最初に、「ジエィン・エア」の意圖と特長を簡敍しよう。
「ジエィン・エア」は、十九世紀の半ば(一八四七)に出版せられて、英吉利の讀書界に、清新な亢奮と、溌剌とした興味を植ゑつけた名篇である。
傳記に依れば、或る時、作者は、妹のエミリー(詩人作家)とアン(作家)に向つて、かく云つたといふ――
――一體小説の女主人公を、既定の事實として一列一體に美人に描くのは間違つたことだ、人道上から見ても、間違つたことだ。
――でも、女主人公は、美人でなければ、讀者の興味を牽かない。
と妹達が答へた。
――そんな筈はない。わたしが、實地に、證明して見せてあげよう。
さう云つて書いたのが、この「ジエィン・エア」だといふ。
既に、出發點から、常套を脱してゐる。
次に作者は、當時の英文壇に於ける第一流の批評家リュイスに與へた書簡の中で、この作品に對して作者のとつた態度を、かく説明してゐる――
――わたしは、自然と眞實とを、わたしの唯一の道しるべとして、その跡を辿つた。わたしは、空想を抑制し、
浪漫を制限し、毒々しい粉飾を避け、たゞ、穩やかに、眞面目に、眞實であることをのみ念とした……
この作者の態度が、作品に將來した結果は如何?
作中の一節に、こんな意味の文句がある――
――女性は、淑やかにあるべきものと、一般に考へられてゐる。しかし、女性も、男性と同樣に「感じる」のである。女性も、男性と等しいだけの、才能と努力の活動世界を持たねばならぬ。女性を、たゞ、プディングを作つたり、靴下を編んだり、ピアノを彈いたりする世界にのみ閉ぢ込めて置かうとするのは、男性の偏見である。
また、こんな言葉もある。
――わたしは、獨立の意志を持つた、自由な個人です。
それから、また――
――もし、わたしが
男なら、わたしは、地位や利益の爲にする結婚はしない。わたしは、たゞ、自分の愛する相手をのみ、妻として迎へるであらう。
以上の數例のほか、作中、ロウトンの慈善學校の僞善を、深い洞察眼を以て、活寫してゆくあたり、所謂暴露小説の到底企及し得ぬ鋭さが見られる。
――あなたは、獨創的だ。あなたは、大膽だ。あなたの精神は活溌で、あなたの眸は、洞察する。
さう、ロチスターが、ジエィンに云ふ。
この言葉は、そのまゝ、作者に振り向けらるべきだ。
果然、「ジエィン・エア」は、赤裸々な、舊套を脱した、奔放な、熱烈な、眞新しい言葉で綴られた物語として、讀書界に、センセイションの旋風を捲き起した。
――女性の尊嚴を、かくまでに高く揚示した物語は、未だ英吉利の文壇には存在しない。
とある評家は云つた。
――この作者は、淑女らしくない言葉で、淑女らしくない物語を綴つた。これは良家の子女に讀ませてはならない本である。
と或る人は批難した。
また、ある評家は
――現實、深酷な、有意義な、現實――それが、この物語の特長だ。この物語は、讀者の鼓動を高め、心臟をとゞろかせる。
さう評した。
兎に角、甲是乙非、囂々たる輿論の渦の中に、「ジエィン・エア」は、記録的な賣行を示した。
今日の
小説手法から見れば、メロドラマ風の點が、多少鼻につくし、また當時にあつても、作者の處女作(――嚴密に云へば第二作)的な多少の生硬さが、眼についた。
しかし、それは、殆ど問題外として、この「ジエィン・エア」に
盛られたイプセン的な精神と熱意、及び、それを表現する嵐のやうな筆觸は、たしかに、尚、現代の讀者の胸に、何物かを與へると信じる。
ブロンティの作品は、この作のほかに三つ――中に就いて、「シヤァリ」は、手工業時代が機械工業時代に入らうとするその革命的雰圍氣を背景にしたスケールの大きな、野心的な長大篇で、部分部分に、素晴らしい描寫があるが、未完成の謗りは免れない。「プロフェッサー」は處女作――平板である。「ヴィレット」は、一番圓熟してゐるが、「ジエィン・エア」ほどの清新味と熱意が失せてゐる。
つまり、あらゆる點から見て、この「ジエィン・エア」は、作者の代表作、
古典の列に入る傑作である。
作者が、いかに常人と異つた生ひ立ちを持つたか――作者が、いかに、家政婦的日常煩雜事のあひ間に、「ジエィン・エア」を完成して、これを匿名で發表して、世を騷がせたか――作者が、いかに淋しい、烈しいラヴ・レターを書いたか――さうして、いかに晩い、短い、結婚生活を持つて、死んだか――人、女、藝術家としての作者の一生は、かの「クランフォード」の作者ギャスケル夫人の有名な「ブロンティ傳」に、いつさいを盡してゐる。
こゝには、たゞ年譜式に、彼女の一生の重要事項を列記して、讀者の參考に供するにとゞめることゝする――
父はパトリック・ブロンティ、
愛蘭土の貧家の出、立志傳的苦學を續けて
劔橋大學を卒業して牧師となる。母は、マリヤ・ブランヱル、コオンウオルの商家の女、一八一一年、父が牧師補時代、ヨオクシヤーのハーツヘッドで結婚。
一八一三年、長姉マリヤ生る。
一八一四年、次姉エリザベス生る。
一八一六年、著者シヤーロット誕生、當時一家は、ソオントンに住す。
一八一七年、長男パトリック・ブランヱル生る。
一八一八年、妹エミリー生る。
一八一九年、末の妹アン生る。
一八二〇年、一家、ヨオクシヤー北方の寒村ハワースの牧師舘に移る。風吹き荒む高原の沼地、滿目荒寥たる風物、母は、年々の出産の結果、心身衰へて、多く病床に在り、父は、峻嚴孤獨の讀書人、長姉マリヤが、年齡漸く八歳にして、父に怯え、母を案じながら、弟妹五人の世話をしてゐたと云ふ。
一八二一年、母、癌を病んで歿す、時に三十九歳。母の姉、老孃ブランヱル來つて、爾後二十年間、家政を看る。
可憐な子等は、長姉マリヤを中心にして、稚い眼で新聞を見、まはらぬ舌で、毎日の
話題を論じ、家庭新聞を作つて、「宰相を評したり」童話を寄稿したりして、興じあつてゐたと云ふ。皆、驚くべく夙慧。
譯者は、先年、古い倫敦の月刊「ストランド
誌」のクリスマス號で、本篇の著者が、當時(六、七歳頃)ものせしと云ふ童話の遺稿を讀んだ。それは、著者の良人が、愛蘭土に隱棲してゐたその農家の天井に、煤にまみれて吊つてあつたのを、雜誌の記者が乞ひうけて公けにしたものであつた。稚拙ながら、著者の天分を窺ふに足る作品であつた。
一八二四年、長姉マリヤ、次姉エリザベス、著者及び妹エミリー、相繼いで、カウアン・ブリッヂの慈善女學校(――牧師の娘のみに入學を許す學費の低廉な學校)へ入學。
學校は、本篇中のローウッド學院のモデルで、濕地不健康地に在つて、設備食事ともに粗惡、生徒に病者續出、社會問題をひき起す。
一八二五年正月、長姉マリヤと次姉エリザベス、この學校の犧牲となり、肺患を病み、姉妹四人皆、ハワースへ戻る。
同年五月、マリヤ長逝、おなじく七月、エリザベス長逝。
爾後、著者は、長姉として、弟妹達の面倒を看る。
一八三一年、著者、ロウ・ヘッド女學校に學び、卒業後、そこに教鞭をとる。いくばくもなくして、病を得て歸る。
その後七年間、次妹エミリーは、家に留り、著者と末の妹アンは、諸方に家庭教師を勤めて、彼女等の唯一人の男兄弟パトリック・ブランヱルの爲に學資を稼いだ。パトリックは、美術家志望で、倫敦に出て、遊惰無頼の道を辿つてゐた。
一八四二年、著者は、私塾經營の計畫を立て、その準備として、更に學力を養ふ爲に、妹エミリーを連れて、ブラッセルのヘガー氏の學校に入學、佛蘭西語と獨逸語を勉強した。學費その他は、前記の伯母、亡母の姉、老孃ブランヱルに借りた。
居ること半歳、伯母の訃報に接して歸り、エミリーは、そのまゝ家に留まり、著者のみ再び、ブラッセルへ赴き、英語の教鞭をとりながら、勉強をつゞく。
校長ヘガー氏へ、祕めたる片戀――その切々たる情は、著者が、爾後數年間、春風秋雨、をり/\に、ハワースの牧師館から送つた手紙の紙面に溢れてゐる。その手紙は、皆、ヘガー夫人の手に握り潰されたと云ふ。むろん、一通の返書も、著者の手へは達しなかつたと云ふ。フロイド流に云へば、この片戀の悶々の情が、發して、この「ジエィン・エア」の熱烈な戀愛描寫となつたものであらう。
弟パトリック、惡化墮落、著者傷心憂苦。
一八四四年、ヘガー氏の學校を辭して歸り、妹達と、私塾の計畫を實現したが、入學志望者皆無。
一八四六年、志を轉じ、妹等と共に詩作に熱中。その收穫を收めて、著者はカーラ・ベル、エミリーは、エリス・ベル、アンは、アクトン・ベルの各匿名に隱れて、一册の詩集を自費出版す。三部だけ賣れた。
詩の天分は、エミリーが最も優れてゐた。彼女は、死後認められて、英詩壇に、一地歩を占めるに至つた。
詩集出版の失敗のあと、著者は、妹達と、更に志を轉じて、創作に專念した。
ブラッセル時代をモデルにした著者の處女作「プロフェッサー」はこの時に脱稿。然し、徒に、出版書肆の冷遇に逢ひ、活字には、ならなかつた。
一八四七年、やはり匿名で、「ジエィン・エア」脱稿出版。一躍、洛陽の紙價を高む。
このころ、弟パトリック・ブランヱル、家にあつて酒亂。著者はそれを憂へて、往々食事をとらぬことあり、父は、その爲に狂氣に瀕し、ピストルを亂射したり、椅子の背を鋸で挽いたりなどす。
一八四八年、八月、パトリック・ブランヱル肺患に倒る。妹エミリーも、おなじ十二月に、おなじ病ひで長逝。末の妹アン、亦肺を病んで病床に横はる。
一八四九年、アンを連れてスキャーボロに轉地。五月、アン病歿。
この悲慘を極めし中にあつて、大作「シヤァリ」執筆出版。
同年より、一八五一年まで、年一囘づゝ倫敦に出て、文人に逢ひ、多少鬱憂を散ず。
但し、生來の獨居癖――人に逢ふ日は、朝から頭痛がしたと云ふ彼女であつた。一躍文壇の女王にはなつたが、身邊に華々しさは無かつた。
一八五三年、第四作「ヴィレット」出版。
彼女のあの片戀の淋しさは、篇中、女主人公が、戀人の手紙を待ち佗びる焦心の描寫に、深酷に表現されてゐる。
一八五四年、十餘年來、ハワースの牧師補を勤めて來たアーサー・ニコルズと結婚。
ニコルズは、その十餘年來、彼女に戀をして來たと云ふ。
一八五五年、産後を病んで寒村ハワースの土となる。
一八五六年、良人の手に依り、遺稿として、處女作「プロフェッサー」出版。
一八六一年、老父パトリック歿。
以上。
[#改丁]
その日は、とても散歩なぞ出來さうもなかつた。實際、私たちは、朝のうち一時間、葉の落ちた
灌木の林の中をぶら/\歩いたが、晝食後(リード夫人は、客のない時は、はやく晝食を
濟ませた)は、
冷たい冬の風が、陰鬱な雲と、身にしみるやうな雨を
齎らしたので、これ以上の戸外運動は、もうすつかり不可能になつた。
私は、それが嬉しかつた。私は、長い散歩、殊に寒い午後の散歩は、まつたく
好かなかつた。手足の指を寒さで痛めたり、
保姆のベシーに
叱言を云はれて悲しくなり、また、イライザやジョンやヂョウジアァナ・リードより
體質の弱いことに
敗目を感じていぢけたりして、いやに寒い夕方、家へ歸つてゆくのは、身震ひするほど
厭なことだつた。
いま云つたイライザやジョンやヂョウジアァナは、もう客間で、お
母さんのリード夫人の
周圍に集つてゐた。リード夫人は、爐邊の
安樂椅子に
凭れながら、子供たち(この時は、喧嘩もしてゐなければ、泣いてもゐなかつた)を
身邊に置いて、全く幸福さうだつた。リード夫人は、私をみんなから仲間はづれにした、さうして、云ふには――「ジエィンを離して置かねばならないのは、殘念だ。ジエィンがもつと
愛想のいゝ子供らしい性質や、もつと魅力のある、はきはきした態度――つまり、もちつと輕くて、
蟠まりが無くて、
素直にならうと、
心底努めるのを、ベシーから聞くなり、親しく見るなりするまでは、不平の無い、快活な子供たちにのみ授ける特權から、ジエィンを
除外しなければならない。」
「ベシーは、私がどうしたつて、云ふのよ?」と私は
訊いた。
「ジエィン、私は
屁理窟を云つたり、何んでも
つべこべ訊きたがる子は、
嫌ひです。それに、子供のくせに、そんな風に
大人にさからふなんて、全く許されないことです。どこかに腰をお掛け。そして氣持ちのいゝ口を
利けるやうになるまで、默つていらつしやい。」
小さな
朝食堂が、客間の隣にあつた。私は、こつそり、そちらへいつた。その室には、本箱があつた。私は、
早速
繪の澤山ついてるのを選んで、一册取り出した。私は、窓臺の上へのぼつて、兩足を寄せて、マホメット教徒のやうに
あぐらをかいた。さうして、赤い綿毛の
窓掛を殆んど引いて、二重の隱れ場所に
納まつた。
右の方は、
深紅の
窓掛の
襞が私の
視野を遮り、左の方は、透明な窓硝子が私を
庇護つて呉れたが、
荒凉たる十一月の日から私を引き離しては呉れなかつた。私は、書物の頁を繰りながら、とき/″\、冬の午後の風景を眺めた。遠くには、青白い霧と雲が立ち
罩めてゐた。近くには、
濡れた
芝生と嵐に打たれた灌木の林の眺めがあつた。さうして、小止みなく降りしきる雨は、長い、悲しさうな音をたてゝゐる
疾風に、吹きたてられてゐる。
私は、その書物――ビュヰックの英國鳥禽史――に目を戻した。殆んど本文には注意しなかつたけれど、處々に、私のやうな子供にも、白紙同樣には見過せない、興味を
唆る解説の頁があつた。それらの頁には、海鳥の棲息地のことが書いてあつた。たゞ海鳥だけが棲息してゐる「淋しい
岩山や岬」のことや、
諾威の最南端リンドネス、一名ネイズからノース・ケエプに到る、小島の點在してゐる諾威海岸のことが――
絶海のシュール群島、その淋しい裸島を繞つて、
北海は、渦まきつゝ、荒れ狂ふ。
荒れ勝ちのヘブリディズの島々へ
大西洋の怒濤は、注ぎ込む。
ラップランドや、スピッツバァゲンや、ノーヴァ・ゼムブラや、アイス・ランドや、グリーン・ランドの荒れ果てた海岸に就いて述べてあるところをも、
見逃せなかつた――『北極帶の、廣大な一帶、荒凉たる地方――霜と雪の貯藏地、そこには、幾世紀もの冬の堆積たる、堅い
氷原が、
極地を
圍繞して、アルプス山ほどの高さを幾つも積み重ねたほどに凍りつき、嚴寒の幾倍もの、峻烈な寒氣が
凝集してゐる』この不氣味な蒼白い
領域に、私は、私だけの想像を
逞しくした。それは、子供の頭にぼんやり
漂つてゐる總てのなま
半可な考へのやうに
陰影の多い、しかし、妙に印象的なものだつた。解説の文章は、次の

繪とつながつてゐた。さうして、波濤と
潮沫の中に孤立してゐる岩山や、人影も無い海岸に打ち揚げられた難破船や、雲を透かして、まさに沈まんとしてゐる難破船を照らしてゐる、冷たい、蒼白い
月魄に意味をもたせてゐた。
文字を刻んだ墓石のある、ひそまりかへつた寂しい教會の墓地や教會の門、二本の樹、
壞れた壁に圍まれた狹い平地、夕ぐれ時を示す、昇りはじめた
新月につきまとうた感情を、私は、云ひ
現はすことが出來ない。
風が
凪いで油のやうに動かない海面に浮ぶ二艘の船を私は、海の幽靈だと思つた。
惡魔が、泥棒の荷物を彼の背中に釘づけにしてゐる繪は、大急ぎで頁を繰つた。それは
怖いものだつた。
黒い角を生やした鬼が、超然と岩の上に坐つて、絞首臺の
周圍に群がつた群集を眺めてゐる繪も、さうだつた。
ひとつ、ひとつの繪が物語をしてゐた。私の幼稚な理解力と、不十分な感情では判らないながらも、そこには、ぐん/\興味を吸ひ寄せる
異樣な力が
潜んでゐた。ちやうど冬の夕べ、ベシーが機嫌のいゝ時に、とき/″\聽かして呉れる
噺と同じやうに面白かつた。そんな時のベシーは、
火熨臺を子供部屋の爐邊へ運んで來て、私たちを周圍に坐らせ、リード夫人のレースの
縁飾りを仕上げたり、ナイト・キャップの
縁を縮めたりしながら、私たちの熱心な
環視の中に、古いお
伽噺や、昔噺や、時とすると(後になつて、私は、知つたのだけれど)、『パミラ』や『モーアランド伯爵ヘンリイ』から拔萃した戀や冒險の幾くさりかを話して聽かせて、私たちの熱心な好奇心を滿足させて呉れた。
ビュヰックを膝の上に置いて、私は、すつかりいゝ氣持ちになつてゐた。
尠くとも、それで、私は、私なりに樂しかつた。私は、たゞ邪魔されることだけを怖れてゐた。それは、あまりにも早く來た。
朝食堂の扉が開いた。
「やアい、馬鹿野郎。」と、ジョン・リードが、大聲で叫んで、ちよつと息をついた。さうして、部屋が、見たところ
空虚なのに、氣づいた。
「あいつ、何處にゐるんだ! リジイ! ヂョウジイ!(妹たちを呼んで)ジオアンがゐないぜ。ジオアンは、雨が降つてゐるのに、出ていつたつて、お
母さまにお云ひ――畜生!」
私は、窓掛を
閉めておいてよかつたと思つた。この隱れ場所を、ジョン・リードがどうか見つけなければいゝがと、一生懸命に願つてゐた。事實また、ジョン・リードが、自分で探し出すことは出來ないだらう、ジョンは、目も利かないし、頭の働きもあまりよくなかつたから。しかし、イライザは、
扉から首を突込むが早いか――
「ジエィンは、きつと、台にゐるのよ、ジヤック。」
と云つた。
あのジヤックに腕づくで引張り出されることを思ふと、
ぞつとして、私は自分から、直ぐさま飛び出した。
「何か御用?」と、
怖々訊いた。
「リード樣、御用でございますかつて、云へ。」
それが、答へだつた。
「こちらへ來い。」とさう云つて、彼は、肱掛椅子に腰掛けて、もつと近寄つて目の前に立てと云ふ身振りをした。
ジョン・リードは、十四歳の小學生であつた。私より四つ年上で――私は、僅か十歳だつた。年の割合に、
體が大きく、
肥つちよで、うす黒い、不健康な皮膚をして、伸び擴がつた顏に、ぼうつとした目鼻をつけ、不活溌な手足の先が
膨れてゐた。
卓子に就けば、いつも、
がつ/\と喰ひ、それで
膽汁質なので、ぼんやりした眼が
爛れ、頬に締りと云ふものがなかつた。いまごろは、學校へいつてゐなければならない時分だが、お母さんが、彼の「弱々しい健康」を氣遣つて、この一二ヶ月、家に引き留めてゐるのだ。マイルズ先生は、家から送つて寄越すお菓子や甘いものを、もう少し控へると、きつと
體の爲めにいゝのだがと斷言した。しかし、ジョンのお母さんは、そんな
酷たらしい意見には見向きもしないで、ジョンの顏色の蒼いのは、勉強のしすぎと、家戀しさのあまりだらうと云ふ、もつと人聞きのいゝ考へであつた。
ジョンは、母にも妹にも、あまり愛情を持つてゐなかつた。私には、反感を持つてゐた。一週間に二三度どころか一日に一度も二度も、寧ろ續けさまに、ジョンは、私を、
虐めたり、
酷い目に遭はせたりした。私の全身の、あらゆる神經は、ジョンを怖れてをつた。さうして、ジョンに
傍へ來られると、骨についてゐる肉が、ことごとく、縮み上つた。ジョンの威嚇や懲罰に對して、私は、どこへも訴へてゆけないので、私は、彼の與へる恐怖の爲めに、
戰慄くことが、屡々だつた。召使ひだつて、私の肩を持つたおかげで、若旦那さまの御機嫌を
損ねるのは、氣がすゝまないし、リード夫人に至つては、全然これには眼を閉ぢてゐた。たび/\、眼の前で、ジョンが、私を
擲つたり、罵つたりすることがあつても、母のリード夫人は、見ても見ぬふりをし、聞いても聞かぬふりをしてゐた。さうして、リード夫人のゐないところでは、ジョンは、もつとひどく、私を
虐めた。
いつものやうに、私はジョンの云ふ通りに、椅子の前へいつた。ジョンは、三分ほどもかゝつて、舌のつけ根を害しない程度で、出來るだけ舌を出して見せた。私は、いまに
毆られると思つた。
擲たれるのを怖れながらも、いまにジョンが、どんな、厭な、見苦しい顏付をして見せるだらうかと思つて、内心樂しんでゐた。ジョンは、私の顏から、そのことを讀み取つたのか、いきなり、ものも言はずに、ひどく
毆つた。私は、ひよろ/\とよろけて、一二歩
後ずさりして、踏み
耐へた。
「さつき、
圖々しく、お母さまに、あんな返答をした罰だ。窓掛の
背後になんか、こそ/\隱れやがつて、いまみたいな、あんな眼つきをすると、かうだぞ、この鼠!」と、ジョンは、怒鳴つた。
ジョン・リードの罵倒には、
慣れつこになつてゐたので、私は、返答なぞしようとは思はなかつた。私の心配なのは、
辱められた後に、きつとやつて來る
打擲に、どうして耐へるかと云ふことだつた。
「窓掛の
背後で、何をしてゐたんだい?」と、ジョンが
詰問した。
「
御本を讀んでたの。」
「その本を、見せろ。」
で、私は、窓のところへいつて、取つて來た。
「僕らの本を持ち出したりするなんて、君のすることぢやないよ。お母さまは、君を
居候だと云つたよ。君にはちつともお金が無いんだ。君の
父親は、何も君に殘して行かなかつたんだ。僕らのやうな紳士の子供と一緒の家にゐて、同じものを食べ、お母さまのお金で着物を着せて貰はなくつたつて、乞食をするのが當然ぢやないか。いゝか、僕の本箱を、掻きまはしたら承知しないぞ。みんな僕の本だ。
家ぢうのものは、みんな僕のものだ。今はさうでなくとも、一二年のうちには、さうなるんだからな。扉の
傍へいつて立つてるんだ。鏡と窓んとこをよけるんだぜ。」
私は、初めはどう云ふつもりか、ちつとも氣がつかないで、その通りにした。しかし、ジョンが、
書物をひつ掴んで、投げつけやうとするのを見ると、本能的に恐怖の叫びを上げて身を
交した。が、もう遲かつた。
書物は飛んで、私に打ちあたつた。私は、倒れて、
扉に頭を打ちつけて、怪我をした。
傷口に、血がにじんで、痛みは鋭かつた。恐怖は、絶頂を過ぎて、別な氣持ちが、その
跡につゞいて起つた。
「意地惡! ひどい人! まるで人殺しだわ、奴隷監督だわ、あなたは、羅馬の皇帝のやうな人だわ。」
私は、ゴウルド・スミスの『羅馬史』を讀んだことがあるので、ネロやキャリギュラなどに對して獨特の意見を抱いてゐた。さうして、ひそかに、ジョンになぞらへてゐたが、こんなに口に出して、斷言するつもりはなかつた。
「なに? お前は、僕に向つて、そんなことを云ふのか。イライザ、ヂョウジアァナ、君たちも聞いたか? お母さんに云ひつけてやらうか? それより先づ――」
私は、ジョンがいきなり飛びついて來て、私の肩と髮を掴んだのを感じた。ジョンは、必死になつてゐる私と掴みあつた。ジョンは、正に暴君であり、人殺しであると云ふことを、ほんたうに知つた。頭から血が、一滴、二滴、首筋を傳はつて流れるのを覺えた。鋭い、突き刺すやうな
疼痛があつた。この知覺は、しばらく恐怖を通り越した。私は狂人のやうになつて、彼に
反抗つた。私は、私の手が何をしたか、はつきり知らない。たゞ彼が、卑怯者! 卑怯者! と大聲を揚げて、わめき立てたのを聞いたばかりだ。助太刀が來た。イライザとヂョウジアァナが、二階にゐるリード夫人の許へ馳せつけたのだ。リード夫人は、ベシーと小間使ひのアボットを從へて現れた。私たちは、引き分けられた。私は、こんなことを聞いた。
「おや、まあ、ジョンさまに飛びかゝるなんて、何んて
氣狂ひ沙汰でせう。」
「こんな
怒りん坊は、誰だつて、見たことがありません。」
リード夫人が、それにつけ
足して云つた――
「赤いお部屋へ連れていつて、
錠を
下しておしまひ。」
四つの手が、直ぐに私に差し向けられ、私は、二階へ運ばれた。
私は、極力反抗した。そんな反抗は、私としては、初めてだつたが、同時に、ベシーやアボットさんの私に對する惡感を一層強めた。實際、私は、ほんのちよつと氣が變になつてゐた、と云ふより寧ろ、佛蘭西人がよく口にするやうに自分を失つてをつた。私は、一瞬の反抗が、私をこんな妙な刑罰に處したのを知つた。
反抗する奴隷と何等異ることなく、私も、
自暴自棄になつて、どんな事でもやつゝけてやらうと決心した。
「アボットさん、腕を押へて頂戴、まるで氣狂ひ猫みたいよ。」
「まあ、まあ、どうしたんでせうね。」と、御夫人附きの女中が叫んだ。「エアさん、何んて
呆れたことをするのでせう、お坊つちやまを
擲つなんて! あなたの恩人の
息子さまを、あなたの若主人を!」
「御主人ですつて! どうして私の御主人なの、私は召使ひなの?」
「いゝえ、あなたは、召使ひ以下ですよ。その證據に、自分で食べてゆかれるやうなことを、何ひとつ、してゐないぢやありませんか。そこへ坐つて、あなたの亂暴だつたことを考へて御覽なさい。」
私は、リード夫人の指圖した部屋の中へ連れ込まれて、
腰掛の上へ投げ出されてゐた。私は、盲動的に、バネのやうに
撥ね起きようとしたが、二組の手がすぐ取り押へた。
「靜かにしてゐないと、縛りつけますよ。アボットさん、あなたの靴下止めを貸して頂戴? 私のは、すぐにこの子がちぎりさうよ。」
アボットは、がつちりした脚から、入用の紐を
外さうとして、
背後を向いた。その紐を
解かうとする用意や、またそのことが暗示してゐる、この上の恥辱を思つて、私は、幾分興奮から
冷めた。
「それ、
外さないで頂戴、もう
暴れないわよ。」と、私は叫んだ。
それを、ほんたうに證明するために、私は、私の手で、自分の押へつけられた場處にしがみついて見せた。
「きつと、動いてはいけませんよ。」
とベシーが云つた。さうして、私が、ほんたうに鎭まつたのを
確めると、押へてゐた手を
緩めた。それから、二人は、立ち上つて、手を
拱いて、正氣かどうか怪しむやうに、漠然と迷ひながら、私の顏を眺めた。
「こんなことは、前にはしなかつたんですけれど。」と、とう/\ベシーが、御夫人附きの女中に向つて、口を切つた。
「だけど、いつだつて、この子は、こんな人だつたのよ。」と云ふのが、その返辭だつた。「私は、よく奧さまに、私の考へを申上げますけれど、奧さまも賛成して下さいますわ。この子は、陰險なのよ、こんな年頃の子供で、こんな
猫被りは、私、知りませんわ。」
ベシーは、答へなかつた。が、やがて、私に呼びかけて、かう云つた――
「あなたはね、お孃さん、リード夫人のお世話になつてゐると云ふことを、よく呑みこまなければいけませんよ。あの方が、あなたを養つてゐらつしやるのですから。もしあの方におつぽり出されてしまつたら、あなたは、
救貧院へでも行くより、仕樣がないでせう。」
こんな言葉に對して、私は、何も答へることがなかつた。それは、決して耳新しい言葉ではない。私が生れて一番最初の想ひ出が、この種の内容を含んでゐた。
寄食者に對する非難は、始終、私の耳へ漠然と傳はる
小唄になつてゐた。とても苦しい、
潰されさうな、それでゐて半分しか意味の判らぬ小唄に。
アボットが口を入れた――
「それから、あなたは、お孃さまや若旦那さまと同じ身分だと思つてはいけませんよ。奧さまは、まつたく親切づくで、あなたをお子さま同樣に育てゝゐらつしやるのよ。お孃さま方は、やがて大金持におなりになりますが、あなたは、一文無しなんですよ。
卑下して、あの方たちのお氣に入るやうにするのが、當り前ですわ。」
「私たちの云ふのは、あなたの
爲を思つてゐるからよ。」と、そんなに激しくない聲で、ベシーがつけ加へた、「あなたは、お役に立つ、氣持ちのよい子になるように、心がけてゐなければいけませんわ。それでこそ、あなたは、この家に住めるのですけれど、怒つたり、亂暴したりするのでは、奧さまは、いまにきつと、
他所へ
遣つておしまひになりますわ。」
「それに、神さまの罰が當りますわ。あなたが腹を立てゝゐる最中に、神さまが
命を
奪つておしまひになるかも知れないぢやないの。そしたら、地獄のほかの、何處へ行くと思つて? ベシー、いらつしやい。この子を一人にして置きませう。私は、何を
遣ると云はれても、この子のやうな性質は、
眞平ですわ。エアさん、ひとりになつたら、お祈りなさいよ。悔い改めないと、煙突から惡魔が忍び込んで、連れてつてしまふかも知れませんよ。」
彼女等は、出ていつて、
扉を
閉めた、それから、
錠を
下して立ち去つた。
赤い部屋は、四角な部屋で、その中で人が寢るやうなことは、稀にしかなかつた。寧ろ、どうかしてゲィツヘッド
莊に客がたて込んで、邸内全部を用立てる必要にでも迫られなければ、全然使用されなかつたと云つてよい。しかも、邸内で一番廣い、一番壯麗な部屋だつた。マホガニの頑丈な柱が支へた寢臺は
深紅色の
緞子の
帷帳が垂れて、部屋の中央に、幕屋のやうに
据つてゐた。いつも
鎧戸を
下したまゝの、二つの大きな窓には、同じ色の
帷帳の
花綵飾りが
弛んで、半分覆うてゐた。
床の
絨毯も紅く、寢臺の足許の
卓子にも、
眞紅な
布が掛かつてゐた。壁はほんのり淡紅色を含む、柔らかい
仔鹿色に塗られてゐた。衣裝箪笥や、化粧臺や、椅子は、ずゝ黒く磨き上げた古いマホガニだつた。これらの
幽遠な周圍のなかに、影が高く立ち、積み夜具と枕に、
雪白のマルセイユ木綿の
上掛けが白く光つてゐた。寢臺の枕もと近くの、
臺座ゆたかな
安樂椅子も、足臺を前に、寢臺とおなじほど白々と
際だつてゐて、私には、それが、蒼ざめた
玉座のやうに思はれた。
部屋は、殆んど火を
焚かなかつたから、冷え/″\として、臺所や子供部屋から離れてゐる爲めに、物音ひとつしなかつた。殆んど開かずの部屋と知られてゐたので、嚴肅でもあつた。この部屋に入るものとては、たゞ女中が、土曜日ごとにやつて來て、一週間の靜かな
埃を、鏡や家具から
拭き取るだけだ。リード夫人自身も、極く
稀にやつて來て、
衣裝箪笥の中の、ある祕密な
抽斗の中のものを調べるだけだつた。そこには、色々な文書類や、寶石の小函や、亡夫の
小照などが收めてあつた。この亡夫と云ふ言葉に、この寢室の祕密が――この寢室の堂々としてゐながら、打ち棄てゝ
顧られないと云ふ魔力が――
潜んでゐるのだ。
リード氏が
亡くなつてから九年になる。彼はこの室で息を引き取つた。こゝに、彼は安置され、こゝから、彼の
棺は葬儀屋の手によつて運び出された。その日から、陰凄な
聖別の感じがこの部屋を封じて、人々の足を
絶つてしまつた。
ベシーと酷いアボットが、私を釘づけにしていつた腰掛は、大理石の煖爐に近い、低い
褥椅子だつた。寢臺が、私の前に立つてゐて、右手には、背の高い、
黝ずんだ衣裝箪笥があつて、薄暗い、斷續的の光線が、
鏡板の光澤に強弱をつけてゐた。左手には、
日除けの
下りた窓があつた。その間に篏められた大きな姿見が、部屋と寢臺の空漠な
嚴めしさを
反映してゐた。私は、
錠を
下していつたどうか、はつきり判らなかつたので、動く勇氣の出た時に、起き上つて、調べにいつた。やつぱし!
錠は
下りてゐた。どんな牢獄でも、未だ嘗てこれほどではなからうと思はれるくらゐ、嚴重に
閉まつてゐた。
扉から戻つて來るには、どうしても、姿見の前を横切らねばならない。私の
眩惑された眼は、われ知らず、姿見の深みを探つた。その
幻の虚影のなかでは、何もかもが、現實より一層冷たく陰鬱に思はれた。白い顏と、兩腕が
暗闇の
汚點のやうで、一
切が靜まり返つてゐる中で、恐怖の眼を光り動かして、私を
凝視してゐる、不思議な子供の姿が、本當の幽靈のやうに見えた。あのベシーの夜噺しに出て來る、曠野の淋しい谷間から現れて、路に行き暮れた旅人の前に姿を見せる半分
妖精半分鬼の、小さな
化物の一匹に見えた。私は、元の場處へ歸つた。
迷信が、その時、私の心を襲つてゐた。だがまだその時は、全くそれに打ち負かされてはゐなかつた。血は、まだ
熱かつた。
謀叛する奴隷のやうな氣持ちが、私を尚も力強く
緊き締めてゐた。眼の前の光景の
陰慘さに、
畏怖する前に、私は、私の過去の思ひ出が、激しく湧き出て來るのを抑へなければならなかつた。
すべての、ジョン・リードの
理不盡な虐待振りや、彼の妹の
權高な冷淡さや、彼等の母が私に示す
嫌惡の情や、召使ひの寄せる
依怙ひいきが、濁つた井戸の暗い
沈澱物を掻き

すやうに、心の底から浮び上つて來た。何故、私は、いつも苦しまねばならぬか? いつも威壓され、非難され、責めとほしに責められねばならぬか? どうして私は、人の氣に入ることが出來ないのだ? どんなに
努めても、誰も可愛がつて呉れないのは、どう云ふわけだ? 強情で身勝手なイライザは、みんなに敬はれる。我儘なヂョウジアァナは、毒々しい
執念さや、
口喧しい尊大な態度にも拘らず、みんなの愛に甘えてゐる。彼女の美貌、桃色の頬、金色の捲き毛、こんなものが、彼女を見る誰にも喜ばれ、どんな惡いことをしても叱られずに濟むのだ。ジョンに至つては、鳩の首を
捩ぢようが、孔雀の雛を殺さうが、犬を
嗾けて羊を追ひ

さうが、温室の葡萄の
果をちぎらうが、一番大事な花の
莟を

らうが、誰ひとりとして、邪魔するものもなければ、まして罰する者のありやうがないのだ。彼は、自分の母を「ばゝあ」と呼んだり、自分が同じやうに受繼いでゐる肌の黒さを、罵倒することもある。母親の云ひつけなぞ、てんで聽き入れない。彼女の絹の着物を引き裂いて、
滅茶々々にすることも、珍らしくないのだ。それでもなほ、リード夫人の「大切な一人ツ子」であつた。私は、どんな
過失も
犯さないようにした。私は、毎日、あらゆる努めを果たさうと努力してゐた。さうして私は、朝から晝まで、晝から晩まで、横着で、
怠け者で、
すね者で、卑屈者だと云はれ通した。
先刻ジョンに
毆られて
轉んで怪我をした私の頭は、未だに痛みが
止まず、血が流れてゐた。ジョンが、無法な
打擲の手を私に加へても、たしなめる者も無いのだ。しかも、それ以上の暴行に我慢出來ないから、抵抗すると、私は、家内中の非難を、悉く
背負はされてしまつた。
「無理だ! 無理だ!」
耐へ切れない苦しみのために、一時的ながら
大人びた力を喚び起されて、私の理性が、さう叫んだ。決斷心も、理性に劣らず刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、10-下-12]されて、
耐へきれない壓迫から
逃れる爲めに、思ひもよらぬ手段を
唆かした。逃げるか、それが出來ないなら、絶食して死なうと決心した。
寂しいその日の午後、私の
魂は、どんなにおどろいたことか! 頭はかき亂れ、心は反抗に燃え立ち、しかも、どんなに、五里霧中な、心の鬪ひが、戰ひつゞけられたことか! ひつきりなしに起る内心の疑ひに對して、私は、答へることが出來ない。
何故こんなに苦しめられねばならないか? その後何年
經つたか、わざと云はない――今になつて、私は、その
譯が、はつきり判つて來た。
私は、ゲィツヘッド
莊では、不調和物であつた。私は、飛び
放れてゐた。私は、リード夫人とも、その子供たちとも、またそのお氣に入りの召使ひたちとも、
融合すべき何物も持たなかつた。もし、彼等が私を愛しなければ、それだけ、私も、事實、彼等を愛しない。さうして、彼等は、彼等の仲間の一人と、氣心を合し得ないやうな者に對しては、優しく
交際ふ義務を持たなかつたのだ。氣質や才能や嗜好の點で、彼等と反對な變り者、彼等のためには何の役にも立たない、彼等の愉快を増すことも出來ない無用な子供、彼等の待遇に憤懣の種を持ち、彼等の思案を
侮蔑する、そんな私に優しくする必要は無いのだ。
もしも私が、多血質で、利發で、無頓着で、強要的で、
縹緻のいゝお轉婆娘だつたら、同じ
寄食者の、よるべない者であるにしても、リード夫人は、もちつと滿足して、私の存在を我慢したであらう。そしたら、子供たちも、もつと仲間同志と云ふ親しみを私に對して持つたらうし、召使ひたちも、私を子供部屋の
贖罪羊にすることが、尠かつたらう。
晝間の光が、赤い部屋に薄れていつた。もう四時過ぎだ。雲の多い午後が、
陰暗な夕空明りへ
傾いてゆく。階段の窓を叩く雨の音が、まだ聽え、邸の
背後の
灌木林に風が騷いでゐる。私の
體は、だん/\に石のやうに
冷たくなつて來た。私の勇氣は、
挫けていつた。いつもの
虐たげられた氣持や懷疑心や孤獨な
憂鬱が、
崩れゆく憤激の
餘燼に、
濕め
濕めと落ちかゝつた。みんなは、私が惡いと云ふ。多分、さうかも知れない。いまさき、自分で
餓死しようと考へたのは、なんとそら恐ろしいことだ。それは、確かに罪惡だ。しかも、私は、今死んでも用意が出來てゐるだらうか? またゲィツヘッド教會の
内陣の下の
納棺所は、私にとつて樂しい目的地であらうか? その納棺所に、リード氏が埋葬されてゐると聞いてゐる。さう思つて、私は、
怖さを
募らせながら、リード氏のことを
追憶した。彼は、憶ひ出せないけれど、私自身の伯父(私の母の兄)であることや、私が親の無い乳呑み兒の時に、私をこの家へ引取つて呉れたこと、またその臨終には、私を彼女自身の子供の一人として、養育するようにと、リード夫人に誓はせたことを、私は知つてゐる。リード夫人は、多分約束は果たしたと考へてゐるかも知れない。事實また、彼女は、彼女の性質の許す限りに於て、果たしてゐる。しかし、夫が死んでしまへば、何の
結縁もない、
赤の他人の邪魔者を、何の縁故で心から愛することが出來ようか。無理矢理に誓はされた約束の爲めに、自分が愛することも出來ない、見も知らぬ子供の親代りになつてやらねばならず、彼女の家族の
集ひの中に、永久に
闖入して來た氣心も知れぬ外來者の面倒を見なければならぬことは、最も煩はしいことに違ひなかつた。
妙な考へが、私の心に
萠した。もしも、リード氏が、この世に生きてゐたら、私を可愛がつて下さるだらうと云ふことを、私は疑はなかつた――決して、疑はなかつた。私は、眞白な寢臺と、すつかりかげつた壁を
凝視めて、坐つてゐた――とき/″\、ぼんやり光つてゐる鏡の方へ、
眩耀しい眼を向けながら――。私は、死人の話を思ひ出しはじめた。生きてゐる人々が遺言を守つてくれないので、お墓の中で
成佛出來ないでゐる死んだ人が僞善者を罰し、
虐げられた者に代つて、復讐する爲めに、再びこの世にやつて來ると云ふ話を思ひ出してゐた。リード氏の魂が、自分の妹の子の受けてゐる不法な待遇に惱まされて、教會の
納棺所、または何處か知らない、死者の世界にある
棲處を去つて、この部屋の私の前に現はれるかも知れないと思つた。私は、涙を拭いて、咽び泣きの聲を抑へた。あまりひどく悲しむ容子をすると、この世のものでない聲をして、私を慰めに來たり、
薄暗闇の中から、
後光につゝまれた顏を現はして、不思議な憐れみをこめて、私の上に
屈みかゝりはしないかと、心配になつて來たから。
これは、理窟から云へば、
慰藉だが、實際さうなつたら
怖いだらう。私は、ありつたけの力で、その考へを抑へようと
努めた。私は、しつかりしようと努めた。髮を目から振りのけ、頭を上げて、思ひ切つて、薄暗い部屋の中を見

さうとした。恰もこの時、一條の光が、壁に耀いた。月の光が、
鎧戸の
隙間から洩れるのだらうか。いや、月光なら、ぢつとしてゐるが、その光は動いた。見てゐるまに、天上へ
滑り、私の頭の上に
顫へた。今の私ならば、咄嗟に誰か提灯を持つて、
芝生を横切つていくのに違ひないと察しるんだが、しかし、この時には私の心は恐ろしいものを待受け、神經が
昂ぶつてゐたので、その早く走る光が、他界から出て來る幽靈の先觸れのやうに思へた。私の胸は烈しく
動悸し、私の頭は熱くなつた。音が、ぐわんと響く。翼のはしる音に思へた。何か近づいて來るらしい。私は苦しくなり、息が詰つた。我慢が出來なくなつた。
扉に飛びついて、死物狂ひになつて
錠前を搖すぶつた。
外の廊下に
跫音[#ルビの「あしおと」は底本では「あしあと」]が駈けて來て、鍵が
外されて、ベシーとアボットが這入つて來た、
「どこかお惡いの? エアさん。」ベシーが
訊いた。
「何んて恐ろしい物音を立てるんでせうね!
ぞうつとしたわ!」とアボットが叫んだ。
「出して頂戴。子供部屋へ連れてつて頂戴。」私は叫んだ。
「何の用で! あなた
怪我をしたの! 何を見たの!」
再びベシーが訊いた。
「光が見えたのよ。幽靈が來ると思つたのよ。」
私は、ベシーの手を掴んだが、彼女は別に振り放さうともしなかつた。
「この人はね、わざと、わめいたのよ。」アボットが、
憎々しげに云ひ放つた。「何て聲でせう。ひどく苦しいのなら、
堪忍して出して上げるけれど、この人は、たゞ私たちを呼び寄せようと思つたのよ。私は、ちやんと、この人の
狡い計略を知つてるわ。」
「どうしたと云ふのです。」と
横柄な別の聲が
訊いた。さうして、リード夫人が、帽子のレイス飾を廣く
飜しながら、激しく衣擦れの音を立てゝ、廊下傳ひにやつて來た。
「アボット、ベシー、私が來るまでジエィン・エアは、赤い部屋に一人で入れて置けつて云ひつけなかつて?」
「ジエィンさんが、迚も大きな聲で騷ぎましたの、奧さま。」
ベシーが言ひ譯をした。
「あつちへお遣り。」返辭はこれだけであつた。「ベシーの手をお放し。こんなやり方では出して貰へないことがよく
解つたゞらうね。私は
小細工は大嫌ひだよ。殊に子供がするなんて。計略は
効目のないことを、私はお前に教へてやらねばならない。もう一時間、こゝにおゐで。全く云ふことを聞いて、おとなしくなるのでなければ、出しては上げられません。」
「伯母さま、お願ひですから、許して下さい。もう辛抱出來ません、もつと外の罰を受けさして下さい、私、死んでしまひさうです……もしも……」
「お默り。この亂暴な
態つて、見るのも胸がわるくなるよ。」
實際彼女の氣に
障つたらしかつた。私は彼女の眼には、おませな役者に見えたのだった。彼女は、私を毒々しい激情と
下劣な精神と危險な僞瞞との混成物と見なしてゐた。
ベシーもアボットも引下り、リード夫人は私の、いまの
氣狂のやうな苦悶と、荒々しい泣き聲に我慢が出來なくなつて、それ以上口を
利かずに、ふいと私を突き戻して
閉め込んだ。
さつさといつてしまふのが聽えた。さうして、彼女がいつてしまふと、私は氣絶したらしい。無意識状態が、この場面の幕を閉ぢた。
次に私の覺えてゐるのは、恐ろしい
夢魔に襲はれたやうな感じで目が覺めて、目の前に凄まじい紅い炎が、太い黒い棒と
交叉してゐるのを見たことだつた。
私はまた誰かゞ空虚な音を立てゝ、また恰も一陣の雨風に抑へられたやうな聲で、話してゐるのを聽いた。昂奮と、不安と、他の何よりも
優る恐怖の感情が、私の精神機能を混亂させた。やがて、私は、誰かゞ私をいぢつてゐるのに氣がついた。私を
抱へ起しながら坐る姿勢にして支へてゐるのだ。それが、これまで起されたり、抱き上げられたりしたことがないほど優しいのだ。私は、頭を枕か腕かにもたせて、
樂になつた。
五分も
經つと、混亂の雲が消えた。自分が自分の寢臺にあることや、あの紅い
焔が子供部屋の煖爐の火であることが判つた。夜であつた。蝋燭が
卓子の上に燃えてゐた。ベシーが手洗ひをもつて寢臺の足許に立つてをり、一人の紳士が枕もとへ椅子を近づけて、私の上に
屈みこんでゐた。
部屋の中にゲィツヘッドのものでもなく、リード夫人に關係のない一人の見知らぬ人がゐるのを知つた時、私は云ひやうもない安堵と、快い、もう大丈夫の自信とを感じた。ベシーから目を轉じて(ベシーは傍に居合せても、例へばアボットなんかに居られるよりずつと厭ぢやなかつたが)その紳士の顏を探り見た。その人は私の知つてゐる人だつた。召使ひが病氣になると、リード夫人に招かれる
藥劑師のロイドさんであつた。リード夫人は、自分や子供たちの病氣の時は醫師を招いたのだが。
「私がわかりますか。」彼が訊ねた。
私は、彼の名前を言つた。同時に私の手を差し伸べた。彼は、その手を執つて微笑みながら、「今にだん/\よくなりますよ。」と云つた。それから、彼は、私を横にして、今夜はそつと寢させておくように、よく氣をつけなければいけないと、ベシーに命じた。それから尚二三の指圖をして、また明日見舞ふからと云つて歸つていつたが、私は悲しかつた。彼が枕もとの椅子にゐる間は、十分に
庇はれ
護られてゐるやうな氣がしてゐた。彼が出ていつて、
背後に
扉が
閉ると、部屋中が暗くなつて、ふたゝび、氣が沈み、名状し難い悲しさが、のしかゝつて來た。
「お孃さん、ねむれさう?」ベシーがどうやら
物柔かな調子で
訊いた。
「寢てみるわ。」二の句が荒々しいだらうと思つたので、漸くこれだけ答へた。
「何か飮みたい? それとも、何か食べられて?」
「結構よ、ベシー。」
「ぢや、私もうやすみます。十二時過ぎですから。何か
欲しくなつたら、夜中でも私を呼んでもいゝわ。」
これは、何と云ふ
素晴しい親切さだらう! 私は大膽になつて、質問した。
「ベシー、わたしどうかして? 病氣なの?」
「赤いお部屋で泣いたので、
患くなつたと思ひますわ。でもきつと
直きよくなつてよ。」
ベシーは近くの女中部屋へいつた。彼女が言つてゐるのを聞いた――
「サラーさん、子供部屋へ來て、私と一緒に寢てよ。今夜はどうしても、あの可哀想な子と二人つきりでゐられないわ。あの子は死ぬかも知れない。あの子が、あの
發作を起したのは全く變よ、何か見たのぢやないかと思ふけれど、奧さんも
酷過ぎたわ。」
サラーはベシーと戻つて來た。彼等は二人とも床へ入つた。寢入るまで、半時間も
囁き合つてゐた。彼等の話の斷片を聞き取つた。全くはつきりと、その話の眼目を推量出來た。
「全身
白裝束をした何物かゞ、彼女の側を通つて、消えちまつたの。」――「彼の
後に大きな黒犬。」――、「部屋の扉を三つ音高に敲く。」――「教會のお墓のちやうど眞上に一筋の光が……。」など/\。
とう/\、二人とも寢ついた。煖爐も蝋燭も消えた。私には氣味惡く、寢つかれないで、その長い夜の時間が、過ぎた。耳も、目も、心もすべて一樣に恐怖の爲めに張り切つた。それは子供だけが感じ得るやうな恐怖だ。
この赤い部屋の出來事があつた後、私はひどい、永びく病氣に
罹らなかつた。たゞそれは、私の神經に
衝動を與へた。その反響を今日まで私は感じてゐる。さう、リード夫人よ、あなたのおかげで、私は、身震ひするやうな精神的
受難の恐ろしい苦痛を
嘗めた。しかし、あなたは、自分のなすつたことがわからないのだから、許して上げねばならない。私の心の
緒を
斷ち切りながら、あなたは、私の惡い
根性を
根絶するとばかり思つていらつしやる。
翌日の晝には、私は、起きて、着物を着て、ショールにくるまつて、子供部屋の
圍爐裏の傍に坐つてゐた。私は自分の
體が弱り、打ちのめされたやうになつてゐるのを感じた。しかし、それよりももつと惡い私の煩ひは、云ふにも云はれない心のみじめさだつた。そのみじめさは、無言の
泪になつて、私の眼からぼろ/\とこぼれた。鹽つ
辛い一滴を私の頬から拭ひ切らないうちに、もう次の一滴が落ちてゐた。それでもまだ、私は、現在は幸福に違ひないと思つた。
何故なら、リード家の人は、一人もこゝにゐないのだから。みんなは母親と馬車に乘つて出かけた留守だつた。アボットもどこか他の部屋で縫ひ物をしてゐた。ベシーは、あちこち動き

つて、玩具を片附けたり、
抽斗を整理したりしながら絶えず私に話しかけて、
耳慣れない親切の言葉を
浴せた。これは毎日々々しつきりない
譴責と決して感謝されることのない雜役とに慣れ切つた私には、平和のパラダイスに違ひなかつた。しかし實際は、私の過度に疲勞した神經は、いかなる平和も和らげることの出來ない、また、如何なる愉樂も氣持ちよく樂しさを感じさせることの出來ないやうな状態であつた。
ベシーは、臺所へいつて、美しく
彩色された陶器の皿に果物入パイを運んで來た。皿の、晝顏や薔薇の蕾に巣くつた
極樂鳥の模樣はいつも私に熱狂的な感嘆を呼び起したものである。そして私はそれを手に執つてもつとよく調べさせて貰ひたいとしば/\嘆願を重ねたが、これまではそんな
恩典には價ひしないと見做されて拒絶され續けて來たものであつた。その貴重な皿がいま私の膝の上に置かれ、それに載せたおいしさうな小さな丸いお
饅頭を食べるやうに親切にすゝめられた。空しい好意! かねてから願つてゐたのに、
延々になつて叶はないでゐた、外ののぞみと同じく、あまりに來やうが遲かつた。私はその果物入のパイを食べることが出來なかつた。鳥の羽、花の色彩も妙に色褪せてゐるやうに感じた。私はお皿もお菓子も押しのけた。ベシーは本はいらないかと訊ねた。本と云ふ言葉はちよつと私の心を引き立たした。私は書齋から『ガリヴァ旅行記』を持つて來てくれるやうに頼んだ。私は、この本をこれまで喜びをもつて繰返し/\
耽讀したものである。私は、これを實際にあつた物語だと考へてゐた。さうして、その中にお伽噺に發見するよりも、もつと深い一脈の興味を發見した。何故なら、
妖精なんてヂキタリスの花や葉の間や
蕈のかげや、古壁の隅を
匍つた
連錢草の下を探したけれど、どこにも見附からないので結局、そんなものはもうみんな英吉利を立退いてもつと自然のまゝに森が生茂つて人氣の少い未開の蠻地へ行つたに違ひないと云ふ悲しい
諦めを信ずるやうになつたから。ところが『ガリヴァ旅行記』に於ては小人島も巨人島も私の信ずる所によれば地球の表面に確固たる
地域を占め、いつか、將來私が長い航海でもしたならば、私自身の目でガリヴァの行つた國の小さい畑、小さい家や、木や、
小人を、また小つぽけな牛、羊、鳥などを、それから、も一つの國の、森のやうな高い麥畑、巨大な猛犬、怪物のやうな猫、塔のやうな男や女を目撃するであらうことは、疑ひを
挾む餘地がなかつた。だのに今私の大事な本が私の手の中に收められてゐるのに――私がその頁を繰つて、これ迄にきつと私が見出したところの興味を、すてきな

繪、頁の中に探した――すべての繪は、氣味惡く、物すごいばかりだつた。巨人はやせこけたお化けであり、小人は意地の惡い恐しい鬼であつた。ガリヴァは、一番恐しい危險な國々を淋しく旅しつゞけた放浪者だつた。私は、もう續けて讀みたくなかつたので、本を閉ぢた。そしてそれを、
卓子の上の、手をつけてないお菓子の傍へ
載せた。
この時までにベシーは部屋のお掃除と取かたづけを濟ましをつた。そして手を洗つてから、絹や
繻子やきれいな小切れの一ぱい詰つた抽斗を開けてヂョウジアァナの人形の新しい帽子を作りはじめた。作りながら唄を歌つた。唄は、
むかし、むかし
乞食旅に出たときは、
この唄は、前にも再々聽いて、いつも生々した喜びをもつたものである。
ベシーはいゝ
喉をしてゐたから――少くとも私はさう思つた。しかし今の私には彼女の聲は相變らずいいけれど、その
調べの中に名状し難い悲しさが感じられた。時々ベシーは仕事に氣をとられて繰返しを非常に長く
緩り引張つた。「むかし、むかし」の一節が
挽歌の悲痛極まる
抑揚のやうに響いた。彼女は、
他の小唄を唄ひ出した。こんどのは本當にしめつぽい唄だつた。
私の足は痛み、私の手脚は疲れてゐる
道は遠く、山路は險しい。
やがて黄昏が月無く、凄く、
哀れな孤兒の行手にかぶさるだらう。
何故に、みんなは、わたしを來さしたの、こんな遠い、こんな淋しい處へ、
沼地が擴がり、灰色の岩が積み重つてゐる處へ?
世間は無情で、優しい天使さまだけが、
哀れな孤兒の歩みを見そなはす。
さあれ、遠く、靜かに、夜風吹き、
雲は無く、澄んだ星、優しく輝く。
神さまは、その御惠みをもつて、
保護と慰安と希望を、哀れな孤兒に示し給ひつゝある。
壞れた橋を渡つて落ちようとも
狐火に迷はされて、沼地に踏み入らうとも、
父なる神は希望と祝福もて
哀れな孤兒をみ胸に引き取り給ふ。
われを勵ます思想あり、
宿もよるべも無き身にも、
天は我家、安息は我を見捨てず
神は哀れな孤兒の友となり給ふ。
「ジエィンさん、泣くんぢやありません。」唄ひ終るとベシーが云つた。しかし、彼女は火に向つて「燃えるな!」と云つた方がよからう、どうして私のさいなまれてゐる病的な受難を彼女が
測り知り得ようか。朝の中にロイド氏がまた來た。
「おや、もう起きたの!」と彼は、子供部屋に入るなり、云つた。「お孃さんはどうですか?」
大變いゝんだと、ベシーが答へた。
「それぢあ、もつと元氣に見える筈だが。ジエィンさん、こちらへいらつしやい。あなたの名はジエィンさんでしたつけ。」
「さう、ジエィン・エアです。」
「泣いてゐましたね。ジエィン・エアさん。何故だか云へますか、どこか
痛みますか。」
「いゝえ。」
「あゝさう、奧さんたちと馬車に乘つて出かけられなかつたから、泣いてゐるんですわ。」とベシーが口を

んだ。
「そんな
拗ねたことを云ふ年ぢやあるまい。」
私もまたさう思つた。私の自尊心は、間違つた非難で
傷けられたので
即座に答へた。「今まででも、そんなことで泣きなんかしませんわ。私は馬車で出かけるのは嫌ひです、私は、私が可哀さうで泣いてるの。」
「
厭アよ、ジエィンさん。」ベシーが云つた。
人のいゝ藥劑師は、ちよつとまごついたやうに見えた。私は、彼の前に立つてゐた。彼は目をぢつと私に見据ゑた。彼の目は小さくて、灰色だつた。そして、決して光つてはゐなかつたが、その時はたしかに鋭かつたやうに思つた。彼は、むつつりしてゐるが、
性質のよささうな顏付をしてゐた。
しばらく、私のことを考へて、云つた――
「昨日はどうして病氣になりました?」
「倒れたの。」とベシーがまた口を

んだ。
「倒れたつて! おや、まるで赤ちやんのやうだね! そんな年になつても、歩けないんですか、もう八つか九つになるんでせう。」
「私はぶつ倒されたの。」と云ふのが、私の
傷けられた
矜持の痛みが、私をして吐き出すやうに云はした露骨な説明であつた。「だけど、それで病氣になつたのぢやないの。」私は附け加へた。その間、ロイド氏は、一つまみのかぎ煙草を
嗅いでをつた。
彼がその函をチヨッキのポケットにしまつた時に、けたゝましい
呼鈴が、召使ひ等に食事を告げた。
彼は、それが何んであるか知つてゐたので、「女中さん、あなたですよ、行つていらつしやい。あなたが戻つて來るまで、ジエィンさんに云つてきかせておきませう。」
ベシーは居りたかつたやうだったが、仕方なく、いつてしまつた。ゲィツヘッド
莊では食事時間が嚴格に
勵行されてゐた。
「倒れて、病氣になつたんぢあないつて、ぢあ、どうしたんです?」ベシーが去るとロイド氏は追窮した。
「暗くなつてしまつても、私は、幽靈の出る部屋に
閉ぢ籠められてゐたの。」
私は、ロイド氏が微笑して、同時に眉をしかめるのを見た。「幽靈? 矢張り赤ちやんだね。幽靈がこはいんですか。」
「リード伯父さんの幽靈のことを云つてゐるのよ。あの部屋で
亡くなつて、そこにお棺が安置してあつたの。ベシーだつて、誰だつて、行かずに濟むなら、夜中にはその部屋へ行かないでせうよ。それに
酷いわ、
蝋燭も無しにひとりぼつちで閉ぢこめて置くなんて、
酷いわ――まつたく酷いんで、決して、忘れないわ。」
「馬鹿々々しい! それがあなたをみじめにしたわけですか。
晝間なのに、今でも
怖いのですか。」
「いゝえ、でももうぢき、また夜になるでせう。それに私は
他の事で不幸なの、ほんとに不幸なの。」
「
他の事つて何ですか、私にすこし話してみませんか。」
この質問に、私はどんなに心ゆくまで答へたかつたことか! しかし、一つの答へをまとめることが、どんなに
難しかつたことだらう! 子供は、感じることが出來ても、その感情を理解することが出來ない。考へて、多少理解し得たとしても、子供等は、その順序の結果を言葉で云ひ
表はす方法を知らないのだ。しかし、私の悲しみを人に語つて、それを晴らす最初の、唯一の機會を失ふことを恐れたので、私はしばらくためらつた後、貧弱だが、出來るだけほんたうの答へをまとめようと
努めた。
「一つのことの爲めなの。私には父も母も
姉妹もないんですもの。」
「あなたには親切な伯母さまと
從兄妹たちがありますよ。」
私は、ふたゝび、ちよつと考へた。それから、ぎこちなく云つた。
「しかし、その時ジョン・リードが私をなぐり倒したの。そして、伯母さまは、私を赤い部屋へ
閉ぢこめたのよ。」
ロイドさんは、またかぎ煙草の
函を取り出した。
「ゲィツヘッド
莊は、立派な家だと思ひませんか。こんな立派な家に住んでゐて結構だと思ひませんか。」
「私の家ではありませんもの。私は、こゝにゐる權利が召使ひよりもないのだつて、アボットが云ひましたわ。」
「こんな立派な家を出たいなんて、そんな馬鹿ぢやないでせうね。」
「ほかに行く所さへあれば、喜んで出て行きます。だけど、
大人になるまでは出られないんです。」
「さうかも知れない。いや、わかりませんね。リード夫人の
他に親類はないのですか。」
「ないと思ふわ。」
「お父さんの方のお
身内もないのですか。」
「知らないの。一度伯母さまに
訊いたのですが、エアと云ふ貧乏な、身分の低い
親戚があるかも知れないけれど、何も知らないと云つてゐましたわ。」
「もし、あつたら、あなたは、そこへ行きたいですか。」
私は考へた。
大人には貧乏が
怖しく見える。子供には、尚更のことだ。子供は、勤勉な、働く、尊敬すべき貧乏に就いてあまり知らない。貧乏と云へば、ぼろの着物、
乏しい食物、火の氣のない
煖爐、
野卑な擧動、下劣な不品行を聯想する。貧乏は、私にとつては墮落と同じ意味であつた。
「いやよ、貧乏人といつしよにゐたくはないわ。」と私は答へた。
「あなたを可愛がつても。」
私は頭を振つた。私には貧乏人がどうして人に親切が出來るのか
判らなかつた。彼等のやうな口を
利き、彼等のやうな
容子を眞似、無教育に育てられるのを考へると――ゲィツヘッドの村の小屋の戸口で、着物の洗濯をしたり、子供をあやしたりしてゐるのをよく見かける、あの貧乏な女みたいに育つのを考へると――いや身分を犧牲にしてまでも自由を得ようとするほどの勇氣はなかつた。
「あなたの
御親戚はそんなに貧乏なのですか。勞働者なのですか。」
「知らないの。リード伯母さまは親類があるとしたら
乞食の仲間だらうと云つてゐますのよ。私は物乞ひなんかしたくないわ。」
「學校へ行きたいですか。」
私は、また考へた。私は學校がどんなものだか殆んど知らなかつたが、そこでは若いお孃さんたちが
足枷をはめ、背中に板をつけさせられ非常に
上品で
几帳面でなければならないところだと、ベシーが時々話したものである。ジョン・リードは、學校が嫌ひで、先生を罵倒したが、ジョンが學校を
好かうと
好くまいと私は構はない。ベシーの學校の訓練に就いての話(ゲィツヘッドに來る前に彼女のゐた家の令孃から見聞きしたのだ)は、なんだか恐ろしかつたけれど、學校にゐる令孃たちの學ぶ
才藝に就いてのベシーの
詳しい話は、それに劣らず私を惹きつけると、私は思つた。彼女は、令孃たちの描き上げた花や風景の美しい繪を誇つた。その歌ふ唄や、その
奏でる曲や、その編み上げられた紙入れや、飜譯出來る佛蘭西語の本を誇つた。私がその話を聞いてゐるうちに、私の心は、つひに
負けん氣を起した。その上に、學校は、完全な變化であらう。それは、一つの長い旅で、ゲィツヘッドから完全に離れること、新らしい生活へ這入ることを意味してゐた。
「ほんたうに學校へ行きたいんです。」と私は、私の瞑想した
揚句、聽き取れるように云つた結論であつた。
「ふゝん、どうなるかね。」と、ロイド氏は、立上りながら云つた。「この子は
轉地させる必要がある。神經が衰弱してるわい。」と附け加へて、獨りごとを云つた。
その時ベシーが戻つて來た。と同時に、馬車が
砂利道をきしませて歸つて來る音が聽こえた。
「あれが奧さんですか、
保姆さん?」とロイド氏が
訊いた。「私は、歸る前に、奧さんにお話がしたいのですが。」
ベシーは、
朝食堂へ行くように、彼を招いて、案内して出た。彼がリード夫人との會見に於て、私を學校へやるように説きつけ、
即座にその推薦が採用されたのが、後の出來事によつて推測された。或る晩、私が床へ這入つた後、ベシーとアボットが子供部屋で縫ひ物をしながら、私が寢ついて居ると思つて、そのことを話しあひながら、アボットが云ふには、「奧さんが仰しやつてましたわ、あの
厄介者の
氣立の惡い子供を
追拂へるので嬉しいつて。いつでも人のすることを
窺つてゐて、こつそり
惡企みをするやうな子をね。」と。アボットは、私に、ガイフオウクスのやうな子供だと
折紙をつけてゐた。
その時始めて、アボットがベシーに告げてゐたことから、私の父が貧乏な一牧師だつたこと、私の母は
不釣合だと云ふ友達の意見に
背[#ルビの「そむ」は底本では「そた」]いて、私の父と結婚したこと、祖父のリードは大いにその不從順を怒つて彼女に一文も與へずに追ひ出したこと。二人の結婚後一年の後、父が、牧師補の職を持つてゐた大工業都市の貧民窟を訪問してゐる間に、その當時流行してゐたチブスに
罹つたこと、母は父から傳染して、二人とも一月のうちに
相繼いで死んだことを知つた。
この話を聞いた時、ベシーは
溜息をついて云つた。
「ジエィンも可哀さうぢやありませんか、アボットさん。」
「さうよ、あの子が可愛らしい、いゝ子だつたら、誰だつて、獨りぽつちの身の上に同情するわ、だけど、あんないやな奴では、ほんたうに心配してあげられないわ。」
「まつたく、大してはね。」とベシーも同意した。
「とにかくヂョウジアァナさんのやうに可愛ければ、同じやうな
境界[#ルビの「きやうがい」は底本では「きまうがい」]でも、もつと動かされるでせうに。」
「えゝ、私はヂョウジアァナさんはほんとに好きだよ。」
アボットが熱くなつて叫んだ。「可愛いゝお孃さん! 長い
捲毛、青い眼、顏の
色艷のいゝこと、まるで
描いたやうだわ。ベシーさん。あたしは、夕飯にはウェルス・ラビットを食べたいわね。」
「さう、私もよ……熱い玉ねぎつきでね、さあ、行きませうよ。」彼等は去つた。
私は、ロイド氏との話や、前に述べたベシーとアボットとの會話から
推して、よくなりたいと望む動機たるに十分の希望を得た。變化が近づくやうに見えた――私は
默つてそれを待ちこがれてゐた。けれどもそれは
暇どつた。何日も何週間も過ぎた。私は、私の平常の健康を囘復したのに、私が考へてゐたそのことには、何らの新らしい暗示もなされなかつた。リード夫人は時々
嚴しい眼つきで私をさぐり見たが、めつたに話しかけはしなかつた。私の病氣以來、彼女は、その子供たちと私との間に、前にもましてもつとはつきりした隔てをつけてしまつた。私がたつた獨りで眠る小部屋を私にあてがひ、食事も獨りぽつちでするやうにと云ひわたし、また私の
從姉妹たちが、いつも客間で過してゐる時に、一日中私は子供部屋で過すようにと命じた。しかし、私を學校へやることについては、何のけはひも見せなかつた。けれど、それでも私は、彼女が、長く私と一つ屋根切れの下にゐるに堪へないのを、本能的にたしかに知つた。私の方へ向けられる時、彼女の一
瞥は、いまは以前にもまして壓へ切れない、
根強い
憎惡を表はしてゐたから。
イライザとヂョウジアァナとは、明かに命令どほりに、出來るだけ私には話をしなかつた。ジョンは私に會ふ度に、頬を舌でふくらました。そして一遍は私を懲らさうとした。けれど、かつて私の惡徳を惹き起したことのある
烈しい怒と
必死の反抗と同じあの感情に動かされて、私が
咄嗟に向きなほつた。すると、ジョンは止めた方が得だと考へて、呪ひを云ひ、私が彼の鼻を打ち碎いたと斷言して、私から走つていつた。私は、實際、
拳が加へ得る限りのはげしい打撃を彼の鼻に
狙つた。そのことか或は私の顏付が、彼を
怯ますと知るや、私は勝に乘じてその上に、彼をやりこめようとした。しかし、彼は、もうとつくに母親のところにゐた。彼が泣き聲で「あのジエィン・エアの畜生」がまるで
氣狂ひ猫のやうに自分に飛びついたんだと話し始めるのが聞えた。が、彼はむしろ荒つぽく
遮ぎられた。
「あの子のことを、私にお話しぢやないよ、ジョン。あの子のそばへ行かないように云つておいたぢやないか。あの
娘はとやかく云ふに足りないんだよ。私は、お前もお前の姉妹も、あんな子とつきあふのは、好まない。」
手すりに凭りかゝりながら、私は不意に呶鳴つた。自分の言葉をまるで考へもしないで――
「あんな子たちは、私とお仲間になれないのよ。」
リード夫人はむしろ
肥つた女だつたが、この思ひがけない大膽な宣言を聞くと、彼女は素早く階段を駈け上つて、
旋風のやうに、私を子供部屋につれこんだ。そして寢臺の
縁に叩きつけて、激しい調子で、今日中そこから立てるなら立つてみよ、一言でも物が云へるなら云つて見ろときめつけた。
「リード伯父さまが何と仰しやるでせう、もし生きてゐらしたら。」殆んど自發的に云つた私の望みだつた。殆んど、
自發的であつた。まるで私の舌は私の意志の同意を待たず喋べつたかのやうだつたから。何事かゞ私の口から出た。しかも私はそれを抑へることが出來なかつたのだ。
「何だと!」リード夫人は絶え入りさうに云つた。いつも
冷やかな落着いた彼女の灰色の眼が、
怯えたやうに混亂した。私の腕から手を引いて、私が子供なのか、それとも惡魔なのか、實際見當がつかないといふ風に私を見つめた。私はもう
逃れつこはなかつた。
「リード伯父さまは天國にゐらつしやる。そしてあなたがすることや考へてることはみんなお分りになるんです。私の父さんだつて、母さんだつて分るんです。あなたが一日中私を
閉ぢ込めたことも、あなたが私を死ねばいゝと思つてることもみんな知つてらつしやるんです。」
リード夫人は、間もなく氣をとり直した。彼女ははげしく私をゆすぶつて、兩耳を
毆り、一言も云はず行つてしまつた。それから一時間もの間、ベシーがなが/\と説教をした。彼女は、屋根の下で育てられた子供の中で、私が一番
性が惡く、
無頼だと云つた。
私は、彼女の云ふことを半ば信じた。私は、實際、私の胸の中にたゞ惡い感情のみが
波立つてゐるのを感じたから。
十一月と十二月と、一月の半ばも過ぎた。クリスマスとお正月がゲィツヘッド邸でも、いつものやうに樂しい喜びで
[#「喜びで」は底本では「喜びて」]祝はれた。
贈物が交換され、晩餐會や夜會が催された。勿論私は總ての樂しみからのけものにされてゐた。私に分け與へられた
娯樂は、たゞイライザとヂョウヂアァナの毎日の
裝ひを見てゐることゝ、彼女等が薄いモスリンを着、赤い帶をしめ、髮を美しく
縮らせて、
客間へ
降りて行くのを眺めてゐることだつた。その後はたゞ階下で
奏でられるピアノかハァプの響きや、召使長や給仕が往來する足音や、
茶菓が渡される時のコップや茶碗の響や、客間の扉が開閉する時の切れ/″\の話聲などに耳を澄ますことであつた。こんなことに飽きると、私は
手摺から、淋しいひつそりした子供部屋に引込んだ。そこにゐれば何となく物悲しくはあつたが、私は
慘めではなかつた。眞實を云へば、私はちつともお客の中に行く氣はなかつた。私は殆んど注意されなかつたからだ。だからもしベシーが親切で、つきあへたなら、紳士や淑女の一ぱいゐる室で、リード夫人のおそろしいまなざしを受けてゐるよりは、彼女と二人で毎夕を靜かに暮す方がよほど樂しかつたゞらうに。しかしベシーは、お孃さんに着物を着せてしまふと、たいてい蝋燭を持つてすぐに、明るいお
勝手か、取締りの女の部屋へ、行つてしまふのだつた。そこで私は、人形を膝の上にのせて、火が消えかゝるまで、坐つてゐた。この薄暗い部屋には、自分自身よりも惡いものが出て來ないことを確めようと時々見まはしながら。燃え殘りの炭が
鈍い赤色になると、
紐や結び目をひつぱつて、手ばやく着物を脱ぎ、寒さと闇とからの避難所を私の
寢床の中に求めるのだつた。この寢床にはいつもお人形をつれて行つた。人間は何ものかを愛さねばならぬ。だから私は、自分の愛情にもつとふさはしい相手がないから、小さな
案山子のやうにぼろ/\になつた、色褪せた人形を愛することに、喜びを見出さうと
努めた。生命や感覺があるやうに
半ば考へながら、私がこの小さな玩具を、どんな馬鹿げた眞實で、
溺愛してゐたかを、今思ひ出すことは
難かしい。私は、それを、夜着の中に抱いてゐなければ寢られなかつた。さうして、そこで人形が安らかに暖かく寢てゐると、私は、人形も私と同じやうに嬉しいだらうと思つて、かなり嬉しかつた。お客の歸るのを待ち、ベシーが階段をのぼつて來る
跫音を聽き澄ましてゐる間は、永い時間のやうに思はれた。時々、あひまに、彼女は、彼女の
指輪や
鋏を探し、またはひよつとすると私に夕飯として、なにか――甘ぱんだとかチーズのパイだとか――を持つてやつて來た。そんな時は私が食べる間寢床の上に坐つてゐて、私が食べてしまふと、私を蒲團で包み、二度接吻をして「おやすみなさい、ジエィンさん。」と云ふのが常であつた。こんなにやさしい時は、私にはベシーが世界中で一番立派な、美しい親切な人に見えた。そして、私は彼女がいつもこのやうに
機嫌がよくてやさしくて、度々すぎるほど彼女がさうしたやうに私を
押し

したり、叱つたり、
法外に用をさせたりしないようにと
希つた。ベシー・リイは確かに生まれつきよい才能をもつた娘だつた。何をしても
手際よくやつたし、また話を面白く聞かせる
骨をも心得てゐた。彼女のお
伽噺から受けた印象によつて、少くとも私はさう考へる。顏や姿についての私の記憶が正確なら、彼女はまた美しくもあつた。私は、彼女が黒い髮と、くらい色の眼と、非常によい姿と、善良な明るい顏をもつた、すらりとした女だと覺えてゐる。しかし、彼女は氣まぐれで、
せつかちで、道義とか正義とかにはまるで無頓着だつた。彼女はそんな風な人間だつたが、それでも私はゲィツヘッド
莊で他の誰よりも彼女が好きであつた。
一月十五日、朝の九時頃だつた。ベシーは朝御飯に行つてゐた。
從姉妹たちも、まだ母親の處に呼ばれてゐなかつた。イライザは、帽子を
被り、温かい
庭着を着て、彼女の
家禽の處に行つて
餌をやらうとしてゐた。その仕事を彼女は氣に入つてゐた。が、卵を女中頭に賣つて、その金を
貯めるのもこれに劣らず好きだつた。彼女は、商賣氣があり貯蓄することが目立つて好きだつた。そのことは、卵や
雛を賣ることで分るばかりでなく、花の根や種や小枝等を園丁に高く賣りつけることでも察しられた。その園丁は、彼女が自分の花壇で出來たものを賣らうと思ふ時は、いつでもそれを買ふやうにリード夫人から云ひつけられてゐたのだ。イライザは、もしそれで、いゝ
儲けがあるなら、頭から自分の髮を賣り拂つてしまつたゞらう。そのお金はと云ふと、最初彼女はそれを
ぼろや古い
縮らし紙にくるんで方々の隅つこに隱しておいた。しかし、その貯蓄が、二つ三つ女中に見付けられたので、イライザは、大事な彼女の寶が
何時か無くなりやしないかと心配して、高い
利子で――五割か六割の――母親にそれを預けることにした。彼女は、その計算を、非常に正確に、小さな帳簿に記入して、年四囘の囘收日に、その利子を嚴重に取り立てた。
高い
腰掛に坐つて、ヂョウジアァナは鏡に向つて、髮を
結つてゐた。屋根裏の抽斗の中で彼女が前にさがしておいた
造花と色の
褪せた
羽根を捲き毛に編み込まうといふのだ。私は、ベシーが戻つて來るまでにきちんとして置くようにと、ベシーから嚴しい
命令を受けて、
寢臺を整へてゐた(今は、ベシーは、屡々私を小間使ひの下働きのやうに、部屋をかたづけたり、椅子の
埃を拂つたりなどする爲めに使つた)。掛蒲團を擴げ、自分の
寢着をたゝんでから、そこいらに散らかつてゐる繪本とお人形の家の道具をかたづけようと、窓ぎはに行つた。すると、ヂョウジアァナが自分は
玩具はそのまゝにしておくようにと突然命令して、私の仕事を中止させた(その小さな
椅子や、鏡や、美しい皿や茶碗は彼女のものだつたから)。それで他に仕事もなかつたので、私は、
窓硝子に、花のやうに凍りついてゐる霜を息で
解かしはじめた。かうして、
硝子がすき透ると、そこから私は地面を見ることが出來た。そこには、激しい霜で、何もかもが、
しんとして
化石されてゐた。
この窓からは、門番の家と車道とが見えた。窓硝子の銀白色の曇りを、ちやうど外が眺められるほどに
溶かした時、門が開け放たれて、馬車がそこを
辷り込むのが見えた。私は、それが、車道をのぼつて來るのを、ぼんやり眺めてゐた。色々の馬車が、よくゲィツヘッドにやつて來たけれど、まだ一度も、私が興味を感じたお客さんを連れて來たことはなかつた。馬車が家の前に止まつて、
呼鈴が音高く鳴り、訪問者は通された。こんなことは、みんな私にはつまらないものだつたので、私の
虚ろな心は、小さな飢ゑた一羽の
駒鳥の姿に、より
生々と惹きつけられた。それは、窓の傍の壁に
釘づけになつてゐる、葉の落ちた櫻の小枝にやつて來て啼いてゐたのだ。私の朝御飯のパンとミルクの殘りが
卓子の上にあつた。卷パンの一片をこまかく碎いて、
閾の上にパン屑をのせてやるつもりで、窓を
開けようと
窓框を力まかせに引つぱつてゐると、その時ベシーが階段を駈け上つて子供部屋に這入つて來た。
「ジエィンさん、
前掛をおとりなさい。そこで何をしてらしたの。今朝お顏と手を洗ひましたか。」私は返辭をする前にもう一度窓框を引つぱつた。是非小鳥がパンを食べられるやうにしてやりたかつたから。窓は開いた。私はパン屑を撒いてやつた。石の
閾の上にも櫻の枝の上にも落ちた。それから窓を閉ぢて私は返辭をした。
「いゝえ、ベシー、今やつとお掃除がすんだところなの。」
「
厄介な、不注意な子だこと! そして、何をしてゐるの? すつかり
眞赧になつてまるで
おいたをしようとしてゐたやうぢやないの? 窓を
開けて、何をするつもりだつたの?」
私は、返辭をしないで濟んだ。何故なら、ベシーは、とてもあわてゝゐて、云ひ譯を聞いてゐる暇もなさゝうだつた。彼女は、私を洗面臺に引つぱつていつて、石鹸と水と
硬いタオルをとつて、無慈悲に、だけど幸ひにも簡單に、顏と手を
摩擦した。
剛毛のブラッシュで髮を撫でつけ、前掛を脱がせると、階段の
際まで私をせき立てゝ、
朝食堂で待つてゐるから、まつ直ぐ
降りて行くようにと命じた。
さうでなかつたら、私は、誰が呼んでゐるのか、リード夫人がそこにゐるのかどうかを訊いたに違ひなかつたが、ベシーは、既にいつてしまつて、私の上には、子供部屋の
扉が
閉された。私は、ゆつくり階段を下りた。もうリード夫人の前に呼ばれなくなつてから、殆んど三月にもなる。そんなにも永い間、子供部屋へ
拘束されてゐたので、朝食堂や食堂や客間は、そこへ侵入することが私を
狼狽させるほど、私にとつて恐ろしい場處となつてゐた。
私は、
人氣のない廊下に立つてゐた。私の前には、朝食堂の
扉があつた。私は、
怯え震へながら、立ち止つた。不法な處罰を受けての恐怖が、私をその頃、なんと、
慘めな臆病者にしたことだらう! 私は子供部屋へ戻るのを怖れ、客間へ這入つていくのも
怖かつた。十分間、私は、心をどきつかせながら、
躊躇つて立つてゐた。朝食堂のけたゝましい
呼鈴の音が、私を決心さした。もう這入るより仕方がない。
私は、兩手で、一二秒は云ふことをきかなかつた、かたい
把手を

しながら、「誰が呼んだのだらう?」と、心ん中で問うた。「部屋の中には、リード伯母さんの外に、誰がゐるのだらう?――男かしら、女かしら?」
把手が

つて、
扉が開いた。
室内へ進んでいつて、
虔ましくお辭儀をして、私が見上げると、黒い柱――さう、少くとも一見、私にはさう見えた――眞直ぐな、幅の狹い、黒い着物を着たものが、敷物の上に棒立ちになつてゐた。その頭部に見える物凄い
面相は、柱頭のつもりで、柱身の上に載せられた、彫刻の
假面のやうであつた。
リード夫人は、
爐邊のいつもの席に
坐つてゐた。私に、彼女は、もつと近くに來るようにと、
合圖した。私が近づくと、リード夫人は、その、石のやうな、未知の客に、次のやうな言葉で、私を紹介した。
「これが、あなたにお願ひした子供でございます。」
その人――男であつた――は、靜かに、私が立つてゐる方へ頭を向けて、毛の濃い
眉毛の下に、きらめいてゐる灰色の疑ひぶかさうな眼で、じろりと私をさぐり見た。さうして、
嚴かに、
低音の聲で云つた。
「
柄が小さいが、幾つですか?」
「
十歳です。」
「そんなに?」といふ疑はしさうな返辭であつた。そこで、彼は、數分間、私をじろ/\眺めた。やがて私に話しかけた。
「お孃さん、あなたの名は?」
「ジエィン・エアです。」
かう云ひながら、私は、その男を見上げた。彼は非常に背の高い人に見えた。だが、その時は、私はずゐぶん小さかつたのだが。
目鼻の大きな、そしてそれらと、體格のすべての線は荒々しく、しかつめらしかつた。
「ふん、ジエィン・エア、で、あなたはいゝ子かね。」
肯定して返辭することは出來なかつた。私の周圍の人たちは、みんな反對の意見を持つてゐた。私は默つてゐた。リード夫人は、私に代つて、意味あり氣に頭を振つて見せた。そして、直ぐ附け加へた。「ブロクルハーストさま、そのことは、申せば申すほど、わるくなりますの。」
「さうとはまつたく
遺憾ですな、少しこの子と話し合つてみなければなりますまい。」で、彼は直立の姿勢だつたのを、少し屈めながら、リード夫人と差向ひの
安樂椅子に腰かけた。「こゝへ來なさい。」と云つた。
私は敷物の上を横切つた。彼は私を自分の眞正面に立たせた。かうして、私の顏と彼の顏が殆んど同じ高さになつた時に、何んと云ふ顏で、それはあつたらう! 何んと偉大な鼻! 何んと云ふ口! 何んて
尨大な突出した齒だらう!
「云ふことをきかない子を見るくらゐ悲しいことはない。殊に云ふことをきかない女の子はね。惡いものは死んでからどこへ行くか知つてるかね。」
「地獄へ行きます。」私は
即座に正式の答へをした。
「地獄つて何んです。私に説明出來るか。」
「火が一面に燃えてる
坑です。」
「それで、あなたは、その火の
坑ん中へ落ちたいのですか。そして永遠に燒かれたいのですか。」
「いゝえ。」
「さうされない爲めには、あなたはどうしなければなりませんか?」
私は一寸ためらつた。答へが口に出た時に、それは、不都合なものであつた。「
體を丈夫にして死なゝいようにしなければなりません。」
「どうしてあなたは丈夫でばかりゐられる? あなたより小さな子供でも毎日死んで行くよ。私は、ほんの一二日前に、たつた五つの子供のお葬式をした――おとなしいいゝ子だつた。今はもうその魂は天國にある。あなたがこの世から召されたとしても、その子と同じやうなことは、あなたには云はれないだらう。」
彼の
疑惑を除く状態ではなかつたので、私は、敷物の上に植ゑつけられた二本の大きな脚に私の眼を落して、溜息をして、早く遠くにはなしてくれるように願つてゐた。
「その溜息は、あなたの心からのもので、あなたの恩人のお心にそはなかつたことを、あなたが悔悟してゐるのであれば結構だ。」
「恩人! 恩人!」と、私はお
肚の中で叫んだ。「みんなが、リード夫人を私の恩人だと云つてゐる。もしさうだとすれば、恩人と云ふものは、いやなものだ。」
「朝晩、お祈りしますか。」私の
訊問者はなほ續けた。
「えゝ。」
「聖書は讀みますか。」
「時々。」
「喜んで讀みますか。好きですか。」
「好きなのは
默示録、ダニエルの本、創生記
[#「創生記」はママ]、サムエル、出埃及記の一部、列王記傳、ヨブ、ヨナです。」
「で、詩篇は? 好きでせうね?」
「いゝえ。」
「え、嫌ひ? ほう、驚いた! 私はあなたよりも年下の男の子があるが、その子は詩篇の中六つも
諳誦してゐる。
生姜パンを上げようか、それとも
[#「それとも」は底本では「それでも」]詩篇を覺えた方がいゝかと、
訊くと、きつと『詩篇! 天使のうたふ詩篇、』と彼は云ふ。『私は地上の小さな天使になりたいんです。』だからその時には、子供らしい
敬虔の念にむくいて、お菓子を二つ與へるんですよ。」
「詩篇は面白くありません。」と、私は云つた。
「それは、あなたがよくない心を持つてゐる證據だ。神さまにその心を變へていたゞくように、お祈りしなければなりません。――新らしい清らかな心を戴くように、その石の心を捨てゝ、肉の心を下さるように。」
どう云ふ風にして、私の魂を入れ替へられるのか、その方法に就いて、私は質問をしようとしたが、この時、リード夫人が
横合から
嘴を入れて、私に坐るようにと云つて、自分一人で話をすゝめた。
「ブロクルハーストさま。三週間前、差上げた手紙で、この子はとても私の望むやうな性格や性質を持つてないとお知らせしました。あなた、この子をローウッド學校にお入れ下さいませんか。校長先生始め先生方に嚴格な
監視をしていたゞき、就中、この子の一番惡い
癖、
嘘をつくことを防いでいたゞけますなら、私は嬉しいんですが。ジエィン、私は、これを、お前がブロクルハーストさまを
騙さないように、お前の聞いてるところで云ふのだよ。」
私がリード夫人を恐れるのも無理ではなかつた。嫌ふのも無理ではなかつた。
殘酷に私を
傷けるのが彼女の性質だつたから。彼女の前で、私は幸福だつたことはない。どれ程私が注意深く云ふことを聞いても、どれ程一生懸命彼女の氣に入らうと
努めても、私の努力はなほ上に述べたやうな言葉ではねつけられ應酬された。かうして見知らぬ人の前で云はれた非難は、私の胸に突刺さるゝやうだつた。私は、彼女が私をこれから入れようとしてゐる新らしい生活から、私の希望を既にもぎとらうとしてゐるのを
朧氣ながら
判つた。その氣持ちを言ひ現すことは出來ないが、私は、彼女が私の
行手の路に、
嫌惡と不親切の種を蒔きつゝあると云ふことを感じた。私は、私自身がブロクルハーストの前に
狡猾な
邪惡な子とされてしまつてゐるのがわかつた。そして、この
汚名を
濯ぐ爲めに、私は一體何をすることが出來るのか?
「本當に、何んにもない。」と、私は、すゝり泣かうとするのを抑へつけようと
力めながら、考へた。そして私の苦しみの無力な證據たる數滴の涙を
急いで拭きとつた。
「人を
騙すことは子供にとつて、悲しむべき缺點です。」とブロクルハースト氏は云つた。「それは
嘘をつくのと同じだ。嘘つきはみな
硫黄と
業火に燃える湖に落ちなければなりません。兎に角リード夫人、この子を監督致させませう。テムプル先生にも他の教師にも云つて置きませう。」
「この子の
行末に
相應しい方法で教育していたゞきたうございます。」と私の恩人は言葉を續けた。「役に立つやうに、つゝましくなるように。
休暇は、お願ひ出來るなら、いつもローウッドで、過すようにして下さい。」
「奧さん、あなたのお考へは至極結構です。」とブロクルハースト氏が答へた。「
謙讓はキリスト教徒の美徳です。それは特にローウッドの生徒に
相應しいものです。私はそれの
涵養に特別の注意を拂ふやうに指導してゐます。私は生徒たちに虚榮心をどうすれば最もよく抑制できるかを研究してゐます。そしてついこの間も、私はその成功の喜ばしい證據を得ました。私の次女のオウガスタが母と學校へ行つてたが、歸つて來てからかう云つた。『ローウッドの生徒はどうしてあんなに靜かで
質素なのでせう。髮を耳の後へ
梳き上げて、長い前掛をして、
麻布のポケットのついた着物を着て、――まるで貧乏人の子供みたいね!』それから彼女はかう云つた。『生徒たちは私とママの着物をまるで初めて絹の着物を見たやうに、珍らしさうに眺めてゐましたよ』と。」
「さう云ふやり方は、まつたく私、賛成ですわ。」
と、あのリード夫人が答へた。「英國中を私探しましたけど、これ以上ジエィン・エアみたいな子に
相應しい學校は見つかりませんでしたわ。堅實、ねえ、ブロクルハーストさま――私はすべての中で堅實を
重んじますの。」
「堅實は、キリスト教徒の第一の義務です、奧さん。そして、それがローウッド學校に關聯するあらゆる制度に見受けらられるところのものです。
簡衣粗食、
見得ばらぬ設備、不屈な活溌な習慣――これらが、私の學校及び生徒たちによつて、毎日守られてゐることです。」
「まつたくで御座います、先生。それで、私もこの子をローウッドの生徒としてお受けとり下さるようお
任せいたします。そして、この子の境遇と行末とに
應じて訓練されますように。」
「奧さん、承知いたしました、よりぬきの樹ばかりの
植樹園にこの子を置いてあげます。やがてこの子もこの選ばれた高價な特權に對して感謝を現す時機が來るに相違ございません。」
「では、ブロクルハーストさま、なるべく早くこの子をお送りしませう、この
煩はしい責任を私の肩からおとり下さるように、お
任せしたくつて仕樣がないのですから。」
「いや奧さん、まつたくです、まつたくです。ぢや失禮申上げませう、私は一二週間うちに、ブロクルハースト學校に歸りませう。それより早くは友達の副監督が歸さないでせうからな。しかしテムプル先生に新入生が一人あると
通告して置きますから、さうすれば、この子をいつでも引受けてくれるでせう。ではさやうなら。」
「さよなら、ブロクルハーストさま。奧さまにもお孃さまにも、それからオウガスタさんにも、テオドラさんにも、ブルウトン・ブロクルハーストさまにもよろしくね。」
「かしこまりました、奧さん。ぢやお孃さん、こゝに『子供の
導き』と云ふ本があります。お祈りをして、よくお讀みなさい。特に
嘘とごまかしで固まつたマルサ・ジイと云ふ
強情な子供が、どうして急に死ぬかつてことが書いてあるところをお讀みなさい。」
この言葉と共にブロクルハースト氏は、私の手に表紙を
綴ぢ付けた薄いパンフレットを
呉れた。そして
呼鈴を鳴らして、馬車を呼んで、歸つて行つた。
リード夫人と私が取り殘された。默つて數分間過ぎた。彼女は
縫物をしてゐた。私はそれを見てゐた。リード夫人はその頃三十六七だつたらう。彼女は
骨格の
屈強な、肩の張つた、手足の頑丈な、脊の高くない、ぶく/\してはゐないが
肥り
肉の婦人だつた。稍大顏で、二重顎の下ががつしり發達してゐた。
額は低くて、顎が大きく突出してゐた。口と鼻は尋常に
整つてゐた。うすいまつ毛の下に、
憐憫のない目がまたゝき、皮膚は黒く濁つてゐた、
亞麻色に近い頭髮。鐘のやうに堅牢な體質――病氣も決して彼女に近づかない。
几帳面な
拔目ない管理者で、家族も小作人も完全に制御されてゐた。
子供だけが時として、母の
權威を馬鹿にして、笑ひ飛ばして了つた。夫人はいゝ服裝をして、それを引き立てるやうな風采と態度を持つてゐた。
彼女の肱掛椅子から數
碼離れた低い腰掛にかけさせられて、私は彼女の容子をまじ/\と眺め、顏付をうかゞつた。手には、
嘘つきの急死の事を書いたパンフレットがあつた。その話がふさはしい忠告であるかのやうに、私の注意はその本の物語に注がれてゐた。たつた今起つたこと、私のことに就いて、リード夫人がブロクルハースト氏に告げたこと。彼等の會話の大體のあらましは
生々しく、そして、私の心をちく/\刺してゐた。ひとつ/\の言葉は、あからさまに聽いてゐたと同じ鋭さで私に感じられた。さうして今私の心の中には
憤怒の情が燃え立つてゐた。
リード夫人は仕事から目を上げた。私を見つめて、同時に忙しい縫ひ物の手を休めた。
「出ておくれ。子供部屋へお歸り。」それが彼女の命令であつた。私の顏付か態度か何かゞ、氣に
障つたらしく、こらへてゐたが、ひどくいら/\とした調子で云つた。
私は、立ち上つて、戸口へ行つた。私はまたふたゝび元の場處へ戻つた。部屋を横切つて、
窓際へ歩いていつた。それから彼女の身邊へ近づいた。
私にはどうしても云ひたいことがある、私はひどく踏みにじられた、私ははねかへさなければならない。でも、どんな方法で? 私の敵に復讐を投げつける爲めに、私は、どんな力を持つてゐるか? 私は元氣を振ひ立たして、この
鈍い言葉で云ひ切つた。「私は人を
騙しなんかしませんよ。そんなことが出來るなら、私はあなたが大好きだと云つたでせう。だけど、私はあなたを好かないと云ひます。ジョン・リードを
除けば、世界中で誰よりもあなたが一番嫌ひです。
嘘つきの話を書いたこの本は、あなたの子のヂョウジアァナにおやりになるがいゝわ、
嘘を云ふのは、あの子で、私ぢやありませんから。」
リード夫人の手はまだ動かずに休んでゐた。
彼女の氷のやうな眼は、まだ
凍りついたやうに私の眼を見つめてゐた。
「云ひたいことはそれでおしまいかい。」普通の人が聞いたら、とても子供に使ふ言葉とは思へない、まるで
大人を相手にしてゐるやうな調子で、彼女は
訊いた。
その眼は、その聲は、私のあらゆる反感を湧き立たせた。頭から足まで搖れ、
抑へ切れない興奮に震へて、私は續けた。「私はあなたが私の親類でなくつてよかつたと思ひます。私は生きてる間、決して再びあなたを伯母さんとは呼びません。一人立ちをしたら、決してあなたなんかに
會ひに來るものですか。人が、私があなたをどれだけ
好いてゐたか、またあなたがどんなに私を取扱つたかを聞いたら、私はあなたのことを思つたゞけでも胸がわるくなると云つてやります。そして、あなたがお話しにならないやうな
惨酷な目に
遭はせたことを云つてやります。」
「どうしてそんな
確い口がきけるの、ジエィン・エア。」
「どうしてかつて? リード夫人、どうしてかつて? それがほんたうのことだからです。あなたは私が感情を持たないものだと思ひ、愛も親切の切れつぱしもなしに暮せるものだと思つてゐらつしやる。だけど私はそれでは生きて行けません。あなたは
憐れみを知らない、あなたがどんなに私を押し込んだか、どんなに
無法に亂暴に私を赤いお
部屋に押し込んで
錠を下したか、私は死ぬ日まで忘れませんわ。私は悲しみに息を
詰らせながら、苦しんではゐたけれども、泣いてはゐたけれど、伯母さま助けて下さい、助けて下さいつてお願ひしたぢやありませんか。それにあなたはあなたの息子が私を理由もなく打倒したと云ふので私に罰を與へたぢやありませんか、私は誰でもこの事を聞く人に本當の事を聞かせてやります。世間ではあなたを善良な婦人だと思ふでせう。だけどあなたは本當は
意地の惡い無情な人です。あなたこそ人を
騙してゐらつしやるのです。」
この返答の終らぬ中に、私の心は今まで曾つて持たなかつた自由と勝利の念にふくれ上り、初めて、喜びに躍つた。見えない
束縛が破れて、思ひがけない自由の世界へ飛び出したやうな氣がした。と云ふのは、リード夫人は驚愕したやうに仕事を
膝からずり落し、兩手を
額へあてゝ、體を前後にゆすぶりながら、泣き出しさうに顏をしかめたのだ。
「ジエィン、お前は間違へてるよ。一體どうしたの、どうしてさうぶる/\震へてゐるの。水でも飮むかい。」
「いゝえ、飮みません、リード夫人。」
「まだ何かお話があつて? ジエィン、私はお前の友達になつて上げたいよ。」
「あなたに申上げることはありません。あなたは、ブロクルハーストさんに、私が
性質の惡い子で人を
騙すくせがあると云ひました。私は、ローウッド中の人にあなたがどんな人であるか、私にどんなことをしたか教へてやります。」
「ジエィン、お前は、はつきり事が
解つてゐないのですよ。子供の惡いところは
直して貰はなければいけません。」
「嘘なんて、私の缺點ではありません。」私は腹立ち紛れの
甲高い聲で叫んだ。
「だけどお前は怒りつぽいよ、それはお前も一
言もなからう。子供部屋へお歸り――いゝ子だから――そして、そこでしばらくお休み。」
「私はあなたのいゝ子ぢやありません。私は寢ることなんか出來ません。
直ぐに學校へやつて下さい。私はこんな所に居るのはいやです。」
「さうだ、
直ぐに學校へやらなければ。」と、リード夫人は低い聲で呟やいた。そして仕事を拾ひ上げると、あわたゞしく部屋を出ていつた。
私は、一人取殘された。戰場の勝者として。それは私の今まで戰つた中で一番激しい戰だつた。そして始めて
獲た勝利であつた。私はブロクルハーストさんの立つてゐた
敷物の上に、しばらくつゝ立つて征服者の孤獨の感を樂しんでゐた。最初
自づと微笑が浮び、昂然と氣勢が上つた。しかし、この
猛々しい喜びも、
速まつてゐた脈搏が
鎭まると同じ
速さで鎭まつていつた。子供と云ふものは、私がしたやうにその年長者と爭ひ、また私がしたやうにはげしい感情を
やけに働かせる時には、きつと後になつて、
悔恨の苦しみと反動の
肌寒さを經驗するものである。
生物のやうにうごめき、きらめき、なめつくす
野火に燒かれるヒースの山が、リード夫人を呪ひ
脅迫した私の心の状態に、ぴつたり適合するに違ひない。炎の消えた後の黒くこげた同じ山が、そのまゝ、後の私の氣持ちを表してゐた。半時間沈默反省したとき、私の行爲が
氣狂ひじみてゐたこと、そして自分からいやがる境遇と他からいやがられる境遇の
慘めなことを、わかつた時の氣持ちを表してゐたらう。
私は何か
香氣あるものをはじめて味つた。飮むと
温くて、新鮮な香り高い酒のやうだつた。そして
後味は
酸つぱく、腐敗して毒を呑まされたやうな氣持ちだつた。リード夫人の許へかけつけて、許しを乞ひたい氣持ちで一杯だつた、しかし、半ばは經驗と半ばは本能から、その事は却つて二重の
叱責を以て、彼女に私を排撃させ、そしてその爲めに私の生れつきの凡ゆる亂暴な衝動を興奮さすだけであると云ふことを知つてゐた。
出來ることなら毒々しい口を
利くより、もつといゝ才を働かしたかつた。また陰慘な憤怒よりも、もつと人間らしい感情の
糧が、發見したかつたらうに。私は本を――アラビア物語を――とり上げた、腰かけて、それに沒頭しようとした。その題目は、私には何の事かてんで解らなかつた。私自身の思ひは私と私がいつも魅せられるページとの間をさまよつてゐた。私は、朝食堂の硝子の
扉を開けた。
灌木林はまるで靜かであつた。日にも風にも
溶けなかつた、
草木もこほるほどの寒さが、邸内を支配して居つた。着物の裾で、頭と手を
被つて、奧まつた木立の奧の方へ歩きに行つた。しづもりかへつた木も、結晶した秋の遺物――
樅の實が落ちて來るのも風に吹きよせられて、かたまりついた腐つた葉つぱも、何もかもちつとも面白くなかつた。私は門にもたれて、羊の一匹も出てゐない、短い、いぢけた
白茶けた草が生えてるばかしの
人氣のない牧場を眺めた。灰色の陰鬱な日だつた。どんよりした空が「末は雪」になつて垂れかゝつた。空からは雪が時折ちら/\して、敷石道の上へ落ち、白つぽい野原の上に落ちて溶けもしなかつた。みじめな子は、何度も/\かう繰返して呟やいてゐた。「どうすればいゝのだらう。どうすればいゝのだらう。」
私は、たちまち、
透きとほるやうな聲をきゝつけた。
「ジエィンさん、どこ? ごはんにいらつしやい。」
私にはベシーの聲だといふことがよく解つてゐたが、動かなかつた。彼女は、輕やかな
歩調で、小路をこちらへ歩いて來た。
「
強情ぱりな
娘だね! どうして呼ばれたら
來ないの。」
ベシーが來たので、私の今まで考へ續けてゐた氣持が一時に輕くなつた。しかし、彼女の機嫌はいつものやうに惡かつた。實は、私はリード夫人とぶつゝかつて、しかも勝つた後なので、
保姆の一時の不機嫌等は大して氣にならなかつた。そして、いつもの通り彼女の心の若々しい明るさに
浴したいと思つた。私はちよいと兩腕で彼女を抱いて、
「ね、叱らないでよ。」と云つた。
この行爲は常よりももつと自然に、こだはらずになされたので、彼女を少し喜ばせた。
「變な子ね、ジエィンさんは。」と彼女は私を見下しながら云つた。「小さな淋しくうろついてる子供。ね、學校へ行くのでしよ。」
私は
肯いた。
「ベシーをおいてけぼりにして、悲しくないの?」
「ベシーが私のことを何とか思つてくれるかしら、叱つてばかしゐたのに。」
「あなたが
風變りなおど/\した内氣な子だからよ、もう少し大膽にならなくちや。」
「まあ、もつとなぐられる爲めに?」
「まさか。だけど、あなたは、たしかにいぢめられ過ぎてるわよ。おつかさんも先週會ひに來た時、自分の子をあんな目に遭はせたくないと云つてゐたわ。さう、いゝしらせがあるわ。家へお
這入んなさい。」
「そんなものがあるとは思へないわ。」
「この子は何を云ふの、悲しさうな顏をして見上げて。あのね、奧さまとお孃さま方とジョン・リードさまは、お茶の
御招待で行かうとしてますから、私とあなたとお茶をいたゞきませう。コックに頼んで、あなたにお菓子を燒いて貰ふわ。そしてあなたの
箪笥を調べるのを手傳つて頂戴。直ぐにあなたの
荷作りをしなくちやならないのよ。奧さんはもう一日か二日の中に送り出すつもりよ。あなたの持つて行きたい
玩具を
選つていゝわ。」
「私が居る間は、もう叱らないつて約束する?」
「えゝ、叱らない。だけど、いゝ子にならなくつちや駄目よ。そして私をこはがつちや。少々物の云ひ方がひどくつても逃げちや駄目よ。それは本當に腹が立つんだから。」
「もうこはくないと思ふわ、ベシー、あんたに
慣れたから。だけどまた別の人達がこはくなるだらう。」
「こはがつちや
嫌はれますよ。」
「さう、ベシー、お前みたいに?」
「私はあなたを嫌つてゐませんわ。他の誰よりも好いてゐるつもりですわ。」
「ちつともそんな風はみせてくれないのに。」
「かしこい子。あなたは話し方がまるで變つて來たのね。どうしてさう思ひ切つたことが惜まず云へるやうになつたの。」
「どうしてつて、もう直ぐあなたにも別れる――、それに――」私とリード夫人との間に起つた事について何か話をしようかと思つたけれど、考へ直したらそのことについて
默つてゐる方がいゝらしかつた。
「それぢや、私と別れるのが嬉しいの。」
「うゝん、ちつとも、ちつともよ、ベシー。今になつてみればむしろ悲しいわ。」
「まあ、今になればつて、むしろ悲しい方だつて。私の大事な小さいお孃さんは
冷たいことを云ふわね。私が今
接吻して頂戴と云つたら、きつといやだと云ふわね、むしろいやだつて。」
「喜んで接吻するわ。頭をかゞめてよ。」
ベシーはかゞんだ。私たちはお互に抱きあつた。私はすつかり愉快になつて、ベシーの後から家へ入つた。その午後は平穩無事に暮れて行つた。夜はベシーが彼女の知つてる中で最も面白い話をいくつか聞かせ、もつとも美妙なる歌を選んで歌つてくれた。私のやうなものにも人生には太陽のきらめきがあつた。
一月十九日の朝、五時を打つか打たぬに、ベシーは、
手燭を私の部屋に持つて來た。私は、もう起きて、殆んど着物を着てしまつたところだつた。私は、彼女が此處へ這入つて來る半時間前に
起床して、顏を洗ひ、
寢臺の側の狹い窓から流れ込んで來る、ちやうど沈みかゝつてゐる半月の光で着物を着てゐたのだつた。その日、私は午前六時に邸の門前を通る驛馬車でゲィツヘッドを出發することになつてゐた。ベシーだけが起きてゐた。彼女は、子供部屋に火をおこして、私の朝飯をそこで
拵へ始めてゐたところだつた。旅行の思ひで昂奮してる時に、御飯の喰べられる子供は、殆んど無い。私もまたその例に洩れなかつた。ベシーは、私の爲めに作つてくれたパンや
沸かした牛乳を幾匙か食べるようにとすゝめたが、無駄だつたので、ビスケットを幾らか紙に包んで、私の鞄の中に入れて呉れた。それから、彼女は私に長コートを着せ、ボンネットを冠るのを
手傳つて呉れた。さうして、彼女がショールをかけて、私と一緒に子供部屋を出た。私たちが、リード夫人の寢室を通る時に、ベシーは云つた。
「這入つて奧さまにお別れの
挨拶をなさらない?」
「しないわ、ベシー。伯母さまは、昨夜あんたがお夕飯に下りていつた時に、私の
寢床に來て、私が朝、伯母さまや
從兄妹たちを騷がせるには及ばないと云つたんですもの。そして伯母さまは自分がいつも私の一番いゝ味方だつたことを、忘れないように、そしてね、伯母さまのことを話し有難く思ふようにと、仰しやいましたわ。」
「何んて云つて? お孃さん。」
「何んにも云はなかつたの、私は顏に
敷布をかぶせて、壁の方を向いてゐたわ。」
「それは、いけなくつてよ。ジエィンさん。」
「あたりまへよ、ベシー、あんたの奧さまは私の味方ぢやなかつたんですもの、私の敵だつたんですもの。」
「まあ、ジエィンさん、そんなことを云ふもんぢやありません。」
「左樣なら、ゲィツヘッド!」私たちが
廊下を通つて玄關へ出ていつた時、私は叫んだ。
月は沈んで、大へん暗かつた。ベシーは
提灯を持つてゐた。その光りが濡れた階段と、近頃の雪解けでびしよぬれになつた
砂利道とを照してゐた。冬の朝は、ひどく寒かつた。私が馬車道へ急いで下りてゆく時に、齒がガタ/\と鳴つた。門番の小屋には
灯があつた。私達が門番小屋につくと、門番のお
内儀さんは丁度火を
熾しかけてゐるところだつた。前の晩運び下しておいた私のトランクは、
細引が掛かつて入口のところにあつた。六時までには、ほんの數分しかなかつた。六時が鳴つて、すこしすると、遠くから響いてくる
轍の音が、馬車の近づいて
來るのを知らせた。私は入口のところへいつて、馬車のランプが
疾く近づいて
來るのを暗闇を透して見守つてゐた。
「お孃さんは獨りでいらつしやるの?」と門番のお
内儀さんは訊ねた。
「えゝ。」
「
道程は、どれくらゐ?」
「五十哩。」
「まあ、遠いこと! リード奧さまは、そんな遠くまでひとりで行かして、氣がかりではないんでせうかしら?」
馬車は停つた。四頭の馬と、客を乘せた
車蓋とが、門のところにあつた。
車掌と
馭者とが、大聲で、急ぐようにとせき立てた。私のトランクは、積み上げられた。接吻をして縋りついてゐたベシーの首から、私は引き放された。
「よく面倒を見て下さいよ。」と、車掌が
車内へ私を抱き載せる時に、ベシーは、彼に叫んだ。
「えゝ、えゝ。」といふのが答へであつた。
扉が
ぴちやつと
閉つて、「オールライト!」といふ聲が叫んだ。さうして、馬車は、動いていつた。かくして、私は、ベシーやゲィツヘッドから離れた。かくして、私は、
未知の、その時、さう思つたのであるが、遠い、神祕の世界へと、運ばれ去つた。
その旅のことは、ほとんどまつたく、記憶してゐない。その日が不思議に長いやうに思つたことゝ、數百哩以上の
道程を旅行したやうに思つたことだけ、私は知つてゐる。私たちは、色々の町を通り過ぎた。一つの町――大さう大きな町――で、馬車は
停つた。馬が
外されて、乘客たちは、晝食のために
降りた。私は、
旅籠屋へ連れて行かれた。そこで、車掌は、私に食事をすることを
薦めた。が、私は、何も食べたくなかつたので、彼は、私を廣い部屋に殘して行つた。その部屋には、兩端に
壁爐があり、天井からはシャンデリアが下つて、壁の上の方に樂器が
入つてゐる小さな赤い戸棚があつた。誰か這入つて來て、私を
拐しはしないかと云ふ、大へん妙な、恐ろしい不安を感じながら、そこで、永い間、歩き

つてゐた。ベシーの
爐邊の物語の中に、人さらひの手柄話が屡々出て來たので、私は人さらひがゐると信じてゐたから。やつと、車掌が戻つて來た。ふたゝび、私は、馬車に乘せられた。私の保護者は、自分の席にのぼつて、
角笛を鳴らした。さうして、私たちは、
L町の「石だらけの
道路」を、がら/\と通つていつた。
午後になつて、
鬱陶しく、やゝ霧がかゝつて來た。暗くなるに從つて、私はゲィツヘッドから、隨分遠く離れつゝあることを感じはじめた。町を通過することはなくなつた。土地が變つたのだ。大きな灰色の
丘陵が、地平線に沿うて
盛り上つてゐた。夕闇が深くなる頃、樹木で暗い谷間を下つた。夜が風景を蔽ひ隱してから永い間、樹々の間を突進する
野風の音を、私は聽いた。
その風音にあやされて、私は、つひに、
睡眠に落ちた。大して寢ないうちに、急な停車が、私を
目醒めさした。馬車の
扉が開いた。召使ひ
風の者が、
扉のところに立つてゐた。私は、ランプの光で、その顏と服裝を見た。
「ジエィン・エアと云ふ、小さい娘さんは、ゐませんか?」と、彼女が
訊ねた。
「はい。」と、私は答へた。さうして、
降された。私のトランクは、とり下されて、馬車は、直ぐ動いていつた。
私は、長く坐つてゐたので、
硬ばつてゐた。さうして、馬車の騷音と動搖で、混亂してゐた。私は元氣を出して、自分の周圍を見た。雨と風と
暗闇とが、大氣に
瀰漫してゐた。それにも拘らず、私の前の塀と、その、開いてゐる塀の戸がぼんやり見分けられた。この戸口を、私は、新しい案内人と
潜つた。彼女は、背後の戸を閉め、
錠をかけた。そこには、多くの窓のある、そして、そのいくつかの窓に
灯の
點つてる一軒の家、或は數軒の家――何故といへば、その
建物は、遠方までつゞいてゐたから――が見えた。私たちは、廣い、水のはねる、濡れた
砂利道をのぼつていつた。さうして、玄關を這入つた。それから、召使ひは、廊下を通りぬけて、煖爐のある室へ案内した。さうして、私をひとり殘して去つた。
私は、立つて、かじけた手の指を、火の上に
翳して温めた、そのとき周圍を見

した。蝋燭はなかつたが、
爐からのぼんやりした光が、とき/″\、張り壁や、
絨毯や、窓掛や、光つてゐるマホガニの家具を明かにした。それは、ゲィツヘッドの應接間ほどの廣さも、壯麗さもない
居間であつたが、十分
居心地がよかつた。私は、壁に掛つてる繪の趣題を考へ出さうと困つてゐた。その時、
扉が開いて、ともし火を持つた人が這入つて來た。その人の直ぐ背後にも一人つゞいてゐた。
最初の人は、黒い髮と、黒い眼と、
蒼白い廣い
額とを持つた、背の高い婦人であつた。彼女の
體は、半ば
肩掛に包まれてゐた。彼女の風貌は重々しく、姿勢は、すつきりしてゐた。
「こんな小さい子を獨り旅させるなんて。」と、蝋燭を
卓子の上に置きながら云つた。彼女は、一二分の間、私を注意深く觀察して、更に云ひ加へた。
「この子は、直ぐ
寢ませた方がいゝでせう! 疲れてるやうですから。くたびれて?」と彼女は、私の肩に手を置いて訊いた。
「少し疲れました。」
「そして、ひもじいでせう、きつと。
寢る前に何か御飯を食べさせておやりなさい。ミラアさん。御兩親を離れて、學校へ來たのは、
最初なの、お孃さん?」
私は、彼女に兩親が無いと云ふことを述べた。彼女は兩親が
亡くなつてから何年になるかと
訊いた。それから、
幾歳になるか、名は何んと云ふのか、讀んだり、書いたり、お
裁縫が少しは出來るかと
訊いた。それからまた、彼女は、私の頬をやさしく、人差指で
觸つて、「いゝ子におなりなさい。」と云つて、私をミラア先生と一緒にひきさがらせた。
私が今別れた、その婦人は、二十九歳ぐらゐだつたらう。私と一緒に去つた婦人は、二つ三つ若いやうに見えた。最初の婦人は、聲と顏付と容子で、私に印象を與へた。ミラア先生は、ずつと平凡だつた。苦勞のため
窶れてはゐたが赤味を帶びた顏色をしてゐた。歩きつきや
動作は、まるで仕事をいつもどつさり抱へこんでる人のやうに、せか/\してゐた。實際、彼女は、後になつて事實さうだとわかつたのだが、助教師のやうに見えた。私は、彼女に連れられて、大きな不規則な
建物の室から室へ、廊下から廊下へと通り拔けた。私達が通つて來た建物のその部分に
漲つてゐるやゝ物凄い靜寂から出ると、人の騷ぎ聲のするところへ來た。さうして、たゞちに、その廣い、長い部屋へ這入つた。その部屋には、兩端に、大きな松の
卓子が二つづゝあり、その
卓子のひとつ、ひとつに一對の蝋燭が燃えてゐ、九歳または十歳から二十歳になるまでの
年齡ごろの女の子の群が、
卓子をとりまいて腰掛けてゐた。脂蝋燭のほのかな光で見るとその人數は數へ切れない程に見えた。然し實際のところ八十名は
超えてはゐなかつたのだけれど、皆は一樣に、見慣れない型の
褐色の
毛織の服を着、長い
和蘭風の前掛をかけてゐた。丁度自習の時間であつた。明日の學課を諳記してゐるのである。そして私が聞いたガヤ/\した聲は、彼等が小聲で云ふ諳誦が一緒になつたものであつた。
ミラア先生は戸口の近くの腰掛に坐るやうに
合圖をしてから、その長い部屋の上席の方へ歩んで行つて、大きな聲で叫んだ――
「級長、教科書を集めて片附けなさい。」
四人の背の高い女の子が
各自の
卓子から立ち上つて、
卓子を

りながら本を集めて片附けた。ミラア先生はまた命令をした。
「級長、夕食のお盆を持つておいでなさい。」
背の高い女の子は出て行つて、めい/\、私には何だかわからないが何人前もの食物を載せた、そしてそれ/″\のお盆のまん中に、
水差と
湯呑が載つてゐるのを持つて直ぐに戻つて來た。食物はぐるりにそれ/″\渡された。水を飮みたい者は、
湯呑がみんなに共通であつたから一口づゝ飮んだ。私の順番になつた時、私は喉が
渇いてゐたから水は飮んだけれども、昂奮と疲勞とで食べる氣がしなかつたので、食物には、手を
觸れなかつた。だがやがて、それは小さく割つた薄い
燕麥の菓子なのだと知つた。
食事が濟み、ミラア先生がお
祈祷をすますと、級の生徒は列を作つて、二人づゝ二階へと
昇つて行つた。この時はもう私は疲勞で打ちのめされてゐたので、寢室は教室とおなじやうに大さう長い室だといふ事以外にはどんな風なのだか殆んど氣が附かなかつた。その夜、私はミラア先生が
添ひ
寢して呉れるやうになつてゐた。彼女は私に手傳つて着物を
脱がしてくれた。私が横になつたとき、
寢臺の長い列があつて、それ/″\の
寢臺が二人の占有者で
さつさと占められたのを見た。十分後にたつた一つの
燈が消された。そして私は沈默と
眞暗闇の中で寢入つた。
その夜は直ぐと
經つてしまつた。私は甚しく疲れてゐたので夢さへ見なかつた。ほんの一度目が醒めて、
烈しい音を立てゝ俄かに風が
暴れ、雨が瀧のやうに降り注いでゐるのを聞き、ミラア先生が私の側に寢てゐるといふことを感じただけであつた。二度目に目を
開けた時には、大きな音の
呼鈴が鳴つてゐた。娘達は起きて着物を着てゐた。まだ夜は明け初めてはゐなかつた。部屋の中には一つ二つ
微かな
燈がついてゐた。私も
嫌々ながら起きた。
甚い寒さであつた。ぶる/\身體が慄へるのでどうにか着物をきて、
金盥が
空くのを待つて顏を洗つた。この
金盥は、六人の子供に一つしかないので、部屋のまん中近くの臺の上に直ぐに載せられるやうなことはなかつた。また
呼鈴が鳴つた。全生徒は二人づゝ列を作つて、その順序のまゝ階段を下り、寒いぼんやりした
燈の
點つた教室へ這入つた。此處で、ミラア先生がお祈りを
誦んで、それから彼女は叫んだ――
「組に分れなさい!」
大變な騷々しさが數分間つゞいた。その間ぢう、ミラア先生は、「靜かに!」や「きちんと!」を繰返して叫んだ。靜かになつた時私は全生徒が四つの
卓子の前に置いてある四つの
椅子の前に、四つの半圓を作つたのを見た。一人殘らず手には本を持つてゐた。聖書のやうに大きな本が
空席の前のそれ/″\の
卓子の上に載つてゐた。生徒達の低いとりとめのない
私語で充ちた幾分かゞ續いた。ミラア先生はこの不分明な音を
鎭めに組から組を歩いて

つた。
遠くの
呼鈴が鳴つた。間もなく三人の婦人がこの室に這入つて來た。
銘々卓子について座を
占め、ミラア先生は四番目の
空席に腰を下した。その
椅子は戸口に一等近く、まはりには最年少の子供たちが集つてゐた。私はこの下級に加へられて、その
末席に坐らせられた。
授業が始まつた。その日の
短祷の諳誦、聖書のある節の講話、それに續いて聖書の句節の間の
間伸のした朗讀が一時間位行はれた。學課が終つた時にはもうすつかり夜は明けはなれた。四度目に、
根氣のいゝ
呼鈴が鳴つた。全級の生徒は整列して
朝食の爲めに別の室へと進んで行つた。何か食べられるといふ見込で、私はどんなに嬉しかつたことだらう。前の日に殆んど何も食べてゐなかつたから
空腹で殆んど病氣になる程だつたのだ。
食堂は大きな、天井の低い薄暗い室であつた。二個の長い
食卓には、何かしら
温い物の
入つてゐる鉢から煙が出てゐた。ところが、
面喰つたことには、食慾を起させるどころか、大變な臭氣を發してゐた。この食物の香りが、これを吸ふべく運命づけられてゐる、子供らの鼻に
入つたとき、明かに凡ての生徒には不滿の色が現はれた。列の先頭の上級生の大きい生徒は低い聲で云つた――
「胸が惡くなる!
お粥をまた
焦がしたんだわ。」
「靜かに!」といふ聲がした。ミラア先生ではなく、上席の先生の一人で背の低い髮の毛の黒い人で、きちんとした服裝をしてゐたが、氣むづかしい顏付で、一つの
食卓の上座に坐つてゐた。別にこの先生よりずつと肉付のよい婦人が他の食卓の上座を占めてゐた。私は前の晩にはじめて會つた
ひとを探したけれど、見當らなかつた。彼女は姿を現はさなかつたのであつた。ミラア先生は私の坐つた食卓の
下座に就いた。そして一人の見慣れない、外國人らしい年をとつた婦人――あとで佛蘭西語の先生だとわかつた――は別の食卓のおなじやうな下座についた。長い食前の祈りがあり、讃美歌が
唱はれた。それから召使ひが先生の爲めにお茶を少しばかり持つて來た。そして食事が初まつた。
お
腹が
減つてもう氣が遠くなつた私は、味なんぞ考へないで、私の分を一
匙二
匙貪り食べたが
空腹のせつない苦痛が和らいで見ると、實に
不味い食物を手に持つてゐることがはつきりして來た。
焦げたお
粥は腐つた
馬鈴薯とおなじ位ひどいものだつた。餓死しさうな人でもそれを食べればすぐにむか/\してしまふだらう。みんなの匙ものろ/\と動いた。どの子を見ても、自分の食物を口に入れて、
努めて呑み込んでゐたが、その努力は間もなく斷念されるのが多かつた。朝食は終つたが誰も朝食を濟ましたものはなかつた。この食べなかつたものに感謝の祈りが捧げられまた第二の讃美歌が歌はれてから、私たちは食堂を出て教室へと行つた。私は出てゆく最後の生徒の一人だつた。食卓を通り過ぎる時、一人の先生がお
粥の鉢を手にとつて味はつてゐるのを見た。その先生は他の先生の方を見た。先生の顏にはみんな不快な色が浮んだ。中で、
頑丈な
身體つきの先生が呟いた――
「ひどい御馳走だ! こんなものを
出すなんて!」
授業が始まる前に十五分あつたが、その間中教室は大騷ぎだつた。この時間は大聲で、そしてずつと自由に話してもよいことになつてゐるらしかつた。それで生徒らは(自分達のこの特權を使用した)。みんなの會話は朝食のことでもちきりだつた。一人殘らず
甚く
口汚く罵つてゐた。可哀さうな子供たち! それが彼等の所有する唯一の慰安だつたのだ。ミラア先生は、その時この室にゐたたつた一人の先生で、彼女をとりまいて立つてゐる大きい生徒の
群は、眞面目な
險しい顏付で
喋舌つてゐた。私は或る生徒がブロクルハースト先生といふ名前を口にしたのを聞いた。それを聞くと、ミラアさんは非難するやうに頭を振つたが、彼女はみんなの怒を
抑へるために、それほど努力もしなかつた――きつと彼女も一緒に怒つてゐたのだ。
教室の時計が九時を打つた。ミラア先生は自分の仲間を離れて、教室のまん中に立ちながら叫んだ――
「靜かに! 着席!」
規律が守られた。五分の後に、今までゴタ/\になつてゐた群が整然となり、バベルの塔のお
喋り(喧騷)が止んで比較的
靜肅になつた。上席の先生が、その時を違へずキチンとそれ/″\の受持に就いた。けれども、依然として、みんなは待つてゐるやうだつた。教室の兩側にある腰掛にそつて、八十名の生徒は
身動きもせず姿勢よく坐つてゐた。妙な集りに見えた。一人殘らず
額から
無造作に髮の毛をすき上げてゐて、
捲毛を縮らしてゐるものは見當らなかつた。
喉もとまできちんとつまつた狹い襟のついた褐色の着物を着て、
上着の前の方にお
針袋に使ふことになつてゐる麻布の小さい袋(スコットランド人の財布のやうな型のもの)を結びつけてゐた。また一人殘らず
羊毛製の長靴下と、眞鍮の
びぢやう止になつてゐる
田舍出來の靴を履いて居た。こんな着物を身につけてゐる生徒の内約二十名以上は、十分生長した女の子であつた。と言ふよりむしろ若い婦人であつた。この人たちには、この着物は
似合はなかつたし、大變綺麗な娘にさへ妙な風采を與へた。私はその娘たちをずつと見てゐた。また時々先生の方を吟味してゐたが――誰もまつたく私には氣に入らなかつた。何故なら頑丈な先生は少し
下卑てゐたし、黒い毛の先生はひどく恐ろしかつたし、外國人の先生はガラ/\で
變挺であつたし、ミラア先生は、可愛想に! 紫色でやつれ果てゝ、
過勞で打ちのめされたやうな顏をしてゐたから。――すると、私が顏から顏へと眼を轉じてゐた時、全部の者が、共通のバネで、はじかれたやうに、一齊に起立した。
何が起つたのか。私は命令なんか聞かなかつた。私は當惑した。私が氣をとりなほし、級の生徒が再び着席しない内に、しかし今や全生徒の眼が一點に向けられた時に、私の眼も、みんなの眼の方向のあとをつけて、前夜、私を
應接してくれた例の人に止まつた。この婦人は長い教室の
爐の側の末席の方に立つて――兩側に
煖爐があつたから――默つて、まじめな顏をして、二列の生徒を見渡してゐた。ミラア先生は近寄つて行つて、この婦人になにかたづねて、その返辭を得てから、自分の位置に戻つて、大きな聲で言つた。
「上級生の級長、
地球儀を持つて來なさい。」
命令が行はれてゐる間に、相談をうけた婦人は靜かに教室の上席の方へ歩いて行つた。私は生來餘程尊敬器官を持つてゐるやうに想へる。何故なら私の眼が
畏敬の念を持つて彼女の歩みの跡をつけたその時の氣持を未だ持ちつゞけてゐるからである。今一面に擴がつて居る太陽の光りで見ると、彼女は背が高く、色白の、恰好のよい樣子をしてゐた。
虹彩の内に優しい光りをたゝへてゐる茶色の目と、それを
圍んでゐる長いまつ毛が描いたやうに揃つてゐることが、彼女の大きな
額の白さを殊更きは立たせてゐた。兩方の
顳
には、暗い
褐色の髮がその時の流行のやうに、――當時は撫でつけて捲いたのや、長い
捲毛は流行してゐなかつた――丸みをつけた捲毛で
房になつてゐた。着物はまたこの當時の型によつて、紫色の服地で出來てゐて、
黒天鵞絨のスペイン風の飾りが目立つてゐた。金時計(時計はその當時現在ほど一般的ではなかつた)は彼女の帶の所で光つてゐた。この叙述をはつきりさせる爲めに上品な
容貌、
蒼白くはあつたが
しみ一つない綺麗な顏、威嚴のある樣子態度を讀者に附言するならば、讀者は少くとも言葉の及ぶ限り精確に、テムプル先生――マァリヤ・テムプルと云ふこの名は、私がその時彼女から教會へ祈祷書を持つて行くやうに頼まれた時、その本に書いてあつたので知つたのであるが――の外觀が正しく解るだらう。
そのローウッドの監督(この婦人は監督であつたが
[#「監督であつたが」は底本では「監督あつたが」])は一つの
卓子の上に置かれた一組の
地球儀の前に坐つてから、自分の
周りに上級生を集めて、地理の授業をし始めた。下級の生徒たちは先生に呼ばれて、歴史や文法その他の諳誦が一時間程行はれ、その次に習字と算術が續けられた。テムプル先生は數人の
年長の生徒に音樂を教へた。各の學課の時間は時計で計られてゐた。とう/\十二時が鳴つた。監督は立ち上つた。「私は皆さんにお話したいことがあります。」と口を切つた。
授業が終つたので、既に
騷々しくなりかけてゐたのであつたが、彼女の聲で靜まつた。彼女は續けて云つた。
「あなた方は今朝
朝食が食べられなかつたのでせう。お腹が
空いてゐるに相違ありません。それでチイズ附のパンを晝食に皆さんに御馳走するように私は云つておきました。」
先生たちは一種の驚きを以て彼女を見た。
「これは私の責任ですることなのです。」と彼女は先生たちに説明するやうな
口吻で附加へてから、早速教室を去つてしまつた。
チーズ附のパンが早速運び込まれて、分配せられた。これは間もなく全生徒を大層よろこばせ、彼等に大層元氣を與へた。その時「校庭へ!」といふ命令が與へられた。どの生徒も染めたキャラコの紐のついた、粗末な
麥稈帽子と灰色の
粗羅紗の外套を着てゐた。私も同じ服裝をして、列について戸外に出た。校庭は、一目の遠望をも許されない程の高さの壁で圍まれた、廣い一區劃であつた。屋根のあるヴェランダが一方に續き、幅の廣い歩道に沿うて、中央の地面が幾つもの小さな花壇に仕切られてあつた。この花壇は、生徒たちが
栽培する庭園として
割當てられてゐるのであつた。花が一杯咲き亂れてゐる時は、勿論綺麗に見えることであらうが、一月の終りに近い今では、すつかり霜で
凋んで、褐色に枯れてゐた。立ちながら、
周りを見たときに私は身慄ひした。戸外體操には、
險惡な日であつた。雨が降つてゐるといふのではなかつたが、しと/\した黄色の霧で暗くなつてゐた。地面はすつかり、まだ昨日の大雨でジメ/\してゐた。生徒の中の丈夫さうな娘たちは走り

つて活溌な遊戲をしてゐたが、五六人の
蒼い顏をした痩せた生徒達は、一緒に集つて、ヴェランダに身を寄せ、寒さを
凌いでゐた。そして濃霧がこの娘たちの震へてゐる身體に
應へて行くので、彼等のうちに屡々力のない咳の音を聞いた。まだ私は、誰にも話もしなければ、また誰も私に注意するでもなかつたから、全く
獨りぽつちで立つてゐた。しかし可成り孤獨のこのわびしさには慣れてゐた。――それはもう、大して苦痛ではなかつた。私はヴェランダの柱に寄りかゝつて、灰色の外套をしつかりと身に引き寄せ、外で私を苦しめる
寒氣と、内で私を惱ます滿されない空腹とを忘れようと努めて、視察と、もの思ひに耽つた。私の囘想はとりとめなく、斷片的であつたから、こゝに書き立てることは出來ない。私は未だ自分が何處にゐるのかはつきり知らなかつた。ゲィツヘッドと私の過去の生活は、ずつと遠い
彼方へ流れ去つたやうに思へた。現在は漠然として異樣なものであつた。そして將來について、私は何も想像出來なかつた。私は修道院に似た庭をずつと家の方まで見

した。その家は大きな
建物で、その半分は灰色で古く見えた。そして殘りの半分はまつたく新らしかつた。――教室と寄宿舍のある新らしい方は、壁に仕切があり、
格子のある窓が光つてゐて、それはこの
建物に、教會風の樣子を想はせてゐた。入口の上にある石の額面に、次のやうな彫刻があつた。
『ローウッド
學院――この校舍は基督紀元××年――當地ブロクルハースト・ホオルのネイオミ・ブロクルハーストに依りて再建せられたり。』
『斯くの如く汝等の光りを人の前にかゞやかせ、これ人の汝等が善き行爲を見て、天にゐます汝等の父を
崇んためなり、マタイ傳五章十六節』私はこの言葉を何度も何度も繰返へして讀んだ。これは説明してもらふ必要があると思つた。私はその言葉の意味に十分通ずることが出來なかつた。「
學院」といふ字の意味を考へながら、最初の言葉と聖書の句との間の關係を知らうと
努めてゐる時に、私の直ぐ背後で
咳拂ひがしたので頭を向けた。見ると近くの石の腰掛に一人の少女が坐つて、本の上に身を
屈めてゐた。この少女は全くその本に夢中になつてゐるやうに見えた。私が立つてゐる場所から、その本の表題を讀むことが出來た。それは『ラシラス』(Rasselas)といふ私に聞馴れない、從つて私の心を引附ける名であつた。頁をめくりながら彼女は偶然に顏を上げたので、私は直ぐ彼女に話しかけた。――
「あなたが讀んでゐらつしやる御本は面白いの?」
私は、もうその時、數日後それを貸してもらふつもりであつた。
「私は好きです。」と彼女は、チラと一瞥して答へた。
「どんなことが書いてあつて?」と私は續けて言つた。私がこのやうに見知らぬ人に、どうして斯う
厚かましく話しかけるやうになれたか、自分にもよく分らなかつた。――この行動は私の性質と習慣に反してゐた。――がしかしこの少女のしてゐることには、何んだか共鳴出來るやうな氣がした。と云ふのは、とりとめの無い、子供らしい讀者にしても、私はそれが好きだつたから。私には
眞摯な、しつかりした本は讀みこなすことも、理解することも未だ出來なかつた。
「あなた、御覽になつてもいゝわ。」と、娘は私に本を渡しながら云つた。
私はその本を讀んで見た。一度目を通すと何んだか内容は
表題よりも心を惹かないやうに思へた。『ラシラス』は私のくだらない趣味には退屈のやうに思へた。
小妖精や魔神のことは何んにも見當らなかつた。素晴らしい變化が、この細かく
刷られた頁には
漲つてゐるやうに思へなかつた。私は本を彼女に返した。彼女は靜かに受取つて、何も云はず元通りに只管讀み耽らうとした。私は又思ひ切つて彼女の邪魔をした――
「あの入口の上にある石に書いてあるのは何のことだか教へて下さらない? ローウッド
學院て何のこと?」
「あなたが住みにいらしたこの家のことです。」
「では何故
學院といふのでせう。他の學校と何か違つてゐるの?」
「半分慈善學校なのです。あなたも私もその他私たちはみんな慈善學校の子供なのよ。あなたは孤兒なんだと思ひます。お父さんかお母さんが
亡いのでせう。」
「二人とも私の
物心づかないうちに
亡くなつてしまつたのよ。」
「さうですか。此處にゐる者はみんな親が片一方か、でなければ兩方ないかなのですよ。それで、こゝのことを親なし子を教育する學校と云はれてゐるのです。」
「私たちはお金を支拂はないの?
無料で置いて貰つてゐるの。」
「一人に一年十五
磅だけ私たちか私たちのお友だちかゞ支拂ふのよ。」
「ぢや何故私たちのことを慈善學校の生徒なんて云ふんでせう。」
「何故つて十五
磅では寄宿代や授業料には足りないんですもの。そして
不足額は寄附で補ふのよ。」
「
誰方が寄附してくれるの?」
「この近くや、
倫敦の色々な惠み深い婦人や紳士方が。」
「ネイオミ・ブロクルハーストつて誰?」
「あの
額に書かれてゐるやうに、この新らしい校舍を建てた方よ。その方の令息が、此處の萬事を管理して指揮していらつしやるの。」
「なぜ?」
「その方がこの學校の會計係で管理者なんですもの。」
「それではこの家はチイズ附のパンを食べるやうに仰しやつた、時計をつけた、あの背の高い
婦人ぢやないの。」
「テムプル先生のですつて? いえ、いえ、さうぢやないの。さうならいゝけれど。あの方は御自分のなさることには何んでも、ブロクルハーストさんに對して責任を持たなければならないの。ブロクルハーストさんは私たちの食物や着物をすつかりお買ひになるのよ。」
「その方は此處に住んでいらつしやるの?」
「いゝえ――二哩離れた大きなお
邸に住んでいらつしやるの。」
「いゝ方?」
「牧師さんだから良いことをいろ/\となさると云はれてゐるわ。」
「あの背の高い人はテムプル先生ですつて?」
「えゝ。」
「ぢや、他の先生方は何んといふ名前なの?」
「赤い頬をした方はスミス先生。裁縫を教へて下さるの。そして
裁ちものもね。――何故つて衣類や
上着や外套やその他色んなものを私たちは作るんですから。髮の毛の黒い小さい方は、スキャチャード先生で、この先生は歴史と文法を教へて、第二級の諳誦を聞いて下さる方です。そしてショールを着てゐる、黄色のリボンでハンカチを腰に結んでゐる先生はピエロさんです。この先生は佛蘭西のリールから入らしつたので、フランス語を教へていらつしやるの。」
「あなた、どの先生もお好き?」
「えゝ、大好きよ。」
「小さい髮の毛の黒い先生もお好きなの? それからマダム・ピエ――私、あなたみたいにその人の名を云ふこと出來ないわ。」
「スキャチャード先生は
短氣なのよ。――怒らせないように氣をお附けなさい。マダム・ピエロは惡い方ぢやないのよ。」
「だけど、テムプル先生が一番
好い方なんでせうね。」
「テムプル先生はとても
好い方で頭もいゝの。先生は他の先生より
優れてゐらつしやるわ。だつて他の先生よりもずつといろ/\なことを知つてゐらつしやるんですもの。」
「あなたは、もう永いこと、こゝにゐらつしやるの。」
「二年。」
「あなたもみなし子なの?」
「お母さんが
亡くなつたの。」
「こゝに來て、あなた、お仕合せ?」
「あなたは少しいろんなことを聞き過ぎるわ。私もこれで十分お答へしたことよ。もう私は御本が讀みたいの。」
しかし、その瞬間に、
夕食[#「夕食」はママ]を告げる
呼鈴が聞えた。皆は再び家に這入つた。その時食堂にみちてゐた
香は、朝食の時私達の鼻についた、それと大して變りのない食慾を感じさせた。
夕食[#「夕食」はママ]は、二個の、大きな
錫張りの器で出された。その器からは惡臭のある脂のつよい白い
湯氣が立つてゐた。見ると、この食物は、平凡な
馬鈴薯と古くさい肉の變な切屑とを一緒に煮てあつた。料理は、可成り
盛り澤山で、一人々々に分けられた。私は食べられるだけ食べた。毎日の御飯がこんなのかしら? と心の中で案じられた。
夕食[#「夕食」はママ]が濟んでから、私たちは直ちに教室に集つた。それから授業が始まつて、五時まで續けられた。
午後にたつた一つ注意すべき出來事があつた。それは、ヴェランダでお話した少女がスキャチャード先生に叱られて、不面目にも歴史のクラスから追ひ出されて、大きな教室の
眞中に立つやうに連れて行かれたことであつた。この罰は非常に不名譽に思はれた。特に、こんなに大きな少女に對しては――彼女は十三歳か、または、それ以上に見えた――。私は、彼女が困惑と
羞恥で色を失ふだらうと豫期してゐたが、驚いたことには、泣きもしなければ、顏を赧らめもしなかつた。
眞摯ではあつたが、落ちついて立つてゐた。さうして、凡ての者の注視の
的になつてゐた。「どうしてかう靜かに――かう
確りと――耐へてゐられるのだらうか?」私は自分に問うて見た。「若し假りに、私があの
女の立場にあつたなら、地面が割れて私を
嚥みこんでくれゝばよいと思つたことだらうに。彼女は、恰も自分の
處罰以外の――自分の立場以外の、何か身邊を離れたことを考へてゐるやうに見えた。私は
白晝夢に就いて聞いたことがある――彼女は今白晝夢に耽つてゐるのだらうか。眼をぢつと床上に注いではゐるが、それを見てゐないことは確かである。彼女の眼は内に向つてゐて、彼女の心の中へ入り込んでゐるかのやうに見えた。彼女は、今思ひ出せるものを考へてそれを見てゐるのだ。現在の現實を見てゐるのではないのだ。彼女は、どういふ風な少女なのかしら――いゝ人なのだらうか、
横着な人なのだらうか。」
午後五時が過るとすぐ、私たちは、
珈琲を小さい茶碗に一杯と、黒パン半切れの食事をした。私は、パンを
貪り食ひ、
珈琲を
美味しく飮んだ。もうこれ位あれば、私は嬉しかつたらうが――私はなほもお腹が
空いてゐた。それから半時間の休息があつて、勉強時間となつた。次に、水一杯と一切れの燕麥の菓子、祈祷があつて床に就いた。これがローウッドに於ける私の第一日であつた。
次の日も、前の日と同じやうに始まつた。起きて、
薄明りで着物を着た。しかし、今朝は、私たちは顏を洗ふ儀式なしで濟まさなければならなかつた――
水差の水が凍つてゐた。前の晩から天候が變つて、夜どほし寢室の窓の
隙間から、ヒユー/\音をたてゝ吹き込んでゐた、刺すやうな
東北の風が、私たちを
寢床の中でガタ/\
慄へさせ、
水差の水を凍らせてしまつたのだ。
祈祷と聖書朗讀の長い一時間半が濟まないうちに、私は、寒さで、死にさうな思ひをした。やつと朝食の時間が來た。今朝は
粥は
焦げてゐなかつた。食べるには食べられたが、
量が少なかつた。私の分はなんてぽつちりしか見えないんだらう! この二倍もあればいゝのに。
その日、私は、第四級の生徒の中に加へられ、正規の學課や仕事が定められた。今迄はローウッドに於ける
進行過程の見物人に過ぎなかつたが、これからはその中の行動者になることになつた。初めは、諳記に慣らされてゐないので、私には授業が長くつてむづかしく思はれた。學課から次の學課へと、度々變るのもまた、私をまごつかせた。午後三時頃、スミス先生が、二ヤァドばかしのモスリンの
端切を、針や
指輪と一緒に私に渡して、教室の靜かな隅つこの方へ引つぱつて行つて、この
縁をとるようにと
指圖してくれた時は嬉しかつた。その時間には大部分の者が同じやうに縫ひものをやつてゐた。だが、一
級だけは、スキャチャード先生の椅子の
周圍に立つて、相變らず本を讀んでゐた。そして、すべてが靜かなので、彼等の課業の題目が、各生徒のやつてゆく態度や、その成績についてのスキャチャード先生の批評や讃辭と一緒に聞えて來た。それは英國史であつた。讀んでゐる生徒の中に、私は、ヴェランダで知り合つた少女を認めた。授業の始めには、彼女の席は
級の首席にあつたが、何か發音の誤まりか、
句點の不注意のためにか、いきなり末席にやられた。彼女がそんな人目に立たない場處にゐても、スキャチャード先生は絶えず彼女を注意の
的としてゐた。スキャチャード先生はしつきりなしに、こんな言葉をその子に云つてゐた――
「バーンズ(これが彼女の姓らしかつた。此處の少女たちはみんな男の子のやうに姓で呼ばれてゐた)、バーンズ、あんたは片一方の足を曲げて立つてますね、まつ直ぐキチンと
爪先を開くんです。」「バーンズ、とても不快に顎を突き出してますね、引込めなさい。」「バーンズ、頭を上げてゐらつしやい。先生の前でそんな態度は許せません。」など。
一章を二囘反復すると、本を閉ぢて、生徒たちは試驗された。その課目は、チヤァルズ一世の治世の一部を含んでゐた。大抵の生徒が答へられないやうな
噸税や、一
磅歩合料や、軍艦建造税に關したいろんな問題があつた。だが相變らず、どんな少なからずむづかしいものでも、バーンズにぶつつかると即座に答へられるのだつた。彼女の記憶は、この學課全部の内容を知つてゐるやうに見えた。事實、彼女はどんな點についてでも答へられる用意があつた。私はスキャチャード先生が彼女の注意力を
讃めるに違ひないと思つてゐたが、その代りに彼女はいきなり
呶鳴りつけた――
「
汚ならしい、いやな子ですねえ! あんたは、
今朝爪のお掃除をしなかつたでせう。」
バーンズは答へなかつた。彼女の沈默は、私には不思議だつた。
「なぜ、水が
凍つてたから、爪のお掃除も顏を洗ふことも出來なかつたと云はないんだらう。」と思つた。
その時、スミス先生が一

の
[#「一
の」はママ]糸を掛けてゐてくれと頼んだので、私は注意を轉じた。絲を捲きながら、彼女は時々私に話しかけて、前に學校にゐたことがあるかとか、
肌着なんぞに
名印をつけたり、編物や縫物が出來るかなどゝ
訊ねた。それで、彼女が私を放免するまで、スキャチャード先生の
動作に觀察をつゞけることが出來なかつた。私が自分の席に歸つた時、彼女は、なんだか意味の掴めない命令をちやうど與へてゐるところだつた。しかしバーンズは、直ぐに教室を出て、本を
藏つてある小さい奧の室に入ると、一方の端が
結へつけてある一
束の小枝を持つて半分も
經たないうちに
[#「經たないうちに」は底本では「經ないうちに」]戻つて來た。彼女は、スキャチャード先生に
恭しくお辭儀をして、その
縁起の惡い道具を差出した。そして彼女は靜かに云ひつけられもしないのに前掛をとつた。すると先生は、直ぐ、その小枝の束で、
劇しく彼女の頸を十二だけ打つた。一滴の涙もバーンズの眼には浮ばなかつた。この光景で、どうすることも出來ない感動に、私は指が
慄へるので縫物をやめてゐるのに、彼女のもの思はしげな顏の
容は、いつもの表情を少しも變へなかつた。
「
強情な子だこと!」スキャチャード先生は叫んだ。「どんなことをしたつて、あんたのだらしのない癖は直りやしない。鞭を片づけなさい。」
バーンズは云はれるまゝにした。彼女が書物部屋から出て來た時、私はじつと彼女を見た。彼女はちやうどハンカチをポケットにしまはうとしてゐた。そして涙の
痕が痩せた頬に光つてゐた。
夕方の遊び時間が、ローウッドの一日の最も樂しい時だと私は思つた。五時に
嚥み込むパンのかけらと、一口の
珈琲とは、空腹を
充たさないまでも、元氣を囘復させる。一日の長い緊張は
弛んで、教室が午前中より
温かいやうな氣がした。――
煖爐の火は、まだ運ばれない蝋燭の代用として、幾らか少し餘計に明るく燃された。
紅い薄明りと、許された騷ぎと、大勢の人聲のがや/\するのが、嬉しい自由な氣持を與へるのだつた。
スキャチャード先生が彼女の生徒のバーンズを鞭でぶつた日の夕方、私は、お友達なしで、けれど淋しいとも思はないで、いつものやうに
腰掛や
卓子や笑つてゐる連中の間を歩いてゐた。窓の側を通ると、私は時々
鎧戸を開けて外を見た。雪が劇しく降つてゐた。もう吹きたまりが、下の方の
硝子にくつゝいてゐた。耳を窓につけると、室の中の樂し氣な大騷ぎと、外の物凄い風の
唸りが聽き分けられた。
多分、もしか私が
温かい家庭と、やさしい兩親の側を離れたばかりだつたら、これこそ何よりも強く別離を悲しむ時間なのだらう。そして、あの風が私の心を悲しませ、この暗がりの
混沌が私の平和を
擾すのだらう。だが、親も家もない私だつたから、變な昂奮や向う見ずや熱狂からではあつたが、風がもつと劇しく
吼え、
薄暗がりが暗黒になり、この混雜が大騷ぎになればいゝと思つてゐた。
腰掛を飛び越えたり、
卓子の下を
匍つたりして、私は一つの
爐の側へ行つた。そこで、高い
針金製のストオブ圍ひの側に膝を突いたまゝ、燃えさしのほのぐらい光で本を相手に夢中になり、口もきかず、まはりに眼もくれないで讀み耽つてゐるバーンズを見つけた。
「まだ『ラシラス』なの?」彼女の
背後に行つて、私は
訊いた。
「えゝ、」彼女は云つた。「丁度讀み終るところなの。」
それから五分あまりのうちに、彼女は本を閉ぢた。私はうれしくなつた。
「さて、多分話をしてもらへるだらう。」と私は思つた。彼女に寄り添つて、私は床に坐つた。
「バーンズの外のあなたのお名前、何んて云ふの?」
「ヘレン。」
「遠いところから、此處へいらしつて?」
「私はね、ちやうどスコットランドの國境の、遠い北の處から來たの。」
「歸りたくはない?」
「歸りたいわ。だけど誰だつて
未來の事はわからないわ。」
「ねえ、あなたはローウッドを離れてしまひたいのぢやないの?」
「いゝえ! なぜなの? 私は教育を受ける爲めにローウッドに
寄越されたのよ。だから、目的をやりとげないうちに離れてしまへば、何にもならないでせう。」
「でも、あの先生ね、スキャチャード先生はとてもあなたにひどいんでせう?」
「ひどい? そんなことないわ! あの人は
嚴しいのよ。私の缺點を
憎んでゐらつしやるの。」
「だから、もしか私があなたと代つてゐたら、私もあの先生を憎んでやるわ。反抗してやるわ。もしかあんな
鞭で私をぶたうものなら、私、あの人の手から引つたくつて、目の前でへし折つてしまうわ。」
「多分あなただつて、そんなことは出來ないわ。だけど、そんなことをあなたがしたら、ブロクルハースト先生は、あなたを退學させてしまふでせうよ。そんなことにでもなつたら、あなたの御親類の方なんぞ、とても心配なさるわ。早まつたことをして、あなたに關係のある人に迷惑をかけるより、自分だけしか感じない痛みをじつと我慢した方がずつといゝわ。それに聖書にだつて、惡に善をもつて
酬いよつて教へてあるでせう。」
「だつて、鞭でぶたれて、人のいつぱいゐる室のまん中に立たせられるなんて、恥かしいと思ふわ、それに、あなたはもうそんなに大きいのに。私なんてあなたよりずつと小さいけれど、とても我慢出來ないわ。」
「でもね、あなたがそれを
免れられないのなら、その場合、我慢することがあなたの義務なのよ。我慢しなければならないことがあなたの運命なのに、それを
我慢出來ないなんて云ふのは、弱い
馬鹿氣たことだわ。」
私は、不思議な氣持ちで、彼女の云ふことを聞いた。私はこの
忍耐の教義を理解することが出來なかつた。まして彼女が自分を
懲らしめる者に對して示した忍從には、理解することも同情することも出來なかつた。その癖、私には、ヘレン・バーンズが何か私の眼には見えない光でものを見てるやうに感じられた。彼女の方が正しくて、私が間違つてゐるのぢやないかといふ氣がした。だが私はそのことを深く考へたくなかつた。フエリクスみたいに、私ももつと都合のいゝ時まで、そんなことは延ばしてしまつた。
「ねえヘレン、あなたには缺點があるつて云つたでせう、どんなもの? 私にはあなたがとてもよく見えるのだけれど。」
「ぢあ、
外見で判斷しないやうに私から學ぶんだわ。私はスキャチャード先生が云つた通りに
だらしがないの。物をきちんと置くことも
滅多にないし、きちんとすることも
滅多[#ルビの「めつた」は底本では「ぬつた」]にないの。不注意で、規則のことを忘れてしまつて、學課を勉強しなければならない時に本を讀んでしまつたりするの。方法つてものが立たないのよ。だから、時々、私もあなたのやうに、組織的な配列に從ふことに、
我慢出來ないつて云ひ出すのよ。これがまつたくスキャチャード先生の氣に
障ることなの。あの人は、生れつき綺麗好きで、
几帳面で、嚴格なんですもの。」
「そして氣むづかしやで
意地わるで。」私は附け加へた。だけどヘレン・バーンズは私の追加を認めなかつたやうだ。彼女はやつぱり默つてゐた。
「テムプル先生もスキャチャード先生のやうにあなたに
嚴しいの?」
テムプル先生の名を云つた時、彼女のまじめな顏にはやさしい微笑が浮かんだ。
「テムプル先生はほんたうにやさしいのよ。あの方には、どんな者にも、この學校中で一等惡い生徒にさへも、
嚴しくすることが苦しいのよ。先生は、私の
過失を見て、靜かにそのことを云つて下さるの。そしてもしか私が
稱められてもいゝやうな事でもしたら、惜しまずに
稱めて下さるのよ。私の性質が缺點だらけのものだつていふ立派な證據は、あんなにやさしい理解のあるテムプル先生の忠告でさへも、私の過失を
矯す力を持つてないし、先生の賞讃も、私はそれをこの上もなく高いものに見てゐるのだけれど、それでさへ私に、絶えず注意深くして先のことをよく考へるつていふ氣持を起させることが出來ないのを見ても
判るわ。」
「變ね。」私は云つた。「注意深くしてゐることなんて、何んでもないぢやないの。」
「
あなたは無論さうなのよ。私、今朝クラスに出てゐるあなたを見てゐて、あなたがとても注意深い人だつてことがわかつた。ミラア先生が學課をやつてあなたに
質問してゐる時、あなたは決して氣を散らしたりしてゐないの。ところが私となると
始終どつかへ氣が散つてゐるのよ。スキャチャード先生の仰しやることをよく聞いて、何でも熱心に覺え込まなきやならない時でも、時々先生のお聲さへうつかり聞き流してしまふの、夢のやうなものに落ち込んでしまふの。時々、私はノオサムバランドにゐるんだと思ふのよ、そして、
周圍の騷々しさは、私の家の近くのディープデンを流れてゐる小さい川の泡立つ音だと思つてしまふの。――それから、私がお答へをする番になると、私は眼を醒まさなけれやならないでせう。すると、夢の中の小川に聞き
惚れて、何を讀んでゐたか聞いてゐないものだから、私はお答への用意が何もしてないつてことになるの。」
「でも、今日は、隨分よくお答へをしたぢやないの。」
「ほんの偶然なの、私たちの讀んでゐたところが、私には興味があつたの。今日はディープデンの夢を見る代りに、正しい事をしようと望んでゐるものが、どうして、チヤァルズ一世が時々したやうに、あんなに不正な
無分別な行動をとれるのかしらと思つてゐたのよ。チヤァルズ一世があんなに圓滿な眞心のある人でありながら、王室の特權以上のものが見えなかつたといふのは、まつたく可哀さうな氣がするわ。もし彼に
先見の
明があつて、いはゆる時代の精神つてものがどう傾いてゐるかゞ見とほせたらねえ。でも私はチヤァルズが好きなの――尊敬するの――氣の毒になるの、可哀さうな暗殺された王樣! さうよ、彼の敵が一等惡いわ。
彼奴等は流す權利のない血を流したんだわ。どうしてあの人たちは王樣を殺すことが出來たんでせう。」
ヘレンはもう
獨言を云つてゐるのだつた。彼女は自分の云ふことが私にはよくわからないといふことを忘れてゐた――彼女の話す題目を私が何も知らない、でなくも知らないのとおんなじだといふことを。私は彼女を自分の
高さに呼び戻した。
「ではね、テムプル先生が教へてゐらつしやる時でも、あなたは氣が散るの?」
「いゝえ、ほんとに
滅多にないわ。何故つて、テムプル先生は、私の思ひ出よりもずつと新しいことを、大抵云つて下さるんですもの。あの方の言葉は、私には妙に氣に入るのよ。そしてあの方が教へて下さる知識は、いつもちやうど私が欲しいと思つてゐるものなの。」
「さう、ぢあテムプル先生と一緒だとあなたはいゝのね?」
「えゝ、
受身の形でね。私、努力なんかしないのよ。愛情に導かれてついて行くだけ。こんな善行には、何の功績もありはしないわ。」
「大ありよ。あなたは、あなたにとつて良い人には良くするんですもの。私いつもさうしたいと思つてゐたのよ。もしか
殘酷な惡い人達にいつも親切に云ふまゝになつてゐたら、惡い人達は自分のしたいことばかしするわ。そんな人たちは決して恐れを感じないでせう、だから、決して改めないで、たゞ益々惡くなる一方だわ。私たちが何の理由もないのに
打たれた時は、
うんとひどく打ち返してやつていゝんだわ。私たちをぶつた人が二度と同じことをしないやうに教へてやる爲めには、私、さうしていゝと信じるわ。」
「あなたがもつと大きくなれば、あなたの考へ方も變るだらうと思ふわ。今はまだ、あなたは小さな何も教はつてゐない子供なんですもの。」
「だけど、私かう思ふのよ、ヘレン、私がどんなに氣に入るやうにしても、あくまで私を
憎む人を、私は憎まないではゐられないわ。私を
不當に懲らしめる人に、反抗しないではゐられないわ。それは、私を可愛がつてくれたり、私が當然受けるべきだと思ふ罰をくれる人を、私が愛さなきやならないと同じやうに
當然なことだわ。」
「異教徒や野蠻な人種は、そんな教へを、今も持つてゐるでせう。だけど、基督教徒や文明國の人たちは、そんなものを
斥けるのよ。」
「どうして。私、わからないわ。」
「憎しみに何よりも強くうち勝つものは暴力ではないの――危害をほんたうに確かに
癒すものは復讐ではないのよ。」
「では何?」
「新約聖書を讀んで、
基督の仰しやつたことや、なすつたことをよく考へて御覽なさい。
基督のお言葉をあなたの規則に、行ひをあなたのお手本にするのよ。」
「
基督は何て仰しやつたの?」
「
爾曹の敵を
愛み、
爾曹を
詛ふ者を祝し、
爾曹[#ルビの「なんぢら」は底本では「ねんぢら」]を憎む者を
善視し、
虐遇迫害ものゝ爲に祈祷せよ。」
「ぢや、私はリード夫人を愛さなきやならないの、そんなこと、とても出來ないわ。あの人の
息子のジョンの爲めにお祈りをするの、そんなこと無理だわ。」
今度は、ヘレン・バーンズが私に説明を求めたので、私は私のやり方でもつて、自分の受難と
鬱憤の物語を早速はじめた。昂奮して來ると、私は
毒々しげに
殘酷になるので、遠慮せず、
緩和せず、思つた通りを話してしまつた。
ヘレンは辛抱強くおしまひまで聞いてくれた。私は彼女が何か云ふかと待つてゐたが、彼女は何も云はなかつた。
「ねえ、リード夫人は、殘酷な、いけない人ぢやなくて?」私は待ちきれなくなつて
訊いた。
「確かにあなたに對して不親切だつたわね。だつて、その方も、スキャチャード先生が私が嫌ひなやうに、あなたの
性質が嫌ひなのよ。ね、さうでせう。だけどまあ、なんてあなたは小さな事まで、その人が云つたり、したりしたことをすつかり覺えてるんでせう。その人のひどい行ひがあなたの心によく/\特別な深い印象を與へたのねえ! 私の心にはどんな
虐待だつて、そんなに燒きつけられはしないのよ。もしかその人の
苛いことを、あなたが受けた腹立たしい氣持ちと一緒に忘れようと考へてみたら、あなたはもつと幸福になれはしない? 私には人生は、
怨みを心に懷いたり、惡いことを丹念に書きとめたりして過すのには、あんまり短かすぎるやうに思へるの。私たちは、この世では一人殘らず、罪の重荷を負つてゐるのよ。負はなければならないのよ。だけど、私たちがこの
朽ちてしまふ肉體を
脱ぎ捨てることによつて、その重荷も捨てゝしまふ時が間もなく來ると、私は信じてゐるの。その時には醜いものや罪惡がこの邪魔な肉體と一緒に私たちから消えてしまつて、たゞあとには靈の
閃きだけが――神さまの御手を離れて人の中に吹きこまれた時のやうに、純粹な感覺では知ることのできない生命と思想の要素が、殘るのよ。それは來たところへまた歸つてゆくの。多分また人間以上のものに――多分榮光の段階を通つて、人の魂の光の
微かさから天使の輝やかしさに、移つて行くのかも知れないわ。反對に人間から惡魔に
墮ちるなんてことは、きつとありはしないわねえ? いゝえ、そんな事は決してないと思ふわ。私は誰から教はつたのでもない信條をもう一つ持つてゐるのよ、
滅多に云はないのだけれど。でもそれは私を
悦ばせ、私はそれに縋つてゐるのよ。だつて、それは、總てのものに希望を與へ、永遠を安息所に――恐怖でも地獄でもない、立派な家にするの。その上、この信條で、私は、それははつきりと罪人と、その
犯した罪とを區別することが出來るの。だから私は罪を憎んでゐても、罪を犯した人は眞心から
赦せるのよ。この信條を持つてゐれば、私の心はどんな場合でも
復讐に惱まされたり、墮落に
甚く
傷けられたり、不義の爲めに
ぺしやんこに
挫かれたりしないで濟むの。私は、最後のものを見つめながら、靜かに生きてゐるのよ。」
いつもうなだれてゐるヘレンの頭は、彼女がこの言葉を云ひ終つたとき、前よりも少し低く下つた。彼女の顏色で私は、彼女がもうこれ以上私と話したくないことが、いやむしろ自分の心と話さうとしてゐるのがわかつた。だが、彼女は
瞑想する多くの時間を許されはしなかつた。級長の、大きい
がさつな
娘が、強いカムバァーランド
訛りで
怒鳴りながらやつて來た――
「ヘレン・バーンズ、あんた、行つて
抽斗の中を片づけて、お仕事をたゝまなけれや、私、スキャチャード先生に云ひつけて、見に來ていたゞくわよ!」
ヘレンは、彼女の默想が消えてしまふと、そつと
溜息をついた。そして立ち上つて、返辭もせず、ためらひもせず、級長の命令に從つた。
ローウッドの最初の學期は、一世紀のやうに思はれた。それも決して幸福な時代ではなく、新らしい規則や馴れない學課に自分を
慣らすといふ
厄介な困難と鬪はねばならなかつた。それらの點で
失敗るといけないといふ
懸念は、うまれつきな身體の弱さにも増して私を惱ました。その身體の弱さの苦勞も
並大抵ではなかつたが。
一月、二月と、三月の始めの間は、深い雪と、雪解けの後の、殆んど歩くことも出來ぬ道路とは、私たちが、教會へ行く以外は、庭の垣の向うへ出ることをさへはゞんだ。が、この限られた區域の内で、毎日一時間は
屋外で過さねばならなかつた。私たちの着物は、
嚴しい寒さを防ぐには十分ではなかつた。私たちは、長靴を持つてゐなかつたし、雪が靴の中に這入つて來て中で
溶けるし、
手套を嵌めない手は、すつかりかじかんで、兩足と同じく、
凍傷が出來てゐた。この爲めに、毎晩足がほてつて來ると、氣が狂ふほど痛がゆいのを我慢したことや、
膨れて、
生身が出て、固くなつてゐる
爪先を毎朝の靴中に押込むときの痛さを、私はよく覺えてゐる。それから、食事の貧弱なあてがひは
慘めだつた。發育どきの子供のさかんな食慾を持ちながら、私たちは弱々しい病人の生命をつなぐのにも殆んど足りない程の物を食べてゐた。この榮養不良から一つの弊害が起つた。そして、より幼い生徒たちをひどく苦しめた。と云ふのは、お
腹を
空かした大きな少女等は、機會さへあれば、下級生を
賺したり脅したりして、彼等の
分前を掠めたのだから。私は、お茶の時に
配られた貴重な黒パンの
切を二人の請求者の間に分けたことが幾度もあつた。三人目の人に
珈琲の半分を遣つて、迫り來る
空腹に堪へられないで、人知れず泣きながら、
珈琲の殘りを呑み込むやうなことが幾度もあつた。
さうした冬の季節には、日曜日は
慘めな日であつた。私たちは、二
哩の道を、私たちの保護者が
司祭するブロクルブリッヂ教會へ、歩いて行かなければならなかつた。私たちは、出かける時にも
冷えてゐたが、教會へ行き着くと、一層冷たくなつてゐた。朝の禮拜の間、私たちは殆んど感覺を失ふのであつた。
晝食に歸るには餘りに遠過ぎたので、普段の食事に定められてゐるのと同じほどの、
吝々した分量の冷肉とパンのお辨當が、禮拜の合間に
配られた。
午後の禮拜が終ると、私たちは吹き
曝しの
丘陵道を通つて歸つた。雪の積つた連山の頂きから北へ吹き
荒ぶ、烈しい冬の風は、殆んど私たちの顏の皮を
剥ぐばかりであつた。
私はテムプル先生が、うな垂れてゐる私たちの列に附き添つて、身輕に元氣よく歩いてゐたのを思ひ出すことが出來る、
凍つくやうな風が吹き上げる
縞羅紗の外套を、
緊かと身に引きしめてゐられるのや、私たちが心を引き立てゝ、先生の云はれる「勇敢な兵士」の如く、前進するやうに、訓言や、たとへ
噺などで、私たちを
勵ましてゐられたのを思ひ出すことが出來る。可哀さうに、他の先生たちは、みんな
甚く
意氣沮喪[#ルビの「いきそさう」は底本では「いきさう」]して、
他人を
勵ますどころではなかつた。
私たちが歸りついた時に、あか/\と燃える火の光と熱とを、私たちはどんなに思ひ
焦れたことだらう! しかし、少くとも幼ない生徒には、この望みは充たされなかつた。教室の煖爐は、どれも、素早く、大きな少女たちが二列に取り卷き、そして、その
背後には、小さい子供たちが、痩せた兩手を前掛にくるんで、かたまつて
蹲まつてゐた。
お茶の時間には、小さな
慰安があつた。いつもの二倍の大きさの――半切れの代りに一切れの――パンが、薄くバタを塗つて、與へられた。これは私たちみんなが、
安息日から次の安息日まで、待ち
焦れてゐた七日目毎の御馳走であつた。私は、いつも、このたつぷりある御馳走の半分を自分自身のために保存しようと
努めたのだが、その殘りを、私は已むを得ず
他人と分け合はねばならなかつた。
日曜日の夜は、教會問答と馬太傳第五、六、七章を諳誦することと、
抑へ切れない
欠伸に、疲れの見えるミラア先生が讀み上げる、長いお説教を聞くことに過ごされた。これらのプログラムの間には、
頻繁な間の手が
入つた。それは眠むさに征服されてしまつた小さい少女たちが、五六人づゝユテコの役を演じて、三階の窓からではないが四列目の腰掛から落ちて、半分死んだやうになつて起されるのだ。手當てとしては、彼等を教室の眞中まで押出して、お説教が終るまでそこに立たせて置くことであつた。時時、彼等の足は
效かなくなつた。さうすると、彼等は折重なつて倒れ、それから級長の高い椅子で、
支棒を
支はれるのであつた。
私はまだブロクルハースト氏の訪問のことを云はなかつたが、事實、私が此處へ着いてから一月の間は、殆んど
自家にゐなかつたのだ。大方、彼の友人の副監督のところで
逗留を長びかしてゐたのだらう。が兎に角、彼の不在は、私には救ひであつた。私には彼が來るのを
怖がる私自身の理由があつたことは云ふまでもない。しかし、とう/\彼は歸つて來た。
或日の午後(その時は、私がローウッドに來て三週間になるが)、私は
石板を手にしてむづかしい
割算の答を出すのに困つてゐたが、
茫然と窓を眺めた私の眼に、ちやうどそこを通り過ぎる人が見えた。殆んど直覺的に、私はその骨つぽい
輪郭を識別した。二分の後に、全生徒が、先生たちも一緒に、
起立した時には、私はもう誰のお出を皆がお迎へしたかを確かめるために見上げる必要はなかつた。長い足が
大胯に教室をよぎつたと思ふと直ぐ、起立してゐたテムプル先生の側に突立つたのは、ゲィツヘッドの
爐邊の敷物の上から、氣味惡く私を
睨みつけたあの黒い柱のやうな人であつた。私は、その時、この建築材料のやうな人を横目で見た。さうだ、それはフロック型の外套をボタンで留め合せて、以前よりも一層のつぽで、痩せて、骨ばつてゐるやうに見えるブロクルハースト氏であつた。
私は、この出現によつて、
周章る
理由を持つてゐた。私は、リード夫人が私の性質などに就いて云つた不實な報告や、ブロクルハースト氏が、私のいやな性質のことをテムプル先生やその他の生徒たちにきつと話すと約束したことなどを、よく
覺えてゐたからだ。これ迄ずつとこの約束が果されるのを、私は怖れてゐた――『歸り來る人』が現はれるのを、毎日待つてゐた。私の過去の生活に關する話が、その人の口から洩れゝば、もう私は永久に惡い子供として
烙印を押されることになるのだから。その人が今、そこにゐるのだ。彼は、テムプル先生の側に立つて、何やら小聲で耳打ちしてゐた。私は、きつと私のした惡事をすつかり
告げ
口してゐるのに違ひないと思つたので、今にもあの黒目がちの眼球が、いとはしげな、さげすんだ眼付を私に向けるだらうと心待ちにしながら、心配に胸を痛めてじつと彼女の眼を見つめてゐた。そして耳もすました。ちやうどよい工合に、私は教室の一等前の席にゐたので、彼の云つてゐることが大抵聞きとれるのだ。話の題目がわかると、私は當座の不安から救はれて
ほつとした。
「ロートンで買つた糸ですな、テムプル先生、あれは多分役に立ちませう。キャラコの
肌着にはちやうど適當な品です。針も糸に合つたのを
選りました。
縫針の方は、
おぼえを
記けておくのを忘れたと、あなたからスミス先生に云つて下さらんか。しかし、來週には屆けるやうにします。そして、どんな事情があらうとも、一人の生徒に對して、一度に一本以上與へてはならぬと云ふことも、云つて置いて下さい。餘計に持つと
不始末になり易く、失ふものです。それからと、あゝそれ/\、毛絲の靴下をもつと氣を付けて貰はんと困りますな!――この前に來た時、私は、臺所の庭に行つて、綱にかけてある洗濯物を
檢べてみたが、大分手入れの惡い黒い長靴下が澤山ありました。
空いてゐる穴の大きさから見ると、あれは確かに時々
繕つたものぢやありませんな。」彼は息をついた。
「先生のお
指圖通りに、氣をつけますようにいたします。」とテムプル先生は云つた。
「それから、」と彼は續けた。「
洗濯女の話では、生徒の中に一週間に二本、洗つた
襟を使ふのが居るさうだが、それでは多過ぎる、規則では一週に一本と限つてある筈だが。」
「その事では、私が事情をお話し申し上げたいと思ひます。前の木曜でございましたが、アグニスとカスリン・ジョンストンが、ロートンで四五人の友だちの
[#「友だちの」は底本では「友併ちの」]お茶に
招ばれましたので、さういふ折ならと、私が洗つた
襟を着けてもよいと許したのでございます。」
ブロクルハースト氏は
點頭いた。
「成程、まあ一度は
宜しい、宜しいが、どうかその事情といふ奴を、あまり度々、顏を出させぬように願ひます。それから外のことですが、驚いたことには、
賄の決算を見ると、この二週間の間にパンとチイズの
間食が、二度も生徒に支給されたことになつてゐるが、これはどうした事情ですかな? 私は、規則を點檢して見たのですが、
間食といふ食事の項は一向に見當らない。一體、こんな改革を斷行したのは誰です? 如何なる權利をもつてしたのです?」
「そのお話ならば、先生、私の責任でございます。」とテムプル先生は答へた。「あの日は朝食が大さう不出來で、子供等はとても食べられない程でございました。それで、私は皆がお
晝食まで斷食するのを見てゐられなかつたものですから。」
「いやマダム、少しお待ち下さい。御存じだと思ひますが、この子供たちを育てるに就いての私の方針は、
贅澤と放縱に馴れさせようと云ふのではない、彼等を
不屈にし、忍耐に富ませ、
克己力を養はせるにあるのです。假に今のやうな食事の出來
損なひだの、料理のこしらへかたがよすぎるだの、惡すぎるだのと云ふ類ひの、取るに足りない食慾の不滿を生じる場合があつたとしてもですな、その消滅した慰安より以上のもので埋め合せて、その偶然の出來事を中和させるなどゝ云ふことがあつてはならない。さういふやり方は、肉體を増長させ、また本校の
趣旨を
斥けるものです。であるから、その場合には、そのやうな一時的な缺乏にも耐へ得るといふ證據を見せるように彼等を激勵する、といふやうな方法で、事件を生徒たちに精神的
薫陶を與へる材料にしてしまはなければ駄目です。さうした機會を
外さず、貴重な一言を與へるのは、最も當を得たものと思ひます。賢明な教師は、原始基督教徒の樣々な困苦艱難や、殉教者の苦難や、十字架を負ひて我に從へと弟子たちを導き給ふ、我等の尊き主御自身の御教訓や、その他、『人はパンのみにて生くる者に非ず、唯神の凡の
言による』といふ主の御
戒め、或は『若し
爾曹我が爲に飢ゑ
渇く事あらば
爾曹幸なり』といふ主の御慰めなど、すべてこれらを引用する機會をそこに持つ譯です。あゝ、實に、あなたが子供等の口に焦げついた
粥の代りに、パンとチイズをやられるといふ事は、彼等の滅ぶる肉體を養ひ得るかも知れないが、しかしあなたは彼等の不滅の靈魂をいかばかり飢ゑしめるかを殆んど考へてはゐられない。」
ブロクルハースト氏は再び口をつぐんだ、多分感に迫つて口が利けなくなつたのかも知れなかつた。テムプル先生は、最初彼に話しかけられた時は伏し眼になつてゐたが、今は眞直に前を
凝視めてゐた。そして何時も大理石のやうに白い顏は、今はその石の冷やかさと固さをも具へたやうに見えた。殊に彼女の口は、彫刻家の
鑿の力を借りなければ開かぬものゝやうにかたく
緊り、
額は次第に石のやうな
峻嚴さに
据つてゐた。
一方ブロクルハースト氏は、手を後に組んで、
爐邊に立ち、
傲然と全生徒を見渡してゐた。突然、彼は、瞳を何かに打たれたか、
眩ませられたかのやうにパチとまばたいて振向きざま今迄よりもずつとせきこんだ調子で云つた――
「テムプル先生、テムプル先生、な、なんです、その毛を
縮らした子は? その赤毛の――
縮らした、全部縮らしたやつ――」そして彼は、ステッキを伸して、その
恐るべき目的物を
指示したが、その手はぶる/\震へた。
「あれはジェリア・セヴァンでございます。」と、極めて靜かな聲で、テムプル先生は答へた。
「ジュリア・セヴァン、ふむ! では
何故、あの子は、あの子でなくても誰でも、
捲毛なんぞがあるのです? 何故、この福音的な學院の中で、すべての
校規校則を無視して――頭に
捲毛の束をくつゝけて、公然と世間にならふ必要があるのです?」
「ジュリアの髮は生れつき
縮れて居ります。」とテムプル先生は、一層靜かな聲で云つた。
「生れつき! ふん、しかし我々は自然に任せてはならん。私はこの娘達に特に神の
惠を受けてゐるものになつて貰ひ度いと思つてゐる。ではそのふさ/\してゐるのはどういふ譯ですか? 髮は飾りけなくつゝましく固く
結ひなさいと、あれ程繰返し/\云つてあるのだ。テムプル先生、その子の髮はすつかり
剪つてしまはなければいけません。明日床屋をよこす事にします。それに外にもまだ、この無用の
長物を
矢鱈と持つてゐる娘が大分あるやうだ。――その背の高い子だ、その子に向うをむけと云つて下さい。最上級生全部に起立して
眞直に壁の方を向けと云つて下さい。」
テムプル先生は、思はず浮かんだ唇の微笑を拭ひ去るやうにハンカチを口に當てたが、しかし
號令はかけた。何を命じられたか合點が行くと、最上級生はおとなしく從つた。私は、少し腰掛のうしろに
凭れて、この
動作に對する批評を下してゐる、みんなの眼くばせや、しかめつ面を眺めた。可哀さうに、ブロクルハースト氏にはそれが見えないのだ。だが何事によらず、彼にすることは杯や皿の
外側に止まり、内の方には想像以上に彼の干渉の屆かないことを、彼も多分感づいてゐたであらう。
彼は生きたメタルたちの裏がはをものの五分間もジロジロと
檢べ、さて次の判決を下した。その一言々々は
葬の鐘の音のやうに響いた――「みんなのこの
髷は
剪つてしまはぬといかん。」
テムプル先生は、反對の容子を見せた。
「マダム、」と彼は言葉を續けた、「私は、この世ならぬ王國に君臨し給ふ主に、仕へまつる者です。この娘たちの肉體的な欲望を抑制することが、私の使命だ。
編んだ髮や
贅澤な着物を捨てゝ、
羞恥と誠實を身に付けるようにと云ひきかせることが私の使命だ。ところが、此處にゐるお孃さん方は、
編下げにした長い髮を持つておいでになる、虚榮心で固められた人間がやりさうなことである。で、繰返して申上げるが、斷然
剪つてしまはなければなりません。その爲めに浪費する時間を思ふと――」
この時、ブロクルハースト氏は
妨げられた。また三人のお客樣、貴婦人たちが教室に現はれたのだ。この人たちはもう少し早く來て、ブロクルハースト氏の服裝に關するお講義を聞くべきであつた。みんな
天鵞絨や絹や毛皮にくるまつた
素晴しい
裝をしてゐるのだ。中で若い二人(十六と十七の美しい令孃)は、その當時の流行の
駝鳥の羽毛を

した鼠色の
海狸の帽子を冠り、その優雅なかぶりものゝ
つばの下からは、念入りにカァルしたふさ/\とたつぷりある明色の捲毛がこぼれてゐた。
年長の婦人は、
貂の皮で
縁をとつた高價な
天鵞絨のショールに包まれ、フランス風な捲毛の附け前髮をつけてゐた。
この貴婦人たちは、ブロクルハースト氏の夫人及び令孃として、テムプル先生に
恭々しく迎へられ、室の上席の
名譽席に
請じられた。多分彼女等は尊敬すべきその肉親と共に馬車で
訪れ、彼が取締りと事務を處理したり、洗濯婦に質問したり、監督者に説教したりしてゐる間中、二階の部屋々々を
鵜の目
鷹の目でアラ探しをしてゐたらしい。さて彼等は、今度は寄宿舍の監督と下着類の責任を持つてゐるスミス先生に
對つて、いろ/\と注意をしたり、
小言を云つたりしてゐたが、もう私には彼等が何を云つてゐるか聞く暇がなかつた。
今迄、ブロクルハースト氏とテムプル先生との會話を拾ひ集めてゐた間は、同時に自分自身の安全を
護る爲めに私は警戒を怠らなかつた。見つけられさへしなければ、
巧く行くだらうと思つたので。かうもくろんだので、私は、腰掛にずつと深く腰をかけ、さも計算に
忙しいふりをし、顏を隱すやうな
恰好に
石板を抱へ込んでゐた。だから、私の石板が
謀叛氣を出してうつかり手から
滑り脱けなかつたら、そして無遠慮な音を立てゝ碎けて、いきなり皆の眼を私の方に向けさせなかつたら、多分私は見付けられずに濟んだかも知れないのだけれど。もう駄目だと
悟つた私は、二つに割れた
石板の
缺片を
屈んで拾ひながら、最惡の場合に處する爲めに、勇氣を
奮ひ起した。時は來た。
「不注意な娘だな!」ブロクルハースト氏は云ふより早く、「あれは
新入生だな、違ひない。」そして私が息を吸ひ込む間もなく「あの娘のことでは一言注意しなけれやならん。」それから大きな聲で――なんて私には、大きな聲だつたらう! 「その
石板を
壞した子を前に出しなさい!」
自分から進んで動くことは、私には出來なかつた――身體は
痺れてしまつてゐた。だが、兩側にゐた二人の大きな娘が、私を引立てゝ恐しい裁判官の方に押しやつたので、テムプル先生は、やさしく私を彼の足下に導いた。私の耳には、彼女の囁く慰めの言葉が響いた。
「
怖がらないでねジエィン、
過まちだと分かつてますからね。
罰したりはしません。」
親切な囁きは、短劍のやうに、私の胸には
應へた。
「次の瞬間が來る。するとテムプル先生は、私のことを僞善者だと
蔑んでしまふ。」私は思つた。さう信じると、私の脈搏の中には、リード、ブロクルハースト一味の人々に對する火のやうな
忿怒の衝動が湧き立つた。私は、決してヘレン・バーンズではなかつた。
「その腰掛を持つて來なさい。」ブロクルハースト氏は、ちやうど級長が立ち上つたばかりの高い腰掛を
指して云つた。それは
運ばれた。
「その子を、その上に立たせなさい。」
さうして、私はその上に載せられた――誰に載せられたのか私にはわからなかつた。小さなことまで注意するやうな場合ではなかつたから。私は、たゞ、みんなが私をブロクルハースト氏の鼻の高さに引揚げたことゝ、私から一
碼足らずの所に彼が居り、オレンヂと紫色の
玉蟲織の絹の
上衣と、銀の
羽毛飾りの雲が一區域だけ、私の下に擴がつたり波立つたりしてゐることだけわかつた。
ブロクルハースト氏は
咳拂ひをした。
「
淑女、」彼は、自分の家族の方を向いて、さう云つた。「並びにテムプル先生、諸先生、子供たち、
誰方もこの子供を御覽でせうな?」
勿論、彼等は見てゐた。私の熱い
額には、彼等の眼が
火取りレンズのやうに燒きつくのが感じられた。
「御覽の通り、この子は、まだ若い、姿、形も普通の子供である。神樣は、御寛大にも、我々すべてに與へ給うたと同樣の形をこの子供にも與へられた。特に異常な性質を持つてゐるといふ
印になる
畸形な點があるわけでもない。まつたく、この子供が、既に惡魔の
下僕で、その
身代りであらうとは誰が思ひ得ようか。しかも悲しむべし、
事態はその通りなのである。」
話がちよつととぎれた――その間に、いよ/\運命は決した、もう今となつては、避けることの出來ない試練を、完全に耐へ忍ばなくてはならぬと悟つた私は、
麻痺した神經をしつかりさせようとしはじめた。
「親愛なる子供たちよ、」
黒大理石のやうな牧師は、悲しみを籠めた
聲音で云つた。「これは悲しむべき憂鬱な機會である、といふのは、私の義務として恐らくは神の
小羊の
一匹であつたかも知れぬこの娘が、實は一人の墮落もの――眞の羊の群に屬する者ではなく、明らかに
僞者であり、嫌はれものであるとお前たちに注意しなければならぬからだ。お前たちは、この子を警戒して、決してこれに
習つてはいけない。また、もし必要な場合には、この子とは仲間にならずともよろしい。遊びの
除け
者にしても、口を
利いてやらなくても構はない。先生方もどうかこの娘をよく監視して戴きたい。擧動に目を付け、口にする言葉を
考量し、行爲を一々嚴重に審査して、彼女の魂を救ふ爲めに彼女の肉體を罰して
戴きたい――もしも、斯の如き救ひが可能ならば。何故なら、(私の舌は
吃つて云へない程だが)この娘は、この子供は、この
基督教國生れの人間は、
梵天王に祈を捧げ、ジャガノオト(
印度神話クリシュナ神の偶像)の前にひざまづく、あまたの異教徒の子供にも劣る……この娘は……
嘘つきなのである!」
さて、そこに十分間の休憇があつた――その間、この時にはもうすつかり氣を落ちつけてゐた私は、ブロクルハースト氏の婦人たちが各自
懷の
手巾をとり出して、それを眼に當てるのを見た。その間、年とつた一人は身體を前後に搖り、若い二人はひそ/\
私語き合つた。「まア、どうでせう!」
ブロクルハースト氏は、またはじめた。
「これは、この娘の恩人、
敬虔な慈悲深い貴婦人から聞かされた事實である。その婦人は、この子を
孤兒の境界から引きとり、我が子同樣に育てられたのである。然るにその親切と
寛容に報ゆるに、この不幸なる娘はかくも
忌[#ルビの「いま」は底本では「いは」]はしく恐しき忘恩を以てしたので、遂に彼女の立派な恩人が、己が幼い子供らの純潔を、この娘の
忌むべき例によつて、
汚されることを憂ふるの餘り、止むなく彼女をひき離すに到つたほどであつた。で、その婦人は、
宛も
往時の
猶太人が病人をベテスダの池に送つたやうに、この娘の病氣を
癒す爲めにこの學校へ送られたのである。で、私から先生方にも學監にもお願ひしたい。どうかこの娘の周圍の水をよどませぬように注意して戴きたい。」
この
素晴しい結論と共に、ブロクルハースト氏はフロック型の外套の一番上のボタンを合せ、立ち上つた家族へ何か小聲で云ひ、テムプル先生に
會釋して、さうして、この
偉い人々は、
物々しい容子で、室を
練り出した。わが裁判官は入口でふり返つて、云つた――
「もう三十分、そのまゝ腰掛の上に立たして置きなさい。今日中は、誰も彼女に口を
利いてはなりませんぞ。」
それから、私は、高く
登つたまゝ、そこにゐた。曾てはこの室の
眞中に自分の足で立たせられる
恥辱さへ堪へ得ないと云ひ放つた私が、今は
汚名の臺上に衆目を集めて
曝されてゐた。私の感情がどんなだつたか、とても言葉にも表はせない。しかし、ちやうどありとある感情が一時に湧き立つて、息を止め
咽喉を締めつけてゐた時に、一人の少女が來て、私の側を通つたのである。通り過ぎようとして、彼女は眼を上げた。おゝ何といふ不思議な光がその眼を
燃えたゝせたことか! なんと素晴しい感動をその光は私に與へたことだらう! そしてその新らしい感情が如何に私を
勵ましたか! それは
宛も殉教者や英雄が
奴隷や犧牲者の側を通つて行く途中、彼等に力を傳へたやうなものだつた。私はこみ上げるヒステリイを
抑へつけ、昂然と頭を上げ、そして腰掛の上にしつかりと立つてゐた。ヘレン・バーンズは、スミス先生の學課で、何か
質問をしに行つたのであつた。そしてくだらない質問だと叱られて席へ歸つたが、その時また私の側を通り、私を見て
微笑んだ。おゝその微笑! 私は今も忘れない。それは眞の勇氣と
叡知の溢れたものだ。それは彼女の特色のある顏付や、痩せた頬や、くぼんだ灰色の眼を、恰も天使の姿から放つた光のやうに、輝かした。しかもその時、ヘレン・バーンズは腕に「怠け者のしるし」を留めてゐたのだが。つい一時間も前にヘレンは練習問題を寫してゐて汚したといふことで、スキャチャード先生から、明日パンと水だけの
晝食を貰ふといふ罰を與へられたのだ。世に完全な人はない。最も強く輝く月の
面にもこんな缺點はあるものだ。そしてスキャチャード先生のやうな人の眼は、そんな
些細な缺點ばかりが見えるのみで、天體の強い光線には全く
盲目同然なのだ!
半時間
經たぬうちに、五時が鳴つた。學校は
退けて、みんなはお茶に食堂の方へ行つてしまつたので、私は思ひ切つて降りた。
眞暗だつた。私は、隅の方へ引込んで、
床の上に坐つた。これまで私の心を支へてくれた魔力が解けはじめて、反動が起ると直ぐ、襲つて來た悲しみに激しく
壓し
潰されて、私は俯向けに仆れた。私は泣いた。ヘレン・バーンズはこゝにゐなかつたし、何も私を支へてくれるものはなかつた。たつた一人になつて、私は
落膽したのだ。涙は
床板を
濡した。私は、よい子になり、ローウッドでいろ/\なことをしようと思つてゐた――大勢、お友達をこしらへて、
温い友情や尊敬を得ようと思つてゐた。既に私はめざましい進歩をした。しかも、今朝私はクラスの首席になつた。ミラア先生は、やさしく私を
褒めて下さつた。テムプル先生も
微笑んで、褒めるやうな風を示して下さつた。そして畫を
描く事を教へて上げよう、それからもしも私がもう二月の間おなじやうな進歩をつゞけたなら、佛蘭西語を教へようと約束して下さつた。それからまた、私は仲間の生徒たちの受けもよかつたし、同じ年頃の人たちにも、對等に
附合はれ、誰からも
苛められたりすることもなかつた。今私は、こゝにまたも、打ちのめされ、踏みにじられてゐるのだ。この上、もう
起き上ることが出來ようか? 「駄目だ」と私は思つた。そして本氣に死なうと思つた。この願ひを泣きじやくりながら、とぎれ/\云つてゐるとき、誰かゞ近づいて來た。私は飛び上つた――またヘレン・バーンズがすぐ傍にゐたのだ。消えかけの火が、この長い
空虚な部屋に彼女が
入つてくるのを示した。彼女は私の
珈琲とパンを持つて來てくれたのだつた。
「さあ、少しお食べなさい。」と彼女は云つた。けれど、今の場合では、一滴の
飮物でも一
片のパンでも
咽喉をつまらせるやうな氣持がしたので、私は兩方とも押しやつてしまつた。ヘレンは、多分びつくりして、私を見たのだらう。私は、隨分苦心したけれど、自分の取亂した氣持を
鎭めることは出來なかつた。私は聲を出して泣きつゞけた。彼女は寄り添つて床の上に坐り、兩腕で膝を抱いて、その上に頭を置いた。そんな風にして、彼女はまるで無言の
行をしてゐる
印度の坊さんのやうに
默つてゐた。やがて、最初に口を切つたのは、私の方だつた――「ヘレンさん、あなた、どうして、みんなが
嘘つきだと思つてゐるやうな子と一緒にゐるの。」
「みんな? ジエィン、なあに、あの時、あなたがあんなことを云はれたのを聞いてゐたのは、たつた八十人ぢやないの。世の中には何千萬つて人がゐるわ。」
「だつて、何千萬の人に何の
係合があるの? 私の知つてる八十人は、私を
輕蔑するわ。」
「ジエィン、あなたは間違つてゐてよ。多分、學校中で一人だつて、あなたを輕蔑したり、嫌つたりする人はないわ。きつと多くの人が、あなたを隨分可哀さうだと思つてるわよ。」
「ブロクルハーストさんがあんなことを云つたのに、どうして、みんなが私を可哀さうだなんて思へる?」
「ブロクルハーストさんは神樣でもなければ、立派な尊敬されるやうな人でもないわ。あの人は、こゝではちつとも
好かれてないのよ。
好かれるやうなことは、一度もしなかつたんですもの。あの人が、もしあなたを特別なお氣に入りのやうにするのだつたら、あなたの
周りには、影にも
日向にも敵が出來たかも知れない。でもさうぢやないから、みんな、出來ればあなたに同情したいのよ。先生も生徒も、一日か二日は
冷淡にあなたを眺めるかも知れないけれど、心の中には親切な氣持ちが隱してあるのよ。だから、あなたが
我慢してよくしてゐれば、その氣持ちが、暫くの間
壓しつけられてゐただけ、ずつとはつきり現はれて來ると思ふわ。それにね、ジエィン――」彼女は言葉を切つた。
「何? ヘレンさん、」私は手を彼女の兩手に置いて云つた。彼女は、それを
温めようと、私の指をやさしく
擦りながら云ひつゞけた――
「もし世界中の人が、あなたを憎んだとしても、そしてあなたを
惡者だと信じたとしても、あなたの
良心が、あなたの正しいのを證明し、あなたを罪から解くならば、あなたはお友達なしではないわ。」
「えゝ、私も、自分を正しいとは思はなければならないといふことは知つてゐてよ。でもそれだけでは十分でないの。他の人たちが私を可愛がつてくれないのなら、生きてるより死んだ方がましだわ――獨りぽつちで憎まれてるなんてことは出來ないわ、ヘレンさん。あのねえ、私、あなたかテムプル先生か、それとも誰か、私が
心から愛する人の眞實の愛を得る爲めになら、自分の腕の骨さへ喜んで折らせるわ。でなきや、
牡牛に私を突かせてもいゝし、跳ね馬の
背後に立つてゐて
蹄を私の胸にぶつけさしてもいゝわ――」
「しッ! ジエィンさん。あなたは、人間の愛のことを考へ過ぎてゐるわ。あんまり一
途で、あんまり烈しいわ。あなたの身體を
創つて、それに
生命を與へて下さる神樣の御手は、あなたの爲めに、弱いあなたの肉體や――あなたのやうに弱い人々の肉體以外に
頼りになる
糧を用意して下すつたのよ。この世界や、この人間の種族の外に、目に見えない世界、靈魂の王國があるのよ。その世界は私たちをとりまいてゐるのよ、何故なら、到るところにあるのだから。そしてさういふ靈魂は、私たちを見守つてゐてくれるの、
何故つて、それは私たちを護る使命を持つてゐるんですから。そして、もし私たちが苦しみや
辱しめを受けて死なうとしたり、四方八方から
輕蔑されたり憎まれたりすれば、天使は、私たちの苦しみを御覽になつて、私たちの罪のないことを認めて下さるのよ。(若しも私たちが
潔白であるのなら。ブロクルハーストさんがリード夫人からの受け賣りで、根據もないのに、大げさに
吹聽したこの
嫌疑を、あなたは受けてゐる譯がないのを、私が知つてゐるやうに。何故つて、私は、あなたの輝かしい眼や、曇りのない顏に、あなたの
誠實[#ルビの「せいじつ」は底本では「せうじつ」]な性質を讀むことが出來るからだわ。)それから、神樣は十分な
報酬を私たちに下さらうと、私たちの身體からたゞ靈魂が離れるのを待つてゐらつしやるのよ。だから、
生命は間もなく過ぎてしまふもので、死は幸福への――光榮への確かな入口だのに、私たちは苦しみに負けて弱つてしまふなんてことはない筈ぢやない?」
私は
默つてゐた。ヘレンは私を落ちつかせた。けれども彼女の與へた靜けさの中には、云ひあらはすことの出來ない悲しみが
混つてゐた。彼女の話を聞いてゐるうちに、私は悲しみで胸が一杯だつた。けれども、それがどこから來たものか、私には云へなかつた。そして、話が終つて、彼女が少しせはしく
呼吸をつぎ、短い
咳をするのを聞くと、私は、漠然と彼女のことが心配になつて、しばらく自分の
哀しみを忘れてしまつた。
私は、頭をヘレンの肩に置いて、腕を彼女の腰にまはした。彼女は私を引き寄せた。そして私たちは
默つて
身動きせずにゐた。かうして坐つてゐると、間もなく、また別の人が
入つて來た。
重々しい雲が、一陣の風に吹き拂はれて、月をあらはした。そして月の光が傍らの窓から流れて、私たちと、近づいてくる人の姿とを一杯に照らしたので、直ぐにそれがテムプル先生だといふことがわかつた。
「あなたを探しに來たのよ、ジエィン・エア。」彼女は云つた。「ヘレン・バーンズもゐるのね、一緒に來なさい。」
私たちは行つた。監督さんのあとについてその室に行くまでには、こみ入つた通路を縫うて、一つの階段を
昇らなければならなかつた。部屋には、火がよく燃え、
心地よげに見えた。テムプル先生は、ヘレン・バーンズに、
煖爐の傍の低い
肱掛椅子にかけるようにと云つて、彼女は別のに坐り、私を側に呼んだ。
「もうすんだの?」彼女は私の顏を見下しながら
訊ねた。「悲しいことはみんな泣き盡してしまひましたか。」
「とても駄目なやうな氣がしますの。」
「なぜなの?」
「でも、私は、間違つて罪に
陷されたんですもの。先生、あなたも、他の人たちも、みんな、今は私を惡者だと思つてゐらつしやるわ。」
「私たちは、あなたがどんな子だか、あなたの
所作通りに考へませう。そのまゝで、いゝ子のやうにやつてゐらつしやい、さうすれば私は滿足するのよ。」
「私に出來るかしら? テムプル先生。」
「出來ますとも。」と彼女は、私を腕で抱きながら云つた。「ではね、ブロクルハーストさんがあなたの恩人だと云つてゐらつしやる女の方は
誰方なの?」
「リード夫人、私の伯父さまの奧さんなの。伯父さまが
亡くなられて、その人が世話することになつたの。」
「では、その方は、御自分のお考へで、あなたをお世話なすつたのではないの?」
「えゝ、あの人、さうしなければならないのが、面白くなかつたんですの。ですけど、よく女中たちが云つてましたわ、伯父さまは、お亡くなりになる前に、いつまでも私を
手許に置くことを、あの人に約束させたんですつて。」
「さう、ではね、ジエィン、あなたも知つてるでせう? でなかつたら、これだけ教へてあげませう。罪人が
告訴された時には、いつでも自分の辯護の爲めに口を利いてもよいことになつてゐます。あなたは間違つて
嫌疑を受けてゐます。あなたの出來るだけ、私に辯護をして御覽なさい。あなたの記憶が本當だといふことは何でも仰しやい。たゞ、一つでも、つけ加へたり、誇張したりしないようにね。」
私は、心の底で、最も控へ目に、最も正確にしようと決心した。そして、云ふべきことを
秩序立てるためにちよつと思案して、自分の
慘めな子供時代の話をすつかり彼女に話した。その悲慘な物語を、だん/\つゞけて行くうちに、昂奮のために疲れて、私の言葉は
平常よりもずつと抑へられてゐた。そして私は、無暗に人を
怨んではいけないといふヘレンの心からの警告を忘れなかつたので、いつもよりはずつと控へ目に、
膽汁と
苦蓬[#ルビの「にがよもぎ」は底本では「はがよもぎ」](
怨恨毒意)を、その話に注ぎ込んだ。このやうに
抑制され、簡單にされて、私の話は、ます/\
眞心らしく聽えるのだつた。私は、話しながら、テムプル先生が、十分に私を信じてゐると感じた。話の途中に、私は、あの
發作のあとで、私を
診て呉れたロイドさんのことも云つた。何故つて、私は、あの、私にとつては、恐ろしい、赤い部屋のエピソオドを決して忘れることが出來なかつたから。その事を
詳しく話すうちに、私は、確かにいくらか制限を越えて、昂奮してしまつた。だつて、リード夫人が、許して下さいといふ私の
死身の歎願を無情にも
刎付けて、二度私を暗い幽靈の出る部屋に閉ぢ籠めた時に、私の心を掴んだ苦悶の
痙攣を
和らげる何ものも、私の記憶にはなかつたのだ。
私は話し終つた。テムプル先生は、しばらくの間、
默つて私を
凝視めてゐたが、やがて云つた――
「ロイドさんのことなら、私も少しは知つてますから、手紙を出してみませう。もしあの人の返事があなたの話と一致すれば、あなたは
青天白日です。私にはね、ジエィン、あなたはもう青天白日ですよ
[#「青天白日ですよ」は底本では「晴天白日ですよ」]。」
彼女は、私に接吻して、そして私を側に引き寄せたまゝ、ヘレンに話しかけた。(そこに、私は滿足して立つてゐた、何故つて、彼女の顏や、着物や、一つ二つの飾りや、白い
額や、ふさ/\した
艷々しい
捲毛や、輝やかしい
黒瞳をじつと見てゐると、子供らしい歡喜が湧いてくるからだ。)
「今夜はどう、ヘレン? 今日、
咳はひどかつて?」
「そんなでもなかつたやうですの。」
「それから胸の痛みは?」
「少しよくなりました。」
テムプル先生は、立ち上つて、彼女の手をとつて脈をみた。それから彼女は自分の席に戻つた。席に着くとき、彼女の低い溜息が聞えた。彼女は、少しの間、
物思はしげだつた。が、やがて身を起しながら、快活に云つた――
「だけど、あなた方は、今夜、私のお客さまだつたのね。ぢあ、お客さまらしくおもてなしをしなくつちや。」彼女は、
呼鈴を鳴らした。
「バアバラ、」彼女は、
呼鈴に應じて來た女中に向つて云つた。「私はお茶がまだだつたから、お盆を持つて來て頂戴。それから、このお孃さん方のお茶碗もいつしよに。」
やがてお盆が運ばれた。私の眼には、火の側の小さな圓い
卓子の上に置かれた陶器の茶碗や光つた
急須が、どんなに美しく見えたらう! 飮物の
湯氣や
燒麺麭の香りが、どんなにか
香ばしかつたらう! だが、その燒麺麭は、驚いたことに(私はひもじくなりはじめてたので)ほんのぽつちりしか分け前がなかつた。テムプル先生もそれに氣づいた。
「バアバラ、バタ付きのパンをもすこし貰へないの? 三人には、足りないわ。」
バアバラは、出て行つたが、すぐ歸つて來た。
「先生、ハァデンさんは、いつもだけ差上げたと、申しますが。」
ハァデンさんは、(讀者の御注意を願ひ度いが)家政婦でブロクルハースト氏そのまゝの
心意氣、そのまゝの
鯨骨と鐵との
構成分子で出來てゐた。
「では、よろしい!」とテムプル先生は答へた。「私たちはこれで間に合せて置かねばならないんでせう、バアバラ。」
そして、その
娘が
退がると、彼女は
微笑みながら云つた。「いゝあんばいに、今度だけは、足りない分を私の手で都合がつけられるのよ。」
ヘレンと私を
卓子に近づかせ、
各自の前に、
美味しさうなしかし薄い
燒麺麭の切れと、お茶のコップを置くと、彼女は、立ち上つて、
抽斗を開け、そこから紙にくるんだ包みを取り出して、直ぐ、私たちの目の前に、大きなシードケーキを開いた。
「これは、あなた方の持つて歸るおみやげに、切つて上げようと思つてゐたけれど。」と彼女は云つた。「でも
燒麺麭が、あんまりぽつちりしかないから、こゝでお上りなさい。」そして、彼女は、それを物惜しみなく分けはじめた。
私たちは、その夜、神樣の召し上り物ともいふやうな御馳走をいたゞいた。そして、そのもてなしの中でも、とりわけ嬉しかつたのは、たつぷりある御馳走で、死にさうな食慾を
充してゐる私たちを、じつと見てゐる女主人の
滿足氣な
微笑みだつた。
お茶も濟み、お盆が引かれると、彼女は、また、私たちを火の側に呼びよせた。私たちは、彼女の兩側に坐り、話は、今は彼女とヘレンの間に續けられた。それを聞くことを許されたのは、まつたく特典と云つてよかつた。
テムプル先生は、いつも彼女の容子に何か靜かな
朗らかなものを、態度にどことない
威嚴を、言葉には
品よく穩かなものを持つてゐた。さうした彼女の氣分には、熱烈な言葉や昂奮した語調の方へ
外れさせず、また、彼女を見、その言葉に耳を傾けるものゝ享樂的な氣持ちを
抑制するやうな
畏敬の感じで、きよめる何ものかゞあるのであつた。これが、その夜の私の感じだつた。だが、ヘレン・バーンズに就いては、私は、たゞもう驚きに打たれるばかりだつた。
氣持ちを爽かにする食物、輝かしい火、好きな先生との對面と、その先生の親切、いや、多分そんなことよりも、ヘレン自身の特別な頭にある何ものかゞ、ヘレンに力を振ひ起たせたのだ。その力は、
目醒め、燃えた。そしてまづ、今までは
蒼ざめた
血の
氣のないものとしか見えなかつた、彼女の頬の
鮮やかな紅となつて輝き、次には彼女の眼の
潤ひにみちた艷となつて光つた。その眼は、テムプル先生のよりも、もつと不思議な美を不意に現はした――美しい色や、長い
睫毛や、描いたやうな眉の美ではなくて、意味と動きと輝きの美だつた。それから、彼女の魂が唇に宿つて、
源のわからない言葉が流れ出した。清純な、漲り切つた、熱烈な雄辯の溢れ出る
泉を支へきるほど、そんなに大きな、そんなに強い心を、十四歳の少女が持つてゐるだらうか? かうした印象が、私には忘れられぬ晩の、ヘレンの話の特徴であつた。彼女の魂は普通の人々が長い生涯の間生活するのと同じほどの景を、非常に短い時間の内に生活しようと、
急いでゐるやうに見えた。
二人は、私が今迄に聞いたこともないやうなことを――昔の民族や時代のこと、遠い國々のこと、自然界の既に發見された、或は
推測された祕密等を語り合つた。彼等はいろ/\な本に就いても話した。なんて澤山の本を讀んだのだらう! なんて知識の蘊蓄を持つてることだらう! それに彼等は佛蘭西の有名な人の名前や佛蘭西の著作者などに就いても、大層よく知つてゐるやうだつた。だが、テムプル先生が、ヘレンに、父親に教はつたラテン語を忘れぬように
偶には勉強してゐるかと訊ねて、書棚から一册の本をとり、『ヴァアジル』の中の一頁を讀んで、
解釋するようにと云つた時、私の驚嘆は頂點に達した。ヘレンは云はれた通りにした。私の尊敬の念は、讀み上げて行く一行毎に大きく擴がつた。彼女が讀み終るか終らない時に、
呼鈴が
就寢時を知らせた。ぐづ/\してはゐられない。テムプル先生は、二人を胸に引きよせて、「神樣の祝福がありますように、私の子供たち!」と云つて我々を抱きしめた。
ヘレンを、彼女は、私よりもすこし長く抱いてゐた。彼女は、ヘレンの方をもつと未練らしくはなした。彼女の眼が入口の方まで見送つたのは、ヘレンであつた。彼女が二度目に悲しい
溜息を吐いたのは、ヘレンのためだつた。ヘレンのために、彼女は頬の涙を
拭つたのであつた。
寢室に近づくと、スキャチャード先生の聲が聞えた。彼女は机の
抽斗を檢査してゐるところだつた。彼女がちやうどヘレン・バーンズのを抽き出したところへ、私たちが這入つて行くと、ヘレンはいきなり鋭い
叱責で迎へられた。そして明日は、ごちや/\にたゝんであつた品物を
半打ばかり、彼女の肩に縫ひつけとかなければならないと云はれた。「私のものは、ほんたうに恥かしい程、くしや/\だわ。」とヘレンは、
低聲で囁いた。「私、ちやんとしようと思ふのだけれど忘れてしまつたのよ。」
次の朝、スキャチャード先生は、
臺紙の一
片に目立つた字體で「
不精者」といふ言葉を書きつけて、お
護符かなんぞのやうにヘレンの廣い、やさしい、
怜悧な、おとなしい
額に結びつけた。彼女は、それを夕方まで、我慢して
怨みもせず、當然受くべき罰としてつけてゐた。スキャチャード先生が午後の課業を終へて立ち去るが早いか、私はヘレンのところに飛んで行つて、それを引きちぎつて、火の中に投げ込んだ。ヘレンの哀しい
諦めの容子は、私の胸に堪へきれない痛みをもたらし、彼女には感じられない
憤怒が、まる一日私の心に燃えつゞけて、熱い
大粒の涙が、絶え間なく、私の頬にやけつくやうだつた。
上述の出來事から一週間程後、ロイドさんに手紙を出したテムプル先生は、彼の返事を受け取つた。彼の云つた言葉は、私の辯解を裏づけたやうだつた。テムプル先生は、全校の生徒を集めて、ジエィン・エアに對して云ひ立てられた
科に就いてなされた
穿鑿を報告し、ジエィンが全ての疑ひからまつたく潔白であると云ひ得る自分は最も幸ひだといふことを發表した。先生たちは、私と握手し、接吻してくれた。そして
悦びの囁きが私の仲間の列に走り傳はつた。
このやうに、悲しい
負擔から救はれて、私は、その時から、新しく仕事を始めた。あらゆる困難の中にも、自分の途を開拓しようと決心した。私は一生懸命に努力した。そして成功は努力に隨つて到つた。もと/\強くはなかつた私の記憶力も、練習によつて進歩した。練習が私の知識を
磨いた。數週間の内に私は上の級に進んだ。二ヶ月
經たない内に、私は佛蘭西語と繪を始めることを許された。同じ日に、私は動詞
Etre の一番はじめの二つの
時制を習ひ、第一番の小屋(
因に、その壁は、
傾斜の點ではピサの斜塔を
凌いでゐた。)を寫生した。
その夜、床に這入つてから、私は、熱い
燒馬鈴薯や、白いパンと新しい牛乳やを、パアミサイドの晩餐のやうに頭の中で
調へるのを忘れてゐた。それで、私は、いつも自分の心の、肉の食慾を樂しましてゐたのだ。その代りに私は
暗闇の中に見える想像の畫で自分を樂しませた。それは、私の手に成つた作品の全部、思ひのまゝに描いた家や
樹、繪のやうに美しい岩や
廢址、カイプが好んで描く家畜の群、蕾の薔薇の上を飛びまはる蝶や、
熟れた
櫻桃を
啄ばむ小鳥や、眞珠のやうな卵のはいつた、若い
蔦の小枝にまきつかれた、
鷦鷯の巣など――であつた。私は、また、心の中で、マダム・ピエロが、その日見せて下すつた、ある小さな佛蘭西の物語の本を、すら/\と
解釋する力が自分にあるかと考へて見たが、その問題を解かぬうちに、心持ちのいゝ眠りにおちてしまつた。
ソロモンは、うまいことを云つてゐる――
『愛の
籠れる草の食事は、憎惡の
混じれる
肥えたる
牡牛のそれに
優る。』
今はもう、私はよろづ不自由なローウッドを、ゲィツヘッドと、そこでの毎日の
贅澤な生活とに取換へようとは思はなくなつてしまつた。
しかし、ローウッドの不自由、といふよりも寧ろ
苦難は、だん/\少なくなつて來た。春が近づいたのだ。事實、春はもう
訪[#ルビの「おとづ」は底本では「おと」]れてゐた。冬の霜は止み、雪も解け、身を切るやうだつた風も
和やかになつた。一月の刺すやうな空氣に、
いびつになるほど
膨れ上つて
跛を引いてゐた、
憐れな私の足も、四月の
柔しいいぶきを受けて、跡形もなく
癒り始めた。私たちの血管の血までも
凍らすほどのカナダらしい氣温の朝夕もいつか過ぎ去り、私たちは、もう
遊技時間をお庭で過すことに耐へられた。折々、晴れた日などには、却つて樂しく
心地よいとさへ思ふやうになつた。そして一日々々と、
朽葉色の花園が
甦つて、
青々となつてゆくのを見ると、夜「希望」がそこを横ぎるのだと云ふ考へが浮かんだ。さうして、一朝毎に、より美しい彼女の足跡を殘していつた。
まつゆき草、さふらん、紫櫻草、金いろの眼の
三色菫など、花は、葉の間から覗いてゐた。私たちは、木曜の午後(半どんの日)の散歩を始めた。さうして、途ばたの
生垣の下に、もつと美しい花が咲いてゐるのを見つけるのだつた。
私はまた、庭の高い
忍返しのある塀の向うには、地平線より外に遮るものもない、大きな
悦びや
娯しみがあることを發見した。それは、廣々とした丘の
凹地をとりまいてゐる氣高い連山の、
濃やかな青緑と陰影の多い見晴しや、黒い岩や泡立つ渦にみちた輝かしい溪流を見ることであつた。あの鋼鐵色の冬空の下で、霜に
凍り雪に被はれてゐた時とはこの同じ風景は何と云ふ違ひなのだらう!――死のやうに
冷やかな霧が、凍風の吹き荒むまゝに、紫いろの峯に沿つて立ち迷ひ、流に籠めた
凍つた靄に
混るまで、「野原」や中洲にころげ落ちかゝつてゐた時とは! その時は、この溪流でさへ
堰くものもなく濁つた急流であつた。さうして森を切れ/″\にちぎり、もの凄い響きを遠く響かせ、豪雨や渦卷く
霙の
度にいつも
水嵩を増したのだつた。また流の土堤の林と云へば骸骨の行列としか見えなかつたのだ。
四月は五月へと進んだ。それは輝いた落ちついた五月であつた。來る日も來る日も、青い空と、明るい陽光と、やさしい西風や南風に溢れた
一月であつた。さうして、今こそあらゆる植物は、生々と生命に滿ちて成熟した。ローウッドは髮を
解きほぐした。どちらを見ても、緑と花ばかりになつた。大きな骸骨のやうな楡や

や樫なども、堂々と、いかめしい生活を恢復した。森林地には、木がその奧底から躍動してをつた。無數の異つた種類の苔が、その
凹地を埋めて、咲き亂れた
野生の
櫻草の中から、不思議な地面の光を放つてゐた。とても美しい光を飛び散らしたやうに、私は、蔭つた場處で、その蒼白い
黄金いろのかゞやきを見た。これらのすべてを、私は、人に見られずに、殆んど獨きりで
愉しんだ。このめづらしい自由とたのしみには、一つの
[#「たのしみには、一つの」は底本では「たのしみに、は一つの」]原因があつた。屡々十分に自由にそれを、私は、語らなくてはならない。
私は、住居が森や丘に
懷かれ、流れに沿つてゐると云つたが、そこは住むのにたのしい場所ではないだらうか。確かに、十分愉しい、併し健康によいか否かは別問題として。
ローウッドにある森の低地は、深い霧と、その霧から發生する流行病の搖籃であつた。それが、すべてのものを
蘇[#ルビの「よみがへ」は底本では「オみがへ」]らす春に蘇つて、この
孤兒院に
匍ひ込み、ぎつしり詰つてゐる教室と寄宿舍にチブスを吹きこんだ。さうしてまだ五月にならない内に、學校を病院に變へてしまつたのである。
半飢餓とうつちやり放しの
風邪が、大部分の生徒を傳染し易くさせてゐたので、八十人の少女等の中、五十五人が一時に病みついた。學級は崩れ、規律は
弛んだ。健康を保つてゐる僅かな生徒に對しては、醫者が
頻繁な運動の必要を固く主張したので、殆んど無制限の自由が與へられた。それに
假令さうでなかつたとしても、彼女等を監視し束縛する暇を持つてゐる者は誰もゐなかつたのだ。テムプル先生の心遣ひは、まつたく病人たちに奪はれてゐた。彼女は夜にほんの二三時間の休息をとる外は、決してそこを離れず、病室で暮した。先生たちはみな、傳染病の巣から、進んで、自分を引き取つてくれる餘裕のある知人や
親戚を持つてゐる、
幸福な少女たちの出發の爲めに、荷造りをしたり、その他必要な支度をしたり、手一ぱいに働いてゐた。もう既に
冒されてゐる多くの少女たちは、たゞ死ぬ爲めに家へ歸るのであつた。あるものは、學校で息を引きとり、病氣の性質が猶豫を許さなかつたので、靜かに
手速く
葬られた。
こんな風に病氣がローウッドの居住者となり、死が頻繁な訪問者となつてゐる間に、ローウッドの塀の中に暗影と
怖れがひそんでゐる間に、部屋や廊下に病院の匂ひが流れ、藥品や香料が死の惡臭を
消さうと
空しい努力をしてゐる間に戸外の生々とした丘や、美しい森林地には、あの晴れやかな五月が曇りなく輝いてゐた。學校の花園もまた、花でかゞやかしく飾られた。
蜀葵は木のやうに高く伸び、
百合は開き、
鬱金香や薔薇が
微笑んだ。小さな花壇の周りは
淡紅色の
まつばなでしこと
深紅の八重の雛菊で賑はつた。
はまなすは朝も夕も
林檎や香料のやうな香を放つてゐた。さうしてこのよい香の寶庫も、時々お棺に入れる掌一ぱいの草や花を役立たす外には、大部分のローウッドの人々にとつてまつたく無用なものであつた。
しかし、私や他の丈夫でゐる子供はみんな、かうした眺めや季節の美しさを十分に
愉しんだ。私たちは、まるでジプシイのやうに朝から晩まで森の中をさまよひ歩いた。したい事をし行きたい處へ行つた。私たちの生活も、前よりはよくなつてゐた。ブロクルハースト氏一族は、もう一切ローウッドに來なかつた。家政は檢査されなかつたし、傳染病に
怖氣のついた、
意地惡の管理人が逃げてしまつて、ロートン
施療院の看護婦長だつた、彼女の後任者は、まだ新しい家のきまりに慣れてゐないので、比較的にもの惜しみを
爲ないで
賄つた。その上、病人たちは殆んど何も食べないので、口もずつと少なくなつてゐた。私たちの朝の御飯のお鉢は
盛がよくなつた。正規の
晝食の支度をする間がないことがよくあつたが、さういふ時には、彼女は
冷たいパイの大切れだの、チイズ
附のパンの厚切れを呉れた。さうしてこれを持つて、私たちは森に行き、そこで
各自一番好きな處を選んで、お
腹一ぱい
晝食を濟ますのであつた。
私の大好きな場處は、小川のちやうど中程に白々と
乾いて現はれてゐる、
滑らかな大きな石の上で、其處へは水の中を
跣足で
渉つて行くより外はなかつた。その石は、ちやうど私とお友達とが
悠くり
坐れるほどに、十分廣かつた。その頃、私が選んだお友達は――メァリー・アン・ウィルスン、はしつこい、よく氣のつく
性の少女で、一方では、彼女は機轉がきいて、風變りで、また一方では、彼女は私の氣を樂にさせるところがあつたので、私は彼女との
交りはたのしかつた。二つか三つ私よりも
年長なので、私よりも世の中を知つて居り、私の
訊きたいと思ふことを澤山に話してくれた、彼女と一緒にゐると、私の好奇心は滿足した。私の缺點も彼女は一向氣にしないで、どんな事を云つても決して壓制や支配めいたことはしなかつた。彼女は話好きで、私は聞きたがりだつた。彼女は教へることが好きで、私は質問が好きだつた。それで私たちの間は、いつもすら/\と工合よく行つた。お互ひの
交りから、多くは啓發されなかつたとしても、それから得るよろこびは大きいものだつた。
では、そのころ、ヘレン・バーンズは何處にゐたのだらう! なぜ私は、かうした
愉しい自由な毎日を、彼女と一緒に過さなかつたのか? 私は彼女を忘れてしまつたのか、それとも私は、彼女との純な
交りに飽きて來るやうな、つまらない子だつたのか? 確かに、そのメァリー・アン・ウィルスンは、私の最初のお友達よりも
劣つてゐた。メァリーは單に面白い話をしてくれたり、私が耽らうとするきび/\した
辛辣なお
喋舌に應じるのが關の山だつた。しかるに、ヘレンの方は、ほんたうのことを云ふなら、彼女と語る幸ひをもつものには、もつとずつと高尚な物に對する趣味を味はせる資格を持つてゐたのである。
ほんたうに、讀者よ、私はこれを感じもし、知つてもゐたのだ。さうして
假令、私が多くの缺點を持ち、何んの
取柄もないやうな
不束な人間だとしても、ヘレン・バーンズに飽きることは決してなかつたし、これまで私の心を勵ましてくれた他のどんなものよりも、強く
柔しく、尊敬にみちた彼女への愛着心を
育くむのを止めはしなかつた。でなくとも、どうしてそんな事があり得よう、ヘレンは、どんな時にも、どんな状況の下に在つても、不機嫌に曇らされたことも
怒に禍ひされたこともない、靜かで信實な友情を表はしてゐるではないか。けれど、いま、ヘレンは病氣だつた。もう幾週間も、彼女は私の眼から離されて、何處か知らない二階の部屋に移されてゐたのだつた。私は、彼女はあのチブスの病人等と一緒に校舍の病室にゐるのではないといふことを聞かされた。彼女の病氣は、チブスではなく肺の方だつたから。さうして私は何も知らないので、肺病といへば、時の經過と看護で、間違ひなく
癒せる何か輕い病氣なのだと思つてゐた。
私は、彼女が大層暖かな晴れた午後などに下りて來て、テムプル先生に附き添はれてお庭に出るやうな事が、一二度あつたといふ
事實から
推して、この考へを確信してゐた。でも、そんな時にも、
傍へ寄つて話しかけることは許されなかつた。私は、たゞ教室の窓から、彼女の姿を見るきりで、それもはつきりは見えなかつた。彼女はふか/″\とくるまつて、遠いヴェランダの蔭に坐るのだつたから。
六月の初めのとある夕べ、私は、メァリー・アンと一緒に大變おそくまで森の中にゐたことがあつた。いつものやうに、私たちは、他の子供たちの群を離れて、遠く迄あちこちと歩いた――少し遠く迄だつたので、道に迷つてしまひ、たつた一軒ぽつつりと
建つてゐた小舍で、その森で樫の實を食べる
半野生の豚を飼つてゐる夫婦に、道を
訊かなければならないやうなことになつた。で、私たちが歸つて來た頃にはもう月が
昇つてゐた。お醫者樣のだといふ見覺えのある小馬が一匹、庭の小門の
傍にゐた。今時分、ベイツさんが呼ばれるといふのは、多分誰かゞ
甚く惡いのだと思ふとメァリー・アンが云つた。彼女は家に這入つた。私は、手にいつぱいある、森で掘つて來た根のついた草を、自分の花壇に植ゑる爲めに、二三分あとに殘つた、このまゝ朝まで置いては、
萎んでしまふかも知れないと思つたので。これを終へてから、私はまだ暫くぐづ/\してゐた。露が
下りたので花の群はとりわけ甘い香を放つて、非常に
温かく
和やかな、
快よい
[#「快よい」は底本では「快い」]夕暮であつた。まだ明るく輝いてゐる西の空は、明日の晴天を約束してゐた。月が莊嚴な東の空にかうがうしく昇つてゐた。かうした景色に眼を止めながら、私は子供らしく樂しんでゐたが、その時曾て心に入つたことのない
想念に襲はれたのであつた。
「いま病氣で寢てゐて、そしてもう生命が
危いなんて、どんなに悲しいことだらう! この世界は
愉しい――こゝから呼ばれて、どうしても誰も知らぬ所に行かなければならないなんて、どんなに寂しいだらう?」
そしてそれから、私の心は今迄に天國と地獄に關して聞かされて居たことを理解しようと、初めて熱心に考へ出した。さうして初めて
途方にくれ、困惑した。初めて身邊をあちこちぐる/\と見まはして、周圍はたゞ
測り知られぬ深い淵だと思つた。感じるのは立つたところの一點――現在ばかり、その
外はみな形のない雲とうつろな深みであつた。ぐら/\する、そしてあのはてしのない
混沌の
眞中へ、まつさかさまに落ちる、さう思つたとき、心は震へ上つた。この新らしい考へに沈み込んでゐる時、玄關の
扉の開く音がした、そしてベイツさんが一人の看護婦と一緒に現はれた。彼女は、馬に乘つて歸つてゆく醫師を見送つてしまふと、
扉を
閉めようとした。私はそこへ飛んで行つた。
「ヘレン・バーンズはどんななの?」
「心細いのよ。」といふ答であつた。
「ベイツさんが
診にいらしつたのはヘレンさんなの?」
「え。」
「そして何て仰しやつて?」
「先生はね、こゝにゐるのも、もう長くはあるまいつて仰しやつたわ。」
この言葉が昨日私の耳に這入つたのなら、私は彼女がノオサムバーランドの彼女の家に移されようとしてゐるのだといふ意味にだけとつたゞらう。それが彼女が死にかけてゐることを意味してゐるなどと疑ふよしもなかつたらう。だが今は、私はすぐに知つた。私の頭には、ヘレン・バーンズはもう死期が近づいたので、もしもそんな國があるならば、あの
精靈達の國へ連れ去られようとしてゐるのだといふことがはつきりと理解された。
身震ひするやうな恐怖に續いて、激しい
哀しみの戰慄が全身を走つた。そして、一つの願ひが生れた――私は、ヘレンに
會はなければならない。そこで、私は彼女の寢かされてゐる室を
訪ねた。
「テムプル先生のお室ですわ。」と、看護婦は云つた。
「私、行つて話をしてもいゝ?」
「いゝえ! 駄目よ。それにあなたも、もう家に入る時間ですよ。
夜露の
降りる時に外にゐると、チブスにかゝりますよ。」
看護婦は表玄關の
扉を
閉めた。私は教室の方に行くわきの入口から這入つたが、ちやうど時間に間に合つた。九時の
就床時間で、ミラア先生が生徒たちに就寢の號令を叫んでゐるところだつた。
それから二時間程後、多分十一時近くなのだらう、それ迄眠れなかつた私は、寄宿舍中がまつたくしんと靜まつたので、もうお友達はみんな深い安らかな眠りに包まれてしまつたのだと思つて、こつそり起き上つて、
寢間着の上に
上衣を引かけ、靴なしで
そつと寢室を忍び出た、そしてテムプル先生のお室を
搜しに出かけた。お室は
建物のまつたく反對の端にあつたけれども、私は道を知つてゐた。それに雲の影もない夏の夜の月の光が、あたりの廊下の窓から這入つて來て、苦もなく道を見つけられるやうにしてくれた。チブスの病室の近くまで來ると、
樟腦と焚いた香醋の
臭ひが警告するやうに私の鼻を
衝いた。私は、夜中起きてゐる看護婦に聞きつけられはしないかと恐れて、その室の
扉の前を素早く通り拔けた。私は、見つけられて、歸されるのが
怖かつた。私は、どうしても、ヘレンに逢はなければならなかつたから――どうしても、彼女が死ぬ前に彼女を抱きしめて、最後の
接吻をし、最後の言葉を
交さなければならなかつたから。
階段を
降り、階下の校舍の一部を横切り、それから二つの
扉を音を立てないやうに
巧く
開けて、また
閉めて、別の階段の所まで來た。そこを
昇ると、ちやうど私の正面にあるのがテムプル先生のお室であつた。
鍵穴と
扉の下から、光が一
條洩れてゐるばかりで、深い靜けさがあたりに浸潤してゐた。近づいて見ると、
扉が
細目に開いてゐる。多分、
閉め切つた病室に、
清淨な空氣を通はせる爲めであらう。ぐづ/\してゐる氣になれず、とても我慢出來ない程胸が一杯になつてゐた私は――精神的にも肉體的にも鋭い痛みを感じてぶる/\震へながら――
扉を
内へ押して
覗きこんだ。私の眼は、ヘレンを探し、死を發見することを恐れた。
テムプル先生の寢臺に近く、そのまつ白なカァテンに半ば
覆はれて、小さな子供用の寢臺があつた。その
掛布團の下には人の型の輪郭が見えるけれど、顏はカァテンの蔭にかくされてゐた。先程私が庭で話をした看護婦が、安樂椅子に腰を掛けて眠つて居り、
卓子の上には
芯を切らない蝋燭が仄暗くゆらめいてゐた。テムプル先生の姿は見えなかつた。後になつて知つたのだが、その時、彼女は、チブスの病室の意識を失つた患者の方に呼ばれてゐたのであつた。私は、進み入つて、寢臺の側に立ち止つた。私の手はカァテンにかゝつた。しかし、そのカァテンを
開ける前に、私は聲をかけることにした。私は、まだ死骸を見るのが恐しくて、びく/\してゐた。
「ヘレン!」と私は
そつと囁いた。「起きてゐて?」
彼女は身じろぎして、自分でカァテンを
除けた、
蒼白く衰へた、しかし、まつたく安らかな彼女の顏を見ると、私の心配は直ぐ消えてしまつた。それほど、彼女は、變つてゐないやうに見えた。
「ま、あなたなの、ジエィン?」と彼女はその持前の靜かな
聲音で
訊ねた。
「おゝ!」と私は思つた。「この人は死にかけてゐない、みんなは勘違ひしてゐるんだ。もしさうなら、こんなに靜かに話したり、眺めたり出來る筈がないもの。」
私は、
寢臺に近づいて、彼女に接吻した。彼女の
額は冷たく、双頬も冷たく、そして痩せてゐた、手も
手頸も冷たく細つてゐた。けれども彼女はいつものやうに
微笑んだ。
「
何故此處へ來たの、ジエィン? もう十一時過ぎよ、ちよつと前に、打つてゐるのが聞えたから。」
「あなたをお見舞に來たのよ、ヘレン。あなたがひどく惡いつて聞いて、あなたに
逢つて話をしないうちは、寢られないの。」
「ぢや、私にさよならを云ひに來てくれたのね。ちやうど間に合つたんだわ、多分ね。」
「あなた、何處かへ行くの、ヘレン? お家へ歸るの?」
「えゝ。私の永遠の家へ――私の最後の家へ。」
「
厭よ、厭よ、ヘレン!」私は胸が一杯になり、何も云へなくなつた。私が泣くまいと懸命になつてゐる間に、ヘレンには
咳の
發作が起つた。しかし、その爲めに看護婦の眼を醒すやうなことはなかつた。
發作が止むと暫くの間、彼女は疲れ果てゝ横になつてゐたが、それから小聲で云つた――「ジエィン、あなたの足はむきだしなのね、此處で横になつて、私のお
布團でお包みなさい。」
私はその通りにした。彼女は私に腕をまはし、私は彼女の側に巣食ふやうにすり寄つた。長い沈默の後に、彼女は、矢張り囁くやうな聲で、また話し初めた――
「私は本當に幸福なのよ、ジエィン。ですから、私が死んだことを聞いても、あなたは、しつかりして悲しまないで頂戴。悲しいことは何もありはしないの。私たちはみんな、何時か死なゝければならないのだし、私を連れて行く病氣はひどく苦しくない、
穩かな漸進的なものなの。私の氣持も安らかよ。私には、私のことをひどく惜しんでくれるやうな人は誰もないの、父さんはゐらつしやるのだけれど、この間結婚なすつたのだし、私がゐなくなつて、お困りになることもないでせう。若くて死ぬお蔭で、私は澤山の苦しみを免かれると思ふの。私には、この世の中で
偉くなれるやうな素質もないし、才能もないし、生きてゐてもきつと
過ちを續けるばかりだと思ふわ。」
「だけど、何處へ行くの、ヘレン? あなたに見える? 知つてるの?」
「信じるのよ。私は信仰を持つてゐるの。私は神樣のお
側へ行くのよ。」
「神樣つて何處にゐらつしやるの? どういふ
方なの?」
「私やあなたの造り主で、その
方は、御自分のお
創りになつたものは決してお
滅しにならないの。私は、すつかり、その方のお力にお
任せしてゐるのよ、そして何もかも、その方のお
慈しみに
頼つてゐるわけなのよ。私はねえ、私を神樣に
還し、神樣を私に
顯してくれる、大事な時が來るまで、時間を數へてゐればいゝの。」
「ではヘレン、あなたは、天國のやうな處が在つて、私たちが死ねば魂がそこへ行けると思ふの?」
「未來の國は、確かに在ると思ふの。私は、神樣は善しと信じて、何の心配もなしに、私の中の滅びないものを神樣にお
任せすることが出來るのよ。神樣は、私のお父樣でお友達なの、私は神樣を愛してゐるの、神樣もきつと私を愛して下さると思ふのよ。」
「では、ヘレン、私も死ねば、またあなたに逢へて?」
「あなたも、その同じ幸福の國に來られますとも。同じ偉大な、宇宙のお父樣の手に受け入れられて。ほんたうにさうよ、ジエィン。」
もう一度、私は質問した、が、今度はたゞ心の中で「何處にそんな國があるの? 實際にあるの?」さうして、私は、もつとしつかりと、ヘレンを抱き締めた。ヘレンは今迄よりも一層いとしく思はれ、とても彼女を離すことは出來ないと思つた。私は、顏を彼女の襟もとに隱して、横になつてゐた。間もなく、彼女は限りなく優しい調子で云つた――
「まあ、いゝ氣持ちだこと!――
先程の
咳の
發作で少し疲れたわ。何だか眠れさうよ、でも行つてしまつては厭よ、ジエィン。私、あなたに側にゐてもらひたいの。」
「あなたの側にゐるわ、大好きなヘレン。大丈夫、誰も連れに來はしないわ。」
「暖かい、あんた?」
「えゝ。」
「ぢや、おやすみ、ジエィン。」
「おやすみ、ヘレン。」
彼女は私に、私は彼女に接吻した。そして、私たちは、二人とも、直ぐ安らかに眠つた。
私が眼を
醒すと朝であつた。異常な動搖に氣が付いて見上げると、私は誰かの腕の中に居た。それは看護婦が私を抱いて、廊下傳ひに寄宿舍の方へ連れて歸るところだつた。私は
寢床を脱け出したことで叱られなかつた。みんなは、何か考へてゐることがあるらしく、私の澤山な質問に對して、何の説明も與へなかつた。しかし一日か二日後に、初めて、私はその
顛末を聞かされた。テムプル先生が夜明け方、お室に歸つていらつしやると、顏をヘレン・バーンズの肩に押し付け、兩手を彼女の
頸に

したまゝ、あの小さな
寢臺に寢てゐた私をお見付けになつたのであつた。私は眠り、ヘレンは――死んでゐた。
ヘレンの墓は、ブロクルブリッヂ教會の墓地にある。彼女の死後十五年間は、たゞ草の
生茂つた土饅頭であつたが、今は、彼女の名と『われ再び生きむ。』の一句を
刻んだ灰色の大理石の石碑が、その場處を
印してゐる。
今迄私は私の
些々たる生活の出來事を詳細に亙つて記し、私の生涯の最初の十年の爲めに殆んど同數の章を
費した。しかしこれは普通の自叙傳となるべきものではない。私は、自分の記憶に尋ねてみて、いくらか興味があると思はれる時に、私の記憶を思ひ起せばいゝのだ。だから私は八年間といふものを今殆んど何も云ふ事なしに經過させる。たゞ前後の
聯絡の爲めに數行だけが必要である。
あのチブスは、ローウッドで傳染の使命を
果すと、次第に衰へて行つた。しかしそのうちに病氣の害毒と犧牲者の數とが學校に世間の注意を惹くやうな結果を齎した。この疫病の原因が
査べられたが、さうすると次ぎ/\と色々な事實が現はれて來た爲めに世間の人々の憤怒は極度に達したのである。場所が不健康地だといふこと、子供達の食物の質と量、それを拵へるために用ひられた鹽分のある臭い水、生徒達の
慘めな着物や設備、これらのすべてが暴露された、そしてその結果は、ブロクルハースト氏の面目を失はせてしまふものであつたが、しかし學校にとつては好結果となつた。
その土地の裕福な情深い人々が五六人で、もつといゝ場所にもつと設備のいゝ
建物を建てる爲めに澤山の寄附を約束したのである。新しい規則が作られ、食物や
被服の改善が始められ、學校の
基金は委員の處理に
委された。ブロクルハースト氏はその富と家族的關係との爲めに見落されないで矢張り會計係になつてゐたが、しかし彼はより寛大な同情心のある人々に助けられながら自分の
務を遂行するのだつた。彼の監督の役目もまた、道理と嚴格とを、慰安と經濟とを、
憐憫と
[#「憐憫と」は底本では「隣憫と」]誠實とをどんな工合に組合せるかといふ事を知つてゐる人々との協力で行はれた。このやうに改善され、暫くたつ内に、學校はほんたうに有用な品位あるものとなつた。私は、
更新の後八年間――六年は生徒として二年は教師として、こゝに留つてゐた。その兩方の資格で、私はローウッド學校の徳と眞價を證明することが出來る。
この八年の間、私の生活は、變化に
乏しいものではあつたが、
不幸福ではなかつた。何故なら、それは
無爲な生活ではなかつたから。私は自分の手の屆く限りの
優れた教育を受ける道を講じた。ある若干の學課に對する特別な
執心や、總ての點で卓越したいといふ望みなどが、先生たちを、特に好きな先生を喜ばせる大きな嬉しさと一緒になつて、私を勵ました。私は、自分に與へられた恩典を十分に利用した。やがて、私は最上級の第一の少女となり、次には、先生の職に任ぜられた。それを私は熱心に二ヶ年の間
果したが、やがて變化がやつて來た。
かうした
種々な變化の中にも、テムプル先生は、學校の監督を續けて來てゐた。私の學び得たものゝうちで、最もよい部分は彼女の教育に負うてゐる。彼女の友情と
交りとは、いつも私の慰めだつた。彼女は私の爲めには、お母さんにも、家庭教師にも、また後には友達にもなつてくれた。その頃彼女は結婚して、夫(牧師で、立派な人で、彼女のやうな賢妻にふさはしい程の人だ)と共に遠い國へ行つてしまつた。隨つて彼女は私からは失はれてしまつたのだ。
彼女が行つてしまつた日以來、私は以前の私ではなくなつた。私にとつて、ある程度までローウッドを
家庭のやうに思はせてゐた聯想も、落着いた氣持も、彼女と一緒に行つてしまつた。私は、彼女の性質の幾分を、また彼女の習慣の多くを、彼女から吸ひとつて自分のものとした。もつと調和された
[#「調和された」は底本では「調和さられた」]思想と、もつと
節度のある感情と思はれるものが、私の心に巣喰ふやうになつた。私は、義務と命令とに忠順であることを誓つてゐた。私は、靜かで、自分は滿足してゐると信じてゐた。他人の眼にも、また大抵の時は、私自身の眼にさへ、私は訓練された從順な人間のやうに見えたのであつた。
しかし運命は、ネイズミス牧師の姿となつて、私とテムプル先生の間に割込んだ。結婚式後間もなく、旅行服を着て驛馬車の中へ乘り込む彼女を私は見た。丘を登つて、その丘の
彼方へ消えてゆく馬車を私は見守つてゐた。それから、自分の部屋に引込んで、今日のお祝ひの爲めの半休日を、大方寂しくひとりぽつちで、送つたのであつた。
そのあひだ、私は殆んど部屋の中を歩き

つてゐた。私は、自分がたゞなくしたものを悲しみ、どうしてそれを
償ふべきかと考へてゐるのだと想つてゐた。けれども、私の默想が終つて、私が目を上げて、午後が過ぎ去り、すつかり夕方になつてゐるのを見た時、また別の發見が、私の心にほの/″\と白み初めた。すなはち、その間に、私は變化の道程にあつたのだ。私の心がテムプル先生に借りてゐたすべてのものを捨てゝ――といふよりも、私が彼女の傍で呼吸してゐた靜かな
雰圍氣を彼女が持つて行つてしまつて――さうして今、私は生れつきの自分の中に殘されて、もとの落着かない氣持ちを感じ始めてゐたのだ。それは
支柱が取り去られたといふよりも、まるで原動力がなくなつてしまつたやうなものだつた。靜穩を支配する力が私を去つたといふよりも、靜穩なるべき理由がもはやなくなつてしまつたのであつた。私の世界は、幾年かの間ローウッドにあつて、私の經驗は、その規則や組織によるものだつた。今、私は、現實の世界は、廣く、さうして、希望と不安に充ちて居り、心を
焦だゝせるものや、
唆るものゝ、めまぐるしい曠野であつて、眞の生命の知識を探さうと危險を
冒して、そのひろ/″\とした中に進んでゆくだけの勇氣を持つてゐる人々を待つてゐるのだといふことを思ひ出した。
私は、窓へ行つて、開けて外を見た。
建物の兩翼があり庭があり、ローウッドの森の
裾があつた、
起伏した地平線もあつた。私の眼はさま/″\なものを越えて、一番遠いまつ青な連峯の上に止まつた。私が登りたいと
憧憬れてゐたのはこれであつた。岩やヒースの境界線のこちらはどこもみな、牢獄の庭に、流謫の地に見えた。私は、一つの山の麓をぐる/\

つて、
山峽に消えてゆく白い道を、眼で辿つて見た。どんなにか私はその道をもつと遠くまでつけて行きたいと思つたらう! 私は、あの道を馬車に乘つて旅行した時のことを想ひ起した。あの丘を夕暮時に下つたことも思ひ出した。私がはじめてローウッドに來た日から、一世紀も
經つたやうに思はれるのに、私はその間中一度も、こゝを離れたことはなかつた。休暇はすつかり學校で過した。リード夫人は一度だつて私をゲィツヘッドへ
招んでくれたことはなかつた、彼女もその家族も誰一人として、私に會ひにくるやうなことはなかつた。手紙や使ひによつて外の世界との交通を一度もしたことはなかつた。學校の規則、學校の義務、學校の習慣と考へ方、それから學校内の人の聲、顏、言葉つき、服裝、好き嫌ひ――こんなものが現實の生活に就いて、私の知つてゐるすべてだつた。さうして今、私は、それでは十分ではないと感じたのである。私は、八年の間の
慣例に、たつた半日であき/\してしまつた。私は自由を欲した。自由に
喘いだ。自由の爲めに祈を
誦へた。だが、それは、その時
微かに吹いてゐた風に乘つて、飛び散つてしまつたやうに思はれた。で、私はその祈を止めて、變化と刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、86-下-13]を求めて、もつと
謙遜つた嘆願をした。その嘆願もまた、茫漠とした空間の中に吹き拂はれてしまつたやうに思はれた。「では」と私は、半ば絶望的に叫んだ。「せめて、新しき奉仕を與へ給へ。」
この時、夕食時間の
呼鈴が鳴つて私は階下に呼ばれた。
瞑想の中斷された鎖は、就寢時間までつなぐことは出來なかつた。その時間になつてもまだ、私と同じ部屋にゐる一人の教師が、つまらない話を、長たらしく、くど/\と話しかけて、再び考へてみたくて仕方のない
事柄を考へさせては呉れなかつた。私は、彼女が默つて眠つて了ふようにと、どんなに願つたことだらう。私が窓の傍に立つてゐた時に、最後に心に浮かんで來たあの
想念に歸つてゆくことさへ出來たら、何か思ひつきな智慧が、私を救ひに來てくれさうな氣がするのだつた。
とう/\グライスさんは、
鼾をかいた。彼女はウエィルス生れの大きな婦人で、これまでは彼女の例の
鼾がうるさいものとしか思ひやうがなかつたのだけれど、今夜の私は、最初の太い響きを滿足をもつて
歡迎へた。これで邪魔もなくなつたので、半分消えかけてゐた私の想念は、忽ちに
甦つて來た。
「新らしい奉仕! その言葉には何かゞ含まれてゐる。」と私は
獨言つた(心の中で、といふ意味で、聲には出さなかつた)。「何かゞ含まれてゐることは分る。何故なら、それは餘り快くはひゞかないから。それは、『自由』、『興奮』、『快樂』などゝ云ふ言葉ではない――本當にうれしい響だ。が、私には響以上の何ものでもないのだ。そして空虚で、變り易いので、そんな言葉を聞くのは、時間
潰しに過ぎないのだ。だが『奉仕』! それは、確かな事實でなくてはならないのだ。誰だつて奉仕は出來る。私は此處で八年間使はれて來た。今私の望みは、何處か
他に勤めることだ。そこまで自分の意志を
徹すことは出來ないのか? それは實行し得ることではないのか? 出來る! 出來る――もし私にその意志を
徹す方法を探し出すだけの
敏活な頭さへあつたら、目的はさう困難ではない筈だ。」
私は、さうした能力を呼び
醒すつもりで、床の上に起き上つた。寒い夜だつた。私はショールで肩を包み、それからまた、あらん限りの努力で
考へを續けた。
「私は何を望むのか? 新しい境遇の下に、新しい家の中の、新しい顏にかこまれた、新しい地位を。これ以上のものを望んでもだめだと思へばこそ、これを望むのだ。みんなどういふ風にして、新しい地位を探すのかしら? 多分お友達に頼むのだらう。私にはお友達がない。お友達がなく、自分で
食つて、自分で自分を助けてゆかねばならない人が、
たんとあるのだ。では、その人たちはどうするのだらう?」
私には解らなかつた、何も答へられなかつた。そこで私は、私の
頭腦に、その返答を速く探せ、と命令した。
頭腦は、次第に
速く働き出した。私は、頭にも
顳
にも脈打つのを感じた。しかし、殆んど一時間近くも、混亂の内に働いたばかりで、その努力からは何等の結果も生れなかつた。
空しい努力に熱つぽくなつて、私は、起き上つて、室を一周りした。窓掛を絞つて、一つか二つの星を見ると、寒さに身震ひして、また床の中に這入つた。
親切な
妖精が、私のゐない間に、きつと、私の求めた智慧を枕の上に置いてくれたのだらう。と云ふのは、私が横になると、靜かに、ひとりでに心に浮かんで來たから。「仕事の欲しい人たちは廣告をする。お前も廣告をするのだ、××州報知に。」
「どういふ風に? 廣告のことは、私は何にも知らない。」
今度は、忽ちすら/\と答へが來た。「廣告文とその代金を××州報知の主筆に宛てた封筒に入れて、機會のあり次第、ロートンのポストに入れるのだ。返事はロートンの局留にして、J・E
宛でなくてはいけない、手紙を出して一週間ほど
經つたら、行つて何か來てるかどうか
訊いて見ればいゝ。そしてそれによつて行動するのだ。」
この方法を私は二度も三度も頭の中で繰り返した。それは心の中で消化されてしまつた。私はそれをはつきりした實際的な形で
會得した。私は滿足して
眠入つた。
翌朝早く目を醒すと、私は廣告を書いて起床の
呼鈴が鳴る前に封をし、
宛名を
認めた。それは次の通りである――
「教授に經驗ある若き婦人」(私は二年間先生をして來たではないか)「十四歳以下の子供を有する家庭に就職せんことを望む。」(私は自分がやつと十八だつたので、それ以上私の年に近い子供の指導を引受けることは出來ないだらうと思つた)。「彼女は正則英國教育の普通科目と共に佛蘭西語、畫、音樂をも教へ得る資格を有す」(讀者よ、今思ふと貧弱な簡單なこの才能の目録が、その頃は可成多方面にわたるものだつた)。「××州郵便局、J・E宛」
この書きものは、終日、机の
抽斗の中に
鍵をかけられて這入つてゐた。お茶の後で、私は、自分の用と仲間の教師の一寸した用をかねて、ロートンへ行きたいと、新任の學監に外出を願つた。すぐに
許可が下つたので、私は出かけた。道は二
哩で、雨模樣の夕方ではあつたが、日はまだ長かつた。私は、一二軒の店に立寄り、手紙をポストに滑らせると、ひどい雨の中を、
上衣を
びしよ濡れにして、しかし
ほつとした心持ちで歸つて來た。
次の週が、何だか長く思はれた。しかし、地上の總てのものと同じやうに、それにも遂に終りが來た。そしてもう一度、
心地よい秋のある暮方、私はロートンへの路を歩いてゐた。途中は小川の
縁に沿ひ、谷の美しい
曲折の間を縫ふ畫のやうな路であつた。けれどもその日は、草地や流れの美しさよりも、目的の小さな町に私を待つてゐるかも知れない――また待つてゐないかも知れない手紙のことに、私はよけい氣をとられてゐた。
この時の私の
表向きの用事は、靴を
誂へる爲めに寸法をとらせることだつた。で、私は、最初にその用を
濟してしまつてから、
清潔で靜かな小さい通りを、靴屋から郵便局へと歩いて行つた。そこには、鼻の上に
鼈甲縁の
眼鏡をかけ、黒い
手套をはめた老婦人が事務を
執つてゐた。
「J・E宛の手紙が來てませんか。」私は
訊いた。
彼女は、眼鏡越しに私を
覗いて、それから
抽斗を開け、その中味を長い間――あんまり長くて私の望みもぐらつき出した位長く、かき探した。やつと一通の手紙を
眼鏡の前に五分間も持ち上げて見て、もう一度、
穿鑿するやうな、信用しないやうな目付をくれて、それを窓越しに私に差出した――それはJ・Eに宛てたものであつた。
「一
通きりですか?」と私は
訊ねた。
「もうありませんよ。」と彼女は云つた。で、私はそれをポケットにしまつて、すぐ歸途についた。開封する暇がなかつたのだ。私は八時までに歸らなくてはならない規則で、もう七時半を過ぎてゐたのだ。
歸ると樣々の仕事が私を待つてゐた。勉強時間中は子供たちと一緒にゐなくてはならなかつたし、それから、今日はお祈を
誦み、みんなを寢かす番に當つてゐた。その後で私は他の先生たちと一緒に夕食を
濟した。いよ/\寢室へ入つた時にも、例のグライスさんが、私と一緒だつた。蝋燭臺には、ほんのぽつちりしか蝋燭がないので、燃え盡きるまで話し込まれてはと、私は氣が氣ぢやなかつた。だが、幸にして、彼女の
攝つた多量の夕食は、催眠の効をあらはした。私が着物を
脱いでしまはないうちに、もう彼女は、
鼾をかいてゐた。蝋燭は、まだ一
吋ばかし殘つてゐた。そこで私は、手紙を取り出した。封印は
頭文字のFだ。封を切つて見ると、内容は簡單だつた。
「先週の木曜日、××州報知に廣告なされしJ・E樣が記載の才能を所有なされ候はゞ、また、その方が人格及び資格に關して十分なる證明書をお示し下され候はゞ、たゞ一人の子供のみなる家庭に於てその方に地位を提供すべく候――十歳未滿の小さき娘に候。俸給は年三十
磅に御座候。××州、ミルコオトに近きソーンフィールド、フェアファックス夫人
宛に證明書、姓名、住所及びすべて詳細を御送附被下度願上候。」
私は、長い間、書面を
調べた。筆蹟は、
年老つた婦人のものらしく舊式で、どちらかと云へば
覺束ない方であつた。この
條件はまづ申分がなかつた。が、かういふ風に、自分自身の爲めに行動し、自分自身の指導によつて、何か困難に陷るやうな危險に走つてゐるのではあるまいか、といふ
祕かな恐れが、私の心を惱ました。そして何を措いても、私の努力の結果が、恥かしくない、適當な、正式なものであるようにと願つた。年を
老つた婦人といふのは、私がしようとしてゐる仕事にとつて、決して惡いものではないと私は思つた。フェアファックス夫人! 私は黒い
上衣を着、未亡人の帽子を被つた――多分冷淡な、しかし
無作法な程ではない彼女、年老いた英吉利人の尊敬すべき人物の型を想像した。ソオンフィールド! それは、疑ひもなく、彼女の家の名である――きつと小綺麗な、きちんとした處だらう。けれどいくら考へても、庭園や附屬館のある
邸の
構を、
明瞭した圖に描くことは出來なかつた。××州・ミルコオト。私は英吉利の地圖の記憶を掻き探した。さうだ、その州もその町も兩方共、私は見たことがある。××州が、今私が住んでゐる引込んだ田舍よりも七十
哩も
倫敦に近いといふことは、私には好都合だ。活氣ある町に行きたかつた。ミルコオトは、A河の岸にある大工業地で、隨分賑やかな處に違ひない、賑やかであればある程いゝ。少くとも、完全な變化にはなるだらう。私は、高い煙突や、濛々とした煙などに、心を惹かれたのではない。
「だけど、」と私は云つた。「ソーンフィールドは、きつと街からは可成りあるだらう。」
この時、蝋が落ちて、
芯が消えた。
次の日は、新らしい一歩を踏み出さなければならなかつた。私の計畫は、もう私の胸にしまつて置けないのだ。その成功をつかむためには、實行に移さなくてはならない。お晝休みに學監を探して、私は現在の二倍の俸給で、新らしい地位を得る
當のあることを話した。(ローウッドでは年に十五
磅しか貰つてゐなかつたから。)そしてその事をブロクルハースト氏かまたは委員の誰かに話して、彼等を私の保證人として先方に名前を通じても、いゝかどうか確かめて下さいと頼んだ。彼女は、深切にも
執成方になつて、このことに盡さうと承諾した。その次の日、彼女が
委細をブロクルハースト氏の前に持ち出すと、彼は、リード夫人が私の元々の保護者であるから、彼女に手紙を出さねばならぬと云つた。そこで、彼の言に從つて、私は、短い手紙を彼女に送つた。返事として、彼女は、私の一身上の
事柄に就いては、もう久しい間干渉しないことにしてゐるから、私の好きなやうにしていゝと云つて來た。この手紙は委員一同に

された、そしてやつとのことで、私にとつてはこれ以上我慢のならないほど遲れて、もしも私に出來るのなら、私の地位を向上せよといふ正式の
許可が下つた。そしてローウッドで、私は、いつもよい生徒であり、よい教師であつた故に、監理者の署名した、人物と才能に就いての保證書を
直ちに與へるといふ保證が附け加へられた。
かういふ次第で、私はこの保證書を一月ばかりのちに受取つた。そして、その
寫しをフェアファックス夫人に送り、彼女が滿足したといふこと、それから私が彼女の家で家庭教師の役目を引受けるまでの準備の期間を二週間と
決めたといふその返事を受け取つた。
私は直ちに準備に
忙しかつた。二週間は
瞬く間にたつてしまつた。私は、たいして大きな衣裳箪笥は持たなかつた。けれども、それで十分
間に合つた。最後の日はトランク――それは八年前にゲィツヘッドから持つて來たものだ――を
拵へるのに終日かゝつた。
箱は、紐をかけられ、
名札が打ちつけられた。半時間たつと、それをロートンへ運ばせる爲めに運送屋が呼びに遣られた。そこへ私は次の朝早く出かけて
乘合馬車に出會ふことになつてゐた。私は黒い毛織の旅行服に
刷毛をかけ、帽子と
手套とマフとを用意し、何も後に殘らないようにと
抽斗全部を改めて、全く、もう何もすることがなくなつたので腰かけて休まうとした。が、私は休めなかつた。終日立ちつくしてゐたのに、さて休まうとすると、しばらくも休むことが出來なかつた。私はすつかり昂奮しすぎてゐた。私の生涯の一局面が今晩閉ぢようとし、新らしい生活が明日開かれようとしてゐるのだ。その
幕間に眠るなんてとても出來ない。變化が完成されてゆく間は、私は不安な氣持で、じつと見まもつてゐなくてはならないと思つたのだ。
「先生、」と
控室で、私に出逢つた召使ひが云つた。そのとき、私は迷つた靈魂のやうに、うろ/\、歩き

つてゐた。「
誰方か、下でお目にかゝりたいと仰しやつていらつしやいます。」
「運送屋だ、きつと」とさう思つて、
訊き返しもせずに、階下へ走つて行つた。私は、半分
扉の開いた、裏客間でもあり、教師たちの居間でもある室を、臺所の方へ行かうと通りかけた。その時、誰かゞ走り出て來た。
「あの方だわ、ちがひないわ!――どこでだつて、私はお見それすることはないんですもの。」と叫んで、その人は、
行手を遮つて、私の手をとつた。
私は見た。
晴着を着た、女中のやうな
裝をした、お
内儀さん風の、まだ若くて大層
縹緻のよい、髮と眼の黒い、
活々とした顏色の女だ。
「さあ、誰でせう?」と彼女は、私が半ば思ひ出しかけてゐる
聲音と微笑で
訊いた。「まさか、すつかりお忘れになつたのぢやないでせうねえ、ジエィンさん?」
次の瞬間には、私は夢中になつて彼女を抱いて接吻してゐた。「ベシー! ベシー! ベシー!」それより外には何も云へなかつた。すると、彼女も、笑つたり泣いたりした。私たちは客間に這入つた。火の傍には、三歳位の小さい男の子が
格子縞羅紗の
上衣とズボンを着て立つてゐた。
「あれは私の
ちびですの。」ベシーは直ぐに云つた。
「ぢあ、あなたは結婚したのね、ベシー?」
「えゝ、もう五年にもなりますよ、馭者のロバァト・レヴンのところへね。あのボビィの外にもう一人小さい女の子があるのですよ、その子はジエィンとつけてやりました。」
「では、あなたは、ゲィツヘッドにゐないの?」
「私共は、門番の
爺さんが殘していつた、あの小屋に住んでゐますの。」
「さう、そしてみんなはどうしてゐて? あの人たちのことをすつかり話して頂戴な、ベシー。だけど、まあおかけなさいな。それからボビィちやんも私のお膝に來ない、え?」けれどもボビィは、母親の方に
滑り込んでしまつた。
「あんまり大きくなつてゐらつしやいませんねえジエィンさん。あんまり丈夫さうにもねえ。」レヴン夫人は續けて云つた。「きつと學校で、あんまりよくしてくれなかつたのでせう。リードのお孃さんは、頭と肩位、あなたより高うござんすよ。それからヂョウジアァナお孃さんは、あなたの二倍位幅がありますよ。」
「ヂョウジアァナは
綺麗でせうねベシー。」
「えゝ隨分。去年の冬お母樣と御一緒に倫敦にいらつしやいましたがね、あつちで誰も彼もの評判におなりになつて、ある若い貴族の方に想はれなすつたのですつて。でもその方の御親類がその御結婚には反對でねえ。で――どうでせう――その方とジョウジアァナお孃さんとは
駈落しておしまひになつたのですよ。ですがお二人は見付かつて駄目になつちまひました。お二人を見付け出したのはリードお孃さんなんですよ。
嫉けたんですわ、きつと。そしてこの頃ぢあ、あの方とお妹さんとはお互に犬と猫の寄り合ひみたいでね、
始終喧嘩ばかししてゐらつしやるのですよ。」
「まあ、ぢや、ジョン・リードはどうなの?」
「あゝ、あの方もお母樣が望んでゐらしつたやうにはゆきませんの。大學へいらしつたんですが――落第つて云ふんですか、なんでもそんなことでね。で、叔父樣が辯護士になるやうに法律をやれつて仰しやつたのですけれど、あんな放蕩息子でせう、叔父樣方は大して力を入れないでせうと思ひますわ。」
「どんな
風貌なの?」
「隨分お脊が高いのですよ。立派な若者だつて云ふ人もありますけど、あの厚い唇ではねえ。」
「ぢや、リード夫人は?」
「奧さまはお見かけしたところ、お丈夫さうで、上べは申分のないやうに見えますが、お心の中は、さうお樂でもございすまい。ジョンさんのなさることが、お氣に入らないのです――とてもお金づかひが荒いんですの。」
「リード夫人があなたをこゝへよこしたの? ベシー?」
「いゝえ、どういたしまして。私はもう、長いことあなたにお目にかゝりたくつてね、そこへちやうど、あなたからお
便りがあつて、今度
他所へいらつしやるやうなことをうかゞひましたから、早速出かけて、もうまるつきりお目にかゝれなくならない内に、一目お
逢ひしなけれやと思ひましたの。」
「あんたが、私にがつかりしなければいゝけれど。ねえ、ベシー。」かう、私は笑ひ乍ら云つた。ベシーの
眼差が尊敬を
表はしてはゐたが、賞讃を示す容子の毫もないのが、私にはわかつたので。
「いゝえ、ジエィンさん、さうでもありません。あなたは、それはお上品で、貴婦人らしくお見えですよ。せんからさういふ風におなりだらうと思つてゐましたの。お小さいときは、お
綺麗ぢやアありませんでしたけど。」
私はベシーの率直な答へに
微笑んだ。私はその通りだつたとは思つたが、しかし白状すれば、私はその意味に對して全然無頓着ではゐられなかつた。十八といふ年頃には誰でも人によろこばれたいものだ、だから、その望みを助けてくれさうもない容貌を自分が持つてゐるのだと思ふと、さつぱり嬉しくはないのだ。
「でもあなたは、きつと御發明でゐらつしやるでせう。」と慰めるやうに、ベシーは云つた。「何がお出來になります? ピアノは?」
「少しだけ。」
その室にはピアノがあつた。ベシーは傍へ行つて、蓋を開けて、それから私に、こゝへ來て一曲聞かせてくれと云つた。私は一つ二つワルツを
彈いた。彼女は感心した。
「リードの孃さまたちはとてもこれほど
彈けやしない!」と彼女は
雀躍して云つた。「私は
始終云つてゐたのですよ。あなたは、學問で、あの人たちをお
凌ぎになるだらうつてね。それから、畫はなさいますか?」
「あの爐棚の上のは、私が描いたの。」それは水彩の山水で、私の爲めに親切に委員の人たちが
執成してくれたお禮心に私が學監に
贈物にしたもので、それに
縁をつけ
硝子を嵌めたものだつた。
「まあ、これは綺麗ですこと、ジエィンさん! この
足下にも及ばないリードのお孃さん方はさておき、リードお孃さんの先生がお
描きになるのにも負けないくらゐ立派な畫ですわ。それから、佛蘭西語はなすつたのですか?」
「えゝ、ベシー、讀むことも話すことも兩方出來るのよ。」
「ぢや、モスリンやカン

スの刺繍は?」
「出來てよ。」
「まあ、あなたは、もう立派な貴婦人ですわ! ジエィンさん。あなたは、きつと、さうおなりになると思つてゐました。御親類が、あなたを大事になさらうとなさるまいと、あなたはちやんとやつてゆけますねえ。せんからお
訊ねしようと思つてゐましたが、お父樣の御親類のエア家の方から、何かお聞きになつたことはありませんか。」
「いゝえ一度も。」
「さうですか。奧さまはいつもその方々は貧乏で身分も大層低いやうに云つてゐらつしやいましたつけね、それは貧乏でゐらしつたかも知れませんが、お家柄はリード家ときつとおんなじ位立派だと思ひますよ。何日でしたか、もう七年も前に、エアといふ方があなたに會ひ度いとゲィツヘッドにいらしたことがありましたよ。奧さまがあなたは五十哩も離れた學校にゐらつしやると仰しやるとひどく
落膽なすつたやうでした。その方は外國へ旅行をなさる所で、一日か二日の内に
倫敦から船が出るといふので、お泊りになるわけにゆかなかつたのです。その方は本當に紳士らしい方でした。きつとあなたのお父樣の御兄弟でせうよ。」
「外國つて何處にいらつしやる所だつたの、ベシー?」
「何千
哩も離れた島で、
葡萄酒の出來る處だとかつて――料理番が教へてくれましたつけ――」
「マデイラ?」と、私は提言した。
「えゝ、さう/\、その通りでした。」
「それで、その方は行つておしまひになつたのね?」
「えゝ、お
邸の中には、ほんの暫くしか、ゐらつしやらなかつたのですよ。奧さまはその方をそれは高慢におあしらひになつて、後ではその方のことを『こそ/\商人』だと仰しやつたのですつて。
家のロバートはきつと
葡萄酒商人だつて云つてましたつけ。」
「きつとそこいらでせうね。でなけれや、大方その番頭か支配人かでせう。」
ベシーと私とは、一時間ばかりも昔の頃の事を語り合つてゐたが、やがて彼女は私に別れなければならなかつた。私は次の朝ロートンで馬車を待つ間また暫く彼女に會つた。私たちは
終に其處の「ブロクルハーストアームズ」の入口で別れて各々別の
途を取つた。彼女はゲィツヘッドへ彼女を連れ戻す車に會ふ爲めにローウッドフェルの頂きを
指して行き私はミルコオトの未知の環境に於ける新しい任務と、新しい生活へ私を運んで呉れる馬車に乘つたのであつた。
小説の新らしい章は、戲曲の新らしい場面のやうなものである。だから、この度、私が幕を上げると、讀者達よ、あなた方は、ミルコオトの「ジョオヂ旅館」の一室を御覽になつてるつもりでゐていたゞきたい。いかにも宿屋の部屋らしく、壁には、大きな模樣の壁紙を張つてあり、宿屋らしい敷物、家具、
爐棚の上の
飾物、ジョオヂ三世や、プリンス・オブ・ウエィルスの肖像を入れた
石版刷の畫、ウルフ大將の臨終の摸寫などがある。こんなものが、みんな天井から下つてゐる石油
洋燈の光と、私が外套と帽子のまゝ腰かけてゐる傍の、氣持ちのいゝ
煖爐の火で、あなた方に見える。私のマフと雨傘は、卓上に置いてある、さうして私は、十月の冷たい外氣に十六時間曝されて得た無感覺と冷たさを暖めてゐる。私がロートンを出發したのは、午前四時で、ミルコオト町の時計は、いまちやうど、八時を打つてゐる。
讀者よ。私は
心地よく
寛いでゐるやうに見えても、心の中は一向靜かではなかつた。馬車が、此處へ止まつた時、私は、誰か迎へに來てゐることだと思つた。私の名を呼ぶのが聞えるか、それとも馬車か何かゞ、私をソーンフィールドに運ぶ爲めに待つてゐるのが見えるかと、宿の下足番が足場のいゝやうに置いてくれた木の
踏臺を下りた時、私は、氣づかはしく
四邊を見まはした。だが、それらしいものは何んにも見えなかつた。また、もしかして、誰かゞミス・エアを尋ねてはゐなかつたかと給仕に
訊いたけれど、答は
否といふのだつた。で、私は部屋へ案内するようにと云ふより外に仕方がなかつた。さうして、樣々の
疑惑や心配に心を亂されながら、こゝに私は待つてゐるのだ。
あらゆる關係の綱を絶たれ、目ざす港へは行きつけるかどうかわからず、樣々の障害の爲めに以前のところへ歸つてゆくことも出來ず、世の中にたつた一人だと感じることは、未經驗な若いものにとつて、まつたく變な氣持である。冒險の魅力がその氣持を愉快なものにし、誇りの輝きがそれを温める。けれども、同時に恐しさの
動悸がそれをかき
擾す。一時間たつてもまだ獨りきりだつた時、恐怖は勝を占めてしまつた。私は
呼鈴を鳴らさうと思つた。
「この近くに、ソーンフィールドつて處がありますか?」と私は、呼ばれてやつて來た給仕に向つて
訊いた。
「ソーンフィールドでございますか。さあ、私は存じませんが、帳場で
訊いて參りませう。」彼は消えたが、直ぐまた現れた――「あなたさまは、エアさまと仰有いますか、お孃さま?」
「えゝ。」
「
誰方か、こちらでお待ちでございます。」
私は、飛び上つて、マフと雨傘を取ると宿屋の廊下へ急いだ。一人の男が開け放した
[#「開け放した」は底本では「聞け放した」]戸の傍に立つてゐて、
洋燈の
點つた
通りには、一頭立の馬車が微かに見えた。
「これはあなたのお荷物ですな?」と、その男は、私を見て、廊下にある私のトランクを指しながら、幾分ぶつきら棒に云つた。
「えゝ。」
彼は、その馬車にそれを引き上げた、それから、私も乘つた。彼が私を
閉め込んでしまはないうちに、私は、ソーンフィールドまでどの位あるかと訊ねてみた。
「六
哩位のものでせう。」
「あちらに着くまでに、どれ位かゝりますかしら?」
「一時間半ほどです。」
彼は車の
扉を
閉めて、外側の自分の席に坐つた。私たちは出發した。私たちの進行は
遲々たるもので、十分物を考へる暇があつた。旅もやうやく終りに近づいて來たのが、私には嬉しかつた。
優雅な造りではないが、結構
居心地のいゝ乘物に背中を
凭せかけて、私は樂な氣持で、いろ/\なことを考へてゐた。
「多分、」と私は思つた。「召使ひや馬車の質素なことから判斷すると、フェアファックス夫人はさう
華美な人ではないだらう。さうあればあるほど結構だ。私は、たつた一度しか、華美な人たちと一緒に暮したことはない。さうして、その人たちと一緒にゐた時は、隨分
慘めだつた。その小さな孃さんの
他には、彼女は、たつたひとりで住んでゐるのかしら。もしさうなら、またもし彼女がいくらかでも優しいのだつたら、私はきつと彼女と一緒にやつて行けるに違ひない。私は出來るだけやつてみよう。最善を盡しさへすればいつでもその
甲斐があるとは云へないのは、悲しいことだが。ローウッドでは、ほんとに決心して、それを守つて喜ばせることに成功した。でも、リード夫人の時には、私が最善を盡してやつても、いつも
輕蔑をもつて、鼻であしらはれてゐたことを覺えてゐる。私は、どうかフェアファックス夫人が、第二のリード夫人にならないように神樣に祈る。でも、もしか、フェアファックス夫人が、そんなことをするとしたら、私は、ゐさせようたつて、一緒にはゐない。
切破つまれば、私はまた廣告することが出來るのだ。だけど、道は、もうどれ位來たのかしら?」
私は、窓蔽ひを下して外を見た。ミルコオトは私たちの
背後にあつた。
燈火の數で判斷すると、かなり大きいが、ロートンよりはずつと大きい處のやうに見えた。私の見る限りでは、私たちは、今共有地らしい處にゐた。しかし、そこには家が散在してゐた。私たちはもう、ローウッドとはちがつて、ずつと賑やかではあるが畫趣に乏しく、ずつと
忙しげではあるがロマンティックでない處にゐるやうに感じた。
路はひどく、夜は霧深かつた。
馭者は、休みなく馬を
驅つた。さうして一時間半が、私には殆んど二時間位にのびたやうな氣がした。やつと彼はその席から振り返つて云つた。「もうソーンフィールドは大して遠くねえです。」
また私は外を覗いた。私たちは教會の傍を通つてゐた。その低い幅の廣い塔が、空に向つてゐるのを見た。そして鐘が十五分を打つてゐた。丘の下にもまた、村落か小村を思はせる
燈火の狹い銀河が見えた。十分ばかり
經つてから、馭者は、降りて門を開いた。私たちが通り拔けると、門は
背後でガチヤンと
閉つた。こんどは、坂道をゆるやかに下つてとある家の間口の長い正面に來た。窓掛を下した一つの窓から、蝋燭の光が輝いてゐるばかりで、その外は、すつかり暗かつた。馬車が玄關に止まつた。女中が
扉を開けた。私は、車を降りて、這入つた。
「どうぞこちらへ。」とその
娘は云つた。周圍に高い
扉のある四角な廣間をよぎつて、私は、彼女に
隨いて行つた。彼女は、とある部屋に私を案内した。そこに燃えてゐる火と蝋燭との二重の光は、私の眼が、二時間も
慣らされて來た
暗闇に對象して、いきなり私を
眩しがらせた。しかし、見ることが出來るやうになると、
心地のいゝ、愉快な畫面が、私の眼の前に現はれた。
居心地のいゝ小さな部屋、勢よく燃える爐邊には、圓い
卓子、凭りかゝりの高い、古風な肘掛椅子、そこには未亡人の帽子を冠り、黒い絹の
上着をつけ、モスリンの前掛をした、またなく上品な小柄な老婦人が坐つてゐた。たゞそれほど
容子ぶつた風がなく、ずつともの優しいと云ふだけで、私の想像したフェアファックス夫人そのまゝだつた。彼女は、編物をしてゐた。その足下には、大きな猫が
行儀よく坐つてゐた。簡單に云へば、家庭的な情味の理想の極致を完全に具へてゐた。新來の家庭教師にとつて、これ以上の安心出來る迎へ入れは、殆んど考へられなかつた。私を壓倒するやうな
宏大さもなければ、當惑させるやうな威嚴もなかつた。そして私が這入つてゆくと、その老婦人は立ち上つて、急いで親しげに私を迎へようと進み出た。
「
如何でした? あなた、車ではさぞ御退屈でしたらうねえ。ジョンは、それは
悠くり走らせますから。お寒うございましたでせう、さ、どうぞ火の傍へお出で下さいまし。」
「フェアファックス夫人でゐらつしやいますか?」私は云つた。
「はい、さうでございます。どうぞお掛けなすつて。」
彼女は、私を自分の椅子の方に連れていつて、やがて私のショールを取つたり、帽子の
紐を解いたりしはじめた。私はそんなに面倒を見てくれないようにと願つた。
「おやまあ、何の面倒なことがございませう。きつとあなたのお手は寒いので
凍えてゐらつしやるにきまつてをりますもの。リアや、熱いニィガスを少し
拵へて、サンドヰッチを一
片か二
片切つて來て下さい。貯藏室の鍵はこゝにあります。」
そして彼女は、ポケットから、如何にも主婦にふさはしい鍵の
束を取出して、女中に渡した。
「さあ、もつと、火の傍へお寄りなさいまし。」と彼女は言葉をつゞけた。「あなた、お荷物を持つていらしつたでせうねえ?」
「えゝ、持つて參りました。」
「では、あなたのお部屋へ運ばせるやうにいたしませう。」と云つて、彼女はそゝくさと出て行つた。
「あの方は私をまるでお客樣のやうに取扱つてゐらつしやる。」と私は考へた。「こんな待遇は、ちつとも豫期してゐなかつた。私は、たゞ冷淡と窮屈だけを豫想してゐた。こゝのは、今迄聞いてゐた家庭教師のもてなし方とは
違ふ。だが、私はあんまり早く喜び過ぎてはいけない。」
彼女は、歸つて來た。彼女は、手づから編物の道具や一二册の本を
卓子から取除けて、リアの運んで來たお盆を置く場處を開けた。それから、
茶菓を私にすゝめた。今迄に受けたことのない心づかひの
的となつて、しかも、それが
雇主で、目上の人からせられたので、却つて、私は、まごついた。けれども、彼女自身、自分のする以外のことをしてゐると思ふ
容子も見えなかつたので、彼女の鄭重さをそのまゝに受けた方がいゝと私は思つた。
「フェアファックス孃さんには、今晩お目にかゝれますのでございませうか?」彼女のすゝめるものを食べてから、私は
訊いた。
「え、何と仰しやつたのでございます? 私は、少し耳が遠うございましてね。」耳を私の口の方へ寄せながら、この親切な婦人は答へた。
私は、もつとはつきり、質問を繰り返した。
「フェアファックス孃さんでございますつて? あゝ、ヴァレンスのことを仰しやつてゐらつしやるんですね! ヴァレンスと申しますのが、これから先の、あなたの生徒さんのお名前でございますよ。」
「さやうでございますか。ぢや、その方は、あなたのお孃さまではゐらつしやらないのですか?」
「えゝ――私には子供はないのでございます。」
どういふ關係が、ヴァレンス孃と彼女の間にあるかと
訊いて、私ははじめの質問をやり通すところだつたかも知れないが、あまり樣々の問ひを出すことは失禮だと思ひ返した。それに
何時か
訊くときもあると思つたので。
「私はほんたうに嬉しいのでございますよ。」彼女は、私と向き合つて腰かけると、猫を膝の上に抱き上げて、言葉をつゞけた。「あなたがいらつして下すつて、ほんとに嬉しいのでございますよ。これからはお
仲間が出來まして、こゝに暮らしますのは、どんなに樂しいことでせう。それはねえ、
何時でも樂しいには違ひございません。ソーンフィールドは立派な
舊家でございましてね、
近頃は、どちらかと申せば、打棄てられてゐるやうですが、それにしましても、立派な處なのでございます。でも冬になりますと、立派な住家にまつたくの獨りぽつちで、淋しいのでございますのよ。えゝほんとに獨りぽつちなのでございますよ――それは、もう確かにリアはいゝ
娘でございますし、ジョン夫婦も禮儀正しい人たちではございますが、どうしてもあの人たちはたゞの召使ひでございませう。それで對等の
間柄で
[#「間柄で」は底本では「柄間で」]話をするといふわけにも參りませんしねえ。
權威を
失くしません爲めには、當然
隔てをつけて置かなくてはなりません。確か昨年の冬でございましたよ。(
憶えておゐでになりますかしら、隨分
嚴しい寒さでしてね、雪が降らないと思ひますと、雨が降つたり、風が吹いたりいたしました。)十一月から二月にかけて、肉屋と郵便屋の外には、人ひとり、この家には來なかつたのでございますよ。それで、もう毎晩々々たつた一人で坐つて居りましてね、すつかり
鬱ぎ込んでしまつたのでございます。とき/″\リアを呼びまして、本を讀んで貰ひましたが、可哀さうにあの
娘は、その仕事がそれほど好きではなかつたやうでしてねえ、窮屈なのでございませうね。春や夏の方が宜しうございました、
陽の光と日が長いのとが、そんな相違をつくるのでせう。それからちやうどこの秋のはじめに、お小さいアデラ・ヴァレンスさまと、お
保姆さんとがいらしたのでございます。子供といふものは、
直ぐに家内を
活々させるものでございますね。そして、今また、あなたもお出で下さるし、私は、ほんとに、嬉しいのでございますよ。」
彼女の話を聽きながら、私の心は、もう既にこの尊敬すべき婦人に對して、親しみの情を持つてゐた。私は、
椅子を少し彼女に近く寄せて、彼女が豫期した程のいゝお
仲間に私がなれるようにといふ、私の心からの希望を述べた。
「ですが、今晩はおそくまで、あなたをお起し申しはいたしませんよ。」と彼女は云つた。「もう十二時を打つ
時分でございませう。それにあなたは一日中旅をなすつたのですもの、さぞお疲れになりましたらう。よくおみ足が暖まりましたら、お
寢間へ御案内いたしませう。私の隣りの室を用意いたさせましたの。ほんの小さな部屋でございますけれど、表の方の大きな部屋よりも、ずつとお氣に召すでせうと存じましてね。あちらの方には、立派な道具などがあるには違ひないのでございますが、ひどく
陰氣でガランとしてをりまして、私なぞとても一人で
寢む氣にはなれませんのでございますよ。」
私は、彼女の思ひやりのある選擇を謝した。そして、實際、
長旅の疲れを感じてゐたので、もう引き
退つてもいゝ
旨を云つた。彼女は、蝋燭をとり、私はその後に從つて、室を出た。先づ彼女は、廣間の戸締りを見にいつた。そして
錠から鍵をとつて、二階へ上つていつた。階段も
手摺も、樫の木で、階段に沿うた窓は、高くて格子になつてゐた。その窓も、寢室の
扉に面した長い廊下も、家といふよりは寧ろ會堂に屬してゐるものゝやうに見えた。
冷やりとした地下室のやうな空氣が、寂しく廣い家の陰氣さを思はせるやうに、階段にも、廊下にも、
瀰漫してゐた。私は、やうやく寢室の中へ案内された時、その室が小さくて、普通に現代向に飾りつけてあるのを見ると嬉しかつた。
フェアファックス夫人は、
優しいおやすみなさいを云つてくれた。そして私は
扉を閉ざして、ゆつくりとあたりを見まはした。あの廣間や、あの暗い廣い階段や、そしてあの長い冷たい廊下などからうけた
不氣味な印象は、この活々した私の小さな部屋の
容子で幾らか消された。その時、肉體的な疲勞と精神的な不安の一日は、もう過ぎ去つて、とう/\今安全な避難所にゐるのだといふことを思ひ出した。感謝の鼓動が、私の胸をとゞろかした。私は
寢臺の傍に
跪いて、感謝すべきところへ、私の感謝を捧げた。
起ち上る前に、私は、進むべき道に助けを與へたまへ、なし得ぬうちから既に與へられてゐる、これ程の厚意にふさはしいことを、なし得る力を與へたまへ、と祈ることも忘れなかつた。その夜、私の
寢床には何の
憂もなく、獨りぽつちの部屋にも何の恐怖もなかつた。疲れと滿足とで私はぐつすり眠つてしまひ、眼が醒めた時は全く明るくなつてゐた。
太陽の光が、ローウッドの裸の床板や、汚れた壁土などゝは比べものにならない、壁紙を張つた壁や
絨毯を敷いた床を見せて、明るい空色の
更紗木綿の窓掛の間に
射し込んだとき、寢室は美しい小さな部屋に見えた。それを見ると私の心は
躍つた。
環境は、若い心に大きな影響を與へるものだ。人生の、ひとつの、より輝かしい
時期が、私にはじまつたと思つた――花や
歡びと共に、
荊棘や辛勞をも受けるであらう時期。場面の變化が、希望の世界を開いて、私の才能がいつせいに動きだしてくるやうに思へた。それが
期待してゐることを、明白にすることは出來なかつたけれども、何かしら樂しかつた。――その日か、その月ではなからうけれど、いつかわからぬ未來に於て。
私は、起きて、注意ぶかく身じまひをした。質素にするやうに
餘儀なくされてはゐたが――何故なら、ひどく質素に作つてない着物は、一つも持つてゐなかつたから――でも、私は、もと/\綺麗にしようと氣をつかふ
性だつた。
身裝を構はなかつたり、自分の與へる印象に不注意だつたりするのは、私の習慣ではなかつた。その反對に、出來るだけよく見せたい、自分の
乏しい美しさの許す限り、人に好い感じを與へたいと思つてゐた。時々は、自分があまり美しくないのを
情なく思ひ、時々は薔薇色の頬を、鼻筋の通つた鼻を、また小さな
櫻桃のやうな口を欲しいとも思つた。脊が高くて、威嚴があつて、姿が美しく伸びてゐるやうになりたいと願つたこともあつた。私が、こんなに小さく、蒼白く、こんなに
整はない特徴のある顏をしてゐるのは、まつたく
不幸だと思つてゐた。では何故、私は、こんなに
野心を持つたり、殘念がつたりするのだらう。それは、ずゐぶん云ひにくいことだ。だから、私は、私自身にむかつてもはつきり云ふことが出來なかつた。しかも、私は理由を持つてゐた、最も合理的な、正當な理由を持つてゐたのだ。しかし、髮をすつかりよく
梳かして、黒い
上衣――まるでクェイカー教徒みたいだが、少くともきちんと合つてゐるといふだけの
價値はあつた――を着て、そして
清潔な白いレースの襟をつけた時には、私は、フェアファックス夫人の前で、十分に
品よく見えるだらうし、また、私の新らしい生徒が、反感を起して、私から遠ざかつたりしないだらうと思つた。寢室の窓を開けて、何も
彼もすつかり、きちんと
整へて、化粧臺の上に置いてあるのを見ると、私は
勇んで室を出た。
長い
敷物を敷きつめた廊下を横切つて、私は滑らかな樫の階段を下りた。そして廣間に出た。そこで、私は、ちよつとの間、足を停めた。私は、壁にかゝつた幾つかの畫や、(私の記憶してゐる一つは、
胸甲をつけた、
怖い顏の男の人を寫したもので、一つは髮粉をふつて、眞珠の頸飾りをつけた貴婦人を描いたものだつた。)天井から下つた
青銅の
洋燈や、外側が樫製の、珍らしい彫物のある、年を經たのと
手擦れで、眞黒になつた大きな柱時計を眺めた。何も
彼もが、莊嚴に、印象的であつた。しかし、その時の私は、さうした壯麗さには、殆んど慣れてゐなかつた。半分
硝子になつてゐる廣間の
扉は、開け放してあつた。私は、その
敷居を越えて、歩いていつた。よく晴れた秋の朝で、朝早い太陽が、茶色になりかけた森や、まだ緑色をした畑の上に、靜かに輝いてゐた。
芝生の方へ歩きながら、私は、眼を上げて、
邸の前を見渡した。三
階建で、かなりのものだつたが、さう宏大ではなかつた。貴族の
邸宅と云つた構へではないが、紳士の別莊といふやうな建物で、屋根の頂をとりまく鋸壁が、畫のやうな外觀を見せてゐた。その灰色の正面は、
白嘴鴉の群を背景に、くつきりと浮き出してゐた。今その群は、啼きながら飛び立つた、さうして、廣い草原に下りようと、
芝生や庭を越えて、飛んで行つた。それは
伏柵で隔てられてゐ、そしてそこには、樫の木のやうに頑丈で、
節くれだつた、廣く枝を張つた、非常に古い
山櫨の木の列が、直ちにその
邸の名稱の語源を説明してゐた。遙か遠くの方には、丘陵があつた。それはローウッドをとりまいてゐる丘のやうには高くもなく、巖が多くもなく、また世の中から隔てる防壁のやうでもなかつた。しかし、靜かな物さびしい氣のする丘であつた。さうして、
騷々しいミルコオト地方のこんな近くにあらうとも思はなかつた靜かな地域で、ソーンフィールドを
圍んでゐるやうに見えた。樹々の間に、屋根が
混つてゐる小村が、この丘の一つの中腹に散在してゐた。その地方の教會は、ソーンフィールドにあつた。その古い塔の頂は、家と門との間にある丘の上に見えた。
私はなほも、靜かな眺望を、新鮮な空氣を樂しみ、
白嘴鴉の啼き聲を
快く聞きながら、なほも廣い灰白色の廣間の正面を見渡しながらフェアファックス夫人のやうな小さな人が一人で住んでゐるのにしては、何と大きな所なのだらうと考へてゐた。その時、その人が入口に現はれた。
「おや、もうお出まし?」と彼女は云つた。「あなたは
早起きでゐらつしやいますね。」私が彼女の傍へ行くと、
愛想のいゝ接吻と握手で迎へられた。
「ソーンフィールドはいかゞでゐらつしやいますか。」と彼女は
訊いた。私は大變氣に入つたと話した。
「えゝ、」と彼女は云つた。「いゝ處でございますよ。ですが、ロチスターさんがその氣になつて、
始終、こゝにお住ひになるか、でなくも、せめてもつと度々お出でになるのでなければ、だん/\
秩序が亂れてくるやうで心配なのでございますよ。大きなお
邸や、立派なお庭などには、持主の方がゐらつしやるのが必要です。」
「ロチスターさん!」と私は叫んだ。「
誰方のことでございますの?」
「ソーンフィールドの持主です。」と彼女は靜かに答へた。「その方をロチスターと申上げますことを御存じではございませんでしたか。」
無論私は知らなかつた――曾て、聞いたことさへなかつた。しかし、この老婦人は、彼の存在は世人周知のことで誰でも
天性知つてゐる筈だと思つてゐる
容子だつた。
「私は、ソーンフィールドはあなたのものでお
在りになると思つてをりましたの。」と私は續けて云つた。
「私のですつて? おやまあ、あなたは何を仰しやいます。私のですつて? 私はたゞの家政婦――
監理人なんでございますよ。えゝ、それは母方で、ロチスター家と私どもとが遠縁になつてをります。少くも私の
良人の方はね。
良人は牧師でございました。ヘイで――向うの丘の上の小さな村ですが――牧師職に就いてをりました。で、あの御門の近くにある教會は、良人のものでした。今のロチスターさんのお母樣はフェアファックス家の方で、私の良人とは、ふた
從姉になるのでございます。でも私はこんなつゞき合ひに附け上つたりなど決していたしませんの――事實そんな事は、私にとつては何でもございませんもの。私は、自分のことをまつたくの普通の家政婦だと思つてをりますの。私の御主人樣はいつも丁寧にして下さいますし、私もこの上、何も望むことはございませんのですよ。」
「では、あの小さいお孃さま――私のお教へする方は?」
「あの方は、ロチスターさんの
後見してゐらつしやる方でございます。そして、あのお孃様のために家庭教師を一人探すようにと、私にお頼みになつたのでございます。ロチスターさんは、きつと、××州の中でお育てになりたいと
思召すのでせう。おゝ、あそこへいらつしやいましたよ。ボンヌと御一緒に。
保姆さんのことを、さうお呼びになるんでございます。」これで、謎は説明された。この
優しい親切な小さな未亡人は、立派な奧樣などではなくて、私と同じやうな雇はれの身だつたのだ。でも、その爲めに、私は彼女を好きでなくなつたりはしなかつた。反對に、今までよりも、もつと嬉しい氣がした。私と彼女との間は、事實
平等なのであつた。彼女の單なる謙遜の結果ではなかつたのだ。さうあればある程いゝ――私の地位は、すつかり、より自由になつた。
この發見に就いて私が考へてゐるうちに、小さな少女が
附添に從はれて
芝生をこつちへ走つて來た。私は、最初は私に氣がつかないでゐたらしい私の生徒に、目をとめた。彼女は、まつたくの子供で、おほかた、七つか八つ位だらう、蒼白い、
華奢な、顏立のほつそりとした身體つきで、ありあまる程の髮がくる/\と
捲毛になつて腰のあたりまで垂れてゐた。
「お早う存じます。アデラさま。」と、フェアファックス夫人は云つた。「あなたをお教へして、今に
賢い方にして下さる方のお側へいらして、お話なさいましな。」彼女は近よつて來た。
「
‘C'est l
ma gouverrnante?’(この方あたしの先生なの?)」と彼女は私を指して、
保姆に
訊いた。その人は答へた。
「
‘Mais oui, certainemente.’(え、さうでございますよ。)」
「あの方々は外國の方でゐらつしやいますの?」私は佛蘭西語に驚いて訊ねた。
「あの
保姆は外國人でございます。それからアデラ樣は大陸でお生れなすつたので、六ヶ月前までは、きつと大陸をお離れになつたことはないと存じます。初めてこゝへお出になつた時には、英語は一言もお話しになれませんでしたが、今はどうにか間に合はせてゐらつしやいます。でも私にはわからないのでございますよ。佛蘭西語を澤山お交ぜになりますんでね。ですが、あなたは、きつと意味がよくおわかりになりますでせう。」
仕合にも、私は、佛蘭西の婦人に佛蘭西語を教はる
便宜があつたし、いつも出來るだけ度々マダム・ピエロと會話をするやうにしてゐたので、それにこの七年間といふものは、毎日一生懸命に、佛蘭西語の方を諳記した――自分のアクセントに苦心して、先生の發音に出來るだけ似せて云ふことに苦心した。佛蘭西語では、ある程度までは、すら/\と正確に云へる自信があつたから、アデェルお孃さんと話しても、それほど、當惑するやうなことは、なささうだつた。彼女は、私が自分の家庭教師だと聞いて、側へ來て私と握手した。で、私は朝食に彼女を連れてゆきながら、彼女の話す言葉で少しばかりものを云ひかけてみた。最初彼女は
手短かに答へた。しかし
卓子についてから、彼女はその大きな明るい茶色の眼でものゝ十分も私を
凝視めてゐたが、不意に續けざまにお饒舌をはじめた。
「あゝ!」と彼女は、佛蘭西語で叫んだ。「あなた、ロウチスターさんとおんなじ位にお上手に、あたしの國の言葉をお話しになるのね。あたし、あの方にお話が出來るやうにあなたにも出來るのね、それからソフィイもね。ソフィイは喜びますわ。こゝにゐる人達は誰もソフィイの云ふ事がわからないの。フェアファックス夫人はすつかり英語でしよ。ソフィイはねえ、あたしの
保姆なんですのよ。あたしと一緒に
烟の出る煙突のついた大きなお船に乘つて、海を渡つて來ましたの――なんて烟だつたでしよ! そしてあたし氣持が惡くなつたのよ、ソフィイもさうだつたわ、ロチスターさんもさうよ。ロチィスターさんはサロンつて云ふ綺麗なお部屋の
安樂椅子の上におやすみになつたのよ。あたしとソフィイは別の處に小さい
寢臺がありましたの。あたし、も少しでおつこちさうでしたわ、
棚みたいなんですもの。あの、先生――あなたのお名前何んて仰しやるの?」
「エア――ジエィン・エアよ。」
「エイル? おや、あたし云へないわ。でね、あたしたちのお船は朝、まだすつかり夜が明けてしまはない内に大きな街に――まつ黒な家があつて、烟だらけな、とても大きな街に着いたのよ。あたしのゐた綺麗な氣持ちのいゝ町とは、まるつきり違ひますの。それからロチスターさんは、あたしを抱いて板の上を通つて、
陸へ上げて下さつて、ソフィイは後から
隨いて來て、そして、あたしたちみんな馬車に乘つて、こゝよかもつと廣くて立派なホテルつていふ
綺麗な大きなお
家に行きましたのよ。あたしたちは、一週間近く
泊つてましたの。あたしとソフィイとは、毎日公園つて云ふ、樹がいつぱいある大きな緑色のところへ散歩するのがおきまりでしたの。そしてそこにはあたしの外に、どつさり子供がゐましたわ。それから
綺麗な鳥のゐるお池もあつて、あたしはその鳥にパン屑をやりましたわ。」
「あんなに早くお話しになるのがお解りになりますか。」とフェアファックス夫人が
訊いた。
私は、マダム・ピエロの流暢に話すのに慣れてゐたので、彼女の云ふことは、よく解つた。
善良な婦人は、つゞけて云つた。「あなた、この方の御兩親のことを一つ二つお
訊きになつて
御覽遊ばせ。お二人を覺えてゐらつしやいますかしら。」
「アデェル」と私は
訊ねた。「あなたがお話しになつた、その綺麗な氣持ちのいゝ町にゐらした時は、
誰方と御一緒でしたの?」
「ずつと前には、あたし母樣とゐましたの。でも母さまは
聖母さまの處へ行つておしまひになつたの。母さまは、いつも踊つたり、歌つたり、詩を
そらで云つたりすることを教へて下さいましたのよ。紳士だの貴婦人だのが、
大勢母さまに會ひに來て、あたしはいつもその人たちの前でダンスをしたり、その人たちのお膝の上に坐つて唄を歌つて上げたりしましたの。あたし、そんな事をするのが好きでしたわ。あのう、今あなたに歌つてお聞かせしませうか?」
彼女はもう朝食を終へてゐたので、私は彼女の
藝能の見本を見せることを許してやつた。彼女は自分の椅子から下りて、私の膝の上に坐つた。小さな手をおとなしく前に重ねて、
捲毛を後に搖りやつて、眼を
天井の方にあげ、何か歌劇の中の歌を唄ひはじめた。それは棄てられた女の歌だつた。その女が戀人の不實を嘆いた後で、今度は自尊心の助けを求め、最も
耀やかな寶石ときらびやかな
衣裝で自分を飾るやうに侍女に云ひつける、そして、その晩、舞踏會でその不實な男に會ひ、こともなげな彼女の態度で男に棄てられても自分は一向平氣だといふことを、彼に見せてやらうと決心するといふのだ。
その主題は、幼ひ唄ひ手の爲めに選ばれたものとしては、まつたく
變な氣がした。だが、多分その演技の目的は子供の唇に歌はれる戀と
嫉妬との
調を聽くといふことにあるのだらうが、實にいやな趣味だと、少くとも私は思つた。
アデェルは、その小唄を大層調子よく、また
年相應にあどけなく歌つた。これが濟むと彼女は私の膝から
跳び下りて云つた。「今度は先生何か詩を諳誦して上げるわ。」
氣取つた恰好をして、彼女はラ・フォンテエヌのお伽噺の
“La Ligue des Rats”(鼠の同盟)をはじめた。その次ぎには、
句讀點や語勢、聲の
抑揚や場合に應じた身振などに注意して、短かい詩を朗讀した。彼女の年頃にしては、まつたく
並々ならぬ出來だつた。それは彼女が非常に注意深い訓練をうけたことを示してゐた。
「その詩をお教へになつたのはお母樣ですの?」と私は訊いた。
「えゝ。そして母樣は、いつもこんな風に仰しやつたのよ、
“Qu'avez vous donc? lui dit un de ces rats; parlez!”(『では、あなたはどうしたいのか? と鼠の一匹が彼に云つた。お話しなさい。』)あたしに、質問の時に聲をあげるのを思ひ出させようとして――こんな風に――あたしに手を上げさせるの。ぢや今度はダンスをして見せて上げませうか?」
「いゝえもう結構。ですけど、お母さまがあなたの仰しやつた
聖母さまの所へいらしてからは、誰方と一緒にゐらつしましたの?」
「フレデリック夫人と旦那樣と一緒に。その方があたしの世話をして下さいましたの。でもあたしとは親類でもなんでもないんですの。あたしね、あの方は貧乏なんだと思ふのよ。だつて母樣みたいな立派なお家ぢやないんですもの。あたし、あそこには長いことはゐなかつたの。ロチスターさんが、あたしに英吉利に行つて一緒にゐないかつてお
訊きになつて、あたしもさうしますつて云つたのよ。何故つてあたし、ロチスターさんは、フレデリック夫人より前から知つてるんですもの。それにいつもあたしに親切にして下すつて綺麗な着物や
玩具を下すつたの。だけど、あの方約束をお守りにならないのよ。だつてあたしを英吉利につれていらしてまた一人で歸つておしまひになるんですもの。そしてあたし、それつきりお目にかゝらないの。」
朝食の後、アデェルと私とは、書齋へ
引退つた。それは、ロチェスターさんが教室として使ふようにと命じた室らしかつた。大抵の本は
硝子戸の中に
藏つてあつたが、一つだけ開けたまゝになつた書棚があつて、初歩の學課に必要なもの全部と數册の輕い文學、詩、傳記、紀行、それと少しばかりの物語等がはいつてゐた。かうしたものが、家庭教師のひとりで讀み得る全部だと彼が思つたのだらうと私は想像した。それに事實、今のところでは、十分に私を滿足させた。ローウッドで、時たま集めることが出來た
乏しい蒐集に比べては、これはまるで娯樂と知識のありあまる收穫を得たやうなものだつた。この部屋には、また、小型の極く新らしい、音のいゝピアノがあり、その外、油畫の
畫架や一對の
地球儀などがあつた。
私の生徒は、勉強をするのが嫌ひだつたが、大變すなほなことがわかつた。彼女は、何によらず、規則正しい仕事をするのになれてゐなかつたのだ。私は、最初、餘り彼女を束縛するのは、まづいと思つた。そこで、私は、主としてこちらからいろ/\と話をしてやり、それから彼女に少しばかり覺えさせて、お
正午近くになると彼女に
保姆のところへ歸つてもいゝと許した。それから私は、
午食までの時間を彼女のお手本にする小さいスケッチを二三枚畫いて過さうと思つた。
紙挾と鉛筆を取りに二階に行きかけると、フェアファックス夫人が私に呼びかけた。「朝の御勉強は、もうお濟みになつたのでございますね。」と彼女は云つた。彼女は、とある部屋にゐて、そこの
扉は開いたまゝになつてゐた。彼女に話しかけられたので、私は中へ這入つて行つた。そこは、大きな立派な部屋で、紫色の
椅子と窓掛、トルコの絨毯、
胡桃[#ルビの「くるみ」は底本では「くるゝ」]の鏡板で飾つた壁、
燒付硝子の立派な廣い窓、
品のいゝ
形のある高い天井などがあつた。フェアファックス夫人は食器戸棚の上にあつた
紫泥石の、美しい花瓶の
埃を拂つてゐた。
「まあ、立派なお部屋ですこと!」と私は見まはして叫んだ。私はこの半分も立派なものを見たことがなかつたから。
「えゝ、これが食堂ですの。少し風と
陽を入れようと思つて、ちやうど窓を開けたところでした。
滅多に使ひませんお部屋は、何も
彼もひどくしめりましてね。あちらの客間なぞまるで地下室のやうでございますのよ。」
彼女は、窓に相當する廣い
迫持の方を指さした。今はしぼつてあつたけれど、やはり窓にするやうにテイリアンいろの窓掛が垂れてゐた。幅の廣い段々を二段上つてずつと見渡してみて、私はお
伽の國を一目
覗いたやうな氣がした。それ程その向うの光景は、新參の私の眼には輝やかしいものだつた。だが、そこは、單に、非常に美しい客間だつた。その中に小さな婦人室もあつて、どちらにもまつ白な絨毯が敷かれ、その上には素晴らしく華麗な
花環が置いてあるやうに見えた。また二つとも、白い葡萄と葉のついた
蔓の模樣の、雪白な
形をつけた天井で、その下には
深紅[#ルビの「しんく」は底本では「しく」]の
寢臺と
褥椅子とが、豪奢な對照をなして、燃え立つやうに輝いてゐた。蒼ざめた白大理石の
爐棚の上の
飾は、きら/\と光る
紅玉色のボヘミア
硝子で出來てゐた。そして、窓の間に、大きな鏡は、これらの雪と火の交錯をそのまゝに映した、
「こんなお部屋をどういふ風にお手入れなさるんですの、フェアファックス夫人?」と私は云つた。「
埃もないし、ヅックの椅子蔽ひもありません。空氣がひいやりしてゐさへしなければ、毎日お住ひになつてゐらつしやると思へますわ。」
「それはね、エアさん、ロチェスターさんが、こゝにお出になるのは
偶のことなのですけれども、いつも突然で、思ひがけないんです。お着きになると、何も
彼もに蔽ひがかけてあつて、ガタ/\大騷ぎをしますものですから、御機嫌が惡いやうなので、ふだんから用意して置くのが一番いゝと思ひましたのです。」
「ロチスターさんは、
几帳面な氣むづかしい方でゐらつしやいますの?」
「とりわけさうと申すほどでもありませんが、あの方は紳士らしい好みやくせを持つてゐらつしやいます。それで、萬事御自分のさういふ
御氣性にぴつたりするやうにして置くのをお望みなのでございます。」
「あなたは、その方がお
好きですの? 人に
好かれてゐらつしやる方ですの?」
「えゝ、えゝ、こゝでは、ロチスター家はいつも尊敬されておゐでになります。この近くの土地は、大抵みなあなたのお目の屆くかぎり、大昔からずつとロチィスター家のものでございますからね。」
「さう、だけど、土地のことなどは別として、あなたは、あの方がお好きですの? ロチスターさん御自身が好かれてゐらつしやるのでせうか?」
「私はもう、あの方を好きだと申上げるより外には何もございません。そして私は小作人たちからも、正しい、寛大な地主だと思はれてゐらつしやると信じてゐます。尤もその人たちと一緒におゐでになつたことは、あんまり、おありになりませんがね。」
「でも、何も特色を持つてはゐらつしやいませんの? 一口で云へば、どんな御性格の方なのでせう?」
「御性質は點の打ちどころもありませんわ! 寧ろ、風變りでゐらつしやるかも知れませんね。隨分旅行を遊ばして、世の中をいろ/\と御覽になつたのでございますよ。私はほんたうにお
賢い方と申上げていゝと思つてをります。尤も私はさうお話しいたした事もございませんけれど。」
「どんな風に、
風變りでゐらつしやいますの?」
「私にはわかりません――それを申上げるのは
難かしうございます――決して目につく程の事ではございませんけれど、あの方が、あなたに物を仰しやればお解りになりますよ。あなたはあの方が、御冗談だか、眞面目でゐらつしやるのか、また喜んでゐらつしやるのだか、その反對だか、いつだつてはつきりとはお解りになりませんよ。兎に角、あなたには、すつかりお解りになれないと存じますわ――少くとも私には駄目でございますねえ。ですが、こんなことは、何も大したことぢやございません、あの方は本當にいゝ御主人でゐらつしやいますわ。」
これが、フェアファックス夫人から聞いた彼女と私の雇ひ主に就いての全部だつた。ある性格を描寫したり、人や物の特徴を觀察し説明する場合、まつたく
無定見のやうに思はれる人々がある。この善良な婦人は、明かにこの組に屬してゐるのだ。私の質問は、彼女を當惑させたゞけで、話をさそひ出すことは出來なかつた。彼女の眼には、ロチスターさんは、ロチスターさんであつた。紳士で、地主――それだけなのだ。彼女はそれ以上に、
訊ねも
探りもしない。そして彼の正體に就いての、もつとはつきりした意見を掴みたがつてゐる私の望みを、明かに
訝つてゐたのだ。
食堂を出ると、彼女は私に邸の他の部分を見せようと申出た。で、私は何處もみなよく配置され、立派なものだつたので、到る所で感嘆しながら、二階や階下を彼女の
背後に
隨いてまはつた。正面の大きな部屋は、特別に
素晴らしいと私は思つた。それから三階のいくつかの部屋は、暗くて
天井が低くはあつたが、その古めかしいさまに趣きがあつた。階下の部屋の用に
宛てゝあつた家具が、流行の變る毎にこゝに
運び移されたのである。そして、狹い
窓枠から入つて來る、ほのかな光が、百年も昔の
寢臺を照らしてゐた。樫か
胡桃で作つた櫃には、奇妙な
棕櫚の枝と天童の頭の
浮彫がしてあつて、ヘブライの經典ををさめた木箱のやうな形に見えた。寄り掛りの高い、狹い
嚴めしい
椅子の列、もつと古めかしい腰掛、それには棺の塵になつて二代も
經つた人の手になつた、やつと見分けられる、すりきれた縫取りの跡が
褥の上に殘つてゐた。これら總ての遺物が、ソーンフィールド邸の三階に、過去の家――追憶の殿堂といふ容子を與へてゐた。晝間ならば、この幽棲の靜けさや暗さや、
古雅は好ましいものだ、だが、私は、決してその幅の廣いどつしりした
寢臺の一つに、夜の休息を望む氣にはなれなかつた――ある部屋は樫の扉に閉めこまれて居り、またある部屋は、異樣な花や、さらに異樣な鳥や、さらにそれ以上異樣な人間などの像を寫した、もり上るやうに厚ぼつたい
刺繍に覆はれた、古い英吉利風の
垂布に隱されてあつた――これが蒼ざめた月光に照らし出されたら、まつたくみんな異樣なものに見えるだらう。
「召使ひの人たちは、こちらの部屋で休みますの?」と私は
訊いた。
「いゝえ、あれ達は、裏の方の、もつと小さな部屋の一並びにをります。誰も、今迄こゝに休んだことはないのでございます。若しもソーンフィールド
莊に幽靈がゐるのだつたら、こゝがその
棲家だらうと申すものもあるやうでございますよ。」
「さうでせうね。では、あなたは、幽靈を御覽になつたことはおありになりまして?」
「いゝえ、聞いた事もございませんわ。」とフェアファックス夫人は、
微笑みながら答へた。
「誰かの傳説のやうなものはありませんの――云ひ傳へとか怪談とか?」
「さあ、ないと存じますわ。ですが、ロチィスター家は、昔からおとなしいと云ふよりは、烈しい
血統の人々だつたと云はれてをります。ですから、却つて、今はお墓の中におとなしく休んでゐらつしやるといふことになるのかも知れませんわ。」
「さうですわね――『人生の激しい
激昂の後、彼等はよく眠つてゐる』」と私は呟いた。「あら、何處へいらつしやいますの、フェアファックス夫人?」彼女は何處かへ行かうとしてゐたから。
「
鉛板葺屋根の上へ。あなたもおいでになつて、あそこから景色を御覽になりませんか。」
大變狹い階段を屋根裏へ上つて、そこから
梯子を傳つて
刎ね上げ戸をくゞり、廣間の屋根へ私は
隨いて上つた。私は、今
鴉の群と同じ高さにゐる、そしてその巣を覗き込むことも出來た。
鋸壁に凭れて、遠くを見下すと、地圖のやうに展開した土地が見渡せた。つやゝかな
天鵞絨のやうな芝生が、邸宅の
礎を近く圍み、公園程もある野には昔ながらの森林が點在し、
焦茶色の、葉の落ちた森は、簇葉に蔽はれた樹々よりももつと濃い緑の苔草が生え茂つた小路で區切られてゐる。門の傍の教會、路、靜寂な丘、すべては秋の日の
陽光の中に靜かにやすんでゐる。地平線は眞珠色の大理石模樣をした、快晴の青空に限られてゐる。その景色の中では、異常なものは何もなく、たゞすべては樂しげだつた。屋根の上から戻つて、
刎ね戸を、また潜つた時、私には
梯子を傳つて下りる道が殆んど見えなかつた。私が見上げてゐた
蒼穹や、愉しく見下ろしてゐた、この
建物を中心にした、陽に輝いた、木立や草原や緑の丘の景色に比べると、屋根裏は、まるで地下室のやうに
眞暗な氣がした。
フェアファックス夫人は
刎ね戸を
閉める爲めに、ちよつとの間後に殘つた。私は手搜りで屋根裏からの出口を見附けて、狹いそこの階段を下りようと進んで行つた。三階の表と裏の部屋々々を隔てる階段につゞいた長い廊下で、ふつと私は
躊躇つた。ずつと向うの、とつつきに小窓が一つあるばかりで、狹くて低い、その上薄暗く、閉め切つた小さな黒い
扉の列が兩側につゞくのが、ちやうど
怖しい『ブリュービアドの城』か何かの廊下のやうに見えるのだつた。
跫音を忍ばせて歩く内に、こんな靜かな處で聞かうとは思ひもかけない笑ひ聲が、突然私の耳を打つた。不思議な笑ひ聲――一種獨特な、型でうち出したやうな、少しもをかしくない笑ひ聲だつた。私は立ち止つた。一瞬間でその響は絶えた。が、また前よりも大きく聞えて來た。はつきりしてはゐるが、非常に調子が低いのだ。それは、一つ/\の、もの寂しい部屋の中にゐる
木靈を呼び起すやうな騷がしい反響となつて消えて行つた。だが、その聲の源は、一つしかなかつたから、私はどの
扉から出てくるかゞわかつた。
「フェアファックス夫人!」彼女が今大きな階段を下りて來るのが聞えたので、私は叫んだ。「あの大きな笑ひ聲をお聞きになりまして? 誰ですの?」
「召使ひの誰かでせう、きつと。」と彼女は答へた。「大方グレィス・プウルでせう。」
「あなたもお聞きになりまして?」と私は再び
訊いた。
「え、はつきりと。
彼女のをよく聞くのでございますよ。こゝの部屋のどれかでお針をしてをりますから。時々レアも一緒にをります。あの人達はよく一緒に騷ぐのでございますのよ。」
笑聲は低い、明瞭な調子で繰返されて變な
呟きに終つた。
「グレイス!」とフェアファックス夫人は呼んだ。
まつたく私は、グレイスなどといふ人間が返辭をしようとは思つてもゐなかつた。それほど、その笑ひ聲は、今迄聞いたどれよりも悲劇的で奇異なものだつた。そしてそれが眞晝間で、その奇妙な高笑ひに似つかはしい不氣味な有樣もない――
怖さを増すやうな場面でも時機でもない、といふのでなかつたなら、私は迷信的に
怖くなつたに違ひなかつた。しかしこの出來事は、
吃驚したりすることさへ、私が馬鹿なのだといふ事を私に示してくれた。
私の直ぐ傍の
扉が開いて、一人の召使ひが出て來た――三十から四十位までの女で、がつしりした、四
角張つた
體付で、赤い髮の、きつくて、美しくない顏をしてゐた。これほど
殺風景な、これほど幽靈らしくない幽靈は、殆んど考へられなかつた。
「
騷々し過ぎます、グレイス。」とフェアファックス夫人は云つた。「
吩咐を守るんですよ。」グレイスは、
默つてお辭儀して、這入つていつた。
「
彼女は、お針をしたり、レアの仕事の手傳ひをする者でございますの。」と夫人はつゞけた。「まつたく、缺點がない譯ではありませんが、なか/\よくやりますから。それはさうと、今朝はあなたの新らしい生徒さんとはどういふ
鹽梅でいらつしやいましたか。」
話はかういふ風にアデェルの事に轉じて、階下の明るい氣持のいゝ處に行くまで續いた。アデェルは、廣間で私たちを迎へようと走つて來乍ら叫んだ――「みなさんお食事ですよ!」そして、「あたし、すつかりおなかが
空いたわ!」
フェアファックス夫人の室には、食事の用意が出來て、私共を待つてゐた。
ソーンフィールド
莊への私の安らかな第一歩が約してくれるやうに思はれた穩かな前途の望は、だん/\場所に
馴れ、住んでゐる人達に親しんでからも裏切られることはなかつた。フェアファックス夫人は、思つてた通りの人で、相當な教育と
人並の聰明さを持つた、温和な、親切な
氣質の婦人だつた。私の生徒は、甘やかされ、氣儘にされて、それ故時には我儘も云ふ陽氣な子供だつた。けれど、彼女は全然私の世話に委ねられてゐたし、またどの方面からも、無分別な干渉で、彼女を矯正しようとする私の計畫を妨げなかつたので、すぐ彼女は、
氣紛れな我儘を忘れて從順になり、教へ易くなつて來た。彼女は、
優れた才能もなく、性質の上でもこれといふ特色もなく、普通の子供の
水準以上に、一
吋でも彼女を上げるやうな、特別に發達した感情も趣味もなかつた。しかし、また水準以下に下げるやうな缺點や
惡癖も持つてはゐなかつた。彼女は、相當の進歩をした、私に對して、快活な、しかし、恐らく大して深くはない愛情を持つた。そして、その
無邪氣さや、陽氣なお
喋べりや、氣に入らうとする努力で、お互ひの
交際に滿足する程度の愛着を私の心に起さした。
序に云ふが、これは、子供の
無垢な性質や、教育家の義務に關して、先づ子供を偶像的に熱愛せよと云ふ嚴肅な主義を抱いてゐる人々には、冷い言葉と思はれるだらう。しかし、私は親の勝手な量見に

つたり、僞善的
口吻を洩したり、または
誤魔化しの後押しをしようと思つて書いてゐるのではない。私は、たゞ眞實を語らうとしてゐるのだ。私は、アデェルの幸福と進歩を
眞心からこゝろ懸けてゐたし、幼い彼女がだん/\好きになつた。ちやうど、私がフェアファックス夫人に對して、彼女の親切を嬉しく思ひ、また彼女が私に示すもの靜かな好意や彼女の
穩やかな心と性質にふさはしい交際を快く感じるのと同じ程度であつた。だが、
咎めたい人は咎めて下さい、私はもつと附け加へたいのだから。私が、時々、たつた一人で、邸内を散歩するとき、門の方へ下りて行つて、そこから、路をずつと眺めるとき、またはアデェルが
保姆と遊び、フェアファックス夫人が貯藏室でジェリイを
拵へてゐる間に、私が三つの階段を上り、屋根裏の
刎戸を開けて鉛板葺屋根に出て、遠く離れた野や丘を、また朧げな地平線を遙かにのぞむ時――その時、その限界を越えて
見透すことの出來る視力、聞いたばかりで見たことのない生命に充ちた忙がしい世界や、町や、地方に到達することの出來る視力が欲しいと願つた。また、私が持つてゐるよりも一層實際的な經驗を、自分と同じ性格の人と親しく交際し、私の側にゐる人達よりも、もつと性格の違つた人々と
知己になりたいと願つたのだ。私はフェアファックス夫人の長所も、アデェルの長所も尊重した、けれども、もつと違つたもの、もつと生命の溢れるやうな美點がきつとあると信じた。そして、あると信ずるものを見たいと願つた。
誰か私を
咎めるであらうか? 疑ひもなく多數の人が。私は
不平家と呼ばれるだらう。しかし、私は、どうすることも出來なかつた。じつとして居られないものが私の性質の中に在つた。それが、時々、私をいらだたしめて、苦しめたのであつた。そんな時、私の唯一の救ひは、そこの沈默と靜けさの中に、誰にも妨げられずに、三階の廊下を行つたり來たりして、自分の心の眼に、その前に浮ぶありとある輝やかしい幻想を
凝と見つめさせることだつた――確かにそれは數多く輝やかしいものであつた。そしてまた、私の胸は、喜ばしい刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、114-上-13]で一ぱいだつた。それは、私の心をます/\惱ますけれど、生命を吹き込んでくれる刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、114-上-14]だつた。中でも一等よいことは、
涯しない物語――私が想像で
創り上げた盡きせぬ物語、望んではゐるが、現實の生活には得られなかつた、すべての出來事や活氣や、情熱や感情で活々とした物語に心の耳を傾ける時であつた。
人間は平穩無事の中に滿足してゐるべきだ、と云ふのは無駄だ。人間には活動がなくてはならない。もしなかつたら、自分で作るだらう。幾百萬の人々は私よりはもつと
靜止した生涯に運命づけられてゐる、また幾百萬の人々は彼等の運命に
默つて反抗してゐる。政治的反逆の外にどんなに多くの反逆が、地上に住んでゐる多數の人間の中に、沸き返つてゐるかを誰も知らない。女は一般に
極めて温和だと思はれてゐるが、女も男が感じると同樣に感じ、彼女等の兄弟が要すると同じく、彼女等もその才能を働かし、力を發揮させる場所を要するのである。彼女等もまた男が苦しむとまつたく同じに、餘り
嚴し過ぎる束縛の爲めに、餘りに絶對的な
沈滯の爲めに苦しめられるのである。女たちは、プディングを
拵へたり、靴下を編んだり、ピアノを
彈いたり、また袋の
縁縫をしたりすることに閉ぢ籠つてゐるべきだなどと云ふのは、彼女等よりももつと幸運な境遇にゐる人、即ち、男の考へが
偏狹だからだ。もしも彼女等が今迄彼女等の性に對して、必要だと習慣づけられて來た以上に行爲し、學ばうと欲するとき、彼女等を非難し嘲笑するのは輕卒なことである。
かうして獨りでゐる時に、私はグレィス・プウルの笑ひ聲――初めて聞いた時ぞつとした、あれと同じ
高笑ひ、あれと同じ低い、活氣のない、ハ、ハ、といふ笑ひ聲をしばしば聞いた。私はまた、彼女の笑ひ聲よりも、もつと奇妙な、調子はづれの
呟きを聞いた。彼女がまつたく何も云はぬ日もあつた。しかしまた、彼女のたてる物音を數へきれないやうな日もあつた。私は、時々彼女を見た。彼女は
水鉢かお皿か或はお盆を手にして自分の部屋から出て來ると臺所へ降りて行つて、直ぐに歸つて來るのが常だつた。大抵は(
浪漫的な讀者よ、露骨な眞實を語ることを許せ)
黒麥酒の瓶を持つて歸つて來るのだつた。彼女の外觀はいつでも彼女の奇怪な言葉によつて起される好奇心を
鈍らせる
役目をした。
佛頂面で、落ちつき拂つてゐて、興味が起りうるやうな點は何處にもなかつた。私は幾度か彼女に話をさせようと試みたけれど、彼女は口數の少ない人間と見えて、一言の返辭をするだけで、さうした種類のあらゆる努力はいつも無駄だつた。
この家の他の人々――即ちジョンとその妻、
家婢のリア、佛蘭西人の
保姆のソフィ――等は
人柄のいゝ人たちではあるが、併しこれと云つて面白い所もなかつた。私はソフィとはいつも佛蘭西語で話をしてゐた。そして時々彼女の生れた國の事に就いて質問する事もあつた。けれども彼女は描寫したり物語をしたりする才のある方ではなかつたので大抵の時には質問を續けさせるよりは止めさせる積りのやうな、全く氣のぬけた
滅茶苦茶な返辭をするのであつた。
十月、十一月、十二月と過ぎ去つた。一月の或る午後、フェアファックス夫人は、アデェルが
風邪なので、お休みにして欲しいと頼みに來た。それにアデェルは、私自身の子供時代にも時たまのお休み日がどんなに貴いものだつたかといふことを思ひ出させるやうな熱心さで、その願ひを繰り返すので、その點に就いて自分が言ひなりになつてやるのがいゝと思つて、私はそれを許した。非常に寒くはあつたが、その日は晴れて
穩やかな
日和だつた。長い朝の間ずつと書齋に坐つたきりじつとしてゐるのに私は飽きた。ちやうどフェアファックス夫人が手紙を書いて、ポストに入れるばかりの所なので、私は帽子を
被り、外套を着て、ヘイまで出しにゆくことを進んで引受けた。二
哩の
道程なので、氣持ちのいゝ冬の午後の散歩になりさうだつた。私は、フェアファックス夫人の部屋の
煖爐の傍の小さな
椅子に
心地よげに腰かけてゐるアデェルを見に行つて、遊び相手に彼女の一番いゝ蝋人形(いつも私が
銀紙にくるんで
抽斗の中にしまつておくもの)と遊び飽いたときの用意におはなしの本を出してやつて、彼女の「
早く歸つてね、私の好いお友達大すきなジャネット。」に接吻で答へると、私は出かけた。
地は固く、空氣は靜かで、私の行く路には人一人ゐなかつた。私は、身體が
温かになるまで、急ぎ足に歩いた。私は、その時、その場で靜かに浮かんで來たさま/″\な
愉悦を味ひ、分析しようとゆつくり歩いた。三時だつた。鐘樓の下を通ると、教會堂の鐘が時刻を報じた。傾きかけて光の
褪せた陽の中に、次第に近づいて來る夕暮の中に、その時刻の美しさがあつた。私は、ソーンフィールドから一
哩の、夏は野薔薇に、秋は
胡桃や
きいちごに名高い、そして今も猶野薔薇と
山櫨は少しばかりの
珊瑚色の實の殘つてゐる小徑にゐた。しかし、このあたりの冬の一番の樂しみはまつたくの靜寂と葉の落ちつくした休息とにあるのであつた。
微かな風が動いても、こゝでは何の物音もしなかつた。葉をそよがせる
柊も常盤木も一本もないからだ。そして裸になつた
山櫨も
榛の藪も、まるで道路の中央に敷いてある白い
磨り減らした石のやうに
凝と身動きもしないのであつた。遠く廣く兩側はたゞ野原ばかりで、今は家畜もそこで草を
食んではゐない、そして時々生垣の間を飛びまはる小さな茶色の鳥が散り忘れた朽葉のやうに見えた。
この小徑が丘を上つて、ずつとヘイに向つてゐた。中腹まで來たので、私は野原の方へ下る段々に腰を下した。外套を身體にひきしめて、手をマフの中に入れてゐたので、寒さは感じなかつたが、寒さは、土手道に張りつめた氷を見ても知られるやうに凍りつくほどだつた。そこは今は凍りついてゐるが幾日か前の急な
雪解の爲めに小川が溢れた所なのだ。私の坐つてゐる所からはソーンフィールドが見下された。灰色の
鋸壁のある
館は、眼下の谷間での目ぼしいもので、その森や暗い
鴉の巣は西の空を背にして立つてゐた。太陽が樹々の間をすぎて
赫々と鮮やかにその
後に沈んでしまふまで私は
凝としてゐた。それから東の方へ向つた。
見上げる丘の上には上りかけた月が浮かんでゐた。まだ雲のやうに
淡かつたが次第に光輝を増し、半ば樹の間にかくれて、僅かな
煙突から青い煙を流してゐるヘイの上を照した。未だ一
哩の距離があつたが、私は、この極めて深い靜寂の中で、その町の活動の
微かな響を明かに聞くことが出來た。私の耳は、また、流れる水を――何處の谷間か山峽か、私には分らなかつたが、感じた。しかし、ヘイの彼方には、澤山の丘があつたから、澤山の小川がその間を縫つてゐたのに違ひなかつた。夕暮の靜けさが、道ばたのせゝらぎの音も、遠くの風の音も一樣に傳へた。
そのとき、遠く、しかもはつきりした荒々しい響きがその美しい流の音や囁きを壞してしまつた――パカ/\と音高く響く金の音が、
柔かな
漣の立つ音を消してしまつた。ちやうど、畫の中で岩石の重い
塊や、または大きな

の木の瘤立つた幹が、黒々と濃く前景に描かれて、空色の丘や陽の照つてゐる地平線や、色と色とが
融け合つた斑の雲などの
濃淡のある遠景を消してしまつたやうなものだつた。
その喧しい響は
土手道からだつた。馬が來るのだ。曲りくねつた小徑は、まだ馬を隱してゐたが、近づいて來た。私はちやうど段々を離れようとしてゐた。しかし路が狹いので、それが行き過ぎるまでと思つて坐つてゐた。その頃は私もまだ若かつたから! いろ/\な明るいまた暗い空想が、私の心に
宿つてゐた。子供部屋で聞いたお伽噺の記憶も他のくだらないものゝ中に交つてゐた。そしてそれを再び心に思ひ起したときには、成熟しかけた若さといふものが、それに幼い頃與へ得たもの以上の生々しさと本當らしさを附加へた。で、この馬が近づいて來るのを、そして
薄暗のなかに現はれて來るのを凝と見てゐるとき、私はベシーの話の何かを思ひ出した。その中には
Gytrash といふ
北英吉利のお
化のことが語られてあつた。それは馬だの
騾馬だの大きな犬だのゝ形で淋しい道に出沒し、また時にはちやうど今この馬が私の方にやつて來るやうに、道に行きくれた旅人を襲ふといふのだ。
馬は、
間近に迫つてゐたが、まだ見えなかつた。その時、蹄の音の他に、生垣の下に騷々しい物音がしたと思ふと、榛の幹の直ぐ下を逞しい犬が
すつと走りぬけた。その白と黒の毛色が、木々の中に
際立つて鮮やかに見えた。これこそベシーの
Gytrash ――長い毛と大きな頭とを持つた
獅子のやうな動物の姿だつた。しかしそれは私の傍をまつたく靜かに通りぬけた。私が半ば期待してゐたやうに、立ち止つて
奇怪な犬以上の眼で私の顏を見上げるやうなことはなかつた。續いて馬が來た――脊の高い馬で、背には
乘手がゐた。その男、即ち人間は忽ち咒文を破つてしまつた。何物も
Gytrash に乘つたものは曾てない。
Gytrash はいつもひとりだつた。それに私の考へでは、お
化といふものは、口の
利けない
獸の身體を借りるかも知れないけれど、普通の人間の姿を借りることは到底出來ないのだ。だから
Gytrash ではなくて、これは――ミルコオトへ近道をする一人の旅人に過ぎないのだつた。彼は通り過ぎた。そして私は歩き出した。數歩のところで私はふり返つた。
滑つた音と「今になつてチエ、何と云ふことをして呉れるんだ」といふ叫びと
倒れる物音が私の注意を惹いた。人も馬も倒れてゐた。彼等は土手道を
滑かに固めた氷の上で滑つたのだ。犬は馳せ歸つた。そして主人のこのさまを見、馬の
呻くのを聞くと、身體相當の太いその聲が、丘にこだまするまでに吠え立てた。彼は倒れたものゝ周圍を嗅ぎまはり、それから私の方へ駈けて來た。これは犬に出來るすべてだつた。――呼ばうにも
手近に助けを頼むものは、私の他にないのだから。私は犬の後に
隨いて、頻りと馬から身をふり離さうともがいてゐる旅人の處まで下りて行つた。彼の努力が大變に勇敢であつたので、私は大した怪我ではあるまいと思つたが
訊いて見た――
「お怪我をなすつたのですか。」
彼は何かぶつ/\
罵つてゐたらしいが、私にはわからなかつた。がとにかく
咒文のやうなものを
稱へてゐたので、直ぐには返辭をしなかつた。
「私、お手傳ひいたしませうか。」とまた私は
訊いてみた。
「端の方に寄つてゐらつしやらなくてはいけません。」と先づ膝を立て、次には足で立ち上りながら、彼は答へた。私はその通りにした。その時、忽ち犬の吠える聲と一緒に、苦しげな喘ぎや
蹄の音が騷がしく相次いで起り、そのお蔭で實に數
碼か離れたところまで私は飛びのいてゐた。だが飛びのいて初めてわかるまでは、そんなに遠くの方まで逐ひやられようとは思つてゐなかつたのだつた。結局これは
仕合だつた。馬は起き上り、犬も「靜かにしろ! パイロット」と云はれて
鎭まつたのである。旅人は、今度は身を
屈めて、自分の
脛や爪先を怪我がないかどうか
檢べるかのやうに觸つてみた。幾分
脛と
爪先に何か故障があるやうだつた。彼はたつた今私が立ち上つたばかりの段々の方へ
跛をひいて行つて、坐つてしまつたから。
私は役に立ちたい、でなくも少くともおせつかいをしたい氣になつてゐたと思ふ。だから、私は、また彼に近づいて行つた。
「もしか、お
怪我をなすつたので、人手がお入用でしたら、私、行つて、ソーンフィールド莊からでもヘイからでも、誰かを呼んで參りませうか。」
「いや有難う、どうにかなりませう。骨が折れたのぢやないんだから――なに、一寸
挫いたゞけです。」そして彼は、また立上つて、足の方を
試してみた。しかし、その結果は我にもあらず、「あゝ」といふ聲を出させた。
晝間の明るみがまだいくらか殘つてゐて、それに月も
淡い輝きを増して來た。それで私ははつきりと彼を見ることが出來た。彼の身體は、毛皮襟の
鋼鐵の
留金のついた乘馬外套にくるまつてゐた。細かなところまではわからなかつたけれど
中脊で可成の胸幅だといふ大體のところは知られた。彼は、きつい
目鼻だちと、暗い額を持つた憂鬱な顏をしてゐた。今は、その眼も寄せた眉も、思ひ通りにならないので
忌々しさうにいら/\してゐた。彼は、青年期を過ぎてゐたが、まだ中年にとゞいてゐなかつた。恐らく三十五位だつたらう。私は、彼に對して恐れも、また
些の
羞らひも感じなかつた。もしも彼が美しい
颯爽とした若い紳士だつたとしたら、私は、相手が氣がすゝまないのに、こんなにものを
訊ねて、そして頼まれもしない手助けをしようと、強ひて立つてはゐなかつたらう。私は、今まで殆んど美貌の青年を見たこともないし、生れてから一度もまた話しかけたことがなかつた。
優美、
典雅、
勇侠、魅力を理論的には尊敬し、讃美してはゐたが、假りにこれ等が男性の姿をとつて、私の眼前に現はれたならば、私は本能的にそれ等のものが私の中の何とも共鳴せず、また共鳴させられないことを悟り、ちやうど人が、火や
稻妻や又は美しいが何となく蟲のすかないものを避ける樣に避けて了つたのだらう。
私がものを云ひかけたとき、
假にこの見知らぬ人が、私に
微笑みかけて、機嫌よかつたとしたゞけでも――私が手傳はうと申出たのを、快活にお禮を云つて
斷つたのだつたら、私は自分の途を行つてしまつて、重ねて
訊ねようとする使命を感じもしなかつたのだらう。けれど、この旅人の眉を
顰めた愛想のなさが、私を心安くしたのだつた。彼が私に手を振つて行かせようとしたときも、自分の場所に留つてゐてかう云つた――
「私、こんなに
晩く、この寂しい
小徑にあなたをお殘ししては置けない氣がします、あなたが馬にお乘りになれるのを見るまでは。」
私がかう云つた時、彼は私を
凝と見た。今迄彼は殆んど私のゐる方へ目を向けない位だつたのである。
「あなたはお宅へお歸りにならなくてはいけないでせう、」と彼は云つた。「この御近所なら。
何方からお出になつたのです?」
「直ぐこの下の方から。私、月夜には、
晩くなつても、ちつとも
怖くありません。お望みでしたら、喜んでヘイまで走つて行つて參りますわ。實は、ヘイまで手紙を出しに行くところなのです。」
「直ぐこの下に住んでゐるつて――ぢあ、あの鋸壁のある家のことですか?」と、彼は指した。ソーンフィールド莊の上には、月が灰白色の光を投げて、西の空と對照をなして、今は一塊の影のやうに見える森から
建物をしろ/″\と鮮やかに浮き上らせてゐた。
「えゝ。」
「誰の家です?」
「ロチスターさんのですの。」
「あなたはロチスターさんを知つてゐますか?」
「いゝえ、まだお目にかゝつたことはありません。」
「すると、家にゐないのですか?」
「えゝ。」
「何處にゐるか、御存じですか?」
「存じません。」
「あなたはあそこの女中ぢやありませんね、無論。あなたは――」彼は言葉を切つて、私の
服裝に目を走らせた。
平常の儘のまつたく質素な黒いメリノの外套と
羅紗の帽子、どちらも
小間使の半分も立派ではなかつた。私が何をしてゐるかを判定しかねてゐる模樣だつたので私は口を添へた。
「家庭教師でございますの。」
「あゝ家庭教師!」と繰返して云つて、「さうだ、すつかり忘れてゐた! 家庭教師!」そしてまた私の服裝をじろ/\見た。二分間ばかりのうちに彼は段々から立上つた。歩き出さうとして、彼の顏は
痛みをあらはした。
「人を呼んで來ていたゞくことは出來ませんが、宜しかつたらあなたに少し手傳つて戴きませう。」と彼は云つた。
「どうぞ。」
「杖になるやうな
蝙蝠傘をお持ちぢやないですね?」
「えゝ。」
「ぢあ、馬の手綱をとつて、私のところまで連れて來て下さい。
怖くはないでせう?」
私一人きりだつたら馬に觸るのは
怖い筈なのだが、彼に言はれるとその通りにする氣になつた。私はマフを段々の上に置いて脊の高い馬の方へと上つて行つた。手綱を取らうと苦心するのだが、疳の強い動物で頭の近くへも寄せつけない。私は幾度か骨折つたが駄目だつた。それに私はその踏みならしてゐる前脚が無性に恐ろしかつた。旅人は暫く待つて凝と見てゐたが、とう/\笑ひ出してしまつた。
「さうだ、」と彼は云つた。「山をマホメットの處へ持つて來ることは出來ないが、マホメットを山の方へ行かせることはあなたにも出來るんだ。あなたにこゝに來て戴かなくちやなりますまい。」
私は行つた。「失禮ですが、」と彼は續けて云つた。「仕方がありません。あなたに役に立つて戴く外はなくなりました。」彼は、がつしりした片手を私の肩にかけて、いくらかの重みで私にもたれかゝり、馬まで
跛を引いた。だが一度
手綱を取ると、彼は、すぐにそれを
操つて、鞍に飛び乘つた――その努力をしてゐたとき、彼はひどく顏を顰めた、挫傷がねぢれたのだ。
「今度は、」と堅く噛んでゐた下唇を
弛ませて彼は云つた。「ちよいと私の鞭を取つて下さい。生垣の下にあります。」
私は、探して、見付けて來た。
「有り難う。では早くその手紙をヘイまで持つてゐらつしやい。そして出來るだけ早く歸つていらつしやい。」
拍車のついた踵が一度觸れると、馬は、最初驚いて
竿立ちになつたが、やがて行つてしまつた。犬はその後を追つた。三つのものはみんな姿を消してしまつた。
荒野の中の灌木のごとく
荒々しき風に捲かれて去りぬ。
私は、マフを取上げて、歩みを續けた。思ひかけない出來事が起り、そしてもう行き過ぎた。それはある意味で重大でもなく物語的でもなく興味を感じる程でもない出來事だつたには違ひない。けれどもそれは、私の單調な生活のたつた一時間を變化で
記號した。私の助力が必要だつたし要求された。そして私は與へた。私のしたことが喜ばれた。その行爲はつまらない小さなものだつたとしても、なほこちらから働きかけたものであつた。そして私は何もかも
受身の生活には
飽々してゐたのだ。あの初めての顏もまた、私の記憶の畫廊の中に持ち込まれた新らしい畫のやうなものだつた。そしてその畫は其處にかゝつてゐる他のものとはすつかり違つてゐた。第一に男性のである故に、また第二に黒く
猛く
嚴めしい故に。ヘイに來てからも手紙を郵便局へ入れた時も、まだその顏は私の前に浮かんでゐた。急いで丘を下つて家への道を辿るときも私はそれを見た。先程の段々まで來たとき、私は一寸立止つて、馬の
蹄の音がまた土手道に響くやうな、そして
Gytrash のやうなニウファウンドランドの犬と外套を着た
乘手がまた現はれて來るやうな氣がして、
四圍を見

はし耳を澄ました。見えるのは月に屆きさうに靜かに眞直に突立つた目の前の生垣を刈り込んだ柳の木ばかりだつた。聞えるのは一
哩向うのソーンフィールドをとりまく樹々の間を時折行く極く
微かな風の音ばかりだつた。そしてその囁きの方をちらと見下したとき、
館の正面を
映した私の眼は窓に輝やく
燈火を認めた。晩くなつたことに氣がついて私は道を急いだ。
私は、またソーンフィールドに這入つてゆくのが、いとはしかつた。その閾を
跨ぐことは沈滯に返ることであつた。しんとした廣間をよぎつて、暗い階段を昇り、人氣のない自分の小さな室に行き、次には靜かなフェアファックス夫人に會つて、長い冬の夜を彼女と一緒に、しかも彼女とのみ過すといふことは、歩くことによつて起された
微かながらの刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、121-下-17]をまつたく
壓しつけてしまふことであつた――私の才能に、單調な目に見えない生活の
械をはめることであつた。靜寂と安易の特典を
有つた生活は、もう私には尊重し得ないものとなりつゝあつた。不安な苦しみの多い人生の嵐にもまれたことや、今は不平を言つてはゐるが平和を得る爲めの困難な苦しい經驗に教へられたことは、そのとき、私にどんなに
利益になつたことだらう? さうだ、ちやうど「安樂すぎる椅子」にじつと腰かけて
飽々してゐる人に、遠くまで散歩させると同じ程のいゝことをしてくれたのだ。そして、その人の場合とおなじく、今、私の場合にも動き出したいと願ふのは當然のことであつた。
私は門のところに
躊らひ、
芝生の上に
躊らつた。鋪石道を往き
復りした。
硝子戸の
鎧戸は
閉つてゐて内部を見ることは出來なかつた。そして私の目も心も陰鬱な建物――明りのとほらぬ小室ばかりの、灰色の洞窟と私には思はれる――から、私の前に擴がつてゐる大空、雲の
染みもない青い海へ引き寄せられるやうに思はれた。月はその空へ
嚴かな行進をつゞけて昇りつゝあつた。出離れた丘の頂きを遠く遙かに下に見て、測り知れぬ深みと距りにある深夜の暗黒――天心を仰ぎめざすがごとく。月の歩みに從ふまたゝく星の群は見上げる私の心をふるはせた。彼らをながめて私の血は燃えた。ちよいとしたことが我々を地上に呼び戻す。廣間で柱時計が打つた。それで十分だつた。私は月や星を後にして
潜戸を開け中に這入つた。
廣間は暗くはなかつた。高く
吊した青銅の
洋燈の外には灯はまだ
點けてはなかつたけれど。別に暖かみのある光が廣間と

の階段の下の方の段を
覆つてゐた。この
紅を帶びた輝きは大食堂から洩れて來るのであつた。二枚折の戸は開け放しになつてゐて、
爐格子の中には勢よく火が燃え、
快い光で大理石の灰皿や眞鍮の
火箸や
十能に輝き、紫の掛布や磨きをかけた家具類を照し出すのが見えた。それから
爐棚の近くには人の集りが同じやうに照し出された。が、私には殆んどその集りが誰だか見分けることが出來るか出來ぬ中に、また、快活な聲が
縺れ
合つてゐるのを聞きとることが出來るか出來ぬ中に(その間にアデェルの聲を聞きわけたやうに思ふ)、
扉は
閉つてしまつた。
私はフェアファックス夫人の部屋へ急いだ。こゝにも火はあつたが、蝋燭もなければ夫人もゐなかつた。その代りにたゞ獨り敷物の上に
眞直に坐つて、嚴然と燃える火をみつめてゐる犬、ちやうど、あの小徑で見た、ガイトラッシュと同じやうな
逞しい黒白の、毛の長い犬がゐる。あまりそつくりなので私は前に進んで「パイロット」と云つてみた。すると起き上つて私の方にやつて來て私を

いだ。撫でゝやると、大きな尻尾を振つた。だがどうも獨りぽつちの
[#「獨りぽつちの」は底本では「獨バぽつちの」]お相手には氣味のよくない動物のやうな氣がするし、何處からやつて來たのかもわからないので私は
呼鈴をならした。蝋燭を欲しいのと、これはどうしたお客さまだかを
訊かうと思つたのである。レアが這入つて來た。
「これはどうした犬ですの?」
「旦那さまがお連れになりましたの。」
「
誰方ですつて?」
「旦那さま――あのロチスターさんですわ。
先刻お着きになつたばかしです。」
「あゝさう。で、フェアファックス夫人は御一緒?」
「え、アデェルさまも御一緒ですの。皆さま御食堂にゐらつしやいます。それから、ジョンは外科のお醫者さまへ參りました。旦那さまがお
怪我をなすつたもので。
馬が
轉んで
踝をお挫きになつたのでございますつて。」
「馬はヘイ・レインで
轉んだの?」
「え、丘を下りようとして、氷の上で
滑つたのでございます。」
「あゝ、蝋燭を持つて來て下さらない、レア?」
レアは蝋燭を持つて來てくれた。後からフェアファックス夫人も來て、今の話を繰り返し、外科醫のカーターさんが來て、今ロチスター氏の所にゐると云ひ足した。それから、彼女はお茶の
指圖をする爲めに急いで行つてしまひ、私は着更へをしに二階へ上つた。
ロチスター氏は、外科醫の命によつて、その晩は早く床に入つた容子であつたが、翌朝になつても
却々起きては來なかつた。彼が階下へ下りて來たのは、事務を
執る爲めであつた。彼の代理人や小作人達が來てゐて、彼と話をしようと待つてゐた。
アデェルと私は、その時書齋を
立退かなければならなかつた。そこは訪問者の爲めの應接間に毎日使はれてゐたから。二階の室に火が
焚かれてゐたので、私はそこへ書物を運んで、以後そこを勉強部屋にするやうに
整頓した。朝の時間がたつてゆくうちに、私はソーンフィールド莊が變化してゐることを認めた。もう教會のやうな靜けさはなく、一時間ごとか二時間ごとに、
扉を叩く音や、
呼鈴を鳴らす音が家中に響いた。廣間を横ぎる
跫音も度々すれば、階下では聞き馴れない聲が樣々な調子で話をしてゐるのも聞えた。外の世界から來た流がこの家の中を通つて流れてゐるのであつた。主人がゐるのだ。私としてはその方がずつと
好ましかつた。
その日アデェルを教へるのは容易なことではなかつた。彼女は勉強に身を入れることが出來なかつた。彼女は
始終入口の所へ駈けて行つては
手摺の上から、一寸でもロチスター氏をひと目でも見れはしまいかと覗いた。かと思ふと私はすぐに見ぬいたのだが、書齋へ行く爲めに口實を作つて
階下へ下りて行かうとしたりした。行けば邪魔になるのは私にもわかつてゐた。そこで私が少し怒つて見せておとなしく坐らせると、今度はしつきりなしに、彼女の
稱號に從へば、彼女の
友達ムシュウ・エドアルド・フェルファックス・ド・ロチスター(私は今迄彼のクリスチヤンネェムは聞いてゐなかつた)に就いて話しつゞけるのであつた。そして、彼がどんなお
土産を持つて來たか當てゝみたりした。何故といふのに、前の晩ロチスター氏の荷物がミルコオトから着いた時、その中に彼女を喜ばせるやうな物の入つた小さな箱が一つあると彼が
仄めかしておいたらしかつた。
「
“Et cela doit signifier,”」と彼女は云つた。「
“qu'il y aura l
dedans un cadeau pour moi, et peut
tre pour vous aussi, mademoiselle. Monsieur a parl
de vous: il m'a demand
le nom de ma gouvernante, et si elle n'
tait pas une petite personne, assez mince et un peu p
le. J'ai dit qu'oui: car c'est vrai, n'est-ce pas, mademoiselle?”(ですからね、あの中には、あたしに下さる
贈物があるのよ、そして多分あなたにもね、先生。
小父さまは、先生のことを仰しやつたわ。あたしの先生のお名前を
訊いたわ。そして、小ちやな、可成り痩せて
蒼白い方ぢやないかつて。あたし、さうですつて云つたの。だつてさうなんですもの。ね、先生、さうぢやない?)」
私も私の生徒も、いつものやうに、フェアファックス夫人の居間で食事をした。お晝過ぎからは
暴れ
模樣で、雪も降り出した。私たちはずつと勉強部屋で過した。暗くなつて、私はアデェルに本とお
稽古をしまつて
階下へ行つてもいゝと云つた。割合に階下が靜かになつたことや、入口の
呼鈴の響が杜絶えたことから
推して、もうロチスター氏も暇になつたのだと思つたからである。獨りになると私は窓際へいつた。だが何も見えなかつた。
黄昏と雪片に空氣は曇り、芝生の
灌木さへ見えなくなつてゐた。私は窓掛を下して火の傍へ戻つた。
明るい
餘燼を見つめながら、私は前に見たやうな氣のするライン河の岸のハイデルベルクの城の繪に似た景色を想つてゐると、そこへフェアファックス夫人が這入つて來た。それで、私が火を眺めて描いてゐた
剪嵌細工はすつかり
壞されて、それと一緒に獨りぽつちの寂しさを襲ひはじめてゐた、なんとなく重い嫌な氣もまた散つて了つた。
「ロチスター氏が、今晩、あなたもあなたの生徒さんも、お客間で御一緒に、お茶を召し上つて下さらないかと云はれます。」と彼女は云つた。「あの方は一日中暇なしでゐらしたものですから、今まであなたにお目にかゝることもお出來にならなかつたのです。」
「お茶の時間は何時でせう?」と私は
訊いた。
「六時ですの、
田舍にゐらつしやると、いつも早寢早起をなさるものですから。もうお
召換へをなすつた方がようござんすよ。私も御一緒に行つてお手傳ひをしませう。蝋燭はこゝにあります。」
「着物を
着換へなくてはいけませんの?」
「え、さうなすつた方がようござんす。ロチスターさんがゐらつしやるときには、私も夕方にはいつも着換へますのですよ。」
この禮儀の追加は少しもの/\しい氣がしたが、とにかく私は自分の部屋に行つてフェアファックス夫人に手傳はれながら、黒い毛織の服を黒の絹のに
更へた――銀鼠のをのけると、私の持つてゐるものでは最上のそして、たつた一つ餘分に私が持つてゐる晴着なのだ。銀鼠の方は、
みじまひについての私のローウッド仕込みの
[#「ローウッド仕込みの」は底本では「ローウッド仕み込の」]考へでは、第一の場合でなくては立派すぎて着られないと思ふのであつた。
「
襟止めが
要りますね。」とフェアファックス夫人が云つた。私はテムプル先生がお別れの
形見に下さつた小さな眞珠の飾を持つてゐた。それを附けて、私たちは
階下に下りて行つた。世慣れない私には、かうして改まつて、ロチスター氏の前に呼び出されることが何だか厄介のやうに思はれた。私はフェアファックス夫人に先に立つて貰つて食堂へ這入り、部屋を
過ぎるときもずつと彼女の蔭になつて、その時にはもう
垂布を下ろしてある例のアアチを通つて、その向うの優雅な奧まつた方へ這入つた。
卓子の上には蝋燭が二本、
爐棚の上にも二本
點されて立てゝあつた。明るい爐の火と光と熱に温まり乍ら、パイロットが寢そべり、傍にはアデェルが坐つてゐる。ロチスター氏は少しよりかゝりぎみに長椅子にかけ、足をクッションの上に載せてゐた。彼はアデェルと犬を眺めてゐる、その顏一杯にあか/\と火が輝いた。太く黒い眉、黒い毛を横に
梳かして
[#「梳かして」は底本では「溶かして」]あるので益々
角ばつて見える
嚴つい
額、それでもつて私は彼をあの旅人だと知つた。美しさよりは性格を表はしてゐる點で眼立つきつぱりした鼻、
癇癪もちらしい開いた
鼻孔、怖ろしい口元、
頤、
顎――さうだ、みんな隨分
怖さうで、そして間違ひはなかつた。今、外套を脱いだ彼の姿はその顏と調和よくまつ四角だつた。多分體育の方の意味から云へば立派な
容姿なのであらう――胸が廣くて腰が細く、脊もあまり高くなくすらりとしてもゐなかつたが。
ロチスター氏は、フェアファックス夫人と私とが這入つて來たことに氣がついた筈だ。けれども私たちが近づいても頭をあげようともしないのをみると、彼は私たちに眼を向ける氣持になつてゐないらしかつた。
「エア孃をお連れいたしましたが。」とフェアファックス夫人はいつものやうに物靜かに云つた。彼は
會釋した、しかしその眼は犬と子供の方から離さないまゝであつた。
「エア孃にお掛けになるやうに。」と彼は云つた。その強ひてしたやうな
ぎごちないお
辭儀にも、氣短かなそれでゐて
固苦しい言葉の調子にも、何かその上にかう云つてゐるやうに思はれるものがあつた。「エア孃がゐようとゐまいと、それが俺にとつてどうなんだ。今俺は彼女に物を云ひかけるやうな氣持ぢやない。」
私は氣やすくなつて腰かけた。到れりつくせりの挨拶をうけたなら、私は多分困つたことだらう。私はその挨拶に應じるやうな、
淑かさも優雅さも返すことが出來なかつたらうから。しかしひどい
氣紛れであつかはれたので、私もお義理な氣持に縛られなくて濟むのであつた。却つてこの氣紛れなふるまひに
相應しく、靜かに沈默をつゞけてゐることは、私を都合のいゝ位置に置いた。それにこの振舞の
突飛さには、ちよいと味ひがあつた。彼がどういふ風に後をつづけて行くかと思つて、私は興味を感じた。
彼のやり方は、石像と異ならなかつた――つまり彼は物も云はなければ、身動きもしなかつたのだ。フェアファックス夫人は誰かゞ愛想よくしなくてはいけないと思つたらしく話しはじめた。いつものやうに優しく――またいつものやうにどちらかと云へば平凡に――彼が終日たづさはつてゐた仕事の
忙しさのことや、
挫傷の痛みが彼を苦しめてゐるに違ひないなどゝ彼を慰めたり、彼が仕事を
根氣よく運んでゆくと云つて賞讃した。
「マダム、お茶が欲しいんだが。」彼女の得た答は、この一言であつた。彼女は
慌てゝ
呼鈴を鳴らした。そしてお盆が來ると、彼女は甲斐々々しく、手早く茶碗や匙などの用意をはじめた。私とアデェルとは
卓子の方へ行つた。しかし御主人は長椅子を離れようともしなかつた。
「あなた、ロチスターさんのを差上げて下さいませんか。」とフェアファックス夫人が私に云つた。「アデェルは、きつと
零すかも知れませんから。」
私は命じられたやうにした。彼が私の手から茶碗を受け取つた時、アデェルは私の爲めにねだるのに都合のいゝ時だと思つたか、聲を上げた――
「
“N'est-ce pas, monsieur, qu'il y a un cadeau pour Mademoiselle Eyre dans votre petit coffre?”(
小父樣、あの小箱にエア先生に上げる
贈物もあるんぢやなくて?)」
「誰が
贈物のことを云つたのだ?」と彼は聲荒く云つた。「あなたは
贈物をあてにしてゐたのですか、エア孃。あなたは贈物が好きですか。」そして彼は私の顏を探るやうに見た、その眼は暗く
腹立たしげで、突き通すやうだつた。
「私よく存じません。私にはそんな經驗が殆んどございませんでしたから。一般には嬉しいものと考へられてゐるやうでございますが。」
「一般には考へられてゐるつて? だが、あなたはどう思ひます。」
「
理解つて戴けるやうな御返辭を申上げますのには私少し
手間どりさうでございます。贈物にはいろんな意味があるのぢやあございませんかしら。ですからそれに就いて意見を云ふ前にみんなを
査べて見なくてはなりませんでせう。」
「エア孃、あなたはアデェルのやうに、無邪氣ぢやありませんね。あの子は私を見るや否や、やかましく贈物をねだつたが、あなたのは、遠まはしに探りを入れてみるのだから。」
「でも、私はアデェルのやうに
御褒美をいたゞいていゝといふ確信がございませんもの。あのお子は昔からのお
知合といふ主張をなすつていゝのですし、それから今迄の習慣として權利を持つてゐらつしやいます。あなたがいつも
玩具を下さるのがならはしだつたと仰しやいますもの。でも私がお
土産をいたゞく人の一人になるといたしますと、私、困つてしまひます。私は他から來たものでございますし、それにあなたからお禮を頂戴してもよいと思つていたゞくやうなことは何もしてをりませんから。」
「まあ、さう謙遜しすぎるもんぢやありません。私はアデェルを
試驗してみたのですよ、そしてあなたがあの子では隨分骨を折つてゐて下さつたことがわかりました。あの子は
怜悧でもなければ、才能を持つてゐるのでもない、しかし一寸の間に大した進歩をしたものです。」
「あの、今こそ私の
贈物を下さいましたわ。私お禮を申上げます。生徒が進歩したと
褒めていたゞくことが、先生にとつては一等有難い御褒美なのでございますもの。」
「ふむ。」とロチスターは云つて、
默つてお茶を取り上げた。
「火の傍へお出なさい。」お盆が下げられて、フェアファックス夫人が
編物の道具を持つて片隅へ落ちついたときに、主人は云つた。ちやうどその時は、アデェルが私の手をとつて部屋をあちこち連れて歩いて、美しい本だの壁にとりつけた
小卓や
小箪笥の上の飾物だのを見せてゐたのだが、私たちは
素直に主人の言葉に從つた。アデェルは私の膝の上に坐りたいと云つたが、パイロットと一緒に遊ぶようにと云ひつけられた。
「あなたはこの家に來て、三ヶ月になるのですね?」
「はい。」
「それでと、あなたが來たのは――」
「××州のローウッドの學校からでございます。」
「あゝ、慈善事業のですか。そこにどれ位ゐ居ました?」
「八年でございます。」
「八年! あなたは
粘り強い方なんですね。そんな所にその半時もゐれば、どんな身體でも疲れてしまふと私は思つてたのだが。確かにあなたはまるで彼の世の人間のやうな顏をしてゐますよ。何處からそんな顏を貰つて來たのかと不思議に思つてゐたのです。昨晩ヘイ・レインであなたに逢つたときも、變にお伽噺が心に浮かんで、あなたが私の馬をばかしたのかどうか
訊ねてみようかと半分思つた程でした。今だつてまだ解らないのですがね。で、御兩親は?」
「どちらもございません。」
「もと/\なかつたのでせう。覺えてゐますか?」
「いゝえ。」
「さうだらうと思つた。すると、あなたは、あの段々に腰かけて、仲間を待つてたのですね。」
「誰を?」
「緑いろの着物を着た人たちをさ。その連中にお
誂へむきの月夜でしたからね。あなた方が土手道にあの
忌々しい氷を擴げたあなた方の遊び場を、私は壞しましたか?」
私は頭を振つた。「緑いろの着物を着た人たちは、みんなもう百年も前に英國からゐなくなつてゐます。」私は彼と同じやうに出來るだけ
眞面目くさつて云つた。「ヘイ・レインやあのあたりの野原には、今はもう彼等の跡かたもありません。夏、秋、冬の月夜にも、今はもう
妖精たちの
酒盛はないと思ひます。」
フェアファックス夫人は、編物を落して、眼を
瞠つて、これは何の話かと
訝つてゐるやうであつた。
「では。」とロチスター氏は續けた。「兩親がないにしても親類はあるでせう。伯父さんだの、伯母さんだのは?」
「いゝえ、一人も、見たことがございません。」
「では家は?」
「ございません。」
「
御兄弟姉妹は何處にゐるのです?」
「兄弟も姉妹もございません。」
「誰が此處へ推薦してくれたのです?」
「私、廣告をいたしました。そしてフェアファックス夫人が私の廣告に御返事を下すつたのでございます。」
「さうですの。」と、今やつと私たちが何を話してゐるかゞ分つたこの善良な婦人は云つた。「私は毎日、神樣のお導きでこの方をお
選みしたことを感謝してゐるのでございますよ。エアさんは、私にとつても、ほんとに有難いお友達ですし、アデェルにとつても、親切な行屆いた先生でゐらつしやるのでございますよ。」
「この人の人物證明なんぞしないでもよろしい。」と、ロチスター氏は言葉を返した。「讃辭は、私には何にもならない。私は自分で判斷します。この人は、手始めに私の馬を
轉ばしたんです。」
「まあ?」フェアファックス夫人は云つた。
「私はこの傷のお禮を云はなくつちやならない。」
未亡人は
途方に暮れてゐる容子であつた。
「エアさん、あなたは
街に住んだことがありますか。」
「いゝえ。」
「人中へ出たことがありますか。」
「いゝえ、ちつとも。たゞローウッドの生徒や先生たちと、それから、今はソーンフィールドにゐる人たちだけでございます。」
「本は、澤山讀みましたか。」
「今迄に私の手に入りましたやうな本だけで、大した數でもなく、さう高い程度のものでもございませんでした。」
「あなたは、尼僧の生活を生活して來たんですな。確かにあなたは、宗教的な樣式によく
慣らされてゐる。ローウッドを支配してゐるとかいふブロクルハーストつてのは牧師ですね?」
「え、左樣でございます。」
「そしてあなた方娘さんたちは、恐らく、その人を尊敬してゐたのでせう。尼僧のいつぱいゐる修道院で、長老を尊敬するやうにね。」
「いえ、いえ。」
「ひどく冷淡だな! 違ふつて! ほう、尼僧が長老を尊敬しないと云ふんですか! それはどうも不敬に當りさうですね。」
「私はブロクルハーストさんが嫌ひでございました。さう思ふのは私獨りではございませんの。あの人は
酷い人で、それに
尊大ぶつてゐて
要らない干渉ばかしするのでございます。私たちの髮を切つてしまつたり、儉約の爲めに、使へもしない縫針や絲をよこしたりいたしました。」
「それは大層間違つた
儉約でしたね。」と、今再び、話の意味が解つたフェアファックス夫人が口を出した。
「で、それがあの男が癪に
障らすことの絶頂だつたんですか。」
「委員がまだ置かれない前、あの人一人きりで監督してゐました頃には、私たちを
ひぼしにいたしました。それから一週間に一度は長いお説教をして、夜にはまた自分の書いた本の中から頓死だの裁きなどに就いて讀んで聞かせたりして、私たちを退屈な目に合はせましたの、それで、私たちは、眠られなくなるほど
怯えさせられました。」
「ローウッドへ行つたのは幾つの時です?」
「十歳ぐらゐで。」
「そして、そこに八年ゐた、すると今は十八ですか。」
私は
頷いた。
「算術は、有益なものですね。そのお蔭がなくては、あなたの年を當てることはなか/\出來なかつたに違ひないですからね。それがあなたのやうに顏の道具と顏の相がくひちがつてゐる場合には、容易に斷定出來ない點なのです。それから、ローウッドで、何を教はりました? ピアノがやれますか。」
「少しばかり。」
「無論さうでせう、それは確かな返辭だ。書齋へ行つて――よろしかつたらといふ意味ですが――(私の命令口調を勘辨して下さい。私はいつも「これをしろ」と云ふとそれが出來てしまふので、新らしいお近づきの方に對しても從來の癖を變へられないのです)――では、書齋へお行きなさい、蝋燭を持つて。
扉は開け放しにして置くのです。ピアノの前に腰かけて、一曲お
彈きなさい。」
私は、彼の
指圖に從つて、出て行つた。
「もう結構!」とすぐに彼は呼んだ。「成程少しばかり
彈きますね。英國の女學生並みに。まあ少しは、
ましかも知れないが、上手ぢやない。」
私はピアノを
閉ぢて歸つた。ロチスター氏は續けて云つた――
「アデェルが今朝あなたのだといふ
寫生を四五枚見せてくれましたよ。あれはすつかりあなたがやつたものだかどうか知らないが。多分、先生が手傳つたのでせう?」
「いゝえ、まつたく!」と私は遮つた。
「あゝ氣持を惡くしましたね。よろしい、内容が獨創のものだと保證する氣なら、あなたの
紙挾みを取つていらつしやい。だが
危つかしいのなら、斷言なさらない方がいゝ。つぎはぎ細工は私にもわかるから。」
「では、私、何にも申上げません。ですから、どうぞ、御自分で判斷なすつて下さいまし。」
私は書齋から
紙挾みを持つて來た。
「
卓子をこつちへ。」と彼は云つた。私は、それを彼の
長椅子の方へ引き寄せた。アデェルとフェアファックス夫人とは、繪を見ようと寄つて來た。
「たかつちやいけない。」ロチスター氏は云つた。「見てしまつてから、持つて行くのはいゝが、顏をこつちに押しつけないでくれ。」
彼は、
悠りと、一つ/\
寫生や水彩畫を眺めた。三枚だけ別にし、他のは見てしまふと押しやつて、
「それは、あつちの
卓子へ持つて行つて下さい、フェアファックス夫人。」と彼は云つた。「そしてアデェルと一緒に御覽なさい――あなたは(私に眼を向けて)席にかへつて私の質問に答へて下さい。この繪は一人の人の手になつたと私は見たが、それはあなたの手ですか。」
「はい。」
「ぢあ、何時これを仕上げるだけの時間があつたのです? これには相當時間も必要なら、いくらか空想もなくちやならないでせう。」
「ローウッドでの最後の二度の休暇中に、他に仕事がなかつた時いたしました。」
「手本は何處から手に入れたのです?」
「私の頭からでございます。」
「あなたの肩の上にあるその頭ですか。」
「えゝ。」
「その中にはまだかういふので、別な材料がありますか。」
「多分あると思つてをります。私――もつといゝのがあればと思ふのでございますけれど。」
彼は繪を前に擴げて、再びそれを代る/″\眺めた。
彼がそれに氣を取られてゐる間に、讀者よ、私はその繪がどんなものだつたかお話しよう。そして先づ第一に、私はどれも決して驚く程のものではなかつたといふことを前置きしなくてはならない。尤もその主題はほんとにいき/\と私の頭に浮んでゐたものだ。私がそれを表現しようとする前に、心の眼で見たときは、それ等のものは素晴らしかつた。しかし私の手は私の思想を
補ける力がなかつたと見えて、いつも私の
懷いてゐたものゝ蒼ざめた姿を寫し出したにすぎない。
その繪はみな水彩であつた。第一のは滿々たる海上に捲き起つてゐる低い
鉛色の雲が描かれてあつた。遠景は唯暗澹と
[#「暗澹と」は底本では「暗憺と」]してゐる。前景もまた同樣である――否、寧ろ、一番手前の大波と云はう、其處には
陸地はないのだから。閃光が半ば沈みかけた
帆檣を
浮彫にし、その上には黒い大きな鵜が翼に飛沫を浴びつゝとまつてゐる。その
嘴には寶石を
鏤めた腕環を啣へてゐる。それを私は、私のパレットで出し得る限りの目覺めるやうな色で塗り、私の筆で描き得る限り美しく鮮やかに描いた。溺れた屍が鳥と
帆檣の下に沈み、緑色の水を
透してほの見え、
腕環が洗ひ流されたか、それとも引きちぎられたかした美しい一本の腕だけが、くつきりと見えてゐるのだ。
第二の繪は、前景にはたゞ恰も微風に吹かれたやうに傾いた草や、木の葉のある薄暗い丘の頂だけが出してある。
彼方の上の方にはたそがれのやうな
濃い、藍色の空が擴がり、空の中に
昇つて行く一人の女の半身が、私に合せられる限りの仄暗くやはらかな色で描き出されてゐる。朧げなその
額には星の環をまき、その下の顏は霧の覆ひの彼方に見るやうである。眼は暗く烈しく輝き、髮は、嵐か電光に引き裂かれた光のない雲のやうに、暗く流れてゐる。
頸すぢには月光のやうな
蒼白い光の反映があり、同じ
微かな輝きは、
淡い雲の列を染め、宵の
明星の夢幻的な姿はそこから現はれて身をかゞめてゐた。
第三のは極地の冬空に突き立つた氷山の
尖塔を現はしてゐた。北光の集まりが地平線に沿つて槍を並べたやうに密集してほの暗く
屹立してゐる。これを遠景に投げやり、前景には人の頭――大きな顏が氷山の方に傾いてその上に
凭れかゝつてゐる。組み合せた二本の痩せた手が前額を支へて、顏の下部に黒い
面紗をかけ、骨のやうに白く、全く血の氣のない額と、絶望に曇つた無表情な眼、
空洞な動かない片眼のみが見える。
顳
の上の、頭に捲きつけた黒い布の
頭被の襞の眞中には、質も密度も雲のやうにさだかならぬ、白い焔の環が、一際もの凄い青光を放つ
火花を
鏤めて、光り輝いてゐる。
このあをじろい新月は、『王冠の
象』であり、その王冠のいたゞいてゐるものは、『
形象無き
形象』(
――ミルトンの『失樂園』)であつた。
「この繪を描いてゐたときは、幸福でしたか。」やがて、ロチスター氏が云つた。
「すつかり沒頭しました――えゝ、幸福でした。この繪を
描くことは、一言で云へば、私の知つてゐる限りの大きな樂しみのひとつでございました。」
「それぢあ、大したこともありませんね。あなたの話によれば、あなたの樂しみつてものは、殆んどなかつたのだから。しかし、きつとあなたはこの不思議な色を合せたり
彩つたりしてゐる間は、一種の藝術家の夢の國に住んでゐたのですね。毎日長い間やつたのですか。」
「お休みでございましたから、
他に何もすることはございませんでした。ですから、朝からお晝まで
描いて、またお晝から夕方までいたしました。
眞夏で、日が長くつて、やりたいに
委せてやるのには都合がようございました。」
「で、あなた自身、その熱心な制作の結果に滿足出來ましたか、どうです。」
「とても滿足どころではございませんの。自分の頭で考へることゝ手ですることゝの
隔りがあまりひどくつて、隨分悲しうございました。何時でも私は自分では到底現はせないやうなものを想像してゐたのでございます。」
「さうでもない、あなたは自分の思想の影は掴まへてゐますからね。だが多分それ以上ぢやないでせう。自分の思想を十分に具體化するには、まだあなたは畫家としての技巧と知識が足りない。しかしその畫は女學生としては變つてますね。思想の方から云へば妖怪じみてゐる。その宵の明星の眼はあなたが夢にでも見たのに違ひない。だが、どうしてかうはつきり見えるやうに出來たものかな。それでゐて少しも光り輝いてはゐない。と云ふのは上にかいてある空の天體がその眼の光を押へてゐるから。それからこの眼の
嚴かな深みにはどういふ意味があるんですか。それに誰があなたに風を描くことを教へたんです。こゝの空にも丘の上にも強い風が吹いてゐる。何處であなたはラトモス山を見たんだらう。これはラトモスなのだ。さあ、その繪をあつちへやつて下さい。」
私が殆んど
紙挾の紐を結ばないうちに、彼は自分の時計を見ると
素つ
氣なく云つた――
「九時だ、どうするんです、エアさん、こんなに何時までもアデェルを起しておいて。
寢床へつれて行つて下さい。」
アデェルは室を出る前に彼にキスをしに行つた。彼はその
愛撫を我慢してゐた。併し彼は犬のパイロットよりも無愛想な樣子であつた。
「では皆さんお休みなさい。」と彼は、私たちと一緒にゐるのに
飽々して追ひ出してしまひたいのだと云ふやうに入口の方に手を動かして云つた。フェアファックス夫人は編物をたたみ私は
紙挾を取上げた。私たちは彼にお辭儀をすると、
冷淡な
會釋を返され、そのまゝ
引退つた。
「あなたはロチスターさんがさう
甚く風變りではいらつしやらないと仰しやいましたでせう、フェアファックス夫人。」アデェルを寢かした後で彼女の室に來て私はさう云つた。
「えゝ、さうぢやなかつたのですか。」
「私、隨分變つていらつしやると思ひますの。あの方は隨分むら
氣でぶつきらぼうですわ。」
「本當にね。初めての方にはきつとさうお見えになるのでせうねえ。でも私はもうあの方の遊ばすことにはよく慣れてますのでさうは思ひませんよ。それに若しあの方がもと/\風變りでいらつしやるのでしたら、
大目に見て差上げなくてはね。」
「何故ですの。」
「幾らかお生れつきのせゐもありますんですよ。――私たちは誰だつて天性はどうすることも出來ませんからねえ。それともう一つは確かにあの方を苦しませて、お氣持を
偏屈にさせる心配がおありになるせゐですよ。」
「何の御心配ですの。」
「一つにはお家のごた/\などもね。」
「でもあの方は御家族はおありにならないのでせう。」
「今はね。ですがおありになつたのですよ――でなくも御親戚の方位はね。あの方は何年前かにお兄さまをお
亡くしになつたのですよ。」
「あの方のお兄さまを。」
「えゝ。今のロチスター氏は財産をお受けになつてから、さう長くはおなりになりません。まだ九年位のものでせうよ。」
「九年ならかなりの時ですわ。あの方は、そんなにお兄さまがお好きでしたの、今もまだ、おなくしになつたのが
諦められなくていらつしやるほど。」
「いえ、ね、――さうぢやありますまい。二人の間には何か誤解があつたのだと思ひますよ。ロウランド・ロチスターさんは、エドワアド・ロチスターさんに對して、正しいふるまひはなさらなかつたのです。そしてお父さまがあの方のことを毛嫌ひなさるやうにお仕向けになつたのです。お父さまはお金を大事になすつて家族の領地をみんな一つにして置かうといふ氣でいらしたのです。財産を分配なすつて減らしておしまひになるのがお嫌でしたのね。その癖、家名の勢力を保つ爲めには、エドワアド・ロチスターさんもお金がなくてはならないといふことを心配なすつていらしたのですよ。それであの方が一人前のお年におなりになると直ぐ、餘り公平とは云はれない手段をお取りになつて隨分ひどいことをなさいましてね。つまりあの方の財産をつくる爲めにお父さまのロチスターとロウランド・ロチスターさんが
ぐるになつて、あの方を苦しめるやうな地位にあの方をお置きになつたのですよ。それがどういふ地位でしたかはつきりしたことは、私はよく存じませんでしたけれども。そこで、あの方の心がその苦しさをお忍びになることが出來なかつたのです。あの方はさう寛大ではおありにならなかつたものですから、お
家の方とは
縁を切つておしまひになつて、今まで長い間まあ云はゞ放浪の生活をなすつていらしたのです。お兄さまがあの方をこの領地の持主にするといふ
遺言もなしにお
亡くなりになつてからこの方、あの方は二週間と續いてソーンフィールドにお止まりになつたことはありませんの。そして、ほんたうに、確かにあの方はこの昔ながらの所を嫌つていらつしやいますよ。」
「
何故お嫌ひになるのでせう。」
「さあ大方陰氣だとお思ひになるのでせうねえ。」
その答へは曖昧だつた――私は何かもつとはつきりさせたい氣がした。だが、フェアファックス夫人には、出來ないのか、それとも
強ひてしたくないのか、ロチスター氏の苦しみの原因や性質に就いてはこの上明かな説明をしてはくれなかつた。かういふことは、彼女だけの祕密であること、また彼女の知つてゐることといつても、
主に
推測にすぎないことなどを誓ふのであつた。彼女が私にこの話を
罷めて貰ひたがつてゐることは、まつたく明瞭だつたので、私もそのまゝにして
止した。
その後數日の間、私は殆んどロチスター氏に會はなかつた。朝のうちは彼は事務の方で可なり
忙がしさうであつたし、午後はミルコオトから、また近くから紳士たちが呼ばれて、時には彼と晩餐を共にする爲めに
泊ることもあつた。馬に乘ることが許されるまでに彼の
挫傷が
癒ると、彼はよく馬で外出した――大抵夜晩くまで歸つて來なかつたから多分紳士たちの訪問の返しでゝもあつたのだらう。
こんな間中は、アデェルでさへも彼の傍には呼ばれなかつた。そして私が彼に近づくのも廣間だの階段だのまたは廊下だので時々
出逢ふ位に限られてゐた。そんな時彼は、私のゐるのを認めて、よそ/\しい
會釋か冷淡な一瞥をくれたきりで、
傲然として冷やかに私の傍を行き過ぎてしまふこともあつたし、また紳士らしい
愛想のよさで、
會釋したり微笑したりすることもあつた。彼の機嫌の變化は、私の胸を痛めはしなかつた。何故ならその變化について私はどうしやうもないことがわかつてゐたから。機嫌のよしあしは、私とは全然關係のない原因にかゝつてゐたのだ。
ある日晩餐の客があつたとき、彼は私の
紙挾をとりによこした。たしかに、その内容を人々に見せる爲めであつた。紳士たちは、フェアファックス夫人が私に
報らせてくれたやうに、ミルコオトに於ける或る
公の會合に出席する爲めに早めに歸つてしまつた。しかしその夜は雨が降つてゐて、寒さが
嚴しかつたので、ロチスター氏は彼等と一緒に出かけなかつた。皆が歸つてしまふと、すぐに彼は
呼鈴を鳴らして、私とアデェルとに
階下に來るようにといふ使をよこした。私は、アデェルの髮にブラシをかけて綺麗にしてやり、さうして、自分自身はいつもの、どう繕ひやうもないクェイカー教徒の
身裝――編み髮も何もあまりに窮屈で、質素で、どう亂れようもない――その身裝で、私共は下りて行つた。アデェルはあの
小箱がとう/\來たのか知らと考へてゐた。何かの間違ひの爲めにその到着が今まで延びてゐたのだ。彼女は滿足した。私共が食堂に這入ると、
卓子の上に小さなボオル箱が載つてゐた。彼女は本能的にそれを知つてゐるやうだつた。
“Ma bo
te! ma bo
te”(あたしの箱だわ! あたしの箱だわ!)と彼女はその方へ駈け寄りながら叫んだ。
「さうだよ。とう/\お前の『箱』が來たのだ。隅の方へ持つて行きなさい。
巴里娘さん。そして取り出してお遊びなさい。」と火の傍の大きな安樂椅子の中から、ロチスター氏の低い、
皮肉つたやうな聲が云つた。「だが、云つておくがね、」と彼は續けた。「その分解の方法の
細かいことだの、内部の状態の話だので、私の邪魔をしてはいけないよ。することは
默つておやり。tiens-toi tranquill, enfant; Comprendstu?(おとなしくするんだ、孃や、分つたかい?)」
アデェルは殆んどその警告も耳には入らない容子だつた。彼女は、もうとつくにその大事なものを持つて、とある
長椅子の方へ引込んで。蓋を留めてある紐をとくのに
忙しかつた。その
面倒くさいものをとつてしまつて、
薄葉の銀色の包裝紙を取り上げると、たゞもう叫びだした――
「
“Oh ciel! Que c'est beau!”(ま! なんて綺麗なんでせう!)」そして吸ひ込まれるやうに、うつとりと見入つてゐた。
「エアさんはそこにゐますか。」と
主人は、半分席から立上つて、入口の方を見まはしながら
訊ねた。私は
扉の傍にまだ立つてゐた。
「さあ、さあ、こつちへいらつしやい。こゝにお掛けなさい。」彼は、傍に彼の椅子を引寄せた。「私は
小兒のお
喋べりは好かないから、」と彼はつゞけた。「だつて、私のやうな年とつた獨り者にはあれ達の
片言から來る愉快な聯想なんてあるもんですか。一晩中ちつぽけな奴と
差向ひで過すなんて、多分私には我慢出來ませんからね。その椅子をさう遠くへ引かないで、エアさん。私が据ゑたまゝのところにお掛けなさい。――よろしかつたら、ですが。禮儀にはまごつきましてね。始終忘れるんです。それかと云つて、單純なばあさん達が特に好きだといふのでもありませんがね。さう、さう、うちの
年寄を覺えてゐなくちや。あの人を忘れるんぢやなかつた。あの人はフェアファックス家の人か、それとも、そこの誰かに嫁入つたかで、血は水よりも
濃しとか云ひましてね。」
彼は、
呼鈴を鳴らして、フェアファックス夫人に來るやうにと云つてやつた。彼女は、
編物籠を手にして、直ぐにやつて來た。
「今晩は、マダム。お
慈悲の意味であなたを呼んだんですよ。アデェルにね、
贈物のことを、私に
喋べつちやいけないつて云つたのです。それにあの子は云ひたくつて胸一杯なんだ。聽手になつたり話相手になつてやつてくれませんか。さうして下されば、今までなすつたうちで一番有難いことに思ひますが。」
まつたくアデェルは、フェアファックス夫人を見るや否や、彼女を
長椅子に呼びよせてたちまち膝一ぱいに彼女の『箱』の
磁器だの
象牙だの、蝋などの中味をひろげ、同時に彼女の覺えた
怪しげな英語で説明したり喜んだりするのだつた。
「さあ、これでいゝ御主人のお
役目を果たした。」と、ロチスター氏は言葉をついだ。「お客樣方は
御各自好きなやうにお遊びになればよし、私は自由に自分の樂しみをしなくては。エアさん、椅子をも少し前におよせなさい。まだ遠すぎる。この氣持のいゝ椅子に掛けてる私の位置をくづさなくちや、あなたの顏は見られない。それは御免ですよ。」
私は命ぜられた通りにした。しかし、寧ろ少しは蔭の方にゐた方がずつといゝと思つた。けれども、ロチスター氏は
直截な云ひ方ではつきりと命じたので、すぐに云はれた通りにするのは、當然なことに思はれた。
今云つたやうに、私たちは食堂にゐた。晩餐の爲めに
點された
切子硝子で飾つた燈の光がにぎやかに部屋にひろがり滿ちてゐた。大きく燃える火は、すつかり
眞赤になつてゐて、明るかつた。高い窓とそれにもまして高いアーチとには、紫色の
窓掛がどつしりと廣くかゝつてゐた。すべては靜まつてゐて、たゞアデェルの
忍び聲のお
喋べりばかりであつた(彼女は思ひ切つて、大きな聲では話せなかつたのだ)。そして、そのあひ間/\を、窓硝子に打ちつける冬の雨の音が滿たしてゐた。
ロチスター氏は、ダマスク織の
布で覆うたその椅子に掛けてゐると、以前に私が見た彼の容子とは異つてゐるやうに見えた。それほど、
嚴しさうでもなく――ずつと陰鬱でなくなつてゐた。唇には微笑が浮び、眼はきら/\輝いてゐた。それが葡萄酒の爲めかどうか確かではないが、どうも私にはさうらしく思はれた。簡單に云へば、彼は晩餐後の機嫌であつた。朝の冷淡な、
嚴しい
容子に比べると、ずつと打解けてゐて
温かで、それにずつと我儘であつた。でもまだ、彼は、確かに
氣難かしげな容子で、大きな頭を椅子の背のふくらみに
凭せかけ、
荒削りの
花崗岩のやうな顏にも、大きな黒い眼にも、火の光を受けてゐた。彼は大きな黒い眼を、しかも非常に美しい眼を持つてゐた――その眼の深い奧の方にも何かいつもとは變つたものが時々見えるのだつた。それは、
優しみを持つてゐないまでも、少くともそれに近いものだと人に思はせるやうな感じだつた。
彼は二分間ばかり火を見つめてゐた。そして私は、その間、彼を見つめてゐた。その時、突然に振り向いた彼は、私の眼が彼の顏をじつと
凝視てゐるのに氣がついた。
「私を檢査してるのですね、エアさん。」と彼は云つた。「
綺麗だと思ふんですか。」
もし私が落着いて考へてからだつたら、何か
世間並に曖昧に、丁寧に、この問に答へたであらう。しかしどうしたのか、その答へは、私の口から知らぬ間に
滑り出てゐた――「いゝえ。」
「あゝ、確かにあなたは少し
異つてゐる。」と彼は云つた。「あなたには若い修道尼といふところがある。手を前に重ねて坐つて、眼を大抵の時敷物の上に落してゐると(さう/\今やつてるやうに、
眞正面に私の顏に向けてるときは別だが、例へば今のやうにね)、奇妙で、靜かで、嚴肅で、あどけない。それでゐて、誰かゞ問を出すか、返答をしなくちやならないやうなことを云ふと、
素つ
氣ない返辭ぢやないが、少くとも、思ひ切つた返答をづけ/\云つてしまふ。それはどんな意味です。」
「私、あんまり
露骨でございました。御免遊ばせ。私、顏のことで訊ねられたとき、すぐさまお答へするのは
優しいことではないと御返辭する筈でございましたの。人によつて好き/″\があるとか、美はちつとも重大なものではないとか、そんなやうなことを何か申し上げて。」
「そんなことを答へてはいけませんよ。美はちつとも重大ぢやない、たしかに。だから、今
先刻の暴言をやはらげるやうな、私のなだめすかして氣をしづめさせるやうな振りをして、こつそり私の耳を
小刀で刺すんですね。さあ、それから、私にはどんな缺點があります。手足も顏もすつかり他の
人並だと思ふのですがね。」
「ロチスターさま、御免遊ばせ。初めのお答を取消しにいたします。私はつきりした即答をするつもりではございませんでした。たゞもううつかりしてゐたのでございます。」
「成程、私もさう思ふ。だが、あなたは、その責任を持たなければいけませんよ。批評して下さい。どうです。私の額はあなたの氣に入りませんか?」
彼は額の上に水平にかぶさつた眞黒に波うつた髮をかき上げて、知能の器官の十分つまつた量を見せた。しかし慈悲のこゝろを示す
柔和な相の現はれるべき場所に優しい仁愛の
印はきれ/″\であつた。
「さあ、先生、私は馬鹿者でせうかね。」
「まあ、そんなことございませんわ! あの、もし、お返しにあなたが博愛主義者でゐらつしやるかどうかをうかゞふとしましたら、多分、私を
無作法だとお思ひになりますでせうね。」
「そらまた! 私の頭を撫でる振りをして、また小刀で突くのだ。それがつまり、
年寄や子供と一緒にゐるのが
嫌だと云つた理由なんですよ(小さな聲で云はなくちや)。いゝえ、お孃さん、私は普通いふ博愛主義者ではありません。但し良心はあります。」そして彼はその能力を示すと云はれてゐる突起を指さした。そしてそれは幸運にも、彼の頭の上の部分に實に特徴のある廣さを與へて、非常に目立つてゐた。「そして、その上に、一度はある種の幼稚な優しい心を持つてゐたのです。私もあなた位の年頃にはまつたく多感な男で、未熟ものや、撫育されないものや、
不仕合なものには心を惹かれました。併し運命がその後私を虐待したのです。あいつは
握拳で私を滅茶々々にこねまはしさへしたのです。だから今は私は
護謨毬のやうに堅く
頑固になつてる積りですよ。だが、塊の
眞中程に知覺のある點があつたり、まだ、一二ヶ所位は物の
浸み透る隙間もあるんですがね。さう、それでまだ望みがありますかね。」
「何の望みでございますの?」
「
護謨毬から人間への最後の逆戻りの望みがね。」
「たしかに葡萄酒を召し上り過ぎたのだ。」と私は思つた。そして、彼の奇妙な問にどんな答をしていゝかわからなかつた。彼に逆戻りの可能性があるかないか、どうして私に云ふことが出來るだらう。
「ひどく困つてますね、エアさん。私が立派でないと同じ位にあなたも綺麗ぢやないが、しかし困つたやうな容子は君によく
似合ひますよ。それにその方が都合がいゝのだ。何故つて、あなたのその
穿鑿ずきな眼が私の顏を離れて、敷物の花模樣の方ばかりを見てゐるから。だからもつと困つてゐらつしやい。ねえお孃さん、今晩は、私は人と一緒にゐたい、話がしてゐたい氣持なんですよ。」
かう云ふと、彼は椅子から起ち上つて、大理石の爐棚に腕を
凭せかけて立つた。さういふ態度をとると、彼の姿は顏と同じやうにはつきりと見えた――
並外れた胸の
幅は手足の長さと均整がとれないほどだつた。きつと大抵の人は彼のことを
醜男だと思ふだらう。しかし彼の態度には十分に無意識的な威嚴があり、彼の擧動は非常に
樂々としてゐて、彼自身の外形に對してはまつたく無關心の容子であつた。そして、元々身に
具はつてゐたのか、または偶然的なものか、
傲然として別種の權力に頼つてゐて、單なる外見上の美しさの缺點を
償つてゐるので、彼を見ると、人は必ず共に無關心になつて、
盲目的な不完全な氣持ではあつても、彼の自信を信頼するのであつた。
「今晩は、人と一緒にゐて話がしてゐたいのですよ。」彼は繰り返して云つた。「だから、あなたを呼んだのです。火もシヤンデリアも私の相手には十分ぢやないし、パイロットもさうぢやない。あいつらは話が出來ませんからね。アデェルは少しはいゝ、しかしまだ/\落第だし、フェアファックス夫人も同じくだし。あなたこそ、もしその氣になりさへすれば、きつと私の氣に入ることが出來るのです。あなたは私が呼んだあの最初の晩、私を困らせたでせう。あれ以來私は殆んどあなたを忘れてゐた。他の考が私の頭の中からあなたのことを
遂ひのけてゐたのです。だが今夜は、私は氣樂になつて、心にしつこく迫つてくるものを退けて、心を愉快にする想ひを呼び返さうと決心したのです。あなたに今口を開かせることは私を
歡ばせるでせう――あなたをもつとよく知る爲めに――だからお話しなさい。」
話す代りに私は
微笑んだ。そしてそれは滿足した
微笑みでもなければ、從順なものでもなかつた。
「お話しなさい。」と彼は催促した。
「何をお話しいたしますの?」
「何でも
好きなことを。話題の選擇も、その取扱方も兩方共すつかりあなたに
任せます。」
そこで、私は坐つたまゝ、何も云はなかつた。「もし彼が單に話しの爲めや見せびらかしの爲めに話すと、私のことを思つてゐるのだつたら、彼は
見當違ひの人間に話しかけてゐることがわかるだらう。」と私は思つた。
「君は
唖ですね、エアさん。」
私はまだ默つてゐた。彼は頭を少し私の方へよせて、私の眼の中まで突きとほりさうな素早い一
瞥を與へた。
「
意地つ
張るのですか。」と、彼は云つた。「困つたんですか。あゝ道理で。私は、馬鹿々々しい、まつたく失禮千萬なやり方でお願ひしたのですね。エアさん御免なさい。實際、これつきり二度とは云ひませんが、私はあなたを
目下の者として取扱はうとは思つてゐはしません――といふのは」(と彼は訂正しながら)「私はたゞ、年から云へば二十も違つてゐたり、經驗から云へば一世紀も
前に進んでゐるといふやうな結果から當然來る、そんな
優越だけしか求めないのです。これは正當なことです。
さう主張しますね、アデェルの口吻ですが。だから、この
優越によつて、たゞこれだけによつて、今ちよいと私に口を
利いて、私の心を晴れ/″\させて下さるやうにお願ひするのです。私の心はもうたつた一つの場所にばかり住んでゐて、
磨り

らされてゐます――
錆びた釘のやうに腐蝕してゐるのです。」
彼は、殆んど、あやまるやうな説明を口にした。私は、彼の謙遜な言葉に
無頓着ではゐられなかつたし、またさう思はれたくなかつた。
「私、よろこんで、あなたをお喜ばせいたしますわ。若し出來ましたら――本當に嬉しうございます。でも、私には話題を考へ出すことは出來ませんの、あなたがどんなものに興味を持つてゐらつしやるか、どうして私、存じてゐますでせう。私にお訊ねになつて下さいまし。さうすれば一生懸命にお答へいたしますから。」
「では先づ第一に、今話したやうな理由で私が今の地位にゐて、少々
專横で
唐突で、多分時にはやかましく云つたりするやうな權利を持つてもいゝと贊成してくれますか――つまり、私があなたのお父さん位の年だといふことや、あなたが一つの家に一つの家族と
穩やかに過してゐる間に、私は樣々の國の樣々の人と數々の經驗を
經て戰つて來て、地球の上を半分位も歩き

つて來たといふことに。」
「御自由になさいまし。」
「それぢや答へになつてゐない。却つていら/\させる位だ、だつて、ひどく曖昧ですよ。はつきりお答へなさい。」
「私、あなたがたゞ私よりもお年が上だからといふだけの、でなければ私よりも少し餘計に世の中を御覽になつたといふだけの理由で、私に命令なさる權利がおありにならうとは思ひません。私より
優れてゐるとあなたが主張なさることの出來る根據は、あなたが時や經驗を
役にお立てになつたところにあると思ひます。」
「ふん、てきぱきした返辭だ。しかし、それは私の場合には
一向に合はないことが分つてるからそれではいけませんよ。何故つて、私はその二つの有利なものを、
敢て惡用したとは云はないが、
無頓着な使ひ方をしましたからね。では優越を問題外にしても、まだ、命令の口調で氣を惡くしたり怒つたりしないで、時々私の命令を
受けてもいゝと云へますか。どうです?」
私は
微笑んだ。私はロチスター氏こそ
風變りだと、心で思つた――彼は私が命令を奉じて年三十
磅もらつてゐることを忘れてしまつてゐるらしかつた。
「その微笑はなか/\よろしい。」と素早く、かすめてゆく表情を見てとつて、彼は云つた。「だが話しの方もして下さい。」
「私、考へてをりましたの、給料を貰つてる部下が、命令を受けて、氣を惡くしたり怒つたりしやしないかなどゝ心配する御主人は
滅多にございませんわ。」
「給料を貰つてゐる部下! 何! あなたは、私の部下ですつて! さうですか、あゝ、さう/\、お給金のことを忘れてゐた! 成程、ではそのお金の方の立場から、ちよつと
許り
威張つてもいゝですか。」
「いゝえ、その立場からでなく、あなたが忘れてゐらしたそして
雇人がその下にゐて、氣持がいゝかどうかと心配してゐらしたその立場からでしたら、私、心から賛成いたします。」
「では、樣々の世間的な形式だの御挨拶だのをなしで濟まして許して下さいますか、その省略が無體から起るのだと考へずにね。」
「私、決して
略式と無禮とを間違へやうとは思ひません。前者は私も却つて好きでございます。後者は自由の身に生れたものなら、たとへお給金の爲めだつて、從ひはいたしません。」
「ふん、自由の身に生れた大抵の者が、給金の爲めなら何にだつて從ひますよ。だからあなたも自分を守つて、あなたのまるつきり知らない一般的なことを、
生意氣に云ふのはお止しなさい。それはともかく、少し
怪しげだがあなたの返辭に對して、言葉の内容と同樣にその云ひつぷりに對しても、心ではあなたと握手しますよ。卒直で誠實な云ひ方だ。そんなのは
滅多に見られるもんぢやない――いや、それどころか、反對に氣取つたり、冷淡だつたり、こつちの云ふ意味をまぬけな、がさ/\した氣持ちでとり違へる位がおきまりの
報酬さ。未熟な女學生の家庭教師三千人のうちの三人だつて、あなたが今したやうな答へをするものはないだらう。しかし私はあなたにお
追從を云つてるのぢやありませんよ。大概の人たちと異つた
鑄型にはめられて作られたとすれば、それはあなたの徳ぢやない。自然が
拵へたのです。そこで、結局、私はあんまり早く結論に來すぎてしまつた。何故かと云へば、今迄に私が知り得たかぎりでは、あなたは
他の人間より
優れてゐるとは云へないかも知れないし、あなたの僅かばかりの美點に平均してまた堪らないやうな缺點を持つてゐるかも知れないから。」
「そして、あなたもさうかも知れません。」と私は思つた。その思ひが私の心をかすめた時、私の眼は彼のと
出逢つた。彼はその一
瞥を讀みとつたらしく、その意味を想像した通りに話されでもしたやうに答へた。
「さうです、さうです、その通りです。」と彼は云つた。「私にも缺點は澤山ある。それは知つてゐます。それを辯解しようとは斷じて思ひません。神かけて私は他人の缺點に
嚴しすぎる必要はない。私にも、胸に手を置いて考へてみるべき過去の生活や、いろんな行爲や、墮落に染つた生活がある。それらは、私が他人にむかつて與へる冷笑や非難を、自分自身に
浴せるのが尤もな位のものなんです。そして
隣人から非難や嘲弄を受けるやうなものなんです。私は二十一の年に間違つた
針路をとつて出發したのです。といふよりはむしろ(他の破産者と同じく私も非難の一半を惡運と不幸な環境に歸したいので)突込まれたのです。そしてそれ以來、かつて正しい
針路にかへつたことはないのです。だが私はもつとずつと違つた風になつてゐたかも知れない。私もあなたのやうに善良で――
賢くて――殆んど
無疵な人間になつてゐたかも知れない。あなたのその心の平和、その澄んだ良心、その
汚れのない追憶が羨しい。ねえ、
汚點も
汚れもない追憶といふものは
素晴らしい寶玉ですね――
汲んでも盡きない清らかな元氣囘復の
源ですね。さうぢやありませんか。」
「あなたが十八でゐらした頃の思ひ出はどんなでございますか。」
「何も
彼もよかつたのです、その時は。清らかで健康で、どんなに外から水が
滲み込んで來ても汚ならしい
水溜りにはならなかつたのです。私も十八の頃にはあなたと同じやうでした――まつたくあなたと同じだつたのです。全體から云へば、
造化(自然)は私を善良な人間にしようと思つたのでした、エアさん――よりよい類の者にです。それでゐて私はさうではないでせう。さうぢやないとあなたはいふでせう。少くとも私はあなたの眼の中にあるだけは讀み取つた積りです(
序に云ひますが、あなたが、その器官で現はすものに氣をおつけなさいよ。私はその言葉をすぐに解釋するのですから)。で、それに對する返辭をするのです。でも私は惡者ではありませんよ。あなたはそんなことは想像しないでせう――そんな惡いことにかけての
偉さなんぞを、私にくつゝけはしないでせう。しかし、確かにさう思ふのですが、私は
生來の
性癖といふよりは寧ろ環境の爲めに、金持ちやくだらない奴等が、生活を刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、144-上-3]する爲めにやるつまらない
道樂に馴れつこになつて、飽き/\してゐる至つて平凡な
道樂者なんです。こんな白状をしたんで、あなたは驚きますか。これから先もあなたは幾度か求めもしないのに人から祕密をうち明けられる腹心の友にされることがあるでせう。私がやつたやうに、あなたといふ人は、自分のことを話すのが
得手ではなくて、人の話を聞いてやる方だといふことが人には本能的にわかるのです。そして誰でも彼等が祕密を洩らしてゐるのをあなたは決して惡意のある
侮蔑を持つて聞いてゐるのぢやない、ある
本然の同情をもつて、聞いてるといふことを感じます。同情のあらはし方が
目立たないからと言つて、慰めや
勵ましにならぬといふことはないのです。」
「どうしておわかりになりますの――どうしてそんなにもすつかりお
當てになれるんでございますか?」
「私にはよくわかつてゐます。だから私は、まるで日記にでも私の思想を書いてゐるやうに、すら/\續けて話すのです。あなたは、きつと、私が環境を
克服すべきだつたのだと云ふでせう。さうすべきだつたのです――さうすべきだつたのです。しかし、見られる通り私はさうぢやなかつた。運命が私を不公平に扱つた時、私には冷靜にしてゐるやうな智慧がなかつたのです。私は
自棄つぱちになつて、やがて墮落してしまひました。今、誰か不道徳な馬鹿者が、つまらない
下司口を
利いて私の胸を惡くするとしても、私には自分がその人間よりも上等だとは、お
世辭にも云へません。
彼奴も私と同じ位置にあるといふことを、白状しなければならないのです。今になつて、私は、堅實にしてゐればよかつたと思ふ――その氣持は神樣が御存じだ! あなたが
過に誘ひ込まれた時には、
後悔といふことをお恐れなさい。後悔は人生の毒ですよ。」
「
悔い改めは、その救ひだと申しますわ。」
「
悔い改めぢやない、改革がその救ひでせう。で、私は改革することが出來る――私にはまだその力がある――もし――だがそんなことを考へたつて何になるんだ、
足械をはめられ、
重荷を負はされ、呪はれた私のやうなものに。その上、幸福がかたく私を拒否したからには、私には人生の
快樂をとり出す權利がある。どんなに高價なものであらうとも、私は手に入れて見せる。」
「それでは、もつとその上、墮落なさるでせう。」
「多分。だが、もしも甘い新鮮な快樂を手に入れることが出來たら、どうして、私が墮落するでせう? 私は
蜜蜂が野原で集める野蜜のやうに、それを甘い新鮮なまゝに手に入れるのだ。」
「それは
刺すでせう――
苦い味がするでせう。」
「どうして、分るのです?――一度も味はつたこともないのに。どうしてそんなに
眞面目な――どうしてそんなに嚴肅な顏をしてるのです。あなたはこの
浮彫の頭と同じやうにそのことに就いてはまるで知つてはゐないのに。」(
爐棚から浮彫を手にとりながら)。「あなたは私に説教する權利はないのだ、人生の入口をさへ通らない、そしてその祕密には全く近づいたこともない
新參者のあなたには。」
「私、たゞあなたが
仰しやつたお言葉を御注意したまでゝございます。あなたは、罪は悔恨をもたらすと仰しやいました。また悔恨は人生の毒だと仰しやいました。」
「誰も
過ちのことなぞを云つてやしません。私は自分の頭の中を往來した考へが
過ちだつたとは、殆ど思つてはゐない。私はそれは誘惑といふよりはむしろ靈感だつたと信じてゐる。それは本當に親切で、本當に
柔かで――と云ふことを私は知つてゐる。ほら、また、その考へがやつて來た! それは決して惡魔ではない、私は斷言する。それとも、もしさうだとしても、それは光の天使の
衣を被つてゐるのだ。それが私の心の中に入つて來たいと云ふ時には、私はそんな美しいお客は迎へなくちやならない。」
「お信じになつてはいけません。それは本當の天使ではございませんわ。」
「またそんなことを云ふ、どうして分るのです。どんな直覺によつて、大膽にも、墮落した地獄の最高天使と永遠の
玉座からの使者――
導くものと迷はすものとの區別を見分ける顏をするのですか。」
「私はあなたのお顏色で判じました。あなたが、その考へがまたかへつて來たと仰しやつた時、あなたのお顏色が曇りました。私、もしあなたがそれに耳をおかしになつたら、それはきつともつとあなたを
慘めにするやうに思はれます。」
「いや決して――それは、世界中で一番
惠み深い使命を帶びてゐます。その他の點では、あなたは私の良心の番人ぢやないから、心配することはありません。さあ、お這入りよ、美しい
漂白人。」
これを彼はまるで彼の眼より他の眼には見えない幻にでも話すやうに云つた。そして
半ばひろげてゐた腕を胸の上に組み合せて、その抱擁の中にその目に見えぬ幻を抱き締めるやうに見えた。
「さて、」と彼は再び私に向つて言葉をつゞけた。「私はその巡禮を
諾け入れた――私が確かに信ずるやうに、
變裝した神樣をです。もう既にそれは私をよくしてくれました。私の心は今迄は
納骨堂みたいなものだつたけれど、もうこれからは神殿です。」
「本當のことを申しますと、私にはまるであなたのことが分りません。私、もうお話を續けることが出來ません。私、心の底から申してゐたのですから。たゞ一つだけ、私に分ります。あなたは御自分がなりたいと思ふ程善良ではないと仰しやいました。そして御自分の不完全さを悲しむと仰しやいました――一ことだけは分ります。あなたは、
汚れた記憶を持つてゐることは、絶えざる
害毒だと仰しやいました。私にはかう思はれます。もしあなたが一生懸命にやつて御覽になるなら、やがて御自分で滿足なさるやうなものになることがお出來になると。そして、もし今日からあなたが決心してあなたの考へや行ひを正さうとお
始めになれば、二三年のうちに、あなたは新らしい汚れのない記憶をたくさん
貯へることがお出來になつて、それをあなたは喜んで振り返つて御覽になれるでせう。」
「その考へも、正しい――その言葉も正しい、エアさん、私は、今一生懸命に地獄の鋪道を造つてゐるのです。」(諺に曰く、地獄の鋪道は實行を伴はぬ志で出來てゐる。)
「え、なんでございます?」
「
燧石のやうに持ちがいゝに違ひないと思ふ、よい
心掛の石を置いてゐるところです。これからはきつと、私の仲間も、遊びも今までとは違つてくるでせう。」
「いままでよりはよい?」
「さうです?――
雜りけのない
粗金が
汚い
鐵屎よりも遙かにいゝよ。あなたは私を疑つてるやうですね。私は自分を疑つてはゐない。私は、自分の目的が何か、
動機が何かといふことは知つてゐます。そしてたつた今、その目的も動機も正當だといふ
法令(モーゼやペルシヤ人の法令のやうな不變な)を制定します。」
「そんな、正當と認めさせるのに新らしい
法令が
要るやうでは、それは正當な筈がございませんわ。」
「大丈夫ですよ、エアさん、絶對的に新らしい
法令を要求しても。前例のない事情の組み合せは、前例のない法則を要求するんです。」
「それは危險な主義ぢやございませんか。だつて、
濫用される
虞れがあるといふことが直ぐに分りますから。」
「
名言家だ! それはさうです。だが、私は荒神(
羅馬のレアとペネイトの神)にかけてそれを
濫用しないと誓ひますよ。」
「あなたは、人間で、
誤りに陷りやすいものでゐらつしやいます。」
「さうです。あなたゞつてその通りだ――それでどうしたといふのです?」
「人間で、
誤り易いものは、神で、完全なものゝみに安心して
委せて置くべき力を、
僣取してはならないのです。」
「どんな力?」
「異常な、
認められぬ行爲をも『正しくあらしめよ』といふ力でございます。」
「『正しくあらしめよ』――その言葉だ。あなたの云つた通りだ。」
「ではその行動が正當でありますやうに。」と私は立ち上りながら云つた。私にはまるで分らない話を續けることは無用だと思つた。それに私の話相手の性格を
洞察することは不可能である――少くとも現在では出來ないことである――ことを感じ、また何も知らないといふことが分ると、それに伴つてくる不確實さと漠然たる不安な氣持ちを感じたのであつた。
「どこへ行くのです?」
「アデェルを寢かしに。寢る時間が過ぎてをりますから。」
「あなたは、私がスフィンクスのやうなことを云ふので、
怖くなつたんですね。」
「あなたのお言葉は謎のやうでございます。でも、私、當惑してはをりますけれども、決して
怖がつてはをりません。」
「
怖がつてゐますよ――あなたの自愛心が
失錯を恐れてゐます。」
「その意味でございましたら、私はたしかに氣づかつてをります。私、詰らないことをお話したいとは思つてをりませんので。」
「もし話したのだつたら、とても嚴肅な、おとなしい容子でやるんで、私はその意味を取り違へたことでせうね。あなたは笑つたことはないんですか、エアさん。返辭をしなくもようござんすよ――あなたは殆んど笑ひませんね。だがあなたはほんとに明るく笑へるのですよ。私が生れつき不道徳でなかつたと同じに、確かにあなたも生れつき
嚴しかつたのではありません。ローウッドの束縛がまだいくらかあなたにまつはつてゐるのです。表情を
抑へ、聲をひそめ、手足を束縛して、そして男の人や兄弟や――または、お父さんや主人や、その他何だつていゝが――その前に出て、あまり快活に笑つたり、あまり自由に話したり、または、あまりにすばしこく
動作したりすることを恐れてゐるのです。だが、そのうちに、あなたも、私に對しては、すなほになることが出來るだらうと思ひますよ、私が、あなたに對しては、世間的になれないと同じやうにね。さうすれば、あなたの顏つきも
擧止も、今よりはずつと
活々として、變化に富んでくるでせう。私は、時々、籠のせまい
仕切から覗く不思議な鳥の
眼差を見ますよ――活々とした、そは/\した、氣丈な
捕はれ者がそこにゐるのです。自由にしてやりさへすれば、それは空高く
翔つて行くでせう。あなたはまだ行きたいんですか。」
「もう九時を打ちました。」
「大丈夫――一寸待つてゐらつしやい。アデェルはまだ
寢床に行く支度をしてはゐませんよ。私の、この背中を火の方にして、顏を部屋の方に向けてる位置はね、エアさん、見渡すのになか/\都合がいゝのです。あなたと話してゐる間に、私は時々アデェルの方も氣をつけてゐたのです(あの子を變つた研究材料と思ふのには、私だけの理由があるのです――その理由はいつかあなたにお話してもいゝ、いや、お話しませう)。あの子は、十分ばかり前に、箱の中から可愛い
薄紅色の
上着を引張り出した。それをひろげると、あの子の顏は、嬉しさに輝いた。
媚態は、あの子の血にも流れてゐるし、頭にも
混つてゐるし、骨の
髓まで味をつけてゐるのだ。
「
“ll faut que je l'essaie!”(あたし、着てみなくつちや!)」彼女は叫んだ。「
“et
l'instant m
me!”(いますぐによ!)」そしてあの子は部屋から駈け出して行つた。「今ソフィイのところで着物を着せて貰つてゐます。もうすぐまた這入つてくるでせう。そして何を見るか私には分つてゐる――いつも舞臺に出てくるときのセリィヌ・

ァレンの
縮圖だ、幕が――だがそんなことはどうでもいゝ。それはさうと、私の最も
穩かな氣持ちが
衝動を受けようとしてゐる。そんな豫感がしますよ。さあ、それが實際になるかどうか見る爲めにとゞまつてゐらつしやい。」
やがて、アデェルの小さな跫音が廣間をよぎつて來るのが聞えた。彼女の
後見者が豫告したやうに、彼女は、着物を變へて、這入つて來た。薔薇色
繻子の、非常に短かい、スカアトには出來るだけたつぷりと
襞がとつてある服が、今まで着てゐた茶色の
上衣と代つてゐた。薔薇の
莟の花環が彼女の額にまかれ、足は絹の靴下と小さな
白繻子の靴とでよそはれてゐた。
「
“Est-ce que ma robe va bien?”(あたしの着物、よく似合つて?)」と、前進しながら、彼女は叫んだ。「
“et messouliers? et mes bas? Tenez, je crois que je vais danser!”(この短靴は? この靴下は? さあ、あたし、踊るわよ!)」
終にロチスター氏の所へ來ると、彼女は、
爪先で、彼の前で身輕くくる/\まはり、それから、彼の足下に片膝をついて、云つた――
「
小父さま、あたしあなたの御親切に對して
千遍もお禮を申します。」そして立上つて、「お母さまはこんな風になすつたでしよ、ねえ、違つて小父さま?」
「そのとほり!」といふ返辭だつた。「さうして、『
“Comme cela”(こんな風)』にしておまへのおつ母さんは、俺の英吉利ヅボンのポケットから英吉利金貨を
吸ひ寄せたのさ。私だつて世間知らずだつたのです、エアさん――えゝ、まつたくの世間知らずだつたのです。今、あなたを
活々とさせてゐる青春の色にも劣らぬ色が、曾ては私を活々とさせてゐたのです。けれど、私の春は
逝つてしまつた。しかし、それはあの佛蘭西の小花を私の手に殘して。ある氣持ちから、私はそれを捨てゝしまひたいのです。今は、黄金の
埃より外には養ふことが出來ないやうな種類のものだとわかつたので、その元根を尊重してはゐないし、花もその半分位しか好ましくないのです。特に今のやうに技巧的な容子をするときには。私は却つて、
彼女を大小樣々の罪を一つの善行によつて贖ふロオマン・キャソリックの主義で守り育てゝゐるぐらゐなんですがね。このことは、いつかすつかり、お話しませう。おやすみなさい。」
ロチスター氏は、後になつて、それを説明して呉れた。或日の午後のことであつたが、彼は
偶々庭で私とアデェルに
出會つた。そしてアデェルがパイロットとふざけたり
羽子をついたりして遊んでゐる間に、彼は、アデェルからも見える長い
椈の並木路を歩いて見ないかと私を誘つた。
その時に、彼は、アデェルがある佛蘭西の
歌劇踊り子であつたセリイヌ・ヴァレンの娘だといふこと、その佛蘭西の女は以前の彼の所謂「
首つたけ」の對象だつたことを話して呉れた。この首つたけのセリイヌは彼以上の熱烈さで彼の心に報いると見せかけたのであつた。彼は、自分が彼女の偶像だと思つた。
醜男ではあつたが、彼は、アポロ・ベルヴィディア(
羅馬の法王宮殿の一室にあるアポロ)の優美さよりも、彼の「筋骨の逞しさ」の方を、彼女が選んでゐると信じてゐた。
「そして、エアさん、その
佛蘭西の天女が英吉利の
侏儒を選んでくれたと云ふので、私の好い心持ちにさせられようといふものは、或るホテルにその女を
安置して、召使も置いてやれば、馬車だの、カシミアだの、ダイヤだの、
薄紗だの何だのと不足のない世帶を持たしてやつた程だつたのです。つまり、私も世間の鼻下長連と同樣に、型の通り、自滅の道を辿りはじめた。と云つて、私には不面目と破滅に陷ちてゆく新らしい方法をもくろむやうな獨創力もありはしないのです。たゞもう踏み馴らされた中心から一吋も
外れない馬鹿正直な几帳面さで、古い
轍を踏んで行つたものです。世の中のあらゆる痴者の運命を――當然受くべきだつたのだが――私も持つてゐたんですね。或る夕方、私はセリイヌが私を待つてゐない時に、ふいと訪ねてゆきました。すると出かけてゐて、ゐないのです。しかし、蒸し暑い晩で、私は巴里の街をずつと歩いて來たので、すつかりくたびれてゐました。そこで、私は彼女の居間に腰を下し、つい今しがたまでゐた女の爲めに
聖められてゐるそこの空氣を呼吸して、幸福な氣持ちになつてゐたのです。いや、これは誇張だ。私にしてもあの女に人を
聖める徳なんぞがあらうとは一度だつて考へなかつたことです。それは神聖な薫りといふよりも、彼女が殘して行つた香晶か何かの
麝香と
りうぜん香の匂だつたでせう。間もなく私は撒かれた香水や、温室ものゝ花の香氣で息苦しくなつて來たので、窓を開けて
露臺に出ることにしました。月の光とおまけに
瓦斯の光まであるのです。ひどく靜かで澄み切つてゐました。
露臺には椅子も一つ二つありました。で、私は腰をおろして、葉卷を出しました――所で今、失禮して一本吸ひますよ。」
こゝで、葉卷を取り出して火を
點ける間の沈默があとに續いた。それを唇に
啣へて、薫たかいハバナの煙を、
冷やかな曇り日の空氣にふかし、彼はまた語りつゞけた。――
「その頃はボン/\も好きでしたよ、エアさん。それで私はチョコレェトのキャンディをくちや/\噛んだり(どうも失禮なことを)煙草をふかしたり代る/″\やり乍ら、一方
華やかな通りを近くの劇場へと驅る馬車の群を眺めてゐると、その時、美しい二頭の英吉利産の馬をつけた
華奢な箱馬車がやつて來ました。輝やかしい夜の街にはつきり照し出されたのを見ると、その箱馬車は私がセリイヌにやつたものだと分りました。彼女が歸つたのです。無論私の胸は
凭れてゐた鐵の手摺を
焦々と打ちましたよ。思つた通りに馬車がホテルの入口で止ると、私の
情人は(これこそオペラ女の戀人に使ふにふさはしい言葉です)、車から
降りた。ふか/″\と外套に包まれてはゐましたが――
序ながら外套なんてものは暑い六月の夕方には必要のない邪魔物です――女が馬車の踏段から身輕に飛び下りたときに着物の裾からのぞかせた小さな足を見て、私は直ぐにセリイヌだと知りました。
露臺の上に屈みかゝつて、私は『
私の天使』と囁かうとしました――勿論戀するものゝ耳にしか聞えないやうな調子でね――するとその時彼女の後からもう一つの姿が馬車から飛び下りるぢやありませんか。同じやうに外套に包まれてゐるが
鋪石の上にカツ/\と鳴つたのは拍車をつけた靴の音です。そして見るとホテルのアアチ
型の正門を通つて行くのは帽子を被つた頭なんです。
「あなたはまだ
嫉妬を感じたことはないでせうね。エアさん? むろんない、實際、
訊く必要はないのだ。あなたはまだ戀を知らないのだから。戀も嫉妬もあなたはこれから味ふのだ。あなたの魂は、靜かに
睡つてゐて、その眼を醒ますやうな激動はまだ與へられない。あなたは、凡ゆる人生があなたの青春を此處まで運んで來たやうな靜かな
揚げ
潮に乘つて過ぎてゆくものと思ふでせうね。眼を閉ぢ耳を覆つたまゝ漂つてゆけば、潮流の底に、ほど近く
峙立つ
巖も見えず、また、その底に沸き返へる波濤も聞えない。ですがね、お聞きなさい――そして私の言葉を覺えてゐらつしやい――あなたも何時かは海峽の、狹い岩がごつ/\してゐるところに來るでせう。其處に來れば人生の
小やかな流は皆白く碎ける水泡やどう/\と鳴る音や渦卷や奔流の只中に碎け散つてしまふのです。あなたは岩角にぶつかつて粉微塵になるか、でなければ高みに上げられた拍子に外の大浪にのつてもつと
穩やかな潮流の方へ流されるでせう――今の私のやうに。
「私は今日のやうな日が好きだ。あの鋼鐵色の空や、この霜に蔽はれた世界の靜けさと
冷やかさが好きなのです。ソーンフィールドも好きです、その
古風さ
閑寂さ、古い、
鴉の木や
枳殼の木、灰色の
建物の正面、また鋼鐵色の空を
映す暗い窓の線などもね。しかも、どれ程長く私はソーンフィールドのことを、考へるのも厭に思つてゐたか知れないのです。大きな避病院でゝもあるやうに寄りつかなかつたのです! 今だつてまだどれほど嫌つてゐるか――」
彼は
齒噛みして沈默した。彼は歩みを止めて固い地面を長靴で蹴りつけた。あの
忌はしい想念が彼を掴んで、一足も前に進めない程、彼をしつかりと引留めてゐるやうに見えた。
彼がそんな調子で默つてしまつた時、私たちは並木路を上りつゝあつた。
館は私たちの前にあつた。その鋸壁を見上げながら、彼は、その時限りで後にも
前にも見られなかつたほどの烈しい目付を投げつけた。苦惱、恥辱、忿怒――焦躁、憎惡、嫌忌――それらが瞬間、彼の
漆黒の眉の下に大きく見開かれた瞳の中で
ぞつとするほどひしめき合つた。どれが勝ちを占めるか、その爭ひは激しかつたが、或る冷酷な、皮肉な、
依怙地な、斷乎とした感情が現はれて、彼を征服してしまつた。それは彼の昂奮を鎭め、顏色を落ちつけた。彼はまたつゞけて云つた――「今默つてゐた間にね、エアさん、私は運命と談判してゐたんですよ。そいつは、そこのあの
椈の幹の側に立つてゐたつけが――フオレスのヒイスの上でマクベスに現れた奴等の仲間みたいな妖婆です。『お前はソーンフィールドが好きだつて?』と指をあげて云ふのです。それからね、そいつが空中に、或る
印みたいなものを書くと、それが蒼白く光る
象形文字になつて、ずうつとあの主家の正面にそつて走つたのです。あの二階の窓と下の窓との間の所に。『出來るものなら
好いて見せろ!』『
意地をはりたけりや
好いて見せろ!』」
「『好いてやらう。』と私は云つた。『きつと
好きになつて見せよう。』で、私は(彼は不機嫌らしく云ひそへた)私の云つたことを守つて見せる。幸福を妨げ、善への道を
阻むものは打ち壞してやります――さう、善ですよ。私はこれ迄よりもいゝ人間になりたいんです。現在よりもね――ヨブの
大鯨が
手槍だの投槍だの
鎖子鎧だのを滅茶々々にしたのと同じやうに、私は、他の人間が鐵とも眞鍮とも思ふ妨害を、藁か腐つた
木片かなんぞのやうに扱つてやらうと思ふのです。」
このときアデェルが
羽子を持つて彼の方に駈けて來た。「あつちへ!」彼は亂暴に呶鳴りつけた。「向うにゐなさい、でなけりやソフィイの所へ行きなさい。」それからまた、彼に從つて默々と歩みつゞけながら、私は彼がすつかり離れてしまつた話題を思ひ出させようと思ひ切つて云つてみた――「あのそれでヴァレンさんが這入つていらした時に、
露臺をお離れになりましたの?」
この少しも折に合はない質問は、多分はねつけられるだらうと覺悟してゐたのに、反對に、
蹙め顏の放心状態から我にかへつて、彼は私に眼を向けたが、その
額の曇はすつかり消えてしまつたやうに見えた。
「あゝ、セリイヌを忘れてゐた! よろしい、また始めませう。で、今云つたやうに一人の騎士に附き添はれて這入つて來た私の戀人の姿が目に
映ると、
しつ/\といふ
蛇聲が聞えて忽ち緑色の嫉妬の蛇が、月の光を浴びた
露臺からうね/\ととぐろを伸して鎌首を持ち上げ、私のチヨッキの内側に
滑り込み、二分たつ中には私の
心の髓まで食ひ込んでしまつたのです。變だなあ!」突然彼は其處でまた如何にも驚いたやうに叫んだ。「私があなたをかういふことの『腹心の友』に選ぶといふのは變ぢやありませんか、お孃さん。いや、もつと變なのは、私のやうな男が、あなたのやうに未經驗な、
異つた娘さんに自分のオペラの情人たちの戀物語を聞かせるなんてことが、
極く世間普通のことでゝもあるやうに、さうやつてあなたが靜かに私の話を聞いてゐるといふことですよ。併し、前に私がちよいと云つたやうに、あなたの人と異つた所がさうさせるんですね。あなたの
生眞面目さや、思慮深さや、
愼ましさの
所爲で、あなたは祕密な話の聽手になるやうに造られてゐるのです。その上、私にはどういふ種類の心に、自分の心を觸れさせてゐるかゞ分るんです。それは惡いことを聞かされても感染しさうにない一種特別な心なのです、類のないものです、幸、私はそれを毒しようとは思つてゐない、だが假にそのつもりになつたとしても、私から毒を受けるやうな心ではないのです。私とあなたは話をすればする程いゝ、と云ふのは私はあなたを傷つけないし、あなたは私を元氣づけてくれますからね。」この脱線の後で彼は語りつゞけた――
「私は
露臺に
凝としてゐました。『彼奴らはこの
居間にやつて來るに相違ない、』と私は考へた。『待ち伏せの場所を用意して置かう。』そこで開いてゐた窓の中へ手を差入れて、こちらから見えるだけの隙間を殘してカアテンを引きました。それから窓の扉も、戀人同士が囁き交す、
誓言の出口に間に合ふだけの幅を殘して
閉めてしまひ、私はこつそり椅子に歸りました。するとそのときその二人
連が這入つて來たのです。私は
素早く隙間の上に眼を
宛てがひました。セリイヌの部屋附女中が這入つて來て、
洋燈を
點し、
卓子の上に置いて
退りました。かうしてこの二人
連がはつきりと私の眼に照し出されたのです。二人が外套をとると、そこに現れたのは
繻子や寶石で――無論私の贈り物ですが――まばゆいばかりのヴァレンと、將校服の彼女の
連の姿でした。所で私はその男を或る若い道樂者の子爵として見知つてゐたのです――馬鹿な上に
放埓な男で、社交界で折々顏は合せてもつひぞ嫌つてやらうとも思はなかつた程に全然輕蔑し切つてゐた奴なんです。彼奴だと分ると
嫉妬の蛇の
牙は即坐に折れてしまひましたよ。と云ふのはそれと一緒にセリイヌに對する私の戀も蝋燭消しの下に消えたからです。こんな
戀敵の爲めに私を裏切るやうな女なら爭ひ甲斐もない。輕蔑してやりさへすれば、それでいゝのです。だが、それにしても私よりは増しですよ、私と來ては其奴に
瞞されてゐたんですからね。
「二人は話をはじめましたが、それを聞いてすつかり氣が
樂になりました。云ふことが輕佻で功利的で、
眞心がなくて、馬鹿氣切つてゐて、聞いてゐるものを怒らすよりは、寧ろ退屈させようとかゝつてゐるんぢやないかと思はれる位なんです。私の名刺が一枚、
卓子の上に置いてあつたので、これが目につくと私の名が二人の間に持ち出されましたが、二人共に私を
手嚴しくやつゝけるだけの機智や精力の持合せはありやあしない。たゞ彼等相當の
けちなやり方で精一ぱい口汚なく私を侮辱するんですね。殊にセリイヌの方は私の姿の缺點にわざ/\
光澤をつけてくれましたよ――片輪と云つたものです。ところで彼女の
口吻に從へば、私の『
好男子ぶり』をべら/\夢中になつて
讃め立てるといふのが、彼女の癖でした。其處がセリイヌのあなたと全然違ふところですね。あなたは二度目の會見で卒直に私を美男だとは思はないと云つて下すつた。あの時その
對照に私は打たれたのです、そして――」
この時またアデェルが駈けて來た。
「
小父さま、今ジョンがね、あなたの代理人が來て、お目にかゝりたがつてますつて云ひましたわ。」
「ぢあ、話を
端折るとしなくつちや。で、その窓を開けると私はづか/\這入つて行つたのです。先づセリイヌを私の手から自由にしてやり、ホテルを引拂ふやうに命じ、さし當つての急場の
凌ぎに
財布を差出して、
金切聲にも、ヒステリイにも、嘆願にも、抗議にも、
痙攣にも一切とり合ひませんでした。そして子爵とはブロニュの森で會合することを取り
決めたのです。次の朝私は彼と決鬪をする喜びを持つた。私は、
舌病に罹つた
雛つ子の翼のやうに弱々しくつて、蒼ざめた哀れな相手の片腕に
彈丸を一つ見舞つて來ました。そしてこれですつかり縁を切つてしまつたと思つたのでした。しかし、不幸なことに、その六ヶ月以前から、ヴァレンは、この小娘のアデェルを私に呉れてゐたのです。私の娘だと彼女は斷言した。多分さうなんでせう。併し私にはアデェルの容貌に、
嚴つい顏の父系を引いてゐるといふ證據はまるで認められないのですがね。パイロットの方があの子よりはまだ私に似てゐますよ。私とアデェルの母親とが縁を切つてから五六年後に、彼女は子供を置き去りにして、或る音樂家だつたか歌手だつたかと一緒に伊太利に
驅落ちしたのです。私は、アデェルの方で、私に
扶養されるべき當然の權利があると云ひ立てるのを、全然認めませんでした。今だつて認めてやしませんよ。私はあの
娘の父親ぢやありませんからね。ですが、あの
娘が非常に
慘めな暮しをしてゐると聞くと、私は、それでも、その可哀さうなものを巴里の
泥濘の中からぬき取つて、英國の田舍の花園の豐饒な土に植ゑ
更へて、
汚れなく成長させようと思つたのです。フェアファックス夫人はそれを仕立てゝ貰ふ爲めにあなたを見付けたわけなのです。だが現在、かういふわけで、あの
娘が佛蘭西の歌劇女優の
私生兒だと分つて見ると、恐らく、あなたの
任務や
被保護者に對するあなたの考へも變つて來るでせう。そのうちに、他に仕事を見つけたからと云ふので――どうか新らしい家庭教師をお探しになつて、などゝ私の所に頼みに來るんぢやないかな――え?」
「いゝえ。アデェルはお母さまとあなたと、どちらの過失に對しても何の責任もございませんわ。私はあの方を
可愛く思つてをります。それに今あの方が或る意味では、御兩親のない方だと伺つて――お母さまには捨てられ、あなたからは見離されて――私は今迄よりももつと可愛がつて差上げようと思ひます。どうしたつて、私、まるでお友達のやうに私に頼つて來る獨りぽつちの小さなみなし兒を、家庭教師を
厄介者のやうに厭がるお金持の家の我儘娘なんぞに見かへることは出來ませんわ。」
「成程、あなたの
見地は其處にあるんですね。處で、もう家に歸らなくつちや。あなたもですよ。暗くなつて來た。」
だが、私は暫くアデェルやパイロットと一緒に外にゐた――彼女と駈けつこをしたり、
羽子突きをしたりして。家へ歸ると、私は、彼女の帽子や外套を脱がしてやつて、彼女を膝の上に抱き上げた。人にちやほやされるときに限つてしたがるつまらないことや、何かちよいとした
氣儘さへも
咎めず、彼女の好きなやうにお
饒舌をさせながら、私は一時間ばかりもさうしてゐた。彼女のそんな
擧動は、多分母親の血を引いたものなのであらう、英國氣質にはどうしてもぴつたりしない淺薄な性質を示すものであつた。でも、彼女は、まだ長所をいくつも持つてゐた。そして私は彼女の中のいゝものをみんな最上に評價してやりたいと思ふのであつた。私は彼女の顏付や目鼻だちに、ロチスター氏と
似通つた所を探して見た、が何もなかつた――何らの特徴も表情の變化も、血のつながりを示してはゐないのだ。それは
憐れなことであつた。もしも彼女が彼に
似通つてゐることを明かに證據立てることが出來たなら、それだけでも、彼はもつと彼女を心にかけたであらうに。
私がロチスタアー氏の話をしつかりと批判したのは、夜、自分の部屋に引きとつてからであつた。彼が云つたやうに、話しそのものゝ持つ意味には、恐らく何らの異常なものもないのであつた――或る佛人の踊り子に對する富有な英人の戀、そして女の心變り、と云へば、確かに交際社會では日常の
些事に過ぎないだらう――しかし、彼が現在の滿ち足りた氣持ちと、この
舊い
建物と、それをめぐるものゝ中に新らしく
甦つた悦びを話してゐたときに、突然彼を掴んだ感情の激發には、明かに異常な何かゞあつた。私はこの出來事を深く心に
訝つたが、今のところ、それをどう解釋しやうもないと氣がつくと、何時か止めてしまつて、今度は私に對する主人の態度に就いて考へはじめた。彼が私に置くのに
相應しいと考へた信頼は、私の思慮に對する讚辭なのかも知れない。私はそれをそのまゝに顧みて受けるばかりだ。この幾週間といふもの、私に對する彼の態度は、最初よりずつと一定してゐた。私は決して彼の邪魔になるとは見えなかつたし、彼も
意地惡な
傲慢な容子を出さなかつた。思ひがけなく私に
出會つてもそれを喜ぶものゝやうに、いつも何か一口言葉をかけたり、時に
微笑みも見せるのであつた。また、正式に呼ばれて彼の前に出たときには温かな心からの
款待を受けるので、本當に私には彼を樂しませる力があつて、そしてかうした夜の會談も、私の爲めといふこともあるが、彼自身の樂しみの爲めにもなつてゐると思はれるのであつた。
實際、私は、比較的口數をきかなかつた。さうして、彼の話を聞いて味はうた。お喋りは、彼の生れつきであつた――彼は、世間知らずの心に、世の中の樣々な情景や生活を示すことを好んだ(と云つても、墮落した情景や惡徳のある生活ではなくして、その規模の大きさが興味を惹き、目新らしい珍らしさが特徴になつてゐる樣々な情景や生活であつた)。だから、私は、彼が提供する新らしい觀念をうけ入れることや、彼が描き出して見せる新らしい繪を心に描いたり、それからひろげて見せてくれる知らない地域を、彼に從つて考へて見たりすることに鋭い喜びを持つのであつた。一度だつて彼の口から出るよくない
隱喩や
諷刺に
吃驚りしたりまごついたりしたことはなかつた。
彼の
氣易い態度は、私を辛い束縛から自由にした。當を得た、本當に親切な友人らしい氣さくさで――彼は、私を扱ひ、私をひきよせた。時々私は何だか彼が主人といふよりも自分の身内のやうな氣がするのであつた。とは云つても、まだ相變らずの
專制君主ぶりは時々出るのだが、私は氣にかけなかつた。それは彼の癖なのだと云ふことが分つてゐたから。日々の生活に加はつた、この新らしい興味で、もう
肉身を
[#「肉身を」はママ]慕つて悲しむこともなくなつた程、ほんたうに幸福な、滿足した氣持ちを持つやうになつた。新月のやうに、細くかよわかつた私の運命は次第に大きくなつて來るやうに思はれた。私の生活の
空白はすつかり充たされた。身體もよくなつて、ずつと肉がつき、氣力も増した。
では、ロチスター氏は今、私の眼に醜いものだつたか? 讀者よ、さうではなかつた。感謝とすべて快く
温かい聯想の數々は、彼の顏を何よりも私の見てゐたいものにしてしまつた。彼がそこにゐるといふことは、あか/\と輝く火よりも部屋を樂しくした。それでも私は、彼の缺點を忘れはしなかつた。實際出來なかつたのだ。彼は屡々缺點を私に見せたので。彼は傲慢で、皮肉で、何に限らず卑俗なのを全然
假借しなかつた。私に對して甚しく親切なのも、私以外の澤山の人に對する不當な
嚴しさで差引されてしまふと私はこつそり考へてゐた。それにまた彼の
氣難かしさは――辯護のしやうもない位であつた。私が時々彼に讀んで聞かせる爲めに呼ばれて行つて見ると、一度ならず彼は腕組をした上に首を垂れて、たつた一人で書齋に坐つてゐた、そして彼が頭を上げた時には、
氣難かしい、殆んど惡意のある
顰みがその顏付を暗くしてゐるのであつた。しかし、彼の
氣難かしいことも、粗暴なことも、過去の道徳上の失敗も(私は過去といふ、何故と云へば、現在は改められたと思ふから)、みなその
源を運命の、むごい、くひちがひに發してゐるのだと思つた。彼は、環境が育て、教育が染み込ませ、運命が鼓舞するよりも、より純粹な趣味を持ち、よりよい傾向とより高い
節義を持つて生れた人なのだ。彼にはほんたうに
優れた素質があるのだ。
假令現在はそれらが皆いくらか
害はれ、こんがらがつて、一つに固まつてゐるとしても。私は何によらず彼の悲しみの爲めに悲しんだことを否定しない、そしてまた、彼のその悲しみを鎭めるのに隨分と役立つたことも。
私は蝋燭を消して
寢臺に横になつたけれど、あの並木路で彼が歩みを止めて、そして、運命が彼の前に現れて、ソーンフィールドで、幸福になれるならなつてみろと云つたと話した時の彼の面持を思ふと眠れなかつた。
「
何故駄目なのだらう?」私は自問した。「何があの方をこの家から遠ざけるのだらう? またすぐ、あの方は行つておしまひになるのかしら? フェアファックス夫人は一度に二週間以上は
滅多にお
泊りにならないと云つてゐたのに、今度は、もういらしつて八週間になるのだ。もしか、行つておしまひになるとしたら、その變化がどんなに悲しいだらう。もう春も夏も秋も、多分あの方はいらつしやるまい。あゝ、日の光も、美しく晴れた日も、どんなにつまらなく思はれるだらう!」
考へつゞけてその後は眠つたのか眠らないのか分らないが、兎に角私は變な
呟きを聞いて
はつと眼をみひらいた。
奇異な陰氣なその
呟きは私の直ぐ眞上に聞えたやうだ。私は
燭をつけて置けばよかつたと思つた。夜は物凄いやうに
眞暗で、私の魂は
壓しつけられてしまつた。私は床の上に起き上つて、耳を澄したが、もう音は止んでゐた。
私はまた眠らうとした。けれども私の心臟は不安らしくどき/\しはじめて、心の靜けさはすつかり破られてしまつた。と、ずつと下の
廣間で、時計が二時を打つた。ちやうどその時、何だか私の室の
扉に
觸つたものがある。ちやうど、外側の
眞闇な廊下に沿つて、
扉の鏡板を指で手探りでもしたやうに。「誰です?」私は云つた。答はない。私はぞつとした。
瞬間に私は思ひ出した。パイロットではないだらうか、
彼犬は臺所の
扉が開け放してあるやうなことがあると、ロチスター氏の部屋の
敷居のところまで上つて來るのは珍らしくないのだから。私は彼の犬がそこで寢てゐるのを、朝になつてよく見たものだ。さう思ひ付くといくらか氣が
鎭まつて横になつた。
四邊が
[#「四邊が」は底本では「匹邊が」]しんとすると神經も落着く。で、たれこめた沈默が今また
邸の中を支配してしまふと、もう一度
睡眠が私に歸つて來るのが感じられたけれども
所詮その夜は眠るやうに運命づけられてはゐなかつたのだ。夢は私の耳の傍へ近づくか近づかない間に、骨の髓も
凍る程の恐ろしい出來事に
脅かされて
怖氣づいて逃げ去つた。
それは惡魔のやうな笑ひ聲だつた――低く、
壓へつけられた、そして太いその聲は、ちやうど私の部屋の扉の
鍵穴のところで聞えたやうだつた。私の
寢臺の頭部は
扉の近くにあつたので、最初私はその恐ろしげに笑ふ人は、
寢臺の側に立つてゐるのだと思つた――それどころか私の枕に
凭れかゝつてゐるのだと。けれども起き上つてあたりを見

はしても、私は何も見ることが出來なかつた。でもそのままぢつと眼を
瞠つてゐると、奇怪な物音はまた起つた、確かに鏡板の向うからだ。私の最初の衝動は飛び上つて
扉の横木を堅くさすことであつた。そして再び叫んだ、「誰です?」
何かゞ咽を鳴らして、低い呻き聲をたてた。暫くすると廊下を三階の階段の方へ歸つてゆく跫音がした、その階段には近頃それを塞ぐ
扉が造られてゐた。その
扉が開いて
閉まるのが聞え、そしてすべては
寂然としてしまつた。
「グレイス・プウルだつたのかしら、惡魔にとつつかれたのだらうか。」と私は考へた。あゝ、もうとてもこの上一人つきりではゐられない。フェアファックスのところに行かなくては。私は大急ぎで
上衣とショールを引つかけて、横木を
外し、
戰へる手で
扉を開けた。と、すぐ外側の廊下の敷物の上に一本の火の
點つた蝋燭が置いてある。この光景に私は驚いた。だがもつと驚いたことには其處の空氣はまるで煙で一ぱいになつてゞもゐるやうに濛々としてゐるのだ。一體この青い煙は何處から流れて來るのかを知らうと見

してゐると、私は更に、ひどく
焦臭いのに氣がついた。
何かゞきい/\鳴つた。一枚の
扉が開いてゐるのだ、それはロチスター氏の部屋の扉であつた。そして
渦まく煙は一
團になつて其處から吹き出してゐるのだ。最早フェアファックス夫人のこともグレイス・プウルのことも、あの笑ひ聲も私の頭にはなかつた。矢庭に私は其處に飛び込んだ。
寢臺を圍んで投槍のやうに突進する焔の舌。めら/\と火を吐く
垂布。その焔と煙の眞中にロチスター氏は
身動きもせず横たはり、ぐつすりと眠つてゐるのだ。
「お起き遊ばせ! お起き遊ばせ!」私は叫んだ――そして
搖ぶつた、が彼は唯呟いて寢返りをしたきりであつた。煙が彼の知覺を
鈍らしたのだ。もう一秒もかうしてはゐられない、火は敷布にも移つて來た。私は水差と洗面器の方へ駈け寄つた。幸ひにも一つは廣く一つは深くつて兩方共一ぱい水が這入つてゐた。私はやつとそれを持ち上げて
寢臺とその
住居者を水
浸しにした。そして飛ぶやうに部屋に歸つて、私の水差を持つて來て改めてその
寢臺に洗禮を授けた。さうして神の助か、
寢臺をなめ盡さうとしてゐた火

を消し止めることに成功したのであつた。
燃殼のぷす/\いふ音や、水を
空けた時にはずみで
投り出してしまつた水差の
毀れた響、それに何よりも私が惜しまず施した
驟雨浴の
水沫が漸々ロチスター氏を起した。あたりは全く暗かつたが私には彼が眼を醒したのが分つた。何故なら水溜りの中に寢てゐるのに氣がついた彼が、奇妙な
呪咀の言葉をぶつ/\呶鳴り散らしたので。
「洪水ですか。」彼は叫んだ。
「いゝえ、さうぢやありません。」と私は答へた。「火事がございました。さ、お起きになつて、どうぞ。もう火は消えました。私、蝋燭を持つて參りませう。」
「
基督教國のあらゆる妖魔の名にかけて――そこにゐるのはジエィン・エアぢやないか?」彼は詰つた。「私をどうしようてえんだ、え?
魔女奴! 他にもまだ誰かゐるんですか。私を溺らせるつもりだつたんですか。」
「蝋燭を持つて參りますわ。そして
後生ですからお起きになつて下さいまし。誰かゞ何か
企らんだのです。何事だかまた誰の
仕業だか、お
査べになるのに早過ぎはしまいと思ひます。」
「さあ、起きました。だがまだ蝋燭を持つてきちやいけない、何か乾いた着物を着るまで二分間待つて下さい――何か乾いたものがあるなら、ですがね――よし、此處に
寢間着がある。ぢや行つて下さい。」
私は、走つて、まだ廊下にあつたあの蝋燭を持つて來た。彼は、それを私の手から取つて、高く提げて
寢臺を
檢べた。何も
彼もが眞黒に燻つてゐた。敷布はビショ/\になり、絨毯は水の中を
泳ぎまはつてゐた。
「こりやなんだ? 誰がやつたんだ?」と彼は
訊いた。
私はその夜の出來事を
掻いつまんで彼に話した。廊下に聞えた
奇怪な笑ひ聲のこと、三階に上つて行つた
跫音のこと、煙と――私を彼の室に導いた
焦臭い匂ひのこと、私が見つけたときの室の光景、運べる限りの水で彼を
水浸しにした
顛末など。
彼は甚だ眞面目に耳を傾けてゐた。話が進むにつれて、彼の顏は單なる驚愕以上に深い
懸念を表はした。私が話し終へても、彼は直ぐに口を開かうとはしなかつた。
「私、フェアファックス夫人を呼んで參りませうか。」と私は訊ねた。
「フェアファックス夫人? 冗談ぢやない。一體なんだつてあの人を呼ぶんです? あの人に何が出來ますか。邪魔をせず寢かしてお置きなさい。」
「ではレアを連れて參りませう、それからジョンとお
内儀さんを起して。」
「いや結構。いゝから靜かにしてゐらつしやい。ショールをしてゐますね? まだ十分に
温かでなけりや、あの私の外套を着てもいゝ。あれにくるまつてその
腕椅子にお掛けなさい。さあ――私が着せて上げよう。そこで
濡らさないやうに足を足臺の上に置いて下さい。私はちよいとの間あなたを置いて行きます。蝋燭は持つて行きます。私が歸つて來るまで其處にじつとして廿日鼠みたいにおとなしくしてゐるんですよ、私は一つ三階をみて來なくちやならないから。いゝですか、動いてもいけない、誰かを呼んでもいけないつてことを覺えてゐらつしやい。」
彼は行つた。私は
遠退いてゆく
燭光をじつと見まもつてゐた。彼は極めて靜かに廊下を
過り、出來るだけ音をたてないやうに階段室の
扉を開けて後を
閉した。それで
燈火の最後の光も消えてしまつた。あやめも分らない闇黒に私は取殘されたのであつた。何か物音がするかと耳をすましたけれど、何も聞えては來ない。長い/\時間が過ぎて私は次第に疲れて來た。外套を
透して
寒氣はしん/\と身に沁みた。さうなつてみると私には家人の眼を醒してはいけないと同時に、何だつて此處にじつとしてゐなくてはならないのか、さつぱり譯がわからなかつた。で、あはやロチスター氏の命令に
背いて、彼の不興を買はうとした
途端に、燭光が再び廊下の壁に仄暗く輝いて、靴を
脱いだ彼の足が敷物を踏んで來るのが聞えた。「あの
方だといゝ。」と私は思つた。「何か他の
怖いものではないやうに。」
彼は蒼ざめてひどく憂鬱な容子で部屋に歸つて來た。「すつかり突きとめて來ましたよ。」彼は洗面臺の上に、蝋燭を置きながら云つた。「想像通りだつた。」
「どうなんでございますか。」
彼は返辭をしなかつた、たゞ床に眼を落して兩腕を組んで立つてゐるばかりだ。四五分間
經つて彼は寧ろ變てこな調子で
訊いた――「實は忘れてしまつたんだが、あなたがあなたの部屋の
扉を開けたときには何かゐたの?」
「いゝえ、なんにも。たゞ、床の上に蝋燭があつたきりでした。」
「だが變な笑ひ聲は聞いたんですね? 前にもそんな笑ひ聲を聞きはしなかつた? 確か聞いた筈だと思ふが――あんな風なのをね。」
「え、聞きました。こちらのお針をしてゐるグレイス・プウルつて云ふ人――あの人がさういつた笑ひ方をいたしますの。變な人でございます。」
「さう、さうです。グレイス・プウル――あなたの
推量通りですよ。あの女は變つてる――非常にね。ところで、これは一つよく考へて見ませう。それはそれとして、今夜の出來事の
詳細を知つてゐる者が私以外にはあなたきりだつたのは幸ひだつた。あなたはお
喋舌ぢやない、これに就いては一言も云はぬことにして下さい。こいつは(と
寢臺を指して)いづれ私が何とか理由をつけるとしませう。ぢや、もう部屋にお歸りなさい。私は殘りの時間は書齋のソフアで工合よく休みます。もう間もなく四時だ、二時間
經てば女中達が起きるでせう。」
「では、おやすみ遊ばせ。」行かうとして私は云つた。
彼は
吃驚りしたやうに見えた――今、私にお歸りと云つたのに、吃驚りするなんて、ひどく矛盾してゐるわけだが。彼は叫んだ。
「おや! もう私を
おいてきぼりにしようと云ふんですか。それもそんなやり方で?」
「あなたが行つてもよいと仰しやつたのでございますわ。」
「だがお別れもせず、一言か二言お禮や挨拶の言葉も云はせずぢやいけない、つまりそんなぶつきら棒な
冷淡なやり方ぢやいけませんよ。ねえ、あなたは私の
生命の親だ――恐しい
酷い死の手から私を取戻してくれたのだ――それにあなたはまるでわれ/\が旅人同志でゝもあるやうに私の側を通つて行つてしまふ!――せめて握手をしようぢやありませんか。」
彼は手を差し出した。私も自分の手を彼に與へた。最初は片手、それから兩手で彼は私の手を握り締めた。
「あなたは私の
生命の親です。私は、あなたに對してそれ程莫大な負債があるのが嬉しい。これ以上は私には云へない。あなた以外の者が、私にこんな恩を
施して恩人の資格になつたら、私にとつてはこれより我慢のならないものはあるまいと思ふ位だ。だがあなたのは――それとは違ふ。ジエィンの恩惠は私にはちつとも重荷ぢやないんだ。」
私をじつと
凝視めて、彼は口を
噤んだ。言葉は殆んど現はれかけて彼の唇の上で
顫へた――しかし、彼の聲は
壓しつけられてしまつた。
「では、もう一度、おやすみ遊ばせ。こんな場合には、負債だの、恩惠だの、重荷だの、義務だの、そんなものは何んにもございません。」
「私には分つてゐた、」と彼はまたつゞけて云ふのだつた。「
何時か、何かの方法であなたが私に盡してくれるといふことがね――初めてあなたに
會つたときにあなたの眼を見てさう思つたんです。其處に浮かんだ表情と
微笑みが私の――(彼はまた口を
噤んだ)――私の(早口に彼はつゞけた)胸の奧底まで、
悦びを感じさせたのはかりそめのことではなかつたのです。相性なんてことを云ひますね。私は
いゝ守り神の話を聞いたことがあるが――原始的なお
伽噺の中にだつて眞理の
粒はありますよ。私の大事な保護者――ぢや、おやすみ!」
彼の聲には不思議な熱が籠つた、その
眼差も不思議な光を湛へた。
「私、本當に、ちやうどよく眼が醒めて嬉しうございました。」さうして私は行かうとした。
「なんだ! あなたは行きたいんですか。」
「私、寒いのですもの。」
「寒い? さうだ――おまけに
水溜りに立つてゐるんだ! では、ジエィン、もうよろしい、あちらへいらつしやい。」でもまだ彼は私の手を離さなかつた、それに振り切つて行くことも私には出來ないのだ。私はふと一策を案じた。
「あの、フェアファックス夫人が動いてるやうでございますわ。」
「あゝ、ぢやあお行きなさい。」彼は指を
弛めた。で、私は出て行つた。
私はまた自分の
寢臺に歸つて來たけれど眠らうとも思はなかつた。朝が白々と明け離れるまで、私は輝やかな、しかし波立つてゐる大海に搖られ搖られてゐた。憂ひの波は
悦びの
巨浪の下に捲かれてしまふのであつた。私は時々
逆まく波の彼方にブラウ(
バアニアンの『天路歴程』)の丘のやうな美しい岸邊を見たと思つた。をり/\
爽やかな風が希望によび醒されて勇みたちながら、私の魂をその岸邊へ運んでゆく。しかし空想の中でさへ、私はそこまで行くことが出來ない――
逆風が
陸の方から吹きつけて、始終私を追ひ歸してしまふ。常識が
譫忘状態に勝たうと
努め、判斷力が情熱を警めるのだ。熱に浮かされたやうで休みもとれない私は、夜の白むのを待ち兼ねて起きてしまつた。
この眠られぬ夜の翌日、私はロチスター氏に會ふことを願ひもし恐れもした。私はふたゝび彼の聲を聞きたいと思つた。けれども彼の眼に
會ふのは恐ろしかつた。朝早いうちに、私は、彼が、いま
來るか、いま來るかと待ちうけてゐた。彼は勉強室に屡々這入る例はなかつたが、折々ちよつとの間這入ることはあつた。で、私は、その日はきつと彼が來るといふやうな氣がしてゐたのであつた。
しかし朝はいつもと同じやうに過ぎて行つた。アデェルの勉強の靜かな進行を
妨げるやうなことは何も起らなかつた。たゞ朝食のすぐ後、ロチスター氏の寢室のあたりに、フェアファックス夫人の聲や、レアのや、料理人――といふのはジョンのお
内儀さんである――のや、ジョン自身のがさつな聲さへまじつて騷いでゐるのが聞えた。「旦那さまがお床の中で燒けておしまひにならなかつたのはほんとに神樣の御惠みだ!」とか「夜中、蝋燭をつけつぱなしにしておくつてのはあぶねえことさ。」とか、「水差のことを思ふほど落ちついてゐたのは、天佑だ!」とか、「誰をも起さないなんて!」とか「
書齋椅子でおやすみになつて、
御風邪を召さなければようございますがねえ!」とか、樣々の叫び聲であつた。
やがてそんな談笑につゞいて、ブラッシュをかけたり、片附けたりする物音がした。そして、食事の爲めに階下へ行かうとしてその部屋の傍を通るとき、開け放した
扉越しに、何も
彼もまた
きちんと整頓されてあるのが見えた。たゞ
寢臺の
帷帳が外されてあるだけだつた。レアは窓臺の上に立つて、煙で曇つた窓の
硝子を拭いてゐた。あの出來事にどんな
理由があつたかを私は知りたかつた。しかし、進んでゆくと、その部屋の中には、もひとり――
寢臺の傍の椅子に掛けて、新しい窓掛に環を縫ひつけてゐる女――がゐた。その女はグレイス・プウルの
他の誰でもなかつた。
彼女は、
何時もの通り、茶色の毛織の
上衣を着、辨慶縞の前掛をして、白いハンケチに、白い帽子を被つて、落着いたむつつりした顏付でそこに坐つてゐる。彼女は自分の仕事に熱心になつてゐて、すつかりそれに氣をとられてゐる容子だつた。彼女の
優し
味のない額にも、平凡な顏付にも、殺人を企てた女の顏に見られる筈の、蒼ざめた色や絶望は何一つなかつた。しかもその殺さうとした人は、昨夜、彼女の寢所までついて行つて(私が信じた通りに)、彼女にその罪の嫌疑をかけたのではないか。私はまつたく驚いた――混亂した。私がまだ彼女を凝視めてゐるときに、彼女は見上げた。驚きも、感情を示す顏色の變化も、罪の意識も、發見の恐怖も、無かつた。彼女はいつもの
鈍重なぶつきら棒な態度で「お早うございます。」と云つて、新しい環と紐をとり上げて縫ひつゞけた。
「彼女を少し
驗してみよう。」と私は思つた。「こんなに全然冷淡でゐられるなんて考へられない。」
「お早う、グレイス。」と私は云つた。「こゝで何か起つたの? さつき、召使ひ達がみんな、話しあつてゐるのを聞いたやうに思ふけれど。」
「旦那さまが昨夜お床の中で本を讀んでゐらしたのですが蝋燭をつけたまゝ眠つておしまひになつて、
掛布に火がついたのです。けれども、運よく
寢臺の布や木に火の移らないうちにお目覺めになつて、一生懸命
水差の水で火をお消しになつたのでございます。」
「變だこと!」と私は低い聲で云つた。そしてじつと彼女を見つめながら云つた――「ロチスターさんは誰もお起しにはならなかつたの? 誰もあの方のお起きになつたのをきかなかつたんでせうか?」
彼女はまた眼を上げて私を見た。そして今度はその表情に何かしら意識したものがあつた。彼女は用心深く私を檢査してゐるらしかつた。やがて彼女は答へた――
「召使ひ達はずつと離れたところにやすみます。ねえ、
先生。あの人たちには聞えさうもございません。フェアファックス夫人のお部屋とあなたのお部屋が旦那さまのお部屋へは一番近いのです。でも、フェアファックス夫人は何もきかなかつたと、仰しやいます。年をとりますと誰でも大抵ぐつすり眠るものですから。」彼女は言葉をきつた。それから、さあらぬ
態で、しかしなほ注意深い、意味ありげな容子でつけ加へた。
「ですがあなたはお若いんです、先生、お
寢坊ではゐらつしやらない筈です。おほかた、なにか物音をおきゝになりましたでせうね。」
「きゝました。」まだ
窓硝子を
磨いてゐるレアに、私の云ふのが聞えないやうに聲を落して云つた。「初めはパイロットかと思つてゐました。でもパイロットが笑ふ筈はない。私は確かに笑ひ聲をきいたのですよ。それも
奇妙なのを。」
彼女は新しく入用なだけの糸をとると、丁寧に蝋を引いて、しつかりした手つきで針に通し、さて、落着き拂つて云つた。
「そんな危險に臨んでゐるときに、旦那さまがお笑ひになりさうもないことゝ存じます。が、先生、あなたはきつと夢を見てゐらしたんでせう。」
「夢ぢやありませんよ。」私は少し
かつとして云つた。彼女の
圖々しい冷淡さが、私をいら/\させたのである。また彼女は私を見た。しかも同じやうな
詮穿するやうな意識した眼で。
「あなたは旦那さまにその笑ひ聲をお聞きになつたことをお話しなさいましたか。」と彼女は
訊ねた。
「今朝はまだお話しする折がありません。」
「あなたは
扉を開けて廊下を見ようとはなさらなかつたのでございますね。」となほも彼女は
訊ねた。
彼女は細かい質問をして、私から不知不識の内に何か消息を引き出さうとするらしかつた。若し私が彼女の罪を知つてゐるか或は疑つてゐると氣がついたら、彼女は私にあのひどいわるいたづらをしかけるかも知れない、と云ふ考が浮かんだ。用心をする方が
得策だと思つた。
「反對です。」と私は云つた。「私は部屋の扉に
棧を
下しましたわ。」
「ではいつもは、毎晩おやすみになる前に
扉に
棧をお
下しになりませんのですね?」
「畜生! 何か
惡企みをしようと思つて、私の習慣を知りたがるんだ!」腹立たしさが、またこみ上げて、用心深さを壓倒してしまつた。私は鋭く返辭をした。「今迄私は度々
棧を下しませんでしたよ、必要だと思はなかつたから。私はソーンフィールド
莊[#ルビの「ホール」は底本では「ポール」]に、
恐ろしい危險なことや
煩いことがあるとは氣が附きませんでしたからね。でもこれからは、」(そして私はその言葉にはつきりと力を入れて)「お床に這入る前には何も
彼もすつかり大丈夫なやうに隨分注意をしませうよ。」
「さうなすつた方が、よろしうございます。」といふのが彼女の返答であつた。「このあたりは私の存じてゐます限り、靜かなもので、このお
邸も、こゝが家になつて以來
盜人に襲はれたなどといふことは私も聞いたことがありません。皆よく知つてゐますやうに食器戸棚には何百
磅といふ
値打のある食器もありますのに。それに御存じのやうに、こんな大きなお邸にしては召使ひたちは
極く少なうございます。旦那さまはこゝには、ふだんはお住ひになりませんし、お歸りになりましても、お獨り身のことで、お
傍つきは殆んど御入用ではありませんからです。けれども用心深すぎる方が何よりだと、私はいつも思つてをります。早速戸締りをしつかりして、間違ひが起らないやうに、
閂をかけておく方がよろしうございます。世間の多くの人たちは何もかも神樣にお
任せして安心しようとします。ですが神樣は私共が
思慮深くしてゐますときにはお惠みを下さいますが、神樣でも
禍を防ぐ手だては下さいませんですから。」そしてこゝで彼女はその
長臺詞を終つた――彼女としては長いもので、クェイカ教徒のやうな眞面目さでそれを云つたのである。
私は自分の眼に
映つた彼女の不思議な落ちつきやうと、とても底の知れない猫つかぶりに、
呆れ返つて、ぼんやり突つ立つてゐた。そのとき
料理人が這入つて來た。
「プウル夫人、」とグレイスに向つて聲をかけた。「下の人たちのお食事がもうすぐ出來ますが、
下りていらつしやいませんか。」
「いえ、よござんす。
黒麥酒を一杯とプディングを少し、お
盆にのせといて下さい。さうすれば私が上へ持つて行きますから。」
「何かお肉をもつてゐらつしやらないの?」
「ほんの一
片だけ。それにチイズをぽつちりと。それで結構。」
「ではデザァトのセイゴオは。」
「今は結構。お茶にならないうちに
下りて行きませう。自分で
拵へますから。」
料理人は今度は私の方へ向いてフェアファックス夫人が待つてゐると云つたので、私はそこを離れた。
食事の間中私はフェアファックス夫人の話す火事の
顛末が、殆んど耳に入らなかつた。それ程私はグレイス・プウルの
謎めいた性質について頭を惱ましてゐた。その上なほ、ソーンフィールドに於ける彼女の地位の問題について考へ、また、
何故今朝彼女が拘引されなかつたか、でなければ少くとも、何故主人から
暇を出されなかつたのかと不審でならなかつたのだ。昨晩彼は彼女の犯罪を確信してゐると殆んど斷言した位だ。それに、どんな祕密の原因があつて、彼は告發出來ないでゐるのだらう?
何故私にも祕密にしろと云つたのだらう? 不思議なことである。大膽な
執念深い、
傲然とした一個の紳士が、何だか、自分の雇人の中でも一番
賤しいものに左右せられてゐるやうに思はれるのだ。彼女が彼の
生命をとらうと手を下したのに、彼は公然とその罪を責めもしないし、ましてや、そのことで處罰しようなどゝはしない程、彼女に左右せられてゐるのだ。
若しもグレイスが若くて美しいのだつたら、用心や、心配よりもやさしい氣持が、ロチスター氏に影響して、彼女を
庇ふやうにするのだと、私は思つたかも知れない。しかし彼女はあまり目をかけられてるやうでもなく、
内儀さん風なので、そんな考へは受入れることは出來ない。「だけど、」私は考へた。「一度は彼女も若かつたのだ。彼女の若い時分は、ちやうどこゝの主人も若い頃なのだ――いつぞやフェアファックス夫人は彼女がこゝに
長年住み込んでゐると私に話したことがある。彼女が以前は綺麗だつたとはとても考へられないが、でも若しかしたら彼女には
美貌をもつてゐない不足を
償ふやうな獨創性や性格の力があるのかも知れない。ロチスター氏はてきぱきした、一
風變つた者を
好く人だ。グレイスは少くとも一風變つてゐる。昔の
氣紛れで(彼のやうな
性急な、我儘な性質のものにはよくある缺點だ)、彼が、弱點を掴まれてしまふやうな
破目に落ち、今更、ふり拂ふことも、無視することも出來なくなつてゐて、彼自身の
無分別の結果である、
祕めた力を、彼女が彼の行動に及ぼしてゐるとしたら、どうだらう。だが、こゝまで臆測が達したとき、プウル夫人の
角ばつた
扁平な姿と、醜い、愛嬌のない、
粗つぽい顏とが、實にはつきりと私の心の眼に浮かんで來たので、私はかう思つたのであつた。「いや、あり得ない事だ。私の臆測は正しい筈がない。けれども。」と私共の心の中で私共に話しかけるあの祕密の聲が口を出した。「
お前だつて
些も
綺麗ぢやない。でも多分ロチスター氏はお前をいゝと思ふだらう。兎も角も、お前は幾度もあの方がさう思つてゐるやうに感じた。そして昨夜もさうだつた――あの方の言葉を思ひ出せ、あの方の顏を思ひ出せ、あの方の聲を思ひ出せ。」
私は何も
彼もよく覺えてゐた。言葉も、
眼差も、聲の調子も、たちまちまた活々と新らしくなるやうであつた。その時私は勉強室にゐて、アデェルは畫を描いてゐた。私は、彼女の上に身を
屈めて、彼女の鉛筆をもちそへて教へた。彼女は吃驚りしたやうに見上げた。
「
“Qu' avez-vous, mademoiselle?”(どうしたの先生?)」と彼女は云つた。「
“Vos doigts tremblent comme la feuille, et vos joues sont rouges: mais, rouges comme des cerises!”(指が木の葉みたいに震へてるわ、それに頬ぺたが眞赤でほんとよ、櫻んぼみたいに眞赤よ)」
「私は暑いの、アデェル。うつむいてたので。」彼女は寫生をつゞけ、私は考へつゞけた。
私はグレイス・プウルに關して抱いてゐるいとはしい思ひを自分の心から早く
逐ひ拂はうとした。その考は私の胸を惡るくした。私は自分を彼女と比較して見た。そして私共の差異を見出してゐた。ベシー・レヴンは私のことを立派な淑女だと云つた。彼女は眞實を語つたのだ――私は淑女である。そして現在ではベシーと會つたときよりもずつと立派な容子になつてゐる。私はずつと顏色もよく、元氣も付き、快活になつてゐる。輝やかしい希望や心にひゞくやうな樂しみがあるからだ。
「夕方になつたのね。」と窓の方を見て私は云つた。「今日は家の中にロチスターさんの聲も跫音もまるで聞えなかつた。でもきつと夜にならないうちにお目にかゝれる。朝のうちは逢ふのが
怖かつたけれど、今はお目に懸りたい。期待が餘り長く
惑はしたので我慢出來なくなつてゐたから。」
黄昏がすつかり迫つて、アデェルが、私を殘して子供部屋に行つて、ソフィイと遊ぶ頃になると、私は堪へがたく逢ひたいと思つた。
階下で
呼鈴が鳴りはしないか、レアが傳言をもつて上つて來はしないかと、耳を澄した。或る時は、ロチスター氏その人の跫音を聞いたと思つて、入口の方を振向いて、今にも扉が開いて、彼が這入つて來るかと待つたこともあつた。入口は
閉つたまゝで、
暗闇が
窓越しに入つて
來るのみであつた。しかし、まだ遲くはなつてゐない。彼が七時か八時になつて私を呼びに
寄越すことは珍らしくはなかつた。そしてまだ六時なのだ。今夜のやうに樣々のことを彼に話さうとするときには、決して私は早く失望してしまつてはならない。再び私はグレイス・プウルのことに就いて話し、彼が何と答へるかを聞きたいと思つた。また
昨夜の恐ろしい放火をしたのは彼女であるといふことを彼は本當に信じてゐるのか、また若しさうなら何故彼女の罪を祕密にしてゐるかをはつきりと彼に
訊ねたいと思つた。私の
好奇心が彼を怒らせるかどうかは問題ではない。私は彼を怒らせてみたり
宥めてみたりする事に興味を感じてゐた。それは私が主として樂しんでゐた興味であり、またいつも私が
埓を越えないやうにしてゐる確かな本能でもあつた。私はもう一歩で相手を
怒らせるといふ
間際で踏み止まつた。その
極どいところで自分の技巧を
試すのが好きだつたのである。あらゆる微細な尊敬の形式をも失はず、あらゆる私の分を越えぬ禮を守つてゐて、而もなほ恐れや不安などの束縛を受けずに彼と議論を戰はすことが出來るのであつた。これが彼にも私にも
相應しかつた。
やつとのことで、階段に跫音が響いた。レアが現はれた。しかし、それはたゞ、フェアファックス夫人の部屋にお茶の用意が出來てゐると知らせたゞけであつた。少くとも
階下へ行くといふそれだけでも嬉しく思へたので、私はそこへ
降りて行つた。それは、自分がロチスター氏の傍に、より近くなるやうに思へたからである。
私が傍へ行くと、この善良な婦人は、「あなた、お茶があがりたいでせう。」と云つた。「お夕飯のとき、ほんのぽつちりしか召上りませんでしたもの。今日はあなたどこかお加減でも
患いのぢやないかと私、氣にしてをりましたわ。お顏がぽつと赤くて、お熱でもあるやうに見えますよ。」
「まあ、何ともありませんの。とても元氣なんですもの。」
「では澤山召上つてその證據を見せて下さらなくては。私がこの段を
編んでしまふ間に、あなたはその
急須にお
注ぎになつて下さらない。」仕事を濟ましたので、彼女は今まで上げた儘にしてあつたブラインドを下しに立上つた。屹度今は
暗闇が全くあやめも分らぬ程に濃くなつてゐるけれど出來るだけ晝間の光を利用しようとしてゐたのだらう。
「いゝ晩ですこと。」と
硝子越しに見ながら、彼女は云つた。「星は光つてゐないやうですけれど。ロチスターさんは、どうやらいゝ旅行をなさいましたでせうよ。」
「旅行ですつて――ロチスターさんはどこへかいらつしやいましたの? お出掛けになつたことはちつとも存じませんでしたが。」
「まあ、あの方は朝の食事を召上るとすぐ、御出發になつたのですよ。リイズへいらつしやいましたの。イィシュトンさんのお
邸へ、十
哩ばかり行つたミルコオトの一方の
端なのです。きつとそこにお集りの方々で立派な會があるのだと思ひますよ――イングラム卿だの、サー・ジョオジ・リンだの、デント大佐だの、その他の方々などでねえ。」
「今晩お歸りになりますの?」
「いゝえ――明日もだめでせう。結構一週間か、それとももつと滯在なさりさうだと思ひますよ。さういふ立派な、モダンな方たちがお集りになると、優雅な、
華やかなものにとりまかれてはゐらつしやるし、お喜ばせしたり、お
款待したりするやうなものは何も
彼も備はつてゐるししますから、皆さまはお歸りをお急ぎになることなどありません。そんな場合には、とかく、
殿方が特別に必要ですからね。中でもロチスター氏は社交界でも、多才で
華やかな方ですから、
何誰にでも
好かれてゐらつしやると思ひますの。御婦人方は大變にあの方がお好きなのですよ。あの方の御樣子が特別、女の方のお氣に入るだらうとは、あなたもお思ひにはならないでせうが、でも、あの方の學識や才能や、多分はあの方の富や立派な血統でゐらつしやることなどが、ちよいとした
外見の
疵など
償ふのでございませうねえ。」
「リイズには女の方達もいらつしやるのですか。」
「イィシュトン夫人と三人のお孃さま――ほんとにお
淑かなお孃さま方ですの。それから御立派なイングラム家のブランシュさまとメアリイさまは多分一番お美しい方たちでせうねえ。實はね、私も六年か七年か前、あのブランシュさまが、まだ十八のお孃さまでゐらした頃、お見かけしたことがありますの。ロチスターさんのお催しになつたクリスマスの夜會の時こゝにゐらしたのです。その日の食堂をあなたも御覽になつてゐらつしやればねえ――まあどんなに立派に飾つて、
眩いほど
燈が
點つてゐましたでせう。五十人位御婦人や
殿方がゐらしたと思ひますが――皆さまのうちでも第一流のお
家柄でしてね。そしてイングラム孃はその晩の第一のお美しい方とされてゐらしたのですよ。」
「その方を御覽になつたと仰しやいますのね、フェアファックス夫人。どんなでゐらつしやいましたの。」
「えゝ、えゝ。お見かけしましたとも。食堂の入口はすつかり開け放してありました。そしてクリスマスですから、召使ひたちも幾人かの御婦人方が歌つたり
彈いたりなさるのを聞きに
廣間に入つてゆくのを許されてゐました。ロチスターさんが入つて來いと云はれたので、私も靜かな片隅に腰かけて、皆さまを眺めてゐましたの。私はあれより立派な有樣は見たことがありませんよ。御婦人方は立派な
衣裳をつけてゐらして、大抵の方は――少くとも大抵のお若い方たちは――御立派に見えるのでした。けれどもイングラム孃は確かに女王さまでしたよ。」
「それで、どんな風でゐらつしやいまして。」
「お脊はすらりとして、お美しい胸、なだらかな肩にすつきりしたお品のよい頸すぢで、お顏は淺黒くてオリイヴ色に澄んでゐて、
顏立もお品よく、眼はどちらかといへばロチスターさんに似て――大きくて黒く、それに身につけてゐらつしやる寶石のやうに
眩ゆいやうですよ。それからまだその上に、それは/\いゝお髮なので――烏の
濡羽といふやうな
眞黒な色で、それがまた大變よくおうつりになるやうに揚げてゐらつしやいました。房々とした
編髮の冠が後の方にあつて、前には今まで見たこともない位長いつや/\とした捲毛を持つてゐらつしやるのです。お召物は純白で、
琥珀色のスカーフが肩からかゝつて胸を蔽ひ、腰のところで結ばれ、長い
縁を縫つた
端の方は膝の下まで垂れてゐました。髮にも亦
琥珀色の花をつけてゐらつしやいましたが、それが捲毛の眞黒な
房によく引き立つてゐました。」
「隨分皆さまからもてはやされてゐらしたのでせうね、勿論。」
「えゝ、さうでございますとも。そしてたゞ
御器量の方ばかりではなく、お
嗜みの方でもさうだつたのですの。あの方は歌をお歌ひになるのですよ。どなたか
殿方のお一人がピアノで
伴奏をなさいました。あの方とロチスターさんは二部合唱をなさいましたのです。」
「ロチスターさんが? 私、あの方がお歌ひになれるとは氣がつきませんでした。」
「まあ、あの方はいゝ
低音のお聲なんですよ。そして音樂に對しても立派な趣味を持つてゐらつしやいますよ。」
「そしてイングラム孃は――どんなお聲でしたの。」
「大層豐かな力のあるお聲ですの。それは氣持ちよくお歌ひになりましてね。あの方のを聞くのはまつたく樂しみでした。それから、その後でお
彈きにもなりました。私には音樂などわかりませんけれど、ロチスターさんはおわかりです。そしてあの方の演奏はなか/\いゝと云つてゐらつしやるのを伺ひました。」
「それで、その御綺麗な、多藝な方はまだおかたづきになつてはいらつしやいませんの?」
「まだらしうございますよ。私の思ひますに、その方もお妹さまもあまり大した財産をお持ちではないらしいのです。老イングラム卿の領地は
主に
限嗣相續になり、長男の方が殆んど全部おもらひになつたのです。」
「でも、どうしてお金持の貴族か紳士かゞその方を
好きにならないのでせう――例へば、ロチスターさんのやうな方が。あの方はお金持でゐらつしやいますね。」
「えゝ、さうですとも。でもねえ、お
年齡の
異ひがあんまりですもの。ロチスターさんはもう四十近くでいらつしやるし、あの方はまだ二十五でゐらつしやるのですよ。」
「そんなことなんぞ? もつと/\
不釣合な御結婚は
始終のことではございませんか。」
「ほんたうにね。でも、ロチスターさんがそんなお考へをお持ちになるなんて、私にはちよつと考へられませんねえ。ですが何も召上りませんね。お茶になつてから、あなたはまだ殆んど何も召上らないぢやありませんか。」
「いえ、ひどく
喉がかわいてゐて、お茶の方が結構なんですの。もう一杯いたゞかせて下さいまし。」
私はまた、ロチスター氏と美しいブランシュとの結婚が事實あるかも知れないといふことを考へはじめてゐた。しかし、アデェルが這入つて來て、話は他の方に變つた。
ふたゝび獨りになると、私は自分の得た消息を繰り返し考へて見た。自分の心の
裡を眺め、その思想や感情を
査べ、
果しのない
埓のない、想像の荒野の中を
逍遙つてゐるのを嚴格な手で安全な常識の
檻の中につれ歸らうと努力した。
内省といふ法廷で審問をうけると、記憶は先づ昨夜以來胸に祕めてゐた希求、願望、感情に就いての證言を提出した――また過ぎ去つた二週間近くの間私が
恣にしてゐた心の状態に就いてもまた證言した。次に理性が進み出て、その特有の落着いた調子で、
平明な、つくり飾りのない話をした。そしてどんなに私が現實を
嫌惡し、狂はんばかりに理想を渇望してゐたかといふことを云つた。――そこで、私は次の結果に對して判決を云ひ渡した――
即ちジエィン・エアより以上の大馬鹿者はかつてこの世にゐた例がない。またこれより以上の、夢を追ふ馬鹿者が、口當りのいゝ
嘘を
滿喫し、毒をまるで
甘露かなんぞのやうに
嚥んだりした例はない、と。
「お前は」と私は云つた。「ロチスター氏のお氣に入りなのか。お前にはあの方をお喜ばせする力があるのか。お前はあの方にとつて何等かの場合に重要なのか。行け! お前の愚かさには胸が惡くなる。そしてお前は時たまの
贔屓の
證を嬉しく思つて受けてゐる――立派な家柄の紳士で世間に通じた人が、
雇人、而も
新參者に向つて示す眞僞も分らぬ
證を。よくもそんなことが出來たものだ。愚かな愚かな
瞞され者よ!――自分の爲めを思つてみてももう少し氣が
利きさうなものではないか。今朝お前は昨夜のあの短い光景を心に繰り返したといふのか。顏を蔽うて恥を知れ! あの方はお前の眼を
稱めるやうなことを、一寸でも仰しやつたか。
盲目の生意氣者よ! その
爛れた
瞼を開けて、お前の淺ましい愚かさを見るがいゝ! 結婚する心のあり得ない年長者から
稱められることは女にとつて決していゝことではない。そして人知れぬ思を胸に燃させるのは、すべての女の中にある狂氣の仕業だ。人知れぬ思ひを抱くものは、それが相手に知られず、それゆゑ
報いられないとなると、生命を滅ぼしつくされるのだ。若しも、氣づかれ報いられたときには
鬼火のやうに、救ひやうのない
泥濘の野に行くより外ないのだ。
「だから、ジエィン・エアよ、お前の宣告をよく聞いて置け。明日、鏡を前に据ゑて、チョオクでお前の肖像を、忠實に、どんな
疵もぼかさず、どんな
目障りな皺も略さず、どんな不愉快な
歪みも直さないで描け。その下には『みよりもない、貧しい、
不器量な家庭教師の肖像』と書け。
「その後で
滑らかな
象牙紙を取れ――お前は、一枚、圖畫箱の中に
藏つて持つてゐる。そしてパレットをとつて、一番鮮やかな、一番美しい、一番清らかな色を混ぜ合せ、一番纖細な
栗鼠の毛の筆を選んで、想像出來る限りの美しい顏を描いて、フェアファックス夫人が話したブランシュ・イングラムの描寫に從つて、最も
柔らかな陰と、最も美しい色で
彩色せよ。眞黒な
捲毛と東洋風な黒い眼とを忘れぬやうに――何! お前は、モデルとしてロチスター氏の眼をまた思ひ出すのか! 愼め!
泣言を云ふな!――感情を持つな!――失望するな! 私はたゞ理性と決心とをじつと持ちつゞけよう。威嚴のある、しかも調和した容貌を、ギリシャ型の
頸と胸とを想ひ出せ。ふつくらとした、
眩ゆいやうな腕も纖細な手も見えるやうにし、ダイアモンドの
指環も金の腕環も忘れぬやうに、ひら/\したレイスやキラ/\光る
繻子、優雅なスカーフや金色の薔薇を、その衣裳も丁寧に寫せ。そして、それを『嗜みのある貴婦人ブランシュ』と呼べ。
「この後ロチスター氏がお前のことをよく思つてゐると思ふやうな時があつたら、いつでもこの二つの畫を取り出して
比べて見よ。ロチスター氏は、若し得ようと欲すれば、あの立派な貴婦人の愛を
贏ち得るのだ。この貧しい、みすぼらしい一平民のことを、あの方が
眞面目にお考へになることがあり得ようか?』と云へ。」
「さうしよう。」と私は決心した。そして、この決心を固めると、私は心が鎭まつて、眠つてしまつた。
私は自分の言葉を守つた。
堊筆で私の肖像を描くには一時間か二時間で十分だつた。そして二週間足らずのうちに私は想像のブランシュ・イングラムの
象牙紙の肖像を仕上げた。それは實際美しい顏であつた。そしてチョオクで描いた
自畫像と比べて見ると、その對照は自制の心が滿足する程に大きなものであつた。その仕事は私には都合のいゝものだつた。といふのは、私の頭も手もその方にとられて、私が消えないやうに心に
刻みたいと願つてゐる、新しい印象を力強く確實にしたのであつた。
間もなく、私は、自分の感情、無理にも受けさせたその有益な訓練を、しておいてよかつたとよろこぶ理由が出來た。で、有難いことに、つゞいて
[#「つゞいて」は底本では「つゞいで」]起つた出來事にも、落着いた
平靜な氣持で對することが出來たのだ。もしも、こつちに覺悟が出來てゐないときに、さうした事件が、起つて來たのだつたとしたら、私はきつと心の平靜を、表面だけでも、じつと持ちこたへてゐることは、出來なかつたらうと思ふ。
一週間過ぎた。しかし、ロチスター氏の
便りはなかつた。十日
經つたが、まだ彼は歸つて來なかつた。もしも彼がリイズから
眞直に
倫敦へ行き、そこからまた大陸へ行つて、一年ぐらゐもソーンフィールドに顏を見せないにしろ、驚きはしないとフェアファックス夫人は云ふのであつた。彼は、まつたくだしぬけに、思ひもかけないやうな遣り方で、ソーンフィールドを去つたのも、一度や二度ではなかつたのだ。このことを聞くと、私は、何とも云へない心の寒さを感じはじめてゐた。實際、私は、病氣にでもなつてしまひさうな失望の氣持ちを、經驗した。しかし、心をとりなほし、自分の
守るべきことを思ひ浮べて、直ぐに私は、心を鎭めた。その
咄嗟の
失錯をどういふ風にして繕つたか――ロチスター氏の
動靜が、私にとつて重大な關係を持つ理由のある事柄であると、
假にも思ふその思ひ違ひを、どういふ風にして拂ひのけたかといふことは、不思議に思はれた。私は、決して、
目下の者の持つ
卑屈な考で、自分自身を
卑めることはしなかつた。その反對に、私は、かう云つたのである――
「お前は、彼の
被後見者を教へて、彼から俸給を貰ふこと、お前が自分の
務めを行ふ限り、彼の
傍近くで受けることの出來る、そんな鄭重な、親切な待遇を感謝するより
以外は、ソーンフィールドの
主に對してすることは何もない。あの方とお前との間に、あの方が
眞面目に認めてゐられる
繋りは、たゞそればかりだといふことを忘れてはいけない。だから、あの方をお前が戀ひ慕つたり、夢中になつたり、惱んだり、そんなことの相手にしてはいけない。あの方は、お前と同じ階級の人ぢやない。お前も、分を守るがいゝ。さうしてもつと自重して、そんな贈物は望まれもしない、それどころか
蔑まれるやうなところに、全心、全靈、全力を傾けた愛を惜しまず與へてはいけない。」
私は、落着いて、自分の日課を續けてゐた。しかし、折々、私がソーンフィールドを立去らなくてはならない理由に對して、漠然とした考へが私の頭をかすめ過ぎて、
何時の間にか私は廣告文を考へ、新らしい地位のことに思ひをめぐらしてゐるのであつた。私は、この考へを捨てなくてはならないとは、思はなかつた。出來れば、この考へは、芽を出し、實を結ぶかも知れないものであつた。
ロチスター氏は、二週間以上も家をあけてゐたが、ちやうどその時、郵便で一通の手紙が、フェアファックス夫人の許に屆いた。
「旦那さまからなのですよ。」と
名宛を見て、彼女は云つた。「これで、お歸りになるかならないかゞ、きつと
判るでせう。」
さうして、彼女が封を切つて、
中を讀んでゐる間、私は
珈琲を飮みつゞけてゐた(私共は朝食をとつてゐたのである)。
珈琲は熱かつた。それで、私は、ふいに、顏に上つて來た火のやうな熱さをそのせゐにしてしまつた。何故私の手は
戰いたか、何故私は知らぬ間に手にした珈琲茶碗の中味を半分ばかりも、
敷皿の中に
零してしまつたか、そんなことを考へなかつた。
「さう、あんまりことが無さ過ぎると、私も時々思ひますが、でも今度は大分
忙がしくなるかも知れませんよ――少くとも、しばらくの間はねえ。」と、フェアファックス夫人は、まだ
眼鏡の前にその手紙を持つたまゝで云つた。
詳しいことを
訊ねる前に、私は、ちやうどゆるみかけてゐたアデェルの
前掛の紐を結び直してやつた。それから、また、もひとつ甘パンをとつてやり、耳附きの茶碗に、も一杯、牛乳を注いでやつてから、平靜らしく云つた――
「ロチスターさんは、直ぐにはお歸りになりさうぢやありませんの?」
「いえ、なるのです――三日のうちにつて、云つてゐらつしやいますわ。すると次の木曜日になりますわね。そして、お獨りではないのですよ。リイズの、あの、御立派な方たちをお
幾人お連れになるか存じませんが。一等いゝ寢臺全部を用意して、お書齋もお客間も、ちやんと取片づけて、綺麗にするようにとのお
指圖です。それから、私は、ミルコオトのジョオジ旅館や、その他出來るだけ方々から、もつと大勢臺所に
人手を集めなくてはなりません。それに、御婦人方はお供の女中を、殿方は從者をお連れになるでせう。だから、家中一ぱいになつてしまふことでせう。」さうして、フェアファックス夫人は、朝食を
嚥み込んで、事を運ばせはじめる爲めに急いでいつてしまつた。
その三日間は、彼女が前に云つてゐた通りに、まつたく
忙がしかつた。それまで、私は、ソーンフィールドの部屋は、どれもこれも美しく清潔で、よく整頓されてゐると思つてゐた。しかし、どうも私は間違つてゐたらしい。三人の女が手傳ひにやつて來た。さうして、ペンキを、ごしごし掻いたり、
刷毛をかけたり、上塗りするやら、絨毯をはたくやら、
額をはづしたり掛けたりするやら、鏡や
吊燭臺に磨をかけたり、寢室に
火を
點けたり、敷布や羽根蒲團を爐の上に乾したり――そんなことは、前にも後にも、見たことがなかつた。アデェルは、大はしやぎで、その中を駈け

つてゐた。大勢のお客の爲めの準備だの、その人たちの到着の期待だので、彼女は、もうすつかり
有頂天になつてゐるらしかつた。彼女は「
お衣裳」と呼んでゐた自分の
上衣全部をソフィイに改めさせて、「
流行後れ」になつたものは新らしく見えるやうに遣り直させ、新らしいものは風を通して始末させた。さうして、自分はと云へば、たゞもう表の部屋で、
寢臺の上に
跳び上つたり
下りたり、蒲團の上に横になつてみたり、がう/\と煙突の中に燃え上る火の前に、長枕や枕を積み重ねたりして、
跳び

るより外は、何もしなかつた。彼女は、學課の方からは解放されてゐた。フェアファックス夫人が是非にと頼んで、私に用を手傳はせてゐたからである。それで、私は、終日物置にゐて、彼女や料理番の手傳ひをしたり(それとも邪魔をしてゐたのかも知れないが)、カスタアドや
乾酪のお菓子や佛蘭西の饅頭菓子を
製造つたり、
獵禽の翼や足を縛つたり、デザァトの
あしらひの
製り方なんかを教はつてゐた。
お客さま方は、木曜日の夕方、六時の晩餐に間に合ふように到着する筈であつた。それまでの間ずつと、私は
妄想に耽るときなぞなかつた。さうして、確かに、私は、アデェルは別として、他の人々と同じくらゐにはいそ/\と立働いて、快活だつたと思ふ。とは云へ、時々その快活さは消えて
失くなり、我にもなく、私は、疑惑や、不吉の前兆や暗い臆測に沈み込んでゐるのであつた。これはたま/\三階の階段の
扉(この頃は
始終錠をかけてあつた)が、靜かに開いて、きちんとした帽子に白い前掛、ハンケチを着けたグレイス・プウルの姿が現はれるのを見たときとか、彼女がその靜かな
跫音を
羅紗の
縁でつくつた上靴で消して、廊下を歩いて行くのをじつと見たときとか
[#「見たときとか」は底本では「見たとさとか」]、ごた/\してまるで
引くり返したやうな寢室の内を覗いて――多分
日傭女に向つて、何でもない、當然の容子で、爐格子を磨けとか、または大理石の
爐を綺麗にしろとか、または壁紙を貼つた壁の
汚れを取れとか、ほんの、ひと
言云つて、やがて立ち去つていくのを見たときとかであつた。彼女は、かういふ風に、一日に一度臺所に下りて來て、食事をし、爐にあたつて、手ごろの
煙管で煙草を
喫み、それから内緒の樂しみに
黒麥酒の
容器を持つて、自分の陰氣な階上の住場處へと歸つて行くのが常であつた。二十四時間のうち、たつた一時間だけ、彼女は、仲間の召使ひ達と
階下で一緒に過すばかりであつた。その他の時間は、すべて三階の、天井の低い
木の部屋で過した。そこに、彼女は、まるで牢屋の中の囚人のやうに、たゞ一人坐つて縫物をして――さうして、きつとたつた一人で物凄く笑ふのであらう。
何よりも不思議でならないのは、私を
除けては、この家にゐる誰一人として、彼女のやることに氣を留めたり、
訝つたりする者の無いことであつた。誰一人、彼女の地位や、雇入に就いて、話し合ふ者もなく、誰一人、彼女の獨居や、隔離を
憐む者もなかつた。たゞ一度、グレイスを話題にして、リアと日傭女が
喋べつてゐるのをちらと耳にしたことがあつた。リアは何か云つてゐたが、私にはよく聞き取れなかつた。すると
日傭女の方が云つた――
「あの人はいゝお給金をもらつてるんだらうねえ?」
「さうなの。」とリアが云つた。「私もあれ位欲しいものだと思ふわ。不平を云ふんぢやないのさ――ソーンフィールドでは、
けちなことはなさらないからね。だけど、あたしのなんぞ、プウルさんの貰つてる高の五分の一にもならないんだもの。あの人は貯金してるのよ。勘定日毎には、いつもミルコオトの銀行に行くんだよ。こゝを
罷めたいと思へば、結構ひとりでやつて行けるくらゐ
貯めてるのは確かだと思ふわ。でもこゝには、もうすつかり落着いてしまつたんだらうよ。それにまだ四十とまでは行かないし、何でも出來る位に丈夫だしねえ。仕事を止めるにはまだ早すぎるわ。」
「きつと
腕利きだらうね?」と日傭女は云つた。
「そりやもう、自分のしなくちやならないことは、ちやんと心得てるさ――誰もかなやしないわ。」とリアは、意味あり
氣に答へた。「第一あの人の代りをするには、誰でもつて譯にはゆかないんだよ――あれだけのお給金をそつくりやるからつて、代り手はあるまいよ。」
「さうだともね!」といふのが答だつた。「だけど、不思議だねえ、どうして旦那さまは――」
日傭女は續けようとしてゐた。しかし、そこで、リアは振向いて私を
認めた。すると直ぐに彼女は相手を
突つついた。
「あの人は知らないの?」とその女が、小聲に云ふのが聞えた。
リアは首を振つた。それで勿論話は
途切れてしまつたのだ。それから
推して得たものは、かういふやうなものになつた――即ち、ソーンフィールドには何か祕密があるといふことゝ、その祕密を聞かされて、その仲間入りすることから私は
故意に
除外されてゐるといふことであつた。
木曜日になつた。する事は、すつかり、前の晩にしてしまつてあつた。絨毯は敷かれ、
寢臺の掛布は花綵で飾られ、かゞやくやうに眞白な寢臺の上掛は擴げられ、化粧臺も
整へられ、家具も磨かれ、花瓶には花が
盛られてあつた。寢室も客間も兩方共、出來得る限り明るく爽かであつた。廣間もまた、綺麗に掃除されて、彫刻のある大時計も、階段の段々や手摺りと同じく
硝子のやうにきら/\と光澤が出てゐた。食堂では、食器棚が食器でぴか/\輝いてゐた。客間や婦人室には、外國産の植物を

した花瓶が四壁に輝き
榮えてゐた。
午後になつた。フェアファックス夫人は、彼女の一番いゝ
黒繻子の
上衣と、手袋と、金の時計を身に※
[#「纏」の「广」に代えて「厂」、178-上-3]つた。お客さまの接待――婦人達を部屋へ案内したりなどするのは、彼女の役だつたからである。アデェルにも着物を着換へさせることにした。少くともその日のうちに、お客さま方に紹介して貰ふやうな機會はとてもあるまいと、私は思つたけれども。とにかく彼女を喜ばせる爲めに、私は、短い
襞の多いモスリンの盛裝をさせていゝと、ソフィイに許した。私自身は、何ひとつ取換へることは
要らなかつた。私は、勉強室といふ聖所を立去るように、呼びに來られる筈はなかつたから。今は、そこは、私にとつては、聖所となつてゐた――「
煩はしき時のいとも心地よき
隱家」に。
暖かい風もない春の日であつた――三月の終り、四月の初め頃、夏の前觸れとして、輝かしく地上にやつて來る、そんな日であつた。それが、今はもう暮れかけてゐた。しかし、その夕暮は暖かくさへあつたので、私は、勉強室で、窓を開け放したまゝ仕事をしてゐた。
「
晩うござんすね。」と、
衣擦れの音をさせて這入つて來ながら、フェアファックス夫人は云つた。「ロチスターさんが仰しやつたよりも一時間
遲らせて、晩餐を云ひつけといてようござんしたよ。もう六時過ぎなんですからねえ。路に何か見えないかと思つて、ジョンを門まで見に遣つては置きましたが。あそこからなら、ミルコオトの方までずつと遠く見えますからね。」彼女は、
窓際へいつた。「彼が來ましたわ。」と彼女は云つた。「ねえ、ジョン」(身を乘り出して)「何か見えたかい?」
「いらつしやるところです。」と云ふのが答だつた。「皆さま、十分
經たないうちに、此處にお着きになりませう。」
アデェルは
窓際へ飛んで行つた。私もその後からいつて、窓掛の蔭になつて人に見られずに、見ることが出來るようにと注意して一方の側に立つた。
ジョンの云つた十分間はなか/\長いやうに思はれた。しかし、とう/\車輪の音が聞えて來た。四人馬に乘つて、駈けてゐた。その後に、二臺の
幌をはねた馬車が續いてゐた。ひら/\と飜る
面紗や搖れ動く帽子の
羽毛などがその乘物に一杯だつた。
騎手の中二人は若い元氣のよさゝうな紳士だつた。三人目は、黒馬のメスルアに乘つたロチスター氏で、その前にはパイロットが
跳ねてゐた。彼のすぐ傍に並んで一人の婦人が馬に乘つてゐた。そして彼と彼女とがその一團の先頭をなしてゐた。彼女の紫色の乘馬服は殆んど地にすれ/\に引き、
面紗は微風の中に長々となびいてゐた。その
透き通つた
襞に混じり、それを透して房々とした漆黒の
捲毛がきら/\輝いてゐた。
「イングラムさん!」とフェアファックス夫人は叫んで、自分の階下の
受持ちへと急いで去つた。
騎馬の列は、車道のカーブに沿うて、忽ち
邸の角を曲つて見えなくなつてしまつた。するとアデェルは階下に行きたいとせがむのであつたが、私は彼女を膝の上に坐らせて、今に限らず
何時だつて、ちやんと正式に呼びに來るのでなければ決してあの貴婦人たちの前に出て行かうとすることなぞ考へてはいけないと云ふこと――ロチスター氏はお怒りになるだらうといふこと等を解らせるやうに云つてきかせた。かう云はれて「彼女は無理もない涙を流した。」けれど、私がひどく嚴格な顏をしはじめたので、とう/\
納得して涙をぬぐつた。
樂しさうなざわめきが、今玄關の廣間から聽えて來た。紳士たちの
太い
聲音と貴婦人たちの銀のやうな
調子とが美しくからみ合つてゐた。その中でもはつきりと判るのは、美しい立派なお客をその家に迎へて挨拶してゐるソーンフィールド莊の
主の、大きくはないがよくとほる聲であつた。やがて輕い跫音が階段をのぼり、廊下を行く
微かな
跫音、つゝましやかな樂しげな笑ひ、
扉の
開け
閉てなどが聞えてゐたが、しばらくすると、
しんとしてしまつた。
「
“Elles changent de toilettes.”(着物を換へていらつしやるんだわ)」と注意深く耳を澄してあらゆる動靜を聞いてゐたアデエルは云つた。そして溜息を
吐いた。
「
“Chez maman,”(お母ちやんの
家では、)」と彼女は云つた。「
“quand il y avait du monde, je le suivais partout. au salon et
leurs chambres; souvent je regardais les femmes de chambre coiffer et habiller les dames, et c'
tait si amusant: comme cela on apprend.〕”(社交會があつた時、あたし、何處へでも隨いてつたわ、お客間だつて、お居間だつて。あたし、小間使ひが奧さまに髮を結つてあげたり、着物を着せてあげるのを、度々見たわ。そりやあ、面白いのよ。あんな風にして、覺えるのね。)」
「お
腹、
空かない。アデエル」
「
“Mais oui, mademoiselle: voil
cinqu ou six heures que nous n'avons pas mang
.”(えゝ先生、御飯をいたゞいてから五、六時間になるんですもの。)」
「さう、ぢあ、皆さまがお部屋にゐらつしやる間に、私、
階下へ行つて何か
食物を持つて來てあげませうね。」
注意して
そつと自分の
隱れ
家を出た私は、眞直に臺所につゞいてゐる
裏梯子の方に出た。臺所中は火と騷ぎで一ぱいだつた。スウプと魚とはもう出すばかりになつてゐて、料理番は
逆上せきつて、身も心も燃えだしさうになりながら、鍋の上に身を
屈めてゐた。召使たちの溜り部屋には、二人の馭者と紳士たちの從者が三人、火を圍んで立つたり掛けたりしてゐた。侍女たちは女主人たちと一緒に
階上にゐるのだらう。ミルコオトから雇つた新らしい召使ひたちはあちらこちらに立働いてゐた。この混亂の中を縫つて、やつと、私は食料室に來た。そこで、
冷たい
鷄肉と、ロオル・パン一つと、
果物入のパイを少し、それに一二枚のお皿とナイフにフオクを手に入れた。これだけ
掻き集めると私は急いで部屋へ歸りかけた。廊下まで來て、ちやうど背後の
扉を閉めようとした。その時急にざわ/\と人聲がして、貴婦人たちが部屋から出ようとしてゐることを、私に警告した。その扉の前を通つて、この食物の荷物を持つてるところに
不意うちをくはされる危險を冒さなくては、勉強室の方へは行けなかつた。で、私はじつとこちらの端に立つてゐた。そこには窓がないので、暗かつた。陽が沈んで夕闇が迫つて來てゐたので今はもうまつたく暗かつた。
やがてその室は、一人づゝその美しい客を吐き出した。みんなは、その暗がりにもきら/\と輝く
裝ひをして、快活に輕々として出て來た。一寸の間、彼等は、廊下の向うの端に
塊つて美しいつゝましやかな晴々とした調子で話してゐたが、やがて、まるで輝かしい霧が丘を傳つて下りて行くかのやうに、音もなく階段を下りて行つた。彼等の容子は、全體として、今まで嘗て見たこともないやうな名門のみやびと云ふやうな印象を私に與へた。
私は、アデェルが勉強室の
扉を半開きにして
覗いてゐるのを見た。「何んて綺麗な方たちなのでせう!」と彼女は英語で叫んだ。「あゝ、あたしもあの方たちのところへ行きたいわ! ねえ、ロチスターさんは今にお夕飯の後に、あたしたちを呼びにお
寄越しになると思はない?」
「いえ、とても、そんな事はないわ。ロチスターさんは、
他の事でお忙しいのですからね。今夜はあの方たちのことを考へるのは、おやめなさい。きつと明日はお目にかゝれるでせう。さあ、お
夕飯ですよ。」
彼女は本當に空腹だつたので、鷄肉や
果物入りのパイ等がしばらくの間、彼女の氣持ちを轉じてくれた。私がこんな食料を集めて來たのは好都合だつた。さもなければ、彼女と私とそれに私たちの食事を分けてやつたソフィイもいれて、まるで夕食にありつけなかつたゞらう――階下の人たちは誰も餘り
忙がしくて、私たちの方までは氣がまはらなかつたのだから。九時過になるまでもデザァトは出されなかつた。そして十時には、まだ
下僕たちがお盆だの
珈琲の茶碗だのを持つてあちこちしてゐた。私はアデェルにいつもよりはずつと
晩くまで起きてゐることを許した。
階下で
扉が開いたり
閉つたりしてみんなが騷いでゐる間はとても眠れないと彼女が云つたからである。彼女が着物を
脱いでしまつた頃に、ロチスター氏から使が來るかも知れないから
“et alors quel dommage.”(そしたら、どんなに殘念だらう!)と附け加へて云つた。
私は彼女が飽きる迄お話しをして聞かせた。それから今度は氣持を變へる爲めに廊下に連れ出した。
廣間のともし
火が
點つてゐたので、
手摺の上から見下したり、召使達が往つたり來たりするのを眺めたりすることは、彼女を喜ばせた。夜がすつかり
更けた頃、ピアノを
運ばせてある客間から樂の音が聞えて來た。アデェルと私は、階段の一番上の段に腰掛けて耳を澄した。やがて一人の聲が樂器の豐かな音に
混つて聞えて來た。唄つてゐるのは婦人で、その聲音は非常に美しかつた。その
獨唱が終ると、續いて
二部合唱、さうして次に、
混聲合唱――樂しげな會話の囁きが、その合間を
充たした。私は長いこと聽き入つてゐた。ふと氣がつくと、私の耳は、一心に、その混聲を分析して、
語調の混亂の中からロチスター氏の語調を區別しようとしてゐた。それはすぐに聽き取れた。すると、今度は、遠いのではつきりしない音聲を言葉にしようとした。
柱時計が十一時を打つた。私は頭を私の肩に凭せかけてゐるアデェルを見た。彼女の眼は、今にも閉ぢさうになつてゐた。で、私は腕に抱き上げて、
寢床へ連れて行つた。紳士たちや貴婦人たちが寢室へ行かないうちに、もう一時近くになつてゐた。
翌日も前日と同じく晴れてゐた。お客さま方の望みによつて、近くの何處かへ遊びに行くことになつた。彼等は、朝早く、或る者は馬に乘り、他の人々は馬車で出發した。出發も歸館も私は眺めてゐた。前と同じくイングラム孃は、唯一人の、馬に乘つた婦人であつた。そして前と同じくロチスター氏は彼女と並んで馬を走らせてゐるのであつた。二人は他の人々とは少し離れてゐた。私は、一緒に
窓際に立つてゐた。フェアファックス夫人にこの容子を指し示した。
「あなたは、あの方たちが結婚しようとお考へになりさうもないと仰しやいましたが、」と私は云つた。「でも、ロチスターさんは確かに、他のどの方よりもあの方がお好きなやうですわね。」
「えゝ、さうですわ。あの方を
讃めてゐらつしやることは確かです。」
「そして、あの方ね。」と私は附け加へた。「御覽なさいまし、まあ、あんなに頭をあの方の方にかしげて、まるで
内緒ばなしでもしてゐらつしやるやうぢやありませんか。お顏が見たいこと。私まだちつともお見かけ申しませんの。」
「今晩は御覽になれますよ。」とフェアファックス夫人は答へた。「私ふとロチスターさんにアデェルがどんなにか御婦人方に紹介していたゞきたがつてゐらつしやるか申上げましたらね、かう仰しやいました、『あゝ、あの子を晩餐の後、客間に
寄越して下さい。それからエアさんに、あの子と一緒に來るやうに云つて下さい。』つて。」
「えゝ、それはたゞお義理で仰しやつたのですわ。きつと、私、別に行かなくもよろしいのですよ。」と私は答へた。
「えゝ、私も、あなたが大勢の場所には慣れてゐらつしやらないといふことを、申上げましたの。あんな
華やかな方々――まるで御存知ない方々の前に出ていらつしやるのはお
好きではないだらうと思つたものですから。するといつものせつかちな調子で仰しやるんですの。『くだらん事だ。若しあの人がぐづ/\云ふなら、私の特別の所望だからと云つて下さい。それでも嫌だと云ふなら、どうしても云ふことを聞かなけりや、私が
引張つて行くと云つて下さい。』とね。」
「そんな手數はお掛けいたしませんわ。」と私は答へた。「致し方がなければ私、參ります。でも私、ちつとも行きたくはないのですけれど。あなたはいらつしやいますの、フェアファックスさん?」
「いゝえ、私は御免蒙りました。あの方はそれをお許して下さいました。一番
厄介な、正式に這入つてゆく面倒を
避ける方法をお教へしませう。皆さまが
食卓からお立ちにならない前に、誰もゐらつしやらない、お客間に這入つて行かなくてはなりません。そして何處でもようござんす、
目立たない
片端に席をおとんなさい。ゐたくなければ、
殿方が這入つていらしてから、長くゐる必要はありません。たゞロチスターさんにあなたが其處にゐるといふことをお知らせして、そつと出ておいでなさい――誰も氣附きはしませんから。」
「あの方達は長いこと
逗留なさるとお思ひになつて?」
「多分、二三週間で、それ以上になることはありません。復活祭の議會のお休みが濟みますと、先頃ミルコオトの議員にお選ばれになつたジョオジ・リン卿は
倫敦へいらして、議席にお着きにならなくてはなりますまい。ロチスターさんも御一緒にいらつしやるだらうと思ひますわ。ソーンフィールドの御滯在がこんなに長びくのに、私は驚いてゐるのですよ。」
アデェルを連れて、客間に行くべき時が近づいて
來るのを、私は
戰きながら
見守つてゐた。アデェルは、晩に貴婦人たちに紹介されるのだと聞いてからは、終日嬉しさで夢中になつてゐる有樣であつた。さうして、ソフィイが服を換へさせはじめるまでは、なか/\
温和しくならなかつた。やがて着換へに熱心になつて、直ぐに彼女は落着いた。そして
捲毛をよく
梳かして房々と垂らし、
淡紅色の
上衣を着け、長い飾帶を
締め、レイスの
長手袋をちやんとする頃には、裁判官か何ぞのやうに
眞面目くさつてゐた。彼女に服を
くしや/\にしないように、云つてきかせる必要はなかつた。服を着てしまふと、彼女は、
皺にしないようにと思つて、その
繻子の裾を非常に注意深く持ち上げて
温和しく自分の小さな椅子に掛けた。そして私の支度が出來るまで其處を動かないと云ふのであつた。私の支度は、すぐに出來た。私は、一番いゝ服(
銀鼠の分で、テムプル先生の御婚禮の時に買つて、あの時以來一度も着なかつた)を手早く着、髮もすぐに
梳かしつけ、私の唯一つの飾である眞珠の
衿留を着けた。私たちは下りて行つた。
都合のいゝことには、客間へは、皆が
晩餐の席に着いてゐる客間を通らなくても、他に入口があつた。部屋は
空虚であつた。大理石の爐には火が一杯靜かに燃え、蝋燭は
卓子を飾つた華麗な
[#「華麗な」は底本では「空麗な」]花の眞中で、輝かしい孤獨の中に輝いてゐた。アーチの前には
深紅の
窓掛がかゝつてゐた。この窓掛が作つてゐる隣りの客間の人々との隔りは僅かであつたが、人々は低い聲で話してゐるので、その話聲は、
物柔らかな囁き聲以上には聽き分けられなかつた。
非常に嚴肅な印象をまだ受けてゐるらしいアデェルは、私の指さした足臺の上に、言葉もなく掛けた。私は、窓際の腰掛の方へ引込んで、傍の
卓子から本を一册とつて讀まうと努力した。アデェルは、自分の臺を私の足許に持つて來た。暫くすると、彼女は私の膝に手を置いた。
「何んです、アデエル?」
「
“Est ce que je ne puis pas prendre une sevle de ces fleus magnifiques, mademoiselle? Seulement pour completer ma toilette?”(あたし、この綺麗なお花を一つだけとつちやいけない、先生? あたしのおべゝを立派にする爲めに。)」
「あなたはあんまり『
衣裳』のことを考へすぎてよ、アデエル。花は着けてもいゝけれど。」そして私は、花瓶から薔薇を一輪とつて、彼女の
飾帶に留めてやつた。彼女は、まるで彼女の幸福の
杯が今一杯になつたとでも云ふやうに、云ひ盡されぬ滿足の溜息を
吐いた。思はずも浮かぶ微笑をかくさうとして、私は横を向いた。この小さな
巴里娘の衣裳のことに對する熱心な本然の願ひには、
傷ましいと同時にいさゝか滑稽けいなものがあつた。
やがて、起ち上るらしい靜かな物音が聽えて來た。
窓掛がアーチから引き開けられると、其處から、長い
卓子一杯に並べられた、立派なデザァトの銀や
玻璃の食器の上に
吊燭臺が光を注いでゐる食堂が見えた。一群の貴婦人たちがその開かれたところに立つてゐた。彼等が這入ると、後の
帷は下りた。
人は八人しかゐなかつた。しかしそろ/\と
入つて來た時には、何だか、もつとずつと人數が多いやうな氣がした。その中の幾人かは非常に脊が高く、大抵の人は白い
裝ひをしてゐた。さうして、みんな盛裝して、裾を長くひき、
襞やレエスの飾やらで
幅廣になつて、霧が月を立派にするやうにそれが彼等を立派にしてゐた。私は
起ち上つて、彼等にお辭儀をした。一人か二人の人が頭を下げたばかりで、他の人たちは、たゞ私に目をくれたのみであつた。
彼等は室に散らばつた。彼等の
動作の輕快さと陽氣さが白い
羽毛の鳥の群を思ひ出させた。或る者は
安樂椅子や
褥椅に半ば凭れかゝつたやうな恰好をして居り、或る者は
卓子の上に身を
屈めて花だの本だのを見て居り、他の者は火の
周りに集つてゐた。それが
習慣らしい。皆低いけれど、澄んだ
聲音で話してゐた。後になつて私はその人たちの名前を知つたが、今そのことを述べておいた方がいゝだらう。
先づ、イィシュトン夫人と彼女の二人の令孃たちがゐる。彼女は確かに美人だつたらしく、今もまだ
容色が衰へてゐなかつた。その令孃の、大きな方のエミイは、どちらかと云ふと
小柄な方で、あどけなく、顏付も擧止も子供つぽく、姿には趣があつた。彼女の白いモスリンの着物と青い
飾帶とは、よく
似合つてゐた。もひとりのルヰザは、姿態はより脊高く優美で大へん綺麗な佛蘭西言葉の
“Minois chiffon
”(人形美人)といふ種類の顏立であつた。姉妹二人とも、百合のやうに美しかつた。
レイディ・リンは四十位の、
大柄な、肥つた人で、
反身で、ひどく傲慢な容子をして、いろ/\に光る繻子の服を着てゐた。彼女のうす黒い髮は、
空色の羽毛飾の蔭や、寶石の紐の環の中にきら/\と輝いてゐた。
デント大佐夫人はそれほど
華美ではなかつたが、ずつと貴婦人らしいと私は思つた。彼女は
細りした身體つきと、蒼白い、温和な顏と、美しい髮とを持つてゐた。彼女の黒繻子の服や、高價な外國製のレイスのスカァフや、眞珠の飾は、あの有爵夫人の虹のやうな輝かしさよりも遙かに私を喜ばせた。
しかし、一番目立つ三人は――たぶん、人々の中で、最も
丈が高い故でもあらうが――イングラム未亡人と、ブランシュ、メァリーの二令孃とであつた。彼等は、三人共、非常に脊の高い人たちであつた。男爵未亡人は四十と五十の間位らしく、その姿はまだ美しかつた。彼女の髮は(少くとも蝋燭の光で見れば)なほ黒く、齒もまだ確かに完全であつた。大抵の人は、その年頃にしては素晴らしい女だと云つたゞらう。身體の上から云へば、確かにさうであらう。しかし、同時にその態度容貌には、我慢のならない程の傲慢な表情があつた。彼女は、羅馬型の顏付と、柱のやうに喉へ消えてゐる二重顎とを持つてゐた。この顏付は、高慢さで、ふくらんでゐたり、陰氣になつてゐたりするばかりではなく、その高慢さが深く彫りつけられてゐるやうに思はれた。そして顎も、そのせゐで、殆んど奇異な程、眞直に上を向いてゐた。彼女は、また殘忍な無情な眼をしてゐた――それが私にリード夫人の眼を思ひ起させた。話す時には
仰々しく物を云つた。その聲は低く、その調子の高低はひどく尊大ぶつてゐて、ひどく頑固で――一口に云へば、とても我慢の出來ないやうなものだつた。深紅の
天鵞絨の服や、金絲で縫取のしてある印度織のショールで作つた
頭巾は、彼女に(きつと自分でさう思つてゐたゞらう)まつたく堂々たる威嚴を與へてゐた。
ブランシュとメァリーは、同じ位の脊丈で――ポプラの樹のやうに
眞直で高かつた。メァリーは彼女の
丈の割合には
細りし過ぎてゐたが、ブランシュはまるでディアナ(月の女神)のやうに出來てゐた。勿論、私は、特別の興味を以て彼女を觀察した。先づ、私は、彼女の外貌がフェアファックス夫人の描寫と一致するかどうかを見たかつた。次には、いつたい私が描いた空想の肖像に似てゐるかどうか、そして第三には――おゝ云つちまへ!――それがロチスター氏の趣味に合つてゐさうだと想へるやうなものであるか否かが見たかつた。
身體の範圍では、彼女は要點々々で私の畫にもフェアファックス夫人の描寫にも似てゐた。品のいゝ胸、なだらかな肩、優美な
頸、黒い眼と黒い捲毛も、すつかりそのまゝであつた――しかし、彼女の顏は? 彼女の顏は、母のにそつくりであつた。たゞ若くて皺がよつてゐないといふだけで、同じやうな狹い
額、同じやうな
造作の大きい顏立、同じやうな傲慢さであつた。但し、それは、そんな、陰氣な傲慢さではなかつた。彼女は
始終笑つてゐた。その笑はあてこすつたやうな笑で、彼女の
弓形をした高慢な唇にたえず漂つてゐる表情もまた同じであつた。
天才はいつも自分を意識してゐると云ふ。イングラムが天才であるかどうか私には分らないが、彼女は自分を意識してゐた――まつたく目に付く程、意識してゐた。彼女は
温和しいデント夫人と、植物學の話を始めてゐた。デント夫人は、その科學を學んだことがないらしい容子であつた。たゞ彼女は、花が
好きで、「特に
野生の花が好きだ」と云つてゐた。イングラム孃は學んでゐた。そして彼女は、得意な容子で、その用語を並べ立てた。私は、直ぐに、彼女がデント夫人を(俗に云ふ言葉であるが)「なぶりもの」にしてゐるのを――即ち、彼女の無知を飜弄してゐるのを見て取つた。彼女のなぶり方は、
巧みなものかも知れない。しかし、それは決して人の好いものではない。彼女はピアノを
彈いた。その
手並は鮮かだつた。彼女は歌つた。その聲は立派だつた。彼女は、母には特別に佛蘭西語を話した――流暢に、アクセントもちやんと正しく、よく話した。
メァリーは、ブランシュよりも
穩かな、無邪氣な容貌であつた。顏付ももつと優しく、肌もずつと美しかつた(イングラム孃は西班牙人のやうに淺黒かつた)――しかしメァリーには、
活々したところがなかつた。彼女の顏は表情が無く、眼は輝きを失つてゐた。彼女は何一つ話すこともなく、一度席に坐ると、まるで
壁龕の中の彫像のやうに、身動きもしないでゐた。姉妹は、二人共、純白の
裝ひをしてゐた。
さて、私はイングラム孃の事を、ロチスター氏が
好んで選びさうな人だと思つたゞらうか? 私には云へなかつた――私には女性美に對する彼の趣味は分らなかつたのだ。若し彼が威嚴あるものが好きだつたら、彼女は威嚴の立派な典型であつた。大抵の紳士達は彼女を稱讃するであらうと私は思つた。そして彼が彼女を稱讃してゐるといふその
確證を既に私は握つたやうに思つてゐる。最後の疑惑の影をとりのけるにはたゞ彼等が共にゐる處を見ればいゝのだ。
讀者よ、アデェルがずつと今迄私の
足許の足臺に
温和しく坐つてゐたと想像はなさらないだらう。その通り彼女は婦人たちが這入つて來るや立上つてその前に近づき、いかにも
改つたお辭儀をして、眞面目くさつて云つた――
「
“Bonjour Mesdames”(皆さま、こんにちは)」
するとイングラム孃は馬鹿にしたやうな容子で彼女を見下して云つた。「おやまあ何て小つぽけなお人形でせう。」
リン夫人は注意した、「そのお子さんが、ロチスターさんの
後見をしてゐらつしやる方だと存じますよ――あの方が話してゐらした佛蘭西の小さなお孃さんよ。」
デント夫人は親切に彼女の手を取つて接吻してやつた。エミーとルヰザ・イィシュトンとは一齊に叫んだ――
「何んて可愛らしい子でせう!」
それから二人は彼女を安樂椅子の方へ呼びよせた。其處で、彼女は二人の間に坐らされて、佛蘭西語とあやしげな英語とを代る/″\
喋舌るのであつた。それがその若い令孃達の心のみならずイィシュトン夫人やリン夫人までも引きつけて、思ふ存分に甘やかされ可愛がられてゐた。
とう/\
珈琲が運ばれ紳士たちが招ばれた。私は蔭の方に坐つた――若しこの輝かしく
燈の
點いた部屋に少しでも蔭があるとしたならば。窓掛が半ば私を隱してくれた。また
[#「また」は底本では「まだ」]アーチが開いて彼等が入つて來た。紳士たちが一團になつて現はれた容子は婦人たちのと同じくまつたく堂々としてゐた。皆黒い服裝をして、大抵は脊が高く、幾人か若い人もゐた。リン家のヘンリイとフレドリックは、實に、めかしたてゝ
意氣な
伊達者だ。デント大佐は立派な軍人らしい人、地方長官のイィシュトン氏は紳士らしい人だつた。髮はすつかり白く、まだ黒い眉と
頬髯が
“P
re noble deh
tre”(芝居に出て來る上品な父親)と云つた風な容子を與へてゐる。イングラム卿は姉達と同じく非常に脊が高く、また同じく美しい。しかし、彼はメァリーの感じの無い、冷淡な樣子を同じやうに
承けてゐる。彼は、血のめぐりや腦の發育よりも手足の方が長すぎるやうに見える。
だがロチスター氏は、何處にゐるのか?
彼は最後に入つて來た。私は、アーチの方を見てはゐなかつたが、彼の入つて來るのが見えた。私は、自分の心を、
編針の上に、
拵へかけてゐる財布の
編目の上に、集中しようとした――たゞ自分の手にある仕事の事だけを考へ、膝の上にある銀色の
南京玉と絹絲ばかりを見てゐようと思つたのである。それなのに、私は、はつきりと彼の姿を見た。そして思はず、あの最後の瞬間を思ひ起した。
至要な奉仕と彼が稱することをした直ぐ後で、彼が私の手をとつて顏をのぞき込みながら、滿ち溢れるやうな熱い心情の現はれた眼でじつと私を見つめ、私も同じ思を抱いてゐた、その時のことを。あの時、私はどんなに彼に接近して
[#「接近して」は底本では「按近して」]ゐたことだらう! 彼と私との互の關係を變化させると思はれるやうな何かゞ起つたのであらうか。しかも、今はこんなにも
隔たり、こんなにも
他所々々しいとは! 彼が私のところへ來て話しかけようなどとは思ひもよらない程離れ/″\になつてゐるのである。私は彼がこちらの方を見ることもせずに部屋の向う側に座を占めて、幾人かの婦人達と話を始めた時にも別に驚きはしなかつた。
彼の注意がその人たちの方に集注し、彼に氣付かれないで
凝視ることが出來ると分ると、私の眼は、我知らず、彼の顏の方に惹かれた。私は眼を伏せたまゝゐることは出來なかつた。
眼瞼はどうしても上へ上り、黒眼は彼を見つめるのであつた。私は見た、そして見ることは強い
歡びであつた――貴重な、しかし有毒な
歡び、苦悶の鋼鐵の一點を持つた
純金、今自分の這ひよつた泉は毒の泉だと知りつゝ、なほ身を
屈めて尊い水を飮む、あの、渇して死にさうになつた人が感ずるであらうその歡びであつた。
「美は視る人の眼の
裡に在り。」といふのは、眞理に近い。私の主人の血の
氣のないオリイヴ色の顏、
角張つた廣い
額、太い漆黒の眉、引込んだ眼、きつい相、
きつと引き締めた、
苦味走つた口許――すべての、活氣、決斷、意志――は、原則に從へば美しくなかつた。しかし、私にとつてはみんな美しい以上のものであつた。何も
彼も、私をすつかり、支配してしまふやうな興味と、力に充ちてゐた――それが私自身の感情を無力にして、彼の感情の中に、切り離せなくしてしまふのである。私は、彼を戀しようとは思はなかつた。私が、自分の心の中から、探し出せるだけの戀の萠芽を
根絶しにしようと、非常に苦勞してゐたことを、讀者は御存知でせう。それに今、また新らしく彼を見たその瞬間に、それは自然に青々と
勢づいて
甦つて來たのだ! 彼は、私を眺めずに、私に戀させた。
私は彼とお客たちを比較してみた。リン家の人たちの
意氣な容子のよさ、イングラム卿の
穩かな上品さも何であらう――デント大佐の軍人らしい立派さゝへ彼の生れながらの活氣と眞の力に
比べては何んであらう。彼等の外貌に對し彼等の表情に對して、私は些しも心を動かすことはない。しかも大抵の人は彼等の事を人を惹きつけるやうで、立派で、堂々としてゐると云ひ、ロチスター氏の事は一言の下に人相のきつい陰鬱な容子をした人だと云ふだらうと想像することが出來た。私は彼等が微笑を浮かべ、また笑ふのを見た――それは無意味なものであつた。彼等の微笑は蝋燭の光と同じく心なきものであり、彼等の笑ひは鈴の音と等しく無意味なものであつた。私はロチスター氏の
微笑みを見た。彼の嚴しい
相好は
和いだ。彼の眼は輝やかしく柔和になり、その輝きは人の心を探るやうに、また温厚になつた。その時ちやうど、彼はルヰザとエミー・イィシュトンとに話しかけてゐるところだつた。私には身に
滲み渡るやうに思はれるその
眼差[#ルビの「まなざし」は底本では「おなざし」]を彼等が平氣で受けてゐるのが不思議に思はれた。私は、彼等の眼が伏し眼になつて、血の
氣が上つて來ることと
許り思つてゐた。しかし、彼等が
少許も動かされた樣子が無いのを見た時、私は嬉しかつた。「彼女にとつてのあの人と、私にとつてのあの人とは違ふのだ。」と私は思つた。「あの方は、あの人達とは異ふのだ。あの方は、私と同じなのだ――確かにさうだ――私はあの方に近しいやうな氣がする――私には、あの方の顏色や
意向の
表はす言葉が解る。階級と財産などが私共を遠く隔てゝゐても、私は、自分の頭と心の
裡に、自分の血と神經の中に、何か精神的にあの方と
似通はせるものを持つてゐるのだ。數日前に、私は、あの方の手から俸給を受け取るより外に、あの方に對してすることは何も無いと云つたであらうか? 雇主としてより外の見方で、あの方のことを考へてはいけないと自分に命じたであらうか? 自然に對する
冒涜だ! 私の持つてゐる、あらゆる善良な、眞實な、
活々とした感情が、前後の考へもなくあの方を取卷いて集つてゐる。私は自分の感情を
蔽ひ隱さねばならぬことも、望みを握り潰さねばならぬことも、あの方が大して私に氣を留めてゐる筈のないことを忘れてはならぬことも知つてゐる。私があの方と同じ型の人間だと云つたとしても、それは私があの方のやうな人を左右する力や人を惹きつけるあの魔力を持つてゐるといふ意味ではない。たゞ、あの方と
相似した趣味や感情を持つてゐるといふ意味である。だから、私たちは永久に隔てられたまゝ進行せねばならないのだ――しかも、私が呼吸し、思索する間は、私は、あの方を戀しなければならないのだ。」
珈琲が出された。貴婦人たちは紳士たちが入つて來てから、
雲雀のやうに快活になつて、話は
活々と面白く榮えて行つた。デント大佐とイィシュトン氏とは政治問題を論じ、その夫人たちはそれを聽いてゐる。二人の傲慢な男爵未亡人、レイディ・リンとレイディ・イングラムとは互に打解けて話してゐる。サァ・ジョオジ――さう/\、この人のことを云ふのを忘れてゐたが――は、非常に大きな、
活々とした田舍紳士で、彼等の安樂椅子の前に
珈琲茶碗を手にして立つてゐて、時々言葉を

んでゐた。フレドリック・リン氏は、メッリー・イングラムの直ぐ傍に掛けて、立派な書籍の印畫を見せてゐる。彼女は、それを眺めて、時たま
微笑むが、見たところでは、殆んど云はない。脊の高い無神經な容子をしたイングラム卿は、小さく快活なエミー・イィシュトンの椅子の背中に腕を組んで
凭りかゝつてゐる。彼女は、彼を見上げて、まるで
鷦鷯か何ぞのやうにお
喋舌してゐる。彼女はロチスター氏よりも彼の方が好きなのである。ヘンリ・リンは、ルヰザの足下にある
褥椅子に坐つてゐた。そこにはアデェルも彼と一緒にゐる。彼は、彼女と佛蘭西語を話さうとしてゐる。そしてルヰザは彼の間違ひを笑つてゐる。ブランシュ・イングラムは一體誰と組んでゐるのだらう? 彼女は、たゞ獨り
卓子の傍に立つて、
淑かに、身を
屈めて、寫眞帖を見てゐる。まるで
探されるのを待つてゐるかのやうに。しかし何時迄も、彼女は待つてはゐなかつた。自分で相手を選んだ。
ロチスター氏は、イィシュトン姉妹の傍を立去ると、彼女が
卓子の傍に立つてゐたと同じやうに、たゞ獨りで爐の前に立つてゐた。彼女は、彼の方へ行つて、彼と向ひ合ひに、
爐棚の前に立つた。
「ロチスターさん、私、あなたは子供はお
好きでないと思つてゐましたのに?」
「えゝ、ちつとも。」
「では、どうしてあんな小さなお人形の世話をなさるやうなことにおなり遊ばしたの?」(アデェルの方を指ざし乍ら)「どこでお拾ひになつたの?」
「
彼女は拾つたんぢやないんです。私の手に殘されたのです。」
「學校へお遣り遊ばさなくてはなりませんのね。」
「とても出來ませんよ。學校は隨分費用がかゝりますからねえ。」
「まあ、あなたはあの子に家庭教師をつけてゐらつしやるやうぢやございませんか。たつた今、あの子の傍にゐましたつけ――行つてしまつたのか知ら? あゝ、さうぢやなかつた! 未だあそこに、あの窓掛の蔭にゐますわ。無論、あなたは、あれに俸給をお出しになるのでございませう。それぢあ、學校にお入れになるとおなじ位、費用がかゝるぢやございませんか――それだけではございませんわ。だつて、その上に、どちらも養つておやりにならなくてはなりませんもの。」
私のことが
引合に出されて、それでロチスター氏が私の方を見はしまいかと、私は
怖れた――それとも望んだと云ふべきであらうか? 我知らず、私は、なほも奧の方へと身を
縮めた。しかし、彼は、まつたく眼を向けなかつた。
「そのことは一向に考へませんでした。」と彼は、
眞直に前の方を見ながら、
何氣なく云つた。
「えゝ、あなた方
殿方といふものは、決して經濟だの常識だのに就いてお考へになることなんぞないんですわ。家庭教師といふ論題では母さまにおきゝにならなければいけませんわ。あの頃少くも、メアリーと私とは、
十二人は雇つたと思ひますわ。その半分は、とても
堪らない程厭なのでしたし、後の殘りは、馬鹿々々しいやうなのばかり、そしてどれもこれも、うなされさうなのばかりでございましたわ――さうでしたわねえ、母さま?」
「何かおはなしでしたか、
私の孃や?」
この男爵未亡人の特別の所有物と云はれた令孃は、説明しながら彼女の問ひを繰り返した。
「お前、家庭教師のことなんぞお言ひでない。その言葉は私を苛々させますから。あれたちの無能力と
無定見に、私はもう殉教者の苦しみを致しましたよ。今はあれたちとすつかり縁が切れてゐることを、私、神さまに、感謝します!」
デント夫人は、この信心深い貴婦人の方に身を
屈めて、その耳に何事か囁いた。云はれた答へから
推して、それはその呪はれた人種の一人が此處にゐるといふことを注意したのだと私は想像した。
「なほいけませんわ!」夫人は云つた。「それが彼女の爲めになればいゝがと思ひますわ!」それから調子を下げて、しかしまだ十分私に聞える程の聲で、「私、氣を付けて見ましたの。私には
人相が判るんでございますのよ。それで、あの女には、あの階級の缺點がすつかり、あらはれてゐると、私、思ひますの。」
「それはどんなものです、奧さま?」とロチスター氏が、
聲高に云つた。
「
内密でお話しいたしませう。」と、いかにも重大らしく、三度、
被り
物を振り立てゝ、彼女は答へた。
「しかしさうすると、私の好奇心は食べたさを通り越してしまひます。たつた今、食物を欲しがつてゐるのですがね。」
「ブランシュにお
訊きなさいまし。あれの方が、私よりもあなたのお近くですから。」
「あら、私の方に押しつけては嫌でございますわ、母さま! あゝいふ人たちのことを一口で申しますとね――みんな、しやうのない者でございますわ。私が
甚い目に
遭はされたといふ譯ではございませんのよ。私、さかねぢを
食はせるやうに、いつも用意してをりましたの。まあ、テオドールと私とは、私たちの家庭教師のウィルスン孃だの、グレイ夫人だの、ジュベア夫人だのに、いつも
惡戲をしましたのよ! メアリーは、眠たがりでいつもその計畫に身を入れてはくれませんでしたの。一等面白かつたのは、ジュベア夫人にした時でしたわ。ウィルスン孃は、憐れな病身もので、
泣蟲の、元氣のない、つまり、負かし
甲斐のない人でしたわ。そして、グレイ夫人は、
がさつで無感覺で――
撲たれたつて平氣なんですの。處がジュベア夫人と云つたら! あの人を手も足も出ないやうな目に合はせた時の、非常に激昂したあの人を、今でも、私、見るやうですわ――私たちのお茶をこぼすやら、バタのついたパンをもみくしやにしてしまふやら、私たちの本を
天井まで
放り投げるやら、
定規とで、
煖爐圍と火爐具とで、大騷動を演じるやら大變でしたの。ねえテオドールあの面白かつた頃のことを覺えてゐらして。」
「あゝあゝ、知つてゐるとも。」と、イングラム卿はまだるい云ひ方をした。「そして、あの
けちな
唐變木の婆さん、何かつてばかう怒鳴つてたつけ『まあ、このイタヅラメ、コドモメ!』つてね――それから樸たちはまた、自分は何も知らない癖して僕たちみたいな
悧巧な者に物を教へようとするのは僣越だつて
彼奴に云つてきかせたつけ。」
「さう/\。それからテドオ、私、あなたに手をかして、あなたの先生の、色の
生白いタヴァイニング氏の事を
告げ
口(それともいぢめたと云つてもいゝわ)したことがありましたつけ――ほら、何時も、私たちが、憂鬱な人と呼んでゐた、あの人さ。あの人とウィルスン孃とが、兩方お互に勝手に好きになつて――少くとも、テドオと私とはさう思つてゐましたわね。私たちは『美しい熱情』の
證と
解釋した色々のやさしい
眼差しと吐息を不意に襲つて驚かしたつけ。そして世間は直ぐに、その發見を喜びましたのね。私たちはその事件を
槓杆にして、あの重たい難物を家から追ひ出す工夫をしましたつけ。すると、母さまは、その事を感付きになるとすぐ、それが不道徳な傾向だと云ふ事に氣がおつきになりましたのね。ねえ、さうでせう、母さま。」
「ほんとにさうだよ。そして私の
思惑通りでした。あの場合にはね。女の家庭教師と男の家庭教師との
狎合などといふものが、ちやんとした家庭では一分間でも我慢すべきではないといふ事には數へきれないほどの理由がございます。先づ第一に――」
「まあ、お願ひ、母さま! 一々數へたてるのはお止し遊ばせ! au reste(おまけに、)私たちみんなその事は存じて居りますわ。子供の
無邪氣に對する惡例の危險、
狎れ
合つた方から云へば
務めを
忽せにする結果と紛亂――互の親和と信頼、それから出て來る自信――それに伴ふ
横着――反抗――そしてお
定りの爆發。これでよろしうございますか、イングラム・パァクのイングラム男爵夫人?」
「孃や、いつもの通り今もお前は正しいのですよ。」
「ではこの上何んにも云ふ必要はございませんわね。別のお話を致しませう。」
エミー・イィシュトンは聽いてゐなかつたのか、それとも
[#「それとも」は底本では「それと」]この言葉に耳を傾けなかつたのか、
優しいあどけない口調で口を挾んだ。「ルヰザも私も矢張り家庭教師を
始終からかひましたの。でもそれはいゝ人で、どんな事でも我慢して、ちつとも怒るなんてことはありませんでしたのよ。私たちにだつて決して
不機嫌になぞなりませんでしたわ。さうだつたわねえ、ルヰザ?」
「えゝ、決してね。私たちは何んでも好きなことが出來ましたわ――机の中だの
針箱だのを引掻き

したり、
抽斗を引くり返したりね。それは善い人で、何んでも、私共の欲しがるものは呉れるんですの。」
「なんですか、もう、」とイングラム孃はあてつけるやうに唇をそらして云つた。「全家庭教師の
言行録の
拔萃が出來てしまひますわ。そんなものを
檢べたりすることを避ける爲めに、私は新らしい話題を始めることを提議いたします。ロチスターさん、私の提議に賛成遊ばしまして?」
「奧さま、他のすべての場合と同樣に、この點でもあなたを支持します。」
「では、それを提出する義務は私にございます。エドワルドさま、今夜歌ひますか。」
「ビアンカ夫人、御指名とあらば、
直ちに。」
「では、あなた、私は、あなたがあなたの肺臟や他の
發聲器官を磨くやうに望むぞよ。王の御機嫌にかなふように。」
「いとも聖なるメァリーの君の
御所望とあらば、リツィオにならぬものがありませうか。」
「リツィオなんかつまらない!」と彼女は叫ぶと、
捲毛の頭を
搖つてピアノの方へ歩いて行つた。「私、
琴彈者のデヴィッドは面白くない人間だつたに違ひないと思ひますわ。それよりも海賊のボズェルの方がずつと好きですわ。私には惡魔的な處をちつとも持つてゐない男の方など、つまらなくて駄目ですの。歴史の方ではジェイムズ・ヘボンのことを何と云はうとも、私の意見では彼こそ、この手を與へてもいゝ
放逸な、
剽悍な野武士といふ氣がいたしますわ。」
「皆さん、お聽きになりましたか! 一體あなた方の中では誰が一等ボスウェルに似てゐます?」とロスター氏が叫んだ。
「その
優先權は先づあなたにありませうな。」とデント大佐は答へた。
「いや、まつたく有難くお禮申上げます。」といふのが答だつた。
イングラム孃は、誇らしげな樣子で、ピアノの前に掛けると、その純白の衣裳を女王のやうに擴げて、
華やかな
前奏曲を
彈きはじめた――同時に話しながら。彼女は今夜得意の絶頂にある樣子であつた。彼女の言葉も容子も
兩つながら聽衆の稱讃のみならず、驚嘆をも惹き起さうとしてゐるやうに見えた。明かに彼女は自分を非常に
奇拔な、
華々しいものとして人々をおどろかせようと、一生懸命になつてゐるのであつた。
「まあ、私、この頃の若い方など大嫌ひですわ!」と彼女は樂器を急調に
彈き鳴らしながら叫んだ。「父さまの莊園の門を越えては一足だつて踏み込めない、母さまのお許しと
後見なしには其處までさへも來られない、憐れな
弱蟲さん! 自分の綺麗な顏だの、白い手だの、小さな足だのゝ
手入に魂を奪はれてゐる人たち、
殿方に綺麗なお顏なんぞがお入用なのではあるまいし! 可愛らしさを、女にばかしやつては置けないとでも仰しやるのでせうか――女に當然附屬してゐる親讓りのものをねえ。私
醜い
婦人といふものは創造の
麗しい顏の汚點だと見なします。でも
殿方にはたゞ力と勇武だけをお
備へになれば結構ですわ。その座右の銘としては――狩獵、射撃、戰ですわ。その他のものは何んの價もありません。かう云つたものが私の考へなんですの、もし私が男でしたらばね。」
「私、もし結婚いたしましたら
何時でも、」と誰一人
遮るものゝない沈默の後に、彼女は言葉を續けた。「自分の
良人を競爭者になぞしないで、私の引立て役にしようと思ひますの。私、自分の傍に競爭者を置いて我慢してはゐられません。私は絶對の服從を求めます。
良人のまことが私と、鏡に
映る良人の顏とに分け與へられるやうなことはさせませんわ。ロチスターさん、さあお歌ひ遊ばせ、私、
彈いて差上げますから。」
「何事でも服從します。」といふのが答だつた。
「では、此處に海賊の歌がございます。私、海賊が大へん氣に入つてゐるのを御存じでせう。だから『コン・スピリトォ(活溌に)』でお歌ひ遊ばせ。」
「イングラム孃の御口づからの御命令ならば、水を
割つた乳の
杯にも酒の
精が入りませう。」
「ではお氣をお付け遊ばせよ。若しも私の氣に入らないやうなことを遊ばしたら、どういふ風になさるべきかをお教へして、あなたに恥をおかゝせいたしますよ。」
「それでは、まづく唄ふと
御褒美を下さるといふことになりますね。ぢあ、私は
失敗るように努力致しませう。」
「
“Gardez-vous en bien!”(御用心遊ばせ)あなたが、わざとお間違へになるやうなら、私だつてそれ相當の罰を考へて置きましてよ。」
「イングラム孃は寛仁でゐらつしやらなくてはなりませんよ。我々人間の堪へ得られぬやうな
懲罰をお加へになるやうなことをちやんと御自分の力の中にお持ちですからね。」
「ほゝ、まあ、説明なすつて下さいまし!」と婦人は命令した。
「失禮、奧さま。説明の必要はございませんよ。あなた御自身の御心が御存じの筈でございませう、ちよいと眉をお
顰めになりましても、それがもう結構死刑にも
匹敵するのだといふことを。」
「お歌ひ遊ばせ!」と云つて、彼女は、再びピアノに向つて、元氣のよい
彈き方で伴奏をはじめた。
「今が
脱けだすのにいゝ時だ。」と私は思つた。しかし今歌ひ出された曲の音調が私を
捉へた。フェアファックス夫人は、ロチスター氏はいゝ聲を持つてゐると云つた。それは本當だつた――何とも云へず
快い、力のある
低音で、その中には彼の感じ、彼の力がこもつてゐて、耳から心の中に沁み入り不思議な感じを起させるのであつた。私はその最後の低い
張り切つた
顫音が消えるまで――ちよつとの間止んでゐた話聲が再び元に歸るまで、待つてゐた。そして私は自分の隱れるようにしてゐた片隅を立つて、都合よく
間近にあつた
傍戸から出た。そこから狹い
通路が廣間の方へ通じてゐるのである。そこを通り拔けようとして、私は靴の
紐のとけかゝつてゐるのに氣が付いた。それを締めようとして足を留めて、階段のちやうど下の處で敷物の上に
跪いた。食堂の
扉の開くのが聞えて、男が一人出て來た。急いで
起ち上ると、私は彼と面と向ひ合つてゐた。それはロチスター氏であつた。
「
如何です。」と彼が
訊ねた。
「別に、相變らずでございます。」
「どうしてあの部屋で私のところへ來て言葉をかけなかつたのです?」
私はさう云ふ彼にその問ひを返さうかと思つた。しかし私はそんな遠慮のないことは出來なかつた。そしてかう答へた――
「お差支へのやうでございましたから、お
妨げしたくないと存じまして。」
「留守の間中、どうしてゐました?」
「これと云つて特別には。いつものやうにアデェルを教へてをりました。」
「そして、前よりも大分
蒼ざめてゐますね――
最初、見たときよりも。どうしたのです?」
「何んでもございません。」
「あなたが私を溺らし損ねたあの晩、
風邪を引きましたか。」
「いゝえ、
些しも。」
「客間へかへつていらつしやい。今引込むのは、餘り早過ぎますよ。」
「私、疲れましたの。」
彼はちつとの間、私をじつと見た。
「そして、少しばかり
悄氣てね。」と彼は云つた。「どうしたのです? 云つて御覽なさい。」
「何んにも――何んでもありません。私、
悄氣てなぞをりませんわ。」
「いや確かにさうだ。あまりひどく
悄氣込んでるので、もう二三
言云ふと涙が出さうです――それ、もうそこに、キラ/\光つて、濕つて、
一滴睫からこぼれて敷物の上に落ちた。時間さへあれば、それに、其處いらをうろついてる召使ひ共の
煩い口さへ無ければ、この譯をすつかりきくのだが。まあ、今夜はよろしい。だが覺えておいて下さいよ。この客が
逗つてゐる間は、毎晩あなたも客間に來るのですよ。これは私の希望です。
等閑にしてはいけませんよ。さあ、もういらつしやい。アデェルの方はソフィイを
寄越して下さい。お休み、私の――」彼は云ひ止めて唇を
咬むと、急に私の傍を立去つた。
當時のソーンフィールド莊は毎日
愉しくも亦
忙がしいものであつた。私がこの屋根の下に
過した靜かな、單調な、淋しい、はじめの三ヶ月に
比べると、何んといふ變り方だらう! 陰氣な感じはすつかり今この家から
逐ひのけられ、暗い聯想もすつかり忘られてしまつたやうだ。到る處に生命が漲り、終日ざわめきが續いてゐた。かつては
しんと靜まり返つてゐた廊下を行くにも、また、嘗て
人氣の無かつた正面の部屋に這入るにも、
いきな侍女か
伊達な從者に行き逢ふことなしには出來ないのであつた。
臺所も、食事方の食料室も、召使ひたちの廣間も、表廣間も、
等しく活氣づいてゐた。そして客間は、
爽やかな春の日の青空と
長閑な陽の光が、其處にゐる人々を戸外に呼び出す時だけ、
空虚になつて靜かであつた。お天氣が惡くなつて、幾日か雨續きになつた時でさへ、樂しみが盡きる樣子は見えなかつた。戸外の樂しみが
餘儀なく中止された結果、室内の娯樂が却つて活氣を帶びて、樣々に變つてゆくのだつた。
餘興の變更が提議された最初の夜、私はみんな何をするつもりなのだらうかと思つてゐた。彼等は、「
謎芝居」と云ふものゝ事を話してゐたが、無經驗な私には、その言葉を理解出來なかつた。召使ひたちが
喚び込まれて、食堂の
卓子が運び去られ、ともし火もいつもと違つた風に置かれ、
迫持に向つて
椅子が半圓形に置かれた。ロチスター氏や他の紳士たちが、この
模樣變の方の
指圖をしてゐる間に、婦人たちは
呼鈴を鳴らして小間使を呼んでは、階段を駈けて上つたり下りたりしてゐた。フェアファックス夫人はこの家に
藏つてある樣々の肩掛や衣裳や窓掛等の事を話す爲めに
喚ばれた。そして三階にある衣裳戸棚を幾つか掻き

して、
鯨骨の
環の
入つた
婦人袴、繻子のうちかけ、黒い
流行服、レイスの帽子かざりなどが、侍女たちによつて、一抱へづゝ運び下ろされた。その中からまた選び出して、選ばれたものは客間の奧に在る婦人室に運ばれた。
ちやうどその時、ロチスター氏は婦人たちを再び彼の周圍に
喚び集めて、その中の幾人かを彼の組に選り出してゐるところであつた。「イングラム孃は無論、私の組です。」と彼は云つた。その後で、彼はイィシュトン家の二令孃とデント夫人とを
名指した。彼は私の方を見た。ちやうど私は彼の傍に居合せた。デント夫人の
腕環がとれかゝつてゐたのを締め直して上げてゐたのだ。
「おやりになりますか。」と彼は
訊ねた。私は頭を振つた。彼は
強ひはしなかつたが、それを例の調子で押しつけられやしないかと寧ろ私は恐れてゐたのであつた。彼は私をいつもの席に靜かにかへして呉れた。
さて、彼と彼の助力者たちは、
帷の後に引き
退つた。デント大佐に率ゐられた、も一つの組は、半圓形に列べた椅子に掛けた。紳士たちの一人の、イィシュトン氏は私を見て、私もその組に加へてはどうだといふ事を提議したらしかつた。しかしイングラム夫人は直ぐにその意見に反對した。
「駄目ですよ。」と彼女の云ふのが聞えた。「あんまり
鈍間らしくつて、こんな遊びには向きさうもないぢやございませんか。」
やがて
呼鈴が鳴つて幕が上つた。アーチの内部に、矢張りロチスターが一緒に選んだサー・ジョオジ・リンの大きな身體が白い敷布に
包まつて見えた。彼の前の
卓子の上には大きな本が開いて置いてある。そして彼の横にエミイ・イィシュトンがロチスター氏の外套を着込んで手には一册の本を持つて立つてゐる。誰かゞ姿をかくして、愉しげに鈴を鳴らした。すると、アデェル(彼女は自分の
後見をしてゐる人の組になりたいと言ひ張つたのである)が、腕にかけた花籠の中の花を撒き散らしながら進み出た。その次に現はれたのは、白い
裝ひをして、長い薄絹を頭に
被り、薔薇の花環を
額に卷いたイングラム孃の立派な姿であつた。彼女と並んで來るのはロチスター氏で、二人は一緒に
卓子の方に近づいた。そして
跪いた。その間、矢張り白い
裝ひをしたデント夫人とルヰザ・イィシュトンとは、二人の
後に位置をとつた。默劇の中に式が始まつた。婚禮の
所作事であることが直ぐにうなづかれた。それが終ると、デント大佐とその組の人々は二分間ばかりひそ/\と相談し合つた。それからデント大佐が叫んだ――
「
花嫁!」ロチスター氏が、お辭儀をして、幕が下りた。
再び幕が上る迄には可なりの間があつた。二幕目のは先のよりもずつと念を入れて用意した場面を見せてゐた。前に説明した通り客間は食堂よりも二段高くなつてゐたが、部屋の内に一二
碼後方に置かれた
段構への上段に大きな大理石の
水盤が据ゑてあるのが見えた。それは温室の――
何時も舶來の植物に
圍まれて、中に金魚を入れて置いてあつた――裝飾として見おぼえのあるもので、何しろ大きくつて重いのだから、苦勞してその
温室から運んで來たに違ひないものであつた。
この水盤の傍に
絨毯を敷いて坐つてゐるのは、肩掛を※
[#「纏」の「广」に代えて「厂」、198-上-17]ひ、頭には
頭被を被つたロチスター氏であつた。彼の黒い眼と淺黒い顏の色と
囘教徒のやうな
顏立とが、その衣裳にしつくり合つてゐた。彼は
弓矢をとる身か、またその矢に當つて死ぬ身かになつた東方のマホメットの
末裔そのまゝに見えるのであつた。やがてイングラム孃が現はれて來た。彼女も矢張り東洋風の
裝ひをして――濃紅のスカァフを
飾帶のやうに腰の
周りにしばり、縁取りのハンケチが
額の周圍に結ばれ、美しい形をした腕は
露はに出て、その片腕は頭の上に載せてある
水瓶を
支へる爲めに恰好よく擧げられてゐた。彼女の姿も、容貌の工合も、その顏色も、大體の容子も、猶太王國時代の王女を思ひ出させるところがあつた。そしてまた、そのやうなのが、疑ひもなく彼女が演じようとしてゐる
役柄でもあつた。
彼女は、水盤に近づいて、その上に身を
屈め、恰も彼女の水瓶を滿すやうな
所作をした。そしてそれを再び頭の上に載せた。泉の
縁にゐる人物が彼女に言葉を掛ける容子をした――何か願ふやうである。「彼女は急ぎ
水瓶を手に取り下ろし、それを彼に飮ましめた。」すると、彼は、
懷中から
玉手箱を一つ取り出して、それを開け、立派な腕環や耳環を見せた。彼女は驚愕と稱讃の
身振をする。
跪いて、彼はその寶物を彼女の足下に置く。信じられぬといふ容子と喜びとが彼女の顏付と身振りとに表はれる。旅人はその
腕環を彼女の腕に
耳環を耳に着けてやる。それはエリイザとリベッカとである。たゞ
駱駝が無いだけであつた。
分れた組は再び
額を
鳩めた。明かに彼等はこの場面の現はした言葉または文句に就いて意見が合はないのであつた。代表者のデント大佐は要求した。「全體の場面を。」そこで幕は再び
下りた。
三幕目には客間の一部分丈けが開いてゐて、他は何か黒つぽい、
粗目の掛布のかけてある屏風で隱されてあつた。大理石の水盤は持ち去られて、其處には
雜木板の
卓子と、臺所用の椅子とが置いてあつた。これらの物は角製の
提灯の照らす非常にうす暗い光で、ぼんやり見えてゐた。蝋燭は全部消されてゐた。
この
汚らしい場面の
眞中に一人の男が坐つてゐる。握りしめた双の拳を膝の上に置き視線を地上に落してゐた。
汚した顏、亂れた服裝(彼の
上衣は、まるで取つ組み合でもして背中から裂けてしまつたかのやうに
だらりと腕から垂れ下つてゐた)、絶望したやうな、
蹙め顏、
粗々しい
逆立つた頭髮等は巧みに人相を變へてはゐたが、私にはロチスター氏であることが分つた。彼が動くと鎖がガチヤ/\と鳴つた。彼の
手首には
手械がはめられてあつたのだ。
刑務所(ブライド・ウエル!)とデント大佐が叫んだ。それで謎は解けたのである。
この役者達は、普通の服裝に
着換へるのに大分間をとつて、再び食堂に這入つて來た。ロチスター氏は、イングラム孃の手をとつて、連れて這入つて來た。彼女は、彼の
演技を
褒めてゐた。
「御存じ?」と彼女は云つた。「あの三つの人物の中では、私は最後のあなたが好きなのでございますよ。あゝあなたがもう五六年も前に生れてゐらしたのだつたら、さぞ立派な紳士
追剥におなりだつたでせうに!」
「
煤はもうすつかり、顏から落ちてゐますか。」と顏を彼女の方に向けながら彼は
訊ねた。
「まあ、えゝ、すつかり。いよ/\殘念ですわねえ。あの墨のくまどり程あなたのお顏にお
似合になるものつて、御座いませんことよ。」
「ぢや、あなたは道の英雄がお好きなのですね?」
「英吉利の道の英雄は、伊太利の山賊に次いで、いゝと思ひますの。伊太利のは、リ

ントの海賊に負けるだけですわ。」
「成る程。しかし私が何であらうと、あなたはもう私の奧さまですからね。私たちは、此處にゐる人々の面前で、一時間前に結婚したのですよ。」彼女は
忍び笑ひをして、赧くなつた。
「さあ、デント、」とロチスター氏は言葉をついだ。「今度はあなた方の番ですよ。」そして、も一つの組が引込むと、彼と彼の組は
空になつた椅子に座を占めた。イングラム孃は彼女の指揮者の右手に腰掛け、他の人達は彼と彼女の兩側の椅子を充たした。今はもう私は
役者を見守らなかつた。私はもう興味を以て幕の上るのを待ちはしなかつた。私の注意は觀客の方に惹きつけられてゐるのだ。前にはアーチの方をのみ見つめてゐた私の眼は、今は抵抗し難い力で
椅子の半圓の方に惹きよせられるのであつた。デント大佐と彼の組とがどんな謎を演じたか、どんな言葉を選んだか、またどういふ風に演じたか、最早私は
憶えてゐない。しかも幕の終る毎にその協議を私は見てをつた。私はロチスター氏がイングラム孃を
顧みイングラム孃が彼の方を
向くのを見た。私は彼女が、その漆黒の
捲毛が殆んど彼の肩にふれさうになり、彼の頬に
觸りさうになるまで、頭を彼の方に傾けてゐるのを見た。私は彼等が互に
取交す囁きを聞いた。私は彼等の
見交す
眼差を思ひ起す。そしてその光景によつて起された或る感情さへも、この瞬間、私の記憶に
甦つて
來るのであつた。
私は既に、讀者よ、自分がロチスター氏を愛するやうになつたと云つた。私は、もう、彼を愛してゐなかつた以前に戻れないのだ。たゞ彼が私に氣を留めなくなつたと知つたからと云つて――私が彼の前で幾時間か過しても、彼がたゞの一度も、私の方へ眼を向けないからと云つて――彼の注意がすつかりあの立派な貴婦人に占められたからと云つて――行きずりに衣裳の端が、私に
觸るのを蔑み嫌ひ、もし彼女の黒い、傲慢な眼が偶然に私の上にとまるやうなことがあつたら、まるで見るに價しない程
賤しいものだと云ふ風に急いで
反らして了ふであらう人に。私は彼を愛さないではゐられなかつた。彼がこの婦人と結婚するだらうといふ事をはつきり感じたと云つて――彼女に關する彼の
眞意に、誇らしい安らひを感じてゐる樣子が毎日彼女に見えたと云つて――また始終彼に求愛の樣子が見えたと云つて――それは、
無雜作で、愛を乞ひ求めるといふよりは、求められるやうにするやり方だが、その、
何氣ない
無雜作な點が、却つて人を
擒にし、誇らしい態度が却つて抵抗しがたく人を惹きつけるのだ。
このやうな事情で、戀心が
冷めたり消えたりするものではなかつた。絶望を生むことが多いにしても。また、讀者よ、
嫉妬を
釀すことも多いと、あなた方はお思ひになるだらう――もし私のやうな立場の女がイングラム孃のやうな立場の人を嫉妬するといふことが認められるならば。しかし私は嫉妬はしなかつた――あつても
極々稀であつた。私が受けた苦痛は、そんな言葉で、表はすことの出來ないものであつた。イングラム孃は
嫉妬むに足らぬ人であつた。そんな感情を起すには、餘りに價値のない彼女だつた。逆説のやうに見えますがお
恕し下さい。私は本心の事を云つてゐるのです。彼女は華やかではあるが
中味はない。彼女は立派な容姿を持ち、樣々の才藝を
具へてゐるが彼女の頭は貧しく、その心は
生來潤ひがない。その上に、何一つ自ら芽生えて花を開くものもなく、一つとして無理のない自然のまゝに出來た實が、新鮮さで人を
悦ばせるといふこともない。彼女は善良でない。彼女は獨創的でない。彼女は
始終書籍の中の
仰々しい文句を繰り返す。が、決して彼女自身の意見といふものを述べることもなく、また持つてもゐないのである。彼女は
高尚な感情があるらしく云ひたてる。が、女は同情や哀憐の情を知つてはゐない。
優しさや眞實などは彼女の
裡にはないのだ。彼女が自分の言を裏切つて、幼いアデェルに對して
懷いてゐる
底意地の惡い
嫌惡の情を不當に洩らしたことは數へ切れない程であつた――彼女が近よりでもすれば、傲慢な、無禮な
語句と共に押しのけ、或る時は室の外に出て行けと命じ、
冷たく、
棘々しい取扱ひをするのは
始終の事であつた。私の
他にも、この性質の
表はれをじつと見てゐる目があつた――近々と、鋭く、
素早く見てゐた。さうだ、未來の良人ロチスター氏その人で、彼の望んでゐる人に
絶え
間なき監視の眼を向けてゐるのであつた。そしてこの聰明さ――彼のこの注意深さ――彼の愛する者の缺點に對するこの
完全透徹な良心――彼女に對する彼の感情のこの明白な熱情の缺如、此處に我が身を苦しめてやまぬ私の苦痛は
源を發してゐるのである。
私は、彼女の地位、
縁故等が彼に合つてゐる故を以て、
家柄や、恐らくは政略的な理由の爲めに彼が彼女と結婚しようとしてゐるのだと思つた。私は、彼が彼女を愛してゐないことを、また彼からその
寶物を得るには、彼女の資格は
相應しくないことを感じた。これが要點であつた――これが神經に
障り、惱まされる問題點であつた――これが私の熱情が衰へずに養成されてゐる所以であつた。彼女は彼を
魅することが出來なかつたのだ。
もし彼女が直ぐに彼を征服し得て彼が彼女の
足下に伏し眞實を以て彼女に心を捧げてゐたならば、私は顏を蔽うて壁を向き、(
比喩的に)彼等に對して死んでしまつてゐたゞらう。もしイングラム孃が善良な、高尚な女の人で、力、熱、深切、心といふものを持つてゐるのだつたら、私は二匹の虎――嫉妬と絶望とを相手に
死物狂の爭鬪をしたことであらう。やがて私の心は引き裂かれ滅ぼされて、彼女を崇拜し――彼女の
卓越を知り、靜かに餘生を送つたであらう。そして、彼女の絶對的であればある程私の崇拜は深まり、私の靜穩はほんたうに靜かになつたことであらう。しかし實際に於てはロチスター氏を魅惑しようとするイングラム孃の努力を觀察することは、失敗したことに自分では氣がつかないその失敗を繰り返してゐるのを見るのは――彼女の誇りと自己滿足とが彼女の
魅惑しようとしてゐるものを次第に遠くへ反撥してゐるのに、放つた矢が悉く
的に
中つたと想像し、成功だと思つて夢中になつて
己惚れてゐる――かう云ふことを見てゐるのは、休みなき昂奮と殘忍な我慢の下に同時に置かれることなのだ。
何故ならば、彼女が失敗した時、私にはどうすれば彼女が成功することが出來たかといふ事が解つてゐたからである。續けさまにロチスター氏の胸から
逸れ、傷もつけず彼の足下に落ちてしまふ矢が、もしもつと確かな手に射られたならば、彼の
自負心の強い心を鋭く突きさし――彼のきつい眼に愛を
喚び出し、
嘲るやうな顏に優しさを喚び出し得たゞらうといふことを、またはそれより以上に、武器などなしに沈默の征服が
贏ち得たであらうことを私は知つてゐた。
「あんなにあの方の近くにゐる特典を與へられてゐるのに、どうして彼女にはもつとあの方を感動させることが出來ないのだらう?」と私は自分自身に
訊いてみた。「確かに彼女は眞實にあの方を
好きになる事は出來ないのだ。でなければ本當の愛情であの方を好いてゐるのではないのだ。もし好きなのだつたら、あんなに
始終微笑を浮かべて見せなくも、あんなに
繁々と視線を送らなくも、あんなに態度を氣取つたり、あんなに樣々な愛嬌をつくつたりしなくもいゝのだ。私には、彼女がたゞ靜かにあの方の傍に掛け、言葉すくなに眼も控へ目にしてゐる方が、もつとあの方の心に近づくことが出來たかも知れないやうに思はれる。私はあの方の顏に、彼女が今陽氣に話し掛けてゐるのに彼の顏を
頑固にした表情とはまるで
異つた表情を見たことがある。しかしその時にはその表情は自然に出て來たものであつた。それは
手管や
企らんだ操縱でもつて引き出されたのではなかつた。そして人はそれをたゞその儘に受けいれゝばいゝのだ――彼の問ふ事に
衒はずに答へ、必要な時には氣取らずに彼に物を云ひかける――するとそれはだん/\増し、一層
優しく深切になつてきて、物を養ひ育てる
陽の光のやうに人を暖めてくれるのであつた。二人が結婚したら一體彼女はどうして彼の氣に入るやうにするのだらう。どうも、彼女にはやれさうもない。でも、うまくやればやれないこともないのだが。さう出來たなら彼の妻になる人はこの世の中で一番幸福な人だと私は本當に信ずる。」
私は、まだ
損得や姻戚關係の爲めに結婚しようとするロチスター氏の計畫に、非難がましいことを何も云はなかつた。それが彼の
意向なのだと初めて知つた時、私は驚いた。私は彼が妻を選ぶのにそんなあり來りの動機に動かされるやうな人ではないと思つてゐた。しかしその社會の人々の地位、教養、その他を
觀れば觀る程、確かに子供の時代から彼等に
浸み込んでゐる思想や主義などに
温和しく從つてゐるといふことで、彼をもイングラム孃をも批評したり、非難したりするのは當を得てゐないと私は思つた。彼等の階級全般がこの主義を
保守してゐるのだ。また思ふに、彼等は私のやうな者に
測ることの出來ない意見を持つのも、そこに理由があるのであらう。私にはかう思はれるのであつた。若し私が彼のやうな紳士であつたなら、私は自分の愛することの出來るやうな妻でなくては
娶らないだらう。然し私のこの案は所詮自身の幸福に役立つことが明瞭で、その明瞭さが私にかう信じさせた――この案を一般に採用することに對しては、私には全然判らぬ反對意見があるに違ひない。でなければ、世間中皆きつと私と同じ行動をとる筈だから。
しかし、これと同じやうに、他の點でも、私は自分の
主人に對して大變寛大になつて來てゐた。嘗ては
嚴しい注視を怠らなかつた彼の缺點もすつかり忘れかけてゐた。以前私は熱心に彼の性格の總ての方面を知らうと
努めてゐた。善と共に惡をも見て、兩方を正しくはかつた上で公平な判斷をしようと
努めてゐたのだ。今はもう私は、何一つ惡を見ない。私を厭がらせた皮肉も、嘗て私を
吃驚させた
苛酷さも、たゞもう美味な料理についた
辛い
藥味のやうなものであつた。それがあると、
ぴりつとするし、それが無いと何だか味が無いやうな氣がするだらう。それに漠然とした或るもの――それは不吉なもの、悲しみにみちたもの、運命を定められたもの、落膽しきつたものゝ
表象ではなかつたか?――それは時々彼の眼の
裡に、じつと見つめてゐる者に向つて開かれ、その
半ば開かれた不可思議な深みを
測り得ぬうちに再び閉ぢられてしまふもの、また恰も火山のやうな小山の間を
逍遙つてゐる時、不意に地が震動するのを感じ、また裂けるのを見るかのやうに
始終私を
怖れさせ縮み上らせるやうなその或るもの――私は、時々、麻痺した神經ではなく、鼓動する心臟で、靜かに眺めたのである。
避けようと思ふ代りに、私は却つて思ひ切つて――それを
見極めたいと願ふのであつた。そしてイングラム孃は幸福な人だと思つた。何故なら、
何日か暇な時、その深淵をのぞき、その祕密を探り、その本性を分解することが出來るかも知れないから。
私が、たゞ自分の
主人とその未來の花嫁のことのみ考へ――彼等のみを見、彼等の會話のみを聞き、彼等の
動作のみを一生懸命に見てゐたその時、他の人々は各々別々の興味や樂しみに熱中してゐた。リンとイングラムの二人のお孃さんは、まだ互に
眞面目臭つたやうな話を續けてゐて、お互ひに二つの
頭被をうなづかせ合ひ、まるで大きな
でく人形の一對か何ぞのやうに、次々と話す
噂話に從つて、お互に驚きだの、不可解だの、恐怖だのゝ身振で、四つの手を擧げてゐた。
温和しいデント夫人は好人物のイィシュトン夫人と話してゐた。二人は時々私の方にも丁寧な言葉を掛けてくれたり微笑を送つてくれたりするのであつた。ジョオジ・リン卿とデント大佐とイィシュトン氏とは、政治の事か、地方の出來事か、または裁判事件を論じてゐた。イングラム卿はエミー・イィシュトンとふざけ、ルヰザはリン家の一人に聞かせたり、また一緒にも、
彈いたり歌つたりしてゐた。そしてメァリー・イングラムは、相手の
慇懃な話を
懶げに聞いてゐた。時々、みんな云ひ合はしたやうに彼等のワキ狂言を止して主役の
演ることを、觀たり聽いたりするのであつた。結局ロチスター氏と――彼の直ぐ傍にゐるから――イングラム孃とが、その生命であり魂であつたから。若し彼が一時間でも部屋を留守にすると、目に付く程の
倦怠がお客の心にしのび込むやうに思はれた。そして彼が歸つて來ると、確かに新鮮な刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、204-下-3]を與へて話を
勢づけた。
或る日、その彼の
活々と働きかける力の不足が特別強く感ぜられた日があつた。それは彼が用事でミルコオトに招かれ、
晩くなるまで歸りさうになかつた日の事である。その日の午後は雨だつた。從つて、ヘイの
彼方の共有地にこの頃張られたジプシイの
天幕を見に散歩しようと云ひ出してゐたのも延期になつてしまつた。紳士達の幾人かは
厩へ行つてしまつて若い紳士達は令孃達と一緒に撞球室で球を突いてゐた。イングラムとリンの二人の未亡人は靜かに
骨牌で退屈をまぎらしてゐた。高くとまつて物も云はないので一人取り殘されてゐたブランシュ・イングラムは、デント夫人とイィシュトン夫人との骨折りで話の仲間に入つて、始めの中は何かセンティメンタルな曲だの歌だのを、ピアノに向つてぽつん/\とやつてゐたが、やがて書齋から小説を一册持ち出して來て、横柄に話等に耳をかさず、
空嘯いて長椅子に身を投げて、退屈な留守の時間を
紛らさうとしてゐた。部屋も家も靜かで、たゞ時々撞球者の騷ぎが階上から聞えて來るばかりであつた。
もう夕方が迫つて、柱時計は、はや晩餐の着換の時間を知らせてゐた。その時、客間の窓の腰掛に私と並んで膝をついてゐた幼いアデェルが不意に聲を上げた。――
「
“Voila Monsieur Rochester, qui revient!”(ロチスターさんがお歸りになつたわ!)」
私は振り向いた。イングラム孃は、彼女の長椅子から、突進して來た。他の人達も、何かしてゐるのを止めて、顏を上げた。ちやうどその時、車輪の音と、馬の
蹄の地を蹴る音とが、
砂利の上から聞えて來た。
驛傳馬車が近づいて來るのであつた。
「あんなもので、お歸りになるなんて、」とイングラム孃は云つた。
「あの方は Mesrour(黒馬)に乘つていらしたんですのに。さうぢやなかつたかしら、お出掛けになる時には――それにパイロットも一緒だつたのに。馬や犬はどうなすつたんでせう。」
かう云ひながら、彼女の脊の高い身體と幅廣の
上衣とをぐい/\窓の方によせたので、私は殆んど
脊骨が折れさうになるまでに後に身體を曲げさせられてしまつた。彼女は夢中になつてゐて初めは私に氣が付かなかつたが、氣が付くと
侮蔑の唇を
歪めて別の
窓框に行つてしまつた。驛傳馬車は止つて、馭者が入口の
呼鈴を鳴らした。そして
旅裝をした紳士が一人降りてきた。それはしかしロチスター氏ではなかつた。脊の高い、ハイカラな容子をした人で、見たことのない人であつた。
「何て憎らしいんでせう!」とイングラム孃は叫んだ。「この
煩い子猿つたら!」(アデェルをさう呼びながら)、「そんな
嘘の
報せなんぞ云はせようと思つて、あんたをこの窓にのぼらせたのは誰?」そして彼女は、まるで私がさうさせでもしたかのやうに、怒つた眼を、私の方に向けるのであつた。
何か話すらしい聲が、廣間に聞えてゐたが、やがて新來の客が這入つて來た。彼は、其處にゐる最年長者と見て、イングラム夫人に頭を下げた。
「どうも
生憎の時に參つたやうでございますね。」と彼は云つた。「私の友達のロチスターが家にゐません時で。しかし私は隨分長旅をして來ましたし、昔馴染といふのをよい事にして、此處で歸つて來る迄待たしていたゞきませう。」
彼の態度は慇懃であつた。彼の話の調子は、何かしら變つて響いた――はつきりと外國
訛りではないが、と云つて純粹に英國のでもないのであつた。年頃はロチスター氏と
略同じ位――三十と四十の間位かも知れない。顏色は變に
蒼白かつた。しかしその他では彼は容貌の美しい人であつた。特に初めて見た時さうである。よく/\見ると彼の顏には何か人に
不快だと思はすものがあつた。それとも快感を起させるものが足りなかつたとでも云はうか。彼の
顏立は整つてはゐるけれど
締りがなく、眼は大きくて美しく出來てはゐるが、そこからは、
意氣地のないぼんやりした人となりが覗いてゐる――少くとも私にはさう思へたのだ。
着換の
鈴の音で人々は散つてしまつた。私が再び彼を見かけたのは晩餐後であつた。その時には彼はすつかり
寛いでゐる樣子だつた。しかし私は前よりももつと彼の
相好が好きになれなかつた。それは落着かないと共に生氣に
乏しいといふ印象を與へるのであつた。彼の眼は意味もなしにきよろ/\とあたりを見

してゐた、それがまた私が嘗て見たことも無いと思ふやうな變な樣子を現はしてゐた。男ぶりもよく、愛嬌がないといふのでもないのに、彼はすつかり私を厭な氣にさせてしまつた。そのまつたくの
卵形をした
肌理の細かな顏には何一つ力といふものがなく、その
鷲鼻にも小さな
櫻桃のやうな口にも
斷乎たるものはなく、その狹い
平坦な
額には思慮などなく、その空虚な茶色の眼には何等の
威もないのであつた。
私はいつもの自分の席に坐つて、
明々と照らしてゐる爐棚の上の燭架の光で彼を見ながら――彼は火に近々と引きよせた肱掛椅子にかけて、それでもまだ寒いやうに縮こまつて火の方によつてゐた――彼とロチスター氏とを比較してみた。私は(決して無禮の意味ではなくいふのですが)その對照は、
があ/\騷ぎ立てる鵞鳥と鋭い鷹との差――おとなしい羊と毛の
粗い、鋭い眼をした見張りの犬との差と云つても甚だしすぎることはないと思ふ。
彼はロチスター氏のことを古くからの友人だと云つて話してゐた。妙な友達同志だつたに相違ない――まつたく古い
箴言にある「兩極端は一致す。」といふ
穿つた文句のまゝである。
二三人の紳士たちが、彼の傍に掛けてゐて、時々部屋の
此方まで彼等の話の斷片が聞えて來た。初めは耳に入ることの意味がはつきり出來なかつた。私に近く坐つてゐたルヰザ・イィシュトンとメァリー・イングラムとの話が時々聞えて來る
斷々の文句とこんがらかつてしまつた。その最後のものは新來の客の事を話し合つてゐるのであつた。二人共彼の事を「お美しい方」と呼んでゐた。ルヰザは彼の事を「
惚れ/″\するやうな人」と云ひ、彼を「讃美する」のであつた。また、メァリーの方は、彼の「美しい小さな口やいゝ鼻」を例にあげて彼女の理想とする美しさだと云つてゐた。
「そして、まあ何んて
穩やかな顏をしてゐらつしやるのでせう。」とルヰザは叫んだ――「ほんとになだらかで――私の大嫌ひな
顰めた
立皺なんぞ一つもありませんわ。それにあの靜かな眼と微笑。」
すると、まつたく
ほつとしたのであるが、ヘンリ・リン氏が、ヘイ共有地への延期になつた遠足のことで、何か
決めると云つて、彼等を部屋の反對の側に
喚んだ。
そこでやつと火の傍の人々の方に注意を集注することが出來るやうになつた。そしてすぐにその新來の人はメイスンさんと云ふ人だといふことを知つた。それからまた、彼が英國に着いたばかりだといふことや、彼が何處か熱い國から來たといふことも分つた。彼の顏が
蒼白いのも、あんなに
爐に近く坐つてゐるのも、家の中で外套を着てゐるのも確かにそんな理由からなのだ。やがてジャマイカ、キングストン、スパニッシュ、タウン
[#「スパニッシュ、タウン」はママ]等の言葉が聞え、彼の住所として西印度諸島の名があげられた。そして程なく、彼が其處で初めてロチスター氏を知り、知り合になつたのだといふことを聽いた時、私は少なからず驚いた。彼は友人がその地方の
灼けつくやうな暑さや、暴風や、雨期などを嫌つてゐることを話した。ロチスター氏が旅行家であつたことは、私も知つてゐた――フェアファックス夫人がさう云つてゐたから。しかし彼の足跡は歐洲大陸に限られてゐたのだと思つてゐた。今まで私はその他の國に行つたことについてのほのめかしをちらとも聞いたことはなかつたのである。
こんな事を私は思ひ耽つてゐた矢先、或る出來事、思ひ設けないやうな事件が私の思ひの絲を斷ち切つてしまつた。メイソン氏は、誰かゞ扉を開ける度に震へてゐたが、もう燃え盡した、しかしまだ
燃屑の山は
赫々と赤く輝いてゐる爐の火にもつと石炭をつぐように頼んだ。石炭を持つて來た從僕は、出て行く際にイィシュトン氏の
椅子の傍に立止つて何か小聲で云つた。私に聞えたのはたゞ「年をとつた女」――「どうも全く
煩さい奴で」といふ言葉だけであつた。
「かう云つてやれ。若しひとりで出て行かなけりや
足械をはめるぞつて。」と地方長官は答へた。
「いや――お待ちなさい!」とデント大佐が
遮つた。「追つ拂はないでおき給へ。イィシュトン。これは利用出來るかもしれない。御婦人方に相談したがいゝだらう。」そして彼は聲を張り上げてまた云つた。「皆さん、あなた方はジプシイの
天幕を見にヘイ共有地へ行くと云つてゐらつしやいましたが、此處にゐるサムが申しますには年をとつた『バンチ婆さん』の一人が今召使達の廣間に來てゐて、『
御歴々』の前に來て皆樣の運命を
占つて差上げたいと云つてきかないさうです。如何ですか。會つておやりになりますか。」
「まあ大佐、」とイングラム夫人は叫んだ。「よもやそんな
賤しい
詐僞師を私たちにおすゝめなぞなさるのではございますまいね。
逐拂つておしまひ、いますぐ!」
「はい、でも、私にはとても
逐ひやれませんので。」と從僕は云つた。「他の召使ひも駄目なのでございます。只今はフェアファックス夫人がお會ひになつて出て行くようにと云つてゐらつしやいますけれど、
爐邊の椅子に坐り込んでゐて、此處に參りますお許しがあるまでは動かないと申すのでございます。」
「どうしようと云ふの?」とイィシュトン夫人が
訊ねた。
「『皆さま方の運命を
占つて差上げる』と申すのでございます。そして、しなければならない、どうしてもするのだと言ひ張つて居ります。」
「どんな女なの?」イィシュトンの姉妹が、口を揃へて、訊いた。
「
ぞつとするやうな醜い
年寄でございます。まるで
藥鑵のやうに眞黒で。」
「ぢあ、それは本當の魔法使の婆さんだ。」とフレドリック・リンが叫んだ。「
喚びませうよ、勿論。」
「えゝ、きつと、」と彼の弟も賛成した。「こんな面白い機會を逃がしては、どんなに殘念なことだか分りませんよ。」
「まあ、お前たちは、何てことを考へるのですか。」とリン夫人は叫んだ。「そんな不合理なことをするのを
默つて見てゐられません
[#「見てゐられません」は底本では「見てゐられまません」]。」とイングラム未亡人が調子を合せた。
「さうね、母さま、でも母さまは……さうね、いゝことよ。」とピアノの腰掛にかけたまゝ此方を向き乍ら、ブランシュの
横柄な聲が聞えた。今まで彼女は其處に
默つて掛けてゐて確かに樣々の樂譜を見てゐたのだ。
「私自分の運命のことを訊いてみたいのですわ。だから、サム、そのお婆さんに來るやうに云つておくれ。」
「お前、ブランシュ! まあ考へて――」
「解つてゐましてよ――仰しやりさうなことはみんな考へてみましてよ。で、私、自分の思ひ通りにしなくてはなりませんわ――
直ぐだよ、サム。」
「さう――さう――さうですとも」と貴婦人も紳士も、若い人たちはみんな聲を上げた。「來さして頂戴。とても面白い
娯みになるでせう。」
從僕は矢張り躊躇してゐた。「隨分、ぶしつけな人間らしいのでございますが。」と彼は云つた。
「お行き!」とイングラム孃は呶鳴つた。それで
僕は去つた。
忽ちにしてみんな興奮してしまつた。サムが歸つて來た時には、揶揄だの冗談だのが次から次へと飛び出して大騷ぎになつてゐた。
「今は來ないでせう。」と彼は云つた。「『俗衆』(と申すのです)の前に出るのは、自分の
務めではないと申しまして。たゞ一人だけ、部屋に案内してやらなければならないさうで、それから觀てもらひたい人が一人々々行かなくてはならないのださうでございます。」
「もうおわかりだらう、女王さまのやうなブランシュや、」とイングラム夫人は云ひ始めた。「その女は家にぢり/\侵入しようといふのですよ。云ふことをおきゝなさい、天使のやうな孃や――そして――」
「お書齋に案内しておやり、勿論。」とこの『天使のやうなお孃さま』はさへぎつた。「俗衆の前で
占つてもらふのは私のすべきことでもありませんわ。私は自分一人ですつかり聞きます。お書齋には火があつて?」
「はい、お孃さま――ですが隨分
ごろつきのやうでございますが。」
「
煩いね、お
止め。馬鹿。私の云ひつけ通りにおし。」
再びサムは姿を消した。そして、不可思議や活氣や期待が、また高潮に達した。
「婆さんが、お待ちしてをります。」と再び姿を現はして從僕が云つた。「どなたが第一にいらつしやるか
伺ひたいと申してをりますが。」
「御婦人方が誰もいらつしやらない前に、私がちよいと行つて見といた方が、いゝと思ひますね。」とデント大佐が云つた。
「さう云つてくれ、サム。男の方がいらつしやるからつて。」
サムは行つてまた歸つて來た。
「旦那さま、男子の方は嫌だ、と申します。わざ/\お出で下さる必要はございませんさうで、また、」と彼はやつとの思ひで
忍び笑ひを抑へて附け加へた。「御婦人方もお若くつて、御獨身の方の
他はいけないと申すのでございます。」
「こいつは驚いた、
選り好みをしやがる。」とヘンリイ・リンは叫んだ。
イングラム孃は
重々しく立上つた。「私が一番に參ります。」と彼女は、仲間の
先鋒となつて、城の崩壞口をのぼつて行く決死隊の先導者に
相應しいだらうと思はれるやうな調子で云つた。
「まあお前、まあ大事な孃や、お待ち――考へ直して。」といふのが彼女の母親の叫び聲だつた。しかし彼女は落着き拂つて何も云はずに彼女の前を通りすぎ、デント大佐の開けておいた
扉をよぎつて出て行つた。そして私共は、彼女が書齋に這入る音を聞いた。
打つて變つた沈默が續いた。イングラム夫人は、手をもみ絞るやうな le cas(事件)だと思つた。メァリー孃は自分にはとても思ひ切つて出來さうにもないと云つた。イィシュトンのエミーとルヰザとは、聲をひそめて
忍び笑ひを
[#「笑ひを」は底本では「笑をひ」]してゐながら、いくらか
怖れてゐる樣子であつた。
時間の
經つのが非常に遲かつた。書齋の
扉が開くまでに十五分は
經つた。イングラム孃はアアチをぬけて私共のゐる處へ歸つて來た。
彼女は、笑ひ出すだらうか? 冗談にしてしまふであらうか? みんなの眼は、熱心な好奇の
眼差で彼女を迎へた。そして彼女はみんなの眼を斷然たる拒絶と、冷淡さで、受けとめた。彼女は
攪亂された樣子でもなく、また嬉しげな樣子でもなかつた。彼女は
つんとして自分の席へ歩いて行つて、何も云はずにそれに掛けた。
「どう、ブランシュ?」とイングラム卿が云つた。
「何か云ひまして、お姉さま?」とメァリーが
訊ねた。
「どうお思ひになりまして。どんな氣持がなさいましたの。本當の
占者でして?」とイィシュトン姉妹が
訊ねた。
「まあ、まあ、皆さま。」とイングラム孃は答へた。「そんなに攻め立てないで下さいまし。ほんとにあなた方の驚きだの輕信だのゝ
器官は直ぐに騷ぎたがりますのね。あなた方と云つたら、皆さまのその一大事のやうな御樣子では――私の母さまも一緒ですわ――これでもつてすつかりこのお
宅にあの惡魔と親類筋の正眞正銘の
巫女がゐるのだと思ひ込んでゐらつしやる御樣子ねえ。私ジプシイのごろつきに會つて參りましたわ。あの女はあり來りの型通りの
手相を覺えてきて、そんな人達の云ひさうなことを私に云ひました。私の
物好きもこれで滿足いたしました。私もうイィシュトン氏がお
嚇しになつた通りに、明日の朝、あの鬼婆に
足械をかけて下さつて結構でございますわ。」
イングラム孃は本をとり上げると椅子に
凭れかゝつた。で、その話は、
斷れてしまつた。私は殆んど半時間位の間、彼女の方をじつと見てゐた。その間中、彼女は一頁もめくりはしないで、彼女の顏は
刻々と暗く、不滿足なやうになり、益々
不興げな失望の樣子になつて來るのであつた。明かに彼女は、自分に工合のいゝことを、云はれなかつたのだ。そして、陰鬱と沈默とが何時までも消えない彼女の樣子から
推して、彼女自身、何とも思はないと公言したにも拘らず、彼女に與へられたお
告げといふものを不當なほどに重大に見てゐるらしかつた。
その間にも、メァリー・イングラムとイィシュトン家のエミーとルヰザとは、一人ではとても行く勇氣がないと云つてゐた。それでゐて、皆んな行きたかつたのだ。そこで、サムの全權大使を
仲介として、談判が開始された。さうして、さん/″\歩いたので、今云つたサムの
腓が痛くなつたに相違ないと思はれる迄に、さん/″\行つたり來たりした
揚句、とう/\、やつとのことで、その
嚴しい
女占者から許しを無理に得て、三人は、一團になつて、彼女のところへ行くことになつたのである。
彼等のときにはイングラム孃のときのやうに靜かではなかつた。ヒステリカルな
忍び笑ひだの小さな叫び聲だのが書齋から聞えて來た。そして二十分ばかり經つとどや/\と
扉を引き開けて廣間を駈け拔けてきた。まるで半分おどかされて氣が狂つたやうであつた。
「確かに、あれはすこし
怪しいわ。」と彼等は一人殘らず叫んだ。「こんなことを云ふんですの。私達のことはみんな知つてますのよ。」そして彼等は息も絶え/″\に、男の人たちが
急いで持つて來た椅子にくづをれてしまつた。
その上の
詳しいことを問はれて、彼等は彼等がまだほんの子供の時分に云つたり
爲たりした事を彼女が話し彼等が家の部屋に持つてゐる本だの飾りだの――あちこちの親類の者が彼女等に
贈つた記念品だのゝ事を云つたと云ふのであつた。また彼女は彼等の思つてることでさへも見拔くことが出來て、各々の耳に世界中で一番好きな人の名を囁き、彼等が一番欲しがつてゐるものを
告げたと云ふのである。
すると男の人達は、その最後に云つた二つの點をもつとはつきりさせてくれと一生懸命になつて
横槍を入れた。しかし、彼等はそのしつつこい問の返辭の代りにたゞ赧くなつて、叫び聲をあげ、身顫ひし、忍び笑ひをするのみであつた。その間にも刀自達は、氣つけ藥の
瓶だの、手頃の
扇だのを與へて、彼等の警告を用ゐないからこんなことになると、繰り返し繰り返し云ふのであつた。そして年をとつた男の人たちは笑ひ出し、若い人達は、胸を騷がせてゐる彼等の好きな
ひと達の御用をつとめようと、頻りに
迫つてゐた。
この騷ぎの最中に、また私の眼も耳も自分の前の光景にすつかりとられてゐるとき、私はすぐ
背後に近く
咳拂の聲をきいた。振り向くとサムがゐた。
「失禮ですが、あのジプシイが申しますには、お部屋にはまだお目にかゝらない御獨身の方が一人ゐらつしやるといふので。そしてすつかり見るまではどうしても動かないと申すんで、それはあなたに相違ないと思つたのでございます。他にはそのやうな方はゐらつしやらないものでございますから。何と申しませうか。」
「あゝ、私、是非參ります。」と私は答へた。そして自分の可成りに刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、212-上-2]された好奇心を滿足させる、思ひがけない好機會を喜んだ。私は誰の眼にもつかぬやうに部屋をすべり出た――皆んなは今歸つて來たばかりの聲を慄はしてゐる三人の周圍に一團になつてゐたので――そして私は靜かに私の背後に
扉を閉めた。
「何でしたら、」とサムが云つた。「廣間にお待ちしてをりませう。そして若し
怖いとお思ひになつたら、一寸お呼びになりや、直ぐに這入つて行つて上げますから。」
「いゝえ、サム、臺所へ歸つてゐて下さいな。私ちつとも
怖くはありませんから。」私は
怖くはなかつた。却つてひどく興味をそゝられ、興奮してゐた。
私が這入つて行つたときには、書齋はしんと靜まり返つてゐる樣子であつた。そして
女占者――若し彼女が女占者なら――は、
爐邊の安樂椅子に非常に居心地よささうに掛けてゐた。彼女は
赤い
上衣と黒い帽子――と云ふよりは寧ろ、顎の下に縁取のハンケチで結へた、廣縁のヂプシイの帽子を着けてゐた。
卓子の上には消した蝋燭が立つてゐた。彼女は火の上に身體を
屈げて、
焚火の光で祈祷書のやうな小型の黒い表紙の本に讀み入つてゐるらしかつた。讀みながら、彼女は、本を讀むとき大抵の年をとつた女の人がするやうにぶつ/\
獨言を呟いてゐた。私が這入つて來ても、直ぐには止めず、或る一節を讀み終らうと思つてゐるらしかつた。
私は敷物の上に立つて手を温めた。客間の火から離れて坐つてゐたので、大分冷たくなつてゐたのである。もう私は
平常の通りに落着いた氣持になつてゐた。そのジプシイの樣子には何一つ人の心を亂すやうなものなど無かつた。彼女は本を閉ぢると、ゆつくりと眼をあげた。彼女の顏は半ば帽子の縁で蔭になつてゐたが、顏を上げたとき、變な顏であることを知つた。すつかり茶色と黒に見えた。もつれ毛が
顎の下に渡してある白い紐の下からはみ出し、半ばは頬の上と云ふよりは寧ろ顎の上にかゝつてゐた。彼女の眼は直ぐに無遠慮に
眞直に私に
注がれた。
「えゝと、それでお前さんも自分の運命を聽きたいのかな?」と彼女は、その
眼付と同じやうにはつきりと、その顏と同じやうにきつい聲で云つた。
「そんなことはどうでもようござんすよ、お婆さん。あなたのお好きなやうになさい。たゞ云つておきますがね、私は一向に信じてはゐませんよ。」
「ふん、
厚かましいお前さんの云ひさうなことだ。さうだらうと思つてゐた。お前さんが
閾を
跨いだときに、それは、もう
跫音で分つたからね。」
「へえ、
早耳なのですね。」
「さうだよ。それに眼もはやいし、頭もすばしつこいし。」
「皆んなあなたの商賣には入用でせう。」
「さうだよ。特別にあんたのやうなお
華客をみるときには入用だよ。どうしてあんたは顫へなさらんかな?」
「私、寒くはありません。」
「顏色も
蒼くならんやうぢや?」
「私、病氣ではありません。」
「
何故、私に
占術を頼みなさらん?」
「私は
愚ぢやありません。」
しなびた老婆は彼女の帽子と紐の下で、あ、は、は、と笑つた。それから、短かい、黒い煙管を取出して、火を
點けると、ふかしはじめた。しばらく、この
鎭靜劑に
喫み耽つてゐたが、やがて、彼女は、曲つた身體を起し、
煙管を口からとると、ぢつと火を見つめたまゝ、極くゆつくりと云つた――
「あんたは寒い。あんたは病氣だ。あんたは愚かだ。」
「證明して下さい。」と私は答へた。
「簡單に云つてあげる。あんたは寒い。何故ならあんたは孤獨だから。誰とも近づきがないから
折角あんたの持つて生れた火を打つて出すものがない。あんたは病氣だ。何故なら男の人に與へる最高の感情、最も高く、最も
優しいものがあんたから遠く隔つてゐるから。あんたは愚かだ。何故なら苦しい思をしてゐながらあんたはその最高の感情を近くに
招かうともしなければ、こちらから、あんたを待つてゐる所でそれに會はうと一
歩踏み出さうともしないから。」
彼女は、再び、短い黒い
煙管を口へ持つて行つて、また新らしく盛んに
喫んだ。
「そんなことは、皆んな、大きなお
邸に一人ぽつちで雇はれて、暮してゐることが判つてゐる人には、大方誰にでも云ふのでせう。」
「大方、誰にでも云ふかも知れない。だが、殆んど、誰にでも眞實だと云へませうかね。」
「私みたいな境遇にはね。」
「さうだよ。その通り、あんたみたいな境遇にはね。だがその他にあんたとちやうど同じやうな地位にある人を探して貰ひますかな?」
「幾人でも探して上げるのは
容易いことです。」
「一人も探せまいよ。若しあんたが氣を附けば、あんたは特別な地位にゐるんぢや。幸福のすぐ傍に、さうよ、手の屆く處に。材料はすつかり揃つてゐる。たゞそれを結び合せる動きが足りないだけだよ。運命の神樣が、いくらか
ばら/\に離しておかれたのぢや。一度近づけて御覽じろ、末は吉だよ。」
「私には謎はわかりません。私、
判じ
物なんぞあてることはまるで出來ませんから。」
「若しもつとはつきり云つて欲しいとお望みなら、
掌を見せなさい。」
「そしてきつと銀貨を握らせておくのでせうね。」
「さうとも。」
私は彼女に一
志遣つた。彼女はそれをポケットから取り出した古い靴下の底に入れた。そしてそれをくる/\捲いて
結へると、手を差し出すようにと云つた。私はその通りにした。彼女はその
掌に顏を近づけて、手を觸れないでじつと見つめた。
「これはあんまり
良すぎる。」と彼女は云つた。「こんな手には何んにも云ふことが出來ない。殆んど筋なしだ。それに、掌には何があるかな? 運命は此處には書いてない。」
「それは當つてゐますよ。」と私は云つた。
「此處ではない。」と彼女は續けて云つた。「顏にある。――額の上にも、眼の邊にも、眼の中にも、口の線にもある。膝をついて、頭を擧げて御覽。」
「あゝ。それで大分本當らしくなつて來ました。」と彼女の云ふ通りにしながら、私は云つた。「今に私も少しはあなたを信ずるやうになるでせうよ。」
私は彼女から半
碼のところに
跪いた。彼女は、火を掻き起して、燃えそびれた石炭がめら/\と燃え上るやうにした。しかしその輝きは、腰掛けてゐる彼女の顏を益々暗い蔭の中に置き、私の顏を照らすのであつた。
「あんたは一體どんなこゝろで今夜私の處に來なすつたかな?」と暫く私を見つめてから彼女は云つた。「立派な人達がまるで
幻燈の中の人物のやうにあんたの前を飛び過ぎて行くあそこの部屋に坐つてゐる間中、あんたの心にはどんな思ひが
忙がしく往來してゐたのぢやらう。あんたとあの人達の間に
一向心が通ひ合ふことがないのは、丁度、あの人達が生きた人間でなく、たゞの人影でゞもあるやうぢや。」
「私はよく退屈になるし、ときには眠くなることもあります。でも悲しくはなりません。」
「では、未來の囁きであなたを引立て、喜ばすやうな何か祕密な希望を持つてゐなさるのか?」
「いゝえ違ひますよ。私が一等望んでゐるのは自分の俸給の中から十分なお金を
貯めて、何時か自分の借りた小さな家に學校を設立したいといふこと。」
「魂が生きて行くには、惡い食物だ。で、あんたは、あの
窓臺に腰掛けて、(私があんたの習慣を知つてるのが分るだらう)――」
「召使たちから聞いたのでせう。」
「あゝ、なか/\
拔目のないお方だ。さう、まあ聞いたかも知れん。實を云ふと、私はあの中に一人知り合ひがある――プウル夫人と――」
その名を聞いたとき、とび上る程驚いた。
「さうか、さうなのか?」と私は思つた。「ぢあ、結局これには魔法があるのだ!」
「驚きなさることはない。」と不思議な人物は、言葉を續けた。「プウル夫人は安全な人だよ――祕密を
漏らさんし、落ついてゐるよ。あの人は信用されても大丈夫だ。しかし今云つたやうに、あの窓臺に腰掛けてゐるとき、あんたは未來の學校の他には何も考へないかね? あんたは自分の前の安樂椅子や椅子に掛けてゐる人達の中で誰かに現在興味を持つてはゐないかな? あんたがじつと見つめてゐる顏が一つありはしないかな? 少くとも好奇心をもつて誰かの振舞ひに氣を附けてはゐないかな?」
「私は、皆んなの顏だつて、皆んなの姿だつて、眺めてゐるのは好きです。」
「だがな、皆の中から一人だけ――それとも二人かもしれんな、
選り出したことはないかね?」
「よくしますよ。二人の人の
身振だの顏付だのが意味ありげに見えるときにはね。それらを見てゐるのは面白いのですから。」
「どんな話を聞くのがお好きかな?」
「えゝ、別に大した好き嫌ひがある譯ではありません。みんな、大抵同じ話題――求婚を話してゐますし。それから、同じ結果――結婚に終るのですわ。」
「そして、あんたはそのつまらない話題がお好きか?」
「ちつとも、氣にしてゐませんわ。私には何でもないことですもの。」
「あんたには何でもないつて? 若くて、
生命と健康に滿ちた、美しくて人を惹きつける、地位と財産といふ
賜物を與へられてゐる貴婦人が一人の紳士の前に掛けて
微笑んでゐる、その紳士をあんたは――」
「私が、何?」
「あんたは知つてゐる――そして、大方憎からず思うてゐる。」
「私は此處にゐらつしやる男の方たちは知りません。私は殆んどあの中の誰とも一言だつて言葉を
交したことはありません。それからその方たちを好く思ふといふことでは幾人かは立派な、堂々とした、中年の方だと思ひ、他の方たちは若くて
伊達で、綺麗で、元氣があるとは思つてゐます。でもあの方たちは、好きな人達の
笑顏を受けようと自由勝手なんです。そんなことが、私にとつて大事件だなどゝ、私は考へようともしないのですから。」
「あんたは此處にゐる男の人たちを知らないかな? その中の誰とも
一言も
交したことはないかな? この家の
主のことも、あんたはさうお云ひかな?」
「あの方は、家にはゐらつしやらないのです。」
「意味深長な言葉だ! 實にうまい云ひ拔けだ! あの人は今朝ミルコオトへ行つて、今晩か明日か此處へ歸つて來るだろ。そんなことがあの人をあんたの
知人でなくするかね――たとへば、あの人をこの世から消してしまふかな?」
「いゝえ、ですがあなたの始めた話にロチスターさんが何の關係があるのか、私には殆んどわかりませんわ。」
「私は男の人達の前で
微笑んでゐる婦人達のことを話してゐた。そしてこの頃ではロチスターさんの眼は、あふれるほどふんだんに
微笑みを送られてゐるので、水を入れすぎた二つのコップみたいにあふれてるんだよ。あんたはそれに氣づいたことはないのか?」
「ロチスターさんはお客さま方と一緒にゐて、
娯しむ權利がおありです。」
「權利がどうと、わしは
訊いてはをらん。だが、こんなことに氣が附いたことはないとお云ひかな、結婚について、こゝで話される總ての物語の中で、ロチスターさんは最も陽氣で最も長つゞきのするお話を惠まれてゐることを?」
「聽き手の熱心さは話し手の舌を
滑らかにするものです。」と私はジプシイにと云ふよりは寧ろ自分に向つて云つた。その不思議な話、聲、擧動などはこのときまでに私を何か夢のやうなものゝ中に包んでしまつてゐたのであつた。思ひもかけない言葉が次から次へと彼女の口から出て來て、とう/\、私は
惑はしの網の中に捲き込まれ、どんな見えない精が幾週間も私の心の傍にゐて、その働きに注目し、あらゆる心の動きを書き留めてゐたのであらうと
怪しく思ふのであつた。
「聽き手の熱心さ!」と彼女は繰り返した。「さう、ロチスターさんは、話をする
役目をひどく喜んでゐる、人の心をとろかすやうな唇に耳を傾けて、そのときまで、坐つてゐられた。そしてロチスターさんは、さうされるのが大層好きらしく、またその惠まれた
娯しみを感謝してる樣子だつた。これは見られたかな?」
「感謝ですつて! 私はあの方の顏に感謝を
探り出したことなんぞ思ひ出せません。」
「探り出した! といふからには分解したのぢやな。それで何を探り出しなすつた、若し感謝でないのなら?」
私は何も云はなかつた。
「あんたは愛を見た――違ふかな?――そして先のことを豫想して、あの人は結婚すると思ひ、あの人の花嫁は幸福だと思つたのだらう?」
「ふん、少々違ひますよ。あなたの魔法の術も時々間違ふのですね。」
「一體全體、ぢあ何を見たのかな?」
「御心配なく。私は聞きに來たので、告白に來たのではありません。ロチスターさんが結婚なさるのは分つてゐるのですか?」
「さうだよ。あの美しいイングラム孃とね。」
「近いうちに?」
「形勢から察すると、さういふ結果になるわけだね。それに確かに、あんたは、大膽不敵にもそれを疑ふらしいが、その大膽さを、あんたは、改め直さなくてはならないよ。二人は大層幸福な御夫婦になるだらう。あの方は、あんな美しい、品のある、機智に富んだ、才藝のある婦人は、愛する筈ぢや。そして、多分、あの女も、あの
方を愛するだらうよ。――あの方の人物でなくも、少くとも財布の方はな。あの
女が、ロチスター家の財産を、この上なしの欲しいものに思つてゐることを、私は知つてゐる。だが、(神よ、お
恕し下され!)そのことで私は一時間ばかり前にあの
女が恐ろしく
眞面目になるやうなことを云つてやつた。あの
女の口の兩角は、半
吋ばかり下つたよ。私は、あの女に、あの品行の怪しい求婚者に用心しろと、忠告してやつた。若し、他の人がもつとたくさん溜つてゐる、もつと中味のつまつた、
地代帳を持つて來ようものなら、あの人は失望させられて――」
「ですが、お婆さん、私はロチスターさんの運命を觀て貰ひに來たのではありませんよ。私は、自分のを聞きに來たのですよ。なのに、そのことはまだ何にも云つてくれないぢやりませんか。」
「あんたの運命はまだどつちとも云へん。あんたの顏を見ると、一つの筋が他のと相反してゐるのです。運命の神はあんたに幾らかの幸福を分けてくれてある。私にはよう分る。それは私が今晩此處へ來ないうちから分つてゐた。運命の神はわざ/\あんたの爲めにそれをとつておいたのだよ。さうだといふことも私は知つてゐる。手を延ばしてそれを取上げるのは、あんた次第だ。しかし、あんたがさうするかどうかゞ、私の見て上げるところぢやよ。も一度敷物の上に
跪きなされ。」
「長いことしないで下さい。火が燒けつきさうですから。」
私は
跪いた。彼女は私の方に
屈まないで、椅子に
凭れかゝつてたゞじつと私を見つめた。彼女は
呟きはじめた――
「焔が眼の中に
搖めいて、眼は露のやうに光つてゐる。
柔らかに、思ひに滿ちてゐて、私の言葉に
微笑んでゐる。感じ易く、その澄んだ眼球を通つて、次から次へと印象が這入つて行く。微笑が消えたときには悲しいのだ。
瞼の上には氣の附かぬ倦怠が宿つてゐる――それは孤獨から來る憂鬱なのだ。お前の眼は私からそれる。この上見つめられることに堪へられないのだらう。私が發見したものは眞實なのに、その眼はひとを
小馬鹿にしたやうな眼付をして、それを信じまいとするらしい――感じやすい、煩悶してゐる、と私が
咎めるのを拒んでゐるやうだ。そこに見える誇と遠慮とのみが私の考へを確めるのだ。この眼はいゝ眼だ。
「口の方はと云ふと、時々笑つて
愉しさうである。頭の考へることは皆んな話さうとするけれども、恐らく心情の經驗に就いては大抵
默つてゐるだらう。動き易く柔かくて、決して孤獨の中に永久に沈默してゐるやうに
壓しつけようとすることは出來ない。それはよく話し、よく
微笑み、相手に對して人間らしい愛情を持つてゐるやうな口である、その造作も亦いゝ。
「額の外には、幸運な未來へ導くのに邪魔になるものは見えない。そしてその
額はかう云つてゐる――『若し自尊心と環境とが私にさうするやうに要求するのなら、私はたゞ一人でゐることが出來る。私は幸福を買ふ爲めに自分の魂を賣る必要はない。私には生れながらに持つてきた内心の寶がある。若し外から來る樂しみが
阻まれ、または私の出し得ない
價でしか與へられないとしても、それは私の生命を續けさせることが出來る。』又
額は言ひ切つてゐる――『理性はしつかりと坐つて
手綱を握つてゐる。だから理性は感情を恣まに募らせて、それが、彼女を危い谷間へ追ひ込むやうなことはさせないだらう。熱情はなるほど、
生來闇に迷へるものたるに恥ぢず、烈しく激するであらう。そして慾望はあらゆる
果敢ないことを夢見るだらう。しかし判斷力は、なほもあらゆる議論中で、最後の決定的發言を持ちあらゆる決定に於ては
裁決權を持つてゐる。強風や地震や火事などが過ぎて行くこともあらう。けれど私は良心の命令を傳へる靜かな小さな聲に導かれて行かう。』と。
「よく云つたもの哉、
額よ。お前の言葉は尊敬されるだらう。私は自分の計畫を立てた――正しい計畫だと私は思ふ――そして私はそれに臨むに良心の要求、理性の意志に從つてした。
假令、
福祥[#ルビの「さいはひ」は底本では「あいはひ」]の
杯に
盛られて捧げられたとしても、若しその中に一片の恥、一味の悔があるならば、忽ちにして青春はうつろひ花は枯れてしまふと云ふことを私は知つてゐる。そして私は犧牲も悲哀も
寂滅も望んではゐない――さういふのは私の好みではない。私は
養ひ育てたいので、枯らしたいのではない。滿足を得たいので、血の涙を――否、たゞの涙だつて絞らうとは思はない。私の收穫は笑ひの中に、寵愛の中に、歡喜の中になくてはならない――それでいゝのだ。私は何だかひどくうかされて夢中で
喋つてゐるやうな氣がする。この今の瞬間を ad infinitum(永遠)に長引かせたいやうに思ふ。しかし思ひ切つては出來ない。今迄は
ちやんと
振舞つて來たのだから。私は今まで心の中で、しようと誓つた通りに振舞つて來た。しかしこれ以上は、私の堪へ切れないことになるかも知れない。お立ちなさい。エアさん。あつちへいらつしやい。『芝居は終つた』んです。」
何處に私はゐるのか?
醒めてゐるのか、眠つてゐるのか? 私は夢を見てゐたのであらうか? まだ夢を見てゐるのであらうか? 老婆の聲は變つてゐた。彼女のアクセント、彼女の身振、そして何も
彼も、まるで鏡の
裡の自分の顏のやうに――自分の話す言葉のやうに私には親しいものであつた。私は、
起ち上つたけれども、出て行かなかつた。私は
視た。それから火を掻き起しても、一度視た。しかし彼女は帽子と紐とを顏のあたりにひき寄せて、再び立ち去るやうにといふ手振をした。焔が、
伸した彼女の手を照らしてゐた。今はもう目がはつきりと
醒め、
見露はさうとする鋭い注意力で、私は直ぐにその手に注目した。それは老人の
萎びた手ではなく、私の愛する人のに
他ならなかつた。
釣合よく出來た
すらりとした指を持つた、
磨き上げたやうなしなやかな手であつた。幅廣の指環が小指にきらめいた。私は身を
屈めてそれを見ると、今迄幾度か見なれた寶石が見えた。もう一度、私は顏を見た。もうそれは私の方からそむけはしなかつた。反對に帽子が脱ぎ棄てられ、紐がとかれて、頭が現はれた。
「えゝ、ジエィン、私が分る?」と聞きなれた聲が
訊ねた。
「お願ひですから、その赤い
上衣をとつて下さいまし。それから――」
「だけど紐が
結ぼれて――手を貸して。」
「切つておしまひなさいまし。」
「さあ、やつと――『
脱げ、汝借り物よ!
[#「汝借り物よ!」は底本では「汝借り物よー」]』だ。」さうしてロチスター氏は變裝を脱ぎ棄てゝしまつた。
「まあ一體、何て妙なことをお考へになつたのでございます!」
「でも
巧く遣りおほせたでせう、えゝ? さう思はない?」
「あの方たちの方は
巧くなすつたに相違ございません。」
「だが、あなたにはさうぢやないと云ふの?」
「だつて、私にはジプシイのやうにはなさらなかつたのですもの。」
「何のやうにしました? 私自身のやうに?」
「いゝえ、何か説明出來ないやうなものでした。簡單に云ひますと、私を誘ひ出す――それとも引張り込まうとしてゐらつしやるのだと、私思つてゐましたの。私にくだらないことを話させようとして、御自分でもくだらないことを話してゐらつしやいましたもの。あんなことは公平なことではございませんわ。」
「
恕してくれますか、ジエィン?」
「も一度そのことをよく考へてみるまでは何とも申されませんわ。反省してみて、若し私が大變に
不合理なことを云つてないことが分つたら、お
恕しするやうにしたうございますけれど。でも、あれはいゝことではございませんわ。」
「あゝ、あなたは大變に正確だつたし――大變注意深くて、大變敏感でしたよ。」
私は想ひ出してみた。そして全體としてはさうだつたと思つた。それは愉快なことであつた。が、實際私はこの會見の殆んど當初から
要心してゐたのだつた。何だか怪しいと疑つてゐたのだ。私はジプシイや
卜者達はこの
年寄らしく見える女が振舞つたやうには振舞はないといふことを知つてゐた。それに私は彼女のつくり聲や、顏を隱さうと氣にしてゐること等に氣が附いてゐた。だが私の心は――生きてる謎であり、不思議中の不思議と思つてゐたあのグレイス・プウルに走つてゐた。ロチスター氏とは夢にも思はぬことだつた。
「だが、」と彼は云つた。「何を瞑想してゐるのです? その
眞面目腐つた微笑は何といふ意味です?」
「驚きと
自慶でございます。もう退つてもいゝと仰しやつたと存じますが。」
「いや、も少しゐて、あつちの客間の人達はどうしてゐるか話して下さい。」
「きつとジプシイのことを
談し合つてゐらつしやると思ひます。」
「お掛けなさい!――皆んなが私のことを何と云つたか、聞かせて下さい。」
「私あんまり長くゐない方がよろしいです。もう十一時近くになる筈でございますもの。あゝ、御存知でゐらつしやいますか、ロチスターさん、今朝お出掛けになりました後で、どなたかゞお着きになりましたことを?」
「お客――いゝえ、誰だらう? 私は誰も
あてがないが。もう歸つたのですか?」
「いゝえ、その方は前からのお知り合ひで、お歸りになる迄此處で勝手に待つてゐてもいゝのだと云つてゐらつしやいました。」
「そんなことを云つたのか! 名前は云ひましたか?」
「お名前はメイスンで、西印度から――ジャマイカのスパニッシュ・タウンからいらしたのだと存じます。」
ロチスター氏は私の傍に立つてゐて、ちやうど
椅子に連れて行かうとするかのやうに私の手をとつてゐたが、私がさう話すと彼は
痙攣したやうに私の手首を
掴んだ。唇の微笑は
凍りついたやうになつた。明かに
痙攣が彼の息を止めてしまつたのだ。
「メイスン!――西印度!」と、物を云ふ自動人形が、同じ一つの言葉を云ふと思はれるやうな調子で、彼は云つた。「メイスン!――西印度!」と彼は繰り返した。そして彼は三度同じ言葉を繰り返して、口を
利く
合間々々に、段々と、灰の色よりも蒼ざめて來た。彼は自分が何をしてゐるか、殆んど知らないやうだつた。
「御氣分がお悪いのでございますか。」と私は訊いた。
「ジエィン、駄目になつた。私は駄目になつてしまつた。ジエィン。」と彼はよろめいた。
「あゝ、私にもたれてゐらつしやいまし。」
「ジエィン、あなたは前にも一度、私に肩を貸してくれた。今また貸して下さい。」
「えゝ、えゝ、私の腕も。」
彼は腰掛けた。そして私を傍に坐らせた。私の手を兩手でとつて彼は
擦つた。同時に彼は最も困惑した陰鬱な樣子で、じつと私を見つめてゐた。
「私の小さな友達!」と彼は云つた。「あなたと唯二人きりで靜かな離れ島にゐられたなら、困難も危險も
厭はしい記憶も私からなくなつてしまつてゐられたならと思ふ。」
「私でお
役に立ちませうか?――お盡しするのなら
生命も差し上げたく思ひます。」
「ジエィン、若し助けが
要るのだつたら、あなたの手に求めます。約束しておきます。」
「有難うございます。どうしたらいゝか、仰しやつて下さい。私、少くともやつてみるだけはみます。」
「ぢあ、ジエィン、食堂から
葡萄酒を
杯一杯持つて來て下さい――皆んなそこで夕食を食べてゐるでせう――それからメイスンが皆んなと一緒にゐるかどうか、何をしてゐるか見て來て下さい。」
私は行つた。ロチスター氏が云つたやうに、お客は皆んな食堂で
夕食をとつてゐた。彼等はしかし
食卓には着いてゐなかつた――夕食は食器棚の上に並べてあつた。そして各々が
好きなものを取つて、皆此處彼處に
塊つて、手に食器だの
洋杯だのを持つて立つてゐた。誰も彼も皆、大層面白さうであつた。笑ひ聲や話し聲が一ぱいに
[#「一ぱいに」は底本では「一ばいに」]なつてゐて
活々としてゐた。メイスン氏は火の傍でデント大佐夫妻に話しながら立つてゐて、他の人たちと同じやうに愉快さうな樣子をしてゐた。私は葡萄酒を杯に一ぱい注いで(かうしてゐるときイングラム孃が嫌な顏をして、私をじろ/\見てゐるのに氣が附いた。
怪しからぬことをすると思つたのだらう)、そして、私は書齋へ引返した。
ロチスター氏のひどい蒼白い色は消えてゐて、再びもとのやうにしつかりと
嚴しく見えた。彼は
杯を私の手から取つた。
「あなたの健康の爲めに、私に奉仕してくれる
妖精よ!」と彼は云つた。
中味を
嚥み
乾すとそれを私に返した。「皆んな何をしてゐます、ジエィン?」
「笑つたり、
談したり。」
「皆んな眞面目な、不思議さうな樣子ではありませんか、何か不思議なことを聞いたやうに。」
「いゝえ、ちつとも。皆さま笑つたり騷いだりしてゐらつしやいます。」
「で、メイスンは?」
「あの方も、矢つ張り、笑つてゐらつしやいました。」
「若しこの人達が皆んな一緒になつてやつて來て、私に
唾を吐きかけたとしたなら、あなたはどうします、ジエィン?」
「皆んな部屋から
逐ひ出してしまひます、若し出來たら。」
彼は
微かに微笑した。「でも若し私が皆んなのところへ行かねばならなくて、それで皆んなたゞ冷やかに私を見て、
蔑すんだやうに互ひに囁き
交し、やがて一人々々と離れて私を殘して行つてしまつたとしたら、どうします? あなたは皆んなと一緒に行きますか?」
「そんなことはないでせうと思ひます。私、御一緒に殘つてゐた方がずつと嬉しいのですから。」
「私を慰める爲めに?」
「えゝ、私に出來る限りはお慰めする爲めに。」
「で、若し私について
來るといふので、皆んながあなたを
呪つて、社會から
逐ひ拂つたら?」
「私、多分、そんな
呪なんぞ、何んにも存じませんでせう。でも若しさうなつても、私、そんなことを氣に留めはいたしません。」
「ぢあ、あなたは私の爲めに世間の非難を顧みないでゐられますか。」
「私、どんなお友達でも私がついて行く價値のあるあなたのやうな方の爲めなら出來ます。きつと、私、出來ます。」
「ぢあ、部屋に引返して、そつとメイスンのところへ行つて、ロチスターさんが歸つて來て、お目に掛り度いから、と
耳打して下さい。此處に案内して、そしたら行つてようござんす。」
「はい。」
私は彼の命じたことをした。私が
眞直に皆んなの中を通り拔けたとき、人々は皆んな驚いて私を見てゐた。私はメイスン氏を探して使ひの趣を述べ、彼を部屋から連れ出した。彼を書齋へ案内してから、私は二階へ上つて行つた。
晩くなつて、私が
寢床に這入つてからもう幾らか經つた頃、お客が寢室へ退くのが聞えて來た。私はロチスター氏の聲を聽き分けた。そしてかう云つてゐるのが聞えて來た。
「こちらへ、メイスン。こゝが君の部屋だ。」
彼は快活に話してゐた。その明るい調子が私の心を落ち着けた。私は直ぐに眠つてしまつた。
私は
平生も引く寢臺の
帷を引き忘れてゐた。そして窓の
日除けも下ろすのを忘れてゐた。その結果は、輝いた滿月が(その夜は晴れてゐたので)、空に昇つて來て、私の窓の彼方に懸つたとき、そして
覆の無い
窓硝子を透して私の方を覗き込んだとき、そのきら/\した光が私を起してしまつた。眞夜中に目を覺まして、私は眼を開いて白銀の晶玉のやうに澄んだ月の表面を見た。それは美麗ではあつたが嚴肅過ぎるほどであつた。私は半ば身を起して窓掛を引かうと腕を伸ばした。
おや、まあ! 何と云ふ叫び聲だらう!
夜――その靜寂、その靜止――は、ソーンフィールド莊の端から端まで鳴り渡つた恐ろしい、鋭い、
金切るやうな物音で二つに裂けてしまつた。
私の脈搏は止つた。心臟は鼓動を止めた。差し伸べた私の腕は
痺れてしまつた。叫び聲は消えて、二度とは聞えなかつた。まつたくどんなものでも、あんな恐ろしい叫び聲を、直ぐに繰り返すことは出來まい。アンデスの山の上にゐる廣い翼の
兀鷹だつて、その巣を蔽つてゐる雲の上から、あのやうな叫び聲を續けて二度は出すことが出來ないだらう。あんな聲を出すものは、その努力を繰り返すことが出來る迄には、休まなければいけない。
その叫び聲は三階から出た。頭の上を掠めて過ぎたから。そして頭の上、さう、ちやうど私の寢室の
眞上に部屋に、今私はもがき爭ふやうな音――その物音から察すると
死物狂のものらしかつた――を聽いた。そして半ば息の
窒りかけたやうな聲が叫んだ――
「助けて! 助けて! 助けて!」早口に三度。
「誰も來ないのか?」と聲が叫んだ。それから、よろめいたり足踏みしたりする物音が、荒々しく續いてゐる中に、私は板や壁を通してはつきりと聽き分けた――
「ロチスター、ロチスター、お願ひだ、來てくれ!」
何處かの部屋の
扉が開いて、誰かゞ廊下を駈けて、と云ふよりは疾走して行つた。別の足音が階上の床に響いて、何か倒れた。それから
しんとなつた。
恐怖で手足が顫へてゐたけれど、有り合せの服を着て、私は部屋から出た。眠つてゐた人々はすつかり目を覺まされた。叫び聲だの、恐ろしさうな囁き聲だのが、あちこちの部屋に響き、次から次へと
扉が開き、一人また一人と顏を出して、廊下は一ぱいになつた。紳士達や貴婦人達もみんな
寢床を出て來た。そして、「まあ、何事でせう?」――「誰が傷ついたの?」――「何ごとが起つたのでせう?」――「燈を持つて來て!」――「火事ですか?」――「盜人?」――「何處へ逃げるのでせう?」などの問ひがごつちやになつて皆の口から出た。月の光がなかつたら、彼等はまつたくの闇の中にゐるのであつたらう。彼等はあちこち駈け

り、また一
塊に寄り集り、泣きじやくる者だの、
跪く者だのもあつて、その混雜は手の着けやうもない程であつた。
「一體全體、ロチスターは何處にゐるのだ?」とデント大佐が叫んだ。「
寢床の中には見えないが。」
「此處です、此處です。」と大きな聲が返辭をした。「落ち着いて下さい、皆さん。今行きますから。」
そして廊下の突當りの
扉が開いて、ロチスター氏が、蝋燭を手に這入つて來た。ちやうど階上から下りて來たところであつた。女の人たちの中一人が
眞直に彼の處に駈けて行つて彼の腕にすがつた。それはイングラム孃であつた。
「どんな
怖いことが起りましたの?」と彼女は云つた。「仰しやつて頂戴! どんな惡い事でもすぐお聞きしなければなりませんわ。」
「だが、私を引き倒したり、
窒息させないで下さい。」と彼は答へた。今やイィシュトンの姉妹が彼の
周りに取りすがり、廣い、白の
閨衣を着た二人の未亡人は、まるで帆を張つた舟のやうに彼を目がけて押し寄せてをつたからだ。
「萬事いゝんです!――いゝんですよ!」と彼は叫んだ。「『
空騷ぎ』のおさらへに過ぎません。あなた方、離れてゐて下さい。でないと腹を立てゝどうするか分りませんよ。」
そして、また、彼は物騷に見えた。彼の黒い眼はきら/\と光つてゐた。
努めて氣を
鎭めて、彼は附け加へた――
「女中が一人
魘されたのです。それだけなんです。興奮し易い、神經質な人間で、自分の見た夢をきつと幽靈か何かさう云つたものと解釋して、それで吃驚りして騷ぎ出したのです。さあ、もう、皆樣が部屋におかへりになるのを見屆けなくてはなりません。家中が落着くまでは彼女の世話をしてやることが出來ないのですから。紳士諸君、どうぞ御婦人のお手本になつてあげて下さい。イングラム孃、あなたはきつとくだらない恐れなどを超越してゐるといふことを實證して下さるでせうね。エミーとルヰザとは、その通り二羽の鳩のやうにあなた方の巣におかへりなさい。奧さま方は」(と、未亡人達に向つて)「あなた方はこの寒い廊下にこの上ゐらしては確實に
風邪をお召しになつてしまひますよ。」
かういふ風にして、
宥めたり制したりして、彼は、皆をも一度別々の部屋に收めようとした。私は自分の部屋にかへるやうにと云はれるのを待たず、誰にも氣附かれずに出て來たやうに、またそつと
引退つた。
しかし、床に入る爲めではなかつた。反對に氣を
配りながら服を着て身支度をした。叫び聲の後に私が聽いた物音と口走つた言葉とは多分、私にだけしか聞えなかつたらしい。何故ならそれは私の上の部屋から出たものであつたから。そして、それ等はあんなに家中を恐怖させたのは女中の夢ではないこと、ロチスター氏の云つた説明は、お客を
鎭める爲めに拵へた思ひつきに過ぎないことを、私は確信した。で、私は緊急の時の用意に着換へをしたのである。着てしまふと、私は長い間、窓によつて靜まりかへつた地上や月の光で白くなつてゐる野を見渡しながら、何か分らぬものを待つてゐた。私には、あの
怪しい叫び聲、爭鬪、呼聲に續いて何か事件が起るに違ひないと思はれたのだ。
否、靜寂はかへつた。人々の囁き聲やざわめきは段々と靜まつて、一時間ばかりの内にソーンフィールド
莊は再び沙漠のやうにひつそりとなつた。眠と夜とは、再び支配しだしたやうであつた。まもなく月は傾いて來た。沈まうとしてゐた。寒さと
暗闇の中に坐つてゐるのはいやだつたので、私は、着物を着たまゝ
寢床の上に横にならうと思つた。私は窓際を離れて音をさせないやうに絨毯をよぎつて行つた。靴を脱がうと身を
屈めたとき、あたりを憚るやうに
忍びやかに私の
扉を叩くものがあつた。
「御用ですか。」と私は訊いた。
「起きてゐますか。」と私の待つてゐた聲――即ち私の
主人の聲が
訊ねた。
「えゝ。」
「着物を着て?」
「えゝ。」
「ぢや、出て來て下さい、そつと。」
私は云はれる儘になつた。ロチスター氏がともし火を手にして廊下に立つてゐた。
「あなたが入用なんです。」と彼は云つた。「こつちへ來て下さい。落着いて、音を立てないやうに。」
私の上靴は薄くて、敷物を敷いた床の上を私は丁度猫のやうにそつと歩くことが出來た。彼は廊下を行き盡して階段を上り、暗い低い運命を定める三階の廊下で足を止めた。
「あなたのお部屋に、海綿がありますか。」と彼は囁き聲で訊いた。
「えゝ。」
「鹽は――

ぎ鹽は?」
「ございます。」
「引返して、兩方共持つて來て下さい。」
私は引返して、洗面臺の上に海綿を、
抽斗に鹽を探して、もう一度踵をかへした。まだ彼は待つてゐて、手には鍵を持つてゐた。小さな黒い
扉の中の一つに近づくと彼はそれを鍵穴にさした。彼は手を止めて再び私に向つて云つた。
「あなたは血を見ても氣持が惡くはならないでせうね?」
「ならないでせうと思ひます。まだ一度も
試してみたことはありませんけれど。」
彼に答へてゐる時、私は戰慄を感じた。しかし
寒氣もしなければ、氣が遠くなることもなかつた。
「さあ、手をお貸しなさい。」と彼が云つた。「氣絶したりしてはいけないから。」
私は指を彼の手の中に置いた。「
温くてしつかりしてゐる。」さう云つて彼は鍵を

して
扉を開けた。
先に、フェアファックス夫人が家中を見せてくれた日に見た記憶のある部屋であつた。そこには、掛布が掛つてゐた。しかし今はその掛布は一所に環でくゝり上げてあつて、先には蔽はれてゐた
扉が明らさまに其處に見えてゐた。この扉は開け放されてゐて、その奧の部屋から
燈火の光が
射してゐた。そこから、殆んどまるで犬がかみ合つてゐるやうな
啀むやうな
掴みかゝるやうな物音が聞えて來た。ロチスター氏は蝋燭を置くと、私に云つた、「一寸お待ちなさい。」そして彼は内部の部屋へと進んで行つた。鋭い笑ひの叫びが彼の這入つて行くのを迎へた。最初は騷々しく、やがてグレイス・プウルのあの氣持の惡いハ、ハ、に終つた。では彼女は其處にゐたのだ。低い聲が彼に向つて話しかけるのが聞えたけれど、彼は默つて何か整へてゐた。出て來ると彼は自分の背後の
扉を
閉めた。
「此處へ、ジエィン。」と彼が云つた。で、私は大きな
寢臺の向う側へと

つて行つた。それは引き下してある掛布で、部屋の大部分をかくしてゐた。安樂椅子が一つその
寢臺の枕もとにあつて、その中に上衣を着てない一人の男が掛けてゐた。彼は身動きもせず、頭は後に
凭せかけ、眼は閉ぢてゐた。ロチスター氏はその人の上に蝋燭を持ち上げた。その蒼ざめた、死んだやうに見える顏が――お客のメイスンであることを私は認めた。そしてまた彼のシヤツの
脇腹と片方の腕とが殆んど血に浸つてゐるのをも見た。
「蝋燭を持つて下さい。」とロチスター氏が云つた。で私は受け取つた。彼は洗面臺から、水を一ぱい持つて來た。「持つてゝ下さい。」と彼が云つた。私はその通りにした。彼は海綿を取ると、それを浸してその死人のやうな顏をしめし、私の香ひ瓶をとつて
鼻孔に持つて行つた。メイスン氏は間もなく眼を開けて
呻いた。ロチスター氏は、腕や肩に繃帶のしてあるその怪我人のシヤツを開いて
後から
後から滴り落ちる血を拭ひ去つた。
「もう
難しいか?」とメイスン氏が
呟いた。
「馬鹿な! なんの――ほんの
擦り傷だよ。そんなにしよげないで、しつかりしろ。今僕が行つて外科醫を連れてくるよ。朝方迄には君は外へ移してもらへるだらう、と思ふよ。ジエィン、」と彼はつゞけた。
「はい。」
「あなたをこの部屋にこの人と一緒に一時間、若しかすると二時間位も殘して置かなくてはなりませんがね。また血が出て來たら私がしてゐるやうに拭いて下さい。若し氣が遠くなりさうだつたら、あの臺の上にあるコップの水を唇に、その鹽を鼻に持つて行つて下さい。どんな口實があつても、あなたはこの人に話さないやうに――それから――リチヤァド、若しこの人に話しかけでもすると、君の生命に關はるのだよ。口を開いたり――騷ぎ立てたりしたら――その結果は知らないぞ。」
再びこの哀れな男は呻いた。彼は思ひ切つて動くことも出來ないやうに見えた。死に對する、それとも何かその他のものに對する恐怖が殆んど彼を
痺らせてゐる樣子だつた。ロチスター氏はもう血に染みてしまつた海綿を私に渡した。そして私は彼がしたやうにそれを使ひつゞけた。彼は一瞬私を見てゐたが「忘れないで!――話をしてはいけないつてことを。」と云ひながら、部屋を出て行つた。鍵が鍵穴の中で
軋り、彼の立ち去る跫音が聞えなくなつてしまつたとき、私は不思議な氣持に襲はれた。
その時私は三階の怪しい部屋の一つに閉ぢ込められてゐるのであつた。私の周圍には夜氣が迫り、私の眼と手の傍には蒼ざめた、血に染んだ人の姿がある、人殺しの女とは辛じて一枚の
扉で隔てられてゐる。さうだ――それが私には恐しいことだつたのだ――その他のことなら我慢も出來たけれども。また私はグレイス・プウルが私に向つてとび出して來るといふことを考へて
身顫ひした。
しかし私は自分の
役目をしてゐなくてはいけない。この蒼ざめた顏――この物云ふことを禁じられた青い動かぬ唇――或る時は閉ぢ、或る時は開き、また部屋の中を
逍遙ふかと思へば私に注がれるこの暗い恐怖に光つてゐる眼を、見守つてゐなくてはならない。私は幾度も/\手を血と水の混つた
水鉢に浸して
滴る血を拭ひ去らねばならなかつた。芯を
剪まない蝋燭が仕事をしてゐる内に光が弱り、ものゝ影が私の周りにある
刺繍をした古い
帷帳の上に薄暗くうつり、廣い古風な
寢臺の掛布の裾の方は黒く、向う側の大きな
箪笥の
扉の上に怪しくふるへるのを見なくてはならなかつた。その扉の表面は十二の鏡板に分れてゐて、各々額縁に入つてゐるやうにその仕切の中に圍まれて、十二人の使徒の首が恐しい恰好に描き出されその上の頂には眞黒な十字架と死に
垂んとしてゐるクリストの像がかゝつてゐた。
移り動く朦朧とした暗、明滅する燈影が、此處に
逍遙ひ、彼處にちらつくにつれて、今眉を
顰めたのが顎鬚のあるお醫者のルカであつたかと思へば、今搖れたのは聖ヨハネの長い髮の毛であつた。すると忽ちにして惡魔のやうなユダの顏が
仕切りの外にはみ
出して來ると、だん/\と生きてゐるやうになり、裏切者の
首――
惡魔自身――がその配下のユダの姿の中にのりうつゝてくるやうに見えた。
こんなことの最中にも、私は見張りもせねばならぬし、聽耳もたてゝゐなくてはならなかつた。あの横手にある
檻にゐる野獸か、それとも惡鬼の動くのを耳をすましてゐなくてはならなかつた。しかし、ロチスター氏が來て以來、それはまるで咒文に縛られたやうであつた。その
夜中に、私は三つの長い間をおいてたゞ三つの物音――ミシ/\といふ跫音と瞬間的に繼續するいがむやうな犬のやうな騷音と太い人間の呻き聲を聞いたばかりであつた。
それから自分自身の思ひが私を惱した。この人里離れた邸内に人間の形をして住んでをり、そしてこゝの主人によつてもそれを逐ひ拂ふことも
鎭めることも出來ないのはどんな犯罪であらうか――
眞夜半時分に、あるときは火事となり、あるときは血を流すやうなことゝなつて現はれたのは一體どんな祕密であらう? 世の常の女の顏と姿を被りながら、ある時は嘲る惡鬼のやうな、また忽ちにして腐肉を探す肉食鳥のやうな聲を發するあれは一體何物なのだらうか?
それに、この、私が今
屈みかゝつてゐる男――この平凡な目立たぬ客――一體どうしてこの男がこの恐ろしいことの網に捲き込まれたのであらう。そしてまた何故あの
狂婆はこの男に襲ひかゝつたのだらう。
寢床に眠つてゐるべきときに、何の爲めに彼はこの時ならぬときに、この家のこんな場所に來たのだらう。私はロチスター氏が彼に階下の部屋を指定してゐるのを聞いてゐた――何の爲めに彼は此處に來たのか? そしてまた、何故今彼は身にふりかゝつた暴力や裏切りの行爲に對してこんなにおとなしいのだらう? 何故彼はロチスター氏が強ひた緘默にこんなに靜かに服從してゐるのだらう? 一體何故にロチスター氏はこの緘默を強ひたのか。あの客が無法な目に
遭ひ、その以前には彼自身の生命をとらうと、恐ろしくも企まれてゐた。而も二度の計畫とも、彼は祕密の裡に隱し
有耶無耶の裡に葬つてしまつてゐる! 結局私はメイスン氏がロチスター氏に對して服從的であるといふことを知つた。即ち、後者の激しい意志が前者の無氣力の上に大きな勢力を持つてゐるのである。彼等の間に
交された數語が私にこの確信を與へた。彼等の以前の交際に於て一方の受動的な性質が他方の能動的な精力に
始終左右されてゐたことは明らかであつた。では一體、メイスン氏の到着を聞いたときのロチスター氏の驚愕は何處から起つて來たのであらう。何故この無抵抗な人間の單なる名前――その人にとつては今彼の言葉はまるで小兒に對するやうに十分に彼を制したのだ――が數時間前にはまるで雷電が
槲の木に落ちたかのやうに彼に打撃を與へたのであらう?
あゝ、私は彼が「ジエィン、私は駄目になつた――私は駄目になつてしまつた、ジエィン。」とかすれた聲で囁いたときの彼の顏、彼の蒼ざめた色を忘れることが出來なかつた。彼が私の肩の上に支へてゐたその腕がどんなに顫へてゐたかを忘れることが出來なかつた。而もフェアファックス・ロチスターの氣丈な精神を屈せしめ、その力強い體を顫へさせることが出來るのは、輕い
些細な事件ではないのだ。
「
何時になつたらお歸りになるのだらう? 何時になつたらお歸りになるのだらう?」夜がなか/\明けぬので――出血してゐる
怪我人が
狂つたやうになり、またぐつたりとなり、呻き、弱つて、而も夜が明けねば助けが來ないので、私は心の中でかう叫んだ。幾度となく私は水をメイスン氏の蒼ざめた唇に持つて行き、幾度となく氣付けの鹽を彼に與へた。しかし私の努力も無効に見えて、肉體的の、または精神的の苦痛、それとも貧血か、或ひはまたこの結合された三つのものが見る/\彼の氣力を衰弱させてゐた。彼は呻き、弱り果て、混亂した、無感覺な樣子に見えたので、私は彼が死にかけてゐるのではないかと思つた。而も私は彼に話しかけることさへ許されないのだ。
蝋燭は遂に燃え盡して、消えてしまつた。それが消えたとき、私は仄白い光が幾すぢか窓掛を
縁どつてゐるのを認めた。曉がその時近づいたのである。程なく、私はパイロットが中庭のひつそりした犬小舍の外に遙か下の方で吠えるのを聞いた。希望は
甦つた。それは理由がないでもなかつた。それから五分の内に鍵の
軋る音、錠前の開く音が、私の見張りが交替になることを知らせた。それは二時間以上はたつてゐなかつたが、幾週間にも勝る程長く思はれた。
ロチスター氏が這入つて來た。そして一緒に、彼が雇つてきた外科醫がゐた。
「では、カァター、
敏捷にやつてくれ給へ。」と彼は後者に云つた。「傷の手當をして繃帶を捲いて怪我人を
階下につれて行つて、その他全部に半時間しか上げられないから。」
「ですが、動かしていゝのですか?」
「それは大丈夫。何も大したことぢやない。あれは氣が弱いのだから元氣をつけてやらなくちやならない。さあ、はじめて下さい。」
ロチスター氏は厚い窓掛を引いて
麻布の日除けを引き上げ、出來るだけの外光を入れた。そして私は
曉方がもうすつかり近づいてゐるのを見て驚きもし歡びもした。何といふ薔薇色のすぢが、東の方を照らしはじめてゐたことだらう。やがて彼はもう外科醫が手當にとりかゝつてゐるメイスンの傍へ行つた。
「えゝ君、どんな工合だ?」と彼は
訊ねた。
「
彼女のお蔭で、俺はもう駄目だ。」といふのが
微かな返辭だつた。
「ちつともだよ!――元氣を出して! 二週間めの今日になつても、それより惡くなりつこはない。ほんのぽつちり血を流した。それだけのことだよ。カァター、危險はないつてことを保證してやつてくれ給へ。」
「お請合しますとも。」と今繃帶を解いたカァターは云つた。「たゞも少し早くこゝに私が着くことが出來るとよかつたのですが。こんなにひどく血を流すことはなかつたでせう――だが、これはどうしたのでせう? 肩の肉がまるで切られたやうに引裂かれてゐる。この傷はナイフで出來たのではありませんね。こゝに齒の跡がある。」
「
彼女は私に
噛み付いたんだ。」と彼は呟いた。「
彼女はロチスターがナイフを取り上げると、まるで
牝虎のやうに私に噛みついて苦しめたんだ。」
「君は讓歩するんぢやなかつたのだ。直ぐに
彼女と掴み合ふべきだつたのだ。」とロチスター氏が云つた。
「しかしあんな場合に、どうすることが出來るだらう?」とメイスンが答へた。「あゝ、恐ろしいことだつた。」と身震ひして彼は附け加へた。「それに私は思ひがけなかつた。初めの中は
彼女は大變に落着いて見えたからね。」
「警告したぢやないか。」といふのが彼の友達の答だつた。
「私は云つたのだ――君が彼女の傍に行くときには氣を附けろつて。それに、君は
明日まで待つて、私を連れて行つてもよかつたのだ。今夜、而もたゞ獨りで會はうなどゝするのは愚の
骨頂だよ。」
「何か
ためになつてやれるかと思つたのだ。」
「思つたのだつて! 思つたのだつて! 成程、君の云ふのを聞いてると
焦々してくるよ。だがしかし、君は負傷してゐる、而も私の忠告を
容れなかつたといふ
廉で結構負傷してもいゝのだ。だからもうこの上、何も云ひはしない。カァター、早く! 早く! 太陽はもう直ぐ
昇る。そして私はこの男を行かせなくちやならないのだ。」
「今直ぐです。肩は今ちやうど繃帶したところです。この腕の他の傷を調べなくてはなりません。此處にもその方の齒の跡があるやうですね。」
「
彼女は血を吸つたんだ。彼女は私の心臟を
空虚にしてしまふと云つた。」とメイスンは云つた。
私はロチスター氏が身顫ひするのを見た。明白に、嫌惡、恐怖、憎惡の
表はれた表情が、殆んど
面變りするまでに彼の顏を
歪ませた。しかし、彼はたゞかう云つたゞけであつた――
「さあ、默つて、リチヤァド、
彼女の云ふ譯の分らん話なんぞ氣にとめないがいゝ。二度と云つちやあいけない。」
「それが忘れられゝばいゝがと思ふが。」といふのが、答へであつた。
「この國を出れば、忘れられるさ。君がスパニッシュ・タウンに歸り着いたら、
彼女のことは死んで葬られたと思へるだらう――それとも寧ろ彼女のことは全然考へる必要もない。」
「今夜のことを忘れることは不可能だ。」
「不可能ぢやない。しつかりしろ。君はこの二時間ばかり
鯡のやうに死骸になつてたと思つてたゞらう。それに今ではちやんと生きてゝ口を
利いてる。御覽――カァターの方は、もう濟んぢまつた、もうぢき濟みさうなのだ。一寸の間にきちんとして上げよう。ジエィン。」(彼は再び部屋に這入つて以來始めて私の方を振向いた。)「この鍵を持つて、私の寢室に行き、眞直に私の衣裳部屋の中へ這入つて行つて、衣裳箪笥の一番上の
抽斗を開けて、綺麗なシヤツと頭に捲くハンカチとを出して、こゝに持つて來て下さい。早くして。」
私は行つて、彼の教へた
物入れを探し、云はれた品物を見つけて、それを持つて引返した。
「では、」と彼は云つた。「私が着物を着せてやる間、
寢臺のあちら側に行つてゝ下さい。しかし部屋は離れないで。また用事があるかも知れないから。」
私は命ぜられた通りに
退いた。
「階下に下りて行つたとき、誰かゞ起きた樣子だつた? 、ジエィン?」間もなくロチスター氏がかう
訊ねた。
「いゝえ、どこも
しんとして居りました。」
「我々は
巧く君を送り出さう、デイック。さうした方が君の爲めにも、彼處にゐる可哀さうな人間にもいゝだらう。私は長いこと人目に附かないやうに
骨折つて來た。それで今さら露顯といふこともあらせたくないから。さあ、カァター、チヨッキを着る
手傳をしてやつてくれ給へ。君はあの毛皮の外套をどこに置いて來たのだ? この
酷く寒い氣候ぢや、あれなしでは君は一哩だつて行けないよ。君の部屋だつて?――ジエィン、メイスン君の部屋に駈けて行つて――私の隣のだ――そこにある外套を持つて來て下さい。」
再び私は駈けて行つて、毛皮の裏と
縁のついた大きな外套を持つて歸つて來た。
「今度はまた他の用事をして貰ひますよ。」と
草臥もしない私の主人は云つた。「もう一度私の部屋に行つて貰はなくちやならない。あなたが
天鵞絨の靴をはいてるのは何んて有難いことだらう、ジエィン!――氣の利かない召使たちぢやあこの急場にとても間に合はない。私の化粧机の眞中の
抽斗を
開けて、そこにある小さな藥瓶と小さなコップを持つて來なくちやなりません――早く!」
私は、其處に飛んで行つて、云はれた容器を持つて飛んで歸つて來た。
「宜しい! そこで、ドクトル、勝手ですが獨斷で一服のませますよ。この興奮劑は、私が羅馬で、ある伊太利の藪醫者――あなたなんぞは一
蹴するでせうが――から貰つたものですよ、カァター。
矢鱈に使つてはならないものだが、しかし場合によつては――例へば今なんぞには適したものです。ジエィン、水を少し。」
彼は小さなコップを差し出した。私は洗面臺の上の水瓶から、それを半分
滿した。
「それで宜しい。では藥瓶の口を
濕して下さい。」
私はその通りにした。彼は
深紅の液體を十二滴
量つて、メイスンにすゝめた。
「飮みなさい、リチヤァド。一時間かそこいらで君に不足してゐる元氣をつけるだらう。」
「しかし、害になりはしないだらうか?――
衝性のものですか?」
「飮みたまへ! 飮みたまへ! 飮みたまへ!」
メイスン氏は從つた。反對するのは、明かに無用なことだつたのだから。彼は今はもう衣服を着けてゐた。まだ蒼ざめて見えたが、しかし最早血にまみれても汚れてもゐなかつた。ロチスター氏は、彼がその液體を飮んでから三分間坐らせておいたが、やがて彼の腕を取つた。
「さあ、もうきつと立てると思ふよ。」と彼は云つた――「やつて御覽。」
怪我人は立ち上つた。
「カァター、そつちの肩を支へてやつて下さい。元氣を出して、リチヤァド。歩き出して――さうだ!」
「いゝやうだ。」とメイスン氏が云つた。
「確かにさうだらう。では、ジエィン、我々の前に立つてこつそり裏階段の方へ行つて下さい。側廊下の
扉を開けて、庭にゐる――それとも、がら/\云ふ車輪を鋪石の上にやらないやうに云つておいたから外側にゐるかも知れないが――驛傳馬車の馭者に支度をするやうに云つて下さい。我々がもう
來るからつて。それからジエィン、若し誰かあたりにゐたら、階段の下へ來て
咳拂ひして下さい。」
この時はもう五時半になつてゐた。そして太陽はまさに
昇らうとするところだつた。しかし臺所はまだ暗く、
しんとしてゐた。側廊下の
扉には錠が
下りてゐた。私は出來るだけ、そつと
扉を開けた。庭もすつかり靜まり返つてゐた。たゞ門は廣々と開け放されて、外側に馬具をつけた馬と、馭者臺に馭者の乘つた一臺の驛傳馬車が
停つてゐた。私は彼に近づいて殿方たちが來ることを知らせた。彼は頷いた。それから私は注意深くあたりを見

して耳を澄ました。早朝の靜寂が到る所に
憇つてゐて、召使たちの部屋の窓にはまだ窓掛が下ろされてあつた。小鳥等が今花で眞白になつてゐる果樹園の樹の間に
囀つてゐた。その枝は庭の一方の側を
圍んだ塀の上に、白い花環のやうに垂れてゐた。馬車の馬は、時々狹いかこひの中で足踏みをした。その他は何も
彼も
しんとしてゐた。
人々は近づいた。ロチスター氏と外科醫に支へられてゐるメイスンは可なり
樂に歩いてゐるらしい。彼等は馬車の中に彼を助け乘せ、カァターがそれにつゞいた。
「氣を附けてやつて下さい。」とロチスター氏は後者に云つた。「そしてすつかり快くなるまで君の家に留めておいて下さい。一兩日中にはどんな工合だか見に馬で行きますから。リチヤァド、どんな工合だ?」
「新しい空氣で力が附いたよ、フェアファックス。」
「彼の側の窓を開けておいて下さい、カァター。風は無いから。さやうなら、デイック。」
「フェアファックス。」
「えゝ、何だい?」
「
彼女に氣を附けてやつてくれ、出來るつたけ、
彼女を優しく取扱つてやつてくれ。どうか
彼女を――」彼は云ひさして涙に
咽んでしまつた。
「出來るだけのことはしてるよ。今迄もして來たし、この後もする積りだ。」といふのが返辭だつた。彼は馬車の
扉を
閉ざした、さうして、乘物は駈け去つた。
「とはいふものゝ、これで
けりがついて欲しいものだ。」と、重い庭の門を閉ぢて
閂をかけたときに、ロチスター氏は附け加へた。
それが濟むと彼は重い足どりで、放心したやうな風に、果樹園を區切つてゐる塀についた入口の方へ歩き出した。彼はもう私には用濟みだらうと思つて私は家の方に歸りかけた。けれども私は今一度「ジエィン!」と彼が呼ぶのを聞いた。彼は
小門を開けて、私を待つて其處に立つてゐた。
「しばらくの間、少しは
清々しいところへいらつしやい。」と彼は云つた。「あの家はまるで牢獄だ。そんな感じがしませんか?」
「私には立派なお
邸に見えます。」
「無經驗といふ霞があなたの眼を蔽うてゐる。」と彼は答へた。「而もあなたはそれを魔法にかゝつた仲介物を通して見てゐるのです。あなたには
鍍金が粘土であることも、絹の着物が蜘蛛の巣であることも、大理石が見すぼらしい石板であり、
磨きをかけた木材はくだらぬ木屑であり、
卑しい樹皮であることも見分けることが出來ない。さあ、此處は、」(彼は私共が這入つて來た葉の繁つた
圍ひを指した。)「何も
彼も眞實で、甘美で、清淨です。」
彼は、一方には
黄楊や、林檎や、梨や、
櫻桃等の樹が立ち並び、他方の花壇には古めかしい樣々の花、
紫羅欄花や、
亞米利加撫子、
櫻草、三
色菫などが
青萵や、薔薇やその他樣々な香氣のある草に混つて繁り合つてゐる散歩道を
逍遙つて行つた。これ等のものは、美しい春の朝に有り勝ちな四月の
俄雨と光りの連續がもたらし得ると同じやうに、活々としてゐた。太陽はちやうど雲が斑になつてゐる東の空にかゝらうとして、その光は、花のついた、露を帶びた果樹園の樹々に輝き、その下の靜かな路を照らしてゐた。
「ジエィン、花をあげませうか?」
彼は
叢に咲き初めたばかりの、半開の薔薇の花を摘み取つて私に差出した。
「有難うございます。」
「こんな日の出が好きですか、ジエィン? 日がだん/\暖かになるにつれて、きつと消えてなくなつてしまふに違ひない高いところの、うすい雲の浮んだあの空――こんな靜かな、かぐはしい有樣は?」
「ほんとに好きでございます。」
「あなたは不思議な晩を過しましたね、ジエィン?」
「えゝ。」
「その爲めにあなたは顏色が惡い――私があなたをメイスンのところに獨りぽつちで置いて行つたときには
怖い氣がしましたか?」
「私、誰かゞあの奧の部屋から出て來さうで、
怖うございました。」
「しかし、私はあの入口を
閉しておいたのです――鍵は私のポケットに持つてゐました。若し私が
小羊を――私のいとしい小羊を――狼の穴のすぐ傍に
護りもなしに置いておいたら、私は輕率な羊飼だつたに違ひない。で、あなたは安全でしたね。」
「グレイス・プウルは、まだ此處にゐますの?」
「あゝ、さうですよ!
彼女のことで頭を痛めないでゐらつしやい――そんなことは考へないでゐらつしやい。」
「でも、あの人がゐる間はあなたの生命はほとんど安全ではないやうに思はれます。」
「心配しないで下さい。私は自分で注意しますから。」
「昨夜
氣遣つてゐらした危險は、もう過ぎてしまひましたの?」
「メイスンが英吉利から立去るまではさうと斷定出來ませんし、さうなつてもまた駄目です。ジエィン、私にとつては生きるといふことは今にも裂けて火を噴き出すかも知れない噴火口の
地殼の上に立つてゐるやうなものですよ。」
「でも、メイスンは
容易くどうにでもなる人のやうに思はれます。あなたの勢力はあの方には確かに強く働いてゐます。あの方は決してあなたに反抗したり、
故意にあなたを
傷けるやうなことはしないでせう。」
「さうですとも! メイスンは私に反抗もしないだらうし、知つてゝ私を傷けるやうなことはしないでせう――だが、その積りはなくとも、ふとしたはずみに、洩らした不用意な言葉が、忽ちにして私の生命でなくとも、永久に私の幸福を奪つてしまふかも知れないのです。」
「氣を附けるようにと、あの人にお話しになつたら。あなたが恐れてゐらつしやるものをお知らせになつたら。危險を避ける方法をお教へになつたら。」
彼は嘲けるやうに笑ひ出して、つと私の手をとつたが、また急いで離した。
「それが出來るのだつたら、お馬鹿さん、何處に危險なんぞあるのです? そんなものは忽ちのうちに滅亡してしまふのだ。メイスンを知つて以來、私はたゞあれをしろと云へばよかつた。さうすればそのことは出來上つたのです。しかし、今度の場合は命令することが出來ないのです。リチヤァド、私を傷けないやうに氣を附けてくれとは云へないのです。何故なら、私はどうしても、私に害を加へ得るといふことを、あの男に知らせてはならないのですから。あなたは、今困つた樣子ですね。もつと/\わからなくしますよ。あなたは私の友達でしたね、さうぢやない?」
「正しいことならどんなことでもお役に立つて、お聞きしたうございます。」
「確かに、さうらしい。あなたが私の手傳をしたり、私を喜ばせてくれたり――私の爲めに働いてくれたり、私と一緒にゐたりするときには、あなたの足どりにも眼にも顏にも本當の滿足が見える。但し、それはあなたの所謂『正しいことなら何でも』の場合だ。何故なら、若しあなたがよくないと思ふやうなことを私が命じたなら、もう輕い足どりで駈けてくれることも、
手綺麗な敏活さも、
活々とした眼差も、元氣な顏付もしてはくれないでせう。そのときには私の友達はうしろを向いてしまふのだらうなあ、何も云はずに、蒼ざめて。そして『いゝえ、それは出來ません。私には出來ません。それはよくないことですから。』と云つて。そして
恒星のやうに動かなくなるのだらう。さうだ、あなたも亦私を支配する力を持つてゐて私を傷けることが出來るのだ。しかし忠實で親切なあなたが、直ぐに私を突き通してしまはないやうに、私の
痛手の場所は教へないことにしませう。」
「もしあなたが私に心配なさらないやうに、メイスンさんに對してもさうでしたら、あなたはほんとに安全でゐらつしやるんぢやございませんか。」
「あゝさうあつて欲しいものですね、ジエィン! 此處に
亭がある。お掛けなさい。」
その
亭は、塀の中に出來たアーチで、
常春藤[#ルビの「アイヴイ」は底本では「マイヴイ」]が匍つてゐて、中には粗末な腰掛があつた。ロチスター氏は私の爲めに席をあけて、そこに掛けた。しかし、私は彼の前に立つてゐた。
「お掛けなさい。」と彼は云つた。「腰掛には結構二人掛けられますよ。あなたは私の横に掛けるのを遠慮しはしないでせう、ねえ。これはよくないことですかね、ジエィン?」
私は答への代りに掛けた。
斷るのは
賢いことではないと思つたから。
「さて、私の友達、太陽が露を吸つてゐる中に――この古い庭の花が皆眼を覺まして花を開き、鳥たちがソーンフィールドから子供達の朝飯を取つて來、早起きした蜜蜂が手始めの一働きに出る間に――ある事件を話してあげますが、あなた自身のことだと思つて聞かなくてはなりませんよ。だが、その前に先づ私の方を御覽なさい。そしてあなたが樂な氣持ちでゐることや、私があなたを引留めてるのが惡いことだとか、あなたがこゝに留つてゐるのがいけないことだとかを氣にかけてゐないと云つて下さい。」
「いゝえ。私は滿足してをります。」
「それぢあ、ジエィン、想像力のたすけをおかりなさいよ――あなたはもう育ちのいゝ訓練のとゞいた娘ではなく、幼年時代から氣儘に育つた氣の荒い男の子だとします。あなたは或る遠い異國にゐるのだと想像して下さい。其處であなたは大變な過失を
犯すのです。どんな質のものか、またはどんな動機からかはまあいゝとして、その結果はあなたに一生涯つきまとひ、あなたの生存をすつかり毒してしまひます。氣を附けて下さい、私は犯罪と云ふのではない、やつた者に法律の制裁を受けさせるやうな血を流すとか、その他そんな罪になる行爲のことを云つてるのではない、私の云つたのは
過失なのです。あなたの
爲たことの結果はやがてどうにも堪らなくなつて
來る、で浮び上らうとして方法を採る――非常な方法を。だがしかし、法律違反にもならないし責むべきものではありません。それでもあなたはまだ
慘めだ。何故なら人生の大事な入口で、希望はあなたを棄てゝしまつたから――あなたの太陽は眞晝間に
日蝕の中に暗闇となり、日沒まではそれがあなたの太陽から去りはしないのです。根深い
下劣な聯想があなたの追憶の唯一の
糧となつてゐます。あなたは他郷に安息を求め、また享樂――知性を曇らせ感情をしぼますやうな
無情な官能的な――享樂のうちに幸福を求めて此處彼處と流浪します。心は疲れ、魂も衰へて、我と我身にした配流の幾年間かの後にあなたは
故郷に歸つて來る。そしてある新らしい知己を得る――どうして、またどこでかは、問題ではない。あなたはこの新らしく知つた人の
裡に、あなたが二十年間探しまはつてゐながら今迄かつて
遭はなかつた善良な、輝やかしい性質を見出す。而もそれは何も
彼も
活々として健康で汚點も
汚れもないのです。そのやうな
交りが復活し再生して來ると、あなたはより善い生活――高尚な願望、清淨な感情などの日が歸つて來ることを感じます。あなたは自分の生活を
償はうと願ひ、あなたの餘生を、不滅の存在にもつとふさはしい方法で
過したいと思ひます。この理想に到達する爲めには、習慣といふ障害物を
跳び越へて差支へないと思ひますか。良心も是認せず、判斷も賛成しないやうな單なる世間的な障害物を?」
彼は返辭を待つて口をつぐんだ。私は何と云ふべきであらう? あゝ
時宜を得た滿足な答へを思ひつかせてくれるやうな
妖精はゐないのか! 空しいのぞみ! 西の風は私の周圍の
常春藤に囁いたけれどどの優しいエイリエル(
妖精の一つ)も言葉の仲介物としてその息を貸してはくれない。鳥は樹の頂に歌つてゐるけれど、その歌はどんなに美しいとは云へ、何を云つてるか分らないのであつた。
再びロチスター氏は問ひを出した。
「さまよひ歩いた、罪深い、しかし今は安息を求め悔いてゐる人間、その心の平和と生命の再生を齎らしてくれるこの優しい、慈悲深い、親切な人を永久に自分の傍に引き留めておく爲めには世の
褒貶を冒して差支ないでせうか?」
私は答へた。「さすらひ人が安住し、罪ある人が改心するのには、人間の力を
あてにしてはならないのでございます。男も女も死にます。哲學者でも智慧の足りぬ事がございます。クリスト信者でも善の缺ける事があります。もしあなたの御存じの
誰方かゞ苦しんだり、
過失を犯してゐらつしやるのなら、人間以上の高いところにそれを償ふべき力と癒すべき慰藉を求めさすやうにしてお上げなさいまし。」
「しかしその手段――その手段です! 創業をなさる神はその手段を定めてをられる。私は私自身――
譬へ話なんぞは
止[#ルビの「よ」は底本では「や」]しませう――世俗的な、放蕩な、落着くことのない人間でした。で、私は信じてゐるのですが、自分の救ひの手段を、その――」
彼は口をつぐんだ。鳥は囀り續け、樹の葉は輕く搖れてゐた。私は彼等がこの中絶したお
告げを聞かうとその歌聲や囁きを止めないのを
訝しく思ふ程だつた。しかし彼等は長い間待たなくてはならなかつたであらう――そんなに沈默は長かつたのだ。遂に、私は、なか/\口を利かうとせぬ話し手を見上げた。すると彼はじつと私を見つめてゐた。
「小さなお友達、」と彼はまつたく變つた調子で云つた――同時に彼の顏もすつかりその優しさと嚴肅さをなくしてきつく皮肉な樣子に變つて來た――「あなたは私がイングラム孃に好い感情を持つてゐるのに氣が附いたでせう。もし私があの人と結婚したら、あの人は強く、私を再生させてくれるとは思ひませんか?」
彼は突然に立上つて路の向うの
端まで歩いて行つた。そして歸つて來た時には、彼は何か歌を口ずさんでゐた。
「ジエィン、ジエィン、」と彼は私の前に立ち止りながら云つた。「あなたは寢ずの番のせゐでひどく蒼ざめてゐますよ。あなたを寢かさなかつたんで私に怒つてやしませんか?」
「あなたに怒るのでございますつて? いゝえ。」
「その言葉が間違ひでない證據に、握手して下さい。何んて冷たい指だ! 昨夜私があの
怪しい部屋の入口で觸つた時にはもつと温かだつたのに。ジエィン、また
何時、あなたは私と一緒に、寢ずの番をしてくれるだらうなあ?」
「お役に立つときには何時でも。」
「例をあげれば、私が結婚する前の晩! きつと眠れないに違ひないと思ひますからね。私の話相手になつて一緒に起きてゐると約束してくれますか? あなたには私は自分の愛する者のことを話すことが出來る。何故なら今はあなたはその人を見てゐるし、知つてもゐるから。」
「さうでございます。」
「あんな人は滅多にありませんねえ、ジエィン?」
「左樣でございます。」
「きりゝとした女の人――
眞實にきりゝとした女の人だ、ね、ジエィン。大きくて、淺黒くて、快活で、カァセイジの貴婦人が持つてゐたに相違ないやうな髮を持つてゐる――おや! デントとリンとが厩にゐる! あの小門を通つて
灌木の林を拔けて行きなさい。」
私が一方の路を行くと、彼は他の方を行つた。そして中庭の方で快活に云ふのが聞えた――
「メイスンは
今朝諸君を出しぬいて出立しましたよ。日の出前でした。私は見送りに四時に起きたのです。」
豫感は不思議なものだ! そして、因縁もさうだ。前兆もさうだ。さうして、この三つの結合は、人間が、まだそれを解く鍵を見出してゐない神祕なものを造る。私は、生れてから決して、豫感を
嘲笑ふことはなかつた。何故なら、私自身にその不思議な經驗を持つてゐたから。因縁は、存在すると、私は信じてゐる。(例へば、遠く離れ、永い間逢はない、まつたく
疎遠になつた親戚の間に、日頃の疎遠に拘らず、素性を辿れば、源を
一にしてることを主張する)。その働きは、人間の理解の裏をかく。また、前兆は、恐らくは、自然の人間に對する因縁に外ならない。
私がまだ六歳の少女だつた頃、或る晩ベシー・レヴンがマルサ・アボットに、いま、小さな子供の夢を見たと話した。そして子供の夢を見ると、屹度自身かまたは自分の親族に何か心配するやうなことの起る確かなる前兆などと云つてゐるのを聞いた。その言葉はそれを裏付けるやうな事情が直ぐに起らなかつたなら、私の記憶から消え去つてゐたかも知れない。その次の日、ベシーは彼女の小さい妹の死の床に臨む爲めに、家に呼び返されたのであつた。
この頃私は頻りにこの話しとこの出來事を思ひ出した。何故なら先週中は殆ど一晩も赤ン坊の夢を見ないで眠つた夜はなかつたのだ。それが、或るときは私の腕に抱いてなだめてゐたり、あるときは膝にのせてあやしたり、またあるときは
芝生の上で
雛菊の花を持つて遊んでゐるのを眺めてゐたり、さうかと思ふとまた流れの中で手を水に
浸けてポチヤ/\してゐるところを見てゐるのだ。また今晩泣いてゐる兒を見るかと思へば、その次には笑つてゐる兒だつたり、今私の方にすりよつて來るかと思へばまた走り去るのであつた。しかしその夢に現はれるものがどんな氣分であらうとも、どんな樣子をしてゐようとも、それは續けざまに七晩も缺かさず私が眠に入るや否や現はれた。
私はこの一つの觀念の反復――この不思議な一つの幻影の繰り返し現はれるのが、
厭であつた。そして床に就くときが近づいて、またその幻の出る時間の迫るにつれ、私はだん/\神經質になつた。あの月の夜に叫び聲を聞いて起されたときには、私はちやうどこの子供の幽靈と一緒にゐたのであつた。そしてその翌日の午後、私は誰かゞフェアファックス夫人の部屋で私を待つてゐると云ふ使ひをうけて階下に
招ばれて行つた。行つて見ると、從僕らしい樣子の男が一人私の來るのを待つてゐた。彼は黒つぽい
喪服を着てゐて、手にした帽子には黒い
縮緬のバンドが卷いてあつた。
「多分もうお忘れでせうと存じますが、」と、私が這入ると立上りながら、彼は云つた。「私はレヴンと申します。八年か九年以前にあなたがゲィツヘッドにゐらした頃、リード夫人の馭者をしてをりました。そして、今も、まだ、あそこにをりますのですが。」
「あゝ、ロバァト! 今日は。よく憶えてゐますよ。あなたはヂョウジアァナさんの
栗毛の
仔馬に時々私を乘せて下さつたのね。そして、ベシーはどうしてゐて? あなたはベシーと結婚なさつたのね?」
「はい、お孃さん。ありがたうございます。家内は大變親切でございます。
彼女は二ヶ月許り前、また一人小さいのが出來ましてね――今三人なんでございます――母も子も
達者でございます。」
「それで、お家の方々は皆さま御達者ですの、ロバァト?」
「殘念ながら、皆さまのことではあまりいゝお知らせが出來ないのでございます。あの方々は今非常に惡くおなりなので――大變なことにおなりなのでございます。」
「どなたかお
亡くなりになつたんぢやないでせうね。」と私は彼の黒い服を見て云つた。彼もまた帽子に卷いた
縮緬に眼をやつて答へた――
「ジョンさんが、一週間前の昨日、お
亡くなりになりましたのです、
倫敦の御自分のお部屋で。」
「ジョンさん?」
「はい。」
「で、お母樣はまあどうして堪へてゐらつしやるでせう?」
「いえ、それがあなた、エアさん、ありふれた不幸ではないのでございますよ。あの方の生活は非常に
荒んでゐたのでございます。この三年來あの方は妙な途に這入り込んでしまはれたので、恐しい死に方をなさつたのです。」
「私も、ベシーから、あの方があまりいゝことをしてはゐらつしやらないとは聞いてゐました。」
「いゝことどころか、あれ以上惡いことはなされやしませんよ。あの方は
極惡人の男や女に交つて、健康も財産も臺無しにしてしまはれたのです。借金も拵へるし、牢にもお這入りになりました。二度ばかりはお母さまが救ひ出してお上げになつたのですが、しかし自由になるが早いか直ぐに以前の仲間や癖に
逆戻りなさるのです。あの方は頭のしつかりしてない方で、一緒の仲間だつた惡者共は聞いたこともない位あの方を大馬鹿者にしたのでございます。三週間ばかり前、あの方はゲィツヘッドへ歸つてゐらして、奧さまに財産全部を讓つて欲しいと仰しやつたのです。奧さまは
刎つけておしまひになりました。財産はもうずつと前からあの方の
亂行の爲めに失はれてゐたのです。それであの方はまた引返して行かれました。そしてその次の便りはあの方が
亡くなられたことだつたのです。どういふ風に
亡くなられたか誰が知りませう!――人々は自殺だと申します。」
私は沈默してゐた。恐ろしい
報せだつた。ロバァト・レヴンは續けた――
「奧さまは御自分でも暫く身體を壞してゐらしたのです。大變お
肥りになつてゐらしたのですが、それで御丈夫ではないのです。それにお金の損失や貧乏の不安などがすつかりあの方をがつかりさせてしまひました。ジョンさんの
亡くなられたことと、そのときの樣子の
報知が、あまり不意に參りましたので、それがお惡かつたのです。三日ばかりは、口もお
利きになりませんでしたが、先週の火曜日になるといくらかおよろしいらしく、何か仰しやりたいやうな御樣子で家内に向つて
始終何か身振をなさり、
呟いてゐらつしやいました。ですが、それがあなたのお名前を云つてゐらつしやるのだとベシーに分つたのはやつと昨日の朝でした。とう/\あの方は仰しやつたのです、『ジエィンを呼んで――ジエィン・エアを連れて來ておくれ、話したいことがある』と。ベシーは奧さまが正氣でゐらつしやるのか、そのお言葉が
本氣かどうだか、はつきりしなかつたのです。が、リードさんとヂョウジアァナさんとに話して、あなたをお呼びになつていたゞきたいと申上げたのです。お孃さま方は初めは
刎ねつけておしまひになつたのですが、お母さまがあんまりいら/\なすつて、幾度も幾度も『ジエィン、ジエィン』と仰しやるのでとう/\承知なさいました。私は昨日ゲィツヘッドを出て參りました。で、若し用意がお出來になりますなら、明朝早くお
供して歸りたいと存じますが。」
「えゝ、ロバァト、支度しませう。どうしても私が行かなくてはならないやうですから。」
「私もさう思ひます、お孃さま。ベシーはあなたはきつとお斷りにはならないと申してをりました。ですが、お
發ちになる前にお暇をお貰ひにならなくてはと存じますが?」
「えゝさう。今願つて來ませう。」そして彼を召使達の部屋に連れて行つて、ジョンの妻の手に
委ね、ジョン自身にも紹介しておいて、私はロチスター氏を探しに行つた。
彼は、階下の部屋には何處にもゐなかつた。中庭にも
厩にも、戸外にもゐなかつた。私はフェアファックス夫人に若しや彼を見なかつたかと
訊ねた――さう/\、確かイングラム孃と撞球をしてゐらしたと彼女は云つた。私は撞球室へと急いだ。球のかち/\といふ音や、がや/\云ふ聲などが其處から反響して來て、ロチスター氏、イングラム孃、イィシュトン家の二令孃、それにその二人を
禮讃する男達など、皆遊びに夢中になつてゐた。そのやうな面白さうな集りを妨げるには幾らかの勇氣が
要つた。しかし、私の用事は
延引出來ないものだつた。それで私はイングラム孃の側に立つてゐた
主人に近づいて行つた。彼女は私が近づくと振り返つて傲慢らしく私を見た。彼女の眼は「この蟲けらみたいな奴が今頃何の用があるのだ?」と云つてるやうであつた。そして私が低い聲で「ロチスターさま」と云つたとき彼女は今にも私を追ひ出しさうな身振りをした。私はそのときの彼女の顏付を憶えてゐる――それは實際優美で目の覺めるやうなものであつた。彼女は空色の青い
縮緬の朝の着物を着てゐて、薄い
空色のスカーフが髮にからんでゐた。彼女はその
遊びですつかり快活になつてゐたが、癪に障る傲慢さはそのつんとした表情を少しも
和げてはゐなかつた。
「あの人間があなたに何か御用なんでせう?」と彼女はロチスター氏に
訊ねた。そしてロチスター氏はその「人間」とは誰かと振り返つて見た。彼は何事かと云ふやうに眉をひそめて――彼の妙な、曖昧な表情の一つである――
竿を置き、私について部屋を出た。
「なに、ジエィン!」と彼は
閉ざした書齋の
扉に背をもたせかけて云つた。
「若しよろしうございましたら、一週間か二週間、お暇をいたゞきたいのでございますが。」
「何の爲めに?――何處へ行く爲めに?」
「私を呼びに
寄越しました病氣の女の人に會ふ爲めでございます。」
「どうした病人です?――何處に住んでるのです?」
「△△州のゲィツヘッドにをります。」
「△△州? それぢや百
哩も離れてゐる。そんな遠方からわざ/\呼びに
寄越す人つて誰です?」
「リードと申します――リード夫人と。」
「ゲィツヘッドのリード? ゲィツヘッドのリードと云ふ人がゐたつけ、地方長官の。」
「その人の未亡人なんでございます。」
「で、その人に何の用があるの? どうして知つてゐます?」
「リードさんは私の伯父でございましたの――母の兄なのでございます。」
「へえ、さうだつたんか! あなたは、今迄一度もそんなことを話さなかつた、親類なんぞ無いつて、
何時も云つてたでせう。」
「私を親類と認めてくれるやうな人は、一人もなかつたんですの。リードさんは
亡くなりました。そして伯母さんは私を捨てゝしまつたのです。」
「何故?」
「私が貧乏で、
厄介者で、それに私が嫌ひだつたからですわ。」
「しかし、リードは子供達を
遺してゐたでせう?――あなたには
從兄姉がある筈でせう。ジョオジ・リン卿が昨日ゲィツヘッドのリード家の一人に就いて話してゐましたが、その人は
倫敦でも札つきの
無頼漢の一人だつたと云つてゐましたよ。それからイングラムは同じ土地のヂョウジアァナ・リードつて人のことを話してゐましたが、一年か二年前
倫敦では美しいので大分評判だつたさうですね。」
「ジョン・リードも
亡くなりましたの。身を持ちくづして、家族の者まで大方駄目にしてしまつて、それに自殺したと云はれてをりますの。その
報せが甚く伯母さまにこたへて卒中にお罹りになつたのでございます。」
「それであなたが彼女に何の役に立つのです? くだらないことだ、ジエィン! 私だつたら、そんな、多分着く前に死んでるかも知れないお婆さんに會ひに
百哩の
道程を駈けつけるなんてことは決して考へはしない。それにあなたを捨てたんだつて
[#「捨てたんだつて」は底本では「拾てたんだつて」]云つたぢやありませんか。」
「えゝ、でも、それはずつと以前のことで、あの人の事情もまるで違つてゐたときのことなのでございますから。私は今あの人の願ひを聞き捨てにしては氣が安まりません。」
「幾日位
泊るのです?」
「なるべく、少うし。」
「一週間きりと約束なさい。」
「お約束はしない方が宜うございますわ。私、それを破らなくてはならなくなるかも知れませんから。」
「どんなことがあつても歸つて來るでせうね――どんな口實があつても、あちらに一緒に暮すなどゝいふことに誘はれはしないでせうね?」
「えゝ、決して! 若し何も彼もをさまりましたらきつと歸つて參ります。」
「それで誰がついて行きます? 百
哩も獨りぽつちで旅をしはしないでせうね。」
「えゝ、馭者を
寄越しましたの。」
「信用の出來る人間ですか?」
「えゝ、その男は、あの家に十年間も住んでゐるのでございます。」
ロチスター氏は思案した。「何時行く積りです?」
「明朝早く。」
「さう、ぢあ、お金を持つて行かなくては。お金なしでは旅行も出來ない。それにあなたはあんまり持つてゐない筈だ、まだお給金をあげてなかつたから――一體、いくら持つてゐるの、ジエィン?」と彼は
微笑みながら
訊ねた。
私はお金入れを取り出した。ずゐぶん貧弱だつた。「五志ですの。」彼はお金入れを取ると、その中味を掌の上に擴げて、そのぽつちりしかないのが嬉しいかのやうにくす/\笑つた。やがて彼は自分の紙入を取り出した。「これを。」と彼は一枚の紙幣を私に渡しながら云つた。それは五十
磅で彼が私に拂ふ分は十五
磅しか無いのであつた。私はお
釣錢が無いと云つた。
「お
釣錢なんぞは要らない、わかつてるでせう。お給金をお取んなさい。」
私はそれより以上いたゞくのは負債になるからと斷つた。彼は初めの中は
不興氣な顏をしてゐたが、やがて何か思ひ付いたかのやうに云つた――
「さうだ! さうだ! 今すつかりあなたに上げない方がいゝ。五十
磅持つて行つたら、きつと三ヶ月は泊つたつきりにするかも知れない。こゝに十
磅あるけれど、それで十分ぢあない?」
「えゝ、でもさうすると、今度はあなたが私に借りてらつしやることになりますけど。」
「ぢあ、それを貰ひに歸つていらつしやい。私はあなたの四十
磅の預り手ですからね。」
「ロチスターさん、私この機會にも一つ事務的なことを申上げたうございます。」
「事務的なこと? 聞きたいものですね。」
「近々に御結婚なさるといふことはもうお話し下さつたやうなものでございますね。」
「さうですよ。それがどうしたのです?」
「さうなりますと、アデェルは學校へ行かなくてはなりますまい。きつとその必要をお認めになると思ひます。」
「あの子を私の花嫁さまの邪魔にならないやうに
除けてしまふことですか。さもなければあんまりきつく踏みつけられるかも知れませんね。その提議にも一
理がある。確かにさうですよ。あなたが云ふ通りアデェルは學校へ行かなくちやならん。そしてあなたは勿論わき目もふらず――おさらばか?」
「私、さうなりたくはございません。でも、何處かに別の地位を見附けなくてはなりませんわ。」
「勿論!」と彼は聲を鼻にかけて、
異樣に滑稽に顏を
歪めて叫んだ。そして暫く私を眺めてゐた。
「そしてリード老夫人かお子さんの令孃かに口を探して下さいと、あなたは懇願されるのでせうね?」
「いゝえ、私とあそこの人達とはこちらの
便宜で頼んで差支へないやうな、そんな間柄の親類ぢやないのでございます。私は廣告いたします。」
「
埃及のピラミッドを登るやうなものだ!」と彼は怒つたやうに云つた。「廣告なんぞすると承知しませんよ! 十
磅の代りに一磅しきや上げあげなければよかつた。九磅お返しなさいよ、ジエィン。入用だから。」
「私も入用なんでございますわ。」と私はお金入れを持つた手を背後にやりながら答へた。「どんなことがあつてもこのお金は手離せませんわ。」
「けちんぼうだな!」と彼は云つた、「お金が欲しいといふ願ひを
刎ねつけるなんて! 五
磅お寄越しなさい、ジエィン。」
「五
志だつて――五
片だつていけませんわ。」
「ぢやあお金を見せるだけ。」
「いゝえ、いけませんわ。信用がならないのですもの。」
「ジエィン!」
「え?」
「一つだけ約束して下さい。」
「何でもお約束いたします、私に出來さうだと思ふことでしたら。」
「廣告しないこと、そしてこの仕事の口は私に
委せるといふことを。間に合ふやうに私が見附けて上げますから。」
「ぢあ、私も、奧さまがいらつしやる前に、私もアデェルも二人共お家から無事に出して下さいますなら、喜んでお約束いたしませう。」
「
宜しい!
宜しい! きつとですよ。ぢあ、明日
發つのですね?」
「えゝ、朝早く。」
「晩餐の後で、客間に下りて來ますか?」
「いゝえ、旅行の支度をしなくてはなりませんから。」
「ぢあ、しばらくの間の左樣ならを云はなくちやなりませんね?」
「左樣でございます。」
「では、人は別れの禮をどういふ風にするのでせうねえ、ジエィン。教へて下さい、私はよく知らないから。」
「左樣ならとかなんとか、
好きなやうに申します。」
「では、さう仰しやい。」
「左樣なら、ロチスターさん、當分の間。」
「私は何と云ふの?」
「同じにですわ、お宜しかつたら。」
「左樣なら、エアさん、當分の間。それだけ?」
「えゝ。」
「何だかけちくさくて、
素氣なくつて、よそ/\しいやうな氣がしますね。私は何かもう少しその挨拶に附け加へたいな。握手をしたら、例へて云へばね。だが駄目だ――それだつて私には十分ぢやない。ぢあ、たゞ左樣ならと云ふだけでいゝんですか。あなたは、ジエィン?」
「それで十分でございますわ。一
言でも心からのものなら幾言も云つたと同じ位に好意は傳へられますもの。」
「如何にもその通り。しかしそれぢあ、餘りに
素氣なくて冷たい――『左樣なら』ぢや。」
「何時までかうして、
扉に
凭れて立つてらつしやるお
心算だらう?」と私は思つた。「荷造りを始めたいのに。」
晩餐の
鈴が鳴つた。そして彼はその他に一言も云はずに俄に立ち去つてしまつた。その日中、私は彼に會はなかつた。そして翌朝彼が起きないうちに出發してしまつた。
ゲィツヘッドの門番の家に着いたのは、五月一日の午後五時頃だつた。私は
邸の方へ行く前に其處に這入つて行つた。そこは大變に清潔で小ざつぱりとしてゐた。飾窓には小さな白い
窓掛がかゝつてゐた。床は汚れ目もなく、
爐格子も爐道具もきら/\と
磨き上げてあり、火がちら/\と燃えてゐた。ベシーはこの間生れたばかりの兒を
守しながら爐の側に掛けてをり、ロバァトとその妹とは片隅でおとなしく遊んでゐた。
「まあ、よく!――きつと、いらつしやると思つてゐました!」と私が這入つて行くとレヴン夫人は叫んだ。
「えゝ、ベシー。」と接吻をしてから私は云つた。「もう間に合はないなんてことはないと思ふけれど。リード夫人はどんな御樣子?――まだ大丈夫、でせうね。」
「えゝ、大丈夫ですよ。そして今迄よりずつと意識がはつきりして、心も落着いてゐらつしやいますの。お醫者さまはまだ一週間か二週間位は持つだらうと仰しやるのです。でも結局、恢復なさるだらうとは、とても思つてはゐらつしやらないのです。」
「この頃、私のことを仰しやつて?」
「ほんの今朝方あなたのことを話して、あなたがいらつしやればいゝがと云つてゐらしたところですの。でも今は丁度十分程前に、私がお
邸にゐたときにはおやすみのやうでした。大抵午後中一種の
昏睡状態で横になつてゐらして、六時か七時頃にはお目覺めになりますの。此處で一時間ばかりお休みになつて、それから御一緒にまゐりませうか?」
そこへロバァトが這入つて來た。ベシーは眠つてゐる兒を
搖籠に寢かして彼を迎へに出て行つた。それから彼女は無理に私の帽子を
脱らせ、お茶をすゝめた。私が蒼ざめて疲れたやうに見えるからと彼女は云ふのである。私は彼女の親切を受けるのが嬉しかつた。そして、ちやうど、子供の頃
何時も彼女に着物を脱がせてもらつたやうに、私は、旅行服を
解いてもらふに
委せた。
彼女が
忙しく立働いてゐるのを――一番よい
珈琲茶碗を載せたお茶盆を取り出したり、パンをきつてバタをつけたり、お茶のお菓子を燒いたり、またその
合間々々には小さいロバァトやジエィンを、丁度昔何時も私にしてゐたやうにちよい/\輕く叩いたり押したりしてゐるのを見てゐると昔のことが思ひ出されるのであつた。ベシーは輕やかな足どりと、いゝ
縹緻と
[#「縹緻と」は底本では「緻縹と」]同樣、短氣な性格も相變らずだつた。
お茶の用意が出來て、私は
卓子の方へ行かうとしてゐると彼女は昔とまるで
異はぬ命令口調で私にじつと坐つてゐるやうにと云つた。私は
爐の傍で飮まなくてはいけない、と彼女は云ふのである。そしてまるで子供部屋の
椅子の上でそつと取つて來た御馳走を何時もよく私に供給してくれたやうに私の前にお茶のコップとトーストのお皿の載つた小さな圓い
卓子を据ゑてくれた。私は
微笑んで昔のやうに彼女の言葉に從つた。
彼女は、私がソーンフィールド
莊で幸福であるか、女主人はどういふ風の人かを知りたがつた。そして私が彼處にはたゞ御主人だけしかゐないと話すと、彼はいゝ紳士であるか、また私が彼を好きかどうかなどを知りたがつた。私は彼がどちらかと云へば
醜男の方であるが、しかし立派な紳士であること、また彼は私を親切に遇してくれ、私も滿足してゐるといふことなどを話した。それから私は續けてこの頃あのお
邸に
泊つてゐる賑やかなお客さまの話をして聞かせた。この話に彼女は熱心に耳を傾けて聽いてゐた――これは確かに彼女の喜ぶやうなものであつた。
そんな話しの内に一時間は忽ち過ぎてしまつた。ベシーは私の帽子やその他のものをちやんと元のやうにしてくれると、私はベシーに
伴はれてお邸の方へと番小屋を出た。今私が登つて行く
徑を、殆んど九年も前に下つて行つたときも矢張り彼女に連れられてだつた。薄暗い、霧のかゝつた、寒さが身に沁みるやうな一月の朝、絶望的な悲慘な氣持ち――追ひ出され斥けられたやうな、法律の保護もうけられず、また神にも見離された氣持ち――で私は敵のやうな家を後にして遠い見も知らぬ目的地の、ローウッドに、寒い
隱家を探して行つたのだつた。その同じ敵の家が今再び私の眼前に見えて來た。前途はまだ
定かならず、まだ私の心は
痛んでゐるのだ。今もまだ私はこの地上の放浪者のやうな氣がしてゐた。しかし自分自身に、そして自分の力にずつとしつかりした信頼を持つてゐることを、壓迫に對して
萎え恐れることの少くなつてゐることを感じた。私の受けた虐待の
創口も今はまたすつかりふさがつて
怨恨の

も消えてゐた。
「朝食のお部屋に先づいらつしやい。」とベシーは廣間を先に立つて行きながら云つた。「お孃さま方はそちらにゐらつしやいませうから。」
すぐに私はその部屋に這入つた。樣々の家具は私が初めてブロクルハースト氏に紹介されたあの朝とまつたく同じだつた。彼が立つてゐたあの敷物もまだ
爐邊に敷いてあつた。書棚をちらと眺めて、私はビュウイックの「英國鳥禽史」の二卷が三段目の昔の場所にあることも、「ガリヴァの旅行記」と「アラビアン・ナイト」とがその直ぐ上段に並んでゐることも、分るやうな氣がした。生命のないものは變つてはゐなかつた。しかし生あるものは見分けがつかない程に變つてしまつてゐた。
二人の若い婦人が私の前に現はれた。一人は非常に背が高く、殆んどイングラム孃位に高く――それに非常に痩せて蒼白く、
嚴しい顏付をしてゐた。彼女の樣子には何か禁欲的な風があつた。それがまた
飾氣のないスカァトの、黒い毛織の服や、
糊つけの
麻衿や
[#「麻衿や」は底本では「麻矜や」]、
額からかき上げられた髮やそれに尼僧のやうな黒い
珠數の紐と十字架の飾りの、極端に質素な樣子の爲めに、益々強められてゐた。その細長い蒼い顏には昔の彼女に似たところは殆んど見ることが出來なかつたが、これが確かにイライザだと私は思つた。
もう一人の方もまた確かにヂョウジアァナであつた。しかし私の覺えてゐるやうな――十一歳のたをやかな
妖女のやうな少女ではなかつた。これは滿開の花のやうな、むつちりとよく
肥つた娘で、蝋細工のやうに白く、美しい
整つた
顏立をしてゐて、氣力のない青い眼と、
捲いた黄色い髮を持つてゐた。彼女の服の色も矢張り黒だつた。しかし、その形は姉のとは
甚く異つてゐた――ずつとすらりとたれて
似合つてゐた――一方のが清教徒めいて見えるだけ、こちらは
しやれて見えた。
姉妹の兩方共、母親の面影があつた――一ところだけ。痩せて
蒼い姉娘の方は母親の
煙水晶の眼を受け、花やかな、みづ/\しい妹娘は顎と
頤の輪廓を受けてゐた――多分幾分かは
柔らか味はついてゐるが、それでもまだ顏付に何とも云はれぬ
苛酷なところが表はれてゐた。それさへなければ、非常に豐艷で快活だつたのであるが。
二人は私が這入つて行くと、私を迎へて立上つた。そして二人共私に「エアさん、」といふ名を呼んだ。イライザの挨拶は簡單な
素氣のない聲で、笑ひ顏もせずに、述べられた。そして彼女は再び腰掛けると爐の火を見つめたまゝ私のことは忘れたやうに見えた。ヂョウジアァナは「
御機嫌如何?」と云つて、二言三言私の旅行のことや、天氣その他のお
定り
文句を、どちらかと云ふとまだるい、
懶げな調子で附け加へた。その間にも、ちら/\と横目で、私の方を頭から足の
爪先まで見るのであつた――褐色メリノの
上衣の襞を見やるかと思ふと、コッティジ風の帽子の質素な飾りに目を留めたりするのであつた。若い女の人といふものは口にはその言語を出さずとも、
他人のことを「變物」だと考へてゐることを當人に知らせる非凡なやり方を知つてるものである。傲慢な樣子、冷やかな態度、冷淡な
語氣などが、いくら言葉や行爲に表はした無禮をしなくても、そんな點で自分達の氣持ちを十分に表はしてゐるのであつた。
しかし
内緒にしろ大つぴらにしろ、今や蔑視は、私の上に左右してゐた力を持たなくなつてゐた。私は二人の
從姉妹に間に坐つて、一方からは全然無視され、一方からは
半ば嘲るやうな眼で見られても自分の氣持ちは一向に平氣なのが不思議な氣がした――イライザが私を
口惜しがらせることもなく、ヂョウジアァナが私を狼狽させることもなかつたのである。
つまり、私は他に考へることがあつたのだ。過去數ヶ月の間、私の内には、彼等が私の心に起させ得るどんな感情よりも強いものが動いてゐたのである――彼等の力が與へ得るどんなものよりも、もつと/\鋭い痛切な苦しみや喜びである――だから彼女等の樣子は私には善くも惡くも何の關係もないものだつた。
「リード夫人はどんな御樣子ですの?」と、すぐ私は落着いて、ヂョウジアァナを見ながら
訊ねた。それが彼女にはまるで思ひもよらない失禮なことだつたかのやうに、彼女は、このうちつけな言葉に對して、つんと威張るべきだと思つたらしい。
「リード夫人? あゝ、母さまのことを云つてらつしやるの!
甚く加減が惡いんですの。あなた、今晩お會ひになれるかどうか分らないと思ひますわ。」
「若し、」と私は云つた。「あなたがちよいと二階へいらして私が來たことをお知らせして下さると嬉しいのですが。」
ヂョウジアァナは、殆んど
跳び上らんばかりだつた。そして青い眼を烈しく大きく

つた。「特別に私に會ひたいと思つてゐらつしやるのを私知つてをります。」と、私は附け加へた。「それに私に會ひたいと仰しやる
思召通りにするのを必要以上に延ばしたくはございませんから。」
「母さまは、夜、妨げられるのはお嫌ひです。」とイライザが云つた。私は、すぐに立上つて、すゝめられはしなかつたが、靜かに帽子と手袋をとつて、ちよつとベシーのところ――多分臺所にゐるだらう――へ行つて、リード夫人が今晩私に會ふ氣か否かを確かめて來ると云つた。出掛けてベシーを探し出して用事を話し、私はどん/\その上の處置をしてしまつた。今まで私は何時でも尊大にかまへられると、畏縮してしまふのが癖だつた。今日のやうな待遇でも受けようものなら、一年前にはもう翌朝直ぐにも、ゲィツヘッドを去る決心をしたに相違ない。今ではそんなことをするのは、馬鹿げた考へだといふことがすぐ私に分つた。私は伯母を見舞ひに百
哩の旅をして來た。そして彼女が
快くなるか――でなければ
亡くなるまで彼女の許に留つてゐなくてはならないのだ。彼女の娘達の傲慢や
愚行のことは、見過ごして、無關心でゐなくてはならない。そこで私は家婦に向つて、どこかの部屋に案内するやうに頼み、多分一週間か二週間此處に留らなくてはなるまいといふことを話し、旅行鞄を私の部屋に運んでもらつて私もそこ迄一緒に行つた。階段の
をどり場でベシーに遇つた。
「奧さまはお目覺めです。」と彼女は云つた。「あなたがいらしたことを申上げときました。あなたがお分りになるかどうか行つてみませう。」
私は以前あんなに幾度も
折檻や
懲戒の爲めに呼びつけられてよく知つてゐるあの部屋に案内してもらふ必要はなかつた。私はベシーの前に立つて急ぐと、そつと
扉を開けた。
蔽をかぶせた
燈火が
卓子の上に据ゑてあつた。もう暗くなりかけてゐるのだ。そこには昔の通りに、
琥珀色の
帷の掛つた大きな四本柱の
寢臺があり、化粧机があり、肘掛椅子があり、足臺があつた。私は幾度となく自分の犯さぬ罪のゆるしを願ふ爲めにその上にひざまづけと命令されたのであつた。小さな鬼のやうに
跳び出して顫へる私の
掌やすくめた頸すぢを
笞打たうと待ちかまへて、何時もそこに忍んでゐたあの昔恐れた鞭の細長い形を見ることを半ば豫期して、私は、眼近の
帷の片隅を覗いた。私は寢臺に近よつて、
帷を開けると
堆高く重つた枕の上に身を
屈めた。
私はリード夫人の顏はよく覺えてゐた。そして私は熱心にあの見なれた面影を探した。時がたつと復讐のねがひも消え失せ、
忿怒と嫌惡にはやる心も
默してしまふことは有難いことである。私は苦痛と憎惡の裡にこの女の許を立ち去つた。そして今は彼女の大きな憎みに對する一種の同情と、受けた傷は何も彼も許して忘れようとする――和解して仲好く手を握り合はうとする強い願ひをもつて、今彼女の所に歸つて來たのである。
よく知つてゐる顏は、昔と同じやうに
嚴しく慘酷にそこにあつた――どんなものも
和げることの出來ないあの特有の眼と、いくらか上り氣味の我儘らしい壓へつけるやうな眉であつた。幾度それが
威赫と憎惡をもつて私を睨んだことだらう! そして今その
險しい輪廓を眺めた時どんなにか子供の頃の恐怖と悲哀の追憶が甦つて來たことだらう! でも私は身を
屈めて彼女に接吻した。彼女は私を眺めた。
「ジエィン・エアなのかい?」と云つた。
「えゝさうですの、リード伯母さま。如何ですか、伯母樣?」
私は彼女を二度と伯母とは呼ぶまいと
嘗て誓つた。だが今となつてその誓ひを忘れて、破ることが罪だとは思はなかつた。私の指は、
敷布の外に出てゐる彼女の手をしつかりと握つてゐた。若し彼女が私のを
優しく握り返したなら、その瞬間にも、私は僞りならぬ喜びを感じたことだらう。しかし感じの
鈍い人間はなか/\急には心が
和げられず、持つて生れた反感はさうすぐにはなくならなかつた。リード夫人は手を引込めた。そして私から顏をそむけるやうにして暖い晩だと云つた。再び彼女は氷のやうに
冷やかに私を見た。私はすぐに私に對する彼女の意見――私に對する彼女の感情――は、變つてもゐないし、變へ得ないものだといふことを直ぐに感じた。私は彼女の石のやうな眼――
優しさに對して鈍感で、涙に
溶けぬ――を見て、彼女は最後まで私を惡く思はうと決心してゐることを知つた。何故なら私を善いものと信ずることは彼女に少しも寛大な
悦びを與へないで、たゞ屈辱の感を與へるのみだつたからだ。
私は苦痛を感じた。それから
忿怒を感じた。そしてその次には彼女に打ち勝たう――彼女の性質がどうあらうとも、意地が強からうとも、こつちが
上手に出ようといふ決心を抱いた。ちやうど子供の頃のやうに涙が湧いて來た。その涙に私は源へ歸れと命令した。寢臺の枕もとへ椅子を持つて來て、私は腰掛けて枕の上に身を
屈めた。
「私を呼びにお
寄越しになりましたのね。」と私は云つた。「それで私まゐりました。そしてどんな御經過か分ります迄ゐさせていたゞく積りでをりますの。」
「あゝ、勿論! 娘達には會つたんだらうね?」
「えゝ。」
「ぢや、私が考へてる事柄をお前と話せる迄お前に此處にゐて欲しいと私が云つてたと
彼女達にお云ひなさい。今夜はおそすぎる、それになか/\思ひ出せないから。だけど何か話したいことがあつたのだが――ちよいとお待ち――」
そのさ迷ふ眼付や變り果てた言葉つきは、あの頑丈な身體が、どんなにやつれ衰へたかを語つてゐた。落着かぬやうで寢返りをしながら、彼女は被せかけてある
夜具覆[#ルビの「ベッドクロオス」は底本では「ベットクロオス」]を引つ張つた。蒲團の一隅に
憇んでゐた私の
肘がそれを押へつけてゐた。すると彼女は急に腹を立てた。
「立つとくれ!」と彼女は云つた。「蒲團をきつく押へて私を困らせないでおくれ――お前、ジエィン・エアかい?」
「私、ジエィン・エアですよ。」
「私はあの子には誰も信じられない位に困らされた。あんな負擔が私の手に遺されるなんて――そしてあの了解出來ない性質と不意にかつとなる氣質とあの
始終變に人の動靜をうかゞふのとで、毎日毎時間どんなに私を惱ましたことか! 私は云ふけれど
彼女は何時ぞやまるで何か
狂氣のやうに惡魔のやうに私に物を云つたことがあるよ――あの子のやうな口を利いたり、風をしたりした子供はありやしない。あの子を家から出すのが私は嬉しかつた。ローウッドではみんなはあの子をどうしたのだらう。あの熱病が
流行り出して生徒達がたくさん死んだ。だがあの子は死にはしなかつた。なのに私はあの子が死んだと云つた――死んでゐてくれゝばよかつたのに!」
「不思議なお望みですね、リード伯母さま、どうしてそんなにお憎みになるのですの?」
「私はあの子の母が
何時も嫌ひだつたのさ。何故かと云へば、
彼女は私の
良人のたつた一人の妹で、おまけに大變なお氣に入りだつたから。彼女が身分の
賤しい者と結婚した時にも良人は一族の者が
彼女と縁を切ると云ふのに反對したんだよ。そして彼女が
亡くなつたといふ報らせが來た時には、あの人はまるで
莫迦者のやうに泣いたのさ。あの人は赤ン坊を呼びよせたいと望まれた。私は里子に出して養育費を出すやうにとお願ひしたのだけれど。私は最初一目見た時からあの子が憎らしかつた――病身らしい、めそ/\した、痩せこけた子だつた! それがまた何時も夜中
搖籠の中で泣き續けて――他の子供のやうに思ひつきり泣きわめくのぢやなくて、しく/\泣き呻いたんだ。リードは可哀相だと云つて、まるで自分の子のやうに
始終世話をしたり可愛がつてやつたりしてゐた――いえ、あの位の年の自分の子よりももつとずつと可愛がつてゐた。あの人は家の子供達を、あの小つぽけな乞食娘と仲好しにさせようとした。だが家の子供達はとても我慢出來なかつた。するとあの人は子供達が嫌がる樣子を見せると叱りつけるのだつた。あの人が最後の病氣をしたときには
始終寢床の傍に引きつけてゐた。そして
亡くなる一時間ばかり前に、あの人はあいつを置いておく、といふ誓ひで、私を縛つてしまつた。養育院から、貧民の
餓鬼を預つた方が増しな位だつた。だがあの人は弱かつた。生れつき弱かつた。ジョンはまつたく
父親似ではなかつた。私はそれが嬉しかつた。ジョンは私に似てるし私の兄弟に似てる――
彼は立派なギブスン家の人間なのだ。あゝ彼がお金をくれといふ手紙で私を
苛めるのを止してくれゝばいゝのに! 私にはもう
彼にやるお金は無い。家は貧乏になりかけてゐる。召使達は半數位暇を出さなくてはならない。そして
家作もいくらか疊むか貸すかしなくてはならない。私は暮らしを
縮める氣にはなれない――けれど私達はどうなつて行くのだらう。私の收入の三分の二は、抵當の
[#「抵當の」は底本では「低當の」]利子に拂ひ込んでゐる。ジョンは滅茶苦茶に
賭事をして何時もとられてばかり――可哀相な子! あの子は
詐欺師に取圍れてゐるのだ。ジョンは臺なしにされ、墮落させられてしまつてゐる――あの子の顏は身顫ひがするやうだ――私はあの子を見ると恥かしくて顏が赧くなる。」
彼女はだん/\興奮して來てゐた。「私もうあつちへ行つた方がいゝやうですね。」と私は寢臺の向う側に立つてゐるベシーに云つた。
「それの方がいゝかも知れませんね、お孃さん。ですが、夜になつて來ると、よくかういふ風にお話しになるんですの――朝方はかなり靜まられますが。」
私は立ち上つた。「お待ち!」とリード夫人は叫んだ。「まだ話したい事があるのだよ。
彼は私を
脅かす――
始終々々彼は死ぬと云つて、でなければ私を殺すと云って、私を
脅す。そして私は時々
彼が咽喉に大きな傷を拵へてるのや、むくんだ紫色の顏になつてる夢を見る。私は途方に暮れてゐる。私は重い苦勞を持つてゐる。どうしたらいゝのだらう。どうしてお金を拵へよう。」
そこで、ベシーは、彼女に
鎭靜劑を一杯飮ませようとした。そして、やつとのことで成功した。やがて、直ぐにリード夫人は、前より落着いて來て、うと/\となつた。それで私は出て行つた。
再び私が彼女と話をするときもなく十日以上の日が經つてしまつた。彼女は熱に浮されてゐるか、さもなければ昏睡状態が續いて、お醫者は何に依らず彼女を苦しめて興奮させるやうなものを禁じた。その間にも私は出來得る限りヂョウジアァナとイライザとによくして行つた。二人共まつたく初めの内は冷淡だつた。イライザは半日は縫物、讀書、でなければ書きものに坐つたまゝ私にも妹にも殆んど口を
利かなかつた。ヂョオジアァナは一時間毎に彼女のカナリアに
他愛もないことを
喋べつてゐて、私を振り向きもしなかつた。しかし私はすることや
樂しみがなくて
手持無沙汰に見えないやうにしようと決心してゐた。私の持つて來てゐた畫の道具が仕事と樂しみの兩方の役に立つてくれた。
鉛筆入と幾枚かの紙を用意して、私はいつも彼等から離れて窓際に席を占め、熱心に想像畫を描いた。二つの岩間にちらりと見える海、
昇りかけた陽とその圓い形を横ぎつて行く舟、一かたまりになつた
蘆と
菖蒲とそこから出てゐる蓮の花の冠をつけた水の女神の頭、
山櫨の花環の下の
籬雀の巣の中に坐つてゐる妖精など、くる/\變つて行く想像の五色
眼鏡に刻々と寫つて來る樣々の景色を描いた。
ある朝、私は、一つの顏を描きはじめた。どんな種類の顏になるか、私は、氣にも留めなかつたし、知らなかつた。
柔かい黒の鉛筆をとつて、先を太くして、そして仕事にかゝつた。やがて、私は、紙の上に廣い大きな額と角ばつた顏の下半分の輪廓を描いた。その形が氣に入つて、私の指はそれに目鼻を附けようとどん/\進んだ。濃い眞直な眉はその
額の下に描かれなくてはならない。それから次には當然鼻すぢの通つた
鼻孔の張つたはつきりした鼻が來る。その次には
柔軟な、無論引きしまつた唇、その次には中程の下にきゆつとくぼみのあるしつかりした顎、無論黒色の顎髯が要る。それからこめかみのところにふさ/\となつて額の上に波打つてゐる黒い髮が要る。今度は眼である。それは最後まで殘しておいたものだつた。一番注意して描かなくてはならなかつたからである。私はそれを大きく、いい恰好に描き、
睫毛は長く暗い陰をつくり、瞳はつやを帶びて大きくした。
「よし、しかし、まだ實物の通りとは行かない。」私は出來上りを眺めてさう思つた。「もつと力強さと
鋭氣がなくては。」そして私は、眼の輝きが、もつと、はつきりきらめくやうに陰を濃くした――
上手に一筆二筆でうまく出來上つた。もう私の眼の前には、お友達の顏がある。あの若い女の人達が私に背を向けようとそれが何だらう。私は、それを見て、今にも物を云ひさうな程生き寫しの顏に向つて
微笑んだ。私は、それに心を奪はれ、滿足してゐた。
「それは
誰方か御存じの方の肖像?」とそつと私の傍によつて來たイライザが
訊ねた。それはたゞ想像して描いた顏だと答へて急いで他の紙の下に入れてしまつた。無論私は嘘を吐いたのだ。本當はそれは非常に念を入れたロチスター氏の肖像であつた。しかしそれが私以外の彼女にとつてまたは他の誰かにとつて何であらう? ヂョウジアァナも見にやつて來た。他の畫は大分彼女の氣に入つたが、それのことは「みつともない人」と云つた。二人共私の技に驚いたらしかつた。私は彼等の肖像を寫して上げようと申し出た。そして二人は交る/″\鉛筆の下書きをするのに坐つた。やがてヂョウジアァナは自分のアルバムを持ち出した。私は水彩畫を一枚
贈らうと彼女に約束した。それが忽ち彼女を上機嫌にした。彼女は邸内を散歩しようと云ひ出した。二時間外に出てゐるうちに、私共はすつかり打明け話までしてしまつた。彼女は二年前
倫敦で過した
華やかな冬のこと――そこで彼女が湧き立たせた稱讃――彼女の受けた人々の注目などの樣子を話して私に好意を見せてくれた。そして私は彼女が有爵の人の愛を得たといふ
仄めかしさへ聞かされたのであつた。午後が過ぎ、夕方になるにつれて、この仄めかしはだん/\おまけがついて行つた。樣々の甘い會話が報告された。感傷的な場面が描き出された、そして、まあ簡單に云へば、社交界小説の一卷が私への惠みの爲めに彼女によつてその日即席に作られたのであつた。その消息は日毎に繰り返された。何時も/\同じ主題を繰り返すのであつた――彼女自身、彼女の戀、そして嘆き。不思議なことには彼女はかつて一度でも母親の病氣のことにまたは兄の死にまたは家族の前途についての現在の暗い有樣に
言及したことがなかつた。彼女の心は過去の快樂の追憶談に將來の道樂の望みにまつたく奪はれてゐるらしかつた。彼女は毎日母の病室に五分間ばかりゐるきりであつた。
イライザはまだ口を
利かなかつた。明らかに彼女には話をする暇がなかつたのである。彼女のやうに
忙がしさうな樣子をした人間を私は見た事がなかつた。しかし、何をしてるかを云ふことは、いや、寧ろ彼女がせつせとやつてることの結果がどうなるのかを見るのは、困難なことだつた。彼女は朝早く起きるやうに目醒時計を持つてゐた。朝食前に彼女が何うしてゐるのか知らなかつたが、食後、彼女は時間を規則正しい部分に割り當てゝゐた。日に三度彼女は
小型の本を勉強した。それをよく見ると通俗祈祷書、英國々教の禮拜式の次第を記した本であつた。ある時私はその本の何が
甚く人を惹きつけるのかと
訊ねてみた。すると彼女は「禮拜規定」だと云つた。三時間は、黄金の針で殆ど敷物になる位廣い四角形の深紅の布に
縁飾をするのに使つた。その品物の用途に就いて私が訊ねると、答へるには、近頃ゲィツヘッドの附近に
建つた新しい教會の祭壇に掛けるものだと云つた。二時間は日記をつけるのに、二時間は自分で菜園に出て働くのに、そして一時間は帳簿の整理に當てた。彼女は友達も話も欲しくないらしかつた。彼女は彼女なりに幸福だつたらうと思ふ――このおきまりの仕事で彼女は十分だつたのだ。そしてそのゼンマイ仕掛の規則正しさを變へなくてはならないやうにする出來事が何か生ずる程彼女を惱ますものはなかつた。
ある晩いつもよりは打解けた氣持のときにジョンの行爲と一家破産に瀕したことは彼女にとつて深い苦惱であつたと彼女は話した。しかし今は心を落着けて決心してゐると云つた。自分の財産は貯蓄してあるから、母が
亡くなつたら――恢復することも長持ちすることもまつたくあり得ないことだから、と彼女は平氣で云つた。――長い間
懷いてゐた計畫を實行する積りだと云つた。規則正しい習慣が永久に妨げられることのない
退隱所を探して彼女と輕佻な世間との間に安全な障壁を設けようといふのである。ヂョウジアァナも一緒に行く積りなのかと私は
訊ねてみた。
「無論行きはしません。」ヂョウジアァナと彼女とはまつたく共通な點がない。決してない。いくら報酬をもらつても、ヂョウジアァナと附合ふ負擔は彼女は負はないだらう。ヂョウジアァナは自分の
途を行くべきだし、彼女は、イライザは自分の途をとる積りだらう。
ヂョウジアァナは、思つてゐることを私に打明けないときには大抵
安樂椅子の上にねそべつて、家の退屈なことにぢれたり、伯母さんのギブスンが街へ來るやうにと招待状をくれゝばいゝと繰り返し/\云つたりしてゐた。「若し一ヶ月か二ヶ月の間、何も彼も濟んでしまふ迄どこかへよけてゐられさへしたらどんなにいゝだらう。」と彼女は云つた。私は「何も彼も濟んでしまふ」がどんな意味か
訊ねなかつた。しかし彼女は豫期してゐる母の死とそれに續いて來る陰氣なお
葬ひを指してゐるのだと私は想像した。イライザは大抵のとき、そんな不平らしく、
呟いたり、のらくら寢そべつたりしてゐる相手が、自分の前にゐないかのやうに、彼女の妹の怠惰や愚痴を氣にも留めなかつた。しかし、ある日、帳簿をしまつて
縁縫を擴げながら彼女は突然に妹を次のやうに非難した――
「ヂョウジアァナ、あなたのやうに世間の場所ふさぎになる仕樣のない動物つたら決してありはしないわ。あなたのやうな役に立たずは生れて來る權利なんぞありはしない。理性のある人間が當然しなくてはならないやうに、自分の爲めに、自分の内に、自分と共に生きて行く代りに、あなたは自分の弱さを誰か他人の力に捲き付けようとばかりしてゐる。男でも女でも、そんな
肥つちよの、弱蟲の、
自惚の強い役に立たずを
背負ひ込まうつて人が見附からないと、あなたは虐待されたとか無視されたとか
慘めだとかつて喚き立てるのでせう。それからまたあなたにとつて人生といふものは
始終變つてゐて大騷ぎしてなくちやならないのよ。でなきやこの世は牢屋ですからね。人から禮讃されなくちやならない、機嫌をとつてもらはなくちやならない、
諂つてもらはなくちやならない――音樂にダンスに交際社界がなくちやならない――でなければがつかりして
滅入り込んでしまふ。他人の努力、他人の意志とまつたく關係なく自分を獨立させる方法を工夫するやうな
[#「工夫するやうな」は底本では「工風するやうな」]氣持は、あなたにはないの? まあ一日をとつて、それを幾つかに分けて御覽なさい。その各部に仕事を割當てゝ、十五分でも、十分でも五分でも使ひ途のない時間を殘さないで――みんな入れて、それ/″\仕事を順次に秩序立てゝきちんと規則正しくやつて御覽なさい。その日は明けたかと思へばもう暮れるでせう。そして人の助をかりて無駄な時間をつぶす世話も要らない。友達もお喋べりも同情も度量も欲しがることは要らない。一口に云へば、獨立した人間がしなければならないやうに生活したのです。この忠告をおきゝなさい――私があなたに云ふ最初で最後のですから。さうすれば何事が起らうとも私も要らなければ他の誰も要りません。なほざりにして――今迄の通りに泣きついたり、泣聲を出したり、のらくらしてゐて御覽なさいよ――あなたの仕出かした痴愚の結果がやつて來るから。それは、でも隨分いやな、堪へられないやうなものでせうよ。私はこのことははつきり云つておきますからね。きいておきなさいよ。何故つて、今私が云はうとしてゐることはもう二度と繰り返さないでも、私はきつとそれに
基いて行動を取りますからね。母が
亡くなつた後は私はもうあなたから手を引いてしまひますよ。お
棺がゲィツヘッド教會の地下室の納棺所に
運ばれたその日から、私達はお互にまるで知らない人同志だつたやうに離れ/″\になるのです。私達が偶然に同じ兩親によつて生れたといふ理由でもつて、あなたが極く僅かな
縁故を云ひたてゝ、頼つてくれば、そのまゝ私が寄せつけようなどゝは考へないで下さいよ。このことは云へます――若し私共だけ除いて全人間がゐなくなり、私共二人つきりが地上に立つやうになつたとしても、私はあなたを古い世界に殘して、自分は新しい世界へ行く積りです。」
彼女は口をつぐんだ。
「そんな
長談義を、わざ/\して下さらなくてもよかつたのに。」とヂョウジアァナは答へた。「あなたが世界中で一等勝手な、無情な人間だつてことは、誰だつて知つてゐます。そして私だつてあなたが私を
意地惡く憎んでることは知つてゝよ。あなたがエドヰン・ヴィア卿のことで先づ私に
企んだたくらみがいゝ
證だわ。あなたはあたしが、あなたより身分が高くなることや、爵位がつくことや、あなたが思ひ切つて顏出し出來ない社會に持てることが堪らなかつたんでせう。だからあなたは
間牒や密告者の眞似をしたのでせう。そして永久に私の未來を
害ねてしまつたのでせう。」ヂョウジアァナはハンケチを取出して、その後一時間位も鼻をかんでゐた。イライザは
冷やかに平氣な顏をして坐つたまゝせつせと仕事をしてゐた。
眞實な寛大な感情はある人々には輕んじられてゐる。しかしこゝにゐる二人の人間は、それを缺いてゐる爲めに、一人はこの上もなく辛辣な性質となり、一人は情ない程味も
素氣もない性質となつてしまつた。判斷力のない感情はまつたく水つぽい藥である。しかしまた感情に
和らげられぬ判斷力は、人間がのみ込むには、あまりに、苦くひからびた一片の食物である。
雨の降る風まじりの午後のことであつた。ヂョウジアァナは小説を讀み乍ら安樂椅子の上に眠り込んで了ひ、イライザは新しい教會の祭日の禮拜に出掛けて、ゐなかつた――宗教の事では、彼女は大變な禮式固持者だつたから。どんなお天氣でも彼女が信心のお勸めだと云ふものをきちんと果すのを妨げた事は無かつた。晴れても降つても毎日曜三度、それに平日でも祈祷會のある度に禮拜に行くのであつた。
私は殆んど打つちやらかしのやうに横になつてゐる、今にも死にさうな病人がどんなになつてゐるかを見に二階へ行かうと思つた。召使達も思ひ出したやうに時々氣を附ける位で、
雇ひ込んだ看護婦も一向に監督されないので暇さへあればそつと部屋を出てゐるのであつた。ベシーは忠實だつた。しかし自分の家族のことも、氣を附けなくてはならないので、ほんの時々しか
邸に來ることが出來なかつた。思つた通り、病室は
放つたらかしで看護婦もゐなかつた。病人は
身動きもせず昏睡してるかのやうに、横になつて、蒼ざめた顏は枕に埋もれ、火は
爐格子の中に消えかけてゐた。薪を入れ足し、
夜着を直して、今は私を見つめる力もなくなつて了つてゐる彼女をしばらく私は眺めてから、窓際の方へ歩いて行つた。雨は
甚く窓硝子に打ちつけ、風も強く吹いてゐる。「間もなく地上の出來事と戰の彼方に行く人が彼處に横はつてゐる。あの魂――今肉體の住家を去らうともがいてゐる――は、遂に解放されたときには、何處に移つて行くのであらう?」と私は思つた。
この大きな神祕について考へてゐるうちに私はヘレン・バーンズのことを思つて彼女の言葉――彼女の信仰――肉體を離れた魂は平等だといふ彼女の説などを思ひ起した。なほも私は心の中であのよく憶えてゐる調子に耳を澄まし――なほも私は彼女が
穩かな死の床に横はつて、天の父の
懷に甦らせて欲しいと熱望してゐた時の
蒼白い
聖らかな容貌、痩せ衰へた顏、崇高な眼付などを描いてゐた――その時に背後の寢臺から弱々しい聲がした。「誰だい?」リード夫人が、幾日も物を云はなかつたのは私も知つてゐた。彼女は恢復して來たのだらうか? 私は彼女の方に行つた。
「私ですの、リード伯母さま。」
「誰――私とは?」といふのが返事であつた。
「お前は誰?」と
訝しげに、驚きながらも
狂氣じみた樣子もなく私を見上げて、「お前は私のまるで知らない人だ――ベシーは何處にゐるの?」
「番小屋にをりましてよ、伯母さま。」
「伯母さま、」と彼女は繰り返した。「私を伯母と呼ぶのは誰だらう。お前はギブスン家の人ではない。だけど私はお前を知つてゐる――その顏、その眼、
額はよく知つてゐる。お前は丁度――さうだ、お前はジエィン・エアに似てゐる!」
私は何も云はなかつた。同一の人だと云つて、ひどく驚かせてはと思つたからである。
「だが、」と彼女は云つた。「間違ひかも知れない。私の氣の迷ひだ。私はジエィン・エアに會ひたいと思つた。そしてありもしない
似通つた點を想像してゐる。それに八年もの間にはあの子は隨分變つてゐる筈だし。」そこで私は靜かに私が彼女の推定した、また、さうであるやうにと望んだ人間であることを
納得させた。そして私が分つて、彼女の意識もすつかりはつきりしたのを見て、私はベシーがソーンフィールドから、私を連れて來る爲めに彼女の
良人を
寄越した次第を説明した。
「私は
甚く惡いんだよ。」と彼女は少し經つて云つた。「少し前に私は寢返りをしようとしたけれど手足を動かすことが出來なかつた。死ぬ前には心も樂にしなくてはならない。丈夫なときには殆んど考へもしなかつたことが今の私のやうなときには
負擔になる。看護婦はゐるの? それともお前きりしかこの部屋にはゐないの?」
私だけだと云つてきかせた。
「さうかい、私は今は後悔してゐるのだけれど二度までお前に惡いことをしてゐるのだよ。一つはお前を自分の子供同樣に育てると
良人に云つた約束を破つたこと、も一つは――」彼女は云ひ止めた。「結局、大して重要なことではないかも知れない、」と
獨り呟いた。「そして、やがて私が
快くなる、そして、彼女の前に自分を
賤しいものにするのはたまらない。」
彼女は位置を變へようとしたが駄目だつた。彼女の顏が變つて來た。彼女は何か内心の感動を經驗してゐるらしかつた――多分末期の苦痛のさきがけであらう。
「さうだ、私は打ち勝たなくてはならない。私の前には永遠がある。話してしまつた方がいゝ。――私の
衣裳箱のところへ行つて、開けて、其處にある手紙を出しておくれ。」
私は彼女の云ふ通りにした。「その手紙をお讀み。」と彼女は云つた。
それは短いもので、次のやうに云つてあつた――
『奧さま――失禮乍ら小生の姪、ジエィン・エアの住所とその近況をお報らせ下されまじく候や。近々書面にてマデイラなる小生が
許に來るやう申したき意志に御座候。小生事
僥倖にも
相應の資産獲得いたし候も、妻もなく、子もなければ、小生生存中は養女となし、死後は
遺す可き物は何物によらず讓り渡し度く存じ居り候。小生は、云々
ジョン・エア・マデイラ』
日附は三年前になつてゐた。
「どうして私このことを聞かなかつたのでせう。」と私は
訊ねた。
「お前が仕合せな身分になるのに手を貸してやるのが堪らない程、私は心の底からお前が嫌だつたからなんだよ。お前が私に對する振舞ひを私は忘れることが出來なかつた。ジエィン――いつぞや私に刄向かつて來たときの、あの
狂氣じみた怒り方を。世界中で一番惡い人間だと私を嫌つたあの口調を。私のことを考へると氣持が惡くなると云つた、私が
淺ましい程
酷くお前に當ると云ひ張つたときのお前のあの
小兒らしくない眼付と聲を。私はあんな風にお前が赫となつてお腹の中の憎しみを吐き出したときの私自身の感動を忘れることが出來なかつた。私はまるで、私が打つか押しのけるかした
獸が、人間の眼をして私を見上げ、人間の聲で私を呪つてゐるやうな恐しさを感じた。――水を持つて來ておくれ! あゝ、早くして!」
「リード伯母さん、」と私は彼女の求める水を出し乍ら云つた。「もうこんなことは何もお考へにならないで、忘れてしまつて下さいまし。私の
甚い言葉もお許し下さい。私もあのときは子供でしたけれど、あの日から八年、九年經つてをります。」
彼女は私の云ふことには耳をかさなかつたが、水を飮んで息をつくと、次のやうに話を續けた――
「私はあのことを忘れることが出來ないと云つた。そしてその返報をした。お前が叔父さんに養はれて安樂な身の上になるのは私には我慢の出來ないことだつたから。私は向うに書いてやつた。失望させてお氣の毒だけどジエィン・エアは
亡くなつた、ローウッドでチブスに
罹つて
亡くなつたと云つたのだよ。さあ、どうとも好きなやうにしておくれ。手紙をやつて私の云つたことに反對おし――今直ぐにも私の
嘘言をおあばき。お前は私をいぢめる爲めに生れて來たのだ。私の
死際は、お前さへゐなかつたら
犯す氣にもならなかつたらうと思はれる惡い行爲の記憶の爲めに責めさいなまれてゐる。」
「そんなことはもう考へない氣になつて下さつたら、ね、伯母さま、そして好意をもつて勘忍して私のことを考へて下さることがお出來になつたなら。――」
「お前はほんとに
性惡だ。」と彼女は云つた。「そして今日迄私にはどうしてもわからない人間だ。どうして九年の間どんな目に
遇つても我慢して一言も云はないでゐて、十年目にありつたけの鬱憤を晴らすことが出來るか、私にはどうしてもわからない。」
「私はあなたがお考へになるやうに
性惡ではないのです。私は激し易いのですけれど、執念深くはありません。小さかつた頃、幾度も/\、あなたさへ受け入れて下さつたら喜んで私はあなたが好きになつたに相違ありません。そして今は、あなたと打解けたいと心から願つてゐます。
接吻して下さいましね、伯母さま。」
私は頬を彼女の唇に近よせたけれど、彼女はそれに
觸らうともしなかつた。彼女は私が寢床に
凭れかゝつて抑へつけると云つて、再び水を欲しがつた。彼女を寢かして――彼女が水を飮んでゐる間私は彼女を起して腕に支へてゐたのである――私は彼女の氷のやうに冷い濕つた手を私の手にとつた。痩せ細つた指は、私の手から引込められ、――きら/\した眼は私の視線を避けた。
「それでは私をお愛しにならうとお憎みにならうとお好きなやうになさいまし。」とう/\私はさう云つた。「私はすつかり心からあなたをお許しゝてをります。今は神さまのお許しをお願ひになつてお落ち着きなさいますやうに。」
可哀相な受難の女! 今は習慣になつた考へを變へようと努力することは彼女には遲すぎたのだ。生きてゐるとき、彼女は私を憎みつゞけた。死に面しても、彼女は未だ私を憎まなくてはならない。
そのとき看護婦がベシーを後に這入つて來た。それでも私は何か親和の徴候が見えないかと願ひ乍ら半時間ばかりも留つてゐた。しかし彼女は何も示さなかつた。彼女は深い昏睡に落ちたまゝ、再び意識を囘復することもなく、その夜の十二時に息を引取つてしまつた。私は彼女の
死目に會はなかつた。娘達は孰れもゐなかつた。二人は翌朝私の許に何も彼も終つたことを告げに來た。そのときにはもう彼女は入棺されてゐた。イライザと私は、彼女に會ひに行つたが、大きな聲で
泣き出したヂョウジアァナは到底行けないと云つた。サラア・リードの嘗ては立派で元氣だつた體が、硬くなつて動かず横はつてゐた。
燧石のやうな眼は冷い
眼瞼に覆はれ、額やしつかりした特徴のある目鼻立ちの面影には、未だその頑固な魂の影が殘つてゐた。その
亡骸は私にとつて、不思議な、嚴肅なものであつた。私は暗い
痛ましい氣持でそれを見つめた。それは柔和な、快い、憐れみ深い、希望にみちた心を鎭めるやうな、それらの感じを、何一つ人に與へなかつた。たゞ彼女の苦難――私の損失ではない――に對する、ゐても立つてもゐられぬやうな
焦立しい思ひと、そのやうな
死態の恐しさを見る、暗い無情な恐慌ばかりであつた。
イライザは、平然として母親を眺めてゐた。
少時默して後、彼女は云つた――
「あんな體質なら十分年をとるまで生きてゐる筈だつたのに、苦勞が生命を縮めたのですね。」そしてちよつとの間
痙攣が彼女の口元を引きつらせた。それが過ぎ去ると彼女は
踵を返して部屋を出て行つた。そして私も同じやうに出た。私共の誰一人もが涙一滴落さなかつた。
ロチスター氏は一週間の暇しか許してくれなかつたけれど、私がゲィツヘッドを立去らぬうちに早一ヶ月は過ぎてしまつた。お
葬ひの後私は直ぐに
發たうと思つてゐた。しかしヂョウジアァナは、妹の埋葬の
指圖と家事萬端の處理との爲めにやつて來た伯父のギブスン氏に今度いよ/\
招かれて
倫敦に
發つことが出來るまでゐてくれるやうにと私に懇願したのである。ヂョウジアァナはイライザと二人つきりになるのが恐ろしい、と云つた。彼女の憂鬱に同情もしてくれない、恐ろしい時の
支へにもなつてくれない、また支度の手傳もしてくれないと云ふのであつた。そこで私は出來るだけ彼女の意志薄弱な嘆きや勝手な悲歎をこらへて、縫物をしてやつたり着物の荷造りをしたり、出來る限りのことをした。私が仕事をしてゐる間いつも彼女が
怠けてゐるのは事實だつた。私は獨り思つた。「若しあなたと私とが、
始終一緒に暮らすやうに定められてゐたのだつたら、
從妹よ、私共は、今とは異つた足場に立つて事をはじめたでせうよ。私は勘忍強いお相手になつておとなしく
靜つてはゐなかつたでせう。あなたに仕事の分前を割當てゝ、それを完成するやうに強制し、さもなければ未完成のまゝ
放つておいたでせう。それからまた、あのくだらない、半分も誠意のない不平を御自分の胸の中に收めておくやうにと云つたでせう。こんなに我慢しておとなしく役に立つてあげるのを許してゐるのは、私共の間柄がほんの一時的のもので、特別に悲しいときに遭遇したからなんですよ。」
とう/\私はヂョウジアァナを送り出した。しかし今度はイライザの番で、彼女は私にもう一週間ゐてくれと頼んだ。彼女の時間も注意もすつかり計畫の方にとられてゐると彼女は云つた。彼女はある未知の目的地に
發たうとしてゐるのだつた。そして終日自分の部屋に這入つたまゝ
扉を内側からとざして、旅行鞄に荷をつめたり、
抽斗を
空にしたり、紙を燒いたりしてゐて、誰とも口を
利かなかつた。彼女は私に家の世話や、來客に會ふことや、お
悔み状の返事を書くことなどを頼んだのである。
ある朝彼女は私に用はなくなつたと云つた。「そして、」と彼女は附け加へた。「大變役に立つて下さるし、行屆いた管理をして下さつて有難う。あなたのやうな方と御一緒に暮すのとヂョウジアァナとゐるのとでは大分違ひますわ。あなたは世の中にあつても御自分の本分をお果しになつて、誰の
厄介にもおなりにならない方です。明日、」と彼女は言葉をつゞけた。「私は大陸へ出發します。そして、リスルの近くにある修道院――あなた方が尼寺とお呼びになる――に住居を定めます。其處で靜かに落着いて邪魔されることもなしにゐませう。私は當座の間はロオマン・カソリックの
教義の試驗の爲めと、それとその教義による制度の運轉の工合をよく研究する爲めに專心になるつもりです。もしそれが私の思ひ通りで、私は半分疑つてるのですけどね、萬事を儀禮正しくきちんとしてゆくのに最上の組織だと云ふことが分りましたら、私はローマ教のお弟子になつて、多分尼さんになるでせうもの。」
私はこの決心をきいて驚いたとも云はなければまたそれを思ひ止まるやうにと
勸めもしなかつた。「その仕事は、あなたにはまつたくよく合つてゐるでせう、」と私は思つた。「それであなたが幸福になれますやうに!」
別れるときに彼女は云つた。「左樣なら、
從妹のジエィン・エア、御機嫌よう。あなたは譯の分つた方ね。」
そこで私は答へた。「あなたも譯の分らない方ぢやありませんわ。
從姉のイライザ。でも多分あなたの持つてらつしやる分別は來年あたりは佛蘭西の尼寺の中にそのまゝ閉ぢ籠められてゐるのでせうね。だけどそれは私のことではありませんから、あなたにはお
似合でせう。私は大して氣にかけもしません。」
「その通りですよ。」と彼女は云つた。そして、この言葉で私共は別れて
各自の途を行つた。もう二度と彼女にもその妹にも言及する機會は無いだらうから、ヂョウジアァナがあるお金持の道樂にもあいた上流社會の人とちやうど都合のいゝ結婚をしたことと、イライザが本當に尼になつて、今日では彼女が尼僧見習としての期間を過した尼寺の院長になつてをり、そこに彼女は自分の財産を寄附したといふことを此處で述べておいたがいゝだらう。
長いにしろ短いにしろ、
留守にしてゐた家へ歸つて來るとき、人はどんな氣がするか、私は知らなかつた。そんな感動は私には嘗て經驗のないことであつた。子供の頃長い
道程を歩いた後で、ゲィツヘッドへ歸つて行つたとき、活氣がなくて陰氣な樣子をしてゐると云つて叱られた氣持は知つてゐる。そしてその後では、教會からローウッドへ、暖い火と十分な食物を切望して、而もその何れも不可能なのであつたが、歸つて行つた氣持も知つてゐる。この歸宅はどちらも大變樂しくも望ましくもなかつた。何等の
磁氣も私が近づくにつれて引力を増して行くべき場所へ私を惹きつけることはなかつた。ソーンフィールドへの歸りは未だ試みられてゐなかつた。
私の旅は退屈――大變に退屈らしく思はれた。一日に五十
哩、一夜を宿屋に明して、次の日はまた五十哩である。初めの十二時間は、私はリード夫人の
死際のことを考へてゐた。醜くなつて變色した顏が見え、變に變つた聲が聞えた。葬式の日、お棺、柩車、小作人や召使達の黒い行列――親類の者は、殆んどゐなかつた――口を開けて待つ地下の
墓所、しんとした教會、嚴肅な葬禮などのことが心に浮んで來た。すると今度はイライザとヂョウジアァナのことが思はれた。一人は舞踏室で人目を惹き、一人は尼寺の中に住んでゐる。私は二人の人物や性格の別々な特徴に心を留めて分析してみた。夕方大きな××街に着くと、こんな思ひは散り/″\になつてしまつた。夜はまつたく別な方に思ひが移つて、旅の枕に休み、追憶を去り前途を想つたのだ。
私はソーンフィールドへ歸つて行かうとしてゐた。しかしそこにどれ位の間ゐるのであらう。長いことではない、といふことは確かであつた。私が留守をあけてゐた間にフェアファックス夫人から便りがあつた。
邸の集りは散つて、ロチスター氏は三週間前
倫敦に向つて
發つた。しかしもう二週間のうちに歸つて來る筈だつた。フェアファックス夫人は、彼が新しい馬車を買ふと云つてゐたことから、結婚式の用意に行つたのだらうと推測してゐた。彼がイングラム孃と結婚するといふ考へが、まだ自分には不思議に見えると、彼女は云つてゐた。しかし誰もが云ふところから、また彼女自身が見たところからすれば、それは近い内に擧行されることは疑ひを
容れ得ないことだとフェアファックス夫人は云つて來た。「若しお疑ひになつたのだつたら、あなたは妙に疑ひ深い方です。」といふのが、私の心の評だつた。「私は疑ひはしません。」
疑問は續いた。「何處に行つたらいゝだらう。」私は一晩中イングラム孃の夢を見た。
曉方のはつきりした夢の中で私は彼女がソーンフィールドの門を私の前に
閉め、別の路に行けと
指してゐるのを見た。そしてロチスター氏は手を組んだまゝ――まるで嘲けるやうな笑ひを浮べて彼女と私と兩方を眺めてゐるのであつた。
私は歸りのはつきりした日取は、フェアファックス夫人に知らせてはゐなかつた。車も馬車もミルコオトまで私を迎へに來て欲しくなかつたからである。その道程を一人で靜かに歩いて行きたいと思つて、馬車を馬丁の手に
委ねてから六月のある夕方六時頃、私は極く目立たぬやうにジョージ旅館を忍び出た。そしてソーンフィールドへの舊道――大抵畑の間を通つてゐて、今は殆んど人の通らぬ道路を行つた。
輝かしいとか
華やかとか云ふやうな夏の夕方ではなかつたけれど、美しく穩やかであつた。
乾草を作る人々は道に沿つて仕事をしてゐた。空は晴れ渡つたとは云へないが、來る日の好天氣を約束してゐるやうである。その空色――空色の見える所では――は穩やかに落ちついて、層雲は高く薄かつた。西方もまだ暖かで水のやうな光が冷たく流れることもなく、其處には恰も火が焚いてあつて、大理石のやうな水蒸氣の幕の背後でチラ/\燃えてゐて隙間々々から
黄金色の赤色が輝やいてゐるかのやうに見えた。
私は目の前の道が短くなつて來るのが嬉しかつた――あまりに嬉しくて、とう/\一度立止つて一體何故こんなに嬉しいのかと自分に訊いた。そして私は自分の家へ歸つて行くのでもなく、永久の休息所へでもなく、また懷しい友が私を求めて私の着くのを待つてゐる場所へでもないといふことを思ひ出した。「きつとフェアファックス夫人は穩やかにお前を迎へて
微笑んでくれるだらう。」と自分に云つた。「そして幼いアデェルは、お前を見ると手を
拍つて、
跳び上るだらう。しかしお前にはよく分つてゐる、お前はあの人達とは違つた人のことを考へてゐるのだ。そしてその人はお前のことを考へてはゐない。」
だが青春程
強情なものがあらうか。無經驗ほど
盲目なものがあらうか。これが、向うが私を見ようと見まいと、ロチスター氏を再び見ることを得るのは大變な歡びだと肯定したのであつた。そして附け加へて云ふ。「お急ぎ! お急ぎ! 出來る間あの方と一緒におゐで。もう幾日か、多くて數週間位、さうすればお前は永久にあの方から引き離される!」そして私は新しく生れた苦悶――ひたすら求めて得られず
培ふことも出來ない醜いものと鬪つた。そして急ぎつゞけた。
ソーンフィールドの牧場でも人々は
乾草を作つてゐた。と云ふよりも寧ろ勞働者達はちやうど仕事を止めて、
熊手を肩に歸りかけてゐた。丁度その時分に私は着いたのだつた。もう一つか二つ耕地を
超えると道を横ぎつて門に屆く位であつた。まあ、
籬は薔薇で一ぱいだこと! しかし何も摘む暇がない。私はあの家に着きたいのだ。私は、葉の繁つた、花の一ぱいついた枝を道にさし出してゐる丈の高い茨の傍を過ぎた。石の段々の狹い
踏段が見えた。それから――本と鉛筆を手にして、そこに掛けてゐるロチスター氏が見えた。彼は書いてゐるのだ。
如何にも、彼は幽靈ではない。それなのにあらゆる神經が
弛んでしまつた。暫しが程私は茫然としてゐた。何といふことだらう。彼を見てこんな風に顫へようとは、彼の前に立つて聲も動く力もなくなつてしまはうとは思はぬことであつた。動けたら直ぐにも引返さう。本當に馬鹿なことをして恥をかく必要はない。私は家へ行く別の道を知つてゐる。だが、
假令私が二十も道を知つてゐたにしろ、もう何にもならなかつた。彼が私を見附けたのである。
「やあ!」と彼は叫んで、本と鉛筆をしまつた。「歸つて來ましたね! こゝへいらつしやい、さあ、どうか。」
私は行くのだらう。だが、自分の
動作に氣が附かず、ただもう落着いて見えるやうにと心配して、中にも腹の立つ程私の意志に反して騷ぎ、私が隱さうと思つてゐるものを表に出さうと
抗ふ私の顏の筋肉のふるへを抑制しようと心配して、どんな風にしたものか判らない。しかし私は
薄絹を
被つてゐる――それは垂れてゐる。どうにか品よく落着いて振舞ふことが出來よう。
「これがジエィン・エアだらうか? ミルコオトから來るところなの、而も歩いて? さうだ――いかにもあなたのやりさうなことだ。馬車を
寄越せと頼んで、當り前の人間のやうに
街や往來を車で來ようとはせずに、まるで夢か影のやうに夕暮時分に、自分の家の近くに忍び込んで來るのだ。一體全體先月中何うしてゐたのです?」
「
亡くなつた伯母のところにゐましたの。」
「ジエィンらしい答だ! 天使らよ、われを
護り給へ、だ。この人はあの世から來たのだ――死人の國から。そしてこんな
黄昏時にたつた一人で私に遭つてさう云ふのだ! あなたが正體か影か、思ひ切つて觸つてみようか、小さな
妖精!――だがいつそ沼の中の青い
鬼火を捉へようと云つた方がいゝ位だ。
怠け者! 怠け者!」一寸言葉を切つてまた彼は云ひ足した。「まる一ヶ月も
留守をあけて、私のことなぞ、まるで忘れてゐるなんて、本當に!」
假令もう間もなく私の主人ではなくなるといふことや、私は彼にとつては何でもないといふことなどで心を
傷けられてゐても、私は再び私の主人に會ふのは嬉しいことを知つてゐた。だが、いつでもロチスター氏には、(少くとも私はさう思つたが)幸福を傳へる豐かな力があつて、彼のまき散らすパン屑をぽつちりでも味ふことは、私のやうな迷つてゐる他國の鳥達には、惠み深くも御馳走だつたのである。彼の最後の言葉は
鎭痛劑であつた。私が彼を忘れるか否かゞ彼に何か關係することがあるやうに暗に意味してゐるやうだつた。而も彼はソーンフィールドのことを私の家のやうに云つてゐた――そこが私の家だつたなら!
彼は踏段を離れなかつた。そして私はそのまゝ彼を行き過ぎさせたくなかつた。私は直ぐに彼が
倫敦に行かなかつたのかと
訊ねた。
「行きましたとも。多分直ぐにあなたには分るでせうよ。」
「フェアファックス夫人が、お便りの中で知らせて下さいました。」
「私が何しに行つたか書いてありましたか。」
「ございましたとも! 何しにいらしたか、誰だつて存じてをりますわ。」
「あなたはあの馬車を見なくちやなりませんよ、ジエィン、そしてそれがロチスターにぴつたり似合ふと思はないかどうか、私に話してくれなくちやなりませんよ。それからあの紫のクッションに背を
凭せてボーディシャ女王のやうに見えるかどうかをも。ジエィン、私が見たところでは、もう少しよくあの人と釣り合ふやうに出來てるといゝがと思ひますね。あなたは
妖精だからきかせて下さいよ――私が美男になるやうな魅力か、
媚藥か、それとも何かそんな種類のものは持つてゐませんかねえ。」
「それは魔法の力も及びませんでせう。」そして私は心の中で附け足した。「美しい眼が何より大事な魅力です。その點ではあなたは本當に美しくてゐらつしやいます。それとも寧ろあなたの
嚴つさが美しさ以上の力を持つてゐるのでございます。」
ロチスター氏は折々、私には理解出來ない鋭敏さで、私の口に出さぬ思ひを讀んでしまつた。このときも、彼は私の口にした
素氣ない返答には心を留めないで、彼特有のある
微笑を浮べて私を見た。而もそれは
滅多にしか表はさないものであつた。何でもない心意を表はすには、それはよ過ぎると彼は思つてゐるやうに見えた。それは本當の感情の光であつた――彼は今、それを私の上にそゝいだのである。
「お通り、ジャネット。」と彼は踏段を跨ぐやうに場所をあけ乍ら云つた。「家へ歸つて、その疲れた可愛い旅の足を友達の家にお休めなさい。」
私の爲すべきことはたゞ默つて彼の云ふ通りにすることであつた。この上話す必要はなかつた。私は言葉なく踏段を過ぎて、落着いて彼の傍を立去る積りだつた。衝動がかたく私を掴んだ――ある力が私を振り返らせた。思はず私は云つた――それとも私の内にある何ものかゞ私の代りに云つた。
「有難うございます、ロチスターさん、こんなに親切にして下さつて。またあなたのところに歸つて來るのが不思議に嬉しうございます。そして、何處でもあなたのゐらつしやる處は私の家で――私の唯一の家でございます。」
私は彼が追ひつかうとしたところで追ひつけなかつただらうと思はれる位早く歩いて行つた。幼いアデェルは私を見ると半分
狂氣のやうになつて喜んだ。フェアファックス夫人は
平常の通りの打解けた親しみを以て私を迎へてくれた。レアは笑ひを浮べ、ソフィイでさへも私に[
※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、269-下-6]bon soir”(今晩は)と嬉しさうに云つた。これは堪らなく嬉しいことであつた。仲間の人々から愛され、その出現が人々の喜びを増すといふことを感ずる程幸福なことはない。
その夕方は私は自分の眼を未來に向けることをきつぱりと止した。耳も近々の別離と迫つてくる悲嘆とを絶えず私に
告げる聲に向つて閉ぢてしまつた。お茶が濟んで、フェアファックス夫人は
編物を取り上げ、私は彼女の傍の低い腰掛につき、アデェルは絨毯に膝をついて私の傍近く凭れかゝり、互の親しみの氣分が得も云はれぬ平和な雰圍氣となつて私共を取り圍んだとき、私は皆が直ぐに、遠く別れ/\にならないやうにと、沈默の祈りを捧げた。しかし、そのとき、私共がかうして坐つてゐるとき、ロチスター氏が
前觸れもなく這入つて來た。そして私共を見ていかにも
睦じさうなその場の樣子を、樂しく見てゐる樣子であつた――そして彼はあの老婦人が、彼女の養女を再び
喚び戻したから、すつかり快くなつてたのかと思つたと云つた。それから附け加へて彼はアデェルが
“pr
te
croquer sa petite maman Anglaise”(彼女の英國のお母さんを喰つちまはうとしてゐる)といつた――で、私は彼が結婚後にも私共二人を何處か彼の保護の下にかくして、彼の存在といふ陽の光からまつたく追放しないと彼が思つてゐるのではないかと
危く希望を持ちさうになつた。
私がソーンフィールド莊へ歸つて來てから、何れともつかぬ靜けさのまゝ二週間が過ぎた。主人の結婚に就いては何事も云はれず、そんなことの爲めの仕度も行はれてゐる樣子ではなかつた。殆んど毎日のやうに、私はフェアファックス夫人に、若しや何か決まつたことを、まだきかないかと
訊ねたが、彼女の答はいつも否といふのであつた。一度彼女は面と向つてロチスター氏に何時花嫁をお
伴れになるお積りかと質問を出した。しかし彼は答への代りに冗談と妙な目付をしたばかりで、彼女はそれを何と解していゝやら分らなかつたと云つた。
特に私を驚かせた一事があつた。それは、行きかへりの旅行もなく、イングラム・
莊園への訪問もないことであつた。確かに隣の州の
境にある莊園までは二十
哩は隔つてゐる。しかし熱烈な愛人にとつてはそんなこと位何であらう。ロチスター氏のやうな手練の、
不撓の
乘手にとつてはそれ位のことは朝の乘馬位だつたらうに。私は、その婚約が止めになつて、噂は間違ひで、あの二人の内一人か、または二人共が心を變へたのかと、懷く權利もない望みをいだきはじめた。私は若しや主人の顏が悲しくなつてゐるか、
險しくなつてゐるか見ようと、主人の顏を見つめるのが常であつたが、この頃のやうにいつも變らず曇りなく、また
邪惡な感情のなかつたときがあつたことは、思ひ出せなかつた。私と私の教へ子とが彼と一緒に過すとき、若し私が元氣を失つて、どうしやうもなく憂鬱になつても、彼は快活になつた。今迄こんなに彼が私を傍に呼びよせたことは嘗てなかつたし、其處にゐるとき程私に
優しくしてくれることも嘗てなかつた。そして、あゝ、こんなに彼を深く愛したことも私は嘗てなかつたのだ。
輝やかしい眞夏が、
英吉利中に照り渡つた。その頃、毎日續いた晴れ渡つた空や、輝やかしい
陽は、殆んど滅多に、この浪に圍まれた英吉利に惠まれたことのないものであつた。まるで伊太利の陽が、晴々とした渡り鳥の群か何かのやうに、南から
一塊りになつてやつて來て、アルビオンの
崖の上に
憇つて、羽を休めてゐるやうであつた。乾草はすつかり取り入れられ、ソーンフィールドの周圍の耕地は、緑色をなして輝き、道路は、白つぽくやけてゐた。樹々は暗くなる程繁り、
生籬や森は、葉が繁り、色が濃くなつて、間にある刈り取つたあとの牧場の
太陽に
映えた色と、いゝ對照をしてゐた。眞夏の夕方、半日も、ヘイ・レインで野苺を採つて疲れたアデェルは、太陽と共に、床に這入つた。私は彼女が眠に就くのを見て、そこを立ち去ると、庭の方へ出て行つた。
丁度二十四時間の中、一番氣持のいゝ時間であつた――晝間の熱い火力は衰へた。」そして
喘ぐ野にも燒けつく山頂にも露が凉しく降りた。太陽が靜かに沈んで行つた處には――晴朗な雲――莊嚴な紫色が、一所赤い寶玉と爐の火の光とに輝かされて丘の上に高く廣く、
穩やかに、なほも穩やかに半天を蔽うて棚引いてゐた。東の方はまた東の方で、美しい
濃青の美しさと、たゞ一つ昇つて來た星のおとなしい寶石があつた。もう直ぐそれは月に誇るだらう。しかし月は未だ地平線の下にゐた。
暫くの間、私は
甃石の上を歩いた。しかし微かに匂ふよく知つた匂ひ――葉卷のである――がどこかの窓から流れて來た。見ると書齋の窓が手の幅位開いてゐる。そこから見られてゐたかも知れないと悟つて私は果樹園の方へ立去つた。
邸の内にこゝより以上に人目を離れて樂園のやうな感じのする場所はなかつた。其處は樹が一ぱい繁つて花も盛りだつた。一方の側は高い/\塀が中庭との
隔をなし、も一方の側は桃の並木が
芝生との境をなしてゐた。
下手の方には低い垣があつて、それがひつそりした耕地との唯一の境目であつた。そして月桂樹が兩側に並んで、突き當りは根本が腰掛で取卷かれた、巨大な七葉樹になつてゐるうね/\した道がその塀の方へ下りてゐた。此處では人に見られないで歩きまはることが出來るのであつた。こんな甘い露が落ちて、こんな靜けさがひろがり、こんな
黄昏が迫つて來るとき、私は永久にこんな暗がりに住んでゐられるやうな氣がした。しかしこの廣々とした場所に今昇つて來た月が投げる光に誘はれて、
圍ひの中の
上手にある花壇や果樹床の間を歩く内、私の足は止つた――物音がしたのでもなく、何か見えたのでもなく、前知らせをするやうな匂ひの爲めである。野薔薇や
青萵、
素馨、
石竹、薔薇などはもうずつと前から夕の香の供物を捧げてゐた。だがこの新しい匂ひは灌木のでも花のでもない、それは――私はよく知つてゐる――それはロチスター氏の葉卷である。私はあたりを見

して耳を澄ました。熟した果實で撓んでゐる樹々が見える。半
哩離れた森の中で
夜鶯の囀るのが聞える。動いてゐる人影も見えず、近よつて來る跫音も聞えない。だがその匂ひは次第に濃くなつて來る。逃げなくてはならない。灌木林へ續いた小門の方へ行くとロチスター氏が這入つて來るのが見えた。私は常春藤の奧の方に避けた。彼は長いことゐはしないだらう。やがて來た方へ引返すだらう。私が凝つとしてゐたら見附かるやうなことはあるまい。
だがさうではなかつた――夕暮は私と同じく彼にも氣持がよかつた。そしてこの昔風の園も同じやうに捨て難いものであつた。彼は
すぐりの枝を持ち上げて梅の實のやうに大きくなつてゐる實を見たり、塀から熟した
櫻桃を取つたり、匂ひを吸ひ込む爲めか、
花瓣の上の露の玉を賞する爲めか花の塊の方に身を屈めたりしながら、散歩してゐた。大きな蛾が一匹私の傍をプーンと云ひながらかすめて、ロチスター氏の足下の草に止つた。彼はそれを見附けると、身を屈めて凝つと視た。
「今だ、あの方は私に背を向けてゐらつしやる。」と私は思つた。「それにあちらに氣をとられてゐらつしやる。きつと、そつと歩いたら知れないで行つて了へるだらう。」
礫の多い
砂利が軋つて私のゐるのを悟られぬやうに、私は
芝生の縁を歩いた。彼は私が通らなくてはならない處から一
碼か二
碼離れた花床の中に立つてゐた。確かにあの蛾が彼を惹きつけたのだ。「きつと首尾よく行き過せるだらう。」祕かに思つた。月はまだ高くはなかつたが、長く庭に投げた彼の影をよぎつたとき、靜かに、振向きもせずに彼が云つた――
「ジエィン、來て
此奴を見て御覽なさい。」
私は音を立てはしなかつた。彼は背中に眼なんぞ附いてはゐない――彼の影が感ずるなんてことが出來ようか? 初めは、はつと驚いたが、彼の傍に近づいた。
「この翼を御覽、」と彼が云つた。「これはどつちかと云ふと
西印度の蟲を思ひ出させる。英吉利ぢやあこんな大きな綺麗な蛾はあんまり見ませんよ。そら! 飛んで行く。」
蛾は飛び去つた。私も
極り惡げに
退かうとした。しかしロチスター氏は私の後を追つた。そして私共が小門まで來ると彼は云つた――
「引返すんですよ。こんないゝ晩に家の中に坐つてるなんて馬鹿ですよ。また誰だつてきつとこんなに日沒と月の出とが一緒になつてるときに、床に這入らうなんて思ふやうな人はないね。」
私の舌が、或るときはてきぱきと返答をするのに、口實を拵へるときには情ないやうに駄目になるときが屡々ある、これは私の缺點の一つである。而もこの
過ちはいつでも私が苦しい困惑から逃れ出る爲めに機敏な言葉とか尤もらしい口實とかゞ特別に必要なと云ふやうな迫つた場合に起るのである。私はこんな時分にロチスター氏とたゞ二人暗い果樹園を歩くのは
好ましくなかつた。しかし彼のところを去ると云ひ張るやうな理由も見附からなかつた。ためらひ勝ちな足取りで、心は忙がしくその場を
脱れる方法を見附けようとし乍ら私は彼に從つた。しかし彼自身は非常に落着いてゐて而も眞面目な樣子なので、私は自分がそんな當惑を感じたことを恥ぢて來た。惡魔――若し實在の、そして先見の明ある惡魔があるとすれば――は、私にだけは嘘を吐いたのだ。彼の心は何も意識せず靜かであつた。
「ジエィン、」と私共が月桂樹の並木道に這入つて、低い垣と七葉樹の方へ
悠りと歩を運んだとき、彼は、
勸めるやうに私に云つた。「ソーンフィールドは夏はいゝ處ですねえ?」
「えゝ。」
「あなたはいくらかはこの家に惹きつけられてゐる筈ですね――自然の美に對する眼もあり、可成りたつぷり物に愛着を持てる性質のあなたは。」
「惹きつけられてをりますの、まつたく。」
「それからどういふ風にだか知らないけれど、あの馬鹿な子供のアデェルにもあなたは何かと心を向けてゝ下さるやうですね。それにあの單純なフェアファックス小母さんにさへも。」
「えゝ、
異つた風にですが、私あのお二人共好きなのでございます。」
「で、あの人達に別れるのが悲しい?」
「えゝ。」
「可哀相に!」と彼は云つて、
溜息をつき言葉をきつた。「それがこの世の中のことのなりゆきですよ。」と彼はやがて續けた。「
心地のいゝ休み場所に落着くや否や、もう休息のときは了つたから起きて進めと呼び聲がするのです。」
「私行かなくてはなりませんでせうか。」と私は
訊ねた。「ソーンフィールドを出て行かなくてはならないでせうか。」
「ならないと思ひますね、ジエィン。お氣の毒だけれど、ジエィン、本當にさうしなくてはならないと思ひますね。」
これは打撃だつた。しかし私はそれに打ちのめされたまゝではゐなかつた。
「ようございます。行けといふ御命令が下つたら用意いたしませう。」
「今下るのですよ――今晩申し渡さなくてはならないのです。」
「ではやつぱり御結婚なさるのでございますか。」
「た、し、か、に――間違ひなく。いつもの鋭さでもつて眞直ぐに云ひ當てましたね。」
「近々でございますか。」
「もう直ぐにね、私の――ではない、エアさん、あなたは思ひ出すでせう、ジエィン、始めて私が、それとも噂でゞしたか、あなたにはつきりと仄めかしましたね。私のこの古びた獨身者の頸を神聖なる
係蹄にかけ、結婚といふ神聖な國に這入るといふ事――手つとり早く云へば、イングラム孃を私がめとるといふ事を。(あの人は
一抱もある程大きいが、しかしそんなことは何でもない――美しい私のブランシュのやうな素晴らしい相手は誰もさうたんとは持つてゐませんからね。)いや、私が云つてゐた通り――お聞きなさいよ、ジエィン! まだ、蛾を探して、顏をそむけてるのぢやないでせう、ねえ? あれは何でもない『家へ飛んでかへる女の靴下の飾』ですよ。私が尊敬するあなたの
分別を以て、――あなたの責任ある、從屬的な地位に
似合ひの先見、用心深さ、謙遜を以て――私がイングラム孃と結婚した場合には、あなたも小さいアデェルも一緒にとつとゝ出て行つた方がいゝと、最初に私に云つたのはあなただつたのだといふことを、私はあなたに思ひ出させたいのですよ。私はこの提議の中に傳へられた
汚點が私の愛する者の性格を汚してゐるのは見過します。まつたくあなたが遠く去つたら、ジャネット、私は忘れようとしませう。たゞその智慧には心を留めませう。それは私がいつも爲て來たことなんですから。アデェルは學校へ行かなくてはならない。そしてあなたは、エアさん、新しい職につかなくてはならない。」
「えゝ、私は直ぐにも廣告いたします。その間、多分私は――」私はかう云はうと思つてゐた、「多分私は身を
委ねるやうな家を他に見附けるまで此處にとめていたゞくでせう。」しかし私はもう長い言葉を云ふに堪へないやうに感じて言葉を
途切らせた。私の聲がもうまつたく思ふやうに出なくなつたからである。
「一ヶ月ばかりのうちに私は
花婿になる積りです。」と、ロチスター氏は續けた。「そしてその間に私があなたの仕事も落着場所も探してあげませう。」
「有難うございます。殘念ですけれど私には――」
「あゝ、あやまることは
要りませんよ、
雇人があなたがしたやうに立派な
務めを果した場合には、都合よく出來るやうな一寸した援助をしてくれと雇主に要求してもいゝと私は思ひますね。實際のところ、私は、もう私の未來の義母をとほして似つかはしい場所をきゝましたよ。それは
愛蘭土のコンノオトにあるダイオニシウス・オゴオル・オヴ・ビタアナット・ロッヂ夫人のお孃さま達五人の教育を引受けるのです。あなたは
愛蘭土は好きだらうと思ひますがね。彼處の人間は非常に人情のある人達だと云ひますよ。」
「遠方でございますわね!」
「構はないでせう――あなたのやうな心の娘さんは航海とか遠いことなどでとやかく云やしないでせう。」
「航海ではございません。その遠いことなのです。そしてやがて海が隔てのかき――」
「何から、ジエィン?」
「
英吉利から、ソーンフィールドから、――そして――」
「そして?」
「あなたからです。」
殆んど我知らずかう云ふと、意のまゝにならぬ涙が湧き出た。しかし私は聲を立てゝ泣きはしなかつた。泣くまいと誓つたのである。オゴオル夫人とビタアナット・ロッヂの思ひが
冷たく私の心を打つた。そして行くべく定められた海と
水沫との思ひが、まるで私と私が今寄添つて歩いてゐる主人との間を流れるかのやうに、なほも冷く、そして私と私がいつはりなく、やみがたく愛するものとの間に介在する海――富、階級、習慣――の記憶が、この上なく
冷くひゞいた。
「それは遠うございます。」と私はも一度云つた。
「さうですね、確かに。そしてあなたが
愛蘭土のコンノオトのビタアナット・ロッヂに行つてしまつたら、もう二度とあなたに會はないでせうね、ジエィン――それはまつたく確かなことです。私は決して
愛蘭土へは渡つて行かない。あの國に對して大して夢想することはありませんからね。私共はいゝ友達でしたね、ジエィン、さうぢやなかつた?」
「えゝ。」
「そして友達同志が別れる夕方には、殘つてゐる暫しの間を互に親しく過したいものです。さあ、星があちらの空に輝きはじめる間、半時間かそこら航海のことやお別れのことを一緒に話しませう。そこに七葉樹があります。その古い根本に腰掛がある。おいでなさい。私達はもう決してこゝに一緒に掛けるやうなことはないでせうけれど、今晩は平和に腰掛けませう。」彼は私を掛けさせて自分も掛けた。
「
愛蘭土までは遠い、ジャネット、そして私の友をそんな退屈な旅に送るのは悲しい。しかしそれ以上のことが出來ないとしたら、どうすればいゝのでせう? あなたは何か私に近いものゝやうに考へますか、ジエィン?」
今度は何も答へをすることが出來なかつた。私の胸は一ぱいだつた。
「何故かと云ふと、」と彼は云つた。「私は時々あなたに關して奇妙な感じを抱くのです――特に、今のやうにあなたが私の傍にゐるときに。何だかかう自分の左の
肋骨の下の何處かに絃があつて、しつかりと、解けないやうにあなたのその小さな體の同じ場所にある絃に結び付けられてゐるやうなのです。そして若しあの荒れ狂ふ海峽と、二百
哩もある陸地が、私達の間に茫漠と擴がつたなら、そのつながりの絲は
斷れてしまひさうな氣がする。さうなると私は心の中に
傷ついてしまひさうな堪らない氣持がする。あなたの方は――あなたは私のことなど忘れてしまふだらう。」
「そんなことがありませうか。あなたは御存知でゐらつしやいます――」その先は云へなかつた。
「ジエィン、森の中で
夜鶯が啼いてるのが聞えますか。ほら!」
聞き乍ら、私は身を顫はしてむせび泣いた。もうこの上堪へられないものを抑制することが出來なかつたのである。私は負けてしまつた。そして頭から足まで
鋭い悲嘆にふるへた。口を
利けばたゞもう生れて來なければよかつた、ソーンフィールドに來なければよかつたといふ、焦れた望みを云ふばかりだつた。
「此處を出て行くのが悲しいからなの?」
私の
裡にある悲嘆と愛とに掻き立てられた激した情緒が高潮し、強い勢力を得ようともがき、
卓越し、征服し、生き、起ち、遂に支配し、さうだ、――話さずにはゐられない衝動に驅られた。
「私はソーンフィールドに別れるのが悲しいのです。私はソーンフィールドを愛します。――私は愛します。其處にゐて滿ち足りた樂しい日を送つたからなのです。少くとも暫しの間。私は踏みつけられませんでした。私は
活氣を奪はれませんでした。私は下等な人達の考へに埋もれず、輝やいた、勢のある、高尚なものとの交通をいつも、除外されないでのぞくことが出來ました。私は私の尊敬するものと私のよろこぶものと、――見識のある、力強い、廣い心と近々と話しました。私はあなたを知りました、ロチスターさま。そしてどうしてもあなたから永久に引き離されなくてはならないと思ふ事が恐れと苦しみで私を惱まします。お別れしなくてはならない事は分つてをります。しかしそれは死なゝくてはならないと思ふやうなものでございます。」
「どこにその必要があるのです?」と彼は不意に
訊ねた。
「どこにですつて? あなたが私の前にお置きになつたのではございませんか。」
「どんな形で?」
「イングラム孃の形で――
氣高い、美しい人――あなたの花嫁さまです。」
「私の花嫁だつて? どんな花嫁? 私は花嫁なんぞ持つてやしない。」
「でもお持ちになるでせう。」
「さう、――その積りです!――その積りですよ!」彼は齒を喰ひしばつた。
「では私行かなくてはなりません。――あなた御自身がさう仰しやいました。」
「いけない。あなたはこゝにゐなくてはならない。私は誓ふ――その誓ひを守ります。」
「私は行かなくてはならないと申し上げます!」と私は何か激情のやうなものに興奮して云ひ返した。「あなたは、私があなたにとつて何の役にも立たなくなつても留つてゐられるとお思ひになりますか。私が自動人形だとお思ひになりますか?――感情のない機械だと? そして私のパンの
片が唇からつかみ取られ、私の生命の水が
杯からこぼれ出てしまふのに堪へ得るとお思ひですか。あなたは私が貧しくて、名もなく、美もなく、小さい故に魂も心もないとお思ひになるのですか。あなたは、間違つてゐらつしやる――私はあなたと同じやうに魂を持つてをります――同じやうに心を持つてゐます! 若し神さまが私にも少し美しさと澤山の財産を授けて下さつたのだつたら、私はあなたにも今私があなたにお別れするのが
辛い程に私に別れるのが
辛くして差上げるのですけれど。私はもう習慣とか習俗とか、また、この肉體の仲介をとほしてあなたにお話してはゐません――あなたの心に話しかけるのは私の心なのです。二人共
墓穴をくゞつて平等に――ありのまゝに神さまの御前に立つたやうに!」
「ありのまゝに!」とロチスター氏は繰り返した――「だから、」と彼は私を腕に抱き、胸に引きよせ、彼の唇を私の唇につけながら云ひ足した。「だから、ジエィン!」
「えゝ、だから、」と私は答へた。「でもさうではない。あなたは結婚なさつた方でなくも、なさつたも同然な方です。そしてあなたに
劣つた人――あなたが同情を持つてゐない人――あなたが心から愛してはゐらつしやらない人と結婚なさるのです。私はあなたがその人を蔑むのを見もしきゝもしたのです。私はそんな結婚を
輕蔑します。だから私はあなたより上です――行かせて下さい!」
「どこに、ジエィン。
愛蘭土に?」
「えゝ――愛蘭土へ。私は思つてることを申しました。もう何處へでも行けます。」
「ジエィン、落着きなさい。そんなにまるで絶望して羽搏きをする
狂氣の鳥のやうにもがいてはいけない。」
「私、鳥ではありません。網にかけられもしません。私は自由意志をもつた自由な人間です。それが今あなたを去らうとしてゐるのです。」
もう
一もがきして私は自由になつた。そして私は
眞直に彼の前に突立つた。
「ではあなたの意志一つであなたの運命も
決ります。」と彼は云つた。「私の手も、心も、所有物全部の
分前もあなたに捧げます。」
「あなたはおどけてゐらつしやる。私はそれを嘲笑ふだけです。」
「私は、あなたに私と共に生涯を過すやうにと願ふのです――第二の私となり、この世での最上の道づれとなるやうに。」
「その運命ならばもうあなたはお
選びになつたのです。それに從つてゐらつしやらなくてはいけません。」
「ジエィン、一寸の間落着いて下さい――あなたは興奮しすぎてゐる。私も落着きますから。」
風が一吹さつと月桂樹の並木道を拂つて、七葉樹の枝の間に
顫へた。遠く――遠く――無限の彼方へ――さまよひ消えて行つた。今はたゞ
夜鶯の歌ばかりである。それをきゝ乍らまた私は泣いた。ロチスター氏は優しく
眞面目に私を見つめながら默して坐つてゐた。
默つたまゝでしばらくの時が經つた。とう/\彼は口を切つた――
「私の傍へいらつしやい、ジエィン、お互ひに譯を話して理解し合ひませう。」
「私はもう二度とあなたのお傍へは參りません。私はもう引き離されて元にかへることは出來ません。」
「けれどもジエィン、私はあなたを私の妻として呼ぶのですよ。私が結婚しようと思つてゐるのはあなたばかりです。」
私は默つてゐた。彼は私をなぶつてゐると思つた。
「おいでなさい、ジエィン、――こゝにおいでなさい。」
「我々の間にはあなたの花嫁さまがゐらつしやいますわ。」
彼は立上つて一跨ぎで私の傍に來た。
「私の花嫁はこゝにゐるのです。」と再び私を引よせながら彼は云つた。「私と同等なもの、私と似てゐるものがこゝにゐるからです。ジエィン、私と結婚してくれますか?」
未だ私は返事をしなかつた。そしてなほも彼の腕から逃れようともがいた。まだ私は疑つてゐたのである。
「私を疑ふの、ジエィン?」
「
心底から。」
「私を信じないの?」
「ちよつとも。」
「あなたの眼に私は嘘つきに見えますか?」と彼は熱した
語氣で
訊ねた。「小さな疑ひ屋さん、あなたに得心させますよ。私が何んな愛をイングラム孃に抱いてゐるのです? 何もありはしない――それはあなたも知つてゐる。あの人がどんな愛を私に持つてゐるのです? 何もありはしない――私が證據だてた通りに。私は噂を立てゝ私の財産があの人の想像してる三分の一もないといふことをあの人の耳に入れて、その後で私は結果を見に行つたのです。彼女からもあの人のお母さまからも受けたのは冷淡なもてなしばかりでした。私は、イングラム孃と結婚しようと――思ひもしないし――出來もしないのです。あなたを――不思議な――殆んどこの世のものとは思へない!――私は自分の身體のやうに愛します。あなたに――貧しい、名もない、小さな、目立たぬそのあなたに――私を
良人として受けて下さるやうに懇願するのです。」
「何ですつて、私に?」と私は彼の熱心さに――特に彼の
粗野な容子に――彼の眞實さを信じ始めながら、叫んだ。「世界中にあなたより他には――若しあなたが私の友なら――友もない私に、あなたが下さるより外には一
志だつてない私に?」
「あなたにです、ジエィン。私はあなたを私のものにしなくてはならない――すつかり私のものに。私のものになつてくれますか? はいと云つて下さい。今直ぐに。」
「ロチスターさま、あなたのお顏を見せて下さい。月の光の方を向いて下さい。」
「何故?」
「あなたのお顏色を讀みたいのです――向いて下さい!」
「さあ! 皺くちやになつて書きなぐつた頁みたいに、讀み易くないでせうよ。お讀みなさい。たゞ急いで。苦しいから。」
彼の顏はひどく動搖して、非常に熱してゐた。そして顏は苦しげに動き、眼には常ならぬ輝きがあつた。
「あゝ、ジエィン、あなたは私を苦しめる!」と彼は叫んだ。「その探るやうな、而も信ずべき寛大な眼であなたは私を苦しめる!」
「どうしてそんなことがありませう? あなたが眞實で、あなたの仰しやることが本當でしたら私のあなたへの氣持はたゞ感謝と熱心ばかりです、――それが苦しめる筈はありません。」
「感謝!」と彼は叫んだ。そして
狂ほしく云ひ添へた――「ジエィン、承知して下さい、直ぐに。呼んで下さい、エドワアド――私の名を呼んで――エドワアド、私はあなたと結婚しますと。」
「あなたは
眞面目でゐらつしやいますか? 本當に私を愛してゐらつしやるのですか?
本氣で私に妻になつて欲しいと思つてゐらつしやるのですか?」
「さうです。そして若しあなたを滿足させるやうな
誓ひが
要るなら、私は誓ひます。」
「では、私はあなたのところへ參ります。」
「エドワアド、と――私の妻!」
「愛するエドワアド!」
「私の傍へ――私の傍へ今はすつかり。」と彼は低い力強い調子で彼の頬を私の頬につけて私の耳に云つた。「私を幸福にして下さい――私はあなたをさうします。」
「神よお許し下さい!」とやがて彼は附け加へた。「人は私に干渉しないやうに。私はこの人を得た。そして守つて行くのだ。」
「誰も干渉する人はをりません、私には妨げるやうな親類はありません。」
「無い――それは何よりのことです。」と彼は云つた。若し私がこんなに彼を愛してゐないのだつたら、
有頂天になつた彼の傍に坐つて、彼の語調や樣子を、
野蠻だと思つたかもしれない。しかし別離の
夢魔から呼び起され――
契りの樂園に呼び込まれ――私は、たゞ飮めとなみ/\注がれた祝福のみに、心を奪はれてゐた。繰り返し/\彼は「うれしい、ジエィン?」と云つた。そして、繰り返し/\私は「えゝ、」と答へた。その後で、彼はつぶやいた。「
償ひになるのだ――
償ひになるのだ。私はこの人が友もなく、寒さうに、慰めもないでゐるのを見たではないか。私はこの人を
[#「この人を」は底本では「こ胸の人を」]守り、抱き、慰めないといふことがあらうか。私の胸の中には
[#「私の胸の中には」は底本では「私の中には」]、愛がないだらうか。私の決心には眞實がないだらうか。神さまの
裁きの座ではそれが
償つてくれるのだ。私に
造主はきつと私の爲ることを許して下さるだらう。世の中の判斷には――私は、それに係らない。人々に意見には――私はそれを
蔑視する。」
だが一體どうした晩だらう。月はまだ沈まないのに私共はすつかり闇の中だつた。私はこんな近くにゐても殆んど私の主人の顏が見えなかつた。それに何が七葉樹の木を苦しめるのだらう? 樹は身をもがいて唸つてゐるのであつた。同時に風が月桂樹の並木道に轟々と吹き起つて私共の頭上を拂つて行つた。
「這入らなくては、」とロチスター氏は云つた。「お天氣が變つた。朝までゞもあなたと一緒に掛けてゐられたのだけど、ジエィン。」
「そして私もあなたと一緒にをられたんですのに。」と私は思つた。多分さう私は云ふところだつた。しかし青ざめたピカ/\光る
火花が、私が眺めてゐた雲の中からほとばしると、メリ/\、ガラ/\といふ音と直ぐ傍で鳴り渡る轟きが聞えた。そして私はたゞもうくら/\となつた眼をロチスター氏の肩に押しかくすことしか考へなかつた。
たゝきつけるやうに雨が降つて來た。彼は私を急がせて歩道を上り、庭をぬけて家へ這入つた。しかし
閾を跨がないうちに私共はずぶ濡れになつてしまつた。彼が廣間で私の肩掛をとり、ゆるんだ髮から水を振り落してゐるところへ、フェアファックス夫人が自分の部屋から出て來た。最初私は彼女に氣が附かなかつた。またロチスター氏も同樣だつた。
洋燈が
灯された。時計は十二時を打たうとしてゐた。「早く濡れたものをお脱ぎなさい。」と彼は云つた。「それから行く前に、おやすみ――おやすみなさい、ねえ!」
繰り返し/\彼は私に
接吻した。彼の腕から離れるとき、私が目をあげると、未亡人は
眞青になつて、眞面目な顏をして、
呆氣にとられて突立つてゐた。
私はたゞ彼女に
微笑みかけたばかりで階段に走つた。
「説明はまたのときでいゝだらう。」と私は思つた。けれども未だ居間に着いたときには、彼女が見たものを
假にも誤解しはしないかと思つて
心苦しく感じた。しかし直ぐに喜びはあらゆる他の感情を消してしまつた。そして風がどんなに吹き
荒んでも、雷が間近にゴロ/\と鳴り渡つても、
稻妻が強くつゞけざまに光つても、二時間つゞいた嵐の間中
瀑布のやうに雨が降つても、私は些の恐怖も威嚇も感じなかつた。その間、ロチスター氏は三度まで私の入口まで來て、私が安全で落着いてるかと
訊ねた。それが私には慰めであつた。あらゆる物に對する力だつた。
朝、私が、まだ床から出ないうちに幼いアデェルが駈け込んで來て、果樹園の
下手にある大きな七葉樹が昨夜の雷にうたれて、半ばは
裂けてとんでしまつたことを話してくれた。
起きて着物を着乍ら、私は、過ぎしことを考へて、夢ではなかつたかと思つた。私は、もう一度ロチスター氏に會つて、彼が愛と
誓ひの言葉を繰り返すまでは、それが本當か信じられないのであつた。
髮を結ひ乍ら鏡の中の自分の顏を見た私は、もうそれが美しくないとは思はなかつた。顏には希望があり、色には
活々とした力があつた。そして眼はまるで成就の源泉を見て、きら/\した
漣から輝きを借りたかのやうに見えた。私は屡々自分の主人と會ひたくなかつた。彼が私を見ていゝ氣持になれないのを恐れたからである。しかし今はもう彼に向つて顏をあげても、その表情が彼の愛情を
冷ましはしない確信があつた。私は質素な、しかし清潔な輕い夏の服を
抽斗から取り出して着た。こんなに私に
似合ふ衣裳はないやうに思はれた。こんなに嬉しい氣持で着たのは嘗てなかつたからである。
廣間に駈け下りて、輝かしい六月の朝が昨夜の嵐の直ぐ後につゞいてゐるのを見ても、開け放した
硝子戸を通して新鮮なかぐはしい微風を呼吸しても、私は驚かなかつた。私がこんなに幸福なときには自然も喜ばしい筈である。乞食の女とその子供――二人とも蒼ざめて
褓襤を着てゐたが――歩道を上つて來るところだつた。私は駈け下りてお金入れにありつたけのお金を――三
志か四志ばかりであつたがやつてしまつた。良くも惡くも彼等は私のおめでたのお
相伴をしなくてはならない。
白嘴鴉はカア/\と啼き、樂しげな鳥達は歌つた。しかし私自身の喜びの心程樂しげで音樂的なものは何もないのであつた。
フェアファックス夫人が悲しげな顏をして、窓から覗いて重々しく、「エアさん、朝のお食事にいらつしやいませんか。」と云つたのが私を驚かした。食事の間中、彼女は
默つてゐて
冷たかつた。しかし私はそのときには彼女の迷ひを解くことが出來なかつた。私は主人が説明するのを待たなくてはならないのだつた。そして彼女も同樣である。私は食べるものを食べると、やがて二階へ急いだ。書齋から出ようとするアデェルに出逢つた。
「何處へいらつしやるの? お勉強の時間ですよ。」
「ロチスターさんが子供部屋へ行けつて仰しやるの。」
「何處にゐらつしやるの?」
「其處よ。」と彼女が出て來た部屋を指した。中に這入ると彼が立つてゐた。
「こつちへ來てお早うと云つて下さい。」と彼は云つた。私は喜ばしげに近づいた。もう今は冷淡な言葉ではなく、または握手でさへなく、受けたのは抱擁と接吻であつた。それが自然に見えた。彼にこんなに愛され、こんなに愛情を受けるのは樂しかつた。
「ジエィン、あなたは花のやうで、愛嬌があつて綺麗だ、」と彼は云つた――「本當に今朝は綺麗だ。これが私の青白い小さな
妖女だらうか? これが私の
芥子の
種子だらうか? 頬にゑくぼのある、薔薇色の唇をした、襦子のやうなつや/\した
淡褐色の髮と、輝やいた淡褐色の眼をしたこの小さな輝やかしい顏のお孃さまが?」(讀者よ、私は緑色の眼だつた。しかしあなた方はこの間違ひを許さなくてはいけない。思ふに彼にとつてはそれは新しい色をしてゐたのであらう。)
「ジエィン・エアですわ。」
「もうすぐに、ジエィン・ロチスターとなるべき。」と彼は云ひ添へた。「四週間の内にね、ジャネット。それより一日も延びはしない。分りましたか?」
私はきいてはゐたが、はつきり頭に入つて來なかつた。私はくら/\となつた。その
告知が私に傳へた感じは喜びと呼ばれるものよりは、何かもつと強烈なもの――何か
苛責するやうな、氣の遠くなるやうなものであつた。それは殆んど恐怖のやうだつたと、私は思ふ。
「赤くなつて、そして今度は青くなつて、ジエィン、どうしたのです?」
「新しい名を仰しやつたからですの――ジエィン・ロチスターつて。ほんとに變な氣がします。」
「さうです、ミシス・ロチスターです。」と、彼は云つた。「ロチスター若夫人――フェアファックス・ロチスターの花嫁。」
「そんなことはあり得ません。ありさうにも思へません。人間はこの世では完全な幸福を樂しむことは決してありません。私が他の人達と
異つた運命に生れることなど決してありません。そんな運命が私に來ると想像するのはお
伽噺です――白晝夢ですわ。」
「それが私には可能なんですよ、そして實現してみせます。今日から始めるのです。今朝、私は
倫敦の銀行に手紙を出して、預けてある或る寶石――ソーンフィールドの婦人の相續動産を送つて呉れるやうにと云つてやりました。一兩日の中には、あなたの手に入るやうにと思つてゐます。何故なら、若し結婚するのなら貴族の令孃にもふさはしいやうにあらゆる特權、あらゆる
慇懃があなたのものになるやうにしてあげたいからですよ。」
「まあ!――寶石のことなど心配なさらないで下さい! そんなことを聞くのは私いやですから。ジエィン・エアに寶石は不自然に變てこに聞えます。私は寧ろそんなものは無い方がいゝのです。」
「私が自分であなたの
頸に
金剛石の頸飾をかけてあげますよ。それから額には環を。似合ひますよ――少くともこの額は自然が立派に貴族的につくつてゐますからね。ジエィン。それからこの美しい手首には腕環をまき、この
妖女のやうな指には指環を篏めてあげよう。」
「いえ、いえ! もつと別のことを考へて下さい。もつと違つたことを話して下さい。もつと違つた話し方で。私が美しい人かなんぞのやうに仰しやらないで下さい。私はあなたの目立たない、クェイカア教徒のやうな家庭教師でございます。」
「私の眼にはあなたは美しい人です。私の心の望みどほりの美しい人です――きやしやで
俗離れがして。」
「その意味は貧弱で取る價値も無いといふのでございませう。あなたは夢を描いてゐらつしやるのです――でなければ嘲つてゐらつしやるのです。お願ひですから、皮肉にならないで下さい。」
「私は世間にも、あなたの美しいことを知らせてやりますよ。」と彼は續けた。だが、私は彼の口にする調子に本當に不安になつた。彼が自分自身を
欺いてゐるか、または私を
欺かうとしてゐるやうに感じたのである。「私は私のジエィンに
繻子とレースを着せて、髮には薔薇を

してやりますよ、それから私の一番好きな頭には素晴らしい薄絹を被せるのです。」
「そしたら、あなたには、私が、分らなくなりますわ。もう、私はあなたのジエィン・エアぢやなくつて、
道化の着物を着たお猿か――借物の羽根をつけた、
樫鳥になつてしまひます。ロチスターさま、私が女官のやうな服を着ると、あなたには、舞臺の衣裳で飾られたやうに見えるでせう。私は、あなたのことを、美しいなどゝは申しません。どんなにかあなたのことをお愛し申してゐるので、あなたに、お
世辭など云へませんわ。私にお世辭は、お止めになつて下さい。」
しかし彼は私がどうぞ止してと頼むのに耳もかさず、思つてゐることをどん/\續けて云ふのであつた。「今日早速あなたを馬車に乘せてミルコオトへ行きませう。そしてあなたは何か自分の着物を選ばなくてはなりませんよ。私達は四週間以内に結婚するのだと云ひましたね。式はあの下の方にある教會で靜かに擧げませう。それから直ぐにあなたを
街へ送ります。そこに暫く滯在した後、私は大事な人を連れて太陽に近い土地へ行きます。佛蘭西の葡萄園に、伊太利の平原に。それから、昔の話や近代の歴史の中で名高いものは何でも見せてあげます。また都會の生活も味はせてあげませう。また他の人達と比較することによつて自分の價値を知らせてもあげませう。」
「私が旅行しますの?――そしてあなたと御一緒に?」
「あなたは巴里にも、羅馬にも、ナポリにも――フロレンスにも、ヴェニスにも、ヴィエンナにも滯在するのです。私が
流浪した土地には悉くあなたも行くのです。私の馬蹄の印されたところには何處にもあなたの輕やかな足跡が同じやうに
印されるのです。十年前私は半ば
狂氣のやうに嫌惡と憎惡と怒りを抱いてヨーロッパを駈けめぐつたのです。今度は私の慰め手であるほんとの天使に
癒され淨められて、再びそこを訪ねるのです。」
かう彼が云つたとき、私は笑ひ出してしまつた。「私天使ではありませんわ。」と私は云ひ張つた。「また死ぬまでなりもしません。私は私ですわ。ロチスターさま、あなたはそんな天上のものを私に期待なさつても
確めてもいけません――ちつとも豫期しはしないのですが、私があなたからそんなことが得られないと同じやうに、あなたも私から得ることはございませんもの。」
「あなたは私に何を豫期するのです?」
「ほんの暫くの間あなたは今のやうでゐらつしやるでせう――それこそほんの一寸の間、やがてあなたは冷淡におなりになる。それから氣が變り易くおなりになる。その次には氣難かしくなつて私はあなたをお喜ばせしようと骨を折らなくてはならなくなるでせう。でもいゝ工合に私に慣れて下さつたら、多分また私がお氣に召すやうになるでせう――お愛しになるとは申しません、お氣に召すのです。多分あなたの愛は六ヶ月間か、もつと短い間しか燃え立たないでせう。私ある人々の書いた本の中で
良人の熱心さのつゞく最大限度だとしてその長さが出てゐたのを見たことがありましてよ。でも、結局友達として、
伴侶として、私の旦那さまにまつたくお氣に召さぬやうにはどうしてもなりたくないと思ひます。」
「お氣に召さぬ! そしてまたあなたが好きになる! 私は何度でもあなたが好きになるでせうよ。私はあなたのことをたゞ好きだと云ふばかりでなく、愛してゐるといふことをあなたに云はせる積りですよ――眞實をもつて、熱をもつて、心から。」
「でも
移り
氣ではゐらつしやらないの?」
「私は
容貌ばかりで喜ばせる女達に對しては、私はまつたく恐しい人間ですよ、若しそいつ達が魂も心情もないとわかつたときには――おべつかをつかつたり、くだらないことをしたり、それに多分
鈍感で
下品で
氣難かしい樣子を私に見せでもしたらね。だが
[#「だが」は底本では「だか」]、清らかな瞳や雄辯な舌に對しては、火のやうな魂や――從ふとも折れぬ、從順であると同時に
鞏固な、素直であると同時に堅實な――性格に對しては、私は何時でも
優しく眞實なのです。」
「そんな性格の人に
逢つたことがおありになりまして? そんな方を愛したことがおありですの?」
「今私はそんな人を愛してゐるのです。」
「いえ、私の前に――本當に、若し私があなたの難かしい標準に幾らかでも達してゐるのでしたら?」
「あなた程の人には
逢つたことはないのです。ジエィン、あなたは私を喜ばせ、私を支配するのです。――あなたは服從してゐるやうに見える。そして私はそのあなたの傳へる從順な氣持が好きなんです。その
柔らかい絹の
絲束を指に捲きつけてゐると、其處から顫へるやうな感じが腕を傳つて私の心に來るのです。私は力に左右される――征服される。そしてその力は得も云はれず
快く、私の受けた征服は自分の得るどんな勝利にもまして魅力があるのです。何故笑ふの、ジエィン? 一體その説明出來ない、不思議な顏付の變りやうはどうしたつて云ふのです?」
「ね、私考へてゐたんですの、(こんなことを考へてゝ御免なさい、でも我知らずなのです。)私、ハアキュリイズやサムソンが彼等の好きだつた美女と一緒にゐるのを考へてゐましたの――」
「何だつて、この小さな
妖精――」
「駄目! 今のおはなしはあんまり
賢くはありませんでしたわ――あの人達があまり賢く振舞はなかつたと同じに。でも、あの人達も結婚したらきつと
良人としての
嚴しさを求婚者の
優しさと引きかへに取戻したことでせう。そしてあなたもきつとさうだらうと思ひますわ。若し私が、おゆるしになつては御都合の惡い、お嫌やなことをお願ひしたら、今から一年の内にどんな御返事をなさるか知らと思ひましてよ。」
「今、何か欲しいものを云つて下さいよ、ジャネット――一寸したものでも。おねだりをして下さい――」
「本當に私いたします。もうちやんとお願ひすることはありますの。」
「云つて御覽! だがそんな顏をして見上げて笑つてゐると、その何かをも知らないで、私は承知したと約束してしまふ。それぢやあ馬鹿にされたことになつてしまふ。」
「いゝえ、ちつとも。私たゞこれだけをお願ひするのです、あの寶石を取り寄せないで下さい、それから薔薇の花環を頭に捲かないで下さいといふことだけ。それよりも其處に持つてゐらつしやる
無地のハンケチの
周りに
黄金のレースで
縁取をなすつた方がいゝかも知れませんわ。」
「『純金に
鍍金』でもした方がいゝだらう。分りました、あなたの頼みは承知しました、――しばらくね。銀行へ云つてやつたことは取消します。だが未だ何も欲しいものを云つてはゐませんね。あなたは
贈物の取消を頼んだのだから。も一度云つて御覽。」
「え、ではどうぞお願ひですから、私の好奇心を滿足させて下さいまし。それは一つの事柄に甚く刺※
[#「卓+戈」、U+39B8、287-上-7]されてゐるのです。」
彼ははつとした樣子だつた。「何? 何?」と
急がはしく云つた。
「
好奇心とは危險な願ひだ。あらゆる願ひを
叶へてあげると誓つておかなくてよかつた――」
「だつてこんなことに應ずるのに、危險なんぞある筈はございませんわ。」
「云つて御覽、ジエィン。だが私は、たゞ祕密をきゝ出すなんてことよりは私の領地の半分が
欲しいと云つてくれた方が有難いのだが。」
「ねえ、アハシュアラスの王さま! あなたの領地を半分も私には何になるでせう。あなたはいゝ投資の土地を
探してる
猶太人だと私のことをお思ひですか。私そんなものより寧ろあなたのありつたけの信頼を得たいと思ひます。心まで私に打ち開いて下さるのでしたら、私を信頼しないなんてことはおありにならないでせう?」
「あなたはありつたけの信頼を、充分得ますよ、ジエィン。しかし、神かけて、役にも立たぬ
重荷は求めないで下さい。毒を欲しがらないで――私のところで、イヴその儘の女にならないで下さい――」
「何故いけませんの? たつた今あなたは征服されるのがどんなにか
好ましく、無理に説得されるのがどんなにか嬉しいことだと話してゐらしたでせう。私あなたが自認なすつたのを利用した方がいゝとお思ひになりません? 早速着手して、なだめたりねだつたり、――必要とあらば泣聲を出したりすねたりしてもようございますわ――たゞ私の力の
力試しの爲めに。」
「そんな力試しをやるならやつて御覽なさい。侵略したり増長して御覽、それで萬事終れりだ。」
「さうですか? あなたは忽ちにして降參なさいますわ。何て難かしいお顏をなさるのでせう! あなたの眉と云つたらまるで私の指位に太くひそんで、
額はいつぞや私が大した詩の中でかう云つてあるのを見たことのある『累々たる層雲がなせる中空の雷の宿り』みたいですわ。それはきつとあなたが御機嫌を損ねてゐらつしやるお顏ね。」
「若しそれがあなたの機嫌を損じた顏だつたら、私は基督教徒としてそんな
地精だの火精だのと連れ添ふ氣なんぞ棄てゝしまふ。だが此奴め、何をお前はきかなくてはならないのだ。――云つちまへ!」
「さあ、もうあなたは禮儀正しくはなくなりました。でも私は
粗野な方が、
おべつかなんぞよりはよつぽど好きですわ。私のお
訊ねしなくてはならないことはこれなんです――どうしてあなたはわざ/\骨を折つて、あなたがイングラム孃と結婚なさるお積りだと私に信じさせるやうになさつたのですか?」
「それだけなの? 有難い、それより惡いことでなくてよかつた。」そしてやつと彼はひそめた眉を開いて、危險の過ぎたのを見て、ほつとしたかのやうに
微笑み乍ら私を見下した。「白状してあげませうね。」と彼は言葉をつゞけた。
「ジエィン、あなたを少しは怒らせるだらうけれど――そしてあなたが怒つた時には、どんなに恐しい火の精になり得るかも知つてゐるけれど。昨夜あなたが運命に反抗し、あなたの地位が私と同等だと云ひ切つたとき、冷い月の光を浴びてあなたは火のやうになつた。ところでジャネット、あの申し出を私にさせたのはあなただつたんですよ。」
「勿論私ですわ。だけど、ね、若し何だつたら、大事なことを――イングラム孃のことを。」
「うん、私はイングラム孃に求婚するふりをしたんですよ。何故かと云ふと、私があなたに夢中になつてるやうにあなたにもさうさせたかつたからです。そこで、私はその結果を促進させるには、嫉妬と同盟するのが私に出來る一番いゝ方法だと、考へたわけなのです。」
「素敵ですこと! だけどあなたは小さい――私の小指の先より大きくないわ。そんな風にことをなさるのは本當に恥しい堪らない不名譽なことですわ。あなたはイングラム孃の感情のことを何もお考へにならなかつたんですの?」
「あの人の感情は一つのこと――誇りに集中されてゐるのです。それには謙遜が必要です。
嫉妬た、ジエィン?」
「御心配なく、ロチスターさん――そんなことをお知りになつたつてちつとも面白いことではありませんわ。もう一度本當に仰しやつて頂戴。あなたがいゝ加減に飜弄なすつたことがイングラム孃を損ふことはないとお思ひになりまして? あの方は、捨てられ
背かれたとお思ひにはならないでせうか。」
「大丈夫! それどころか、あの人の方が私を捨てたのだと云つたら。私の家資分散の話はあの人の熱を一瞬のうちに
冷ました、いや、消しちまつたと云つた方がいゝ位ですよ。」
「あなたは
穿鑿好きな
企らみのある方ですのね、ロチスターさま。私、あなたの道義がある點で常規を逸してゐるのが心配です。」
「私の道義は訓練されてないのですよ、ジエィン。注意がとゞかないので、少々ねぢけて成長したのかも知れませんね。」
「もう一度、眞面目に。誰か他の人に私がこの間感じたやうな
辛い苦痛を受けさせることなしで――私は惠まれた大きな幸ひを樂しんでもいゝでせうか?」
「いゝとも、私のいゝ子。私に對してあなたと同じ位な清らかな愛を持つてる人は世界中、他にはありませんよ。私はその喜ばしい熱情を魂の中に
藏つておくのです、ジエィン、あなたの愛に信頼するのです。」
私は肩に置かれた手に唇を寄せた。私は強く彼を愛してゐた――さうだと自分でも信じ難い程――口にも云ひ盡くせぬ程。
「もつと何か望みをお云ひ。」とやがて彼は云つた。「ねだられて、上げるのが私は嬉しいのだ。」
今度も云ふことは出來てゐた。「フェアファックス夫人の方へもお心をお向けになつて下さいまし。あの方は
昨晩私が廣間であなたと御一緒にゐるのを見て吃驚りなすつたのです。今度私があの方に會ふ前に、何か辯解しておいて下さいましね。私、あんないゝ方に誤解されるのは
辛いのですもの。」
「部屋へ行つて帽子を被つていらつしやい。」と彼は答へた。「と云ふのは、今朝、私と一緒に、ミルコオトへ行くつてことですよ。そして、あなたが
外出の用意をしてる間に、私はあのお婆さんに得心が行くやうに云つときますからね。ねえジャネット、あの人はあなたが世間と戀とを取かへて、世間なぞ無くなつてもいゝと思つてると考へたのかしら?」
「きつとあの方は私が自分の身分も、あなたの身分も忘れてると思つてゐらしたでせう。」
「身分! 身分!――あなたの身分は私の胸の中に、そして今も、この後も、あなたを侮辱する奴等の
首根つこにあるのですよ。――行つてらつしやい。」
私は直ぐに
着換へた。そしてロチスター氏がフェアファックス夫人の部屋を出るのをきいて
急いでそこへ下りて行つた。老婦人は聖書の朝讀む部分――その日の日課を讀んでゐたのだつた。聖書が前にひろげたまゝ置いてあつて、
眼鏡がその上にあつた。ロチスター氏の言ひ渡しによつて、中絶された彼女のお勤めは今は忘られてゐる樣子だつた。向ひ側の白壁を見つめた彼女の眼は、異常な報らせにかき亂された
穩やかな心の驚きを表はしてゐた。私を見ると彼女は身を起した。彼女は
強ひて
微笑んで、二言三言お祝ひの言葉を口にした。しかし微笑は消えて、言葉は終らぬ内に途絶えて了つた。彼女は
眼鏡を取上げ、聖書を閉ぢて、椅子を
卓子から後の方へ押しやつた。
「私たゞもう吃驚りしてゐます、」と彼女は云ひはじめた。
「あなたに何と申し上げていゝやらわからないのです、エアさん。私はまさか夢を見てはゐなかつたのでせうねえ。時々獨りで坐つてゐると、半分眠つて今迄起つたこともないものを見るのですけれど。一度ならず、私がまどろんでゐると、十五年前に
亡くなつた私の
良人が這入つてきて私の傍に坐つてゐるやうな氣がするのです。そればかりか、あの人がいつも呼んでゐたやうにアリスと私の名を呼ぶのをきいたやうな氣さへするのです。ところで、ロチスターさんが、あなたに結婚の申込をなさつたといふのは實際、本當なのですか。私を笑はないで下さいな。だつてあの方が五分
許り前こゝにゐらして、一ヶ月以内にあなたがあの方の奧さまにおなりになると仰しやつたに違ひないらしいのですもの。」
「私にもその通りのことを仰しやいましたの。」
「さうですかねえ! あなたはあの方を信じてゐらつしやいますか? あなたは承知なさいましたか?」
「えゝ。」
彼女は困惑したやうに、私を見つめた。
「どうしても考へ得られないことでしたよ。あの方は
自負心の強い方で――ロチスター家の人達は皆さうでしたが――少くともあの方のお父さまはお金がお好きでした。あの方も矢張りいつでも用心深い方だと云はれてをりました。あの方はあなたと結婚なさるお積りでせうか?」
「さう仰しやつたのです。」
彼女は私の全身を見渡した。だが、其處には謎を解く十分な魔力を發見しなかつたと云ふことを、私は彼女の眼の
裡に讀んだ。
「まあ、そんなことが!」と彼女は續けた。「でも、あなたがさう仰しやるからには、本當だといふことは疑ひありませんわねえ。何と申し上げたらよいでせう。私には云へませんわ――實際、私はわかりません。地位や財産の
釣合ひといふことがそんな場合には屡々心しなくてはならないことなのです。それにまたあなた方の御年齡は二十もちがつてゐらつしやるのですからね。あの方は殆んどあなたのお父さまにもなれる位ですよ。」
「いゝえ、決して、フェアファックス夫人!」と私はいら/\して叫んだ。「あの方はちつとも私のお父さまらしくはございません! 私共を一緒にして見た人は誰だつて
假にもさうは想像いたしません。ロチスターさまはまるで二十五位の方みたいにお若く見え、またお若いのです。」
「あの方があなたと結婚しようとなさるのは本當に愛してゐらつしやるからですか?」と彼女は
訊ねた。
私は涙が眼に
滲む程彼女の
冷たさと疑ひ深さに
傷けられた。
「あなたを悲しませて、お氣の毒ですけれど、」と未亡人は言葉を續けた。「けれどもあなたはまだお若くて、
殿方にまつたくお近づきがないのですからね。御自分で用心なさるやうにと思ふのですよ。昔の
諺に『輝くものゝ總てが
黄金にあらず』と云ふのがありますが、今度の場合も何かあなたや私が期待してゐるとは異ふやうなものがありはしないかと心配するのです。」
「何故ですか――私は人間ではないのですか? ロチスターさまが私に眞實の愛情をお持ちになるのは不可能なことですか?」
「いゝえ、あなたは大變結構なんですよ、それに近來大變よくおなりです。そして、憚りなく云へば、ロチスターさまはあなたがお氣に召していらつしやるのですよ。あなたがあの方のお氣に入りだといふことは私はいつも氣が附いてゐました。時々あの方が目立つ程
御贔屓なさるのを見て、あなたの爲めに私は少し不安になることもあつて、あなたが御自分で用心なさるようにと思つたこともありました。けれど
過ちがあるなんて、ほのめかしたくなかつたのでねえ。そんな考へが、あなたを驚かしたり、氣持惡くおさせ申すつてことは、私にも分つてゐましたし、それにあなたは思慮もおありだし、大變
愼み深くて、感じの早い方だから、大丈夫御自分で身を守つてゐらつしやるようにと望んでゐたのです。昨夜家中探しても、あなたも旦那さまもゐらつしやらなかつたときには、そして十二時になつてあの方と一緒にあなたが這入つていらしたときには、どんなに私が心を
痛めたかお話し出來ない位ですよ。」
「いえ、もうそのことは御心配なく、」と私はもどかしく遮つた。「何も間違ひなんぞなかつたといふだけで十分です。」
「お終ひまで間違ひのないようにと思ひます。」と彼女は云つた。「けれども、私の云ふことをよくお聞きになつて下さい。あなたは用心しすぎるつてことはないのですよ。ロチスターさまを、
隔てを置いて御覽なさい。あの方と同じにあなた自身にも疑ひをかけて御覽なさい。あんな御身分の
殿方といふものは、そこの家庭教師なんぞと結婚することはありませんからね。」
私は本當にじり/\してきた。いゝ工合にそこへアデェルが駈け込んで來た。
「連れてつて――私もミルコオトへ連れてつて!」と彼女は叫んだ。「ロチスターさんはいけないつて――新しいお馬車にはあんなにたつぷり
空きがあるのに。私も連れてくやうにお願ひして、ね、先生。」
「してあげますよ、アデェル。」そして私はこの陰鬱な訓誡をする女の
許を去るのを喜びながら、彼女と一緒に急いで立去つた。馬車は用意してあつた。玄關へ

してゐるところで、私の主人は
鋪石の上を歩き

り、パイロットは前になり後になりして、ついて

つてゐた。
「アデェルは一緒に行つてもいゝのでございませう、いけませんの?」
「いけないと云つたんですよ。子供なんぞ嫌やだ!――あなただけ連れて行くのですよ。」
「連れてつてあげて下さいな、ロチスターさま、どうぞね。さうなすつた方がようございますわ。」
「いけないよ、
彼女がゐると邪魔だもの。」
彼の樣子も聲も
斷乎としてゐた。フェアファックス夫人の警告の
冷たさ、彼女の疑ひの氣配が私に注がれてゐた。何か實質の無い、不確かなものが、私の希望を絶つてしまつた。私は彼に對する力の意識を半ばなくしてしまつた。それ以上彼に抗議することもなく、私は機械的に彼の云ふ通りにしようとした。しかし馬車に私を助けて乘せた彼は、私の顏を見てしまつた。
「どうしたの?」と彼は
訊ねた――「すつかり
悄氣てしまつて。本當にあの子を連れて行きたいの? あの子が殘されるのが辛いの?」
「私、どんなにか、連れて行きたくて。」
「ぢやあ帽子を取りに行つておいで。
稻妻のやうに早く引返すのだよ。」と彼はアデェルに向つて叫んだ。
彼女はあらん限りの速度で、彼の云ふ通りにした。
「結局、一朝の邪魔位は大したことではない。」と彼は云つた。「近い内にあなたを――あなたの思想、會話、伴侶を――一生の間要求する積りなんですからね。」
アデェルは馬車に
跳び込んで來ると、私の
執成しに對する感謝の意をこめて私に接吻した。が、直ぐに彼の向う側の隅に押込められてしまつた。すると彼女は私の坐つてゐる場所を覗き見するのであつた。ひどく難かしい顏をした隣の人はあまりに窮屈過ぎて――今の氣難かしい機嫌の彼には彼女も
流石に話しかけようともせず、説明をきかうともしなかつた。
「私の方に來させて下さいまし。」と私は頼んだ。「きつとお邪魔になりませうから。こちら側には隨分
空きがありますの。」
彼は、まるで子犬か何ぞのやうに、彼女を抱へて渡した。「私は今でも未だこの子を學校へやる積りですよ。」と彼は云つた。しかし今度は彼は笑つてゐた。
アデェルは彼の云ふのをきいて、
“Sans Mademoiselle”(エア先生なしに、)學校に行かなくてはならないのかと
尋ねた。
「さうだよ。」と彼は答へた。「絶對にサン・マドモアゼルで。何故かつて、私が先生を月の世界に連れてつて、其處で火山の頂の間にある白い谷間の中に
洞穴を見つけて、先生は私と一緒に其處に住むのだよ。私と二人つきりで。」
「食べものが無いわ。
餓ゑ死にしておしまひになつてよ。」と彼女は云つた。
「私がこの人の爲めには、朝夕
甘露蜜を集めるのさ。月の世界では、原つぱも丘の邊りも、甘露蜜で白くなつてゐるのだよ、アデェル。」
「温たまりたいと御思ひになつたら、火はどうなさるの?」
「火は月の山の中から燃え上るのさ。この人が寒いときには、私が山の頂へ連れてつて、噴火口の
縁におろしてあげるのさ。」
「お! 何んて惡るいんだらう!(Oh, qu'elle y sera mal)なんて不愉快だらう!(peu comfortable)――ぢやあ、着物が古くなつてしまつたら、どうして新しいのを拵へるの?」
ロチスター氏は困つたやうなふりをした。「エヘン!」と彼は云つた。「お前だつたらどうする、アデェル? 何かいゝ工夫はないか、智慧を
搾つて御覽。白や淡紅色の雪は
上衣にどう思ふかい? それから、虹からは結構綺麗なスカァフが取れるだらう。」
「今のまゝの方がずつといゝわ。」とアデェルは暫く考へた後、云ひ切つた。「それに月の中なんぞにあなたとたつた二人つきりで住んでるんぢや、退屈しておしまひになるわ。あたしが先生だつたら、あたし決してあなたと御一緒に行くことは承知しないわ。」
「この人は承知したのだよ――約束しちまつたのだよ。」
「でもあなたは其處へは連れて行つてあげることはお出來にならないでせう。だつて月に行く路なんぞないんですもの――空氣ばかりでせう。そしてあなたもこの方も飛べないのですもの。」
「アデェル、あそこの畑を御覽。」もう私共はソーンフィールドの門を出て、ミルコオトへの
坦々とした路を輕く
辷つて行くのであつた。あの大雷雨の爲めにそこいらの
埃はいゝ工合に落着き、兩側の低い
生籬や大きな立木などは、雨に元氣を囘復して、緑色に輝いてゐた。
「あそこの畑でねえ、アデェル、一寸二週間許り前のある夕方晩く歩いてゐたのだ――お前が果樹園の草地で
乾草作りの手傳ひをした日の夕方だつたよ。刈草を掻き集めるのに疲れたもので、出入口に腰掛けて休んでゐたんだよ。それから小さな手帳と鉛筆を取り出して、昔々私に起つた不幸なことや、幸福な日が來るようにといふ願ひなどを書き始めてゐたのだよ。もう明るさが紙の上にはうすらいでいつたけれど、私はすら/\と書きつゞけてゐると、そのとき何か知ら
徑を上つてきて、私から二
碼ばかりの處に何か止つたのだ。見るとそれは
陽炎のヴェイルを頭にかけた小さなものだつた。私の傍へ來るようにと招くと、直ぐに膝の上に來たのだよ。私はちつともそれに
對つて口をきかなかつた。またそれも私に物を云ひかけはしなかつた。しかしその眼を私は讀んで、それも私のを讀んで、兩方の無言の對話でこんなことがわかつたのだ、――
「それはフェアリイで、妖精の國から來たのだと云ふのだ。そして、その
使命は私を幸福にしてやる爲めだつてね。私はそれと一緒に
俗世間から出て、淋しい場所へ行かなくてはならん――例へて云へば、月の世界のやうな處だね――そしてそれは、ヘイ・ヒルの上に
昇つた新月に向つて頷いて、私共が住むといふ
雪花石膏の
洞穴のことや銀色の谷のことを、私に話してくれたのだよ。私は行きたいと云つた。だが私もお前が云つたやうに、私には飛んで行く
翼がないつて云つたんだよ。
『まあ、』とフェアリイが云ふには、『そんなことは譯はない! 此處にどんな困難でもなくする
護符がある。』つてね。そして美しい金の指環を取り出したのだ。そして云ふには『それを私の左手の
藥指におはめなさい。すると私はあなたのもの。あなたは私のもの。そして二人は地上を去つて、彼處の私共の天國を作りませう。』つてね。それはまた月を見て頷いたのだよ。その指環はね、アデェル、私のズボンの
かくしに金貨に化けて這入つてゐるけれど、もう直ぐ、私はまた指環にしようと思つてゐるのだよ。」
「だけど、先生がそれでどうなさらなくちやならないの? あたしフェアリイなんぞどうでもいゝの。あなたが月世界へ連れていらつしやりたいのは、先生だと仰しやつたでせう?」――
「先生はフェアリイなのだよ。」と彼は神祕めいた口調で囁いた。そこで私は彼の冗談を氣にかけないやうに彼女に云つた。彼女は彼女で、本當の佛蘭西
人生來の懷疑心をすつかり表はして、ロチスター氏に、「
生得の

つき」(un vrai menteur)だときめつけて、自分は彼の「お伽噺」は、ちつとも信用してゐないと斷言した。そして、「その上、決してフェアリイなぞ住んでもゐなかつたし、よし住んでゐるとしても、」フェアリイ達が、彼に現はれることも、指環を彼に與へることも、または月で彼と一緒に暮さうと云ひ出すやうなことは有りつこないのだと云つた。
ミルコオトで過した時間は、私にとつてはいくらか
煩はしいものであつた。ロチスター氏は私を強ひて、ある絹織物の店へ連れて行つて、其處で、
半打許りも着物を選べと云はれた。その用事が私には堪らなかつた。延期して下さいと願つた。否――それは今やつてしまはなくてはならないのだつた。力を入れた囁き聲で懇願した揚句、私は半打を二つに減らした。これを、併し彼は自分で
選ぶと云ひ切つた。私は心配しながら、
華やかな品物の上を、彼の眼が
逍遙ふのを見つめた。彼は中でも最も素晴らしい紫水晶色の絹と、はでな
薄紅色の繻子に眼を留めた。私はまた小聲で、彼が、私の爲めに金の冠と銀の帽子を同時に買つてくれるやうなものだと云つた。私はどんなことがあつたつて、彼の選んだものを着ようとは思はないから。彼は石のやうに頑固なので、私は散々困り拔いた末、やつと
地味な黒の繻子と
眞珠色をした灰色の絹とに換へるやうに、彼を説きつけた。「今度はまあそれでよい。」と彼は云つた。「しかし、彼はまだ花壇のやうに、かざり立てられた私を思つてゐるのだ。」
彼を絹織物の店から、そして次には寶石商から彼を連れ出して、私はホツとした。彼が私に買つて呉れゝばくれる程、私の頬は迷惑と墮落の感じで、燃えるやうになつた。馬車にかへつて、熱つぽく、疲れて、
後に
倚り掛つた時、私は悲しい喜ばしい樣々の出來事に紛れて、まつたく忘れてしまつてゐたことを思ひ出した――私の伯父、ジョン・エアからリード夫人へ送つた手紙。私を養女となし、私を彼の遺産受取人とするといふ、彼の望みの手紙である、「本當にこれは救ひだ。」と私は思つた。「若し私が殆んど獨立してゐないのだつたら、私はロチスター氏に、まるでお人形のやうに、着物を着せてもらつたり、毎日私の身の
周りに降つて來るお金の雨を受けて、第二のダニイのやうに坐つてゐることに堪へてはゐられない。家に歸つたら直ぐにマデイラに云つてやらう。そしてジョン伯父さんに、私が結婚しようとしてゐること、誰と、といふことも云つてやらう。若し私が
何時かロチスター氏の許に財産の相續を持つて來るといふ見込みだけでも持つてゐるのだつたら、今彼の世話になつてゐることはまだ我慢出來ることだ。」そしてこの考へ(それを、私は、その日、遂行したのである。)に幾分か慰められて、私は今一度私の主人であり、愛人である人の眼を見ようとした。その眼は、私が顏からも凝視からも避けようとするのに
執拗に私のを求めてゐるのだつた。彼は
微笑んだ。私には、彼の微笑がまるで
囘教君主が御機嫌がよくて氣に入つたときに、彼の黄金や寶石を、貰つた奴隷に投げさうなそんなものに思はれた。私は、私の手をいつも求めてくるあの人の手を強く
掴んで、腹立ちまぎれに、赤くして、彼の方に投げ返してやつた。
「そんな風に御覽になることは
要りません。若しそんなになさるなら、私、死ぬまで、あの昔のローウッドの
上衣より外には、何も着ないからようございます。私、この藤色の縞木綿を着て、結婚いたします。あなたはあの
眞珠色の灰色絹で、御自分の化粧着をお
拵へなさいまし。それから、あの黒繻子で、幾枚でも胴着をお拵へになるとようございます。」
彼はくん/\笑つて手を擦つた。「あゝ、この人の樣子ときたら、云ふことときたら素敵だ!」と叫んだ。「この人は變つてるのか? 皮肉なのか? 私は、この小さな英吉利の娘さん一人を、大トルコ帝の後宮全部、
羚羊の眼、極樂女神の姿にも、何にも換へようとは思はない!」
その東洋の
比喩が、またもや私の心を刺した。「私、
後宮美人の代りになんぞ、一寸だつて、成りませんから。」と私は云つた。「だからそんな人と同等に見ないで下さいまし。若しあなたが、そんな調子で、何でもお考へになるのなら、私はもう即刻あなたに
おさらばをしてスタムブウルの慈善市に行つて、あなたが、此處で滿足に使ひ切れなくて困つてゐらつしやるらしい、その
要らないお金を、手廣い奴隷購賣に使ひますわ。」
「ぢやあ、ジャネット。私が肉何トン、黒眼何種と、大勢の
人身の取引をしてゐるとしたら、あなたはどうする?」
「そしたら私は傳道者になつて、奴隷にされた人々――特にあなたの女部屋の人達に、自由を説きに出かける積りです。私は、其處に這入らせて貰つて、
謀叛を起させます。そして三ツ尾のバッショウ(トルコで貴顯を示す)であるけれど、あなたは忽ちに私共の手に
陷つたことに氣がつくでせうよ。併し暴君がかつて與へたこともない程最も寛大な契約書にあなたが署名なさる迄はともかく、私あなたの縛りを斷つて差上げることを承知しませんわ。」
「思ふ存分にしても構ひませんよ、ジエィン。」
「ロチスターさま、あなたがそんな眼をして嘆願なさるのだつたら、私、容赦しませんわ。そんな眼付をなさる間は、私きつとあなたが強制されて、どんな契約書を承諾なさつたとしても、それが解除になつた時にあなたが第一になさることは、その條件を滅茶々々になさることだと思ひますわ。」
「ぢやあ一體ジエィン、どうしようつて云ふの? まさかあなたは祭壇の前で擧げた式の上に祕密な結婚式をしろと私に強ひるのではないでせうね。何か特別な條件を約束したいと思つてるのでせう――どんなことなの?」
「私たゞ樂な氣持でゐたいだけなんですの、山のやうな義理に押しつぶされないで。あなた
Celine Varens に就いて仰しやつたことを覺えてゐらして?――あなたがあの人におやりになつた
金剛石だのカシミアの事を。私はあなたの英吉利のセリイヌ・バーレンにはなりません。私、矢つ張りアデェルの先生のまゝでゐます。それでもつて私、お食事も住居も戴くし、その外年に三十
磅いたゞきます。そのお金の中から私自分の
衣裳の支度をします。だからあなたは何も私に下さつちやあいけません、たゞ――」
「なに、たゞ何なの?」
「あなたのお心だけ。そしてその代りに、私のを差上げれば、その借りは帳消しになりませう。」
「なる程、だが冷淡な國民的厚顏と純粹な
生得の誇(傲慢)に對してはあなたに
匹敵するものはありませんね。もうソーンフィールドの傍に來ましたよ。宜しかつたら今日は私と一緒に食事をしない?」と彼は門を這入るときに
訊ねた。
「いえ、結構でございます。」
「人がきいたら、『いえ、結構で、』なんぞと云ふ代りに何と云ふのでせうね。」
「私これまで御一緒に御食事したことはありませんし、また今になつてしなくてはならないなんて云ふ理由もないと思ひますわ、たゞそのときになつたら――」
「どんなときになつたら? 半分しか云はないのが好きな人ですね。」
「仕方がなくなつたときには。」
「私と食事を共にするのを
怖がるつて、あなたは私がまるで
喰人鬼か
喰屍鬼かなんぞのやうに食べるとでも想像するの?」
「そんなこと私考へてはをりませんわ。ですけれど私矢つ張りもう一ヶ月いつもの通りにしてゐたいんですの。」
「先生なんて云ふ奴隷状態は今直ぐ止めてしまふのです。」
「御免下さい。私どうしても
止しません。それも私いつもの通りに續けます。今までの
慣例どほり私は終日お妨げしないやうにします。夜になつて、私に會ひ度い氣分におなりのときに私を呼びにお
遣しになつて下さいまし。そしたら私、參ります。その他のときはいけませんわ。」
「煙草が
喫みたいな、ジエィン、それとも

煙草を一
摘み。アデェルがいつも云ふ『面目を保つ爲めに』(
“Pour me donner une contenance”)の下に私を慰める爲めに。都合惡く煙草入も

煙草の箱も持つてゐない。だがまあおきゝなさい――小聲でね。今はあなたのときだ、ねえ小さな暴君、しかしやがて間もなく私のものになるのですよ。そして一度手に入れたら離さない程にあなたを確實に私のものにした曉には、私は正に――
比喩的に云つて――こんな鎖にあなたをつないでおきませう」(彼の時計の鎖に觸りながら)「えゝ、『
麗しく小さきものよ、我が胸に汝を帶びむ、我が寶石を失はざらん爲め。』」
かう彼は馬車から私を降しながら云つた。私は彼がその後でアデェルを抱き上げてゐる間に家へ這入つて行つて、二階に引込んでしまつた。
夜になると彼は
定つて私を傍に呼びよせた。私は彼のすることを用意しておいた。何故なら、私は始めから終りまでさし向ひの話ばかりで過すことはしまいと決心したからである。私は彼のいゝ聲を憶えてゐた。彼が歌ふことを
好んでゐることも知つてゐた――
上手な歌手が大抵さうであるやうに。私自身は決して聲樂家ではなかつた。そして、氣難かしい彼の判斷では私は音樂家でもないのだつた。しかし、私は
上手な演奏ならば聽くのは好きだつた。ロマンスのときである
黄昏が窓格子の上に青い、星をちりばめた旗を下すと直ぐ、私は立上がつてピアノを開け、お願ひだから歌を一つうたつて下さいと、ねだつた。彼は私のことを氣まぐれな魔法使だと云つた。そして、また、いつか別のときにうたふことにしようと云つた。しかし、私は今のやうなときはないのだ、と云ひきつた。
「私の聲が好きだつたの?」と彼は訊いた。
「とても。」私は感じ易い彼の虚榮心を甘やかしたくはなかつたけれど、一度だけ便宜の上から機嫌をとり、
勵ましさへしたのだつた。
「ぢやあ、ジエィン、あなたが伴奏を
彈かなくちやいけませんよ。」
「ようございますわ。やつて見ませう。」
私はやつてみたが、直ぐに腰掛から拂ひ除けられ、「無器用な子」と云はれてしまつた。
不躾に片側に押しのけられて――それが私には本當に望ましかつたのである――彼は私の場所を奪ふと、自分で伴奏しはじめた。彼は歌ふのと同じく
彈くことも出來たのである。私は急いで窓の引込んだ處へ行つた、そして其處に掛けて、靜まり返つた木立や暮れかけた
芝生を眺めてゐる間、かぐはしい大氣に向つて快い調子で次のやうな歌がうたはれた。
火と燃ゆる胸のその奧に
抱きたる變らぬ戀は、
溢れたる潮を、逆卷きて
身内めぐらしめぬ。
日毎あの女來るは我が希望、
あの女去るは痛みなりき。
あの女の足音おそきとき
我が血凍りぬ。
我は愛し愛さるれば、
そは云ひやうなき幸なりと想ひて、
そが方に我は走りぬ、
盲目の如く、熱き心もて。
さはれ我等が生命を分けし隔ては
途なきまでに遠く遙かなりき。
また緑なす大海の浪の
泡立ちし流れのごと危かりし。
また荒野を、さては森を拔けし
盜人の徑のごと安らふときなきを、
我等二人の心へだつる
勢、權、悲、憤あれば。
我は危ふきを冒し、妨ぐるものを蔑み、
前兆に逆ひぬ、
脅すもの、惱ますもの、戒むるもの、
なべてを我は勇しく越え行きぬ。
光の如く速かに我が虹の橋は懸りぬ、
我は夢の裡にある如く飛びつ、
雨と光の子なる
麗しき薔薇の花眼に見えたれば。
暗き苦難の雲の上に猶も明るく
かの優しき、聖なる歡びは輝く、
今は我怕れず、逃ぐる術なく恐ろしき
わざはひの如何に間近く迫るとも。
我は怕れず、このよきときに、
我が打ち超えしなべてのもの、
恐しき復讐を叫びて
強く速く飛び來るとも、
たとへ傲れる憎惡我を打ち倒すとも、
「權力」の障壁我に迫るとも、
または牙咬みならす「力」が凄まじき顏もて
永遠の敵なりと誓ふとも。
我がいとしき人は嫋かなる手を
氣高き信もて我が手に置きて、
さて誓ひぬ、婚姻の聖き絆を
我等まとはむと。
我がいとしき人は接吻の捺印もて誓ひぬ、
我と共に生き――死なむと。
遂に我は我が云ひやうなき幸を得たり、
我は愛し、愛されたれば!
彼は立上つて私の方へ來た。彼の顏は燃え、強い鋭い眼は輝き、顏中に
和らぎと熱情があふれてゐたのを見た瞬間、私はひるんだ――しかしその次にはもう氣力を囘復した。私は情に滿ちた場面や、愛の言葉などを、避けたかつた。而も、その二つの危險に面してゐるのである。防禦の武噐を用意しなくてはならない。私は心を
勵まして、彼が私の傍へ來たとき、無愛想に
訊ねた。「一體あなたは、誰と結婚しようと思つていらしたのです?」
「大事なジエィンからそんな質問が出るのは變ですね。」
「何ですつて! 私いかにも當然な、必然なことだと思ひましたわ。だつて、あなたは未來の妻のことを一緒に死ぬのだと仰しやつたでせう。そんな異教的な思想は一體何といふ意味なんですの? 私、御一緒に死なうなんぞといふ考へは
毛頭ありませんことよ――本當なんですよ。」
「あゝ、無論望むことは、願ふことは一緒に生きることぢやありませんか! 死ぬことぢやあない。」
「さうですとも。私だつてときが來たら、あなたと同じに結構死にますわ。だけど私はそのときを待つべきで、
寡婦殉死なんぞで後を追つたりはしませんわ。」
「そんな勝手なことを考へたのを許して、そのしるしに仲直りの接吻をする?」
「いゝえ、私、御免を蒙つた方がようございますわ。」
たうとう私は「強情な子」だと云はれてしまつた。その上、こんなことも。「どんな女の人だつて、その人を讃美して歌つたあんな歌をきかされたら、骨の
髓までとろけてしまふのだけど。」
私は自分が生れつき強情で――まつたく石みたいで、彼も私がさうだといふことを屡々見せられるだらうと確言した。そして、それどころか、今から先四週間が終らない内に私の性質の樣々の粗暴な點をお目に掛けようと思つてゐること、彼がどんな大變な契約をしたか、まだ取消す餘裕のある間に、十分承知しなくてはならないのだと云ふことなどを話した。
「落着いて理智的に話さないの?」
「お宜しかつたら落着きませう。ですが理智的に話をすると云ふことなら、今私さうやつてる積りですわ。」
彼は怒つて、ヘンと云つて舌打ちした。「それでいゝ、」と私は思つた。「何とでも怒るなり
焦れるなりなさいまし。だつてあなたと御一緒にやつて行くにはこれが最上の方法なんですもの、本當に。私は言葉に表はせない位あなたをお愛し申してをります。でも感情に溺れはしません。またこの即答の針でもつてあなたをも
危い
瀬戸際から守つて差上げるのです。いえ、それ以上に、そんな
耳障りなことを云ふことで、私共お互ひの本當の幸福にとつて最も
ためになる二人の間の
隔てといふものを保つのです。」
だん/\と私は彼をかなり
焦らせた末、とう/\彼が怒つて部屋のずつと向うの
端に引込んでしまふと、私は立上つて私らしい、いつものうや/\しい態度で、「お休み遊ばせ。」と云つて、
傍戸を拔けて出て行くのであつた。
かうして始めた
仕組を私は試みの間中續けた。そしてそれが最も成功したのであつた。確かに彼はいくらか不機嫌で
ぷり/\してゐた。しかし全體から云へば彼は大變滿足してゐた。そして彼の我儘を助長する一方、
仔羊のやうな從順さ、
斑鳩のやうな敏感さが彼の批判心を喜ばせ、常識を滿足させ、いくらか彼の趣味に合ひさへした。
他の人達のゐる處では私は以前の通り
愼しやかにおとなしくしてゐた。變つた仕打が必要でなかつたからである。さういふ風に彼に楯ついたり、困らせたりするのは夜差向ひで話をするときだけだつた。彼はずつと續けて、時計が七時を打つと
定つたやうに私を呼びに
寄越した。しかしもう私が彼の前に出て行つても「戀人」だの「いとしい人」だのといふ甘い言葉で呼びかけることはなく、私にかける一番よい言葉と云へば「癪にさはる人形」とか、「意地惡の
妖精」とか、「薄情者」、「とりかへ子」等であつた。愛撫の代りに今は私はしかめ面を、手を握られる代りに腕を掴まれ、頬に接吻される代りにはきつく耳を引張られるのだつた。それでよかつた。今では私は確かにこの
手荒な愛情の方がどんな優しいものよりもいゝのであつた。フェアファックス夫人も私のことを是認したことが私に分つた。私のことに關する彼女の心配は消えてしまつたのである。だから私は確かに間違つてはゐなかつたのだ。同時にロチスター氏も、私がまつたく彼を大切に思つてゐることを確かめて、もう目の前に近づいてゐる或る時期になつたら、今の私の仕打に對して、ひどい復讐をしてやるからと
嚇かすのだつた。私は心の中で彼の
嚇かしを笑つてゐた。「今私は道理に叶つたやうにあなたを喰ひ留めてゐられるのです。」と私は考へた。「またこの後とてもそれが出來ることは疑ひありません。若し一つの手段が效力を
失くしたら、また別のが工夫される譯ですから。」
とは云へ結局私の仕事は
容易いものではなかつた。幾度か私は彼を
焦らすよりは喜ばせたいと思つた。私の未來の
良人は私にとつては全世界となりつゝあつた。否、世界以上――殆んど天上界の希望とまで。恰も
日蝕が人間と赫々たる太陽との間に

まつてゐるやうに、彼は私とあらゆる信仰心との間に立つてゐるのであつた。その頃、私は神の創造物の故に――それを私は偶像にしてゐたので、神を見ることが出來なかつた。
その求婚の月は、過ぎてしまつた。その最後の時間さへ、數へられた。近づいたその日――婚禮の日は、延期されることはなかつた。さうして、その日の用意萬端は、
整つてゐた。少くも私だけは、最早何もすることがなかつた。私の小さな居間の壁際には、荷造りして、鍵をかけ、綱をかけられた
旅行鞄が、一列に並んでゐた。明日の今頃は、これらが遠く、
倫敦への途中にあるだらう。そして私もD・V(神意に適へば)――と云ふよりは、寧ろ、私ではなく、ジエィン・ロチスター氏といふ未知の人間が。名宛札のみが、釘づけにされずに殘つてゐた。その、四枚の小さな四角い紙片は、
抽斗の中に入つてゐた。そのひとつ/\に、ロチスター氏は、「
倫敦、××旅館、ロチスター夫人」と自分で
名宛を書いて呉れた。私は、それを、自分で附けることも、また、附けて貰ふことも出來なかつた。ロチスター夫人! 彼女は、存在してゐない。彼女は明日、午前八時少し過ぎまでは、生れないだらう。さうして、私は、あの所有物全部を彼女に
讓り渡す前に彼女がこの世に生れて來るのを確める爲めに待つてゐるのだ。あの化粧机の向う側の
押入の中に彼女のものだと云ふ服がもう既に私の黒い毛織のローウッドの服と
麥藁帽子とに入れ代りになつてゐるだけで十分である。何故ならあの婚禮の衣裳の
一揃――眞珠色の服、奪つてきた旅行鞄から下つてゐる霞のやうな
薄絹の被物などは私のものではないのだ。私はそこに入つてゐる不氣味な、亡靈のやうな服を
蔽さうと押入を
閉めてしまつた。こんな夜――九時――には私の居間の暗がりの中に實際それは幽靈めいた
微かな光を放つてゐた。「青白い夢よ、私はお前を獨り殘して出て行くよ。」と私は云つた。「熱があるやうだ。風の吹くのが聞える。外に出て吹かれて來よう。」
私を熱つぽくしたのは支度の
忙しさばかりでもなく、大きな變化――明日より始まるべき新生――ばかりでもなかつた。(こんな
夜更に暗がりの庭に私を出で立たせるやうな落着けない、興奮した氣分をかもしたのには、無論この二つの事情があづかつてゐるのではあるが。)しかし、それ等のものより以上に、第三の原因が私の心にこたへたのである。
私は何とも云へない氣がゝりな思ひを胸に抱いてゐた。私には理解しがたい何事かゞ起つたのである。その出來事を知つてゐるのも見たのも私より他には誰もない。それが起つたのは先夜のことだつた。その晩、ロチスター氏は留守であつた。今も未だ歸つてもゐないのである。彼は用事の爲めに三十
哩ばかり離れたところに持つてゐる二つ三つの農場のある小さな所有地へ行つてゐた――彼が考へてゐる英吉利出發の前に自分で決着をつけておかなくてはならぬ用事である。私はかうして彼の歸りを待つてゐた。私の心の荷を下ろし私を混亂させてゐる謎の解決を彼に求めようと
頻に思ひながら、讀者よ、彼が歸つて來るまで待つてゐて下さい。私が彼に祕密を打ち明けるときに、あなた方もその祕密がお分りになるのですから。
私は風に吹きやられながら果樹園の
隱所へ行つてみた。茫漠とした風は終日南の方から強く吹きつけてゐたのである、しかし雨は一滴もまじへないで。夜になつても
鎭るどころか益々その勢を増し
怒號を強めるばかりで、樹々はあちこちと身もがくかはりに、たゞもう一方に吹きつけられたきり、一時間中たゞの一度だつて枝が元にはね返る瞬間もなく、枝の繁つた樹々の頂は無理やりに北の方にねぢ曲げられたまゝであつた。雲は極から極へ、團一團と
慌しく續けざまに流れて行つた。そして、この七月の日に青空の一かけも見えないのであつた。
この空間を轟きつゝ流れて行く、
量り知られぬ氣流の中に自分の心の苦しみを投げつけながら、風に向つて駈けて行くのは何か知ら或る荒々しい歡びだつた。月桂樹の並木道を下りて行くとき、私は七葉樹の
殘骸を見た。それは黒く引裂かれて突立つて、
眞中から裂けた幹は物凄く口を開いてゐた。裂けた半分同志は互に離れきらずに、しつかりした地盤と強い根とがその裂け落ちるのを
支へてゐた。共同の生活力は滅びてしまつたけれども――最早樹液は通ふことが出來なかつた。兩側の大きな枝は死んでゐる。そしてこの次の冬の嵐はきつと一方か兩方共かを地上に倒してしまふだらう。まだ一本の樹をなしてゐるとは云へるかも知れないけれど、しかし廢墟、まつたくの廢墟である。
「お前達はよく互にしつかりと抱き合つてゐる。」と、まるで巨大な
木片が生命を持つてゐて私の云ふことが聞えるかのやうに私は云つた。「お前たちはそんな風に
害はれ、焦げ燒けてゐるけれど、まだお前たちの中には、あの忠實な正直な根にしつかり着いてゐる、そこから上つて來る
生命の意識が少しはある筈だ。もうお前たちは緑色の葉をつける事はないだらう――もう二度と鳥達がお前たちの枝の間に巣を造つて歌を歌ふのを見ることもないだらう。
歡びと愛の時代はお前達から過ぎ去つたのだ。でも、お前達は孤獨ではない。お互に
朽ちた木に同情する仲間があるのだ。」私がそれを見上げたとき、その
裂目を埋めてゐる空に暫くの間月が現はれた。その圓い姿は血の色で半ば赤く被はれてゐた。月は一瞬亂れた陰鬱な光を私の上に投げたと思ふと、すぐに厚い雲の
塊の中にかくれてしまつた。一瞬の間、ソーンフィールドの周圍に風は落ちた。しかし遠い彼方に、森や流れを渡つて、狂つた陰慘な叫び聲が流れた。それをきいてゐるのは陰氣なものであつた。私は再び馳せ去つた。
私は果樹園の中を此處彼處さまよつた。木の根の周圍の
草地一ぱいふり撒かれた林檎を拾ひ集めた。そして私は
熟れたのと熟れないのとを選り分けた。それを家へ運んで貯藏室に藏つた。それから
爐が
焚いてあるかどうかを確めに書齋へいつてみた。夏でもこんな陰氣な晩には、ロチスター氏は歸つてきて明るい
爐を見るのが好きだといふ事を私は知つてゐた。さう、火はしばらくの間
焚きつけられてあつて、よく燃えてゐた。私は爐邊に彼の
肱掛椅子を置いて、
卓子をその傍に押しやつた。窓掛を下ろし蝋燭を持つて來て
灯すばかりにしておいた。かうした支度を終ると、前よりもつと落着けなくなつて、じつと坐つてゐられなくなつて來たばかりか、家の中にゐることさへ出來なくなつた。部屋の小時計と廣間の古い柱時計が同時に十時を打つた。
「隨分夜が更けたこと!」と私は云つた。「門のところまで駈けて行かう。時々、月の光がさすから、結構道は分るだらう。もうあの方も歸つていらつしやる時分だ。あの方にお會ひすれば不安な時がしばらくでもたすかるだらう。」
風は門を蔽うた大木に高く
轟いてゐた。しかし道路は
目路の限り右も左も
しんとして物の影もなかつた。たゞ時々月が覗いたときにそこを横ぎる雲の影があるばかりで、動く物影もない長い蒼白い一筋の道であつた。
見てゐる間に子供らしい涙が眼を曇らせた――失望と待ちあぐんだ涙である。恥しくなつて私はそれを拭つた。私はためらつてゐた。月はまつたく姿をかくし、深い雲の
帷をぴつたりと引いてしまつた。夜は暗くなり、
疾風に乘つた雨が慌しくやつて來た。
「歸つてゐらつしやるといゝに! 歸つてゐらつしやるといゝに!」私は病的な前兆におびやかされ乍ら叫んだ。私はお茶の前に彼が歸つて來るだらうと思つてゐた。だのにもう眞暗だ。何が彼を引止めてゐるのだらう? 間違ひでもあつたのか? 昨夜の出來事が再び私の心に
甦つて來た。それを、何か不吉なことの前兆のやうに思つた。私は自分の希望が實現するにはあまりに輝かしすぎるやうで恐しかつた。それに私は近頃あまりに幸福を味ひすぎたので、私の幸運はもうその絶頂を過ぎて、今は傾かなくてはならないのではないかと想像もされるのであつた。
「いや、私はとても家へは歸れない。」と私は思つた。「あの方がこんなひどいお天氣に外にゐらつしやるのに、火の傍に坐つてゐるなんて出來やしない。心を張りつめてゐるよりは、身體を疲らした方がまだしもだ。出掛けてあの方をお迎へしよう。」
私は出掛けた。急いで歩いたけれど、遠くまでは行かなかつた。四分の一
哩を數へないうちに、
蹄の音が聞えて來た。誰か騎者が、馬を急がせてやつて來る。犬が一疋その傍を駈けてゐる。
凶兆よ去れ! 彼だ。メスルーに
跨つてパイロットを連れた彼なのだ。彼は私を見た。月が大空に青い原をひらいて、水のやうに光りながら浮んでゐたから。彼は帽子をとつて、頭の上で振つて見せた。私は彼を迎へに駈け出した。
「さあ!」手をさしのべて
鞍から身を
屈めながら彼は叫んだ。「駄目、獨りぢや出來やしない。私の靴の爪先にお上り。兩手をかして。お乘り!」
私はその通りにした。喜びが私を輕快にした。私は彼の前に
跳び上つた。そして私を迎へる心をこめた
接吻を受けた。思ひ上つた勝利感、それを私は出來るだけのみ込んだ。彼は喜びを抑へて訊ねた。「だが何事かあつたの、ジャネット、こんな時間に私を迎へに出て? 何か惡いことでもあつたの?」
「いゝえ。だけど私あなたがもう二度と歸つていらつしやらないやうな氣がしたんですの。私、家の中であなたをお待ちしてゐられなかつたんです。特にこの雨と風では。」
「雨と風、まつたくだ! 成る程あなたは
人魚のやうにびしよ濡れだ。私の外套を卷きつけておきなさい。だがジエィン、あなたに熱があるやうだ――頬も手も燃えるやうに熱い。も一度
訊くけれど、どうかしたの?」
「もう何んにも、私、
怖くもなければ嫌な氣持でもありませんの。」
「ぢやあ兩方だつたの!」
「まあね。ですが追々とそのことに就いてすつかりお話ししませう。きつと、あなたは私の苦しんだのをお
嗤ひになるばかりでせう。」
「明日が過ぎたら心からお前をわらつてやらうが、それまでは
憚りませう。私の獲物は
不確なのだから。この一ヶ月中、このあなたときたらまるで
鰻のやうに掴まへやうがなく、
野薔薇のやうに刺したんですからね! どこにだつて一寸手を
觸れゝば突き刺されたんだもの。だがもう今は迷へる仔羊は私の胸に抱きとつたやうだ。あなたは羊飼を探して群をさまよひ出たんだね、ジエィン?」
「私あなたをお待ちしてゐました。でも威張つちや駄目。さあ、ソーンフィールドに着きましてよ。もう降ろして下さいまし。」
彼は
甃石の上に私を降ろした。ジョンに馬を曳かせて、私に從つて廣間に這入ると彼は私に急いで何か乾いた物を着て書齋の彼の許へ歸つて來るやうにと云つた。私が階段の方へ行かうとすると彼は私を引止めて、長くならないといふ約束をさせた。長いどころか、五分間の内に私は彼の許に引かへした。彼は食事をしてゐた。
「掛けてお
相伴なさいよ、ジエィン。有難いことだ、もう一度のを除くと、これがソーンフィールド莊で食べる最後の食事になるのですよ。」
私は彼の傍に掛けたけれど、食べられないと彼に云つた。
「それは、これから旅行をしようとしてゐるからなの、ジエィン? あなたの食慾をなくしたのは
倫敦へ行くといふことを考へるからなの?」
「私今晩は先のことなどはつきり見えませんの。そしてどんなことを私の心が考へてゐるか殆んど分りませんの。この世の中の何も
彼もがみんな本當ぢやないやうな氣がして。」
「私を
除いてはね。私は立派な人間ですよ、――
觸つて御覽。」
「あなたこそ何よりも幽靈のやうなのです。あなたはたゞ夢なんです。」
彼は笑ひ乍ら手をさしのべた。「これが夢?」と彼は私の眼近にそれを持つてき乍ら云つた。彼はその長い強い腕と同じやうに、しつかりした、筋ばつた力のある手を持つてゐた。
「いゝえ、それに
觸れたつて、やつぱり夢ですの。」私の顏の前からそれを下ろし乍ら私は云つた。「お食事はおすみですの?」
「あゝ、ジエィン。」
私は
呼鈴を鳴らしてお盆を下げさせた。再び私達だけになると、私は火をかき起して、私の主人の膝元の低い腰掛に掛けた。
「もう
眞夜中近くですのね。」と私は云つた。
「さうね。だがジエィン、覺えてゐるでせうね、私の婚禮の前の晩には私と一緒に起きてゐてくれると約束したのを。」
「いたしましたわね。で、少くとももう一時間か二時間位お約束を守りませう。私ちつともお床に這入り度くはないのですの。」
「そちらの支度はもうすつかりいゝの?」
「え、すつかり。」
「私の方も同樣だ。」と彼は答へた。「何も彼も片をつけてしまつた。私たちは明日、教會から歸つて後半時間以内に、ソーンフィールドを
發ちませう。」
「結構ですわ。」
「何といふ獨特の微笑を浮かべて、その『結構です』といふ言葉を云ふのだらう、ジエィン! 何て明るい色が兩頬に上つて
來るのだらう! そしてまた、どうしてそんなにいつもになく眼を輝かして! 元氣なの?」
「だと思ひます。」
「思ひますとは! どうしたの? お話し、どんな氣持なの?」
「出來ませんわ。私の氣持は言葉には現はせないのです。この今の時が永久に終らなければいゝと思ひます。この次にはどんな運命に變つて行くか誰が知つてゐませう?」
「それは憂鬱病だよ、ジエィン。あんまり興奮しすぎたのか、でなけりや
疲れすぎだ。」
「あなたは落着いた、幸福な氣持がなさつて?」
「落着く?――いや。しかし幸福だ――心の底まで。」
私は彼の顏に幸福の
徴を讀まうと見上げた。それは熱し、輝いてゐた。
「あなたの祕密といふのを打明けなさい、ジエィン。」と彼は云つた。「私に話してしまつて、あなたの心を壓迫する重荷からすつかり樂におなりなさい。何が恐しいの!――私がよい
良人だといふことを證明しないから?」
「そんなこととはすつかりかけ離れたことですわ。」
「あなたはこれから這入らうとしてゐる新しい世界――あなたが這入らうとしてゐる新しい生活のことで
氣遣つてるの?」
「いゝえ。」
「どうしたと云ふの、ジエィン。あなたのその悲しさうな、思ひ切つた樣子と云ひ口調と云ひ、私は困らせられ苦しめられる。説明が聞きたいのだよ。」
「では、ね、聞いて頂戴。あなたは昨晩お家にはゐらつしやいませんでしたわね?」
「さうだ――その通りだ。
先刻何か私の留守の間に起つたとあなたは一寸洩らしたつけ。――その結果に就いては、多分何も
[#「何も」は底本では「何き」]聞かなかつたが、しかし、つまるところそれがあなたをかき
擾したのでせう。聞かせて下さい。多分フェアファックス夫人が何か云つたのか? でなければ召使共の蔭口を聞いたのか? 感じ易いあなたの自尊心が
傷つけられたのでせう?」
「いゝえ。」十二時が鳴つた。私は、小時計が銀の鐘聲を、柱時計が
嗄れた顫へる打音を終る迄待つて、さて話を進めた――
「昨日は一日中私は隨分
忙しく、そしてまた絶間ない騷ぎの中で隨分幸福でしたの。何故つて、私は、あなたが考へてゐらつしやるらしい、そんな新しい世界、その他のことに就いて何も心を惱ますやうな
怖れに煩はされはしませんもの。私は、あなたと御一緒に生きて行くといふ希望を持つのは、輝かしいことだと思ひます、あなたをお愛し申してゐるのですもの。いえ、今は私に
觸らないで下さい――妨げなしに話させて下さいまし。昨日私は天を信頼して、事はあなたにも私にも、いゝ工合に運んでゐると信じてをりました。お思ひ出しになるでせう、よく晴れた日でした――大氣も空も
穩やかで、あなたのお身の安全や旅の氣持のことなど何も
氣遣ふことはないのでした。私はお茶の後
少時の間
甃石の上を歩きました。あなたのことを考へ乍ら。そして想像の裡ではあなたは私の直ぐ傍にゐらつしやるので、實際ゐらつしやらなくも殆んど淋しいとは思ひませんでした。私は自分の前にひろげられた生活――あなたの生活――私自身のよりはずつと廣く複雜した生活のことを考へてゐました。それは小川が流れ込む海の深みが、その狹い
川床の淺瀬よりもずつと深いのと同じなのです。私は何故道徳家達がこの世界を陰氣な荒野だと云ふか不思議でなりませんでした。私にとつてはまるで薔薇のやうに花咲いてゐるのですもの。ちやうど日が沈む頃風が
冷くなつて空が曇つて來ました。私は家に這入りました。ちやうど屆いたばかりの私の婚禮の衣裳を見に、ソフィイを二階へ呼びました。そして私はその下に箱の中からあなたの贈物を見つけました。――あなたがお金に飽かせて
倫敦から取り寄せて下すつた被衣なのです。多分、私があの寶石をいたゞかなかつたので、何か
巧く私をだまして同じ位高價なものを受取らせようとなすつたのだと思ひました。それをひろげて私は
微笑みました。そしてあなたの貴族趣味のことで、また貴族夫人の持物であなたの平民の花嫁を飾り立てようとなさるあなたの努力のことで、どういふ風にあなたを
焦らして差上げようかと工夫したのでした。私はこの生れの低い頭の
被物として自分で用意してあつた縫取も何もない四角な絹布をあなたの處へ持つて下りて、財産も、美しさも、身内もないやうな女にはそれで結構ではないかと、お
訊ねしようと思つてゐました。私にはあなたがどんなお顏をなさるかゞはつきり見えるやうでした。また過激な平民的なお答や、お金入や
冠なんぞと結婚して富を増したり地位を高めたりする必要はあなたには無いと云ふ誇らしげな拒絶などが、聞えるやうでした。」
「この
魔女奴、なか/\
巧く私の心を讀み取つたな!」とロチスター氏は口を挾んだ。「だが
薄絹の中に縫取の他に何かあつたの? そんな悲しさうな顏をしてるとは、毒か、短劍でもあつたといふの?」
「いえ、いえ。その織物の精巧なことと立派なことの他には、たゞフェアファックス・ロチスターの誇があつたばかりですの。それは何も私を驚かしはしませんでした。惡魔には私慣れてゐるのですもの。ところで、暗くなると風が出て來ました。それが昨日の晩は今吹いてゐるやうな――騷がしく強い――のではなくて、哀れつぽい
哭くやうな音を立てゝ吹いてゐて、
氣味惡い位のことではなかつたのです。あなたがお家にゐらつしやればいゝと思ひました。この部屋に這入つて來ると、
空虚の椅子や火の
氣の無い爐が私に身顫ひさせました。お床に這入つてからも暫らく眠れませんでした――不安な興奮した氣持が私を惱ますのです。なほも起つて來る強風は、私の耳には何か嘆き悲しんでゐる
微かな音を包み消してゐるやうに聽えるのです。家の内からか
戸外からか最初のうちは分りませんでした。けれども
鎭つた
合間々々に、はつきりしないけれども
哀しげにそれが聞えて來るのです。とう/\私は遠くで犬が吠えてゐるに相違ないと思ひました。それが止んだときにはほつとしました。眠つてゐても私は夢の
裡に暗い、ひどい風の夜のことを續けて見てゐました。またあなたの傍にゐたいと思ひつゞけて、私共を
押距てる障壁の怪しい、悲しい自覺を經驗しました。はじめの眠の間中私は何處か知らない曲り曲つた路を歩いてゐました。私の
周りはすつかり薄暗くて、雨が私に降りかゝるのです。私は小さな子供を抱いてゐて――歩けない位小さな、赤ン坊で、それが
冷え切つた私の腕の中で顫へてゐて、哀れな泣き聲が耳に聞えるのです。路のずつと先の方にあなたがゐらつしやるやうでした。私は力の限りあなたに追ひ付かうとして、一生懸命にあなたの名を呼んで待つて下さいと頼まうとするのですけれど、身體の自由は利かない、聲も矢つ張り消えてしまつて聞き取れなかつた。そしてあなたが次第々々に遠くへ行つておしまひになるのが分るのです。」
「で、そんな夢が今もあなたの心を
壓しつけてゐるの、ジエィン、私があなたのすぐ傍にゐるのに? 神經質な子! ありもしない悲しみなんぞ忘れて、今ある幸福のことだけを考へなさい! あなたは私を愛すると云つた、ね、ジャネット。さう――私はそれを忘れはしない。そしてあなたも
否む筈はない。その言葉はあなたの口からはつきりと聞えた。はつきりと、
優しく聞えた。多分嚴肅過ぎるが音樂のやうな
甘美な考へ――『あなたと暮らすといふ希望を持つてゐることは輝かしいことだと思ひます、エドワァド、私はあなたをお愛し申してゐるのですもの。』あなたは、私を愛してゐる、ジエィン?――も一度仰しやい。」
「お愛し申してをります――をりますわ、
心底。」
「いや、」と彼は一寸默した後に云つた。「妙なことだが、その言葉は痛く私の心に
徹へる。何故だらう? あなたがそれ程迄に熱心な、一筋な心で云つたからだと思ふ。今、私を見上げてゐるあなたの
眼差が信頼と眞實と熱情で非常に崇高だからだと思ふ。何か精靈が私の傍にゐるやうで堪へられない氣持がする。
意地惡な顏をなさい、ジエィン――どんな顏をするのかよく知つてるやうに。我儘な、はにかんだ、憎らしい微笑を浮べて御覽。私が
憎らしいと仰しやい――私を
焦らしたり怒らせたりなさい。私に感動させること以外なら、何でもおやりなさい。悲しくさせられるよりは怒らされた方がまだ増しだもの。」
「私、おはなしが濟んだらお好きな程
焦らしたり怒らせたりして差上げます。でも、お
終ひまで聞いてね。」
「私は、ジエィン、もうすつかり話しが濟んだと思つてゐた。あなたの憂鬱の
源は夢なんだと思つてゐたのに。」
私は頭を振つた。「何! まだあるの? しかし大したことぢやないでせう。私は
輕信しないことを先に云つときますよ。さあ。」
彼の不安な樣子、何か
氣遣ふやうないら/\した彼の擧動に私は驚いた。しかしつゞけた。
「私はまた違つた夢を見ましたの。ソーンフィールド莊が陰氣な
廢墟になつて、
蝙蝠や梟の
棲家になつた夢を。立派な前面は何一つなくなつて、たゞ貝殼のやうな壁ばかし高く突立つて、今にも落ちさうに殘つてゐるやうな氣がしました。月の夜、私は草の
生ひ繁つた垣を通つてその内側を歩き

りました。大理石の
爐に
躓いたり、壞れて落ちた
蛇腹の破片に引つかゝつたりし乍ら。肩掛にくるまり乍ら、まだ私は見知らぬ赤ン坊を抱いてゐるのです。それを私は何處にも下ろすことが出來ないのでした――どんなに腕が疲れても、どんなにその重味が私の歩みを妨げても、私はそれをかゝへてゐなくてはならないのです。路の遠くの方に馬の蹄の音が聞えて來ました。それは確かにあなたです。そしてあなたは長い間、遠い國へ向けて行つておしまひになるところなのです。私は
壞れかけた壁を狂氣のやうに危く急いで這ひのぼりました、たゞ一目頂上からあなたを見たいと夢中になつて。石は私の足の下から轉げ落ち、掴んだ
常春藤の枝は切れ、赤ン坊は恐ろしがつて私の首にすがりついて危く私を
絞め殺しさうになるのです。やつと頂上に來ました。白い路に、次第に小さくなつて行く一點の汚點のやうにあなたが見えます。風が強く吹きすさんで立つてゐられない程でした。
狹い張り出しに坐つて、驚き恐れてゐる赤ン坊を膝にのせて靜まらせました。あなたは路の
曲角をおまがりになつた、最後の一目と身を乘り出すとたん、壁が崩れ落ちて私は搖られた。子供は膝から
轉げ落ち、私は平均を失つて、落ち、それで眼が覺めたのでした。」
「さあ、ジエィン、それだけ。」
「前置だけは。おはなしはまだなのです。眼を覺ますと、何か光が私の眼にまぶしくあたります。私、思ひました――あゝ、陽の光だと! でも間違ひでした。それは蝋燭の光だつたのです。ソフィイが這入つて來たのだと私は思つてゐました。
燈は化粧机の上に置いてあつて、床に這入る前に婚禮の
衣裳と
被衣をかけておいた押入の扉は開け放しになつてゐました。そこで何かさら/\と云ふ音がするのです。私は『ソフィイ、何してるの?』と
訊ねてみました。返事はなく、押入から人影が一つ出て來たのです。それは燈を取つて高く差上げ、旅行鞄から下つてゐる服を見渡しました。『ソフィイ! ソフィイ!』と私はまた呼びました。それでもまだ
默つてゐるのです。私は床の上に起き上つて身を乘り出してみました。はじめは驚きが、次には
惑亂が襲つて來ました。その次には身内の血が凍つてしまひました。ロチスターさん、それはソフィイでもなく、レアでもなく、フェアファックス夫人でもなく、また――いえ、間違ひありませんでした、今も――それはあの氣味の惡い女の人、グレイス・プウルでさへないのです。」
「そのうちの誰かに相違ない。」と私の主人は
遮つた。
「いえ、私、
本氣でさうぢやないと申します。私の眼の前に立つてゐたあの姿は、今迄ソーンフィールド莊の邸内では決して私、見かけたものではありません。あの
背丈や恰好は私には初めてなのです。」
「どんなか云つて御覽なさい、ジエィン。」
「丈の高い、
大柄な、黒い毛を長く背中に垂らした女の人のやうでした。どんな服を着てゐたか存じません。白くて
襞も何もなしでしたけれど、
長上衣だか、敷布だか、それとも
屍衣だか分りませんの。」
「その女の顏を見たの?」
「最初は見ませんでした。ですけど、やがてその人は、私の
被衣を掛けてあるところから取つて、高く持上げながら長く見つめて、今度はそれを自分の頭の上に引かけて鏡の方を向いたのです。その瞬間、暗い長方形の鏡の中にはつきりと顏容の
映つたのが見えたのです。」
「どんなだつたのです?」
「恐しくて、蒼ざめて――あゝ、あんな顏を私、見たことがありません! 變色した顏――恐ろしい顏でした。ぎよろ/\するあの
血走つた眼と、あの恐ろしい黒ずんだ
腫れ上つた顏を忘れることが出來たなら!」
「幽靈は大抵蒼ざめてゐるけれど、ジエィン。」
「それは紫色でした。唇は
腫れ上つて黒ずんでゐました。
額にはしわがよつて、黒い眉毛は血走つた眼の上に亂れてつり上つてゐるのです。それが私に何を思ひ出させたか申しませうか?」
「仰しやい。」
「
醜い獨逸のお化の
吸血鬼なのです。」
「おゝ!――それが何をしたの?」
「それは私の
被衣をその痩せ衰へた頭からとると、二つに引裂いて、床に投げつけて踏み
躙つたのです。」
「それから?」
「窓掛を引開けて外を見ました。多分夜明けが近づいたのを見たのでせう。蝋燭をとると、入口の方へ
退きましたの。ちやうど私の傍まで來るとその姿は立止つて、ギラ/\した眼で私を睨むのです。蝋燭を私の顏にすれ/\につきつけると、私の眼の前で消してしまひました。私はその物凄い顏が、私を
灼きつくすやうに見つめてゐるのに氣がつきました。そして私は氣を失つてしまつたのです。生れて二度目――たつた二度目――に、私は恐怖の爲めに氣を失ひました。」
「氣がついたときには傍には誰がゐました。?」
「誰も。たゞ夜はとつくに明け放れてゐました。私は起きて、頭や顏を水で洗つて、
一息に水を一ぱい呑みました。衰へてはゐるけれど、病氣ではないと思つて、たゞあなたにだけこの幻をお話しようと決心したのです。さあ、あの女の人は誰で何んだかを私に云つて下さいまし。」
「興奮し過ぎた頭の
せゐです――きつとさうだ。私はあなたを、私の寶を守らなくてはならぬ。あなたみたいな神經の人は
荒つぽい扱ひ方をするやうには出來てゐないのだ。」
「確かに、私の神經は間違つてはをりません。あのことは本當です。あの事件は本當にあつたのです。」
「そしてその前に見たあなたの夢、あれも矢つ張り本當だと云ふの? ソーンフィールド莊は
廢墟ですか? どうすることも出來ない障害に私はあなたから切り離されてゐますか、私はあなたから離れ去つてゐますか、涙もなしに――
接吻もせず――言葉もなしに?」
「それは未だですけど。」
「しようとしてゐますか。ねえ、私共を分たないやうに結び合せるその日はもう始りかけてゐるのですよ。そして一度二人が一緒になれば、もうこんな心の上の
怖れなどは二度と起りはしません。私が保證します。」
「心の上の
怖れですつて! それ位のことだと信ずることが出來れば、と思ふのです。今迄にもましてさう思ひます。あなたでさへあの恐しい訪問者の祕密を説明お出來にならないのですから。」
「そして私が出來ない以上、ジエィン、それは事實ぢやないに違ひ無い。」
「ですけれど、今朝起きて私も自分にさう云つて、明るい晝間の光の中で、いつも見なれたものゝ氣持のいゝ姿を見て元氣と慰めを得ようと部屋を見

すと、そこに――敷物の上に――私の臆説が明らかに
嘘だと分る物が見えたのです――上から下迄眞二つに裂けた
被衣が!」
私はロチスター氏がぎよつとして身顫ひするのを感じた。彼は
慌しく腕で私を抱いた。「有難い。」と彼は叫んだ。「若し何か惡意のあるものが、昨夜あなたの傍に來たとしても、
傷けられたのはあの
被衣だけだつたのだ。あゝ、どんなことが起つたかも知れないと思ふと!」
彼はせはしく息をして、息もつまりさうに強く私を抱きしめた。しばらく默した後、彼は元氣よく言葉を續けた――
「ねえ、ジエィン、そのことをすつかり説明してあげよう。あれは半分は夢で半分は本當なんですよ。女の人は、
確かにあなたの部屋に這入つたんです。その女と云ふのは――きつと――グレイス・プウルに相違ない。あなたは自分でもあの女のことを不思議な人間だと云つてゐる。あなたの知つてゐるすべてから、あなたが、さう云ふ理由があります。私に何をしたでせう? メイスンに何を? 夢現のうちにあなたはあれの這入つて來たことや
爲たことを知つてゐるのです。しかしあなたは熱を出して、うなされる位だつたから、あなたは、あの女の姿と
異つた幽靈の姿だとしたのです。長い亂れ髮や、
腫れ上つた黒い顏や、大げさに高い身長などは想像が作り出したもの、夢にうなされて出來たものですよ。惡意でもつてしたやうに被衣を裂いたのは事實だつたのです――
彼女のやりさうなことです。何故あんな女をこの家に置いておくのかとあなたは
訊ねるでせうね。結婚してから一年と一日たつたら話して上げます。今はいけません。これでいゝ、ジエィン? この不思議なことに對する私の解釋で承知しますか?」
私は考へてみた。そして實を云へばそれはたゞあり得ることだと思はれるだけだつた。私は滿足してはゐなかつた。けれども彼を喜ばせる爲めにさう――本當にさう感じたやうに救はれたやうに見せようと
努めた。だから私は滿足したやうな微笑を浮べて答へた。そしてもう一時をとつくに過ぎてゐたので、私は彼の傍を去らうとした。」
「ソフィイは子供部屋にアデェルと眠つてゐはしない?」と私が蝋燭を
灯してゐると彼が
訊ねた。
「えゝ。」
「そしてアデェルの寢床にはあなたが這入れる位の場所は十分あるでせう。今晩はあの子と一緒でなくてはいけませんよ、ジエィン。あんな出來事があなたを過敏にすることは
確かですからね。それにあなたは獨りで寢ない方がいゝと思ひますから。子供部屋の方へ行くと約束なさいね。」
「私もその方が嬉しうございます。」
「そして内側から
扉を
閉して
[#「閉して」は底本では「閑して」]おくのですよ。階上へ行つたらソフィイを起すのですよ、明日時間におくれないやうに起してくれるようにと頼むことにかこつけて。八時前に身仕舞をして朝食を濟ましてゐなくてはならないのだから。さあ、もう陰氣くさいことを考へないで、退屈な心配も追ひやつてしまはう、ね、ジエィン。聞えない? 風が何て靜かなそよぎになつたんだらう? そしてもう
窓硝子に打ちつける雨の音もしない。御覽(彼は窓掛をかゝげた)――いゝ夜だなあ!」
さうだつた。
半天は澄んで雲もなかつた。今は西に變つた風に追はれて流れる雲は長い銀色の
柱状をなして東の空から長々と動き出してゐた。月が
穩やかに照る。
「ところで、」と
穿鑿するやうに私の眼の裡を見つめてロチスター氏が云つた。「私のジャネットは今どう?」
「夜は穩やか、そして私もさうですの。」
「そして今夜は別れや悲しみの夢は見ないで、幸福な愛と多幸な
契の夢をね。」
しかしこの
豫示は半分しか滿されなかつた。實際私は悲しい夢は見なかつた。しかし同じく喜びの夢も見なかつた。まつたく眠らなかつた。幼いアデェルを腕に抱いて、私は幼い者の眠――かくも靜かに、かくも苦しみなき、かくも無邪氣な――を見守つて、來る日を待つてゐた。私の
生氣はすつかり目覺めて身體の
裡に動いた。そして太陽が
昇るや否や私も起きた。私は思ひ出す、立去らうとするとアデェルが、私にからみ付いたのを、私は思ひ出す。
頸から彼女の小さな手をゆるめて接吻をし、不思議な感動で彼女に向つて泣き、私の
啜泣が靜かな
健やかな休息を破ることを恐れて彼女の許を去つたのを。彼女は私の過去の生命の
象徴のやうに思はれた。そして今私が會ひに行く爲めに身を飾らうとしてゐる彼は、私の知らざる未來の日の不安な、しかし
憧憬の表象である。
七時になると、ソフィイが私の支度にやつて來た。彼女は實に長くかゝつてその仕事を終つた。あんまり長いのでロチスター氏は、私の遲いのにいら/\したのだらう、どうして來ないかと
訊ねに
寄越した。彼女は正に
被衣(結局、あの飾り氣のない四角な絹布)をブロオチで私の髮に留めようとしてゐるところだつた。私は彼女の手の下から出來るだけ早く駈け出した。
「待つて!」と、彼女は、佛蘭西語で叫んだ。「御自分を鏡に
映して御覽なさいよ。一遍も鏡を
[#「鏡を」は底本では「銃を」]見ないぢやありませんか。」
そこで私は入口のところで振り返つた。あまりにもいつもの自分とは似てないので、殆んど他人の像のやうに思はれる、
衣裳をつけて
被衣を被つた姿が見えた。「ジエィン!」と呼ぶ聲に私は駈け下りた。階段の下で私は、ロチスター氏に迎へられた。
「おそい人!」と彼は云つた。「もう待ち切れなくて怒つてしまつた。こんなにぐづ/\して!」
彼は私を食堂に連れて行つて、あますところなく私を觀察して、さて云つた。「百合花のやうに美しく、彼のいのちの誇であるばかりか、彼の眼の
希望だ。」それから十分間だけ何か朝食を
採る時間をあげると云つて、彼は
呼鈴を鳴らした。近頃雇つた召使の一人の從僕がそれに應じた。
「ジョンは馬車の用意をしてゐるのか?」
「は。」
「荷物は
階下に
下ろしてあるか?」
「今下ろしてゐるところでございます。」
「お前は教會迄行つて來るのだ。ウッド(牧師)さんと書記がゐるか見て來てくれ。歸つて私に返辭をするのだ。」
讀者の知つてるやうに、教會は門の直ぐ向うにあつた。從僕はすぐに歸つて來た。
「ウッドさんは
法服所にをられて、
白法服を着てゐらつしやいます。」
「そして馬車は?」
「馬に馬具をつけてをります。」
「教會へ行くには
要らないが、歸つて來たら用意が出來てなくてはならない――箱も荷物もすつかり積み込んで、紐でくゝつて、
馭者は馭者臺にゐるのだ。」
「かしこまりました。」
「ジエィン、用意はいゝか。」
私は立上つた。新郎の從者も、花嫁の附添女も、親族も、待つてゐて連るものもなかつた、――たゞロチスター氏と私だけだつたのだ。フェアファックス夫人は、私共が通り拔けるとき、廊下に立つてゐた。私は彼女に話しかけたかつたけれど、手は鐵のやうな握り方で、掴まれてゐた――私は
從いて行けないやうな大胯で
急き立てられた。そして、ロチスター氏の顏を見れば、一瞬の猶豫もどんな目的の爲めにも我慢出來ないと感ずるやうなものであつた。他のどんな
花聟が彼のやうな樣子――こんなに目的を急いで、こんなに恐ろしいやうに決然としてゐることがあらうか、また、誰が、あんな
きつとなつた眉の下に、あんな燃えるやうな
閃めく眼を、輝やかすことがあらうかと
訝られるのであつた。
その日は晴れてゐたのか曇つてゐたのかも知らない。車路を下りて行き乍ら、私は空も見なければ地も見なかつた。私の心は眼と共にあつて、その兩方共ロチスター氏の身體の中に這入り込んでゐたやうに思へた。歩いて行き乍ら、彼が烈しく
殘忍に
きつと見つめてゐるらしい見えざるものそれを私は見たいと思つた。彼がその力と對抗し抵抗してゐるらしいその思ひを感じ度いと思つた。寺院の庭への入口で彼は止つた。彼は私がすつかり息を切らしてゐるのを見た。「私は愛することにも
殘酷なのだらうか?」と彼は云つた。「一寸休まう。私にお
倚り、ジエィン。」
そして私は今あの灰色の古い、神の家が
穩やかに私の前にそびえ、その
尖塔の周圍を一羽の
白嘴鴉が舞ひ、その彼方の赤らんだ朝空の樣を思ひ浮べることが出來る。また私は緑色をした墓塚のあるものをも憶えてゐる。また見知らぬ姿が二人、低い小丘の間を
逍遙ひ、まばらにある苔蒸した墓石に
彫刻された銘を讀んでゐたのをも、忘れてはゐない。私は彼等に氣が附いた。何故なら彼等は私共を見るとお寺の裏側へ

つて行つた、そして私は彼等が傍廊の入口から這入つて式に立會はうとしてゐることを疑はなかつたからである。彼等はロチスター氏には見えなかつた。彼は一心に私の顏を見つめてゐたのである。恐らく、そこからは
刻々と、血の
氣が失せてゐたのだ。何故なら、私は自分の
額がしめつぽくなつて、頬も唇も冷めたくなつてゐるのを、感じてゐたから。直ぐであつたが、氣力を囘復すると、彼は私を連れて靜かに入口へと路を歩いて行つた。
私共は靜かな質素な寺に這入つた。牧師は白い
法衣を着て低い祭壇で待つてゐた。書記はその傍にゐた。何も
彼も
しんとしてゐて、二つの人影ばかりが遠くの隅に動いてゐた。私の推測は間違はなかつた。あの見知らぬ人たちは私共より先に這入り込んで今かうしてロチスター家の
納棺所の傍に、私共に背を向けて、
手摺越しに古い、時代のついた大理石の墓標を眺め乍ら立つてゐるのだつた。その墓標には
跪いた天使が一人、マアストン・ムウアに於て内亂のときに殺されたダメ・ド・ロチスターとその妻のヱリザベスとの遺品を守つてゐるのであつた。
私共は聖餐欄干のところに座を占めた。注意深い跫音を後ろに聞いて、私は肩越しに見遣つた。見知らぬ人の一人――
確かに紳士である――が聖壇所の方へ進んで行つた。式は始つた。結婚の意向の
解明は濟んだ。そこで、牧師は一歩前に進み出て、少し許りロチスター氏の方に身を
屈め乍ら、言葉を續けた――
「すべての心の祕密の
露はるゝ恐ろしき
裁きの日に汝等が答ふる如く、汝等の内いづれにても合法的に結婚によつて結ばるゝこと能はざる障害を知るならば、今告白することを、汝等二人に
質し命ず。神の御言葉の許しなくして結ばれたる多くの者は、神によつて結ばれず、またその結婚も合法なるものに非ざるは、汝等も熟知のことなればなり。」
彼は習慣通りに言葉を切つた。この宣告の後、沈默は一體何時になつたら答へによつて破られるだらう? 否、多分、百年經つともである。そして、書物から目を上げ