしい見えざるものそれを私は見たいと思つた。彼がその力と對抗し抵抗してゐるらしいその思ひを感じ度いと思つた。寺院の庭への入口で彼は止つた。彼は私がすつかり息を切らしてゐるのを見た。「私は愛することにも殘酷ざんこくなのだらうか?」と彼は云つた。「一寸休まう。私におり、ジエィン。」
 そして私は今あの灰色の古い、神の家がおだやかに私の前にそびえ、その尖塔せんたふの周圍を一羽の白嘴鴉みやまがらすが舞ひ、その彼方の赤らんだ朝空の樣を思ひ浮べることが出來る。また私は緑色をした墓塚のあるものをも憶えてゐる。また見知らぬ姿が二人、低い小丘の間を逍遙さまよひ、まばらにある苔蒸した墓石に彫刻てうこくされた銘を讀んでゐたのをも、忘れてはゐない。私は彼等に氣が附いた。何故なら彼等は私共を見るとお寺の裏側へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて行つた、そして私は彼等が傍廊の入口から這入つて式に立會はうとしてゐることを疑はなかつたからである。彼等はロチスター氏には見えなかつた。彼は一心に私の顏を見つめてゐたのである。恐らく、そこからは刻々こく/\と、血のが失せてゐたのだ。何故なら、私は自分のひたひがしめつぽくなつて、頬も唇も冷めたくなつてゐるのを、感じてゐたから。直ぐであつたが、氣力を囘復すると、彼は私を連れて靜かに入口へと路を歩いて行つた。
 私共は靜かな質素な寺に這入つた。牧師は白い法衣はふいを着て低い祭壇で待つてゐた。書記はその傍にゐた。何もしんとしてゐて、二つの人影ばかりが遠くの隅に動いてゐた。私の推測は間違はなかつた。あの見知らぬ人たちは私共より先に這入り込んで今かうしてロチスター家の納棺所なふくわんじよの傍に、私共に背を向けて、手摺越てすりごしに古い、時代のついた大理石の墓標を眺め乍ら立つてゐるのだつた。その墓標にはひざまづいた天使が一人、マアストン・ムウアに於て内亂のときに殺されたダメ・ド・ロチスターとその妻のヱリザベスとの遺品を守つてゐるのであつた。
 私共は聖餐欄干のところに座を占めた。注意深い跫音を後ろに聞いて、私は肩越しに見遣つた。見知らぬ人の一人――たしかに紳士である――が聖壇所の方へ進んで行つた。式は始つた。結婚の意向の解明ときあかしは濟んだ。そこで、牧師は一歩前に進み出て、少し許りロチスター氏の方に身をかゞめ乍ら、言葉を續けた――
「すべての心の祕密のあらはるゝ恐ろしきさばきの日に汝等が答ふる如く、汝等の内いづれにても合法的に結婚によつて結ばるゝこと能はざる障害を知るならば、今告白することを、汝等二人にたゞし命ず。神の御言葉の許しなくして結ばれたる多くの者は、神によつて結ばれず、またその結婚も合法なるものに非ざるは、汝等も熟知のことなればなり。」
 彼は習慣通りに言葉を切つた。この宣告の後、沈默は一體何時になつたら答へによつて破られるだらう? 否、多分、百年經つともである。そして、書物から目を上げないで、一瞬間息をつめてゐた牧師は續けようとした。彼の手は既にロチスター氏の方に延べられ、彼の唇は「汝はこの婦人をめとりて妻となすか?」といふ問ひを出さうとしたとき――そのとき、明瞭な聲がすぐ傍で云つた――
「その結婚はなりません。私は、障害のあることを言明げんめいします。」
 牧師は顏を上げて發言者の方を見て無言のまゝだつた。書記も同樣だつた。ロチスター氏は、足の下が地震で搖れたかのやうに、かすかに身動きした。しつかり足を踏みしめ、頭も眼も動かさずに、彼は云つた。「續けて下さい。」
 力強い、しかし低い抑揚よくやうで彼がその言葉を口にしたとき、深い沈默がつゞいた。やがてウッドが云つた――
「今主張されたことを調しらべて、それが眞實か間違ひかの證がなくては續けることは出來ません。」
「その式は全然駄目です。」と私共の背後の聲が附加へた。「私はこの主張を證明する地位にあります。え難い障害がこの結婚にはあります。」
 ロチスター氏は聞いたが、しかし見向みむきもしなかつた。彼はたゞ私の手をとるより外には身動きもせず、頑固にじつと立つてゐた。何といふ熱い、強い握力であつたらう!――そしてこの瞬間、いかに彼の蒼ざめた、固い、廣いひたひは切り出された大理石のやうだつたらう! いかにその下に彼の眼は、猶も油斷なく、輝き、而も狂暴だつたらう!
 ウッドは困り切つた樣子だつた。「その障害といふのはどんな性質のものです?」と彼はたづねた。「多分それは除かれるでせう――説明出來ることでせう?」
「とても、」といふ答だつた。「私はえ難いと云ひました。そして私は熟慮した上で云ふのです。」
 發言者は進み出て欄干らんかんにもたれた。彼は、一言々々を明瞭に、おだやかに、確固たる調子で、しかし大聲ではなく續けて云つた――
「それはたゞ前の結婚といふことに在るのです。ロチスター氏には今も生きてゐる夫人があります。」
 かみなりにもふるへたことのない私の神經がこの低い聲で云はれた言葉に顫へた。――私の血は氷にも火にも感じたことのないやうな激しい暴力に感應した。しかし私は、しつかりしてゐて氣を失ひさうな危險はなかつた。私はロチスター氏を見上げた。私は彼に私を見させた。彼の顏はまつたく色のない岩であつた。彼の眼は火花ひばなでもあり、燧石ひうちいしでもあつた。彼は何事も否認しなかつたが、あらゆるものにいどみかけるかのやうであつた。言葉もかけず、笑ひかけもせず、私が人間であることを認めもせぬ樣子で、彼はたゞ腕を私の身體に卷いて彼のわきにしつかりと抱いてゐた。
「君は誰だ?」と彼は闖入者ちんにふしやたづねた。
「私はブリッグスと云ふ者で、倫敦ロンドンの××街の辯護士です。」
「そして私に妻を押しつけようとするのか。」
「私はあなたにあなたの夫人のゐられることを思ひ出させ度いのです。その方は、あなたが認めなくても法律が認めた人なのです。」
「その女のことを聞かせてくれ――名前、兩親、居住の土地を。」
「宜しい。」ブリッグス氏は、靜かに彼のポケットから一枚の紙片を取り出して、一種の事務的な、鼻にかゝつた聲で讀み上げた――
「西暦××年、十月二十日(十五年前の日附である)、英國、××州、××地方のソーンフィールド莊、及びファンディイン貴族領のエドワァド・フェアファックス・ロチスターは、商人のジョオナス・メイスン及びアメリカ生れの黒人であるその妻アントワネッタとの娘、我が妹バアサ・アントワネッタ・メイスンと、ジャマイカ・スパニッシュタウン××教會に於て結婚せることを承認し、證することを得。結婚記録はその教會の記録の中に見出さるべし。そのうつしは余のところにあり。リチヤァド・メイスン署名で。」
「それは――眞實の書類は――私の結婚したことを證するかも知れないが、その中に私の妻と記された女が、今も生きてゐるとは證されないだらう。」
「その人は、三ヶ月前までは生きてゐました。」と辯護士は答へた。
「どうして知つてゐる?」
「その事實の證人があります。その人の證言はあなたといへども抗辯なさらないでせう。」
「その人間を連れて來い――さもなければ失せてしまへ。」
「先づその人をお連れしませう――その人はあそこにゐるのです。メイスンさん、どうぞお進みなさい。」
 ロチスター氏はその名を聞いて齒をかんだ。そしてまた強い痙攣けいれんするやうな身顫みぶるひをした。彼のすぐ傍にゐたので私は、憤怒、または絶望の痙攣的けいれんてきな顫へが、彼の身體を駈けめぐるのを感じた。今まで後の方に躊躇してゐた今一人の見知らぬ人は、そのとき近く進んだ。辯護士の肩越しに覗いたあをざめた顏――さうだ、彼はメイスン自身だつた。ロチスター氏は振り向いて、彼を睨みつけた。屡々云つてゐたやうに彼の眼は黒いのだつたが、今は黄褐色くわうかつしよくの、否、その凄さの裡には血の色の光があつた。そして彼の顏は赫と赤らみ――オリイヴ色の頬と色を失つたひたひは、擴がり上る胸の火を受けたやうに輝いた。そして彼はつと動くと、その強い腕を振り上げた――彼はメイスンを打ち、教會の床に投げつけることが出來たかも知れない――殘酷な打擲で彼の身體から息を絶やしたかもしれない――しかしメイスンは後すざりして、弱々しく叫んだ。「お助けを!」輕侮けいぶの念が冷くロチスター氏の心に來た――何か障礙しやうげが凋ませて了つたやうに、彼の怒りは消えて了つた。彼はたゞかうたづねたのみだつた。「君は何を云ふことがあるのだ?」聞えないやうな返答が、メイスンの色を失つた唇から洩れた。
「はつきり返答出來なけりや承知しないぞ。もう一度きく、君は何を云ふことがあるのだ?」
「あなた――あなた、」と牧師はさへぎつた。「神聖な場所にゐらつしやることを忘れないで下さい。」それからメイスンに向つて彼はやさしく訊ねた。「あなたは御存知なんですか、このお方の奧さまが未だ生きてゐらつしやるかどうかを?」
「勇氣を出して、」と辯護士が促した――「お話しなさい。」
彼女あれは今もソーンフィールド莊に住んでをります。」とメイスンは少し明瞭な調子で云つた。「この四月に[#「四月に」は底本では「四日に」]私は其處で彼女あれに會ひました。私は彼女の兄です。」
「ソーンフィールド莊にですか!」と牧師が聲を上げた。「そんなことはありません! 私はこの界隈かいわいに古くから住んでゐる者ですが、ソーンフィールド莊にロチスター夫人といふ方がゐらつしやるのは聞いたことがありませんよ。」
 私はにがい笑ひがロチスター氏の唇をゆがめたのを見た。そして彼がかう呟くのを聞いた――
「いや、決してだ! 誰もそれを――またはそんな名の女のことをきかないやうに注意したのだもの。」彼はじつと考へた――十分間位も自分に相談してゐた。遂に決心がついて、彼は云つた――
「もう澤山だ! 銃から彈丸たまが出るやうに何もも一時に出てしまふのだ。ウッド、本を閉ぢて法服はふふくを脱ぐがいゝ。ジョン・グリイン(書記に)、會堂を出てくれ。今日の結婚式は止めにする。」その人はその通りにした。
 ロチスター氏は臆する色もなく、思ひ切つて續けた。
「重婚とはいやな言葉だ! しかし、私は重婚者にならうと思つたのだ。だが、運命が私の裏を掻いたと云ふか、天が私を差し止めたと云ふか――多分後の方だらう。今の私は惡魔にもひとしいものだ。そして牧師があすこで云はうとしてゐるやうに、確かに最もいかめしい神の裁き、消しがたい業火ごふくわ、死ぬことのない蟲けらの地獄にちて行くのが當然なのだ。皆さん、私のたくらみは破れました!――この辯護士とその依頼人の云ふことは眞實です。私は結婚してゐる。そして結婚した女は生きてゐるのです! ウッド。あなたはあの向うの家でロチスター夫人のことを聞いたことがないと云ふ。だが恐らくあなたは、彼處に不思議な狂人が見張られ守られてゐることには幾度も耳をしたことがあるだらう。或る者は腹違ひの庶子しよしだとあなたに囁いたでせう、或る者は捨てられた私の女だと。今私は、あれこそ十五年前に私が結婚した私の妻だと云ひます――バァサ・メイスンといふ名で、こゝに蒼ざめて顫へ乍ら、氣丈きぢやうな人間が何を堪へるかを皆さんに示してゐる、この果斷くわだんな人間の妹です、――元氣を出すがいゝ、デイック!――私を恐れることはないよ! お前を打つぐらゐだつたら、女をなぐる方がむしろましだ。――バァサ・メイスンは狂人なのです。而も狂人の家の出なのです――三代にわたる白痴と狂人の家です! 彼女あれの母親の黒人クリオールは狂人で而も飮んだくれでした!――その娘と結婚してしまつた後で分つたことでしたが。その以前には皆して家の祕密の事は口をつぐんでしまつてゐたのです。孝順なバァサは、その兩方の點で親そのまゝでした。私は素敵な伴侶を持つた譯です――清淨で、かしこくて、從順な。私がどんなに幸福な人間だつたか想像が出來るでせう。大した幕を演じて來ましたよ! あゝ! あなた方が知つてさへゐたら、私の經驗はこの上もないものだつたのです! しかし私はこれ以上の説明を要しません。ブリッグズ、ウッド、メイスン、――私はあなた方を家に來てもらつてプウル夫人の患者、私の妻に會ふやうに招きます! 私があざむかれてどんな人間をめとつたかお目にかけます、そして私がその契約を破つて、少くとも人間らしいあるものへの情愛を求める權利があるかないか判斷していたゞきます。この人は、」と彼は私をじつと見乍ら續けた。「ウッド、あなたと同じくこの厭はしい祕密のことを知りはしないのです。この人は萬事正しく、合法だと思つてゐたので、善くない、狂氣きちがひの、獸のやうになつた伴侶にもう結びつけられてゐる、あざむかれた惡者との、僞りの契に陷し入れられようとしてゐたなどとは夢にも知らなかつたのです! みんな來て下さい――續いて!」
 なほもしつかり私を離さないで、彼は教會を出た。その後から三人の男が來る。やしきの正面の入口で私共は馬車を見た。
「それは馬車小屋に入れておけ、ジョン、」とロチスター氏は、ひややかに云つた。「今日はらないのだ。」
 入口で、ハミシス・フェアファックス、アデェル、ソフィー、レア達が、會つてお祝ひをしようと、寄つて來た。
「あつちへ行け――みんな!」と主人は叫んだ。「お祝ひなんぞはらない! 誰がるのだ? 私ぢやあない!――それは十五年遲すぎたのだ!」
 彼は通り拔けると、なほも私の手を取り、なほも人々に彼に續くやうにとまねいて、階段を上つて行つた。皆さうした。第一の階段を上り、廊下を過ぎ、三階に進んだ。ロチスター氏の合鍵あひかぎで開けられた低い、黒いドアは、大きな寢臺ベッドと飾箪笥のある、壁布の掛つた室に我々を導き入れた。
「君はこの室を知つてるだらう、メイスン、」と我々の案内者は云つた、「彼女あれは此處で君に噛みついて刺したのだ。」
 彼は掛布カアテンを壁からかゝげて第二の扉を現はした、そしてこれもまた開けた。窓の無い部屋には、高い丈夫なにかこまれて火が燃えてゐた。そして鎖で天井からラムプが下つてゐた。グレイス・プウルは火の上に屈んで、たしかに何かソオスなべに入れて料理してゐるところだつた。その部屋の向うの端の暗がりには一つの姿が前へ後へと駈けてゐた。それが何であるか、人間か動物か、一目見では誰も分らなかつた。まるで四足よつあしひまはつてゐるやうに見えて、何か怪しい野獸やじうのやうに、引掻いたり唸つたりしてゐた。しかしそれは着物を着てゐて、馬のたてがみのやうに荒々しい、黒い白髮しらがまじりの房々とした毛が頭と顏をかくしてゐるのであつた。
「お早う、プウル夫人!」とロチスター氏は云つた。「如何です? それから病人の方は、今日は?」
「有難うございます、まあどうやら、といふところでございます。」と煮え上つてゐる食物を、注意深く爐傍の棚の上におろし乍らグレイスは云つた。「少し噛み付くのですが、あばれまはりはしませんので。」
 恐しい叫び聲が、彼女の好意的な報告を裏切るやうに思はれた。その着物を着た鬣狗ハイイナは身を起すと、後足あとあしぬつと突立つた。
「あゝ、旦那さま、あなたを見ます!」とグレイスは叫んだ。「こゝにもうゐらつしやらない方が宜しうございます。」
「ほんの一寸だけ、グレイス――ほんの一寸だけ許して呉れ。」
「では旦那さま、氣をお附けになつて!――お願ひですから氣をお附けなすつて!」
 狂人きやうじんえ立てた。彼女はその振り亂した毛を顏から拂ひのけて、恐しい樣子をして訪問者達をにらみつけた。私はその紫色の顏、――むくんだ姿をよく覺えてゐた。プウル夫人が寄つて來た。
「邪魔しないで、」とロチスター氏は彼女を押しのけ乍ら云つた。「多分今はナイフは持つてない樣子だ? それに私は自分で注意してるから。」
「何を持つてるか知れないのでございます、旦那さま。油断がならないのでございます。この方の力がどれ位だかは人間の想像外なのです。」
「これの傍を離れた方がいゝと思ひますが。」とメイスンが呟いた。
「勝手にするがいゝ!」といふのが彼の義兄のすゝめだつた。
「氣を附けて!」とグレイスが叫んだ。三人の紳士は思はず後しざりした。ロチスター氏は背後に私を押しかくした。狂人きやうじんびかゝつて、猛然と彼の咽喉元を掴んで、彼の頬に噛みついた。彼等は爭つた。彼女はその良人をつとと殆んど同じ位の背丈の、横にも肥つた大きな女で、二人の取組では男のやうな力を出して――一度ならず彼女は彼のやうな力強い人の息を止めさうにしたのであつた。彼はうまく備へてやれば彼女を打ち倒すことも出來たのであるが、打たうとはしなかつた――たゞ取組むばかりであつた。結局彼は彼女の利腕きゝうでをとつてしまつた。グレイス・プウルは繩を一本彼に渡し、彼は彼女を後手うしろでに縛り上げた。まだ手にあつた外の繩で彼は彼女を椅子いすに縛りつけてしまつた。そんなことが世にも恐ろしいえ聲と痙攣的けいれんてきな突進との眞只中に行はれたのである。それからロチスター氏は見てゐる人々の方に振り向いた。彼は苦々にが/\しげな、而も寂しげな微笑を浮べて人々を見た。
「これが私の妻なのです。」と彼は云つた。「こんな風にするのが私の知つてゐるたゞ一つの夫婦の抱擁なのです――こんな風にするのが私の暇なときを慰める愛撫なのです! そして私の望むのは、」(手を私の肩に掛け乍ら)、「この若い人、惡魔のをどりを氣も確かに見ながら、こんなに嚴かに落着いて地獄の淵に向つて立つてゐるこの人なのです。あの殘忍ざんにんなラグウ料理の後に、その代りとしてこの人を欲したのです。ウッドとブリッグス、この相違を見て下さい! この澄んだ眼とあの向うの赤い眼球とをくらべて下さい――この顏をあの假面と――この姿をあの巨躯と。そして裁いて下さい、福音の僧とはふの人とで、そして憶えて下さい、あなた方が裁くその裁きによつて、あなた方が裁かれるのだといふことを。行つて下さい。私はこれを閉ぢ籠めなくてはなりません。」
 私共は皆立ち去つた。ロチスター氏は何かもつとグレイス・プウルに指圖さしづする爲めに一寸後に殘つた。辯護士は階段を下りながら私に話しかけた。
「奧さん、あなたは、」と彼は云つた。「何もとがめられることは無くなりましたよ。あなたの伯父さまはこれを聞いてお喜びになるでせう――若し、まだ生きてゐられるのだつたら、實際――メイスンさんがマデイラに歸られたら。」
「私の伯父ですつて! 伯父さんがどうしたのですか? あなたは御存じなのですか?」
「メイスン氏が御存じです。エア氏は幾年の間かあの方の店のフアンチヤルにある取引先なのです。丁度あなたの伯父さまが、熟考の上であなたがロチスター氏と結婚なさるといふことを知らせてお寄越しになつた手紙を受取られたときに、ジヤマイカへ歸る途中、保養の爲めにマデイラに滯在してゐられたメイスン氏が偶然一緒にゐられたのです。エア氏はそのことを話された、と云ふのは、こゝにおいでの私の依頼人がロチスター氏と云ふ名の方を知つてゐたからなのです。御想像も出來ませうが、驚きもし、困惑なさつたメイスン氏は、事の實状を打明けておしまひになつたのです。あなたの伯父さまは、お氣の毒ですが、今病床にあつて、御病氣の性質から云つても――衰弱なので――また御年齡も御年齡なので、とてもたれるとは思へないのです。で、あの方はあなたがお落ちになつたわなからあなたを救ひ出しに御自分で英國へ急いで來られないので、メイスン氏に頼んで一刻も早くこの虚僞結婚をさへぎる處置をとるやうにお寄越しになつたのです。彼はメイスン氏に私の助力を求めました。私は萬事テキパキとやりました。そして有難いことには間に合ひました。きつとあなたもさうお思ひになる筈ですね。あなたがマデイラに到着なさらないうちに伯父さまがくなられるといふことが本當に確かなことでないのでしたら、あなたにメイスン氏と一緒にお歸りになるやうにと申し上げるのですが。しかしそんな工合ですから、エア氏からか、またはあの方に就いて、この上のことをお聞きになる迄あなたは英國イングランドに留つてゐらした方がいゝと思ひます。まだ何かこの上留つてゐることがありますか?」と彼はメイスン氏にたづねた。
「いや、いや――行つてしまはう。」と云ふのが心配さうな返答だつた。そしてロチスター氏に別れをげる爲めに待つこともしないで、彼等は廣間の入口から出て行つてしまつた。牧師は彼の教區民に、訓戒くんかい叱責しつせきか、短い言葉を告げる爲めに留つた。それが濟むと、彼もまた立ち去つた。
 今私がひいた私の部屋の半ば開いた入口に立つて、私は彼の出て行くのを聽いた。人が歸り去つてしまふと、私は誰も妨げる者の無いやうに、閉ぢ籠つてくわんぬきをさしてしまつた。そして――泣くのでもなければ、嘆くのでもない、さうするには私はあまりに落着いてゐた――私は機械的に婚禮の衣裳いしやうを脱ぎ、これが最後だと思つて昨日着た毛織の上衣うはぎと取換へはじめた。そして腰かけた。私は力が拔けて、疲れてしまつてゐるのを感じた。私は腕を卓子テエブルの上にもたせかけて、その上に頭を落した。そして今私は考へた。今まではたゞ聽き、見、動いたのみであつた。――導かれようと、引きずられようと、唯、いて行くのみだつた、――事件に次ぐに事件、露顯に次ぐに露顯を見守つてゐたのみであつた。しかし今こそ私は考へたのである。
 その朝は非常に靜かな朝であつた――あの狂人きちがひとの場面を除いてはなべて。教會の出來事は騷々しいものではなかつた。怒りの爆發もなければ、聲高こわだかな口論も、喧嘩も、反抗または挑戰もなく、涙も、啜泣すゝりなきの聲もなく、數語が口にされ、結婚に對するおだやかに口にされた抗議があり、嚴しい、短い質問がロチスター氏によつて發せられ、返答、説明が與へられ、證據があげられ、その事實であることの公然な承認が私の主人によつて發せられた。そして生きた證據が見せられ、闖入者達は去り、萬事終つて了つたのだつた。
 私はいつもの通り――何の目立つた變化もなく、いつもの私として自分の部屋にゐるのだつた。何も私を打ちもしなければ、そこなひもせず、傷けもしない。而も昨日のジエィン・エアは何處にあるのか?――どこに彼女の生命いのちがあるのか?――どこに彼女の望みはあるのか?
 熱心で、望を抱いてゐた女であるジエィン・エアは――殆んど花嫁であつたが――再び寒い、孤獨の女になつて了つた。その生命いのちは蒼ざめ、その前途は暗い。耶蘇降誕節クリスマスの霜が眞夏に降り、雪もよひの師走しはすの嵐が六月に吹きすさみ、氷は熟れた林檎りんごにはりつめ、吹雪は開きそめた薔薇を散らし、牧草畑、麥畑の上にはこほつた衣が下り、昨夜花咲き亂れて赤らんでゐた小徑こみちは、今日は足跡もない雪で埋もれ、十二時間前には熱帶の樹立のやうに繁つてかぐはしかつた森は、今は冬寒い諾威ノールエーの松の森のやうに散り敷き、衰へて、荒れ果てゝ白くなつてゐるのだ。私の希望はすべて死んだ――一夜のうちにエジプトの總領に降りかゝつたやうな不思議な運命にうたれて。私は昨日かくも花咲き輝かしかつた大事な望みを見た。それはかたく、冷たく、青ざめた、再びよみがへることの出來ぬ死骸となつて横つてゐる。私は私の愛を見た――私の主人が創造した、あの感情である。それは冷たい搖籃ゆりかごの中に病める小兒のやうに私の胸の中に顫へてゐた。病氣と惱みがそれを掴んでゐた。それはロチスター氏の腕を求めることが出來なかつた――それは彼の胸からぬくもりをとることが出來なかつた。あゝ、最早それは彼の方を向くことも出來ないのだ。誠意は凋み――信頼はほろぼされてしまつた! ロチスター氏は最早私には以前の彼ではない。何故なら、彼は私の思つてゐた彼ではなかつたのだから。私は不埓ふらちを彼にはさうとは思はない。私は彼が私をあざむいたとは云ひ度くない。しかし汚點なき眞實といふ屬性ぞくせいは彼には、もう無い。そして彼の面前から私は去つてしまはなくてはならない。そのことは私にもよく分つてゐた。何時――どういふ風に――何處へか。未だ私には考へがついてゐなかつた。しかし、彼自身、きつと、私をソーンフィールドから追ひ立てるであらう。眞の愛情などを彼は私に對して抱いてゐる筈はないやうに思はれる。妨げられたのはたゞ氣紛れの熱情だつたのだ。最早彼は私を欲してはゐないだらう。今は私は彼の前を横ぎることさへ遠慮しなくてはならない。私の姿を見る事も彼には憎らしいに違ひない。あゝ、私の眼は何んといふ盲目めくらだつたのだらう! 私の行爲は何といふ愚かなことだつたのか!
 私の眼はおほはれ閉ぢられてあつた。渦卷く闇が私のまはりを流れるやうに思はれ、反省が黒い混亂した流れのやうに這入り込んで來た。身も世もなく、氣もゆるんで、茫然と、私は自分を大きな河のかわいた河床かはどこに横たへてゐるやうな氣がした。私は遠い山の中から洪水が流れ出す音を聞き、激流がやつて來るのを感じた。けれども起き上る意志もなく逃げる力もなかつた。死にたいと思ひつめ乍ら、私はぐつたりと横になつてゐた。たゞ一つの思ひのみが、なほ生ある如くに、私のうちに脈を打つてゐた――神の記憶である。それが口に出さない祈りをもたらした。その言葉は、囁かれなくてはならないものゝやうに、私の暗い心を上へ下へとさまよふのであつたが、それを口にする力が見出されなかつた。――
「私から遠ざかり給ふな、苦難くなんが身近に來てをります。そして誰も助けてくれる者はございません。」
 それは身近みぢかに來てゐた。そしてそれを遮るようにと天に祈りを上げなかつたので――を合せもしなければ、跪づくこともせず、唇を動かすこともしなかつたので――それは來たのだ。恐ろしい勢で激流が私の上に襲ひかゝつて來た。寄る邊なき我が生活、失はれた我が愛、消え去つた我が希望、致命傷ちめいしやうを受けた我が誠實などの全意識が悲しい一團となつてはげしく、強く私に猛威を振つた。その辛いときのことは筆には盡されない。本當に、「水は我が魂をひたし、我は深き海に沈みぬ。立つべき足場もなく、我は水底みなぞこに到り、洪水は我を溺らしめぬ。」

二十七


 午後のあるとき、私は頭を擧げて、そして四邊あたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し、傾きかけた西陽にしびの影を壁の上に曳いてゐるのを見て、私はいた。「どうしたらいゝのだらう?」
 しかし、私の心の返辭――「いますぐ、ソーンフィールドを出てお行き」――は餘りにきつぱりとして、あまりに恐ろしく、私は耳をふさいでしまつた。そんな言葉は、いま堪へてゐられないと私は云つた。そして「私がエドワァド・ロチスターの花嫁でないと云ふことは何も大して私の悲しみではない。」と主張した。「世にも輝やかしい夢から醒めて、それらがみな、無であり、空虚だと分つたことは、堪へもし、抑制も出來る恐怖である。しかし本當に、たつた今、まつたく彼のもとを立ち去らなくてはならないといふことが堪へられないことなのだ。私には出來ない。」
 しかしそのとき、私のうちなる聲は、私にそれが出來ると斷言し、なほさうすべきだと豫言よげんした。私は、自分自身の決心と爭つた。私は、私に對して、設けられてゐる、これ以上の苦惱の、恐ろしい進行を避ける程、自分が氣弱きよわだといゝと思つた。良心は暴君と變り、情熱の咽喉元のどもとを掴み、嘲笑して彼女にその可愛い足を泥濘ぬかるみの中にひたすばかりだと云ひ、彼はその鐵の腕をもつて彼女を底知れぬ苦惱の深淵に突き落とすと誓ふのだ。
「では、私を引離して下さい。」と私は叫んだ。「他の者に私を助けさせて下さい。」
「いや、お前は自分で離れ去るのだ。誰もお前を助けてはいけない。お前は、自分で自分の右の眼をゑぐり出し、自分で自分の右手を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ぎ取るのだ。お前の心臟が犧牲となり、お前はそれを突き刺す僧になるだらう。」
 あまりに殘酷な裁きに惱まされる獨居――あまりに恐ろしい聲に滿ちた沈默に、恐怖に襲はれて、私は、ふいに立ち上つた、眞直に立つと、私の頭はくら/\となつた。興奮と空腹とで私は病氣だと思つた。食物も飮物も、その日は、私の唇を通らなかつた。私は、朝食を喰べなかつた。そして、あやしい苦痛で、こんなに長い間、此處に閉ぢ籠つてゐるのに、私がどんな工合かとたづねる使ひも來なければ、下りて來いと呼びにも寄越よこさない――幼いアデェルさへ、ドアを叩かず、フェアファックス夫人さへ、私をたづねては來なかつたことを思ひかへした。「幸運に見棄てられた者は、友にも常に忘らる。」とくわんぬきはづして外へ出ながら、私は呟いた。私は障碍物につまづいた。私は、まだ眩暈めまひがし、眼はかすんで、身體も力が拔けてゐた。私は、直ぐには、とり直せなかつた。私は倒れた。しかし、ゆかの上へではなかつた。差しのべられた腕が、私を抱いたのである。私は見上げた――私はロチスター氏に支へられてゐた。彼は、私の部屋の閾の向うの椅子に掛けてゐた。
「とう/\出て來ましたね、」と彼は云つた。「さう、私は、長いことあなたを待ち、耳を澄ましてゐたのです。しかし何の物音も聽えず、すゝなきの聲もしなかつた。この上五分間も、あの死のやうな沈默が續いたなら、私は盜人のやうに錠前ぢやうまへをこぢ開けたに違ひない。どうしてあなたは私を避けるのですか?――閉ぢ籠つて、たつた一人で悲しむのですか? 私は、寧ろあなたが恐ろしい勢でやつて來て、私を責めて下さつた方がよかつたのだ。あなたは熱情的だ。私は、さう云つた風な場面を豫期してゐたのです。私は、熱い涙の雨を待つてゐたのです。たゞそれが私の胸に注がれることを望んでゐたのに、今は心ないゆかか、濡れたハンケチが、それを受けた。だが、私は間違つた。あなたはまるで泣いてはゐない! 蒼ざめた頬と光のない眼は見えるがしかし涙の痕はない。それでは、多分、あなたの胸は血の涙を流してゐるのでせうね?
「さあ、ジエィン! 一言の非難もしないの? 何も辛くはないの――何もいたみはしないの? 何一つ心をき亂しもせず、熱情おもひを刺すものはないの? あなたは、私が坐らせたところにじつと坐つて、疲れた、さからひもせぬ顏で私を見てゐる。
「ジエィン、私は、あなたをこんなにきずつけようと思ひはしなかつた。もし彼のパンを食べ、彼のコップから飮み、彼のふところに眠る、娘のやうに大事な牝羊を持つた人が、誤つてそれを屠殺場とさつぢやうで殺したとしても、その人は、私が今自分のしたことを悔い歎く程には、その血なまぐさい失錯しつさくを悔いはしないだらう。あなたは、私を許してくれますか?」
 讀者よ、私はそのとき、その場で、彼を許したのだ。彼の眼にはかくも深い悔いが、彼の調子にはかくも眞實なあはれみがあり、彼の振舞ひにはかくも男らしい力があつた。なほその上、彼の容子ようす、顏色、全體にかくも變らない愛があつた――私は何も彼も許した。しかし言葉に出してゞはなく、外に表はしてゞはなく、たゞ私の心の底だけで。
「あなたは、私のことを惡魔だと思ふでせうね、ジエィン?」やがて彼は、愛はしげに訊ねた――意志からと云ふよりは、寧ろ氣弱きよわの結果で、私が沈默と無氣力むきりよくを續けてゐるのを、疑つて。
「えゝ。」
「では、さうと大きな聲で嚴しく云つて下さい――私を容赦しないで下さい。」
「私には出來ません。私は疲れて氣持が惡いのです。水を少し下さい。」彼は、わなゝくやうな吐息といきをついて、私を腕に抱きかゝへて、階下へ連れて行つた。はじめ、私は、彼がどの部屋へ連れて行くのか分らなかつた。ぼんやりした私の眼には、何も彼も朦朧としてゐたのである。やがて、私は、力づけるやうな火の暖か味を感じた。夏なのに、私は自分の部屋にゐて、氷のやうにえ切つてゐたのだ。彼は葡萄酒を私の唇に持つて來た。それを口にして、私は元氣づいた。それから彼の出したものを食べて、程なく我に返つた。私は書齋にゐるのだつた――彼の椅子に掛けて――彼は私に近々とゐた。「もし私が今、餘りにするどい悲痛もなく、生命をつことが出來るのだつたら、私は嬉しいだらう、」と私は思つた。「さうすれば、私の心のつるをロチスターさんの心から引きちぎつてきずつけるやうな努力をしなくても濟むだらう。私は、あの方のもとを去らねばならないらしい。私は離れたくない――離れてはゐられない。」
「どんな工合です、今は、ジエィン?」
「大分よくなりました。もうすぐよくなるでせう。」
「も一度、葡萄酒をお飮み、ジエィン。」
 私は、彼の云ふまゝにした。それから、彼は、コップを卓子テエブルの上に置くと、私の前に立つてじつと私を凝視みつめた。突然、彼は、何か燃え上るやうな感動で一ぱいになつて、かすかな叫び聲と共に向うを向いてしまつた。さうして、部屋の中を足早に向うまで行つて、歸つて來た。彼は、恰も私を接吻キツスするかのやうに、私の方に身を屈めた。しかし、愛撫は、今はもう禁じられてゐることを思ひ出した。私は顏をそむけて、彼を押しのけた。
「何――どうしたの?」と彼は、せはしく叫んだ。「あゝ、わかつた! あなたは、バァサ・メイスンの良人をつと接吻キツスしないのですね? あなたは、私の腕は既に一ぱいで、私の抱擁も他人に占められてゐると思ふのでせう?」
「いづれにしても、私には身の置場所も無ければ、權利も無いのです。」
「何故です、ジエィン? あなたに澤山口をかせないことにして、あなたの代りに答へてあげよう――私がもう既に妻を持つてゐるからだ、とあなたは云ふのでせう。當つたでせう?」
「えゝ。」
「もしさう思ふのだつたら、あなたは私に就いて妙な意見を持つてゐるに違ひない。あなたは、私をたくらみのある道樂者――あなたを企らんで張つたおとしあなの中に引き込み、あなたの名譽をぎ、あなたの自尊心を盜まうとして、清廉な愛をよそほつてゐた低いいやしい放蕩者だとお思ひになる譯ですね。これに對して、何と云ひます? 何とも云へぬのは、分つてゐる。第一、あなたは未だ氣分もはつきりしてゐないし、十分に息もつかなくてはならない。第二に、あなたは未だ私を責め罵ることに慣れてゐない。それに涙の出口が開かれてゐる、あなたが口數を多く利けば、涙が迸しり出るだらう。そしてまた、あなたは抗議したり、責めたり、愁嘆場しうたんばを演じようとは思つてゐない。あなたはどう振舞はうかと考へてゐるのだ――あなたの考へてゐることを云ふのは無用だ。私は、あなたを知つてゐる――私は警戒してゐる。」
「私は、あなたに、刃向はむかふやうな振舞ひをしようとは思つてをりません。」と私は云つた。そして私の、今にも亂れさうな聲が、言葉を短く切るやうに教へた。
「その言葉に就いて、あなたの云ふやうな意味ではなく、私の意味では、あなたは私を駄目にしてしまはうとしてゐるのです。あなたは私のことを結婚した人間だと云つたも同然だ。結婚した人間である故に、あなたは私を避け、私から離れ去るのだ。たつた今も、私を接吻キツスすることを拒んだでせう。あなたは、自分をまつたくの他人にしようと思つてゐる――この家に、たゞアデェルの先生としてのみ住まうとしてゐるのです。もし私がしたしげな言葉をかけでもしようものなら、若し親しい感情があなたを、再び私の方に傾けでもしようものなら、あなたはかう云ふだらう、『あの男はも少しのことで私を彼奴あいつの情婦にするところだつた。私は彼奴あいつには氷のやうに、岩のやうにならなくてはならない。』從つて、あなたは氷となり岩となるだらう。」
 私は、明かな、確かな聲で答へた。「私のまはりのものはすつかり變つてしまひました。だから、私も變らなくてはなりません――それは、疑ひありません。そして、感情の動搖を避け、記憶や聯想との絶間ない戰ひを避ける爲めにはたゞ一つのみちしかありません――アデェルは、新しい先生を雇はなくてはならないのです。」
「あゝ、アデェルは學校へ行くのだ――そのことはもうめてある。また、あの厭はしいソーンフィールドホオル――この呪はれた場所――エイカンの天幕テント――大空の光に、生ける屍の物凄さを與へる、この不遜なおとしあな[#「穽」は底本では「窖」]――我々が想像するやうな場所よりも、もつと惡い、本當の、一ぴきの鬼がゐる、この狹い石の地獄の、聯想や記憶で、あなたを苦しめようとは思はない。ジエィン、あなたを此處に留めはしません。私だつてゐはしない。どんなに恐ろしい場所だか知つてゐながら、ソーンフィールド莊に、あなたを連れて來たのが、そも/\惡かつたのです。あなたに會はない前に、私はこの場所のたゝりの話を、あなたにはすべて、かくしておくやうにと皆に命じておいたのです。たゞ、もしどんな人間と同じ家にゐるか知つたなら、ゐてくれるやうな家庭教師はアデェルには一人だつてないだらうと恐れた許りに。そして私の考へはあの狂人きちがひをどこかへ移すことを許さなかつたのです――此處よりも、もつと引込んだ、見えないファンディイン・メイナアの古い家を、私は持つてゐて、そこにあの女をまつたく人目に觸れること無しに住はせ、その場所の不健康なことにもいさゝかのおそれを抱かず、森の眞中にそんな備へをして、そこから私の良心を去らせてしまふことも出來たのでせうが。多分あのじめ/\したかこひがすぐに彼女に對する私の負擔を輕くしてくれたことでせう。しかしそれ/″\惡人には、その人間自身の惡事が附き添ふものだが、私のものは、假令たとへ私の最も憎むものとは云へ、それを間接に暗殺しようといふ氣はないのですから。
「だがしかし、狂人きちがひの女が傍にゐるといふことをあなたに隱しておくことは、子供を外套にくるんで毒の樹の近くにねかしておくやうなものだつた。あの惡魔の周りは毒されてゐるのだ。始終さうだつたのです。しかし私はもうソーンフィールド莊をたゝんでしまふ積りです。玄關の戸を釘付くぎづけにして下の窓は板でかこつてしまひます。プウル夫人には、あの恐ろしい惡婆あくばとあなたが仰しやつた私の奧さまと一緒に此處に住むやうに年二百ポンドやる。グレイスは金をやればよくやつてくれることだらう。そして彼女あれはグリスビイ・リトリイトの番人をしてゐる息子を連れて來て、私の奧さまがお手のものゝ夜中よなかに寢てる人間に火をつけたり、し殺さうとしたり、ほねから肉を噛み取らうとしさうな發作ほつさを起したときには、それを取り抑へたり、すぐ傍にゐて手を藉させるだらうからね――」
 私は彼を遮つた。「あなたは、あの不幸な方に同情がおありにならないのです。あなたはあのお方のことを憎しみをもつて――執念深い反感をもつて、お話しになります。それは慘酷です――あの方が狂人きちがひにおなりになつたのは仕方のないことなのです。」
「ジエィン、私の大事な(私はあなたをさう呼ぶ、さうなんだから)、あなたは自分が何を云つてゐるのかわからないのだ。あなたはまた私を誤解してゐる。私があの女を憎むのはあの女が狂人きちがひだからではない。若しあなたが氣が違つたとして、あなたは私があなたを憎むだらうと思ひますか。」
「きつとさうだと思ひます。」
「それぢやあなたは間違つてゐる。そしてあなたは私のことは何も、それから私に出來る種類の愛に就いては何もわかつてゐないのだ。あなたの肉體にくの一つ/\の原子げんしは私にとつて大事なものです。苦しんでゐても、病んでゐても、大事なものです。あなたの心は私の寶です。そしてこはれても矢つ張りそれは私の寶です。若しあなたが氣違ひになつたら、ひだもない胴衣チヨッキではなくて、私の腕があなたを抱き留め――くるつたあなたの掴握も私には愛しいだらう。若し今朝あの女がやつたやうに恐しい勢で私にびかゝつて來ても、私はあなたを抱きしめてあげたゞらう。少くともそれがあなたを縛ることになるほど甘やかして。私があの女に對したときのやうに嫌惡けんをを以てあなたから後退あとずさりしはしなかつたゞらう。あなたが落着いてゐるときには私の他には見張りも看護人もらなかつたゞらう。そして私は假令あなたが私に微笑ほゝゑみを返さないでも飽くことなきやさしさを以てあなたの傍を離れずにゐることが出來たゞらう、そして假令たとへ今は私を認める光もなくなつたけれども、私はあなたの眼を飽かず見詰めてゐたゞらう。――だが何だつて私はそんなことを考へてゐるのだらう? 私はあなたをソーンフィールドからたせることを話してゐたのだ。ねえ、何もも今にも出發出來るやうに用意してある。明日あなたはお發ちなさい。もう一晩だけこの屋根の下に我慢してゐるやうにと頼みます、ジエィン。そしたらもう永久に不幸にも恐怖にもおさらばだ! 行く場所はあるのです。其處ならいとはしい記憶からも、煩らはしい侵入からも――僞りや誹謗ひばうからさへのがれた安全な隱れ場所なのです。」
「そしてアデェルを御一緒にお連れなさいまし。」と私は口を挾んだ。「あの子はあなたの友達になるでせうから。」
「何を云つてゐるの、ジエィン? アデェルは學校に遣る積りだと云つたでせう。またあんな子供を相手にして何うしようと云ふの、而も私の子供ぢやない――佛蘭西の踊り子の私生兒しせいじを。何だつてあの子のことであなたは私にうるさく云ふんです! 何故あなたはアデェルを私の相手にと指定するのです?」
「あなたは引込んでおしまひになると云つてゐらつしやいました。そして引込んでゐて、獨り居をなさることは退屈です――あなたには退屈すぎます。」
「獨り居! 獨り居!」と彼はいら/\して繰り返した。「説明しなくてはならないらしい。あなたがどんななぞのやうな表情をするか私は知らない。私の獨り居にはあなたも這入つてもらふのですよ。わかつた?」
 私は首を振つた。彼はだん/\昂奮して來てゐるので、おづ/\と不同意だといふ身振をすることさへ何程かの勇氣がつた。彼は足早に室内を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、不意に根でも生えたやうに一所に立ち止つた。彼は長らくきびしく私を見詰めた。私は彼から眼をそらして、火の方を見詰めて、靜かな、落着いた樣子をよそほひ保たうとつとめた。
「さあ、ジエィンの癖の故障が出たぞ!」
 とう/\彼はさう云つた。彼の樣子から私が豫期してゐたよりはおだやかに彼は云つた。「絹の絲車は今迄は工合よくまはつて來た。しかしやがてふしだの、もつれだのが來るだらうとはいつも知つてゐた。今のがそれだ。さあ、當惑と憤怒とはてしない面倒が始まつた! 何とかして、私はサムソンの力を少しでもいゝから欲しい。そしたらそのもつれを石彈いしはじきのやうにこはしてしまふのに!」
 彼は再び歩き出したが、また直ぐに立ち止つた。今度はちやうど私の前であつた。
「ジエィン! その譯を聞かしてあげようか?」彼は身をかゞめて私の耳に口をつけた。「その譯はね、若しあなたが嫌だと云つたら、私はどんな恐ろしいことをやり出すか分らないからなんです。」彼の聲はしやがれてゐた。彼の樣子は正に今堪へられぬ梏を破つてまつしぐらに狂氣じみた放縱に走り込まうとしてゐる人間の顏であつた。今一瞬間もしたら、この狂暴なはずみが少しつゞいたら、私はもはや彼をどうすることも出來なかつたに相違ないと思つた。現在――この過ぎ行く瞬間――だけが私に彼を統御とうぎよし、抑制出來るときである。拒絶、逃避、恐怖などの動作どうさは、私の運命を――そして彼のをも封じてしまふのだ。しかし私は恐れはしなかつた。些しも。私は内からの力を感じた――私を支へてくれた感化の力である。危機は迫つてゐた。しかしそれにはそれの魅力がなかつたのではない。ちやうど印度人が獨木舟まるきぶねに乘つて急流を下つて行くときに感ずるであらうそのやうなものであつた。私は握り締めた彼の手をとつて曲げた指を開かせた。そしてなだめるやうに彼に向つて云つた――
「お掛けになつてね。お好きなだけ何時までゞもお話しゝませう。そして道理だうりに合つたことでも合はないことでも、あなたの仰しやらなくてはならないことはすつかり聞かせていたゞきませう。」
 彼は腰掛けた。しかし彼は直ぐには話すことは出來なかつた。私は暫くの間涙を出すまいとつとめてゐた。それををさめようと私は一生懸命骨を折つた。何故なら彼が私の泣くのを見ることをこのまないのを知つてゐたからである。今は、しかし、いつまでゞも、思ふ存分流していゝと思つた。若しその涙が彼を惱ましたなら、益々好都合なのだ。そこで私は思ひのまゝに、心から聲をあげて泣いた。
 やがて私は彼が熱心に私に向つて鎭まるやうにと願つてゐるのを聞いた。私は彼がそんなにかつとなつてゐる間は駄目だと云つた。
「だつて私は怒つてやしない、ジエィン。たゞあなたのことをあんまり愛してたもので。それなのにあなたはその小さな蒼ざめた顏を、あんな決然とした冷たい樣子をしてこはばらしてゐるのだ。私には我慢がならなかつた。おし、もう、そして眼をお拭きなさい。」
 彼の穩やかになつた聲は、彼がやはらいだことを告げてゐた。そこで私もそれに對して泣き止めた。すると彼は私の肩に彼の頭をもたせようとした。しかし私はそれを許さうとしなかつた。それで、彼は私を彼の方に引き寄せようとした。――否。
「ジエィン! ジエィン!」と彼は云つた。そのいたましい悲しみの聲音こわねは、私のすべての神經をまつたく動かした。「ではあなたは私を愛してはゐないの? あなたが尊重したのは私の地位と、私の妻の身分だつたのか? 今私があなたの良人をつととなる資格はないと思ふので、あなたはまるで、私ががまか猿か何ぞのやうに私の手から逃げるのですね。」
 この言葉が私の心を傷けた。しかしどうすることが、また云ふことが出來よう? 多分私は何もすべきでも云ふべきでもなかつたゞらう。しかし私はこのやうに彼の感情をきずつけたことに對する後悔の念にはなはだしく責められた。私は自分が傷つけた個所に鎭痛劑を塗らうとする思ひを抑へることが出來なかつた。
「私はあなたをお愛し申してをります、」と私は云つた。「今迄よりもつと。けれども私はそんな感情を現はしても、溺れてもいけないのです。そしてもうこれが申上げなくてはならない最後のときなのです。」
「最後のときだつて、ジエィン! 何だつて! 私と一緒に住んで、毎日私に會つて、しかも、まだ私を愛してゐるのに、始終しよつちう冷たく遠ざかつてゐることが出來ると思ふの?」
「いえ、それはどうしても私には出來ません。ですからただ一つしか途はないのです。でもそれを云つてはあなたはおおこりになるでせう。」
「あゝ、お云ひ! 私が怒つてもあなたには涙といふ手があるから。」
「ロチスターさま、私はあなたのお傍を出て行かなくてはならないのです。」
「どれ位の間なの、ジエィン? 一寸の間、髮をなでつけて――いくらか亂れてゐるから――そしてほてつてゐるから、あなたのその顏をひやす間――?」
「私はアデェルともソーンフィールドとも別れなくてはならないのです。私は一生あなたとお別れしなくてはならないのです。私はもう一度知らない人々や知らない土地で、新しい生活を始めなくてはならないのです。」
「勿論。さうせねばならぬと私も云つた。あなたが私から離れ去らうとしたあの狂氣沙汰きちがひざたは看過してあげよう。あなたは私の一部分にならなくてはならんと云ふのでせう。新しい生活に就いては、大丈夫ですよ。あなたは私の妻にしてあげる。私は結婚してはゐないから。あなたをロチスター夫人にしてあげます――名實共に。私は二人が生きてゐる限り、あなた一人を守ります。あなたは、南佛蘭西にある私の土地へいらつしやい――地中海の岸邊にある白塗しろぬりの別莊に。そこであなたは幸福な、まもられた、世にも罪知らぬ生活を送るのです。決して私があなたを過失に誘ひ込まうとしてゐる――あなたを私の情婦にしようとしてゐると恐れないで下さい。何故首を振るの? ジエィン、きゝわけがなくてはいけない。さもなけりや本當に私はまた激昂しますよ。」
 彼の聲も手も顫へてゐた。彼の大きな鼻孔びかうは擴がつてゐた。彼の眼は燃えてゐた。でも私は押して口を切つた。
「あなた、あなたの奧さまは生きてゐらつしやいます。そのことは今朝御自分で仰しやつた事實です。若しあなたがお望みのやうにあなたと暮したなら、それでは私はあなたのめかけになるではございませんか。さうでないと仰しやるのは詭辯です――僞りです。」
「ジエィン、私は温順な人間ぢやない――あなたはそれを忘れてゐる。私はいつまでも我慢してゐられる人間ぢやない。私は冷靜れいせいでもなければ落着いてもゐない。私を、そしてあなた自身を可哀想だと思つて、指で私の脈搏にさはつて、どんなに脈を打つてゐるか聞いて御覽。そして、――氣をお附けなさい!」
 彼は手首をあらはにして、私の方に差し出した。血のは頬からも唇からも失せて、だん/\蒼ざめてゐた。私はどうしていゝかこうじ果てゝしまつた。彼がみ嫌つた反抗で、こんなに深く彼をかき亂すのは慘酷だつた。從ふのは問題の外である。私は人間がまつたく行きつまつてしまつたときに、本能的にすることをした――人間以上のものに助けを願つたのだ。「神さま、私をお助け下さい!」といふ言葉が我知らず口に上つた。
「私は莫迦ばかだ!」と不意にロチスター氏は叫んだ。「私は結婚してゐない、とばかり云ひ續けて、その譯を説明してゐない。あの女の性格のことも、またはあの女との呪はしい結婚に伴ふ事情も、この人は知らないことを忘れてゐる。おゝきつと私の知つてることを全部知つたなら、ジエィンだつて私の考へに賛成してくれるに違ひない! あなたの手を貸して下さい、ジャネット――あなたが私の傍にゐることが分るやうに、眼で見ると同じやうに、手でも觸れて見られるやうに――そしたら、二言三言ふたことみことで本當の事情を分らせてあげます。聞いてゐられますか?」
「え、お望みなら幾時間でも。」
「ほんの數分でいゝ。ジエィン、あなたは私がこの家の長男ではなく、かつて、私に、兄があつたといふことを聞くなり知るなりしてゐましたか?」
「いつぞやフェアファックス夫人がさう仰しやつたのを覺えてをります。」
「私の父が慾深い貪慾な人間だつた事もきゝましたか?」
「そんなことも薄々うす/\は存じてをります。」
「ぢあ、ジエィン、そこで、財産を一※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、336-下-7]めにして、持つて行かうといふのが、父の決心だつたのです。自分の領地を分けたり私に相當な分前わけまへをくれることが、我慢がならなかつた。父の考へでは、すつかり、私の兄のロウランドに讓らなくてはならないと云ふのでした。それかと云つて自分の息子の一人が貧乏人になる事も堪へられなかつたのです。私は金持との結婚で、養はれねばならない。父は程なく一人の相手を探してくれました。西印度の農園主で商人のメイスン氏が父の古い友達でした。その男の財産は確實で廣大であると、信じてゐた。彼は調査をしたんです。メイスン氏には、一人の息子と娘のあることを彼は發見しました。そしてまた彼がその娘に三萬ポンドの財産を彼が與へることが出來るし、またしようと思つてゐることを彼から聞いてゐました。それで十分でした。大學を出ると、私は既に私の爲めに求婚してある花嫁と結婚をしにジャマイカにられたのです。父はあの女のお金のことは何も云はなかつた、たゞ父はメイスン孃はその美貌でスペイン町の誇になつてゐると云ひました。またそれは嘘ではなかつたのです。あの女は美人でした、ブランシュ・イングラムのやうに――背が高くて、色の淺黒い、堂々としてゐました。彼女の家族の者は私がいゝ系統の出なもので私を欲しがつてゐたし、彼女も同樣でした。人々は宴會の席上で、立派に着飾つた彼女を私に引き合せました。私は殆んど彼女だけと會つたことはなく二人切りの話も殆んどまつたくしたことはありませんでした。彼女は私にお追從つゐしようをし、私の氣にいる爲めに、その魅力と才藝を惜しみなく見せびらかしました。彼女を取卷く男たちは皆彼女を稱讃し、私を羨んでゐるやうに見えました。私は目がくらみ、刺※[#「卓+戈」、U+39B8、337-上-13]され、心は昂奮してしまつた。そして何も知らず、初心うぶで、經驗も無かつたもので、自分は彼女を愛してゐると思つたのです。交際社會の馬鹿げた競爭や青年の盲目まうもくや輕卒や春情しゆんじやうほど、人を驅つて、愚かにするものはありません。彼女の親類たちが私を勇氣づけ、競爭者達が私を刺※[#「卓+戈」、U+39B8、337-上-18]し、彼女が私を誘惑して、自分が何處にゐるかさへ殆んど分らない内に結婚が出來てしまつたのです。おゝ、その行爲を考へると私は自分が尊敬出來ない!――内心から起る侮辱の苦惱が私をおさへつける。私は決して愛さなかつた。決して尊敬しなかつた。私は彼女を知ることすらしなかつた。彼女の性質に一つの美徳が存在するといふことすら確かでなく、彼女の心にも樣子にも、何一つつゝしみ深さも仁愛も高潔さも、洗煉された點も見えなかつた。それに私は、彼女と結婚した――愚鈍ぐどんな卑屈な、目の見えぬ莫迦者ばかものだつたのだ。私は! 私の罪は、――いや、誰に話しをしてゐるか忘れないやうにしなければ。
「私は、私の花嫁の母親といふ人は見たことがなかつた。くなつてゐたのだと察してゐました。新婚の旅が終ると、私は自分の間違ひを知りました。母親は氣がくるつてゐて精神病院に閉ぢ籠められてゐるのでした。弟も一人あつて、それも――まつたくのおしの白痴だつたのです。あなたも會つたあの兄の方(あの家の者はみんな嫌ひなのに、あの男だけは私にも憎めない。彼は弱々しい心にもいくらか愛情があつた、あの淺間あさましい妹に始終しよつちう氣を附けて世話をしてゐるし、またかつては犬のやうな愛着を以て私につきまとつたこともあるから)も、いつか、氣がくるふでせう。私の父も兄のロウランドも、このことはすつかり知つてゐたのです。けれども二人は三萬ポンドに目がくれて、一緒になつて、私をおとれたのです。
「これはいとはしい發見でした。しかし、それを祕密にしてゐたといふ陰謀を除いては、私はかういふ發見によつて、妻を責めることは出來なかつたのです。彼女の性質がまつたく私とかけ離れてゐて、趣味は私にとつていとはしく、心ざまは俗で、低級で、狹く、より高いものに向上するとか、より大きなものに擴げられるとか云ふことが特別に駄目だと分つたときにさへ。一晩でも、一日のうち一時間だつて、彼女とは樂しくは過せないと分つたとき、また――我々の間にはやさしい會話もつゞかない、何故なら私の口にした話題は、どんなものであらうとも、直ぐに彼女からは下品げひんな陳腐なもの、意地惡い、痴鈍ちどんなものとなつて返つて來るのだと分つたときにも、また――私は、決して落着いた堅實な家は持てない。何故ならばどんな召使も、彼女の始終の亂暴な、道理をわきまへない怒り方や彼女の莫迦ばからしい、矛盾した、嚴しい命令に苦しめられることなどを耐へてはゐないから、といふことを私が分つたときにも――そのときだつて私は自分を制してゐたのです。私は叱ることを避け、忠告も控へ目にしました。私は、私の悔いや嫌惡の情を、貪ることを祕密にしようと努力した。根強い反感を感じるのをおさへつけてゐたのです。
「ジエィン、もういとはしい詳細のことであなたを苦しめるのはさう。私の云はなくてはならないことを盡すには少し烈しい言葉がるのです。私はあの三階に[#「三階に」は底本では「二階に」]ゐる女と四年間暮しました。そしてその前に彼女は本當に私を苦しめたのです。彼女の性質は恐ろしい速力で成熟し、發達しました。彼女の不行跡ふぎやうせきはます/\擴がりひどくなつて、それがあまりに烈しいのでたゞもう手荒な遣り方しかそれをさし止めることが出來なくなつて來ました。而も私はそんな荒つぽい遣り方を選び度くなかつたのです。なんと、小人こびとの智慧と巨人の性癖とを彼女は持つてゐたことか! その性癖が私の上にかけた呪ひは何といふ恐ろしいものだつたか! 破廉恥はれんちの母親の本當の娘、バァサ・メイスンは、酒飮みで同時に不身持な妻に縛りつけられた男に付きものゝ、あらゆる憎むべき墮落の苦惱の中に、私を引きずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したのです。
「その間に私の兄はくなり、四年目の終りには父もくなつたのです。今は私は十分に金持になつたのです――しかし實は、厭はしい心の貧困だつたのです。今まで見たこともない世にも愚鈍ぐどんな、不純な、腐爛した人間が私に結び付けられ、法律により、社會によつて私の半身と呼ばれてゐるのです。そしてどんな法律的な訴訟手續によつてもそれから逃れることは出來ない。醫師達はそのとき私の妻が發狂してゐることを發見したのです――あの女の無節制が早くも精神錯亂の萠芽を育てゝしまつたのです。ジエィン、あなたは、私の話しが嫌ですか。氣分が惡いやうだけれど――この續きはまた別の日にのばしませうか?」
「いゝえ、今話してしまつて下さい。私はあなたがお可哀さうです――心の底からお可哀さうに思ひます。」
「同情といふものは、ジエィン、受ける人によつては有害な、無禮なもので、人はそれを提供した人の口に投げ返しても差支へないものです。しかしその種の同情は無情な、利己的な心から發生したものです、また、悲しいことを聽いたときの身勝手な苦痛が、その悲しみを堪へた人に對する無意識の輕蔑と入り混つた、その二つの混血兒あひのこです。しかしあなたの同情はさうではない、ジエィン。あなたの同情は、今この瞬間にあなたの顏ぢうにみちわたつてゐる感情――あなたの眼が殆んど溢れさうになつてゐる――あなたの心が一ぱいになつてゐる――あなたの手が私の手の中に顫へてゐる、それだ。あなたの同情は、愛を生み出す惱みの母だ。その苦惱は、神聖な熱情を生む爲めの陣痛じんつうです。私はそれを受ける、ジエィン。その愛を自由に生れしめよ――私は腕を擴げて待つてゐます。」
「さあ、その先を續けて下さい。あの方が狂氣きちがひだと分つたとき、あなたはどうなすつたのでございます?」
「ジエィン、私は絶望の淵に近づきました。私とその淵との間に在るのは、たゞ、私の自尊心の殘りかすだけでした。世間の眼にはきつと私は、恐ろしい恥辱を蒙つてゐると見えたでせう。しかし私は自分の眼を曇らせまいと決心して、最後まで、彼女の罪にまきこまれることをしりぞけ終せました。彼女から自分をもぎ離しました。だがそれでも世間は私の名と人間とを彼女に結び付けて考へました。私はなほ未だあの女に毎日會ひ、あの女の聲を聞き、あの女の息(あゝ堪らない!)が私の吸ふ空氣中にまじつてゐたのです。その上、私には自分が嘗てあの女の良人をつとだつたといふ記憶がある――その囘想が、當時も今も何とも云へず私にはいとはしい。それ處か、彼女が生きてゐる限り私は他の妻、もつとい妻の良人をつととなることは、斷じて不可能だといふこともわかつてゐる。そしていくら私より五つも年上だとしても(あれの家の人や父親は彼女の年のことでさへ私に嘘を云つたのです)、あれは私と同じ位生きてゐさうです。心が駄目なのに匹敵ひつてきする位身體の方は頑丈なのだから。かうして二十六と云ふに私は希望を失つてしまつたのです。
「ある晩私はあの女の叫び聲に目を醒まされました――醫者が彼女の氣のくるつたことを告げて以來、彼女は無論閉ぢ籠められてゐたのです。燃えるやうな西印度の夜でした、あの地方で屡々暴風の前に來る種類のものです。床の中に眠れないので私は起き上つて窓を開けました。空氣はまるで硫黄ゐわうの蒸氣のやうで――どこにも氣分を爽やかにするものは見つからない。蚊はブン/\這入つて來て部屋の中を陰氣にとび※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。そこにゐて聞く海鳴りは地震のやうに鈍い轟きを立てゝゐる。その上に黒雲がかぶさりかけてゐる。月がけた砲丸のやうに、大きく赤く、波の間に沈みかけて――それが暴風あらしのやつて來るのに顫へながら、最後の血の色をした一瞥を地上に投げてゐました。私は大氣と景色とに肉體的にまで影響され、私の耳には狂人がなほも叫んでゐる呪ひの言葉が一杯になつてゐた。その中に彼女は惡魔の憎惡の調子やまつたくひどい言葉に私の名前を混へ時折叫ぶのです――どんな玄人くろうとの淫賣婦だつて、あの女以上の汚い言葉を使ひはしないでせう。二部屋隔てゝゐたにも拘らず私は一語々々聞きとつた――西印度にしインドの家屋の薄い仕切しきりは彼女の狼のやうな叫び聲を隔てるのにほんの僅かしか役に立たなかつたのです。たまりかねて私は云ひました。
「『この生活は地獄だ。これがその空氣だ。あれが底なし地獄の響だ! 若し出來るのだつたら私はそこから自分を救ひ出す權利があるのだ。この致命的ちめいてきな状態の苦しみは、今私の魂を壓迫してゐるこの重い肉體と共に私から離れ去るだらう。狂信者きやうしんしやの云ふ未來の焦熱地獄などは私にはこはくはない。この現在の状態より以上に惡い未來はない――これを脱して、神さまの處へ歸らせて下さい!』
「かう云つて私は跪づいて、裝填さうてんしたピストルの革帶かはおびの這入つてゐる鞄のぢやうを開けました、自殺する積りだつたのです。だがそんな心は一瞬間だけでした。私は發狂してはゐなかつたんですから、自殺の意志と計畫を生んだ實に純粹な絶望の最高潮は、瞬間の内に過ぎてしまつたのです。
「歐羅巴から來た爽やかな風が、海面をわたり、開け放した窓にさつと吹き込んで、暴風が起り、俄かに雨がやつて來て、かみなりが鳴り、稻妻いなづまが閃いて、大氣は清澄になつた。そのとき私ははつきりと決心したのです。しめつた自分の庭のしづくのたれるオレンジの木の下を、そして濡れた柘榴ざくろの木やパインアプルの間を歩く間に、熱帶の輝かしい夜明よあけが私のまはりにかゞやく間に、私は次のやうに考へを進めたのです、ジエィン。よく聽いて下さい、それこそそのとき私を慰め、行くべき正當な途を私に教へた眞の智なのですから。
「歐羅巴から吹く爽やかな風は猶も清々すが/\しく洗はれた木の葉の間に囁いて、大西洋は豪壯に轟いてゐます。長い間乾き切つてきつきさうになつてゐた私の胸も、その響きに合せて高まり、活々とした血が漲り――私の肉體は更生かうせいを望み――私の魂は清らかな歡喜にかはいてゐるのでした。私は希望の甦つたことを知り――新生の可能なことを感じました。庭の下手しもての花門から私は海を見渡した――空よりも青いのです。古い世界は彼方に去り、新しい前途は次のやうに開けたのです。――
「希望はかう云ふのです。『行つて今一度歐羅巴にお住み、其處ではお前がどんな不名譽な名を負つてゐるかも、どんなけがらはしい重荷がお前に結び付いてゐるかも、分つてはゐないのだから。お前は狂人を英吉利へ連れて行くがいゝ、彼女を、相當の看病と警戒をもつて、ソーンフィールドに監禁するがいゝ。そしてどこでも好きな土地へ旅行して、氣に入つたえんを結ぶがいゝ。かくも長い間堪へた、お前を虐待し、かくもお前の名を汚し、かくもお前の名譽を臺なしにし、かくもお前の青春をしぼませたあの女は、お前の妻ではない、またお前もあれの良人をつとではない。あの女の病氣に必要なだけの世話をしてやるやうにしろ。それでお前は神と人道がお前に要求するだけのものはしたことになるのだ、彼女の正體、彼女のお前との關係は闇の裡にはうむれ。お前はそれを生きてゐる人間に知らせることはらない。あの女を安全に、氣樂にさせておけ。あの女の生恥いきはぢをこつそり隱し、そして彼女の許を去れ。
「私は正確にこの提議にもとづいて行動しました。父と兄とは私の結婚を、知人には知らせてはゐませんでした。彼等に結婚を知らせてやつた最初の手紙に――もう既にその結果に堪らない嫌惡けんをを感じ、またあの一族の性格や體質からも、厭ふべき未來を知つたので――私はそれをかたく、祕密にしておいてくれと附け加へたのです。しかも、忽ち、父の選んでくれた私の妻の破廉恥はれんちな行爲は、父にとつてもあの女を嫁と呼ぶのを恥ぢるやうなものだつたのです。この結婚を發表する處か、父も私と同じやうにそれを隱しておく方に、一生懸命になつてしまつたのでした。
「さて私はあの女を英吉利に連れて來ました。あんな怪物を船にのせて、私にとつては恐ろしい航海でした。やつとソーンフィールドに連れて來て、あの三階の部屋に無事に入れたときにはほつとしました。あの人知れぬ奧の部屋を今迄十年間野獸の洞穴ほらあな――鬼の窟のやうにして住んでゐるのです。あれの附添を見つけるのに大分苦心しました。信用の置けるやうな忠實な人間を選ばなくてはならないからなんです。何故なら、あの女があばれ出すと私の祕密をどうしても洩らすのですから、その上、あの女は幾日か――時には何週間も――正氣しやうきに返るときがあつて、その時には立てつゞけに私を罵るのですから。やつと私はグリムスビイ・リトリイトからグレイス・プウルをやとひました。あれと外科醫げくわいのカアタア(メイスンが刺されて傷を受けたあの晩、彼の傷の手當をした)とが私の信頼してゐる唯二人の人間なのです。フェアファックス夫人はきつと何か疑はしいと思つてゐるでせうが、正確な事實は知つてゐる筈がないのです。グレイスは、全體としては、いゝ見張人です。たゞ、彼女の厄介な職業にあり勝ちな、何ものも強制することの出來ぬ彼女自身の缺點にもよるでせうが、あの女の監視は、一度ならず留守になり失敗したのです。狂人は拔目ぬけめがなく惡意があつて自分の見張りが時々氣をゆるめるときに乘ずることを見逃しはしない――一度は自分の兄を刺したナイフをかくし、二度迄自分の部屋の鍵を手に入れて、夜半よなかに彼處から出たのです。その最初のときに寢床にゐる私を燒き殺さうとし、二度目にはあなたを脅かしたあの訪問となつたのです。あなたを守り給ふた天に私は感謝する。あのときあの女があなたの婚禮衣裳に亂暴をしたのは、多分、自分の婚禮の日の事を朧げに思ひ出したのでせう。しかし、何が起つたにしても、私は思ひ返すに堪へられない。今朝私の咽喉のどびついた彼奴が、あの黒ずんだ深紅な顏を、私の鳩の寢床ベッドにさしのばした事を考へると、私の血は凍る――」
「そして一體、」と私は彼が口をつぐんだ間にたづねた。「あの方を此處に落着かせてから、あなたはどうなすつたのですか? 何處へいらしたのです?」
「どうしたかつて、ジエィン? 私は自分を、鬼火おにびのやうな一所不住の人間にしてしまつたのです。何處へ行つたかつて? 私は三月からつ風の精のやうに、氣違ひのやうに、放浪を續けたのです。私は大陸へ渡つて、あちらこちらと國々をまはつた。私のはつきりした望みは私の愛し得るやうな善良な聰明な女の人を探し求めることだつたのです――ソーンフィールドに殘してあるあの悍婦かんぷと正反對の人を。」
「でもあなたは結婚なさることは出來なかつたのでございませう。」
「私は自分に出來ると信じ、すべきだと信じてゐた。私はあなたをだましたけれど、それは私の元々の意志ではなかつた。私は自分のことを明らさまに話して、公然と申込をしようと思つてゐたのです。また私が自由に愛し自由に愛されることから、絶對に合理的だと思へました。私は自分の背負つてゐる呪に拘らず、私の立場を喜んで理解し、また理解し得る女の人が誰かありさうなものだと云ふことを疑はなかつたのです。」
「それで?」
「あなたが質問をするときは、ジエィン、いつでも私は微笑ほゝゑみたくなりますよ。熱心な鳥のやうに眼をみひらき、始終、どんなに速かな返辭でも足りぬといつた風に、また、他人の胸の中の繪を讀みとらうとしてゐるやうに、落着きを失つてゐる。だが先を續ける前に、あなたの『それで?』といふのはどんな意味か云つて下さい。それは始終しよつちうあなたの口にする短い言葉で、また度々私に果しないお喋べりを續けさせたものなんです――何故だかよくは分らないけれど。」
「私の云つたのは、次はどうなるのかといふ意味です。どうなすつたか。その出來事の結末はどうなつたかといふ。」
「成程! して今は何を知り度いのです?」
「あなたのお氣に召した人を誰かお見附けになつたかどうか、その人に結婚をお申込みになつたかどうか、また、その人が何と云つたかを。」
「私の好きな相手を見つけたかどうか、その相手に結婚の申込をしたかどうかは話して上げられる。しかし、その女の云つた言葉は、疑問です。十年といふ長い年月の間、私は一つの首都へ、――時にはセントペテルスブルグに、大抵は巴里に、たまには羅馬や、ナポリやフロレンスに移り住んで流れ歩いたのです。澤山のお金と、舊家きうかの名をかいた旅行劵を持つてゐたので、私は自分自身の交際社會を選ぶことが出來ました。どの社會も私に向つて閉ぢられはしなかつたのです。私は英國の貴婦人や、佛蘭西の伯爵夫人や、伊太利の令夫人や、獨逸の伯爵夫人の間に自分の理想の女を探したのです。見つからなかつた。時に、ふとした瞬間、私は自分の夢の實現を告げるやうな視線を捉へ、聲を聞き、姿を見たと思つた。しかし直ぐに私は悟つてしまつたのです。あなたは私が心にしろ、姿にしろ完全に欲してゐたとは想像してはいけません。私はたゞ自分に合つたもの――西印度インド移住民クレオールの正反對を求めてゐたのです。だがその望みはむなしいものでした。さういふ人たち全部の中に、もし私が自由だつたなら、自分で――はない結婚の危險、恐れ、呪はしさに警告されてゐたので――結婚を申し込んだゞらうと思はれるやうな人は一人もゐなかつたのです。失望の爲めに私は向う見ずになりました。私は浪費をやつた――放蕩ふしだらではない。放蕩ふしだらを私は憎んだし、今も憎んでゐます。それは私の西印度のメッサリナ(淫奔いんぽんな妻)の持前です。それとあの女とに根ざした嫌惡が、面白いことをするときにさへ私を抑止よくししました。放蕩に近い享樂はみんな私を、あの女と、あの女の不行跡ふぎやうせきに近づけるやうに思はれたのです。私はそれに遠ざかつてしまつた。
「けれども私は獨りで生きては行けなかつた。そこで私は情婦と一緒にゐることをやつてみた。最初に私が選んだのはあのセリイヌ・ヴァランでした。あの、男が思ひ出しては自分自身を爪彈きしたくなる、行動の一つです。あなたはあの女がどんな人間か、またあの女との私の關係がどう終つたかをもう知つてゐますね。あの女の次には二人――伊太利人のジァチンタと、獨逸人のクララです、二人共非常に美しいと云はれてゐました。數週間の間の彼女あれ達の美しさが、私にとつては何だらう? ジァチンタは、不品行で、狂暴だつた。私は三ヶ月であの女に飽きてしまつた。クララは正直で靜かだつた。だが鈍重で痴鈍ちどんで感じのにぶい、まるで私の趣味には合はないものだつた。私はよろこんで彼女に正業をはじめるに十分な金を與へて、ちやんと、あの女と手を切つた。だが、ジエィン、あなたの顏を見ると、あなたは今、私をひどく賞讃してゐないことが分る。あなたは私のことを無情むじやうな、放埓な惡黨だと思ふでせう――ねえ?」
「本當に、時々あなたのことを好きだと思つた程には、好ましくは思へません。そんな風に、初めの一人の女と住み、次にはまた別の人と住んで暮すといふことがあなたには殆んど惡いことにはお見えにならなかつたのではございませんか? あなたはまるで何でもないことの成行なりゆきのやうに、その事實を話してゐらつしやる。」
「私はさうでした。而も好んでしたことではなかつた。それは下等な生活法だ。私は決してそれにかへり度いとは思はない。情婦をかこふといふことは、奴隷を買ふに次ぐ惡いことだ。奴隷も妾も屡々その性質が、劣等れつとうで、またいつでもその地位が劣等なものだ。そして劣等なものと親しく住むことは墮落だ。今は私はセリイヌやジァチンタやクララと共に過した頃の思ひ出を憎んでゐる。」
 私はこの言葉の眞實であるのを感じた。そして、それから、私は一つの結論を引き出した。即ちもし私が自分自身を、そして私のうちに沁み込まされた教訓の全部を、忘れる程にまでなつてゐて、――どんな口實の下にも――どんな名義によつても――どんな誘惑につても――このみじめな娘たちの後を追ふならば、ロチスターは、彼が現在思ひ出しては侮蔑してゐる、その侮蔑を以て、他日私のことも思ひ出すであらう。私はこの確信に就いて何も云ひはしなかつた。感じただけで十分であつた。いつか試練のときに、私の助けとなるやうに、私はそれを自分の胸に刻んでおいたのである。
「さあ、ジエィン、どうして『それで?』と云はないの? 話は終つてはゐない。あなたは難かしい顏をしてゐる。まだ私を許してはくれないのですね。だが、大事なことを云はせて下さい。この正月そんな女たちの皆から逃れて――無益な、孤獨な、放浪の生活の結果、すさんだ、苦々しい氣持で――失望にむしばまれ、すべての男に對して、特にすべての女といふものに對して、嫌な氣持を抱いて(何故なら、もう智的な、誠實な、愛らしい女の人に對する觀念を單なる夢と見做しはじめてゐたので)、仕事に呼び返されて、私は英吉利へ歸つて來たのです。
「あのこほるやうな冬の午後、私はソーンフィールド莊の見えるところに馬を進めてゐました。堪らない場所! 其處に私は何の平和も――よろこびも期待してはゐなかつたのです。ヘイ・レインの※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)木戸きどの上に、私は靜かな小さな姿が一つぽつんと立つてゐるのを見た。私はそれをまるで向う側にあつた刈り込んだ柳と同じに見過して了つた。それが私にとつてどんなものになるかといふ豫感もなく、私の生活――善または惡に對しての私の精神――の裁決者が質素しつそなりをして其處に待つてゐるといふ警告も心になかつたのです。あのメスルーの椿事ちんじがあり、その人が近づいて來て眞面目になつて私に手をかしたときにさへ、私は氣が附かなかつた。子供々々したほつそりした人! まるで紅雀べにすゞめが私の足下にぴよい/\跳んで來て、その小さな羽根に私をのせてやらうと云つてるやうな氣がした。私は無愛想だつた。しかしその人は行かうとしなかつた。妙にじつと私の傍に立つて、何か權威のある眼付をし、口を利いた。私は手を借して貰はなくてはならない。そしてその手で、私は助け起された。
「ふとそのかぼそい肩を押へたとき、何か新しいもの――新鮮な活力と感覺――が私の身體にしのび込んだ。この小妖精が私の處に歸つて來ることを――向うの下の私の家につとめてゐるといふことを――知つてよかつた。さもなければそれが私の手からすりぬけて行つてしまふのを感じ、薄暗くなつた生籬いけがきの彼方に消えてしまふのを見て、何とも云へぬ殘り惜しさを感じないではゐられなかつたゞらう。私はあなたがその晩歸つて來たのを聞いた、ジエィン。あなたは私があなたのことを思つたり、見守つたりしてゐたことには氣が附かなかつたかも知れないが。次の日、私は――自分は見えないやうにして――半時間も、あの廊下であなたがアデェルと遊んでゐる間中、あなたを見てゐた。さう、あれは雪の降つた日で、戸外そとに出られないのだつた。私は自分の部屋にゐた。ドアが少し開いてゐて、聞くことも見ることも出來たのです。アデェルは暫くあなたの心を外部に向けさせてゐた。だが、あなたの心は何處か他の處にあつたらしい。しかしあなたはあの子と一緒に隨分辛抱しましたね、ジエィン。あなたは長い間あの子に話しかけたり、遊ばせてやつたりしてゐた。やつとあの子が行つてしまふと、直ぐにあなたは深い物思ひに耽つてしまつた。あなたはゆつくりと廊下を歩き出した。窓の側を過ぎ乍ら、時々あなたは降り積る雪を眺めた。また泣くやうな風の音に耳を澄まし、そして再び靜かに歩き續け、夢想を續けてゐた。その晝の夢は暗いものではないと思つた。時々あなたの眼には樂しげな輝きが見え、顏には安らかな昂奮が表はれた。それは何一つ辛い、氣難かしい、憂鬱な物思ひを表はしてはゐなかつた。あなたの樣子は寧ろ青春の美しい物思ひを表はしてゐた。理想の天へあまかける、希望のあとを思ひのまゝに翼を張つて、飛んで行く青春の靈を表はしてゐた。廣間で、召使に物を云つてゐるフェアファックス夫人の聲にあなたは我にかへつた。そして何と詮索的せんさくてきな微笑をあなたは自分に向つてうかべたことでせう。ジャネット! あなたの微笑は意味の深いものだつた。非常にはしこくて、あなたの放心を輕快なものにするやうに思はれた。それはかう云つてるやうに見えた――『私の美しい夢は皆本當にいゝものです。でもそれはまつたく眞實にあるものではないことを忘れてはいけない。私は自分の頭の中に薔薇色の空と緑の花に滿ちた樂園らくゑんを持つてゐる。でも外には、旅をすべきひどい路が私の足下に横はり、遭遇すべき恐しい暴風雨あらしが私の周圍に迫つてゐるのだ。』あなたは階下へ駈け下りてフェアファックス夫人に何か仕事を願つてゐた。一週間毎にする家計か、さもなければ何かさう云つたものだつたと思ふ。私は見えなくなつたので、あなたがじれつたくなつた。
「あなたを私の前に呼びよせていゝ夕方の來るのを、私はぢり/\し乍ら待つてゐた。あなたの性格は、私にとつては、珍らしい、新奇しんきなものでした。私はもつと深く探り、もつとよく知り度いと思つた。あなたははにかんだやうな、同時にしつかりしたやうな、顏付と樣子をして部屋に這入つて來た。あなたは妙ななりをしてゐた――今のあなたのとよく似てゐた。私はあなたに口を利かせて、直ぐに妙な相違が一杯あることが分つた。あなたの服裝ふくさうや態度は規則に縛られてゐるし、樣子は屡々遠慮深すぎ、そしてまた生れつき洗煉されたものではあるが、まつたく社交に慣れてをらず、何か不作法ぶさはふや失錯をして惡く目立ちはしないかと散々氣遣つてゐるのだつた。だが物を云ひかけられるとあなたは鋭いきつとした輝いた眼を、問ひ手の顏に向けた。あなたの與へる一瞥々々には洞察と力があつた。矢繼早やつぎばやの質問が來てもあなたは落着いたはつきりした返辭をした。直ぐにあなたは私に慣れたらしかつた。きつとあなたはあなたといかつい、むつゝりしたあなたの主人との間に同じ氣持の通つてゐるのを感じたゞらうと思ひますよ、ジエィン、何故なら、すぐさまある氣持のよい安易あんいがあなたの態度を落着かせたのは驚く程だつたからです。困らせようとしても、あなたは、私の氣難かしさに對して何の驚きも、恐れも、迷惑も、または不快も見せなかつた。あなたは私を見守つて、時々あどけない、而も何とも云へない聰明なしとやかさで私に微笑ほゝゑみかけた。私は直ぐに自分の見たものに滿足し刺※[#「卓+戈」、U+39B8、347-上-7]された。私は自分の見たものが好きになり、もつと見たいと望んだ。だが長い間、私はあなたを遠く隔てゝ、殆んど會ふこともしなかつた。私は智的の快樂主義者なので、この珍らしい、面白いまじはりをする喜びを長びかせようと思つた。それに、その頃、私は、もしその花を思ふまゝにしたならその花の色はうつろふだらう――新鮮さから來る快い魅力はそれからなくなつてしまふだらうといふ恐れにつき※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、347-上-14]はれて苦しんでゐた。それが果敢ない花ではなく、寧ろ不滅の寶石にり込まれた輝かしい花だといふことをその頃、私は知らなかつたのだ。それ以上にもし私があなたを避けたら、あなたは私を探すかどうかを知らうと思つた。しかしあなたは私を探さなかつた。あなたはまるで自分の机や畫架カンヴアスと同じやうに、靜かに勉強室に閉ぢ籠つてゐた。たま/\あなたに逢ふことがあつても、あなたはさつさと通り過ぎて、始終しよつちう尊敬の態度をしてると同じく、殆んど認めたといふしるしもなく行つてしまふのだつた。その頃のあなたの習慣的な表情はね、ジエィン、考へ深い樣子だつた――元氣のないものではなかつた。何故なら弱々しくはなかつたから。しかし浮々うき/\もしてゐなかつた、何故ならあなたは殆んど希望を持たず、何一つ現實には樂しみがなかつたから。私はあなたが私のことを何と考へてゐるか、また私のことを考へたことがあるだらうかと疑つた。そして、これをはつきりさせようと決心したのだつた。
「私はまたあなたを注意しはじめた。すると話しをするときのあなたの眼差まなざしには何か喜ばしさうなものがあり、樣子にも親切らしいものがあつた。あなたは社交的な心を持つてゐる。あなたを悲しさうにしたのは物云はぬ勉強室であり――あなたの生活の退屈さだつたのだ。私はあなたに親切にしてやる喜びを自分にゆるした。親切は直ぐに情緒じやうしよを刺※[#「卓+戈」、U+39B8、347-下-15]して、あなたの顏は優しい表情を浮べるやうになり、言葉の調子は穩やかになつて來た。私は、嬉しさうな、幸福らしい口調で私の名があなたの口に上るのを聞くのが好きだつた。ジエィン、私は、その頃は、あなたに出會でつくわすのを樂しんでゐた。あなたの態度には物問ひ度げなためらひがあつた。あなたは一寸困つたやうに――決しかねた疑惑の眼で私を見た。あなたには私の氣紛れがどう表はれるか――主人になつて氣難かしい樣子をするやら、友達になつて親切な態度をするやら見當が附かないのだつた。今は私はそのはじめの氣紛れを度々するにはあまりにあなたを好きになり過ぎてゐる。そして私が心を籠めて兩手を擴げると、あなたはその若い、物思はしげな顏に、非常な櫻色さくらいろが、輝きが、幸福らしい色がのぼつてくるので、そのときその場であなたを、私の胸に抱きしめるのをさへ控へる爲めには、私は隨分骨が折れた。」
「あの頃のことをこの上もう云はないで下さい。」と私はさへぎつた。眼からはひそかな涙がはら/\とこぼれた。彼の言葉は私には苦痛であつた。何故なら私には自分のしなくてはならぬこと――それも今直ぐ――が分つてゐた、そしてすべてこれ等の思ひ出、彼の感情を洩らす話は私のすべきことを益々困難にするばかりであつたからである。
「いや、ジエィン、」と彼は答へた。「現在はこんなに確實で――未來はそんなに輝かしいのに、過去を説く必要が何處にあらう?」
 私はこの心の燃え上りさうな斷言を聞いて身顫ひした。
「さあ、これで分つたでせう――ねえ?」と彼は續けた。「半分は口に云はれぬ悲慘の中に、半分は陰慘な孤獨の裡に青年時代と壯年時代を過してしまつた後で、私は初めて自分の眞に愛することの出來るものを見出した――あなたといふ人を見出したのだ。あなたは私の共鳴者――よりよい私自身――私のよき天使だ。私は強い愛着であなたに結びつけられてゐる。私はあなたのことを善良で、才能があつて、愛らしいと思つてゐる。私の胸にははげしい、嚴肅な熱情が宿つてゐる。それはあなたの方に傾き、あなたを私の中心へ、生命の泉へ引きよせ、私といふものゝ存在をあなたのまはりにまとはせ、きよらかな、力に滿ちた焔の中に輝きながら、あなたと私を一つにとろかしてしまふのだ。
「私があなたと結婚しようと決心したのはこのことが分つてゐたからです。私にはもう妻があると云ふのは、何もならない嘲りです。私にはたゞいとはしい惡魔があるだけだといふことをもうあなたは知つてゐる。あなたをだまさうとしたのは惡かつたけれど、あなたの性質にある頑固さを恐れたのです。私は先入の偏見へんけんを恐れたのです。危險な打明け話をする前にあなたを自分のものにして了ひ度かつたのです。これは卑怯ひけふなことだつた。私は最初にあなたの高貴な心に、寛容に訴へるべきだつたのだ、最初に、まづ今やつてるやうに――私の苦惱の生活を明らさまに打明け――より高尚な價値ある生活に對する私の飢渇きかつを説明し――私の決心(いや、この言葉ではなまぬるい)私の誠實なよき愛情を傾けたいといふ私の止み難き欲念を示すべきであつた。そこではまた誠實によく愛し返されるであらうから。さうした上であなたに私の變らぬ誓ひを承知して下さるか、またあなたの誓ひを私に與へて下さるかとたづねるべきだつた。ジエィン――今それを私に下さい。」
 沈默。
「何故何も云はないの、ジエィン?」
 私は恐しい苛責を受けてゐた。灼熱しやくねつした鐵の手は私の急所を掴んでゐた。恐ろしい瞬間! 苦悶と暗と燃燒ねんせうにみちた瞬間! 生きとし生ける人間のうちで、私が愛された以上に愛され度いと望む事は不可能である。しかも私は、こんなに私を愛してくれる彼を絶對に尊敬してるのだ。しかも私はこの愛と偶像とを私は抛棄はうきしなければならないのだ。私の切ない義務は寂しい一言に含まれてゐた。――「去れ!」
「ジエィン、私があなたに望んでることはわかつたでせう? たゞこの約束を――『私はあなたのものです、ロチスターさま』」
「ロチスターさま、私はあなたのものではありません。」
 再び長い沈默。
「ジエィン!」と彼はおだやかに口を切つた。それが悲しみで私を打ち碎き、恐しい恐怖で私を石のやうにこほらせた――何故なら、この靜かな聲は起ち上らうとする獅子しゝあへぎだつたから――「ジエィン、あなたはこの世で一方の途を行き、私には別の途を行かせようといふ積りなの?」
「さうです。」
「ジエィン、」(私の方に身を屈めて抱き乍ら)「今直ぐにといふの?」
「え。」
「それで今?」やさしく私の額に頬に接吻キツスをして。
「さうです。」急いで、すつかり抱き締められた手からのがれて。
「おゝ、ジエィン! それは餘りだ! それは――それはいけない! 私を愛することは惡いことぢやない。」
「それではあなたに從ふことになります。」
 狂暴な樣子が彼の眉をきつと上げ――彼の顏をよぎつた。彼は立上つた。しかし未だ彼は堪へてゐた。私は椅子の背に手をかけて身を支へた。私はぞつとして顫へた――だが決心した。
「一寸だけ、ジエィン。あなたがゐなくなつてからの私の恐ろしい生活を一目見て下さい。あらゆる幸福はあなたと一緒になくなつて了ふ。その時何が殘るのだらう? 妻だといふのは三階にゐる狂人なのだ。まだしも向うの墓地ぼちの死骸に引合せてくれた方がましな位だ。私はどうするだらう、ジエィン? 何處を向けば話相手や希望があるだらう?」
「私のする通りになすつて、神さまとあなた御自身にお頼りなさい。天をお信じなさい。さうしたら、希望が再びまゐりませう。」
「ぢやあ、あなたは、きいてくれないのですか?」
「さうです。」
「ぢや、あなたは私に慘めな生涯を送つて呪はれたまゝ死ねと云ひ渡すのですか?」彼の聲は高くなつた。
「罪のない生涯をお送りになつて、靜かに死にお就きになるようにと申し上げます。」
「それぢや、あなたは私から愛と潔白を奪ひ取つてしまふのですか。私を、純愛から色情へ、仕事から不行跡へ、投げかへすのですか?」
「ロチスターさま。私は自分でこの運命を把握つかまないと同じやうに、あなたにも、負ふて戴かうとは思ひません。私共は苦しみ、忍ぶやうに生れて來てゐるのです――あなたも私と同じやうに。さうなさいまし。あなたは私より先に私のことを忘れておしまひになりませう。」
「あなたはそんな言葉でもつて私に嘘言うそを吐かせようとする。あなたは私の名譽を汚すのだ。私は變ることはあり得ないと云つた、それをあなたは私に向つて私が直ぐに變つてしまふと云つてゐる。そしてあなたの判斷がどんなに牽強附會なものか、あなたの思つてることがどんなにひねくれてゐるかはあなたの遣り方に表はれてゐる! それにそむいたからと云つて、害なはれることのない單なる人間の法律に背くよりは、一人の同胞を絶望に追ひやる方がいゝのですか? 何故なら私と一緒になることによつて怒らせる心配のるやうな、親類も知人も、あなたは持つてやしないでせう。」
 それは眞實であつた。そして彼が話してゐる間に私の良心と理性そのものが私に對して裏切者となり、彼を拒絶するといふかどで私に罪を負はせた。それ等は感情に負けず劣らぬ位に呶鳴つてゐた。そして感情はくるほしく騷いでゐるのだつた。「おゝ、承諾なさい!」とそれは云つた。「あの人の不幸をお思ひ。あの人の危險をお思ひ――唯一人殘されたときのあの人の樣を御覽。あの人のひたむきな性質を忘れてはいけない。絶望につゞいて來る向う見ずのことをお考へ――あの人をなだめてお上げ、救つてお上げ、愛してお上げ、あの人を愛してゐるとお云ひ、あの人のものになると云つてお上げ。世の中の誰がお前のことを氣にとめよう? また誰がお前のすることにきずつけられよう?」
 返辭は、しかし、打ち勝ち難いものだつた。「私は自分が大事だ。孤獨になればなる程、友がなければない程、たすけ手がなければない程、それだけ、私は自分を尊敬する。私は神のあたへ給ふた、人間の認める法律を守らう。私は自分が正氣のときに、今のやうに狂氣でないときに認めた道徳を守らう。法律や道徳は、誘惑のないときの爲めにあるのではない。肉體と魂とが一緒になつて、その法律道徳の嚴肅さに刄向かつて起つ、今のやうなときの爲めにあるのだ。それは嚴酷である。それは不可侵でなければならぬ。もし、自分一個の便宜でそれを破つたなら、その價値かちは何處にあるだらう? それは價値あるものだ――だから私はいつも信じて來た。そしてもし今私にそれを信ずることが出來ないとすれば、それは私が正氣でない――まつたく正氣でない證據なのだ。血管には火が駈け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、心臟はその動悸どうきを數へ得ない程早く打つてゐる。先入見せんにふいけん[#ルビの「せんにふいけん」はママ]、過去の決心、それが今私のよるべき全部である。そこに私は足場を持つのだ。」
 私はその通りに、足場を踏み締めた。ロチスター氏は私の顏色かほいろを讀んで、私がさうしたことを見た。彼の憤激は最高潮に達した。次に何が來ようと、彼は暫くの間それに身をまかせなくてはならない。彼は、床をよぎつて私の腕を捉へ、私の胴を掴んだ。彼はその燃えるやうな眼で私をき盡くさうとするやうに見えた。その瞬間私は、肉體的に、の火焔と輝きに曝された木の切株きりかぶのやうに無力になるのを感じた。だが精神的には、なほも私は自分の魂を失はず、それあるが爲めに最後の安全さの確實性をもたもつてゐた。幸ひに、魂は一人の通譯者――屡々無意識的な、とは云へ眞實な通譯者――を眼に持つてゐた。私の眼は彼の眼を見上げた。そして彼の恐ろしい顏をじつと見つめ乍ら私は思はずも吐息といきを洩らした。彼の抱き締めは苦しかつた。そして重すぎた負擔に私の力は殆んどもうなくなりかけてゐた。
「嘗て、」と彼は齒がみし乍ら云つた。「こんなにかよわくてしかもこんなにちがたいものを、かつて見たことがない。この人はこの手の中にまるで蘆位あしぐらゐの存在だ!」(そして彼はつかんだまゝの力で私を搖ぶつた。)「この指二本でこの人を折り曲げることも出來る。だが折り曲げたところで、引き裂いたところで、壓し潰したところで、それが何にならう? あの眼を見るがいゝ。勇氣以上のもの――きびしい勝利をもつて私に反抗してそこから覗いてゐる決然とした、はげしい、自由なものを見るがいゝ。そのをりをどうしようとも私にはそれに――その手馴れぬ、美しいものに達することが出來ない! 壞したところで、そのもろらうを破つたところで、私の亂暴は唯囚人を逃がしてやるばかりなのだ。私はその家の征服者にはなるかも知れない。だが住んでる人は私が自分をその肉體の所有者だと呼び得ぬうちに天へ逃れてしまふだらう。そして私の欲するのは靈――意志と精力を持つた、徳と清純さを持つた――あなたなのだ。そのもろい肉體ばかりではない。心さへあれば、あなたは音なく飛んで來て私の心にまつはることも出來るのだ。あなたの心に取りついて、香氣かうきのやうに得ようとすれば避けて――私があなたの匂ひを吸ひ込まぬ内にあなたは消えてしまふだらう。おゝ、おいで、ジエィン、おいで!」
 かう云ひ乍ら彼はしつかり抱き締めた手をゆるめて、たゞじつと私を見つめてゐた。その顏付は狂氣きちがひじみた言葉よりも、遙かに反抗し難いものだつた。だが、今ひるむのは白痴はくちしかあるまい。私は思ひきつて彼の激情の裏をかいた。私は彼の悲しみを避けなければならない。私はドアの方へ退いた。
「行くのか、ジエィン?」
「參ります。」
「私を殘して?」
「え。」
「あなたはもう歸つて來ないだらう? もう私の慰め手、私の救ひ手にはならないのか? 私の深い愛も、強い嘆きも、くるほしい祈りもみんなあなたには響かないのか?」
 何と云ふ云い得ぬ悲哀が彼の聲に含まれてゐたことか! 「私は行きます。」と決然と繰返す事が如何に苦しかつたか。
「ジエィン!」
「ロチスターさま!」
「お行き、それでは――いゝから。だが忘れないで、あなたは此處に私を苦しめたまゝ殘しておくのだといふことを、自分の部屋にお行き、私の云つたことをすつかり思ひかへして御覽。そして、ジエィン、私の苦しみを一目御覽――私のことを考へてくれて。」
 彼は向うを向いて、長椅子に顏を押しつけた。「おゝジエィン! 私の希望――私の愛――私の生命!」彼の唇から苦しげに洩れた。そして低い、烈しい啜泣すゝりなきの聲が聞えた。
 私は既に入口に達してゐた。けれども、讀者よ、私は引返した――立ち去るときと同じやうに決然として引返した。彼の傍にひざまづいて、私は彼の顏をクッションから私の方に向けた。私は彼の頬に接吻した。彼の髮を手で撫でた。
「神さまが幸福を授けて下さいます、旦那さま!」と私は云つた。「神さまがあなたを害と惡からまもつて下さいます。あなたを[#「下さいます。あなたを」は底本では「下さいますなたを」]導き、慰め――あなたの今迄の私への親切に對して――いゝ報いを[#「いゝ報いを」は底本では「あいゝ報いを」]下さいます。」
「いとしいジエィンの愛が私には一番の報酬だ。」と彼は答へた。「それがなくては、私の心は破れる。しかしジエィンは私を愛してくれるだらう。きつと――高潔に、寛仁に。」
 血が彼の顏にさつと上つた。彼の眼から火がひらめいた。眞直まつすぐに突立つて、彼は腕を差しのべた。けれども私は彼の抱擁を避けて、直ぐに部屋を出てしまつた。
「左樣なら!」これが彼の許を立ち去るときの私の心の叫びであつた。絶望が加はつた。「左樣なら、永久に!」

 その夜私はまるで眠らうとは思はなかつた。しかし寢床ベッドの上に横になるや否や眠つてしまつた。思ひは幼い頃の場面に私を運んで行つた。私は自分がゲィツヘッドのあの赤い部屋に横になつてゐる夢を見た。暗い晩で、私の心は不思議な恐怖を感じてゐた。遠い昔、私を假死かしの状態に陷らせたあの光は、この夢の中に再び現はれて、する/\と壁をのぼり、薄暗がりの天井の中程に搖めきながら、留つてゐるやうだつた。私は頭を上げて見た。屋根は高く微かに雲間くもまに溶け込み、その微光は、月が、分けようとしてゐる水蒸氣に與へるやうな光であつた。私は月の出て來るのを眺めた――不思議な豫期を以て眺めた――恰も何か運命の言葉がその圓盤の上に書かれでもするやうに。
 嘗つて雲間に出たことのないやうな月が現はれた。手が一本先づその黒い雲のひだを貫いて、それを拂ひのけてしまつた。それから、月ではなく、白い人間の形が大空に輝き、輝かしいひたひを地上に向けてゐた。それは長い間私をじつと見つめてゐた。それは私の靈に話しかけた。その聲ははかり知られぬ程遙かだつた。而も非常に近く、私の心に囁いた――
「娘よ、誘惑をおのがれなさい。」
「母よ、お言葉に從ひます。」
 昏睡したやうな夢から醒めて後、さう私は答へたのであつた。まだ夜だつた。しかし七月の夜は明け易い。眞夜中を過ぎると直ぐに夜明よあけになる。「果さなくてはならない仕事を始めるのに早すぎることはない。」と私は考へた。私は起き上つた。着物は着てゐた。靴以外のものは何もいではゐなかつたのだ。幾枚かの下着類したぎるゐ形見筐ロケット一つ、指環一つが抽斗ひきだしの何處に入つてゐるか私には分つてゐた。これ等の品を探す内にふと私は、數日前ロチスター氏が強ひて私にとらせた眞珠の頸飾くびかざりの珠に出會した。私はそれをとらなかつた。それは私のものではない。それは空に消えてしまつたまぼろしの花嫁のだ。他の品を一包みにした。二十シリング(それが私の持つてる全部であつた)這入つてゐるお金入をポケットに入れた。麥稈帽を被り、肩掛を留め、包と、まだ穿かうともしなかつた靴を持つて、私は部屋を忍び出た。
「左樣なら、優しいフェアファックス夫人!」彼女の部屋の入口をそつと過ぎながら私は囁いた。「左樣なら、可愛いアデェル!」子供部屋の方を見て、私は云つた。アテェルを抱く爲めに部屋に這入らうと云ふ考へは、許されなかつた。私はアデェルのはやい耳を欺かなくてはならなかつた。今それはじつと耳を澄ましてゐるかも知れないのだ。
 私はロチスター氏の寢室の前には、立ち止らずに行き過ぎて了ひたかつた。しかし私の心はそのしきゐにかゝると刻々とその鼓動を止め、足もまたどうしやうもなく止つてしまつた。眠つてゐる樣子ではなかつた。中なる人は凝としてゐられぬやうに壁から壁へと歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。私がじつと聽いてゐる間にも、彼は、幾度も/\吐息といきを洩らした。もし私が選ぶならば、この部屋の中には私にとつての天國――一時の天國がある。私はたゞ這入つて行つて、かう云へばいゝのだ。「ロチスターさま、私はあなたを愛して、死ぬまでずつと、あなたと御一緒に暮しませう。」すれば狂喜きやうきの泉が私の唇にほとばしるのだ。私はこのことを思つた。
 今眠ることも出來ないあのいとしい主人は、ぢり/\しながら夜の明けるのを待つてゐるのであつた。朝になつたら、私を呼びに寄越すだらう。私は行つてしまはなくてはいけない。あの方は私を探すだらう、むなしく。あの方は棄てられたと思ふだらう。あの方の愛がこばまれたと思ふだらう。あの方は苦しむだらう。きつと絶望的になるかも知れない。このことも私は考へたのだつた。私の手は錠前ぢやうまへの方に動いた。だがそれを引込めて、私は跫音を忍ばせて過ぎた。
 寂しく私は階下へ降りて行つた。自分のしなければならないことは分つてゐた。私は、機械的にその通りをした。臺所で傍戸の鍵を探し出した。それと、油の這入つた瓶と羽根はねも見つけて、鍵と錠前に油を引いた。私は水を少しとパンを少量すこしとつた。多分遠い途を歩かなくてはならないだらう、そして此頃ひどくいためられた私の體力が駄目になつてしまはない爲めであつた。これをみんな音を立てずに私はした。私はドアを開けて、外に出、そつと扉をめた。庭にはかすかな曉方あけがたの色が漂つてゐた。大門はみな閉まつて錠が下ろしてあつた。しかし、その中の一つの潜りはたゞ※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねがしてあるだけだつた。そこから私は出て行つた。それも矢つ張り、私は、めた。そしてとう/\私はソーンフィールドの外に出たのであつた。
 耕地の彼方一マイル隔つた處に、ミルコオトとは反對の方へ向つた路が一筋あつた。一度も通つたことはなかつたが、時々眺めては、何處へ通じてゐるのかといぶかつてゐた路であつた。その方へ私は歩みを曲げた。今はもう反省は許されない。一目だつて振り返つて見られない、前方をさへ一目も。過去も未來も考へてはいけない。前者はかくも甘美で――かくも死なんばかりに悲しい――一頁で、その一行を讀んでも私の勇氣は破れ、私の力はなくなつてしまつたであらうほど。後者は恐しい白紙――大洪水の過ぎた後の世界のやうなものであつた。
 とう/\陽ののぼる迄私は耕地や、生籬いけがき小徑こみちの縁を進んで行つた。爽やかな夏の朝だつたと思ふ。家を出るときに穿いた靴は直ぐに露に濡れた。しかし、私は、のぼる陽も、晴々とした空も、醒めつゝある自然も見なかつた。美しい景色の中を通つて絞首臺かうしゆだいへ曳かれて行く者は、路邊に微笑ほゝゑんでゐる花のことよりも首斬臺と斧の齒のことを、骨と血管の斷たれることを、行き着く處に口を開けてゐる墓穴のことを考へる。そして私は寂しい逃走と家なき流浪のことを考へた――そして、おゝ! 私は後に殘して來たものゝことを考へて悶えた。どうすることも出來なかつた。私は彼が今――自分の部屋で――日の出を眺めながら私が早く來て彼と共に住み、彼のものだと云つてくれるようにと願つてゐるだらうと考へた。私は彼のものになりたいと切望した。引返し度いと喘いだ。まだ遲過ぎはしない。まだ私は彼に喪失の悲痛を味はせないで濟む。まだ、きつと私のゐなくなつた事は知れてゐないに違ひない。私は引返して彼の慰め手に――彼の誇に、不幸から、滅亡から彼を救ふ者になれるのだ。おゝ、彼の自棄――私の自棄よりも遙かに惡い――の恐れが如何に私の心を刺したことか! それは私の胸に刺さつたやじりの矢先であつた。拔かうとすると私を引き裂き、追憶がなほもそれを深く刺し込んだとき私を弱らせてしまつた。鳥が叢や灌木くわんぼくの茂みで啼きはじめた。鳥たちはその友に眞實である。鳥たちは愛の象徴である。私は何か? 心のいたみと道義の爲めのくるほしい努力の中にあつて私は自分をみ嫌つた。私は自讃から、否自尊の心からさへ何の慰めも得なかつた。私は私の主人をいため――傷け――置きざりにしたのだ。自分自身の眼にも自分が憎らしかつた。けれどもなほ、私は振り向くことも、一足も引返すことも出來なかつた。神さまが私を前へ導き下さつたに相違ない。私自身の意志や良心は、えたぎる悲しみに、一つは踏みつけられ、他は窒息してゐた。たゞ獨り、途を行きながら私は、はげしく泣いてゐた。早く、早く、まるで私は熱に浮かされたやうに行つた。内部から四に擴がつた頼りなさが私を襲つて、私は倒れて了つた。暫くの間濡れた芝草しばくさの上に顏をつけたまゝ、私は地上に横はつてゐた。死ぬかも知れないといふ恐れ――いや、希望――があつた。しかしやがて手と足で匍ひながら身を起し、立ち上つた――往來まで行かうとして、今迄の通り熱心に、決然として。
 そこに達したとき、私は生籬いけがきの下に身を休めて坐るより外なかつた。そして坐つてゐる内に車輪の響が聞え、一臺の乘合馬車がやつて來るのが見えた。私は立ち上つて手を上げた。それはとまつた。私は何處に行くのかと訊ねた。馭者は、ある遠く離れた土地の名を云つた。そこは確かにロチスター氏とは何のかゝはりもないところであつた。幾何のお金があれば其處迄私を連れて行つてくれるかと、私はたづねた。三十シリングと彼は云つた。二十志しか持つてゐないがと私は云つた。宜しい、それでやつてあげませうと彼は云つた。そしてなほ彼は馬車が空なので内部なかに這入ることを許してくれた。私は這入つた、ドアが閉つて、走り出した。
 讀者よ、あなた方は、そのときの私の氣持を決して感じられないやうに! あなた方の眼は私の眼から溢れたあのやうな烈しい、煮えかへる、心を絞るやうな涙を流さぬやうに! あなた方は決してあのとき、私が口にしたやうなあんな絶望的な死の苦しみの祈りを天に訴へないように! 決してあなたは、あなたの愛し切つてゐるものゝ爲めには、惡の手先となることを、私のやうに恐れないように!

二十八


 二日は過ぎた。ある夏の夕べだつた。馭者は私をウ※[#小書き片仮名ヰ、356-下-3]トクロスと云ふ處におろした、彼は私が拂つた賃金ではこれ以上乘せてくれなかつたのだ。そして私はこの他にたつた一シリングも持つてゐなかつた。馬車はもう一マイルも遠ざかつてゐる。私は獨り取り殘された。途端とたんに、私は馬車の袋棚ふくろだなの中にしまつておいた荷物を忘れて來たことに氣がついた。それを安全の爲めに袋棚に入れて置いたのだが。袋棚の中だ、袋棚に違ひない、今こそ私は本當の身體一つになつて了つた。
 ウ※[#小書き片仮名ヰ、356-下-11]トクロスは、町でもなければ、村落でさへもない。それはたゞ四つの道が出會であつた辻に立つてゐる石の柱に過ぎなかつた。その柱は、遠方からまた夜眼よめに、もつとはつきりさせる爲めだらう、白く塗られてあつた。柱の頂點からは四つの腕が突き出てゐる、刻字こくじで見ると、腕が指す一番近い町が十マイル、一番遠いのが二十哩以上も離れてゐる。私はそれらの示す町の有名な名前によつて、自分が何處に降ろされたかゞ分つた――陰鬱な草原と山また山の北部内地の一州だと知つた。背後にも左右にも大草原がある。脚下の深い谷のずつと向うには、山のうねりがある。此處に住んでゐる人口は、僅かに違ひない。道を行く人影も見えない。道は、東に、西に、北に、南に走つてゐる――白つぽく、廣く、物寂しく。草原をつらぬき、ヒースが道の兩側のすぐきはまで蓬々と生ひ繁つてゐる。が、それでもふと通りすぎる旅の人があるかも知れない。しかし、私は誰にも見られたくないのだ、行きずりの人達は、明らかに目的もなく途方とはうに暮れて、この道標の傍に佇んでゐる私を、一體何をしてゐるのかといぶかるだらう。私は言葉を掛けられるかも知れない、だが、私は信じられないばかりか、なほ疑惑をも起させるやうにも聞える答へしか出來ないのだ。今こそ私には私を人間社會に結びつけてくれるたつた一筋の紐だつてありはしない――一片の愛着も希望も私を人間のゐる處に呼んではくれない――私を見掛ける人は、誰一人親切も好意も私に持つてはくれないだらう。私には宇宙の慈母自然の他にゆかりもない。私は彼女の胸を探し、そして休息を求めよう。
 私はヒースをかき分けて突き進んだ。そして褐色かつしよくの草原に深く溝をつくつてゐる凹地について進んで行つた。私はその深い茂みに膝を沒してわたつて行つた。曲り角について※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ると、隱れた隅に苔蒸こけむして黒ずんだ花崗岩を見出した。私はその下にうづくまつた。私の周圍には高い草原が土手どてをなしてゐた。岩は頭の上に蔽ひかぶさつてゐた。その上に蒼空があつた。
 此處でさへも氣が落着くまでには、しばらく過ぎた。私は、もしや野牛が忍び寄りはしないか、或は狩人かりうどや密獵者に發見されはしないかといふ漠然とした恐怖を感じた。一陣の風が荒野を吹き過ぎて行けば、野牛が突進して來たのではないかと上を見上げ、千鳥の囀りが聞えると、人間ではないかと思つた。けれどもやがて私の懸念けねんが根も葉もないと分り、夕べが夜となるにつれて擴がつて來た深い靜寂にしづめられて、私は心が落着いた。しかもなほ私は考へられなかつた。唯耳を澄まし、見張り、不安を感じてゐた。が、今私はやつと反省する力を囘復した。
 私は何をしようとしてゐたのか? 何處へ行かうとしてゐたのか? 何にも出來ず、何處へも行けないときには堪へられない質問だつた!――私が人家に辿たどり着く前には、私の重い顫へる足はこの上に、なほも長い道を歩かねばならないとき――宿らうとすれば、その前に冷たい慈悲に哀願せねばならないとき、私の話に耳をされるか、私の願の一つが許るされる前には、いや/\ながらの同情の縋り、大抵は、はねつけられるのを覺悟せねばならないとき!
 私はヒースに觸つて見た。それは乾いてゐるが、夏の陽の熱でむつとしてゐた。私は空を眺めた。それは澄んでゐた。やさしい星は斷層をなした土手どての眞上に瞬いてゐた。夜露がりた、慈愛の籠つたやさしさをもつて。微風そよかぜもない。自然は、私の眼には、情け深い親切なものに見えた。私はのけものにされてゐるが、自然は愛してくれるだらうと思つた。人間からは、不信と排斥はいせきと侮辱とのみしか期待することの出來ない私は、親を慕ふ小兒のやうななつかしさを籠めて、自然に寄り縋つた。少くとも今宵こよひだけは、私は、自然のお客になれるだらう、私は自然の子だから。お金無しで、報酬無しで、私の母は、私を泊めてくれるだらう。私は、未だ一片のパンを持つてゐた。それは私たちが、お午に町を通つた時、しよんぼり残つてゐたお金――私の最後のお金で買つた、卷パンの食べ殘りである。ヒースの中には、珠數玉を撒いたやうに熟した黒豆ビルベリの實が、其處此處に光つて見えた。私は手に一杯それを集めてパンと一緒に食べた。激しかつた私の空腹は、十分でない迄も、この仙人の食物で薄らいだ。食事が濟むと夜のお祈りをした。そして私の寢場所をめた。
 岩の側はヒースが非常に深かつた。横になると私の足はそれに埋つて了つた。兩側にはヒースが高く茂つてゐるので、夜氣やきが迫るには狹い場所のみが殘つてゐた。私はショオルを二重に畳んで、掛蒲團の代りに被ぶせた。低く土が盛り上つて苔蒸した處を枕にあてた。かうしてやすんだ私は、少くとも暮れ初めた頃は寒くなかつた。
 私のいこひは十分に安らかだつたかも知れない、たゞ心の悲しみがそれを打ちこはして了つた。私の悲しむ心は、いやし難い心の傷、内心の苦惱、斷ち切られたえにしいとを嘆いた。心は、ロチスター氏と彼の運命にをのゝき、深いあはれみで彼を哀しみ、絶えざる憧れを以て彼を呼び、恰ら雙の翼を碎かれた小鳥のやうに空しく、なほも打たれた翼を顫はせながら、空しく彼を慕ひ求めようとするのであつた。
 かうして物思ひに苦しみ疲れて、私は上半身を起した。夜になつて星が出てゐた。安らかな靜かな夜である。餘りに澄み切つてゐて恐怖も伴はない。私たちは何處にでも神さまはゐらつしやることを知つてゐる。けれども私たちは目前に神のお仕事が廣々と打擴げられた時に一番確かに神の實在を感ずるものだ。そして私たちが彼の無限と全能と遍在へんざいとを最もあきらかに讀み得るのは、神の造り給うた數知れぬ星が音なく軌道きだうを辷りゆく雲なき夜の空である。私はロチスター氏の爲めにお祈りしようと跪いた。
 見上げて、私は涙で曇つた眼で、雄大な銀河ぎんがを見た。それは何であるかを――何といふ無數の世界が銀河の中にあつてやはらかな光の跡のやうに空に擴がつてゐるかを思ひ出しながら――私は神の威力と力とを感じた。神の造られたものを救ふ神の力を私は疑はない。大地は決して滅びないし、大地がいとほしむ人間の一人も滅びはしないと私は次第に信じて來た、私は祈りを感謝にかへた。生命の源はまた、魂の救ひ主でもある。ロチスター氏は無事であつた。彼は神のものであつた。彼は神にまもられるであらう。再び私は丘のふところに打伏した。そして間も無く眠つて、悲しみを忘れた。
 だが翌日、蒼褪あをざめたあらはな『飢』が、私にやつて來た。小鳥等はもうとつくに巣を後にし、露の乾かぬ間にヒースの蜜を集めようと、心地こゝちよい朝の内に蜜蜂の群はとつくにやつて來て――長い朝の影が短かくなり、太陽が天と地に一ぱい充ち溢れた頃――私は起き上つた、そして周圍を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。なんと、靜かな、暑い、晴れ渡つた天氣であらう! この廣々とした草原はまつたく素晴らしい黄金の沙漠だ! 到る處に、陽の光。私はその中に住み、其處で生きることが出來たらと思つた。蜥蜴とかげが岩の上を走るのを私は見た。蜂が、甘さうな黒豆ビルベリの木の中で忙しさうなのを私は見た。そのとき、適當な食物と、永遠の住家を見出すことが出來るやうに、私は喜んで蜂か蜥蜴とかげになつたであらう。
 けれども私は人間だ、そして人間の欲望を持つてゐた。私は、私の欲望をみたしてくれるものが一つもない、かうした處にこの上愚圖々々ぐづ/\は出來ない。私は立上つた、そして今迄ゐた寢床を見返つた。前途に望みなく、私は唯この事だけを願つた――その夜、私が眠つてゐる間に、神さまが魂を返せと命じようとお思ひになればよかつたと。そしてこの疲れ果てた身體が、今後運命と戰ふ事から死によつて解放されて、今は唯靜かにちて行くのに任せ、安らかにこの荒野の土と化して了ひたかつたと。けれども生命は、その一切の要求と苦痛と責任と一緒に矢つ張り私のものだつた。負擔は、運ばなければならぬ、欲しければ働いて食べ、苦しければ忍び、責任は果たさなければならぬ。私は出發した。
 ウ※[#小書き片仮名ヰ、359-下-13]トクロスに引返すと、私は今高く赫々あか/\と燃え盛る太陽から遠ざかつた道を辿つて行つた。その他には自分の行く方向を選ぶ意志も何もなかつた。長い間、私は歩いた。そして殆んど精一ぱい歩き盡くして、もう今は疲勞に負けても氣がとがめもしまい、この無理な歩みをゆるめ、路傍の石に腰を下ろして、身と心を責めさいなむ無情な運命に心もくじけて崩折れようとする、その時――私は鐘の音――教會の鐘の音を聞いた。
 私はその音の方に向つた。其處には、一時間程前にその變化にも姿にも心を向けることを止めて了つてゐた丘の間に、小さな村落と一つの尖塔せんたふがあつた。右手に見える谷間は、牧場と穀物畑と森とで埋められ、黄金こがねかす一筋の川は大小の緑の蔭、豐熟した穀物やくすんだ森、鮮やかな光の草地の間をうね/\と流れて行く。ふと前方の道に當つてわだちの音が聞えたと思ふと、私は山と積み込んだ荷車があへぎ/\丘を上つて行くのを見た。そして餘り離れてゐない處に二匹の牛と牛追ひ達もゐた。人間の生活、人間の勞働は直ぐ近くにあつた。私は戰はなければならない、他の人と同樣に私も生きる爲めに努力し、身を屈げて勞苦しなければならないのだ。
 午後の二時頃、私は村に這入つた。その村の一本道の奧に、小さな店があつて、窓にはパン菓子があつた。私は欲しくて堪らなかつた。その菓子を得れば私は恐らく、いくらか元氣を恢復することが出來るだらう、さうでもしなければ、先へ歩くことさへ覺束おぼつかない。人中ひとなかへ這入るなり、幾らかの力と元氣とを得たいと云ふ願望が、私に歸つて來たのだ。かうした村の鋪石道しきいしみちの上で、飢ゑに迫られて、氣を失ふなんて、恥しいことだと私は思つた。私には、あのパンの中の一つと交換出來る何物もないのか、私は考へた、この咽喉のどに捲きつけた小さな絹のハンカチ、それから手袋を持つてゐる。男でも女でも無一物のどん底におちいつたとき、一體どういふ風にすればよいのか、私にはとても分らなかつた。この二つの内のどつちかを、果してお金の代りに受けてくれるかどうか、いや多分受取つてはくれまい。だが、私はやつてみなければならないのだ。
 私は遂に店へ這入つた。女が一人ゐた。彼女は私が相當の身なりをしてゐたので、令孃とでも思つたものか慇懃いんぎんにやつて來た。しかし私に何が買へるのだ。私は恥かしさに襲はれた、私の舌は、自分が用意したやうな要求を云つてはくれまい。私は中古になつた手袋や、みくちやのハンカチを彼女に差出す勇氣はとてもなかつた。その上、私にはそれはぶしつけに感じられた。私は唯、疲れてゐるから一寸掛けさせて下さいと頼んだに過ぎなかつた。お顧客とくいの期待が外れて失望した彼女は、ひややかに私の頼みをいれた、彼女は一つの椅子を指した、私は崩折れるやうに腰を下ろした。今にも涙のせきが切れさうな氣がした。が、この場合かうした仕草しぐさがどの位時はづれなものであるかを考へて、私はそれを抑へたのであつた。間もなく私はたづねてみた。「この村に、洋服屋か仕立屋はないでせうか。」
「ありますよ、二軒や三軒は。尤も仕事さへありや、なんぼでもありまさ。」
 私は考へた。今こそ私はその點まで追ひつめられた。窮乏に顏を突き合はせたのだ。手段もなければ、友達もお金もない人の境遇にゐるのだ。何かしなければならない、何を? 何處かで頼まなければならない。では何處へ?
「この近所に女中の入用な家でもないでせうか、その人は知らないでせうか?」
「さあ、どうだかね。」
「この村で一番重な商賣つて何でせうね。大概の人は何をしてるのでせう。」
「百姓も大勢ゐるがね、大抵はオリヴァさんの編針工場あみはりこうばで働いてゐる、それから鑄物工場へもね。」
「オリヴァさんは女をお使ひにならないでせうかしら。」
「いゝえ、そりや男の仕事だよ。」
「ぢや女は何をしてゐるのでせう。」
「知らないね、私や、」これが答だつた。「まあ、皆んなあれやこれやつてるよ。貧乏な者は、精一ぱい働いて遣つて行かなきやならないんだから。」
 彼女は私の質問がいやになつたやうだ。また、まつたく私には、彼女にうるさく聞きほじるやうな權利など一つもありはしないのだ。一人二人、近所の人がやつて來た。私の椅子が入用なのは見えいてゐる。私は店を出た。
 歩き/\、左右に立ち並ぶ家は一軒も殘らず注意しながら、私は通りを上つて行つた。けれども何處にも這入れるやうな口實もなければ勸誘も見當りはしなかつた。私はときには少しばかり村をはづれたり、また引返したりしながら、一時間か、或はそれ以上も村中を彷徨さまよひ歩いた。非常に疲れて、ひどく空腹に苦しみながら、私は脇道わきみちに外れて小徑に入り、まがきの根元にうづくまつて了つた。が、暫くも經たぬ内にまた歩き出した。何か探しに――何か扶助ふじよの見込みか、せめて仕事を教へてくれる人なりと探して、小徑の一番端に小ぢんまりした家が一軒建つてゐる。前には細かに手を入れた、美しく花咲き亂れた花園がある。私はそこに立ち止つた。處で私は、一體どんな用事があつて、この白い扉に近づき、ピカ/\光つてゐるノッカアに手を觸れるのだらう。それからどんな風にして私はこの家に住つてゐる人達の興味を、自分を世話してくれるやうに向けることが出來ようか。が、私は近寄つてノックした。するとやさしげな顏付をしてきちんと身づくろつた若い婦人が扉を開いた。で、私はたづねて見た。望の盡きた心と弱り果てた身體に似つかはしい聲で――痛々いた/\しく細いどもり勝ちの聲――で、私はもしや召使がお入用ではないかと訊ねた。
「いゝえ、」彼女は云つた。「家では下女は使ひませんから。」
「何か私を使つて戴けるやうな處は、ございませんでせうか。」私は續けた。「私は初めて參つた者で、此處には知合もございません。何か働きたいのですけれど――どんなことだつて結構で御座いますけれど。」
 けれども私の爲めに考へたり仕事を探したりするのは彼女の知つたことではなかつた。その上、彼女の眼には私の人柄ひとがらや身分や話が如何にも怪しくえいじたに違ひなかつた。彼女は頭を振つた。「お氣の毒ですが、今心當りが無いものですから。」白い扉はしまつた、いとも上品にそしてしとやかに。けれども私は閉め出されて了つたのだ。若しも彼女がもう一寸開けて置いたなら、私は屹度パンを一片、哀願したことであらう。何故ならそのとき私はもういやしい心持になつてゐたのだから。
 が、私は、我慢にもあの下らない村へ戻る氣になれなかつた。それも助けて貰へさうな見込みも見えない村などへ。寧ろ私は程遠からずに見える、深い樹蔭に、何かしら心を惹く避難所を與へてくれさうな森の中へ、迷ひ入り度い位だつた。しかし、私は自然の欲求で、ひどくみ、弱り、痛められた。本能は私を食物にでもありつけさうな住宅の周圍を迂路うろつかせてゐたのであつた。孤獨も孤獨ではない――いこひも憩ではない――饑餓といふ兀鷹はげたかが――私の横腹にくちばしと爪を突き立てゝゐる間は。
 私は家々の傍に近づき、離れ、引き返し、また彷徨さまよひ去つた。私の孤獨の運命では、頼む權利も――利益を期待する權利もないといふ意識でいつも追はれた。兎角する内に夕方も近づいて來る、その間、私は飢ゑさらばふ喪家さうかの犬のやうに彷徨さまよひ歩いてゐた。畑を横ぎらうとして、ふと前方に會堂の尖塔を見た。私はその方に急いだ。墓地に近く、廣場の中央に、小さいがよく建てられた家がある、勿論牧師館なのだ。知らない土地に着いて、友人もゐない土地に着いて、仕事を求めようとする不案内者ふあんないしやは、牧師に縋つて紹介や援助を仰ぐことがあるものだといふことを、私は思ひ出した。さうだ、自分の手で生きて行かうとする人を助けてやることは――少くとも助言で――牧師の役目やくめである。私は、此處で相談してみる、權利みたいなものがあるやうに思はれた。で、私は勇氣をふるひ起し、力の弱々しい殘りを集めて突き進んだ。家に着いて、私は臺所のドアを叩いた。年寄つた一人の婦人が出て來た。「こちらは牧師館ですか?」とたづねた。
「さうです。」
「牧師さんはゐらつしやいませうか。」
「をりません。」
「直ぐお歸りになるでせうか?」
「いゝえ、お出掛けになつてゐるのです。」
「御遠方へ?」
「さう遠方ぢやありません――まあ三マイルばかり。牧師さまのお父さまが急にくなられたので、呼ばれておいでなすつたのです、今、マアシュ・エンドにゐらつしやいます。二週間は結構御滯在の筈です。」
「どなたか奧さまでもゐらつしやいませうか?」
「いゝえどなたも。私だけです、私がお世話してゐるのです。」だが讀者よ、今私は弱り切つて倒れさうになつてゐるのに、どうにもこの老女には救ひを求める氣になれなかつた。私は乞へなかつた、そしてまたもや蹌踉さうらうと去つた。
 もう一度、私はハンカチを取出した――もう一度、私はあの小さな店の中のパン菓子を憶つた。あゝパンのかけらでも! この堪へ難い空腹の苦痛を紛らす爲めに、たつた一口でも! 本能的に私は再び村を顧みた。さつきの店をまたみつけた。そして私は、這入つて行つた。今度はあの女ばかしではなかつたけれど、私は勇をして要求した。
「このハンカチの代りに、卷パンを一つ下さいませんか?」
 露骨ろこつに疑惑を現はして、彼女は私を眺めた。「いやだよ、私等まだそんなことして賣つたことはないよ。」
 殆んど絶望的になつた私は、お菓子を半分でもと哀願した、がそれもことわられて了つた。
「お前さんが、何處でそんなハンカチなんか手に入れたか分つたもんぢやないよ。」
「ぢや、この手袋でも。」
「何んだつて! こんなものを私が持つてどうするつてのだ。」
 讀者よ、かうした經緯いきさつを細々述べ立てることは、愉快ぢやないのだ。ある人々は過ぎ去つたにがい經驗を囘想して見ることは一種の享樂だといふ。しかし現在の私には、今云つてゐる當時を追懷するのは殆んど堪へられない。肉體的の苦痛とまじり合つた道徳的な墮落は、あまり悲慘すぎて今このんで述べることが出來ない程の、追憶である。私は私を拒絶した人達を非難したくはない。それは當然豫期された事であり、そしてどうにも仕方のないことであつたのだ。普通の乞食もよく疑ひをかけられる。まして、良いなりをした乞食は、當然さうだ。たしかに私が乞うたのは仕事をである。けれども、私に仕事を世話してくれるのは、それは一體誰のつとめなのだらう。初めて私を見た人の務めでもなければ、私の性格をつとも知らない人の務めでもないことは無論である。そして私のハンカチをパンの代りに受け取らうとしなかつた女に就いてはどうか。勿論これも申し出が彼女にとつて厭であつたり、交換したつて利益にならないものであつたりしたなら、彼女の方が正しいのだ。もう要約えうやくすることにしよう。私だつて、この題目はなしは厭になつてゐるのだ。
 暗くなる少し前に、私は百姓家の前を通つた。その開け放されたドアの前に、百姓が腰かけてチーズ付のパンを食べてゐた。私は歩みを止めた。そして云つた――
「パンを一片ひときれ下さいませんか。私、大變おなかが空いてゐるのです。」彼は呆氣あつけにとられて、私を見たが、返答もせずにパンのかたまり分厚ぶあつに切つて、私に呉れたのであつた。多分彼は私が乞食ではなくて、好事家かうずかの婦人が自分の黒パンに興味をそゝられたものとでも思つたらしかつた。で、私は彼の家が見えなくなると直樣すぐさま、坐り込んで食べ初めた。
 屋根の下に寢ることは望めなかつた。前に話した森の中を探したのであつた。しかし私の夜はみじめで、私のいこひは破られた。地上はしめつぽく空氣はつめたかつた。その上、闖入者ちんにふしやが一度ならず私の直ぐ傍を通つて行くので、私は幾度も場所を變へねばならなかつた。安全とか靜穩とか云つた氣持はみぢんも私には無かつた。夜明け近くなつて、雨が降つた。そして翌日は終日降り暮した。讀者よ、この日のくはしい説明はどうかかないで下さい。私は昨日のやうに仕事を探し歩き、昨日のやうに拒絶され、そして昨日のやうに飢ゑ疲れただけだつた――だが、たつた一度、私の口を食物が通つた。私は或る百姓家の戸口で、一かたまりの冷たいかゆを豚の飼料槽かひばをけの中に捨てようとしてゐる小さなを見た。
「私にそれを呉れませんか。」と願つた。
 彼女は驚いて、私をみつめた。「母さん!」彼女は叫んだ、「女の人がこのおかゆを呉れと欲しがる女の人がゐるのよ。」
「お遣りな。」内から聲が聞えた。「乞食なら遣んな。豚はそれを欲しがつてやしないよ。」
 娘はかたまりついたおかゆかたまりを私の手の中へあけた、私は意地汚いぢきたない烏のやうに貪り食べた。
 雨の日の黄昏たそがれが漸く迫る頃、私は物寂しい馬道を一時間以上も歩いた末、立ち止つた。
「もう駄目だ、」思はず私は獨りごちた、「もう迚も歩けさうもない。今宵もまた放り出されるのか知ら、こんなに雨が降つてる中を冷たい濡れそぼちた地面に寢なければならないのか、でも、その他にどうしよう、私を構つてくれる人なんか一人もありはしないのだもの。けれどその野宿のじゆくも今夜はどんなに怖ろしいことだらう、この空腹や、力なさ、寒さの感じでは、そしてこのみじめな侘びしい氣持では――一の望みもなくなつたこの空しさでは。けれども明日の朝までには私はもう死んでゐるのだらう。それだのに何だつてかう、私は安心して死ねないのだらう。何だつて價値のない生命にしがみつかうと藻掻くのだらう? ロチスータ氏がまだ生存いきてゐるのを知り、または信じてゐるから。そしてまたこゞえて死んで行くことは人間として迚も默つて服從することが出來ない運命であるからだ。おゝ神さま! どうか私をもう暫くまもり給へ! 助け給へ! 導き給へ!
 私のどんよりした眼は、薄暗い霧の景色の上をさまよつた。彷徨さまよひ、迷って、村へも遠く離れて了つたことを知つた。もうまつたく見えなくなつてゐる。村の周圍を取卷いてゐた畑さへももう見えない。私は道の交叉かうさした處や拔道などを通つて、もう一度草原のあたりに足を引摺つた。そして今、殆んどヒースと選ぶ處のない位荒れ果てゝ了つた僅かばかりの畑が、私と薄暗がりの丘とをへだてゝゐた。
 私は考へた、「さうだ、どうせ死ぬのなら、こんな街や人通りの多い街道なんかより、向うに行つて死んだ方がいゝ。そしてからすにでも、大鴉にでも――この邊に大鴉がゐるものなら――私の骨から肉をつゝかした方がずつといゝ。あの救貧院の棺桶くわんをけに押し籠められて、貧民の墓の中で腐つて了ふのより、どれだけましか知れない。」
 それから丘へ向つて私は歩いた。私は辿り着いた。そこには假令たとへ安全とまでは行かなくとも、兎も角も私をかくまつて寢かせてくれた凹地が、まだそのまゝの姿で殘つてゐた。けれども草原は茫々ばう/\として、唯一面の平地に見えた。ただ色彩が變化を表はすばかりであつた。燈心草とうしんさう青苔あをごけが沼地に生えはびこつた處は緑、黒く見えるのはヒースばかりが生えてゐる乾いた土なのだ。やがて夕闇は迫つて來たが、その差は依然として眺められた。だがそれは最早光と影の交錯に過ぎなかつた。太陽の光の薄れ行くにつれて草原の色彩はもうせて了つたのだ。
 私の眼はなほもこの陰鬱な大地の起伏の上を走り、やがて荒れ果てた風景の中に消え失せて行く草原の地平に沿つて流れて行つた。そのときふと、彼方の遙かな沼や丘の間の微かな一點に一つの光がぱつと燃え上つた。「鬼火おにびだ。」初め私はかう思つた。そしてこの光は直ぐ消えるだらうと豫想した。ところがそれははつきりと近よりもせず、遠のきもせず燃え續けてゐる。「ぢや野天の焚火たきびか知ら、今けたばかりの。」私はいぶかつた。そして擴がりはしないかとぢつと見守つた。處がそんな氣配もない、それは消えないと同樣に、擴がりもしないのだ。
「何處かの家のあかりかも知れない。」と、とう/\私は想像したのであつた。「だけど、若しさうとしたつて、私は迚も行けやしない。隨分遠方なんだもの。また假令たとへヤードの處にあるとしても何にならう。扉をノックしたつて、門前拂ひを食はされる位が關の山なのだ。」
 私は立つてゐるところに坐り込んだ。そして顏を地に着けた。暫くは身動きもせず、私は横に倒れてゐた。夜の風は、丘を越え、私を越えて吹き、やがて遠い彼方へ悲しい響を殘して消えて行つた。降りしきる雨は、また新たに私の肌まで浸みとほつた。もしも私が凍りついて動かぬ氷にさへなつて了へば――それはなつかしい死の無感覺である――假令げつけるやうに雨が降つても何ともあるまいに。私にはもう感じられないのだから。けれども、まだ生命のある私の身體は、寒さの爲めにガタ/\顫へるのだつた。やがて私は起き上つた。
 光はまだそこにあつた。雨を通して、ぼんやりだが、絶えず輝いてゐた。も一度私は歩いてみた。疲れ切つた足をゆる/\と、その光の方に引き摺つた。私は廣い沼地を通つて、丘を斜めに越えて行つた。その沼地は、冬ならば迚も渡れさうにもなかつた。夏の眞盛りの今でさへ、泥濘ぬかつて、水がぴちや/\搖れてゐた。こゝで私は二度倒れた、けれどもまたその都度つど立ち上つては身内みうちの力を掻き集めた。この燈火ともしびは私のたつた一つの頼りない希望なのだ。私はどうしても行き着かなければならない。
 沼を横ぎると、草原の中に一すぢの白色の筋が見える。近づいてみるとそれは街道か軌道である。この道が眞直に一むらの木立で圍まれた小高い處に輝いてゐる光へと走つてゐる――一叢の木立は確かに樅らしい。私は薄暗がりを透して、その木の恰好と簇葉むれはの特徴から、樅だと見分けることが出來た。近づいて行くと、目標の燈は消えて失くなつた。何かの妨害が間に這入つたのだ。私は手を延ばして前面の黒い塊にさはつて見た。それは低い壁のあらい石であつた――で、その上はちやうど矢來のやうになつてをり、その内側は高いとげ/\したまがきになつてゐる。私は手探りをつゞけた、するとまた何か白つぽいものが私の前に光つた。門――小さな門であつた。押してみると蝶番てふつがひが開いた。黒つぽい茂みが兩側にある――冬青もち水松いちゐらしい。
 門を潜つて灌木の中を通つて行くと、家の黒色影像シルエットが眼の前に浮び上つた。黒く低く、そしてどつちかと云へば長い家だ。だが道標みちしるべの灯は、どこにもない、總てはたゞ朦朧としてゐるだけだ。家の人達はもう寢て了つたのか知ら? どうもさうらしい。私は戸口を見つけようとして角を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。と、其處には地上一呎ばかりの小さい菱形の格子窓の硝子がらすから、再びあの懷かしい光がパツと射して來た。そして窓のついてゐる家の壁一面に常春藤きづたか何かの蔓類の植物が生ひ茂つて、ぎつしり絡みついてゐる爲め、窓は一層小さくなつてゐる。だからその口は、窓掛も鎧戸も殆んど不必要な程に、蔽はれて狹いのだ。身をかゞめて窓を蔽つてゐる簇葉むらはの一枝を押し除けると、私は中の有樣をすつかり見ることが出來た。掃き淨められた砂床の部屋、數列の並べられた白蝋製の皿が赤々と燃える泥炭の火をうつして、赤色に輝やいてゐる胡桃くるみ材の料理臺、時計、白い樅製の卓子、それから數脚の椅子が見えた。私を導いてくれた蝋燭は卓子テエブルの上に燃えてゐる。そしてその蝋燭の側にはいくらかがさつに見えるが、身分相應にきちんと身づくろつた一人の老婆が靴下をんでゐた。
 私はかうした色々なものを、たゞざつと眺めたゞけであつた――それらの中には、これと云つて取り立てゝ云ふ程のものは何もなかつたからだ。それよりももつと心を惹かれる一組が、煖爐だんろの側近く、焔の薔薇色の平和と温かさの中に靜かに坐つてゐた。二人の若い美しい女――何處から見ても令孃らしく見える――が、一人は低い搖椅子ゆりいすに、一人はもつと低い足臺の上に坐つてゐた。二人とも縮緬ちりめんと絹の喪服もふくを着てゐて、そのくすんだ黒つぽい服裝が、殊更に二人の美しい首と顏とを引立たしてゐた。一人の女の膝の上には、大きい年寄つたポインタ種の犬がそのたくましい頭を休めてをり――も一人の前掛には黒猫が蔽はれてゐた。
 かうしたもので占められた、この簡素かんそな臺所は、何といふ不思議な場所であらう! 彼等はどうした人々であらうか? 二人の女は卓子テエブルにゐる老女の娘達であらう筈がない。何故つて、老女は見たところ田舍者らしいのに、彼女達はまつたく、優雅いうがで教養があつたから。どこでだつて、私は一度も彼女達のやうな容貌を見たことは無かつた。そしてなほも私は、彼女達を凝視みつめてゐると、凡ゆる點に親しさが感じられて來た。だが彼女達は所謂美人ではない――さう云ふには二人とも餘りに蒼白くて憂鬱である。二人共本の上に顏を伏せてゐるので、寧ろいかつい程に思慮深げに見えた。彼女たちの間にある臺の上にはも一つの蝋燭と二册の大きな書物が載つてゐて彼等は幾度もその書物を調しらべてゐた。そして彼女達の手にある小さい本と比べてゐる樣子は、あたかも飜譯のときに字引でも引いてゐるやうに見えるのであつた。この光景は一切の形象がちやうど影でゞもあるかのやうに靜かであつた、そして、あか/\と火に照らされた部屋はまつたく一つの繪であつた。餘りしんとしてゐるので火網ひあみから落ちる燃え屑の音や、薄暗い部屋の隅でコチ/\鳴る時計の音までも聞えて來た。そして老婆の編針あみばりのカチ/\いふ音までが聞き取れるやうにさへ思はれた。處が、とう/\一つの聲がその奇異きいな靜寂を破つた、その聲は私には手に取るやうに聞えた。
「ねえ、ダイアナ、」一心に讀み耽つてゐた一人が云つた。「フランツとダニヱルお爺さんとが夜更よふけて一緒にゐたのよ、そしてフランツが、こはくて眼を覺まして了つた夢の話をしてゐるのよ、いゝこと!」そして低い聲で彼女は何やら讀み出した、だが私にはそれは唯の一語も分らなかつた、私のまるで知らない言葉なのだ――佛蘭西語でも拉典ラテン語でもない、多分ギリシア語か獨逸語なんだらうけれど、私にはどつちだか分らなかつた。
「まつたく素晴らしいのね、氣に入つたわ。」讀み終ると彼女は云つた。妹が讀んでゐるのを顏を上げて聞いてゐた、も一人の少女は、光をみつめながら今讀まれたところを繰り返した。後日、私はこの言葉も本も知つたのであつた。でついでに、私はこゝにその句を書いておかう。尤も、私が最初にそれを聞いたときは、無意味な、たゞ眞鍮でも叩くやうな氣がしたのだけれど――「“Da trat hervor Einer, anzusehen wie die Sternen Nacht.”そのとき、星輝ける夜の如き者現はれぬ)素敵! 素敵!」黒眼勝くろめがちの深い瞳を輝かせて、彼女は叫んだ、「ね、朦朧とした、偉大な大天使が、あなたの前に程よく坐つてゐるのよ! この句は誇張したものを百頁讀む程の價値があるわ。“Ich w※(ダイエレシス付きA小文字)ge die Gedanken in der Schale meines Zarnes and die Werke mit dem Gewichte meines Grimms.”我はその思索を我が憤りの皿に載せ、その業を我が怒りの分銅をもて量る)こゝが好きなの!」
 二人は沈默に歸つた。
「どこかのお國では、そんな鹽梅あんばいに話してゐるのでございますかね?」老女は編む手を休めて、仰ぎながら訊ねた。
「さうよ、ハナァ――そこは英國イングランドよりもずつと大きな國でね、そこぢや、こんな風にしか話さないのよ。」
「まあ、左樣でございますか。ほんとのこと、私にやその人たちがどうしてお互分るのか分らねえだよ。そいでお孃さんたちは、そのお國へいらしても、お話がお分りかね?」
「それはねえ、多分少し位は話せるだらうよ。だけど、すつかりぢやないわ――あたしたちはお前が考へてゐるやうに偉くはないのだもの、ハナァ。あたしたちは獨逸語は話せないの、讀むことだつて、字引の助けが無いと、駄目なんだもの。」
「そいで、それはお孃さん方に、どんなお役に立つもんでございますかな?」
「私たちは何時いつか、獨逸語を教へようと思つてゐるの――まあ少くとも初歩だけでもね、さうすれば今よりも、もつとお金がとれるからね。」
「ほんとにまあ結構なこつてございますよ。だけど、もうお止めになさいませんか。今夜はもう隨分御勉強でございましたよ。」
「さうね――兎に角私疲れたわ、メァリー、あなたはどう?」
「死ぬ程。先生なしで辭書ばかりぢや、語學をコツ/\やるつて辛い仕事ね。」
「まつたくよ。殊に獨逸語のやうなゴツ/\して分りにくゝつて、そのくせ美しい偉大な言葉はね。それはさうと、セント・ジョンは何時頃歸つてるんでせう。」
「もうきつと間もなくよ。今ちやうど十時(彼女は帶の間から小形の金時計を取り出して見ながら)ひどく降つて來たこと。ハナァ、濟まないけど、居間の火を見て來て呉れない?」
 老婆は立ち上つた、彼女が戸を開けると、其處からかすかに廊下が見えた。間もなく奧の部屋で彼女は火を掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐるのが聞えて來た。程なく彼女は戻つて來た。
「あゝお孃さん、あちらのお部屋に參りますのは、ほんとにつらうございます。からつぽの椅子がお部屋の隅に片付いてゐて、えらく寂しうなりましたで。」
 彼女は前掛で眼を拭ひた、今迄沈んで見えた二人の少女はこのとき悲しげに見えた。
「けれどお父さまは今はもつといゝところにおゐでなさいますよ。」ハナァは言葉を續けた。「もう一ぺん歸つて戴きたいなんて、お願ひしちやあなりません。それに、誰だつてもお父さまのやうに、靜かに天國へ行けりや、不足はありません。」
「ぢやお前、お父さまはあたしたちのことは、何んにも仰しやらなかつたといふの?」と一人の娘が聞きとがめた。
「お父さまにやもう時がなかつたんでございますよ、お孃さん。お前さん方のお父さまは、ほんのちよいとの間に、おかくれになりましたから。前の日とおんなじで、幾らかお加減はようなつたけど、大したことは何もございませんでしたよ。そいでセント・ジョンさまがお前さま方のどつちかに使を出さうかつて、おきになるてえと、お父さんはえらく笑つておしまひになりましたよ。あくる日、またおつもが痛み始めて――ちやうど二週間目になつてゐました――そいでおやすみになつたまゝ、もうお目覺めにやならなかつたんでございます。お兄さまがお部屋へいらして御覽になつた時にや、もう大方固くなつてゐらつしやいました。あゝ、お孃さん方、ほんとにお父さまは古いお血統ちすぢの一番おしまひのお方でございましたよ。お前さん方もセント・ジョンさんも、どうやらすつかり性質たちが違つてゐらつしやります。皆さまおつ母さん似でその通り學問がお好きだ。おつ母さんはメァリーさまそつくりのお方でございましたよ、ダイアナさまは餘計にお父さまに似てゐらつしやいます。」
 二人は大變似てゐるやうに思へたので、どこにこの老女(やはり召使だつたのだ)の云ふ違ひがあるか分らなかつた。二人とも美しい顏色をしてそしてきやしや造りである。二人とも氣品きひんと聰明に滿ちた顏をしてゐた。一人は、確かに他の一人よりも心持黒い髮をしてゐる。そしてその髮の結ひ方はお互に異つてゐた。メァリーの明るい栗色くりいろの髮は、分けて綺麗きれいまれてゐた。ダイアナの少し黒味くろみがゝつた髮は、大きくウェーヴされて、首筋を蔽つてゐる。時計は十時を打つた。
「きつとお夜食が上がりたくおなりでせう。セント・ジョンさんもお歸りになつたら召し上りませう。」ハナァは云つた。
 そして彼女は食事の支度を始めた。少女達は立ち上つた。居間ゐまに戻らうとするらしかつた。この時まで、私は一心になつて彼女達から眼を放さなかつた。そして、彼女達の樣子や會話が鋭く私の興味をそゝつた爲め、自分のみじめな境遇を半ば忘れて了つてゐた。私は今また我に還つた。眼前の光景と引較ひきくらべて我身が一層みじめに、絶望的に思はれて來た。思へば、私の身の上のことで、この家の人々の心を動かし、この空腹と苦痛とが眞實であることを信じさせ――そして、途方とはうに暮れた私にいこひの場所を惠んでくれるやうな氣にさせることは、もうとても出來さうもなく思はれるのであつた。手探てさぐりに、戸口を探しあて、おづ/\と、ノックした時には、私はもう泊めてもらふなどゝいふことは、ほんの空想に過ぎないやうな氣がしてゐた。ハナァは戸を開けた。
「お前さん、何御用ですかね?」彼女は手に持つてゐる蝋燭の光で、じろ/\と私を眺めながら、驚いた聲でたづねた。
「私、お孃さんにお話し致したいのですが。」私は云つた。
「何か云ひたいなら私に云つた方がいゝよ、お前さんは一體何處から來たのだ?」
「私、遠くから來たものなんです。」
「今時分何か用でもあるのかね。」
「納屋でも何處でも、一夜の宿やどと一片のパンが戴きたいのです。」
 疑ひ、私がおそれてゐた、その疑ひの色がハナァの面に現はれた。「パンの一片位なら上げてもいゝが、」彼女は一寸言葉を途切とぎらせてから云つた。「けれど私たちは無宿者やどなしめる譯にや行かないよ。飛んでもないこつたよ。」
「お願ひです、お孃さまに會はせて下さい。」
「駄目だよ。お孃さまだつてお前さんに何もして上げることはないよ。今時分迂路うろつくなんて。ほんとにいやらしいことだよ。」
「でもこゝを逐ひ出されたら、何處に行きませう? 私どうしていゝか分らない――」
「何だと! お前さんが何處へ行つて何をするか、お前さんにやちやあんと分つてゐるよ。いゝかね、惡い事だけはすがいゝよ、さあ、一ペニイあるよ。さあ行きなさい。――」
「一ペニイぢや、私、生きて行けません、それに、私、もう歩く元氣がないのです、戸をめないで下さい――あゝ、閉めないで、どうぞ! どうぞ!」
「閉めずにおけるものかね。雨が降り込むぢやないか――」
「お孃さまに云つて下さい――會はせて下さい――」
「ほんとにまあ、駄目だつてば、駄目だよ! お前はどうかしてゐるんだよ。でなきやこんなにわめき立てるつて法はないよ。さあ、退けつてば!」
「だつてこゝを行つて了へば、私、死にます。」
「死ぬもんかよ。お前さん、何か惡だくみを持つてるんぢやないかね。だから今時分人の家の方へやつて來たんだろ。何かい、もしそこいらに仲間でもあるのなら――押込みか強盜かね――云つてお呉れよ、この家にや女ばかしぢやないんだつて、男もゐりやあ、犬も鐵砲もあるつてな。」こゝでこの正直一方の、けれど強情がうじやうつぱりの老婆はパタンと戸をめて内から錠を下して了つた。
 是が頂點だつた。激しい苦痛――まつたくの絶望の苦痛――は私の心をずた/\に引裂いて了つた。今はもうせいこんも盡き果てた、一歩を歩む力さへない。私は雨に濡れた戸口の階段の上に崩れるやうに坐つて了つた。私はうめいた――兩手を絞ぼつた。――私は激しい苦痛に泣いた。あゝ、この死の妖靈! おゝ、こんな恐怖の中に、近づきくるこの最後のとき! あゝ、この孤獨――人界からの放逐! いこひいかりが切れたばかりか、殘る勇氣の足場さへ――少くとも一時的には――消え去つて了つた。けれども直ぐにもう一度私は勇氣を出さうと努力した。
「死を待つばかりだ。」私は云つた。「私は神を信じてゐる、唯靜かに神の意志を待つてゐよう。」
 さうした言葉は、心の中で思つたばかりでなく、實際に口に出たのだつた。そして私は一切の苦惱を胸に押し返して、外に出すまいと一心になつた――だまつて、そして靜かに。「人間は皆死なゝければなりません、」一つの聲が私の直ぐ間近に聞えた、「けれども、もしあなたが餓死がししたなら、それが果されたわけなのですか。誰もみな、ぐづ/\わづらつて、天壽を全うすることなく死ぬやうな運命に、定められてゐるとは、限らない。もしも、お前がこゝで、缺乏の爲めに死ぬことがあれば、お前の運命が、定められてゐるやうには。」
「誰? 何? あの聲は。」何ものからも、救ひの希望も全然斷たれて了つた今、私は思ひもよらぬ不意の聲に驚いて叫んだ。傍近くに一つの人影があつた――何の姿だらうか、眞暗まつくらな夜と、それに私の弱つた視力は何ものかはつきり見定めることが出來ない。と、新來の人は、高く長くドアをノックした。
「セント・ジョンさまでございますか?」ハナァが叫んだ。
「さうだ――さうだよ。おけ、早く。」
「まあ/\、さぞれてお寒いこつてございませう。本當にえらい晩だこと。さあ、お這入りなさいませ、お孃さま方もひどく御心配でゐらつしやいます、それに近所に惡者がゐさうでございますから。先程まで女の乞食が居りましたで――きつとまだ迂路うろついてゐるかも知れません――おや、彼處に寢てるよ、起きろ! まあどうしよう、行かないか、畜生!」
「お止め、ハナァ! 私はあの女に用があるのだ。お前のつとめはあの女を追ひ出したんで濟んだのだ。今度は私の番で、家に入れてやるのだ。私はお前とあれが話してゐるのを傍で聞いてゐたよ――何か事情があるに違ひない、兎に角、一應聞いてみなけりや――君、お立ちなさい、そして家にお這入んなさい。」
 やつとのことで私は彼の云ふ通りにした。やがて私はあの小綺麗こぎれいな明るい臺所の中に立つてゐた。――先刻さつきのあの爐の傍で――顫へながら、むか/\しながら、そしてすつかり蒼褪あをざめて、すさんで、雨風に叩きつけられた自分の姿を意識しながら。二人の婦人、彼等の兄のセント・ジョン、それから老婆は、つと私をみつめてゐる。
「セント・ジョン、あの人誰なの?」私は誰かゞ問ふのを聞いた。
「誰だか知らない。僕はあの人が戸口にゐるのを見附けたのだ。」返辭である。
「眞蒼な顏をしてをります。」ハナァが云つた。
「まるで死人みたいに。」と誰かが應じた。「あの人倒れてしまふわ、掛けさして上げたら?」
 本當に私の頭はくら/\してゐた。私は倒れかゝつた、けれども椅子いすがうけてくれた。でも、私は意識はあつた。尤も今すぐにものは云へなかつたけれど。
「水を飮ませたら、元氣づくだらう。ハナァ、持つておいで。だけど、まるで骨と皮だ。何て痩せて血のがないんだらう。」
「まるで幽靈みたいに。」
「病氣か知ら、それとも、唯おなかいてるだけでせうか?」
いてゐるらしいよ。ハナァ、それミルクなの? 頂戴、それからパンも。」
 ダイアナは(私の上から肩越しにかゞんだ時、私と火との間にその長い捲毛まきげが垂れたので私は彼女と知つた)幾片かのパンを※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしつて、ミルクにひたし、それを私の唇にあてがつた。彼女の顏は私の間近かにあつた。彼女のおもて憐憫あはれみのあつたのを見た。そして、そのせき込んだ息づかひには同情が籠つてゐた。簡單な言葉の中にも、同じ鎭痛油ちんつうゆのやうなやさしい情が話してゐた。「食べて御覽なさいな。」と。
「本當よ――食べて御覽なさいな。」メァリーもやさしく繰り返した。そしてメァリーの手は、雨につかつた私の帽子をとつて、頭を持ち上げてくれた。私は與へられたものを食べた、初めは弱々しく、けれども直ぐ夢中になつて食べた。
「一度に餘り澤山はいけないよ――おめ。」彼女の兄は云つた、「それ位で澤山だ。」そして彼はミルクとコップとを引込めた。
「も少し上げたら、セント・ジョン――御覽なさい、あの欲しさうな眼を。」
「今はもうこれよりいけないんだよ。口がけるかどうか――名前をいて御覽。」
 私は物が云へさうに思つたので答へた――「私、ジエィン・エリオットと申します。」私は何時でも發見されるのを、心配してゐたので、假名かめいを使はうと、以前から決心してゐたのであつた。
「で、何處に住んでゐるのですか、知合がありますか?」
 私は默つてゐた。
「あなたが知つてる人を、誰か呼びに遣りませうか。」
 私は頭を振つた。
「何か御自分のことに就いて話せませんか?」
 どういふものか、私は一度でもこの家のしきゐを跨ぎ、この家の人々と顏を合せたからには、この廣い世界では、もう決して追ひ出されたり迂路うろついたり、もんなしになつたりしなくていゝやうな感じがしたのだ。もう乞食の姿は捨てよう――いつもの性質と態度とを取り返さう。今一度、私は自分を顧みた。そしてセント・ジョンから話をするやうにと云はれたとき――今はそれをするには、私は餘りに弱り切つてゐたので――私は暫くの間をいて云つた。
「わたくし、今夜はくはしいお話はとても出來ないのでございます。」
「しかし、それぢあ、あなたをどうして上げたらいゝのです?」彼は云つた。
「なんにも、」と私は答へた。私の力は短い答へしか許さなかつた。ダイアナが[#「ダイアナが」は底本では「ダイナアが」]言葉を續けた。
「ぢや、もうこれであなたにして上げることは何んにもないつて仰しやるの? そして私たちが、またあなたをあの草原と、雨の夜に追ひ出しちまつてもよろしいの?」
 私は彼女を視た、私は彼女が力と善意とに充ちたすぐれた顏を持つてゐると思つた。俄かに勇氣が湧いて來た。彼女の思ひ遣り深い凝視にみ返しながら私は云つた。「私はあなたに信頼いたします。私が主人を失つた野良犬のらいぬであつたとしても、あなたが今夜このの傍から追ひ出してお了ひにならないことはよく存じてをります。ですから本當に私、何んにも心配いたしてはをりません。どうぞあなたのお好きなやうになすつて下さいまし。ですが、この上お話しすることだけはお許し下さい――私、息が苦しいのでございます――ものを云ふと、何だか痙攣けいれんしさうでございますから。」
 三人はしげ/\と私を見た、そして三人ともだまつてしまつた。
「ハナァ、」最後にセント・ジョンが云つた。「この人をこのまゝ其處に掛けさして置きなさい。そして何も聞いちやいけないよ。十分も經つたら、先刻さつきのミルクとパンの餘りを上げてお呉れ。メァリー、ダイアナ、僕達は居間ゐまに行かう、そして、このことを相談することにしよう。」
 彼等は行つて了つた。すぐにどつちかの娘が引返して來た――が誰だか私には分らなかつた。私は暖かいの傍に坐つた。こゝろよい一種の昏睡こんすゐが忍びやかに私を襲つて來た。低い聲で彼女はハナァに何かの指圖さしづをした。暫らくして私は老婆に助けられながら、漸く階段を上つて行つた。びつしよりと濡れて雫の垂れさうな着物は脱がせられた。と、暖かい、乾いた寢床ベッドが私を抱いてくれた。私は神に感謝した――言葉にも盡くせない程の苦惱の中にも、溢るゝ感激のよろこびを經驗して――そして私はねむりに落ちた。

二十九


 これに續く三日ばかりの間の夜晝の追憶は私の心に非常にぼんやりとしてゐる。その間に感じたいろ/\な心持を思ひ出すことは出來ても、※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、375-上-3]めた考へは殆んど想ひ起せず、なした行動は全然想ひ出せない。私は自分が小さな部屋の狹い寢臺ベッドにゐることを知つてゐたゞけである。その寢臺に私はまるで根を下ろして了つたやうだ。まるで石のやうに身じろぎもせずに横はつてゐたのだ。そしてもしその寢床ベッドから私が引離されて了ふとすれば、それは事實私を殺して了ふのと同じことであつたらう。私は時の經過といふものを全然注意しないで過した――朝から午後に移り、午後から夕暮になつて行く時の變化を。私は誰かゞ室を這入つたり出たりするのを見た。そしてそれが誰であつたか、また私の側へ來て、何を云つたかも分つてゐた。けれども答へることは出來なかつた。唇を開くことも手足てあしを動かすことも同樣に不可能だつた。女中のハナァが、一番しげ/\と遣つて來た。彼女がやつて來るのは私の邪魔になつた。彼女は私を出て行かせたがつてゐるやうな、この女中には私や私の事情が分つてないやうな、私を毛嫌けぎらひしてゐるやうな氣がした。ダイアナとメァリーは日に一度か二度、部屋に姿を見せた。彼等は私の寢床ベッドの傍でかうした言葉を私語さゝやき交してゐた――
「この人を入れて上げたこと、本當によかつたわねえ。」
「さうよ、もし一晩中外にゐたのだつたら、翌朝は屹度戸口の處で死んでゐたでせうねえ。この人、どんな目につて來たのでせう?」
「想像以上の苦しみ、と思ふわ――可哀相な、痩せこけて、血ののない放浪者だわね!」
「この人ね、話し振りを見てると教育のない人ぢや無いと思ふのよ。アクセントなんかそれは美しいんですもの、それからぎ捨てた着物だつて、泥まみれで濡れてゐたけどちつとも着古きふるしてなんかなくていゝものだつたわ。」
「顏だつて一種獨特よ。頬がこけてやつれてるけど、私はきなの。丈夫になつて元氣が出て來れば、きつと嫌味いやみのない顏になると思ふわ。」
 彼女たちの會話の間には、一度だつて親切に私を引取つたことをくやんだり、または私を怪しんだり、嫌つたりするやうな言葉はなかつた。私は慰められた。
 セント・ジョンさんは一度來たゞけだつた。彼はつと私を視て、この昏睡的な状態は過度の[#「過度の」は底本では「過渡の」]、長い間の疲勞から來た反動の結果だと云つた。そして醫者を呼ぶ必要はない、その儘つと自然に放任はうにんして置くのが一番いゝだらうと云つた。總ての神經を何かにむごく使ひ過ぎたので、身體全體はすつかり暫らく休めなくてはならないと云つた。病氣はない。私の恢復は一度恢復し始めたらはやからうと云つた。これらの意見を彼は、物靜かな低い調子で言葉すくなに述べた。そして一寸沈默した後、彼は口數多い批評には如何にも慣れてないやうな調子で附け加へた。
「どつちかと云ふと餘り見ない顏だねえ。下品げひんとか墮落だとかいふやうなところはちつともない。」
「それ處ぢやないわ、」とダイアナが云つた。「本當云ふとね、セント・ジョン、私この可哀相な人に寧ろ好意を持つてゐるのよ。何時迄もよくして上げられたらねえ。」
「それはとてもむづかしさうだな。」と云ふのが答だつた。
「お前はこの人が友達との間の誤解の爲め、多分一途に家を飛び出して了つた何處かの若い婦人だつて事は今に分るだらう。僕達はね、この人がもし強情がうじやうつ張りでなかつたら、多分そのお友達の處へ連れ歸すことが出來ると思ふ。だが、この人の顏の意地いぢの強さうな線から見ると、どうも餘り從順すなほな人ぢやなさゝうに思はれるんだ。」彼は數分間、私を見守つてゐたが、やがてかう附け加へた。「思慮かんがへのあるらしい顏だね、だが、どう見ても綺麗ぢやない。」
「セント・ジョン、この人はひどく病氣なのよ。」
「病氣だつて、病氣でなくたつて、縹緻きりやうの惡いことに變りないさ。優雅いうがの處や、美の調和つて云ふものは、この顏には全然缺けてゐるよ。」
 三日目には私は餘程よくなつた。四日目には話したり、身を動かしたり、寢臺ベッドの上に起きたり、身を向き直らせたりすることが出來た。ハナァは私におかゆやバタなしのトーストを運んで來てくれた、ちやうどお晝時だつたらう。私は非常に美味おいしかつた。食物もよかつた――これまでは、熱つぽいくさみの爲めに飮み込んでも胸につかへてゐたのだけれど。それも攝れて了つた。で、彼女が出て行つた後で私は何となく力が出て來て、よみがへつたやうな感じがした。間もなく、休息に飽き足りたことと、動いてみたい氣持とが私をそゝり立てた。私は起ち上らうと思つた、だが私は何を着ればいゝのか? その儘地面に寢たり、沼に落ち込んだりしたジク/\の泥まみれの着物しかなかつた。さうした着物を着て世話になつた人たちの前に出るのは、私には堪らなく恥かしい氣がした。が、私はこの辱しめをまぬかれたのであつた。
 寢臺の側の椅子の上に私のものが一切、綺麗に乾かして置いてあつた。黒絹くろぎぬ上衣うはぎは壁に掛けてあつた。泥の汚點しみは綺麗に落されてゐる、濡れて出來た皺も延ばしてある、すつかりきちんとしてゐたのだ。あの汚れた私の靴も靴下も掃除されてゐて、見苦しくはなくなつてゐた。何時でも穿かれるやうになつてゐる。そしてこの部屋には洗面の道具も備つてゐたし、私の髮を梳づる爲めに櫛や刷毛はけも置いてあつた。ものうい手で五分おき位に休み乍ら私は身を整へ了つた。私がげつそり痩せたせゐか、着物がだぶ/\になつてゐたけれど、私はそのみつともない處を肩掛でかくした。そして一度きちんと身裝みづくろひして――私の大嫌ひなそして私をひどくだらしなく見せるほこりや亂れた處を一つも殘さないやうに身裝つて――私は手摺につかまりながら匍ふやうにして石の階段を下り、天井の低い狹い廊下に出て、漸く臺所に行つた。
 其處は新らしいパンの芳香はうかうと豐かな火の暖氣で充ちてゐた。ハナァがパンを燒いてゐた。誰でもよく知つてゐるやうに、偏見へんけんを、教育で耕やされ培はれたことの無い心から追ひ出して了ふことは實際難かしいことだ。偏見はさうした心の中で、ちやうど石の間に生えた雜草のやうに執拗しつえうに生長して行くのである。ハナァも初めの内はまつたく冷淡で頑固なものだつたが、おしまひには少し心が解け出して來たのであつた。そして今私がきちんと立派に身じまひしてやつて來るのを認めると彼女は微笑さへ浮べたのであつた。
「おや、お前さん、起きて來たのですかい。」彼女は云つた、「ぢや、もういゝんだね、お前さん、掛けたきや其處の爐石ろいしの上の椅子に掛けたつて構ひませんよ。」
 彼女は搖椅子を指した。私はそれに掛けた。彼女は絶えず横目を使つて私をしらべながら、忙しく働いてゐた。窯の中からパンの塊を取り出すと、ぐるりと私の方に向き直つて、ぶつきら棒にたづねた――
「お前さん、此處へ來る前に乞食をした事があるのかね?」
 一瞬間私は腹が立つた。けれども今腹を立てたつて何んにもならないし、また實際、あの時この老婆にはまつたく乞食に見えたのだと思ひ返して、私は穩やかに、しかしまた幾らかきつとなつて答へた――
「あなたは私を乞食だなどと思ふのは誤りです。あなたやお孃さまと同じやうに、私は乞食ぢやありません。」
 やゝ暫くして彼女は口を開いた。「どうもに落ちない。だつてね、お前さん、家もブラス(お金)もなさゝうぢやないの。」
「家が無くてもブラス(あなたはお金のつもりだらうが)が無くても、あなたの云ふやうな意味での乞食こじきにやなりません。」
「お前さん、學問をしたのかね?」やがて彼女はいた。
「えゝ、隨分。」
「それでも塾にゐたことは無いでせう。」
「私は八年間も塾にゐたのです。」
 彼女は眼を一ぱいにみはつた。「ぢや、何だつて自分で遣つて行けないのですか。」
「私は自分で遣つて來たのです。そしてこれからも一人で暮して行く積りなのです。それはさうと、このグウスベリはどうなさるの?」私は彼女がその果實このみを入れた籠を持ち出したときさういた。
「パイにするのですよ。」
「ぢやあね、それを私に頂戴、私がちぎりますから。」
「飛んでもない。私や、あなたに何もして貰はうと思つてやしませんよ。」
「でもね、私も何かしないといけないのよ。こつちへ貸して頂戴な。」
 彼女は承諾した。その上彼女は私の着物の上に擴げるやうに、綺麗なタヲルまで持つて來て呉れた。「私が着物をよごすといけないから。」と云つて。
「あなたは女中をしたことはありませんね、その手で直ぐ分る。」と彼女は云つた。「仕立屋したてやさんだつたでせう、多分。」
「いゝえ、當りませんね。でも、もう私が何だつたかなんていゝぢやありませんか――この上私のことを心配しないで下さいな――それより、私達がゐるこの家の名前を教へて下さらない?」
「マアシュ・エンドとかムア・ハウスとか云つてゐますよ。」
「そしてこの家の御主人がセント・ジョンさまと仰しやるのですか?」
「いゝえ、あの方はこゝに住まつてはゐらつしやらないのです、唯一寸の間來てゐらつしやるだけです。お家にゐらつしやるときには、モオトンの御自分の教區にゐらつしやるのです。」
「二三マイル向うのあの村に?」
「はあ。」
「そして何をして?」
「牧師さまですよ。」
 ふと私は牧師をたづねたとき、その牧師館での老女中の返辭を思ひ出した。
「では、この家にはジョンさまのお父さまがおゐでになつたのですね。」
「はあ、お年寄としよりのリヴァズさまが此處に住んでゐらつしやいました。それから祖父おぢいさまも曾祖父ひいおぢいさまもその前にね。」
「ぢや、あの方のお名前はセント・ジョン・リヴァズさまなのね。」
「はい。セント・ジョンと仰しやるのは、御洗禮のときのお名前ださうで。」
「そしてお妹さま方が、ダイアナさまにメァリーさまね。」
「えゝ。」
「お父さまはおかくれになつたのですか?」
「はい、それがあなた、三週間前に卒中そつちうでおかくれになりましてね。」
「お母さまはゐらつしやいませんの?」
「奧さまはもう餘程前におくなりになりました。」
「あなたはもう長らくこちらのお宅にゐらつしやるんでせうね。」
「三十年にもなりますよ、あなた。あのお三人共に私がおそだて申しました。」
「それであなたが本當に正直な忠實な女中さんだつてことがわかりますよ。ねえ、あなたは私のことを乞食だなんてひどいことを仰しやつたけれど、私はそのぐらゐはあなたのことをめてあげませう。」
 彼女は驚いた眼眸まなざしでまたもや私を凝視みつめた。「全く私の思ひ違ひでございましたよ。どうぞ御勘辨下さいまし。どうもこの邊りにはかたりが迂路うろつくものでございますから。」
「そればかりぢやなかつたのね。」と私は幾らかきびしい口調で續けた。「あなたは野良犬のらいぬだつてめ出す氣にはなれないやうなひどい夜に、私を外に逐ひ出さうとなすつたのよ。」
「仰しやる通りでございましたよ、ひどうございました。ですが外に仕方もないぢやありませんか? 私は自分のことよりもお孃さま方のことを考へたんでございますよ。お可哀相に! 私より他にお世話をする者は誰もないんですからね。私が油斷なくしてゐなくてはならないのです。」
 私は暫くむつゝりと默り込んでゐた。
「どうぞ、もうあんまりきびしくお考へにならないで下さいまし。」彼女はまた云つた。
「でも私は、矢つ張りあなたはよくないと思ふのよ。だつてねえ婆やさん――それはあなたが私をめてくれなかつたり、かたりだと思つたりしたせゐではないの。それよりはつい今さき、あなたは私がお金も家も持つてゐないと云ふので私を惡く云ひなすつたでせう、その爲めなんです。昔からの立派な人達の中にも、私と同じやうに、何も持たなかつた人があつたのですよ。それにあなたが、若し基督教徒ならば猶更貧乏を罪惡だなどゝ考へてはよくないのよ。」
「もう/\決して考へることぢやございません。」彼女は云つた。「セント・ジョンさまもさう仰しやつて下さいます。私が惡うございました――ですけれど、もう今はまるであなたを前とは違つて考へてをりますよ。あなたは本當にちやんとしたお方でございます。」
「もういゝのよ、許して上げませう。さあ、握手をして。」
 彼女はこなだらけのがさ/\した手を私に差し出した。前とは違つたあたゝかい微笑がそのがさつな顏に浮んだ。そしてその時から私たちはお友達になつたのである。
 ハナァは大層話好きだつた。私が果實このみ※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり、自分はパン粉を[#「パン粉を」は底本では「パイン粉を」]ねながら、彼女はくなつた主人や、主婦や、また彼女が「お子たち」と呼んでゐる若い人たちのことを細々と話すのであつた。
 老リヴァズ氏はまつたく質朴そぼくな人で、しかし紳士であつたし、一番舊い家の出であつたと彼女は云つた。マァシュ・エンドは唯一軒の家であつた頃からリヴァズ家の所有だつた。「もう二百年も以前のことですよ――それはもう、あのモオトン・ヴェイルのオリヴァさまの大きなおやしきとは比べものにならない小さな田舍みた所ですがね。」と彼女は云つた。「ですけれどね、あなた、ビル・オリヴァさんのお父さまつて方は、確か針製造の渡り職工でね。こちらの御先祖さまはヘンリ王時代の昔には貴族でゐらしたのですよ。そのことならモオトン教會の禮拜堂にある書付を御覽になりやお分りになります。」さうは云ふものゝ、彼女はまた「御隱居さまも狩獵かりには氣狂きちがひでゐらしたし、畑のことなぞもなすつて、別にこれと云つて此處らの旦那衆と違つたことはなさらなかつた。」といふ事は認めてゐた。處が夫人の方はことなつてゐた。この人は非常な讀書家で、また勉強家であつて、「お子さま方」はその夫人の方に似たのだと云ふ。この邊りには彼等のやうな人達は今もゐないが、これ迄にもなかつたさうで、彼等は三人乍ら、未だ口もまはらない内から本に親しみ、また彼等はいつもみんな獨學で仕上しあげたのであつた。
 セント・ジョンさまは行く/\は大學を出て牧師になり、お孃さま達は學校を卒業すると直ぐに家庭教師の口を探す筈である、といふのは、數年前に父親はその信頼してゐた人が破産した爲めに、巨額きよがくの金を失つて、現在は、彼等に財産を分つ程に豐かではなかつたので、彼等は各自めい/\、自分で働いて行かなければならなかつたと、彼等はハナァに云つて聞かしたことがある。彼等はもう長い間殆んど家庭で暮したことはなかつた。今は父親の死につて、ほんの二三週間歸つてゐるまでゞあつた。けれども彼等はマァシュ・エンドやモオトンやこの邊りの沼地ぬまちや丘が大變に好きで、倫敦ロンドンにも他の方々の大きなまちにも住んだことがあるのに、家庭うちほどいゝ處は無いと何時も云つてゐる。また彼等は互ひに本當に氣がつてゐて――一度だつて喧嘩をしたり、爭つたりしたことがない。彼女はこんな仲のよい家族は何處にも知らないと云ふのであつた。
 グウスベリ※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしりの私の仕事を終へると、私は二人のお孃さまとお兄さまは、今何處にゐらつしやるかとハナァにいてみた。
「モオトンまで御散歩にゐらつしやいましたが、もう三十分もすると、お茶にお歸りになる筈ですよ。」
 ちやうどハナァの云つた時刻までに彼等は歸つて來た。そして臺所の入口から這入つた。セント・ジョン氏は私を見ると、ちよいと會釋ゑしやくしたばかりで行つて了つたが、二人の婦人は足を止めた。メァリーは私がこゝろよくなつて階下したに降りて來られるやうになつたのを見て、彼女が感じた喜びを二言三言やさしく靜かに示してくれた。ダイアナは私の手をとつて私にうなづきかけ乍ら云つた。
「あなたは私のお許しが出るまで降りて來るのを待つてゐらした方がよかつたのよ。まだ隨分あをい顏をして――そんなに痩せて、可哀相な子――可哀相な人!」
 ダイアナの聲は私の耳にちやうど鳩がクウ/\鳴くやうに響いた。彼女に凝視みつめられるとぢつと眼を合せてゐたくなるやうな瞳を持つてゐた。彼女の顏全體は、私には魅力に充ちてゐるやうに思はれた。メァリーの顏も同じやうに聰明であつた。眼鼻立めはなだちも同じやうにとゝのつてゐた。けれども彼女の表情には、何處となく打ち解けない所があり、態度にもしとやかなうちにいくらか隔てがあつた。ダイアナの方は樣子にも話し振りにも一種の威嚴が具はつてゐた。確かに彼女は意志を持つてゐた。一體私は、例へば彼女のやうに一種の氣位きぐらゐを持つ人に服從することに快さを感じ、自分の良心と自尊心が受けれる範圍でならば、積極的な意志の前に跪くのが私の性質であつた。
「で、一體此處で何をしてゐらつしやるの?」彼女は續けた。「あなたのゐらつしやる處ではないわ。そりやね、メァリーも私も、時々臺所に坐り込むんですけれど、それは家では自由にしたいから、我儘がしたいからなんですの――でも、あなたはお客さまでせう、だから居間ゐまにゐらつしやるものよ。」
「私、此處で結構でございますわ。」
「いゝえ駄目――ハナァと一緒にゐると大忙おほいそがしだし、あなたをこなだらけにしてしまふわ。」
「それにこの火はあなたには熱過ぎるわ。」メァリーも言葉を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだ。
「本當よ。」彼女の姉は附け加へた。「ね、いらつしやい。云ふことを聞かないといけないの。」そして、まだ私の手を握つたまゝ私を立たせて、奧の部屋へ連れて行つた。
「此處に掛けてゐらして頂戴。」彼女は私を安樂椅子に坐らせながら云つた。「私達が帽子をいでお茶の支度をする迄ね。こんなことも私達が小さな草原の家で行使かうしする特權の一つなのよ、ひどく氣が向くか、でなくもハナァがパンを燒いたりパイをねたりお洗濯せんたくをしたりアイロンをかけたりしてゐる時に自分達で御飯の支度をするつてこともね。」
 彼女はドアを閉めて出て行つた。部屋には私とセント・ジョンと二人きりになつた。彼は私と差向ひに、本か新聞かわからないが、手にして坐つてゐる。私は最初に居間の樣子を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はし、それからいろ/\な調度類てうどるゐに眼をやつた。
 部屋はどちらかと云へば小さく飾付かざりつけも簡素であつたが、小ぢんまりと、綺麗に片附いてゐるので、感じがいゝのだつた。古風な椅子は皆ピカ/\光つてゐるし胡桃材くるみざい卓子テエブルはまるで鏡のやうに磨いてある。昔風の男女の奇妙な古い繪姿が塗つた壁を飾つてゐる。硝子戸がらすどのついた戸棚には本や古い陶器の茶道具など並んでゐる。この部屋には餘計な裝飾は一つもない――當世風な家具と云つては、小卓子こテエブルの上にある一對の針箱と、花梨木製かりんもくせいの婦人用の机だけである。一切のもの――絨毯も窓掛カアテンも――が、十分使ひ古されてをつたし、よく保存されてゐた。
 セント・ジョンは――壁に掛つてゐるすゝけた繪姿のやうに坐つたまゝ、讀んでゐる本に眼を据ゑ、唖のやうに唇をつぐんでゐたので――觀察するのには雜作ざふさもなかつた。もし彼が生きた人間でなくて一個の塑像であつたとしてもこれ以上に雜作ざふさなく觀察されはしまい。彼は若かつた――多分二十八から三十までの間だらうか――背が高くすらりとしてゐる。その容貌は人の眼を惹きつける。それは希臘人の顏に似て輪廓が非常に正しい。まつたく鼻梁はなすぢひいでた古典的な鼻と、アゼンス人その儘の唇と顎。實際英國人の顏に彼程古典的な型を彷彿させるものは滅多めつたにない。自分の容貌がそれ程端正な所から、彼は私の顏の不恰好なのを見て些か驚いたのも無理はない。彼の眼は大きく碧くて、鳶色とびいろ睫毛まつげに被はれ、象牙にもまが白皙はくせきの高い額には、心なしの金髮の捲毛がこぼれてゐる。
 讀者よ、これは上品な人物描寫ではないだらうか。しかもその人物描寫の描いてゐる彼はひんよくもの靜かな、やさしい感じ易い人だと、またはなごやかな性質の人だといふ感じを見る人に抱かしめることは殆んどなかつた。彼は今靜かに坐つてゐるけれども、その鼻孔びこう、その口、その額の邊りに、焦立いらだちか頑固か熱情か、その何れかを表示するものが仄見ほのみえるやうな氣がした。彼は妹達が歸つて來る迄は、私に一言も口を利かないばかりか一瞥すら與へなかつた。お茶の用意の爲めに部屋を出たり這入つたりしてゐたダイアナは、私にかまの一番上で燒けた小さなお菓子を運んでくれた。「さあ、それを召し上れ。」と彼女は云つた、「きつとお腹がおきになつたに違ひないわ。あなたは朝御飯からこつちおかゆを召し上つたきりだつてハナァが云つてましたもの。」
 私は辭退しなかつた。私の食慾は呼び醒まされて鋭くなつてゐたので。リヴァズ氏はやがて本を閉ぢて卓子テエブルに近づくと席に着いて、そのあをい、繪に描いたやうな瞳をまともに私に注いだ。その彼の凝視の中には不作法ぶさはふなまでの直情徑行と、詮索的な斷乎だんこたる頑固さが動き、それは今迄この未知の客に對して素知そしらぬ顏をしてゐたのも遠慮からではなく、彼自身の意志によるものだと云ふことを語つてゐた。
「お腹がいたでせう。」と彼は云つた。
「はい、さうでございます。」簡單に問はれゝば簡單に、打つけに云はれゝば露骨に答へること――これが私の癖なのだ、いつもの本能的な癖なのであつた。
「この三日ばかり輕い熱で絶食を餘儀よぎなくされたことが却つてよかつたのです。最初から食慾の出るまゝにまかせるのは危險だつたでせう。もういゝけれど、しかしまだ矢鱈やたらに食べてはいけませんよ。」
「私もう長らくは、皆さまの費用で食べることもないだらうと存じます。」私はこんな云ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しの惡い、不作法ぶさはふな答へをしてしまつた。
「いゝや、」冷淡に彼は云つた。「あなたがお友達の處を知らせて下されば、私たちから手紙を書いて上げます。さうすれば、あなたはおうちへ歸れる譯でせう。」
「私、はつきりと申上げねばなりませんが、それは出來ないのでございます。まつたくの家も友達もないのでございますから。」
 三人の眼は私に注がれた。が、それは不信用からではない、彼等の眼には懷疑の色のないことを感じた。たゞ彼等の好奇心かうきしんが募つたのである。それは特に二人の婦人たちのことだと私は云ふ。セント・ジョンの眼は字義じぎ通りいかにも澄明であつたが、比喩的に云へばその眞意をはかり兼ねるものであつた。彼はその眼を自分の心をあらはす道具としてよりも寧ろ相手の心を探る爲めの器械として、使用してゐるやうに見えた。鋭さと隔意かくいとの結合は人を鼓舞するよりもかなり當惑させようとかゝつてゐた。
「では何ですか、」と彼はいた、「あなたはまつたくすべてのかゝり合ひからひとりぽつちだと云ふのですか?」
「さうでございます。寄邊よるべと云ふやうな者は一人もありませんし、英國中で何處かの家に入れて貰ふ權利は私には一つもございません。」
「あなたの年頃では、それはまつたく不思議な身柄だ!」
 と、私は彼の視線が前の卓子テエブルに重ねた私の手を射たのに氣が附いた。一體何を見られたのか知らといぶかる間もなく、彼の言葉が説明した。
「あなたは一度も結婚されたことはありませんね? 老孃オールド・ミスですね?」
 ダイアナは噴飯ふきだした。「まあ、セント・ジョン、この方はまだせい/″\十七か十八よ。」
「もうすぐ十九でございますの。でも、結婚してはをりません。決して。」
 私は顏が眞赤まつか火照ほてつて來るのを覺えた。痛ましい、心を掻きみだす追憶の數々が結婚の言葉に誘はれて呼び醒まされたからである。彼等は皆私のかうした當惑と感動を見てしまつた。ダイアナとメァリーは、あか[#「赧く」は底本では「緒く」]なつた顏から眼をらせてくれたが、より冷靜な、少しも假借しない兄は、私を困らせて顏をあからめさせたばかりでなく、とう/\泣かせてしまふまで、凝視を續けたのであつた。
 そこで彼は詰問した。「最近は何處に住んでゐらしたのです?」
「そんなに執拗しつこくものぢやないわ、セント・ジョン。」メァリーが低い聲で呟いた。それでも彼は卓子テエブルにのしかゝつて、またもやまじろぎもせず射るやうな視線を私に注ぎながら、返答を要求した。
「私が住んでをりました處や、一緒にゐた人の名前は申上げられません。」と簡單に私は答へた。
「そりやね、さうお思ひならそのことは、セント・ジョンにも誰にも、祕密になすつていゝ權利があなたにあると私思ひますわ。」とダイアナも言葉を添へた。
「しかし僕があなたや、あなたの履歴りれきに就いて何も知らないとなると、どうもあなたをお助けする譯には行かなくなるが、」と彼は云つた。「しかもあなたはたすけがる、さうぢやありませんか。」
「え、必要でもございますし、求めてをります。誰か本當の慈善家が、私に出來るやうな仕事を見つけさせて下すつて、その報酬で、唯かつ/\食べるだけでもいゝ、暮して行ければと思つてゐるのでございます。」
「僕は自分が本當の慈善家かどうかは知りませんがね、しかし僕はまつたく正直な目的で、僕の力の許す限りはあなたをおたすけしたいと思つてゐるのです。では、先づ云つて下さい、先づ第一にあなたはどんな仕事に經驗があるか、それから何が出來るか。」
 私はお茶を飮んでしまつてゐた。そのお蔭で大層氣分が清々せい/\して來た、ちやうど葡萄酒を飮んだ巨人のやうに。その飮料は私の弱つた神經をピンと調子づけて、この詮索好きの若い判事に、はき/\返辭が出來るやうにしてくれたのであつた。
「リヴァズさん、」と私は、彼の方を向いて、彼の眼を迎へながら、少しもおくせず卒直に云つた、「あなたにもお妹さま方にも本當にお世話になりました――大偉人だけが人類の爲めに爲し得ることでございます。あなた方は、その氣高けだかい愛のお心で私を死からお救ひ下さいました。この御恩に對しては何とお禮申上げてよいか分らない程でございます。それで、私も當然ある點までは私の祕密をお話しいたさねばなりません。私は、あなた方がお救ひ下さつた放浪者の履歴を、私の心の平和を破らない限りに――精神的肉體的の私の安全と他人の安全とを害しない限りに――申上げたいと存じます。
「私は、孤兒みなしごで、牧師の娘でございます。兩親は物心ものごゝろの附かない前にくなりました。私は人に預けられて育ち、慈惠院で教育されました。私が生徒として六年、教師として二年間過したその場所も申上げませう、××州のローウッド孤兒院でございます、御存じではゐらつしやいませんかしら、リヴァズさま?――ロバァト・ブロクルハースト牧師の經營です。」
「ブロクルハーストさんのことは聞いてゐます、學校も見たことがあります。」
「それから一年ばかしつて、私は家庭教師になる爲めにローウッドを出ました。そしていゝ位置につくことになりました。私は幸福でございました。でもそれも、ちやうどこちらへ參ります四日前に、めなければならなくなりました。その理由わけは私には申せませんし、また申上げない方がいゝと思ひます。申上げた所で多分何の役にも立ちませんし――危險かも知れません。また信じても戴けないでせう。けれども、私にはめられるやうなことはありませんでした。あなた方と同じやうにまつたく潔白けつぱくでございます。私は今みじめなのです、暫くはかうなのだらうと思ひます。何故つて、樂園だと思つてゐたその家から、私を追ひ出してしまつた災難といふのが、本當に不思議なおそろしい性質のものでしたから。私は、出てしまふ決心をしました時にたゞ二つのこときり考へませんでした。手早てばやく、そして、誰にも知れないようにといふことでございます。それを守る爲めには、私は小さな包の他は一切殘して行かなければなりませんでした。おまけにその小さな包みは、氣はきますし心は亂れてゐたせゐか、ウ※[#小書き片仮名ヰ、386-上-2]トクロス迄乘つてまゐりました馬車の中に置き忘れて來てしまひました。そしてまつたくの無一物となつて、この附近に彷徨さまよつて來たのでした。二晩は野宿、そして二日間といふもの一歩も家へは這入れずに彷徨さまよひ歩いたのです。その間、二度程食物を口にしました。そしてお終ひに、お腹がいたのと疲れと絶望とで、死にかけてをりましたとき、リヴァズさん、あなたが戸口の處で――飢ゑて死ぬには及ばぬと云つて、中へお入れ下すつたのでございます。その後、私は妹さま方が私にして下すつたことをすつかり存じてをります――何故なぜと申して私はあの昏睡状態こんすゐじやうたいの間無意識ではございませんでしたから――ですから、私、お二人のお心からの純眞なあたゝかい御同情を、あなたの福音の道にかなつた慈善のお心と同じやうに、本當に嬉しく有難く思つてをります。」
「もうこの上話させちやいけないわ、セント・ジョン、」私が一寸息をついた時、ダイアナは云つた。「とても未だ昂奮していゝ程になつてやしないわ。こつちに來て、安樂椅子ソフアにお坐んなさいな、エリオットさん。」
 この變名を聞いて私は思はずはつとした。私は新しい名前を忘れてゐたのだ。この樣子を、何物も見逃みのがさないらしいリヴァズ氏は直ぐ看てとつた。
「あなたは、ジエィン・エリオットと云ひましたね?」彼は突込つゝこんだ。
「えゝ、さう申しました。今はさう呼んで戴いた方が都合がいゝと存じますから。でも、それは私の本當の名前ではございませんの。ですから、さう呼んで戴くと變にひゞきますの。」
「本當の名前を云つて下さいませんか?」
「いゝえ、私、何よりも見附かるのがこはうございますの。ですから、そのになるやうなことは何も申上げないことにいたします。」
「本當よ、その通りですわ、」ダイアナは云つた、「ねえ兄さん、少しゆつくりさせてお上げなさいよ。」
 セント・ジョンは、一寸口をつぐんだが、やがて依然として冷靜な鋭敏な調子でまたはじめた。
「あなたは、長らく私たちの厄介やつかいになつてはゐたくないでせう――いや、出來るだけ早く妹たちの同情や、就中、僕のお情をなくしてしまひたいやうだ(僕は彼等との間の差異に十分氣が附いてゐる、が、それをうらんでやしない――それは當り前なのだ)あなたは私たちから離れて、自分でやつて行きたいのですね?」
「さうでございます。そのことは先程さきほども申上げました。どうして仕事をいたしませうか、どうして仕事をさがしませうか、仰しやつて下さいまし。それだけが今伺ひたいのでございます。それから後は假令たとへどんな貧弱な小屋でも結構ですから行かせて下さいまし――けれど、それ迄はどうか此處にお置きになつて下さいまし。私、もう家もない無一物のおそろしさに、この上試みられたくはございません。」
「無論、此處にゐらしてようございますとも。」白い手を私の頭に添へながら、ダイアナは云つた。「ようございますとも。」メァリーも持前らしい愛嬌の無い、しかし眞實味しんじつみのある口調くてうで繰り返した。
「御覽の通り、妹たちはあなたを止めて置くことに一種の樂しみを持つてゐます。」セント・ジョン氏は云つた。「まるでつめたい風が窓から追ひ出して了ひはしないかと、こゞえかけた小鳥を引留めて可愛がると云つた樂しみなのだ。私はあなたを自分で遣つて行けるやうにして上げたいといふことに就いては、もつと考へてゐるのです。そしてそれが出來るように努力して見ませう。だがお聞きなさい、僕の範圍は狹いのです。高が貧弱な田舍の教區の牧師に過ぎないのだから。だから、僕が助けると云つても、最も微力なものに違ひないのです。もしもあなたが萬事控へ目な生活に嫌氣いやきが差してゐるのなら、僕が提供するやうなものより他の、もつと有力な援助を探した方がいゝでせう。」
「正しいことで、お出來になることだつたら、何でもなさりたいつて、もう先刻さつき仰しやつたぢやありませんか。」とダイアナが私の爲めに答へて呉れた。「そして後援者は誰だつて構はないと云つてゐらつしやるのは、セント・ジョン、あなただつて知つてるでせう。かうなれば、あなたみたいな頑固ぐわんこな人だつて、我慢しなければ仕方がないのですわ。」
「愈々となれば、私、裁縫師にでも日傭女ひやとひをんなにでも、また他になければ女中や子守にだつてもなります。」と私は答へた。
「宜しい、」セント・ジョン氏はまつたく冷靜に云つた。「さういふお心なら、私の好きなときに、好きな方法でお助けすることを約束しませう。」
 彼は再びお茶の前に讀んでゐた本を取り上げた。私は早々に引きとつた。何故と云つて私は今の元氣ではこれ以上辛抱が出來ない程話しもしたし、坐つてもゐたのだから。

三十


 ムウア・ハウスの人達を知つて來れば來る程、私は益々彼等が好きになつた。數日つ内に私は非常に健康を恢復したので、終日起きたり、ときには、出歩いたりすることが、出來た。そしてダイアナやメァリーがする仕事には何にでも加はることが出來たし、彼女達に好きなだけ話しもし、してもいゝと許されゝば何時でも何處でゞも彼女達の手傳ひが出來るやうになつた。かうした接觸せつしよくの中には、私が初めて味はふ一種の晴れやかなよろこびがあつた――趣味と感情と主義の完全な一致が齎らす悦びがあつたのだ。
 彼女達がこのんで讀むものは私も好きだつた、彼女達が面白いことは私にも愉快だつた。彼女達が是認ぜにんすることは私も尊重したのであつた。彼等はその離れ家を愛した。私もまた、低い屋根、格子窓、ちかけた壁、古いもみの並木路のある、灰色のさゝやかな古風な建物たてものの中に――これらはすべて山颪やまおろしに吹きたわめられてゐた――固い植物の花しか咲かない、にれや樫で薄暗いその庭――さうしたものゝ中に、根強いそして永久的な一種の愛着を覺えるのであつた。家の背後や周圍に開けた紫の草原に――彼等は執着してゐた。門から下つて深い谷の方に續く小石の多い馬道、その馬道は羊齒しだ土堤どての間を通り、ヒースの茂りを縁取ふちどつてゐる荒れ果てた幾つかの小さな牧場、苔のやうな顏を持つ小羊を連れた灰色の野羊のひつじの一群に食物を與へる小さな牧場の間を縫つてうねつてゐた。――この風景に、彼等は最も熱烈な愛着心を持つて執着してゐた。私にはその心持が分つてゐたし、またその心持の強さと眞實さに共鳴することが出來た。私は田舍が持つ魅惑みわくを看取した。私はそこの寂しさの神聖さを感じた。土地のふくらみやなだらかな線や――苔やヒースの花や、花の咲いた芝や、きら/\したわらびや、色の柔らかい花崗岩みかげいは等で山の背や峽谷に與へられてゐる荒い彩色いろどりを眺めて私の眼は樂しんだ。かうした樣々のものが彼女等にとつて清い甘いよろこびの泉であつたやうに、私にも同樣に感じられた。烈しい木枯こがらしやさしい微風、荒れた日やなごやかな日、日の出や落日のとき、月の光や雲の夜は、この地方に於て彼等と同じ魅力を私に次第に募らせた――そして彼等を恍惚うつとりさせてゐるその同じ咒文は、やはり私の心をも捉へて了ふのであつた。
 家の中でも同じやうに私たちはよく一致した。彼女等は私よりも多く學んでゐたし、また本も讀んでゐた。けれど、私もまた熱心に、私よりも前に彼女等が踏んで來た知識の道を辿つて行つた。私は貸してくれた本を耽讀した。
 それから、夜、私が晝間讀んだところのものを彼等と議論することに、滿足した。思想も一致し、意見も一致した。一言ひとことに云へば私たちは完全に一致するのであつた。
 もしも私たち三人の間に、先輩とか指導者とか云つたものがあるとすれば、それはダイアナであつた。肉體的にも彼女は私よりも遙かにすぐれて美貌であり強健であつた。その溌剌とした精神には豐かな生命が確實に流れてゐたので、私は理解力を壓倒されて唯讃嘆するばかりであつた。日が暮れると私は暫く話すことが出來た。だが、最初の元氣と能辯との勢が衰へると、ダイアナの足許の臺に坐つて、頭を彼女の膝に凭せて、ダイアナとメァリーが私が一寸觸れたばかりの話題を徹底的に探究するのに聽き入るのであつた。ダイアナは私に獨逸語を教へようと云つてくれた。私も彼女から教はるのは好きだつた。女教師の役目やくめは彼女を喜ばせもしまた相應ふさはしかつた。同じく生徒になることは私を喜ばせ、また私につかはしいものだつた。私たちの性格はしつくり合つてゐた。お互ひの愛情――最も強い種類の――がその結果だつた。彼女等は私に繪が描けることを發見して、直ぐに彼等の鉛筆だの繪具箱だのは、私にも使用を許されるやうになつた。繪が描けるといふ唯一の彼等にすぐれた點は彼等を驚かせまたその心を捉へた。メァリーはいつも一緒に坐つては幾時間も私を見守つた。それから彼女は日課に取りかゝる、そして柔順な聰明な勉強好きな生徒になるのであつた。斯樣に沒頭しながら、お互ひに樂しみ合つて、一日は一時間のやうに、一週間は一日のやうに過ぎた。
 セント・ジョン氏について云へば、私と彼の妹たちに、そんなにも自然に、また早く起つた親しみも、彼には擴がつて行かないのであつた。さうした私共の間にまだとれないへだゝりがある理由わけの一つは彼が割合に家庭にゐることが少なかつたのにもよつた。彼の時間の大部分といふものは、その教區内の此處彼處の病人や、貧しい人々の訪問にさゝげられてゐるらしかつた。
 この歴訪の爲めには、どんな天候も、彼には問題でないらしかつた。降つても照つても、午前の勉強の時間が濟めば、彼は帽子をかぶり、父の愛してゐた老ポインタ種のカルロを連れては、愛か、あるひは義務の使命の爲めにか、出掛けて行くのであつた――そのどちらの意味に使命を解したかは、私は、殆んど知らない。折々、ひどい荒天あれの日など、妹たちは彼を引き止めようとすることもあつた。その時、彼は一種特別なゑみを浮かべながら、快活といふよりも、寧ろ嚴肅にかう云つた――
「だがね、ひどい風だとか雨だとか云つて、僕がこのやさしい仕事をつて置くとしたら、僕が行かうとしてゐる將來に對して、そんな怠慢が何の準備になるだらう?」
 ダイアナとメァリーのこの質問に對するいつもの答へは、嘆息であり、明かに悲しみに滿ちた瞑想の數分間であつた。
 しかし、彼の不在勝ちだといふことの他に、彼との友情を妨げるものがもう一つあつた。彼は、控へ目な、何かに心を奪はれてゐるやうな、何かを思ひわづらつてさへゐるやうな性質の人なのであつた。傳道に熱心で、生活にも行動にも少しも恥づべき點などはないのに、彼には眞摯しんしなクリスチァンや、實行的な博愛家の當然の報酬であるべき心の朗らかさや、内心の滿足を樂しむといふ風が見えなかつた。夕方など、よく彼は窓際まどぎはに坐り、机と紙を前に讀書も書きものも止めて了ひ、兩手に顎を支へて、私には想像もつかない思索に耽つてゐるのであつた。けれども、その内心の動搖や昂奮は、その眼がせはしくきら/\と光つたり、落着きなくみひらかれたりする間に現はれてゐた。
 そればかりではなく、彼の妹たちにはよろこびの寳庫である自然も、彼にはさうではないやうに私は思つてゐる。彼はたつた一度、私の聞いたのはそれつきりなのだが、丘の荒々あら/\しい線が表はす魅力に打たれた強い感じと、彼が我が家と呼んでゐるくろずんだ屋根と灰白の壁とに湧いて來る愛着を口にしたことがあつた。けれども、この感動を云ひ現はす言葉や調子にも、喜びよりも、憂鬱が多かつた。そして、彼は心を慰撫いぶするやうな草原の靜寂を求めて、草原を散歩する樣子もなかつた――草原が與へる無限の平和な歡喜を求めたり、味はつたりすることもなかつた。
 彼とは沒交渉の儘、その心を知る機會が來る前に暫くのときがつた。私が初めて彼の眞情を掴んだのは、モオトンの教會で彼の説教を聞いたときであつた。私はその説教を此處に叙述したいのだが、それは、とても私には出來ないことだ。それどころか、その説教が、私に及ぼした影響さへ、忠實にあらはすことは出來さうもない。
 それは靜かに始まつた――そして話し振りと聲の調子の點では、最後まで靜かだつた。眞劒な而も強く抑制された内心の火は、明瞭な語調の内にほとばしり、激しい言葉を奔らせたがこれは抑へつけられた、短縮された、抑制された力になつた。説教者の力により胸はをのゝき心は壓倒されたが、やはらげられることはなかつた。終始其處には一種異樣な苦味にがみが漂つてゐた。人の心を優しくいたはるやうな温かさは微塵もなく、カルヴィン派の信條――神の選拔、宿命、定罪――の峻烈な暗示が頻々と出て來た。そして、これらの點に關しての引照いんせうは、一つ/\運命の宣告のやうに響いた。説教が終つたとき感じたものは、彼の言葉によつて高められた靜かな輝やかしい氣持ではなくて、言葉にも表はせないやうな悲痛な想ひを經驗した。何故と云つて、私が聽いた彼の雄辯は――人にも同じくさう感じられたかどうかは知らないが――泥にまみれた失意の沈渣おりの溜つた深み――滿たされない憧憬と不安な野心の惱ましい衝動が動いてゐる深みから湧き出したものゝやうに思はれたからである。確かに、セント・ジョン・リヴァズは――假令たとへその生活は清淨な、良心的な、眞劒なものであつても――まだ我々のはかり得ぬあの、神の平和を見出してはゐないのだ、彼は碎けた偶像と、失はれた樂園に對する人知れぬせつない未練を持つてゐる私と同じくそれを見出してはゐないのだと思つた。――その未練をこの頃考へ出すのをなるべく避けてゐて、而も私はそれにすつかりとりこにされ、容赦なくさいなまれ虐げられてゐたのであつた。
 兎角する内に一月ひとつきは過ぎた。ダイアナとメァリーがムウア・ハウスを離れて、ある大きな繁華な南英國の町に、家庭教師として、今迄とは、まつたくことなつた環境や生活に這入つて行くときが迫つた。そこで、二人は各々、富裕な權高けんだかな家族の人々に、たゞいやしい雇人やとひにんとしか扱はれないやうな、また彼等の裡にある生得の長所を知りもしなければ見出しもせず、彼等の習ひ覺えた才能を、たゞ料理人の腕か侍女の趣味を評價する位にしか評價しないやうな人々の家庭に雇はれてゆくのだつた。セント・ジョン氏は、私の爲めに探してやらうと約束した仕事の事には、まだ一言も觸れてゐなかつた。しかし私が、何か職を持たなくてはならないことは火急くわきふに迫つてゐた。或る朝、暫く居間に彼と二人きりになつたので、私は思ひ切つて、窓の引込んだところ――其處を彼の卓子テエブルや椅子や机などが、一種の書齋風にきよめてゐた――に行つて、口を切らうとしてゐた、どんな言葉で、私の質問を現はしていゝか、はつきりとは分らない乍ら――何故なら彼のやうな性質の人の上に、張りつめた隔意かくいの氷を破ることは、どんな時にも困難なことだから――その時、彼が最初に口を開いたので、私はその困難から救はれた。
 私が傍へ寄つて行くと、見上げながら――「何か僕に訊きたいことがあるのですね?」と彼は云つた。
「えゝ。もしか、私がお引受け出來るやうな仕事のことを、何かお聞きになつたかどうか伺ひたいと思つて。」
「僕はあなたの爲めに三週間前に或る仕事を見つけて上げました、いや考へて上げたのです。しかしあなたは此處にゐてやくにも立つし幸福さうだつたから――妹たちは確かにあなたが好きになつてゐたし、あなたとの交際が彼女あれたちに並々なみ/\ならぬ喜びを與へてゐたので――彼女あれたちのマアシュ・エンド出發が近づいて、あなたにも出發して戴かなければならぬやうになる迄は、あなた方お互ひの樂しみを妨げるのを延ばした方がいゝと思つたのです。」
「では、もう皆さまは後三日の内にいらつしやるのでございますね?」私はたづねた。
「えゝ。そして彼女あれたちが行つてしまつたら、僕はモオトンの牧師館へ歸ります。ハナァが一緒に行きます。そしてこの古い家はたゝんでしまふのです。」
 最初に出された話を續けて行くのだらうと思つて、私は暫く待つてゐた。しかし彼はまつたく別のことを考へてゐるやうに見えた。彼の樣子は、私からも私の用事からも離れ去つてゐることを示してゐた。私は自分にとつて必然に密接で氣がゝりな問題へ彼を呼び返さゞるを得なかつた。
「あなたが考へて下さつた仕事といふのは、どんなことでございますの、リヴァズさん? こんなに時がつてしまつた爲めに、その仕事に就くことが、益々困難にならなければいゝがと思ひますが。」
「いや、そんなことはありません。その仕事はたゞ與へる方が僕で、受け取る方があなたといふのですから。」
 再び彼は話をやめた。續ける事を躊躇するやうに見えた。私は焦々いら/\して來た。一つ二つのせか/\した動作どうさと、彼の顏に注いだ熱心なきつとした視線が、言葉と同じ位に確實に、しかもより少い面倒さを以て彼にその氣持を傳へた。
「さう急いで聽くことはりません。」と彼は云つた。「打明けて云へば、それはあなたにお勸めするに適當なとか都合がいゝとか云ふやうなものではないのです。説明する前にはつきりと申上げますがね、もし僕があなたをおたすけするとすれば、それは盲人めくら跛足びつこを援けると同じ事だといふ僕の注意を忘れないで下さい。僕は貧乏です、何故なら父の負債を拂つてみると僕に殘つた家督全部といふものは、背後にいたんだもみの並木があり、そして前には樹立した水松いちゐ冬青もちの藪のある野原のやうな土地が少し許りあるこの崩れかけた屋敷だけだといふ事が分つたのですから。僕は微賤びせんだ。リヴァズ家は古い家です。しかしその子孫として唯三人ゐる者の内、二人は他人の間に這入つて雇人生活やとひにんせいくわつをし、三人目の者は生れ故郷を出て外國に住はうと考へてゐる――生きてゐる間ばかりでなく、死んで迄も。さうです。そして彼自身はそんな運命を受けて光榮だと思ひ、また思ふやうに運命づけられてゐて、肉親の者との生別の十字架をその背に負はされ、彼もその仲間の内の最もいやしい一人に屬してゐる、あの地上教會のをさが『ちて、我に從ひ來れ!』といふ言葉を下し給ふその日のみを切望するのです。」
 セント・ジョンは、この言葉をあだかも説教をするやうな調子で云つた――落着いた、力強い聲で、顏色を動かさず、眼に閃くやうな輝きを見せて。彼は續けた――
「そして僕自身が貧乏で微賤びせんなものだから、あなたにも貧しい、微賤びせんな仕事しか見つけて上げられないのです。あなたは、品位をおとしたやうにさへ思ふかも知れない――何故なら私の見るところでは、あなたの日常生活は世間で云ふ洗煉されたものであり、あなたの趣味は理想に傾き、あなたの社會は少くとも教育のある人間の間にあつたのですから――しかし僕は、人間をよりよく爲し得る職務は品位をおとしはしないと思ひます。僕は基督教徒といふ農夫に、耕作の事業が命じられたその土地が不毛ふまうで未開墾であればある程――彼の骨折ほねをりに對する報酬が少なければ少ない程――榮譽は高くなると思ふのです。そんな境遇の下にある彼の運命は開拓者の運命です。そして福音書の最初の開拓者は使徒たちで――そのかしらは救主、イエスその人だつたのです。」
「そして?」と再び彼が口をつぐんだので私は云つた――「それから?」
 彼は言葉を續ける前に私を見た。確かに彼は、私の目鼻めはなや皺などが、紙に書かれた文字ででもあるかのやうに、ゆつくりと私の顏を讀まうとするやうに見えた。この穿鑿せんさくから引出された結論を、彼は幾分か次の意見の中に吐露とろした。
「きつとあなたは、僕が世話して上げる仕事を承知するでせう、」と彼は云つた。「そして暫くの間はそれを續けるでせう。しかし僕が窮屈な、そして心を偏狹へんけふにさせる、平々凡々な、引込んだ、英國の田舍牧師の職を永久に續けてはゐられないと同じに、あなたも永久には續けないでせう。何故なら僕と同じやうに、あなたの性質中には、その種類は異つても、安靜には有害なまじりものがあるのです。」
「どうぞ説明して下さいまし。」またもや、彼が話を止めたので私は促した。
「宜しい。だがあなたには、その申出がいかにも貧弱で――けちで――窮屈に聞えるでせう。僕はもう父もくなり、自由な身ですから、長くモオトンに留つてはゐない積りです。多分一年たない内に出て行くことになるでせう。しかし留つてゐる間は出來得る限り其處の改善に努力する積りです。二年前に僕が來たときには、モオトンには學校といふものはありませんでした。だから貧乏人の子供たちはまつたく進歩など望めもしない状態でした。僕は男の子たちの爲めに學校を設立しました。で、今度は女の子の爲めに第二の學校を開いてやりたいと思つてゐるのです。その目的で僕は建物たてものを一つ借りておきました。それには先生の家として二間ある小屋が附屬してゐます。俸給は年三十磅です。極く質素ですが、家は十分にもう手入ていれが出來てゐます。オリヴァといふお孃さん、私の教區の唯一人の金滿家――オリヴァさんといふ、あの谷の針工場と鑄鐵工場とを持つてゐる人の一人娘の好意でね。そのお孃さんが、先生の家や學校に關した下※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りの用事を、教へる方がせはしく暇がないだらうから手傳ひをさせるといふ條件で、養育院から一人孤兒を連れて來て、その教育費と被服費ひふくひを拂つて下さるのです。その先生になつて下さいますか?」
 彼はこの問ひを少し急ぎ氣味ぎみに出した。彼はこの申出に對して怒つた、或ひは少くとも輕蔑けいべつした拒絶を半ば期待してゐるらしかつた。幾らかは推察してゐても、私の思想や感情の全部を知らなかつたので、彼にはその運命が私にとつてどんな意味に思はれるかを知らなかつたのだ。まつたくそれはいやしいものではあつた――しかし同時にそれは庇護ひごされたものだつた。そして私は安全な隱れ場所を欲してゐたのだ。それはこつ/\と働くやうなものだつた――しかし同時にそれは富裕な家の家庭教師の生活にくらべて、獨立したものだつた。そして他人に對する屈從の不安が私の魂に鐵のやうに喰ひ入つてゐた。それはいやしくもなく――無價値でもない――精神的に品位ひんゐおとすものでもなかつた。私は決心した。
「お言葉有難うございます、リヴァズさん、喜んでお受け致します。」
「しかし、私の云ふことはお分りですか?」と彼は云つた。「あの、小學校なんですよ。あなたの生徒は貧しい女の子ばかり――小作人こさくにんの子供たちか――上等の部で土地持の百姓の娘たちなんですよ。編物あみもの、裁縫、習字、算術なんぞがあなたの教へねばならぬ全部なんですよ。あなたの才能は何の役に立てますか? あなたの心の大部分――感情――趣味はどうしますか?」
「必要になる迄とつて置きます。無くなりはしませんでせう。」
「ぢあ、あなたは、御自分の引受ける事がお分りですね?」
「分つてゐます。」
 すると彼は微笑を浮かべた。そして、それはにがい、或ひは悲しげな微笑ではなく、いかにも我意わがいを得たと云つたやうな、深い滿足したやうなものであつた。
「それで、仕事は何時から始めますか?」
「私、明日、私の住むうちへ行つて、よろしかつたら學校は次の週から始めたいと思ひます。」
「結構です。さうなすつたがいゝでせう。」
 彼は立ち上つて部屋の中を歩いた。が、立ち上つたまゝ彼は再び私を凝視みつめた。彼は頭を振つた。
「何がお氣に召しませんか、リヴァズさん?」私はたづねた。
「あなたはモオトンには長く留まつてはゐないだらう、とても、とても?」
「何故でございます? そんなことを仰しやるわけは何んでございますか?」
「私はあなたの眼のうちに讀みとります。それは、生涯單調な、變化のない生活を續けて行かれさうな眼付ではない。」
「私、野心やしんは抱いてはをりませんわ。」
「野心を抱く」といふ言葉に彼は愕然がくぜんとした。彼は繰り返した。「さうぢやない。何んだつてあなたは、野心なんてことを考へたのです? 誰が野心を抱いてゐるのです。僕は自分がさうだとは知つてゐる、しかし、それがあなたにどうして分つたのです?」
「私、自分のことを申してゐるのです。」
「いや、若しあなたが野心を抱いてないとしたら、あなたは――」彼は口をつぐんだ。
「何でございます?」
「感情が激しい、と云はうと思つてゐたのです。しかし多分あなたは、その言葉を誤解していやな氣持になつたでせう。僕の意味は、人間的な愛情や同情が、あなたを最も強く支配するといふことです。きつとあなたは孤獨の裡に時を過してまつたく刺※[#「卓+戈」、U+39B8、395-上-19]のない單調な仕事にあなたの勞働時間を捧げることに長く滿足してはゐられないと思ふのです。ちやうど僕が、」と彼は力を入れて附け加へた。「沼地ぬまちの中に埋もれ、山に閉ぢ籠められて――神に授けられた自分の本性は違背ゐはいせられ、天から與へられた自分の才能は麻痺され――役立たずにされて、此處に住むことに滿足してゐられないと同じやうに。僕がどんなに矛盾してゐるか、今にして、あなたはわかつたでせう。いやしい運命に滿足することを説教し、木挽こびきや水汲みの職さへ神の奉仕にあれば正しとした僕が――神に命ぜられた牧師の僕が、落着がなく殆んど氣がくるひさうなんです。いや、性癖せいへきと主義とは、何等かの手段によつて調和させられなくてはならないのです。」
 彼は部屋を出て行つた。この短い時間に私は過去まる一箇月中よりもつと彼に就いて知ることが出來た。とは云へまだ彼は私には謎だつた。
 ダイアナとメァリーとは、兄や家に別れる日が近づくにつれて、益々悲しげに口數少くなつて來た。二人共平生へいぜいの通りの樣子をしようとつとめた。しかし彼等が戰はねばならぬ悲しみは完全に征服され、または隱しおほはれるものではなかつた。ダイアナは、これは今迄つたどれとも異つた別離であらうとほのめかした。多分セント・ジョンが關する限りは、これは長い年月の間の別れであらう――否、一生の別れになるかも知れなかつた。
「兄は長い間考へて來た決心の爲めに、總てを犧牲にするでせう、」と彼女は云つた。「肉親に對する愛情や感情はまだそれよりも一層強いのですけれど。セント・ジョンは落着いてゐるやうに見えるでせう、ジエィン。けれどもあの人の生命の内には、熱病みたいな氣持が隱れてるのです。あなたは兄をやさしいと思ふでせう、でも何かのことでは、まるで死のやうに動かすことが出來ないのですよ。それにいけないことには私の良心がとても兄のあのきびしい決心を思ひ留らせることを許しさうにないことなんです。まつたく私は一寸だつてその事で兄をとがめることは出來ません。それは正しい、立派な基督教徒らしいことなのです。それなのにそのことが私の心を悲しませます。」そして涙は彼女の美しい眼に湧き溢れた。メァリーは仕事の上に低く頭を垂れてゐた。「私たちはもう父もありません、やがて家も兄もなくなるでせう。」と彼女は呟いた。
 その時、ある小さな出來事が續いて起つた。それは『不幸は單獨では來ない』といふ格言かくげんが眞理であることを證明する爲めに、そして彼等の困難に對して、愈々やつて來る迄は安心がならない腹立はらだたしい苦痛を加へる爲めに、故意こいに運命が定めたものゝやうに思はれた。セント・ジョンが一通の手紙を讀みながら窓を通りすぎた。彼は這入つて來た。
「ジョン伯父さんがくなつたよ。」と彼は云つた。
 姉妹二人共にはつとした樣子だつた――驚愕したのでもおびやかされたのでもなかつた。その報らせは彼等の眼には悲しい事といふよりは、寧ろ容易よういならぬことらしかつた。
くなつたんですつて?」とダイアナが繰り返した。
「さうだよ。」
 彼女は探るやうな視線を兄の顏に注いだ。「それで?」彼女は低い聲でたづねた。
「それでつて、ディ?」彼は大理石のやうに、顏色も動かさずに答へた。「それでつて? なに――それだけさ。讀んで御覽。」
 彼は手紙を彼女の膝に投げた。彼女はそれに眼を通すとメァリーに渡した。メァリーはだまつて讀むと兄に返した。三人顏を見合みあはせて、そして等しく微笑ほゝゑんだ――まつたく暗い寂しい笑ひであつた。
「アーメン! 私たちはまだ生きて行けるわ。」最後にダイアナが云つた。
「何れにしろ、今迄より貧しくなりはしないわね。」とメァリーが云つた。
「それはあつたかも知れないことについての想像を心に幾らか強くきざみつけるだけのことだ。」リヴァズ氏は云つた。
「現在あることゝは幾らかはつきり矛盾し過ぎてゐる。」
 彼は手紙を畳んで机の中にしまひ、再び出て行つた。
 暫くの間誰も口をかなかつた。やがてダイアナが私の方を向いた。
「ジエィン、あなたは私たちや私たちの妙な素振りを變に思ふでせうね、」と彼女は云つた。「そして私達のことを、伯父をぢといふ程にも近い親類のくなつたのにも、大して心を動かされない冷酷れいこくな人間だと思ふでせうね。けれど、私たちはその人に會つたこともなければ知りもしないのです。伯父は母の兄でした。ずつと昔父と伯父とが喧嘩したのです。父が財産の殆んど全部を父を破産させて了つた投機とうきにかけさせたのもあの伯父の差金さしがねだつたのです。お互に水掛論みづかけろんをし合つて二人共怒つたまゝ別れてそれきり仲直りしなかつたのです。伯父はその後ずつと有望な事業に手を出して、二萬ポンドの財産を造つたやうでした。結婚もせず、親類と云つては私たちと、それから今一人私たちと同じ位の近さのがあるきりでした。父は始終、伯父が私たちに財産をのこして呉れることによつて失敗のつぐなひをしてくれるだらうといふ望を抱き通してゐました。あの手紙で見ると伯父はありとあらゆるお金を他の親類に讓つて私たちにはの指環を三つ買ふのにリヴァズ家のセント・ジョンとダイアナとメァリーとで分ける爲めの三十ギニイだけを遺して。無論伯父は自分の好きなやうにする權利はあります。でも、あんなしらせを受取ると一寸心に暗い影がさしますよ。メァリーと私とは二人でそれ/″\千ポンド位持つことになるだらうと思つてゐましたからね。そしてセント・ジョンにとつては、あれ位の金額があれば世のためになる事業をすることも出來る位に價値ねうちがあつたんですけど。」
 この説明が與へられると、その話題はやめられた。これだけの説明をすると、それに就いて、この上の論及はリヴァズ氏によつても妹たちによつてもなされなかつた。
 その次の日私はマアシュ・エンドを出發して、モオトンに向つた。翌々日ダイアナとメァリーは遠いB町に向けて出發した。一週間の内にリヴァズ氏とハナァは牧師館に歸り、從つて古い屋敷は住む人もなくなつてしまつた。

三十一


 私の家――遂に一軒の家を見出したときの――は一軒の小屋こやである。四脚の塗つた椅子と、卓子テエブル一個、柱時計、二三の食器とお皿、陶器のお茶の道具の一揃ひとそろひなどの這入つた膳棚ぜんだなのついてゐる白塗の壁と、砂を撒いた床の小さな部屋。二階は臺所と同じ大きさの寢室で、樅材もみざいの寢臺と、小さな、とは云へとぼしい私の着物をれるには廣すぎる箪笥がついてゐた。それでもやさしい寛大な私の友人たちの親切によつて、そんな必需品がほどよく貯へられて、私の衣裳も殖えた。
 夕方であつた。私は小間使こまづかひとして働いてくれる、小さな孤兒みなしごにオレンジを一つ心づけに遣つて歸した。それからたつた獨りで私は、爐邊ろべりに腰掛けてゐる。今朝、村の學校は始まつたのだ。生徒は二十人であつた。しかし三名だけが讀めるのみで――誰一人、書くことも算用さんようも出來ないのだつた。數人の者は編物あみものができ、極く僅かの者がほんの少し縫物ぬひものが出來る。彼等はその地方のむき出しのなまりを使つてゐる。今の處彼等も私も互ひに相手の言葉を聞き分けるのが一仕事なのだ。生徒のある者は無智であると同時に無作法ぶさはふで粗暴で手におへぬが、他の子達は素直で勉強する心があり、このましい性質を表はしてゐる。私はこの粗末ななりをした農夫の子供たちが、血や肉に於ては最もひんのいゝ家系の子供と同じに善いものだといふことを、そして生得の長所、精練、聰明さ、親切な感情などの芽生めばえが最も良い生れの者と同じに彼等の心の内にもあるらしいといふことを忘れてはならない。私のつとめは是等の芽生えを伸ばすことだ。きつと私はその役目やくめを果すことに何等かの幸福を見出すに違ひない。私は自分の前に開けつゝある生活に大した歡びを期待してはゐない。でも、それは若し私が心を落着け、適當に力を働かしたなら、きつと日々暮らして行くに十分なだけは與へられるだらう。
 あの彼方かなたにある見すぼらしい教室で過した今朝と午後の間中、私は大變に喜ばしく落着いて滿足だつたゞらうか? 自分自身をいつはらない爲めには私は答へなければならない――否、と。私は非常に寂しかつた。私は――さうだ、愚かな自分だ――墮落したと思つた。私は社會といふ段階に於て自分を持ち上げる代りにおとす一足を踏み出したのではないかと疑つた。私は自分の周圍に聞え、見える總てのものゝ無智、貧困、下賤げせんさに心弱くも驚かされた。しかしこのやうな感情の爲めに餘りひどく自分自身を憎み嫌ふな。それが間違つてゐることは分つてゐる――そのことは一大進歩なのだ。私はそれを征服する爲めに戰はう。明日はきつとそれらの感情を幾分か制し了せるだらう。そして多分數週間の内には立派に打勝つことが出來るだらう。數ヶ月の内にはきつと、進歩の見えるよろこびと、生徒達のだん/\よくなつて來るのとが現在の嫌惡けんをの代りに滿足を齎すだらう。
 同時に一つの問ひを自分に出してみよう――何れがよいか?――誘惑に負け、情熱に從ひ、苦しい努力も――苦悶もせず――絹のわなに陷り、それを隱した花の上に眠り、享樂の別莊の榮華のうちに南國に醒めて、今ロチスター氏の情婦となつて佛蘭西に住み、持つてゐる時間の半分は、彼の愛に夢現の氣持でゐるのと――何故なら彼はきつと――勿論、きつと暫くの間は、私を愛し切つてくれたであらうから。彼は私を愛したのだ――誰もあんなには再び私を愛してはくれまい。私は最早美や青春や優雅いうがに對して與へられたあのこゝろよい稱讃を聞くことはないだらう――何故なら他の誰にも私がそんな魅力を持つてゐるとは見えないだらうから。彼は私をこのましく思ひ、私を誇つてゐた。それは他の誰もしないことだらう――だが、何處に私は彷徨さまよつてゐるのか、何を云つてゐるのか、結局、何を感じてゐるのか? マルセイユの愚者の樂園に奴隷となつて、まどはしの幸福に暫くの間溺れ――次には悔いと恥ぢの苦い涙にむせんでゐるのと――村の小學教師となつて健全な英國中部地方の快い山蔭やまかげに、自由に、正直にしてゐるのと、一體どちらがいゝのかと私はく。
 さうだ。今私は道義だうぎと法を固守し、狂熱した瞬間の狂氣染きちがひじみた勸めを蔑み打ち碎いた自分を正しいと感ずる。神が私に正しい選擇を示し給うたのだ。私は導き給うた神意に感謝する!
 夕べの沈思ちんしはこゝ迄たどりついたので、私は、立ち上り、入口の處へ行つて、秋の入陽を、そして學校と共に村から半マイル離れてゐる私の家の前のひつそりした耕地を眺めた。鳥はその最後の歌をうたつてゐた――
大氣は温和に、露はかぐはし。
 眺めながら私は自分を幸福だと思つた。そして程なく泣いてゐる自分に氣が附いて驚いた――何故に? 私の主人の傍から私を引き離した運命に對して最早會ふこともない彼に對して、絶望的な悲嘆と致命的ちめいてきな憤怒に對して――私の脱出の結果――それがもしかしたら今頃は彼を正しい道から引摺り出して遠く最後の恢復の望みもない位はずれた道に踏みこませてゐるのかも知れない。この思ひが浮んだとき私は美しい夕暮の空から、寂しいモオトンの谷から、顏をそむけた――寂しいと私は云ふ、何故なら、私の眼の屆くモオトンの谷道たにみちをくねつてゐる邊りでは、半ば樹立こだちに隱れて教會堂と牧師館、そして遙かはづれの方にお金持のオリヴァ氏とその娘の住んでゐるヴエイル莊の屋根があるだけで、他には何も家らしいものは見えないから。私は眼を蔽うて入口の石枠に頭をもたせかけた。しかし直ぐに向うの草地くさちから私の家の小さな庭へ這入る仕切りの小門の傍に聞えたかすかな物音が私を見上げさせた。一疋の犬――ちらりと見るとリヴァズ氏のポインタの老犬カルロ――が鼻で門を押すと、セント・ジョン氏が腕組みをして、それにりかゝつてゐた。彼の眉は顰み、殆んど不機嫌な程にきびしいその眼は、じつと私を見てゐた。私は彼に這入つて來るやうにと云つた。
「いや、とゞまつてはゐられないのです。唯一寸妹たちがあなたに置いて行つた小さな包みを持つて來て上げたゞけです。繪具箱だの、鉛筆だの、紙だのが這入つてゐるのだらうと思ひます。」
 私はそれを受け取りに近づいた。それは嬉しい贈り物であつた。私が近づいた時、彼は嚴しい眼で、私を凝視みつめたと思つた。涙の痕が確かに私の頬に見えてゐたのだ。
「第一日目の仕事が、思つたよりもむづかしいと思ひましたか?」と彼は訊ねた。
「いえ、いえ! 反對に、私は今に生徒たちといゝ工合に遣つて行けさうだと思つてをりますの。」
「しかし、こゝの設備が――あなたの住家が――家具が――あなたの期待を裏切つたのでせう? まつたくそれは貧弱です。しかし――」私は遮つた。
「この小屋こやは清潔で雨風を防いで呉れますし、家具も十分で便利でございます。此處にある何もも、私を落膽させずに感謝させました。私、敷物や安樂椅子や銀の食器がないからつて悲しがるやうな、そんな愚か者でも快樂主義者でもありませんわ。それに五週間前には私何んにも持つてはゐませんでした――宿無やどなしで、乞食で、放浪者だつたのです。今ではお友達も家も仕事も持つてゐます。私は神さまのお惠みに、友の慈悲に、運命の贈り物に驚くばかりです。私、愚痴ぐちなんぞこぼしませんわ。」
「しかし、獨りは堪らないと思ふでせう? あなたの背後うしろにあるその小さな家は陰氣でがらんとしてゐる。」
「私まだ、靜かな氣分を味ふ程の時間が殆んどない位ですから、して、寂しい氣持に堪らなくなるなんてことはございませんの。」
「結構です。僕はあなたが仰しやる通り滿足をお感じになればいゝがと思つてをります。何れにしろ、あのロットの妻の未練がましい心配に身をまかせるのは、ちつと早すぎるつてことはあなたの常識が教へるでせう。あなたが我々に逢ふ前にどんなことを殘したか、無論僕は知りません。しかしどんなものでも過去を振り返らせるやうな誘惑は、みんな固くしりぞけるようにと忠告します。少くとも幾月かの間はあなたの現在の生活をしつかり踏みしめてゐらつしやい。」
「それは、私もしようと思つてゐることなのです。」と私は答へた。
 セント・ジョンは續けた――
「性癖の働きを制御せいぎよしたり、天性の傾向を變へようとするのは困難な仕事です。しかしそれが可能だといふことは僕自身の經驗で知つてゐる。神は或程度まで我々に自分自身の運命をつくる力を與へてゐます。そして若し我々の精力が求めても得られぬ扶助ふじよを求めてゐると思はれるときにも――我々の意志が我々の行けない途を無理にも行かうとするときにも――我々は榮養不良の爲めに飢ゑることも、絶望して立ち盡すことも要らないのです。我々は心の爲めに他のかてを探せばいゝのです、味ひたいと願つた禁制の食物と同じ位に腹ごたへのする――そして多分もつときよらかなものを。そして大膽な足の爲めには運命の神が我々に對してふさいだ路と同じ位に、眞直な廣い路を伐り拓けばいゝのです。それが運命がふさいだ路よりも凸凹でこぼこしてゐるとしても。
「一年前に僕は非常に慘めでした。何故かと云へば僕は自分が牧師職に就いたことを過誤くわごだと思つたからです。その變化のない務めが死ぬ程僕をましたのです。僕はもつと活動的な世の中の生活を欲して――文學的生活のもつと目覺ましい勞苦を欲して――藝術家としての、著述家としての、辯論家としての運命を欲して燃えてゐたのです。僧侶になる程なら、他のどんなことでもよかつたのです。えゝ、政治家の心、軍人の心、名譽を熱中する人間の心、名聲を愛する人間、權力を切望する人間の心等が、僕の牧師補の白い法衣はふいの下に動悸どうきを打つてゐたのです。僕は思ひました、この生活は實に慘めだ、變へなくてはならない、でなければ僕は死ぬに相違ないと。暗黒と爭鬪の期間の後に光明がし、救ひが降りて來ました。束縛された私の生活は不意に解放されて果もない平原にほとばしり――能力は起つて一ぱいの力を出してつばさを擴げ、限界の彼方に飛翔ひしやうしろと天から呼ばれる聲を聞いたのです。神は僕に使命をお授けになつたのです。それを遠くへ運び、よく傳へる爲めに、技量と力、勇氣と雄辯、軍人、政治家、辯論家の最上の資格はみんな必要とされたのです。何故なら、よき宣教師にはこれ等すべてのものが集つてゐるのですから。
「宣教師にならうと僕は決心しました。その瞬間から僕の心の状態は變つて了ひました。足械あしかせはあらゆる能力から解け、落ちて、殘つたのは何の束縛もない、唯惱ましいいたみばかりでした――それは唯時のみがいやし得るのです。父は實際僕の決心に反對しました。しかし父の死後は説き伏せねばならぬ親もありません。幾つかの事件も片附いたし、モオトンの後繼者も出來、一つ、二つの感情のもつれも切り拔け、或ひはち切つて――人間の弱さとの最後の戰ひです、それを征服することは分つてゐます、征服すると誓つたのですから――そして僕は東洋へ向けて、歐羅巴ヨーロッパちます。」
 これを彼は彼特有の抑制した、しかし力の強い聲で語つた。話し終ると、彼は私を見ずに、落日を眺めた。私もまたそれを見てゐた。彼も私も原から小門へかけての坂徑さかみちの方に背を向けてゐた。私共はその草の茂つた徑に何の跫音も聞かなかつた。谷を走る水音がその頃、その場所での唯一つの眠たげな響だつた。銀鈴のやうにこゝろよい、快活な聲が叫んだときには、私共が驚いたのも無理はなかつた――
「今晩は、リヴァズさん。今晩は、老カロルや。あなたの犬の方が、あなたよりもお友達を見附けるのが早いわ。私が原つぱの下まで來たら、耳を動かして尾を振りましたわ。それにあなたつたら未だ背中せなかを向けてらつしやる。」
 それは本當だつた。まるで電雷が頭上の雲をいたかのやうに、この歌ふやうな調子の初めを聞いて、リヴァズ氏は驚愕したが、しかしまだその言葉の終る頃にも、話手はなしてが彼を驚かしたときと同じ態度で立つてゐた――腕を門の上に休め、顏を西の方へ向けてゐた。やつと彼は加減かげんした愼重さを以て振り向いた。私にはまるで一人のヴイジオンが彼の傍に立つてゐるやうに思はれた。彼から三歩のところに純白のよそほひをした一つの姿――若々しい、みやびやかな姿が立つてゐた。肉づきのいゝ、しかし輪廓のすつきりした姿だ。そしてカルロを撫でゝから頭を上げて、長い面紗ヴヱールを後へ刎ねのけたとき、彼の眼の前には、非の打ち處のない美しい顏が、花のやうにパツと開いた。非の打ち處のない美とは強い云ひ方である。しかし私はそれを反省しようともまた加減しようともしない。アルビオンの温和の氣候がつくつたものゝ中でも嘗てない美しい眼鼻立めはなだち、そのしめつた風と水氣すゐきを含んだ空が生み蔽うたものゝ中でも嘗てないきよらかな薔薇と、百合花の色が、この實例の裡にその言葉を立證してゐた。美しさに缺けたところもなく、何の缺點も眼に入らない。その若い娘はとゝのつた纖細な顏容かほかたちを持つてゐた。眼は美しい繪に見るやうな大きい、濃い色の、張りのある形と色とだつた。美しい目を圍んで、やさしい魅惑を湛へた長い、影をつくつた睫毛まつげ、澄み切つたひたひ、色と輝かしさの活々とした美しさに落着を與へる白い素直な額、卵なりの活々とした滑らかな頬、矢張り、活々いき/\とした赤い健康さうな可愛い形をした唇、きずのない揃つた輝いた齒、小さなくぼのある顎、房々ふさ/\としたあり餘る程の髮のよそほひ――短かく云へば、一緒になつて理想的な美人を實現するすべての美點が彼女のものだつたのだ。私はこの美しい姿を見て驚き、心から彼女を稱讃した。自然はきつと彼女を偏頗な氣持でつくつたのだ。そして、自然がいつも繼母まゝはゝのやうに、きりつめた贈り物をするのに、それを忘れてその愛するこの人に、祖母のやうな惠みを與へたのだ。
 この地上の天使をセント・ジョン・リヴァズは、何と思つたであらう? 私は彼が振り向いて彼女を見るのを見て、自ら自分にその問ひを訊ねた。そして、矢つ張り自然に、その問ひの答へを私は彼の容子に求めた。彼はもう既に美しい少女から眼をらせて、門の傍に生えてゐた小さな雛菊ひなぎくの叢を見てゐた。
「いゝ夕方ですね、しかしあなたが獨りで出歩くには遲過ぎますよ。」と彼は花瓣を閉ぢた花の、白い頭を足で踏みつぶしながら云つた。
「まあ、あたしS町から歸つて來たばかしよ。」(彼女は二十マイルばかり離れた或る大きなまちの名を云つた)「今日午後なの。あなたが今日から學校をお始めになるつて、そして新しい先生がいらつしやるつてパパが云つたんですの。ですからお茶が濟むとあたし帽子をかぶつて、その方にお目に懸りに谷を駈け上つて來たのですわ――この方?」と私を指した。
「さうです。」とセント・ジョン氏は云つた。
「あなた、モオトンは好きになれさうだと、お思ひになつて?」彼女は言葉つきにも態度にも、明らさまな無邪氣な單純さを見せて私にたづねた。子供つぽいとしても、それは氣持のいゝものだつた。
「さうなり度いと思つてをりますの。さうなる澤山の理由わけがあるのですよ。」
「子供達は想像なすつた通りに注意深うございまして?」
「大變に。」
うちはお氣に召して?」
「えゝ、すつかり。」
「あたし、いゝ工合に飾りつけたでせうか?」
「大變結構でございますよ、本當に。」
「そして女中に、アリス・ウッドを選んだのはよかつたか知ら。」
「結構でございましたよ。從順おとなしくて調法で。」(ではこの人が自然からと同じく富にも惠まれてゐると思はれるあの後つぎの娘オリヴァ孃か!)と思つた。星の、どんな幸運な組合せが、彼女の誕生たんじやうを決定したことだらうかと私は驚いた。
「私時々出掛けて[#「出掛けて」は底本では「掛かけて」]教へるお手傳をしませうね。」と彼女は云ひ添へた。「時々あなたをお訪ねするのは、私には氣晴しになつていゝと思ふわ。だつてあたし變つたことが好きなんですもの。リヴァズさん、あたしS町に行つてる間中、とても面白かつたのよ。昨夜はね、それとも今朝つていつた方がいゝかも知れない、あたし二時になる迄踊つてゐたんですの。第××聯隊があの暴動以來屯營とんえいしてゐるのよ、そして士官たちつて、それはもう、とても面白い人達ですのね。あの人たちは私たちの若い小刀研こがたなとぎ師だの鋏商人だのに、すつかり恥をかゝせて了つたわ。」
 セント・ジョン氏の下唇がつき出て、一瞬間上唇がゆがんだやうに思へた。笑ひ聲を立てゝゐる娘が、彼にこのことを話して聞かせたとき、彼の口は確かに可なりきつと結ばれてゐたやうに見え、彼の顏の下部かぶは異常に嚴酷に引きしまつてゐた。彼もまた雛菊ひなぎくからその眼をあげて彼女を眺めた。それは笑ひもしない、さぐるやうな意味ありげな眼であつた。彼女はそれに對して、また、笑つて、それに答へた。そして、笑ひは彼女の若々わか/\しさ、薔薇色、くぼ、輝いた眼などによく似合つてゐた。
 彼が考へ込んで眞面目まじめな顏をして立つてゐるとき、彼女は再び身をかゞめてカルロを撫でた。
「カルロはあたしが好きなのよ。」と彼女は云つた。「これはお友達に、きびしくもなければ、よそ/\しくもないわ。もしこれに口がけたら默つてなんかゐないだらう。」
 彼女が持つて生れた美しさで、その若い嚴格な犬の主人の前に身をかゞめて、犬の頭を叩いてやつたとき、その主人の顏に血の氣が上るのが見えた。私は彼の嚴肅な眼が突然の火でけ、いなみがたい情緒でゆらめくのを見た。かうしてひらめき輝いて、彼は殆んど、彼女が女として美しい位に男として美しく見えた。彼の胸は暴虐な壓縮に堪へられずに意志にさからつて擴がり、自由を得る爲めに、力強い跳躍をするかのやうに、一度、あへいだ。しかし彼は、氣丈きぢやうな乘手が竿立さをだちになつた馬を制するやうに、それを抑へつけた、と私は思ふ。彼に對して試みられた優しい攻撃に對して、彼は言葉に依つても動作どうさによつても答へはしなかつた。
「パパはあなたがこの頃ちつともいらつしやらないつて仰しやつてよ。」オリヴァ孃は仰向あふむいて、言葉を續けた。「あなたはヴェイル莊には久しく顏を見せない方ね。パパは今晩獨りきりで、それに餘り加減がよくないのよ。あたしと一緒に行つて見舞つて上げて下さらない?」
「オリヴァさんのお邪魔をするには、適當な時間ぢやありませんからね。」とセント・ジョンは答へた。
「適當な時間ぢやありませんつて! でも、あたしがいゝつて云ひますわ。今はちやうどパパが一等お話相手をしがるときですわ――お仕事が終つて、何んにも仕事なんぞないときですもの。ねえ、リヴァズさん、いらつしやいよ、どうしてあなたはそんなに引込思案ひつこみじあんで、そんなに陰氣なんでせう?」彼女は彼の沈默が遺した間隙を、彼女自身の答へでうづめた。
「あたし忘れてゐた!」と彼女は我と我身に驚いたやうに美しい捲毛まきげの頭を振りながら叫んだ。「あたしほんとに輕卒で考へなしだわ。御免なさいね。あなたがあたしのお喋べりにお這入りになる氣がなさらない尤もな理由わけがおありなのを忘れてゐました。ダイアナもメァリーも、あなたの處から行つてお了ひになるし、ムウア・ハウスはたゝんでしまつて、あなたはほんとに寂しいのね。ほんとにお氣の毒だわ。ね、どうぞいらしてパパに會つてやつて頂戴な。」
「今夜は駄目、ロザマンドさん、今夜では駄目。」
 セント・ジョン氏は、殆んどまるで機械人形のやうに口をいた。このやうに斷ることは、彼にとつて苦しい努力だと、知つてゐるのは彼だけだつた。
「いゝわ、そんなに頑固ぐわんこに仰しやるのなら。私、歸ります。もう長くはをられませんもの、――露がりはじめましたわ。ぢあ、さよなら!」
 彼女は手を差出した。彼は唯それに觸れた許りだつた。「さよなら!」反響のやうに低い空虚くうきよな聲で彼は繰り返した。彼女は身をかはした、が、直ぐにまた引返して來た。「お加減はいゝんですの?」と彼女はたづねた。その質問も尤もである。彼の顏は彼女の上衣うはぎのやうに白く蒼ざめてゐた。
「まつたくいゝです。」彼は云ひ切つて會釋ゑしやくすると門を離れた。彼女は一つの道を、彼は別の道を行つた。原を妖女フエアリーのやうに下りて行きながら、彼女は二度彼の方を振り返つて見た。しかし彼は、しつかりした足つきで横ぎつて行つて一度も振り返らなかつた。
 この他人の苦惱と犧牲の樣が、私の心を自分の惱みを獨りで思ひめてゐることからうつした。ダイアナは兄のことを、「死のやうに動かし難い」と云つてゐた。彼女は誇張したのではなかつたのだ。

三十二


 私は、村の小學校のつとめを、出來る限り忠實に、氣を入れてやり續けた。最初はまつたく難かしい仕事だつた。暫らくつうちに、私は、全力を盡して、生徒と彼等の性質を理解することが出來た。全然教育されたことがなく、何を感じる力も持たないやうな彼等に對して、私は、到底望みを持てないと思つた。それに、最初の一目では、どれも皆同じににぶく見えたのだ。しかしこれは、まもなく私の誤りと分つた。教育を受けた者の間にもあるやうに、彼等の間にも差異があつて、それは私が彼等を知り、彼等が私を知るにつれて、速かに著しくなつた。私に對する、また私の言葉や、主義や、方針に對する彼等の驚きが、一度後に退しりぞいて了ふと、私は、この遲鈍ちどんな、口を開けて魂消たまげてゐる、土臭つちくさい子供らの幾人かゞ、十分に敏感な機智のある娘として眼を醒したのに氣が附いた。大方は、柔順で、愛らしくもあつた。私は、彼等は生得しやうとくのしとやかさや、自重心や、優れた才能を持つてゐるといふ實例を、少なからず發見した。で、その爲めに、彼等に對する好意や尊敬の念も生れて來たのである。間もなく、彼等は彼等の仕事を忠實に果し、自分の身のまはりを清潔にし、學科を規律正しく學び、落着いた秩序ある擧動に親しむことを喜ぶやうになつた。その進歩のはやさは、二三の實例によつても驚くべきもので、私は正直な樂しい誇りを感ずるのであつた。その上、優れた娘たちの中の幾人かを、私は、個人的に好くやうになりはじめた。そして、彼等は、私を好いた。生徒の中には、殆んど大人になりかけた、いろんな百姓の娘たちがゐた。彼女等は、もう讀み書き、針仕事が出來た。そして、私は、文法、地理、歴史、それにより手の込んだ針仕事はりしごとの初歩を教へた。私は、彼等の間に、尊敬すべき傾向――知識を欲し、向上を志ざす傾向――彼等と一緒にその家で、幾度となく氣持のいゝ夜を過した。彼等の兩親達(百姓夫婦)は、心盡しでもてなしてくれるのだつた。彼等の素朴そぼくな心盡しを受け、また、それに心を籠めて報いることが――彼等の心持を細かく察して――私には一つの樂しみであつたが、恐らくさうした心遣こゝろづかひには、彼等は常に慣れてはゐなかつたし、彼等を惹きつけ利益を與へた。と云ふのは、それは、彼等の品性を高めたばかりでなく、彼等の心に、その心を籠めた取扱ひにかなふ者になりたいといふ強い望みを起させたから。
 私は、この四邊あたりの人氣者になつたやうな氣がした。何時でも表へ出ると、あちらからもこちらからも、あたゝかい挨拶の聲をかけられ、親しげな微笑ほゝゑみで迎へられた。世間の尊敬の中で暮らすのは、假令たとへ、勞働者の尊敬に過ぎないとしても、「日向ひなたで、靜かに氣持よく坐つてゐる」やうである。晴朗な内なる想念は、光を受けて芽ぐみ、花を開くのである。私の一生のこの時期に於ては、私の心は、憂鬱に沈むよりも、感謝に溢れることが、はるかに屡々あつた。でも、讀者よ、すつかり云へば、この、平和な、價値ある生活の眞ん中に――ひるは、生徒たちの間で、名譽ある働きで過し、晩はひとり滿足して、繪を描き、または讀書の中に費した後に――私は、夜、不思議な夢に襲はれるのが常だつた――樣々な色彩の、昂奮さす、理想と騷ぎと暴風とに滿ちた夢――異状な場面で、冒險と、わく/\させる危險と、浪漫的な機會に襲はれて、再三再四、ある熱狂的な危機に、いつも、私は、ロチスター氏に出逢つた、その夢。すると――彼の腕に抱かれて、彼の聲を聞き、彼と視線を合せ、その頬と手に觸れながら彼を愛し、彼にも愛されてゐる心持ち――一生涯、彼の傍にありたいといふ願ひが、最初の力と火で甦るのだつた。それから、私は、目覺めざめた。現在ゐる場所と地位とを思ひ出した。そこで、私は、身を顫はせて、垂布カアテンのない寢臺に起き上り、靜かな、暗い夜は、絶望の戰きを目撃し、熱情の爆發を聽いた。翌朝の九時までには、正確に學校を開いてゐた。靜かに、沈着に、その日の義務つとめを手落なく準備して。
 ロザマンド・オリヴァは、約束を違へず、私をたづねて呉れた。彼女は、大抵毎朝日課の乘馬の序に、學校にやつて來た。仕着しきせをつけた馬上の從僕に附添はれて、彼女は、入口まで小馬を驅け込ませるのが常であつた。濃紫こむらさきの乘馬服を着、黒天鵞絨くろびろうどのアマゾン風の帽子を、頬に觸れ肩にたゞよふ房々とした捲毛の上に、形よく載せた彼女の姿よりも、もつと美しくみやびなものを、殆んど想像することが出來ない。かうして、彼女は、田舍みた建物たてものに入り、村童等の驚いた列の間をすべり拔けた。彼女は、大抵リヴァズ氏の日課である聖書問答の時間に來た。この女客の眼は、若い牧師の心臟を、鋭く貫いたやうに思つた。彼がそれを見なかつたときでも、彼は、彼女が訪ねて來たのを本能的に悟つた。また、彼がドアに立つて、遠くの方を眺めてゐるときなど、ふと彼女が視野しやに現はれると、彼の頬は輝き、その大理石のやうな顏は、ゆるまず、知らずに變つていつたが、その靜けさのうちに、動く筋肉か、あるひはるやうな一瞥が、現し得るよりも強く、壓しつけられた熱情を現した。
 むろん、彼女は、自分の力を知つてゐたが、ほんたうに彼は、彼女からその力を隱さなかつた。何故なら、彼は、隱すことが出來なかつたから。彼のクリスチヤンとしての道心にも拘りなく、彼女が近づいて話しかけると、そしてはなやかに勵ますやうに、優しさうにさへ、彼の顏に微笑ほゝゑんで見せると、彼の手は顫へ、彼の瞳は燃えた。彼の唇は開かれなくとも、その悲しげな張りつめた面持は、かう云つてゐた。「僕は、あなたを愛します。あなたも僕を選んで下さるのを、僕は知つてゐます。僕は絶望をおそれて口をつぐんでゐるのではない。もし僕が僕の心を差出せばあなたは受け入れて下さるに違ひないと思ひます。しかし、その心は既に神聖な祭壇に捧げられて、周圍には神火がそなへられてあるのです。最早間もなく犧牲としてかれる他はないのです。」
 すると、彼女は失望した子供のやうに、頬をふくらませ、その輝やくやうな活々しさを憂愁の雲がやはらげる、そして、彼女は、彼の手から素早すばやく自分の手を引込めると、しばらくの不機嫌さで、英雄らしく、同時に殉教者じゆんけうしやらしい彼の顏から背をむけるのが常であつた。かうして、彼女が行つて了はうとするとき、セント・ジョンは、世界に換へても彼女の後を追ひかけて、呼び返し、引き止めたいと思つたに違ひない。だが、それも、彼は天國へ行く爲めのひとつの機會に換へようとはしなかつた。また、彼女の愛の樂園の爲めに、眞の永遠の樂園のひとつの望みを棄てようとは思はなかつたのだ。その上、彼は、自分の性質の中に持つすべて――漂泊人、野心家、詩人、牧師――を、ひとつの情熱の範圍に閉ぢ籠めることは出來なかつたのだ。彼は、ヴェイル莊の客間と平和の爲めに、傳道戰の曠野を捨てることも出來なかつたし、また、したくもなかつた。彼の控へ目に拘らず、私は、敢へて彼の祕密に一度進入して、多くを知つた。
 オリヴァ孃は、度々、私の小さな家を訪ねてくれた。私は、彼女の包み隱しのない、さつぱりした性質を殘らず知つた。彼女は、媚態的コケテイシュではあつたが、不人情ではなかつた、強要的ではあつたが、取るに足らず思ふほどには、利己的ではなかつた。彼女は、生れるとから[#「生れるとから」はママ]甘やかされて育つて來たが、手に負へぬ程の我儘娘にはなつてゐなかつた。彼女は氣短かであつたが、愛嬌があつた。縹緻きりやう自慢だつたが(彼女は鏡を見る度に、自分の愛らしさを示されるので、それを押へることが出來なかつた)氣取きどらなかつた。財産を誇ることを知らず、物惜しみをせず、器用で、十分怜悧で、はなやかで、快活で、輕卒で、つまり彼女は私みたいな同性の冷淡な傍觀者にさへ、非常に魅力があつた。しかし、彼女からは、深く心を惹かれることも、十分に感銘を受けることもなかつた。例へば、あのセント・ジョン姉妹とはまつたく異つた心を彼女は持つてゐた。でも私は、私の生徒のアデェルをいたやうに、彼女を好いた。同じやうに愛らしいとは云つても、自分が監督して教へた子供には、成人してゐるお友達に對するよりも、もつとへだてのない愛情が持てるといふことを除いては。
 彼女は、私には、人懷ひとなつこい氣紛れものであつた。私のことを、リヴァズ氏に似てゐらつしやる、なゞと云つた。(ただ、確かに彼の十分の一も、綺麗ではないと云つてゐた。假令たとへ、私が、十分に綺麗な、小さい、いゝ人間だとしても、しかし、彼は、天使である、と。)兎に角、私は、彼のやうに、善良で、聰明で、沈着で、しつかりしてゐるといふのだ。私は、神さまの惡戲で、村の小學校の女教師などになつてゐるが、私の經歴がもし分つたら、それこそ興味あるロマンスになると、彼女は確信してゐた。
 とある晩、いつもの子供らしい元氣さと、輕はずみな、けれども惡氣わるぎのない穿鑿好きで、戸棚や卓子テエブルの中を掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐる内に、彼女は、先づ佛蘭西語の本を二册と、シルレルのものを一册と、獨逸語の文典と辭書を見附けた。それから、繪の道具や、生徒の一人で可愛らしい小天使のやうな少女の顏の素描そべうや、モオトンの谷と、その邊りの野原で描いた、いろ/\な風景などのスケッチも探し出した。彼女は、初めは驚いて、身動きもしなかつたが、やがて嬉しさに打たれた。
「こんな繪が私に描けたら? 私が佛蘭西語や獨逸語を知つてたら? なんて、愛情娘いいこになれるでせう――なんて、奇蹟でせう! S町で一番いゝ學校の先生より、上手じやうずに描けることになるわ。もしさうなら、あたし、自分の肖像を描いて、パパに見せたくなると思ふわ。」
「喜んで、」と私は答へた。そして彼女のやうな、そんなに完全な輝くやうなモデルによつて描くことを思つて、畫家の歡喜の顫へを感じた。そのときの彼女は、紫紺色の絹の着物を着て、兩腕と首をあらはにしてゐた。彼女の唯一の裝飾かざりは自然の捲毛のつくろはぬ美しさで、肩に波打つ栗色の房々ふさ/\とした髮であつた。私は、質のいゝ一枚の原紙に、丁寧な下繪を描いた。これに色を着けるときの樂しみを思つた。おそくなつてゐたので、私は、また何時か、きつと來て、坐るやうに頼んだ。
 彼女は、私のことを早速父親に報告したので、次の晩にはオリヴァ氏自ら彼女と連れ立つて來た――オリヴァ氏は、背の高いがつしりした、半白の髮をもつた中年紳士で、その傍に、彼の美しい令孃は、灰色の塔の側の明るい花のやうに見えた。彼は、寡言くわごんな、そして恐らくは倨傲きよがうな人柄のやうに見えたが、私には、非常に親切であつた。ロザマンドの肖像畫が、大層彼を喜ばして、是非それを仕上げて欲しいと云ふのであつた。また次の日に、ヴェイル莊で晩を過すようにと云ひ張つた。
 私は行つた。私は、持主の莫大な富を示してゐる宏壯華麗の邸宅を見つけた。ロザマンドは、私がゐる間中、嬉しさと樂しさで一ぱいであつた。彼女の父親は、愛想よかつた。お茶の後で私と話をはじめたとき、彼は、私がモオトン小學校でしたことを頻りに稱讃した。彼の見聞するところによると、私はこの土地には過ぎてゐるので、今にもつと適當な所へすぐに行つてしまふのを、たゞ心配してゐると云つた。
「ほんたうよ。」ロザマンドが叫んだ。「この方は、立派な家の先生におなりになれるくらゐ、おえらいのよ、パパ。」
 この國のどんな立派な家にゐるよりも、私のゐるところの方が、はるかにいゝだらうと思つた。オリヴァ氏は、リヴァズ氏――リヴァズ家の――のことに就いて、非常に尊敬して語つた。彼の話によると、リヴァズ家は、この界隈かいわいでの舊家であつた。その家の祖先は富裕だつた。モオトン全體が、嘗てリヴァズ家に屬してゐた。現在でも、その當主は、モオトン最高の家柄に縁を結ばうと思へば出來ないことではないのであつた。あれ程立派なひいでた青年が、宣教師として立つ計畫をしたことを、彼は、同情を持つて話した――それは、まつたく、貴重な人生を投げ捨てるのだ。それで、彼の父親は、ロザマンドとセント・ジョンの結婚を妨害しないやうに見えた。明らかに、オリヴァ氏は、その若い牧師の血統や門閥もんばつや聖職は、無資産に對する十分のつぐなひと考へた。
 十一月五日、お休みの日であつた。私の小さい女中は、私の家の掃除の手傳ひをしてから、一ペニイの手傳ひ賃で、大喜びでいつた。私の四圍は、汚れなく輝いてゐた――洗はれたゆかみがかれた鐵格子、よく拭かれた椅子、私もまた、身じまひをしてゐた。そして、今は、午後を好きなやうに使つていゝのであつた。
 五、六頁の獨逸語の飜譯に、一時間とられた。それから、私は、繪具板パレットや鉛筆を取り出して、容易たやすいから、もつと氣休めになるロザマンド・オリヴァの肖像畫の仕事に取りかゝつた。頭はもう出來てゐたが、背景を塗ること、着物の陰影をつけること、よくれた唇に鮮紅せんこうをさすこと、豐かな髮のあちこちにやはらかな捲毛を描くこと、碧いまぶたの下の睫毛まつげにより深い影をつけることが、まだ殘つてゐた。これらの精巧な細かいことの仕上げに氣を取られてゐた。そのときに、早い、ひと叩きの後に、扉を排してセント・ジョン・リヴァズが這入つて來た。
「お休みをどうしてゐらつしやるかと思つてやつて來ました。考へ込んでなんかゐないでせうね? いや、それは結構です。繪を描いてゐれば、寂しい氣もなさらないでせう。この通り、僕は、まだあなたを疑つてゐましたよ、あなたが、そんなに不思議に辛抱してゐらつしやることが。僕は、あなたの夜のお慰みにと思つて、本を持つて來ました。」と彼は一册の新刊書――詩集を卓子テエブルの上に置いた。それは、その當時の惠まれた社會、近代――文學の黄金時代――に屡々與へられた偉大な作品の一つであつた。悲しい哉! 我々の時代の讀者たちは比較的惠まれてゐない。しかし乍ら勇氣あれ! 私は、呪咀や愚痴ぐちの爲めにとゞまるまい。私は、詩歌は死せず、天才は失はれないことを知つてゐる。また、黄金は、そのどちらをも、縛つたり、殺したりする力を持つてゐない。何時の日か、それらは、再び、その實在、その現在、その自由と云ふ力を主張するだらう。力ある天使らよ、天に於て安らかにあれ! 彼等はいやしい魂が勝を占め、弱々しい魂が敗れて嘆くときに微笑ほゝゑむ。詩は、破壞されたか? 天才は、放逐されたか? 否! 凡庸ぼんようよ、否。嫉妬で、そんな考へにはやまるな。否。彼等は、生きてゐるばかりでなく、支配し、救濟する。そして、神の力が到る處に擴がつてゐなければ、お前は、地獄――お前自身の卑賤ひせんの地獄にあるだらう。
 私が熱心にマアミオンの(それはマアミオンであつた)美しい頁を、熱心に見てゐる間、セント・ジョンは身をかゞめて、私の繪を觀察した。彼の高い身體は、驚いて、直ぐにね返つた。
 彼は、何も云はなかつた。私は、彼を見上げた。彼は、私の眼を避けた。私は、彼の思つてゐることをよく知つた。そして、明らかに彼の心を讀みとることが出來た。その瞬間、彼よりも冷靜で、落着いてゐるやうに思つた。一時的に、彼に對して優越いうゑつな立場にあつた。そして、私は、出來るなら、何か役立ちたいと云ふ氣持になつた。
「ありつたけの決斷力と克己心こくきしんとで、この人はあまり自分を苦しめ過ぎる。あらゆる感情や哀しみを閉ぢ籠めて――何も表はさず、何も云はず、何もわかたず。この綺麗なロザマンドのことを、少しでも話すことは、彼の爲めになるに違ひなからう。彼はロザマンドと結婚してはいけないなんて思つてゐるのだから。私は彼に話させて見よう。」
 私は先づ云つた、「お掛けなさい、リヴァズさん。」ところが、彼は、例の通り、長居ながゐは出來ないとことわつた。「さうですか。」と、心の中で私は答へた――「ではどうぞお好きなやうに。でもまだお歸りになつてはいけませんよ。孤獨は少くとも、私にとつてのやうに、あなたにとつても惡いのです。あなたの祕密の隱れたいづみを、發見出來ないかどうか、同情の香油の一滴をしたゝらすことが出來る、大理石の胸の一つの隙間すきまを見出すことが出來ないかどうか、私はやつて見ませう。」
「この肖像は似てゐまして?」打ちつけに、私はいた。
「似てる! 誰に似てるつて? 僕は、よく拜見してゐませんでした。」
「御覽でしたわ、リヴァズさん。」
 彼は、私のだしぬけの、妙な無作法ぶさはふに殆んどび上つた。
 そして、驚いて見た。「まあ、未だ何でもありはしないのに。」私は口の中で呟いた。「私は、そんなちよいとした頑固ぐわんこさに、負けはしませんよ。私は可成な處まで行けますよ。」私は續けた。「あなたは、近くではつきりと御覽でしたわ。でも、もう一度御覽になつても、私は構ひませんのよ。」そして私は立ち上つて、繪を彼の手に置いた。
「よく出來た繪、」彼は云つた。「大へんやはらかな、はつきりした色合いろあひで、大へん美しく、正しく、お描きになつて。」
「えゝ、えゝ、その通り。ですがね、てやしませんこと? それは、誰に似てるでせう?」
 いくらかの躊躇ためらひを抑制して、彼は答へた。「オリヴァさん、と思ひます。」
「むろん。では間違ひなくお當てになつた御褒美に、この繪の丁寧な、忠實な摸寫うつしを描いて、その贈り物があなたに受け入れられるなら、差上げるお約束をしませう。私、あなたがつまらないとお思ひになる贈り物に、時間と勞力を無駄づかひしたくありません。」
 彼は、その繪をじつと凝視みつめ續けた。見れば見るほど、彼は、しつかりとそれを掴み、ます/\それを欲しがるやうに見えた。
「似てる!」彼は呟いた。「眼がよく出來てる。色も光線も表情も完全だ。微笑わらつてゐる!」
「その似描にがきを持つてゐらつしやることは、あなたを慰めるでせうか、それともきずつけるでせうか? 仰しやつて下さいまし。あなたが、マダガスカルか、喜望峯ケープタウンか、印度にいらつしやるとき、この形見かたみを持つてらつしやることは、慰めでせうか? それとも、それを御覽になることは、元氣をそぎ、悲しませる追憶を齎らすでせうか?」
 彼は、いま、ぬすむやうに眼を上げた。おづ/\した、またかきみだされた容子ようすで、私をちらと見た。彼は再び繪に眼を移した。
「持つてゐたいのは確かです。それが分別があるか、賢いことか、どうかは別問題です。」
 ロザマンドが、本當に彼を寧ろ好み、彼女の父親の方もこの結婚に反對しないらしいことを確かめてから、私は、――セント・ジョンほど、私の考へには、崇高さがないが――二人の結婚をすゝめることに、強く心を傾けてゐた。もしも、彼がオリヴァ氏の莫大な財産を所有するやうになれば、彼が、熱帶の太陽の下にその天才をしぼませ、その力を使ひ盡すであらうと同樣に、彼はその財産で多くの善をなすであらう。このき伏せで、私はいま答へた――
「私に考へられる範圍では、直ぐに御本人をお取りになれば、もつと賢くて、分別ふんべつあることでせう。」
 このときまでに、彼は、坐つてゐた。繪を前の卓子テエブルの上に置き、額を兩手で支へて、彼は、それをのぞき込んでゐた。私には彼が今はもう私の不作法ぶさはふに驚きもしなければ、怒つてもゐないことが分つた。そればかりではなく、彼が近づいてはならぬものとめてゐた問題に就いて、こんなにあつさりと話しかけられること――こんなに拘泥こだはりなく取扱はれるのを聞くこと――が彼には、ひとつの新らしい喜びであり、また、豫期もしない救ひであると感ぜられはじめたことが、私に分つた。引込思案ひつこみじあんの人々には、彼等の感情や悲しさを、無遠慮につかれることが、開放的な人々に於けるよりも、屡々、ほんたうに必要である。嚴格を極めたと見える禁慾主義者も結局人間である。さうして、彼等の魂の『もの云はぬ海』へ、大膽と好意を以て、闖入ちんにふすることは、屡々、彼等に、第一の恩惠を與へることになるのだ。
「あの方、きつとあなたを愛してゐらつしやいますわ。」私は彼の椅子の背後に立つてさう云つた。「あの方のお父さまも、あなたを尊敬してゐらつしやいます。それに可愛いお孃さまぢやありませんか――どちらかと云へば輕はずみな方ですけれど、それはあなたが、あの方とお二人分思慮しりよ深くてゐらつしやるとすればいゝでせう。あの方と結婚なさるがいゝですわ。」
「本當にあのひとは僕を愛してゐますか?」と彼がいた。
「さうですとも。他の方よりはずつと好いてゐらつしやいます。いつもあなたのことばかしお話になります。一等よく話題になるのも、話してゐて嬉しさうに見えるのも、あなたのことなのですよ。」
「これは、非常に愉快だ。」と彼が云つた。「もう十五分間、お話を續けて下さい。」さうして、彼は、實際その時間をはかる爲めに卓子テエブルの上に時計を置いた。
「でも、あなたが、頑強な反對をしようとしてゐらしたり、あなたのお心を拘束する新しい鎖を造つてゐらつしやるとすれば、この上、お話しゝたつて、何になりませう。」と私は訊ねた。
「そんなひどいことは考へないで下さい。この通り、僕の心が崩折くずをれてけようと[#「溶けようと」は底本では「浴けようと」]してゐるのが分りませんか。僕の心には、人間の愛が新しく湧き出た泉のやうに迸つて、僕があれ程注意して勞作した畑といふ畑を、甘い洪水でひたしつゝあるのです――其處に僕は好意と自己否定の計畫の種子たねをあんなに熱心に蒔いたのですよ。今まさに、それは甘い大水に呑まれかゝつてゐる――双葉ふたばは水に沈みつゝある――甘美な毒が、その双葉を腐らせつゝある。僕の眼にはヴエイル莊の客間で、僕の花嫁、ロザマンド・オリヴァの足下の褥椅子オットマンに横になつてゐる僕自身の姿が見える。彼女はやさしい聲音こわねで僕に語る――あなたが實にうまうつしとつたあの眼で凝と僕を見下して――その珊瑚さんごのやうな唇で、僕に微笑ほゝゑみかける。彼女は僕のもの――僕は彼女のものだ――この現在の生活も、過ぎて行く世の中も、僕には滿足だ。しつ! 默つて――僕の心は嬉しさで一ぱいだ――僕の感覺は夢心地ゆめごゝちだ――先程云つた時間の間は、そつとして置いて下さい。」
 私は、彼の云ふ儘にした。時計は、コチ/\ときざみ續け彼はせはしく、低く息づいた。私は、靜かに立つてゐた。この沈默のさなかに、十五分は過ぎた。彼は時計を收めて、繪を下に置くと立つて爐邊に行つた。
「さて」と彼は云つた。「今の短い時間は、昏迷と妄想に捧げられた。僕は※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを『誘惑』の胸に休め、進んで、首を彼女の花の鎖のもとに置いて、彼女のすゝめる盃を口にしました。枕は燃えて、花環の中に毒蛇がゐる。酒はにがい。彼女の誓ひは、むなしく、彼女の捧げ物は、僞りだ――僕には何も彼も見えて、分つてゐる。」
 私は驚いて彼を凝視みつめた。
「變ですね。」と彼は續けて云ふ、「僕はロザマンド・オリヴァをこれほど激しく――初戀のあらゆる熱情を傾け盡して愛してゐるのに、しかもその對象はこの上なく美しいやさしいうつとりするやうな女なんだが――同時に彼女は僕の良い妻にはなれまいといふ、冷靜な確かな自覺を感じるんです。彼女は、僕に相應ふさはしい相手ではない、結婚して一年たない内に、僕はそう悟るに違ひないのです。そして十二ヶ月の夢心地の後には、恐らく生涯の後悔が續くのです。僕には分つてゐます。」
「まつたく變ですわ!」私は、叫ばざるを得なかつた。
「僕には、」と彼は續けた。「實際に、彼女の魅力に敏感である點もあれば、また彼女の缺點を深く感じる點もある。その缺點といふのはかうです。彼女は、僕の抱負に同情することは出來ない。僕の事業に協力することが出來ない。あのロザマンドが受難者でせうか、勤勞者だらうか、女の使徒だらうか? ロザマンドが宣教師の妻になり得るだらうか? ノー!」
「でもあなたは宣教師におなりにならなくてもいゝぢやありませんか。そんな計畫はお捨てになれるのでせう?」
「何、捨てる! 僕の天職を? この大きな仕事を? 天國のやかたの爲めに、地上に築かれた基礎を、捨てるんですつて? 人類を救ふといふ唯一つの光榮ある野心やしんにあらゆる野心を沒入した人々の群に入らうといふ希望を、知識を無智の領域にまで運ばうといふ希望を、戰ひを平和に代へ、束縛を自由に、迷信を宗教に、地獄の恐怖を天國の希望に代へようといふ希望を、僕はそれをみな捨てなくてはならないんですか? それは、僕の血管にある血よりも貴重なものです。僕は、この希望を目標めじるしにして、生きてゐるのですから。」
 長い間沈默して――私は云つた――「ぢや、オリヴァさんは? あの方の失望や悲しみは、何んともお思ひになりませんの?」
「オリヴァさんの周圍には、いつも求婚者や口前くちまへの好い男が大勢ゐるでせうから、一月たない内に僕の影なんぞはあの人の心から消えて了ひますよ。そして、僕のことは忘れて、恐らく、僕よりも遙かにあのひとを幸福にする力のある者と結婚するでせう。」
「隨分冷淡なお話ですね。でも、煩悶なすつてゐらつしやるのでせう。段々、お痩せになるやうですわ。」
「そんなことはありませんよ。りに幾分痩せたとすれば、僕の前途――未だ確定しない前途に對する心配の爲めです――僕の出發が、絶えずばされて行く爲めです。つい今朝も、僕は長い間待つてゐた僕の後任者が、もう三ヶ月しないとやつて來ないといふ報知しらせを受けたばかりなんです。その三ヶ月も、多分六ヶ月に延びるでせう。」
「オリヴァさんが教室にゐらつしやいますと、あなたは、顫へて熱くなつてゐらつしやいますのね。」
 再び、驚愕の表情が彼の顏を横切つた。彼は女性が、男性にむかつてかうした調子で話をしようとは思つてもゐなかつたのである。私にとつては、この種の話は氣樂きらくだつた。私は強い、思慮深い、洗煉された人と(その人が男性であれ女性であれ)、話をするときには、世俗的な遠慮の關門を通り拔け、信頼の敷居しきゐをよぎつて、彼等の心と觸れ合ふ所まで行かなくては落着けなかつた。
「あなたは珍らしい人だ。そして内氣うちきでもありませんね。あなたは、あなたの精神に或る雄々をゝしさをそなへてゐらつしやると同時に、あなたの眼にある鋭さを備へてゐらつしやる。しかし失禮ですが、僕の感情をいくらか誤解してゐらつしやる。あなたがお考へになるほど、深刻な力強いものではないんです。私が正當に要求し得る以上に同情を寄せて下さる。僕がオリヴァさんの前であかくなつたり、顫へたりしても、僕は、僕をあはれまない。僕はその弱さを罵る。それは、いやしむべきこと、肉の熱に過ぎない、斷言しますが、魂の緊張ではない。僕の魂は、荒れた海の深みに据つた岩の如く、不動です。どうか、僕の眞の姿を認めて下さい――つめたい、堅い男です。」
 私は疑はしげに微笑ほゝゑんだ。
「あなたは、僕の祕密を強奪した、」と彼は續ける。「さうして、いま、だいたいあなたの手中のものになつた。裸身の僕は、單に――人類の罪を覆うてゐる、キリスト教の血に染んだ上衣うはぎいで了へば――冷酷な野心やしんに富んだ男に過ぎないのです。あらゆる感情の中で、自然の愛ばかりが何時いつまでも變らない力を僕に持つてゐます。理性が僕の指導者です。感情ではありません。僕の野心は、無限大だ。他人よりも高く上り、他人よりも多く仕事をしようとする欲望は、飽くことを知らない。僕は、忍耐にんたいと我慢と勤勉と才能を尊重します、何故と云つて、これによつて、人間は、大きな目的を遂げ、高い位置に登り得るのです。僕が、あなたの生涯を興味深く眺めるのは、あなたを勤勉な秩序正しい根氣こんきのある婦人の典型と思ふからなので、決してあなたの、これまでの受難や、今後の受難に深い同情を持つ爲めではありません。」
「あなたは、唯の異教いけう哲學者と御自身を説明なさるんですね。」と私は云つた。
「いや、僕とその異教哲學者との間には、この違ひがあります。僕には、信仰がある、僕は、福音ふくいんを信じる。あなたは、形容詞けいようしをお間違へになつた、僕は異教哲學者ぢやなくて、キリスト教哲學者――基督教義の踏襲者です。キリストの弟子として、僕は、キリストの純粹な、惠み深い慈しみのある教義を採用する。僕は、その教義を説く。僕は、それをひろめることを誓ふ。僕は、若いときに宗教にひき入れられたので、宗教が僕の素質をこんな風に教化けうくわしました。――つまり、宗教は、自然的な愛情と云ふ小さな芽から、博愛といふ大木たいぼくを成長させました。人間の正義と云ふ、粗野な、すぢつぽい根から、神の正義と云ふ正しい覺悟を育てました。權力を得よう、このみじめな自分自身の爲めに力と名聲を得ようといふ野心やしんから、吾主わがしゆ、神の王國をひろめようと云ふ野心を形造かたちづくりました。十字架の旗印はたじるしの勝利を得る爲めに。宗教は、隨分私の爲めになりました。生來せいらいの素質を、最もよく利用し、僕の性質を矯正したり訓練したりして。しかし宗教も僕の性質を根絶することが出來なかつた。また、恐らく『この肉體が不滅のものとなる迄』は根絶出來ないでせう。」
 かう云つて、彼は卓子の上の繪具板パアレットの傍にある帽子を取つた。彼はもう一度、肖像を眺めた。
「あの人は綺麗だ。」と呟く。「實際、この世の薔薇(ロザマンド)とはよく附けた。」
「で、こんなのをあなたに描いて差上げませうか?」
“Cui bono?”(それが、何の役に立つでせう?)いや、それには及びません。」
 彼は、私が繪を描くときに、ボール紙を汚さないやうに、私の手置きにしなれてゐた一杯の薄紙をその繪にかぶせた。この白紙の上に、ふと彼が認めたのは何んであつたか、私には分らない。しかし、何かゞ、彼の眼をとらへた。彼は、ひつたくるやうにその紙を取り上げた。彼はそのはじを眺めた。それから、何んとも知れぬ、奇妙な、まつたくわけの分らぬ一瞥いちべつを私に投げた。それは、私の姿と顏と着物のいつさいの點を注意して見逃みのがさない一瞥であつた。と云ふのは、稻妻いなづまのやうに素早く、鋭く、その一瞥は、それらいつさいの點を横切つたのだ。彼の唇はものを云ふやうに開いたが、彼は何んだか出かゝつた言葉を止めて了つた。
「どうかなさいましたの?」と私はいた。
「いや何んでもありません。」と答へた。そして、その紙をもとへ戻しながら、たくみにその端の方を細長く裂いて取つたのを私は見た。それは彼の手袋の中に消えた。さうして、そゝくさと會釋ゑしやくして「さよなら」を云つて、彼は消えた。
「これは!」と私は、この地方の口吻こうふんで叫んだ。「地球儀ちきうぎの帽子だ(何のことやらさつぱり分らぬ)。」
 私も私で、その紙を調べた。何もなくて私の鉛筆の色を試めした繪具の汚れが少しばかりあるきりだつた。私は、一二分、その祕密を考へた。だが、分らないので、また大したことでないと信じたので、その儘、氣にかけず、やがて忘れて了つた。

三十三


 セント・ジョン氏が歸つた頃、ちらほら雪が降りはじめた。渦卷く嵐が一晩中つゞいた。翌日になると刺すやうな風が新たな、眼をくらませるやうな降雪をもたらした。暮方迄には、谷は埋り、人通りも殆んど難かしかつた。私は鎧戸よろひどを締め、雪が吹き込まないやうにドアの下には莚を置き、火をよく備へ、そして一時間近くに坐つて耳をおほふ嵐の狂亂に聞き入つてゐたが、やがて蝋燭をともして、『マアミオン』を取つて讀みはじめた――
は沈みぬ、ノラム城の絶壁に
廣く深きトウ※[#小書き片仮名ヰ、417-下-20]ードの美しき流れに
またうちつゞくチェヴィアトの山々に。
そゝり立つ塔、天守のとりで
そをめぐる石壁らみな
黄金こがねなす光を浴びぬ。
 私は、やがて、音樂リズムに嵐を忘れてしまつた。
 物音が聞えた。風で戸がかたつくのだと、私は思つた。否、外のてつくやうな嵐――吠え猛ける暗黒――の中から、※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねはづして這入つて來て、私に前に立つたのは、セント・ジョン・リヴァズだつた。たけ高い彼の身體を包んだ外套は、氷柱こほりばしらのやうに眞白だつた。私は、まつたく、周章あわてゝしまつた。そんな夜に、雪に閉ざゝれた谷からお客があらうとは、殆んど思つてもゐなかつたのだから。
「何か大變なことでもありましたの?」私はたづねた。「何か起りましたの?」
「いや。だが、何でもないことに、すぐ驚きますね。」と答へて、彼は、外套を脱いで、扉に掛けると、這入つたときに亂したござ素氣そつけなくドアの方へ押しやり、足踏みをして長靴の雪を拂つた。
「綺麗な床をよごしますよ。」と彼は云つた。「だが、まあ、今晩だけは勘辨して下さい。」そこで、彼は火に近づいた。「どうも、此處まで來るのは、ほんたうに大變でしたよ。」と焔の上に手をかざしながら云つた。「腰のあたりまで埋められてしまひましてね。いゝ鹽梅に、雪が、まだ非常に柔らかいです。」
「でも、どうしてゐらしつたのですか?」私は訊かないではゐられなかつた。
「お客さまに向つて、少し無愛想な御質問ですね。おたづねとあればお答へしませう。なに、たゞ少しばかり、あなたとお喋べりがしたかつたのです。僕は物を云はない書物や、からつぽな部屋に飽きました。それに、昨日から、僕は、話を半分聽いて、その成行なりゆきを聞きたくて仕方のない人の、いら/\した氣分を味ひました。」彼は腰を下した。私は、昨日の彼の變な動作どうさを思ひ出して、彼が氣が變になつたのではないかと、本氣で心配になつて來た。だが、さうだとすれば、彼のは餘りに冷靜な狂氣であつた。私は、今見る彼が雪に濡れた髮をひたひから拂ひのけて、その蒼白な面を爐の火の照らすまゝにしたとき程、彼の端麗な顏を大理石の彫像そのまゝだと思つたことはなかつた。そこには、私にも氣づかれるほどのはつきりした煩勞や悲しみにやつれた色が見えるのが私を悲しました。彼が、少くとも私にわかることを何か云ふだらうと、私は待つた。しかし今や、手を頬に、指を唇にあてゝ、彼は考へてゐた。その手も顏と同じやうに憔悴せうすゐして見えるのが、私の心を打つた。たぶん、必要もない氣の毒な思ひがこみ上げて、私は思はず云つて了つた――
「ダイアナかメァリーかゞ、あなたと御一緒にお暮しになる方がよくはないのでせうか。獨りぽつちでゐらつしやらなくてはならないなんて、本當にいけないと思ひますわ。それにあなたは、御自分の健康といふことには、まるつきり向う見ずでお構ひにならないから。」
「そんなことはありませんよ。僕は、必要なときには、自分で面倒を見ます。今は工合がいゝんですよ。何處かゞ惡いやうに見えますか?」
 彼は、氣のないうつかりした無關心な樣子で、この言葉を口にした。その樣子で見ると、私の心配は少くとも彼の考へではまつたく餘計なものだつた。私はだまつた。
 彼は、まだ上唇うはくちびるを靜かに指で撫でゝゐた。そして、その眼も、依然として夢みるやうに爐の火格子ひがうしを見守つてゐた。早く何か云はなければと氣をあせつて、私は、彼の後のドアから吹き込む隙間風が寒くはないかと、間もなくいてみた。
「いや、いや。」彼はぶつきらぼうに、幾らか腹立たしげに答へた。
「さうですか。」と私は云ひ返へした。「お話がお嫌なら、默つてゐらつしやいまし。私も失禮して本を讀むことにしますから。」
 で、私は蝋燭の芯をつて、また『マアミオン』を讀みはじめた。彼は、程なく、身を動かした。私の眼は、直ぐにそれに惹かれた。彼はたゞ、皮製モロッコのポケット・ブックを取り出し、その間から一通の手紙をとつて、それを默々もく/\と讀み終へると、折りたゝんでもとへしまひ、また考へに沈んだ。このやうなはかり知れぬ人を前にして、本を讀まうとするのは、無駄であつた。また、私は、じれつたくなつて、默つてゐられなくなつた。彼は、つんとして肘鐵砲ひぢでつぽうを食はす氣かも知れない。でも、私は話したいのだ。
「この頃ダイアナとメァリーからお便りがありまして?」
「一週間前にお目にかけたあれつきりです。」
「あなたの御準備に、何もお變りはないのでせう? 思つてゐらしつたよりも早く、英國をおちになる命令が來るやうなことはお有りになりませんの?」
「さあ、ないと思ひますね。そんな機會は僕に來るには好過ぎますから。」
 これでは駄目と見て、私は、話題を變へた――そして學校だの生徒だのゝことを話さうと考へた。
「メァリー・ガレットのお母さんが、ずつとよくなつたさうで、メァリーは、今朝學校に歸つて參りました。それから、來週にはファウンドリ・クロオズから、新入生が四人來る筈ですの――雪がなかつたら、今日來たでせう。」
「ほゝう!」
「オリヴァさんが、二人分だけ、お引き受け下さるんですつて。」
「はゝあ。」
「それに、クリスマスには、學校中みんなに御馳走して下さるさうですの。」
「さうださうですね。」
「あなたのお考へでしたの?」
「いや、僕ぢやありません。」
「では誰方どなた?」
「お孃さんでせう。」
「あの方らしいこと、ほんとにやさしい方ですものね。」
「えゝ。」
 再び空虚くうきよな沈默。時計が八時を打つた。その音に、我に歸つて、彼は、組合はせてゐた足を揃へ、眞直まつすぐに坐りなほすと、私の方を向いた。
「ちよつと本を置いて、もう少し火の側へいらつしやい。」と彼は云つた。
 いぶかしく思ひながらも、理由わけが分らないので、私はその通りにした。彼は言葉をつゞけた。
「半時間前、僕はお話の續きを聞きたくてたまらないのだと云ひましたね。所が考へて見ると僕が話し手になつて、あなたに聽手になつて戴く方が好都合だと思ふのです。話す前に、この話があなたの耳には、多少陳腐ちんぷに響くだらうといふことを申上げて置く方がいゝでせう。しかし陳腐な物語も、新しい唇を通ると、幾分清新さを取返すことがよくありますね。その他の點では、平凡にしろ、珍らしいにしろ、話は短いのです。
「廿年前のことですが、或る貧乏な牧師補が――今のところ名前はどうでもいゝのです――或る富豪の令孃を戀しました。令孃も彼を愛して友人達の忠告にも耳をかさず、彼と結婚しました。その結果、結婚式が了ると直ぐ、彼女はその連中から絶交されてしまつたのです。三年とたぬうちに、この輕はずみな夫婦は二人共死に、靜かに並んで一つの墓に横はりました。(私は二人の墓を見ましたが、それは××州の、古びた商業市にある陰氣な、すゝけた古い僧院のだゝつ廣い墓地ぼちの片隅に、敷石になつてゐました。)後には、女の子が唯一人殘されました。で、その子は生れたその日に、『慈善おかみ』の冷たい膝に――今夜、僕があやふく埋められかけた雪だまりのやうに冷たい膝に、抱きとられたのです。慈善おかみは、その頼りない哀れな子供を金持の母方の親戚のもとに連れて行きました。そこで、義理の伯母――(愈々名前を云ひはじめますが)ゲィツヘッドのリード夫人の手に養はれることになつたのです。驚きましたね――何か物音がしたのですか。なにあれは、隣りの教室けうしつたるきの上で、鼠が騷いだのですよ。あそこは、修繕する[#「修繕する」は底本では「修善する」]以前には納屋なやでした。納屋なやに鼠は附きものです。――話を續けませう。リード夫人は、その孤兒みなしごを十年間手許に置きました。そこでその子が幸福であつたかどうかは聞かされなかつたから、僕は知りません。しかし最初にその子はあなたも御存知の所にやられました――外でもない、あなたが長い間おゐでになつたローウッド學校です。其處で送つたその娘の生活は、尊いものでした。生徒から、彼女は教師になつた、あなたのやうにね――實際、不思議な程その娘の經歴は、あなたのとてゐる點がありますよ――そして先生から、今度は家庭教師になりました。所でまたあなたの運命に似てるやうですが、彼女は、ロチスターとか云ふ人の後見こうけんをしてゐる子供を教育する仕事に就いたのです。」
「リヴァズさん!」私は遮つた。
「分りますよ、あなたの氣持は。」彼は云つた。「だが、も少し我慢して下さい。もう直ぐだから、お終ひまで聞いて下さい。ロチスター氏の性格に就いては、僕は何も知りません。が、一つだけ知つてゐる事實があります。彼が、この若い娘に結婚を申し込み、しかもその娘は神聖な祭壇の前で、彼がもう妻をもつてをり、しかもその妻は氣が狂つたまゝ今に生きながらへてゐるといふことを發見した、といふことです。その後、彼が如何に行動したか、またどんな申し出をしたか、それは全然臆測するより仕方のない問題ですが、ある事件が起つて、その家庭教師の行方ゆくへ探索たんさくする必要が出來たときにはもう、彼女は其處にはゐないと分つたのです――何時、何處へ、どうして行つてしまつたか誰も知りませんでした。彼女は、夜の中にソーンフィールド莊をつたのです。搜索は總て徒勞に終りました。國中殘る隈なく探しても、一片の手掛てがゝりも得られなかつた。しかし彼女を是非とも探し出さねばならないといふことは、非常に重大な、緊急なことになつて來たので、全國の新聞に廣告されました。私もブリッグスといふ辯護士から、今お話した一部始終いちぶしじゆうを知らせた手紙が來たのです。ねえ、不思議な話ぢやありませんか。」
「これを教へて下さい。そこまで御存知ならきつと話して戴けることなんです――ロチスターさんのことです。あの人は何處にゐます? どうしてゐます? 何をしてゐるのでせう? 變りはないのでせうか?」
「ロチスターさんのことは一切知りません。その手紙にも、今僕がお話した、不正な、不法ふはふたくらみの外には一言も云つてありませんでした。それよりもあなたには、その家庭教師の名前と――彼女の住所を探し求めてゐる事件の性質をかねばなりません。」
「では、誰もソーンフィールド莊には行かなかつたのですか? 誰もロチスターさんに會はないんですか?」
「恐らく會ひますまい。」
「だつて、あの方に誰か問ひ合せたのでせう?」
「勿論です。」
「ぢや、何と云つて來ましたの? その手紙は誰が持つてゐます?」
「ブリッグスさんの話では、手紙の返事はロチスターさんからではなくて、婦人の手でアリス・フェアファックスと署名してあつたさうです。」
 私は、ぞつとして、思ひまどつた。では、私の一等おそれてゐたことは、多分實現したのだ。多分彼は英國を去つて、棄鉢すてばちな絶望に驅られて、大陸の以前の生活に走つたのに違ひない。そこであのはげしい惱みを忘れさせる麻醉劑を――あの強い情熱をいやす目當てとなるものを――果して、彼は求めることが出來たらうか。私はその問ひに答へる勇氣がなかつた。おゝ、いとしい私の主人よ――嘗ては殆んど私の夫でさへあつた――嘗ては、私がよく「愛するエドワァド」と呼んだ人でさへあつた!
「どうもよくない人に違ひないと思はれますね。」とリヴァズ氏は云つた。
「あなたは、あの人を御存知ないのです――あの人のことを何も仰しやつてはいけませんわ。」私はおだやかに云つた。
「御尤もです。」と彼は靜かに答へた。「それに實は、今僕の頭はロチスターさんよりも外のことで一ぱいなんです。僕は、自分の話に結末をつけなくてはならない。あなたがその家庭教師の名前をおきにならないとすれば、僕は自分で云ふより仕方がない――待つて下さい――此處にあるのです――いつも思ふことですが、重要な個所が書類に綺麗に書きつけてあるのを見るのは好いものです。」
 そして、あのポケット・ブックがまた丁寧に取り出され、開かれ、しらべられた。その中から、急いで引き裂いた、しわくちやの紙片が引き出された。私は、一目でその紙質と、群青や、紅や、朱などの汚染しみで、あの肖像畫の覆紙カヴアの切つぱしだと悟つた。彼は、立ち上つて、それを、私の眼に近く出した。で、私は、インディアン・インクで『ジエィン・エア』と自分の手で書かれた字を讀んだ――確かに無意識でした仕事である。
「ブリッグスは僕にジエィン・エアのことを書いて來ました。廣告にはジエィン・エアと指名してあるのです。僕はジエィン・エリオットならば知つてゐました。――白状しますが、僕は疑つたのです。所がほんの昨日の午後のことですが、疑問は氷解ひようかいして確信になりました。どう、この名前をとつて、假名かめいを捨てますか?」
「えゝ――えゝ――ですけれど、ブリッグスさんは何處にゐらつしやるのですか。その方ならば、あなたよりも、ロチスターさんのことをよく御存知ぢやないでせうか。」
「ブリッグスは倫敦ロンドンにゐます。さあ、ロチスターさんのことを何か知つてゐるかしら。あの人が知りたいのは、ロチスター氏のことではないんです。それにあなたは枝葉えだはの方ばかし氣にして大事な本文を忘れてゐるぢやありませんか。あなたは何故ブリッグスがあなたを探してゐるか――あなたに何の用があるのかといふことを氣にかけないのですね。」
「さう、ぢあ、何の用なのでせう?」
「單にあなたの伯父さんであるマデイラのエア氏がくなられたといふことゝ、彼が財産全部をあなたに遺した、そしてあなたは現在金持だ、といふこと――たゞそれつきりです――他には何にもありません。」
「私が! 私がお金持?」
「さうです、あなたがです――あなたが相續人なのです。」
 沈默が後に續いた。
「あなたは勿論あなたの人違ひでないことを證明しなければいけないのですが、それは別に難かしい仕事ぢやない。」セント・ジョンは直ぐに語をついだ。「そこであなたは直ぐさま財産を受けげます。財産は皆英國の公債に委任してあるのです。遺言書と必要な書類はブリッグスが持つてゐます。」
 此處に新しいカアドがめくられた! 讀者よ、一瞬の間に貧窮から富貴に上げられるとは何と素晴らしいことであらう。けれども、それが直ぐにに落ち、必然的に嬉しい氣持になれることかといふとさうではない。そして、人生にはもつと他に遙かに心をときめかす、遙かに魂を奪ひ去られる機會がいくつもあるのだ。これこそは、嚴とした現實社會の出來事であつて、それには空想的な何者もない。その聯想は總て嚴としてをり、眞面目まじめである。その表示も亦同樣に。人は自分が財産を得たと聞いて飛び上りねまはり快哉くわいさいを叫びはしない。人は責任を感じ仕事を考へ始める。確とした滿足感の上にある冗談氣のない深い心配が湧き上る――そして人々は自分を制して、眞面目まじめに眉をひそめて、その祝福に思ひをめぐらすのである。
 それのみならず、遺産だの形見かたみだのといふ言葉は、死、葬式などの言葉と並んで行く。前から聞いてゐた私の伯父は――私のたゞ一人の親戚は、死んでしまつた。彼の存在を知つて以來、私は何時かは彼に會ふといふ望を大事に守つて來た。だが今はそれも許されない。そして、この金は私きりにもたらされた。私と大喜びの私の家族とにではなく、たつた獨りぽつちの私に。確かにそれは素晴らしい恩典おんてんだ、そして獨りで立つて行くことは、輝やかな喜ばしいことだらう――さうだ、私はそれを感じた――その想ひは私の胸をふくらませた。
「やうやく、眉根まゆねを開きましたね。」リヴァズ氏が云つた。「僕はメデュサがあなたを凝視みつめてゐて、あなたは石にかはつてゆくんぢやないかと思つた――多分、今度はあなたのお金がどれ位だかお訊きになるでせうね?」
「どれ位ですの?」
「いやほんのぽつちりです。お話しする程のこともありません――二萬ポンドとか云ふ話でしたが――しかし大したものではありませんね。」
「二萬ポンドですつて?」
 此處にまた新らしく素晴らしいことがあつた――私は四五千ポンドだと思つてゐたのである。この報知しらせは一瞬間、まさに私の息をとめてしまつた。セント・ジョン氏は今迄笑つたことのない人だつたが、このときは笑ひ出した。
「いや、かりにあなたが人殺しをしてそれが露見ろけんしたとあなたに知らしても、それ以上びつくりした顏付にはならないでせうよ。」
「あんまり大金ですから――何かの間違ひだとお思ひになりません?」
「間違ひなんかぢやありませんとも。」
「たぶん、あなたは、數字をお讀み違へになつたのでせう――二千ポンドですわ!」
「數字ではなく文字で書いてあるのです――二萬磅と。」
 また私は、たつた一人で普通の食慾を持つて百人前の御馳走の卓子テエブルに着いたやうな氣がした。リヴァズ氏はそのとき立ち上つて外套を着た。
「こんなひどい夜でなければ、ハナァをお相手に寄越よこして上げるのですが。あなたを一人つきりで置いて行くのはあんまり可哀相な氣がしますよ。ですが、ハナァではとても僕のやうにこの雪を越える力はないでせう――彼女かのぢよの脛はそんなに長くはありませんからね。僕は、あなたの悲しみにあなたを、殘してさへ行くより仕方がない。では、お休みなさい。」
 彼は※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねを外さうとした。突然の考へが私に浮かんだ。
「ちよつとお待ちになつて!」と私は叫んだ。
「何です?」
「私、何故ブリッグス氏が私のことをあなたに書いてお寄越よこしになつたか伺ひたいのです。何故あの方はあなたを御存知なのだか、そして、どうしてこんな田舍にゐらつしやるあなたが、私を見附けるのに力になるとお思ひになつたのかゞ。」
「そりやあ、僕は牧師ですよ。」と彼は云つた。「牧師といふ奴は、始終しよつちゆう奇體きたいな事件には持ち出されます。」再び※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねが音を立てた。
「いゝえ、それでは私、安心出來ませんわ!」と私は叫んだ。確かに、何かゞそのせき込んだ説明を避けた答の内にあつた。私の好奇心をしづめる代りにあふり立てるやうな何かゞ。
「まつたく不思議なことなんですもの。どうしてもそれについて、私、もつと知りたいのです。」
「また何時か。」
「いゝえ、今晩――今晩!」そして彼がドアから振り向いたのを見て私はドアと彼の間に立ちふさがつてしまつた。彼は少し當惑してゐる樣子だつた。
「すつかり話して下さるまでは決してお歸しゝませんわ。」私は云つた。
「どうも今はお話しゝたくないんです。」
「話して下さい!――話さなきやいけません。」
「僕はダイアナかメァリーかゞお話しする方がいゝと思ふのですがね。」
 勿論、これ等の反對は、私の熱心さを極點迄そゝり立てた。しかも、すぐさま、それを滿足されなくてはならない、そこで、私は彼に云つた。
「しかし僕が頑固かたくなな人間だといふことは知つてるでせう。」彼は云つた。「容易にき伏せられないつてことは。」
「ぢあ、私は頑固かたくなな女です――決して誤魔化されたりしない。」
「それでは、」彼は追ひかけて、「僕はひややかな男ですよ、どんな熱情にも動かされない。」
「ところが私は熱いんです、そして火は氷をかしてしまひますわ。あの火はあなたの外套の雪をすつかり溶かしたぢやありませんか。その證據に、床がビショ/\になつて、まるで踏みつけられた往來のやうですわ。ねえ、リヴァズさん、砂をいたお勝手を汚した大罪と、不始末を許して欲しいとお思ひになるのなら、私の知りたがつてゐることをお話しになつて下さい。」
「では、」と、彼は云つた。「あなたの熱心さに對してゞはないとしても、あなたの忍耐にんたいに對して僕は降參しますよ。絶え間のない雨滴あまだれが石に穴を開けてしまふやうにね。それに晩かれ早かれ、何時かは知つて戴かなくてはならぬことです。あなたのお名前はジエィン・エアでしたね。」
「勿論です、それはもう、すつかり、きまつてゐますわ。」
「僕があなたと同姓であることには、多分氣が附かなかつたでせう?――僕がセント・ジョン・エア・リヴァズだといふことは?」
「まあ! ちつとも。さう云へば私、あなたに時々拜借した御本に、Eつて頭文字かしらもじのあつたことを覺えてゐますわ。でも、一度も何てお名前の頭文字かしらもじか伺はなかつたのです。ぢや、それでどうなんですの? きつと――」
 私は止めてしまつた。私におそひかゝつた考へを――形を表はし、見る間に強い確實な可能性をそなへて來た考へを、懷かうとする自分を信じなかつた。まして、云ひ表はすことなど。――いろ/\な事情が結合し、適合し、秩序的となり、これまで形を成さぬ多くのの堆積と見えた鎖が、眞直まつすぐに引き伸ばされて、各々の環が完全になり聯絡が完成されたのだ。私は、セント・ジョンが次に言葉を出す前に、事がどうなつてゐるかを直感で知つた。しかし同じ直感的な理解を讀者に期待することは出來ないから、もう一度彼の説明を繰り返さねばならない。
「僕の母の名はエアでした。母は兄弟が二人あつて、一人は牧師で、ゲィツヘッドのジエィン・リード孃と結婚し、もう一人のジョン・エア氏は既に死んでゐたマデイラのフアンシヤルにゐた商人です。ブリッグス氏は、エア氏の代理人だつたので、この八月に伯父の死をわれ/\に知らせて呉れました。そして、伯父がその遺産を牧師であつた弟の孤兒みなしごに與へることにしたといふことも。僕等のことを落したのは、僕の父と仲違なかたがひをしてゐて和解の道がついてゐなかつた結果です。ブリッグス氏からはその後數週かつてまた、相續者の行方ゆくへが知れぬ事を僕等に心當りはないかといふことをたづねて來ました。偶然、一枚の紙片かみきれに書いてあつた名前で私はそのひとを見附けたのです。後は御存知の通りです。」そして彼はまた行きかけたが、私は背中をドアにつけて云つた。
「私に云はせて下さい! 少しの間息をつかして下さい。考へさせて下さい。」私は休んだ――彼は帽子を手に、十分に落着いた樣子で私の前に立つてゐる。私は云つた――
「あなたのお母さまは私のお父さまの姉さまでしたのね。」
「さうです。」
「つまり、私の伯母さまでせう?」
 彼はうなづいた。
「私のジョン伯父さまは、あなたのジョン伯父さまなんでせう? あなたとダイアナとメァリーは、ジョン伯父さまの姉さまの子供で、私はジョン伯父さまの弟の子供ですわね。」
「否定出來ないことです。」
「では、あなた方は、三人とも、私の從兄姉いとこでゐらつしやるのですね。私たちお互の血の半分は、一つのみなもとから流れて來てるのですね?」
「僕等は從兄妹いとこ同志です。さうです。」
 私は彼を眺めて、兄さんを探し出したやうな氣持がした――誇つていゝ、愛していゝ兄を――そして二人の姉を。その人達の心は、私が見知らぬ他人として近づいた時にも生來せいらいの愛情と尊敬で私を感動させてしまつた程であつた。あの濡れた土にひざまづいて、ムア・ハウスの臺所の低い格子窓から、私が好奇心かうきしんと絶望の入り交つたつらい氣持でじつと凝視みつめた二人の令孃は私の近い身内であつた。また、あの入口で、殆んど息が絶えようとしてゐた私を見附けた、若い立派な紳士は、私と血續きであつた。獨りぽつちの不幸な娘に對するはなやかな發見。これこそ實際、富であつた!――心の富であつた!――純眞な喜ばしい愛情の鑛脈くわうみやくであつた。これこそ輝かしく活々した心の躍る祝福であつた。重苦しい黄金きんの贈り物とは違つてゐた。で、それだけで十分に豐かであり、よろこばしいものであつたが、その責任の爲めに眞面目まじめにさせられるものであつた。突然の歡喜に、私は手を叩いた――私の鼓動は高鳴り血管は躍つた。
「あゝ、嬉しいわ――嬉しいわ!」私は叫んだ。
 セント・ジョンは微笑ほゝゑんだ。「僕は、あなたが枝葉を追つて、大本を忘れると云ひませんでしたつけね?」と、彼はたづねた。「財産を貰つたと云つたときにはあなたは、大眞面目で、そして今、何でもないつまらぬことに昂奮するんだ。」
「まあ、何んてことを仰しやるのでせう。それはあなたには詰まらないことかも知れませんわ。あなたにはお妹さんがお有りになるんです。だから、從妹いとこの一人なんぞ、どうでもいゝとお思ひになるでせうけれど、私には今迄誰もなかつたのです。それに今、三人――若しあなたがその中にお這入りになりたくなければ二人、親類が、大人おとなの姿で私の世界に生れて來たのですもの。私はもう一度云ひますわ、私は嬉しくて堪りませんわ。」
 私は部屋の中を足早やに歩いた。そしてまた立止つた。私が受け入れ、理解し、思ひ定めることの出來ない程高遠な思案に半ば窒息ちつそくして。――如何にするか、爲し得るか、爲したいと望むか、また、爲すべきかといふ思案、しかも、そこに迫つてゐる。私は白い壁を眺めた、それはのぼりつゝある星屑ほしくづで深く見える空のやうに思はれた――一つ/\の星は、志ざす方へ、またよろこびへ、私を照した。私の生命を救つて呉れた人達を、今迄はたゞむなしく愛してゐたが、これからは都合よく計つて上げられるのだ。あの人たちはくびきの下にゐるのだ。彼等を私は自由にして上げることが出來る。別れ/\になつてゐるあの人たちを、私はまた一緒にして上げることが出來る――私のものとなつた獨立と富裕は同時にあの人たちのものともなるであらう。私達は四人ではなかつたか? 二萬ポンド等分とうぶんすると五千ポンドづゝになる――あり餘るほど十分だ。公平にしよう――お互ひの幸福が確立されるだらう。今や財産は私に重荷を負はせない。今やそれは單なる貨幣の遺産ではなかつた――生命と、希望と、慰樂の形見かたみであつた。
 かうした考へが嵐のやうに私の魂を襲つてゐたときに、私が、どんな樣子をしてゐたか私は知らない。しかし間もなく私は、リヴァズ氏が椅子いすを私の後に運んで靜かに私を坐らせようと試みてゐるのに氣が附いた。彼は、また、私に落着いてくれるやうにと云つた。私は自分の意氣地いくぢなさと亂れた樣子に對するその當てこすりに耳もかさず、彼の手を振り拂ひ、また歩きはじめた。
「明日ダイアナとメァリーにお手紙を書いて下さい。」私は云つた。「そして直ぐお歸りになるやうにと仰しやつて下さい。ダイアナは一千ポンドあれば二人共お金持だと思へるといつか仰しやつたんですから、五千ポンドでならきつと滿足して下さいます。」
「あなたに水を何處で汲んで來て上げられるか、教へて下さい。」セント・ジョンが云ふ、「本當に氣をしづめなくつちやいけません。」
「何を仰しやるんでせう! 一體その遺産がどんな影響をあなたに與へるとお思ひになりますの? それがあなたを英國に引き止めるでせうか。あなたをオリヴァ孃と無理に結婚さして、俗人並ぞくじんなみに落着かせてしまふでせうか。」
「あなたはくるつてますよ。あなたの頭は亂れてしまつてる。僕が遠慮なしにこんな報知しらせを云つたものだから、あなたはすつかり昂奮して自分をさゝへる力がなくなつたんだ。」
「リヴァズさん! 私は本當にぢれつたい。私は十分に理性があります。誤解してゐらつしやるのは、それとも誤解したふりをしてゐらつしやるのは、あなたですわ。」
「もう少しくはしくあなたの考へを説明して下されば、多分僕にも、もつとよく理解されるかも知れません。」
「説明ですつて! 何を説明するのですか。問題の二萬ポンドを私達の伯父さまの一人の甥と三人の姪たちに同じやうに分配すれば、一人が五千ポンドづゝになるといふことがわからないとは仰しやれませんよ。私のして戴きたいことはお妹さん方にお手紙をお上げになつて、あの方たちに出來た財産のことを仰しやつて下さることですわ。」
「あなたに、でせう。」
「私はたゞそれについての自分の意見を申上げたのです。私には他に考へられないんです。私はけだものみたいに我利々々がり/\にも、盲目的な不正にも、そして惡魔みたいに恩知らずにもなれません。その上、私は家庭と係累の[#「係累の」は底本では「系類の」]中に這入つて行く決心をしてゐます。私はムア・ハウスが好きなんです。ですから、ムア・ハウスに住まうと思つてゐます。私はダイアナとメァリーが好きなんです。ですから一生あの人たちを愛しませう。五千ポンドのお蔭で私は喜ばされもし、利益も受けるでせうけれど、二萬ポンドを得れば、苦しんだり壓迫されたりするでせう。それに二萬ポンドといふお金は法律では私のものでも、正義の上では決して私のものではないのです。ぢや、かう云ひませう、私にはどうしても餘計なものをあなた方にとつて戴くのです。反對したり、議論したりなさらないでね。そしてお互ひに賛成し合つて直ぐにそのことをめてしまひませう。」
「このことは最初の衝動で爲されてゐるのです。だから、あなたの言葉が確實なものとしてかへりみられる爲めには、こんなことは數日考へなければいけません。」
「あゝ! 私の眞心まごゝろを疑はしくお思ひになるきりの事なら、私は安心しますわ。事の正當さはお認めになるのでせう?」
「確かな正しさを認めます。しかしそれは世の中のすべての習慣にさからふものです。その上、全財産はあなたの權利です。僕の伯父はそれを自らひたひに汗して得たのです。それを誰にゆづらうかは彼の自由です。それであなたに讓つたのです。結局のところ、正義はあなたにその所有を許してゐるのだから、あなたは曇りのない良心に於て、絶對にあなたのものだと考へていゝのです。」
 私は云つた。「私にとつては、良心の問題であると同時に感情の問題なんです。私は私の感情の云ふまゝにしなければならないのです。私には、さうする機會はこれ迄、殆んどなかつたのですもの。若しかあなたがさうやつて一年間に議論だの反對だので私をお困らせになつても、私は一度ちらと見た世にも樂しい歡喜よろこび――幾らかでも大きな御恩をお返しし、自分に一生のお友達を得ようといふ歡喜よろこびのことを忘れはしませんわ。」
「あなたが今さう考へるのは、」セント・ジョンは答へた。「所有するとは、從つて富を享樂するとは、どういふことかを知らないからです。二萬ポンドがあなたに提供する重大な意味を知らないからです、それが世の中であなたをどんな地位に置き、どんな前途を拓くかを知らないからです。あなたはその金が――」
「では、あなたは、」とさへぎつて、私は叫んだ。「兄弟や姉妹の愛に對する私の願望を、少しも思つては下さらないのです。私は今迄家といふものを持つたことがありません、兄弟や姉妹を持つたこともありません。今度こそは、それを持ちたい、持つことが出來ると思ふのです。あなた方は私を認めて受け入れて下さらないのですか?」
「僕はあなたの兄になつて上げます、ジエィン――妹達はあなたの姉になるでせう――だが、あなたの正當の權利を犧牲にすることを條件とせずに。」
「兄さんですつて? えゝ、さうです、千里も離れて暮す兄さん! 姉さん達ですつて? えゝ、さうよ、見も知らぬ他人の中で苦勞をしてゐる姉さん達! 私は――自分が働いてまうけたのでも、受ける權利があるのでもないお金をむさぼつて――お金持で、あなた方は文無もんなし。素晴らしい平等びやうどうと友愛、何といふ堅い結びつき、何といふこまやかな感情でせう!」
「だが、ジエィン、あなたがもし、家族の係累や家庭的の幸福を欲しいと思ふのだつたら、今、あなたが考へてゐるより外の方法で、實現させられるんです。あなたは結婚すればいゝでせう。」
「またそんなことを仰しやつて! 結婚ですつて! 私結婚したくはありません、決してしませんわ。」
「それは少し云ひ過ぎるでせう。そんな極端な斷言が、その爲めにあなたが苦しんでゐる昂奮の證據なのだ。」
「云ひ過ぎぢやないんです。私には自分の心持が分るんですもの。それに結婚といふむきつけな考への私の氣持が、どんなにいまはしいかを知つてゐます。誰も私を愛してはくれないでせうし、單に、金儲けといふ意味いみでは、私はかへりみられないでせう。それに私は他人なんて――自分とはまつたくえんのない、同情もない他人なんて欲しくありません。私は、親類みよりが欲しいのです。一緒に、深い同情をし合ふやうな人々を。ね、どうかも一度私の兄さまになつて下さるつて仰しやつて下さい。さつきあなたがさう仰しやつたとき、私は滿足した幸福な氣持でしたの。もう一度仰しやつて――お出來になれば、もう一度眞劒に仰しやつて。」
「云つて上げてもいゝ。僕はいつも妹たちを愛してゐたのを知つてゐる、そして私の彼等に對する愛情が何に基いてゐたかを知つてゐる――彼等の價値に對する尊敬と才能に對する嘆賞に基いてゐるのです。あなたもまた定見と信念を持つてゐる。あなたの趣味や習慣はダイアナやメァリーのと似通にかよつてゐる上に、僕はあなたの側にゐるといつも愉快です。今迄にも度々あつたことですが、僕はあなたとの會話の中に、これ迄いつも、有益な慰安を見つけました。僕は、僕の三番目の一等年下の妹として、心安こゝろやすく自然にあなたを受け入れることが出來ると思ひますよ。」
「有難う。それで今夜は安心しましたわ。さあもうお歸りになつた方がようございますわ。だつて、もう暫くおゐでになれば、また何か疑ひ深い遠慮で、新らしく、私をいら/\おさせにならないとも限らないのですもの。」
「ぢや、學校の方はどうします? もう閉鎖へいさした方がよくはないですか?」
「いゝえ。私、あなたの代りの方がいらつしやるまでは仕事を續けませう。」
 彼は微笑ほゝゑんで合點うなづいた。私たちは手を握り合つて別れた。
 その後、私が願つた通りに遺産を處理することに、私がどれほど爭ひを續け議論を繰り返したかをくはしく語る必要はない。私の仕事は非常に困難なものであつた。しかし私は堅く決心してゐたので――私の從兄姉いとこたちはとう/\、私がたゞ財産を分けるといふことのみに、眞實變ることなく心をめたのを合點がてんしたので――また彼等自身の心にも、その計畫の公平を感じさせられたばかりでなく、若し私の位置にあれば、彼等も明らかに私が望んだ通りのことをするに違ひないと、自然に氣附いたので――彼等も遂に、事を仲裁々判の手にゆだねようといふ所まで讓歩した。裁判官に選ばれたのはオリヴァ氏と或る才幹ある法律家で、二人共に私の意見に同意し、私は目的を達したのである。讓渡ゆづりわたしの證書が作られて、セント・ジョン、ダイアナ、メァリー、私の四人は各自めい/\相當の資産を所有することになつた。

三十四


 すべてのことがすつかり片附いたときには、クリスマスも近づいてゐた。みんなのお休みの季節が近づいてゐた。私は愈々モオトンの學校を閉鎖した、その別れが私には、普通たゞではないだらうと、注意しながら。幸運は、その手を心と同じやうに不思議なほどに開くものだ。そして私たちが、それを澤山けた時に、その幾分を人に與へることは、感情に、異常な沸騰ふつたうのはけ口を與へることである。私は、長い間、私の田舍の教へ子達が、私を好きなのを感じて嬉しく思つてゐた。そして、別れを告げるときになつて、私の考へは裏付けられた。彼等は、愛情を、かざなく、強く表はしてくれた。彼等の純な心の一隅を、私が本當に占めてゐたのを知つたとき、私は心から感謝した。私は彼等の顏を見ない週はこれから先、決して無いやうにしよう、そして學校で一時間だけ授業をして上げようと約束した。
 リヴァズ氏が來た――そのとき私は、今は六十人の娘達からなつてゐるクラスが私の前を出て行くのを見送つて、ドアぢやうを下ろし、手に鍵を持つた儘立つて、私の一番いゝ生徒達の中の六人程に特別の別れの言葉をかはしてゐた。それは英國の農村階級に見られる、行儀ぎやうぎのよい、ひんのある、謙遜な、よく物を識つてゐる娘達であつた。それは隨分めたことになるのだ、何故なら、英國の農民は、結局、歐羅巴ヨーロッパのどこの農民よりも最も教育があり、最も禮儀正しく、最も自尊心に富んでゐるからだ。その後私は佛蘭西の農民も見たが、彼等の最も優れたものでさへも、モオトンの娘達に較べると、無智で下品げひん野呂間のろまだと思はれた。
「どうです、骨折甲斐ほねをりがひがあつたと云ふ氣はしませんか。」彼等が行つて了ふと、リヴァズ氏は問ひかけた。「自分の若い時代に、何でも眞實に善いことをしたといふ意識を持つのは愉快でせう?」
「無論ですわ。」
「それにあなたは、たつた二三ヶ月働いたばかりだ! 第二の國民を作り上げる仕事に捧げる生活は、生甲斐いきがひのあるものぢやないか知ら。」
「えゝ。」と私は云つた。「ですけれど、私はいつまでもさうしてはをられませんわ。他人の才能をみがいて上げると同じやうに、私自身の才能も使つてみたいんですもの。今こそ、それらを、樂しまねばなりません。私の心も身體も、どちらも學校をお呼び戻しになつては嫌や。學校のことはもう澤山、私はお休みのことを考へてゐるんです。」
 彼は眞面目まじめな顏をした。「今こそつて何です? 一體何にさう急に熱心になり出したんです? 何をしようと云ふんです?」
「働きますの、出來るだけ。それで第一にお願ひしなければなりませんわ、ハナァに暫くおひまを遣つて戴きたいんです。そして、あなたは、誰か他の人をおやとひになつて下さいな。」
彼女あれに用があるのですか?」
「えゝ、私と一緒に、ムア・ハウスへ行つて貰ひませうと思つて。ダイアナとメァリーはもう一週間すれば歸つて來ます。ですから、あの人達をお迎へするのにいろ/\なことをすつかりして置きたいんです。」
「あ、さうですか。僕はまたあなたが何處か旅行に飛び出すのかと思つた。それは結構です。ハナァはあなたの所へ上げませう。」
「では、明日あすまでに支度をするやうに、ハナァに仰しやつて下さいまし。それからこれが教室のかぎ。私の家のは朝、お渡しいたしませう。」
 彼は鍵を受け取つた。「大喜びで返しますね。何故さう浮々うき/\してゐるのだか僕にはよく分らない。何故つて今罷めようといふ仕事の代りに、一體何をあなたが目論もくろんでゐるのか僕には見當が附かないからなあ、一體今あなたが持つてゐるのはどんな目的なんです、どんな望みなんです、どんな野心やしんなんです?」
「私の目的は先づ第一に綺麗にして了ふことでせうね、(その言葉の意味が完全にお分りになつて?)ムア・ハウスの床から天井まで、すつかりお掃除をすること。その次には蜜蝋みつらふと油と布を澤山使つて前のやうに光る迄みがくこと。三番目には椅子も卓子テエブル寢床ベッドも敷物も、數學的正確さで並べて了ふこと。それから、どの部屋にも、あなたが破産なさる位石炭をいて暖かにするつもりなんです。そしてお終ひにあなたのお妹さん達のいらつしやる前の二日は、ハナァと一緒に卵をかき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したり、乾葡萄をゑらんだり、藥味やくみを磨つたり、クリスマスケイクを捏ねたり、ミンスパイの材料をきざんだり、それからあなたのやうな素人しらうとの方には申上げたつてもおわかりにならないやうな、いろ/\なお臺所の儀式を執行するんですの。つまり一口に云へば私の望みは、今度の木曜日までにダイアナとメァリーをお迎へする支度を申分なく完全に仕上げたいといふことで、私の野心は、あの人達にお着きになつたときに、理想的、極致きよくちの歡迎をして上げることなのです。
 セント・ジョンは一寸笑ひを浮べた。彼はまだ滿足してゐなかつた。彼は云つた。
「今の所はそれで大變に結構です。しかし眞面目にですよ、最初の火花ひばなのやうな浮々した氣持が消えて了へば、あなたは家庭的な仕事だの世帶染しよたいじみた喜びなんぞより、少し高いところに眼をつける人だらうと僕は信じるのだが。」
「だつて、それが世の中で一等いゝことですわ!」遮つて私は云つた。
「いや、さうぢやない、ジエィン。この世は達成の世界ではないのです。そんな風に考へを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)めぐらすのはよくない。また休息の世界でもない。なまけ者になつてはいけませんよ。」
「それ處か、私は忙しくならうと云ふんですわ。」
「ジエィン、僕は、今は、あなたを許してあげる。僕は、あなたが新しい地位を樂しみ、今頃になつてやつと見出されたこの親類關係の喜ばしさを味はふ爲めに、二ヶ月間の猶豫を許して上げる。が、しかし、それが過ぎたらあなたはムア・ハウスやモオトンから、また姉妹らしい交際つきあひや、自分中心の平安、文化的な富の齎らす感覺的な快味くわいみ以外に眼をつけ始めて欲しいと思ふのです。僕はあなたの元氣があり餘つて、もう一度あなたを落着かせなくしてくれゝばいゝと思ふのです。」
 私は驚いて彼の顏を見た。「セント・ジョン。」と私は云つた。「私、あなたが意地惡いぢわるくさう仰しやるとしか思へませんわ。私は女王のやうに滿足してゐたいのに、あなたは無理に私をおじらしになるんですもの。一體どうなさらうと仰しやるの?」
「神があなたにまかし給うた才能、それは何時かはきつとその嚴正な決算を要求し給ふに違ひない才能、それを有益なものに向け變へようと云ふのです。ジエィン、僕はあなたを細密に、嚴重に見張らうと思ふ――そのことを忠告して置きますよ。だからあなたが平凡な家庭的な喜びに夢中になつてゐる、その不釣合ふつりあひな熱情を努めて抑へるやうになさい。さう粘りつよく、血縁にかゝはつてゐてはいけません。あなたの不撓ふぎやうの心と熱情を、適當な理由の爲めにとつて置くことにして、ありふれた果敢ないことに無駄遣ひするのをお止めなさい。ジエィン、聽いてゐますか?」
「えゝ、さつぱりまるで希臘語をお話しになつてゞもゐらつしやるやうにね。私は幸福になる爲めに相當な理由を持つてゐますわ。そして、幸福になる積りですわ。さやうなら!」
 ムア・ハウスでは私は幸福だつた。そして私は、一生懸命に働いた。ハナァも働いた、私が滅茶苦茶に散らかされた家の中を、喜ばしさうに駈け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、ちりを拂つたり、ブラッシュをかけたり、掃除したり、料理したりして、樂しげに働くのを見て、ハナァは魅せられて了つた。そして實際、途徹とてつもなく忙しい一日二日の後に、私達が自分でかもした混沌こんとんの中から段々と秩序を見附け出して來るのは樂しいことであつた。室の模樣變へを私の好きなやうにするのに、從兄いとこは私に絶對の自由カルト・ブランシュを與へ、そして別にとつてあつたその爲めのお金を呉れたので、私は新しい家具をいくらか求める爲めにその數日前S町に行つて來た。平常へいぜいの居間と寢室は大抵その儘に手をつけないで置いた。それはダイアナも、メァリーも、小綺麗に飾り換へられた室を見るよりも昔の儘のなつかしい卓子テエブルや椅子や寢臺を眺めた方が、どんなにか嬉しいに違ひないと思つたからである。それでも歸つて來る彼女等をすつかり面喰めんくらはせてやる爲めには、なほ幾分の新奇さが必要であつた。
 暗い色の綺麗な新しい敷物と窓掛、心して選んだ陶器と青銅の古風な置物、眞新まあたらしい被覆、鏡、化粧臺用の化粧箱ドレッシングケース、などが、その目的に適つた。かうしたものは皆けば/\しくはなく、清新だつた。豫備の客間と寢室は古風な桃花心木マホガニイ臙膩色えんじいろの家具類で、すつかりその目的にかなつた。廊下には粗織布キヤン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)を、階段には敷物を敷いた。總てが終ると、ムア・ハウスは、家の外が、この季節に、冬の荒廢とすさんだ陰氣さの見本であると同じく、家の内は、明るいつゝましい快さの完全な典型であると、私は思つた。
 とう/\多事な木曜日はやつて來た。彼女達の着くのは暗くなる頃の筈だつた。そしてもう、暮れない内から二階にも階下にも明々あか/\ともされた。臺所は手落なく綺麗に整頓された。ハナァも私も着物を着換へた、用意はまつたく出來上つてゐた。
 セント・ジョンが第一にやつて來た。私はすつかりそなふまで中に這入らないで下さいと願つた。また實際家の中の汚いごた/\した隱しやうもない混亂した有樣を考へることは、彼を辟易へきえきさせて家から遠ざけるに十分であつた。彼はちやうど私が臺所でお茶のお菓子の出來工合を見て、これから燒かうとしてゐる所へやつて來た。かまどに近寄り乍ら彼は「私が女中の仕事にやつと滿足したかどうか?」と訊いた。私は彼と一緒に私の勞働の結果を見て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りませうと返事をした。どうにか私は家中を彼に一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りさせた。彼は私の開けたドアからちよいと眺めるきりだつた。彼は階段を上つたり下りたりして歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたときに、こんな短い時間にこれ程の大袈裟おほげさな模樣變へを仕了るのは一通りの疲れや辛さではなかつたらうと云つた。しかし彼は住居を住みよくした喜びを表はすやうな言葉は一言だつて云はなかつた。
 この沈默は私をがつかりさせた。私は模樣變へをしたことが、何か彼の大事に思つてゐた古い思ひ出をこはして了つたのか知らと考へたので、さうぢやなかつたかと訊ねてみた。確かに些か悄氣しよげた調子で。
「いや、つとも。」彼は反對に私が思ひ出を悉く尊重して呉れたと云つた。だが本當に彼は私がさほど氣にするにも當らぬことを氣にするのをおそれてゐた。たとへば、この室の飾付を考へるのに私は何分かゝつたか?――だがそれは兎に角、私には、これ/\の本が何處にあるか分るだらうかと彼は云ふのであつた。
 私は本棚の上の書物を彼に見せた。彼はそれを取り上げて、いつも坐り慣れた窓の張出しへ腰掛けて讀み出した。
 扨て讀者よ、私はかうしたことが嫌でならなかつた。セント・ジョンは善良な人ではあつた。けれども私は彼が自分は氣難かしやで冷たいと云つたときに、彼自身に就いて眞實のことを云つたのだとしか思はれなくなつて來た。人情と人の世の歡樂は、彼の心を少しも惹かない――人世のおだやかな慰樂も何の魅力もないのである。文字通りにきつと彼は唯渇仰する爲めにのみしか生活してゐないのであつた――確かに、有徳うとくで偉大であつたものゝ後を追つて。而も彼は少しも休まうとはせず、また彼の周圍の人々にも休むことを許さないのだ。白い石のやうに靜かで蒼白い、彼の高いひたひを、研究に夢中になつてゐるとゝのつた容貌を、眺めると、忽ち彼は、良き夫となることは先づ出來まい、彼の妻になるのは難かしいことだと私はすぐに考へた。私は彼のオリヴァ孃に對する愛の眞相を靈感によるかのやうに諒解した。彼の云つた通りそれは、唯感覺の愛に過ぎないといふ彼の考へに、私は賛成する。彼の上に働きかける熱病のやうな力の爲めに、彼自身をどんなにか彼はさげすむべきであつたか、それを抑止して滅ぼして了はうと、どんなにか彼は望むべきであつたか、その愛が自分及び彼女の幸福に永久に貢獻するなどゝいふことを疑ふべきであつたか、を私は理解した。私は彼のことを自然がその英雄達――基督教徒キリストけうとと異教徒の――その立法者、その政治家、その征服者達を創造つくり出した材料で出來てゐる人だと考へた。巨大な利害を擔ふべき頑丈なとりで。だが、家庭生活には場違ひな陰鬱な、つめたい厄介やつかいな大柱になり勝ちの人なのだ。
「この居間は彼が顏を出す場所ぢやない。」と私は思ひ返した。「ヒマラヤの頂か、カフアの叢林地、ペストにのろはれたギニの海岸の沼地の方が、彼にはもつとよく似合にあひさうだ。家庭生活の靜穩さなどは早く見捨てることだ。家庭生活は彼の要素ではない。彼の才能は家庭では縮かんで了ふ――發展もしなければ利益を得ることもないだらう。先驅者として優者として、彼が語り、彼が活動するのは、爭鬪と危險の舞臺の上だ。――其處では勇氣が證される。精力が振はれる、そして不屈ふくつの精神がきたへられる。この煖爐だんろの側では、元氣な子供が彼にまさるのだ。彼が宣教師の途を選んだのは正しいことなのだ――私は今それがわかります。」
「皆さんがお着きになりましたよ! お着きになりましたよ!」ハナァは居間のドアを突き開けて、かう叫んだ。と同時に、老カルロが喜ばしさうにえはじめた。私は駈け出した。もう日は暮れてゐて、車輪の音が聞えた。ハナァは直ぐに提灯ちやうちんに火をけた。馬車は小門の前で留つた。馭者がドアを開けた。見覺えのある姿が先づ一人、つゞいてもう一人中から下りた。瞬間に私の顏は帽子の下のメァリーの柔らかい頬に、それからダイアナの波打つ捲毛に押しつけられてゐた。彼女等は笑つた――私に、次にハナァに接吻した。喜びで半分狂氣きちがひのやうになつたカルロを撫でゝ、二人は熱心に、萬事すべて、變りがないかをたづねた。それから、それが確かめられると、家の中に駈け込んで行つた。
 二人はウ※[#小書き片仮名ヰ、437-上-8]トクロスからの動搖れ通しの長い馬車に、筋ばつてゐた、寒い夜氣やきに冷えきつてゐた。しかし二人の樂しげな面差は、明るい火に照らされて、輝かしさを増した。馭者とハナァが荷物を運び入れてゐるとき、二人はセント・ジョンを訊ねた。このときジョンが居間からやつて來た。直ぐに二人はジョンの首に飛びついた。彼は二人に各自めい/\靜かな接吻を與へて、迎への言葉を數語かたつた。そして暫く立つてゐて話しかけられてゐたが、やがてみんな間もなく來るんだらうから僕は居間で待つてゐる、と云ひ捨てゝ隱家かくれがへ這入るやうに居間に引込んで了つた。
 私は二階へ上らうと燭臺しよくだいへ灯をつけたが、ダイアナは先づ馭者にお禮をやるやうにと親切に云ひつけて、それが濟むと二人は私に從いて來た。彼女等は自分達の部屋がすつかり模樣が變り、新しい窓掛、おろし立ての敷物、手の込んだ彩色さいしきをほどこした瀬戸物の花瓶などで飾られてあるのを見て心から感謝の情を表はした。そして私の飾附けがぴつたりと彼等の希望にかなつたのを感じて、また私のしたことが、二人の樂しい歸省に一際ひときは活々とした魅力を加へたことを感じて、私は樂しかつた。
 その夜は樂しかつた。私の從姉いとこ達は嬉しさで一ぱいになつて、セント・ジョンの無口を壓倒する程、雄辯に話したり論じたりした。彼は、妹達に會つて心から嬉しかつたが、二人がはしやいで騷ぎまはるのは氣に入らなかつた。その日の出來事――即ち、ダイアナやメァリーの歸省――は彼を喜ばした。しかしその出來事と一緒に來た、喜ばしい大騷ぎや歡迎の有頂天なお喋べりは彼を煩さがらせた。彼はもつと落着いた影の訪れるのを願つてゐるのが私には分つた。お茶が濟んで一時間程後、その夜の樂しさのたけなはな頃、ドアを叩く音がした。間もなくハナァが來てこんな遲い時刻に、「みすぼらしい若い男が參りまして、リヴァズさんに、息を引きとらうとしてゐる自分の母親に、會ひに來て貰ひ度いと云つてゐます。」と、云つた。
「ハナァ、何處の家なんだい?」
「それが殆んど四マイルも向うの、ウ※[#小書き片仮名ヰ、437-下-20]トクロス・ブラウのずつと上なんでございますよ。そして、ずつと沼地や荒地だらけの道です。」
「行くからと云つてくれ。」
「まあ旦那樣、お止しになつた方がようございますよ。こんなに眞暗まつくらになつてから行ける道ぢやございません、沼地ぬまちには道も何もないんでございますからね。それにこんなお寒い晩に――旦那樣も今迄御存じない位の甚い風でございますよ。明朝行くと云つてお遣りになつた方が宜しいです。」
 けれども、彼は、もう外套をつけて廊下へ出てゐた。そして一言ひとことの云ひ返しも呟きもせず、出掛けて行つた。そのときは九時であつたが、彼が歸つて來たのはもう眞夜中まよなかだつた。彼はすつかりお腹をらして、疲れ切つてゐた。だが出掛けて行つたときよりも幸福さうに見えた。彼は義務を遂行すゐかうし、骨を折り、行爲をなし、また拒否する自分の力をためした。それで自分自身に滿足を感じてゐたのである。
 私は、次のまる一週間が、彼を我慢し切れなくしはしまいかと心配した。それはクリスマスの週間であつた。私達は別に何の仕事も計畫せず、樂しい家庭の團欒だんらんにその週を送つた。荒野の空氣と、家庭の自由さと、幸運の黎明とは、ダイアナとメァリーの魂に、ある不思議な生命を與へる靈藥を投じたやうであつた。二人は朝から晝まで、晝から夜まで、快活だつた。何時でも喋べつてゐた。そして議論は機智と才能と獨創に富んでゐて私を魅了して了つたので、私は他のことは何もしないで二人の話を聞いたり、その中にまじつたり許りしてゐた。セント・ジョンは私達の快活さを叱りはしなかつたが、何時も逃げ出してゐた。彼はたまにしか家にゐなかつた。彼の受持の教區は廣かつた。住民達はばら/\に住んでゐた。そして彼は毎日々々違つた方面を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つては、病人や氣の毒な人達を訪ねて、仕事をしてゐた。
 或朝、朝飯のとき、ダイアナは暫く考へ込んでゐたが、ジョンに「あの計畫はまだ變らないか?」をたづねた。
「變つてゐない、また變へることも出來ない。」これが返事だつた。そして、その上彼は來年英國からつことは確定してゐるとげた。
「ぢや、ロザマンド・オリヴァは?」とメァリーがほのめかした。この言葉は我にもあらずメァリーの唇からすべり出たらしかつた。何故なら、メァリーはかう云ふや否や口にした言葉を呼び返さうとするやうな身振りをしたから。セント・ジョンは本を手にしてゐた――食事のときに本を讀むのは彼の非社交的な癖であつた――彼は本を閉ぢて顏を上げた。
「ロザマンド・オリヴァは、」彼は云つた。「グランビィ氏と結婚しようとしてゐる。S町に住んでゐる、良い親戚のある立派な人だ。フレデリック・グランビィ從男爵の孫でその世襲あととりだ。この話は昨日ロザマンドのお父さんから聞いたんだ。」
 彼の妹達はお互に顏を見合せた。そして私の顏も見た。私達三人は、彼の顏に見入つた。彼は鏡のやうに、落着いてゐた。
「そのお話は隨分急におきまりになつたのね。あの方達は知り合つてから未ださう長くはない筈だわ。」とダイアナが云つた。
「だが二ヶ月になるよ。十月にS町の舞踏會で會つたのだから。しかしこの話には邪魔になるものは何にもないんだし、どの點から云つても、この縁談は相應ふさはしいのだから、長引ながびかす必要は少しもないぢやないか。二人はフレデリック從男爵に貰つたS町の家が、新夫婦を迎へる爲めに修繕され次第、式を擧げるだらう。」
 この話があつてから、私はジョンが獨りでゐるのを見た時、この事件が彼を惱ましてはゐないのかとたづねてみたい氣になつた。けれども彼はそんなことに少しも同情などは要らないと云つた風に見えた。それで私は何時かの自分の行爲を思ひ出して、同情を彼に寄せようとしたのをはづかしいとさへ思つた。その上私は彼に言葉をかけ慣れてゐなかつた。彼の寡言むくちはまたひどくなつて、私の打解けた心もその下にこほりついて了つた。彼は私を妹達と同じやうに思ふといふ約束を守つてくれなかつた。それから私達の間に、小さい冷たいへだてを始終つけてゐた。それは、私達の親しみを少しも發展せしめなかつた。簡單に云へば、親類と認められ、彼と一つ屋根の下に住んでゐ乍ら、私は彼が私を一人の村の學校の女教師として知つてゐたときより以上のへだたりを彼との間に感じた。嘗ては彼の打明け話を幾度か聞かして貰つたことを思ひ出すと、彼の現在の冷たさが、私には殆んどわからなかつた。
 かうした場合であつたが、突然彼がりかゝつてゐた机から顏を上げて、かう云ふのを聞いて、私は少なからず驚かされた。
「ねえ、ジエィン、戰は鬪はれた、そして勝利は贏ち得られたのですね。」
 かう云はれて驚いた私は直ぐには返事が出來なかつた。暫く躊躇ためらつてから私は答へた――
「けれど、きつと、さうなんですの? 勝ちはしたものゝ、その勝利に餘りにひどい犧牲を拂はなくてはならなかつた征服者でゐらつしやるんぢやないでせうね。このやうな勝利が、再びあれば、あなたは、身を滅ぼされてお了ひになりませんか。」
「さうぢやないやうです。又さうだつたとしても大した事ぢやない。僕は決してそんなものを相手にはしません。兎に角爭鬪の結果は決定的なものです。今こそ僕の執るべき道が明らかになつた。僕はそれを神に感謝してゐるのです。」
 かう云ふと、彼はまた本を讀み始めて、沈默に歸つた。
 私たちお互の樂しみ(ダイアナとメァリーと私との)が落着いた靜かなものになり、私達が平生へいぜい通りの生活と規律正しい勉強に立返つたので、セント・ジョンも家にもつと落着くやうになつた。時には幾時間も私達と同じ部屋にゐることさへあつた。メァリーが繪を描き、ダイアナが計畫通り(これは私を威嚇ゐくわくおどろかした)百科全書讀破を實行し、私が獨逸語に沒頭してゐる間、彼は彼自身の神祕的な研究、即ち彼の計畫にその修得しうとくが必要だと考へた、或る東洋の言葉の研究に耽つてゐた。
 彼は、自分の坐りなれてゐる窓の凹みで、かうして勉強しながら、如何にも落着いて熱心に見えたが、彼の碧い眼はその東洋語の奇異きいな文法からともすれば離れて、茫然とあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し、時々はお仲間の私達の上を氣味が惡い程凝視してゐることが多かつた。見咎みとがめられると直ぐに外すが、間もなくまた私達の卓子テエブルへヂロ/\と戻つて來た。何の意味だらうと私はいぶかつた。それからまた、毎週の私のモオトン學校行き――それは私には何でもない事としか思はれないのに、その都度彼が必らず滿足した樣子をあり/\と見せるのも變だつた。まだある。ときに何か都合が惡かつたり、雪や雨が降つたりひどい風が吹いたりして、彼の妹達が私を出すまいとすると、きつと彼は、妹達の心配を打消して、風雨に頓着せず仕事を果すやうにと私をはげまして呉れるのであつた。そんなときには私は一層譯が分らなかつた。
「ジエィンは、お前達が考へてゐるやうな弱蟲よわむしぢやない。」と彼はよく云つた。「嵐だの雨だの、ちつとばかしの雪なんぞ、僕等と同じやうに堪へ得るよ。ジエィンの身體は丈夫だし耐久力たいきうりよくもある――氣候の變化を耐へることでは、もつと頑丈な身體の人間よりも、よく出來てゐるのだ。」
 だから私が折々ぐつたり疲れて歸つたり、少からず雨風あめかぜに惱まされて歸つたときでも、不平の云ひやうもなかつた。ぶつ/\云つたりすれば、彼を怒らすことが分つてゐたから。どんな場合でも困難に耐へることは彼を喜ばした。その反對は特に迷惑がられた。
 けれども或日の午後、私は本當に風邪かぜを引いてゐたので家に籠つてゐた。彼の妹達は私の代りにモオトンへ行つてゐた。私は坐つてシルレルを讀み、彼は例の晦澁な東洋の卷物を判讀してゐた。譯讀を止して練習課題に變へた時、私は不圖ふと彼の方を見た。と、私は、いつも凝視みつめてゐるあの碧い眼に、私が押へられてゐるのに氣が附いた。それがどんなに長い間、繰り返し/\私を凝視みつめ盡してゐたのだか、私には分らない。それは鋭かつたが、而もまつたく冷やかな眼であつたから。私は暫くは何か知ら薄氣味惡いものと一緒に、部屋の中にゐるやうな迷信的な氣に襲はれた。
「ジエィン、何をしてるんです?」
「獨逸語の勉強。」
「獨逸語なんて止めてヒンドスタンをやるといゝ。」
眞面目まじめで仰しやるんぢやないんでせう?」
「いや本當に眞面目に。是非さうして貰ひたいのです。そして私は何故だか申しませう。」
 そこで彼は、彼自身今ヒンドスタンを勉強してゐるが、先へ進むに從つて、前の方を忘れ勝だ。で、要點を繰り返し/\教へて、それを完全に暗記して了ふ爲めに、生徒があれば本當に助かる、彼は私にしようか妹達にしようかとこれ迄考へた。けれども三人の内で私が一番この勉強に長く堪へるだらうと思つたから私にめたのだ、と説明をつゞけた。彼の云ふ通りになつて上げようかしら? 彼が出發する迄には、多分三月位しかないのだから、犧牲を拂ふのも長いことはあるまいと私は思つた。
 セント・ジョンは、簡單に拒絶されるやうな人ではなかつた。彼にいんせられた印象は、すべて、苦痛にせよ歡喜にせよ、深くきざまれて永久的なものであつた。私は承諾した。ダイアナとメァリーが歸つて來ると、ダイアナは自分の生徒が兄の生徒になつて了つたと知つて噴飯ふきだした。そしてメァリーも一緒になつて、ジョンは二人を口説くどいて、こんなことに二人共同意させるやうなことは、決してしなかつたらうと云つた。彼は答へた、もの靜かに――
「知つてるよ。」
 彼は實に辛抱強い、寛大な、それでゐて骨身を惜しまぬ教師だつた。彼は私に非常に多くをなすやうに期待した。そして私が彼の豫期をみたすと、彼は彼で自分の達眼たつがんを誇つてゐた。次第々々に彼は私に深い力を及ぼすやうになり、私の心の自由迄も奪つて了つた。彼の賞讃と注意とは彼の無關心以上に私を牽制けんせいした。私はもう彼が傍にゐると自由に笑つたり喋べつたりすることが出來なくなつた。煩く執拗しつこい本能が、快活さ(少くとも私の)は、彼にとつて嫌なものだといふことを、私に教へたから。私は唯重々しい樣子と仕事に專念することのみが受け入れられ、その他のものを固持したりねらつたりする努力は、彼の前では悉く無駄むだだといふことを知り拔いてゐた。私はこほりつくやうな咒文に縛られてゐた。「お行き」と彼に云はれゝば私は出掛けた。「いらつしやい。」と云はれゝば行つた。「これをなさい。」と云はれゝばそれをした。けれども私は自分の屈從がいとはしかつた。幾度となく私は、彼が、私を構はなくなつて欲しいと願ふのであつた。
 或る夜のこと、もう寢る時間であつた。彼の妹達と私とは彼を取卷いてお休みの挨拶をした。彼はいつもの通り妹達に接吻して、それから矢張りいつもの通りに私に握手を與へた。すると、ちやうど、はしやぎ機嫌でゐたダイアナが(彼女はジョンの意志には容易に支配されなかつた、何故なら彼女の意志もまたをとらず強かつたから)叫んだ――
「セント・ジョン! あなたいつもジエィンを三番目の妹だと云つてゐらつしやるぢやない、それにちつともそんな風にはして上げないのね。ジエィンにも接吻して上げなくちや駄目だわ。」
 ダイアナは私をジョンの方へ押しやつた。私はダイアナを隨分煽動的せんどうてきだと思つた。そして不愉快に周章あわてて了つた。かう思つたり感じたりしてゐる間に、セント・ジョンは、首を俯向うつむけた。彼の希臘式の顏が、私のと同じ高さに來た。彼の眼は私の眼に鋭く問ひかけてゐた――彼は私に接吻した。世に大理石のやうな接吻や、氷のやうな接吻なんてものはない。もしあるとすれば、宣教師である私の從兄いとこの挨拶はさうした種類のものだつたと云ふべきだ、しかし世にはまた試みの接吻もあるかも知れない。さすれば、彼のは試みの接吻であつた。接吻を與へると彼はその效果を知らうとして私を凝視みつめた。それは印象的ではなかつた。私は確かにあかくもならなかつた。多分少しは蒼くなつたかも知れない。何故ならこの接吻は、私の足枷あしかせされた封印のやうに思はれたから。その後も、彼はこの儀禮を略さなかつた。そしてそれを受けるときの私の莊重な平靜な態度は、彼に何か知ら一種の快樂を與へたかのやうに見えた。
 私としては、もつとよく彼を喜ばしたいと毎日思ふのであつたが、さうすれば私は自分の性質を半分失はねばならないと毎日層一層と感じて來た。私の才能の半ばをおさへつけ、私の趣味を元來の傾向からたわめ、私が生れつき何の興味も持てない仕事に私を強ひて導き入れねばならないやうな氣がした。彼は私が到底行けさうもない高い所へ私を訓練しようとした。彼が押上げようとする標準にまで上げるのには、絶えず苦しい思ひをしなければならなかつた。それは私の變則な眼鼻立めはなだちを、彼の端正な古典型な型にめようとする程に、また私の變化に富む緑色の眼に、彼の眼の海のやうな藍色と莊重な光を與へようとすると同樣、不可能なことであつた。
 けれども、そのとき私を束縛してゐたものは、唯彼の優勢ばかりではなかつた。その頃、私がうれはしげな顏をすることは譯もないことであつたのだ。心に喰ひ入る病が、私の心に巣食つてゐて、私の幸福を源までらして了ふのであつた――あの不安といふ病氣が。
 讀者は、場面や身分の變化の爲めに私が、ロチスター氏を忘れてゐたとお思ひになるかも知れない。が讀者よ、私は瞬時も忘れてはゐなかつた。彼の考は今も私と共にあつた。何故なら、それは太陽が蒸發じやうはつさせて了へる水蒸氣でも、風が持つて行つて了へる砂で描かれた人像ひとがたでもなかつた。それは名前のこくされた大理石の存する限り、永存すべき運命を持つ、石碑せきひられた名前であつた。
 彼がどうしてゐるのかを知りたい、切な願ひは何處へでも私に附き※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、443-上-14]つた。モオトンにゐたときは、毎夕そのことを考へながら小さな家に歸るのだつた。今度ムア・ハウスへ來てからは毎晩私の寢室でそのことを思ひ耽つた。
 遺言に關するブリッグス氏との必要な文信の中で、ロチスター氏の現住所か近況に就て何か御存知ではないかと訊ねてみたが、セント・ジョンの推察の通りブリッグス氏は彼のことは何も知らなかつた。それから私はフェアファックス夫人へ手紙を送つて、その問題ことに關する知らせを戴けるかと願つてやつた。私はこの處置がきつと私の目的を達してくれると思つてゐた。私の手紙には、早速返事があるに違ひないと思つてゐた。ところが二週間つても何の音信おんしんもないので私は驚いた。けれども二ヶ月も經ち、毎日々々郵便がとゞいても、私には何も來ないのを見ると、痛いやうな不安に襲はれた。
 私はまた手紙を書いた。初めに出した手紙は途中で無くなつたかも知れないから。再度さいどの努力に新しくされた希望が續いた。最初のときと同じやうに、數週間はその希望は輝いてゐた。けれども同じやうに光薄ひかりうす色褪いろあせて行つた。一行も一言も私には屆かなかつた。若しやといふ果敢はかない期待がむなしく持ち續けられて半年も經つと、本當に世の中が眞暗になつて了つたやうな氣がするのであつた。
 美しい春が私の周圍に輝いたが、私はそれを樂しむことは出來なかつた。夏が近づいた。ダイアナは私を元氣づけようとした。私は何處か惡いやうに見える、一緒に海岸へ行かないかと云つてくれるのであつた。これにセント・ジョンは反對した。彼は私が娯樂ごらくを欲しがつてはゐない、仕事を望んでゐるのだ、私の現在の生活には餘りにり所がないので、何か一つの目的を求めてゐるのだと云ふのだつた。で、私はかうして彼は自分の缺點をおぎなひながら、なほ私にはヒンドスタンの勉強を續けさせて、もつと一途にやらせようと云ふのだなと思つた。それでゐて私は馬鹿のやうに決して彼にさからはうとも考へなかつた――私にはさからふことが出來なかつたのだ。
 或日、私は、平素いつもより元氣なく私の勉強に取かゝつた。氣力の沮喪そさうが、鋭く感ぜられた失望によつて、たま/\起つたのだつた。その朝、ハナァが私に手紙が來てると知らせて呉れたので、私はきつと長い間望んでゐた知らせが、やうやく私におとづれて來たのだとばかり思つて、それを取りに行つてみると、何でもないブリッグス氏からの事務に關した手紙であつた。このひど當外あてはづれは、私を泣かせて了つた。そして今も机に向つて、印度の書物かきものの難解な文字と複雜な語法をじつと考へつめてゐる内に、私の眼は再び一ぱいになつた。
 セント・ジョンが、こつちに來てお讀みと聲をかけた。私は讀まうとしたけれど、どうしても聲が出なかつた。言葉が嗚咽をえつの中に消えて了つた。居間には、ちやうど、彼と私と二人しかゐなかつた、ダイアナは客間で音樂の練習をし、メァリーは庭をいぢつてゐた――よく晴れた澄んだ雲のない微風の渡る五月の日であつた。私の相手は私の容子ようすに少しの驚きも表はさず、どうしたのかと、原因についてたゞさうともしなかつた。たゞ云つた――
「ジエィン、あなたが落着くまで少し待ちませう。」そして私が急いで啜泣すゝりなきを止めようと努めてゐる間、彼は机にりかゝつて、ちやうど患者の病氣を豫期した、よく分り切つた危機を科學者として見守る醫師のやうに、私を眺めながら、靜かに辛抱強く坐つてゐた。啜泣すゝりなきを止め、涙を拭つて、その朝非常に氣分が惡かつたと云ふやうなことを呟きながら、私は仕事に取り掛つて、終りまでやり遂げた。セント・ジョンは、私の本も彼のもしまつて机に鍵をかけた、そして云つた――
「さあ、ジエィン、散歩にお出掛けなさい。僕と一緒に。」
「では、ダイアナとメァリーを呼びませう。」
「いや、今朝は一人しかつれが欲しくない、それもあなたに限ります。支度して下さい。臺所の口から出るんです。そしてマアシュ・グレンの頂上の方へ行くのです。僕も直ぐ後から行きます。」
 私は中庸ちゆうようといふことを知らない。私は生れてから、自分の性質と反對の、積極的な強い性格の人々との交際つきあひでは、絶對的な服從と決定的な反抗との間に、どんな中庸をも知らなかつた。私は何時でも忠實に前者に從つた、時として火山のやうな激烈さで後者に飛び込んで了ふ最後のきはみまでは。で、そのときの事情は正しいとはされ難かつたが、またそのときの私の氣持では、反抗もよくしなかつたので、私はセント・ジョンの命令を注意深く果した。そして十分後には私はその谿たにの道を彼と並んで踏んでゐた。
 微風が西から吹いてゐた。風はヒイスと燈心草とうしんさうの香で氣持よく丘を越えて吹いて來た。空は曇りなく青かつた。先頃の春雨はるさめに、水量を増して山峽を下る小川は、澄明な水を漲らして、太陽の金の輝きと大空の青緑サフアイアの色をうつし乍ら流れてゐた。私達は小路から外れて柔かい芝生の上を踏んだ。苔のやうな美しい濃緑色の芝生は小さな白い花で細かく飾られ、星のやうな黄色い花で點々とちりばめられてゐた。それに幾つもの丘がすつかり私達を取り圍んでゐた。谿たには山頂に近くなつて、丘の眞中の方へずつと迂曲してゐたから。
「此處で休みませう。」一群の兵士のやうな岩の中の一つ孤立こりつしてゐる岩の側まで來た時に、セント・ジョンが云つた。その岩々は山峽の小徑をまもるやうに見え、小徑を越えて小河が一筋の瀧となつて落ちてゐた。そこはほんの少し離れた所であつたが、山は芝生も花も脱ぎ捨てゝ、唯ヒイスを※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、445-上-19]ひ岩の飾りをつけてゐるきりであつた――其處では野趣は野蠻に變じ、新鮮さを澁面じふめんに化してゐた――其處では山は孤獨の寂しい願と沈默に入る最後の隱家かくれがまもつてゐた。
 私は腰を下ろした。セント・ジョンは私の側に立つた。私は峽道を見上げ谷間を見下ろした。彼のひとみは小川に沿つてさまよひ、やがて小川を染める雲のない大空をよぎつて歸つて來た。彼は帽子を脱いで、微風に髮をなぶらせひたひに接吻させた。彼はそのあたりの妖精達と遊んでゐるやうに見えた。彼は眼で何かに別れを告げてゐた。
「私はかういふものを、また見るだらう。」聲高く彼は云つた。「サンジスの岸で眠るときに夢の裡で。そして再びまたもつと先きになれば――他の眠りが(死が)私を襲ふときに――より暗い川のほとりで。」
 不思議な愛の不思議な言葉! 嚴肅な愛國者の祖國に對する熱情! 彼は坐り込んだ。半時間の間私達は口も利かなかつた。彼は私に云ひかけず私も彼に物を云はなかつた。それが過ぎると彼は口を切つた――
「ジエィン、僕は六週間經てば出發しますよ、六月二十日に出帆する東印度貿易船に船室を取つたのです。」
「神さまが、あなたをまもつて下さるでせう! あなたは神さまのお仕事をなさるんですから。」と私は答へた。
「さう、其處に僕の光榮と喜悦きえつがあります。僕は全能のしゆしもべです。僕は人間の導きで――僕と同じ被造物の缺點だらけな法則と間違ひだらけな統御を受けて行くんぢやありません。僕の王、僕の立法者、僕の船長は全能者かみさまです。僕には僕の周圍の人々が同じ計畫に加はる爲めに同じ旗の下に馳せ參じようと夢中にならないのが不思議でたまらない!」
「みんなあなたのやうな力を持つてゐないのですわ。それに弱いものが強い人達と並んで進みたいと願ふのは、馬鹿なことですわ。」
「僕は弱者にむかつて話してるんぢやない、またそんな奴等のことは考へてゐない。僕は唯、この事業にあたひする人に、そしてそれを完成し得る人に話しかけてるんですよ。」
「そんな人達は數も少いでせうし、また見附けるのも大變ですわね。」
「まつたくです。だが、見附けたときは、彼等をして立たしめて――その任務つとめの爲めに彼等をき勵まし、――彼等の考へられた賜物は何であるか、また何故にそれが與へられたかを示し――彼等の耳に天の使命をげ――彼等をして神から直接に選び與へられたものである地位を受けさせることが正しいことなのです。」
「でも、本當にその人達に使命を受ける素質があれば、何よりも先に、その人達の心がさうと告げる筈ぢやないでせうか。」
 私は、何か恐ろしい魔力が私のまはりに燃え立つて、頭からおほひかゝつて來るやうな氣がした。容赦なく咒文を結んで、くぎづけにして了ふやうなある運命的な言葉を聞いて、私は身を顫はせた。
「ではきますが、あなたの心は何と云つてゐます?」
「私の心は何も云ひません――何も云ひません――」驚いて、ぞつとして私は答へた。
「では僕が代りに云はなくちやならない。」深いきびしい聲が續いて云ふ、「ジエィン、僕と一緒に印度にいらつしやい。僕の助手として、僕の共働者としていらつしやい。」
 谿谷けいこくと大空とがぐる/\※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。丘がり上つた! 幻の使者、一人のマケドニア人が「來りて我等を助けよ!」とポオロにげたやうに、私は天からの呼び聲を聞いたかと思つた。しかし、私は使徒ではなかつた――私にはその使者を見ることは出來なかつた――彼の招きを受けることは出來なかつた。
「あゝ、セント・ジョン! 堪忍かんにんして!」私は叫んだ。
 私は自分の義務と信ずる所を行ふ外には、あはれみも悔いも知らぬ男にむかつて訴へた。彼は續けて云つた――
「神と自然はあなたを宣教師の妻たるべき人だと云ふ。個人的のことではない、神と自然があなたに與へた天禀によつてゞす。あなたは戀愛の爲めに造られず、勤勞の爲めに造られた人だ。宣教師の妻にあなたはならなければ――いやならせて見せます。あなたは僕のものになるのです。僕はあなたを要求する――僕の快樂の爲めにではなく、僕の天帝てんていの使命の爲めにです。」
「私では駄目ですわ。私には天職なんてありはしないんですもの。」私は云つた。
 彼はこんな最初の抗辯は、豫測してゐた。こんな言葉には焦立いらだたなかつた。實際、背後の岩にりかゝつて、兩腕を胸に組み、少しも動じないその顏色を見ると、彼は長い手強てごはい反對も覺悟してゐるのであつた。そして最後迄ゆつくり構へ込み、而もその最後を、彼の勝利に歸せしめる迄はと云つた風に見えるのであつた。
「謙讓はね、ジエィン、基督教の徳の根本のものです。あなたが任務にかなつてゐないと云はれるのは正しいことだ。しかし誰がそれに適ふと云へますか、また嘗て事實天の聲を聞いた人の誰が一體そのお召しにかなふものだといふ自信を持ち得るでせう? 例へば僕などは塵埃ごみか灰に過ぎない身です、ポオロと共に僕は自分を最も罪深きものだと認めてゐます。しかし乍ら僕自身の罪に惱みはしても、決してそれにくぢかれはしません。僕は僕を導き給ふ神を信じ、神が全能であると同時に正義であることを信じます。こんな偉大な事業を完うする爲めに、こんな弱いものをお選びになつた神は、その攝理せつりの限りない藏から、最後まで我々の手段の不備をおぎなつて下さるでせう。僕のやうに考へるのです、ジエィン――僕の通りに信じるのです。僕がすゝめてあなたをりかゝらせようとするのは、世の岩なる基督ですよ。疑つてはいけない、基督は必らずあなたの人間的な弱さの重みに堪へる力を下さるのだから。」
「宣教師の生活なんて私には分りませんわ、私、一度だつて宣教師の仕事を研究したことはないんですもの。」
「そりや僕だつて、僕はこの通りつまらない男だが、あなたの欲する位の助力は出來ます。僕はあなたの仕事を毎時間々々々決めることが出來ます、いつもあなたの傍に立つてゐて、刻々あなたを助けることが出來る。初めの間は僕がさうやつて上げるが、直ぐにあなたは(僕にはあなたの力が分つてゐるから)僕同樣に、強くそしてさとくなつて、僕のたすけは要らなくなります。」
「ですけれど、私の力は――それをやつて行く私の力は一體どこにあるのでせう? 私には感じられないわ。あなたのお話をうかゞつても、私に話しかけたり、私の心にうごくものは何にもないんですもの。燃える光も――活々いき/\した生命も――忠告の叫びも、鼓舞こぶの聲も――何一つ私には感じられないんです。あゝ、私の心はどんなにか、たつた今、身も縮む恐怖――私には果たしきれないことを試みよと、あなたに強ひられてゐる恐怖――それを深く藏する土牢だといふことを、私は、あなたに知らして上げたいのです。」
「あなたへの返事が一つある――お聞きなさい。初めてお會ひしたときからずつと、僕はあなたを見守つて來ました。十ヶ月といふもの僕はあなたを研究したのです。その間、僕はあなたをいろ/\なこゝろみでためしてみました。そして僕は何を見、何を發見したでせう。村の學校では、あなたは立派に正確に誠實に先生としての仕事をなすつた。その仕事はあなたの性質や傾向には寧ろかないものだつたのに、あなたは才能と腕でそれをやり遂げ、子供をよく管理することも、またなつけることも出來たのです。で、あなたが平靜に勉強を續けてゐる内に急にあなたはお金持になつた。デマスの罪は、あなたの心から一掃されて了ひ、――もう金錢問題はあなたに何の力も持たなくなつた。あなたが自分の財産を四分し、その一つを取つたゞけで殘りを形ばかりの義理の爲めに捨てゝ了つたその決然とした態度の中に、僕は犧牲に對する炎と昂奮で歡喜に燃えてゐる魂を見たのです。僕がお願ひしたといふのであなた自身の興味を持つてやつてゐた勉強を止めてまで、僕の爲めに外の仕事を始めて下さつた從順さ、それからそれを始めてからずつとやり通したたゆまぬ勤勉さ、その困難を切り拔けたあなたのさかんな精力と他からわづら[#ルビの「わづら」は底本では「はづら」]はされぬ氣質――それ等の中に僕は、僕が求めてゐる性格の總和を認めたのです。ジエィン、あなたはしとやかで勤勉で無慾で、誠實で、うつり氣な所がなく、而も勇敢です。實にやさしくまた實に雄々をゝしいのです。あなた自身を疑ふことを、お止しなさい――僕はすつかりあなたを信じ切ることが出來る。あなたが印度の學校の指導者として、印度の女性の輔佐者ほさしやとして、あなたの援助は、僕にとつては評價できぬ價値があるものでせう。」
 私の鐵の帷子かたびらが、私を捲き締める。説服が、ゆるやかに確かな歩みで進んで來た。私は眼を閉ぢてゐると、彼の云つた最後の言葉は、これ迄、閉ぢ籠められてゐたと思はれる前途を幾分か明るくすることが出來た。非常に漠然と取りつき場もなく擴がつてゐるやうに思はれた、私の仕事といふのも、彼が話を進めるにつれて※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、448-下-16]つて來、彼の手に形づくられて一つのさだまつた形をとるやうになつた。彼は、私の返事を待つた。私は返事をする前に十五分だけ、考へさせて下さいと願つた。
「よろしいとも。」と彼は答へて立ち上つた。そして細道ほそみちを少し向うへ歩いて行つて、ヒイスのくさむらに身體を投げ出して靜かに横になつた。
「ジョンが私にさせようと望んでゐる仕事を、私は出來るのだ。厭でもそれは認めなくてはならない――」と私は考へに沈んだ。
「が、それも、私の生命いのちが長續きした上のこと。印度の太陽の下では私は長く生きられようとは思はない――するとどうなるかしら? 彼はそんなことは氣にかけやしない。私の死ぬときが來たら、いかにも聖徒せいとらしく落着き拂つて私を神さまへおまかせして了ふだらう。問題は私にとつて實に明瞭だ。英國イングランドを離れる事は、愛するが、しかし空虚くうきよな國を離れることだ――ロチスターさまは此處にはゐらつしやらないのだから。だが、ゐらしつたとしてもそのことは私には何であらう、また何であり得よう? 現在私の仕事といふのは彼なしに暮すことなのだ。彼と私をもう一度つなぐやうな、或るり得ない變化が、自分の周圍に起つて來るのを待つてゞもゐるやうに、一日々々を引きずつて暮す程馬鹿げた弱氣よわきなことがあらうか。勿論(前にセント・ジョンも云つたことだが)私は前にうしなつたものに代るべき興味を、人生に求めなくてはならない。ジョンが今私にすゝめて呉れる仕事は本當に、人間のなし得る、云ひ換へれば神の命じ給ふ最も光榮ある仕事ではないだらうか。その事業の高尚な配慮と神嚴な結果から云へば、その仕事は愛を破られ望を碎かれたものゝ心の隙間すきまを充すには、一番相應ふさはしいものではないだらうか。えゝ、と返事をしなければならないと思ふ――しかも私は身顫みぶるひをするのだ。あゝ、若しセント・ジョンと一緒になれば、私は自分を半分捨てなくてはならない。印度へ私が行くとすれば、それは天壽を完ふしない死へ急ぐことなのだ。そして英國を離れて印度へ着くまでの間と、印度から墓場へ行く迄の間の時間は、どうして充されることか。あゝ、私にはよく分つてゐる! それもまた眼に見えるやうだ。セント・ジョンを滿足させようと筋肉がうづくまでも氣を張つて私は努めるに違ひない――セント・ジョンの期待の奧底まで、その端々までも滿足させる爲めに。ほんとに私が彼にいて行くとしたら――ほんとに彼のすゝめる犧牲を拂ふとしたら、私は絶望的にやりとほすだらう。私はすべてのものを祭壇へさゝげるだらう――魂も生命いのちもまつたき犧牲いけにえをも。彼は決して私を愛しはしまい。けれども、私は、彼に、私の眞價を認めさすだらう。私は彼が未だ見たこともなかつた元氣を見せよう、彼が考へても見なかつた才能を働かせてみせよう。さうだ、本當に私は彼と同じやうに、激しく、働ける――ちつとも厭々ながらではなく。
「では、彼の要求に應ずることも可能だ――但し一つの條件、恐しい條件があるのだ。それは私に彼の妻たることを要求することだ、私に對して、向うの谷間たにまへと流れる小川を足下に泡立たせてゐる、あの恐ろしい巨人のやうな岩よりも、夫らしくはない彼が。彼は軍人がよい武器をめるやうに私をめる、が、それつきりである。彼と結婚しないこと、それは決して私を悲しませはしない。けれども彼の豫想通りに――冷淡れいたんに彼の計畫を實行して、結婚の儀式を了らせることが私に出來ようか。私は彼から、結婚の指環ゆびわを受け取り、愛のすべての形式(きつと彼が注意深く守るであらうが)を忍び、魂はまつたく拔けがらであることを、知ることが出來ようか、彼が與へる愛撫あいぶは、みんな主義に拂はれた犧牲なのだと意識して行くことに堪へられるだらうか。いゝえ、そんな殉難じゆんなんは不當だ。私にはどうしても出來ない。妹としてならば私は彼に隨いて行つてもいゝ――彼の妻としてゞはなく。さう彼に話してみよう。」
 私は頂の方に眼をやつた。そこに彼は横になつてゐた、横たへられた柱のやうに靜かに。顏は私の方を向いてゐた。ひとみには注意深い、鋭い光があつた。彼は立ち上り私の方へ近づいた。
「若し自由な私の儘で行けるのでしたら、私、印度へ行くつもりです。」
「どんな意味ですか? あなたの返事には註釋が要る。」彼は云つた。「それでは、はつきりしてゐない。」
「あなたは今迄、私の義理の兄さまでしたし、私もあなたの義理の妹でした。その儘で續けませう。あなたと私は結婚しない方がよろしい。」
 彼は頭を振つた。「この場合義理の兄妹關係では駄目です。あなたが僕の本當の妹だつたら問題は別です。僕はあなたを連れて行つて、妻君は求めないでせう。だが、事實を事實とすれば、僕等の結合は結婚によつてきよめられ固められない限り存在しない。實際上の種々の障碍しやうがい[#ルビの「しやうがい」は底本では「しやいがい」]が、他の計畫にも反對する。さうは考へませんか、ジエィン? しばらく考へて下さい――あなたの強固きやうこな理性があなたを導くやうに。」
 私は考へてみた。でも、依然として私の理性は、唯私達が夫と妻として愛し合つてはゐない故に、決して結婚すべきではないといふ事實しか私には考へられなかつた。だから私は云つた。「セント・ジョン、」私は返辭した。「私はあなたを兄さまと思つてゐます――あなたも私を妹と考へてらつしやいます。そのまゝでつゞけませう。」
「出來ない――それは出來ない、」彼は短く鋭い決意けついを示して云ひ切つた。「それぢやいけない。あなたは僕と一緒に印度へ行くと云つた。覺えてゐらつしやい――さうあなたは云つたんですよ。」
「條件附きで。」
「さう――さうです。主要な點――つまり僕と一緒に英國イングランドを離れること、將來の仕事を僕と協力してやること――はあなたはこばまない。あなたはもう鋤に手をかけてゐるのと同じことだ。その手を引込めるほど、あなたは矛盾してゐない。あなたは考へねばならないたつた一つの目的がある――あなたの計畫した仕事が如何すれば最善の効果をもたらすか、と。錯雜したあなたの興味と感情と思想と希望と目的とを簡單になさい。いろ/\な思慮しりよを一つの目的に集中なさい。即ち實行と力によつて、あなたの大いなる神の使命を充す、といふことに。その爲めにはあなたは協力者を得なくてはならない。兄弟ではない、兄弟ではひもるすぎます、良人をつとでなくてはなりません。僕だつて、矢張り妹を欲しいとは思ひません。妹では何時か僕の手から持つて行かれるでせうからね。僕の望むのは妻です。唯一人、僕が人生に於て意のまゝにし得る、そして死ぬまで絶對に離れぬたすけ手が要るのです。」
 彼が語る間、私は身顫ひした。私は、胸の心髓しんずゐに彼の威壓を感じた――手足を彼に掴まれたやうな氣持がした。
「私ぢやなく誰方どなたかに、その方を探して下さい、セント・ジョン、あなたに相應ふさはしい方をお探しになつて。」
「つまり僕の目的に相應ふさはしい――僕の天職に相應ふさはしい人、といふ意味でせう。もう一度云つて置きますが、私が附き添はふと願ふのは無意義な私人――人間の利己的な觀念を持つた一介の人間ではないのです。それは一人の宣教師なのです。」
「ですから、私はその宣教師の爲めに、私に精力の限りを捧げますわ――それが彼の欲するすべてゞす――が、私自身を欲するのではないのです。それは核心かくしんに、から外皮ぐわいひを添へることに過ぎないでせう。それらには、彼はなんの用もないのです。その必要以外のものを、私は取つて置くだけのことですわ。」
「いやいけない――そんなことは許されない。神が獻物さゝげものの半分で滿足なさるとあなたは思ふのですか。神は、不具かたはの犧牲をお受けれになるでせうか。僕が云ひ張るのは神さまの爲めです。僕は、神の旗印はたじるしの下に、あなたを召集するのだ。『神の代理』として、僕は部分的な歸依きえを受け容れることは出來ない、それは完全なものでなくつちやなりません。」
「あゝ、私は私の心を神樣に捧げますわ!」と私は云つた。「あなたは私の心を、お要りにならないんです。」
 讀者よ! 私がかう云つた言葉の調子とその時の感情とには何處かに抑制せられた諷刺がなかつたとは斷言出來ない。その時まで暗々裡あん/\りに私はセント・ジョンを何處かわからない所のある人として怖れてゐた。彼を疑ふ氣持が彼をおそれさせてゐた。何處までが聖人なのか、何處までが俗人なのかこのときまで私には分らなかつたのだ。しかしこの應酬おうしうの中に、暴露されつゝあつた、彼の性格の解剖が、次から次へ私の眼の前を通り進んだ。彼の弱點を私は知つた。ヒイスの丘の上に腰を下ろした美しく整つた姿を前にして、私は今自分と同じやうに不完全な一人の男の足下に坐つてゐるのだと思ふのであつた。顏覆ひヴエールは落ちて、彼の峻嚴と專制主義が現はれた。彼が、かうした性格の持主であると悟つた私は、彼の不完全を感じて、勇氣を得た。私は同等な人間と一緒にゐるのだ――議論をしても構はない人――若しもよしと思へば、反抗をしてもいゝ人間と一緒にゐるのだ。
 彼が私の先の言葉を聞いてからずつと默つてゐるので、私は眼を上げて彼の樣子をうかゞつてみた。彼の眼は私に注がれてゐたが、激しい驚きと鋭い穿鑿せんさくの色を同時に浮べた。
「諷刺したのだらうか? しかもこの自分に對つて!」さう云ふものゝやうに。
「一體これは何の意味だ?」彼は間もなく云つた。「これは嚴肅な問題だといふことを忘れますまい。それについて、輕卒に考へたりしやべつたりしては罪惡となるのです。ジエィン、僕はあなたが神に心を捧げると云つたときには眞劒だつたのだ信じます。それこそ僕の望む總てゞす。一度あなたの心を人間からそらして、あなたの造物主ざうぶつしゆに結べば、地上に於ける神の王國の發展は、あなたの重な喜びとなり努力となるでせう。その目的へ向ふ爲めには、何でもすぐにしたいと待ち望むやうになるでせう。僕達の結婚による心身の結合によつて、お互ひの勤勞にどれ程刺※[#「卓+戈」、U+39B8、452-下-10]を受けるか考へて欲しい。それは人間の運命と意志とに、不變な一致の性質を與へる唯一の結びつきです。あなたは、だから、すべての小さな氣紛きまぐれや、感情の上の些細ささいな困難や躊躇や、單に一個人の傾向の度合や種類や強さ、やさしさなどに對する危惧きぐを乘り超えて直ぐにその結合に這入つて了ふでせう。」
「さうでせうかしら?」と私は言葉少なく云つた、そして端麗なしかし峻嚴な靜けさの中に變に怖しいところのある彼の顏を眺めた。ひいでた、しかし暗い眉、輝やかしく深くて、探るやうな光を持つ、しかし決してやさしくはない眼、背の高い押出おしだしのいゝ彼の姿。そして彼の妻としての私を想つてみた。おゝ、どうしても嫌だ! 彼の友達として、仲間としてなら萬事いゝのである。その資格でならば私は彼と一緒に大洋を横切り、東の太陽の下に、アジアの沙漠で、事務所で彼と一緒に働き、彼の勇氣と獻身と精力に驚嘆し、從順に彼の專制に隨ひ、彼の限りない野心やしんこゝろよ微笑ほゝゑみクリスチヤンを俗人から區別し、前者を深く崇め、後者を意のまゝに許すだらう。勿論かうした位置からばかり彼と接觸して行くことは、少なからず私を苦しめるに違ひない。しかし私の肉體は過重なくびきの下に置かれても、心も魂も自由でゐられるのだ。私はなほ、しをれさせられない我身を暇あるときに振返り、頼りにするだらう――孤獨の瞬間にも語り合ふべき自然な、とらはれぬ感情を、なほ、持つことであらう。私は心の一隅に、彼が決して侵入することのない、私だけの隱家を持ち、そして、そこに活々いき/\ひそやかに萠える感情は、彼の權力にもはゞまれず、彼の整然たる行軍の足下にも踏みひしがれることはないであらう。けれども彼の妻として――絶えず彼の側にゐて、絶えず押へられて、絶えず束縛され――無理ひに生得せいとくの性質の火を絶えずよわめさせられて、その焔が内に向ふにまかせ生命を刻々こく/\に嘗め盡すとも、決して泣聲を上げることすら許されないこと――その事は堪へ得られないことであらう。
「セント・ジョン!」そこまで考へて來た私は叫んだ。
「何?」彼はひややかに答へた。
「もう一度申します。私はあなたのお仕事の助手としてゞしたら喜んで御一緒に參ります。けれども、妻としてならば厭です。私はあなたと結婚して、あなたと一つにはなれません。」
「僕と一つにならなければいけない。」彼はきびしく答へた。「でない限り契約は全然無効です。まだ三十歳にもならぬ男の僕が、十九歳の少女を結婚する事なしに連れて、印度までもどうして行けますか? 何時も一緒に――或るときは二人つきりで、或るときは野蠻な種族に交つて――生活する我々が結婚しないでどうしてゐられると思ひますか?」
「結構ですわ。」私は言葉少なに云つた。「どんな事情の下にゐようと、私があなたの本當の妹になるか、それとも、あなたのやうな男の牧師になつたつもりでならば、ちつとも構ひませんわ。」
「あなたが僕の本當の妹でないことは、誰の眼にも明らかです。妹だと紹介することも僕は出來ない。假にやつてみるとしても、二人にとつて不利な疑惑を強めることになるでせう。次にそのほかの點でも、假令たとへあなたが男性の活溌な頭腦あたまを持つてゐるとしても、あなたの心臟こゝろは女性ですよ、だから――それでは駄目です。」
「それで、いゝんです、」と、私はいくぶんさげすみを籠めて斷言いひきつた。「ちつとも差支へなく、えゝ、私は女の心臟こゝろを持つてます。けれども心臟こゝろにはあなた干渉なさらないんぢやありませんか。だつて私はあなたに對しては、お仲間としての變らない誠心と、同志の兵卒としての率直と貞節と友愛を持つきりなんですもの。新信徒が聖師に向つて捧げる敬慕と從順を、私もあなたに捧げるきりなんですもの。それつきりですわ――御心配なさらなくてもようございます。」
「それは、僕の望むところだ、」と彼は獨語ひとりごとのやうに云つた。「それこそ僕の望むところだ。道には色々の障りがある。それはり倒すばかりだ。ジエィン、あなたは僕と結婚したことを後悔するやうなことは無いでせう、そのことは安心して下さい。どうしても我々は結婚すべきです。繰り返して云ひますが、他に道はありません。それに結婚して了へばあなたの眼にも、それを是認ぜにんさせる位の愛情は大丈夫生れて來るものですよ。」
「私は愛についての、あなたのお考をさげすみます。」さう云はずにはゐられなかつた。私は立ち上つて岩を背にして、彼の前に立つた。「私はあなたの仰しやるやうな贋物にせものの感情を輕蔑します、さうですとも、セント・ジョン、そんなことを仰しやるなら、あなたを輕蔑しますわ。」
 彼は形よくきざまれた唇をきつと引緊ひきしめて私を見据ゑた。彼が激昂したのか、驚いたのか、どうしたのかを説明することは容易ではなかつた。彼はよく顏色を制御し得たから。
「あなたから、そんな言葉を聞かうとは思ひがけないことです。僕は侮辱を受けるやうなことは何もしなかつたし、口にもしなかつたと思ひます。」
 私は彼のやさしい調子に打たれた、その高貴な冷靜な顏色に威嚇ゐくわくされた。
「御免なさい、セント・ジョン、失禮なことを申上げて。ですけれど、あんなに不注意にいきなり申上げて了つたのはあなたの罪です。あなたは、私達が本質的に異つた考を持つてゐる題目をおとりになりました――私達が決して議論し合つてはならない題目を。愛の名こそ私達の間では不和ふわの種なんです――若しそれを實現させるとしたら、私達はどうすればいゝでせう? どう考へたらいゝのでせう? ねえ、私の親愛なセント・ジョン、あなたの結婚の計畫をおやめなさい――忘れてお了ひなさい。」
「いや、」彼は云つた。「それは長い間考へてゐた計畫です、また僕の大望を保證する唯一のものなんです。しかしもう今はこの上あなたにすゝめますまい。明日僕はケムブリッヂへ出發します。別れの挨拶あいさつをして置きたい友人が可成りあるので。二週間程留守るすになるでせう――その間に僕の申し出を考へて置いて下さい。そして若しも拒絶なさるならば、あなたの拒絶するのは私にではなくて、神さまへだといふことを忘れないやうに。僕のとる手段を通して、神は一つの高貴な生涯をあなたに開いておゐでになる。僕の妻としてのみ、あなたはそこへ這入ることが出來ます。僕の妻になることを否んで御覽なさい。するとあなたは永久に利己的な安逸あんいつと無價値ないやしいわなにあなたの身を閉ぢ籠めるのです。その場合には、あなたは信仰を否定して、邪教徒じやけうとよりもなほ惡い人々の數に這入らないやうに警戒なさい。」
 彼は云ひ終つて私に背を向けると、もう一度――
 川を見ぬ  丘を眺めぬ……
 しかし今度は彼の感情は心の中に閉ぢ籠められてゐた。もう私はその聲を聞く資格がないのであつた。彼と並んで家へ歸りながら、私は彼の鐵のやうな沈默の中に私に對する心持をすつかり讀みとつた。服從を期待して反抗に出會した氣難かしい專制者の失望と――どうしても同情することの出來ない他の感情や見解のうちに見出したところのひややかな頑固な判斷の非説を。一口に云へば、一人の男として私を服從に強制しようとしてゐたのだ、彼がそんなに辛抱強く私の強情がうじやうを忍び、反省はんせいと改悔に長い時間を許したのは、たゞ敬虔な基督教徒としてゞあつた。
 その夜、妹達に接吻を與へた後、彼は私と握手することさへ忘れるのが至當であると考へたのか、默々もく/\と部屋を去つた。私は――彼を愛してはゐなくとも、深い友情を持つてゐる私は――いちじるしい省略しやうりやくに傷けられた。涙が湧く程ひどくきずつけられた。
「あなたとセント・ジョンと喧嘩をしてゐらしつたのを見てよ、ジエィン。」とダイアナが云つた。「原つぱを散歩しながら。いゝから追つかけていらつしやい。今廊下の所であなたが來ないかしらと思つてぐづ/\してるところよ――仲直なかなほりしたいんでせう。」
 こんな事情では私は大して威張れない、いつも私は威嚴ゐげんを保つよりも快活になりたかつたから。で、私は彼の後を追つた――彼は階段の下に立つてゐた。
「お休みなさい、セント・ジョン。」と私は云つた。
「お休み、ジエィン。」靜かに彼は答へた。
「では握手して頂戴。」と私は云つた。
 私の指に殘つた彼の觸感てざはりの冷たさ! 氣のなさ! その日の出來事は深く彼の心をそこねたのであつた。心を籠めた親切も彼をあたゝめる力がなかつた、涙も彼を動かさなかつた。彼とは愉快な仲直なかなほりのしやうもなかつた。快活な微笑うすわらひも寛大な言葉も、彼とは交はすべくもなかつた。しかもこの基督教徒は辛抱強く落着いてゐた。そして許してくれるかとたづねると、彼は怒りをいつまでも心に覺えてゐるやうな癖は持つてゐないし、それに氣を惡くしたのではないから、ゆるすことは何にもない、と答へた。
 そして、さう答へて彼は行つて了つた。私は彼に打擲された方が遙かにましだと思つた。

三十五


 さう云つてゐたにも拘はらず、次の日彼はケムブリッジへ向けてたなかつた。彼はまる一週間出發を延ばした。そしてその間彼は、善良ではあるが、苛酷かこくな、良心的だけれど、執念しうねん深い男の人が、その人を怒らせた者に對してどんな嚴しい苛責を加へ得るかといふことを、私に感じさせた。何等明らかな敵意の振舞ひも、非難の言葉もなしで、彼は最早私が、彼の愛顧のかこひの外に放り出されてゐるのだといふ罪のあかしを、絶え間なく私に感じさせるやうにした。
 若し思ふ存分さう出來たとしても、セント・ジョンは基督教徒らしくない復讐心をいだいてもゐなかつた――また私の髮の毛一本も傷けようとしたのではなかつた。天性から云つても主義から云つても、彼はそんないやしい復讐の滿足を感ずるには餘りに高尚だつた。彼は私が彼と彼の愛を輕蔑すると云つたことに對しては私をゆるしてくれた。しかし彼はその言葉を忘れてはくれないのだつた。そして彼と私が生きてゐる限り、彼はその言葉を決して忘れないだらう。彼が私の方を向くと、私は彼の眼付によつて、私と彼との間の空間に、その言葉がいつも書かれてあるのを知つた。例の言葉が私の聲の中に籠つてゐるやうに彼の耳に響いた。その反響は、彼が私にする返答の一つ/\に籠つてゐるのであつた。
 彼は私と話をすることを止めはしなかつた。彼は平常の通りに毎朝私を彼の机に來いと呼びよせさへしたのであつた。そして、私は、彼が平生とまつたく變りなく振舞ひ、また語りながら、嘗てはその言葉と態度に或る嚴肅な魅力を與へてゐた興味と是認ぜにんの心を、あらゆる行爲、あらゆる言葉からどんな技倆で引出し得るかを示すことに、彼の内なる敗徳はいとくの人間が、清淨な基督教徒には知られず、分たれぬ快樂を樂んでゐるのではないかと恐れた。私にとつて現實には彼は人間ではなく大理石となつてしまつた。彼の眼はつめたい、光つた青い寶石であり、彼の舌は物云ふ機械であり――それ以上の何物でもなかつた。
 これ等のことが皆私にとつては苛責かしやくであつた。――洗煉された、長く尾を曳いた苛責であつた。それがいぶつた憤怒の火を燃しつゞけ、堪へられぬ程の悲痛な惱みを續けたので、私はまつたく惱まされ打ち碎かれた。私は若し自分が彼の妻であつたなら、陽の光もとほらぬ深い泉のやうに澄んだこの善良な人が、私の血管から血一滴とらずとも、また彼の水晶のやうな良心に、ほんの微かな罪の汚點をつけるだけで忽ち私を殺し得ると思つた。特にこのことを感じたのは私が彼とけようとするときであつた。私の打ち開いた心に對して何等の答へもないのであつた。彼は疎遠そゑんになることに何等の苦惱も感じなかつた――和解に對する何等の熱望も感じなかつたのだ。そして、一度ならずはふり落ちる私の涙が、私共二人の讀んでゐる本の紙を濡らしたけれど、彼の心は、本當に、石か金で出來てゐるのではないかと思ふ程に、何の效果も彼に及ぼさないのであつた。彼の妹達に對しては、彼は、その間、前よりも幾らかやさしかつた、――宛も、單なる冷淡さではどれ位まつたく私が排斥はいせきされ、呪はれてゐるかを十分に思ひ知らないことを恐れてゐるかのやうに、彼は姉妹に優しく私に辛い對照的壓迫を附け添へたのであつた。そして、これは、確かに、彼の惡意からではなく、彼の主義からであつたと思ふ。
 彼が家をつ前の晩のこと、夕暮時に、庭を散歩してゐる彼をふと見かけ、彼を見乍ら、今は疎々うと/\しくなつてゐるけれど、この人が嘗ては私の生命を救ひ、而も、私共は親しい親戚であることを思ひ起して、私は彼の友情をとり戻す爲めに、最後の努力をしようと、心を動かされた。私は戸外へ出て小門にりかゝつて立つてゐる彼の處に近づいた。私は、直ぐに、要點に觸れた。
「セント・ジョン、あなた未だ私のことを怒つてゐらつしやるので氣になります。仲直りしませう。」
仲直なかなほりしたいものです。」と冷淡に答へた。その間も、私が近づいて來たときに眺めてゐた月の出を、未だ、彼は見てゐるのであつた。
「いゝえ、セント・ジョン、私達は先のやうに仲好しぢやありませんわ。御存知なのに。」
「さうですか? それは間違ひだ。僕の方ぢやあなたに好意こそ持つてをれ、惡意はちつとも持つてゐないのです。」
「私はあなたを信じます、セント・ジョン、何故つてあなたは人のことを惡く思ふことは出來ないんですもの。でも、私あなたの親戚みよりの者だから、あなたが赤の他人にお示しになるあたり前の博愛と云つたやうなものより、もつと心の籠つた愛情が欲しいのです。」
「勿論、」と彼は云つた。「あなたの望は當然のことだ。そして僕は、あなたを他人だなんぞと思つてやしない。」
 ひややかな、熱のない調子で云はれたこの言葉は、屈辱を感じさせ、心をくぢくに十分であつた。若しも私が誇と怒りの心に從つてゐたのだつたら、直ぐにも彼の傍を立ち去つてゐたことだらう。だがしかし、何物かゞ私の内にそんな感情よりももつと強く働いてゐた。私は深く從兄いとこの才能と主義とを尊敬してゐた。彼の友情は私にとつては價値あるものであり、それを失ふことはつらい試練であつた。私はそれを再び贏ち得る爲めの努力を、さう直ぐに放棄はうきしようとは思はなかつた。
「こんな風でお別れしなくてはならないのでせうか、セント・ジョン? そして印度へいらつしやるときにも、これまでよりも、もつと、やさしい言葉一つかけて下さらないまゝで、私を置いていらつしやるのですか?」
 彼は、くるりと、月から私の方に向き直つた。
「僕が印度へ行くときには、ジエィン、あなたを置いて行くつて? 何てことだ! あなたは印度へは行かないのか?」
「でも、私があなたと結婚しないぢや駄目だつて仰しやつたんですもの。」
「そして、あなたは僕と結婚しない積りなんですか? あなたのその決心を固守こしゆするの?」
 讀者よ、あなたはこのやうなつめたい人々が、どんなに恐ろしさをその氷のやうな質問の中にれ得るか、彼等の怒りの中には、どれ程の雪崩なだれがあるか、彼等の不興につてはこほつた海も打ち碎かれるといふことを、私と同じくらゐに御存知ですか?
「いゝえ、セント・ジョン、私あなたと結婚はいたしません。私この決心は變へません。」
 雪崩なだれは搖れて少し前に辷つて來た。しかし未だ崩れ落ちては來なかつた。
「もう一度訊くけれど何故これをこばむの?」と彼はたづねた。
「以前には」と私は答へた。「あなたは私を愛してはゐらつしやらなかつたからです。けれど今では、あなたは殆んどもう私を憎んでゐらつしやるからだと申します。若し私があなたと結婚しなければならないのだつたら、あなたは私を殺しておしまひになるでせう。あなたは今私を殺しかけてゐらつしやるのです。」
 彼の唇も頬も蒼ざめた、――まつたく蒼ざめてしまつた。
「僕があなたを殺すんだつて、あなたを殺しかけてゐるつて? そんな言葉は使ふべきでない――亂暴な、女らしくない、無稽むけいな言葉だ。それは不運な心の状態をあらはしてゐる。それはひどい非難を受けて然るべきだ。それは言譯いひわけが立たないやうに見える。七十七度まで人をゆるすことが人間の義務なのだと云つても。」
 今は私はすべきことはしてしまつた。私の過去くわこの罪科の跡を彼の心からり消さうと切に願つてゐたのに、そのかたい表面に、私は更に新しい、そしてもつとずつと深い捺印おしいんを押してしまつた。私はそれをきつけてしまつたのだ。
「さあ、これでもうあなたは本當に私をお憎みになるでせう、」と私は云つた。「あなたのお心を和げようとするのは無駄です。私もう、あなたを永久の敵にしてしまつたことが分りました。」
 この言葉が更に新しい間違ひをかもした――それが眞實に觸れたが故に、より惡いものであつた。彼のを失つた唇は瞬間的な痙攣けいれんに引きつゝた。私は自分が鋼鐵のやうな怒りを起させたことを知つた。私の胸はけさうに苦しかつた。
「あなたは私の言葉をまつたく取り違へてゐらつしやる、」と私は彼の手を取り乍ら云つた。「私あなたを悲しませたり、苦しめたりしようとは思つてゐません――本當に思つてやしないのです。」
 最も苦々にが/\しげに彼は笑ひを浮べた――最も決然と彼は私から手を引込めた。「それぢやあなたは約束を取消して、全然印度へなぞ行かないのですね?」と、彼は長い沈默の後に云つた。
「いえ、私參ります。あなたの助手としてなら。」と私は答へた。
 長い/\沈默が續いた。この間に人間としての氣持と恩惠の二道で、彼の内部でどんな爭ひがあつたか、私は知らない。たゞ不思議な光が彼の眼にひらめき、怪しい陰影かげが彼の顏をよぎつたゞけだつた。とう/\彼は口を切つた。
「僕は前にも、あなた位の年頃の獨身の女の人が、僕位の年頃の獨身者にいて、外國へ出掛けて行き度いなどゝ云ふ事が、とても話にならないつて事は話したでせう。あなたが二度とそんな計畫を口にしないやうにするやうな約束でもつて、この事を話してあげたと思ふけれど。あなたがさうしてしまつたつて事は殘念だ――あなたの爲めに。」
 私は彼をさへぎつた。明白な叱責の如きものは如何なるものでも忽ち私を勇氣づけた。「常識を忘れないで下さい、セント・ジョン。あなたは、非常識になりかけてゐらつしやる。あなたは私の云つたことでおいかりになつた振りをしてらつしやる。本當は怒つてはゐらつしやらないのです。何故つてそんな立派な心を持つてらつしやるからには、あなたが私の云つた意味を誤解なさるなんて、そんなににぶくも、またそんなに變つた考へでもゐらつしやる筈がありませんわ。も一度申しますけど、若しよろしかつたら私あなたの牧師補にはなります。でもあなたの妻には決してなりません。」
 再び彼は鉛色なまりいろに蒼ざめた。しかし、先と同じく彼は怒りを完全におさへた。彼は力を入れて、しかし落着いて答へた。
「僕の妻ではない女の牧師補は、僕にははない。だから、僕と一緒にはあなたは行けないでせう。しかし若し本氣ほんきでさう云ふのなら、街へ行つてる間に、結婚してる傳道者でその奧さんが助手を求めてる人に話してあげよう。あなたの財産なら、會の補助金なしでやつて行けるだらう。こんな風に、未だあなたは、約束を破つたと共に一緒に行く契約をも踏み躙つた不名譽を背負しよふのです。」
 讀者も御存知のやうに、私は何も正式な約束もしなければ、または、契約と云ふやうなものもしてゐたのではなかつた。それにこの言葉はこの場合すべてあまりにこくであり、暴虐であつた。私は答へた――
「この場合は何も不名譽なことも、約束を破つたといふことも、踏み躙つたなんてこともありません。私には印度まで行くなんて義務はちつともありません。特に他人と。あなたとこそ私は思ひ切つて行かうとしてゐましたのに。何故なぜつて、私は尊敬もし、信頼もし、妹として、私はあなたを愛してゐるのですもの。ですけど何時誰と一緒に行つても、あんな氣候では長く生きてゐないことは確かです。」
「あゝ! あなたは自分の身の心配をしてるのですね!」彼は口をゆがめてさう云つた。
「さうですわ。神さまは私に捨てゝしまへと云つて生命いのちを下さつたのではありませんもの。そしてあなたが考へてらつしやる通りにすることは、自殺するにひとしいと私は思ひ始めてをります。それに、私英吉利を去るといふはつきりと決心をする前に、國に留つてゐる方が去るよりも、もつと大きな役に立ち得ないかどうか確かめてみるつもりです。」
「何といふ意味です?」
「それを説明したつて何にもなりますまい、けれど、私長い間悲しい懸念けねんをして來たあることがあります。その懸念が何等かの方法でもつて消えるまでは、私何處へも行けません。」
「あなたの心が何處に向いてゐるか、何に未練があるのか僕にはわかつてゐます。あなたの抱いてゐる同情は、法に合つてもゐないし、きよらかでもない。そんなものは、もうとつくに潰してしまつてゐるべきだつたのです。今そのことを引き出すのをづべきですよ。あなたはロチスターさんのことを考へてゐるのでせう?」
 それは事實だつた。私は沈默によつてそれを白状した。
「あなたは、ロチスターさんを探さうとしてゐるのですか?」
「あの方がどうなつてゐるか、私は確かめなくてはなりません。」
「ぢやあ、私のすることはたゞ、」と彼は云つた。「僕のいのりの中にあなたのことを忘れぬことゝ、あなたの爲めに、切に、あなたが本當に難破なんぱした人にならないやうにと、神さまに願ふことです。僕はあなたのうちに、選ばれた人の一人を認めたと思つてゐました。しかし神の見給ふところは人間のとは違ふのでせう。神の御意のまゝに!」
 彼は門を開けて、それを出て、谷の方へ歩き出して、やがて見えなくなつてしまつた。
 居間に歸つて行くと、ダイアナが窓際まどぎはに立つて非常に考へ込んだ樣子をしてゐるのに會つた。ダイアナは私よりは餘程背が高かつた。彼女は私の肩に手を置いて、身を屈めて私の顏をじつと見つめた。
「ジエィン」と彼女は云つた。「あなたこの頃始終心が亂れてゐるやうで、蒼ざめてゐるのね。きつと何か事があるのでせう、あなたとセント・ジョンとの經緯いきさつを、私に聞かせて頂戴な。この半時間程、私は窓からあなた方を見てゐたのですよ、こんな間諜スパイみたいなことをしたのを勘忍してね、だつて長いこと、何だか分らないけれど私想像してゐたのよ。セント・ジョンは妙な人で――」
 彼女は口を噤んだ――私は何も云はなかつた。すぐに彼女は言葉を續けた――「私のあの兄は、何か知らあなたに關して特別な意見を持つてゐるのよ、きつと。あの人は他の誰にも見せたことのない注意と關心でもつて、長いことあなたに目を附けてゐたのです――どんな目的で? 私あの人があなたを愛してるんだといゝと思ふけど――さう、ジエィン?」
 私は彼女のつめたい手を自分の熱いひたひにつけた。「いゝえ、ディイ、ちつともよ。」
「ぢやあ何故なぜあんなにあなたばかりを見つめたり、あんなに始終あなたをあの人と二人きりにしていつも/\あなたをそばに引きつけて置くのでせう? メァリーも、私も、あの人はあなたに結婚してもらひたいのだと決めてたんですよ。」
「さうですの――あの方は私に妻になつてくれと仰しやつたんですの。」
 ダイアナは手をつた。「私達が願つてゐた通り、思つた通りだわ! ぢやあなたあの人と結婚なさるでせう、ジエィン、ねえ? そしたらあの人は英吉利にゐるわ。」
「それどころですか、ダイアナ、あの方が私に申し込をなすつたたゞ一つのお考へは、あの方の印度での仕事にてきした働き仲間を得ようとなさるからなんです。」
「何ですつて? あなたを印度へ行かせる心算つもりですつて?」
「えゝ。」
氣狂沙汰きちがひざただわ!」と彼女は叫んだ。「あんな土地にあなたは三ヶ月も住みきれやしませんよ、分つてるわ。行つちやいけません。承知しやしなかつたでせうね、ジエィン?」
「私結婚をおことわりしました――」
「それでその爲めにあの人の機嫌きげんを損じたの?」と彼女は仄めかした。
「それはひどく。あの方はきつともう私を許しては下さらないでせう。でもね、私あの方の妹としてならお供するつて申上げたんですけれど。」
「そんなことをするのは狂氣きちがひめいたくだらない事だわ、ジエィン。まあ、あなたの引き受けた仕事を考へても御覽なさい――絶え間のない疲勞の仕事だわ。あそこぢやあ健康な人だつて疲勞で倒れるつていふのに。あなたは弱いんだもの、セント・ジョン――あなたも御存知ね――は不可能なことをあなたに強ひるのだわ。――あの人と一緒ぢやあ暑い間中休息なんて許されやしない、それに生憎あいにくとまたあなたが、私氣が附いてゐるけれど、あの人の強ひたことは、何事によらず無理をしてゞも遣らうとするんですもの。あなたにあの人の申し込をことわる勇氣があつたのに私は驚くわ。ではあなたはあの人を愛してやしないのね、ジエィン?」
「えゝ、良人をつととしてはね。」
「でも、あの人は、立派な人ぢやないこと。」
「そして、私はこんなにみつともないのですわ、ねえ、ディイ。私達は決して釣合つてはゐませんわ。」
「見つともないつて! あなたが? そんなことがあるものですか。あなたはカルカッタで苦しい目を見て生きてるにはあんまり善良過ぎるし美くし過ぎますよ。」そしてまたもや彼女は、兄と共に出掛けるといふ考へをすつかり棄てゝしまふやうにと、熱心に懇願するのであつた。
「私どうしても行かなくちやなりません、」と私は云つた。「何故つてほんの今さつき、私が牧師補としてあの方のおともをするといふ申し出を繰り返しましたら、あの方は私の非禮ひれいをお怒りになつたんです。あの方は私が結婚しないでお供するつて申し上げたことを、私が失禮なことでも仕出かしたやうに思つてらつしやるやうです、まるで私が最初からあの方をお兄さまと思ひ度いと望んだことも、またいつもさう思つてゐたこともないかのやうに。」
「あの人が、あなたを愛してないつてことが、どうしてわかるの、ジエィン?」
「そのことはあの方御自身の口からお訊きになつて頂戴。あの方は繰り返し/\説明なすつたのですの。連れ添はうと思ふのはあの方御自身ぢやない、あの方の職務なのだつて。あの方は私は働く爲めの人間なんで、愛の爲めの人間ぢやないと仰しやいました――それはまつたく眞實です。でも、私の考へでは、若し私が愛の人間でないなら、結局結婚するやうにつくられた人間でもないと思ひますの。變ぢやありませんこと、ねえ、ディイ。一生涯、相手を役に立つ道具だと思つてゐる人につながれてるつてことは?」
「堪らないわ――不自然だわ――問題外だわ!」
「それで、」と私は續けた。「今は私あの方にたゞ兄妹けうだいの愛しか持つてないのですけれど、若し強ひられて妻となつたとしたら、私多分あの方に對して、のつぴきならぬ、妙な、責められるやうな愛を持ち得るとは想像出來ます、何故つて、あの方はあんなに才能がお有りですし、それにあの方の樣子や、態度や、お話には、或る英雄のやうな莊嚴さがありますから。さういふことになると、私の運命はお話出來ない位にみじめになるでせう。あの方は私に愛して欲しいとはお思ひにならないでせう。そして若し私がそんな感情をあらはしたなら、あの方はそれが御自身に不要な餘計よけいものであることや、私には不似合な餘計ものだといふことを、私に感じさせになるでせう。さうなることはわかつてをりますわ。」
「けれど、それでもセント・ジョンはいゝ人よ。」とダイアナは云つた。
「それはいゝ方ですし、偉大な方ですわ。ですけれど、あの方は御自分の大きな見解を追求なさるもので、小さな人間の感情や要求は無情むじやうにも忘れてゐらつしやるのです。ですから、小さな者にとつては、あの方の路にゐて踏み躙られないやうにけてゐる方がいゝのです。おや、いらしつた! 私あつちへ參りますわ、ダイアナ。」彼が庭に這入るのを見て私はいそいで二階へ上つて行つた。
 しかし晩餐のときにもう一度彼と顏を合せなくてはならなかつた。食事の間中彼はまつたく平生いつもの通りに落着いた樣子をしてゐた。私は彼がとても私に話しかけはしないだらうと思つてゐた。そしてまた結婚の計畫を續けることはあきらめてゐるのだと信じてゐた。だが結果はその兩點で私が間違つてゐたことを示した。彼はまつたく平生いつもの態度で、または近來の彼のいつもの態度――ひかへ目な鄭重ていちやうさでもつて私に話しかけた。きつと彼は私によつて起された怒りを征服する爲めに聖靈の助力を願つたのだ。そして今は彼が再び私をゆるしてくれたものと信じた。
 祈祷の前にする夕の朗讀らうどくに、彼は默示録もくじろく二十一章を選んだ。何時聽いても彼の口から聖書の言葉が出てくるのに耳を傾けてゐるのはいゝ氣持であつた――神の言葉を讀むとき程彼のよい聲が美しくまた張りのある響になつたことはなかつた――また彼の態度がひんのいゝ質朴しつぼくさの内にそんなに感銘を與へるやうになつたこともなかつた。しかも、今夜彼がその家族の眞中まんなかに坐つたとき(五月の月は窓掛を引かぬ窓に射し込み、卓子テエブルの上の蝋燭の光が殆んどらぬ位であつた)――彼が大型の昔風な聖書の上の身をかゞめて坐り、その頁から新しい天國、新しい地上の姿を描き出し――如何にして神が來て人間と共に住み給うたか、またその眼からすつかり涙を拭ひ去り給ひ、先のことは過ぎ去つたが故に、最早死もなく、悲しみも嘆きもなく、この上の苦しみもないことを約し給うたかを話したとき――その聲はなほ一層の嚴肅な調子となり、――その態度はなほ一層感動させるやうな意味を加へたのであつた。
 次の言葉は、彼がそれを口にしたとき――特に、かすかな、説明し難い程の聲音こわねの交錯によつて、彼がそれを讀み乍ら眼を私の方に向けたのを感じたとき、不思議に私の心を動かした。
「勝をうる者はこれ等の物を得てそのわざとなさん、我かれの神となり彼わが子と爲るべし。されど、」これがゆつくりと、明瞭に讀まれた、「臆する者、信ぜざる者、等々は火と硫黄いわうの燃ゆる池にてそのむくひを受くべし是第二の死なり。」
 以來私はセント・ジョンがどのやうな運命を私の爲めに憂ひてゐるかを知つた。
 切望するやうな熱烈さにまじつて、落着いた、抑制された勝利が、その章の最後の輝かしい詩句を口にする彼の言葉に表はれた。讀んだ人は自分の名が既に小羊の生命いのちの書に、記されてゐることを信じ、地上の王達がその光輝と名譽とを持ち來つたまちへ行くことを許される時期を待ち望んでゐるのだ。そのまちにはそこを照らす太陽も月も、神の榮光が輝くが故に、また小羊こひつじはその光であるが故に要らないのであつた。
 その章に續いた祈祷の内に、彼の全精力は集中され――いかめしい彼のありつたけの熱心さは目覺めた。深い熱烈さを以つて神と共に戰ひ、勝利を期したのである。彼は心の弱き者の爲めに力を願ひ、をりからさまよひ出た者に導きを、また現世と肉の誘惑が狹い路から誘つてゐる者の爲めに、しまひぎはにさへ歸つて來ることを願つた。彼は燃木もえぎが火から救ひ出されると同じやうな恩惠おんけいを願ひ乞ひ求めた。
 熱烈さといふものはどんなときにも深く嚴肅なものである。最初その祈祷を聽いたときには私はそれをいぶかつた。やがて、それが續いて調子が高まつて來ると、私はそれに感動し、遂には畏怖ゐふしたのであつた。彼は自分の目的の偉大なこと、善きことを衷心ちうしんから感じてゐるのであつた。彼がそれを辯護するのを聞いた他の人々も、同じやうに、さう感ぜずにはゐられなかつた。
 祈祷が終ると、私共は彼に別れを告げた。彼は朝く早くたなくてはならないのであつた。ダイアナとメァリーは彼に接吻をして部屋を出た――思ふに、彼からそつと云はれた言葉に從つてだらう。私は手を差し出して、いゝ旅をなさるやうにと云つた。
「有難う、ジエィン。僕は云つた通り、二週間の内に歸つて來ます。その間は、だから、未だ考へ直して見るやうにあなたに殘されてるのです。若し人間の誇りに耳を傾けてゐたのだつたら、僕はもうこの上あなたとの結婚のことなんぞ云ひはしなかつたでせう。しかし僕はつとめに從つて、最初の目的を堅くやり通します――萬事を神の御榮みさかえの爲めにするのです。主は長い間堪へ忍び給うた、僕もその通りにするのです。僕はあなたが罰の器のやうに滅びて行くのをはふつてはゐられない。まだ時がある内に悔い改めて下さい――決心なさい。我々はまだ日のあるうちに働くやうに命じられてゐることを『夜來らん、そのときは誰も働くことあたはず。』といましめられてゐることを思ひ出して下さい。この世にゐる内に善き物を得た『富める人』の運命を思ひ出して御覽なさい。神があなたから取り去られぬ、そのよりよき役目やくめを選ぶ力をあなたに與へ給ふやうに!」
 この最後の言葉を口にしたとき、彼は私の頭に手を置いた。彼は熱烈に、おだやかに話した。彼の樣子は、まつたく、愛する女を見る戀人のそれではなく、さ迷へる羊を呼び返す牧者ぼくしや――或ひはより以上に、彼の引き受けた魂を見守る守護の天使の態度であつた。すべての才能ある男子は、感情の人である、なしに拘らず、――熱狂者であると、野心家やしんかであると、暴君であるとに拘らず――若し彼等が眞面目まじめであるならば――彼等が征服し支配するとき、崇高な刹那を持つものである。私はセント・ジョンに對して尊敬の念を起した、――非常に強い尊敬だつたので、その勢がかくも長い間私の避けてゐた點に、眞直まつすぐに私を投げやつたのである。私は彼との爭ひを止め――彼の意志の急流のまに/\彼の生活の深淵に身を投げて、そこに自分自身を失はうといふ心を起した。嘗て以前に、ことなつた風に、異つた人によつて惱まされたと殆んど同じ位に、私は今彼に捉はれかけてゐた。いづれのときも私は愚か者であつた。あのとき負けてしまへば道義みちに叶はなかつたゞらうし、今負けるのは正義に反するのである。今私は時間といふ靜かな中間物を通して、あの危機を振り返る時さう思ふのである。そのときには、その間違ひであることが私にはわからなかつた。
 私は身動みうごきもせず、私の聖師の手の下に立ちつくしてゐた。私の拒絶は忘られ――恐怖は征服され――私の爭ひは麻痺まひしてしまつた。「この不可能なこと、」――セント・ジョンと私との結婚である――は急速度で「可能なこと」にならうとしてゐた。信仰は呼び――天使は招き――神は命じ給ひ――生命は卷物まきものの如くに捲き收められ――死の門は開いて彼方の永遠を示した。その樣は恰も、彼處の安全と幸福の爲めには、此處にあるすべてのものは、一瞬の内に犧牲に供されてもよいと云ふかのやうに見えた。薄暗うすくらがりの部屋はまぼろしで一ぱいになつた。
「今めることが出來ますか?」と傳道者はたづねた。その問ひはやさしい調子であつた。彼は出來るだけやさしく私を引よせた。おゝ、その優しさ! それは威力ゐりよくに比べてどれ程大きな力があることか! 私にはセント・ジョンの怒りを拒絶することは出來た。だが、彼の優しさの下には私はあしのやうに柔軟じゆうなんになつてしまつた。けれどもその間にも、もしまた負けてしまつたら、いつか私は、以前の叛逆のことを今におとらず他日後悔させられるといふことを知つてゐた。一時間の嚴肅な祈りによつては、彼の天性は變へられはしない。たゞ高められたばかりなのだ。
「確信さへあれば、めることも出來ます。」と私は答へた。「もしあなたと結婚することが神さまの御心だと確信出來れば、私あなたと結婚しますと、今此處で誓ふことが出來ます――後どうならうとも。」
「私の祈りは報いられたのだ!」と、セント・ジョンは叫んだ。彼は恰も私を求めるかのやうに私の頭にしつかりと手を置いた。彼は殆んどまるで私を愛するかのやうに私を腕に抱いた(殆んど、と私は云ふ――私は愛されるといふことが如何なることか知つてゐる故に、その差異が分つてゐる。だが、彼のやうに私は今愛を問題外にして、私は義務つとめのことのみを考へたのである)。私は未だその前に雲が渦卷うづまいてゐる内なる幻の朦朧な姿に滿足した。私は誠心から、深く、熱烈に、正しきことをしよう、そしてたゞそのことのみをしようと切望したのであつた。「何卒途をお示し下さい。」と私は天に願つた。私は嘗てない程昂奮してしまつた。そして、それに續いて起つたことが昂奮の結果であつたかどうかは讀者の判斷にまかせる。
 家中が靜まり返つてゐた。何故なら私はセント・ジョンと私自身の他はみんなそのとき眠りに就いてゐたのだと思ふから。一つの蝋燭は消えかけてゐた。部屋は月の光で一ぱいだつた。私の心臟は早く激しく鼓動して、その動悸どうきが聞えた。不意にそれがとまつた。それを貫き、忽ち頭から身體の端々はし/″\まで傳つて私を動かした云ひ表はせぬ感情の爲めにである。その感情は電撃でんげきのやうなものではなく、まつたく鋭い、不思議な、吃驚りさせるやうなものであつた。それは恰も今迄はその極限の能力が麻痺まひして、今醒めよと呼び出され強ひられたかのやうに、私の心に働きかけたのであつた。それは期待せるものを動かした。身體は顫へてゐる間も眼と耳とは待ち望んでゐた。
「何か聞えたのですか? 何を見てゐるのです?」とセント・ジョンはたづねた。私は何も見はしなかつた。しかしある聲が何處かで叫ぶのを聞いた――
「ジエィン! ジエィン! ジエィン!」――それつりであつた。
「おゝ神さま! 何でせうか?」私はあへいだ。
 私は「何處ですか?」と云つたかも知れない。何故ならそれは部屋の内でも――家の内でも――庭でもなかつたらしかつたから。それは空中から出て來たのでもなく――地の底から出たのでもなく――天から來たのでもなかつた。私はそれを聞いた――何處で、何處から、それを知ることは永遠に出來ない! しかも、それは人間の聲であつた――聞きなれた、愛する、忘れもしない聲――エドワァド・フェアファックス・ロチスター氏の聲であつた。そして、その聲は苦痛と悲歎の内にくるほしく、暗く、切々きれ/″\と響いた。
「今參ります!」私は叫んだ。「待つてゝ下さい! おゝ、私は參ります!」私は入口に駈けつけて通路を覗いた。暗い闇だつた。私は庭に走り出た。其處も空虚くうきよだつた。「何處にいらつしやるのです?」私は叫んだ。
 マァシュ・グレンの彼方の丘がかすかに答へ返した――「何處にゐらつしやるのです?」私は耳を澄した。風がもみの木の間にかすかに音を立てた。あらゆるものは曠野の寂寞と深夜の緘默かんもくとであつた。
「迷信よ、去れ!」門の傍の黒水松いちゐの木の横にその幽靈が黒く立ち現はれたかのやうに、私は云つた。「これはお前のまやかしでもなければ、お前の妖術でもない。自然のたことだ。自然が目覺めてたゞその最上のさくを――奇蹟きせきではない――おこなつたのだ。」
 私はひて來て、私を引き留めさうにする、セント・ジョンを押しのけた。今度は主權を持つのは私の番であつた。私の力は活動をはじめ、力を得た。私は彼に質問も注意もしてくれるなと云つた。私は彼に私から離れてゐてくれと云つた。私は一人でゐなくてはならないし、ゐたいのだ。直ぐに彼はその通りにしてくれた。命ずるに十分な力のあるところでは從順は、決してなくなりはしないものだ。私は自分の寢室に這入つて、かぎをかけてしまつた。膝をついて、私流で祈つた――セント・ジョンのとはちがふけれど、その遣り方がいゝのだつた。私は神の精靈の間近まで突き進んで來たやうに思へた。そして私の魂は感謝して神の足下にひれ伏した。私は感謝の祈りから立ち上り――決心して――恐怖することなく、光に導かれて横になつた――たゞひたすらに夜の明けるのを願つて。

三十六


 夜が明けた。曉方あけがたに私は起きた。一時間か二時間、私は寢室で自分の持物を整理するのにせはしかつた。短い留守の間、それらを其處に殘して置かうと思つて、抽斗ひきだしや衣裳戸棚を片附けたのである。やがて、私は、セント・ジョンが部屋を出るのを聞いた。彼は、私の部屋の入口に止つた。私は、彼がノックしないかと怖れた――否、たゞ一葉の紙がドアの下から差し込まれた。私はそれを取り上げた。それには次のやうな言葉が記されてあつた――
「昨夜あなたは餘りに突然に私のもとを立ち去つた。もう少し留つてゐたなら、あなたは基督教徒の十字架に、天使の冠にあなたの手を置いたことでせう。私が二週間目の今日歸つて來た時に、あなたがはつきりと決心をしてゐらつしやる事を期待します。その間、あなたが誘惑におちいらぬよう注意し祈つて下さい。私の信頼する魂は喜んで事をなさうとしてゐる、しかし私の見る肉體は、弱いのです。私はえずあなたの爲めに祈つてゐます。――あなたの、セント・ジョン。」
「私の魂は、」と私は心の中で答へた。「喜んで正しいことをしようとしてゐる。そしてこの肉體は、願はくば、神の御意みこゝろを完成すべく十分に強くありたい、その御意みこゝろがはつきりと私にわかつた以上は。何れにしてもこの疑ひの雲から出る路を探し――求め――搜り出して、確實といふ明るい日の目を見附ける爲めに、十分に強くなくてはならない。」
 ちやうど六月一日であつた。しかし、その朝は、曇つて寒かつた――雨は繁く窓枠まどわくを打つてゐた。玄關のドアが開いてセント・ジョンが出て行くのが聞えた。窓を透して見ると、彼が庭をよぎつて行くのが目に這入つた。彼は霧の深い曠野を過ぎてウ※[#小書き片仮名ヰ、469-上-1]トクロスの方角に向けて歩いて行つた。――そこで馬車に乘るのだらう。
從兄いとこよ、もう暫くつたら、恐らく私もその路を通つてあなた方の後を追ふでせう。」と私は思つた。「私もウ※[#小書き片仮名ヰ、469-上-4]トクロスで馬車に乘ります。私にも永久に英吉利を立ち去る前に會つて話をする人があるのです。」
 まだ、朝食には、二時間あつた。私はその暇を、靜かに部屋の中を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、私の計畫に現在のやうな決意を與へたおとづれのことを考へ乍ら、過した。私は自分の經驗した内的な感應かんおうを思ひ返してみた。何故なら、何とも云はれぬ不思議さと共に私はそれを思ひ出すことが出來るのであつた。私は自分の聽いたあの聲を思ひ起してみた。再び、私は、前と同じくむなしいこと乍ら、それが何處から來たか問うてみた。それは、私の内のもので――外界からのものではないやうに思はれた。私はたづねてみた、もしやそれは單なる神經から來た感銘――妄想ではないかと。私にはさとることも、信ずることも出來なかつた。それは、もつとずつと靈感に似たものであつた。その不思議な感情の衝動ショックは、ポオルとサイラスの牢獄のいしずゑを搖り動かした地震のやうにやつて來たのである。それは魂の室のドアを開き、その足械あしかせを解いたのだ――それは魂の眠りを醒まし、そこから魂は顫へ乍ら、耳を澄し乍ら、喘ぎ乍ら、び立つたのだ。そして驚いた私の耳に、顫へる胸に、れいを貫いて、三聲の叫びを顫はせたのだ。しかも靈は恐れも搖ぎもせず、恰もわづらはしい肉體から獨立して、自由に行つたある一つの努力が成功したのを喜ぶかの如くに雀躍こをどりしたのであつた。
「遠からず、」と心をめたときに私は云つた、「私は、昨夜私を呼んだと思ふあの人に就いて何か知るだらう。手紙は何の役にも立たなかつた――私が出掛けて行つたら、そのつぐなひになるだらう。」
 朝食のとき私は、ダイアナとメァリーに旅行をする心算つもりだといふことと、少くも四日は留守になることを告げた。
「獨りで、ジエィン?」と彼女等はいた。
「えゝ。どうも暫くの間、氣掛りでならなかつたお友達の消息を見聞する爲めなんですの。」
 きつとさう思つたことであらうが、彼女等は、私が彼女等以外には一人の友もないと信じてゐた、と云つてもよかつた。實際、私は、屡々さう云つてゐたからである。しかし彼女等はその眞實な、天性のしとやかさをもつて何も論議しなかつた。たゞダイアナが、私に、旅行が出來る位に確かに身體の工合はいゝのかとたづ[#ルビの「たづ」は底本では「たゞ」]ねた許りであつた。そして私は大變に蒼ざめた顏をしてゐると云つた。それに答へて、私は早く鎭めたいと願つてゐる心の心配を除いては、何も私を惱ますものはないと云つた。
 その上の支度をするのは容易たやすかつた。何故なら、私は何等の質問にも――臆測にも煩はされなかつたからである。私の計畫は、明かすことが出來ないと、一度彼女等に云つたので、彼等は同樣な状態の下にあつては、私も彼女等に與へたであらうと思ふ自由行動の特典を私に許して、親切にも賢くも、彼女等も默つて私が何も云はずに行ふ計畫を納得なつとくしてくれたのであつた。
 午後三時にムア・ハウスを出て、四時を少し過ぎたときには私はウ※[#小書き片仮名ヰ、470-上-11]トクロスの道標みちしるべの下に立つて、遠いソーンフィールドへ私を運んでくれる馬車の到着を待つてゐた。この物寂しい路と荒れた丘のしんとしたさなかに、私は遙かに遠い彼方から車の近づいて來るのを聞いた。それは、一年前に、あの夏の夕方――この場所に私が降りたと同じ馬車であつた――どんなにか寂しく、希望もなく、目的めあてもなかつたことか! 私が合圖あひづするとそれは止つた。私は乘り込んだ――だが、今はその乘り賃として私の全財産のつきるところで降りなくてはならないのではない。今一度ソーンフィールドへ向ふ途上にあつて、私は恰も家路に就いた傳書鳩のやうな氣持ちがした。
 三十六時間の旅だつた。私はウ※[#小書き片仮名ヰ、470-下-1]トクロスを火曜の午後出發した。そしてその木曜日の朝早く馬車は路傍みちばたの宿屋で馬に水をやる爲めに止つた。それがかこまれてゐる緑の生籬いけがきや廣い耕地や低い田舍の丘(あのモオトンの荒い、ノオス・ミッドランドの沼地ぬまちと比べて何といふ穩やかな風景、緑の色であらう!)の景色は、嘗て親しかつた顏の特徴のやうに私の眼に映じた。さうだ、私はこの風景の特徴を知つてゐた。確かに目的地に近づいたのだ。
「ソーンフィールド莊は、此處からどれ位あります?」私は馬丁にたづねた。
「あの耕地をよぎつて、丁度二マイルですよ。」
「旅は終つた。」と私は一人で思つた。私は馬車から降りて、るまで保管して置くやうに、箱を一つ馬丁に頼んだ。賃金を拂つて、馭者に心づけをやつて、歩き出した。きら/\した陽が、宿屋の看板に輝いてゐた。そして私は、鍍金めつきした字で、「ザ・ロチスター・アァムズ館」とあるのを讀んだ。私の胸は躍つた。もう既に私は私の主人の領地にゐるのだ。だが再び心は沈んだ。こんな思ひがそれを悄氣しよげさせたのであつた――
「お前の主人は、英吉利海峽の彼方にゐるのかも知れない。そして若しあの人が、お前の急いでゐるソーンフィールド莊にゐるとしても、傍には誰がゐるのだ? あの人の狂氣きちがひの妻。そしてお前はあの人に何もすることは出來ない。お前は、あの人に思ひ切つて口を利くことも、あの人のゐる所を探すことも出來はしない。お前は無駄な骨折ほねをりをしてるのだ。この上行かない方がいゝ。」と訓戒者は強ひた。「あの宿屋で、人々の話をお聞き。あの人たちはお前の探してるあらゆることを傳へてくれることが出來るし、お前の疑念を直ぐに解いてくれることも出來る。あの人の許に行つて、ロチスターさんはおうちかとおき。」
 この思ひつきは賢いものだつた。けれども、私はそれに從つて、行動することを、おしきつて出來なかつた。私は、絶望で、私を打ち碎くやうな返事をそんなにも恐れてゐたのである。疑ひを長びかすことは、希望をつなぐことである。私は、なほ今一度、あのやかたを、その希望の星の光の下に見得るのだ。私の前には※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り木戸があつた――私がソーンフィールドから逃れたあの朝、私を追ひかけ、苦しめる執念深い狂亂に目も見えず、耳も聞えず、氣もくるはんばかりに急ぎ過ぎたあの耕地があつた。どの路をとつたとも氣附かぬ内に、私は、いつかその眞中にゐた。何と早く歩いて來たことか! 或るときはどんなに駈けたことか! どんなにあの見慣れた森の最初の姿を見ようとこがれたことか! どんな感情で、知つてゐる樹々を、またその間に見える親しく見なれた草地くさちや丘の眺めを歡び迎へたことか!
 遂に森が見えて來た。白嘴鴉みやまがらすは黒く群れて、その大きな啼聲が朝の靜けさを破つた。不思議なよろこびが私を力づけた。私は道を急いだ。また別の耕地を過ぎ――小徑こみちを縫つて――そして中庭の塀が――臺所物置があつた。其處は白嘴鴉みやまがらすの群に未だ隱れてゐた。「始めに見るのは正面だ」と私は心をめた。「先づ直ぐにあの立派な鋸壁が、毅然きぜんとして私の眼を打つだらう。そして私の主人の、あの窓を見分けることが出來るだらう。もしかしたら、あの方はそこに立つてゐらつしやるだらう――彼は、早起きだから。それとも正面の鋪石しきいしの上を歩いてゐらつしやるかも知れない。たゞ、あの方を見ることさへ出來たら!――一目だけでも! そのときには、私はあの方に駈け寄るなどゝ云ふ狂氣きちがひじみた眞似まねをしないだらうか? 私には云へない――わからない。そしてもしさうしたとして――そしたら、どうなるだらう? 神よあの方を祝福し給へ! そしたら、どうなるだらう? あの方の眼差まなざしが私に與へ得る生命を私が今一度味はうといふことが誰を傷けるか? こんな譫言たはごとを云つてまあ。若しかしたら今あの方はピレネイ山脈の上で、それとも潮の干滿のない南の海で、昇る陽を見てゐらつしやるのかも知れないのだ。」
 私は、果樹園の低い塀に沿つて行き――その角を曲つた。丁度其處に、石の球を載せた二本の石柱で出來た、草地へ開いた入口があるのだつた。一つの柱の背後から、私はそつとやしきの眞正面をずうつと、覗き見ることが出來た。もしや、どれか寢室の窓覆が、最早上つてゐはしないか確かめたいと思つて、用心深く頭を近づけた。鋸壁、窓、長い正面――すべてが、この隱れた場所からは、私の思ふまゝに見えるのであつた。
 頭上を舞つてゐるからすは、多分私がかうして見渡すのを見守つたであらう。彼等が何と思つてゐるだらうと私は怪しんだ。きつと、彼等は、私が最初は非常に注意深くびく/\してゐて、やがて次第に非常に大膽に向う見ずになつたと考へたに相違ない。覗き見、それから長い凝視。その次には隱れ場所から離れて、草地の中に逍遙さまよひ込む。そしてその大きなやしきの前に不意に釘づけにされ、それに向つての長い、思ひ切つた凝視。「はじめは何といふ遠慮した樣子だつたのか。」と鴉共からすどもは云つたかも知れない。「今は何といふ愚かな大膽さだ?」
 讀者よ、こゝに一つの例をお聽きなさい。
 一人の戀人が、苔むした川岸に彼の愛する女が眠つてゐるのを見出す。彼は、彼女の目を醒させることなしに、彼女の美しい顏を一目見たいと思ふ。彼は、音を立てないやうに思慮深く、靜かに草の上に忍びよる。彼は立ち止る――彼女が目を醒ましたと思つて。彼は後退あとずさりする――決して見られないように。何もしんと靜まつてゐる。再び彼は近づく。彼女の上に身をかゞめる。輕い薄絹が彼女の顏の上に置かれてある。彼はそれを持ち上げて、低く身をかゞめる。今彼の眼は美の姿――休息の裡に温く、花のやうに、愛らしい姿を豫期する。その最初の一瞥のあはたゞしさ! そしてどんなに見詰めることか! 何といふ驚愕! どんなに、不意に、烈しく、彼は、一瞬間前には、指さへふれ得なかつたその身體を兩手に抱きかゝへることか! どんなに彼はその名を呼び、その重荷を取り落し、くるほしくそれを見つめることか! かうして彼は抱き、叫び、見つめる。何故なら彼の立て得る如何なる物音も――彼のなし得る如何なる動作どうさも最早彼女を目醒す心配はなかつたから。彼は自分の戀人が快く眠つてゐると思つてゐた。彼は、彼女が石のやうに、まつたく息絶えてゐるのを見出したのだ!
 私はおづ/\とした喜びをもつて立派なやしきを眺めた。見えたのは黒い廢墟はいきよであつた。
 門柱の背後に身を縮める必要はない――その奧に人の氣配けはひを恐れて、寢室の格子戸を見上げることもらない! ドアが開きはしないかと耳をそばだてる必要もない――鋪石の上に砂利道じやりみちに足音がしはしないかと想像することも! 芝生しばふも庭も踏みにじられ、荒れ果て、門は空虚うつろに口を開いてゐた。その正面は、嘗て夢に見た通りに、非常に高く突立ち、今にも崩れ落ちさうに見える、硝子がらすのない窓の穴のある貝殼のやうな壁であつた。屋根もなく、鋸壁もなく、煙突もなく――何もも壞れ落ちてゐた。
 そして、あたりは、死の緘默かんもく、荒凉たる曠野の寂寞であつた。此處にゐた人々に宛てた幾通かの手紙に、一本の返事も來なかつたのに不思議はない。それは、教會の側堂の丸天井に、信書を發見するのと同じことなのだ。物凄い、石の黒ずんだ色は、どんな運命の爲めにその館が沒落したかを物語つてゐた――火災の爲めである。しかしどういふ風に燃えたか? どんな物語がこの慘事に祕められてゐるか? 漆喰しつくひや大理石や木製品の他に、どんな損害がその爲めに起つたか? 財産と一緒に生命が損はれたのであらうか? もしさうなら、誰の生命が? 恐しい問ひだ。此處には答へをする誰もゐない――物云はぬ徴も、無言の證據さへない。
 崩れ落ちた壁の周りを、荒廢した内部を拔けて逍遙さまよふうちに、私は火事は近頃起つたのではないといふ證據を集めた。冬の雪があのがらんとしたアーチから吹き積り、冬の雨があの空虚うつろになつた窓枠から降り込んだと、私は思つた。何故なら、濡れたがらくたの堆積の間に、春は植物をいつくしんでゐた――草や雜草などが、石や落ちた※(「木+垂」、第3水準1-85-77)たるきの間のあちこちに生えてゐた。そして、おゝ! その間、何處にこの殘骸の不幸な主人はゐたのか? 何處の土地に? 何の保護の下に? 私の眼は我知らず門の傍にある灰色の教會堂の塔の方へ向いて、たづねた。「あの方はデイマァ・ド・ロチスターと共に狹い大理石の住家を分け合つてゐらつしやるのだらうか?」
 この問ひに對して何らかの答がなくてはならない。あの宿屋より他には、何處にもそれを見出すことは出來なかつた。そして程なく、私はそこへ引返して行つた。宿の亭主が自分で私の朝飯を部屋に持つて來てくれた。私は彼にドアめて腰掛けるようにと云つた。彼にたづねたいことがあるから。しかし彼がそれに從つたとき、どう云ひ出していゝかわからなかつた、それ程までに、私は、あり得る答へを恐れてゐたのである。けれども、たつた今、私が別れて來た荒凉たる光景は幾らか悲慘な物語に對する心構こゝろがまへを私にさせた。亭主は、いやしからぬ樣子をした、中年の男だつた。
「あなたはソーンフィールド莊を知つておゐでゞすね、無論?」と私はやつと云ひ出した。
「左樣でございますよ、昔私は彼處にゐたこともございます。」
「さう?」私の時代にではない、と私は思つた。私は彼に見覺えがない。
「私はくなられたロチスターさまの從僕じうぼくでございました。」と彼は附け加へた。
 くなられた! 私は避けようとしてゐた打撃を力一ぱいに受けたやうな氣がした。
くなられたつて!」私は喘いだ。「おくなりになつたのですか?」
「今のエドワァドさまのお父さまのことでございます。」彼は説明した。私は再び息をついた。血は再び元のやうに流れはじめた。この言葉でエドワアドさん――私のロチスターさま(神よ、あの方が何處にゐらつしやらうとも祝福を與へ給へ!)――は少くとも生きてゐらつしやる――は一口に云へば、「當代の御主人なのだ。」嬉しい言葉! その次に何がようとも――どんなことが出て來ようとも――割合わりあひに落着いて聞いてをられさうであつた。あの方が墓場の中にゐらつしやらないからには、地球の反對面にゐらつしやると分つたつても、しのんで聞いてゐられる、と私は思つた。
「ロチスターさんは、今ソーンフィールドに住んでゐらつしやるのですか?」無論どんな返事が來るか知つてゐながら、なほ現在彼が何處にゐるかといふ直接な問ひを延し度く思つて、私はさうたづねた。
「いゝえ、あなた――それどころか! 彼處には誰も住んではをりませんですよ。あなたは、この邊の方ぢやおありにならないやうでございますね、さもなければ、昨年の秋に何が起つたか、お聞きになつたでせうに。ソーンフィールド莊は、まつたくの廢墟になつてをります。丁度收穫時とりいれどきに、彼處は燒け落ちてしまつたんでございますよ。恐しい災難です! あんなに澤山あつた立派な財産は燒けてしまつて、殆んど[#「殆んど」は底本では「殆んで」]家具一つ出せなかつたのです。火事は眞夜中まよなかに出たので、ミルコオトからポンプが來ない内に、もうおやしきは火に包まれてしまつてゐたのです。恐しい有樣でした。私は自分で見たのです。」
眞夜中まよなかに!」と私は呟いた。さうだ、それがソーンフィールドに於ける呪はれた時間なのだ。「どうして起つたか、分つたのですか?」と私はたづねた。
「みんなは、推量しました、あなた――推量したのでございますよ。實際、私はそれは、もう疑ふ餘地がない程確かだと申します。あなたは、多分お氣づきにはならなかつたでせう。」と彼は椅子を少し卓子テエブルの方に引きよせ乍ら、聲をひそめて續けた。「彼處には一人の御婦人が――一人の――一人の狂人きちがひが、あのおやしきに閉ぢ籠めてあつたことを?」
「そんなやうなことを聞いたことがありますよ。」
「その女は非常に嚴重に閉ぢ籠めてありましてね、人々は幾年間も、そんな人がゐる事をまつたく知らなかつた位だつたのです。誰も見た人はないのでございますよ。たゞ噂で、そんな人間があの莊にゐると知つてゐるだけでした。その女が何と云ふ人間か何をする人間かは、なか/\推測出來ませんでした、エドワァドさまがあの女を外國から連れて來られたと云ひ、或る者はその女はあの方の情婦だと信じてゐました。ところが、二年前に妙なことが持ち上つたのです――實に妙なことが。」
 私は今こゝで自分自身の物語を聽くことを恐れた。私は彼に主要なる事實を思ひ出させるやうにした。
「それでその女の人が?」
「その女の人がですね、あなた。」と彼は答へた。「ロチスターさまの奧さまだつてことが分つたのですよ! その事があらはれたのは、幸ひにも不思議な風にです。ホールに家庭教師をしてゐた若い女の人がゐましてね、その人にロチスターさまがすつかり――」
「だけど火事は、」と私は云つた。
「そのことを申し上げるところです――エドワァドさまが戀をなすつたのです。召使達はあの方程夢中になつて思ひ込んだ人は見た事が無いと申しますよ。あの方は始終しよつちうその女の後を追つてばかりゐらしたんです。みんなはあの方にいつも目をつけてゐました――召使達のよくすることでね――そしてあの方は、その女に夢中になつておしまひになつて、何もも看過しておしまひになつたのですね。誰一人、あの方以外にはその女を、そんなに美しいと思ふものはまつたくなかつたのですから。その女は、小柄こがらな小さな人で、まるで子供みたいだつて云ひます。私は自分で見たことはないんですが、女中のレアがその女のことを話すのを聞きましたよ。レアも大變その女が好きでした。ロチスターさまは四十近くで、この家庭教師は廿歳はたちにならないのです。あの年頃の方が、若い娘に參つてしまふと、よく、まるでたぶらかされたやうになるものですからね。ところで、あの方はその女と結婚しようとなすつたのです。」
「その話はまた別のときに話してもらひませう。」と私は云つた。「今は私はある特別な譯があつて火事のことをすつかり聽き度いのです。その狂人きちがひの、ロチスター夫人がそれに關係があると疑はれたのですか?」
「お當てになりましたよ。あなた、火をけたのは他には誰もゐない、その女の人だつてことは、まつたく確かなことです。その人には、プウル夫人と云ふ世話をする女がゐましてね――その方面では腕利うできゝで、また大變に信の置ける女なんですが、たゞ一つ缺點があつたのです――看護婦や保姆ほゞなんて人達にはつきものゝ缺點ですがね――ジン酒の瓶を手許てもとに忍ばせて置いて、時々やり過したのです。辛い仕事をするのだから無理もありませんよ。しかしそれでもあぶないことでした。といふのは、プウル夫人が水をわつたジンを飮んだ後で、ぐつすり寢込んでしまつたときに、魔女のやうに狡猾かうくわつ狂人きちがひの女は、その女のポケットから鍵を取り出して寢室を拔け出て、家の中をふら/\と歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて思ひつき放題にどんな恐しい惡戲でもしてたのですからね。その女は一度は旦那さまを寢床ベッドの中で危ふく燒き殺さうとしたさうです。しかしそのことは私は存じません。ところで、その晩、その女は自分の次の室の掛布に先づ火をけて、それから階下へ下りて、家庭教師のだつた部屋へと行つたのです――(事がどういふ風に進んでゐたか、幾分知つてゐたらしく、その女にうらみを抱いてゐたのですね)――そして其處にあつた寢臺に火をけたのです。しかし仕合せとそこには誰も寢てはゐませんでした。家庭教師は二ヶ月前に逃げて、ゐなくなつてゐたのです。そして、手を盡して、ロチスターさまが、まるで世界中にまたとない貴重なものだつたかのやうに探したのに拘らず、その女のことは、皆目かいもく分らなかつたのです。そしてあの方は、荒々しく――失望の爲めにまつたく荒々しくお成りになつたのです。あの方はそんな野蠻な方ぢやあ決してないのですが、しかしその女がゐなくなつてからは、すさんでおしまひになつたのでした。またあの方は、たゞ一人にもなつておしまひでした。家政婦のフェアファックス夫人を遠方の彼女の友達のもとに遣つておしまひになりました。それは、立派に處理なさいましたよ。その方には、生涯年金をおつけになつて。そしてまたその方はそれを受けるに十分な人でした――とても善良な人でしたからね。あの方が後見してゐらしたアデェルさんは學校へ入れられなすつたのです。あの方はあらゆる人々と共に、親しい人々とも離れ去つて、まるで隱者のやうに、あの莊にたゞ獨り閉ぢ籠つておゐでゞした。」
「え! あの方は英吉利をお去りにはならなかつたのですか?」
「英吉利をお去りになる? いゝえ、どういたしまして! あの方は家の敷居しきゐを跨ぐこともなさらなかつたのです。ただ夜になると、まるで幽靈のやうに、庭や果樹園を正氣しやうきを失つたかのやうにお歩きになりました――私は正氣を失つてゐらしたんだと思ひます。何故かと云へばあんな家庭教師のちびが思ふまゝにしない前の、あの方程元氣な、大膽な、鋭い男の方はあなたゞつて見たことはお有りにならなかつたでせう。あの方はまた、或る人々のやうにお酒とか、骨牌かるたとか、競馬なんぞに行ける人ではなかつたし、それにまた大變に美男子といふのでもおありにならなかつたのです。あの方には、御自分の勇氣と意志とがおありでした。御存じの通り、私はあの方がまだお少さい頃から存じてをります。そして私としては、あのエア孃が、ソーンフィールド莊へ來る前に、海に溺れてゐればよかつたにと、幾度も思つたことです。」
「では、火事が出たときには、ロチスターさんは、おうちにゐらしたのですね?」
「左樣です、左樣でございますよ、そしてあの方は、上も下もすつかり火になつてしまつたのに屋根部屋へ上つてゐらして、召使たちをお起しになり、御自身でみんなを下ろしてお遣りになり、氣のくるつた奧さまを部屋から助け出す爲めに、またもや引き返してゐらしたのです。するとみんなはその女が屋根の上にゐると叫んだのです。其處には鋸壁の上に腕をつてその女が立つてゐて、一マイル位も離れたところまで聞える程の叫び聲を出してゐました。私は、この眼で見もし聞きもしました。大きな人で、長い黒い髮で、立つてるときにほのほの方にそれがなびいてゐるのが見えました。私も、それから、他の幾人かも見ましたが、ロチスターさまは天窓から屋根へお上りになつたのです。あの方が『バアサ!』とお呼びになるのが聞えました。あの方の近寄るのが見えました。すると、その女は大聲でわめくと共に身ををどらしたのです。そして次の瞬間鋪石の上に打碎かれて倒れてゐました。」
「死んで?」
「死んでゞす! えゝ、腦味噌なうみそや血が飛び散つたあの鋪石同樣生命はありませんでした。」
「何といふことでせう!」
「御尤もです。恐しいことでしたよ!」
 彼は身顫ひした。
「そして、それから?」と私は促がした。
「左樣、そのあとで、おやしきはすつかり燒け落ちてしまひました。今は少し計り壁が立つてるきりでございます。」
「他の誰かの生命がなくなつたのですか?」
「いえ。しかし多分、さうなすつた方がよかつた位ゐでせう。」
「どういふ意味です?」
「お氣の毒なエドワァドさま!」彼は叫んだ。「あんなことにおなりにならうとは殆んど思つても見ないことでした! 或る人は、あの方が最初の結婚を祕密にして、生きてる奧さまがお有りなのに、また別の人と結婚しようとなすつた當然のさばきだと云つてをります。しかし、私だけは、あの方をお氣の毒だと思ひます。」
「あの方は生きてゐらつしやると云ひましたね?」私は叫んだ。
「えゝ、えゝ、生きておゐでゞすよ。しかしおくなりになつた方がよかつたと大抵の人は申します。」
「何故? どうして?」私の血は再び冷たく流れはじめた。「何處にゐらつしやるのです?」と私はたづねた。「英吉利にゐらつしやるのですか?」
「はい――はい――英吉利にをられますよ。とても英吉利から外にはお出でになれないと思ひます――今は動かれないのです。」
 何といふ苦惱であらう! そしてこの男は、それを長引ながびかせようと決心してゐるやうに思はれる。
「あの方は、まつたくの盲目めくらです。」やつと彼は云つた。「えゝ、まつたくの盲目めくらです、エドワァドさまは。」
 私はもつと惡いことを恐れてゐた――彼が狂人になりはしないかと恐れてゐた。私は何がこの不幸の原因であるかたづねようと力を集中した。
「みんなあの方の勇氣の爲めです。また或る人は同じやうにあの方の親切の爲めだと云ふかも知れません。何故ならあの方はみんな殘らずあの方より先に出るまで、家をお出にならなかつたのです。とう/\、ロチスター夫人が鋸壁から身を投げた後に、あの方が大きな階段を下りていらつしやると、恐しい崩壞が來て――何も彼も燒け落ちてしまつたのです。あの方は燒け跡から助け出されました、生きてしかしみじめに傷ついて。一本のはりが幾らかあの方をかばふやうに落ちてゐました。しかし一方の眼はとび出し、一方の手はめちや/\に碎けてしまつてゐるので、外科醫のカァタァさんは、直ぐに切斷してしまひました。一方の眼は※(「火+欣」、第3水準1-87-48)きんしやうを起して、そつちの方も矢つ張りお見えになりません。あの方は、もうどうすることもお出來になりません。まつたく――盲目めくら不具者かたはものなのですから。」
「何處にゐらつしやるのです? 今何處に住んでゐらつしやるのですか?」
「ファーンディーンでございますよ。御自分の農園のおやしきで、三十マイル許り離れたまつたく寂しい場所でございます。」
「誰と一緒に?」
「ジョン爺さんと、その内儀かみさんとで、その他には誰もお入れにはならないのです。あの方の健康はもうすつかりおとろへておしまひになつたさうです。」
「何か乘り物があつて?」
「手前どもに二人乘り二輪馬車がございます。大變に立派な馬車でございます。」
「直ぐに用意させて下さい。そしてもしあなたのところの使ひの小僧が、今日暗くならない内にファーンディーンまで私を乘せて行つてくれるなら、あなたもその子にも、平生へいぜいの倍額の賃金をお拂ひします。」

三十七


 ファーンディーンのやしきは、森深く隱れた、よほど古びた、餘り大きくもなく、建築上の取柄とりえと云つて別にないやうな建物たてものであつた。その家のことは以前に聞いてゐた。ロチスター氏は、屡々そのことを口にしてゐたし、時々行きもしたのであつた。彼の父はその土地を遊獵の爲めの鳥獸を隱して置く場所として買つてゐたのだつた。彼はその家を貸したいと思つたであらうが、その在り場所の不適當なことゝ不健康なことゝの爲めに、借り主が見つからなかつたのである。だからファーンディーンは遊獵の季節に彼が其處へ行くときに、從者の便宜の爲めにしつらへた、二つ三つの部屋を除いては、住む人もなく設備もないまゝになつてゐた。
 この家に向つて或る夕方、灰色の空、寒い疾風、續け樣に降る細い刺すやうな雨の模樣を氣にしながら、私はも少しで暗くならうといふ頃やつて來たのであつた。約束通り二倍の賃金を拂つて、馬車と馭者を歸して了つて、最後の一マイルを私は歩いた。莊園のやしきの極く眞近かに迫つてさへそれを見ることが出來ない、それ程に深く鬱蒼うつさうと陰鬱な森が、周りに生ひ茂つてゐるのであつた。花崗岩みかげいしの門柱の間の鐵の門が入口を示した。そして、そこを通り拔けると忽ちに私は、自分が密に繁つた樹々の暗がりに這入つたのを知つた。其處には年を經てふしくれ立つた木の幹の間、さし交した枝のアーチの下を通つてこの森を下つて行く草に蔽はれた路があつた。直ぐに住家へ行き着くだらうと思ひながら私はそれに從つて行つた。しかし行つても/\それは終らず、いつまでも曲り曲つてゐて、家の氣配も庭らしいかげも見えなかつた。
 私は自分が間違つた方角に行つて道を迷つたのかと思つた。森の中の暗さと同じに本當の黄昏たそがれが私に迫つて來た。他の路を探して私はあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。何もありはしなかつた。すべては、繁り合つた幹、柱のやうな幹、繁茂した夏の群葉ぐんえふばかりで――何處にも開けたところはなかつた。
 私は歩みつゞけた。やつと路が開けて、樹立こだちが少しまばらになり、やがて柵が見え、次には家が――この薄明りでは殆んど樹立と見分けもつきかねるくらゐに、そのちかけた壁はしめつて緑色をしてゐた。たゞ※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)かけがねがかけてあるきりの門を這入ると、私は圍みの中の空地あきちの眞中に立つてゐた。そこは半圓形に森の樹が伐り拂つてあつた。花もなければ花壇もなく、たゞ廣い砂利路じやりみちが草地を圍んでゐるばかりで而もこれが重苦しい森の氣分の中にあるのであつた。家は正面に二つのとがつた破風はふうがあり、窓は格子やうで狹かつた。正面の入口も矢張り狹く、踏段が一段それについてゐた。その全體はあのロチスター・アムズ家の主人あるじの云つた通りに「まつたく荒凉たる場所」らしかつた。まるで平日の教會堂のやうにしんとしてゐて、森の木の葉に降りかゝる雨ばかりが、その近くに聞える音であつた。
「此處に一體人が住んでゐるのだらうか?」と私はたづねた。
 さうだ、誰か人間がゐるのだ、何故なら私は物音を聞いた――あの狹い正面の入口が開いて、誰か人影がその家から出ようとしてゐた。
 ドアゆつくりと開いた。人影が一つ暗がりの中に現はれて踏段の上に立つた――帽子を被らぬ一人の男である。彼は恰も雨が降つてるかどうかを見ようとするやうに、手を前にさしのべた。暗かつたけれど、私は彼を認めた――それは私の主人、エドワァド・フェアファックス・ロチスターに他ならなかつた。
 私は足を、そして殆んど息をも止めて、じつと彼を見つめて立つた――私自身はかくれて。そして、あゝ! 彼には見えず、彼をよく見ようとしてゞある。それは思ひがけない遭遇であつた。そしてまたよろこびが苦痛にはゞまれて抑止された會合であつた。私は叫ばうとする聲を抑へ、急いで近づかうとする歩みを、抑制することは困難でなかつた。
 彼の姿は以前の通りに頑丈で力強かつた。彼の身體つきは今もまだ眞直だつた、毛髮もまだつや/\と黒く、顏も變らず衰へてもゐなかつた。一年の間の如何なる悲痛によつても、彼の體力が壓服され、力に滿ちた若々しさがしぼまされるといふことはあり得なかつたのだ。しかし彼の容貌のうちに私は變化を見た。それは絶望的な鬱々とした樣子であつた――それは虐待され、縛られてゐて、怨恨と燃え、近寄るのも危險な野獸か猛鳥を、私に思ひ出させた。金の縁のある眼を慘忍な所業の爲めに取り去られた捕はれの鷲は、あの盲目めくらのサムスンのやうな樣子をしてゐたであらう。
 だが、讀者よ、あなた方は私がその盲目まうもくな兇猛さをもつた彼を恐れたとお思ひになるか?――若しさうだとしたら、あなたは殆んど、私を理解してはゐないのだ。やがてあの石のやうなひたひに、またその下に氣難かしげにきつと結ばれたあの唇に何としても接吻をしてあげるのだといふほのかな望みが私の悲しみに混つて來た。だが、しかし今ではない。私はまだ彼に挨拶したくなかつた。
 彼は踏段を下りて、ゆつくりと手探りするやうに草地の方に近よつた。今は何處に彼の大膽な歩みがあらう? やがて彼はどつちに曲つていゝか分らないかのやうに立ち止つた。彼は手を擧げて、まぶたを開いた。見えぬ眼で、而も緊張した努力で、彼は空を、樹々の半圓の方を見つめた。彼にとつては何もも空虚な暗闇であることが分つた。彼は右手を差しのべた。(不具になつた左腕は懷の中に入れたまゝであつた)。彼は身のまはりにあるものを手探りによつて知らうとしてゐるらしかつた。しかも彼は空虚を探るだけだつた。何故なら樹立は彼の立つてゐる所から幾ヤードか離れてゐたから。彼は、その努力を棄てゝ、腕を組み、無帽の頭に降りしきる雨の中にじつと默つて立つてゐた。そのときどこからかジョンが彼の傍に近づいた。
「腕におつかまりなさいませ。」と彼は云つた。「ひどい夕立が來るやうでございますが、お這入りになつた方がおよろしくはございませんか?」
つといてくれ。」といふのが返事だつた。
 ジョンは私に氣がつかないで引込んでしまつた。ロチスター氏はそのとき歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らうとした、だが空しく――何ももあまりに覺束おぼつかなかつた。彼は手探りに家の方へ引返すと、再び中に這入つて入口を閉めた。
 で、私は近づいて扉を叩いた。ジョンの妻が扉を開けてくれた。「メァリー、」と私は云つた。「お變りなくて?」
 彼女はまるで幽靈でも見たやうに仰天ぎやうてんした。私は彼女を押ししづめた。彼女の慌てた「こんなおそい時分にこのさびしい場所にゐらしたのは、本當にあなたなんでせうか?」といふ言葉に對して私は彼女の手をとつて答へた。そして彼女の後について臺所に這入つて行つた。そこにはジョンが暖い火の傍に坐つてゐた。私は手短かに、私がソーンフィールドを立去つて以來起つたことを全部聞いたといふこと、そして、私はロチスター氏にお目にかゝりに來たのだといふことを、二人に説明した。私はジョンに、馬車を歸らした通行税取立所つうかうぜいとりたてじよへ行つて、私が其處に殘しておいた鞄を持つて來るようにと頼んだ。それから、帽子と肩掛をとりながら、私はメァリーにその晩、莊園の邸内ていないに泊めてもらふことが出來るかどうか訊ねてみた。そしてその爲めの支度が、困難ではあるが出來なくはないと分つたので、私は彼女にとまりたいと云つた。丁度その時客間の呼鈴ベルが鳴つた。
「行つたら、」と私は云つた。「旦那樣にある人がお目に懸り度いと云つて下さいな、だけど私の名は云はないでね。」
「さあ會つては下さらないと存じますよ、」と彼女は答へた。「あの方は誰も彼もみんなおことわりになるのですから。」
 彼女がかへつて來ると彼が何と云つたかを私はたづねた。
「お名前と御用の向きを仰しやらなくてはいけませんさうで。」と彼女は答へた。そしてコップに水を注ぎ、それを蝋燭と一緒にお盆の上に置いた。
「それがあの方のお呼びになつた御用?」と私は訊ねた。
「左樣ですの。あの方はいつでも暗くなると蝋燭を持つて寄越よこさせになるのです。お眼は見えませんけれど。」
「そのお盆を私に下さいな。私が持つて行きます。」
 私はそれを彼女の手からとつた。彼女は居間の入口を教へてくれた。お盆は私が持つとふるへて、水はコップからこぼれた。心臟は強くせはしく私の肋骨ろくこつをうつた。メァリーは私の爲めにドアを開けて、私の背後を閉めた。
 この居間は陰氣に見えた。打ちやらかしの一塊の火は爐格子ろがうしの中に燃え落ちてゐた。そしてその上に蔽ひかぶさるやうにもたれて、高い古めかしい爐棚ろだなに頭を支へたこの部屋の盲目の主の姿が見えた。片側に横になつてゐた彼の老犬、パイロットは通路から動いて、恰もうつかり踏みつけられるのを恐れるかのやうに丸まつてゐた。私が入つて行くとパイロットはピンと耳を突立てた。そしてきやん/\くん/\鳴きながらび上つて私の方に跳びついて、もう少しで、私の手から、お盆を突き落すところだつた。それを卓子テエブルの上に置き、彼を優しく叩いて、私はやはらかに云つた。「靜かにおし!」ロチスター氏はどうした騷ぎか見ようと機械的に振り返つた。しかし何も見えないので、また向き直つて吐息をついた。
「水をお寄越し、メァリー」と彼は云つた。
 今は半分しきや入つてないコップを持つて、私は彼に近づいた。パイロットは騷いで私について來た。
「何うしたんだい?」と彼はいた。
「靜かにおし、パイロット!」と私は再び云つた。彼は口まで持つて行きかけた水を途中で止めて、耳を澄ましてゐるやうだつた。飮むと彼はコップを下に置いた。「お前、メァリーぢやないのか?」
「メァリーは臺所でございますよ。」と私は答へた。
 彼は思はず手を差し伸した。しかし何處に私がゐるか見えないので私には屆かなかつた。「誰です? 誰です?」と彼はその見えぬ眼で、見ようとするかのやうに訊ねた――むなしい、痛々しい努力! 「返辭をしておくれ――も一度口をいておくれ!」と彼は思ひ迫つたやうに、聲を高めて云つた。
「も少しお水を差上げませうか? 私、コップに入つてた半分をこぼしてしまひましたの。」と私は云つた。
「誰です? 何ですか? 誰が話してるのです?」
「パイロットも知つてをります。それからジョンもメァリーも私が此處にゐるのを知つてをります。私は今夜着いたばかしなのです。」と私は答へた。
「何としたことか! 何といふ妄想まうざうが、私を襲つたのだらう? 何といふ嬉しい狂氣きやうきになつたのだらう?」
「妄想でも――狂氣でもありません。妄想が湧くにはあなたのお氣はあまりにお強うございます。狂氣になるにはあなたのお身體はあまりに健康です。」
「そしてその話し手は何處にゐるのか? たゞ聲ばかりだらうか? おゝ、私には見えない。だがさはつて見なくちやならない。さもなければ、私の心臟は止つて、頭は破れてしまふ。何であらうとも――お前が誰であらうとも――手に觸れるものであつてくれ、でなければ私は生きてはゐられない!」
 彼は手探てさぐりした。私は、彼の探る手を捉へて、私の兩手の中に握り締めた。
「あの人のあの指だ!」と彼は叫んだ――「あの人の小さな細い指だ! もしさうなら、もつとあの人のものがある筈だ。」
 たくましい彼の手が私の握り締めを解いた。私の腕がつかまれた、肩も――くびも――腰も――私は絡まれ、彼に抱き寄せられた。
「ジエィンなのか? これは何だらうか? これはあの人の身體だ――これはあの人の背丈だ――」
「そしてこれがあの子の聲ですよ。」と私は云ひ添へた。「あの子はすつかりこゝに來ました。心も一緒に。喜んで下さい! またこんなにあなたのお傍に來られて嬉しうございます。」
「ジエィン・エア!――ジエィン・エア!」としか彼には云へなかつた。
「大事な旦那さま、」と私は答へた。「私はジエィン・エアでございます。私はあなたを探し出しました――あなたのところに歸つて來ました。」
「眞實に?――生きて? 生命いのちのある私のジエィンで?」
「おさはりになつてらつしやるではありませんか、あなた――あなたは抱いてゐらつしやいます、しかもそんなにきつく! 私は死骸のやうに冷たくもなければ、空氣のやうにからつぽでもありませんでしよ?」
「生きてゐる私の大事な人! 本當にこれはあの人の手だ、あの人の身體だ。しかし私はあんなみじめな目を見たのだ、今こんなに幸福になる筈がない。これは夢だ、かうして今してるやうに、も一度あの人を私の胸に抱き締めたと夜中よなかに見るあの夢と同じ夢なのだ。かうして接吻し――そしてあの人が私を愛してゐると思ひ、私を捨て去りはしないと信ずる、あれと同じ夢だ。」
「もう今日からは決してそんなことはありません。」
「決して、と夢は云ふのか? しかしいつも眼が醒めて見ればむなしい愚弄なのだ。そして私は寂しく、見捨てられて――私の生涯は暗く、孤獨で、希望もなく――魂はかわいてゐるのに飮むことを禁じられてをり――心は飢ゑてゐるのに飢ゑをみたすことも出來ない。今私の腕の中に巣喰つてゐるいとしいやさしい夢よ、お前も今までのお前の姉妹が逃げたと同じやうに飛び去るのだらう。だが行く前に接吻しておくれ――ジエィン。私を抱いておくれ。」
「こゝにも――そしてこゝにも。」
 私は、唇を、彼の嘗ては輝いたそして今は光のない眼に、押しつけた――彼の頭から髮を掻き上げて、それにも唇をつけた。不意ふいに彼は我と我身をふるひ起たせようとする樣子だつた。あらゆる現實の證據が彼を捉へたのである。
「あなたなのだ――さう、ジエィン? ぢや、あなたは私の處に歸つて來てくれたのか?」
「さうですの。」
「そしてあなたは何處かの流れに死人となつて横はつてるやうなことはないのですね? そしてまた見知らぬ他人の中にまじつたみじめな宿無しでもないのですね?」
「いゝえ、私今では獨立した女ですの。」
「獨立したつて! 何ういふ意味です、ジエィン?」
「マデイラの私の伯父をぢくなつて、五千ポンド遺してくれたのです。」
「あゝ! これは實際のことだ――これは現實だ!」と彼は叫んだ。「こんなことを夢に見る筈はない。それに、やはらかくて同時に、生き/\としてきび/\したあの人特有のあの聲だ。それが私のしぼんだ心を明るくする。その中に生命を吹き込む。――何だつて、ジャネット! あなたは獨立した人だつて? お金持の婦人だつて?」
「とてもお金持ですのよ。もしあなたが私と一緒に住むことを[#「住むことを」は底本では「住むこを」]お許しにならないとしても、私、自分の家を直ぐお隣りにてることも出來ますわ。そして夕方のお話相手が欲しいとお思ひになつたら、私の居間にいらしてお掛けになつてようございますわ。」
「でもあなたはお金持だから、ジエィン、きつとあなたの世話をするお友達があつて、私のやうな盲目めくら不具者かたはなんぞに身を捧げたりすることを許さないだらう?」
「私、獨立してゐて、しかも、お金持ですと申し上げたぢやありませんか。私は自由な身ですわ。」
「そして私と一緒にゐてくれるのか?」
「きつと――あなたさへ反對なさらなければ。私あなたの隣人にも看護婦にも主婦にもなりますわ。あなたは獨りぽつちでゐらつしやる。私、あなたのお相手になります――讀んであげたり、御一緒に散歩したり、お傍に坐つたり、お世話したり、あなたの眼になり手になる爲めに。そんな陰鬱なお顏をなさらないで下さいまし。私が生きてゐる限りは、あなたをみじめにつては置きませんわ。」
 彼は答へなかつた。彼は眞劒で考へ込んだやうな樣子だつた。彼は溜息を吐いた。彼は恰も物を云はうとするかのやうに、半ば口を開いた。だが再びそれを閉ぢた。ふと私は當惑を感じた。もしかしたら私はあまりに輕卒に慣例といふものを無視しすぎたのかも知れない。そしてセント・ジョンのやうに彼も私の輕卒を無作法ぶさはふと感じたのだ。實際私はこの申し出を、彼が私に妻になることを望み、また、私に申し込むだらうといふ心からしたのだつた――口に出されぬからとて、不確實だとはいへぬ期待が直ぐに、彼が私を彼のものとして求めるだらうといふことで私を元氣づけてゐたのであつた。しかしその結果に對するきざしは彼には見えず、しかも彼の顏色が曇つて來るのを見て、私ははつとして私が全然あやまりをしたので、若しかしたら愚か者の役を知らずにやつてゐたのかも知れないといふことに思ひ附いた。そして私はそつと彼の腕から身を退きはじめた――けれども彼ははげしく私を引き寄せた。
「いけない――いけない――ジエィン! 行つちやいけない。それはいけない――私はあなたにさはり、あなたの聲を聞き、あなたのこゝにゐる樂しさ、あなたの慰めの快さを感じたのだ。この喜びを棄てることは出來ない。私には、さういふ喜びは殆んど殘つてゐない――私はあなたが入用なのだ。世間ぢやわらふかも知れない――私のことを莫迦ばかな、勝手な人間だと呼ぶかも知れない――だがそれは何でもない。私のこの魂があなたを求めてゐるのだ。それが滿足させられるか、でなければ、それは口惜くやしまぎれに生命にかゝはるやうなことをするのだ。」
「ですから、あなたのお傍にをります――私、さう申し上げましたわ。」
「さう――しかしあなたは私の傍にゐて一つの事を諒解するのです。そして私はも一つのことを。あなたは多分私の手となり椅子となる決心をすることが出來るでせう――親切な優しい看護婦のやうに私にかしづいて(何故なら、あなたは愛のある心と寛大な魂を持つてゐて、それがあなたのあはれむ人々の爲めに、身を投げ出させるのだから。)そしてそれがまたきつと私の爲めにも十分なことをしなければならないでせう。多分もう今では私はあなたに對して父親のやうな氣持を抱かなくてはならないのでせうね? さうではない? さあ――云つて御覽。」
「あなたのお好きなやうにと思ひます。若しそれの方がいゝとお思ひになるなら、私、あなたの看護婦になるだけで滿足いたします。」
「だが、あなたは、いつまでも私の看護婦ではゐられないだらう、ジャネット。あなたは若い――いつかは結婚しなければならない。」
「私、結婚しようなんて考へてはゐませんわ。」
「それは考へなくちやいけないよ、ジャネット。もし私が昔の私だつたら、あなたに考へさせるやうにするだらうけれど――だが――眼も見えぬ木偶でくの坊ぢやあ!」
 彼は再び沈鬱になつてしまつた。ところが反對に私はだん/\快活になつて新しい元氣を得て來た。この最後の言葉が、どこにその困難が存してゐるかを私に見拔みぬかした。そして私にはそれは少しも困難なことではなかつたので、私は初めの自分の困惑からすつかりき放された。私は再び快活に口をきゝはじめた。
「誰かゞ、あなたをも一度人間らしくして差上げるときですわ。」く長い伸び放題はうだいになつた頭髮を分けながら、私は云つた。「何故つてあなたと云つたらまるで獅子しゝか、さもなければそんな風なものに變形してらつしやるのですもの。あなたはこのまはりの畑地の中のネブカドネザァルにまがひさうですわ。まつたくよ。あなたの頭髮と云つたらまるでわし羽根はねみたいですわ。爪が鳥の爪のやうになつてらつしやるかどうかはまだよく見てゐませんけれどね。」
「こちらの腕には、手も爪もありはしない。」と彼はふところから不具になつた方の手を出して私に見せ乍ら云つた。「たゞの切株で――恐ろしい恰好! さうぢやない、ジエィン?」
「それを見るのは悲しいことですわ。そしてあなたのお眼を――そのひたひ火傷やけどの痕を見るのは悲しいことですわ。けれども何よりも惡いことは、それにも拘らず人があなたを萬事に愛し過ぎて、大事にし過ぎるといふ危險があることです。」
「私の腕や、瘢痕きずあとだらけの顏を見たときには、ジエィン、あなたはぞつとしたでせうね。」
「そんなことお思ひになつて? そんな風には仰しやらないで頂戴。さもないと私、あなたの判斷力をけなすやうなことを何か云ひ出すかも知れませんもの。さあ、一寸の間離れさせて下さいまし、もつとよく火をおこして、を綺麗にしますから。どつさり火が燃えてるときにはお分りになつて?」
「えゝ、右の眼には光が――赤い靄のやうに見えますよ。」
「そして蝋燭もお見えになるのね?」
かすかに――みんな光つた雲のやうに。」
「私が見えまして?」
「いゝえ、妖精フエアリさん、でも聲を聞いて觸るだけでも勿體もつたいないくらゐだ。」
「お夕飯は何時?」
「夕飯は食べないことにしてゐます。」
「でも、今晩は少しお召し上りなさいね。私お腹がきましたわ。きつとあなたもでせう。たゞ忘れてらつしやるだけですわ。」
 メァリーを呼んで、すぐに私は部屋をもつと明るく片附けた。私は彼にも同じやうに心地こゝちのいゝ食事を調へた。私の心は、浮き立つて、樂しく、氣も樂に食事の間中、そしてその後も長い間彼に話しかけた。彼と共にゐると、何一つ惱しい自制も、よろこびや快活さを抑制することもなかつた。何故なら彼と共にゐると私はまつたく安らかな氣持であつた。私が彼につてゐると分つてゐたからである。私の云つたりたりするあらゆることは彼を慰めるか、元氣づけるか、どつちかのやうに思はれた。たのしい意識! 私の心はすつかり生命と光明を得た。彼といふ存在の裡に、まつたく私は生き、彼はまた私の裡に生きた。めしひではあつたが微笑は彼の顏に浮び、歡喜は彼のひたひに輝いた。彼の顏付は柔らげられ温められた。
 夕食が濟むと、彼は私に向つて樣々の質問をした。どこにゐたのか、何をしてゐたのか、どうして彼を探し出したのかなどに就いて。しかし――私はほんの部分的な返辭だけしかしなかつた――その夜、詳細のことを話すにはもうあまりに夜がけてゐた。それに私は深い感動するやうなことに觸れることを――新らしい感動の泉を彼の胸の内にほとばしらせることを欲しなかつた。今の私のたゞ一つの目的は、彼を快活にさせることであつた。私が云つたやうに彼は明るくなりはじめた。しかし、なほそれは發作的ほつさてきにであつた。もしも一瞬の沈默が話の間に這入ると、彼は落着きを失つて、私に觸り、「ジエィン」と呼ぶのであつた。
「あなたもり人間なのか、ジエィン? 確かにさうなの?」
「間違ひなしにさうでございますよ、ロチスターさま。」
「しかし、どうして、あなたがこんな暗い寂しい夕方、思ひがけなく私のこの寂しい爐傍ろばたに現はれるつてことがあり得よう。私は一杯の水を召使の手から受取らうと手をのばした。それにそれはあなたから渡された。私はジョンの女房が返辭をすると思つて物を問ふた。それなのに私の耳にはあなたの聲が聞えた。」
「それはメァリーの代りに、私がお盆を持つて這入つて來たからですわ。」
「それに今あなたと一緒にゐるこのときは魔法にかけられてゐるやうだ。過ぎた幾月かの間どんな暗い、陰氣な、希望のない生活を私は引きずつて來たか――なすこともなく、待つものもなく、むなしい日を送り迎へ、火が消えても寒さを感ぜず、食べることを忘れても空腹を感じなかつた。そして、絶間たえまのない悲しみ、そして、折々私のジエィンを今一度見たいと願ふ狂氣きちがひのやうな氣持、それを誰が知つてゐよう? 本當に、私はあの人のよみがへつて來るのを切望した、この見えぬ眼が元のやうになるようにと願ふより以上に。どうしてジエィンが私と一緒にゐて、私を愛してゐると云つてくれることがあり得よう。この人は來たと同じに不意に行つてしまはないだらうか? 明日はもうゐなくなるかも知れない。」
 彼自身のみだれた考へから離れて、平凡な、實際的な答へが屹度一番いゝ、そしてこんな氣持になつてゐる彼に最も安心を與へるものだと思つた。私は彼の眉毛まゆげ[#ルビの「まゆげ」は底本では「まつげ」]の上を指で撫でゝそれがげて了つてゐるのに氣が附いて、そして、それを昔の通りに太く濃くするものを何かつけようと云つた。
 親切な、どんなに、私によくしてくれたつて、それが結局何の役に立つだらう?
「大事な時にあなたはまたしても私を見捨てるだらう――何處へ行くのか、どういふ風にしてだか、私には分らないが、影のやうに通り過ぎて、そしてその後は、探し出されぬやうに消えてしまふのだらう。」
「其處にくしを持つてゐらつしやいまして?」
「どうするの、ジエィン?」
「一寸このくしや/\になつた黒いたてがみを、かすだけですわ。私近くであなたを熟々つく/″\見たときには、吃驚りするほどでした。だつてあなたは私のことを妖精フエアリだつて仰しやるけれど、あなたときたら確かに色黒善魔と云つた風でゐらつしやるわ。」
「恐ろしいの、ジエィン?」
「とてもですわ。あなたはいつもさうでしたわ、ねえ。」
「ふむ! 何處にゐてもその口の惡いのはなほらなかつたのだね。」
「でも、私それは善い人たちとゐましたのよ――あなたなんぞよりはずつといゝ――百倍もいゝ人たちと。あなたが今迄考へたこともないやうな思想や識見を持つた、まつたくあなたよりも洗煉された高尚な人たちですわ。」
「一體全體、誰とゐたのだ?」
「そんなに(身體を)ねぢつちあ、私あなたのお髮を頭から引き拔くぢやございませんか。でもそしたら、あなたは私の正體しやうたいを疑つてらつしやるのをお止めになるでせうね。」
「誰と今まで一緒にゐたのさ、ジエィン?」
「今夜はお聞きにならうつたつて駄目――明日までお待ちにならなくちや。ねえ、私のお話を半分きりにして置くといふのは、それをおしまひまでする爲めに朝食の卓子テエブルに出て參りますといふ保證みたいなものでせう。それに、そのときには私あなたの爐傍ろばたにたつた水一杯を持つて現はれるのぢやないことを考へて置かなくちやなりませんわ。フライにしたハムは勿論のこと、少なくとも、鷄卵たまごを一つ持つて來なくちやなりませんわね。」
「こいつしやうのない取換兒とりかへご――妖精フエアリに生れて、人間に育つたつて! あなたは、まるでこの十二ヶ月といふものが、私にはなかつたやうな氣持にさせる。もしサウルが、あのダヴィドの代りに、あなたを持つてゐたら、あの惡鬼どもは、竪琴たてことの力を借りなくとも、祓ひ淨められたことだらう。」
「さあ、これで綺麗にちやんとなりました。では、これで御免下さいまし。この三日間、私、旅行をしつゞけでしたの。きつと疲れてるだらうと思ひます。お休み遊ばせ。」
「一言だけ、ジエィン、あなたがゐた家は女の人ばかりだつたの?」
 私は笑つて逃げ出した。そしてなほも笑ひながら二階に駈け上つた。「いゝ考へだわ!」と、私は嬉しくなつて考へた。「しばらくの間あの方をらして、憂鬱を忘れさせてあげる方法が分つたわ。」
 次の朝恐ろしく早く彼が起きて一つの部屋から次の部屋へと歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る物音が聞えた。メァリーが下りて來るや否やこんなことをたづねてゐるのが聞えた。「エアさんはおとまりかい?」それから、「どのお部屋にお連れしたんだい? かわいた部屋かい? もうお目覺めかい? 行つて何か御用がないかたづねて御覽、それから何時降りていらつしやるかつて。」
 朝食の用意が出來たと思ふや否や、すぐに私は降りて行つた。私はそつと忍んで部屋に入つて行つて、彼が私の來たのに氣附かない内に彼を眺めた。本當に、あのさかんな精力せいりよくが肉體的の弱さに征服されたのを見ることは悲しいことであつた。彼は自分の椅子に腰掛けてゐた――靜かに、しかしそれは休息の爲めではなく――明らかに期待して。今は習慣的になつた悲哀の筋が彼の雄々をゝしい顏にきざまれてあつた。彼の顏は再びひともされるのを待つてゐる消えたラムプを思ひ出させた――そして、あゝ! その活々いき/\とした顏の輝きを今かゞやかすことの出來るものは彼自身ではない。その役は他の人に頼まねばならないのである! 私は明るく氣輕にしてゐようと思つてゐた。けれども強かつた人の力無さはいたく胸を打つた。しかし私は出來るだけの快活さを以て彼に挨拶した。
「よく晴れたいゝ朝でございますよ、」と私は云つた。「雨はすつかり上つて、その後が氣持よく晴れてゐます。早く散歩いたしませうね。」
 私は輝きを醒ました。彼の容貌は明るくなつた。
「おゝ、本當にそこにゐるのですね、雲雀ひばりさん! こつちへおいで。あなたは、逃げもせず――消えもしなかつたのか? 一時間ばかり前、あなたの同類があの森の遙か上の方で歌つてるのが聞えたが、しかし旭日が光線を持たないと同じやうにその歌も、私には音樂ではなかつた。地上のあらゆる律調メロデイは、私の耳にはジエィンの舌に集中されてゐるのだ(それが生れつきだまつてゐるのでなくて私は嬉しい)。私の感じ得るすべて太陽の光はこの人のゐるところだ。」
 彼の、この信頼の言葉を聞いて、私の眼には涙が浮かんで來た。それは恰もとまり木につながれた王者のやうな鷲が、雀に向つて、そのやしなになるようにと懇願することを餘儀よぎなくされてゐるやうなものだつた。しかし、私はめそ/\してはいけない。鹽つぱいしづくを拂ひのけると、せはしく朝食の支度に取りかゝつた。
 その朝の大部分は戸外で過した。私は濡れて荒れ果てた森から明るい野へと彼を連れ出した。私は彼に向つてどんなに萬物が輝かしく緑色をしてゐるか、どんなに花や生籬いけがき活々いき/\となつてゐるか、どんなに空がきら/\と青いかを説明した。私は彼の爲めに人目につかぬ居心地のいゝ場所に腰掛け場所を探した――乾いた木の切株である。腰を下した時に、彼は膝の上に、私を腰掛けさせようとしたことを私はこばまなかつた。彼も私も二人共離れてゐるより添つてゐる方がより幸福なのに何でそんなことをする必要があらう? パイロットは私共の傍に横になつてゐた。邊りはしんとしてゐた。私を腕に抱きしめ乍ら突然彼は口を切つた――
「慘酷な、慘酷な逃亡者! おゝ、ジエィン、あなたがソーンフィールドをけ出したと知つたとき、そしてどこにもあなたが見つからなくて、あなたの部屋をしらべてみると、お金もそれと同じ役に立ち得る物も何も持つては行かなかつたことを確めたとき、私はどんな氣持がしたらう! 私のあげた眞珠の頸飾くびかざりは手もつかないで小函こばこに入つてゐた。あなたの鞄は結婚の旅の用意をした時のまゝひもをかけぢやうを下して置いてあつた。たくはへもなく、一錢もないまゝで、私の大事な人はどうなることかと私は訊ねた。そしてどうしたのだらう? 今聞かせておくれ。」
 かう云はれて、私は去年中に私の經驗した物語をはじめた。あの放浪と飢餓きがの三日間に關することは私はずつと加減した。何故なら總てのことを彼に話すことは不必要な苦痛を加へると思つたからである。それは私の云つた僅かのことが彼の誠實な心を私が思つた以上に、深く苦しめたからである。
 彼は、私が世に立つて行く手段も講じないで、あんな風に、彼の處から出て行くといふはふはないと云つた。私は彼に私の意志を語つて置くべきだつたらう。私は彼を信ずべきだつたらう。彼は私に彼のめかけになれとはひなかつたらう。絶望したときの彼は亂暴に見えたけれど、本當は私の暴君になるには、彼はあまりによく、あまりにやさしく私を愛してくれたのだ。彼は、私がこの廣い世間に友もなく、身を投げ出す程なら、返報へんぽうに接吻するとまでも望まない位で、彼の財産の半分を私に與へたであらう。私が彼に告白した以上に、堪へ忍んで來たことを、彼は、きつと、推察してゐたのだ。
「でも、私の苦難がどんなものであらうとも、それは極く短いものでした。」と私は答へた。そして私はムウア・ハウスでどんな待遇を受けたか、また[#「また」は底本では「まだどうして」]どうして學校教師の職を得たか等に就いて語り續けた。當然の順序として、財産の相續、血縁けつえんの發見などがそれに續いた。勿論私の話の進行につれてセント・ジョン・リヴァズの名が屡々這入つた。話を終るとその名はすぐに取り上げられた。
「そのセント・ジョンといふのは、では、あなたの從兄いとこなんだね?」
「えゝ。」
「その人のことをあなたは幾度も云つたけれど、あなたはその人を好きだつたの?」
「大變いゝ人なんですもの。好きにならずにはゐられませんでしたわ。」
「いゝ人! といふのは尊敬出來る品行方正な五十位の人といふ意味なの? それともどういふ意味なの?」
「あら、セント・ジョンは、まだたつた二十九ですわ。」
「佛蘭西人の所謂『まだ若いといふ奴ジューヌアンコール[#ルビの「ジューヌアンコール」は底本では「シューヌアンコール」]』だ。その人つてのは脊の低い、冷淡な、朴訥ぼくとつな人で?――その人の善良さといふものが徳に對して勇敢であるといふよりは寧ろ惡をないといふ方にあると云ふやうな人?」
「あの人は飽きることが無い程活動的なのですの。偉大な高尚な行爲が、あの人の理想なのです。」
「しかしその人の頭は? 多分どつちかと云ふと愚鈍な方なんだらう? 云つてゐることは、當り前でも、あなたはその云ひぐさを聞くと、肩をすくめるやうなんだらう?」
「あの人は殆んど口をきませんの。云ふことと云つたらいつも要領を得てゐますのよ。隨分頭腦あたまのいゝ方ですわ。まあどつちかと云へば感じ易い方ぢやなくて、強い方だと思ひますね。」
「ぢあ、才幹さいかんのある人なの?」
「本當にさうなんですの。」
「十分に教育がある人なの?」
「セント・ジョンはひろくて深い學者ですわ。」
「態度はあなたの趣味にははないとあなたは云つたと思ふけれど?――氣障きざ坊主臭ばうづくさいつて?」
「私、あの人の態度のことは云つたことはありませんわ。ですけど、私の趣味が大變に低いのでなければ、それはつてる筈ですわ――洗煉されてゐて、おだやかで、紳士らしいのですもの。」
「風采は――風采に就いてあなたがどんな説明をしたか忘れたけれど――白の頸卷布カラーに、半分締め殺されさうになつて、厚底の編上靴あみあげぐつをはいてり返つてる青二才の牧師補と云つたやうなのか知ら、えゝ?」
「セント・ジョンは、ちやんとしたなりをしてをりますわ。あの人は綺麗な人ですわ――脊が高くて、色が白くて、碧色の眼をして、ギリシヤ型の横顏なんですの。」
(傍白)「畜生!」(私にむかつて)「その人を好きだつた、ジエィン?」
「えゝ、ロチスターさん、好きでしたわ。だけど、そのことはさつきおきになりましたわ。」
 無論、私はこの質問者の心を見て取つた。嫉妬しつとが彼を捉へた、彼を刺したのである。しかしその刺※[#「卓+戈」、U+39B8、493-上-1]は健康によいものであつた。らす憂鬱の牙から彼を離して、休息させるものであつた。だから、私はその蛇をすぐには封じようとしなかつた。
「多分、あなたは、もうこれ以上、私の膝に腰を掛けてゐたくないでせう、エアさん?」と云ふのが、その次の幾らか豫期しない言葉であつた。
「どうしてゞすの、ロチスターさん?」
「たつた今、あなたが描いて見せた畫は、むしろ壓倒し過ぎるほどの對照を暗示ほのめかしてゐるのだ。あなたの言葉はみやびやかなアポロの姿をいともうるはしく描き出してゐる。あなたの心はその男で一ぱいなのだ――脊が高くて、色白で、碧色の眼をして、ギリシヤ型の横顏をして。ところがあなたの眼は※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルカンを見てゐる――正眞正銘しやうしんしやうめいの鍛冶屋で、色が黒くて、肩幅の廣い。おまけに盲目めつかち跛足びつこときてる。」
「私そんなことを今迄考へたこともありませんでしたわ。だけどまつたくあなたときたら、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルカンと云つた方がよさゝうですわね。」
「いや、私を置き去りになすつても構ひませんですよ。たゞ行つておしまひになる前に、」(そして彼は前よりもつときつく私を抱きしめた)「ほんの一つ二つ質問に應じて下さりやあ有難いのですが。」
「どんな質問ですの、ロチスターさん?」
 そこで、このきびしい訊問がつゞいた。
「セント・ジョンは、あなたが彼の從妹いとこだと分る前に、あなたをモオトンの學校教師にしたのですね?」
「えゝ。」
「度々會つたのですか? 時々は學校にもたづねて來たのですね?」
「毎日でしたわ。」
「あなたの遣り方に賛成したのですね、ジエィン? それは器用きようなものだつたと思ふ、あなたは才能のある人だから。」
「それに賛成しましたわ――えゝ。」
「あなたのうちに向うで豫期し得なかつたやうな樣々なものを發見したでせうね? あなたの才藝のあるものは普通ぢやあないから。」
「そんなことは、私には分りませんわ。」
「あなたは學校の近傍に小さな家を持つてたと云つたが、そこへあなたに會ひに來たことがあるのですか?」
「時々ね。」
「日が暮れてからは?」
「一度か二度くらゐありましたわ。」
 沈默。
從兄妹いとこだと分つてから後、どれ位の間その人やその妹達と一緒に住んでゐたのです?」
「五ヶ月でした。」
「リヴァズは、その家族の女の人たちと始終しよつちゆう一緒にゐたのですか?」
「えゝ。奧の居間ゐまがあの人と私共の書齋でしたから。あの人は窓際まどぎはに掛けてたし、私共は卓子テエブルの方にゐましたの。」
「その人はうんと勉強したのですか?」
「とても。」
「何を?」
「ヒンドスタン語を。」
「そしてその間、あなたは何をしてゐた?」
「私、はじめには、獨逸語を勉強しましたの。」
「その人が教へたのか?」
「あの人は獨逸語は出來ませんの。」
「ぢや何も教へなかつたの?」
「ヒンドスタン語を少し許り。」
「リヴァが、あなたに、ヒンドスタン語を教へたんだつて?」
「えゝ、さう。」
「そしてその妹達にも?」
「いゝえ。」
「あなたゞけに?」
「私だけにですわ。」
「教へてくれと云つたのか?」
「いゝえ。」
「彼があなたに教へてやらうと云つたのだね?」
「えゝ。」
 また沈默。
「何故教へようとしたのです? ヒンドスタン語なんぞあなたに何の役に立つのです。」
「あの人は私を印度に連れて行かうと思つたのですわ。」
「あゝ! それでことがはつきりわかつた。あなたと結婚しようと思つたのだね?」
「結婚してくれつて云ひましたのよ。」
「それは嘘だ――私をいぢめる爲めのしからん思ひつきだ。」
「御免下さい、それは文字通り本當なのです。あの人は一度ならず私に申し込みましたの、しかも、いつもあなたがなさつたやうに自分の思つてることを頑固ぐわんこひて。」
「エアさん、繰り返して云ひますがね、私を置き去りにしていらして構ひませんよ、幾度同じことを云ふのだらう? 何だつてそんなに執拗しつこく私の膝に坐つてゐるのです、私が行つて下さいと云つてるのに?」
「だつて此處が樂しいんですもの。」
「いや、ジエィン、あなたは此處にゐて樂しい筈はない、何故つてあなたの心は私の處にはないのだ。それはこの從兄いとこ――このセント・ジョンの處にあるのだ。あゝ、今の今まで私は自分の可愛かあいいジエィンはすつかり私のものだと思つてゐた! 私を捨てゝ行つたときにさへ、私を愛してゐたと信じてゐた。それがひどいつらさの中での僅かな喜びだつた。長い間、私どもは別れてゐたけれど、別れ/\になつてゐることを思つて、熱い涙を流したけれど、私があの人のことを歎いてゐる間に、あの人は他の人を愛してゐたとは思ひもしなかつた! だが悲しんだつてどうにもなりはしない。ジエィン、行つて下さい。行つてリヴァズと結婚なさい。」
「それぢあ、私を振り落して下さい――押しのけて下さい。何故つて、私、自分から進んであなたにお別れはしませんから。」
「ジエィン、私は何時でもあなたの聲の調子が好きだ。それは未だ希望をよみがへらせ、いかにも眞實に聞える。それを聞くと私は一年昔にかへる。私はあなたが新らしいえんを結んでゐることを忘れてしまふ。だが私は莫迦ばかではない――お行き――」
「何處へ私は行かねばなりませんの?」
「あなたのみちを――あなたの選んだ良人をつとと共に。」
「それは、誰のことですの?」
「あなたは知つてる――このセント・ジョン・リヴァだ。」
「あの人は私の良人をつとぢやありません、また今から先にだつて決してなりはしません。あの人は私を愛してはゐません。私もあの人を愛してはゐません。あの人は(あなたのやうな愛し方ぢやないけれど、あの人だつて愛することは出來るのです)ロザマンドと云ふ美しい若いお孃さまを愛してゐるのです。あの人はたゞ私が相當な傳道者の妻になるべきだと思ふことだけで私に結婚しろと云つたのです。そんなことは私ようとはしなかつたのですけれど。あの人は善良で偉大な人ですけれど、でも苛酷かこくです。そして、私に對してはまるで氷山のやうにひややかなのです。あの人はあなたのやうぢやありません。私はあの人の横にゐても、近くにゐても、一緒にゐても幸福ぢやありません。あの人は私に對して我を忘れることもなければ――氣に入つてもゐないのです。あの人は私にはまるで興味がないのです。若いといふことでさへ駄目なのです――たゞほんの僅かな有用な精神的なことつきりなのです――それでも私、あなたのところから、あの人のもとに行かなくてはいけませんの?」
 私は思はず身顫ひして本能的に私の盲目まうもくの、しかしいとしい主人にひしと縋りついた。彼は微笑んだ。
「何だつて、ジエィン! それは本當なのか? それが本當にあなたとリヴァズの間の事情なのか?」
「決して間違ひありません! おゝ、あなたは嫉妬しつとなんぞなさることはりませんわ! 私、あなたの悲しみをまぎらさうと思つて、ちよつと、からかはうと思つたゞけなんです、だつて怒る方が悲しむよりはましだらうと思つたもんですから。ですけど、若しあなたが私にあなたを愛させ度いとお思ひになるなら、私がどんなにあなたをお愛ししてゐるかあなたに見ることがお出來になつたら、あなたはきつと誇らしくお思ひになり、滿足なさいますでせう。私の心はみんなあなたに差上げます――あなたのものです。もし、運命が私の心以外のみんなをあなたのお傍から永久に奪ひ去つてもそれだけはあなたのお傍に殘つてをります。」
 再び、彼が私を接吻したときに、いたましい思ひが彼の面を曇らせた。
「この見えぬ眼! この不具かたはの腕!」と彼は悲しげに呟いた。
 私は彼を慰める代りに抱きしめた。私には彼の思つてゐることがわかつてゐた。そして彼の代りに口を利かうとしたけれど、云ひ得なかつた。暫し、彼が顏をそむけたとき、私は一滴ひとしづくの涙が閉ぢたまぶたから流れて、男らしい頬に轉び落ちるのを見た。私の胸は迫つた。
「私はソーンフィールドの果樹園の雷にうたれた栗の木と同じだ。」と彼はやがて口を切つた。「そして、そんな朽木くちきつぼみ忍冬すゐかつらにその朽目を若々しさで蔽へと命ずる何の權利があらう?」
「あなたは朽木ではありませんわ――雷に打たれた木ではありませんわ。あなたは青々として力に滿ちてゐらつしやいます。草はあなたがお求めになつたつて、ならなくたつてあなたの根の邊りに生えます。何故つてあなたのその美しい木蔭が好きなんですから。そして生えたらそれはあなたにりかゝり、あなたの周りに捲きつきます、何故つてあなたの力はそれは安全な支へになつて下さるのですもの。」
 再び彼は微笑ほゝゑんだ。私は彼を慰め得たのであつた。
「あなたは友達のことを云つてゐるの、ジエィン?」と彼は訊ねた。
「えゝ、お友達のことを。」と私はためらひ勝ちに云つた。何故なら私は自分が友達以上のことを意味して云つてるけれど他のどんな言葉を使つたらいゝか分らなかつたから。彼が私を助けてくれた。
「あゝ! ジエィン。しかし私は妻が欲しいのだ。」
「本當!」
「さうだ。驚いた?」
「無論ですわ。だつて今まで、そんなことはまるつきり仰しやらなかつたんですもの。」
「嫌ならせ?」
「それは場合によりけり――あなたのお好きなやうにですわ。」
「それをあなたが私の代りにしていゝのだ。ジエィン。私はあなたのめたのに從ふから。」
「ではお選び下さい――最もよくあなたを愛する者を。」
「少くとも私の選ぶのは――私の最も愛する人だ。ジエィン、私と結婚してくれるか?」
「はい。」
「手を取つて連れ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らなくてはならない、こんなあはれな盲目めくらの男と?」
「はい。」
「あなたが世話を見てやらなくてはならない、二十も年上の跛足びつこの男とでも?」
「はい。」
「心から、ジエィン?」
「本當に、心から。」
「おゝ可愛い人! 神よこの人を祝福しむくいて下さるように!」
「ロチスターさん、――もし私が今迄のうちに善い行ひをしたことがあるなら、――もし善いことを考へたことがあるなら――もし誠心こめたあやまちのない祈りを捧げたことがあるなら――もし正しい望みを抱いたことがあるなら、今こそ私はむくいられたのです。あなたの妻になることは私にとつては、この世に於けるある限りの幸福なのです。」
「何故と云つて、あなたは喜んで犧牲になるのだから。」
「犧牲ですつて! 私が何を犧牲にしてゐまして? 飢ゑたるものには食物を。望むものには滿足を。私の大事なものに腕を捲き――愛するものに唇をつけ――信頼するものゝ上にいこふ特權を得る、それが犧牲となることでせうか? もしさうなら、まつたく私は喜んで犧牲になりますわ。」
「そして私の弱さを我慢し、ジエィン、――私の缺點を看過してなのだ。」
「そんなことは私には何でもありません。私は本當にあなたのお役に立つ今の方が、あなたが與へ手であり保護者であるより以外の役を輕蔑けいべつしてゐらしたあの誇らしい獨立の時代のあなたよりも好きなんですの。」
「今迄は手をかされることをにくんで來たけれど――以後は手を取られることをもう憎みはしないと思ふ。私は自分の手を召使に取らせるのは嫌だ。だが、ジエィンの小さい指に握られてゐると思へば嬉しい。私は召使共のうるさい世話よりもまつたくの孤獨がいゝと思つてゐた。しかし、ジエィンのやさしい心遣こゝろづかひは絶えざる喜びだ。ジエィンは私につてゐる。私はこの人に適つてゐるだらうか?」
「もう、細かな/\ところまで。」
「こんな工合なら何も待つてることはらない。直ぐにも結婚しなくちやあね。」
 彼は熱心な樣子になつて話した。彼の昔からの性急せつかちさが出て來た。
「この上ぐづ/\しないで私共は同體にならなくては、ね、ジエィン。許可證きよかしようをもらふだけだ――それから結婚しよう。」
「ロチスターさん、今氣がついたのですが、もうとつくに陽は正午おひるを過ぎてしまひましたわ。パイロットはもう食事に歸つてしまつてゐます。時計を見せて下さいまし。」
「それはあなたの帶にはさんでお置き、ジエィン、そして以後も持つてゝ下さい。私はもうそれは要らないのだから。」
「もう殆んど午後の四時近くですわ。おなかがおきになりませんこと?」
「今日から三日目が我々の結婚式の日ですよ、ジエィン、立派な衣裳や寳石の心配はもう何もしないことにしよう――爪の先程の價値もないやうなものはみんなね。」
「陽が照つて雨のしずくはすつかり乾いてしまひましたわ。風もなくなつたし、隨分暑くなつたこと。」
「ねえ、ジエィン、あなたは私があのあなたに上げた小さな眞珠の頸飾くびかざりを今でもこの襟飾ネクタイの下の黒い頸に捲きつけてゐることを知つてゐる? 私は遺品かたみだと思つて、私の寶を失くしたあの日以來身につけてるのだ。」
「私たちは、森を拔けて歸りませうね。一番凉しい路ですから。」
 彼は私の云ふことには耳もかさず自分の考へを追つた。
「ジエィン! きつとあなたは私のことを信仰の無い奴だと思つてゐるだらうね。しかし私の心は今は情け深い地上の神への感謝で一杯なのだ。神は、我々人間のやうな見方ではなく、もつとずつと明らかに御覽になり、人間のやうなさばき方ではなく、もつとずつと賢明なさばき方をなさるのだ。私は間違つたことをした。罪のない花を汚し――その清淨さに罪の息吹いぶきをかけようとした、すると神はそれを私から奪ひ取つておしまひになつたのだ。強情がうじやうな腹立ちの餘り、その宣告にくつするどころか私は殆んど天の配劑を呪ひさへした、公然とそれに反抗したのだ。神のさばきは、着々と進んで、私は大きな不幸に出逢であひ、死の蔭の谷間を通ることを、餘儀なくさせられた。神の懲罰は、強い力を持つてゐる、私はもう永久に頭の上らなくなるやうな一撃を受けてしまつた。あなたも知つてるやうに、私は自分の力を誇つてゐた、しかし、子供のやうに、もうそれを他人の手に頼らねばならない今は、それが何にならう。近頃になつて、ジエィン――ほんの――ほんの近頃になつて――私は自分の運命に加へられた神の手を見もし知りもするやうになつたのだ。悔恨、悔改くいあらためめを、經驗しはじめたのだ。つくぬしに從ひかへらうとする願ひなのだ。時々私は祈りを――それはもう實に短い祈りだけれど、しかし本當に心からのものをはじめたのですよ。
「幾日か前――いや、數へることが出來る――四日前だ、この間の月曜の夜だつた――ある不思議な氣持が私にやつて來てね、狂亂きやうらんが憂愁となり――不機嫌な怒つた氣持が悲哀に代つたのです。私はもう長いこと、何處にもあなたが見つからないからには、もう死んでしまつたに相違ないといふ氣がしてゐたのだ。その晩おそく、――多分十一時から十二時迄の間だつたと思ふけれど――陰氣いんきな床に就く前に私は神樣にお祈りしたのです。若しいゝと思召すなら、早くこの世から私を去らせて、なほまだジエィンと共になれる希望のある未來の世に行かせ給へと云つて。
「私は自分の部屋の開け放した窓際まどぎはに坐つてゐた。かくはしい夜の空氣にれると私はなだめられるのです、星は見えず、たゞぼんやり光るあかによつて月の出てることがわかるばかりだつたが。私はあなたを求めた、ジャネット! あゝ、私はあなたの身も心も二つ乍ら求めた! 苦悶と謙遜の中から、若しや私はもうあまりに長い間たゞ一人殘され、惱まされ、責められてゐるのではないか、そしてやがて今一度幸福と平和を味ふことも今は出來ないのかと神樣にたづねたのです。私は耐へ、忍んだ總ての苦痛と悲しみは當然といふこと――最早この上耐へることが出來ないことを私はうつたへたのだ。そして私の心を終始してゐる願ひが我知らず口に出たのです――『ジエィン! ジエィン! ジエィン!』と。」
「その言葉を大きな聲で仰しやつたのですか?」
「さうだ、ジエィン。若し誰か聞いてた人があつたら、きつと私のことを狂氣きちがひだと思つたに違ひない。まるで氣がくるつたやうに一生懸命に叫んだのだ。」
「そしてそれはこの間の月曜の晩で、眞夜半まよなか近くだつたのですのね?」
「さうだ。しかし時間のことは何の關係もありはしない、その次にあつたことが不思議なことなんだ。あなたは私のことを迷信深いと思ふだらう――ある迷信は私の血にあるし、またいつもあつたのだ。しかし、それにも拘らずこれは本當なのだ――少くとも今私が話すことを私が聞いたのは本當なのだ。
「私が『ジエィン! ジエィン! ジエィン!』と叫んだとき、聲が――その聲が何處から來たかわからなかつたけれど、誰の聲かよく知つてゐる聲が答へたのだ、『今行きます、待つてゐらして下さい』と。そして間もなく、風にまじつて囁くやうに『あなたは何處にゐらつしやるのですか?』といふ言葉が聞えたのだ。
「出來るならばその言葉が私の心にもたらした思ひ、姿をあなたに話して上げ度い。しかし私の云ひ度いことを口に云ひ現はすのはむつかしい。フアンディンは、あなたも知つてるやうに、物の音などはかすかになつてこだまして消えてしまふやうな深い森にうづもれてゐるのだ。『あなたは何處にゐらしやるのですか?』といふ言葉は山の彼方むかうから云はれたやうに思はれた。何故つて、丘を傳つて來た木靈がその言葉を繰り返したのだから。そのとき前よりも凉しくさわやかに風が私のひたひを吹いたやうだつた。私には何だか荒れ果てた、寂しい場所で私とジエィンとが會つてゐるやうに思へたのだ。心ではきつと我々は會つてゐたのだね。きつとあなたは、その頃には何も知らずに眠つてゐたのだらう、ジエィン。多分あなたの魂が身體から拔け出して私を慰めに來たのだらう。何故つてあれはあなたのアクセントだつたから――私も生きてると同じく確かに――それはあなたのものだつたのだ!」
 讀者よ、それは月曜の晩だつたのだ――眞夜半まよなかぢかくである――私も同じくあの不思議な呼び聲を聞いたのは。そしてあの言葉は私がそれに答へて云つた言葉の通りなのだ。私はロチスター氏の物語に耳を傾けてゐた。しかし、その返事にその不思議の解けたことは云はなかつた。その暗合あんがふは話したり論じたりするにはあまりにおそろしく、説明しがたいやうに私を打つたからである。もし、一寸でも話したならば、私の話は聽手きゝての心に深い感銘を必然的に殘すに違ひないやうな類のものだつたゞらう。そしてまだ今もその苦難の爲めに、ともすれば暗くなり過ぎるその心はそれ以上に濃い不可思議なものゝ影は要らないのであつた。そこで私は何も云はずに心の中で沁々しみ/″\と考へたのであつた。
「だからもう驚く譯はないでせう、」と私の主人は言葉を續けた。「昨夜あんなに思ひもかけずあなたが私の許に現はれたとき、あの眞夜半の囁聲や山彦やまびこが前に消えてしまつたと同じに、靜けさと緘默かんもくとの中に消えてしまふもの、單なる聲や幻とより外にはなか/\考へることが出來なかつたことを、今は私は神樣に感謝する! それが單なる幻でないことが私には分つた。さうだ、私は神に感謝する!」
 彼は私を膝から下ろして、起ち上ると、うや/\しく帽子をとつて、見えぬ目を地上に落して、無言の祈祷を捧げて立つた。たゞその祈りの最後の言葉だけが聞えた――
さばきの中にあつても我がつくぬしが惠みを忘れ給はなかつたことを感謝いたします。願はくは我が救世主よ、今より後は、今迄私の送つて來たものよりはもつと清らかな生活を送る力を私に與へ給はむことを!」
 そして彼は曳いて呉れと手を差しのべた。私はそのいとしい手を取り、しばし、それを唇につけて、それから肩にかけた。彼よりも隨分背が低いので、私は彼の杖にもなり導き手にもなつたのであつた。私共は森に這入つて家路いへぢについた。

三十八(大團圓)


 讀者よ、私は、彼と結婚した。私共の結婚式は、ひつそりとしたものだつた。彼と私、牧師と書記、たゞそれつきりが出席しただけであつた。教會から歸ると、私は、やしきの臺所へ行つて、そこで食事の用意をしてゐるメァリーと、ナイフをみがいてゐるジョンとに云つた――
「メァリー。私、今朝、ロチスターさんと結婚しましたよ。」この女房と亭主とはどんなときにでも、金切聲かなきりごゑで耳をつんざかれたり、それに次いでかしましい驚きの洪水でまくし立てられたりする危險をまねかないでも、安全に非常なしらせを話すことの出來る禮儀正しい、落着いた人間だつた。メァリーは、顏を上げて、私を見つめた。彼女が火にあぶつてゐる二羽のひな肉汁にくじふを垂らしてゐた柄杓ひしやくは、凡そ三分間位の間何もないところにつき出されたまゝだつた。そして同じ位の間、ジョンのナイフもみがかれないまゝになつてゐた。しかしメァリーは、再び燒肉の方に身をかゞめ乍ら、たゞこれだけ云つた――
「左樣ですか、あなた? それは、それは!」
 ちよつとつてから彼女は續けた――「あなたが旦那さまとお出掛けなさるのはお見掛けしましたけど、御婚禮の式をなさりに教會へお出でなさつたとは氣が附きませんでした。」そして、彼女は、肉汁に垂らす方にかゝつた。振り向くとジョンは齒をむき出して、にや/\と笑つてゐた。「だからメァリーに云つてたんだ、」と彼は云つた。「わしにやあ、エドワァドさまが、」(ジョンは古くからゐる召使で、彼の主人が、未だこの家の嗣子であつた頃から知つてゐるので、屡々彼のクリスティアン・ネイムを呼ぶのであつた)――「わしにやあ、エドワァドさまのなさることは分つてゐましたさ。きつといつまでも待つちやあゐさつしやらんと思つたが。何しろようござんした。お目出度う!」そして彼は、丁寧に敬意を表した。
「有難うよ、ジョン。ロチスターさんが、これをお前とメァリーにお遣りと云つて下すつたのよ。」私は彼の手に、五ポンドの紙幣を持たせた。その上のことを耳にするのを待たずに、私は臺所から出て行つた。暫くつてから、その部屋の入口を通りすがりに、次のやうな言葉を耳にした――
「あの人はきつと、あの立派な貴婦人の誰よりもあの方にやあ、いゝだらうよ。」それからまた、「あの人が、素敵もない美人の一人ぢやないたつて、あの人は、決して醜女しこめぢやないし、それにそりやあいゝ人だよ。それにあの方のお目にやあ、あの人はとても綺麗に見えるのさ、誰だつて、それは分るよ。」
 私はすぐにムウア・ハウスとケムブリッヂに私のしたことを知らすために、手紙を書いた。何故に私がこんな風な行動を取つたかをもまた、十分にくはしく説明した。ダイアナとメァリーは隔意かくいなく私の處置に賛成してくれた。ダイアナは私が新婚の旅を終るのを待つて、來訪し、私に會はうと云つて來た。
「それまでお待ちにならない方がいゝよ、ジエィン、」と私が彼女の手紙を讀んで聞かしたときに、ロチスター氏は云つた。「でないと、もう間に合はなくなるよ、何故つて、我々の蜜月旅行ホネームンは、一生の間我々を照らすのだから。その光が私かお前が死なないかぎり、衰へないだらう。」
 どんな氣持で、セント・ジョンが、そのしらせを受け取つたか、私は知らない。彼は私がこのことを知らせてやつた手紙には、決して返事を寄越さなかつたのだ。しかし六ヶ月經つてから、彼は手紙を寄越した。しかしその中には、ロチスター氏の名を云ふこともなく、私の結婚にも言及げんきふしてなかつた。その時の彼の手紙は、落着いた、しかし非常に嚴肅な親切なものであつた。それ以來いつも、彼は度々ではないが、規則正しく通信を續けて來た。彼は、私が幸福であることを希望し、また、私が神なくしてこの世に生活して、たゞ地上のことのみを思ふ人ではないと、信じてゐるとあつた。
 讀者よ、あなた方は幼いアデェルのことを、殆んど忘れてはゐないでせうね。私は、忘れてはゐなかつた。私は、直ぐに、ロチスター氏に願つて、あの子の入つてゐる學校に行つて、會つて來る許しを得た。再び、私を見たときの彼女のくるほしい程の喜びが、いたく私を動かした。彼女はあをざめて痩せて見えた。幸福ではないと彼女は云つた。直ぐに私はその學校の規則が餘りに嚴重過ぎることと、彼女位ゐの年頃の子供にとつて、その學課の課程が餘りに重過ぎることを知つた。私は、彼女を一緒に連れて歸つた。私は今一度、彼女の先生になる積りだつた。しかし直ぐに、この不可能なことに氣がついた。私の時間も注意も今は他の人に取られてゐた――私の良人をつとがその總てを必要としてゐたのである。そこで、私はもつと規定の寛大な、そして私が屡々彼女に會ひに行くことの出來る、そして時折ときをりは彼女を連れて歸れる位ゐに近い學校を見つけた。私は、彼女の慰めになり得るものは、何物にもことかゝぬやうに心をくばつた。すぐに彼女はその新しい住居に落着いて、至極しごく幸福になり、勉強の方もなか/\いゝ進境を見せた。成長するにつれて、健全な英國風の教育は、大いに彼女の佛蘭西の缺點をめた。そして彼女が學校を出ると、私は彼女が氣持のよい、親切な友――素直な、機嫌のいゝ、教養のある友であることを見出した。私及び主人に對する、彼女の謝恩の心遣こゝろづかひによつて、彼女は以來長い間に嘗て私が私の力の及ぶ限り彼女に與へたどんな小さな親切をも立派に返したのである。
 私の物語ももう終りに近づいた。私の結婚生活の體驗に關して、一言、そしてこの物語の中にその名が最も屡々出て來た人々の運命に短い一べつを與へれば、それでもう終りになるのである。
 もう私は結婚以來十年になる。私には、この世で最も愛する者の爲めに、またそれと共にひたすら生きるといふことがどんなことであるかゞわかつてゐる。私は、自分に最上の祝福を受けつゞけて來た――言葉に云ひ現し得ぬ程の祝福である。何故なら、私は、彼がさうであると同じく、まつたく私の良人をつとの生命であるからである。如何なる女の人も、私以上にその伴侶に近づいたものは嘗てない――これ以上にまつたく彼の骨の骨、肉の肉となつたものはないのだ。我々各自めい/\の胸に打つ心臟の鼓動に疲勞を覺えないと同じやうに、私はエドワァドと共にあつて飽くことを知らず、――彼もまた、私に飽きなかつた。從つて、私共はいつも共にゐる。共にゐることは私共にとつては、獨りでゐるときのやうに自由であると同時に、大勢でゐるやうに愉快である。私共は、終日話してゐると思ふ。互に話し合ふといふことは、より活々いき/\とした、耳に聞える思考しかうに外ならない。總ての私の信頼は、彼の上に置かれ、總ての彼の信頼は、私に捧げられてゐる。私共はぴつたりとつた性格である――完全なる一致といふのが、その結果である。
 ロチスター氏は、私共の結婚の最初の二年間、めしひのまゝであつた。多分このやうに私共を近づけたのは――こんなに私共をしつかりと結びつけたのは、その事情だつたのだ! 何故なら、今なほ私が彼の右手であるやうに、その當時私は彼の眼だつたから。文字通りに、私は(彼が屡々私のことをさう呼んだ)彼の眼のたまだつた。彼は、私を通して自然を見、本を見た。そして私は、彼に代つて見たし、野、樹、街、川、雲、日光――私共の前にある景色、私共のまはりの天氣――などの趣を言葉にし、どんな光も、最早彼の眼には印象を殘さないので、彼の耳に音によつて印象づけることにまなかつた。決して私は彼に讀んで聞かせることに飽きなかつた。決して、私は、彼が行き度いと望むところに彼をれて行き――彼のして欲しいと望むことを、彼の爲めにすることにまなかつた。私のこの奉仕は假令たとへ悲しいものであつたとしても、世にも充實した、くらべものもない程にすぐれた喜びであつた、――何故ならば、彼はこの奉仕をいたましい恥しさや、沈み込んだ屈辱なしに要求したからである。彼はかくも眞心まごゝろから私を愛してゐたので、私の世話を受けることに少しも嫌惡を覺えなかつたのである。彼は私がかくも眞心まごゝろから彼を愛してゐるので、その世話を受けることは私の最もやさしい願ひをきいてやることだと感じたのである。
 二年目の終り頃のある朝、彼の命に從つて手紙をしたゝめてゐると、彼がやつて來て私の上に身をかゞめて云つた――
「ジエィン、お前、頸に何か光つた飾をつけてゐるの?」
 私は黄金きんの時計のくさりをかけてゐた。私は答へて「さうですよ。」と云つた。
「そして淺黄色あさぎいろの服を着てるのかい?」
 さうだつた。すると彼は、先日から片方かたはうの眼を蔽うてゐた暗さがだん/\薄れて行くやうな氣がしてゐたが、今それがはつきりと確かめられたと私に説明した。
 彼と私は、倫敦ロンドンに出掛けて行つた。彼は或る有名な眼科醫にかゝつて、とう/\その片方の眼の視力しりよくを恢復した。今は非常に明瞭には見えないし、またたくさん讀んだり書いたりは出來ないけれど、しかし手を取られなくも歩くことは出來るやうになつた。最早、そらは、彼にとつて、無地むぢではなく――地も、最早空虚くうきよなものではないのだ。彼の最初の子供が彼の手に抱かれたときにも、その男の子が嘗てあつた彼自身の眼――大きく、輝いた、黒い眼を受けいでゐるのを見得たのであつた。そのとき、彼は再び心から、神がそのさばきに惠みを加へ給うたことを認めたのであつた。
 かうして、私のエドワァドも私も、幸福である。そして、わけても嬉しいのは、私共の最も愛する人々が同じやうに幸福なことである。リヴァズ家のダイアナと、メァリーの二人は、兩方とも結婚した。代る/\一年交代かうたいに、彼等は私共に會ひに來、私共は彼等に會ひに行つた。ダイアナの良人をつとは海軍大佐で、雄々をゝしい士官で善良な人である。メァリーのは牧師で、彼女の兄の大學時代の友達であり、その學識や主義から云つても縁續きとなる價値のある人である。フィッツジェイムズ大佐もフアトン氏も、二人ながら、彼等の妻を愛し、また愛された。
 セント・ジョン・リヴァズはと云へば、彼は英吉利を去つた――印度へ行つたのである。彼は自分の着眼ちやくがんしたみちに這入つて行つた。今もなほそれに從つてゐる。これ以上斷然たる、不屈不撓な開拓者が、岩石と危險の眞只中に働くといふことはなかつたであらう。鞏固きやうこに、信仰深く、身を捧げて、精力と熱心と眞實に滿ちて、彼は、人類の爲めに働いてゐる。彼は苦痛のみちを拂つて、改善に向はせ、巨人のやうにそのみちを邪魔する信仰箇條や、階級の偏見を伐りたふしてゐる。彼は峻嚴であるだらう、苛酷であるだらう。まだ彼は大望を抱いてゐるであらう。しかし彼のは、アポリオンの攻撃から彼の巡禮者を護送するやうに見張つてゐる戰士「偉大なる心」の峻嚴さである。彼のは――「我の後に來らん者は何人なりとも、己れを否みてその十字架を取り、我につゞけ」と云つた基督キリストの爲めにのみく使徒の苛酷かこくさである。彼のは、この世から救はれ――罪なくて神の座の前に立ち、神の子の最後の偉大なる勝利を共に召され、選ばれ、信仰深きものゝ中の第一位に席を占めんと望む偉大な精神の人の大望である。
 セント・ジョンは結婚しないまゝである。もう彼は決して結婚しないであらう。彼自身今までに十分勞苦を續けて來た。そしてその勞苦も終りに近づいてゐるのである。彼の光輝ある太陽は、今あわたゞしく沈まうとしてゐる。彼からの先日の手紙は、私に人間らしい涙を流させた、而も私の心は聖なるよろこびにみたされた。彼は、自分の確かなむくいと、汚れなき榮冠を期待してゐた。この次には誰か知らぬ人の手が、善良な信仰深い神の下僕しもべは、遂に主のよろこびの内に召されたと云つて寄越すだらうと思ふ。何を嘆くことがあらう? 何等の死の恐怖が、セント・ジョンの最期を暗くすることはないだらう。彼の心は曇りなく、彼の胸はおびやかされることなく、彼の希望は確實に彼の信仰は堅いだらう。彼自身の言葉がその誓言である。――
「主は」と彼は云ふ、「小生に、豫め警告を下し置かれ候。日毎、主は益々明瞭に――『必ず、我は、急ぎ行かん、』と告げ給ひ、毎時、小生は、益々切に答へ居り候、――『アーメン。何時にても來り給へ、主イエスよ』と。」

――了――





底本:「第二期 世界文學全集(5) ジエィン・エア」新潮社
   1931(昭和6)年8月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ロチスター」と「ロチェスター」と「ロウチスター」と「ロチスタアー」と「ロチィスター」と「ロチスタアー」と「ロスター」と「ロチスータ」、「ジョウジアァナ」と「ヂョウジアァナ」、「アデェル」と「アデエル」と「アテェル」と「アデラ」、「ロバァト」と「ロバート」、「リア」と「レア」、「ソフィイ」と「ソフィー」と「ソフィ」、「グレイス」と「グレィス」、「エミイ」と「エミー」、「メアリイ」と「メアリー」と「メァリー」と「メッリー」、「ヘンリイ」と「ヘンリ」、「メイスン」と「メイソン」、「ヴァレン」と「ヴァラン」と「バーレン」と「バアレン」と「※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アレン」、「カーター」と「カァター」と「カアタア」、「バァサ」と「バアサ」、「ボズェル」と「ボスウェル」、「ブラシュ」と「ブラッシュ」、「シャンデリア」と「シヤンデリア」、「ギリシヤ」と「ギリシア」と「ギリシャ」、「ケムブリッヂ」と「ケムブリッジ」、「台」と「臺」、「賛」と「贊」、「讃」と「讚」、「効」と「效」、「糸」と「絲」、「嵌」と「篏」、「灯」と「燈」、「敍」と「叙」、「寳」と「寶」の混在は底本通りです。
※ルビの外来語の拗音、促音は本文に準じて小振りにしましたが、本文中にない場合は大振りのままとしました。
※印刷時のルビのずれは注記なしで正しい位置でつけました。
※活字の向きの誤りは注記なしで正しい向きに訂正しました。
※印刷のかすれと思われる誤りは注記なしで訂正しました。
※誤植を疑った個所を、「世界文學全集(第一期)5」河出書房、1954(昭和29)年1月25日初版発行の表記にそって、あらためました。
※明らかなルビの誤りは誤記注記としました。
※「夕食デイナー」は時間経過からみて「晝食」の可能性がありますが底本通りとしました。
入力:osawa
校正:みきた
2018年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「卓+戈」、U+39B8    10-下-12、86-下-13、114-上-13、114-上-14、121-下-17、144-上-3、204-下-3、212-上-2、287-上-7、337-上-13、337-上-18、347-上-7、347-下-15、395-上-19、452-下-10、493-上-1
「纏」の「广」に代えて「厂」    178-上-3、198-上-17、336-下-7、347-上-14、375-上-3、443-上-14、445-上-19、448-下-16
下側の右ダブル引用符、U+201E    269-下-6
小書き片仮名ヰ    356-下-3、356-下-11、359-下-13、386-上-2、417-下-20、437-上-8、437-下-20、469-上-1、469-上-4、470-上-11、470-下-1


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