秘密の庭

THE SECRET GARDEN

チェスタートン Chesterton

直木三十五訳




        一

 巴里パリーの警視総監であるアリステード・ヴァランタンは晩餐におくれた。そして来客達はもう彼より先きに来はじめていた。それで忠実な執事のイワンがお相手をしていた。イワンは顔に刀傷かたなきずの痕のある、そして灰色の口髭と色別いろわけのつかないような顔色をした老人で、いつも玄関のテーブルに――そこには武器類がかかっている――に控えている。この家は主人のヴァランタンと同様に風変りで有名である。旧い家で、高い外塀と、セイヌ河の上に乗出しているヒョロ高いポプラの樹とを持っているがこの家の建築上の風変りな点は――そしておそらくはその警察的価値は――すなわち、この家には、イワンと武器とががん張ってる表の入口からするのでない以上は、はいっても出たというものがない事だ。庭は広くてよく手入れがき届いていた。そして家の中からその庭への出口はたくさんあった。が庭から世の中への出口がないのだ。周囲は高くて滑々すべすべで登る事の出来ない塀にとりかこまれて、塀の上には盗難よけの釘が列をつくっている。この庭は、百人に近い犯罪家に首をつけ狙われている男にとっておそらく悪るい庭ではない。
 イワンが来客への申訳によると主人から先刻電話がかかって、十分ほど遅くなるからとの事であった。ヴァランタンは実は死刑執行やその他のいまわしい事務についての最初の手配りをしていたのだ。そうした仕事は腹の底から不快なことであったが彼はそれをテキパキと片づけるのが常であった。犯人の追跡には無慈悲な彼も刑罰には非常に寛大であった。彼が仏蘭西フランスの――否、広く全欧羅巴ヨーロッパにまたがっての――警察制度の支配者となって以来、彼の影響は、名誉にも刑罰の軽減、監獄の浄化等いう方面に及んだことである。彼はフランスの偉大な人道主義的自由思想家の一人であった。
 ヴァランタンが帰宅した時はもう燕尾服を着て胸に赤バラをかざしていた――上品な姿――黒い髯にはすでに白いものを交ぜていた。彼は家にはいると真直に、庭に面した自分の書斎へ通った。庭への出口が開いているので、彼は事務机の上の小函に注意深く鍵をかけて後、しばらくその戸口の所で庭を眺めた。鋭どい月が嵐の名残のちぎれ雲と戦っていた。ヴァランタンは科学者肌の人には珍ずらしい物想わし気な面持でそれを見つめた。たぶんこうした科学者的性格の人間には生活上に何か非常に恐畏すべき問題の起るような場合、心霊上の予感があるらしい。しかしそうした一種の神秘な気分から、少なくとも彼はたちまち我れにかえった。自分は遅れたこと、客がすでに来はじめている事をよく知っているので。彼は客間へはいってちょっと見渡したが、今夜の主賓が未だ来ていない事がわかった。外の主だった人は皆揃っていた。そこには英国大使のガロエイ卿がいた――林檎のような赤ら顔をした癇癪持らしい老人で、青いリボンのガーター勲章をつけている。ガロエイ夫人もいた。銀色の髪の毛を持ち、聡明らしい上品な面持をした鶴のような姿の女性だ。娘のマーガレット・ブレーアムという青白い可愛い、いたずらっ子らしい顔と銅色の髪の毛を持った少女もいた。また黒眼で豊まんな、モン・サン・ミシェル公爵夫人が、同じように黒眼で福々しい、二人の娘を連れて来ていた。眼鏡をかけ、褐色の髯をたくわえた、典型的のフランス式科学者シモン医学博士もいた。彼の額には太い皺が幾筋となく走っているが、これは博士が尊大で、絶えず眉毛をビクビクとつり上げるところから生じた報いだ。英国エセックス州コブホールの僧侶師父しふブラウンもいた。主人が最近英国で近づきになった人であった。それからヴァランタンは――他の誰よりも多くの興味をもって――せいの高い一人の軍服姿の男を見た。この男は英国大使一家の人達に挨拶をしたのだが。あまり快い礼を返されなかったので、今度は主人の方へ敬意を表しにやって来た。彼は仏蘭西フランス遣外駐屯軍の司令官のオブリアンという男である。痩せてはいるが、幾分威張って歩きたがる男で、黒い髪と碧い眼を持ち、髭には叮嚀ていねい剃刀かみそりがあてられている。敗戦に勝利を得、自殺に成功した有名な聯隊の将校としては自然であるように、彼は突貫的な、また幽欝な風ぼうを備えていた。生れは愛蘭土アイルランドで、子供時代に英大使ガロエイ氏一家――ことに娘のマーガレット・ブレーアムと馴染だった。彼は借金を踏倒して国を逃出し、今では軍服、サーベル、拍車で歩きまわって、英吉利イギリス風の礼儀をすっかり忘れてしまっている。大使の家族に礼をした時、ガロエイ卿と夫人とは無愛想に首を曲げただけで、マーガレット嬢はわきを向いてしまったのである。
 しかし、昔馴染のこれらの人達がお互にどんなに興じ合っていようとも、主人のヴァランタンは彼等の特に興味をもったのではない。彼等のうちの一人だって、少なくとも今夜の客とはいえないのだ。ある特別な理由で、彼はかつて米国で堂々たる大探偵旅行を企てた時に知己になった世界的に有名な男を待っていた。彼はジュリアス・ケイ・ブレインと言う数百万ドルの財産家の来るのを待っていたのだ。このブレインが群小宗教に寄附する金は人をアッといわせるほど巨大なもので、英米の諸新聞のいい噂の種となったものである。そのブレインが無神論者であるのか、モルモン宗徒であるのか、基督キリスト教信仰治療主義者であるのか、それは誰にもわからなかった。が、彼は新らしい知識的宣伝者と見れば、どんなものにも即座に金を注ぎ込んだ。彼の道楽の一つは、アメリカ沙翁さおうの出現するのを待つことだった――魚釣よりも気の長い道楽だが。彼はワルト・ホイットマンを称讃した、しかしパリのタアナーはいつかはホイットマンよりももっと進歩的であったと考えた。彼は何によらず進歩的と考えられるものが好きであった。彼はヴァランタンを進歩的な男だと思った――それが恐るべき間違いの原因となった。
 そのブレインもまもなく姿を現わした。彼は巨大な、横にもたてにも[#「たてにも」は底本では「たてにも」]大きな男で、黒の夜会服にすっかり身を包んでいた。白髪を、独逸ドイツ人風に綺麗にうしろへ撫でつけていた。赤ら顔で、熱烈な中にも天使のような優しさがあって、下唇の下に一ふさの黒髯を蓄えている。これがなければ嬰児のように見えるであろう顔に、芝居風な、メフィストフェイス(「ファウスト」の中に出て来る悪魔)もどきの外観を与えるのであった。けれども、今客間の連中はこの有名な亜米利加アメリカ人に見とれてばかりはおられなかった。彼の遅刻がすでに客間の問題になっていたのである。そこで彼はガロエイ夫人に腕をかしながら、大急ぎで、食堂へとせき立てられた。
 マーガレット嬢があの危険千万なオブリアンの腕を取らない限りは、彼女の父は全く満足されていた。しかも彼女はそうせずに、行儀よくシモン博士と這入って行った。それにもかかわらず、老ガロエイ卿は落つきがなく無作法であった。彼は食事中に充分に社交的であった、がしかし、喫煙が終って、若手の方の三人――シモン博士と、坊さんのブラウンと、外国の軍服に身を包んだ亡命客で危険なオブリアン司令官とは、温室の方で婦人達と話したり、煙草を喫んだりするために、いつの間にか消えてしまった時、それからというもの、英国外交官のガロエイ卿はすこぶる社交的でなくなった。彼は破落戸ごろつきのオブリアンが、マーガレットに何か合図でもしはしないかと時々刻々そればかり気にしていた。彼は一切の宗教を信仰する白頭の米人なるブレインと、何ものをも信ぜぬ胡麻塩頭の仏人ヴァランタンと、[#「、」は底本では「。」]たった三人取残されて珈琲コーヒーをのんでいた。主人とブレインとは互に議論を戦わしたが、二人ともガロエイ卿に助けをこおうとはしなかった。しばらくするとその討論もひどくだれ始めた。ガロエイ卿もそこを立上って客間を目指した。が長い廊下で七八分間も道に迷った。やがてシモン博士の甲高い、学者ぶった声、次で坊さんの一向パッとしない声、最後に一同のドッと笑う声がきこえた。彼等もまたたぶん、「科学と宗教」の話しをしているのだろうと推量して、ガロエイ卿はにがにがしく思った。だが彼が客間のドアをあけると、彼はそこに司令官のオブリアンの居ない事を、また娘のマーガレットも居ない事を見てとった。
 彼は食堂を出て来たように客間を去って、再び廊下を踏みならしながら歩いた。やくざ者のオブリアンの手から娘を護らなくてはならないという考えで、今にも頭が狂いそうな気がした。彼は主人の書斎のある裏手の方にくと、娘のマーガレットが真青な、侮辱を受けたような顔をしてバタバタと駈出して来るのに出遭ってびっくりしてしまった。もし娘がオブリアンと一緒にいたのだとすれば、オブリアンの奴は今どこにいるのだろう? もし娘がオブリアンと一緒にいなかったとすれば、娘は今までどこにいたのだろうか? 彼は一種の狂的な疑惑の念にかられて、家の暗い奥の方へとはいってくと、偶然、庭の方へ通じてる勝手口を発見した。半月刀のような月は嵐の名残の雲を払いつくして皎々たる光を庭中の隅々に投げていた。彼はその時青い服を着たせいの高い姿が芝生を横ぎって主人の書斎の方へ大股に歩いてくのを見た。軍服の襟や袖に銀白色に輝く月光の一閃で、それは司令官のオブリアンであることがわかった。
 その人影は仏蘭西フランス式の窓をくぐり抜けて、建物の中へ消え去った。ガロエイ卿を苦々しいような、または茫漠としたような、一種不思議な気分の中に取残して、劇場の場景のような銀青色の庭は何だか彼を嘲ってるように思われた。オブリアンの大股な洒落者らしい歩みぶり――ガロエイ卿は自分は父親ではなく、オブリアンの恋敵でもあるような気がして、腹が立った。月光は彼を狂わしくした。彼は魔術にかけられてワトオ(フランスの画家)の仙女の国に遊ぶような気がした。それで、そうした淫蕩な妄想を振落したいものと思って、彼は足早くかたきの跡を追うた。すると草の中で木か石のようなものに足を引掛けた。つぎの瞬間、月と高いポプラの樹とがただならぬ光景を見下ろしていた――英国の老外交官が大声を張りあげて喚きながら走って行く姿を。
 彼のしゃがれた叫声さけびごえをききつけて一つの青い顔が書斎の戸口に現われた、シモン博士の光った眼鏡と心配気な眉毛が、博士はガロエイ卿の叫声をききつけた最初の人であった。ガロエイ卿はこう叫んでいた。
「草ッ原に死骸が――血みどろの死骸が!」オブリアンの事等は少なくとも、彼の心から全く消え去ってしまっていた。
「ではヴァランタンに伝えなくてはなりますまい」と博士は相手が実見した事実を途ぎれ途ぎれに語った時、こういった。「しかし警視総監その人がここに居られるのは何より幸せです」
 彼がこういっている時に、大探偵のヴァランタンが叫声を聞きつけて書斎へはいって来た。彼は来客中の誰か、あるいは召使が急病をでも起したのではないかと気遣って、一家の主人または一個の紳士の懸命をもって駈付けたのだ。戦慄すべき凶事のことをきかされて、彼の威厳はたちまちに職業柄の活気を呈して来た。なぜならばいかにそれが戦慄すべき突発事なりとも、これは彼の仕事であったから。
「不思議ですなア、皆さん」一同が急いで庭へ下り立った時ヴァランタンは云った。「世界中至るところに犯罪を探り歩かねばならぬ私が、今それが自分の家の裏口から事件が起ったのですからな。だが場所はどこですか?」
 一同は芝生を横ぎった。河から夜霧が淡々あわあわ立ち始めていたので歩行はあまり楽ではなかった。けれどもブルブルふるえているガロエイ卿の先導で、彼等はやがて草地の中に横たわっている死体を見付け出した。――非常にせいの高い、肩幅の広い男の死体。彼は俯伏になっているので、大きな双の肩が黒い着物に包まれていることと、褐色の頭髪が、濡れた海草のようにほんの少しくっついている大きな禿頭のあることだけしか解らなかった。紅い血が突伏した顔の下から蛇のように流れていた。
「とにかくこれは吾々の連中ではない」とシモン博士は深い、奇妙な調子でいった。
あらためて下ださい、博士」とヴァランタンがやや鋭い声でいった。「まだ息があるかもしれませんからな」
 博士はしゃがんだ。「まだいくらか温味ぬくみがあります、しかし息はもう絶えているようです。持上げますからちょっと手伝って下さいませんか」
 一同は注意深く死体を地上からちょっとばかり起した、それで、生きているか死んでいるかの疑は直ちに怖ろしくも解決された。首がコロコロと転がって行った。首は胴からスパリときられていたのだ。さすがの総監さえもこれには思わずギクッとした。
「加害者はゴリラのように馬鹿力があったに相違ない」彼は呟くようにいった。
 解剖上の醜悪なものにはいかに慣れている博士さえも身顫みぶるいを禁じ得ずに、首を取上げてみた。頸部と前顎に滅多斬りにきりつけた痕があるだけで、顔面は大体無傷であった。顔は鈍重で黄色く肉が落ちこんでいてしかもむくんでいた。鷹のくちばしのような鼻と部厚な唇とがついていた。古代ローマの虐帝の顔にも似ていれば、支那皇帝の顔にも少しは似ているようだった。その外に特に眼をひくものはなかったが、ただ皆んなで死体を起した時、赤い血にまみれた白いシャツの胸が見えた。この男はシモン博士のいったように、この晩餐会の客ではない。が、今晩出席するはずの客であったに相違ないことは服装が夜会服である事で解った。
 ヴァランタンは四つんばいになって、おそろしく細密な職業的な注意を払って、死体の附近二十ヤード四方のくさむらや地面をしらべた。博士も下手ながら英大使もうろうろしながら手伝った。しかし、死体の近くにこまかに刻んだような木の小枝が二三本落ちているのを見つけたばかりで、外には何も見当らなかった。ヴァランタンは小枝をちょっと拾い上げてみたが、直きに放り出してしまった。
「樹の枝と」彼はまじめ気にいった、「樹の枝とどこの者だか解らぬ首無しの男と、それがこの芝生の上にあるすべてのものですな」
 そこには身慄いの催されるような沈黙があった、とその時魂の抜けたようになっていたガロエイ大使は鋭く叫び出した。
「誰だ? 塀のそばに立ってるのは誰だ?」
 莫迦々々しく頭の大きい小男の姿が、月靄の中に立って、一同の方へフラフラと近づいて来た。最初は化物のように見えたが、よく見ると、一同が客間に置き去りにして来た無邪気な坊さんである事が解った。
「この庭には門がないようだがな」と彼はおだやかに云った。
 ヴァランタンの濃い眉毛が意地悪る気に八字の皺をよせた。僧侶の服装を見ると八の字になるのがこの眉毛の癖なのだ。しかし彼は僧侶の適切な観察を否定するほどに不公平な人間ではなかった。「おっしゃる通りです」と彼は云った。「我々はこの被害者がどうして殺されるに至ったを探究する前に、我々はどうして彼がここにはいるに至ったかを探究しなくてはならんのです。まあおきき下ださい、皆さん。もし私の地位と職務とを信頼して下さるならば、我々は本件に関して、名士諸君の御名前を引合に出さんように処置するという事に考えが一致せんければならないと思うのですが。ここには淑女方も紳士諸君も居られるし、また外国の大使も居られます。もしこれを犯罪事件と見なさなくてはならんものとすれば、そのように捜査せねばならんのです。しかし、そこは私の裁断次第になります。私は警視総監です。私はこの事件を秘密にしておくことが出来るほどの公職にある男です。私が他を捜さくするために私の部下を呼び寄せる前に、私はまず来客諸君の一人一人が本件に無関係である事を立証したいと思います。諸君、諸君の御名誉にかけて、明日みょうにちの正午まではお一人でも拙宅から御引取りにならないように、それに寝室も数だけありますし。それからシモン博士、あなたは執事のイワンが玄関に居るのを御存じでしょう、あれは信用のおける男ですから。どうかイワンに外の者を代りに置いてすぐにここへ来るようにおっしゃって下さらんですか。それからガロエイ卿あなたは御婦人方へ恐慌を起さんようにうまく事件のことをお話し下さるに最も適当な方だと思いますが。御婦人方にも残っていただかなくてはならんです。師父さんと私は死体の番をいたしましょう」
 シモン博士はつるぎへやへ行って、本職探偵の私立探偵のようなイワンを呼んだ。ガロエイ卿は客間へ行って、巧みにこのおそろしい事件を報告した、それでまもなく一同が客間へ集った時には婦人連は既に驚きが終りまたもう宥められていた。
 傷痕と口髭とをもつ忠実な臣イワンは弾丸のように家の中から飛び出し、犬が主人に呼ばれたように芝生を横ぎってヴァランタンの所に駈付けた。彼の鉛色の顔も、家内に探偵事件が起ったときいて活気に燃え立っていた。死体を調べてもよいかと主人の許しを乞う様はほとんど不愉快なほど夢中であった。
「よし、見たければ検べてもよい」と主人が云った。「しかし長くはいかんよ。部屋へ帰って色々しらべなければならん事があるから」
 イワンは彼の顔をあげた。が、落すようにそれを置いた。
「オヤ、これは、不思議不思議! 閣下はこの男を御存知で?」
「知らん」ヴァランタンはぶっきらぼうに云った。「吾々は家に入る方がよかろう」
 彼等は書斎の長椅子の上に死体を運んで、それから客間へ行った。
 探偵は静かに、少しぐずぐずしながら机に向った。しかし彼の眼は裁判官席の裁判官の鉄の眼のようであった。彼は前にある紙片に何か二三行走り書きをしてから、言葉短かに、「皆様ここにお揃いでしょうか?」と訊ねた。
「あのブレインさんがいらっしゃいませんが」とモン・ミシェル公爵夫人があたりを見廻しながら云った。
「そうそう」とガロエイ卿もしわがれ声を出して、「それからオブリアン君も居らんようですが、私はあの人を、死体がまだあたたかった時にお庭を歩いておるのを見かけましたが」
「イワン、オブリアン司令官殿とブレインさんをお連れ申しておいで」と主人が云った。「[#「「」は底本では「」」]ブレインさんは食堂の方で葉巻をもう終りかけておられる頃だろうし、オブリアン司令官は温室を散歩しておいでだろう。判然はっきりは解らんが」
 忠実な執事が消え去ると、ヴァランタンは一同に息もつかせぬように、軍人式の容赦のない句調で語をつづけた。
「ここにおになる皆さんは御存知の事でしょうが、庭に人間の死体が発見されまして、首が胴体から斬取られておるのです。シモン博士、あなたはあれを御検視なすったが、あのように人間の首を切断するには、よほどの力が要るものでしょうか? それとも非常に鋭利なナイフぐらいで?」
「さア、ナイフ等ではとても斬れませんなア」博士は顔を蒼くして言った。
「ではそれだけの効力のある刄物について何か御考えがありますまいか?」
「近頃の刄物ではむずかしいですなア」博士は眉間に八の字を寄せて言った。「元来くびというものはギスギスと斬るさえ難かしいものです。しかるにこれは美事にスパリとやられてます。まあなたとか昔の首斬斧とか、または古代の両刄のつるぎなら出来ますが」
「だって、まア!」公爵夫人はヒステリックに叫んだ。「ここら辺りには両刄の剣や鉞等ありはいたしませんでしょう」
 ヴァランタンはなおも眼の前の紙片に何か書つけていた。「どうでしょう」といいながらなおも走書きをつづけて、「[#「、「」は底本では「、」]仏蘭西フランス騎兵の軍刀では?」と訊ねた。
 ドアを低くノックするものがあった。一同は何とも理由のつかない理由でヒヤリとした。その氷のような沈黙の中にシモン博士はこれだけの事を云った。「軍刀――そうですなア、軍刀なら斬れるかもしれません」
「ありがとう」とヴァランタンが云った。「おはいり、イワン」
 忠実なイワンはドアを開きオブリアン司令官を案内して来た。司令官がまだ庭を歩いてるのをやっと見つけて来たのだ。
 司令官は取乱した風で、それに少しムッとした態度で戸口に突立っていた。「何か御用がおありですか?」と彼は叫んだ。[#「。」は底本では「、」]
「まアかけたまえ」ヴァランタンは愛想よく、きさくに云った。「おや、君は軍刀をつけていませんね、どこへお置きになりました?」
「図書室の卓子テーブルの上に置いて来ました」ドギマギしているので、彼のアイルランド訛を丸出して、オブリアンは言った。「それは邪魔だったものですから、それが腰に当って……」
「イワン」とヴァランタンが言った、「図書室から司令官殿の腰の物を取って来てくれ」召使いが立上ってから、「ガロエイ卿はちょうど死体を発見される前に、君が庭に出てかれるところを見たと言われるんだが、君は庭で何をしておられたんですか?」
 司令官は投げるように身体を椅子に落した。「そうな」愛蘭土アイルランド言葉丸出しで叫んだ、「月を眺めていましたよ。自然と霊感を交えましてなア」
 重苦るしい沈黙が続いた。やがてまた例の物凄いノックがきこえた。イワンが刀身のない鋼鉄製の鞘をもって再び現われた。「これだけしか見当りませんでございますが」とイワンは言った。
卓子テーブルの上に置け」とヴァランタンは見向きもせずに云った。
 残忍な沈黙が室内を支配した、死を宣告された殺人者の法廷のまわりに漂う限りない残忍な沈黙のそれのように。公爵夫人が弱く叫び声をたてたのもとうくの昔に消え去っていた。次に発せられた声は全く想いもよらぬ声だった。
「あの、申上げたいのでございますが」とマーガレット嬢は勇敢な女が公衆の前で話す時の、あの澄んでふるえを帯びた声で叫んだ。「あの、私はオブリアン様がお庭で何をなすっていらっしったか、よく存じておりますの、オブリアンさんは言いにくいので黙っていらっしゃるんですけれど、あの、実は私に結婚のお申込をなさいました、けど私はお断りいたしましたの。私共の家庭の事情上お断りするより外に仕方がないので、私、ただ私の敬意だけを差上げますからって申上げました。オブリアンさんは少し憤っていらっしゃいました。あの方は私の敬意等はあまりお考えになるようには思われませんでしたの、けれど」と妙に笑ってつけ加えた。「あの方も今私の敬意を受けて下ださるでございましょうよ。私はどこへ出ましても、あの方は決してそんな事を遊ばす方ではないとお誓い申します」
 ガロエイ卿は娘の方へジリジリと詰めよっていたが、彼は自分では小声のつもりで彼女をおどしつけていた。
「お黙り、マジイ」彼はわれるような低声で云った。「なぜお前はこやつを庇うんか? かやつのつるぎはどこにある? あやつのいまいましい騎兵のつるぎはどこだッ。――」
 彼はもっと云込むつもりであったが、娘の妙な眼付、それは一同の視線をも強力な磁石のように吸付けたところの妙な眼付にあってやめてしまった。
「お父様の解らず屋!」とマーガレットは小声ではあるが、敬虔の仮面を抜ぎすてて言った。
「一体何をそんなに発見なさろうというおつもりですの? あの方は私のそばにいらした時には潔白だったのよ。たとえ潔白でなかったとしても、私と一緒にいらっしったのよ。もしあの方がお庭で人殺しをなさったとすれば、それを見たはずの人は誰でしょう――少なくともそれを知っているはずの人は誰でしょう? お父様はオブリアンさんをお憎みになる余り御自分の娘までもその――」
 ガロエイ夫人は金切声をあげて叫んだ。他の一同は若い二人の間に起ったであろうその悪魔的悲劇に思い触れてギクッとした。彼等はスコットランド貴族の誇り高い白い顔と、暗い家の中のふるい肖像画のような、愛蘭土アイルランドの危険人物である、彼女の恋人とを眺めた。
 病的な沈黙の最中に、一つの無邪気な声がいった。「それはよほど長い葉巻だったかしら?」
 突然の言葉に彼等は吃驚びっくりして、誰が言ったのだろうかと周囲を見廻した。
「わしは」とへやの隅っ子から師父ブラウンは云った、「わしはブレインさんが喫うておられたという葉巻のことをいうとるんですぞ。それは散歩杖のように長い葉巻のように思われるんでな」
 一向に要領を得ないような言葉ではあったが、それを聞いて頭を持上げたヴァランタンの顔には感心したような、癇癪を起したような表情が浮んでいた。
「いや全くです」と彼は鋭く云った。「イワン、もう一度ブレインさんを見に行って来れ、そしてすぐにここに御連れしろ」
 執事がドアを閉めて出てくと、ヴァランタンは今実に非常な熱心さを持って令嬢に話しかけた。
「マーガレット嬢、吾々一同はあなたが司令官の行為について試みられた御説明に対しては感謝と賞讃を感じました。しかし、その御説明にはまだ足らん所がある。御父さんはあなたが書斎の方から客間の方へかれたのと出遇われたという御話です。それからわずかに二三分たって、お父さんは庭の方にオブリアン君がまだ散歩しておられるのを見られたという事ですが」
「けれどもこういう事も御承知になっていただきたいのですわ」と彼女の声に幾分皮肉さをもってマーガレットは答えた。「あれは私があの方の御申込を御断りいたしたばかりの時でございましたから、二人腕を組んで戻ってまいる訳にもまいりませんでしたの。とにかく、あの方は紳士でいらっしゃいますから、それであの方は後へお残りになりましたものですから――殺人の嫌疑等を御受になったのでございますわ」
「その何分かの間に」とヴァランタンは重々しくいった。「オブリアン君は事実その――」
 またもやノックの音がしてイワンが刀痕のある顔を差出した。
「申上げます、ブレイン様は[#「ブレイン様は」は底本では「ブイレン様は」]もうお帰りになりましてございます」
「なに帰ったと!」ヴァランタンはこう叫びながら初めて席を立った。
「行っておしまいになりました。夜逃げをなさいました。蒸発をなさいました」とイワンは滑稽な仏蘭西フランス語で答えた。「あの方の帽子も外套もございませんのです。私は何か痕跡がないかと表に走り出てみますと、私は偉いものを見つけましてございます」
「何だというんだ、それは?」
「お目にかけますでございます」と彼の召使はいった、そして切先と刄の部分に血痕のあるピカピカ光る抜身の軍刀を持って来た。一同は雷に打たれたようにそれをみつめた。しかし物馴れたイワンは全く平気で語をついだ。
「私はこれを巴里パリー街道を五十ヤードほど行ったところの藪中に放り込んでございましたのを見つけましたんです。つまり、私はあなた様の大切なブレイン様がお逃げになる時におなげになったちょうどその場所でこれを見つけましてございます」
 再び沈黙が起った、しかし今までのとは違ったものであった。ヴァランタンは、抜身を取上げて、検べてみて、冷静に何か思いを凝らす様であった。それから彼はオブリアンの方へ叮嚀に顔を向けた、「司令官、君はこの軍刀が証拠品として必要な場合は、いつたりとも提供して下さることと信じます。それまでは」とガチャガチャなる鞘にこの刀身をおさめながらつけ加えて言った、「とにかく一応お返ししておきましょう」

        二

 夜が明けた。だが、疑問の謎は依然として解けなかった。朝飯がすんでから、司令官のオブリアンが庭の腰掛にシモン博士とならんで腰をかけた時に、鋭い科学的な頭の博士がすぐにまた死体の問題を持ちかけた。しかしオブリアンの方はあまり話に気乗りがしなかった。彼の思いは議論等より嬉しい件でいっぱいであった。朝食前にマーガレットと二人で花壇の間を散歩した時、マーガレットが嬉しい返事をしてくれたのであった。
「いやあまり面白い事件でもありませんからな」と司令官は率直に云った。「ことにもう大体解決はついているのですからな。きっとあのブレインは何かの理由であの被害者を憎んでおったので、この庭へおびき出した上、私の剣で殺したんです。そしてあやつはにげる時に剣を藪の中へ放りこんで町の方へ逃げて行ったものですな、時に博士、イワンは被害者のポケットに米国の貨幣がはいっていたと私に話しましたが、すると、被害者はやはりブレインの国の者だったと見えますな。それでもう事件には疑問等は何もないようですな」
「いやここに五つの大きな疑問があるのです」博士は静かに言った。「ちょうど塀の中に更に高い塀がある様に。しかし誤解しないで下さい。ブレインがやったという事を疑うんじゃないですからな。彼の逃亡。それが何よりの証拠です。しかしあの男がどういう風にしてやったかが問題なのです。第一に人を一人殺すに、どうしてああした大きな軍刀等を用いたのでしょうか、ポケットナイフで充分殺すことが出来るし、そして後でポケットの中へしまう事が出来るんですからね。第二の疑問は、兇行の時になぜ物音も悲鳴もきこえなかったのでしょう? 人間は通常、一方が蛮刀をふりかざして迫って来るのを声も立てずにただ見ていられるものでしょうか? [#「でしょうか? 」は底本では「でしょうか」]第三は、例の召使いが宵のうちずーと玄関口に番をしていましたから、鼠一匹庭の方へはいられる訳がないんです。どうして被害者ははいって来られたでしょう? 第四に、同様の事情の下にですな、どうしてブレインが庭から逃げ出す事が出来たでしょう?」
「そして第五は」とオブリアンは英国の坊さんがそろそろとこちらへ来る姿にジーッと眼をとめて云った。
「第五はつまらない事ではあるが、私には不思議に思われます。私は最初首がどういう風に斬られてるかを検べた時に、犯人は一度ならず斬りつけたらしいのです。ところがよく検べてみると、その断面には幾つもの斬傷のある事がわかりました。これは首が落ちてから斬りつけたものです。ブレインは月明りの中によく敵の姿を見ながら敵の身体を斬りさいなむほど敵の憎んでおったんでしょうかな?」
「実に凄惨だ!」とオブリアンは身慄いをした。
 小男のブラウン坊さんは彼等が話してる間にそこへ来た。そして持前の内気さで話しの終るまでジッと待っていた。それから彼はブッキラ棒に言った。
「これはお邪魔いたしますな。しかし新事件をお話しするために使者に立ちました!」
「新事件?」とシモンはくりかえした、そして眼鏡越しに、傷ましげに彼を見つめた。
「はい、どうも気の毒にな」と師父ブラウンはおだやかに云った。「第二の殺人事件が起ったのですて」
 二人は腰掛から飛上った。その拍子に腰掛が躍った。
「それでなお不思議なことは」とブラウンは鈍い眼で庭の石楠花シャクナゲを見やりながら続けた、「今度のも前と同じ伝でな、首斬事件なんですて、第二の首は例のブレインさんの巴里パリー街道を数ヤードほど先へ行った河の中で真実血を流しておったのを発見したんでな、それで皆んなの推量では、あのブレインさんが……」
「へへえ! ブレインは首斬狂者なんだろうか?」とオブリアンが叫んだ。
亜米利加アメリカ人同志の仇討ですかな」ブラウンは気の浮かなそうに云った。「それであなたがたに図書室へ来て見てもらわなければならんということでしてな」
 オブリアンは胸がむかつくように感じながら、二人の跡について行った。
 図書室は天井の低い細長い暗い部屋であった。主人のヴァランタンは執事のイワンと共に、長いやや傾斜した机の向側で一同を待ち受けていた。机の上には庭で発見された被害者の大柄な黒い身体と黄色い顔とが大体昨夜ゆうべのままで横たわっていた。今朝河の葦の叢の中から拾った所の、第二の首は、それに並んで、血の滴り流れるままに置かれてある。その胴体は河の中に漂っているだろうと云うので、このうちの男共が今なお捜索中であった。師父ブラウンはオブリアン司令官の鋭敏な神経に付合いをするような人では少しもないので、新しい首の所へ行って、眼をしばたたきながら検べた。それは横に射込む赤い朝陽を受けて、銀白色の火をもって飾られた、ベタベタした白髪の束としか見えなかった。面部は醜い紫色をしていて、一見罪人型と見えたが、それは河中に転がっている間に木や石に打ちこわされたのであった。
「おはよう、オブリアン君」ヴァランタンは叮嚀に云った。「ブレインがまたもや首斬罪を犯したという事はもう御ききでしょうか?」
 師父ブラウンはまだ白髪の首の上に身を屈めていた、それから顔を上げずに彼はいった。
「はア、左様、今度のもブレインの仕業だということはたしかじゃろう」
「そうですとも、それは常識でわかります」とポケットに両手を入れて、ヴァランタンが云った。「前のと同じ方法で殺しました。そして前のから数ヤードもはなれない場所においてですな、しかも彼が持ち逃げたと考えられるあの同じ軍刀でスパリとやったものです」
「左様、左様、ほんとになア」と師父ブラウンは素直に答えた。「だが、どうもなア、わしはブレインが彼の首を切る事が出来たかどうかが疑わしいんでな」
「なぜですか?」シモン博士は、理性家らしい凝視をしながら訊ねた。
「さて、博士」と坊さんは眼をパチパチさせながら顔を見あげて云った。「人間自分で自分の首をチョン斬る事が出来るじゃろうか? わしには解らんがな」
 オブリアンは宇宙が気が狂って彼の耳穴で轟きまわるかと思った。しかしシモン博士は急に前の方へ乗出して、濡れている白髪頭を撥ねかえした。
「オウ、こりゃブレインさんに違いないわい。ブレインさんは左の耳にたしかにこのきずがあったで」ブラウンは静かにこういった。
 しっかりしたそしてギラギラ光る眼で坊さんを見つめていた、探偵は喰いしばっていた口を明けて鋭く云い放った。「師父さん、あなたは大方この男を御存知だと見えますな?」
「左様、わしは何週間もあの人のそばに居った事があるものですからな。ブレインさんはわし[#「わし」は底本では「おれ」]の教会へはいろうと考えとったのです」
 ヴァランタンの眼が狂乱的に光った。彼は拳を握りしめて大股にブラウンの方へ詰めよった。そして冷笑的な笑いをしながら、「たぶん、彼は全財産をあなたの教会へ寄附しようとでも考えていたんでしょう」と叫んだ。
「たぶんそんな事でしたじゃろう。ありそうなこっちゃ」ブラウンは気の無い返事をした。
「そんなならば」とヴァランタンは凄い笑いを浮べて、「あなたは彼についてはよく知っておられるでしょう。あの男の生活もそれからあのあやつの……」
 オブリアン司令官はヴァランタンの腕に手を置いた。「まア総監、そんな口の悪い、つまらん事はおよしなさい。さもないとまた軍刀が飛び出すから」といった。
 しかしヴァランタンは(坊さんの着実そうな、謙譲な凝視にあって)既に我にかえっていた。
「ハハアいかにも。人の私見はきくものだ。皆さんにお約束の通り、今しばらくおとどまりをねがいたいと思います。お互にはげまし合っていただかねばなりません[#「なりません」は底本では「なりまもん」]くわしい事はイワンがお話しいたしましょう。私は仕事に取かからなくてはならんし、その筋へ報告を書かなくてはならん。もう黙っているわけにはかんです。でももし何かまた変ったことでもあれば、私は書斎で書いておりますから」
「イワン、何か変った事があるかね?」総監が部屋を出てくとシモン博士が訊ねた。
「一つございますが」とイワンは灰色の老顔を皺くちゃにしていった。「それがまた重大な事でございますよ。庭にたおれていたこのやくざ野郎のことでございますがな」と彼は黄色い頭をした大きな黒い死体を無遠慮に指さした、「とにかくあの男の身元がわかったのでございます」
「ホウ! 何者だと?」驚いた博士が叫んだ、「彼の名はアーノルド・ベッケルと申しますが、色々の変名を使っておったのです。渡り者の無頼漢で亜米利加アメリカへも渡ったことがあるという事でございます。そんな関係でブレインに殺されたんでしょう。我々にはあまり厄介もかけませんでした。大抵独逸ドイツで働いておったんですからな。もちろん独逸ドイツの官憲にも照会いたしましたが、奇妙な事には、こやつにはルイ・ベッケルという双生児ふたごの兄弟があって、それは我々になかなか深い縁があるのでございますがな、実は、昨日そやつを断頭台にかけたばかりだという事がわかったのでございますよ、皆さん、全く妙な話ですが、私昨日庭でこの死体を見た時に、私はあんな驚いた事はありませんでしたよ。もし私がルイ・ベッケルの死刑をこの眼で見なかったら、芝生に横になっていた奴をルイ・ベッケルだと断定したに違いありませんなア。それでもちろん私は独逸ドイツにいるそやつの双生児ふたご兄弟を憶出おもいだして、それから手がかりをたどって――」
 話し続けていたイワンは、誰も彼の話に耳を傾けていなかった事に気づいてお饒舌しゃべりをやめた。司令官と博士とは師父ブラウンが棒立ちになって、急激な苦痛を訴える人のように、彼の頭をしっかりと抱えている様子を見ておどろいて見つめていた。
「待った、待った、待った!」と彼は叫んだ、「ちょっと話すのを待たっしゃい、わしは半分ばかり解って来たからな。神様はわしに力を与えて下さるだろうか? 神よ助けたまえ! わしは考える事がかなり上手なのだがわしは昔はアクイナス(十三世紀伊太利の哲学者)の本等はどのページでも解釈が出来たものだ。わしの頭が割れるか――ただしはこれを見抜くか? わしは半分は解せた――わしはただ半分だけ解せた」
 彼は両手に頭を抱えた、そして沈思かあるいは祈りのはげしい責苦にあっているように立上った、一方他の三人は彼等の混乱せる十二時間のこの最後の怪事をただじっと見るばかりであった。
 師父ブラウンの手が下りた時に、彼等は子供のように若々しい真顔になった。彼は大きい溜息をついて、そして云った、「大急ぎでかたをつけるとしましょうかな。そうじゃ、あなたがたに手っ取り早く呑み込ませるには」と彼は博士の方に向った、「シモン博士、あなたはなかなか鋭い頭脳を持っておられますな。わしは今朝あなたがこの事件について五箇条のえらい質問を出されたのを伺いましたわい。それで、もう一度あれをわしに御質問になれば、わしはそれに御答をして見せますがな」
 シモン博士の鼻眼鏡は疑惑と驚嘆のあまり、鼻からおちた、が彼はすぐに[#「すぐに」は底本では「すぐは」]答えていった、
「よろしい、第一の疑問は、人一人ぐらいは刺針ででも殺せるのに、なぜ無格構な軍刀等で殺したのかという事ですな」
「人間は刺針等では首を刎ねる事は出来ません」と坊さんはおだやかに云った、「しかも、この殺人には、首を刎ねるという事が絶対に必要じゃったのです」
「なぜですか?」とオブリアンは興味をもって訊ねた。
「してつぎの疑問は?」とブラウンが訊いた。
「サア、なぜ被害者は悲鳴をあげるとか、何とかしなかったのでしょう? 庭に軍刀なんていう事はたしかに類の無い事です」
「樹の枝をな」と坊さんは気難しげに云った、そして兇行の現場げんじょうの見える窓の方に向いた。「誰もあの小枝の光を見られなんだ、がなぜあんな枝が、他の樹からはあんなに遠くはなれている芝生の上等に、落ちておったか? あれは折取ったのではなく、切断されたものです。犯人は、軍刀で空中で枝を切る事が出来るという事を見せて、敵をあやつっておったのですな。でそれから、敵が腰をかがめてその結果を見ようとした所を、不意討ちにスパリ、そして首が落ちたという具合じゃな」
「なるほど」と博士は落着いて、「だが、次の疑問には誰れでも閉口するだろう」
 坊さんはなおも鑑定でもするように窓の外を見やって、博士の言葉を待っていた。
「御存知の通り、この庭は密閉室のように四方が封じられています、いいですか、しかるに、どうしてよその人間が庭に忍び込んだものでしょう?」と博士は云い続けた。
 振向きもせずに、坊さんは答えた、「よその人なんぞは決してはいって来はせんよ」
 ここでちょっと沈黙があった、それから突然小供らしい笑い声がその緊張を破った。ブラウンの説が莫迦々々しいので、イワンがけなし始めた。
「フン! じゃ昨晩私等が大きな死体を長椅子の上に引きずらなかったですかい? あやつは庭へ忍び込まなかったのですかい?」
「庭へかな?」とブラウンは考えこんでくりかえした、「いや、全部ははいらんかな」
「冗談じゃない、庭へはいらん者がここは居る訳がない」と博士が叫んだ。
「必ずしもそうではない」ブラウンは薄笑いをして云った、「博士、さて次の疑問は何でしたかなア?」
「あなたはどこかお悪いようですね」シモン博士は鋭く叫んだ、「だが御のぞみとあれば、つぎの疑問をお訊きしましょう。ブレインはどんな風にして庭から出て行ったのですか?」
「いやブレインは庭から出てきはせん」坊さんはなお窓の外を眺めながら云った。
「庭から出てかん?」と博士は爆発した。
「そっくり出てき居ったわけではないて」と師父ブラウンは云った。
 シモンはたまりかねて拳を振りまわした、「庭から出てかんものが、ここに居らん訳がない」と彼は叫んだ。
「必ずしもそうではない」と師父ブラウンが云った。
 シモン博士はもうまりかねて飛上った。「私はそんな莫迦らしい議論をしておる暇はない」と腹立たしげに彼は叫んだ。もしあなたが塀の内かまたは外に居った人間のことが分らんようなら、私はもうこれ以上あなたを煩わす必要がないッ」
「博士」と坊さんは落ちついて云った。「わしらはお互にいつも大変に愉快にお交際もしとるんじゃからな。お馴染甲斐に一つ機嫌を直して、五番目の疑問をお話しして下さらんか」
 短気なシモンはドアの近くの椅子に腰を埋めてぶっきら棒に云った。「頸と肩口とが妙な風に斬りつけられてあった。それは殺して後にやったらしいんです」
「左様」と身動きせずに坊さんは云った、「それはあなたがたが臆断したある単純なつくり事を確実に思わせるようにやった事ですて、あの首があの胴体に属した首だと思わせようとてやった仕事でな」
 師父ブラウンは遂に体を転じた、それから、窓を背にしてよりかかったので濃いかげが彼の顔に表われた。がそのかげの中にも、それが灰のように蒼白いことがよくわかった。それにもかかわらず、彼は全く上手にはなしした。
「皆さん、皆さんはあの庭で、見も知らぬベッケルの死体を発見されたんではない。諸君はあの庭で、見も知らない死体を発見されたんではない。シモン博士の推理に反対して、わしはベッケルという小男はほんの一部分だけここに存在したという事を断言しますぞ。これを見なされい!」と黒衣の疑問の死体を指さしながら「諸君は諸君の生涯の中に決してその男に会いはしなかった。諸君はかつてこの男に会った事がおありじゃろうか?」
 彼は手早く見知らぬ黄ばんだ禿頭を転がして、その跡へ白髪首をあてがった。すると、そこにジュリアス・ケイ・ブレインの姿がそっくりそのまま出来あがった。
「加害者は」とブラウンは静かに語を続けた、「彼の敵の首を斬ってから刀を塀の向うへ投げ捨てた。けれども彼は悧巧であったから刀ばかりを投げはしなかった。そこで犯人はまたその首をも塀の外へ投げおった。それから彼は外の首を死体にあてがっておいた。そこであなたがたには全く別人のように思われたんじゃ」
「他の首をあてがったんですと!」オブリアンが眼を丸くして云った。「他の首とはどんな首ですか? まさか庭の草の中に首が生えたんじゃないでしょう?」
「いや」と師父ブラウンは嗄れ声で云いながら、足許を見つめて、「首の出来る所はただ一ヶ所ほかない。それは断頭台上の籠の中でな、そのそばに署長のヴァランタンさんが、兇行前一時間とは経たん前に立っておられたんじゃ。まあ、皆さん、わしを八ツ裂にする前に、もうちょっとの間わしの云う事を聴いてもらわんならんよ。論証し得べき原因で気がふれるのが公明正大だと云わるるならばですな、ヴァランタンさんは公明正大な方である。なれどもあなたがたは総監の冷やかな灰色の眼を見て気が狂ってるわいと気づかなんだですかな? 彼は十字架を迷信と呼んでな、それを打破するためには、いかなることでもやりかねなんだ。彼はそのために戦い、そしてそれのために渇求し、そのために殺人をしおったのです。ブレインさんが気狂いのように、幾百万の財を撒き散らしたが、それはあらゆる宗派に亘っとるので、決して不公平はないはずじゃ。しかしヴァランタンさんはブレインさんが[#「ブレインさんが」は底本では「ブイレンさんが」]、世の多くの気の散りやすい懐疑家と同じように、わし等の方へ漂って来おるという噂を耳にはさんだ、しかしそれは全く別の話であったんだが。とにかくブレインさんは疲弊してまた喧嘩好きな仏蘭西フランス教会に多大の補助を与えおった。かと思えば、『断頭台ラギュイヨチーン[ルビの「ラギュイヨチーン」は底本では「ラギュイヨケーン」]』の如き国家主義の新聞をも後援しおった。それで双方共怨みはないはずじゃのに、ヴァランタンさんはとうとうばく発してしもうてな、あの富豪の命を取ろうと決心してさすが大探偵らしい手段を取るに至ったわけですがな。彼は犯罪学上の研究に資せんがためとか何とかいう理由で、かの処刑されたベッケルの首を持帰った。それから食後、ブレインさんを相手に最初の議論をしてそれはガロエイ卿も最後まではその議論を聞かれなんだが、それに負けて、相手を密閉室のような奥庭へ誘い込んだ上で、撃剣術の話をして、軍刀と樹の枝を実地に使用して見せて、それから――」
 イワンがいきなり跳上った。
「この狂人きちがいッ」と彼は大喝した。「サア御主人様の所へけ、たとえ貴様をひっ掴んでも連れてくから――」
「待て待て、わしはそこへこうと思うとるところじゃ」とブラウンは平然としていった、「わしはあの方に白状してもらわにゃならん、それで事ずみじゃ」
 一同は気の毒なブラウンを人質か犠牲いけにえのように引立て、急にひっそりになったヴァランタンの書斎へなだれ込んだ。
 大探偵は机に向って、一同がはいって来るのも聞こえねげに、仕事に熱中しているかと見えた。一同はちょっと立留った。がその硬直したような上品な後姿を見ていた医者のシモン博士は何と思ったか突然前方に走りよった。ひと目見、ちょっと触ってみて、ヴァランタンのひじのそばに丸薬入りの小函があることを見た、人々はヴァランタンが椅子の中に冷たくなっている事を知った。





底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
   1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 彼奴→あやつ・かやつ 有難う→ありがとう 或いは→あるいは 如何→いか 何時→いつ 一っぱい→いっぱい 於て→おいて 恐らく→おそらく 仰有る→おっしゃる お早う→おはよう 拘らず→かかわらず 曽て→かつて 可なり→かなり 屹度→きっと 位→ぐらい 斯う→こう 此処→ここ 御座います→ございます 此方→こちら 殊に→ことに 此→この 此奴→こやつ 之れ・之→これ 流石→さすが 然し・然→しかし 而も→しかも 然る→しかる 暫く→しばらく 頗る→すこぶる 凡て→すべて 相→そう 其処→そこ 其・其の→その 傍→そば 其奴→そやつ 其れ→それ 度い→たい 沢山→たくさん 唯→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 給→たま 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと (て)居→(て)い・(て)お (て)見→(て)み (て)貰→(て)もら 何う→どう 何処→どこ 所が→ところが 迚も→とても 兎に角→とにかく 猶・尚→なお 中々→なかなか 乍ら→ながら 何故→なぜ 成程→なるほど 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 先ず→まず 又・亦→また 迄→まで 侭→まま 間もなく→まもなく 若し→もし 勿論→もちろん 以って・以て→もって 他処→よそ 稍→やや 余程→よほど 俺→わし 僅か→わずか」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2009年8月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について