とけない問題

THE INSOLUBLE PROBLEM

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 この変てこな事件――ブラウン神父が出合つた多くの事件の中でも或る意味で一番変てこな事件が起つたのは、たまたま例のフランス人の友達フランボウが犯罪商売から隠退して、犯罪調査者の商売を大元気で盛大に開業していたときであつた。偶然またフランボウは、泥棒としても泥棒捕獲者としても、どちらかといえば宝石泥棒を専門にしていて、この問題については、宝石の鑑定およびそれと同様に実際的な宝石泥棒の鑑定という点で、双方ともエクスパートだと認められていた。そこでこの物語がはじまる特別の日の朝、フランボウが友達の坊さんに電話をかけたのは、この問題についての彼の特殊な知識と、それだからこそ依頼を受けた特殊な任務に関係することであつた。
 ブラウン神父は、たとえ電話にしても、昔の友達の声を聞いたので大喜びだつた。しかしふつうは、そして特にその特別の瞬間は、ブラウン神父は電話にウンザリしきつていた。彼は相手の顔をよく見て親しい気分で話すほうが好きであつたし、それにそういう風にしないで言葉のやりとりだけでは、特にまつたく未知の相手の場合などは、大へん誤解を生じやすいことをよく知つていた。ところが、その特別の朝にかぎつて、まつたく未知の連中が群をなしてなんだかわけのわからない言葉のやりとりを耳元でワンワンわめき立てていたようであつた……電話は悪魔にとりつかれたようにつまらない事ばかりならべ立てた。たぶん一番はつきりしていた声は、ブラウンの教会に掲示してある正規の料金を支払うから殺人と泥棒の正規の免許状を出してもらえまいかと頼んできた声であつた。この未知の相手は、そんなわけにはいかないと言われると、うつろな笑い声をあげて話を打ち切つたところをみると、やはり納得が行かなかつたものと思われる。それから、取り乱してかなりしどろもどろの女の声が電話をかけてきて、某ホテルへすぐ来ていただきたいと、懇願した……ブラウンも聞いたことのある宿屋で、隣接の大寺院のある町へ行く途中四十五マイルほどの所にあつた……その依頼があつてから、すぐまた続いて同じ声が、いつそう取り乱してしかもいつそうしどろもどろに、もうどうでもよくなりましたからおいでにならないでくださいと、矛盾したことを言つた。それから合いの手に或る通信社が、某映画女優が男性の口ひげについて話したことについて何かご意見はありませんかと質問してきた。そして最後にしかも三度目の電話が例のホテルにいる取り乱したしどろもどろの婦人からかかつてきて、けつきよく来ていただきたいと、言うのであつた。ブラウンはぼんやり想像した……これはだれかのさしずのままにぼんやり考えを変えている場合にありがちのためらつたりあわてたりしている証拠であつた。しかしこの連続電話の結末をつけるようにフランボウの声が、これからすぐ朝飯の席に押しかけるからと、元気よく高圧的に言つてきたときは、正直のところかなりホッとした。
 ブラウン神父は気持よくパイプをふかしながら友達と話し合つているほうがよつぽどよかつた。しかしすぐわかつたように、せつかく訪ねてきたフランボウは元気いつぱいに出撃するところで、自分の重大な遠征にあわれな坊さんを捕虜にしてぜひとも連れ出そうという意気ごみらしかつた。或る特別な事情がからんでいて、ぜひ坊さんに注意してもらいたいのは事実であつた。フランボウは最近何度も有名な宝石が盗まれるのをうまく防いで名を挙げていた……電光のように庭を駆け出した悪漢の手からダリッジ公爵夫人の頭飾りをもぎとつたことがあつた。有名なサファイアの首飾りをさらおうと計画した悪党を大へん巧妙なわなにかけて、当の泥棒芸術家が、自分で代用品として置いてくるつもりでいた模造品を実際につかんで行つたこともあつた。
 たしかにこういう理由からフランボウは特別な依頼を受けて、いままでとはかなり違つた種類の宝物の引き渡しを護衛することになつた……たぶんただの材料だけでもいままでにない貴重な物であつたろうが、その上に別の意味でも貴重な物であつた。殉教者聖ドロシーの遺物を収めてあるといわれる、世界でも有名な聖物箱が、大寺院のある町のカトリック修道院に引き渡されることになつていた……そして国際的な宝石泥棒の中でも一番有名な仲間の一人がそれに目をつけているらしかつた……むしろ、あるいはその純粋の聖徒列伝学上の重要さよりも、そこにはめこんである金とルビーに目をつけたのであろう。たぶんここから連想して、なんとなくフランボウは、この冒険にはブラウンに同行してもらうのが特に適当だと、思いついたのであろう。しかしともかく、彼はブラウンの所へ押しかけてくると、火のような抱負に燃えながら、盗難予防の計画を雄弁にしやべりまくつた。
 実際フランボウは、肩で風を切つていた昔の近衛兵そつくりの態度で、巨人のように坊さんの炉前に立ちはだかつて、例の大きな口ひげをひねくりまわした。
「あなたがほつとけるものですか」フランボウは、キャスターベリへの六十マイルの道中に言及しながら、大声を出した。「あなたがほつとけるものですか……こんな不敬な盗難があなたの鼻の先きで起ろうとしてるんですよ」
 聖物が修道院に着くのは夕方までかかるはずであつた。そこでそれを守護する者もそれより早く行つている必要はなかつた。というのは実際昼間の大部分は自動車道中にかかりそうだつたからである。その上また、ブラウン神父は、途中に或る宿屋があつて、つごうのつきしだい来てくれとさつき頼まれたから、そこで昼の食事を取りたいと、なにげなく言つていた。
 二人が車を走らせて行くにつれて、森はしだいに濃くなり人家はまばらになつてきた……あたりの景色には宿屋やその他の建物がだんだんとぼしくなつてくるようであつた……日光が昼日中だというのに荒れ模様の薄暗さになりかけた……濃い紫色の雲が濃い灰色の森の上にむらがつてきた。こういう薄明りの無気味な静けさの中ではよく見られるように、あたりの風景の中にある色はどんな色でも、明るい陽光の下では見られない、ひそかな輝きを見せていた……ギザギザの真赤な葉や金色やオレンジ色の茸がそれぞれの暗い火を燃やしているようだつた。こういう薄明りの下を二人は、灰色の壁に開いた大きな割れ目のように、森の木立がとぎれている所に出た。するとその向こうに、割れ目の上に立つている、緑龍亭という看板の見える、背の高い、かなり風変りな宿屋が見えた。
 昔なじみの二人は宿屋やそのほかの人家に同行して、そこでかなり異様な物に出合つたこともたびたびであつた。しかし異様な兆候がこれほど早く姿を見せたことはめつたになかつた。というのは、車が細高い建物の濃い緑色のよろい戸によくマッチした濃い緑色のドアからまだ数百ヤード離れているうちに、ドアが猛烈な勢いでサッと開いて、モジャモジャの赤毛の女が、まるで疾走中の自動車に食事を出そうとするようなかつこうで、二人を迎えに突進してきたからであつた。フランボウは車をピタリと止めたが、まだろくに止めきらないうちに、女は血の気のない悲壮な顔を窓から突つこんで、どなつていた――
「あなたがブラウン神父ですか?」それからほとんど息もつかずに――「この人はだれですか?」
「この人はフランボウといいます」ブラウン神父はおちついた態度で言つた。「わしへのご用というのは何でしようかな?」
「中へはいつてください」女はいくらこの場合にしても並はずれた荒つぽい口調で言つた。「人殺しがあつたんです」
 二人は無言のまま車から出て、女のあとについて濃い緑色のドアまで行つた。ドアの内部には、葡萄や蔦のからんだくいと木の柱でかこまれた濃い緑色の細道があつて、葡萄や蔦は黒や赤やいろんな地味な色の角張つた葉を見せていた。この細道からもう一度中のドアを通り抜けると、大きな休憩室のような所へ出た……騎士の武器のさびついた戦利品がかけならべてあつたが、室内の家具は古びていて、その上物置部屋の中のように、すべてが乱雑になつているらしかつた。二人はその瞬間すつかりドキンとさせられた……というのは、まるで一本の大きな材木が立ちあがつて二人のほうへ動いてくるような気がしたからであつた。永久に不動の状態でいるようだつた態度をこうして捨ててしまつた男は、それほどほこりだらけでみすぼらしくぶかつこうであつた。
 妙なことに、その男は一たび動き出すと、敏活だがなんとなく上品な感じだつた……尤もそれは上品な脚立か柔順なタオルかけのつぎ目の動きを連想させた。フランボウもブラウン神父も、いままで見かけた相手の中で、これほど見当のつきにくい男はないという気がした。いわゆる紳士ではなかつた……そのくせなんとなく身なりにかまわない学者らしく洗練された所があつた。なんとなくかすかにいやらしい、つまりおちぶれた男のような所があつた……そのくせ感じからいうと、放浪的なボヘミアンというよりむしろ本の虫だつた。痩せた男で青白い顔をしていた……とがつた鼻と、とがつた黒い顎ひげが目についた。額は禿げあがつていたが、うしろの髪の毛は長くてまつすぐで糸のようだつた。目の表情は青い眼鏡でほとんどすつかり隠れていた。ブラウン神父は、ずつと前に、どこかでこういう男に会つたことがあるような気がした……が、いまははつきり思い出せなかつた。男が腰かけているまわりのガラクタは大部分文学的のガラクタであつた……特に十七世紀の小冊子の束であつた。
「つまりあなたはここに人殺しがあるとおつしやるのですか?」とフランボウが厳粛にきいた。
 婦人は赤いクシャクシャの頭でかなりもどかしそうにうなずいた。この燃えるような妖精めいたもつれ髪以外は、さつきの気違いめいたようすがいくらかおちついていた。彼女の黒つぽい服はたしかにさつぱりした品のいいものであつた。しつかりした美しい顔立ちであつた。そしてなんとなく心身共にしつかりしているように思わせる所があつた……これは、特にこの青眼鏡の男のような連中と比較すると、女性を力強く感じさせるものである。しかしながら、なんとなく異様なはでな言葉遣いを織りまぜながら、唯一の筋道の通つた答えをしたのはその男であつた。
「実はこの不幸な兄嫁はついさつきひどくゾッとするようなショックを受けたばかりです……われわれはこの人にはそんな思いをさせたくなかつたんですがねえ。わたしが自分で発見して、恐ろしいニュースを知らせるなおさら辛い思いをがまんしさえすればよかつたと思いますよ。運悪くこのフラッド夫人が、長いあいだ病気でホテルに寝たつきりだつた老祖父がほんとに庭で死んでいるのを見つけたのです……周囲の情況はまつたく明らかに暴力による襲撃を指摘しています。妙な情況……実は大へん妙な情況だと言うべきでしようかな」そう言うと男は、まるでそんな情況ですまないとあやまるかのように、かすかにせきをした。
 フランボウは婦人にえしやくをして、心からの同情を表した。それから男に言つた――「たしかあなたはフラッド夫人の義弟だと言われたようですな」
「わたしは医学博士オスカー・フラッドです。この夫人の夫にあたるわたしの兄は目下大陸に出張中で、夫人がホテルを経営しています。夫人の祖父は半身不随で、大へん高齢でした。自分の寝室から出たことは絶対にありませんでした。ですからほんとにこういうとんでもない情況が……」
「あなたは医者や警察をお呼びになりましたか?」とフランボウがきいた。
「ええ」とフラッド博士は答えた。「恐ろしい発見をしてから電話をかけましたが、ここへ来るまでには二三時間かかるでしよう。この宿は大へんへんぴな所にあります。キャスターベリか、まだその先きまで行く人が泊まるだけです。ですからわれわれはとりあえずあなたの貴重な援助をお願いしようと思いまして……」
「もしわしらが何か援助できるのでしたら、すぐ情況を見に行つたほうがいいでしような」ブラウン神父は、無作法なほどボンヤリした態度で口を出して、言つた。
 ブラウンはほとんど機械的にドアのほうへ足をはこんだ。すると肩で押しのけるようにはいつてきた男にぶつかりそうになつた……大がらの、どつしりした若者で、黒い髪はクシャクシャでブラシもかけてなかつた……それにしてもこの男は片目にちよつとした故障がなかつたらかなりの美男子であつたろうが、その目のために見たところかなり不気味であつた。
「いつたいあんた方は何をしてるんですか?」男はだしぬけに口を出した。「どこの馬の骨ともわからない連中に話してきかせたりして――せめて警察が来るまで待たなきやいけないでしように」
「警察にはわたしが責任を持つ」フランボウがはつきり堂々とした口調で言つて、急に万事の指揮を取る態度になつた。彼が戸口へ進んで行くと、なにしろ大男の若者よりずつと大きいし、口ひげがスペイン牛の角みたいにすさまじいものだつたので、大男の若者はあとずさりして、がらになく投げとばされて置きざりにでもされたようなかつこうになつた……その間に一同は悠々と庭へ出て石畳の道をマルベリの植え込みのほうへ進んだ。ただフランボウは小がらな坊さんが医者に言つている声を聞いた――「あの男はほんとにわしらが気にいらないようですな? ときに、あれは何者ですか?」
「ダンという男です」医者はたしかに遠慮がちに言つた。「あの男は戦争で片目をなくしたので、義姉が庭の手入れの仕事をやらせているのです」
 マルベリの茂みを通り抜けると、庭の眺めは、地面のほうが実際に空より明るいときに見られる、あの豊かではあるがそのくせ不気味な印象を呈していた。うしろからさすとぎれがちの日ざしの中に、目の前の木々の梢が、しだいに荒れ模様に真黒になつてきた空を背景にして、薄緑色の炎のようにそびえていた。同じ光が細長い芝生や花壇にあたつていた。何であろうとそれに照らし出されたものはかえつていつそう神秘的に黒ずんで人目につかなくなるようであつた。花壇には黒ずんだ血のしずくのように見えるチューリップが点々と咲いていて、中にはほんとうに真黒だと言いきれそうなのもあつた……チューリップの列の突きあたりにはいかにもそれにふさわしくチューリップの木(木蓮科の喬木)があつた……ブラウン神父は、多少混乱した記憶からではあるが、その木を一般にユダの木(ユダが首をくくつたと伝えられる、アメリカハナスオウの木)と言われているものと同じだと思いたくなつた。そういう連想を助けたのは、大枝の一つから、ひからびた木の実のようにひからびた、痩せた老人の死体がぶらさがつていて、長い顎ひげがグロテスクに風に揺れていた事実であつた。
 それには何か暗黒の恐怖以上のもの――陽光の恐怖がまつわりついていた……というのは気まぐれな太陽がその木と人を舞台の小道具のようにはなやかな色で描き出していたからであつた……木は花盛りだつたし、死体は色あせた孔雀緑色の部屋着でつりさげられている上に、揺れている頭に真紅の喫煙帽子をかぶつていた。それからまた真赤な寝室用のスリッパをはいていたが、その片つぽが脱げ落ちて、芝生の上に血のしみのようにころがつていた。
 しかしフランボウもブラウン神父もさしあたりまだこういう物を見ていなかつた。二人とも死人のしなびた体の真中から突き出しているらしい異様な物に目をみはつていた……それはだんだん見ているうちに十七世紀の剣のかなりさびた鉄の柄だということがわかつてきた……その剣が体を完全に突きとおしているのであつた。二人ともそれを眺めながらほとんど動かずにいた。おしまいにはそわそわしていたフラッド博士が二人の鈍感さにすつかりいらいらしてきたらしかつた。
「わたしが一番不思議だと思うのは死体のこのようすです」博士は、神経質に指を鳴らしながら、言つた。「しかしわたしはこれからすでに思いついたことがあります」
 フランボウは木のそばへ歩みよつて、剣の柄を虫眼鏡で眺めていた。しかし何か妙な理由があつてか、まさにそのとたんに、坊さんがまつたくつむじ曲りにクルリとこまのようにまわつて、死体に背中を向けたまま、まるきり反対の方角をジッと見た。ちようどうまく間に合つて見えたのは、庭のはるかに遠い向こうの端にいるフラッド夫人の赤い頭が、遠すぎてはつきり見わけられないが、そのときオートバイに乗ろうとしていた色の浅黒い青年のほうに向いているところであつた。青年が姿を消すと、あとに残つたのはしだいにうすれてゆくオートバイのけたたましい音だけであつた。それから女はふり向いて、庭を横切りながら一同のほうへ歩きはじめた……ちようどそのときブラウン神父もふり向いて、剣の柄とぶらさがつている死体を注意深く検査しはじめていた。
「あなた方がこれを見つけたのはつい半時間ほど前のことでしたな」とフランボウは言つた。「だれかその直前にここらへんにいた者がありましたか? つまりこの人の寝室か、屋内のその附近か、あるいは庭のこのあたりにいただれかです――まず一時間前までのあいだにですよ?」
「いや」と医者はきつぱり言つた。「これは大へん悲劇的な事件です。義姉は食料品室にいました……この反対側の離れのような部屋です。あのダンは、これもそつちの方角にある台所の庭にいました。それからわたし自身は、あなた方がおいでになつたときはいつていた部屋のまうしろの部屋で、本をかきまわしていました。女中が二人いますが、一人は郵便を出しに行つていましたし、もう一人は屋根裏に行つていました」
「それでその人たちの中にはだれか――だれかですよ――このおきのどくな老人と多少とも折合いの悪い人がいましたか?」フランボウはごく静かにきいた。
「老人はほとんど家中の愛情のまとでした」と医者はおごそかに返事した。「もし何か誤解があつたとしても、それはおだやかなもので、現代ではありふれたことでした。老人は古風な宗教の習慣に夢中でした。それにはおそらく娘夫妻はもつとかなり広い考え方をしていたでしよう。そんなことはこういう怪奇で不気味な殺し方とは何の関係もあるはずがありません」
「それは現代の考え方がどんなに広いか、それともどんなにせまいか、それしだいですわい」とブラウン神父は言つた。
 ちようどこの時、フラッド夫人が近づきながら庭の向こうから大きな声で呼びかけて、なんだかもどかしそうに義弟に呼びかけた。医者はそのほうに急いで、まもなく声のきこえない所へ行つてしまつた。しかし彼は行くときに、言いわけするように手を振つてから長い指で地面を指さした。
「その足跡には大へん興味をそそられますよ」医者は、まるで葬式を見世物にしているように、あいかわらず不思議な態度で言つた。
 二人のアマチュア探偵はおたがいに顔を見合わせた。「ほかにもいくつか興味をそそる物がありますよ」とフランボウが言つた。
「ああ、さよう」坊さんは、なんだかばかみたいに芝生を見つめながら、言つた。
「わたしは不思議に思つていたんです」とフランボウは言つた……「なぜ人間の首をくくつて死ぬまでぶらさげておいてから、それからまたわざわざ剣で刺すような面倒なことをしたのかしら」
「そしてわしは不思議に思つていました」とブラウン神父……「なぜ剣で心臓を突き刺して殺しておきながら、それからまたわざわざ首をくくつてぶらさげるような面倒なことをしたのかな」
「ああ、あなたは単に反対を言つてるだけですよ」とフランボウは文句を言つた。「わたしには一目でわかりますが、これは生きてるとき刺したのではありません。それならもつと死体から血が出たでしようし、傷口がこんなにふさがらなかつたでしようからね」
「ところがわしは一目でわかりました」ブラウン神父は、背の低い体を伸ばしてぎごちなく見上げながら、短い溜息をついて、言つた……「こりや生きてるときにぶらさげたのではありません。もし輪の結び目を見たら、不器用な結び方をしてあるために、繩がねじれて結び目が首からはずれているのがわかりますわい。そこでこれでは絶対に息を止めるわけにはいきません。この人は繩でぶらさげられる前に死んでいました……そして剣で突かれる前に死んでいました。すると実際はどうして死んだのですかな?」
「わたしは家の中に引き返して、寝室――その他の物を見てくるほうがいいと思います」
「では行きましようかな」とブラウン神父。「したが、その他の物というなら、どうやらこの足跡をちよつと見て行くほうがよさそうじや。向こうの端にあるこの人の寝室の窓の外からはじめるほうがよかろう。オヤ、この石畳の細道には足跡一つないが、何かありそうなものじや。したが、ないのがほんとうかな。オヤ、こりや寝室の真下の芝生じや。そしてここにはこの人のごくはつきりした足跡がありますわい」
 ブラウンは足跡を見て不気味に目をパチクリさせた。それから細道をあの木のほうへ引き返しはじめた。ときどき威厳のないかつこうで身をかがめては何か地面の上の物を見ていた。最後にフランボウのほうへ引き返して、打ちとけたようすで言つた――
「さて、ここにごくはつきり書きつけてある話がわかりますかな? 尤もそれほどはつきりした話じやありませんけどな」
「わたしならはつきりしていると言うだけではあきたりません。まつたく醜悪だと言いますね」とフランボウ。
「フム、こりや、スリッパの正確な足型で、地面にごくはつきり踏みつけられているが、こんな話でしような。老年の半身不随の老人が窓から飛んで、細道と平行している花壇を駆けた……それもしめ殺されて突き刺されるのを楽しみにまるで夢中になつてな……あまり夢中になつたので、まつたく気軽に片足ではねたり、時には横ざまにとんぼがえりを打つたりして……」
「やめてください!」フランボウが怒つたように叫んだ。「いつたいそのとんでもない身振り芝居は何のまねですか?」
 ブラウン神父はただ眉を上げて、土の中の象形文字のほうを静かにさしてみせただけであつた。「中ほどの所にスリッパの片足の跡があるだけじや……そしてところどころに自然に片手を突いた跡がある」
「びつこを引いていて、倒れたのじやないでしようか?」とフランボウはきいた。
 ブラウン神父は首を振つた。「それなら少なくとも起きあがるのに手足を使うとか膝やひじを使うとかしたでしようからな。ほかには何の跡もありません。もちろん石畳の道はすぐそばだが、そこにも何の跡もありません……したが、この割れ目のあいだの土には跡がつきそうなものだがな……こりや気違いめいた石畳じや」
「畜生、気違いめいた石畳に、気違いめいた庭に、気違いめいた話か!」そう言うとフランボウは暗い表情で暗い嵐のせまつてきた暗い庭を見わたした……その庭を横切つている、曲りくねつたツギハギの細道は、なるほどそのツギハギという言葉に妙にふさわしい感じであつた。
「では、この人の部屋を見に行きましよう」とブラウン神父は言つた。二人は寝室の窓にほど近いドアからはいろうとした。すると坊さんはちよつと足を止めて、木の葉をはき集めるのに使う、ありふれた庭箒が壁に立てかけてあるのを見た。「あれが見えますかな?」
「あれは箒です」フランボウは完全な皮肉をこめて言つた。
「あれは法外もない手ぬかりですわい」とブラウン神父は言つた。「わしがこの妙な事件で見た最初の手ぬかりじや」
 二人は階段を登つて、老人の寝室にはいつた。すると、一目見ただけで、家族の土台にもまた家族の不和の元にもなつている、主要な事実がかなりはつきりした。ブラウン神父は最初からここはカトリック教徒の家か、またはそうだつたことのある家だという気がしていた……しかしここに住んでいるのは、少なくとも一部は、信仰を失なつた、つまり大へんだらしのないカトリックだとしか思えなかつた。老人の部屋の中のいくつもの画や像を見ただけで、現在残つている積極的な信仰は実際上老人きりのもので、身内の連中は、どういうわけか、異教徒になつていることがはつきりわかつた。しかしブラウンは、それだけではありふれた殺人の説明としても絶望的に不十分ということを認めた……ましてこういう異常な殺人についてはなおさらであつた。「えいくそ」と彼はつぶやいた……「この事件では殺人などはまつたくちつとも異常でも何でもないことじや」そしてちようどこの偶然の言葉を使つたとき、一筋の光明がゆつくりブラウンの顔にうかびはじめた。
 フランボウは、死人のベッドの横にあつた小さなテーブルのそばの椅子に、腰をおろしていた。彼は水びんの横に置いてある小さなお盆の中の三つ四つの白い小さな丸薬を考え深そうに顔をしかめながら見ていた。
「殺人者は、男女いずれにしても、何か不可解な理由があつて、この老人がしめられたためか刺されたためか、あるいは両方のために死んだのだと、われわれに思わせようとしたのです。この男はしめ殺されたのでもなく刺し殺されたのでもなく、そんな目に会つたのではありません。なぜそんなことを暗示したかつたのでしようか? 一番合理的な説明は、老人が何か特別な死に方をしたためにだれか特別の人と関係があるように思われては困るからという理由です。かりに、たとえば、毒殺されたものとしたらどうでしよう。かりにその場合ほかのだれよりも当然犯人らしく思われるような者が関係しているとしたらどうでしよう」
「けつきよく、あの青眼鏡のお友達はお医者さんですからな」ブラウン神父はやわらかに言つた。
「わたしはかなり注意してこの丸薬を検査するつもりです」とフランボウは話を進めた。「だが、こいつはなくしたくありませんね。水にとけそうなかつこうですよ」
「それを化学的にしらべるにはいくらかひまがかかるかもしれん。そして警察医がその前にここへ来るかもしれん。だからわしははつきり忠告しておきますが、それをなくさないようにすることじや。つまりもしあんたが警察医を待つつもりだとすればな」
「わたしはこの問題をとくまでここにいるつもりです」
「ではあんたは永久にここにいることになりましよう」ブラウン神父は、静かに窓外を見ながら、言つた。「ともかく、わしはこの部屋にいる気はありませんわい」
「あなたはわたしにはこの問題がとけないとおつしやるつもりですか? なぜわたしにはこの問題がとけないんでしよう?」
「なぜかというとそれは水にとけないからじや。いや、血にだつてとけやしません」と坊さんは言つた。そして暗い階段を降りて、暗くなつた庭へ出て行つた。そこで坊さんはいま窓から見ていたものを改めて見なおした。
 雷の来そうな空の熱と重苦しさと暗さがあたりの風景にいつそう近くせまつてきているらしかつた……むらがる雲が、しだいにせばまつてくる頭上の空間に月よりも青ざめてうかんでいた、太陽をすつかり征服してしまつた。空中には遠雷がとどろいていたが、いまはもうソヨとの風も吹いていなかつた。庭のとりどりの色までがひとしお濃い暗黒の影のようにしか見えなかつた。しかしたつた一つの色がなんとなく陰気なあざやかさでまだ輝いていた……それはこの家の女の赤毛であつた……女は両手を自分の髪の中に突つこんで、目をみはつたまま、硬直したように立つていた。この日食さながらのシーンと、ブラウン自身その意味について深く疑つていた或るものとを思い合わせると、いままで胸につきまとつていた神秘的な詩句の記憶が表面にうかんできた。そしていつの間にかブラウンはひとりつぶやいていた――「秘密の地……欠けて行く月下の地さながらに野蛮な魔法の地につきまとうは、悪魔のような愛人のために泣く女」(コールリジの詩「クブラ・カン」の一節)つぶやく声がいつそう混乱してきた。「聖母マリアさま、われらつみ人のために祈りたまえ……こりやあれとそつくりじや……恐ろしいほどそつくりじや――悪魔のような愛人のために泣く女
 ブラウンは、女に近づきながら、ためらいがちで、ほとんどふるえていた。しかしふだんのとおりおちついて話した。絶えずジッと女を見つめながら、熱心に話した……あんたはいくら気違いめいたみにくいことだからといつて、悲劇の単なる偶然の附属物のために病的な気持になつてはいけない、と言いきかせた。「お祖父さまの部屋にある画は、わしらが見たあのみにくい画面以上に、あの方にとつては真実なのでした」とブラウンは厳粛に言つた。「なんだかわしは、あの方がいい人だつたような気がします。人殺し共があの方の死体をあんなにしたからといつて、それはどうでもいいことですわい」
「マア、あたしはお祖父さんの聖像や聖画にはムカムカしてるんです!」女は頭をそむけて言つた。「もしあれがあなたのおつしやるようなものでしたら、なぜ自分の身を守らないのですか? だつて暴徒が祝福された聖母の頭を叩き落しても、別に何事も起りやしないじやありませんか。ああ、何の役に立つものですか? あたしたちが人間は神さまより強いことに気がついても、あなたはあたしたちを責めるわけにはいきませんわ……責める勇気もないでしよう」
「まつたく、神さまのわしらに対する辛抱強さまで利用して、神さまに刃向かう武器にしようとするのは、高潔ではありませんぞ」ブラウン神父はごくおだやかに言つた。
「神さまは辛抱強いし、人間は性急なのかもしれませんわ……それにもしあたしたちが性急のほうがいいと思うようになつたら、どうでしよう。あなたはそれを冒涜だとおつしやるでしようけれど、やめさせるわけにはいきませんわ」
 ブラウン神父は妙にギクリとした。「冒涜!」と言つた……それから急に決心したらしく改めてキビキビしたようすで戸口へ引き返した。同時にフランボウが戸口に現われた……手に一束の紙をつかんで、興奮して蒼白になつていた。ブラウン神父はもう口をひらきかけたが、せつかちな友人はそれより先きに話していた。
「やつと手がかりを突きとめましたよ!」とフランボウは叫んだ。「この丸薬は同じに見えますが、実は別物です。そしてどうでしよう、わたしがこいつを見つけ出したとたんに、あの片目の園丁の野郎が部屋の中に血の気のひいた顔を突き出しました……それに大型ピストルを持つていました。わたしはそいつを手から叩き落して、奴を階段から投げとばしてやりました。だがわたしは万事わかりかけています。もう一二時間ここにいれば、わたしの仕事が完成します」
「それでは完成しませんわい」坊さんは、この人としてはほんとに珍らしいほどリンとした声で、言つた。「わしらはここにもう一時間といられません。もう一分といられません。すぐここを出なければならんのじや!」
「何ですつて!」フランボウはきもをつぶして叫んだ。「まさにわれわれが真相に近づきつつあるというのに! だつてたしかに奴らはわれわれを恐れているから、われわれは真相に近づきつつあるんですよ」
 ブラウン神父は石のような不可解な表情でフランボウを見た――「奴らは、わしらがここにいるあいだは恐れやしません。わしらがここにいなくなつたら、初めてわしらを恐れるでしよう」
 二人とも、フラッド博士のかなりソワソワした姿が不気味なもやの中をうろついているのに、気がついた。するとその姿が世にも荒つぽい身振りで前方に飛び出してきた。
「ストップ! 聞いてください!」医者は取り乱したように叫んだ。「わたしは真相を発見したんです」
「ではそれを警官に説明なさるがいい」とブラウン神父は手短かに言つた。「まもなく警察が来るはずです。したがわしらは行かねばなりません」
 医者は感情の渦のなかに巻きこまれたようであつたが、やつともう一度その渦から浮きあがると、絶望的な叫び声をあげた。彼は両腕を十字架のようにひろげて、道をさえぎつた。
「それならいい!」と彼は叫んだ。「わたしはもう真相を発見したなどと言つてあなた方をあざむくつもりはない。ただ真相を告白するだけです」
「では、ご自分の坊さんに告白なさるがよろしい」とブラウン神父は言うと、目をみはつているフランボウをあとにしたがえて、サッサと庭の門のほうへ歩いて行つた。門まで来ないうちに、別の人影が風のように前を横切つて突進してきた……そして園丁のダンが大声で叫びかけた……職務を捨てて逃げ出そうとしている二人の探偵をあざける、わけのわからない文句だつた。その時坊さんはヒョイと身をかがめて棍棒のようにふりまわしてきた大型ピストルの一撃をうまくかわした。しかしダンは、ヘラクレスの棍棒のような、フランボウの拳骨の一撃をうまくかわせなかつた……。二人は、細道にペタンと倒れているダン君をあとに残したまま、門を通り抜けて外に出ると、黙つて車に乗りこんだ。フランボウは一つ短い質問をしただけだつたし、ブラウン神父は「キャスターベリ」と答えただけであつた。やつと長い沈黙のあとでブラウン神父が言つた――「わしは嵐はあの庭のことだけだとあぶなく信じるところでしたが、やつと魂の嵐から逃げ出してきましたわい」
「ねえ、わたしはあなたとはずいぶん長いあいだの知り合いです」とフランボウ。「そしてあなたがこれでたしかだというたしかな証拠を見せてくださると、わたしはあなたの指揮のままについて行きます。ですがまさかあなたは、あすこの雰囲気が気にいらないからというので、わたしをあの魅力的な仕事から連れ出したわけじやないでしようね」
「なるほど、あれはたしかに恐ろしい雰囲気でしたわい」ブラウン神父は静かに答えた。「すさまじいし、猛烈で、うつとうしい。したがあすこで一番すさまじいのはこれじや――あすこには憎悪などまるきりなかつたことですわい」
「だれか祖父さんを多少きらつている者があつたようですよ」
「だれひとりだれのこともきらつていなかつたのじや」ブラウン神父はうめくように言つた。「それがあの暗黒の中でのすさまじいことでした。あれは愛情でした」
「愛情を表現するにしては妙なやり方ですね――首をしめた上に剣で突き刺すなんて」とフランボウは批評した。
「あれは愛情でした」と坊さんはくりかえした。「そしてそれが家中を恐怖でいつぱいにしたのじや」
「まさかあの美人が眼鏡をかけた蜘蛛男と愛し合つているわけじやないでしようね」とフランボウが抗議した。
「いやいや」とブラウン神父は言つて、またうめいた。「あの女は夫と愛し合つているのじや。それがいまわしいのです」
「夫と愛し合つているのなら、あなたがいつもほめていることじやありませんか。それを無法な愛情だとは言えますまい」
「その意味では無法じやない」とブラウン神父は答えた。それからひじを突いて急に向きなおると、改めて熱心に話し出した――「あんたはわしが知らないと思うのかね……男女の愛情は神さまの第一の命令で、永久に輝かしいものじやないかな? あんたは、わしら坊主が愛と結婚を賞賛しないと思つている、あのアホウの仲間かな? わしはエデンの園やカナの酒について教えてもらう必要があるのかな? 男女の愛情は、神さまから離れるときでさえ、あれほど恐ろしい精力で暴れまわる……それは愛の力が神さまの力だつたからですわい。エデンの園がジャングル――だがそれでもやはり輝かしいジャングル――になるとき……二度目にかもしたカナの酒(ヨハネ伝第二章にある婚姻の席で現わしたイエスの奇蹟)がカルバリの酢に変るときでもじや。あんたはわしがそんなことを知らんと思うのかな?」
「もちろんあなたはご存じです。でもわたしはまだこの殺人問題についてはあまりよくわからないんです」
「この殺人はとけませんのじや」
「なぜとけないのですか?」とフランボウは詰問した。
「なぜかといつて、とくような殺人がないからじや」
 フランボウはまつたくびつくりして口をつぐんだ。そして静かな調子でまた話し出したのは、ブラウン神父であつた。
「わしは一つ妙なことを申しあげよう。わしはあの婦人が悲しんで興奮している最中に話をしました。したがあの婦人は殺人については一言も言いませんでした。殺人という言葉も出さなかつたし、殺人にふれさえしなかつた。あの婦人がくりかえして言つた言葉は、冒涜でした」
 それから、また連絡のない言葉を投げ出すように、ブラウンはつけくわえた――「あんたはタイガー・チローンのことを聞いているかな?」
「聞いているかつて!」とフランボウは叫んだ。「へええ、それこそ聖物箱をねらつてると思われる当人で、わたしが頼まれたのは特にそいつの裏をかくためでした。奴は、いままでこの国へやつてきたギャングの中で、一番猛烈で無鉄砲な男です……もちろんアイルランド人ですが、まるで気違いみたいに坊さんの権威に反対する連中です。たぶん秘密団体のつまらない悪魔主義にかぶれているのでしよう。ともかく奴は、実際以上に腹黒く見えるあらゆる種類の乱暴なトリックを使う不気味な趣味を持つています。その他の点ではそれほど腹黒い奴ではありません……ほとんど人を殺さないし、それも残酷なことは絶対にしません。しかし奴は何でも人をびつくりさせるようなこと……特に自分の仲間をびつくりさせるようなことをするのが大好きです……教会から盗んだり、骸骨を掘り出したり、いろんなことをやります」
「さよう、それがみんなしつくりあてはまります。わしはずつと前にわかるはずでしたのになあ」
「たつた一時間の調査で、どうして何かわかるようなことがあつたのか、わたしにはわかりませんね」フランボウ探偵は弁護するように言つた。
「わしは何かを調査する前に、わかるはずでしたのになあ。あんたが今朝やつてこないうちに、わかつていたはずですがなあ」
「いつたい何を言つてるんですか?」
「これではつきりしたのは、人の声が電話ではどんなにまちがつてきこえるかということだけじや」ブラウン神父は思いかえすように言つた。「わしは今朝あの問題の三つの段階をみんな聞きました。そのくせつまらないことだと思つていました。第一に、或る婦人が電話をかけてきて、できるだけ早くあの宿屋に来てくれと、頼んできました。それはどういう意味だつたでしようか? もちろんそれは老祖父が死にかけていたからです。それから女はまた電話をかけてきて、けつきよく来なくてもいいと、言つてきました。それはどんな意味だつたでしようか? もちろんそれは老祖父が死んだからです。あの人はベッドの中でごく平和に死んだのです……おそらくほんとうの年から来た心臓麻痺でしような。すると女は三度目に電話をかけてきて、けつきよく来てほしいと、言つてきました。それはどういう意味だつたでしようか? ああ、それがなかなかおもしろいのじや!」
 ブラウンはちよつとためらつてから話を続けた――「タイガー・チローンは、細君に尊敬されているので、例の気違いめいた自分の思いつきを用いました。それはまた巧妙な思いつきでした。あの男は、あんたが跡を追つているのを、聞いていたのです……それからあんたが奴のことや奴の手口をよく知つていて、聖物を救い出すために来ることも知つていました。わしがときどき手伝つていたことも聞いていたでしような。奴は途中でわしらの足を止めさせたかつたのでした。そこでそのためのトリックに殺人の場面を仕組みました。おそらく奴は細君をおどしつけて、懲役を逃れるのには、あんな使い方をしても別にちつとも苦しむはずのない死体を使うほかにないという、野蛮な常識を説いてきかせたのです。ともかく、細君は彼のためならどんなことでもするつもりでした……しかしあの死体をぶらさげる仮装には、さすがにあの婦人は不自然ないやらしさを感じました。それだから冒涜の話をしたのです。あの女は聖物の神聖をけがすことを恐れていましたが、臨終の床の神聖をけがすことも恐れていたのです。弟というのは、不発爆弾をいじくりまわすまやかしの『科学者めいた』反逆者です……時代おくれの理想主義者です。しかしあの男はタイガーを熱愛していますし、園丁もそうなのです。たぶんあれほど多勢がタイガーを熱愛しているらしいのが奴に有利な要素だつたでしよう。
「一つだけ小さな要点があつて、そのためにわしは大へん早く見当をつけました。あの医者がひつくりかえしていた古本の中に十七世紀の小冊子が一束ありましたが、わしは或る書名を見つけました――『スタフォード卿の裁判と処刑の真相発表』さて、スタフォードは教皇陰謀事件で処刑されましたが、あの事件の発端はサー・エドモンド・ゴドフリの死という歴史上の探偵物語の一つです。ゴドフリは溝の中で死んでいるのを発見されましたが、いかにも神秘的だつたのは、しめ殺された跡があるのに、その上自分の剣で刺しつらぬかれていたことでした。わしは、この家のだれかがこれから着想したのかもしれないと、すぐに考えました。しかし、あんなことを殺人を実行する方法として使うはずはありません。神秘を作り出す方法として使いたかつただけでしよう。そこでわしは、それがほかの残虐なこまかい点にもすべてあてはまるのに気がつきました。あれはみんな実に悪魔的でした。だが単なる悪魔の仕業ではありませんでした。多少とも許される所がありました……なぜかというと、あの神秘をできるだけ複雑な矛盾したものに見せかけて、わしらがそれをとくのにひまがかかるようにしておかねばならなかつたからです。そこで連中はきのどくな老人を臨終の床から引き出して、死体を一本足ではねさせたり、横ざまにとんぼがえりを打たせたり、実際にはできそうもないあらゆることをやらせました。われわれにとけない問題を出す必要があつたからです。連中は、細道についた自分たちの足跡を掃き清めて、箒をそのままにしておきました。運よくわれわれはその箒からやつと間に合うように見抜いたのじや」
「あなたは間に合うように見抜きましたね。わたしは奴らが残した第二の手がかりにひつかかつて、もう少しグズグズしていたかもしれません……いろんな丸薬をばらまいてありましたからね」
「いや、ともかく、わしらは逃げ出しました」ブラウン神父は楽しそうに言つた。
「どうやら、それでわたしがこんな速力でキャスターベリへの道を飛ばしているわけですね」とフランボウは言つた。

 その晩キャスターベリの教会と修道院では、僧院の隠遁生活をたじろがせそうなでき事が続出した。聖ドロシーの遺物は、金とルビーをちりばめた豪華な箱に収めたまま、修道院の礼拝堂の横手の小部屋に一時安置されて、聖別式の終りに特別な儀式を執行するとき行列と一緒にはこびこまれることになつていた。さしあたり一人の修道僧が番をして、緊張した用心深い態度で見はつていた……というのはこの男も同胞たちもタイガー・チローンがうろついている危険の影についてはよく知つていたからである。こういうわけで修道僧は、低い格子のついた窓がひらきはじめて、何か黒ずんだ物がそのすきまから真黒な蛇のようにはいこんでくるのを見ると、パッと立ちあがつた。窓の所へ突進して、それをつかんでみると、それは袖に包まれた人間の片腕で、末端にきれいなカフスとスマートな濃いねずみ色の手袋をつけているのがわかつた。腕をつかんだまま、修道僧は大声で助けを呼んだ……するとちようどその時、一人の男が背後のドアから矢のように室内に飛びこんできて、修道僧がテーブルの上に置いてきた箱をひつたくつた。ほとんど同時に窓にはさまれていた腕がはずれて手に残つた……修道僧は詰物をした人形の腕をつかんで立つていた。
 タイガー・チローンは前にもこのトリックを使つたことがあつたが、修道僧には目新しい経験であつた。運よく、このタイガーのトリックが目新しい経験でない人間が少なくとも一人いた……その人は、タイガーがふりかえつてあわや逃げようとした瞬間に、軍隊風のひげをはやした巨人のような姿で戸口に立ちふさがつた。フランボウとタイガー・チローンはおたがいにジッと顔を見合わせて、それからほとんど軍隊の敬礼らしいものを取りかわした。

 このあいだにブラウン神父はコッソリ礼拝堂に忍びこんで、この見苦しい事件にひきこまれた幾人かのために祈ろうとした。しかしブラウンはほかの場合よりむしろほほえんでいた。そして、実を言えば、チローン君やその悲惨な家族については絶対に希望を失つていなかつた……むしろもつと立派な連中以上に希望を持つていた。やがてブラウンの考えは、この場の盛儀のもつと壮麗な眺めを見わたしているうちに、広々としてきた。ややロココ式の礼拝堂の奥にある黒と緑の大理石を背にしていた殉教者を祭る坊さんたちの濃赤色の法衣が、こんどはそれ以上に火のような赤色の或る物の背景になつていた……真赤に燃えた石炭のような赤色……聖物のルビー……聖ドロシーのバラであつた。そこでブラウンはこの日の不思議なでき事と、自分が手伝つた冒涜に身ぶるいしていたあの女のことを、もう一度思いかえした。けつきよく聖ドロシーにも異教徒の愛人があつたのだと、ブラウンは考えた。しかしこの愛人は彼女を自分の思うままにしたり、彼女の信仰を破滅させたりはしなかつた。ドロシーは真理のために自由な気持で死んでいつた。そしてやがて天国からその男にバラを送つた……。
 ブラウンは目を上げて、香の煙とチラチラ光るロウソクの火のとばり越しに、聖別式が終りに近づいて行列が待つているのを見た。永遠に続く幾世紀ものあいだに蓄積された、時と伝統の豊かな感じが、一列一列動いてくる群衆と同じに、ブラウンの胸をしめつけるようにして通り過ぎた……そして一同の頭上高く、衰えることのない炎の花輪のように、恐ろしい深夜の太陽のように、聖物を飾る大きな顕示台が丸天井の影の暗闇を背にして燃え輝いているありさまは、さながら宇宙の真黒な謎を背景にして燃えているようであつた。というのは、人によつてはこの謎もまたとけない問題だと思いこんでいる人があるからである。そしてこの謎にもただ一つの解決しかないということを同じように確信している人もあるのである。





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字8、1-13-28) とけない問題」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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