岩波文庫論

岩波茂雄




 編集部より岩波文庫について語れとの話ですから、思いつくままを申し上げます。現在は文庫時代ともいってよいほど各種の廉価版が行なわれ、どこにおいても欲しいものが自由に求められることになっているが、今より十数年前は予約出版の円本が流行して一世を風靡したのである。この流行によって学芸が一般に普及した功績は認めねばならぬが、また一方、好ましくない影響も少なくなかった。特に編集、翻訳、普及の方法などにははなはだ遺憾の点のあったことはこばむことは出来ない。この流行に刺激されて、学芸普及の形式はかくありたいものだと小さい私の野心から生まれたものが岩波文庫である。岩波文庫を刊行するに際し、私が読書子に寄せた辞の
「近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態は姑く措くも、後代に貽すと誇称する全集が其編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。更に分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強ふるがごとき、果して其揚言する学芸開放の所以なりや。吾人は天下の名士の声に和して之を推挙するに躊躇するものである。」
という一節を読み直してみても、その激越なる口調に当時の流行に対しいかに私が反撥心を持ったかがわかる。良書を廉価にということは本屋として誰でも思いつくことであるが、私も学生時代に親しんだカッセル版、レクラム版のような便宜なものをいつか出したいと志してきた矢先、ちょうど円本の流行はこの念願を実現する動因となったのである。

      ○

 岩波文庫は平福百穂画伯の装幀をもって昭和二年刊行された。これを発表した時の影響の絶大なりしことは実に驚いた。讃美、激励、希望等の書信が数千通に達した。「私の教養の一切を岩波文庫に托する」などという感激の文字もあった。私はよい仕事だ、高貴な永遠の事業だ、達成すべき企てだ、後には必ず成就する仕事だと考えたが、かくまで速かに、かくまで盛んに歓迎されるとは思わなかった。Du kannst, denn du sollst. は私の絶愛の句であるが、誠心誠意、読書子のために計る仕事は必ず酬いられるものであるとの確信を得た。私は本屋になった甲斐のあったことを初めて知り、責任のますます重きを痛感した。
 岩波文庫は古今東西の古典の普及を使命とする。古典の尊重すべきは言うまでもない。その普及の程度は直ちに文化の水準を示すものである。したがって文庫出版については敬虔なる態度を持し、古典に対する尊敬と愛とを失ってはならない。私は及ばずながらもこの理想を実現しようと心がけ、一般単行本に対するよりも、さらに厳粛なる態度をもって文庫の出版に臨んだ。文庫の編入すべき典籍の厳選はもちろん、編集、校訂、翻訳等、その道の権威者を煩わして最善をつくすことに人知れぬ苦心をしたのである。従来行なわれているものをそのまま編入すれば便宜なる時も、よりよい原稿を得るために新たに最適任者に懇請して数年を費やしてようやく刊行するに至った例も少なくない。しかるにこの態度は今もなお一般に理解されず、往々にして著者から謙遜のつもりで文庫にでも入れてもらいたいなど出版を申し込まれる場合がある。私は単行本には引き受けられても文庫には引き受けぬといって拒絶するほど、文庫を尊重愛護するのである。
 典籍の範囲をいずれに限定すべきか、従来既刊の岩波文庫を見るに必ずしも標準が一定しなかったうらみがあるが、今後の方針としては古典的価値の水準をますます高めるとともに、厳選方針を強化することにした。経済的価値高くとも本質的価値乏しいものはこれを編入しないことに特に意を用いるとともに、経済的価値低くとも古典的価値の豊かなるものはつとめて編入し、この点において岩波文庫本来の特色を発揮しようと思っている。往年外遊の際、レクラム会社を見学してその事業的規模の大なるには驚いたが、編集態度においては岩波文庫が、その先蹤たるレクラム文庫を恥ずかしむるものでないと、ひそかに慰むるところがあった。

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 今日世界の現状は政治、経済、思想各方面とも渾沌として帰向するところをしらない。平和は万人の望むところであるにもかかわらず、世界の至るところで闘争が行なわれている。正義人道は常に叫ばれても、われわれの良心を満足さすべき事実は至って乏しい。わが国において紙の統制、節約が行なわれているに、パルプの輸出国たるカナダにおいてはその処分に困ってこれを焚物にしているという話さえもきく。この際世界各国人の必要とすることは、事物の根本に対する反省を新たにし、その認識を深くして、永遠の理想に向かって心を向けることである。われわれは新興国民として古今東西に通ずる大原理に立って世界に躍進するゆえんの道を考えねばならぬ。不朽の典籍に親しんでその良心と理性を満足せしむることは大国民としての根本的教養であらねばならぬ。日本の現代文化はあまりに急速に発展せしため、その根底において堅実を欠く憾みがある。これを培養充実するには古典の普及に俟つところが多い。古典は永遠に生く。その普及は、人生の問題においても社会実現の問題においても、常にその根本的解決に指針を与えるものである。私は従来力を入れてきた岩波文庫に対する態度にさらに拍車を加えてその編集と普及との万全に努力しようと思う。田口卯吉先生は学者として、識見家として尊敬すべき方であるが、出版の先覚としても私は常に私淑している。先生が出版に関して真に世のためになる良書ならば経済的にも酬いられるといわれたときくが、文庫も大方の支持を得て今は経済的にも成績を上げるようになった。
 岩波文庫は刊行以来わずかに十余年、未だ千点に達しない。レクラム文庫が三代にわたり一万に近い点数を刊行するに対し、前途なお遼遠といわねばならぬ。幸いに志業ようやくその緒につくことが出来たのは、大方読者諸君子の厚志によると深く感謝している。ただ志いたずらに高く、微力にして期するところ意に従わず、幾多の不備、粗漏があって古典を冒涜することなきかを恐れている。今後も御批判、御忠言、御希望を惜しまれることなく、岩波文庫をして信頼すべき古典の一大集成たらしむるため御鞭撻を賜わらんことを切に御願いする。
(昭和十三年九月十九日『東京帝国大学新聞』)





底本:「出版人の遺文 岩波書店 岩波茂雄」栗田書店
   1968(昭和43)年6月1日第1刷発行
   1969(昭和44)年2月11日第2刷発行
初出:「東京帝国大学新聞」
   1938(昭和13)年9月19日
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2009年3月23日作成
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