ピンの先き

THE POINT OF A PIN

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 ブラウン神父がいつも断言していたように、彼は眠つているうちにこの問題を解決したのであつた。そして事実そのとおりであつたが、ちよつと妙な所があつた。なぜかといえばそういうことになつたのはむしろ彼が眠りをさまたげられたときだつたからである。朝ばかに早く眠りをさまたげられたのは、ブラウンの部屋の向側に建築中だつた巨大なビルディング――つまり未完成ビルディングの中ではじまつたハンマーの音のためであつた。一家族ずつの部屋フラットが積み重なつた巨大な建築で、まだ大部分は足場と掲示板でおおわれていた。掲示板には、建築者兼所有者として、スインドン・サンド商会の名前が出ていた。ハンマーの音が規則正しい間をおいてくりかえされるので、すぐそれとわかつたが、これはスインドン・サンド商会が新しいアメリカの床張り法を専門にしていたためで、この方法によると(広告に書いてあるとおり)完成後の平滑、堅固、不可侵及び永久の愉快が保証されるくせに、或る時期に重いハンマーで金具を叩きつける必要があつたのである。それでもブラウン神父は、この状態からでもささやかな喜びを引き出そうと努力して、おかげでいつも早朝のミサに間に合うようにおこしてくれるから、美しい鐘音のようなものだと言つていた。けつきよく、キリスト教徒がハンマーの音でおこされるのは鐘の音でおこされるのと同じくらい詩的だと、言つていた。実は、しかし、このビルディングの作業は、別の理由で、多少ブラウンの神経にこたえた。というのは半分建てかけの摩天楼の上に労仂危機の可能性が雲のようにたれこめていたからである……この危機を各新聞はどこまでもストライキだと主張して書き立てていた。実際問題としては、もしそんなことになつたら、職工締出しロックアウトになりそうであつた。しかしブラウンはそんなことになりはすまいかと思つて、ずいぶん気にしていた。それからハンマーの音が注意力を疲労させるのは、それが永久に続きそうだからか、それともいまにも止まりそうだからか、そこがよくわからなかつた。
「単に趣味の問題とすれば、わしはこれで中止してくれるといいと思いますがなあ」ブラウン神父は、フクロウのような眼鏡で大建築物を見上げながら、言つた……「わしはどんな家でもまだ足場を組んであるうちに中止してくれるといいと思います。すべての家がいつでもできあがつてしまうのはどうも残念な気がします。家々が、あの妖精が組み立てたような、白木の足場にかこまれていると、日を受けて軽やかに明るく輝いて、新鮮で希望にあふれて見えます。それなのに人間はいつも家をこしらえ上げてしまつて、墓場に変えてしまいます」
 ブラウンは眺めまわしていた対象物から顔をそむけたとき道の向側からこつちのほうへ飛び出してきた一人の男にあやうくぶつかりそうになつた。それはブラウンがちよつと知つているだけの男であつたが、(この場合)何か不吉を知らせる鳥のように考えたくなるだけの理由があつた。マスチク氏は、ほとんどヨーロッパ人らしくないほど頭の角ばつたズングリした男で、かなり意識的にヨーロッパ風にしているように見える重苦しくめかした服装をしていた。しかしブラウンは、最近この男が建築会社の若いサンドに話しかけているところを見たことがあつたので、それが気に入らなかつた。このマスチクという男は、英国の産業政治界でかなり目新しい或る組織の頭目であつた。それは左右両派の激化から生み出された非組合員の常備隊で、各種の会社に集団的に貸し出される大いに性質の違う労仂者群であつた。そしてマスチクがうろついているのは明らかにそれをこの会社に貸し出そうと望んでいたからであつた。早く言えば、この男は労仂組合を出し抜いて、職場をストライキ破りで占領する手段を交渉しているのかもしれなかつた。ブラウン神父は、或る意味で両派いずれからもまねかれて、こういう討論に引きこまれたことがあつた。そして資本家連中がみんな、ブラウンは過激主義者だということがはつきりわかつたと、こぞつて報告し、過激主義者連中が、彼はブルジョア・イデオロギーに頑固に執着している反動だと、こぞつて断言したところから推測すると、ブラウンは或る程度分別くさい話ばかりしてだれにも感心してもらえなかつたのであろう。しかし、マスチク氏が持つてきたニュースは、どんな相手にもありふれた紋切型の議論を忘れさせるように、計算されていた。
「皆さんがすぐあそこへ来ていただきたいと言つています」マスチク氏はぎごちないアクセントの英語で言つた。「殺人の脅迫があるのです」
 ブラウン神父は案内者のあとから無言のままいくつかの階段や梯子を登つて、未完成の建物の一段高い所へ出た。そこには多少とも顔見知りの建築業の頭目たちの姿が集まつていた。その中には昔この事業の頭株だつた者まではいつていた。尤もこの頭株はしばらく前からむしろ雲の中に頭を突つこんでいた。少なくとも宝冠に頭を突つこんで、その宝冠が雲のようにそれを人目から隠していた。言いかえると、スティンズ卿は事業から引退したばかりでなく、ふいに貴族院議員に任命されて姿を消したのであつた。彼がたまにまた姿を現わすときは、ものうげでややわびしそうであつた。しかしこの場合は、マスチクが姿を現わしているのと結びついているせいか、やはり険悪な感じがした。スティンズ卿は長い頭の、うつろな目をした、痩せた男で、ごくわずかな金髪が色あせて禿頭になりかけていた。この人は、坊さんがいままで会つたことのある人の中で、一番つかまえどころのない人であつた。ほんとうのオクスフォード的な才能で、「たしかにあなたのおつしやるとおりだ」と言いながら、それを「たしかに、あなたはそう思つているんでしよう」というように響かせたり、あるいは単に、「あなたはそう思うんですか?」と言うだけで、実はそれに「あなたはそう思いたいんでしようね」というシンラツなおまけまでつけくわえるように言つてのける点では、類がなかつた。しかしブラウン神父には、この人はウンザリしているだけでなく、いくらか憤慨しているのではないかという気がした。尤もその憤慨は、オリンパスの山から呼びおろされてこんなつまらない商売上の争いを監督させられているからかそれとも単にもう実際にそれを監督する地位にいないからか、どつちとも想像しにくかつた。
 全体的には、ブラウン神父はこの共同経営者の中でもつとブルジョア的なサー・ヒューバート・サンドとその甥のヘンリのほうがむしろましだと思つていた……尤も内心ではこの二人がほんとにそれほどのイデオロギーを持つているかどうかを疑つていた。実際サー・ヒューバート・サンドは新聞紙上ではなかなかの名声を得ていた。スポーツのパトロンとして、それからまた大戦中および大戦後の多くの危機における愛国者としての名声であつた。この年令の男としては注目すべき殊勲をフランスで立てたことがあつたし、後には軍需工業労仂者の難問を征服した産業界の凱旋将軍として書き立てられたこともあつた。「強い男」という名前をつけられたが、それは彼の短所ではなかつた。事実彼は重々しい、心の暖かいイギリス人であつた……水泳が上手で、善良な地主であり、アマチュア出身としてはすばらしい大佐であつた。実際、外見には軍隊式の態度としか言えないような感じがつきまとつていた。肥満してきかけていたが、やはりいつも両肩をうしろに引いていた。ちぢれた髪と口ひげはまだ褐色だつたが、顔の色はもういくらか色あせてしなびかけていた。彼の甥は人を小突いたり肩で押しのけたりするタイプのたくましい青年で、わりあいに小さな頭が太い首から突き出しているところは、まるで何にでも頭をさげてぶつかつて行くぞといわんばかりの感じであつた……このかつこうは、喧嘩好きらしいししつ鼻の上に鼻眼鏡があぶなつかしそうに乗つているために、かなりおかしな子供じみた感じになつていた。
 ブラウン神父はそれだけのことならみんな前から見ていた。ところがこの瞬間のみんなは何かまつたく新しい物を見ていた。木造部の中央に打ちつけた大きな紙がヒラヒラしていて、その上におそまつな気違いめいた大文字だけで何かがなぐり書きしてあつた……まるでこれを書いた男は無学に近いか、さもなければ無学のふりをしているか、さもなければ冗談にへたくそな字を書いたかのようであつた。その文句は実際こうであつた――「労仂者会議はヒューバート・サンドに警告する……賃銀を下げたり労仂者を締め出したりする気なら危険を覚悟しろ。もしそういう予告を明日出したりしたら、民衆裁判で死ぬと思え」
 スティンズ卿はちようどその紙を検査して引き返してくるところであつた。そして向側の共同経営者を見ながら、かなり妙な口調で言つた――
「フム、奴らが殺したがつているのは、きみだ。明らかにわたしなどは殺す値打もないらしい」
 ときどきブラウン神父の胸をほとんど意味なくふるえあがらせることのある、あの静かな電撃のような空想の衝撃が、この特別の瞬間に、サッとひらめいた。いま口をきいている男はもう死んでいるようなものだから、いまさら殺されるはずがないというおかしなことを考えたのであつた。まつたく無意味な思いつきをしたものだと、ブラウンはきげんよく考えなおした。しかしこの貴族の老経営者の超然とした冷たいようす……そして死人のような顔色と無愛想な目には、いつもブラウンがゾクゾクさせられるようなものがあつた。「この人は緑色の目をしていて、まるで緑色の血を持つていそうに見える」とブラウンはやつぱりひねくれた気分で考えた。
 ともかく、サー・ヒューバート・サンドの血が緑色でなかつたことはたしかであつた。あらゆる意味で真赤な彼の血が多年の風雨にさらされてきたしなびた両頬に、猛烈な勢いでしだいにあがつてきた……善良な性質の人としては当然の無邪気な憤慨につきものの激しさであつた。
「おれはこんなことを言われたり、されたりしたことは、一度もなかつた」サンドは強い声だが、ややふるえながら、言つた。「おれは意見が違つていたかも……」
「われわれはこの点についてはだれひとり意見が違うはずがありません」サンドの甥がせつかちに口をはさんだ。「ぼくは奴らと仲よくしようとしてきましたが、こいつはあんまりひどすぎる」
「あなたはまさか本気でお考えじやないでしような……あの労仂者が……」とブラウン神父が言いかけた。
「いや、おれたちは違つていたかもしれないぞ」サンド老はまだいくらかふるえ声で言つた。「神さまがご存じのとおりおれは英国の労仂者を賃銀値下げで脅かそうというあの考えは絶対気にいらなかつた……」
「だれだつて気にいつていたわけじやありませんよ」と青年が言つた。「しかし、どうやらこれで事が決まりましたね、伯父さん」
 そこで一息ついてから青年はつけくわえた。「そりや伯父さんのおつしやるとおり、われわれはこまかい点で意見が一致しなかつたようです。しかしほんとうの政策については――」
「いや、おまえ」伯父は愉快そうに言つた。「おれはほんとうの意見の違いなどないように願つていたんだよ」その言い方から考えると、だれでも英国人を理解している者なら、よほどの意見の違いがあつたものと、当然推測しそうであつた。実際この伯父甥はほとんどイギリス人とアメリカ人ぐらいの違いがあつた。伯父は、事業の外部に出て、田舎住まいの紳士として現場にかかり合わずに一種のアリバイを作つておこうという、イギリス人らしい理想を持つていた。甥は、事業の内部にはいりこみたい……その機構の中に機械工のようにはいりこみたいというアメリカ人みたいな理想を持つていた……そして事実彼は大部分の機械工と一緒に仂いて、この商売の手順や要領の大部分に精通していた。そして彼は次ぎの事実から見てもやはりアメリカ式であつた……つまり彼がそんなことまでやつたのは、一部は雇主として使用人に仕事の水準を維持させるためであつたが、なんとなく同輩としてやろうという気分もあつたし、あるいは少なくとも自分が労仂者になつてみせるのを誇りにしたからでもあつた。こういうわけで彼は技術的な問題ではまるで労仂者の代表のように見えることがよくあつた……技術的な問題にかけては、スポーツや政治に卓越しているので世間に評判のいい伯父はまるきり縁が遠かつたからである。若いヘンリが実際ワイシャツの腕をまくつて工場から出てきて、労仂条件についての譲歩を要求した場合が何度もあつたことを思い出すと、現在の彼の反動ぶりには特別の力と猛烈な勢いさえ加わつていた。
「よし、奴らはこんどはとんでもなくみごとに自分から閉め出しを喰うんだ」とヘンリは叫んだ。「こんな脅迫のあとでは、奴らに挑戦する以外に打つ手はありませんよ……即刻、この場で挑戦。さもなかつたらわれわれは笑い物になります」
 老サンドは甥に劣らず憤慨して顔をしかめていたが、ゆつくり言いかけた――「おれはひどく批判される……」
「批判される!」青年は金切声で叫んだ。「殺人の脅迫に挑戦すると批判されるんですか! もし挑戦しなかつたらどんなに批判されるかを考えていないんですか? あなたは大見出しがうれしいんじやないんですか? 『テロにおびえた大資本家』――『雇主殺人の脅迫に屈服』」
「特にな」スティンズ卿が、かすかに不愉快な感じのする口調で、言つた。「特にこの人は『鋼鉄建築の強い男』という見出しでもう何度も書き立てられたことがあるからな」
 サンドはまた真赤になつていたが、声は濃い口ひげの下からにごつて出てきた。「もちろん、その点はあんたの言うとおりだ。もしおれがこわがつているなどとこの畜生どもが思つたり……」
 ちようどこのとき、一座の話が中断されて、ホッソリした青年が足早にみんなのほうへ来た。真先きに目についたのはこの青年は少し美男過ぎて、男にはもちろん女にも反感を持たれかねないタイプだということであつた。黒い美しいちぢれた髪と絹のような口ひげの持主で、紳士のような口のきき方をしたが、これも上品過ぎてかなり気取つた口調であつた。ブラウン神父は、サー・ヒューバートの秘書ルーパート・レイだなと、すぐに気がついた……この男がサー・ヒューバートの家の中でブラブラしているところはたびたび見かけたことがあつたが、こんなに額にしわをうかべたり、もどかしそうにしていたりすることは一度もなかつた。
「すみません、社長」とレイは主人に言つた……「ですがあすこをうろついていた男があるんです。わたしはなんとかして追つぱらおうとしました。その男は手紙を一本持つているだけですが、それをあなたに自分で手渡ししなきやならないと言つて頑張つています」
「では最初家のほうへ来たのか」サンドは、すばやく秘書に視線を向けて、言つた。「きみは午前中ずつと家にいたんだろう」
「ハイ、そうです」
 短かい沈黙が続いた。それからサー・ヒューバート・サンドが、その男を連れてくるほうがよかろうと、そつけなくほのめかした……そこでその男が当然現われた。
 この新来者が美男過ぎるとは、だれも――最も好ききらいをいわないご婦人でも――言わなかつたであろう。大へん大きな耳をしていて、蛙のような顔であつた。そして自分の目の前をぶきみに目をすえて見つめていたが、これはガラスの入れ目をしているせいだろうとブラウンは気がついた。実はこの男は両方ともガラスの入れ目をしているのではないかと空想したくなつたほどであつた……それくらいガラスのような目つきで男は一座を眺めまわした。だが坊さんの経験は、そういう空想とははつきり別に、新来者の不自然な蝋人形のような目つきにもいくつか自然の原因を想像した……その一つは神さまの賜物である発酵飲料の濫用であつた。男は背が低く、みすぼらしいなりで、片手に大きな山高帽を持ち、別の手に封をした大きな封筒入りの手紙を持つていた。
 サー・ヒューバート・サンドは男の顔を見た……それから大々とした体格から出たにしてはどうやら奇妙なほど小さい声で、ごく静かに言つた「ああ――おまえさんだね」
 サンドは手紙を受け取ろうとして片手を出した。それから指をフラフラさせながら、弁解するようにあたりを見まわしてから、読んでしまうと、それをポケットに突つこんで、あわてたようにやや荒つぽく言つた――
「フム、どうやらこの問題は、みんなの言うとおり、おしまいらしい。こうなつてはもう交渉不可能だ。ともかくわれわれには奴らの望む賃銀は払えそうもない。しかしおまえにはもう一度会いたいな、ヘンリ――いろいろ片付けておく用がある」
「承知しました」ヘンリがややすねたように言つたのは、たぶん自分ひとりで片付けたかつたからであろう。「ぼくは昼飯をすませてから一八八号室に上がつています……あすこの仕事がどのくらい進んでるか見なきやなりませんから」
 ガラスの入れ目かもしれないが、ともかくガラスのようにドンヨリした目の男はぎごちなくトボトボと立ち去つた。ブラウン神父の目は(これはどう考えてもガラスの目ではなかつた)男がせまい梯子を通り抜けて往来に姿を消すのを、見送つていた。

 ブラウン神父が珍らしく寝過したのは翌朝のことであつた……あるいは遅れたに違いないと主観的に思いこんで少なくともハッとして眠りからさめたともいえる。これは一つは、いつもの時間近くに半ば目がさめてからまた寝こんだ事実を、夢をおぼえているのと同じように、おぼえていたためであつた。たいていの者にはごくふつうのでき事だが、ブラウン神父としては大へんふつうでないでき事であつた。そして後になつてブラウンが、ふだん世間から敬遠されているあの神秘的な頭で、妙に確信したのは、二回目がさめたあいだの夢の国の寂しい暗い入江に、この物語の真相が埋められた宝物のようにひそんでいたのだということであつた。
 そんなわけで、ブラウンはすばらしい早さで飛び起きて、服の中へ飛びこむようにして、例の大きなゴツゴツのこうもり傘をつかむと、大急ぎで往来に出た……わびしい真白な朝霧がくだいた氷のようにとぎれ勝ちに目の前の巨大な黒いビルディングのまわりにただよつていた。ブラウンは往来が冷たい水晶のように光つていてほとんど人けがないのに気がついてびつくりした……この分では心配したほどおそくなさそうであつた。するとふいにその静けさを突き破つたのは矢のように走つてきた大きな灰色の車で、人けのないビルディングの前に停まつた。スティンズ卿が中から姿を現わして、大きなスーツケースを二つ(かなりものうげに)さげながら、戸口に近づいた。そのとたんにドアが開いて、だれかが往来に出ようとして引き返したらしかつた。スティンズ卿が中の男に二度呼びかけると、やつとその男が最初の予定どおり玄関口に出てきたらしかつた。それから二人でちよつと話し合つていたが、けつきよくスティンズ卿はスーツケースをさげて上へ登つて行き、相手は外へ出てきた……明るい日なたに来ると、若いヘンリ・サンドの重々しい肩とあたりを見まわしている頭が見えた。
 ブラウン神父はこのかなり変てこな会見についてはそれつきり忘れていたが、とうとう二日後にヘンリ青年が自分の車を乗りつけてきて、ぜひこれに乗つてもらいたいと懇願した。「恐ろしいことがあつたんです……ぼくはスティンズよりあなたに聞いていただきたいんです。ホラ、スティンズが先日やつてきたのは、できあがつたばかりのアパートの部屋にキャンプしようという気違いめいた思いつきだつたのです。それでぼくは朝早くあすこへ行つてドアを開けなければならなかつたのです。だがあれはそのまま続いています。あなたにはすぐ伯父の家へ来てもらいたいのです」
「ご病気ですか?」坊さんはすばやく尋ねた。
「死んだものと思います」
「どういうつもりですか、死んだものと思うとおつしやるのは?」ブラウン神父はややキビキビときいた。「医者を呼びましたかな?」
「いいえ。医者も患者もいないんです……医者を呼んで体を見てもらうわけにはいかないんです……だつて体が逃げ出してしまつたんです。しかし残念ながらぼくにはどこへ逃げたかわかりそうもありません……実は――われわれはこれを二日間伏せておいたのですが、伯父は消えてしまいました」
「ありのままのでき事を初めから話していただいたほうがよくはないでしようかな?」ブラウン神父はおだやかに言つた。
「なるほど」とヘンリ・サンド――「きのどくな伯父についてこんな軽はずみな話を申しあげるのは実にはずかしいんですが、あわてるときはこんなものです。ぼくは物事を隠すのは不得手ですから、長い短いを言わずにいえば――いや、長いほうはいま申しあげないでおきましよう。こいつは困難な話で、でたらめにほうぼうに疑いをかけたりなんかしそうですからね。しかし短いほうは不幸な伯父が自殺をしたということです」
 二人はこの時分には車を飛ばして、町の最後の周辺やその先きの森林や荘園のあいだを通り抜けていた。サー・ヒューバート・サンドの小さな所有地の番小屋の門が半マイルほど先きのブナの木立の濃くなつている所にあつた。この所有地は大部分が小さな荘園と大きな装飾的な庭で、庭は古典的に壮麗な段々になつて、この土地で一番大きな川の水ぎわまで下つていた。屋敷に着くがいなや、ヘンリはややせつかちに坊さんを案内してジョージ王朝式の古い部屋を通り抜けて裏側に出た。そこから二人は無言のまま坂を降りた……かなり急坂で堤には花が咲き乱れ、そこからは目の前に青白い川のひろがつている景色が一目に見渡せた。細道の角にあるやや不調和なゼラニュームの花飾りをのせた巨大な古典的の壺の下を曲ろうとしたとき、ブラウン神父はすぐ目の下の藪とまばらな木立の中で動いたものを見た……ハッとして飛び立つた小鳥のようにすばやい動きだつた。
 川のそばのまばらな木立の茂みで二つの人影が引きわかれるか分散するかしたらしかつた。その一つはすばやく物蔭にスーッとはいつてしまつたが、もう一つのほうは進み出て二人に向かい合つたので、こちらもピタリと立ち止まると、だしぬけに妙な沈黙が続いた。やがてヘンリ・サンドがいつもの重苦しい調子で言つた――「ご存じでしよう、ブラウン神父さんです……サンド夫人です」
 ブラウン神父は夫人を知つていた。しかしこの瞬間の夫人は知らなかつたと言えそうであつた。青白くひきしまつた顔は悲劇の仮面に似ていた……夫よりずつと年下だつたが、その瞬間の彼女はこの古い屋敷や庭の中のどんな物よりもいくらか古びて見えた。そして坊さんは、内心ひそかにゾッとしながら、思い出したが、夫人のほうが実際に人柄も家柄も古くて、この屋敷のほんとの持主だつたのである。というのは彼女の実家は前にここを持つていた貧乏貴族で、その後彼女は実業家として成功した男と結婚したおかげで家の財産を取り戻したのであつた。そこに立つている彼女の姿は、一家の肖像画であつたかもしれないし、あるいは一家の亡霊でさえあつたかもしれない。その青白い顔は、スコットランドのメリイ女王の古い肖像画に見られる、あのとがつていながら卵形のタイプであつた……そしてその表情には夫が姿を消して自殺の疑いがあるという場合のごく自然な不自然さ以上のものがありそうに見えた。ブラウン神父は、相変らず内心ひそかに頭を仂かせながら、夫人が木立のあいだで話していた相手はだれかしらと、考えていた。
「あなたはこの恐ろしいニュースをすつかりご存じなんでしよう」夫人は、わびしいおちつきぶりで、言つた。「かわいそうにヒューバートはあの革命派の迫害で参つてしまつたに違いありませんわ……そして気が狂つて自分の命を捨てるようなことになつたんです。あなたにも何をしていただいたらいいのかわかりませんわ……それにあの怖い過激派の人たちにだつてあの人を死に追い詰めた責任を背負わせるわけにはいかないでしようからねえ」
「まつたくおきのどくです、奥さま」とブラウン神父。「そしてやはり、正直のところ、多少まごついています。迫害だというお話でしたな……奥さまは、だれがやつたにしてもただあの紙片を壁にはりつけただけでご主人を死に追い詰められるとお考えになりますか?」
「あの紙片のほかにも迫害があつたような気がいたしますわ」夫人は、額を暗くしながら、答えた。
「そうなると人間がどんなまちがいをするかがよくわかります」坊さんは悲しげに言つた。「わしはご主人が死を避けるために死ぬほど非論理的な方だとは夢にも思いませんでしたがなあ」
「わかりますわ」夫人は、坊さんの顔を厳粛に見つめながら答えた。「わたくしだつて、あの人の手で書いたものがなかつたら、信じやしなかつたでしようけどねえ」
「何ですと?」ブラウン神父は、銃を向けられた兎みたいにちよつと飛びあがつて、叫んだ。
「ええ」とサンド夫人は静かに言つた。「主人は自殺の告白を残しました……ですから疑う余地がないらしいんです」そう言うと夫人はひとりで坂を上がつて行つた……当家の亡霊の侵すべからざる超然としたようすを見せながら。
 ブラウン神父の眼鏡が黙然として問いかけるようにヘンリ・サンド氏の眼鏡のほうに向いた。するとヘンリは、ちよつとためらつてから、例のかなり盲めつぱうな[#「盲めつぱうな」はママ]がむしやらなようすでまた話し出した――「そうなんです。ねえ、これで伯父がどうしたか、かなりハッキリしたでしよう。伯父はいつも泳ぎが得意で、毎朝部屋着で降りてきて川で一泳ぎすることにしていました。ええ、伯父はいつものとおり降りてきて部屋着を堤に脱ぎ捨てました……まだそこに残つたままです。ですが、これが最後の泳ぎでこれから死ぬつもりだという伝言も残して行きました」
「どこへ残して行かれたのですか?」とブラウン神父はきいた。
「あすこの、水面におおいかぶさつているあの木に走り書きして行つたんです……どうやらそれが最後に手をふれたものなんでしよう……部屋着を置いてあるすぐ下です。自分で見てきてください」
 ブラウン神父は最後の短い坂を川岸まで駆け降りると、梢が流れにひたりそうなほどたれさがつている木の下で、つくづく眺めまわした。たしかに、なめらかな樹皮の上に目につくようにまちがいなく「もう一泳ぎしてからおぼれて死ぬ。さよなら。ヒューバート・サンド」という文句が走り書きしてあるのが見えた。ブラウンの視線はゆつくり堤のほうに移つて、おしまいに金ピカの房のついている赤と黄色の豪華な衣服らしい物の上で止まつた。それは例の部屋着だつた。坊さんはそれを拾い上げて、ひつくりかえしてみようとした。そのとたん人影が視野をかすめたのに気がついた……姿を消した夫人のあとを追おうとするように、木立から別の木立へスーッと消えた、背の高い黒ずんだ人影であつた。それがついさつき夫人と別れた相手だということはほとんど疑いなかつた。それが故人の秘書ルーパート・レイ氏だということはなおさら疑いなかつた。
「もちろん、この伝言を残そうというのはあとになつて最後に思いついたのかもしれませんわい」ブラウン神父は目を伏せて、赤と金の部屋着に視線をそそぎながら、言つた。「わしらは愛の伝言を木に書いた話を聞いています……すると死の伝言を木に書くこともありましような」
「いや、部屋着のポケットでは何もはいつていなかつたでしようからね」と若いサンド。「そしてペンもインクも紙もなかつたら、自然と木に走り書きするかもしれないな」
「フランス語の勉強みたいな話じや」と坊さんは陰気に言つた。「したがわしはそんなことを考えていたのではありません」それから、ちよつと沈黙してから、かなり別人のような声で言つた――
「実をいえば、わしが考えていたのは、たとえペンの山と、インクの大びんと、くさるほどの紙があつたとしても、自然と木に走り書きすることがありはすまいかということでした」
 ヘンリはししつ鼻の上の眼鏡を曲げたまま、かなり仰天したようすで相手の顔を見ていた。「じやそれはどういう意味です?」と鋭くきいた。
「いや」ブラウン神父はゆつくり言つた……「まさかわしの言うのは、郵便配達が丸太の形の手紙をかついで歩くとか、友達に手紙を出すのに松の木に切手をはつて出すとかいう意味ではありません。こりや特定の場合にかぎるでしような――事実、ほんとにこの種の樹木通信法をえらぶのは特定の人物にかぎるでしよう。したが、そういう場合と人物とであれば、いま申しあげたとおりですわい。その男は、もし全世界が紙ですべての海がインクであつても、歌にあるように、やつぱり木に書こうとするでしような……もしあの川が永遠にインクであふれ、この森が鵞ペンと万年筆の林であつたとしてもなあ」
 坊さんのとんでもない幻想にサンドがゾクゾクするような気がしたのは明らかであつた……彼にはそれがまつたくわけがわからなかつたからか、それともわかりかけてきたからか、どつちかであつた。
「よいかな」ブラウン神父は言つたが、話しながらゆつくり部屋着をひつくりかえしていた……「木に文字をきざみつけるときは、どうにもうまく書けるはずがない。そこで、ハッキリ言えば、もしその男がその男でないとすると――ヤア!」
 ブラウンは赤い部屋着を見下していた……その瞬間、部屋着の赤い色が取れて指についたように見えた。しかしそのほうに向けた二人の顔はどちらもやや青ざめていた。
「血!」とブラウン神父は言つた……とたんに死のような沈黙が続いてきれいな川音がきこえるだけであつた。
 ヘンリ・サンドはどう考えてもきれいとはいえない音を立ててせきばらいをした。それからかなりひからびた声で言つた――「だれの血ですか?」
「ああ、わしのじや」とブラウン神父は言つたが、ニコリともしなかつた。
 しばらくしてブラウンは言つた――「この中にピンがあつたので、わしは指を刺しました。したがどうやらあなたにはその点がよくおわかりにならんようじや……ピンの先きほどの要点ですぞ」そこでブラウンは子供のように指を吸つた。
「よいかな」ブラウンはまた黙つていてから言い出した――
「部屋着はたたんでピンで留めてありました。だれにもひろげられなかつたはずじや――少なくともそんなことをすれば指をひつかかれたでしよう。わかりやすく言えば、ヒューバート・サンドは絶対にこの部屋着を着ていないのです。それと同じにヒューバート・サンドはあの木に字を書いたりしませんでした。それからあの川に身を投げたりもしませんでした」
 ヘンリのけげんそうな鼻の上の鼻眼鏡がかたむいて、カタンと落ちた……しかし驚きで硬直したように、ほかは不動のままであつた。
「そうなると元へ戻つて、だれかの趣味で、ハイアワーサとその画文字のように、自分のひそかな通信を木に書いたのではないかという問題になります」ブラウン神父は上きげんで話を進めた。「ヒューバートは身を投げる前にいくらでも時間がありました。なぜ正気の人間らしく自分の細君に手紙を残さなかつたのでしようか? あるいは、こう言いましようか……なぜその別の男は正気の人間らしくあの細君に手紙を残さなかつたのでしようか? そりやその男がヒューバートの筆跡を偽造しなければならなかつたからですわい……そいつは今日では専門家がかぎつけますから、いつでもなかなか手ぎわのいる仕事です。したが、木の皮に大文字を彫りつけるのでしたら、こりや他人の筆跡はさておき、自分の筆跡にだつて似そうもありませんわい。これは自殺ではありませんぞ、ヘンリさん。ではいつたい何かといわれれば、そりや殺されたのですわい」
 下ばえの雑草や灌木がバリバリポキンと音を立てたのは、大がらのヘンリがレバイアサン(水中に住む巨大な怪物)のようにそれを踏みつけて、太い首を前に突き出しながら険悪なようすで立つていたからであつた。
「ぼくは物を隠すのは不得手です……こんなことではなかろうかと半ば疑つていました――ずつと前から予想していたと言つてもいいかもしれない。実をいえば、ぼくはこうなるとそいつに――そいつらのどつちにも親切にしてやれそうもありません」
「つまりどういう意味ですかな?」坊さんは厳粛に相手の顔をまともに見ながら、きいた。
「つまり、あなたが殺人をはつきりさせたので、ぼくはその殺人犯人どもをはつきりさせられると思うんです」
 ブラウン神父が黙つていると、ヘンリはなんだかビクッとしたように話を続けた。
「あなたは恋の伝言なら木に書くことがあつたと言いましたね。なるほど、事実、あの木にはそれがあるんです……あすこの葉の下に二通りの組合せ文字がからみ合わせてあります――ご存じでしようが、伯母は伯父と結婚するずつと前からこの地所の相続人だつたのです。そして当時すでにあのいまいましいシャレ者の秘書を知つていました。どうも二人はいつもここで会つて、おたがいの誓いを約束の木に書いていたようです。後になつてこの約束の木を別の目的に使つたらしいんです。きつと、感傷か、経済のためでしよう」
「そりや大へん恐ろしい人たちに違いありませんわい」
「歴史や警察のニュースにも恐ろしい人間がいるじやありませんか?」ヘンリはやや興奮して詰問した。「愛情は憎悪以上に恐ろしいものだと思わせた恋人たちがいるじやありませんか? あなたはボズウェルや、そういう恋人たちの血なまぐさい伝説について、ご存じないのですか?」
「ボズウェルの伝説は存じています」と坊さんは答えた。「それがまつたくの伝説だということも存じています。したがもちろん、時には夫をあんなふうに片づけてしまうこともあるのは事実です。ところで、サンドさんはどこへ片づけられたのですか? つまり、あの人たちは死体をどこへ隠したのですかな?」
「ぼくの想像では、奴らは伯父をおぼれさせたか、でなければ死んでから川の中へ投げこんだかしたと思います」青年はイライラして鼻を鳴らした。
 ブラウン神父は考え深そうに目をパチクリさせてから言つた――「川というものは死体を隠そうと空想するにはいい所です。本物の死体を隠すにはとんでもない悪い所です。つまり、あなたが川の中へ投げこんだろうと簡単におつしやるのは、死体が海に押し流されるからというわけでしよう。ところがほんとに投げこんだ日には、百に九十九も流されつこありませんのじや。どこかの岸へ流れつくチャンスのほうがずつと多いのです。どうやらあの人たちにはそれよりもつと上手に死体を隠す計画があつたに違いありません――でなかつたら、死体はいままでに見つかつていたでしようからな。そしてもし暴力を加えた跡があれば……」
「チェッ、死体の隠し場か」ヘンリは、イライラしながら、言つた。「奴らのいまわしい木に書いた文句だけでも十分な証拠じやありませんか?」
「どんな殺人でも死体が一番の証拠です。死体の隠し場は、十中八九、解決しなければならない実際問題です」
 沈黙が続いた。ブラウン神父は依然として赤い部屋着をひつくりかえして、日のあたる岸のキラキラ光つている草の上にひろげていた……彼は目を上げなかつた。しかし少し前から気がついていた――彫像のように静かに庭に立つている第三者がいるためにブラウンには全体の景色が一変したような気がしたのであつた。
「ところで」とブラウンは、声を低くして、つけくわえた……「あなたはあのガラスの目の小男をどう説明なさるかな……ホレ、昨日伯父さまに手紙を持つてきましたな? サンドさんはあれを読むとすつかり人が変つたようでした。それだからわしは自殺の知らせには驚きませんでした……あの時は自殺だと思いましたからな。あの男は、わしの感違いでなかつたら、かなり下等な私立探偵ですわい」
「だつて」ヘンリはためらうように言つた……「だつて、あの男はそりや――こういう家庭悲劇では夫が私立探偵を雇うこともあるでしよう? たぶん二人の密通の証拠を手に入れたんでしよう……そこであの二人は――」
「大きな声では言えませんのじや」とブラウン神父……「いまちようどあの探偵があすこの茂みの一ヤードほど先きからこつちを探偵してますからな」
 二人が目を上げると、たしかにガラスの目の鬼のような男があの不愉快な片目をすえて見ていた……古典的な庭の蝋のように白い花の中に立つているので、なおさらグロテスクなかつこうに見えた。
 ヘンリ・サンドはあの大きな体では息が切れるかと思うほどの勢いでまた立ちあがると、だしぬけに大へん怒つてその男に「何をしてるんだ、すぐ出て行け」と言いつけた。
「スティンズ卿がブラウン神父においでを願つてぜひお話したいことがあるそうです」と庭の小鬼は言つた。
 ヘンリ・サンドは憤然として立ち去つた。しかし坊さんはその憤慨はヘンリと当の貴族とのあいだにかねてから宿つている反感のせいだと思つた。小男と一緒に坂を登りながら、ブラウン神父はちよつと足を止めて、なめらかな木の幹にきざんだ模様をたどるように、ロマンスの記録だという一段と暗い隠れたしるしを一度見上げた……それから自殺の告白(あるいは告白だと思われているもの)のもつと大きなぶかつこうな文字を見つめた。
「この文字から何か思い出しますかな?」とブラウンはきいた。そしてむつつりした連れが首を振ると、言いそえた――
「わしはあのプラカードの字を思い出します……ストライキをやつている連中が復讐するぞといつてサンドさんを脅迫したあの掲示じや」

「これはわしがいままで取り組んだ中で一番むつかしい謎であり一番変な話です」とブラウン神父が言つたのは、最近家具を入れたばかりの一八八号のアパートでスティンズ卿と向かい合つて坐つたときであつた――この端の部屋は、従業員の論争と労仂組合からの仕事の引渡しとの中間期間の前に、できあがつた最後のものであつた。気持のいい部屋で、スティンズ卿が強い飲物と葉巻をたしなんでいるあいだに、坊さんは顔をしかめながらこの告白をした。スティンズ卿は、冷静な何げない態度で、かなり驚くほど親切になつていた。
「あなたほどの記録の持主ですから、そりや大げさに言われたのでしような」とスティンズ……「しかしたしかに探偵連中には、あのすてきなガラスの目の友人もふくめて、いつこうに答えが見つかりそうもありませんね」
 ブラウン神父は葉巻を下に置いて、用心深く言つた――
「そりや答えが見つからないのではありません。連中には問題が見えないのです」
「なるほど、どうやらわたしにも問題が見えないようです」とスティンズ卿。
「この問題がほかのいろんな問題と違うのは、こういうわけです。どうやら曲者は故意に二つのまつたく違うことをやつてのけたのです……どつちか一つなら成功したかもしれませんが、そいつを両方やつたのではどつちもだめになるだけでしよう。わしの想像では、同じ犯人が過激派の殺人を思わせるような脅迫的宣言を掲示する一方、ふつうの自殺を告白する文句を木に書いたものと、確信します。さて、けつきよくあの宣言はプロレタリアの宣言で、過激な労仂者連中が雇主を殺したくなつて殺したのだとも言えましよう。たとえそれが事実だとしても、なぜその連中が――またはなぜだれかが――まるであべこべの個人的な自殺の跡を残したかという問題の秘密が残ります。したが、そりやたしかに事実ではありません。こういう労仂者連中は、どんなに冷酷でも、そんなことはしなかつたでしようからなあ。わしは連中をかなりよく知つています……彼らの指導者たちを大へんよく知つています。トム・ブルースやホーガンのような連中が、新聞で叩きつけることのできる相手を暗殺して、いろんな違つた方法で痛めつけるだろうと考えるのは、分別のある者なら狂気と名づけるたぐいの精神状態です。いやいや……憤慨した労仂者とは違う、或る男がいたのです……その男がまず最初に憤慨した労仂者の役割を演じてから、続いて自殺した雇主の役割を演じたのです。したが、実に不思議なのは、なぜか? ということです。もしその男が、そいつを自殺に見せかけてスラスラ切り抜けられると思つていたのなら、なぜ最初に殺人の脅迫を公表して自殺説をぶちこわすようなことをしたのでしようか? 殺人より騒ぎの少ない自殺の話に決めたのはあとになつての思いつきだとおつしやるかもしれません。したが殺人の話が出たあとの自殺では騒ぎがなおさら大きくなります。その男としてはみんなの頭を殺人からそらせておくのが目的のすべてであつたのに、あの脅迫状ですでにみんなの頭を殺人のほうに向けてしまつたことを知つていたに違いありません。もし自殺話があとからの思いつきとすれば、ずいぶん考えのない人間のあとからの思いつきでした。したが、わしはこの犯人は大へん考え深い人間だと思つています。これで何か見当がおつきになりますかな?」
「いいや……しかしわれわれは問題さえ見ていないのだとおつしやるあなたのお言葉の意味はわかります。問題は、単にだれがサンドを殺したかというだけじやないんですね……それは、一度ほかの者にサンド殺しの罪をなすりつけておきながら、こんどは自殺だといつてサンド自身に罪をなすりつけようとするのはなぜか、ということです」
 ブラウン神父の眉がひそみ、葉巻を固くくわえた……葉巻の先きがリズミカルに明滅しているのが頭脳の熱烈な鼓動を思わせた。それからまるでひとり言のように話しかけた――
「わしらはごく精密にごくはつきり跡を追わねばなりません。それはもつれ合つた考えの糸を解きほぐすようなものです……まあ、こんなふうなことでしよう。殺人の告発はむしろほんとに自殺の告発をメチャメチャにしてしまいますから、犯人はふつうならあんな殺人の告発はやらなかつたでしよう。したがあの男はそうしたのです……そこでそれには何か別の理由がありました。大へんに強い理由でしたから、おそらく犯人は別の自己弁護の道――つまり自殺説――が弱くなつたのさえ甘んじたのです。言いかえれば、あの殺人の告発は実は殺人の告発ではありませんでした。つまりあれを殺人の告発に使うつもりではなかつたのです……ほかの者に殺人の罪をなすりつけるためではなかつたのでした……犯人がそうしたのはまつたく別のとんでもない理由があつたからです。彼の計画にはサンドが殺されるという宣言をふくめる必要がありました……それがほかの連中に疑いをかけることになろうとなるまいと、そんなことはどうでもよかつたのです。ともかくなんとしてもあの宣言そのものが必要なだけでした。したが、なぜでしようか?」
 ブラウンは煙草をふかした……五分間というものは相変らず噴火山のように夢中で煙を吐いていたが、やつとまた口をひらいた。
「殺人の宣言は、ストライキの連中が殺人犯人だと暗示する以外に、どんな役目をはたすことができたでしようか? どんな役目をはたしたか? 一つだけ目につくことがあります……あれは必然的に宣言したことと正反対の役目をはたしました。あの宣言は、労仂者をロックアウトするなと、サンドに言いました……ところがあれこそおそらくサンドに本気でロックアウトをやる気にならせた唯一の原因でしたわい。あなたは人間の種類と名声の種類を考えねばなりません。その人が今日のばかげた煽情的な新聞で『強い男』と呼ばれているとなると……英国のアホウな名士連中に『スポーツマン』だといつて賛美されているとなると、こりやピストルでおどかされたところでアッサリあとへは引けませんわい。あとへ引いたりすれば、ばかげた真白な帽子に真白な羽根をさしてアスコット競馬場を歩きまわるようなものになりますからな。そうなると、よほどの卑怯者でないかぎり、どんな人でもほんとに命より大切に思う、自分自身の偶像――つまり理想――が打ちこわされます。そしてサンドは卑怯者ではありませんでした……勇気に富み、かつ衝動的でもありました。あの宣言は即座に呪文のような作用をしました……甥のヘンリは、多少とも労仂者の中にまじつていたことがあるのに、こんな脅迫は絶対に即刻挑戦しなければならんと、即座に言いました」
「ウン、それは気がついていた」とスティンズ卿が言つた。二人はちよつとおたがいに顔を見合わせたが、やがてスティンズがむとんちやくにつけくわえた……「ではあなたの考えでは、犯人がほんとに望んでいたのは……」
「ロックアウト!」と坊さんは力いつぱいに叫んだ。「ストライキか、それとも何と言おうとよろしい……ともかく、仕事の中断じや。犯人は仕事をすぐにやめさせたかつたのです……おそらくストライキ破りの連中をすぐに来させるためでしようし……たしかに組合員をすぐ追い出すためでした。それが犯人のほんとに望んだことでした……なぜだかそりやわかりつこありません。そして犯人はどうやらそれをやりとげたので、あの宣言が過激派の暗殺者の存在を暗示しているという別のふくみにはほんとうに大して気を使わなかつたのです。したがその時……その時どうも何かまずいことがあつたのだと思いますのじや。この辺はわしのホンの想像でごくゆつくり手さぐりしているだけですが、わしに思いあたる唯一の説明は、何かの事情で犯人がほんとに気にかけていた所が人目につきはじめたからではないかということです――つまり、どんな理由にもしろ、建築を中止させたいと望んだ理由が人目につきはじめたのです。そこで遅ればせながら、必死に、しかもかなり矛盾しているのに、犯人が川へ続くあの別の道を進もうとしたのは、単にまつたくそれがアパートから遠ざかる道だつたからでした」
 ブラウンはお月さまのような眼鏡越しに目を上げて、背景や家具のようすにすつかり見とれていた……世なれた物静かな男のひかえめの贅沢……そしてそれをあの二つのスーツケースと比較してみた……この部屋を占領しているスティンズ卿が、新しくできあがつたばかりでまだすつかり家具のはいつていないアパートについ先日来たときは、そのスーツケースをさげているだけであつた。
「手短かに言えば、犯人はアパートの中の何かにあるいは何者かにおびえたのです。ときに、なぜあんたはこのアパートに住むことにしたのですか? ……それにまたついでですがヘンリ青年の話では、あんたは引越していらしたとき早朝彼に会う約束だつたそうですな。それは事実ですかな?」
「とんでもない。わたしはあの前の晩ヘンリの伯父から鍵をもらいました。わたしにはなぜヘンリがあの朝ここへ来たのか、まつたく見当がつきません」
「ああ」とブラウン神父……「それならわしにはなぜあの青年が来たのか見当がつきそうです……あんたは彼をびつくりさせたことでしような……ちようど彼が外へ出ようとしていたときにあんたがはいつてきたのですからな」
「それにしても」スティンズは灰緑色の目をキラリと光らせて見わたしながら、言つた……「どうやらあなたはわたしも一つの神秘だと思つていますね」
「わしはあなたを二つの神秘だと思つていますわい。第一はそもそもあなたがサンドの事業から引退したのはなぜかということです。第二は、あなたが帰つてきてサンドの建物に住むようになつたのはなぜかということです」
 スティンズは思い沈みながら煙草をふかして、灰を叩きおとすと、前の卓上のベルを鳴らした。「おさしつかえなければ、わたしはこの会議にもう二人呼びよせます。ご存じの小男の探偵ジャクソンがベルに答えてくるでしよう。それからヘンリ・サンドにはもう少ししたら来るようにと言つてあります」
 ブラウン神父は席を立つて、部屋を横切り、顔をしかめながら炉を見下した。
「そのあいだに、あなたのご質問に二つともお答えしてもかまいません」とスティンズは続けた。「わたしがサンドの事業から手を引いたのは、何か不正があつて金をごまかしている者があると確信したからです。わたしが帰つてきてこのアパートにはいつたのは、老サンドの死についてほんとの真相を見つけ出したかつたからです――それも現場で」
 ブラウン神父は、探偵が部屋にはいつてきたとき、クルリと顔を向けた……炉の前の敷物を見つめながらおうむがえしに言つた――「現場で」
「ジャクソン君が話すでしようが、サー・ヒューバートはこの人を雇つて、会社の金を盗んでいる賊が何者かを見つけさせたのです」とスティンズ。「そこでジャクソン君は、ヒューバートが姿を消す前日に、自分が発見したことの報告を持つてきました」
「さよう」とブラウン神父。「そしてわしは、サー・ヒューバートがどこへ姿を消したのか、やつとわかりました。わしは死体のある所を知つています」
「するとあなたは――」スティンズがあわてて言いかけた。
「ここにあるのじや」とブラウン神父は言つて、炉前の敷物を踏みつけた。「ここじや……この気持のいい部屋の上品なペルシャじゆうたんの下じや」
「いつたいあなたはどこからそんなことを見つけ出したのです?」
「たつたいま思い出しましたが、わしは眠つているあいだに見つけたのです」
 ブラウンは夢を描き出そうとするかのように目を閉じて、夢見るように続けた――
「これは死体をどうして隠すかという問題が中心になる殺人です。そしてわしはそれを眠つているあいだに見つけたのです。わしはこのビルディングのハンマーの音で毎朝いつも目をさまされました。あの朝わしは半分目がさめかけて、また寝こんでしまつてから、もう一度目をさましたので、もうおそいつもりでいました……ところがおそくなかつたのです。なぜか? そのわけは、いつもの仕事がすつかり中止されていたのに、その朝はハンマーの音がしたからです……夜明け前の暗いうちに短い、急いだハンマーの音がしました。眠つているときにこういう耳慣れた音を聞かされると自動的にピクリとします。したが、いつもの時間のいつもの音ではないから、また寝こんでしまいます。さて、あの隠れた悪党がふいに仕事を全部中止させて、新しい労仂者だけを入れたがつたのはなぜでしようか? そのわけは、もし前からの労仂者が翌日やつてきたとしたら、その晩のうちにやつた新しい仕事を見つけ出したでしようからなあ。前からの労仂者はどこで仕事を打ち切つてあつたか、知つていたでしよう……そしてこの部屋の床が全部釘付けがすんでいるのに気がついたでしよう。釘付けしたのはそのやり方を知つている或る男です……労仂者の中にまじつてやり方を習つた男です」
 ブラウンが話していると、ドアが開いて、頭を突き出すようにしてのぞきこんだ者があつた……太い首についた小さな頭と、眼鏡越しに一同を見て目をパチクリさせた顔。
「ヘンリ・サンドは、物を隠すのは不得手だと、言いました」ブラウン神父は、天井を見つめながら、批評した。「したがそりや感違いだと思いますわい」
 ヘンリ・サンドはクルリと背中を向けて、廊下を足早に遠ざかつて行つた。
「ヘンリは会社の金を盗んでいたのを何年ものあいだうまく隠していただけではありません」坊さんは放心状態で続けた……「その上また伯父にそれを発見されると、あの男は伯父の死体をまつたく新しい独創的な方法で隠しました」
 そのとたんにスティンズがまたベルを鳴らしたが、こんどは耳ざわりな音が長くいつまでも続いた……するとガラスの目の小男が逃げた男のあとを追つて突き飛ばされたように廊下を駆け出したが、なんだか走馬燈の中の機械的な絵姿が回転しているような感じであつた。同時に、ブラウン神父は、小さなバルコニイから乗り出すようにしながら、窓の外を見た。すると眼下の往来の木の茂みや垣根のうしろから五六人の男が飛び出して、同じく機械的に扇か網のように散開するのが見えた……玄関のドアから弾丸のように駆け出した逃亡者のあとを追つてひろがつたのであつた。ブラウン神父は事件の型を見てとつただけであつた……この事件は一度もその部屋から離れなかつた……ヘンリはそこでヒューバートの首を絞めて死体を不可侵性の床張りの下に隠し、そのためにビルディングの仕事を全部中止させたのであつた。ピンで指を刺したのがブラウンの疑いはじめた元であつた。しかしヘンリに話して聞かせるため遠まわりの嘘をついたのであつた。ピンの要点はテンからのだじやれであつた。
 ブラウンはやつとスティンズの人がらがのみこめたような気がしたし、なかなかのみこめないような変り者に出合うのは好ましかつた。この疲れている紳士は、さだめて緑色の血をしているだろうと一度はブラウンも非難したが、実は誠実な良心や因襲的な名誉心の冷たい緑色の炎のようなものを持つているのだということがわかつた……それだから彼は初めこのいかがわしい事業から抜け出しておきながら、やがてそれを他人に肩代りさせて抜け出したのをはずかしく思つたのであつた。そこでウンザリしながらも一骨折つて探偵するつもりで帰つてきて、死体を埋めた現場にキャンプを張つた。犯人は、スティンズが死体のすぐそばでクンクンかぎまわつているのに気がついて、その代りに例の部屋着とおぼれた男の劇を夢中になつて道具立てしたのであつた。それがみんなすつかりはつきりした。しかし、ブラウンは夜風と星から頭をひつこめる前に、夜空に遠くふくれあがつている、巨人のようなビルディングの真黒な巨体をチラリと見上げて、エジプトやバビロンや、それから人間の製作物の中で永遠であると同時につかの間の物をみんな思い出した。
「わしが最初に言つたとおりでした」とブラウンは言つた。
「これはエジプト王とピラミッドをうたつたフランソア・コペの詩を思わせますわい。この建物は百軒の家になると思われています……それなのに、この山のようなビルディングの全部がわずか一人の男の墓場になつていますわい」





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字7、1-13-27) ピンの先き」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード