手早い奴

THE QUICK ONE

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 不調和な二人連れの不思議な男たちの不思議な話がいまだにサセックスのあのせまい海岸附近で語り伝えられている。この浜にはメイポール・アンド・ガーランドという、静かな大ホテルが庭から海を見晴らしている。おかしな組合せの二つの人影がその静かなホテルにほんとにはいつてきたのはあのよく晴れた日の午後であつた……一人は、褐色の顔と黒い顎ひげをかこむように、ツヤツヤした緑色のターバンを巻いていたので、日なたではひどく目立つて海岸一帯からよく見えた。もう一人は、ライオンみたいに長い黄色の口ひげと黄色の髪の毛をはやし、柔らかい真黒な牧師の帽子をかぶつていたので、いつそう気違いじみた不気味なようすだと思つた人もあるかもしれない。この男は少なくともたびたび姿を見せて、砂地でお説教をしたり、少年禁酒隊の礼拝を小さな木製のすきで指揮したりしていたことがあつた。ただホテルのバーにはいつてくる姿はたしかにいままでに一度も見せたことがなかつた。この変てこな二人連れの到着は物語のクライマックスであるが、そもそもの初めではない。そこで、かなり神秘的な物語をできるだけはつきりするために、初めからはじめるほうがよかろう。
 この二つの目立つた姿がホテルにはいつてみんなの目を引く半時間前に、別の二つのごく目立たない姿もホテルにはいつてきて、だれの目も引かないでいた。一人は大男で、堂々とした美男であつたが、いつもうしろへひつこんで場所ふさぎをしないコツを心得ていた。ただ病的なほど疑つてその靴を検査したら、この男が平服――それもごく質素な平服を着た警部だということはだれにもわかつたろう。もう一人はいつこうパッとしないつまらない小男で、これも質素な服を着ていたが、ただ偶然に坊さんの服装だつた。しかしこの男が砂地でお説教しているところはだれも見たことがなかつた。
 この二人の旅人もバーのある大きな喫煙室のような部屋にはいつてきたが、それにはこの悲劇的な午後のすべての事件の元になつた一つの理由があつた。実はこのメイポール・アンド・ガーランドという立派なホテルが修繕中だつたのである。昔のこのホテルを愛していた連中は、これでは改悪で、ことによるとメチャメチャになつてしまう、と言いたがつていた。これは土地の不平家ラグリー氏の意見で、この変り者の老紳士は片隅でチェリーブランデーを飲みながら罵倒していた。ともかく、一度はイギリスの宿屋らしかつたあちこちの特徴を注意深くすつかりはぎ取つて、一ヤードごとにまた部屋ごとに、アメリカ映画に出るユダヤ人の高利貸のまがいものの宮殿に似たような作りに大急ぎで改造されていた。早く言えば、それは「装飾中」であつたが、その装飾が完成してなじみの客がもうおちつけるようになつているのは、玄関のホールに続くこの大きな部屋だけであつた。ここは以前は立派にイギリス風の酒の部屋バー・パーラーという名前で通つていたが、いまは不思議なことにアメリカ風の酒場サルーンで通つていて、アジア風の喫煙室らしく新しく装飾されていた。というのは新しい計画には東洋風の装飾が深くしみこんでいたからであつた。そこで以前は鉄砲が釘にかけてあつたり、狩の版画やガラスのケースに入れた剥製の魚があつた所に、いまは東洋の掛布が花綱になつていたり、三日月刀やインドの曲刀やトルコのゆるくそつた剣などの記念品があつたりして、まるであのターバンの紳士の到着を無意識に待つていたようであつた。しかしながら事実上の要点は、はいつてきた多少のお客さま方を、もつとチャンとした上品な各室がみんなまだ模様変えの最中だつたので、もう装飾がすんで掃き清めてあるこの部屋に送りこまなければならないことであつた。たぶんそれだからまたこの少数のお客さまでさえ扱いがいくらか粗略になつたのであろう。なにしろ支配人その他の連中はどこか別の所で仕事の説明や注文に大わらわになつていた。ともかく最初ホテルに着いた二人連れはしばらくうつちやりつぱなしにされてジリジリしながら待つていなければならなかつた。
 酒場にはその時はまつたく人けがなかつた。そこで警部はもどかしげにカウンターを鳴らしたり叩いたりした。しかし小がらな坊さんはもう安楽椅子に坐りこんで、別に何も急いでいないようであつた。実際友人の警部がふり向いてみると小がらな坊さんの丸い顔が、ときどきそうなる癖があるとおりに、すつかりポカンとしているのが目についた……お月さまのような眼鏡越しに新しく装飾された壁を見つめているらしかつた。
「こりやあ、あなたの考え事に一ペニイ進呈するほうがよさそうだ」グリーンウッド警部は、溜息をつきながらカウンターからふりかえつて、言つた……「ぼくの小銭ペニイをほかの物に取り替えてくれる人がいないらしいからね。ホテル中ではしごやシックイでふさがれていないのはこの部屋だけらしいのに、ここはまるつきり人けがなくて、ビール一杯はこんでくれるボーイさえいないときてる」
「オオ……わしの考え事は、一杯のビールはさておき、一ペニイの値打もありませんわい」坊さんは、眼鏡をふきながら答えた。「自分でもなぜだかわかりません……したがわしはここなら人殺しをするのにさぞ楽だろうと、考えていましたのじや」
「そりやあなたにはけつこうでしようよ、ブラウン神父」警部はきげんよく言つた。「あなたは当然の分け前以上にずいぶんたくさんの殺人に出合つているんですからな。ところがわれわれ哀れな警官は一生待ちこがれているだけで、ホンの小さな殺人にさえ出合いません。だけどなぜそんなことを……ああ、なるほど、あなたは壁にかけてあるあのトルコの短刀類を見ていますね。もしそれなら、なるほど殺人用の道具が豊富にあります。しかしふつうの家の台所にはもつと豊富にありますよ……肉切ナイフや、火かき棒や、お好みしだいです。そんなことで殺人はさまたげられやしません」
 ブラウン神父はやや当惑しながら自分の散漫な考えを思い出そうとしているらしかつた……そして、なるほどそうだ、と言つた。
「殺人はいつでも楽なものです」とグリーンウッド警部は言つた。「おそらく殺人ほど楽なものはないでしよう。わたしはたつたいまでもあなたを殺せますよ――このいまいましい酒場で一杯手に入れるよりよつぽど楽です。たつた一つ困難なのは、自分が殺人犯人にならないで殺人をやつてのけることです。自分が殺人犯人だと告白するのはだれでも尻込みしたくなる……殺人犯人は自分の傑作をばかばかしいほど謙遜する……そいつが厄介の元です。奴らは見つけられないようにして人を殺したいというとほうもない固定観念にとらわれています。そこで短剣がいつぱいある部屋の中でも、自制するのです。さもなかつたら刃物屋の店はどこでも死体の山になるでしようがねえ。ところで、それだからこそ、ほんとうに防ぐことのできない或る種の殺人が説明できるのです。こいつは、もちろん、われわれ哀れなおまわりがなぜ防がないのだといつていつも非難されている殺人です。だが気違いが王さまや大統領を殺すのは、こりや防ぎようがありません。王さまを石炭部屋に住まわせたり、大統領を鋼鉄の箱に入れてはこびまわるわけにはいきません。殺人犯人になつても平気でいられる者ならだれでも王さまや大統領を殺せます。それだからそういう気違いは殉教者に似ています――現世を超越してるようなものですからな。ほんとうの狂信者ならいつでも自分の好きな相手を殺せますよ」
 坊さんが返事をする間のないうちに、陽気な出張販売人の一隊がイルカの群のように部屋になだれこんできた。そして喜色に輝いている大男が、同じように輝いている大きなネクタイピンをつけて、堂々とほえ立てると、熱心で腰の低い支配人が口笛に答える犬のように、私服の警官が失敗したときとは打つて変つた思いがけない早さで、走つてきた。
「まつたくどうもあいすみません。ジュークスさん」と支配人は言つたが、この男はかなりうろたえたような微笑をうかべながら、大へんツヤツヤした巻毛を一房ひたいにたらしていた。「いまのところかなり手不足なので、わたくしがホテルの雑務をあつかわなければならなかつたのです、ジュークスさん」
 ジュークスさんは寛大であつたが、騒々しかつた。みんなに酒を注文して、ペコペコしてばかりいる支配人にまで一杯おごつてやつた。ジュークスさんは大へん有名な売れ行きのいい酒の会社の販売人だつたので、こういう所では当然自分が音頭を取るものと思つていたのであろう。ともかく彼は騒々しい独白をはじめて、どうやら支配人にホテルの経営法まで話してきかせそうだつた。ほかの連中は彼をその道の権威として認めているらしかつた。警部と坊さんはうしろにあつた低いベンチと小さなテーブルにひきさがつて、そこからいろんなでき事を見守つていたが、とうとうあのかなり注目すべき瞬間になつたので、警部が決然として中にはいらなければならなかつた。
 というのは、すでに述べたとおり、次ぎに起つたのは、緑色のターバンを巻いた褐色のアジア人が現われてみんなのどぎもを抜いたからであつた……おまけにそれと同行の非国教派の牧師が現われて(もしかすると)それ以上に、みんなのどぎもを抜いた……宿命の前に現われる不吉な前ぶれであつた。この場合、その前兆についての証言には疑う余地がなかつた。玄関の階段を掃除していた、無口だが観察力の鋭い少年(のんびり仕事していたので最後の瞬間までやつていた)や、色の浅黒いデップリ太つた酒場の男や、じよさいないくせに取り乱している支配人までが、その奇蹟を証言した。
 この二人の出現は、疑い深い連中が言うとおりに、まつたく自然の原因によるものであつた。黄色い髪をフサフサとたらし、半ば坊さんのような服装をした男は、砂浜の説教者としてばかりでなく、現代の世界にくまなき伝道者としてよく知られていた。この人はほかならぬデビッド・プライス・ジョーンズ師であつて、その遠近に鳴りひびいた標語は本国および海外英国領の禁酒と浄化であつた。大衆に話しかけ大衆を組織する点では優秀な腕を持つていたので、禁酒主義者たちがとつくに考えついてもよかつたはずの或ることを着想した。それは単純な着想で、もし禁酒が正しいとすれば、おそらく最初の禁酒主義者であつたあの予言者マホメットにそうとうの敬意を表すべきだということであつた。彼はマホメット教の指導者たちと文通して、とうとう或る優秀なマホメット教徒(その名前の一部はアクバールであつたが、あとは何とも飜訳しようのない形容タップリのアラーへのうなり声みたいな名前であつた)を説き伏せて、古代マホメット教の禁酒命令についてイギリスで講演してもらうことになつた。二人ともいままで飲屋の酒場にはいつたことがないのはたしかであつた。しかし二人がここへ来たのは、すでにくわしく説明した経過によるものであつた……お上品な喫茶室から追われて、新しく装飾した酒場に送りこまれたのであつた。もしこの偉大な禁酒主義者が、その無邪気さから、カウンターに歩みよつてミルクを一杯ほしいと頼まなかつたら、おそらく万事が円満に行つたであろう。
 出張販売人たちは、気の優しい連中ではあるが、思わずたまらないといわんばかりの声をもらした……おさえつけたようなクスクス笑いがきこえて、「そんな入れ物に近よるな」とか「牝牛を連れてきたほうがいいぞ」とか言つてるようであつた。ところが堂々としたジュークスさんは、自分のふところの暖かさやネクタイピンの手前からもつと上品なユーモアをとばしてやる義務があると思つたらしく、気が遠くなりそうなかつこうで自分の顔をあおいで、哀れつぽく言つた――「奴らはおれが羽根一枚で打ち倒されるのを知つている。一吹きで吹き飛ばされるのを知つている。医者の意見でおれがこんなショックを受けてはならないことを知つている。それなのにおれのこの目の前で、冷血にも冷たいミルクを飲みにくるんだからなあ」
 デビッド・プライス・ジョーンズ師は、公けの会合で弥次をあしらい慣れていたくせに、このまるで違つたずつと大衆的な雰囲気にふれると、愚かにもたしなめたりやり返したりする気になつた。一方東洋の絶対的な節制家のほうはアルコールと同じに発言も節制していた。そしてたしかにそのために威厳があつた。実際、この男に関するかぎり、マホメット文化がたしかに沈黙の勝利を得ていた……この男は、明らかに販売員の紳士連中よりずつと紳士だつたので、その貴族的な超然とした態度にかすかな反感が高まりかけていた。そこでプライス・ジョーンズ師が議論のついでにその点にふれはじめると、みんなの緊張が実際大へん鋭くなつてきた。
「わたしはあなた方にお尋ねします、皆さん」プライス・ジョーンズ師は、説教壇でする大げさな身ぶりをしながら、言つた。「なぜここにいるわれらの友は、ほんとうにキリスト教徒らしい自制心と兄弟愛のお手本をわれわれキリスト教徒に見せているのですか?
「なぜこの方は、こういう騒がしい喧嘩口論の真只中で、ほんとうのキリスト教、ほんとうの上品さ、真正の紳士らしいふるまいのお手本になつてここに立つておいでになるのですか? なぜかというと、おたがいの教義がどんなに違つているとしても、少なくともこの方の土には邪悪な植物――呪うべきホップや葡萄が一度も芽ばえ……」
 論争がこの重大な瞬間に達したその時であつた……いつもきまつて論争の嵐の中で嵐の前ぶれになる男、ジョン・ラグリー氏が、真赤な顔をして白髪に古風なシルクハットをアミダにかぶり、ステッキを棍棒のように振りまわしながら、侵入軍のようにホテルにはいつてきた。
 ジョン・ラグリーは一般に怒りつぽい変人だと思われていた。しよつちゆう新聞に投書するタイプの人で、こういう投書はたいてい新聞には出ないが、後日自費で印刷した(あるいは誤植した)パンフレットになつて出てきて、諸所方々の紙屑かごにはこばれて行くのである。保守党の地主たちとも急進派の州議員たちとも同じように喧嘩をした。ユダヤ人が大きらいだつた。そして商店はおろかホテルで売つている物さえほとんど全部信用しなかつた。しかしこの気まぐれの背後には事実の裏付けがあつたのである。彼はこの州を隅々まで奇妙なほどくわしく知つていたし、鋭い観察力を持つていた。ウイルズとかいうここの支配人でさえラグリー氏にはかなり敬意を見せていた……尤もそれは旦那方には気違いめいた所があつてもしかたがないと思つていたからで、ジュークスさんの陽気な堂々とした態度に対する平身低頭の尊敬ぶりとはまるで違つていた。ジュークスさんはほんとに商売上手だつたが、少なくともこの不平家の爺さんとの口論を避けるようにしていたのは、たぶん一つには不平家の爺さんの弁舌がこわかつたからであろう。
「そちらはいつものでございますね、旦那さま」ウイルズ氏はカウンターの向こうから乗り出して、横目で見ながら言つた。
「ここのしろ物でましなのはそれだけじやないか」ラグリー氏は、変てこな古めかしい帽子をパタンと下に置きながら、鼻を鳴らした。「けしからんことさ、おれはときどき考えるんだが、イギリスに残つてる唯一のイギリス的な物はチェリーブランデーだけじやないかね。チェリーブランデーはチェリー(さくらんぼ)の味がするからな。ビールでホップの味がするものや、リンゴ酒でリンゴの味のするものや、萄葡酒でほんのかすかでも萄葡から作つたしるしを見せるものがあつたら見せてもらいたいね? 近ごろこの国の飲屋ではどこでもとんでもないインチキをやつている……ほかの国でそんなことをしたら革命が起るぞ。おれはそれについて一つ二つ見つけ出したことがある。まちがいなしだ。そいつを印刷させるまで待つてるがいい。それを見たらみんな坐りなおすぞ。みんながこういう悪い酒に毒されているのを止めることができたら……」
 ここでもまたデビッド・プライス・ジョーンズ師は、ふだんなら気をきかせることは一つの徳行として大切だと思つているくらいだつたのに、或る気のきかない失敗をしてしまつた。師は悪い酒という考えと、酒は悪い物だという考えを、すつかり混同してしまつて、愚かにもラグリー氏と同盟しようと試みたのである。またしても彼はあの固苦しい威厳のある東洋の友人を議論の中に引き入れて、わがイギリスの無作法な態度に勝る上品な外国人だと弁じ立てようと務めた。さらにばからしかつたのは、広い神学的見解を述べ立てて、おしまいにはマホメットの名前まで出したことであつた……その反響は爆発的だつた。
「きみの魂なんかくそでもくらえだ!」ラグリー氏は狭い神学的見解からほえ立てた。
「つまりきみは、イギリス人がイギリスのビールを飲んではならんというのかね……それもあのうすぎたないペテン師のマホメットが呪われた砂漠の中で葡萄酒を禁じたからかね?」
 とたんに、警部は一またぎで部屋の真中に踏みこんだ。というのは、その一瞬前に、それまでおちついたキラキラ光る目をそそぎながらまつたく静かに立つていた東洋の紳士の態度に目ざましい変化が起つたからであつた。彼はこんどは前に進み出て、友人のデビッド師が言つたように、ほんとうのキリスト教徒らしい自制心と兄弟愛の模範を示すためか、虎のように一飛びで壁の所まで行くと、そこにかけてあつた重い短剣の一つをもぎとつて、投石機から石を発射するようにそれをヒュッと投げつけた……するとそれはラグリー氏の耳のちようど半インチ上の壁に突き立つてブルブルと揺れた。もしグリーンウッド警部がきわどいところで東洋人の腕をグイとひつぱつてねらいをそらさなかつたら、それはまちがいなくラグリー氏の体に突き立つてブルブル揺れていたことであろう。ブラウン神父はやはり腰かけたまま、すぼめた目でその一幕を見ていたが、ただの瞬間的な暴力行為以上に何かを見つけたのか、口元がゆがんで微笑になりそうであつた。
 するとそれから喧嘩が妙な風向きになつてきた。これはジョン・ラグリー氏のような人物を実際以上によくのみこまないと、だれにものみこめないことかもしれない。というのはこの真赤な顔をした気違いおやじは立ちあがつて、こんなうまいシャレを聞いたのは初めてだといわんばかりに、腹をかかえて笑つていたからである。あれほどガミガミ言つていた悪口や毒舌がすつかり消えてなくなつたようであつた。そして、たつたいま自分を殺そうとした相手の狂信者を、激しい慈悲深そうな目で眺めていた。
「なんてことだ、きみは二十年来会つたことのないような人物だ」とラグリー氏は言つた。
「あなたはこの人を訴えるんですか?」警部は、疑うような表情で、きいた。
「訴えるなんて、もちろんとんでもない」とラグリーは言つた。「おれは、この人に酒が許されていれば、一杯おごりたいくらいだ。おれはこの人の宗教を侮辱するようなことはしなかつたよ。だからおれは神さまにお願いしたいね……あんた方のような腰抜け連中にも人を殺すだけの勇気があつたらいいんだがなあ……それもまさかあんた方の宗教を侮辱されたためじやなくてもいいのさ。だつてあんた方には宗教なんかないからな。だが何かを侮辱されたために――たとえばそのビールのためだつていいさ」
「サア、あの人がわしらをみんな腰抜けだと言つたので、平和と調和が戻つてきたようですわい」ブラウン神父はグリーンウッドに言つた。「わしはあの禁酒主義の講演者が友人の短刀で刺されたらよかつたになあと思います。こんな災難の元はあの人でしたからな」
 ブラウンが話しているうちに、室内の妙なグループはもう解散しはじめていた。出張外交員のための外交員用の部屋が片付きそうになつたので、彼らはそこへ引越した。酒場のボーイがお盆にみんなの新しいグラスをのせて、あとからはこんで行つた。ブラウン神父は立ちあがつて、カウンターの上に残つているグラスをしばらく見つめていた……すぐにわかつたのはあの不吉な前ぶれになつたミルクのグラスと、もう一つ別のウイスキーの匂いのするグラスであつた。それからふりかえつてみると、あの二人の変てこな姿をした東洋と西洋の狂信者がお別れの挨拶をしているところが、ちようどうまく見えた。ラグリーはいまだにものすごく親切だつた。マホメット教徒にはまだなんとなくやや暗い不気味なものが感じられたが、それはたぶん自然のものだつたろう。だがこの男は厳粛な威厳のある身振りで仲直りの挨拶をした。そこでどこから見てもゴタゴタはほんとにおさまつたという感じであつた。
 しかし、少なくともブラウン神父の胸の中では、喧嘩した同志のあの最後のていねいな挨拶振りを思い出してよく考えてみると、何か重大な意味がふくまれているような気がしてならなかつた。なぜかというと、妙なことに、ブラウン神父が近所の宗教上の義務をはたすために翌朝大へん早く下へ降りてきてみると、あの幻想的なアジア風の装飾をほどこした細長い酒場に夜明けのつやのない白い光がいつぱいさしこんでいて、隅々までくまなく見えた……そしてくまなく見えた物の一つは、室内の一隅に押しつぶされたように体を曲げているジョン・ラグリーの死体であつて、重い柄のついている曲つた短剣がその心臓を刺しつらぬいていたからであつた。

 ブラウン神父はまた二階へごく静かに上つて行つて、友人の警部を呼んできた。二人は、ほかにはまだ人のけはいのしないホテルの中で、死体のそばに立つた。
「われわれはあまりわかりきつた仮定をしてもいけないし、といつてそれを避けてもいけない」グリーンウッドはしばらく黙つていてから言つた。「しかし、どうも昨日の午後ぼくがあなたに言つたことを思い出してみてもいいと思います。ところで、ちよつと妙じやありませんか、ぼくがあんなことを――しかも昨日の午後言つたのは」
「なるほど」坊さんはフクロウみたいに目をみはつてうなずいた。
「ぼくが言つたのは、われわれに止められない唯一の殺人は宗教的狂信者のような者の殺人だということです。あの褐色の男は、たとえ絞首刑になつても、予言者の名誉を守つたのだからまつすぐ天国へ行けると考えているでしようね」
「もちろん、それはあります」とブラウン神父。「そりや、いわば、大へん合理的でしような、あのマホメット教徒がラグリーを刺したものとするとな。それに多少とも合理的にラグリーを刺すことのできた者となると、ほかにはまだ心当りがないとも言えましよう。したが……したがわしの考えでは……」そこでブラウンの丸い顔がふいにまたポカンとして、それきり言葉がとぎれてしまつた。
「オヤ、どうしたんですか?」
「いや、おかしな話だと思われるのはわかつています」ブラウン神父はわびしげな声で言つた。「したがわしの考えでは……わしの考えでは、或る意味で、だれが刺したとしても大して問題にはなりますまいて」
「それは新道徳ですか? それとも古い詭弁法ですかな。あなた方のようなイエズス会員はほんとうに殺人に賛成してるのですか?」
「わしはだれが殺したとしても問題になるまいとは言いませんでしたぞ。もちろんことによると突き刺した者が殺した者かもしれません。したがまつたく別の人間かもしれません。ともかく、これはまつたく別の時にやつたものです。あなたは刀の柄の指紋をしらべたいでしようが、それにはあまり重きをおかないようになさい。わしには別の人間が哀れな老人の体にこの短剣を突き刺したと思うだけの別の理由がいくつも思い当ります。もちろん、あまり高尚な理由ではありませんが、殺人とはまつたく別じや。あなたはもつと何本もナイフを突つこんでみなければなりますまい、そうすればわかるでしようけどな」
「つまりあなたは……」相手は、鋭くブラウンを見守りながら、言いかけた。
「つまり解剖じや……ほんとうの死因を見つけるためにな」
「ともかく、この刺し傷については、たしかにおつしやるとおりだ。われわれは医者を待たなければなりませんが、きつと医者もそう言いそうですな。あまり血が出ていません。この短剣は死後何時間もたつてから冷たくなつた死体に刺したものです。だが、なぜでしよう?」
「おそらくあのマホメット教徒に罪を着せるためでしよう」とブラウン神父は答えた。「たしかに、かなり卑劣ですが、こりやかならずしも殺人とは言えません。どうもここには秘密を隠そうとしている連中がいそうな気がします。そのくせかならずしも殺人犯人でもないのにな」
「ぼくはまだそこまで見当をつけていませんでした。どうしてそんな気がするんですか?」
「昨日わしらが最後にこの恐ろしい部屋にはいつてきたときわしが申しあげたことじや。わしはここなら人殺しをするのに楽だろうと申しあげた。したがわしはこういうばかげた武器のことなどはいつこう考えてもみませんでした。尤もあなたにはそう思われていたらしいが、わしの考えていたのはまつたく別のことでした」
 次ぎの数時間のあいだ警部と坊さんは徹底的にくわしく調査した……最近二十四時間中の全員の出入り……酒のくばり方……洗つてあるのも洗つてないのもふくめたグラス類……それからこの事件に関係している者も表面は関係のなさそうな者もふくめて一人々々についての一々のくわしい調べ。一人でなく、三十人も毒殺されたと思つているらしい騒ぎであつた。
 ホテルの建物は、酒場のそばの大きな入口以外のほかの出入口は全部何かしら修繕のためにふさいであつた。一人の少年がこの入口の外の階段を掃除していた。しかし別にはつきり報告するほどの種はなかつた。ターバンを巻いたトルコ人があの禁酒主義の講演者と一緒にはいつてきてみんなをびつくりさせるまでのあいだに、はいつてきたお客は大していなかつたらしかつた……ただあの出張外交員たちがいわゆる「手早い奴」をひつかけに来ただけであつた。そしてこの外交員連中は、ワーズワースの雲のように、一緒に動いていたらしかつた。外にいた少年と中にいた連中のあいだに多少意見のくい違いがあつて、外交員の中の一人が異常に手早く手早い奴を手に入れてひとりで階段に出てきはしなかつたかという問題があつた。しかし、支配人やバーテンダーは、そういう一人だけ孤立していた男の存在は、まるで記憶していなかつた。支配人とバーテンダーは外交員たちをみんなよく知つていたので、全体としての連中の動きについては疑いがなかつた。連中は酒場に立つたまま、酒を飲んだり、冗談を言つたりしていた……あの堂々とした指導者ジュークスさんのおかげで、プライス・ジョーンズ師とのあまり重大でない喧嘩に巻きこまれた……それからアクバール氏とラグリー氏とのふいに起つた大へん重大な喧嘩を目撃した。それから連中は外交員用の部屋に引越せるという知らせを聞いたので、そのとおりにした……酒はそのあとから戦利品のようにはこびこまれた。
「もうほとんど打つ手はない」とグリーンウッド警部は言つた。「もちろんおせつかいな雇人が多勢いて、いつものようにそれぞれの義務をはたして、グラスをみんなきれいに洗つてしまつたのはしかたがない……ラグリー爺さんのグラスもそうだ。もしほかのみんながこれほど能率的でなかつたら、われわれ探偵がもつと能率的にやれるかもしれないんですがねえ」
「なるほど」とブラウン神父は言つたが、その口元はまたあのゆがんだような微笑をおびていた。「どうかするとわしは悪党連中が衛生学を発明したんじやないかと思うことがありますわい。それともことによると衛生上の改革者が犯罪を発明したのかな……犯罪には、そんな風に見えるものが、いくつかあります。だれもが犯罪の栄えるのは不潔な部屋やきたない貧民窟だと言いますが、そりやまるであべこべです。そういう所が不潔だと言われるのは、犯罪がおこなわれるからでなく、犯罪が発見されるからです。犯罪がはびこるのはサッパリした、しみ一つない、きれいでキチンと片付いている所です……足跡のつく泥もない……毒の残つている飲みかすもない……親切な雇人が殺人の跡を残らず洗い流してくれる……そして殺人者が六人の妻を殺して焼きすてるのも、こりやみんなキリスト教徒の多少のごみさえ残さないためですわい。どうやらわしはあまり興奮した言い方をしたようです――したが、よろしいかな。たまたま、わしは或る一つのグラスをよく覚えています……それはたしかにあとで洗つてありましたが、わしはそれについてもつとくわしく知りたいのです」
「あなたの言われるのはラグリーのグラスですか?」
「いいや、わしの言うのはぬしの知れないグラスです。それはあのミルクのグラスのそばに置いてあつて、ウイスキーがまだ一インチか二インチはいつていました。ホレ、あなたやわしはウイスキーを飲みませんでした。わしは偶然覚えていますが、支配人はあの元気なジュークスにおごつてもらつたとき、ジンを一杯やりました。まさかあのマホメット教徒が緑色のターバンで変装したウイスキー飲みだとか、あるいはデビッド・プライス・ジョーンズ師がうつかり気がつかずにウイスキーとミルクを一緒に飲んでしまつたなどとは思えますまい」
「出張外交員たちはたいていウイスキーを飲んでいましたよ」と警部は言つた。「連中はたいていウイスキーです」
「さよう。してまた連中はたいてい受け取りそこなわないように注意します。この場合あの連中は自分たちの部屋へあとから全部を注意深くはこばせました。したが、そのグラスはあとに残つていました」
「偶然のでき事でしよう」グリーンウッドは疑わしげに言つた。「その男はあとで外交員の部屋で簡単に別のをもらえたでしようからね」
 ブラウン神父は首を振つた。「あなたは人間をありのままの姿で見なきやいけません。さてああいう種類の人たちは……いや、中にはあの連中を下品だという人もあるし、俗物だと言う人もあります。したがそりやみんな人の好き好きです。わしならよろこんで申しあげるが、あの連中はほとんど単純な人ばかりです。たいていは大へん善良な連中で、細君や坊やの所へ帰るのを大へん喜んでいます。中にはならず者がいるかもしれません。細君を何人も持つたり、あるいは細君を何人も殺した人さえいるかもしれません。したが大半は単純な人たちです。そして、よろしいかな、酔つぱらいはほんのわずかしかいないのです。大したことはありません。オクスフォードの酔つぱらいには公爵や学監がたくさんいます。したがこの連中が陽気に飲んでるときは、どうしてもいろんなことに気がつかずにはいないし、気がついたらそれを大声で言わずにはいられないのです。あなたは見ていませんでしたかな……ホンの小さなでき事でも連中はすぐ反応して口に出します。もしビールが泡を立ててこぼれれば、連中はそれと一緒に泡をとばして、『うわあ、エンマ』とか、『ありがたい仕合せだね、ええ?』とか言わなきやなりません。さてそこで、あの陽気な連中が五人外交員室のテーブルのまわりに坐つているのに、目の前に四つしかグラスが置いてなくて、五人目の男がうつちやつておかれたら、それをわめき立てずにいるということは断然ありえないことじやありませんか。おそらくみんなが一斉にわめき立てるでしよう。たしかに本人はわめき立てますわい。ほかの階級のイギリス人のように、ジッと待つていてあとで静かに一杯もらうようなわけにはいきません。『するとかわいそうなおれのはどうしたんだ?』とか、『おい、ジョージ、おれは少年禁酒隊に入隊したのか?』とか、『ジョージ、おまえはおれのターバンの緑色が見えるのか?』とかいうような文句が部屋中にひびきわたるでしような。したがバーテンダーはそんな苦情を全然聞きませんでした。あの置きざりになつていたウイスキーのグラスはまちがいなくだれかほかの者――われわれがまだ考えていないほかのだれかが飲みほしたものだと思います」
「ですがそんな人間が考えられますか?」
「あなたが唯一のほんとに独自の証拠を無視しているのは、支配人やバーテンダーがそんな人間の噂を耳に入れようとしないからです……つまりあの外で階段を掃除していた少年の証言じや。それによると外交員といつてもいいが、実は、ほかの外交員連中と一緒に行動していなかつた一人の男が中へはいつて行つて、ほとんどすぐまた外へ出てきたそうです。支配人やバーテンダーは全然その男を見ていません……つまり全然見なかつたと言つています。したがその男はともかくも酒場からウイスキーを一杯手に入れています。議論の便宜上、その男を「手早い奴」と呼ぶことにしようじやありませんか。さてご存じのとおりわしはあまりあなたの仕事には口を出しません。それはわしが自分でやつたりあるいはやつてみたかつたりする以上に、あなたのほうがうまくおやりになるにきまつているからです。わしは警察の機構を動かしたり悪党を追つかけさせたりすることにはついぞ一度も関係したことがありません。したが、生れて初めて、こんどはそうしてもらいたいのです。あなた方にその手早い奴を見つけてもらいたい……地球のはてまで手早い奴の跡をつけるために、とほうもない公けの機構を総動員して国々に網をはらせ、うまくその手早い奴をつかまえることじや。というのはその男がわしらに入用の男だからです」
 グリーンウッドは絶望的な身振りをした。「その男には手早いというほかに顔か形かそれとも何かほかに目に見える特徴がありますか?」
「そりや二重まわしのようなマントを着ていました。そして表の少年に、明日の朝までにエディンバラに着く用があると話しました。表の少年が覚えているのはそれだけです。したがあなた方の組織はそれ以下の手がかりでもずいぶん人をさがし出してるはずです」
「あなたはこの事件にひどく熱心なようですね?」警部は、やや当惑したように、言つた。
 坊さんもまた、まるで自分自身の考えに、当惑しているような顔をした……ひたいにしわをよせて坐つていたが、やがてだしぬけに言い出した――
「まつたく、人の言うことは誤解されやすいものじや。どんな人間でも大切なのです。あなたは大切です。わたしも大切です。神学では信じることが一番困難な問題です」
 警部はサッパリわけがわからずに目をみはつたが、ブラウンは話を進めた。
「われわれは神さまにとつて大切なのじや――なぜ大切かは神さまだけがご存じです。したがそれだからこそ警官の存在が正当なものとしてどうにか認められるわけです」当の警察官は自分の広大無辺の正当さを認められたのについてはいつこう呑みこめないらしかつた。「おわかりにならんかな、法律がほんとに正しいのは、つまり、或る意味においてだけじや。もしすべての人間が大切だとすれば、すべての殺人犯人も大切です。わしらは、神さまの手でこれほど神秘的に作り出されたものが神秘的に破壊されるままにしておくわけにはいきません。したが……」
 ブラウンは最後の言葉を、新しい決断の一歩を進めるように、鋭く言つた。
「したが、一度わしがその神秘的な平等の水準を踏みはずしたら最後、あなた方の重要な殺人の大半が特別に重要だというわけがわからなくなります。あなた方はこの事件とあの事件が重要だということをいつもわしに話してくださる。世の中の平凡で実際的な人間として、わしは、そういう場合、殺されたのが総理大臣だと気がつかねばなりません。したが世の中の平凡で実際的な人間として、わしは総理大臣がそれほど大切だとは思いませんのじや。単に人間性の重大さからいえば、わしには総理大臣などはまるきり存在しないも同じだと言わねばなりません。どうでしよう……もし総理大臣やその他の公人が明日でも射殺されたら、いろんな連中が起立して、大通りはどこもかも探索中だとか、政府は問題をごく厳粛に考慮中であるとか言い出しはしないでしようか? 現代の世界の名士連中は大切ではありません。ほんとうの名士でさえ大して大切ではありません。新聞に名前の出る連中はだれにしてもちつとも大切ではありませんのじや」
 ブラウンは立ちあがつて、テーブルを小さくコツンと叩いた。この人にしては珍らしいしぐさだつた。そしてまた声が変つた。
「したがラグリーは大切な人でした。あの人は、イギリスを救つたかもしれない少数の人たちと同じに、偉大な人でした。この人たちは、ただもう商業的に崩壊したこの泥沼に行きあたるだけのあの平坦な下り坂に、かえりみる人のない道しるべのように目立たない姿で、しつかり立ちふさがつていてくれるのです。司祭長スイフトやジョンソン博士やウイリアム・コベット(十九世紀初めの英国ジャーナリスト政治家)などがそれで、みんな例外なく気むずかしいとか野蛮だとか言われながら、友人からはみんな愛されていましたし、またそれにふさわしい人たちでした。あの老人が、ライオンのような気性を持ちながら、さすがに闘士にふさわしい態度で立ちあがつて敵を許したようすを、あなたはごらんになりませんでしたか? あの人はまつたくあのおべつかの禁酒講演者が話したとおりのことをみごとにやつてのけました……わしらキリスト教徒のお手本になつて、キリスト教の見本を見せたのですからな。そしてああいう人がいまわしい秘密の手で殺されたとなると――これこそ大切な問題ですから、いやしくも身分のある者なら現代の警察機構を使つてもいいじやありませんか……いいや、こりやすみません。ですから、或る意味でこんど初めて、わしはほんとにあなた方を使つてみたいのです」
 そこで、この不思議な数日数夜のあいだ、ブラウン神父の小がらな姿が国王の警察力の全隊と全機関を目前に行動させていたありさまは、さながらナポレオンの小がらな姿がヨーロッパ全土をおおう広大な戦術によつて砲兵隊と戦線を動かしていた姿に似ていたと言えそうであつた。警察署や郵便局は一晩中活躍した……交通が止められ、通信文が開封され、各所で尋問がくりかえされたのは、顔も名前もわからない、二重まわしのマントとエディンバラ行の切符を持つた、幽霊のような人物の飛んだ足跡を見つけるためであつた。
 このあいだ、むろん、ほかの調査の筋もなおざりにされてはいなかつた。死後検証のくわしい報告はまだ来ていなかつたが、毒殺だということはまちがいないらしかつた。こうなると当然あのチェリーブランデーにそもそもの疑いがかかつた。そしてこれがまた当然ホテルにそもそもの疑いがかかる元になつた。
「まずおそらくはあのホテルの支配人だ」とグリーンウッドは不きげんに言つた。「あの男はいやらしい虫けらみたいな感じがします。もちろん多少は雇人のだれかと関係があるかもしれません。たとえばあのバーテンです……どうやらふくれつつらの見本みたいな男ですから、ラグリーのようなカッとなる性質ではいくらか罵倒したことがあるかもしれません。尤もラグリーは怒つたあとではたいていごく太つ腹になるんですがね。しかし、けつきよくいま申しあげたとおり、そもそもの責任は――したがつてそもそもの疑いは、支配人に帰するわけです」
「ああ、そもそもの疑いが支配人にかかることはわかつていました」とブラウン神父は言つた。「それだからわしはあの男を疑わなかつたのです。よろしいかな、どうもわしの考えでは、そもそもの疑いが支配人かホテルの雇人にかかりそうだということをだれかほかに知つていた者があるに違いありません。それだからわしはこのホテルで人を殺すのは楽だと言いましたのじや……したがあなたは支配人にすつかり泥をはかせに行くほうがいいでしよう」
 警部は出かけたが、驚くほど短かい会見をすませて、また帰つてきた。すると友達の坊さんはジョン・ラグリーの嵐のような経歴の記録らしい書類をひつくりかえしているところだつた。
「こいつは変てこな話です」と警部は言つた。「ぼくはあのぬらくらしたひきがえる野郎を尋問するのには何時間もかかると思つていました。だつてあいつに不利な証拠は法律的には何一つ手にはいつていないんですからね。ところがそれどころか、奴はいつぺんに参つてしまつて、たしかにまつたくの恐怖のあまり、自分の知つてることをすつかり打ち明けたように思うんです」
「なるほど」とブラウン神父。「そのとおりに、あの男は参つてしまつたのですわい……明らかに自分のホテルの中で毒殺されたラグリーの死体を見つけたときもな。それだから逆上して、あのトルコ人に罪を着せるために、トルコの短剣で死体に飾りをつけるような気のきかないまねをしたのです……そう言いませんでしたかな。あの男は臆病だというだけで別に大して問題はありません。あれは生きた人間にほんとうに短剣を突つこむようなことはおよそできそうもない男です。きつと死んだ人間に短剣を突つこんで元気をつけなければならなかつたのでしよう。したがあれは、自分がやりもしない罪で訴えられるのをこわがつて、あのとおりばかな真似をする点では、いかにもそうらしい男です」
「あのバーテンにも会わなければならないでしようね」
「まあそうでしよう。わし自身はホテルの人間が犯人だとは思いません――いや、こいつはあれがホテルの人間に違いないように見せかけてあつたからですわい……したが、ホレ、あなたはラグリーについての報告を集めたこの書類をごらんになりましたか? ずいぶん興味の深い一生を送つた人です。わしはだれかあの人の伝説を書く人がありやすまいかと思うくらいです」
「ぼくはこの事件に関係のありそうな事は全部ノートを取つておきました」と警部は答えた。「ラグリーは男やもめでした。しかし昔自分の細君のことで或る男と激しい口論をしたことがありました……当時この辺の土地を管理していた或るスコットランド人が相手で、ラグリーはかなり猛烈に怒つたようです。スコットランド人が大きらいだつたそうですからたぶんそれが原因だつたのでしよう……ああ、あなたが何をニヤニヤ笑つておいでになるのかわかりますよ。或るスコットランド人……たぶんエディンバラの男でしよう」
「たぶんな」とブラウン神父。「尤も、個人的な理由は別にしても、ラグリーがスコットランド人をきらつたのは、まつたくありそうなことですわい。妙な話ですが、あの保守系の急進派とでも言うのか、ともかくあの自由党の重商主義運動に反対した仲間は、みんなスコットランド人をきらつていました。コベットがそうでした。ジョンソン博士がそうでした。スイフトは一番猛烈な文章の一節にスコットランドなまりをくわしく書き立てました。シエクスピアでさえその偏見を非難されたことがあります。したが偉大な人たちの偏見はたいてい何か主義と関係があります。そこで何か理由があつたのでしような。スコットランド人は貧しい農地に生れましたが、それがいつか豊かな工業地になりました。スコットランド人は有能で活動的でした……自分が北部から工業文明を持つてきたのだと思いました……幾世紀も前から南部に田園の文明があつたことを知らなかつただけです。自分のお祖父さんたちの土地はひどく田園的だつたが、文明化していなかつたのです……オヤオヤ、わしらはもう少しニュースを待たなきやならないようでしような」
「どうもシエクスピアやジョンソン博士から最近のニュースは得られそうもありませんよ」と警部はニヤリと笑つた。「シエクスピアがスコットランド人をどう考えたかということはかならずしも証拠にはなりません」
 ブラウン神父は、まるで新しい考えに驚かされたように、眉をそばだてた。「オヤッ、そう考えてくると、シエクスピアからでも、もつといい証拠があるかもしれませんぞ。シエクスピアはあまりスコットランド人のことを書いていません。したがウエールズ人をからかうのはかなり好きでしたわい」
 警部は友人の顔をさぐるように見ていた。というのはそのまじめくさつた表情の影に抜け目のない機敏さがひそんでいるような気がしたからであつた。
「まつたくだ」と警部。「ともかく、あんな風にして疑いをそらすなんてことはだれも考えていませんでした」
「ところで」とブラウン神父はおうようにおちついて言つた……「あなたは話の最初に狂信者を持ち出しましたな……狂信者ならどんなことでもやりかねないというお話でした。なるほど、わしらは、昨日この酒場の部屋で、現代の世の中で一番大きな、一番大声の、一番頭の悪い狂信者を歓待する名誉を得たようです。もしもたつた一つの考えにこりかたまつたばか強情のアホウになることが殺人の方法だとすれば、わしは、アジアのあらゆる行者僧よりも、むしろあの禁酒主義者であり、わしの尊敬すべきお仲間であるプライス・ジョーンズ師を要求します……それに、さつき申しあげたとおり、あの男のゾットするようなミルクのグラスが例の神秘的なウイスキーのグラスとならんでカウンターの上に置いてあつたことはまつたくの事実です」
「あれが殺人と関係があるというお考えですね」グリーンウッドは目をみはつて言つた。「どうでしよう、ぼくにはあなたがほんとうにまじめなのかどうかわからないんです」
 ちようど警部が友人の顔をジッと見て、なんとも不可解な表情がうかんでいるのを見つけたときに、電話が酒場のうしろでけたたましく鳴つた。カウンターの垂れ板を持ちあげると、グリーンウッドは足早に中へはいつて受話器をはずし、ちよつと耳をすましていたが、一声叫び声をあげた……電話の相手にではなく、広い世界に呼びかける声であつた。それからいつそう注意深く耳をすましながら、合間々々に爆発的に言つていた……「ウン、ウン……すぐ来てくれ。できればそいつを連れてこい……うまくやつたぞ……おめでとう」
 それからグリーンウッド警部は、若返つた男のように、酒場の外のホールに帰つてくると、堂々と椅子に腰をおろし、両手を膝にのせて、友人の顔を見つめてから言つた――
「ブラウン神父、どうしてあなたにわかつていたのか、ぼくにはわかりません。あなたは、だれもがあんな男がいるとは知らないうちに、奴が犯人だということを知つておいでになつていたようですね。なんでもない存在でした。ほんのわずか証言を混乱させただけでした。ホテル内の者はだれひとり奴を見ませんでした。階段にいた少年だつて奴がそうだとはほとんど証言できないでしよう。一つだけ余分のよごれたグラスが土台になつて、わずかに疑問のかげを投げただけの存在でした。しかしわれわれは奴をつかまえましたし、奴はわれわれに入用な男です」
 ブラウン神父は危機を感じて立ちあがつていた……ラグリー氏の伝記作者には大へん貴重なものになるはずの書類を機械的につかんだまま、警部を見つめながら立つていた。たぶんこの身振りが警部に新しく確信を起させたらしかつた。
「ええ、ええ、われわれは例の手早い奴をつかまえました。そしてまつたく奴は、逃げるのにも、つばめのような早業でした。われわれはやつと引き止めただけです。オークニーへ釣りに行くところだと、言つていました。しかし奴が本人であることは、大丈夫です……スコットランド人の土地管理人で、ラグリーの細君にほれていた男です。この酒場でスコッチウイスキーを飲んで、それからエディンバラ行きの汽車に乗つた男です。でもあなたがおいでにならなかつたら、だれにもわからなかつたところです」
「いや、わしの申しあげたのは」とブラウン神父は、かなりめんくらつたように、言いかけた。そのとたんにホテルの表に重い車のガタガタゴロゴロという音がした。そして二三の警官がドヤドヤと酒場にはいつてきた。その中の一人が、警部にまねかれて、ゆつたりと腰をおろした……うれしそうでもあり疲れきつてもいるようなかつこうであつた。そしてこの男もまたブラウン神父を賛美の目で眺めた。
「殺人犯人をつかまえました、警部、ええそうです」と警官は言つた。「奴が殺人犯人なのはわかつてます……だつてあぶなくわたしを殺しかけましたからね。わたしはいままでにも何度か手ごわい奴をつかまえたことがありますが、こんな奴は初めてです――馬が蹴とばすようにわたしの胃をなぐりつけた上に、五人がかりだつたのにあぶなく逃げられるところでした。いやあ、あなたはこんどこそほんとの人殺しをつかまえましたよ、警部」
「どこにいますかな?」とブラウン神父は、目をみはつたまま、尋ねた。
「表の護送車の中に手錠をかけてあります」と警官は答えた。「だけどあすこへうつちやつとくほうがいいでしよう――いまのところは」
 ブラウン神父はなんだか元気がなくなつたらしく椅子に深く沈みこんだ。神経質に手につかんでいた書類が綿雪のようにバラバラとあたりの床にちらばつた。顔だけでなく体中が空気の抜けた風船のような感じだつた。
「ああ……ああ」ブラウンはそれから先きの悪態を口に出しては不当だと思つたらしく、それだけを二度くりかえした。
「ああ……わしはまたこんなことをしてしまつた」
「もしあなたのおつしやるのがまたあの悪党をつかまえたという意味でしたら」とグリーンウッドが言いかけた。しかしブラウンは、ソーダ水が吹き出すときのような弱々しい爆発的発言で相手の言葉をさえぎつた。
「つまり、いつもこんなことになるという意味ですわい。そしてほんとに、わしにはなぜだかわかりません。わしはいつでも自分の考えてることを言おうとします。したがほかの人がみんな、わしの言うことをいろんな風に考えるのです」
「ではいつたいどうだというんですか?」グリーンウッドはふいにカッとなつて大声を出した。
「なるほど、わしはいろんなことを言います」ブラウン神父は弱々しい声で言つたが、その実案外しつかりした口調であつた。「わしはいろんなことを言いますが、みんなはその言葉以上にいろんな意味があるように受け取るらしいのです。一度わしは鏡が割れているのを見て、『何かがあつたのだ』と言つたことがあります。するとみんなは、『そうです、そうです、まつたくおつしやるとおりに、二人の男が格闘して一人が庭へ逃げこみました』などと返事するのです。(「ブラウン神父の秘密」中「法官邸の鏡」参照)わしにはそれがわかりませんのじや……『何かがあつた』ということと『二人の男が格闘した』ということとは、わしにはまるきり違つたことのような気がします。したが、どうやらわしの習つたのは昔の論理学だつたのでしようかな。ところでこの場合がそれと似ています。あなた方はこの男が殺人犯人だとすつかり思いこんでいるようです。したがわしは奴が殺人犯人だとは一度も言いませんでした。わしが言つたのは、その男はわしらに入用の男だということでした。そうなのです。わしはその男に大へん用があるのです。ひどく用があるのです。このゾッとするような事件全体の中でわしらがまだ手に入れてない唯一のものとしてその男に用があるのです――証人としてじや!」
 みんなは一斉に目をみはつたが、問題が急に新しく転回したのに追いつこうとするように、顔をしかめていた。そこで問題をまた論じはじめたのはブラウンであつた。
「わしはあの人けのない大きな広間の酒場にはいつた最初の瞬間から、こういう問題で大切なのは人けのないということだと気がつきました……孤独……だれでもひとりつきりになれるチャンスがいくらでもありました……。一口に言えば、目撃者がいないからです。わしらが気がついたのは、はいつて行つたとき、支配人やバーテンダーが酒場にいなかつたということだけでした。したがあの連中はいつ酒場にはいつてきたのでしようか? だれがどこにいたという時間表のような物が作れる見込みがありますかな? 全体が目撃者がとぼしいためにブランクでした。どうもわしの考えでは、わしらがはいつて行くすぐ前に、バーテンダーかだれかが酒場にいたような気がします。そうすれば、それであのスコットランド人はスコッチウイスキーを手に入れたわけです。わしらが来てからでないことはたしかです。したがホテル内のだれかがきのどくなラグリーさんのチェリーブランデーに毒を入れたものと決めて調査しはじめるわけにはいきません……その前に、だれがいつ酒場にいたかを、ほんとうにたしかめておく必要があります。サアそこで、こりやまあおそらくすべてわしの失策でしたが、こんなばかげたヘマはともかくとして、もう一つあなたにお願いしたいのです。この事件に関係のある人をみんな集めてください――あのアジヤ人がアジヤに帰らないとすれば、みんなまだ利用できるでしよう――それからそのきのどくなスコットランド人の手錠をはずして、ここへ連れてきて、だれがウイスキーを出してくれたか……だれが酒場にいたか……そのほかにだれがあの部屋にいたか……などということを話させてください。あの男は、ちようど犯罪が実行された時間をうめるだけの証言ができる、唯一の男です。あの男の言葉を疑う理由は少しもないと思います」
「だけど、どうでしよう」とグリーンウッド。「こうなるとすつかりホテルの連中に逆戻りです。でもあなたは支配人が犯人でないことには同意されたようでしたがね。バーテンかなんかですか?」
「わしにはわかりませんのじや」坊さんはポカンとして言つた。「支配人のことにしてもたしかにはわかりません。バーテンダーについては何もわかりません。どうもあの支配人は、殺人犯人ではないとしても、いくらか共犯の疑いがありそうです。したがわしには、何か見たかもしれない目撃者が地上にたつた一人いることがわかつています。だからこそわしはあなた方警察の探偵に地球のはてまでその男の跡を追つてもらつたわけですわい」
 その神秘的なスコットランド人がこうして集まつた一座の前に最後に現われたときは、たしかに恐ろしい姿であつた……背が高く、無かつこうに大またに歩きながら、せせら笑つているような面長のやせこけた顔をして、赤毛をボウボウとさせていた。そして二重まわしのマントだけでなく、スコットランド風の帽子までかぶつていた。この男がやや毒々しい態度をしていたのはなるほど無理もなかつたろう。しかしこの男が暴力をふるつてでも捕縛に抵抗しそうな人間だということは、だれにでもすぐ感じられた。ラグリーのような闘士となぐり合いをはじめても驚くことはなかつた。警察が、単に捕縛の時の状況だけで、こいつは手ごわい典型的な殺人者だと思いこんでしまつたのも驚くことはなかつた。しかしこの男は、アバディーン州のなかなか立派な農家でジェームズ・グラントという名前だと主張した。そしてともかくブラウン神父だけでなく、経験に富んだ頭のいいグリーンウッド警部はまもなく悟つた……このスコットランド人があばれたのは犯人だつたからでなく、むしろ無実の罪にカッとしたからであつた。
「そこでわれわれがあなたからお聞きしたいのはね、グラントさん」警部は、それ以上ゴタゴタ言わずに急にていねいな口調になつて、厳粛に言つた……「或る大へん重大な事実についてのあなたの証言だけです。あなたが誤解のために苦しまれたことは大いに遺憾ですが、きつとあなたは正義の目的に奉仕してくださると思います、たしかあなたはこの酒場が開いた直後、五時半にはいつてきて、ウイスキーを一杯注文しましたね。その時酒場にいたのは、バーテンか支配人か、それともほかの雇人か、そこがわれわれにはつきりしないんです。この部屋の中を見まわしてください……あなたにウイスキーを出した男がここにいるかどうか教えていただけませんか?」
「ヤア、いますよ」グラント氏はするどい視線で一同をなでまわしてから冷たい微笑をうかべて、言つた。「あいつはどこにいたつてわかります。あんた方だつてあいつが大男ですぐ目につくことは同感でしよう。イングランドじや宿屋の雇人はみんなあの男みたいにデッカイのばかりですか?」
 警部の目が一心にジッとそそがれた。声は無表情でとぎれなかつた。ブラウン神父の顔はポカンとしていた。しかしほかの連中の顔には雲がかかつていた。バーテンダーは別に大きくもないし、ちつとも堂々としていなかつた。そして支配人は決定的に小男だつた。
「われわれはバーテンダーを見わけてもらうだけでいいんです」と警部は静かに言つた。「もちろんわれわれにはわかつていますが、それとは別に、それをあなたに証明していただきたいんです。つまりあなたの言うのは……?」そこで警部はふいに話を切つた。
「いやあ、ホレすぐわかるじやありませんか」スコットランド人はウンザリしたように言つて、指さしをした。するとその身ぶりと同時に、出張外交員の第一人者、大男のジュークスがラッパを吹く象のように立ちあがつた……アッと思う間に三人の警官が野獣にかかつて行く猟犬のように彼に飛びかかつた。
「いや、あれはみなごく簡単でした」ブラウン神父はあとで警部に言つた。「先日も申しあげたとおり、あの人けのない酒場にはいつたとたんにわしが最初に思いついたのは、もしバーテンダーがあんなに無用心にバーをうつちやりつぱなしにしておいたら、あなたでもわたしでもあるいは他のだれでもが垂れ戸を上げてバーの中にはいりこんで、お客のために用意してあるびんの中に毒を入れるのは何の苦もないということでした。もちろん実際的な毒殺者は、ジュークス[#「ジュークス」は底本では「ジェークス」]がしたとおりに、毒のはいつたびんをふつうのびんとすり替える手段を使いましよう……それならアッという間にできますわい。ジュークスは酒の出張販売をしていたのですから、同じマークのチェリーブランデーを用意して持ち歩くのはなんでもないことでした。もちろん、それには、一つの条件が必要です。したがそれはかなり平凡な条件です。多勢の人が飲むビールやウイスキーに毒を入れるのではうまくありません……それでは大量殺人になつてしまいます。したが或る男がたつた一つ特別な物――チェリーブランデーのような物しか飲まないということがよくわかつていれば、これは一般には飲まれない酒だけに、相手の家の中で毒殺するようなものです。おまけにこのほうがずつと安全な考えです。というのは実際にすべての容疑は、そのとたんにホテルか、またはホテルに関係のあるだれかにふりかかります。そしてバーにはいつてくる無数の客の中のだれかがやつたとわかるようなはつきりした証拠は絶対にありません……たとえお客にやれると悟られたとしてもですよ。これはおよそ人間のおかす人殺しの中では、絶対に名前の出ない、責任のない殺人でした」
「しかしなぜ犯人はこんなことをしたんですか?」
 ブラウン神父は立ちあがつて、さつき取り乱した瞬間にまき散らした書類を厳粛にひろい集めた。
「やがて世に出るはずの故ジョン・ラグリー氏の伝記と書簡の材料に、もう一度注意を向けていただきましようか?」ブラウンはニッコリして言つた。「それとも、その点については、ラグリー氏自身が言つた言葉に注意を向けていただきましようか? あの人は現にこの酒場で、おれはホテルの経営についての醜聞をあばいてやるぞ、と言いました。その醜聞というのはかなりありふれたもので、ホテルの経営者と出張販売人が腐敗した協定を結んで秘密の手数料をやりとりしていたのです。それで販売人はここの酒を全部独占していました……これは人を束縛して使うありきたりの商売のような公然とした奴隷制度にもまさる悪事です。支配人が奉仕しなければならないお客の費用を食うサギでしたからな。法律上の罪でした。そこで頭のはたらくジュークスは、酒場がからつぽになつた最初の機会を利用して、中へはいりこんでびんを取り替えました。運悪くちようどその瞬間に、二重まわしのマントを着たスコットランド人がはいつてきて、ウイスキーをくれと荒つぽいけんまくで言いました。ジュークスはバーテンダーのふりをしてお客にサービスするよりのがれようがないと見てとりました。そのお客が手早い奴だつたので、ジュークスは大いにホッとしたのです」
「どうもあなた自身がかなり手早い男のようですね」とグリーンウッドは批評した。「だつてあなたは人けのない部屋の空気にふれただけで、すぐ最初から何かをかぎつけたと言われるんですからね。あなたは最初からジュークスを多少とも疑つていたんですか?」
「フム、ともかくあの男はかなり金持らしい口調でした」とブラウン神父はあいまいな返事をした。「あなたは人が金持らしい声を出すのはどんな時かご存じでしよう。だからわしは、あの正直な連中がみんなかなり貧しいらしいのに、なぜこの男だけこんなにうんざりするような金持らしい声を出すのかなと、なんとなく考えてみました。したがわしはあの大きなキラキラ光るネクタイピンを見たとき、この男はインチキだなとわかつたのです」
「つまりあのネクタイピンがインチキだつたからですね?」とグリーンウッドは疑わしげにきいた。
「いやいや、本物だつたからですわい」とブラウン神父は言つた。





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字2、1-13-22) 手早い奴」となっています。
※誤植を疑った「ジェークス」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:時雨
校正:sogo
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード