名にし負うアンジアン湖畔の夜半。小さい桟橋に繋いだ二隻のボートが、静かな
アルセーヌ・ルパンはとある
『オイ、グロニャール……ルバリュ……
声に応じて両方の
『ヘエ、居りやす』
『用意をしろ。自動車の音がする。ジルベールとボーシュレーが帰って来たぞ』
云い捨てて彼は庭園に戻り、新築中と見えてまだ足場のかかっておる家を一廻りして、サンチュール街に向いた門の
『オイ、どうした。代議士は?……』とルパンが尋ねた。
『ヘエ、見込通りに、七時四十分の汽車で
『じゃあ、思う存分仕事が出来るな』
『そうです。マリー・テレーズの別荘はこちとらの自由勝手でさあ』
ルパン[#「ルパン」は底本では「ルパル」]は運転台に
『ここに居ちゃ
『ドジだなんて縁起でもねえじゃありませんか?』とジルベールが不平だ。自動車はいずこともなく引返して行った。ルパンは二人を連れて湖水の方へ歩きながら、
『だってさ、今夜の仕事はおれの目論んだ事じゃあないからなあ。おれが自分で目論んだ事でなきゃ半分しか
『冗談でしょう、
『そりゃ、解っておるだろうさ。それだけになお心配なんだ……さあ乗り込んだ……ボーシュレーは、そっちへ乗れ……よし……出した……出来るだけ
グロニャールとルバリュの二人はカジノの少し
『オイ、ジルベール。
『誰って事はないんです……
『だがな。おれはあのボーシュレーて奴は信用出来ないんだ……あいつはどうも
『現在この眼で見たんでさあ』
『
『芝居へ行ったんです』
『フム。だが召使どもが残っておるはずだが……』
『
『それで襲うたのは、あの公園に
『そうです、マリーテレーズ別荘ってんです。それに庭続きの両側の別荘ですね。あれが五六日前から明いておるんですから、全くこちとらにはお誂向きでさあね』
『フム、余り簡単過ぎる仕事で、興味がないな』
とルパンが不足らしく呟いた。
船は
『オイ別荘に人が
『ありゃあ、
グロニャールは
『盗み出そうって
『野郎は馬鹿に用心深い奴で、品物は自分の室とその隣の室へ集めてあるんです』
ルパンは
『アッ、助けてッ! 人殺し――』
と叫びながら室の中に逃げ込んだ。
『や、レオナールだ。書記だ!』とジルベールが叫ぶ。
『ふざけた真似をしやあがると、叩っ殺すぞ!』と、ボーシュレーが怒鳴りながら書記の後を追った。
彼は最初に食堂に飛び込んだ。そこにはまだ皿や酒瓶が並んでいた。レオナールは室の隅に追いつめられて窓を開けて逃げようと藻掻いていた。
『コラッ、静かにしろ! 動くなッ!……アッ、畜生ッ……』
バッタリ床上に身を
『畜生、ふざけやあがって! ……すんでの事で
彼はジルベールの腕を掴んで引きずる様にして二階へ登った。
『馬鹿。人様の
とは云ったものの室内の品物を見渡した時には、ルパンの怒気もやや和らいだ。そこには好事家の垂涎三千丈すべき数万金に値する家具家什ばかり。ルパンはしばし我れを忘れて恍惚とした。
やがてジルベールとボーシュレーとはルパンの指揮に従って敏速な活動を開始した。物の三十分とも経たない内に一隻のボートに一杯になった。グロニャールとルバリュとはこれを例の門前に待たしてある自動車に積み込むために出かけた。
ルパンは
『オイ、コラッ、唸っておるのは秘書官閣下か? まあ亢奮しないで待っていろよ。モウすぐ終るからな。君がギャギャやかましい声を立てると、厭でも痛い目に合わせなきゃならないてものさ。……まあ、辛抱しろよ……』
と云い棄てて階段を
『助けてくれ! ……人殺し! ……助けてくれ! ……殺されそうだ……警察へそう云ってくれ……』
『
『畜生、今頃警察々々って騒いだってどうなるものか、馬鹿野郎めが……』
彼は委細構わず仕事を続けたが、後から後から珍品が出て来てどうしても残す気になれなかったのと、今一ツにはボーシュレーとジルベールが下らぬものに目を付けて熱心に捜し廻ったために案外時間がかかった。
ついに彼も辛抱し切れなくなって、
『もうたくさんだ。いくら
彼等は湖水の岸まで来た。ルパンは先に立って階段を下りた。とジルベールがその袖を引いて、
『ねえ、
『え、なぜだい、もう大抵にしろよ』
『実ァこうなんです……何んでも話に聞くにゃあ、古い
『それがどうだ?』
『それがまだ見付からねえんです。で今ふと考えたんですが、事務室……あそこに大きな戸棚があるんですが、あいつがどうも怪いと、思うんですから……』
と云いも終らぬ内に彼はもう玄関の方へ駈け出した。と同じくボーシュレーも同じくその後を追った。
『オイ。十分間だぞ……それ以上は待たねえぞ』とルパンは
十分はすぐ経ったが、ルパンはまだ二人を待っていた。彼は時計を出して見た。
『九時十五分か……正気の沙汰じゃあない』
と呟いたが、
ルパンは云いしれぬ不安を感じてきたので知らず知らず二三歩引き返した。この時、遠くアンジアンの方面から大勢の靴音が
彼れは素早く身を
『馬鹿野郎ッ! 何を
見ればジルベールとボーシュレーとは組んづ
『誰れが
『いいえ……レオナールです……』
『何ッ? レオナール? 縛られてるじゃないか……』
『縛られていを縄を解いて、ピストルで……』
『畜生ッ。どこに
ルパンはランプを提げて事務室へ入った。
書記は
『アッ』と云ったルパンは書記の
『エッ、ほんとうですか?……ほんとうですか?……』
とジルベールは声を震わせた。
『
ジルベールはオロオロ声になって、
『ボーシュレーです……
怒心頭に発し、顔色も
『ボーシュレーの仕業……して貴様も……こ、この間抜ッ! 貴様は
『なぜだ?……ボーシュレー、なぜ人殺なんぞしたんだ?』
『あいつが戸棚の鍵を取ろうと書記の
『だが
『ありゃ、レオナールです……
『戸棚の鍵は?』
『ボーシュレーが
『戸棚を開けたか』
『へえ』
『
『へえ』
『で、貴様がボーシュレー[#「ボーシュレー」は底本では「ボツシユレー」]からそいつを取り返したんだな? ……匣か? いやそれにしちゃあ小さすぎる……何んだ品物ァ……云えッ……』
黙ってしまった様子にジルベールが白状しないと早くも見て取ったルパンはジロリと物凄い眼を向けて、
『フン。話さなきあよいが、おれはルパンだぞ。きっと白状させてやるから……だが今は愚図々々しちゃあおられねぇぞ。……まあ手を借せ……ボーシュレーを
彼は再び食堂に戻った。そしてジルベールがボーシュレーの身体に手をかけようとした時、ルパンが、
『シッ! 聞けッ!』
と云って二人は不安らしい眼を見交した。事務室の方から声が洩れて来る……低い低い声で、よほど遠方から来る様だ……がしかしそこには誰も居ないはずだ。書記の血に
怪しの声は再び聞えて来た。ある時は鋭く、ある時は息の詰る様に、唸る様に、吠える様に、悲しげに、恐ろしげに、意味も解らぬ片言がどこからともなく聞えて来る。
さすが豪胆のルパンも全身冷水を浴びた様に
彼は書記の死骸を覗き込んだ。声はハタと
『もっと
彼は云いしれぬ悪寒がする様なのを
『
ルパンは突然プッと
『そうだ!』と云って何やら光った黒いものを引っぱった。『……さうだ!やっと解った……ハハハハこれだこれだ。すぐに気が付きそうなものだったが、馬鹿におどろかされたもんだて』
見れば死骸の下に電話の受話器がある。そしてその
『……オイ、そこに
『エイ、勝手にしろ』とルパンは受話器を
初めルパン等が懸命に品物の運搬をしておる間に、レオナールは余り堅く縛してなかったのを幸い、その縄を解いて電話機の
ルパンが最前
『警官だ……さあ出来るだけ逃れるんだ』と云って食堂を駈け出そうとする。
しかしこの時正気付いたボーシュレーは苦しい声を絞って、
『
身に迫る危険を捨ててルパンは立ち止った。そしてジルベールに手伝わしつつ負傷者を抱き上げた時、すでに戸外に人の迫った気配。
『
この時家の裏手の入口の戸を割れよとばかりに乱打する。彼等は廊下の戸口へ走った。と見る警官隊は早くも家を包囲して無二無三に突き入ろうとしている。彼はこの隙にジルベールを
『もう手が廻ったッ……やられたッ……』とジルベールは
『黙れッ!』とルパンが云った。
その時、ルパンは石像の様に突立っていた。その顔色は、悠然として全く平静に、その態度は泰然としてあらゆる事象の
三四十秒後悠然と落ち着き払った彼は、二人の部下を伴うて、向いの庭に面した窓の
『こいつだ! ……手伝ってくれッ! 曲者を
と怒鳴ると共にピストルを出して庭の木の間へ二発撃った。彼は倒れて居るボーシュレーの
『な、なにをするんです、
『何んでもいいから俺に任せろ』とルパンは命令口調で云った。『きっと好い様にしてやる。……お前達二人は俺が引き受けた……しかし、それにゃあ俺が自由でなけりゃならんのだ』
人々は声する方に集まって、開け放した窓の下で騒いでおる。
『ここだッ!』と彼は再び叫んだ『ここだァ!
と云うと静かに低い声で、
『気を落ち付けろ……何か云う事はないか? ……打ち合しておく事はないか?……気を落ち付けて巧くやるんだ……』
余りに狼狽したジルベールにはルパンの謀計を了解する
『ヤイヤイ。任して置きねえて事よ。
ふとこの時ルパンは
『アッ。
ルパンは再び彼を床上に叩き付けた。この時二人の警官が窓から飛び込んで来たのを見て、ジルベールも観念したか、そっとその品をルパンの手に渡した。ルパンは咄嗟の場合品物を
『
と云いも終らぬ内に二人の警官及その他の人々は四方からドッと踏み込んで来た。
ジルベールがたちまち高手籠手に
『いや、御手数です。大した事はなかったんですが……かなり骨を折せやあがった……私は一人を
『だがこの家の書記は見えませんが?……殺されましたか……』と警部が
『知りません。私は人殺しと聞いてあなた方と一緒にアンジアンから来たのですがあなた方は家の
と云ってボーシュレーを
この際誰れがこれを疑ぐろう? 彼は血に
しかのみならず、多数の人が泡を
その内に事務室で書記の死骸が発見された。こうなるとさすがは警察官だけに事態重大と見て仮予審を開く事を忘れなかった。署長は関係者以外のものを全部
ボーシュレーは素直に姓名を自白したが、ジルベールは頑として応ぜず、裁判長の前でなければ名前を云わないと頑張った。しかし書記殺しの
この時一人の兵士があわただしく駈け付けて来て、その紳士はたった今
署長はジルベールの顔をジッと見詰めていたが、ハッと思うと始めて一杯喰わされた事を悟った。
『チェッ、
と叫ぶと同時に二名の部下を連れて真先に飛び出した。水辺まで駈け付けてみると百
水面を渡る微風のまにまに、不敵な
流れ浮き草……風吹くままに……
人も無げなるこの振舞いに地団駄踏んだ警官連、ふと見ると隣りの庭に一艘の舟が繋がれてあった。天の与えとばかり垣根を飛び越えた署長以下二人の警官は舟へ躍り込むや否や
折から雲間を洩れた月光を湖面一杯に浴びて二艘の
『止れッ』と署長が叫んだ。
『御用だッ!』と署長が叫ぶ。
月は再び雲に隠れて
『神妙にしろッ……武器を棄てろッ、云う事を聞かないと容赦はないぞッ、
三ツの声も聞かぬ内に警官は一斉に
敵は依然として泰然自若、舟はジリジリと肉薄した。二名の警官は
彼等は
これとほとんど同時刻に、アルセーヌ・ルパンは最初に出発した岸へ泳ぎついて、悠々と上陸した。そこには部下のグロニャールとルバリュが待っていたが、彼は慌しく二言三言云い棄てて、ドーブレク代議士の家から盗み出した品物を積み込んである自動車に飛び乗り、
マチニョン町にはジルベール以外一味の部下の
『ボーシュレーとジルベールとがあれほどまで執念深く目を付けたのがこんな硝子の栓なのか? この栓一箇のために書記を殺した、これのために二人して争奪をした。これのために時機を失った。これのために牢獄の危険を冒し……裁判も忘れ……断頭台も恐れなかったのか……
不思議の謎を解きたいのは山々だが余りに疲労してこれ以上考えるに
彼は苦しい悪夢に
『ああ、嫌な夢を見た』とルパンは一晩中魘されて、全身に汗をビッショリ掻きながら目が覚めた。『ああ嫌だ嫌だ。何んだか御幣が担ぎたくなる。気の小さな奴だったら、とても
彼はムックリ起き上って
しかしそれよりなおいっそう奇怪な問題がある。よしんば寝室の
彼はこんな謎は事件の推移に従って自然と苦もなく明瞭になって来ると高を括って深くも頭を悩まそうとしなかった。しかし考えるといまいましくもあれば、また不安でもあるので、直ちにマチニョン街の
彼は差し当っていかにしてジルベールとボーシュレーの二人と通信せんかと苦心した。警察当局でもルパンの関係している以上、事重大と思惟しセーヌ・エ・オワーズ県地方裁判所の所管から事件一切を
当時ルパンは、まだ刑事課長の椅子を占めていなかった(「813」及「黒衣の女」参照)ので、随って裁判所内に適宜の計画を実行する力もなく、二週間ばかりの苦心もことごとく水泡に帰してしまった。彼の心は憤怒に燃え、不安に襲われて来た。「事件の最も困難とする所は終局にあらずして、出発である」とは彼がしばしば云う言葉であった。『だとすると、どこから手を付けたらよかろうか。果していかなる道をとって進もうか?』
ルパンの考えはドーブレク代議士へ向けられて行った。硝子の栓はもともとドーブレクの所有であった。すれば彼がその値打を知らぬはずが無い。ところでまたジルベールがどうしてドーブレクの日常生活を
メリー・テレーズ別荘盗難以来、ドーブレクは
ルパンは早速隠居風に変装して、杖をつきつきブラブラと散歩する風を装い、ユウゴオ街に面した公園のベンチに腰をかけて、それとなく
しかし第四日目の夕景、二人の男の
この時ルパンはふと思い出した。ちょうど今から二年ほど前に、バレ・ブールボンでプラスビイユとドーブレク代議士とが決闘を行った事がある。理由は誰れにも解らなかった。当日、プラスビイユ[#「プラスビイユ」は底本では「プラスビユイ」]は介添人を出したが、ドーブレクは決闘を拒絶した。この事があってからまもなくプラスビイユは警視総監に任命された。
『不思議……不思議……』とルパンはプラスビイユの動作を窺いながら考えた。
七時になるとプラスビイユの連中はアンリ・マルタン街の方へ
『ハハア、家宅捜索だな。秘密にやるらしい。こう云う事にはぜひ我輩も立会わずばなるまいテ』
彼は何等の躊躇なく、開けたままの門内へズカズカと入った。そこには最前の女中が
『もう皆来ておるか?』
『ええ、書斎にいらっしゃいます』
彼の計画は簡単でただ立会検事の格でその
プラスビイユは合鍵を利用して
『ああ、馬鹿々々敷い!……何も
彼は古い
『しめしめ。いよいよきゃつも硝子の栓へやって来たわい! すると書類なんぞじゃあないかな? どうも解らなくなったぞこりゃあ……』とルパンは考えておる。
一時間半余りもプラスビイユは熱心にあらゆるものに手を付けて捜し廻ったが、一度手を触れた品物は元の通りの位置に置く事に注意していた。九時頃にドーブレクに尾行した二人の刑事が帰って来た。
『今帰って来ます!』
『徒歩か?』
『そうです』
『じゃ十分時間はあるな?』
『ございます』
プラスビイユと部下の刑事等は別段急いだ様子もなく、最後に室内をズッと見渡して、何等
まもなくドーブレクが入って来た。頭はほとんど禿げていた。眼が悪いのか普通の眼鏡の上に黒眼鏡を二重にかけている。顎骨の角張って突出しておる所はいかにも精力絶倫らしい相貌で、手はすこぶる大きく、両脚は曲り歩くたびに
しばらくすると彼は何を思ったかふと書く手を止めて机の一点を凝視しながらじっと思案にふけっていた。と見る、ズイと手を延ばして机上の切手入の小箱を取り上げて調べていたが、続いてプラスビイユが手を触れた品物に目をそそぎ、一々覗き込んでは、手に取ってみて小首を
『やって来たろう、え?』
女中が
『オイ、クレマンス。この切手箱に手を触れたのはお前じゃあるまいね?』
『いいえ、どう致しまして』
『そうか。俺はね、この箱へ細い
『だって、旦那様、私は……実はあの……』
『実はあの両方へ好い子になりたいのだろう……よしよし』
と云いながら彼は五十
『やって来たろう?』
『ハイ』
『春来た連中と同じか?』
『ハイ。皆で五人……それにも一人の方と……皆さんを指図なさる……』
『
『ハイ』
『それだけか?』
『もう一人後から入って来て皆と一緒になりました……それから、ええ、もう二人参りました。いつも邸の前で見張をしておる方々です』
『皆んなこの書斎に居たか?』
『ハイ』
『で、俺が帰ると云うので出かけたんだな?』
『ハイ』
『よろしい』
女中は引き
9 - 8 = 1
ドーブレクは何か思案する様な様子で口の『実に名算じゃ』と高声に云った。そしてなお一通の単簡な手紙を書き、それを状袋に入れた。ルパンは代議士が最前の引算の紙の傍へ手紙を立てかけたので、再び覗いてみると、
『警視総監プライスビイユ殿』としてある。
ドーブレクは再び女中を呼んだ。
『オイ。クレマンス。お前は子供の時に学校へ行って算術を習ったか?』
『まあ、旦那様……』
『と云うのは、お前は、引算に不得手と見えるからじゃ』
『なぜでございますか?』
『お前は九から八引く一残ると云う事を知らぬからじゃ。え、それが肝心の事だぞ。この定理を知らないと生きて行かれないぞ』
といいながら、彼は立ち上り、両手を
『問題は
彼はルパンが急いで隠れた
『貴公、こんな所に居ると息がつまるよ。わしがここからズブリ一突きやったら、それまでじゃ……ね、飛んだハムレットとポロニャスの死が出来上がってしまう……ハムレットの文句じゃあないが「鼠じゃよ、しかも、大きな鼠じゃよ……」これ、ボロニャス殿、いやさ鼠殿、まあその穴から出て来さっしゃい』
ルパンは今までにこんな忌々しい屈辱な目にあった事が無かった。まるで袋の鼠同様の憂目、
『顔色が少し青い様じゃ、ポロニャス殿、……オヤ、貴公はこの間中から邸の前を迂路付き廻った御隠居さんじゃな! や、ポロニャス殿、貴公はやはり警視庁の御役人じゃろう? まあまあ、落付くがよろしい。別に何ともしないよ……どうだ、クレマンス、俺の算術は確なものだろう。お前の話に依ると、ここへ入って来たものは九人だと云う。ところで俺が帰りしなに、街の遠くの方から勘定した時には連中は八人だった。九から八引く一残る。その
『なるほど、それから?』と云ったルパンはこの男に飛びかかって一撃の下に叩きのめし、グーの音も云わせぬ様にしたくてウズウズして来た。
『それから? それだけさ何もありはしないよ。隠居はこれで大切さ。さあ、今書いたこの手紙を貴公等の親方、プラスビイユ君の所へ
ルパンはちょっと躊躇した。こうなって来ると、何んとか見得を切らなければ花道の
『
彼の怒りは心頭に発した。しかしその心中に燃ゆる憤怒の影から彼は新しい
ドーブレクの糞度胸、警視庁の猛者を向うに廻して平然たる自信力、勝手に家宅捜索をさせて嘲笑しておる不敵さのみならず、自己を
しかしその勝算とは何か? いかなる秘策を把持しておるか? 誰れが秘密の鍵を握っておるのか? いかなる次第で敵味方に分れたか? ルパンは全然何等知っていない。彼は相手の陣立も、武器も、勢力も、秘略も、何も知らずに、ただ
彼は何の遠慮もなく、最前ドーブレクが警視総監プラスビイユ宛に届けろと渡した手紙の封を切った。中にはこんな手紙が這入っていた。
「プラスビイユ君、君の手の届く処にあった。君はそれに手を触れた! 今一息、それでよかったんだ……が君は発見すべく余りに愚 だ。我輩をして一敗地にまみれしむべく、君以上の発見をし得るものはまずない。あわれフランス!
プラスビイユ、さようなら、しかし、今後もし現場 で君を捕まえたらば、御気の毒ながら、捻り潰すよ。
プラスビイユ君。
「手の届く処……」と読み終えたルパンが呟いた。『あのくらいな悪党になると思い切って真実の事をズバズバ云うものだ。最も簡単なる隠し場所は最も安全なりと云うからな。ともかくにだ……ともかくにと……取調べる必要があるぞ。なぜドーブレクがあの様に厳重に監視されておるか、一ツ大いに取調べる必要があるぞ』プラスビイユ、さようなら、しかし、今後もし
プラスビイユ君。
ドーブレク拝」
ルパンが、早速秘密探偵局について取調べさせた処によると、
「アレキシス・ドーブレク[#「ドーブレク」は底本では「トーブレク」]。一昨々年ブーシュ・ドュ・ローヌ県選出代議士、無所属、政見は明瞭ならざるも、常に巨額の金員を散じて選挙民の好感を買い、地盤すこぶる強固なり。別に財産無し。しかれども巴里 本邸の外 アンジアン及びニイスに別荘を有し、はなはだ贅沢なる生活を為せるも、その財源をいずこに求むるや不明。元来政界に特殊関係、または党派的勢力なきにもかかわらず、政府に対して絶大の勢力を有し、その要求の貫徹せざるものなし」
『こりゃ職業調査だ』とルパンは報告書を読み返しながら云った。『俺の要求するのは素行調査だ。秘密調査だ。本人の内的生活に関する報告だ。これがあれば暗中模索の俺の活動もまた非常に楽になるし、ドーブレク[#「ドーブレク」は底本では「ドーブレグ」]に当時ルパンが平素の住宅としていたのは、凱旋門の傍のシャートーブリヤン街であった。そこにミシェル・ボーモンという変名で家を借りていた。住心地のいい
この家に帰ったルパンは女工風の女が一時間も前から尋ねて来て待っておると聞いて
『何んだって? だって今までに一人だって尋ねて来たものが無かったじゃないか? 若い女か?』
『いいえ、帽子も
『誰れに会いたいてんだ?』
『ミシェル・ボーモンさんにと云いました』と下男が答えた。
『
『アンジアンの事件とだけしか云いません……ですから私は……』
『うむ! アンジアン事件! じゃあ女は俺がその事件に関係しておる事を知っておるんだな!……会おう!』
ルパンはズカズカと客間に行って、その
『オイ、何を云ってるんだ。誰も居ないじゃないか』
『居ません、誰も?』とアシルが飛び込んで来た。室内は空っぽだ。
『アッ。こりゃ妙だ!』と下男は叫んだ。『三十分前に念のために覗いてみた時には、ここの椅子に坐っていたんです。ちっとも怪しい様子は無かったんですが……待ちくたびれて、帰りやがったんだ。
『どこから? ったって、別に不思議がるにも当らないよ』
『エッ?』
『窓からさ。ホラ。この通り窓が開いているじゃないか……夕方になればこの町は人通りが無くなる……だからよ』
彼は
『手紙も来なかったか?』
『ええ今しがた一通来ましたので、あのお部屋の
ルパンの部屋は客間の続きになっていたが、その間の
『オイ、手紙は見えないぞ……』と怒鳴った。
『そんなはずはありません?』
アシルはそう云ってその附近を引掻き廻すように捜したけれども、影も形もない。
『チェッ、畜生ッ……畜生ッ……あいつだ……あいつが盗んだんだ……手紙を盗んで逃出しやあがったんだ……太え
『お前は手紙を見たか? 宛名は何と書いてあったか、覚えておるか?』とルパンは何かしら不安らしく云った。
『少し変な書き方でしたから覚えています。「ボーモン・ミシェル様」とありました』
『何ッ。きっとか? ミシェルが、ボーモンの後に書いてあったかッ?』
『確かにそうでした』
『ああ……』とルパンは喉を絞め上げられる様な声を出して『ああ、ジルベールからの手紙だ!』
とばかり彼は不動不揺、やや蒼白になった顔には苦悶の浪が打ち出した。疑いもなくそれはジルベールからの手紙であったのだ。数年来彼は一見してジルベールからの手紙である事を知る必要から、時分の宛名に姓名の
ルパンは室内を調べてみた。
そして残る問題はいかにしてその女が手紙を盗み出したかと云う事である。ルパンが調べた時には居間の内部から完全に鍵がかかって錠さえ下してあった。しかし一度出入りした以上どこかに入口が無ければならないのみならず
ルパンは再び客間に帰って
アシルはアッと驚愕の声を挙げた。しかしルパンは嘲笑う様に、
『え、それがどうした? やっぱり解らんじゃあないか? この穴は横が七八寸で縦が一尺五寸ばかりしかない。とても普通の女がこれだけの間から通れるものじゃあない。いくら痩せていても高々
ルパンはやや暫くの間沈思していたが、突然、
『マチニヨン街へ……大急ぎだ……』
以前水晶の栓を盗まれた別荘の近くまで来ると彼はヒラリと自動車から降り、階段を駈け
『ウヌッ、残念!』と彼は唸った。二時間以来胸の
不可解の問題が次ぎ次ぎに発生した。しかもそれが皆暗中模索の
今までに幾多の悪戦苦闘、冒険に冒険を重ねてきたさすがの彼も、こんな怪奇な障害に
刑事等が家宅捜索をやった日の翌日、ドーブレク代議士が昼飯を外で食って帰って来ると、女中のクレマンが彼を引き止めて、大変いい料理女を見付けたと告げた。
数分後御目見えに出て来た料理女は信用の出来る立派な身元証明書を
ドーブレクは夕食を済ますと、ブラリと出かけて行った。十一時頃女中のクレマンが寝てしまうと、料理女はそっと庭に降り、前後左右に深い用心をしつつ鉄門を半ば開いた。男がヌッと現れた。
『あなたですか?』
『そうだ、俺だよ、ルパンだよ』
彼女はルパンを、案内して三階にある自分の
『また何か始めましたね。いつまでそんな事を
『まあそう云うなよ。ビクトワール、(「813」及び「黒衣の女」参照)上品で、
『そんな事をして、あなたは面白がっていらっしゃる。わたしを色々な危い所へ連れ込むのが面白いんでしょう、きっと!』
『でもまあ、何事も神様の
『まず第一に、俺を
『何を捜すんですか?』
『前に話した事のある貴重な品だ』
『何んですか、それは?』
『水晶の栓さ』
『水晶の栓!……まあ!妙なものを!もし見付からなかったら……』
ルパンは静かに彼女の腕を握って、真面目な調子で、
『それが見付からないと大変な事になる。そら知っているだろう、お前も可愛がっていたあのジルベールの首が無くなるんだ、ボーシュレーと一緒に……』
『ボーシュレーなんぞは構いませんよ、どうなったって……あんな悪党は……だが可哀想にジルベールが……』
『
その夜、深更になって代議士が帰って来た。
以来数日間、ルパンはドーブレクと、生活を共にする様になった。彼がちょっとでも外出するとルパンは早速秘密捜索を行った。ルパンは彼一流の調査方法を講じた。すなわち各部屋を幾つにも
ドーブレクの生活は極端に開放的であった。
『いやいやこう見えても必ずその
『何もありやしませんよ。いつまで見ていたって無駄ですわ。
[#「 」は底本では「『」]実は刑事連中が
ある日、彼女は青くなって息せき切て駈け込んで来た。腕にかけている籠までガタガタふるえている。
『
『真蒼……でしょう?……ホントに
ビクトワールはベタリと椅子に腰をかけて、しばらくドキ付く心臓を静めていたが、ようやく
『知らない男が……知らない男が突然わたしの
『ハハハハハ。それくらいのことで何も驚くことはないじゃないか……
『いいえ……「これを
『フーム!』ルパンはブルッとした。
『ドレお見せ』と云ってその手紙を受け取った。手紙の封筒は白紙で何も書いていない。が封を切ると二重封筒になっていて、それには、
ビクトワール方 アルセーヌ・ルパン殿
と書いてあった。『ウム。怪しいぞ』と
「貴下のなしつつあるすべては皆無益にしてかつ危険なり……速 に断念せられよ」
ビクトワールはウンと唸って気絶してしまった。ルパンは絶大の恥辱でも受けた時の様にかくて朝方の四時頃、家のどこかで異様の音のするのを聞いた。彼は
一分間ばかりすると代議士は鉄門を開き、厚い毛皮の襟巻ですっかり顔を包んでいる一人の男を案内して、己れの書斎へ連れ込んだ。
こうした事もあろうかとルパンはかねてから相当の用意をしておいた。代議士の書斎と自分の居る
見ると男だと思った客は意外にも女であった。緑なす黒髪に灰色の毛の二
『ハテナ。あのお女はどこかで見た様な気がするが……?あの
女は
女はその不快な視線を避けるために顔をうなだれ眼を伏せていた。ドーブレクは女の方へジリジリと進み、まさにその太く逞しい腕で女を抱きしめようとしていると、突如、ルパンは大粒の涙が彼女の悲しげな頬を伝わってハラハラと流れたのを認めた。
ドーブレクはこの涙に
二人は黙って睨み合った。やがてドーブレクは椅子にかけたが、兇悪、冷酷な相貌して
『オヤッ、不思議。あの女もやはり水晶の栓を探しているぞ。こりゃ
なおも息を殺して怪しい女客の様子を
腕を差し上げて、女はやや
電光石火、ドーブレクの身体はサッと椅子から流れて、
彼はこんな事は日常の茶飯事だと云わぬばかりに別に驚きも怒りもしないらしい。そして刃物三昧には馴れ切った男と見えてちょっと肩を
女は刃物を投げ
代議士は再び彼女のそばに来てなおも卓を叩きつつ何事か
『厭です……厭です……』
すると彼は何も云わずに、女が着て来た厚い毛皮の襟付の外套を取って、これをその肩にかけてやった。女は襟を立てて顔を包んだ。
女は出て行った。
ドーブレクの生活はすこぶる規律的で、ただ警官の張込をといた
前夜と同じく午前四時頃一人の男が訪ねて来た。例によって覗いていると、その男はドーブレクに対して
三日後に前大臣で、元老院議員ドショーモンが来、その翌日ポナパル党出身代議士アルビュフェクス侯爵が来、同じく哀訴嘆願の百万遍を
『きゃつは何かの秘密を握って、それを種に恐喝して金を捲き上げておるに相違ない。俺が幾日見張っていても仕様がない。何か局面を転換させずばなるまいが……と云って脅迫された連中に会ったところで、実を吐く気づかいは無い……』
ルパンは思案に暮れて
ビクトワールの話によると、ドーブレクは今夜八時半にある婦人と会見し、共に観劇に行くらしい。
『二ヶ月
代議士が観劇の留守中にアンジアン別荘を襲ったのは六週間以前だ。相手の女を知り、さらにでき得べくばボーシュレーとジルベールとがアンジアン別荘襲撃の当夜、代議士の留守を偵知した方法を看破するのが、目下の急務だ。彼は早速ドーブレクの
この時召使のアシルがミシェル・ボーモン宛の電報を受け取ってきた。訝りながら聞いてみると、
「コンヤ、シバイエクルナ。キミガクルトバンジダメニナル」
彼の立っていた傍の
『解った!解った!ウヌッ!俺の常套手段を取っていやがる。どうするか見ろッ!』
彼は部下を引連れて自動車で飛び出し、ドーブレクの邸の少し手前で車を止めて待っていた。ドーブレクが邸を出ると、尾行の警官を
七時半、邸の小門がギーと開いた。来たなと思うと、不意に爆音すさまじく、疾風のごとく走り出した一台の
『勝手にしやあがれ、畜生ッ!』とルパンはいまいましそうに
十分間ばかりすると二人の居る席の戸を叩くものがある。劇場の案内人だ。
『代議士のドーブレクさんと
『ウム』とドーブレクは驚いて声を出した。『どうして俺の名が解ったか?』
『ただ今御電話がございました、二十二号の桝に居らっしゃるから呼んでくれと仰いました』
『だれからだ!』
『アルビュフェクス侯爵様でございます。……いかが致しましょう?』
『フーン?……いや行こう! 行こう……』
とドーブレクはあわてて席を
ドーブレクの姿が消えると入れ代りにルパンはスーと音もなく入って来て婦人のそばに腰をおろした。
『あッ! ……アルセーヌ・ルパン』と女は呟いた。
ルパンもまた
『さては知ってるか?……知ってるか?……』と呟きつつ彼は突如、女の顔を覆っているヴェールをパッと取り除いた。
『オヤッ!これは意外!』全く驚いた。彼は
『エッ!あなたはわたしを見覚えて居らっしゃるの?……』
『さよう、先夜、あの邸で短剱を振りまわした委細を見ています……』
彼女は早くも逃げ出そうとした。が彼は手早くその手を引き止めて、
『あなたは一体
『では、あの電話はアルビュフェクス侯爵では無いのですか、ではすぐ戻って来ます……』
『それまでに暇がある……まあ聞きなさい……ぜひ今一度あなたに会わなければならない……きゃつはあなたの仇です、ですから私があなたをきゃつの手から救ってあげます……』
『私を信用なさい……あなたの利益は、私の利益ですぞ……。どこで会いましょうか?
彼女は不安と疑惑の眼でルパンの顔を見詰めつつ
『わたしの名は……申上げられません……まあとにかく一度御会いして御話を承りましょう……そう、御会い致しましょう……では
と云いも終らぬに
『チェッ! 畜生ッ』とルパンは今一言の所を破られて憤然と怒った。ドーブレクは嘲笑を投げて、
『フン、これだこれだ……どうも少し怪しいと思ったっけ……オイ、電話の手品なんざあ、少々時代後れだよ……気の毒ながら途中で戻って来たんだ』とルパンを
彼は眉毛一つ動かさぬルパンをジッと見詰めていたが、さすがにこの男がかつて自分がポロニアスと
『外へ出よう、その方が話しが早い』とルパンが云った。
『ここでたくさんだ、今は幕間だし、人に邪魔されなくていい。……おっと、貴様、逃しはせぬぞ』
と云いつつ突然ぐいと
『ああ、意気地無し、もうへたばるのか』と代議士は嘲笑した。
舞台の上では大勢の役者が立廻りの最中、大騒ぎをやっていた。ドーブレクは絞め付けた手を少しくゆるめた。ルパンはこの時にとばかり拳骨を堅めてちょうど斧で打殴る様に敵の
苦痛にドーブレクのたじろぐ暇に得たりとばかりルパンは身を起して奮然彼の喉に突きかかった。しかし敵も去るもの、パッと身をかわして、退くと同時に腕を延ばしてルパンを支えた。かくて四本の腕は超人的怪力をもって組んず解れつした。
二人は四ツの手を掴み合ったまま、身を
婦人は身を椅子に支えつつ、怖れと
『さあ、椅子を退けなさい!』
と命ずるように云った。二人の間に倒れている重い椅子、その椅子を挟んで彼らは争っていたのだ。
彼女は身を屈めてその椅子を取り除いた。これこそルパンの
ドーブレクは力の限り抵抗した。ドーブレクは絞め上げられた手を振りほどこうと努めたが、時既に遅く、次第に息が塞がり気力が抜けて来た。
『ああ!ゴリラめ!』とルパンは彼を引き倒しながら云った。『なぜ助けてくれと
と云い
逃げ出したにしてもまだ遠くへは行くまい。彼は続いて桝を飛び出した。そして案内女や
不意の猛襲にグラグラと目が眩んで倒れながらもその男を見た。それはグロニヤールとルバリユの両名、アンジアンの夜
ようやくにしてシャートーブリヤン町の
マリテレーズ別荘事件
マリテレーズにおける下僕 レオナール惨殺犯人としてさきに検挙されたる両名中ボーシュレーなるものの素性は最近に至ってようやく判明したるが彼は極悪無道 なる前科者にて、すでに偽名をもってこれまで二回殺人罪の下に無期懲役に処せられたる兇漢の由 。なお共犯者ジルベールの本名等判明するも遠きにあらざるべく、検事においては一日も早く事件を起訴の手続に及び審理に処すべき方針なりと聞く、従来とかく遅鈍の評ありし当局も本事件においてはややその面目を保ち得たりと云うべし。
他の新聞や書簡等の間から一通の手紙が出て来た。ルパンは一目この封書を見てハッと思った。それには「ボーモン(ミシェル)様」としてある。マリテレーズにおける
『あッ! ジルベールからの手紙だ……』
中の書面は確かに十数字。
『
その夜ルパンは悪夢に悩まされてマンジリともしなかった。そして物凄い、怖ろしい幻に襲われつつ彼は終夜悶えに悶えた。
あわれ、ルパン! 彼は現在の境地に捉わるることなく、他の一点を掴んで事件の展開を計らざるを得ざるに至った。しかしいかなる点に進むか――水晶の栓の追求を放棄しなければならないだろうか?
彼は去就に迷った。マリテレーズ別荘の殺人事件以来行方を
「待て待て。感情のたかぶっている時には判断が間違って来る。だから黙って冷静に妄想を起さずに考えるんだ。事件の出発点を握らないで、いたずらに錯雑した事実ばかりに捉われているほど馬鹿々々しい事はない。そんな事をしているから迷宮から出られないんだ。だからまず、ルパン、お前の才能に聴け、お前の感得に依って猛進しろ。あらゆる論理的判断に
ルパンはこの決論を
彼はボードビルの劇場における事件の三日目に、古ぼけた外套を被って、
やがて買物篭を腕に抱えて、ビクトワールが遣って来た。見ると非常に昂奮して
『さあ、これですよ、あなたの探しているのは……』彼女は前後を見廻しながら、篭の中から小さな品物を取り出して彼の手に渡した。ルパンは茫然とした。手には水晶の栓を握っている。
『ほんとかい? ほんとかいこれは?』
と呟いた。余り無造作に手に
しかし、現実の事実である。目に見る事も出来れば、手に
『何だいこれは?』
ルパンはふと疑惑に捉われて云った。この水晶の栓に附随する価値を知らないで持っていた[#「持っていた」は底本では「持つたゐた」]処が何の役に立とう。ただ硝子の一片に過ぎないんだ。これを手に入れる前に、まずその価値を知らなければならない、ドーブレクからこれを奪い取って見たものの、それが馬鹿げたことでないと誰が確言し得ようか。
解き難き問題は非常な謎として彼の前に置かれた。
『下手な真似は出来ないぞ!』と考えながら、品物をポケットに納めた。『この怪事件で、下手な真似をしたが最後、万事は休する』
ビクトワールが、ルパンの
『ジャンソン中学の裏手で逢おう』と彼は低い声で囁いた。そして五分後には人通りの少ない場所で落ち合った。
『
『寝床の側の机の
『そうか。ところで先生無いことに気がつくと、お前が盗んだと思いはしないかい』とルパンが言った。
『きっとそう思いますわ。』
『じゃ早く返してお置きよ。大急ぎで』と言いながら、ルパンは
『さあ、どうしたの?』とビクトワールが手を差し出した。
『さあ』としばらくしてから、彼が言った。『無いよ!』
『何ですって』
『無くなっちゃったんだ……。誰か盗んだぜ』
彼は笑い出した。何らの苦痛も無さそうに腹を抱えて笑った。ビクトワールは腹を立てて、
『笑ってるどころの騒ぎじゃないんですよ……こんな大変な事に……』
『どうだいこれは? 実際妙不思議だね。まるで手品のようだ、少し暇になったらお
『ええ、昨晩、ドーブレクさんの出かけた留守に誰れか来ました。私は庭から窓に映っている影を見ました』
『すると警視庁の連中はまだ捜索を続けているんだね。それはそうと、婆や……もう一度俺をかくまってくれんか、何も危ない事はないじゃないか。お前の部屋は三階に有るんだし、ドーブレクは何も疑ってやしない』
『ですが
『外の連中? もし連中が俺を陥れるのを利益と思うなら、ずっと前に
今一度ルパンを驚かすことが起った。それはその晩に婆やが寝室の抽斗を開けて見たら、例の水晶の栓が這入っていたと告げたことだ。しかしルパンは、別に顔色にまでは驚きを見せず簡単に言ってのけた。
『じゃ、誰か持ちもどったんだ。あの品物を持ち戻った人間! それは俺と同じようにこの屋敷に忍び込んでいるにちがいない。しかしその水晶の栓を何の重要さもないごとく抽斗の中へ放り込んで置くとは! これや考えもんだ。』
ルパンは考え物だとは言ってみたものの、何等そこから
『この調子では俺ときゃつ等の間に激烈な競争の起るのは
かくて何らの発見もなく、ルパンは五日を過してしまった。それからまた二日過ぎた真夜中の二時頃、ルパンが二階から廊下へ下りようとすると、ふと
『
『うん。上等だ……だが明日の晩にのばそうだって……』
ルパンはその先を聞きとれなかったが怪しの男は静かに戸を閉めながら鉄門の闇に消えて行った。
午後になって、ドーブレクの留守を幸い、彼は二階の
ルパンにとって今日一日は暮るるに早かった。彼の眼前にはまさに一切の秘密が暴露せられんとしているのだ。ただに不可思議極まる、かつは巧妙を尽した手段によって室内へ忍び込む方法を知るのみならず、かくも科学的にかくも敏活な行動をとれる奇怪な敵の何者であるかを知る事が出来るのだ。
その晩、夕飯をすますとドーブレクは疲れたと云って十時に帰宅し、いつになく庭の
怪しの沈黙は長い間続いた。
ルパンは大急ぎで階段を降りて、その
耳をすますと、ドーブレクはこの時寝返りを打ったらしく、大きい寝息が聞こえて来た。と思うとごくかすかに
『今度は少し事件が明るくなって来たぞ』とルパンは考えた。『だが畜生め、怪物はどうして忍び込んだんだろう? あの鍵と閂をどうして外したろう?』
しかしルパンは一瞬の間に自分のとるべき行動を決定した。彼は直ちに階段を降りてその一番下に陣取った。そこはドーブレクの
暗黒裡の不安がひしひしと身に迫る! ドーブレクの敵にしてまた彼の強敵たる怪物は、今まさにその覆面を取らんとしているのだ。彼の計画は完全した。敵がドーブレクから
時は今だ! 不意にパッと飛び出したので敵も驚いて立ち止った。ルパンはサッと黒影を目がけて飛び付いた。がドシンと階段の手摺に衝突したのみで、敵は早くも下をくぐって玄関の半ばまで鼠の様に逃げた。ルパンは一生懸命
アッと云う敵の声と同時に、
『ああ、畜生、どうしたんだいこりゃあ』とルパンは呟いた。その巨大なる鉄腕に掴まれたものは恐怖に
彼は子供をしっかと
『ホラ、御覧よ』と驚いて跳ね起きたビクトワールに向って云った。『とうとう敵の団長を召捕ったよ。当代の金太郎さんだ。
彼は団長を長椅子の上に置いた。見れば七ツか八ツくらいの男の子、毛糸で編んだ帽子を
『まあ、どこから拾っていらっしたのですか?』
と、ビクトワールは驚いて尋ねた。
『階段の下のドーブレクの
と云いながら、ルパンは例の室から何物かを持って来たのだろうと考えて、ソッとジャケツの
『ヤッ
『何が?』
『金太郎君の部下の連中の騒ぎさ』
『まあ!』とビクトワールはもう色を失った。
『まあって云った処で、
彼は子供を毛布にグルグルと
彼は窓を越えて、例の縄梯子を
『オイ、子供は俺が連れて行くとそう云え。欲しけりゃシャートーブリヤン街へ受取りに来いってね』
街路を少し離れた処に連中の乗って来たと
『ねえ、ちっとも恐くはなかったろう?……さあ、おじさんの寝床へねんねさしてあげようか?』
召使のアシルは寝ていたので、ルパンは手ずから子供をおろして、やさしく頭を撫でてやった。子供は寒さにこごえていた。無理に恐怖をかくし、泣きたいのを我慢して、
しかしルパンのやさしい声、その慈愛の籠った態度に安心してか、子供もだんだんと優しい無邪気な顔になって来た。しかもその顔は彼がかつて見た何者かの顔に似ている様な感じがする。……と同時に、彼は何だか形勢がたちまちここに一変して、この事件は今や根本から解決され得るような気もせられた。この時、玄関の
『さあ、お母様が迎えに来たよ。じっとしておいでよ』
と云いすてて彼は走って行って戸を開けた。するとそこへ
『子供は? ……子供はどこに?……居ます?』と叫びながら駈け込んで来た。
『私の室に居るのだ』とルパンが云った。すると女は邸内の様子はちゃんと心得ているもののごとく、そのままルパンの室へ走って行った。
『灰色の髪の婦人だ』とルパンが呟いた。
『ドーブレクの友にして敵だ。俺の想像した通りだワイ』
彼は窓へ近づいてソッと外の様子を
『俺の邸の前で
『無かったのよ、母様、本統に無かったのよ』というと、彼女はわが子をしっかと、両腕に抱きしめた。子供は昨夜来の疲れと恐怖でまもなくスヤスヤと眠ってしまった。母親も、はなはだしく気疲れがしたと見えて、子供の上に頭を下げたままウットリとしていた。ルパンはその様子をジッと眺めた。美しい中にもどこかに気品のある容貌、それにいささかの
ルパンは我知らず婦人に近づいて、
『私は、あなたが何を計画していられるか知らないが、しかしいずれにしても、有力な援助が必要です。あなた
『私は単独ではございません』
『あすこに居る二人の男かね?私は二人とも知っている。がきゃつ等は問題にはなりません。私を利用なさい。先般、あの劇場で御話した事を覚えていらっしゃるでしょう。その節一切お話し下さるはずでした。今日はゆっくり承りましょう』
彼女はその美しい眼をルパンに向けて、長い間ヂッと彼の様子を眺めて見た。
『あなたはどれだけ私の事を御承知でいらっしゃいますか?』
『知らない事はまだたくさんにあります、第一私はあなたのお名前も知らない。しかし私の知る所では……』
彼女は突然その言葉を
『御伺いする必要はございません。要するにあなたの知っていらっしゃる所はホンのわずかでかつ重要な部分ではございません、しかし、あなたの御考えはどうなのです? あなたは
『利用するって何にですか?』
『エエ、それです。伺いたいと申すのは?』
そういう彼女の力強い眼と真剣さとはかつて見た事の無いほどだった。
ルパンはついに躊躇するところなく断言した。
『
『それは
『
ルパンは言葉に力をこめて、
『いやあなたはまだ私を了解していない。もし私を了解しているならば、私に対して
婦人はこの時狂気のごとく、やにわに彼の両肩に
『エ? 何を仰います? 恐ろしい運命?……あなたはそう御考えになりますか、あなたは
『真実です』と彼は明確に答えた。ルパンはこの
婦人は手紙を奪う様にして読んだ。
『助けて下さい、
彼女はバッタリ手紙を落とした。手をぶるぶる
子供は
ふと見ると彼女の胸に小さなメタルが
『思った通りだった……ああ、
その内に彼女は全く意識を回復した。しかし依然として堅く口を噤んでいるので、ルパンは必要な質問をし始めた。そして写真の入れてあるメタルを指して、
『この中学生はジルベールでしょうね?』
『ええ』
『してジルベールはあなたの子供ですね[#「ですね」は底本では「すでね」]?』
『ええ、ジルベールは私の子です、長男でございます』
果然、この婦人はジルベールの母親であった。サンテ監獄に囚われ、殺人犯の名の
『そして、この紳士は?』
『私の亡くなった夫でございます』
『あんたの
『ハイ。亡くなりましてから、もう三年になります』
彼女は再び椅子に身を伏せた。想い出す悲しき生涯、生くるも怖ろしきこの身の、すべての不幸がことごとく我身に迫る脅迫と見ゆる過去の生涯を想い出したのであろう。
『
彼女はちょっと躊躇したが、
『メルジイと申します』
『エッ。あの代議士のビクトリアン・メルジイ?』
『ハイ、さようでございます』
『あの自殺の理由……』とルパンはしばし黙考してから声高に云った。『あなたは御存じないはずありませんね?』
『ええ存じておりますとも……』ルパンが尋ねるまでもなかった。メルジイ夫人は、黙しておられなくなったと見え、一人心の底に包んでいた悲しい長い物語をポツリポツリとしずかに語り始めた。
『二十年
クラリス・メルジイはちょっと話を止めたが、怖ろしい想い出に身をふるわせつつ、
『今でも決して忘れは致しませんが、……三人が客間に落ち会いました時……そのドーブレクが恋の遺恨から吐き出しました
『それで、ドーブレクは? 何か妨害を加えませんでしたか?』
『いいえ。でも不思議なことには結婚式に列して下すったルイ・プラスビイユさんが宅へ帰られてみると、その、恋人の女優さんは……何者かに頸を絞められて、惨死していらしたのです……』
『エッ! 何んですって?』とルパン[#「ルパン」は底本では「ルバン」]は
『ドーブレクがその女優を付け狙っていた事はわかっておりますが、何分証拠がない事には致し方がございません。ドーブレクが女優の処へ来たと云う証拠もなく、
『だがプラスビイユは……』
『プラスビイユさんも、
『それからドーブレクはどうなりましたか?』
『それから数年の間は、何をしていたかちっとも
『アントワンヌ?』
『ええ、実はジルベールの本名なのでございますが、さすがにあれも、身を恥じて本名を隠していたのでございましょう』
ルパンはちょっと躊躇していたが、
『で、いつ頃から……ジルベールが……始めたのです?』
『いつと
『なぜです?』
『品行が悪いんです。学校の方で調べた処によりますと、夜寄宿舎を抜け出たり、あるいは数週間も学校に帰らないで、家事上の都合で
『何をしあるいていたんのでしょう』
『遊びあるいていたのです、競馬場へ入ったり、
『そんなに金を持っていたのですか?』
『ええ』
『だれから貰っていたのです?』
『ある一人の悪漢が、親に内緒で金を貢いで、学校を抜け出させて、段々と堕落させる様に仕向け、嘘を吐くこと、金を遣うこと、盗みをすることなどを教わったのでございます』
『それはドーブレクですか?』
『そうです』クリラス・メルジイはしばし
『ドーブレクが復讐をしたのです。
ルパンは叫んだ。
『何ッ! ではドーブレクの奴が今度の事件を細工したんですか?』
『いえ、いえ、それはほんのふとした間違いでして、あの忌わしい呪が事実になったに過ぎません。が私どもはそれ以来どんなに苦しんだ事でしょう。当時私は病気中でございまして、まもなくこのジャックが生まれました。それからと申しますものは、毎日の様に、ジルベールが行った悪事ばかりが耳に入ります、やれ偽造行使だとか、窃盗だ詐欺だと云う事ばかり……で私どもであれは外国へ行って、死んだと世間へは申しておりましたもののずいぶん悲しい日を送っていました。それにもまして悲しい事が
『何んです、それは?』
『一語申上げれば御解りでしょうが、二十七人連判状の件です』
『アッ、そうですか!』
ルパンが眼前に閉された
クラリス・メルジイは
『ええ、名前が載っているとは申しますものの、
『ドーブレクですか?』とルパンが云った。
『いいえ。ドーブレクはその頃は名も知られない男で、まだ舞台へは現れて参りません。ところが、意外にも突然連判状の所在が知れました、と云うのは自殺した運河会社社長の
『今度はドーブレクですな?』
『ええ、ドーブレクです』とメルジイ夫人の感情は次第に興奮して来た。『アレキシス・ドーブレクは、どうしてあの有名な書類がジエルミノーの手にある事を知ったか存じませんが、とにかく六ヶ月
『だが、捕縛しないじゃありませんか?』
『でも仕様がありませんもの。ドーブレクはすぐにそれを安全な所へ
『フム、なるほど?』
『そこで、ドーブレクと妥協をしたのです』
『エ、ドーブレクと妥協、こりゃ怪しい、ハッハ……』とルパンは笑い出した。
『まったく、をかしいんですよ』とメルジイ夫人は苦々しげに『この間にも、ドーブレクの方では早くも活動を開始しまして、最初の目的へ進みました。
『フーム、実に悪辣な野郎だ』
しばく沈黙している間に、ルパンは兇悪無残なドーブレクの生活を考えてみた。彼が一度連判状を握るや、これを
『で、あんたは彼と御会いですか?』
『ええ、時々会いました。と申すよりは会わなければならなくなりました。
『その後、たびたび御会いですか?』
『幾度も会いました』と夫人は力ない声で云った。『ええ幾度も会いました……劇場とか……夜、アンジアンの別荘とか……パリーの邸とかで……それも夜です……と申しますのは、私もあんな男と会うのを人に見られるのが恥しいからでございます。しかしそれも私の胸にある一念から余儀なくああしなければならなくなったのでして……私の夫の
『あの男の死もまた欲するんでしょう』とルパンは過ぎし夜の彼等両人の悲劇を思い出して云った。
『いえ、殺したくはありません。そんな事を思わぬでもなかったのですが……殺そうと刄の腕を振り上げた事もございましたが……あの男だってそのくらいの用心はございます。のみならず、あの連判状が残っておりますし、それに、何も殺すばかりが復讐ではございません……私の恨み憎しみはもっともっと深うございます、死にまさる苦痛を与えて、この世からあの悪人を
『しかし、ドーブレクはあなたの計画を知らないではいますまい?』
『無論知っています。知っていながら、私どもは妙な会見をしています。私はあの男を監視し、その一挙一動から、その一言半句から、隠された秘密を
『あの男は……』とルパンはクラリス・メルジイの胸中を推察して『あの男は、その望む餌食を狙っている……今なお愛する事を止めない婦人を狙って……あらゆる手段をもって手に入れようとしているんですね……』
彼女は頭を垂れて、ただ『ええ』と云った。
実に不思議な闘争かな。ドーブレクはその已み難き情熱のために、求めて讐敵の的となって、彼が生命をさえ奪わんとする女をば、いかにもして手に入れんものと、我から接近して行く。男は恋のため、女は
『して、あなたの活動の結果は……どうでした?』
『長い間の捜査の苦心も、ほんの無駄骨を折ったに過ぎません。あなたの為すった捜査の方法、または警察の方でしている調査の手段、それ等は皆、私が数年前から試みたことで、すべて無駄でございます。私はほとんど絶望の淵に沈みましたが、ある日アンジアンの別荘にドーブレクを尋ねて参りまして、ふと書斎の
「水晶の内部を空洞となし、その空洞なる事を何人といえども看破し得ざる様に御製作相成度 ……」
と書いてございました。この時庭に居りましたドーブレクが大急ぎで駈けて参りまして「ここにあったはずですがな……手紙が……」
私は何の事か解らない風を装っていましたので、それ以上別に何とももうしませんでしたが、その
『フーム。なるほど、間違いのない調査ですな。けれども、私の思うには、金の線の下と云うと……隠匿場所は実に微小なものですね』
『微小ですが、それで十分なのです』
『どうして知りましたか』
『プラスビイユから』
『じゃあんたは知っていたんですな?』
『ええ、その当時から、その前までは、
『彼れは御子息のジルベールの行動を知っていましたか?』とルパンが途中で口を挟んだ。
『いいえ。あの方の位置が位置ですから、私も相当用心致しましてこれまで世間の人々に話した通り、ジルベールは家出をして死んだとだけ申しておきました。ただ、夫が自殺をした原因と、私がその復讐を決心した次第を打ち開けまして、ただ今申上げた通り、水晶の栓の秘密を発見したことを話しますと、ブラスビイユも非常に喜びまして、
『その後父の事、またドーブレクの奸悪な手段等を話して聞かせますとジルベールも涙を流して口惜しがり、親の
『そうとも……ぜひそうなければならないです』とルパンが叫んだ。
『ええ、私もそう存じました。けれども、悲しい事には、御承知の通りジルベールは至ってお人好しですから、つい、仲間のものにだまされて巻き込まれてしまいました』
『ボーシュレーでしょう?』
『ハイ。あの男は実に強欲な狡猾な奴で、私どもがあの男を信じたのがそもそも間違いでございました。これは後でグロニャルとルバリュに聞きましたんですが、ボーシュレーは連判状を手に入れると、あなたを警察に引き渡した上、やはりドーブレクのやった様に、連判状を
『フム、馬鹿野郎』とルパンが呟いた。『あんなコンマ以下の人間が……で、何んですか、あの寝室にやった羽目板の細工も?…………』
『ええ、皆ボーシュレーの指図でございます』と夫人は力無げに云った。
夫人の話はなかなかに尽きなかった。彼女等はボーシュレーを参謀にしてドーブレクとルパンとに対する闘争の準備として、両方に例の羽目板細工を施し、
『けれども、あなた、あの水晶の栓の中には何もございません。何一ツ入れるべき
『エッ、なぜ? なぜです?』
『
もしこの時、夫人の深刻な悲痛の顔が、彼の眼の前になかったならば、ルパンは、この運命の悪戯による痛烈な皮肉に対して哄笑を禁じ得なかったであろう。
彼女はハワード商会に手を入れて、栓の突端に微かな傷のあるのが見本だと云う事まで取調べていた。そして、見本の栓を奪う事によって、ドーブレクのために目的を感付かれては万事休するので、ジャックを使ってドーブレクの手元へ人知れず隠したのであった。
ルパンが出現してドーブレクの邸内に潜み出してから、彼女の活動はルパンが怖ろしくて手も足も出せなくなった。そのために例の手紙や、また劇場に来てはならないなどと云う電報をも打ったのであった。のみならず彼女は一度彼を訪問した。そして一切を打開けてその助力を乞おうとした。しかし……
『しかし、あの時にはジルベールの手紙を横取せましたね。だがジャック君ではなかったはずですが……フム、自動車の中に待たしてあったのを、窓から引き入れた?……そうでしょう、そうでもしなければあの手紙が奪れる訳ではないですから、で手紙の内容は?』
『ジルベールは大層、あなたを怨んで、仕事を奪ったばかりでなく、部下を見殺しにするとは余りだと書いてございましたので私も半信半疑の心持になって、とうとう逃げ出してしまいました……』
その後彼女がジルベールを救出すには最後にただ一ツの方法しか遺らなかったのである。彼女はドーブレクが執念、蛇の如き欲求を入れなければならないのだ、その欲求を入れれば……ジルベールは助かる。しかし、夫の仇、倶に天を戴き得ない深讐綿々たる怨の敵……とは云え、
『よくお聴きなさい。私はあなたに誓ってジルベールを救います……私はあなたに誓う……ジルベールは決して殺させない!解りましたか……この私の眼の黒い間は、天下いかなる権力者たりとも、断じてジルベールの頭に指一本でも触れさせません……よろしい、私を信じなさい……これこそ
『ええ、私は誓いましょう』
かくてルパンは夫人と種々打ち合せた上、夫人が久しい間に亙る繊弱き女性の身をもって東奔西走と苦心焦慮の極みを尽したため心身共に極度に疲憊しているので、とりあえず
アルセーヌ・ルパンは一方の競争者に握手をした以上、これからはいよいよ怪物ドーブレクとの大闘争を開始しなければならなかった。随って従来の計画を全部放棄して、ドーブレク代議士を誘惑しこれを捕虜とする大計画を確立してグロニャールとルバリュに命じて代議士の動静をいっそう綿密に捜査させる事にした。
ある日午後四時頃、書斎の電話がけたたましく鳴った。サン・ジェルマンの友人から、メルジイ夫人が毒薬を飲んだからすぐ来てくれと云って来たのであった。
一大事とばかりルパンは自動車を飛ばしてサン・ジェルマンに駈け付けた。
『死にましたか?』と火の付く様。
『いいえ、幸い分量が少かったので、大丈夫ですわ。え?、実はジャックちゃんが誘拐されたのです。自動車で泣き叫ぶのを連れ去ったらしく、クラリスさんはそれと見て狂気の様になり、『あの男だ……あの男だ……もう駄目!』と呻いて倒れたかと思うと、小さな壜を取出して一口お飲みになったのです。驚いて、
『じゃ、子供さえ取返せばいいんですな』とルパンは
と云いすてて戸外に出で、ヒラリと自動車に飛び乗ると、
『
彼の自動車の内部は事務室であり、書斎であり、また変装室であるように出来ていて、あらゆる参考図書は
かくてドーブレクの邸に現れたのが、フロックコートに山高帽、金縁の鼻眼鏡に斑白の顎髯のある頑丈な中年輩の紳士であった。玄関へ出て来たビクトワールは、
『主人はただ今臥っておりますし時刻も夜分でございますから……』と云って何としても取り次ぎそうになかった。
『オイ、いい加減にしろよ。赤ン坊じゃあるまいし。解らんのか。急ぐんだよ!』
『アッ、あなた、あなたですかい!』
『いや、ルイ十六世[#「ルイ十六世」は底本では「イル十六世」]さ、アッハハ……だが
彼はベルタ医学博士と名乗ってドーブレクに会い、メルジー夫人の自殺を計った次第を述べた。さすがの代議士もいささか驚いた気味であったが、何事か考えていた。
『何にしろ、夫人が熱のために夢中になって「あの人です、あの人です、……ドーブレク……代議士です……子供を返して下さい……あの人にそう云って下さい……さもなければ私は生きていません……」と申しますので、とにかく、一応あなたに御伺いしたら解ることと思って参りました』
代議士は長い間沈黙していたが、突然、「ちょっと失礼します」と云って電話機を取り上げた。
『モシモシ……モシモシ八二二・一九番……』
ルパンは微笑した。
『モシモシ、警視庁?……ええ官房主事のプラスビイユさんに願ます……私?私はドーブレク、代議士のドーブレクです……やあプラスビイユ君か?……え、なんだい、驚いたって?……ああ、全くだ、長い間御無沙汰したね……だがお互に心の中じゃ始終忘れっこなしさ……それに君や、君の部下の連中がたびたび留守中に訪ねて来てくれたってね……モシモシ、え? 忙しい?、……俺も忙しいよ。……ところで、だ。君のためになる事件が起ったんだ……まあ、待てよ、馬鹿……待ってってば……馬鹿……君の手柄になろうてんだよ……モシモシ聞いているかい?……君の部下を五六名大至急派遣するんだ……自動車で……君のために無類の獲物を掘り出してやったよ……ウン、殿様ナポレオン一世……一言で云えばアルセーヌ・ルパンよ』
ルパンはアッと驚いた。相当の覚悟はして来たものの、よもや、プラスビイユを呼び出そうとは思わなかったが、しかしこれくらいのことでビクともする男じゃない、彼は
『よううまいうまい!』
代議士は邸内にビクトワールも居ると云った。シャートーブリヤン街で、ミシェル・ボーモンと偽名している事も云った。
『どうだい。ルパン。手取り早い話じゃないか。これで我々の立場が明白になったぞ。ルパン対ドーブレク。この一勝負だ。ところで警官隊が来るまでには三十分しかないぞ! 足元の明るい内に尻尾を捲いて退却したらどうだい、アッハハハハ』
彼はあらゆる言葉を尽して、滔々と毒付いた。
『[#「『」は底本では「 」]何と云われてもルパンは肩一ツ動かさない。彼は静かにシャートーブリヤン街の隠家に電話をかけてアシルに、警官達の行く事を知らせ、ユーゴー通りに自動車が待たして、ビクトワールも乗っているからと告げた。
『さあ、それで用済みだ。ところで、ドーブレク。問題は簡単だ。子供を返せ』
『子供を返すのは御免を蒙る、金輪際、御免を蒙るよ』
『フン、おおかたそう出るだろうと思っていた。……じゃ俺もルパンと知れたからにゃ、考えがある。……どうだ、ドーブレク、ここに目録がある。それは云わずと知れたアンジアン湖畔の別荘で分捕った品物の総目録だ。どうだ、貴様が、メルジイ夫人に子供を返すなら、俺もこの品物を返してやろう。……え? 何ッ、フン貴様の様な犬畜生の性根じゃ、俺の行為も色目で見やがるだろうからな、俺の心意気は貴様達の頭じゃ解りっこなしさ……どうだ手を打つか?』
ドーブレクは意外に打たれた。しかし強欲で打算的な彼はたちまち喜んだ。
『よしッ。承知した。荷物と引換えに子供を返してやろう……』
『ところで、一人の子供の問題は片が付いた。まだ一人ある』
『ジルベールか?』
『貴様に頼むが、ジルベールの救助に一骨折ってくれ』
『馬鹿。ヘン御断りよ』と云った代議士の相貌にはみるみる野獣の本性を現して来た。『ヘン。御断りだ。俺は二十年来、今日ある事だけを待つために生きて来たんだ。メルジイ自身で来て俺の前で嘆願すりゃ、そりゃ次第によっては聴いてもやろうさ。だが貴様だけじゃ、御断りだ』
『どうしても聴かなきゃ、聴かないでいいさ。ヤイ、ドーブレク。俺の云う事を、よっく覚えていろッ。いずれ俺はある方法で、貴様に致命傷を与えてやる。その時に泣顔を掻くな。……何ッ。例の連判状を貰いに来るからその積りで用心しろ』
『フフン。奪るとな、笑わせやがる。アッハハハ』
『[#「『」は底本では「 」]勝手にしやがれ。だが、俺が思い立ったら最後成就せずにゃおかねえから。ヤイ。俺を誰れだと思う。アルセーヌ・ルパンだぞ』
『俺はドーブレクだ。フン。勝手にしやがれさ、……だが、いよいよジルベールの死刑が確定すりゃあ、いやでも俺の袖に縋るより外はないのだ。メルジイは誰が何と云っても俺の妻さ。アレキシス・ドーブレク夫人となるのさ。いずれ結婚披露には貴様も招待してやるから、楽しんでいるがいい。ハハハハ、だが、もうこうなった以上は、オイ、ルパン、トット出て行ってもらおうよ』
ルパンは無言のまま、物凄い眼光を据えて相手を見詰めた。ドーブレクも思わず身構えをした。両雄の虎視まさに眈々、ハッと思う刹那ルパンの手は懐中へ入る。と同時にドーブレクも懐中のピストルを握る。二秒三秒……冷然としてルパンは手を突き出した。掌上には小さな金紙を貼った小函一箇。開いたままドーブレクに差し出した。
『
『な、何んにするんだい?』とドーブレクは面喰った。
『ビクビクするない。ジェローデルのドロップだよ』
『何んにするんだ?』
『だいぶ熱があるから風薬に嘗めるんさ』
意表の悪戯に、代議士が度肝を抜かれて
『今の趣向は我ながら。秀逸々々』と彼は玄関を通りながら笑った。『面喰った
門を出るとちょうど一台の自動車が邸内に走り込んだ。ブラスビイユを先頭にドヤドヤと降りる警官の一隊。
ルパンの姿は闇に消えた。
ジャック少年を取り戻したルパンは
まもなく彼はドーブレク代議士の出身地から地方政客として名のある男を呼び寄せ、その男の手からドーブレクをある料理屋に誘き寄せ、そこで大仕掛に兇漢誘拐を計画した。
がしかし、当日、ドーブレクは自分の書斎において、四人連れの男のため、
ルパンの計画はまたまた瓦解した。
肝心の目的物が魔の手に攫われたのにはさすが蓋世の怪盗も唖然として驚いた。しかし第三の計画を樹立する前に彼はまずドーブレクの行方を突き止めなければならず、またその生死を明らかにしなければならなかった。
その日の夕方プラスビイユがドーブレクの宅で独り居残って綿密な捜査をしている処へメルジイが尋ねて来た。
プラスビイユの前に現われたのはクラリス・メルジイのみならず、その
『この方は文学士のニコルさんで、ジャックの家庭教師を御願してございますが、私どもとはごく親しい間柄で、私も何によらず御相談を願っている方でございます。私どもの計画していました事もすっかり無駄となりまして、落胆致しました。ドーブレクの行方につきまして何か手懸りでもございましたでしょうか?』
『いや、弱りましたよ。何一ツ証拠にする様な物もなし、まるで風の様にサッと来てアレアレと云う間に攫ってしまったのですからなあ……』
プラスビイユもよほど閉口しているらしかった。
『で、残り物と云えば出口の
彼は嘲笑的口調で、暗に意見を促した。ニコル教師は椅子から動こうともせず、伏目がちになって、頻りに帽子の縁を撫で廻して、その遣場に困っているらしい。
『閣下、いかがでしょう。この象牙の破片が何とか物になりませんでしょうかなあ。』
『フフン。これですか。どうも仕方が無いでしょうなあ、こんな物は……』
ニコル氏はフト思い出した様に、
『閣下、ナポレオン一世の在位の頃に地位名望を得てその没後振わなくなった、ある貴族の子孫に当るものはございませんでしょうか。――ナポレオン党の領袖でしたでしょうが……これはその人のではなかろうかと存じます。と申しますのはこの破片にはどうやらナポレオンの半面像がありますからなあ……と申上げれば名前を申上げずとも御解りでしょうが……』
『アルブュフェクス侯爵……』とプラスビイユが呟いた。
『そうです、アルブュフェクス侯爵です……』
彼――ニコルは官房主事に向い至急にアルブュフェクス侯爵に関する詳細な調査を依頼すると同時に、彼自身侯爵の行動を一々探偵した。
苦心に苦心を重ね、十数日を費やした結果、――ニコルすなわちルパンは侯爵がたびたびアミアンとモントピエールの間に猟に出掛ける事を知った。そう云えばその附近にかつては侯爵の居城で、今は廃墟となっている通称モンモールの古城と云うのがあった。彼はこれに目を付けた。
『ドーブレクの幽閉されているのはそこだ』とルパンは叫んだ。
古城の麓を廻る急流。しかも両岸は
彼は古城に忍び込むべき附近の地理を案じたが、それは徒労に帰した。しかし彼は附近の人の口から伝説を聞いた。その昔、恋に狂う美しい姫をこの古城に幽閉した時、同じ恋の若者が、急流の岸壁より梯子を渡し一条の縄を頼りに千丈の断崖を攀じて遂に姫を救出したが、あわれ恋の二人は断崖に足を辷らして急流に陥ち、ついに果敢ない最期を遂げた以来、村人はこの古城の塔を「恋の塔」と呼んでいると。
『占めたッ』とルパンは膝を打った。『よしッ、一か八か、俺もドーブレクの恋の相手に、あの断崖を登ってやろう』
その夜、グロニャールやルバリュが諫止するのも肯かず、五丈の梯子と二十丈の縄を命に、九死の大冒険をあえてして、古城へ忍び込んだ。果然ドーブレクは古塔の一室に惨い拷問の憂き目を見ていた。傍に立つのはアルブュフェクス侯爵にその部下二名。棍棒を振って、ドーブレクに連判状の所在を詰問していた。しかしドーブレクは死に
しかし彼がドーブレクを抱える様にして断崖の上に出で、まさに二十丈の縄にすがって降りようとした刹那、突如ルパンは肩に激痛を覚え、頭がグラグラとした思うとそのまま岩の上に打倒れた。
『アッ、畜生ッ!』
『大馬鹿野郎の頓馬野郎。天晴ルパンの細工がこれか』とドーブレクはセセラ笑った。その片手には短剣が光っていた。『やい俺はな、貴様達の様な浅薄な連中の手に負える悪党じゃねえんだ。……おいルパン。このピストルは俺が貰って行く。じゃ一足お先きへ、さようなら……』
代議士は悠々と降りて行く。ルパンは満身の力を絞って叫ぼうとしたが声が出ない。
『クラリス……クラリス……ジルベール……』と云うも口の中。そのまま意識は朦朧となって行く。……しばらくすると下の方で卒然起る人の叫び。銃の音。ルパンは鮮血に塗れて
彼が意識を回復した時には、彼はアミアンのあるホテルの一室に横わっていた。
『いや全く驚きましたよ。首領の仆れていたなあ急勾配の大岩石の突端で、一ツ転がりゃあ粉微塵ですからね。今考えてもゾッとしますよ』とルバリュが云っていた。
『ジルベールが死刑の宣告を受けてから今日で十八日……私はホントにどうしたらいいでしょう』とメルジイ夫人は涙声。ルパンは病床にあって、ハッと思うとまたしても意識が朦朧となってしまった。
ルパンの病中、メルジイ夫人は一ツにはドーブレクの動静を捜り、一ツにはジルベールの様子を聞くために
早速ルパンが部下をつれて駈け付けた時は、列車はすでにモントカロへ向って出発した後であった。
ルパンはすぐに後を追った。しかしモントカロへ着くと、再びメルジイ夫人の手紙が待っていた。
「彼はカンヌで下車し、更に伊太利海岸線にてサンレモへ向います。クラリス」
サンレモへ行くと駅のボーイが来てゼノアに直行した事を伝えた。『思えば馬鹿気ている。……俺達は一体何をしているんだ……明後月曜日はジルベールの死刑執行日だ……いっそ
風光の明媚をもって世界に冠たる仏蘭西の南海岸ニイスの旅館の一室にクラリス・メルジイは不安らしい顔をして旅の疲れを長椅子に横たえていた。この日、ルパンは果しない旅を伊太利方面に向けて出発していた時である。翌朝、彼女は隣室へ忍び込んだ。云わずと知れたドーブレクの室である。室の中には目指す品物は無かったが、捜していると、後方から突然、
『ハハハハ、品物は見付かったかね?』
ハッと思って振り返れば外出したはずのドーブレクが、皮肉な笑いを邪淫の口辺に洩しながら突立っていた。彼女の身体は
ドーブレクは悠々として驚くクラリスを尻目にかけつつ、彼の計画を語った。彼は反対にクラリスを尾行していたのであった。しかも部下を使ってルパン等に偽手紙と偽口伝をを残さしたのであった。兇悪奸譎な代議士のためにルパンは不知の境に徘徊させられているのだ。あわれ夫人、彼女は孤立無援、しかも恐るべき悪魔の手に陥ってしまったのだ。
常勝将軍をもって誇る彼アルセーヌ・ルパン今は惨憺たる敗北また敗北、敵のために思うがままに翻弄され尽して、しかもそれを自覚せず、今頃はどこの空に、クラリスの跡を尋ねているのだろうか。
薄命の夫人が悲惨な運命の最後は来た。不倶戴天の仇敵の前に、今は最後の膝を屈しなければならなかったのだ。ドーブレクは次第に迫って来る。今は絶体絶命! もはや抵抗する力も失せてただ死――観念の眼を閉じた。
『ああ、ジルベール……ジルベール……』と口の中で呟いた。
と不思議! 迫り来べき敵は一歩も進まなくなった。五秒……十秒……二十秒……ドーブレクは動こうともしない。
クラリスは恐る恐る目を開いた。と意外、意外。ドーブレクは極度の恐怖に襲われたものの如く、その眼は二重瞼の底から異様の光を見せて夫人の肩の辺を凝視している様だ。
クラリスは振り返った。と
『オイ、グロニャール!オイ、ルバリュー!拳銃を離せ、どうやら脆くも参ったらしい……さあ縛り上げろ!』
さすがの猛悪野獣の如きドーブレクも
『占め占め、占め子の兎だ……』とルパンは驚喜して雀躍した。彼は
『オイ、大将、貴様の煙草はどこだ、マリーランドは?……アッ、あったあった』と黄色の函を取りあげて、その封緘を切った。そして人差指と親指とで物をつまみ出す様に静かに器用に徐々と函の中をかき廻してスッと抜き出した指先にキラリと光るものがあった。クラリスはアッと叫んだ。これこそ真の水晶の栓!
『これです!これです!御覧下さい、尖端に疵もなく、中央に金線の飾りがあって、ここが捩子になっていますけれども……ああもう
ルパンが代って水晶の栓を開いた。と中から果して豆粒ほどの紙球が現れた。まさしく二十七名の連判状! 精巧を極めた薄葉用紙にランジュルー、デショーモン、ボラングラード、アルブュフェクス、レイバッハ、ビクトリアン・メルジイ等政界の巨頭当路の大官の名を列ね、その下に両海運河会社長の署名があって、生々しい血色の判が捺してあった。
彼はかねて用意してあったものの如くそれぞれ部下に命じて
『結構々々。これなら世界の果まで送っても大丈夫だ、ハッハハハ』とルパンは笑った。
かくてトランク入のドーブレクは部下二人の手で自動車に乗せて
「尋ネ人発見セリ。明朝十一時例ノ文書ヲ渡ス」。
と至急電報を発しておいて直ちに急行で巴里へ向け出発した。ルパンは夢中になるくらい喜んでいた。彼が果しなき旅を続けていたにもかかわらず、突如ここに姿を現わしたのは、『奇蹟ですね。サン・レモからゼノアに向け出発しようとした時、ふと、妙な気がし出して、汽車を飛び降りようとしたのでしたが、二人に止められたのです。で汽車の窓から首を出して何心なく過ぎ行くプラットフォームを見ると、伝言をしに来た駅夫の奴、両手をこすって、意味ありげな笑を洩している。ジッと見ているとハッと気が付いた。偽駅夫!
その日の新聞には二人の死刑執行明日午前中に行われると報じてあった。午後、警視庁でプラスビイユに面会したクラリスは、連判状引渡しの交換条件としてジルベール及びボーシュレーの助命を切り出した。プラスビイユはアッと驚いた。
明日と確定した囚人の死刑執行猶予……大問題である、彼は余儀なく大統領に謁見を申込んで、真の連判状が手に入れば二人の生命は許してもいいとの内諾を得た。そして改めて二人の前へ帰って来てメルジイ夫人に訊いた。
『で全体、水晶の栓はどこにありました?』
『あの、マリーランドと云う煙草の函の中です』
『エッ、あの箱の中? 実に残念じゃ。あの函は私が何度手を触れたかしれないでしたになあ……で連判状を持っていらっしゃいますか』
『ええ、持参しています』
プラスビイユは連判状を手にして、
『やあ、まさしくこれですなあ!』
と見ていたが、やがて拡大鏡を出して、窓硝子へ透かして熱心に調査をした結果、
『クラリスさん、これは御返しします。……偽物です……』
『エッ、偽物? え、そんな……』
『ええ、棄てるとも焼き棄てるとも勝手になさい……実は連判状の用紙ですが、肉眼では見えませんが、透かして見ると紙の中に十字のマークが打ってあるのです。ところがこれにはそれが無いのです……』
聞いたメルジイ夫人の顔色はみるみる物凄く蒼ざめて来た。驚いたのはルパンのニコルである。のみならず狂乱に近くなった彼女は取り止めのない言葉を口走ると共に肌身離さぬ短剣をスラリと引き抜いて我れと我が
『アッ、危い! 何をするッ!』とニコルは電光の如く短剣を奪った。
『あなたはジルベールをきっと救うと誓った私の言葉をお忘れですか?……ジルベールのために生きなさい。私が附いている以上きっとジルベールの死刑は執行させません……きっとです、きっとジルベールは殺さしませんッ』そう云って彼はブラスビイユに向い、
『では、閣下、真の連判状さえ手に入ればきっと二人の生命は赦[#「赦」は底本では「赧」]してくれますね。じゃ、暫時御待ちを願たい。二十七人連判状については、一時間、いや二時間以内に私が再びここへ参りまして、御相談致しましょう』と命令的に云った。そして夫人の手を取って引摺る様にしてほとんど駈足でフイと室外へ去ってしまった。ブラスビイユはしばらく唖然として呆気にとられていた。ニコルと云う家庭教師、下らぬ男とばかり思っていたが、今日計らずもその仮面を脱ぎかけた処からサッするに、明察果断しかも気鋒俊英の大才物だ。なかなか普通の人間では無さそうだ。はて何者だろうか……プラスビイユはブルッと戦慄した。きゃつだ!
彼は廊下へ飛び出すと、刑事課長に会った。
『君、今女連れの男を見たろう? すぐ五六名を連れて追駈けてくれ。それからニコルと云う奴の家を監視して、すぐ捕縛しろ、これが逮捕状だ……』
『でも……おや、捕縛するのはニコルでしょう? ですが、これにはアルセーヌ・ルパン……』
『アルセーヌ・ルパンもニコルも同一人間だ……』
翌日、ニコルは再び飄然とプラスビイユを訪れた。
『実にどうも大胆不敵、図々敷い野郎だ』とプラスビイユは呟いた。
ニコル文学士は
『ええ、昨日御約束致しました件について御伺い致しました。思いがけなく手間取りまして、何とも申訳がございません』
『いかがです、昨日のお言葉通り
『ハア、実はドーブレクは
『君は自動車を持っているかね?』
『ええ、旧式のボロボロ自動車でございます。でドーブレクを自動車に乗せまして、と申しても実は、
プラスビイユは驚愕の顔でニコルを眺めた。人相を見ただけではどうしてもそれとは想像も付かないが、その談り出した行動、ドーブレク誘拐手段は――
『ところで連判状は手に入りましたか』とプラスビイユはさり気ない体で問うた。
『持っています』
『真物ですか?』
『無論、正真正銘、擬い無しの連判状です』
『ローレンの十字のマークがありますかね?』
『あります』
プラスビイユは沈黙した。激烈な感情が総身に迫って来た。今や闘争はこの相手、非常の力を持ったこの怪物を相手に起って来たのだ。しかも当の敵たるアルセーヌ・ルパン、かの猛峻な怖るべき怪盗アルセーヌ・ルパンが面と向かって、十二分に武装したものが寸鉄を帯びざる敵と相対せるものの如く冷然としてその目的に突進しつつ平静、端然と落ち付き払っているのを思って、プラスビイユは知らず知らず身慄をした。正面から堂々と攻撃するは危険だ。彼はジワジワと攻め立てようと考えた。
『でドーブレクが
『ドーブレクは渡しません。私が引奪くったのです』
『じゃ、腕力を用いたのだろう?』
『なあに、そんな事は致しません』とニコルは笑いながら云った。『ええ、私は堅い決心を致しました。ドーブレク先生が私のボロ自動車のトランクの中に乗かって、最大速力で走りながら、時々クロロホルムの御馳走を召上っている間に、私は一気呵成に目的物を得る方法を考えました。いいえ、拷問なんぞの必要もありません……余計な苦痛を与えるのも罪ですから……一思いに殺すんです……極めて細い針を、その胸、心臓の辺りに徐々と突き込むんです……たったそれだけです……ですがそれはメルジイ夫人に御願したのです……愛児を殺されんとする母の心……情容赦は致しません。「云え、ドーブレク、云え連判状の所在を云え……云わなければ針を段々深く突込むよ」と云った訳で、一ミリばかり突込み……また一ミリ……ところが強情我慢のドーブレクですな、一言も云いません。驚きましたよ。ですが、次第に苦しくなったと見えて、少しく唇を動かしました、その時、夫人が「眼……眼……眼鏡の中に……眼を見ましょう……」と云うので、もちろん私も、その苦痛の眼からきゃつの秘密を読んでやろうと思っていた矢先ですから、いきなり黒眼鏡を引ぱずしてやったんです、と突然、何とも云えない感じに打たれ、ハッと思うと一切の光明がサッと出ましたね。で噴飯しましたよ、大笑いでさあ……いきなり拇指をグイと突込んで、ポンと刳り出しましたよ、左の
ニコル氏は凄い声で呵々と大笑した。彼はいつの間にか臆病な、窮屈な田舎出の家庭教師の仮面をかなぐり棄てて、濶達奔放、縦横無碍の調子で喋舌り立てる様になった。プラスビイユは面喰って目ばかりパチクリパチクリさしている。
『ポンと飛び出しやがったぜ、大将! 巣からはね出したんでさあ。ヤイ、親方、二ツの眼球を何にするんだ! 贅沢だ。ソレ、クラリスさん。床の上へころがりましたよ。踏み潰しちゃいけない……ドーブレクの眼球です! 踏み潰しちゃいけませんよってね。ハッハハハ』と笑いながら彼は懐中から一物を取り出して掌でころがし、二三度手毬に取って、また元の懐中へ入れた。
『ドーブレクの左の眼球です』
プラスビイユは茫然としてしまった。この奇怪な訪問客は何しに来たのか? 全体何を云っているのか? 彼の顔は真蒼になった。
『何の事か解らない』
『解らんとは驚いた。一切説明したじゃありませんか。例の「外部より容易に看破せられざる様巧妙なる細工を施されたし」と云ったのはこれなんでさあ』と云い、またも例の眼球を取り出して、卓上をコンコンと叩いた。堅い音がする。
『硝子の眼球だ』とプラスビイユが驚きの声を挙げた。
『分りましたか、ドーブレクも味をやりまさあね。こんな偽眼を嵌めていようとは神ならぬ身の知るよしもなしです。しかも見本の水晶の栓を血眼になって捜し廻ったり、マリーランドの中から偽物の栓を発見して夢中になって喜んだなざあ、けだし天下の喜劇でした。ドーブレクの奴、こうした偽眼の中へ御神体を祭り込むたあ、考えたも考えたものですなあ!』
『で連判状はその中にあるか?』とプラスビイユはてれ隠しに顔を撫で廻した。
『ええ、たぶんあるでしょうと思います』
『え、何ッ……あるだろう?……』
『まだあらためて見ないのです。実はこれを開く名誉を官房主事閣下のために保留したいのです』
プラスビイユは眼球を手にして点検した。その形状は云うまでもなく、瞳孔、虹彩に至るまで、一見偽眼とは思えないほど精巧に出来ていた。裏面に一ツの栓があって、それを抜くと中は空洞、果然、その中に豆粒大の
『十字のマークが見えますか?』
『あるある。これこそ真物だ』とプラスビイユが叫んだ。
彼は静かにその連判状を懐にすると平然として煙草をくゆあした。彼はニコルなど眼中に無くなったのだ。連判状は手に入った。場所は警視庁、彼の隣室、その他には数十名の警官が伏せてある。ルパンを逮捕するのは嚢中の鼠を捕えるより易い。しかも彼の手には隠し持ったピストルが握られている。ニコルが前約に従ってジルベールの特赦状を要求したが、プラスビイユはフフンと鼻であしらって返事も碌々しなかった。
『おい!ニコル君とやら。私は昨日文学士ニコル君に連判状の交換条件として、ジルベールの特赦を約束した。しかし君はニコルじゃない。フン、まあ云うだけ野暮さ。オイ。いい加減に観念しろ』とせせら笑った。しかしニコルは肩をすくめた。
『ハッハハハ、ねえ、プラスビイユ君。じゃあ俺はアルセーヌ・ルパンとあえて云おう。ところで君はこのアルセーヌ・ルパンと拮抗して戦ってみるつもりなのかい。フン。官房主事閣下、少しは自分の身も考えてみるがいいぜ。連判状を握って急に気が変ったと見えるな、君の態度はドーブレクやアルブュフェクスそっくりだ。「さあ連判状が手に入った。こうなりゃおれは万能だ。ジルベールを殺そうと、クラリスを殺そうと、俺の心のままだ。いわんやルパンの如き、それ何する者ぞ」と考えてるだろう。ところがよ。ドッコイそうは問屋が卸さないんだ。おい! プラスビイユ君、君は、その連判状の第三番目に名前が書いている前代議士スタニスラス・ボラングレーを脅迫して、金を捲き上げた人間があるか、知ってるかい? 全体誰れだと思う? え?』
『…………』プラスビイユは蒼くなった。
『俺の前にいるルイ・プラスビイユさ。君が俺の仮面を引剥くなれば、君の面だって、ずいぶんぐら付いているぜ……』
彼は声高く嘲笑した。そしてプラスビイユとボラングレーとの間に往復した手紙を持っているから、それは今夜いや明朝の四大新聞に素破抜く事になっているんだ。愚図々々云わずと早く大統領の所へ行って一時間以内にジルベールの特赦状を貰って来いと怒鳴った。のみならず彼は特赦状は二十七人連判状だけでたくさんだ、ボラングレーとの文書は四万法渡さねば取引しないと嚇しつけた。
さすがのプラスビイユもこうなっては手も足も出ない。彼は茫然として夢見る心地でフラフラと室から出て行った。
『いや、天晴れ天晴れ』とルパンは、プラスビイユが出て行く後から呟いた。『プラスビイユの奴め、すっかり嚇し上げられやがって出て行ったが、いずれ特赦状と四万法とを持って来るだろう。この袋の中へ詰め込んだただの白紙が四万法だ! まあこれも、ルパン、貴様が人道のために尽した天の報償だよ。……多少思い切った酷い真似もやったさ。だが、こんな奴等は何んでも高圧的にグングン遣付けるに限る! オイ、頭を上げろ。ルパン! 貴様は虐げられた人道のために健気に奮闘した選手だ! 貴様の行動を誇れよ……さあ、今こそ椅子にふん反り返って長々と手足を延ばして、一寝入しろ。貴様は勝った。それだけの資格があるのだ!……』
彼は警視庁官房主事室で独りぐっすりと睡りに落ちた。……
(終)