青君の追跡

THE PURSUIT OF MR. BLUE

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 よく晴れた午後の海辺の遊歩場を、マグルトン(だまされやすいアホウ者という意味)という気のめいるような名前の持主がその名にふさわしく憂欝そうに歩いていた。額には深い苦労のしわが馬蹄形にきざまれていた。そこで脚下の浜辺にちらばつてならんでいる大道芸人の群れがいくらそつちを見上げても喝采してもらえなかつた。ピエロ連中が、死んだ魚の真白な腹のように青白い、顔を上げてみせても、いつこうにこの男の元気はよくならなかつた。きたないすすで顔をすつかりねずみ色にしている黒人連中もやはり同じようにこの男の気分を明るくしてやるわけにはいかなかつた。失望した悲しい男であつた。深いしわのきざまれている禿げあがつた額以外もオドオドしてやつれたような感じだつた。そしてなんとなく陰気だが上品な顔立ちだけに、顔の中で唯一のこれ見よがしの装飾物がなおさら不似合いな感じだつた。それはピンと飛び出して逆立つている軍隊風の口ひげで、つけひげではないかと疑われそうなものであつた。実際、つけひげだという可能性もある。一方、もしつけひげでないとしても、無理にはやしたものだという可能性もある。単に自分の意思で、大急ぎではやしたのかもしれなかつた……それくらいその口ひげは、この男の個性の一部というより、むしろ仕事の一部だつたのである。
 というのは実はマグルトン氏はささやかな私立探偵で、額の雲は職業上の大きなへまによるものだつたからである。ともかくそれは、単にこんな苗字を持つているということ以上に憂欝な、或る事と関係があつた。苗字については、むしろなんとなく、誇りにしていたかもしれないのである……というのはこの男は、マグルトン派(一六五一年頃ラドイック・マグルトンが創立して一時流行した宗派)の創立者と縁続きだと断言していた、貧しいながら慎しみ深い非国教派の家に生れたからである……あの宗派の創立者は人間の歴史上この名前を勇敢に名乗つて現われた唯一の人物であつた。
 それよりもこの男の悩みの正当な原因は(少なくとも自分で説明したところによると)、あの世界的に有名な百万長者殺害の血なまぐさい現場に立ち会いながら、それを防ぎそこなつたからであつた……おまけにそのために一週間五ポンドの給料で雇われていたのであつた。そこで「うれしいひと日にしておくれ」というような歌をものうげにうたつてきかされたところで、この男に人生の喜びが感じられなかつたという事実は説明がつくであろう。
 その点では、浜にはほかにもいろんな連中がいて、この連中なら彼の殺人問題やマグルトン派の伝統にもつと同情してくれそうであつた。海辺の盛り場は、甘い情緒にうつたえるピエロばかりでなく、説教者連中も店を張りにくる所で、たいていはいかにもそれらしく地味で熱狂的なお説教を専門にしているようである。一人だけ老年のやかましくしやべり立てる男がいて、これにはマグルトン氏も目を留めずにはいられなかつた……突き刺すような叫び声で、バンジョーやカスタネットの騒音に負けないで鳴りひびく金切声の宗教的予言と言つてもいいくらいであつた。これはヒョロ高い、しまりのないかつこうをした、足をひきずつて歩いている老人で漁師のセーターのような物を着ていた。しかしかつこうに似合わず、ビクトリア中期の或る種の陽気な伊達男たちが消滅してから見られないような、あの大へん長い、ダラリとたれている頬ひげを両側にはやしていた。浜辺の香具師やし連中はみんな何かを飾つて、それを売るようなかつこうをしている習慣だつたので、老人もかなりボロボロになつた漁師の網を飾つていたが、たいていはそれを女王さま用のじゆうたんみたいに砂浜にひろげて人待ち顔にしていた。しかし時によるとローマの網闘士(網と三つまた槍を持つてたたかう闘士)がいまにも三つまた槍で人を突き刺そうとするときのような恐ろしい身振りで、猛烈に網を頭のまわりに振りまわすことがあつた。実際、もし三つまた槍を持つていたら、ほんとに人を突き刺したかもしれなかつた。老人のお説教はいつも鋭く天罰をさし示していたからである。聞いている人は肉体や魂をおびやかされる話以外は何一つ聞かしてもらえなかつた。老人はマグルトン氏とはおよそかけ離れた気分で、気の違つた絞首人が殺人犯人のむれに話しかけているような勢いであつた。子供たちはこの老人をガミガミ屋のブリムストン爺さんと呼んでいたが、老人にはこういう純粋の神学上の問題以外にほかにも風変りな癖があつた。その一つは、桟橋の下の蜘蛛の巣のような鉄けたに登つて、例の網を海中で引きまわしながら、われは漁人すなどりびとなり(イエスがペテロ兄弟に言つた言葉を元にしている)と宣言することであつた。尤も実際魚を捕えている所を見た人があるかどうかは怪しいものである。それでも、俗界の遊山客は、恐ろしい神の裁きを叫ぶ天上からの雷声を耳元で聞いて、ハッとすることがときどきあつた……しかし実は桟橋の下の鉄のとまり木からの声で、そこには偏執狂の爺さんが、異様な頬ひげを灰色の海草のようにたらしながら、目を光らせているのであつた。
 探偵は、それでもしかし、これから会わなければならない運命になつている坊さんにくらべれば、まだしもブリムストン爺さんのほうがずつと辛抱できると思つたかもしれない。この第二の、もつと重要な会見を説明するためには、マグルトンが殺人問題で驚くべき経験をしてから、大へんいさぎよく自分の持札を投げ出してしまつたことを指摘しなければならない。彼はその話を警察に報告したし、死んだ百万長者ブレアム・ブルースのさしあたり唯一の代表者――つまり、故人の大へんキビキビした秘書のアンソニイ・テイラーという男にも報告した。警部は秘書よりも同情してくれた。しかしその同情のとどのつまりが、警察の助言としては、マグルトンにはおよそ思いもつかないほど意外なものであつた。警部は、しばらく考えこんでから、たしかこの町に滞在しているはずの或る有能なアマチュア探偵に相談するようにと助言して、マグルトンをひどくびつくりさせた。マグルトンはいわゆる大犯罪学者についての報道やロマンチックな物語をかねてから読んでいた……こういう学者は頭のいい蜘蛛みたいに自分の図書室に坐りこんで、全世界大の大きな網から理論の細糸を投げかけるのである。マグルトンは、この専門家が紫色の部屋着を着ている寂しいお城か、アヘンとクイズに日を送つている屋根裏部屋か、広大な実験室か、さもなければ寂しい塔かへ案内されるものと覚悟していた。彼がきもをつぶしたのは、桟橋のそばの雑沓している浜辺に案内されて、大きな帽子をかぶり、大きくニヤリと笑つている、ズングリした、小がらな坊さんに会うことになつたからである。坊さんはちようどその時貧しい子供たちと一緒に砂浜をピョンピョンはねまわりながら、大へん小さな木製のすきを振りまわしていた。
 この犯罪学の坊さんは、ブラウンという名前らしかつたが、やつと子供たちから離れたものの、すきからは離れなかつたので、どうやらマグルトンはだんだんウンザリしてきた。坊さんは、とりとめのないおしやべりをしながら、海岸の子供だましみたいな見世物のあいだを頼りないかつこうでウロウロ歩きまわつていたが、特に夢中になるのはこういう所に備えつけてあるズラリとならんだ自動機械で、おごそかに一ペニイずつ使つて、ゼンマイ仕掛けの人形が演じるゴルフや、フットボールや、クリケットの代用ゲームを楽しんでいた。最後に模型の豆競争レースがあつて、金属性の人形がもう一つの人形のあとを追い駆けてピョンピョン飛んで行くだけの仕掛けにすつかりまんぞくしていた。それでもそのあいだ中坊さんは敗北した探偵がしやべりまくる話に大へん注意深く耳をかたむけていた。ただそのあいだもペニイ銅貨を投げこむ手を休めない、右手のなす事を左手に知らすな式のやり方が、ひどく探偵のカンにさわつた。
「どこかへ行つて腰かけるわけにはいきませんか?」マグルトンはもどかしそうに言つた。「ともかくこの問題について聞いてくださるのでしたら、あなたに見ていただかなきやならない手紙があるんです」
 ブラウン神父は溜息をついて、飛びまわつている人形から離れると、海岸の鉄のベンチへ行つて、連れと一緒に腰をかけた。連れはもう手紙をひろげていたが、黙つて坊さんに渡した。
 こりや荒つぽい[#「荒つぽい」は底本では「荒つぱい」]変てこな手紙じやと、ブラウン神父は思つた。百万長者というものはかならずしも作法を専門に研究しているわけではないし、特に私立探偵のような寄生物をあつかうときはなおさらそうだということはわかつていた。しかしこの手紙にはただの無愛想というだけでなくそれ以上の物があるような気がした。

「マグルトン君
わたしはこんなことで助けを求めるようになろうとは夢にも思わなかつたが、もう万事投げ出したくなつた。この二年間それがだんだん耐えられなくなつてきた。たぶんきみに知らせる必要のある話はこうだろう。はずかしい話だが、わたしのいとこに卑劣漢がいる。予想屋、浮浪者、ニセ医者、役者、ありとあらゆることをやつてきた男だ。鉄面皮にも家名を名乗つてバートランド・ブルースと自称したまま行動しているくらいだ。たしかここの劇場で何かくだらん仕事にありついたか、でなければそんな仕事の口をさがしているはずだ。しかしわたしに言わせれば、そんな仕事は奴の本職ではない。奴の本職は、わたしを追い駆けまわして、できれば永久にわたしをノックアウトすることだ。これは古い昔の話で、だれにも関係のないことだ。一時はわれわれ二人が肩をならべてスタートして野心の競争をした時代があつた――同時にいわゆる恋の競争もした。奴がヤクザになりはててわたしがすべての成功男になつたのは、わたしの罪だつたろうか? ところがあの卑劣な悪魔は、まだこれからでも成功してみせると、断言している……わたしを射つてから逃げるついでにわたしの――いや、そんなことはどうでもよろしい。奴は狂人だと思うが、いまにも殺人者になろうとする気だ。
「わたしはきみに一週五ポンド出すから、今夜桟橋が閉まつたらすぐ、あの桟橋のはずれの小屋でわたしと会つて――そしてわたしの仕事を引き受けてくれ。あすこが唯一の安全な会合場所だ――いまだに安全なものがあるとすればだ。
J・ブレアム・ブルース

「ヤレヤレ」とブラウンはおだやかに言つた。「ヤレヤレ。かなりあわてた手紙じや」
 マグルトンはうなずいて、一息ついてから自分の話をはじめた……ぶかつこうな風采とはうらはらの妙に上品な声だつた。坊さんはうすぎたない下層階級や中流階級の中にひそかな教養の楽しさを隠している人がたくさんあるのをよく知つていたが、それでもこの男のホンのいくらか学者ぶつた感じさえするほどすばらしい言葉の使い方にはびつくりした。まるでそつくり文章になるような話し方であつた。
「わたしが桟橋のはずれにある小さな円形の小屋に到着したときは、あの著名な依頼人の来ているようすはどこにもありませんでした。わたしはドアを開けて中へはいりました……ブルースさんは、自分の姿と同じく、わたしの姿もできるだけ人目につかないようにしたいだろうと思つたからです。尤もそれは大して関係がありませんでした。というのは大へん長い桟橋ですから、浜や遊歩場から姿を見られるはずはないし、時計を見ると、もう桟橋の入口が閉まつたに違いない時間だつたからです。ブルースさんがわれわれの会見を他人に知られないようにこれほど用心するのは、いくらかお世辞の意味もあつて、わたしの助力や保護にほんとに信頼しているところを見せようとしたのでしよう。ともかく、桟橋が閉まつてから会おうというのはあの方の思いつきだつたので、わたしはごく単純に引き受けたのです。小さな円形のアズマヤ――とでも言うのでしようか、ともかくその小屋の中には椅子が二つありました。そこでわたしはその一つにかけて待つていました。長く待つまでもありませんでした。ブルースさんの時間厳守は有名だつたし、実際たしかに、わたしの正面にあるたつた一つの小さな丸窓を見上げると、あの方が、用心に小屋を一まわりしようとなさるのか、ゆつくり通り過ぎる姿が見えました。
「わたしはブルースさんの写真を見たことがあるだけで、それもずいぶん以前のことでした。そこで当然写真よりかなり老けていましたが、まちがいようのないほどソックリでした。窓の外を通り過ぎた横顔は鷲のくちばしに似たかぎ鼻というたぐいのものでしたが、どうやらごま塩まじりの威厳のある鷲を思わせました……静止中の鷲……長いあいだ翼をおさめている鷲でした。それでも、まちがいようがないのは、支配者としての習慣から身についた、あの権威や無言の誇りにあふれた表情です……あれはいくつもの大組織を作つて思うままにしている人の特徴にきまつています。中から見えた範囲では、地味な服装でした……特に昼間あれほどむらがつていた海岸の遊山客にくらべるとなおさらでした。だが外套はピッタリ体に合わせて仕立ててある特別に優美なもので、アストラカンの毛皮の裏が襟からのぞいていました。もちろん、これはみんなチラリと一目見ただけでした……というのはわたしはすぐに立ちあがつてドアの所まで行つていたからです。わたしはドアに手をかけました。するとあの恐ろしい一夜の最初のショックを受けました。ドアには錠がおりていました。だれかがわたしを閉めこんだのです。
「しばらくわたしは呆然としてまだ丸窓を見つめていました……もちろん、あの動いていた横顔はもう通り過ぎていました。その時ふいに外の事情がわかりました。獲物を追う猟犬のようにとがつた、別の横顔が、円形の視野の中に、まるで丸鏡に写つた幻影のようにパッとひらめきました。それを見たとたんに、わたしにはだれだかわかりました。あの復讐者でした……殺人者、すなわち自分免許の殺人者で、老百万長者をあれほど長いあいだ海山越えて追い駆けていたのが、いよいよこの海と陸のあいだにかけてある鉄の桟橋の行きどまりの小路に追いつめたのでした。そこでドアに錠をおろしたのはもちろんこの殺人者だということがわかりました。
「わたしが最初に見た男も長身でしたが、この追跡者のほうはそれ以上に長身でした……ただその感じがさほどでなかつたのは、背中をひどく高く丸めて首と頭を本物の狩の獣みたいに前へ突き出していたからでした。しかしこの悪党と、百万長者のいとことを結びつけている血のつながりは、ガラスの円を通り過ぎた二つの横顔にかなりはつきり現われていました。追跡者も鳥のくちばしのような鼻をしていました……ただ一般にみすぼらしくおちぶれた者にありがちなように、鷲というより禿げ鷹を思わせました。顔を剃つていないので顎ひげがはえかけていて、両肩を丸くしたようすが粗末なウールのスカーフを巻きつけているためになおさら強く感じられました。これだけではみんなささいなことばかりで、その姿のみにくい精力ぶりやあの背中をかがめて大またに歩いていた男の復讐を誓つた凶運がせまつてくる感じはお伝えできないでしよう。あなたはウイリアム・ブレイクの画で、やや軽率に『ノミの幽霊』と呼ばれることもあるが、またいくらかはつきりと『血の犯罪の幻影』とかなんとか呼ばれている図をごらんになつたことがありますか? それはちようどああいう人目を忍んでいる巨人がナイフと鉢を手に持つている夢魔のような図です。この男はそんな物は持つていませんでしたが、二度目に窓を通り過ぎたとき、わたしは自分の目で見ました……男はスカーフの折り目から拳銃を出すと、それを片手につかんでねらいをつけているのです。両眼が月明りにキョロキョロ動いて光つていたし、それも大へんゾクゾクする感じでした。両眼が前後に電光のように射そそがれるありさまは、まるで或る種の爬虫類が光る触角を射ち出す光景にそつくりでした。
「三度追跡者と追跡されている男が連続して窓外を通り過ぎて、狭い円を描いてから、やつとわたしははつきり我れに帰つて、どんなに絶望的でも、なんとか行動する必要があると思いました。わたしはガタガタと乱暴にドアをゆすぶりました。気がつかずにいる犠牲者の顔が次ぎに見えると、わたしは猛烈に窓を叩きました。それから窓を破ろうとしました。しかし例外的に厚いガラスの二重窓でしたし、はざまがあまり深いので外側の窓にうまくとどかないのではないかという気がしました。ともかくわたしの威厳のある依頼人はこつちの騒いでる音や信号にはまつたく注意しませんでした。そしてあの二つの宿命の仮面の回転無言劇がわたしのまわりをグルグルまわつているので、しまいには目がまわりそうで胸が悪くなりました。するとふいにそれつきり見えなくなつてしまいました。わたしは待ちました。そしてもう二度と出てこないなとわかりました。危機が来てしまつたことがわかりました。
「これ以上お話しする必要はありません。あとはたいてい想像がつくと思います……ちようどわたしがあすこに力なく腰をおろして、それを想像しようとしたり、あるいは想像すまいとしたりしていたときと同じでしよう。足音がバッタリ消えてしまつたあの恐ろしい沈黙の中で、海のざわめきの低い音のほかに二つだけほかの物音がしました。第一は大きな銃声で、第二はそれよりにぶい水しぶきの音でした。
「わたしの依頼人が目と鼻のさきで殺されたのに、わたしには合図もできませんでした。それがわたしにはどんな思いだつたかということは申しあげないでおきます。しかしたとえあの殺人のショックから回復できても、まだわたしはあの不思議を目の前に突きつけられています」
「ふむ、どの不思議かな?」とブラウン神父は大へんおだやかに言つた。
「犯人がどうして逃げたかという不思議です。翌朝桟橋への出入りが許されるとすぐに、わたしは閉じこめられていた小屋から出してもらえたので、駆け足で入口の門へひつかえして、門が開いてから桟橋を出て行つた者があるかと問いただしました。こまかいことをはぶいて説明しますと、門は、かなり珍らしい設備の、本物の大きな鉄の扉だつたので、扉を開けるまではだれも出入りできないようになつていました。あすこの係りの連中は多少とも犯人に似かよつた者がそこへ帰つてきたのを見ていませんでした。それにあの男はかなりまちがいようのない人相でした。たとえどうにか変装したとしても、どうもあの並はずれた背の高さを隠したり一家伝来の鼻を取り除いたりするわけにはいかなかつたでしよう。岸まで泳ごうとしたと考えるのはとてつもなくありそうもないことです……というのは海が大へん荒いし、上陸した跡が全然ないことはたしかだからです。それに、ともかく、あの悪魔の顔を、六回はさておき、一回でも見たことがあれば、あいつが凱歌をあげながらアッサリ身を投げるはずはないという信念が絶対的に強くなります」
「あなたのそうおつしやる意味はよくわかります」とブラウン神父は答えた。「おまけに、それでは元来の脅迫状の口ぶりとまるで矛盾していますわい……殺したあとで利益を全部まきあげると断言していましたからな。もう一つたしかめておくほうがよさそうな要点があります。桟橋の下の構造はどうですか? 桟橋は網のように組んだ鉄の支柱で作る場合がよくありますが、それなら、猿が森を抜けるように、人間が登つて通り抜けられますわい」
「ええ、それは考えました。しかし運悪くこの桟橋はかなり妙な構造です。まつたく珍らしいほど長くて、あのからみ合つた鉄けたのついている鉄の柱がならんでいます。ただその柱が大へん遠く離れているので、どんなことをしたら人間が柱から柱へ登つて行けるか見当もつきません」
「わしがそう言つてみたのは、あの長い頬ひげの変人――砂浜で説教する老人がしよつちゆう一番近くのけたに登つているからにすぎません」ブラウン神父は考えこむように言つた。「たしか老人は汐が満ちてくるといつもあすこに坐つて釣りをするようです。そのくせあの人は釣りをするにしては大へんおかしな変物ですわい」
「オヤ、どういうわけですか?」
「さよう」ブラウン神父は、ボタンをひねくりまわしながら日の沈んだあとの夕空の名残りの光にきらめいている緑色の広い水面を見つめて、言つた。「さよう……わしは愛想よく老人に話しかけてみました――愛想よくあまりこつけいにならんように、あの漁と説教という古くからの商売を兼ねている点について話しました。わしは聖書にある、生きた魂を漁する一節をハッキリ引用したと思います。すると老人は、ピョンと鉄のとまり木に飛びかえつて、ひどくおかしな荒つぽい言い方で『ウン、少なくともおれは死んだ肉体を漁してるんだ』と言いました」
「なんてことを!」探偵は、ブラウンを見つめて、叫んだ。
「さよう、そいつはわしにも雑談にしては妙な言い方だという気がしました……おまけに砂浜で子供と遊んでいる見ず知らずの相手ですからな」
 もう一度まつたくの沈黙が続いてから、マグルトンはやつと声を出した――「まさかあの老人が百万長者の死に何か関係があると思つていらつしやるわけじやないでしようね」
「わしはあの老人が何か光明を投じてくれそうに思います」
「いや、そうなるともうわたしには何も言えません。あれに光明を投じられる人があるとはとてもわたしには信じられません。まるで暗闇の中の荒波のうねりです。あの方が……あの方が落ちこんだ荒波のたぐいです。ただもうまつたくの不合理です……大の男が泡のように消えて、だれひとりそれを……オヤッ!」探偵は、坊さんを見つめながら、急に言葉を切つた……坊さんは動かなかつたが、まだボタンをひねくりまわしながら、くだけ散る波を見つめていた。「どういうわけですか? 何をそんなにさがしていらつしやるんですか? まさかあなたは……それでわけがわかつたとおつしやるのではないでしようね」
「わけがわからないままでいるほうがずつといいでしようなあ」ブラウンは低い声で言つた。「いや、あなたが正直におききになるのでしたら――さよう、わしにはわけがわかりそうです」
 長い沈黙が続いた。それから私立探偵は、妙にだしぬけに言つた――「ああ、ブルースさんの秘書がホテルから来ました。わたしは席をはずさなきやなりません。あの秘書はなんの役にも立ちそうもない質問をあびせてせんさくしまわつています……あれでは喧嘩になるくらいなものです。たぶんあの男は、老主人が立派な秘書の助言にまんぞくしないで、ほかの者を呼んだのを嫉妬してるんでしよう。では、あとでまた」
 そう言うとマグルトンは向きを変えて、砂地を歩きにくそうにしながら、風変りな説教者がもういつもの海上の巣に登つていた所へ進んで行つた……説教者は緑色の薄明りの中でどうやら巨大なヒドラか人を刺すクラゲが燐光の光る海中に毒の糸をひらめかせているように見えた。
 そのあいだ坊さんは秘書が静かに近づいてくるのを静かに見まもつていた……あの多勢の人出の中で遠くからでも目についたのは、シルクハットと燕尾服で秘書らしい謹厳な身だしなみを見せていたためであつた。この秘書と私立探偵とのあいだの不和にかかり合う気はなかつたが、ブラウン神父は後者の偏見にわけのわからない同情をかすかに感じた。秘書のアンソニイ・テイラー氏は、服装と同じく顔つきも、ひじように立派な青年で、顔立ちがいいというだけでなく、しつかりした知的な顔をしていた。青白い顔色で、黒い髪が両側にたれさがつて、まるでいまにそんな頬ひげがはえるのかと思えそうだつた。ふつうの人以上に口元を堅く結んでいた。ブラウンがフッと空想した唯一のことは、正当な理由がありながら、話だけでは実際に見た感じより変てこにきこえた。ブラウンは秘書が鼻の孔でしやべつているような気がした。ともかく、口を強く結んでいるために鼻の両側が異常に敏感にピクピク動くので、犬みたいに頭を上げて、鼻をクンクンさせて匂いをかぎながら人に通信したり身のしまつをつけたりしているような感じであつた。この男が話し出すと、こんななめらかなみがき抜いた姿にしてはほとんど醜悪にきこえるほど、ガトリング機関砲そつくりに急に早口にペラペラしやべり立てたありさまは、ともかく、目鼻立ちのほかの部分にふさわしかつた。
 一度だけこの男は話の糸口をひらこうとして、こう言つた――「岸に打ち上げられた死体はないでしようね」
「たしかに何の知らせもありませんでした」とブラウン神父は言つた。
「ウールのスカーフを巻いた大男の犯人の死体もまだ打ち上げられないんでしようね」
「ええ」
 テイラー氏の口はさしあたり、それつきり動かなかつた。しかし鼻の穴がそのかわりにすばやくピクピク動いて軽蔑のようすを見せたのは、よほどおしやべりな鼻の穴と言えそうであつた。
 坊さんがていねいに二言三言月並な挨拶をしてから、秘書がまた口をひらいたときは、ぶつきらぼうな言い方であつた――「やあ警部が来る。どうやら警察はスカーフをさがしに英国中を駆けまわつていたようです」
 グリンステッド警部は褐色の顔にさきのとがつた白髪まじりの顎ひげをはやした男で、秘書がブラウンに対する態度よりもかなり敬意をはらつてブラウン神父に話しかけた。
「あなたにお知らせしたいと思つていました、神父さん。桟橋から逃げたという人相の男は全然影も形もありません」
「あるいはむしろ桟橋から逃げたという人相のわからない男ですな」とテイラーは言つた。「桟橋の係員連中はその男の人相を言えるはずの唯一の目撃者ですが、人相を報告するような人間を見ていないんですからね」
「フム」と警部は言つた。「われわれは全部の駅へ電話をかけ、全部の道路を見はつていました。ですからその男がイングランドから逃げ出すのは、ほとんど不可能です。実際あんな風に逃げ出せるはずはないと思います。そんな男はどこにもいないらしいんです」
「どこにもいやあしなかつたんですよ」秘書がだしぬけに耳ざわりな声で言つた……その声は発射された銃のように、寂しい海岸に響きわたつた。
 警部はポカンとした。しかし坊さんの顔にはしだいに明るい光がうかんできた……やつと坊さんはいかにも平然として言つた――
「つまりあの男は神話めいた作り話だと言われるのかな? それともいつそ、うそだというわけかな?」
「ああ」秘書は、高慢な鼻の穴から息を吸いこみながら、言つた。「あなたはやつとそれを思いつきましたね」
「わしは最初からそう思つていました」とブラウン神父。「そりやだれでもが一番最初に思いつきそうなことじやありませんか……未知の男から寂しい橋の上での未知の殺人者についての話を聞かされたのですからな。はつきり言えば、あなたのおつしやるのは、あの小男のマグルトンはだれかが百万長者を殺した物音を聞いてなどいないというわけですな。おそらくマグルトンが自分の手で殺したとおつしやるのでしような」
「フム」と秘書は言つた……「マグルトンはみすぼらしいくだらん奴だとしか思えません。桟橋の上で起つたことについては、奴の話があるだけです……おまけにその話の中味は消えてしまつた巨人ですから、まつたくのお伽噺です。いくら奴がそう言つても、どうも信じにくい話です。自分で説明したところによると、奴は事件をやりそこなつて、だいじのお得意さまを目と鼻の所で死なせてしまいました。奴は、自分で告白しているとおり、かなり劣等なバカで失敗者です」
「さよう。わしはバカで失敗者だと自分で告白する人はむしろ好きですわい」
「どういう意味かわかりませんね」相手はかみつくように言つた。
「たぶんな」ブラウン神父は思い沈みながら言つた……「そりやバカで失敗者でありながらそれを告白しない人間があまりたくさんいるからでしようよ」
 それから、一息ついてからブラウンは続けた――「したが、たとえあの男がバカで失敗者だとしても、それがうそつきの殺人者だという証拠にはなりません。それにお忘れになつているようだが、あの男の話をほんとに裏書きする外部的な証拠が一つあります。つまりあの百万長者からの手紙は、自分のいとことその敵討の物語をそつくり知らせています。手紙そのものが実は偽造だという証明ができないかぎり、ブルースが真の動機を持つている或る男に追跡される可能性があつたことは認めなければなりませんぞ。それともむしろ、現実に認められ記録された唯一の動機とでも言うのでしようかな」
「どうもよくわかりませんな、その動機の問題は」と警部が言つた。
「なあ、警部さん」ブラウン神父は、気がせいたために初めて親しげな口調になつて、言つた……「どんな人にも或る意味の動機はあります。ブルースが金を作つた手段を考え、たいていの百万長者が金を作る手段を考えれば、あの男を海に投げこむくらいのまつたく当然のことは世界中のほとんどだれでもやりかねないところです。多くの場合、それはほとんど自動的にそうなるだろうと、考えられそうです。テーラーさんだつてやつたかもしれませんわい」
「何です、それは?」テーラーさんはかみつくように言つたが、鼻の穴が目に見えるほどふくれていた。
「わしだつてやつたかもしれません、教会の権威に束縛されていなかつたらな」とブラウン神父は続けた。「どんな人でも、あの一つの真の道徳がなかつたら、こういう簡単な社会的解決法を受け入れる気になつたかもしれませんわい。わしがやつたのかもしれん。あんたがやつたのかもしれん。市長かマンジュウ売りの男がやつたのかもしれん。おそらくこんなことをしそうもない唯一の人間は、わしがこの地上で思いあたるところでは、あの私立探偵だけでしよう……ブルースが一週間五ポンドで雇つて、まだ一文もはらつていない男です」
 秘書はしばらく黙つていた。それから鼻を鳴らして言つた――「もしあの手紙にそれだけの意味があるとすれば、偽造かどうか見とどけたほうがたしかにいいでしよう。だつて実際、あの話全体がデタラメで偽造でないかどうかも、われわれにはわからないんですからね。あの男は、例のせむしの巨人が消えたのはまつたく信じられない、説明できないことだと、自分で認めていますぜ」
「さよう、それがマグルトンさんの好もしいとこじや。あの人はすべてを認めています」
「それにしても」テイラーは、鼻の穴を興奮でふるわせながら、言いはつた。「それにしても、つまるところあの男は、例のスカーフを巻いた背の高い男がいつたい実在していたのか、あるいは現に実在しているのか、証明できないんです……それに警察と各証人が見つけ出した一つ一つの事実はどれもあの男が実在していないことを証明しています。いや、ブラウン神父。あなたがそれほどごひいきになつているらしいろくでなしの小男を正当だと認めさせるにはたつた一つしか方法がありません。そいつは奴の空想の男を出してみせることです。そいつはあいにくあなたにはできないことです」
「ときにな」と坊さんは放心状態で言つた……「あなたはブルースさんが部屋を借りているホテルから来たのでしような、テイラーさん?」
 テイラーはちよつとハッとして、どもりそうになつた。「ええ、ブルースさんはいつも部屋を借りていました……だから実際あの人の部屋です。ぼくはこんどは実はあすこであの人に会わなかつたのです」
「あなたはあの方と一緒に自動車でおいでになつたのでしよう」とブラウンは言つた。「それともお二人とも汽車でおいでになりましたか?」
「ぼくは汽車で来て、荷物を持つてきました」秘書はイライラしながら言つた。「何かでブルースさんは遅れたんでしよう。あの人が一二週間前ヨークシヤを出てから、ぼくは実際会つていないんです」
「するとこうなりますわい」坊さんはごくやわらかに言つた……「もしマグルトンさんが寂しい海のそばでブルースさんの最後の姿を見たのがうそだとすると、あなたがヨークシヤの同じように寂しい荒野でブルースさんの最後の姿を見たわけですな」
 テイラーは真青になつたが、例の耳ざわりな声をむりにおちつかせようとした――「ぼくはマグルトンが桟橋でブルースさんに会わなかつたとは一度も言いませんでしたよ」
「さよう……では、なぜそうおつしやらなかつたのですか? もし桟橋にいた男の一人がマグルトンの作り上げたものだとすれば、桟橋にいた二人ともマグルトンが作り上げたものだと考えられやしないでしようか? もちろんブルースさんが実在したことはわかつています。したが数週間前からあの方の身に何があつたかはわかつていないようです。ことによるとヨークシヤに置き去りになつていたんでしようかな」
 秘書のかなり耳ざわりなキーキー声が高くなつて、金切声になつた。あの見せかけの社交的な人ざわりのよさはすつかり消えてしまつたらしかつた。
「あんたはごまかしを言つてるだけだ! 言いのがれをしてるだけだ! あんたはぼくの質問に答えられないからというだけで、ぼくに対する気違いじみたあてこすりをクドクドとくりかえしているんだ」
「ハテナ」とブラウン神父は思い返すように言つた。「何でしたかな、あなたの質問は?」
「あんたはよく知つてるはずだ。それにすつかりそれで参つてるじやないか。スカーフの男というのはどこにいるんだ? だれが見たことがあるんだ? あんたのうそつきの小男以外に、いつたいだれがその男のことを聞いたり言つたりしたというんだ? ぼくらを納得させたければ、あんたはその男を出してみせなきやだめだ。もし実在していたとしても、そいつはヘブリデーズの島かカリャオのはてに隠れているのかもしれない。だがあんたはそいつを出してみせなきやいけない……尤もぼくはそいつが実在してないのを知つてるがね。ではさあ! どこにいるんだ、そいつは?」
「どうやらあすこにいるようです」ブラウン神父は、桟橋の鉄柱のまわりに打ちよせている手近の波のほうを見つめて目をパチクリさせながら、言つた……そこには海面の緑色の輝きを背にしている探偵と老人の二つの姿がまだ黒ずんで見えた。「つまり海の中にただよつているあの網のような物の中ですわい」
 すつかりうろたえながら、グリンステッド警部がまたパッと先頭に立つて、大またに浜へ駆け出した。
「つまり殺人者の死体があの爺さんの網の中にあるというわけですか?」と警部はどなつた。
 ブラウン神父は、あとに続いて石ころの多い坂を下りながら、うなずいた。ちようどみんなが行きかけたとき、小男の探偵マグルトンがこつちへ向き直つて、同じ浜へ登つてきはじめた……その黒ずんだ輪郭だけでも無言のうちに驚愕と発見を物語つていた。
「ほんとなんですよ、まさかと思つていたら」と彼はあえぐように言つた。「犯人は岸へ泳ぎ着こうとして、むろんあの天気ですから、おぼれたのです。さもなければほんとに自殺したのです。ともかく、ブリムストン爺さんの魚を取る網の中に死体になつて流れこんだのです……あの気違いおやじが死人を漁するのだと言つてたとおりです」
 警部はみんなを追い抜くほど機敏に浜を駆け下りた。大声で命令している声がきこえた。まもなく漁師連中や二三の見物人が、警官たちの助力で、網を浜に引き上げて、まだ落日の照り返している濡れた砂地に中味ごとそれを置いた。秘書は砂地に置かれた物を見ると、声が出なくなつた。というのは砂地に置かれたのは実際ボロ着物を着た巨人のような男で大きな肩をやや丸くして骨ばつた鷲のような顔をしていた……そして大きな赤いボロボロになつたウールのスカーフが落日の砂地に大きな血の跡のように長々とひろがつていた。しかしテイラーが見つめていたのは、血みどろのスカーフや信じられないほどの身長ではなく、その顔であつた。そしてテイラー自身の顔は不信と疑念の争いであつた。
 警部は、とたんに改めてていねいな態度で、マグルトンのほうに向いた。
「これでたしかにきみの話が証明されます」と警部は言つた。その口調を聞くまで、マグルトンは、自分の話がこれほどまで一般に信じられないでいたなどとは夢にも思つていなかつた。だれひとり信じていなかつたのだ。ブラウン神父のほかはだれひとり信じていなかつたのだ。
 それだけに、ブラウン神父がこの一団からそつと立ち去ろうとするのを見ると、マグルトンはそれと連れ立つて行きかけた。しかしいくら彼でもすぐに足を止めさせられたのは、坊さんがあのこつけいな小さい自動機械のとんでもない見世物にまたしても引きつけられているのを発見したからであつた。この立派なお坊さんは一ペニイ銅貨をさぐつているところさえ見せた。しかしブラウンが親指と人差指に銅貨をはさんだまま手を止めたのは、秘書が調子はずれの大声で最後の話を持ち出したからであつた。
「それにもう一つつけくわえたいのは、ぼくに対する奇怪で低脳な告発もこれで終りを告げたということだ」
「ねえあなた」と坊さんは言つた。「わしはあなたを告発した覚えはありませんのじや。まさかあなたがヨークシヤでご主人を殺してそれからその荷物を持つてここへ来てぶらついていたと思うほどのバカではありません。わしが申しあげたのは、あなたがきのどくなマグルトンさんを盛んにやつつけていたので、それくらいならあなたのほうにもつと不利な場合が考えられるというだけのことでした。それにしても、あなたがほんとうにこの問題の真相を知つておきたいのでしたら(それにたしかに真相はまだ一般に理解されていないと思います)あなたのその事件からもヒントがつかめますわい。百万長者のブルースさんが、ほんとに殺される数週間も前からいつも行きつけの場所にまつたく姿を現わさなかつたのはかなり意味の深い変てこなことです。あなたは有望なアマチュア探偵らしいから、ご忠告申しあげるが、その線をさぐつてみることです」
「どういうわけですか?」テイラーは鋭くきいた。
 しかしブラウン神父からは何の答えもなかつた……ブラウンはまたしても完全に夢中になつて自動機械の小さなハンドルをガタガタひねくりまわしていた……その度に一つの人形が飛び出し、それからもう一つの人形があとを追つて飛び出すのであつた。
 ふいにブラウンは直立してごく真剣に連れの顔を見た。
「わしには初めからわかつていました……あなたの話は真実でもあり真実の正反対でもありました」
 マグルトンはこの謎のような言葉に目をみはるだけで返事ができなかつた。
「ごく簡単なことです」坊さんは声を低くして、つけくわえた。「あすこの赤いスカーフをしている死体は百万長者ブレアム・ブルースの死体です。ほかのだれでもありません」
「だがあの二人は――」とマグルトンは言いかけたきり、ポカンと口を開けたままであつた。
「あの二人に対するあなたの説明ぶりはまつたくすばらしくあざやかでした。たしかにあれは二度と忘れられないと思います。わしに言わせてもらえばあなたには文学的才能があります。たぶんあなたは探偵よりジャーナリズムの世界のほうで活動の機会がありましよう。わしはあの二人についてそれぞれの要点を実際に覚えていると思います。ただ、ホレ、まことにおかしなことに、それぞれの要点からあなたが感じたのと、まるきり正反対にわしは感じました。あなたが挙げた最初の男からはじめましよう。最初に見た男は何とも言いようのないほど権威と威厳にあふれたようすだということでした。そこであなたは、『これは企業合同トラストの代表者、大商業王、市場の支配者だ』とひとりで考えてしまつたのです。したがわしはその権威と威厳のあふれたようすを聞くと、『そりや役者だ……すべてのようすが役者だ』と考えました。そういうようすは、連合チェインストア会社の社長になつても、身につくものではありません。そういうようすは、ハムレットの父親の亡霊や、ジュリアス・シーザーや、リヤ王になれば身につくし、また二度と消えないものです。あなたは服装をすつかり見たわけではないので、ほんとにみすぼらしいかどうかよくわかりませんでしたが、毛皮の襟と当世風の仕立てがかすかに見えたのでしよう。それでわしはまた『役者だ』と考えました。次に、第二の男についてこまかい点をしらべる前に、明らかに第一の男にはなかつた或る一つの点に注意してごらんなさい。あなたの話では第二の男はひげを剃つてないばかりか、顎ひげがはえかかつていたということでした。したが、役者である以上、仕事を持つていればもちろんだし、あるいは仕事をさがしているだけにしても、ぶしようひげを顎にはやしたりするようなことは、この世界ではめつたに見られません。その反面、ほんとうに気分的に参つてしまつた紳士や金持の変人が一番うつかりしやすいのは、まず顔を剃ることです。ところでどこから考えてもあの百万長者はすつかり参つていたようです。したがあの人が貧しいみすぼらしいようすに見えたのは投げやりにしていたためだけではありません。ほんとに身を隠していたからだということがおわかりになりませんかな? それだからいつものホテルへも行かなかつたし、秘書が数週間前から主人の姿を見かけなかつたのでした。あの人は百万長者でしたが、どこまでも完全に姿を変えていたかつたのです。あなたは『白衣の女』をお読みになりましたか? あの当世風のぜいたくなフォスコ伯爵が、秘密団体の手から命がけで逃げようとして、平凡なフランスの職人らしい青い仕事着姿で刺されていたのを、覚えておいでになりますか? では、しばらくあの二人の態度に帰つてみましよう。あなたは第一の男が冷静でおちつきはらつているのを見て、『これは何も知らずにいる犠牲者』だとひとりで考えてしまいました……そのくせ何も知らない犠牲者自身の手紙はちつとも冷静でおちつきはらつたものではなかつたじやありませんか。わしは、その男が冷静でおちつきはらつていたと聞くと、『それが犯人だ』と考えました。犯人は冷静でおちつきはらつているにきまつてるじやありませんか? 犯人はこれから自分のやろうとすることを知つていました。ずつと前からそれだけの決心をしていたのです。もし躊躇や良心の呵責があつたとしても、そんなものには無感覚になつてから現場に――あの男の場合だけに、いわば、舞台に――登場したのです。舞台へ出て別に気おくれするはずはありませんでした。ピストルを抜き出して振りまわしたりしませんでした……そんなことをするはずはありません。ピストルは用のあるまでポケットにしまつておきました……おそらくポケットから射つたのでしよう。第二の男がピストルをひねくりまわしていたのは、猫のように神経質になつていたからですし、それからまずおそらく初めてピストルを持つたからでしよう。目をギョロつかせたのも同じ理由でした……それにわしは覚えていますが、あなた自身の無意識の証言にさえ、あの男が後方に目をギョロつかせていたという点が特に挙げられていました。実際、あの男はうしろを見ていたのです。実際、あの男は追跡者でなく追跡されていたのです。したがたまたまあなたは最初に第一の男を見たので、そのあとから第二の男が忍びよつてきたように思いこんでしまつたのです。単に数学と力学からいえば、どつちも相手のあとを追いかけていたわけです――別の二人組そつくりじや」
「別のというのは何ですか?」探偵はポーッとしながら質問した。
「ホレ、これですわい」ブラウン神父は、この恐ろしい不思議な殺人談のあいだ中も手から離さなかつた、まるで不似合いな小さい木製のすきで自動機械を叩いて、大声で言つた。
「この小さなゼンマイ仕掛けの人形はおたがいにグルグルと永久に追つ駆けつこしています。これを上衣の色で、青君と赤君ということにしましよう。わしはたまたま青君を最初にスタートさせたので、子供たちは、赤君が青君の跡を追つ駆けてるのだと、言いました。したがもしわしが赤君を最初にスタートさせたら、まるで反対に見えたでしようなあ」
「ええ、やつとわかりかけました」とマグルトンは言つた。
「そうだとすれば、あとはすつかりうまくあてはまりますね。顔の似ているのは、むろん、どちらにしても役に立ちますし、犯人が桟橋を出て行くのを見た者は一人もいないんですから……」
「みんなは犯人が桟橋を出て行くのをさがしていなかつたのじや。アストラカンの外套を着た、静かな物腰の、きれいに顔を剃つた紳士をさがせとは、だれにも言われなかつたからですわい。犯人が消えてしまつた秘密は、すべてあなたが、赤い襟巻をしたぶざまな大男だと説明したのが、元でした。したが事実は単に、アストラカンの外套を着ていた役者が赤いスカーフの百万長者を殺したので、そのきのどくな男の死体があるわけです。ちようど赤と青の人形にそつくりです。ただ、あなたが最初に見たというだけで、どつちが復讐で赤くなつていて、どつちがおびえて青くなつているかを、まちがつて想像したのです」
 ちようどこのとき子供が二三人砂地にちらばりかけた。すると坊さんは、芝居じみたかつこうで自動機械をコツコツ叩きながら、木製のすきで子供たちをまねきよせた。マグルトンは、主にそれは子供たちが浜辺のゾッとする物のほうへ迷つて行かないようにするためだなと、想像した。
「財布をはたいて残つているのはもう一ペニイだけ」とブラウン神父は言つた。「そしたらみんなお茶に帰らねばならんぞ。いいかい、ドリス、どうもわしはこの回転ゲームが好きでな……これはグルグル駆けまわつて、おまえ方の『桑の木まわろ』の遊びに似ている。つまり、神さまが太陽や星をお作りになつたのも『桑の木まわろ』の遊びをするためじや。したが、それとは別の大人のゲームでは、一人が相手に追いつかねばならんし、走つている者は敵同志で肩をならべて走りながらおたがいに追い抜かねばならんだけに――いや、ずつといやなことがあるらしいな。わしは赤君と青君がいつも元気で、二人とも自由で平等に、おたがいに傷つけ合つたりしないで、飛びまわつていてくれるといいと思うなあ。『いとしき者よ、口づけしたまうことなかれ――命あやうし』いや、幸福な、幸福な赤君じや!

われは変らじ、たとえきみに天上の至福なくとも
とこしえに飛びて躍れや、われは青からむ」

 キーツからのこの注目すべき引用句を、やや感激したように、暗誦しながら、ブラウン神父は小さなすきを小脇に突つこむと、片手で子供二人の手を引いて、浜から海へおごそかにトボトボ歩いて行つた。





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※「鼻の孔」と「鼻の穴」の混在は、底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字5、1-13-25) 青君の追跡」となっています。
※誤植を疑った「荒つぱい」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:時雨
校正:sogo
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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