共産主義者の犯罪

THE CRIME OF THE COMMUNIST

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 三人の男がマンドビル学寮カレッジの柔らかい感じの正面にあるチュードル式の低いアーチの下から出てきて、いつ暮れるとも思えないような夏の夕方の日ざしをあびた。そしてその日ざしの中に、電光のようにはかない或る物を見た……命がけのショックと言つてもふさわしいものであつた。
 この三人は、悲劇の大詰だとは夢にも思わないうちから、或る対照に気がついていた。彼ら自身は、妙に静かな点で、周囲とまつたく調和していた。学寮の庭のまわりを廻廊のように取り巻いているチュードル式のアーチは四百年前に建てられたものであつた……つまり、ゴシック建築が天から落ちてうずくまるようにかがんでしまい、ヒューマニズムと学問の復活の居心地のよい建物に変つてきたあの時代であつた――尤も建物自体は現代の外装(つまりそのみにくさには四世紀間の人がだれでもきもをつぶしそうな外装)になつていたけれど、それでもなんとなくこの学寮の精神がそれをみんな一つにまとめていた。庭はまるで手入れしてないように見えるほどみごとに手入れしてあつた……花までが、上品な雑草のように、偶然美しく見えるだけだという感じであつた。そしてその現代的外装には少なくとも乱雑から生まれ出た美しさがあつた。三人の中の先頭は、背の高い禿げ頭の、顎ひげをはやしたメイポール(五月祭に広場に立てて飾る高い柱)のような男で、帽子とガウンをつけていて、この校庭ではよく知られている姿であつた。ガウンがなで肩の一方からすべり落ちていた。二番目は大へん肩の張つた、背の低い、ひきしまつた体格の男で、かなり陽気な笑いをうかべながら、平凡な短上着を着て、ガウンを腕にかけていた。三番目は、いつそう背が低く、もつとずつとみすぼらしい男で、黒い僧衣を着ていた。しかし三人ともマンドビル学寮にふさわしいようすであつた……つまりイギリスの比類のない古い両大学の何とも言いようのない雰囲気にふさわしかつた。みんながその中にピッタリあてはまり、溶けこんでいた……それがここでは一番ふさわしく見えるのである。
 小さなテーブルのそばの庭椅子に腰かけていた二人の男はこの灰緑色の風景の中で光り輝いている一種のシミであつた。大部分真黒な服装をしているのに、頭のテッペンから足の爪先きまでピカピカ光つていた……ツヤツヤしたシルクハットからすつかりみがきぬいた靴まで光つていた。だれにしろマンドビル学寮のたしなみのいい自由の中でこんな立派な服装をしているのは、なんだか無法なような感じがした。ただ一つ無理もないのは二人が外国人だということであつた。一人はアメリカ人のヘイクという百万長者で、ニューヨークの富豪連中だけが知つている非の打ちどころのないピカピカするような紳士らしい服装をしていた。もう一人は、それに加えて、(ケバケバしい左右の頬ひげには目をつぶるとしても)アストラカンの外套まで着ているという無法ぶりを見せている男で、大金持のドイツの伯爵であつた……その長つたらしい名前の一番短かい部分だけ言えばフォン・チンメルンであつた。しかしながら、この物語の不思議は、なぜ二人がこんな所にいるかという不思議ではなかつた。彼らがここへ来ていたのは、わけがあつてのことで、この不調和なもの同志が合流した事情は平凡に説明がつく……二人はこの学寮に金を出そうと申しこんだのであつた。マンドビル学寮に経済学の新講座を設立するため各国の金融業者や実業界の大立物が援助している計画を援助しにきたのであつた。二人は、アメリカ人とドイツ人以外のイブの子孫にはとてもできそうもない、あの疲れることのない良心的な見物態度で、この学寮を視察した。そしていま仕事を終つて休養しながら、おごそかに学寮の庭を見ているところであつた。そこまではそれでよかつた。
 こちらの三人はもうこの二人に会つていたので、あいまいにえしやくして通り過ぎた。しかしその中の一人――三人の中で一番小がらな黒い僧職の服を着た男――が立ち止まつた。
「どうでしよう」と男はどうやらおびえた兎のような態度で言つた。「わしにはあの人たちの顔つきが気に入りませんわい」
「オヤオヤ! だれだつてそうさ!」背の高い男がふいに叫んだ……この人はたまたまマンドビルの学寮長であつた。
「少なくともわがイギリスの金持の中には仕立屋の人形みたいなかつこうをして歩きまわらない連中がいるからな」
「さよう」小がらな坊さんはシッというような声を出した……「それを言うのですわい。仕立屋の人形みたいじや」
「えッ、何ですつて?」もう一人の背の低いほうの男が鋭くきいた。
「つまり恐ろしい蝋細工みたいだというわけです」坊さんはかすかな声で言つた。「つまり動かないからです。なぜ動かないんでしようか?」
 坊さんはそれまで引きさがつていた薄暗い所からふいに飛び出すと、矢のように庭を横切つて、ドイツの男爵のひじにさわつた。ドイツの男爵は椅子ごとひつくりかえつた。空中にはねあがつた、ズボンをはいている両脚が、椅子の脚みたいにこわばつていた。
 ギデオン・ヘイク氏のほうは生気のないガラスのような目でやはり学寮の庭を眺めていた。しかしこちらも蝋細工そつくりのようすなので、その目はなおさらガラス製の目だという感じが強くなつた。ともかくも豊かな日ざしとあざやかな色の庭の中だけに、イタリアの舞台のあやつり人形そつくりに、硬直したように服を着ている人形の不気味な印象がいつそう増してきてゾクゾクするようであつた。黒服を着た小男はブラウンという坊さんであつたが、ためすように百万長者の肩にさわつてみた。すると百万長者は横に倒れたが、恐ろしいことに、木像のように、そのままの形で倒れた。
「死後硬直」とブラウン神父は言つた……「それもこんなに早く。したが硬直は場合によつてずいぶんいろいろに変りますわい」
 最初の三人があとの二人と一緒になるのが(遅れすぎたとは言わないが)こんなに遅れた理由は、この連中が出てくるちよつと前に、チュードル式アーチのうしろにある建物の中でどんなことがあつたかに言及しておくのが一番わかりやすかろう。連中はみんな一緒にホールの教授席で食事をしたのであつた。しかし二人の外国人の慈善家は、万事を見とどけるという点では義務の奴隷だつたので、まだ礼拝堂の廻廊一つと階段を検査してないからと言つて、そちらへおごそかに引き返して行つた……あとでまた庭で一緒になつて、同じ熱心さで学寮の葉巻を検査しようという約束であつた。ほかの連中は、もつとつつましい正直な気分で、いつものように細長いオークのテーブルに席をうつして、そこで食後の葡萄酒をとりかわした……これはだれでも知つているとおり、この学寮が中世期にジョン・マンドビル卿の手で創立されて以来のしきたりで、話に興を添えるためであつた。金髪の大きな顎ひげをはやし、ひたいの禿げあがつた学寮長がテーブルの上席についた。そして肩の張つた短上着を着ているズングリした男がその左手に坐つた。というのはこの男は学寮の実務を扱つている会計係だつたからである。その隣にならんで坐つたのは、どう見てもゆがんだ顔としか言えないようなおかしな顔つきの男であつた……というのはフサフサした黒ずんだ口ひげと眉毛がそれぞれ反対の角度にかたむいてジグザグになつていたので、まるで顔の半分がすぼまつているか、麻痺しているかのようであつた。この男はバイルズといつて、ローマ史の講義をしていた。彼の政治的意見は、まさかターキン大王(紀元前六世紀の悪政で知られた王)とまでは行かないにしても、傲慢なコリオレーナスの意見を元にしていた。こういう極端な保守主義や、現代のあらゆる問題に対する猛烈に反動的な見解はバイルズ以上に古風な教授連の中にもまつたく見られないわけではなかつたが、しかしバイルズの場合はどうやらそういう見解が原因で苛酷な態度を取つているというよりも、むしろ苛酷な天性の結果そうなつたのではないかと思えた。鋭い観察をする人なら、バイルズには何かほんとうによくないことがあるという印象を受けた者が一二にとどまらないであろう……つまり何かの秘密か大きな不運が彼をにがい気持にしたのであつて、たとえばあの半分しなびかけた顔も、嵐にいためられた木のように、ほんとにその毒気に当つたからではないかという感じがした。この男の先きにブラウン神父が坐り、それからテーブルの端に金髪の大男で柔和な化学の教授が、眠そうな、それでいてどうやらすこしずるそうな目をして坐つていた。みんながよく知つていることであるが、この自然哲学者はほかの哲学者たちを自分より古典的な伝統を守つている時世おくれな人間だとまで考えていた。テーブルの反対側のブラウン神父の向かいにいたのは、真黒なとがつた顎ひげをはやした、大へん色の浅黒い黙りこんでいる若い男で、だれかがペルシャ語の講座を置こうと主張したことがあつたおかげで採用されたのであつた。不気味なバイルズの向側には卵形の頭をした、大へんおだやかな顔つきの、小がらな礼拝堂付きの牧師がいた。会計係の向側で、学寮長の右手にあたる席には、からの椅子があつた。それが空いているのを見てよろこんでいる者が多かつた。
「クレイクンは来るかねえ」と学寮長は言つたが、いつものものうげでむぞうさな態度とは反対の神経質な視線でチラリと椅子に目をやつた。「わたしはみんなに好きなようにしてもらつていいと信じている。しかし正直なところあの男がここにいると、なんだかうれしく思うようになつてきたよ……単にあの男がどこかほかの所へ行つていないというだけの理由でな」
「あの先生はこんど何をしでかすかわかりませんからね」会計係が陽気に言つた……「特に若い学生に教えてるときはね」
「目ざましい頭の男だが、もちろん火のようなところがある」と学寮長は言つてから、ふいに沈黙に逆戻りしてしまつた。
「花火は火だし、これも目ざましい」老バイルズがうなるように言つた。「だがクレイクン君が本物のガイ・フォークス(一六〇五年英国議場の爆破を企てた首謀者)になつて、わたしがベッドの中で焼け死んだりするのはまつぴらだな」
「どうです、万一暴力革命があつたら、あの男がほんとに参加すると思いますか?」会計係がほほえみながら尋ねた。
「フム、そりやあの男は、参加しようと思つているさ」とバイルズは鋭く言つた。「先日ホール一ぱいの学生に話していたが、もうどんなことがあつても、階級戦が本物の戦争に変つて町の往来で殺し合うのは避けられない……でもそれが労仂階級の勝利と共産主義に終るかぎりそんなことはかまわない……と言うんだ」
「階級戦」学寮長はなんとなく気にくわないらしく考えこんだが、あまり自分とはかけ離れたことなので柔らかな口調であつた。というのは、この人はずつと前にウイリアム・モリスを知つていて、もつと芸術的でのんびりした社会主義者たちとかなり親しんだことがあつたからである。「その階級戦というようなことはわたしにはさつぱりわからん。わたしが若かつたころの社会主義は、階級などはないと言うつもりらしかつたな」
「そりや社会主義者が階級でないと遠まわしに言つてるんですよ」とバイルズが気むずかしい口調で言つた。
「むろん、あんたはわたし以上に彼らに反対するだろうな」学寮長は考え深そうに言つた。「しかし、どうもわたしの社会主義はあんたの保守主義と同じくらい古風になつたようだ。若い連中はほんとにどう考えているのかな。きみはどう考える、ベイカー君?」学寮長はだしぬけに左手の会計係に話しかけた。
「ああ、わたしは考えたりしませんよ……俗なことわざにあるとおりです」会計係は笑いながら言つた。「わたしは大へん俗な人間だということを覚えていてくださらなきやいけません。わたしは考える人間ではありません。ただの事務屋ですね。事務屋として考えると、そんなことはみんなたわごとです。人間を平等にするわけにはいきませんし、平等に金を払うなどというのは事務的にとんでもない悪いことです。おまけにその中には一文も払う値打のないようなのがたくさんいるんです。事が何であろうと実際的な方法を取らなきやなりますまい……だつてそれが唯一の方法ですからね。もし自然がすべての物に奪い合いをさせるとすれば、それはわれわれの誤ちではありませんからね」
「その点ではきみに賛成だ」化学の教授が、こんな大男にしては子供つぽい舌のまわらないような口調で、言つた。「共産主義はすつかり現代的なものらしく見せかけているが、そうじやないんだ。修道僧や原始部族の迷信への逆戻りさ。科学的な政府なら、子孫に対するほんとうに倫理的な責任を持つているから、前途の約束と進歩の方向をいつもさがし求めるだろうな……民衆を平らにならして、もう一度泥土の中に押し返すようなことはすまい。社会主義はセンチメンタリズムだ……そして疫病よりも危険だ。だつて社会主義の世界では少なくとも一番の適者が生き残るだろうからな」
 学寮長はやや悲しげに微笑した。「たしかにあんたとわたしは意見の相違という問題についてどうも考えが違つているようだ。ここの連中の中には、友達に川辺を散歩しようと言われると、『どつちでもいいよ、意見は違うけどね』と言う者がありはしなかつたかね? それが大学のモットーじやないかね? 数百の意見がありながら独善的にならないこと。ここで堕落する人間があつたら、それはその人の生れつきのためで、考えていることのためではない。たぶんわたしは十八世紀の遺物さ……しかしわたしはあの昔のセンチメンタルな異教に心を向けてみたくなる……『信仰の形式上、神に見放された狂信者共を戦わせよ、命に誤ちなき者は誤ちなし』とポープが言つている。あなたはそれをどうお考えかな、ブラウン神父?」
 学寮長はややいたずらそうにチラリと坊さんを見て、ちよつとドキンとした。というのはこの坊さんは大へん陽気で愛想のいいつき合いやすい人だと思つていたし、坊さんのまんまるな顔はたいてい上きげんでおだやかだつたからである。ところがどういうわけか、この瞬間の坊さんの顔には一座のだれもが見たことがないほどの暗いしわがきざまれていた。そのためにちよつとのあいだその平凡な顔が、バイルズのやつれた顔以上に、暗い不吉な感じに見えた。まもなくその雲は通り過ぎたらしかつた。しかしやはりブラウン神父は、なんとなく厳格なしつかりした口調で、口をひらいた。
「ともかくわしはそんなことは信じません」とブラウンは手短かに言つた。「もしその男の人生に対する全体の見方が誤つているとすれば、どうしてその人の命に誤ちがないと言えましようか? それは、人生の見方が人によつてどんなに違うものかということを知らないがために起つた、現代の混乱の一つです。バプテスト教徒やメソジスト教徒は、自分たちが道徳的には大して違つていないことを知つていましたが、それは宗教や哲学も大して違つていなかつたからです。バプテスト教徒から再洗礼派に移つたり、接神論者からインドの昔の暗殺団員に移つたりしてみると、まるきり違います。異教は、もしそれがほんとに異教的であれば、かならず道徳に影響するものです。わしの想像では、盗みはまちがつていないと正直に信じる人間はあるかもしれません。しかし不正直を正直に信じる人間があると言うのでは何の意味もないじやありませんか?」
「こいつはいい」バイルズはひどく顔をゆがめて言つたが、これは親しげな微笑のつもりだと信じている人が多かつた。
「それだからわたしはこの大学に理論的盗賊学の講座を作るのに反対なのさ」
「フム、もちろん、諸君はみんな大いに共産主義をいじめてるね」学寮長は溜息をついて言つた。「しかし諸君は、共産主義はいじめがいのあるほど大したものだと、本気で考えているのかね? どんな異教にしても危険を感じるほど大きなものがあるかね?」
「わしは大へん大きくなつていると思います」とブラウン神父が厳粛に言つた……「その結果、或るグループではすでにそれを当然のこととして認めています。彼らは現に無意識です。つまり、良心をなくしています」
「そしてその結果は、この国の破滅さ」とバイルズ。
「その結果はもつとよくないことでしような」とブラウン神父は言つた。
 一つの影が向側の鏡板張りの壁をすべるようにサッと通り過ぎると、続いてその影を投げた本人が同じようにすばやく姿を見せた……背が高いのに猫背の男で、おぼろに肉食鳥を思わせる姿であつた……それが一段と強く感じられたのは、ふいに現われてすばやく通り過ぎたようすが、びつくりして藪から飛び立つた鳥に似ていたからである。それはみんなにごくおなじみの、長いたれさがつた口ひげをはやした、なで肩の男の姿にすぎなかつた。しかし宵闇とロウソクの光と飛ぶように走り過ぎた影のようすが、坊さんの無意識に言つた不吉な言葉と、なんとなく妙に結びついた……どうしてもその言葉が、昔のローマの意味で、ほんとに一つの予言だつたような気がした……ローマでは鳥の飛び方で予言をしたからである。どうやらバイルズ氏はこういうローマの予言について、それも特にあの不吉を知らせる鳥について、一講義しそうであつた。
 背の高い男は自分の影と同じに壁を走り過ぎると、最後に学寮長の右手の空席に深々と腰をおろして、落ちこんだうつろな目で向側の会計係やほかの連中を見わたした。たれさがつている髪と口ひげはまつたくの金髪であつたが、目は黒いのかもしれないと思えるほど深くくぼんでいた。この新来者がだれであるかは、みんな知つていたし、さもなくとも想像がついた。しかし、続いてすぐに一つのでき事があつたのでそれですつかり事情が明らかになつた。ローマ史の教授がぎごちなく立ちあがつて大またに部屋を出て行つたのは、理論的盗賊学の教授――またの名は共産主義者クレイクン氏と同じ食卓に坐るのはまつぴらだという感情をかなりろこつに見せたものであつた。
 マンドビルの学寮長は、気まずい雰囲気を隠すために、神経質にお愛想を言つた。「わたしはきみを――あるいはきみの或る面を弁護していたんだよ、クレイクン君」と彼はほほえみながら言つた。「尤もきつときみは、わたしの弁護など無力だと思うだろうがね。けつきよく、わたしが忘れられないのは、青年時代の古い社会主義者の友人たちには、同胞愛と友愛の大へん立派な理想があつたことだ。ウイリアム・モリスは或る文章の中にそれをくわしく書いている……『友愛は天国、そして友愛の欠乏は地獄』という奴だ」
「民主主義者になつた学監……大見出し物ですよ」クレイクン氏はかなり不愉快そうに言つた。「それで頑固なヘイクがウイリアム・モリスの記念に新しい商業学の講座をささげようというのですか?」
「フム」学寮長は、やはり必死にお愛想を続けながら、言つた。「わたしは、或る意味で、われわれの講座はすべて良き友愛の講座だと言いたいな」
「ええ、そいつはモリス主義のアカデミックな解釈ですよ」クレイクンはうなるように言つた。「『或る種の友愛は天国、そして或る種の友愛の欠乏は地獄』」
「そんなにきげんを悪くしたもうな、クレイクン」会計係がキビキビと口をはさんだ。「ポートワインをやりたまえ。テンビイ、そのポートをクレイクンさんにまわしてくれ」
「ああ、なるほど、一杯もらおう」共産主義者の教授はいくらか愛想よく言つた。「実はここへ来て庭で一ぷくするつもりだつたのさ。ところが窓の外を見ると、あのお二人のありがたい百万長者がまのあたり庭で花のように元気な顔を見せているじやないか……新鮮で無邪気なつぼみさ。けつきよくあの連中に、いくらかぼくの考えを教えてやつたら、役に立つかもしれないんだがな」
 学寮長は最後のおきまりのお愛想にかこつけて立ちあがつていた。そしてあとは会計係にまかせてこの野蛮人の取り扱いに最善をつくしてもらえるのを大いに喜んでいた。ほかの連中も立ちあがつていたので、テーブルのグループは解散しはじめた。そして会計係とクレイクン氏が、どうやら二人きりで、長いテーブルの端に取り残された。ただブラウン神父だけは、かなり雲のかかつた表情で、うつろに目を見はつたまま坐つていた。
「ああ、そのことですか」と会計係は言つた。「実を言うとわたしもあの二人にはかなりウンザリしているんです。ほとんど今日一日中、連中と一緒に、こんどの新しい講座の具体的な事実や数字やあらゆる実務をしらべていたんですからね。だけどねえ、クレイクン」そこで彼はテーブルに体を乗り出してやわらかに力説し出した。「実際、こんどの新しい教授の地位について、そんな荒つぱい[#「荒つぱい」はママ]批評をする必要はないんですよ。ほんとにあなたの研究題目のじやまにはなりませんよ。あなたはマンドビルで唯一の経済学の教授です。そして、わたしはあなたの意見に賛成するふりをしてみせるわけじやありませんが、あなたがヨーロッパ中に評判されていることは、だれでも知つています。こんどのはいわゆる応用経済学という特別の学科です。ウム、今日だつて、いま言つたとおり、わたしはいやになるほどタップリ応用経済学を聞かされましたからね。早く言えば、二人の実務家と実務を話さなきやならなかつたんです。あなたは特にそんなことをやりたいんですか? そんなことがうらやましいんですか? がまんができますか? それだけでも、全然別個の学料で当然別個の講座になるという証拠には、十分じやありませんか」
「ああ、神よ」クレイクンは無神論者にしては激しい祈りをこめて叫んだ。「きみはぼくが経済学を応用したくないと思つているのかい? ただわれわれが応用したら、きみらはそれを赤い破滅で無政府主義だと言うだけさ……そしてきみらが応用したら、ぼくは遠慮なく掠奪だと言つてやる。もしきみらの仲間だけが経済学を応用する気になつたりしたら、民衆は何か食い物にありつくだけで精一ぱいになるだろうな。われわれは実際的な人間だ。それだからきみらはわれわれを恐れているんだ。それだからきみらは別の講座をはじめるために二人のあぶらぎつた資本家を引つぱつてこなきやならないんだ……そいつはまさにぼくが猫を袋から出してやつた(秘密を明るみに出す意味)からさ」
「かなり野蛮な猫でしたね、あなたが袋から出したのは?」会計係はニコニコしながら言つた。
「そして、かなりな金袋だつたね、きみらがもう一度猫を縛つてまたほうりこもうとしてるのは?」とクレイクンは言つた。
「フム、どうもその点ではわれわれは一致しそうもありませんね。だがあの二人は礼拝堂から庭へ出てきたんです。ですからあなたが庭で一ぷくやりたいのでしたら、おいでになつたほうがいいでしよう」会計係は相手がやたらにポケットをさぐつているのをおもしろそうに見守つていた……やつとクレイクンはパイプを出して、それからポカンとしてそれを見つめながら、立ちあがつたが、そうしながらもまた体中をさぐりまわつているらしかつた。会計係のベイカー氏は、議論にケリをつけるために楽しそうに笑つて、仲直りを申しこんだ。「あなた方は実際的な仲間ですから、いまにこの町をダイナマイトで吹き飛ばすでしようね。ただあなたはどうやらそのダイナマイトを忘れそうですな……現にいまだつて煙草を忘れたんでしよう。かまいませんよ、わたしのを一ぷくやつてください。マッチは?」会計係は煙草の袋と附属品をテーブル越しに投げた……そいつをクレイクンは、クリケット競技者には夢にも忘れられない、あのあざやかな手ぎわでうまくつかまえた……これは彼が、一般的にはクリケットのような正々堂々のものではないと考えられている主義を採用するときでさえ、忘れないものであつた。二人は一緒に立ちあがつた。しかしベイカーは一言いわずにはいられなかつた……「あなた方だけがほんとに唯一の実際的な仲間でしようか? 応用経済学のために何か言うことはありませんか……パイプと一緒に煙草の袋を持つてくるのを忘れないような注意をね?」
 クレイクンはくすぶつた目で相手の顔を見た。そしてゆつくり葡萄酒の残りを飲みほしてから、やつと言つた――
「そうさね、実際性にも別種のものがあるとでも言つておこうか。そりやたぶんぼくはこまかいことやなんか忘れるだろうがね。きみに理解しておいてもらいたいのは、これだ」――彼は機械的に袋を返した。しかし目は遠くを見つめて怖いように黒く燃えていた――「われわれの知性の内面が変化しているから……われわれが何が正しいかということについてほんとに新しい考えを持つようになつているから、われわれはきみらがほんとに不正だと考えるようなことをするだろうな。だがそれはごく実際的なことだろうね」
「さよう」ブラウン神父は、ウットリしていた状態からふいに抜け出して、言つた。「それこそわしの申しあげたとおりです」
 ブラウンは生気のないかなり不気味な微笑をうかべながら向側のクレイクンを見て、言つた――「クレイクンさんとわしはまつたく同じ意見じや」
「フム」とベイカーが言つた……「クレイクンはあの大富豪とパイプをふかしに行くつもりです。しかしそれが平和のパイプになるかどうか、あやしいもんですね」
 ベイカーはかなりだしぬけに向きを変えて、うしろにいた老年の給仕に呼びかけた。マンドビルはごく古風な学寮の名残りが残つている所であつた。そしてクレイクンでさえ、今日の過激主義になる前の共産主義者としては、最初の人物であつた。「それで思い出しましたよ」と会計係は言つていた……「あなたはその平和のパイプをまわしてあげそうもないから、こつちはあの賓客に葉巻をとどけなきやなりません。連中が煙草好きだとすれば、一ぷくやりたがつているに違いありません。食事時間以後ずつと礼拝堂でせんさくしまわつていたんですからね」
 クレイクンは野蛮で耳ざわりな笑い声をあげて爆発した。
「ああ、ぼくがその葉巻を持つてくよ。ぼくはただの一プロレタリアだ」
 ベイカーとブラウンと給仕は、この共産主義者が百万長者と顔を合わせるために猛烈な勢で大またに出て行つたのを、みんなで目撃していた。しかしそれ以上は何一つ見聞きしなかつた……とうとうおしまいに、すでに記録したとおり、ブラウン神父が、椅子にかけたまま死んでいる百万長者を見つけ出したのであつた。
 打ち合せをした結果、学寮長と坊さんが悲劇の現場を守るためにあとへ残り、年下で動作も機敏な会計係が駆け出して医者と警官を連れてくることになつた。ブラウン神父はテーブルに近づいた……その上には葉巻の一つが燃えつくして一インチか二インチほど残つていた。もう一本の葉巻は、手から落ちて、デコボコの歩道に叩きつけられたため、わずかな火花が消え残つているだけであつた。マンドビルの学寮長はできるだけ十分に遠く離れた腰かけに、どうやらふるえながら腰をおろすと、禿げあがつたひたいを両手の中にうずめた。それから最初はかなりウンザリしたように目を上げた……するとその時、ほんとに大へんギョッとしたらしく、庭の静けさを破つて、おびえたような小さな叫び声をあげた。
 ブラウン神父には、時として血が凍りそうだと言つてもいいような、或る性質があつた。いつでも自分がやろうとすることばかり考えていて、そんなことをやつていいかどうかは一度も考えたことがなかつた。どんなみにくい、恐ろしい、みつともない、きたないことでも、外科医のように冷静に実行するのであつた。この人の素朴な心の中には或る空白があつて、ごくふつうに迷信やセンチメンタルな感情と結びつくことにはまつたく平気であつた。ブラウンは死体がころがり落ちてしまつたあとの椅子に腰をかけて、その死体が半分吸いかけていた葉巻をひろい上げると、注意深く灰を落して、吸いさしをしらべてから、自分の口にくわえて火をつけた。それは死者を嘲笑する、グロテスクでけがらわしいこつけいな身振りのように見えた……ところがそれをブラウンはごく平凡な常識だと思つたのである。モウモウとした煙が、野蛮人のイケニエと偶像崇拝の煙のように、舞いあがつた。しかしブラウン神父にとつては、葉巻がどんな味かを見つけ出す唯一の方法はそれをふかしてみることだというのが完全に自明の事実らしかつた。彼の老友マンドビルの学寮長は、ブラウン神父が事件の可能性をためすために自分の命をかけているのだと、おぼろげながら鋭敏に見当をつけたものの、それでもゾッとするような恐怖は軽くならなかつた。「いや……こりや大丈夫だと思います」坊さんは、吸いがらをまた下に置いて、言つた。「ひどく上等の葉巻じや。ここの葉巻ですな。アメリカやドイツの物じやない。葉巻そのものには別におかしなところはないと思います……したがあの灰に気をつけてもらうほうがいいでしよう。この二人はともかく急速に体を硬直させる薬品ようの物で毒殺されたのです……オヤ、それについてはわれわれ以上によく知つている人が来ましたわい」
 学寮長は妙に不愉快な動揺を感じて坐りなおした。というのは細道に落ちた大きな影法師のあとからほんとに人の姿が現われて、それがドッシリしているくせに、ほとんど影法師のように音の立たない歩き方をしていたからである。化学の講座を受け持つている有名なウオダム教授は大きな体に似合わずいつも大へん静かな物腰であつた……それに彼が庭を歩きまわるのは何の不思議もなかつた。それでも、ちようど化学の話が出た瞬間に彼が現われたというのは、何だか不自然なほど手ぎわのいい感じがした。
 ウオダム教授は自分の静かな態度を自慢にしていた。人によると、あれは鈍感だからだと、言う人もあつた。ペッタリなでつけた亜麻色の頭の髪の毛一本動かさなかつたが、死人を見おろしながら、蛙そつくりの大きな顔になんだか無関心らしい表情をうかべて、立つていた。ただ坊さんが取つておいた葉巻の灰を見ると、指でそれにさわつてみた。それから前より静かに立つているようであつた。しかし影になつているその顔から一瞬二つの目が、彼の愛用の顕微鏡そつくりに伸縮自在に飛び出したように見えた。たしかに何かを悟つたか、見つけたかしたのであつた……しかし彼は何も言わなかつた。
「この問題はどこから手をつけてよいのかわからん」と学寮長が言つた。
「わしが手をつけるとすれば、この不幸な人たちがいままでの大部分をどこで過していたかをきくことにしますわい」とブラウン神父は言つた。
「この人たちはわたしの実験室でかなり長いあいだゴタゴタしていました」ウオダムが初めて口をひらいて言つた。「ベイカー君はよくおしやべりをしにやつて来ますが、今日はこの二人のパトロンを連れてきて、わたしの部屋を調査していましたよ。だが連中はいたる所へ行つてみたんでしよう……ほんとに見物客ですよ。わたしはこの人たちが礼拝堂やあすこの地下室の下のトンネルにまで行つたのを知つています……あすこはロウソクをつけなきやならないのですよ……あんなことをしないでまともに腹こなしをしていればよかつたのにな。ベイカー君はいたる所へ二人を連れて行つたようです」
「この人たちはあなたの部で特別何かに興味を持つていましたか?」と坊さんがきいた。「ちようどその時あなたは何をしておいででしたか?」
 ウオダム教授は、「硫化塩」ではじまつて「シレニューム」とかいうようにきこえる言葉で終る化学方程式をつぶやいた……聞いていた二人とも理解できなかつた。それから教授はウンザリしたように歩いて行つて、遠く離れた日なたのベンチに腰をかけると、目を閉じたが、大きな顔を鈍感に辛抱強く上に向けていた。
 ちようどこの時、それとあざやかな対照で、キビキビした人影が弾丸のようにまつすぐ足早に芝生を横切つてきた。ブラウン神父は、この町のもつと貧しい地区で会つたことのある巡査部長の賢い犬のような顔とキチンとした黒服に、気がついた。この男は警察部隊の中で真先きに到着したのであつた。
「なあ」学寮長は警察医がまだ声のきこえない所にいるうちに、坊さんに言つた……「わたしは或ることを知つておかねばならぬ。あなたは本気だつたのかね……共産主義はほんとに危険で、犯罪を生み出していると言われたが……?」
「さよう」ブラウン神父はかなり不気味に微笑して言つた……「わしはほんとに共産主義の手口や影響がひろがつているのに気がつきました。そして或る意味では、これは共産主義者の犯罪です」
「ありがとう。ではわたしはすぐ或ることを取りはからいに行かねばならぬ。警察官には、十分したら戻つてくると、言つておいてください」
 学寮長はチュードル式のアーチの一つに姿を消してしまつたが、ちようどそのとたんに警察医がテーブルの所に来て、ブラウン神父を見つけると、うれしそうな顔をした。ブラウンが例の悲劇的なテーブルに坐ろうと提案するとブレイク博士は、遠く離れたベンチを占領している物柔らかな一見眠つているらしい大男の化学者に、鋭い怪しむような視線をチラリと投げた。当然教授の身分とそれまでに教授の証言から集めたことが、博士に報告された。博士は死体の予備検査に着手しながら黙つて耳をかたむけていた。むろん博士は、また聞きの証言より、現実の死体のほうに専心しているらしかつたが、最後に一つささいな事実が報告されると、ふいに解剖学のほうをすつかり忘れてしまつた。
「教授は何を研究していると言つたんですか?」と博士は質問した。
 ブラウン神父は自分にはわからない化学方程式を辛抱強くくりかえした。
「何ですつて?」ブレイク博士は猛烈な勢いでどなりつけた。「大へんだ! こいつはよほど驚くべきことだぞ」
「それが毒薬だからですか?」とブラウン神父は尋ねた。
「それがたわごとだからです」とブレイク博士は答えた。「単なるナンセンスです。教授は大へん有名な化学者です。なぜ有名な化学者が故意にナンセンスを話すのですか?」
「なるほど、そりやわしにはわかりそうです」とブラウン神父はおだやかに答えた。「教授がナンセンスを話したのは、うそをついているからです。何か隠していることがありますわい。それにこの二人やその代理人には特にそれを隠しておきたかつたのです」
 医者はその二人から目を上げて、偉大な化学者のほとんど不自然なほど動かない姿をはるかに見やつた。ほとんど眠つているのかもしれなかつた。庭の蝶が一羽体の上にとまつていたので、化学者の静かな姿が静かな石の偶像に変つてしまつたようだつた。蛙そつくりの顔にうかんだいくつもの大きなしわが、サイのたるんだ皮膚を思い出させた。
「さよう」ブラウン神父はごく低い声で言つた。「あの人はふとどきな人です」
「畜生、何てことを!」医者は、ふいに心の底まで動かされて、大声を出した。「あなたは、あれほど偉大な化学者が殺人に関係していると、言うつもりですか?」
「潔癖な批評家なら、あの人が殺人に関係しているのを嘆いたでしような」坊さんはおちつきはらつて言つた。「わしにしても、あんな形で殺人に関係する連中はあまり好きだとは言えません。したがそれ以上大切な問題は――たしかにこのきのどくな人たちはその潔癖な批評家仲間でしたのじや」
「するとこの二人が彼の秘密を発見したので、彼が二人を沈黙させたというわけですね?」医者は顔をしかめて言つた。
「しかし、いつたい彼の秘密というのは何ですか? こういう所でどうして大規模な人殺しができたのでしようか?」
「わしはウオダム教授の秘密をあなたに申しあげました。これは魂の秘密です。あれは悪い人です。後生ですから、わしがこんなことを申しあげるのは、あの人とわしが正反対の学派や伝統であるからだなどと、考えないでください。わしには化学者の友達が山ほどあります。その大部分は英雄的に私心を忘れています。最も懐疑的な連中でさえ、なんだかわけもなく私心を忘れているとだけは、言えましよう。したが、たまには、野獣のような、物質主義者に出合うことがあります。くりかえして申しあげますが、あれは悪い人です。あの人にくらべれば、まだしも――」ブラウン神父はその次ぎの言葉をためらつているらしかつた。
「まだしも共産主義者のほうがましだというわけですね?」と医者は暗示した。
「いやいや、まだしも殺人犯人のほうがましだというわけです」
 ブラウン神父は放心状態で立ちあがつた……相手が自分の顔を見つめているのにほとんど気がつかなかつた。
「しかしあなたは、あのウオダムが殺人犯人だと言うつもりだつたのじやないんですか?」医者はやつと尋ねた。
「ああ、いやいや」ブラウン神父はいままでより上きげんになつて言つた。「この殺人犯人は、もつとずつと思いやりのある、物わかりのいい人です。それに少なくとも必死だつたので、急にカッとして絶望的になつたのは、無理もなかつたのです」
「オヤ、あなたはけつきよく犯人はあの共産主義者だと言うつもりですか?」医者は叫んだ。
 この瞬間に、実に折りよく、警官隊が現われて、事件をごく決定的な思い通りの結果に終らせるような知らせを持つてきた。警官隊が犯罪の現場に到着するのがやや遅れたのは、その悪党をすでに捕えてきたという、単純な事実のためであつた。実は、ほとんど本署の門の所でその男を捕えたのであつた。警察では、この町でいろいろな騒動が続発しているあいだに、共産主義者クレイクンの活動に疑いをかけるだけの理由をにぎつていた。その時この暴力事件が耳にはいつたので、彼を逮捕するほうが安全だと思つた……その逮捕はまつたく正しいものだということがわかつた。というのは、クック警部がマンドビルの庭の芝生で学寮長や教授連中に意気ようようと説明したとおりに、あの評判の共産主義者の身体検査をするとすぐに、現に一箱の毒マッチをたずさえていることが発見されたからであつた。
 ブラウン神父は、「マッチ」という言葉を聞いたとたんにお尻の下にマッチの火をつけられたように腰かけから飛びあがつた。
「ああ」ブラウンは、なんだか世界一の晴れやかな口調で、叫んだ……「これですべてがはつきりしました」
「どういう意味かね、すべてがはつきりしたというのは?」とマンドビルの学寮長が詰問した……この人は、いまやこの学寮を戦勝の軍隊のように占領している警察官の威厳に対抗するために、本来の形式主義的な威厳をすつかり取り戻していた。「つまり、これでクレイクンに対する容疑がはつきりしたのを確信できるというわけかね?」
「つまりクレイクンのことがはつきりしたというわけです」ブラウン神父は断固として言つた。「そしてクレイクンに対する容疑もはつきり晴れました。あなたは、クレイクンがマッチを身につけて人を毒殺しに歩きまわるような男だと、本気で信じていらつしやるのですか?」
「そりや大へんけつこうだ」学寮長は、最初の騒ぎが起つて以来一度も消えたことのない困つたような表情で、答えた。
「しかし、まちがつた主義を持つた狂信者がけしからんことをしそうだと言つたのは、あなたでしたぞ。その点については、共産主義があらゆる所に芽を出してきて、共産主義の習慣がひろがりつつあると言つたのは、あなたでしたぞ」
 ブラウン神父は、かなりはずかしそうな顔をして笑つた。
「最後の点については、どうやらわしは皆さんにお詫びをする義務があるようです。わしはいつもばかげたつまらん冗談を言つて何もかもだいなしにするらしいのです」
「冗談!」学寮長は、かなり憤然として目を見はつたまま、おうむがえしに言つた。
「ヤレヤレ」坊さんは、頭をこすりながら、説明した。「わしが共産主義者の習慣がひろがつていると申しあげたのは、今日も偶然に二度も三度も目についたような習慣を言つただけです。これは、どう考えても、共産主義的な一つの習慣です。この異様な習慣を持つている人はなかなかたくさんあつて、特にイギリス人には多いのです……つまり他人のマッチを返し忘れて自分のポケットに入れてしまう習慣です。もちろん、こりやお話しするのもバカバカしいほどホンのささいなことのようです。したが、偶然それがこの犯罪の実行された手段なのです」
「まつたく気違いめいたお話ですね」と医者が言つた。
「さて、もしほとんどだれでもがマッチを返し忘れるとすれば、クレイクンは絶対まちがいなしにマッチを返し忘れますわい。そこであのマッチを用意していた毒殺者は、それをクレイクンに貸したまま取り返さないでおくという簡単な方法で、うまくそれを渡してしまつたのです。実にみごとな責任のがれの方法じや……なぜかというと、クレイクン自身にもどこからそのマッチを持つてきたかはつきり思い出せないでしようからな。したが、あの二人のお客に持つて行つた葉巻にまつたく無心に火をつけてやろうとしてそのマッチを使つたとき、彼は見えすいたわなにかかつたのです……あまりに見えすいたわなでした。彼は二人の百万長者を殺した無鉄砲な悪い革命家になつたわけです」
「フム、ほかにだれがあの連中を殺したいと思つたりするでしようか?」と医者はうなるように言つた。
「ああ、まつたくだれでしよう?」と坊さんは答えた……そしてずつと厳粛な声に変つた。「そこでわしがお話した、もう一つの問題になるのです。これはたしかに冗談ではありませんでした。わしは、異教やまちがつた教義がごくふつうのものになり話の種に出るようになつたと、申しあげました……つまりみんながそういうものに慣れてしまつたので、だれひとりほんとにそれに気がつかないようになつたのです。あなたは、わしがそう申しあげたのを共産主義のつもりで言つたものと、お考えになつたのですか? とんでもない、そりやまるでアベコベです。皆さんは共産主義については猫のように神経質でした……そして狼のようにクレイクンを見はつていました。もちろん共産主義は一つの異教です。したがそれはあなた方みんなが認めている異教ではありません。あなた方が認めているのは資本主義です――あるいはむしろ過去のダーウィン主義に姿を変えた資本主義の悪徳です。あなた方は寮の社交室でお話しになつていたことを覚えておいでですか……人生は奪い合いに過ぎないし、自然は適者の生存を要求しているから、貧乏人の給料が正当であつてもなくてもかまわないじやないかというお話でしたな? ソレ、皆さん、それこそあなた方が慣れてしまつた異教ですわい。それは共産主義と同じにどこからどこまでも異教です。それはあなた方がごく自然に受け入れている反キリスト教的の道徳――あるいは不道徳です。そしてその不道徳が、今日或る男を殺人犯人にしてしまつたのです」
「どの男だ?」と学寮長は叫んだが、声がかれて急に弱々しくなつていた。
「別のほうから問題にふれてみましよう」と坊さんは静かに言つた。「皆さんは、まるでクレイクンが逃げ出したように言つていらつしやるが、逃げたのではありません。あの二人がグラリと倒れると、クレイクンは往来へ駆け出して、窓からどなつて医者を呼び、それからすぐに警察を呼びに行つたのです。そこであんなふうにして逮捕されたのでした。したがいま考えてみると、皆さんにも思いあたりませんか……会計係のベイカーさんはだいぶ長いあいだ警官をさがしているじやありませんか?」
「では何をしているのかね?」と学寮長は鋭くきいた。
「まず書類を焼き捨てているんでしよう……さもなければ、たぶんあの二人の部屋をかきまわして、学寮宛てに手紙を書き残してありはしないかと見とどけているんでしよう。あるいは皆さんのお仲間のウオダムさんと何か関係のあることかもしれません。ウオダムさんはどこで関係してくるのでしようか? それがまた実は大へん簡単で一種の冗談みたいなものです。ウオダムさんは次ぎの戦争のために毒薬の実験をしているのです……そして炎を一吸いすると人間が硬直して死んでしまうような物を持つています。もちろん、あの人はこの人殺しには何の関係もありませんでした。したが自分の化学上の秘密をごく単純な理由から隠していました。殺された一人は清教徒のヤンキーでしたし、もう一人はコスモポリタンのユダヤ人でした……この二つのタイプはしばしば狂信的な平和主義者になります。二人に知られたら、ウオダムさんの研究は殺人をくわだてるものだと言つて、おそらくこの学寮の援助を拒絶したでしようからな。したがベイカーはウオダムの友達でしたので、新しい毒薬にマッチをひたすのは何の苦もないことでした」

 小がらな坊さんのもう一つの特色は、頭の中がバラバラになつていて、いろんな矛盾に気がつかないことであつた。話の調子をごく公けのものから急にごく個人的なものに変えて平然としているのであつた。この場合も、十人もの一団に話しかけていたのに、急にたつた一人の相手に話しはじめたので、一座の大部分は煙に巻かれて目を見はつた……それは自分の話していることがわかるのは一人しかいないという事実にまつたく無関心だつたからである。
「先生、わしが罪深い人間についてあんなダラダラした形而学上の脱線をして、あなたを迷わせたとしたら、すみませんでした」ブラウンは言いわけするように医者に言つた。「もちろんあれは殺人とは何の関係もありませんでした。したが実はわしは、あの時はすつかり殺人を忘れていました。まつたく、何もかも忘れていました……ただウオダム教授の幻影だけは別でした……人間とは思えない大きな顔をして、石器時代の盲目の怪物のように花のあいだにうずくまつている幻影です。そしてわしは、多勢の中には石器時代の人間のようにかなり怪物みたいな人がいることもあると、考えていました……したがそれはみんな見当違いでした。内心に悪いところがあつても、それは外面で犯罪を実行することとはほとんど何の関係もありません。最悪の悪党は何の犯罪も実行しないものです。実際的な要点は、なぜあの実際的な悪党がこの犯罪を実行したかという問題です。なぜ会計係ベイカーはあの二人を殺したかつたのでしようかな? それだけがいまわしらにかかわりのあることです。その答は、わしが二度お尋ねした質問に対する答です。あの二人は、礼拝堂や実験室をさぐりまわつていたあいだは別として、大部分の時間をどこで過していたのでしようか? 会計係が自分で説明したところによると、あの二人は会計係と事務的な話をしていたのです。
「さて、死者に対するあらゆる敬意をはらいながらも、わしはかならずしもあの二人の財界人の知性の前には頭を下げません。あの人たちの経済や倫理についての意見は異教的で無情でした。平和についての意見はたわごとでした。ポートワインについての意見はいつそう嘆かわしいものでさえありました。したが一つだけあの人たちは知つていました……それは実務でした。そこで驚くほどの短時間で、この大学の基金を預かつている実務家が詐欺師だということを発見しました……あるいは詐欺師というより、無限の生存競争と適者生存の教義のほんとうの信者だとも言えましよう」
「では、あの二人が会計係の不正をあばこうとしたので、話の出ないうちに奴が殺したというわけですね」医者は顔をしかめながら言つた。「わたしにはこまかい点でのみこめないことがたくさんあります」
「わしにもたしかでないこまかいことがいくつかありますわい」と坊さんは率直に言つた。「どうもあの地下室のロウソクの一件は、百万長者の持つていたマッチを抜き取るか、あるいはたぶんあの二人がマッチを持つていないのをたしかめるかするためだつたように思います。したが、わしはあの大切な身振りには確信があります……ベイカーが自分のマッチをむとんちやくなクレイクンに投げてやつたときの快活でむとんちやくな態度……あの態度は殺人的な一撃でした」
「一つわたしにのみこめないことがあります」と警部が言つた。「クレイクンがあの時すぐに食卓の煙草に火をつけて思いがけない死体になる恐れがないということを、どうしてベイカーは知つていたのでしようか?」
 ブラウン神父の顔は相手を非難するように重苦しい表情になつていた……その声は悲しそうではあるがそれでも寛大な暖かさを感じさせた。
「いや、とんでもない……あの男はただの無神論者でした」とブラウンは言つた。
「どうもわたしにはおつしやることがわかりかねます」警部はていねいに言つた。
「あの男は神さまを廃止したかつただけでした」ブラウン神父はつつしみ深いおだやかな口調で説明した。「十戒を破壊して、自分を作つてくれたすべての宗教と文明を根こぎにし、所有権と正直の常識をすべて洗い落したかつただけです……そして自分の国も文化も地球のはてから来た野蛮人になぎ倒させてしまいたかつたのです。それだけがあの男の望みでした。あなた方はそれ以外には何一つ彼を責める権利がありません。ええくそ、だれにしても越えてはならん一線を知つていますわい! それなのにあなたはここへいらして平気でそんなことをおつしやる……古い世代のマンドビルの人間(クレイクンは、その意見がどうあろうと、古い世代の出身でしたからな)が、まだ一九〇八年度の学寮自慢のポートを飲んでいる最中に、煙草をふかしはじめたり、マッチをつけたりすることがあるでしようか――いやいや、人間は法律や物の限度をそれほどすつかりなくしてはいませんのじや! わしはその場にいたのじや! わしはクレイクンを見ていました……彼は葡萄酒を飲みおえていませんでした。それなのにあなたは、彼が煙草をすわなかつたのはなぜかと、お尋ねになる! これほど無政府主義的な質問がマンドビル学寮のアーチをゆるがしたことはいままでに一度もありませんでしたぞ……おかしな所じや、マンドビル学寮は。おかしな所じや、オクスフォードは。おかしな所じや、イギリスは」
「でもあなたは別にオクスフォードとは関係がないのでしよう?」医者が不思議そうにきいた。
「わしはイギリスと関係があります」とブラウン神父は言つた。「わしはイギリスの生れです。そしてとりわけ一番おかしいのは、たとえイギリスを愛しイギリスの国にいても、それでもこの国の正体は何が何やらわからないということです」





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字6、1-13-26) 共産主義者の犯罪」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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