ブラウン神父の醜聞

THE SCANDAL OF FATHER BROWN

G・K・チェスタートン G. K. Chesterton

村崎敏郎訳




 ブラウン神父の数々の冒険を記録しておきながら、この人が一度は重大な醜聞に巻きこまれたことがあるのを認めないでおくのは公平でなさそうだ。ブラウンの名前には汚点がついていると言う人が、おそらく坊さん自身のお仲間にさえ、いまだにあるくらいだからである。事が起つたのは、絵のように美しいメキシコの路傍にある、あとで明らかになるように、かなり評判の悪い旅館の中であつた。そして或る人々には、初めてこの坊さんが頭の奥のロマンチックな気分と人間らしい弱点に対する同情心に動かされてダラシのない不当な行動を取つたように見えたのであつた。話そのものは単純な話で、たぶん単純だからこそ驚くべき事だつたのであろう。
 トロイの落城の発端は美女ヘレンにあつた……この不面目な話の発端はハイペシア・ポターの美貌にあつた。アメリカ人には一つ偉大な力がある……ヨーロッパ人はかならずしもそれを高く買つていないが、それは名士を下から――つまり民衆がイニシアテイブを取つて作り出す力である。他のあらゆる長所と同じように、これにはいろいろ明るい面がある……その一つはウエルズ氏その他が注目したように、官公職の名士にならなくても天下の名士になれることである。すぐれた美しさや才気のある娘は、映画スターやギブスンガール(米国の美術家ギブスンの描いた、理想的なアメリカ女)の典型でなくても、一種の無冠の女王になれる。こうして運よく、または運悪く、広く世間に美人で通つている連中のなかに、ハイペシア・ハードという婦人がいたが、この婦人は田舎新聞の社交欄ではなやかなおせじを受ける準備時代を卒業して、現にほんとうの新聞記者にインタビューを求められる地位に達していた。戦争や平和や愛国心や禁酒法や進化論や聖書について彼女はチャーミングな微笑をうかべながら意見を発表した。こういう意見は彼女自身の声価のほんとうの根拠としては縁が遠そうであつたが、ではその声価の根拠はほんとのところ何かというと、やはりそれもはつきり決めにくかつた。美人で金持の娘だというだけなら、彼女の国アメリカでは珍しくないことである。しかしそれに加えて彼女はジャーナリズムのキョロキョロしている目を引きつけるだけのものを何でも持つていた。彼女の賛美者はほとんど一人も彼女に会つたことがなかつたし、特に会いたがつてもいなかつた。まして彼女の父親の財産からさもしい利益を引き出せるわけでもなかつた。これは単に一種の民衆のロマンス――神話にかわる現代の代用品であつた。それが最初の土台になつて、後に彼女がもつと大げさで猛烈なロマンスに登場することになつたのである。そしてこのロマンスでブラウン神父の評判が、ほかの関係者と同じにすつかり地に落ちてしまつたのだと考える者が多かつた。
 アメリカ式の皮肉な表現で「すすり泣く女たち」(センチメンタルな婦人記者のことを言う)と呼ばれている連中が、時にはロマンチックに、時にはあきらめたように、認めていたのは、ハイペシアがポターという名の大へん尊敬されている立派な実業家とすでに結婚していたことであつた。この夫はポター夫人の夫であるというだけの存在だと天下に諒解してもらつておけば、さしあたり彼女をポター夫人と考えておいてもよかつたのである。
 その時あの大醜聞が出てきて、それには彼女の敵も味方もおぞけをふるつて何ともいえないほど絶望した。彼女の名前がメキシコに住んでいる或る作家に結びつけられたのだ……この男は国籍はアメリカだが、精神的にはまつたくのスペイン系アメリカ人であつた。運悪く彼の悪業は、いい新聞種になる点で、彼女の美徳に似ていた。つまりほかならぬ有名なあるいは悪名高い、ルーデル・ロマーニズだつた……この詩人の作品は、図書館から拒否されたり警察から迫害されたりしているために、広く世間の人気を呼んでいた。ともかく、彼女の清らかで物静かな星がこの彗星と接触して行くように見えた。彼は彗星にたとえるのにふさわしいたちの男で、毛深くて熱烈だつた……第一の点は彼の肖像に、第二の点はその詩に現われている。それからまた破壊的であつた……この彗星の尾は幾度かの離婚の跡をたどつていて、それは恋人としての成功だと言う人もあつたろうし、また夫としての長いあいだの失敗だという人もあつた。醜聞はハイペシアにはつらいことであつた……広く世間に知られていると完全な個人生活を送るのにはいろいろの不便がある。まるで家の内部がショーウインドにさらされているようなものだからである。インタビューした連中は、最高の自己発現という愛の大法則についての怪しげな説を報告した。異教徒は喝采した。オセンチ婦人記者はロマンチックな口調で遺憾の意を表した。中には、モード・ミュラーの詩から引用するほど手きびしい心臓の強いのがいて、舌やペンから出るあらゆる言葉の中で一番悲しいのは「かくありたけれど」という言葉だと結論する者もあつた。するとエイガー・P・ロック氏は、神聖な義憤からオセンチ婦人記者連中に憤慨して、この事件では自分は、ブレット・ハートがミュラーの詩を修正した「われらが日ごと見るものこそ悲しけれ。されど、かくあるべきにあらず」という文句にまつたく賛成する、と言い出した。
 これはロック氏が、たいていのことはかくあるべきにあらずと、大へん断固として正しく確信していたからであつた。彼は、ミネアポリス・ミーティア紙上で、国民の堕落について猛烈な手きびしい批評をしていた、勇敢で正直な人だつた。どうやらカッとして腹を立てることばかり専門にしすぎるようであつたが、それには十分健全な理由があつて、現代のジャーナリズムやゴシップがミソもクソも一緒にしようとするダラシのないやり方に対する反動だつたのである。彼が最初にそれを表現したのは、銃器を持つた悪党やギャングに神聖をけがすようなロマンスの後光を投げかける習慣に対して抗議したときであつた。たぶん彼には、ギャングはみんなデイゴー(イタリア、スペインなどの南欧人を軽蔑していう言葉)で、デイゴーはみんなギャングだと、荒つぽく性急に仮定してしまう傾向がかなり強すぎたともいえよう。しかし彼の偏見は、多少田舎くさい場合でも、職業的な殺人犯人を流行の指導者として考える気でいる或る種の涙もろくて男らしくない英雄崇拝にくらべると、かなり清新な感じがした……なにしろそういう記者連中は、犯人の微笑にはたまらない魅力があつたとかタキシードの着こなしが五分のすきもなかつたとかいう報道をするほどだつたからである。ともかく、そういう偏見は、この物語の最初にロック氏が現にデイゴーの土地に来ていたからといつて、決して氏の胸の中で静まつていたわけではなかつた……氏はメキシコ境の丘の一つを猛烈な勢いで大またに登りながら、シュロの木を周囲に植えこんだ真白なホテルへ向かつていた……そこにはポター夫妻が泊つていて、あの神秘的なハイペシアがいま謁見をたまわつているはずであつた。エイガー・ロックは、見るからに、清教徒らしい模範的人物であつた。二十世紀のものやわらかな世慣れた清教徒というより、むしろ十七世紀の雄々しい清教徒でさえあつたかもしれない。もし諸君がロック氏に、きみの古めかしい黒い帽子や習慣的な暗いしかめ面や立派な堅い目鼻立ちが日あたりのいいシュロと葡萄の土地に暗い影を投げていたぞと、言つてやつたら、氏は大満足だつたであろう。彼はどこもかも怪しいぞといわんばかりに目を光らせて前後左右を見まわした。するとその時頭上の高台に二つの人影が、澄みきつた亜熱帯の夕日を背にして、うかびあがつた……人影は、ホンの一瞬、怪しくないはずの人間でもなんだか怪しく思えそうな姿勢でいた。
 人影の一つはそれ自体がかなり目につくものであつた。谷の上の曲りくねつた道のちようど角の所にうまくつり合いを取つて、彫像そつくりの態度をしていながら同時に足場のあぶないのを本能的に知つているようだつた。大きな黒いマントでバイロン風に身を包んでいて、マントの上に出ている浅黒い美しい頭は驚くほどバイロンに似ていた。この男は髪の毛も鼻柱も同じようにねじれていて、世の中に対しても同じように軽蔑したり憤慨したりして鼻を鳴らしているらしかつた。片手にかなり長い杖――というより散歩用ステッキを握つていたが、それには登山に使うようなスパイクがついていたのでその瞬間フッと槍ではないかという幻想がうかんだ。それがなおさら幻想的になつたのは、もう一人の男のこうもり傘を持つている姿がこつけいなくらい矛盾していたからであつた。それは実際キチンとたたんだ新しいこうもり傘で、たとえばブラウン神父のこうもり傘とはまるで違つていた。そして休日用の明るい服をキチンと事務員風に着て、顎ひげをはやしている、ずんぐりした頑丈そうな男であつた。ところがその散文的なこうもり傘をサッと振り上げて、いまにも打ちかかりそうな勢いで振りまわしさえした。背の高いほうの男があわてて身を守るようにヤッと突き返した。そこでせつかくの場面が一頓挫してむしろ喜劇になつてしまつた。というのは、こうもり傘がひとりでにひらいて傘を持つていた男がその影にほとんど隠れてしまうと同時に、相手はグロテスクな大きな楯に槍を突きとおしているようなかつこうになつたからである。しかし背の高い男は槍のほうも、喧嘩のほうも、それほど突き進めようとしなかつた……彼は切先きを抜き出すと、もどかしそうにくびすを返して、大またに道を下つて行つた。一方ずんぐりした男は、立ちあがつてこうもり傘を注意深く元のようにたたんでから、反対の方角のホテルのほうに向かつた。ロックは、このごく短かいかなりばかばかしい肉体的な争いの直前にあつたに違いない、口論の文句は一言も聞いていなかつた。しかし顎ひげをはやした背の低い男の跡を追つて道を登りながら、いろんなことを思いめぐらした。そして一方の男のロマンチックなマントとどうやらオペラ役者に似た美貌を、相手の男の頑固で無遠慮な態度に結びつけてみると、自分がさがしにきた話のすべてにシックリあてはまつた。そこで彼はあの二人の見知らぬ人影をはつきり名指すことができると思つた――ロマーニズとポターだ。
 ロックの考えがあらゆる点でたしかになつたのは、柱のならんだホテルの玄関へはいつて、あの顎ひげの男が口論してるか命令してるかで一段高くはりあげた声を聞いたときであつた。男は明らかにホテルの支配人か事務員に話しかけているところであつた。そしてロックの耳にはいつただけでも、それはホテルの連中に、この近所に危険で狂暴な人物がいると言つて警告しているのだと、わかつた。
 小男は、何かブツブツ低い声で言われたのに答えて、言つていた。「奴がほんとにもうホテルへ来てるとすれば、二度とあんな奴は中へ入れないほうがいいと言うよりしかたがない。警察がああいう男に気をつけてくれなきやいけないが、ともかくわたしは、奴があのレデイを悩ますようなことはさせないつもりだ」
 ロックはきびしい沈黙を守つて耳をかたむけながらますます確信を強めた。それから玄関の広間をソッと横切つて、奥まつた受付けの一角へ行くと、そこでホテルの宿帳を見た。最後の頁までくつてみると、「あの男」が実際もうホテルに来ているのを見とどけた。「ルーデル・ロマーニズ」というあの評判のロマンチックな人物の名前が、ばかに大きいはでな外国風の書体で書いてあつた。その下に一段あけて、どうやら寄り添うように、ハイペシア・ポターとエリス・T・ポターの名前がきちんとしたいかにもアメリカ風の字体で書いてあつた。
 エイガー・ロックは気むずかしそうにあたりを見まわした。すると周囲のようすやホテルのわずかな装飾の中からさえ大きらいなものばかりが目についた。小さい木鉢に植えたものにしろ、オレンジの木に実つているオレンジに文句をつけるのはたぶん不合理であろう……ましてそれが規則正しい装飾の模様になつて、すり切れたカーテンや色のさめた壁紙に実つているのに文句をつけるに至つてはなおさらである。しかしロックにとつては、装飾のために一つおきに銀色の月を入れてある、その赤や青の月が、おかしなことにあらゆる月光ムーンシャイン密造酒の意味を含めたシヤレ)の精髄に見えたのである。その中には彼の主義から見て現代の風習の中でも悲しむべきあのセンチメンタルな頽廃の姿がことごとく現われていた……こういう頽廃は、彼の偏見かもしれないが、どうやら南部の暖かさとやわらかい気分にふさわしいものであつた。ワトーの画にありそうな羊飼いがギターをかかえた姿を半ば見せている黒ずんだカンバスや、キューピッドがイルカに乗つている月並な模様入りの青いタイルを見せられるだけでも、苦痛であつた。常識から言えば、こんな物は五番街のショーウインドでも見かけたことがありそうだつたが、現在ここで見ると、地中海の異教の魔女サイレンがあざわらつている声のような気がした。その時ふいに、こういうすべての物の外観がすつかり一変したような気がした……まるで静かな鏡が、その前を人影がパッと通りすぎた一瞬、キラリと光るのと同じであつた。そこでロックは部屋全体に挑戦的な存在が立ちふさがつたのを知つた。ほとんど固くなつて、抵抗するように、ふり向いてみると、あの有名なハイペシアが目の前にいるのを知つた……この女の噂はずつと以前から読んだり聞いたりしていたのであつた。
 ハイペシア・ポター(旧姓ハード)は「輝くような」という言葉がほんとうにピッタリあてはまる女性の一人であつた。つまり、彼女は新聞が書き立てたとおりのいわゆるパーソナリテイをまぶしいほど発散させていた。彼女は、もし自制していても、やはり同じように美しかつたろうし、その上いつそう魅力的だと思う人もあつたろう。しかし彼女は、自制はわがままに過ぎないと信じるように、いつも教えられてきた。彼女にしてみれば自分は社会に対する奉仕で自己をなくしてしまつたと言えそうだつた。おそらくもつとほんとうのところは奉仕で自己を確立したと言うところだつたろう。だが彼女は教会への奉仕についてはまつたく忠実であつた。そこで彼女はいかにも人目を引く星のような青い目を、昔からのたとえ話にあるキューピッドの投げ矢そつくりに、遠く離れた相手を殺しそうな勢いで射かけてきたが、ただの媚態以上に相手を征服してみせようという抽象的な考えが加わつていた。淡色の金髪は、聖者の後光のようにキチンとまとめてあつたが、まるで電気の放射する光のように見えた。そして彼女は目の前にいる未知の男がミネアポリス・ミーテイア新聞のエイガー・ロック氏だと聞くと、合衆国の地平線を一掃するサーチライトさながらの視線を投げた。
 しかしこの点ではハイペシアは、時々やるように、思い違いをしていた。というのはエイガー・ロックはミネアポリス・ミーテイアのエイガー・ロックではなかつたからである。この瞬間の彼はただのエイガー・ロックであつた。彼の胸には、インタビューを取る男の粗雑な勇気以上に、偉大で誠実な道徳的衝動が波打つていた。美に対する騎士的な国民性からくる感受性に、これもまた国民性の現われである、何かはつきりした道徳的行動をすぐにも取りたくてムズムズしている気持が深くいりまじると、ロックは大活劇に直面して、高尚な侮辱をあたえてやろうという勇気が出た。彼はあの本物のハイペシア(五世紀初めのアレキサンドリアの婦人哲学者、キングスレーの小説の主人公)――新プラトン派の美女を思い出した……子供の時キングスレーの小説の中で、若い修道僧が彼女を売春婦で偶像崇拝者だと言つて非難する所を読んでゾッとしたことを思い出した。ロックは鉄のような厳粛さで面と向かつて言つた――
「失礼ですが、マダム、わたしは内密にあなたと一言お話したいのです」
「そうね」彼女は、すばらしい目で室内を見まわしながら言つた……「こんな所で内密のお話ができますかしら」
 ロックも部屋を見まわしたが、命のかよつているものはせいぜい植物性のオレンジの木ぐらいしか見あたらなかつた……ただ大きい真黒なキノコのように見えるものが一つあつたが、これはよく見ると土地の坊さんかだれかの帽子で、この地方の真黒な葉巻を鈍感にくゆらしているだけで、そのほかは植物と同じようにまるで動かなかつた。ロックはその重苦しい無表情な顔をしばらく見ているうちに、ラテン諸国や特にラテンアメリカの諸国に多い、小作百姓から坊さんになる男のタイプによくある粗野なようすに気がついて、笑いながら少し声を低くした。
「あのメキシコ人の神父さんにはわれわれの言葉はわかりやしませんよ。ああいうぶしようのかたまりみたいな連中が自国語以外の言葉を習つたりするもんですか。ああ、メキシコ人だとは断言できません……何とでも考えられそうだ……混血のインデアンか黒人でしような。だがアメリカ人でないことは保証します。アメリカの聖職者にあんな下等なタイプはありませんよ」
「実はな」とその下等なタイプの男が、真黒な葉巻を口から抜いて、言つた……「わしはイギリス人で、名はブラウンと申します。したが、もし内密のお話でしたら、ご遠慮しましよう」
「もしきみがイギリス人なら」とロックは熱くなつて言つた……「きみだつてこのばかな仕業に文句を言うだけの北欧人らしい本能を持つてるはずだ。では、こうなればわたしは、かなり危険な男がたしかにこのあたりをうろついていると言うだけで十分です……あの昔の画にある気違いじみた詩人の姿そつくりに、マントを着た、背の高い男です」
「オヤ、それだけではあまり役に立ちませんわい」と坊さんはおだやかに言つた。「このあたりでは日が暮れると急に寒さが身にしみるので、ああいうマントを使う人が多勢います」
 ロックは暗い疑うような視線を投げかけた……まるでキノコの帽子や月光に象徴されていたあらゆるものの興味に逃げ出されるのではないかと、疑つているようだつた。「マントだけじやない」とロックはうなつた。「尤も多少は奴のマントの着方が変だつたせいもあるがね。全体のようすが芝居じみていたんだ……おまけにいまいましいほど立派な芝居向きの顔だつた。そこで失礼かもしれませんが、マダム、わたしは強くご忠告するが、もしあいつがここへうるさくつきまとつて来ても、絶対にかかり合わないようにしてください。旦那さまがもうホテルの連中に言いつけて、奴を中に入れるなと……」
 ハイペシアはピョイと立ちあがつて、大へん異様な身振りで、指を髪の中に突つこんで顔をおおつた。ふるえているように見えたのはおそらくすすり泣いていたからであろうが、元の姿勢に帰つたときには、そのすすり泣きが一種の気違いじみた高笑いに変つていた。
「マア、あなたのおつしやることがあんまりおかしくつて」と彼女は言つて、大へん異様なようすでヒョイと頭をさげると、ドアのほうへ矢のように飛んで行つて消えてしまつた。
「あんな笑い方をするときはいくらかヒステリイなんだ」ロックは不愉快そうに言つた。それから、かなりとほうに暮れたように、小がらな坊さんのほうにふり向いた。「いいかいもしきみがイギリス人なら、ともかくほんとにわたしの味方になつてこういうデイゴーをやつつけるべきだ。オオ、わたしはアングロサクソンについてむだ口をきくつもりはないがたとえば歴史というものがある。きみらイギリス人は、アメリカがイギリスから文明を受けついだことをいつまでも主張できるはずだ」
「それからまた、わしらの自慢を緩和するために、わしらはイギリスがその文明をデイゴーから受けついだことをいつも認めなきやなりませんわい」とブラウン神父。
 またしてもロックの胸には、相手が自分の話を受け流している……それもまちがつたほうに味方して、なんとなく不思議なつかまえ所のない態度で受け流してるような気がして、カッと怒りの念が燃え立つた。そこで彼は、きみの話はどうもよくわかりかねると、ぶつきらぼうに言い切つた。
「つまり、一人のデイゴーがいましたからな……というよりおそらく色の浅黒いイタリア人ですかな、ジュリアス・シーザーという男です」とブラウン神父は言つた。「この男は後に突きつこをして死にました……ご存じのとおりああいうデイゴーはいつもナイフを使います。それからオオガスタンという別の男がいました……この男はわしらの小さな島国へキリスト教を持つてきました。そこでまつたくのところ、この二人がいなかつたらわしらの国は大して文明国になれなかつたでしような」
「ともかく、そいつはみんな古代の歴史だ」ロック氏はややイライラして言つた。「わたしに興味があるのは現代の歴史だ。わたしの見る所では、あの悪党連中はわれわれの国に異教を持ちこんで、いままでのキリスト教を全滅させようとしている。それからまたいままでの常識を全滅させようとしている。農民だつたわれわれの父親や祖父さんたちがうまく世間を切り抜けてきた生活の方法や、一定の習慣や、堅固な社会秩序が、毎月のように離婚して、結婚は離婚の手段にすぎないのかと低能な娘たちに思いこませてしまうような映画スターについての煽情的な騒ぎや浮気話とすつかりゴッタになつて、煮えくりかえつている現状だ」
「まつたくおつしやるとおりです」とブラウン神父。「もちろんその点はまつたく同感です。したが、多少は事情をくんでやらなければいけません。たぶんああいう南国人はいくらかそういう誤ちを犯しやすいでしよう。したが北国人には別の欠点があるのを思い出さなきやいけません。どうもこういう環境にいると、ただのロマンスにあまり重きを置きすぎるような気分になるのでしようが……」
 その言葉を聞くと、エイガー・ロックの一生の怒りをこめたような思いが、胸の中でふくれあがつた。
「わたしはロマンスは大きらいだ」ロックは、目の前の小さなテーブルを叩いて、言つた。「わたしは四十年間仂いてきた新聞で、そういうけしからん、くだらん事について戦つてきた。ならず者が酒場の女と逃げ出すと、すべてロマンチックな駆け落ちとかなんとか言われる。だからいまこのハイペシア・ハードという良家の娘が下等でロマンチックな離婚事件に引きずりこまれでもすると、王さまの結婚式みたいにうれしがつて世界中にふいちようされるだろうさ。あの気違い詩人のロマーニズが彼女の身近をうろついている。するとスポットライトが奴を追つかけまわして、まるでスクリーンで偉大な恋人と言われている下等な小男のデイゴーででもあるかのように騒ぎ立てるにきまつてる。わたしは表で奴を見たが、なるほどスポットライト向きの顔をしている。ところでわたしが同情するのは気品と常識だ。わたしが同情するのはきのどくなポター氏だ……ピッツバーグ出の地味で真正直な仲買人ブローカーだ……氏は自分の家庭に対して自分に権利があると思つている。そしてまた、家庭のために一戦まじえようとしている。わたしは、彼が支配人の所でどなつているのを聞いた……あの悪党を入れないようにと言いつけていたが、それもまつたく当然だ。ここの連中はコソコソ立ちまわるこうかつな連中らしいが、どうもわたしの想像では、ポターはすでに奴らをすつかりおどしつけたようだ」
「実際問題として、このホテルの支配人や使用人についてはわしもかなりあなたと同感です。したがあなたはすべてのメキシコ人をそれで判断してはいけません。それからまた、どうもいまあなたがお話しになつた紳士は、どなりちらしただけでなく、ドルをばらまいて使用人を全部味方につけているような気がします。わしは使用人たちがドアに錠をおろしながらひどく興奮してささやき合つているのを見ました。ときに、あなたのおつしやる地味で真正直なお方はよほどお金があるようじやな」
「むろん商売がうまくいつているのさ」とロックは言つた。
「あの男はしつかりした商売人としてはまつたく最上のタイプだ。どうしてそんなことを言うんだね?」
「そう申しあげれば別のお考えがうかぶかと思いましてな」とブラウン神父は言つて、かなり重々しく挨拶しながら立ちあがると、部屋を出て行つた。
 ロックはその晩食事の時ごく注意深くポター夫妻を見はつていた。そして、どうやらポター家の平和をおびやかそうとしている非行についての自分の深い勘を狂わすようなものこそなかつたが、いくつかの新しい印象を受けた。ポター自身がもつとよく研究する価値のあることがわかつた。最初この男は散文的で見えをはらない人だと思つていたが、よく見ると悲劇の主人公――犠牲者にふさわしい、なかなか立派な顔をしているのに気がついて愉快になつた。ポターはほんとにかなり考え深い秀でた顔をしていたが、そのくせ心配ごとがあるらしくときどきカンシャクをおこしていた。ロックはこの男は病みあがりではないかという印象を受けた……色のあせた髪の毛は、細いがかなり長くなつていて、まるで最近はうつちやりつぱなしにしていたようであつたし、かなり異様な顎ひげもよそ目にはそれと同じ感じがした。たしかにポターは一二度かなりきびしい不きげんな態度で細君に話しかけて、消化薬の錠剤か何かのこまごましたことをやかましく言つていた。しかしこの男のほんとうの心配ごとが外からの危険に関係のあることは疑いがなかつた。細君はいくらか恩に着せているような所はあつたがみごとな態度で辛抱強いグリゼルダ(ボッカチオなどの作品中の人物で温良貞淑の婦人の模範)の役目を引き受けていた。しかし彼女の目も絶えずドアやよろい戸のほうにそそがれていて、うわべだけは侵入を恐れているようであつた。ロックは彼女の突発的な妙な言葉を聞いていただけに、彼女の恐れているのはほんのうわべだけだということになりはすまいかという事実を案じるだけのたしかな理由を握つていた。
 あのとんでもない事件が起つたのはその夜半であつた。ロックは、階上のベッドに上つて行くのは自分が最後だと思つていたので、ブラウン神父が広間のオレンジの木の下でまだ目立たないように丸くなつたまま静かに本を読んでいたのに気がついて、びつくりした。ブラウンは、相手のおやすみという言葉に、何も言わずに目礼した。そしてロックが階段の一段目に足をかけた……その時ふいに表のドアが蝶つがいごと揺れて、外から激しく叩く振動でガタガタと音を立てた。そしてドアを叩く音より高い大声で、入れてくれと、猛烈に要求している声がきこえた。
 なんとなくロックは、登山杖のような先きのとがつたステッキで叩いているのだなと確信した。暗くなつている階下をふりかえつて見ると、ホテルの雇人たちがあちこちにコッソリ走りよつて、ドアに錠がおりているかどうかをしらべただけで、それを開けようともしないでいるのが目についた。そこでロックはゆつくり自分の部屋に上つて行つて、憤然として腰をおろすと、報告を書きはじめた。
 ロックはホテルの包囲攻撃をくわしく書いた……邪悪な雰囲気……この建物の古びた豪華さ……ヌラクラとつかまえどころのない坊さん……とりわけて、ホテルのまわりをうろつく狼のように、外で叫び立てているあの恐ろしい声。その時書いている最中に、新しい物音がきこえたので、ロックはふいに坐りなおした。それは二度くりかえして吹いた長い口笛であつた。ロックの頭の中ではそれが二重にいまわしかつた。というのがそれは共犯者への合図のようでもあつたし、小鳥の愛の呼び声のようでもあつたからである。そのあいだ彼は固くなつて坐つていた……それからだしぬけに立ちあがつた……というのはまた別の音がきこえたからであつた。かすかなシューという音がすると、それに続いて、するどいコツンという音かガタンという音がした。ロックは、だれかが何かを窓に投げつけたのに違いないと思つた。彼は体をこわばらせて歩きながら、もう真暗で人けのない階下へ降りて行つた……あるいはほとんど人けがないといつたほうがよかつたろう。というのは小がらな坊さんがいまだにオレンジの茂みの下に坐つて、低いスタンドの明りでいまだに本を読んでいたからである。
「きみはずいぶん夜ふかしらしいね」とロックは荒つぽく言つた。
「まつたくむだでしような」ブラウン神父は、大きくニッコリ笑つて見上げながら、言つた……「こんな真夜中に高利の経済学を読んでいるんですからな」
「ここはすつかり錠がおりている」とロック。
「大へん完全に錠がおりています。あの顎ひげをはやしたあなたのお友達はあらゆる予防策を講じたようです。時に、顎ひげのお友達は少し興奮していますわい。食事の時かなりきげんが悪かつたようでした」
「そりやあたりまえだ」とロックはうなつた……「この野蛮な土地の野蛮人どもが自分の家庭生活をメチャメチャにしに来ると思えばそうなるさ」
「あの人は家庭生活を外の物から守ろうとしていますが、それより家庭の中を気持よくしたほうがよくありませんかな?」
「ああ、きみが詭弁的な口実を作ろうとしているのはわかつている。たぶんあの男は細君に多少ガミガミ言つたろうさ。だが彼にしてみればそれだけの権利がある。オイ、きみはかなり食えない男らしいね。たしかにきみは口で言つてる以上にもつとよくあの男のことを知つてる。いつたいこのいまいましい土地で何がはじまろうとしているんだ? なぜきみは一晩中起きていてそれを見とどけようとしているんだね?」
「フム」ブラウン神父は辛抱強く言つた……「どうやらわしの寝室をほしがる人がありそうだと思いましてな」
「だれがほしがるんだ?」
「実はポター夫人が別の部屋をほしがつていたのです」ブラウン神父はいかにもはつきりした口調で説明した。「わしはあの婦人にわしの部屋をあげました。あすこの窓なら開くからです。よろしかつたら、見に行つてごらんなさい」
「わたしはまずほかのことを見とどけておこう」ロックは歯ぎしりしながら言つた。「きみはこのスペイン風のインチキホテルできみのインチキ手品を使うがいいさ。だがわたしはまだ文明国から離れてないんだ」ロックは大またに電話のボックスへはいつて行つて自分の新聞社を呼び出した……ふらちきわまる詩人を助けているふらちきわまる坊主の話を残らず早口にしやべりまくつた。それから二階の坊さんの部屋に駆けこむと、そこには坊さんが短かいローソクを一本つけてあつたので、奥の窓が広々と開けはなしてあるのが見えた。
 ロックがちようどうまく間に合つて見とどけたのは、そまつな繩ばしごのような物が窓わくからはずされて、下の芝生で笑声をあげていた紳士がそれをたぐり寄せているところであつた。笑つている紳士は背の高い色の浅黒い紳士で、それに寄りそつているのは金髪の、だが同じように笑つている、レデイであつた。こんどは、ロック氏も彼女の笑い声をヒステリーのせいだと言つて満足するわけにはいかなかつた。それは恐ろしいほど本物の笑い声で、彼女と彼女の叙情詩人が暗い茂みの中へ姿を消したときも、いりみだれた庭の細道に響きわたつた。
 エイガー・ロックは、最後の審判の日のように、決定的な恐ろしい正義にあふれた顔を相手に向けた。
「よし、アメリカ中にこの話を聞かせてやるぞ」とロックは言つた。「はつきり言えば、きみは彼女があのちぢれつ毛の恋人と一緒に逃げるのを手伝つたんだな」
「さよう」とブラウン神父。「わしは彼女があのちぢれつ毛の恋人と一緒に逃げるのを手伝いました」
「きみはイエス・キリストの使徒だと自称しながら、犯罪を自慢しているな」とロックは叫んだ。
「わしは何度か犯罪に巻きこまれたことがあります」坊さんはおだやかに言つた。「幸いなことにこんどだけは犯罪のない事件です。これは単純な炉辺の田園詩です……家庭生活の明るい火で終ります」
「そして首のまわりの繩のかわりに繩ばしごで終るんだな……あの女は結婚している女じやないのか?」
「ああ、さようですわい」
「では、彼女は夫と一緒にいてはいけないのか?」とロックは詰問した。
「あの女は夫と一緒にいますのじや」
 ロックは仰天してカッとなつた。「このうそつき。あのきのどくな小男はまだベッドでいびきをかいているぞ」
「あなたはあの男の個人的な事情をずいぶんよくご存じのようですな」ブラウン神父は、悲しそうに言つた。「あなたはもう少しで顎ひげの男の伝記が書けそうです。たつた一つあなたが気がついていないらしいのは、あの男の名前です」
「バカな。あの男の名前は宿帳にある」
「そりや知つてます」坊さんは、厳粛にうなずいて、答えた……「大へん大きな字で、ルーデル・ロマーニズと書いてありましたな。ハイペシア・ポターは、ここで彼に会うと、その下に大胆に自分の名前を書きました……その時は一緒に駆け落ちするつもりだつたからです。すると彼女の夫が二人をここまで追つ駆けてきて、またその下に自分の名前を書きました。彼女の名前の下にピッタリくつつけて書いたのは、抗議するためでした。そこでロマーニズは(人間を軽蔑している厭世家として人気があるだけに、山ほど金を持つているので)このホテルのけしからん連中を買収して戸締りを厳重にした上、正当の夫を閉め出しました。ですからわしは、まつたくあなたのおつしやるとおり、その夫がはいつてくるのを手伝つたのです」
 犬のしつぽが犬を振りまわすとか、魚が漁師をつかまえるとか、地球が月のまわりをまわるとかいうように、物事があべこべになつた話を聞かされると、そりやほんとですかと真剣にきいてみるまでにはいくらかひまがかかるものである。やはりそんなことは明らかな真実の反対だと思いこんで満足しているからである。ロックはやつと言つた――「まさかきみは、あの小男がいつもうわさの高いロマンチックなルーデルで、あのちぢれつ毛の男がピッツバーグのポター氏だと言うつもりじやないだろうねえ」
「いや、そのとおりじや。わしはあの二人に目をつけたとたんにわかりました。したが、あとでそれをたしかめました」
 ロックはしばらく思い返していたが、やつと言つた――「どうもきみの言葉が正しいとは思えないな。だが、あれだけの事実があつたのに、きみはどこからそんな考えを思いついたんだね?」
 ブラウン神父はかなりきまりがわるそうな顔をした……ダランと椅子にすわりこんで、空間を見つめていたが、やつとかすかな微笑がアホウみたいな丸い顔にうかびかけた。
「いやはや、そりや――実のところ、わしはロマンチックなたちではありませんからな」
「きみがどんなたちの男か、わたしの知つたことじやない」ロックは荒つぽく言つた。
「ところがあなたはロマンチックです」ブラウン神父は助言するように言つた。「たとえば、あなたは詩的なようすをしている男をごらんになると、それを詩人だと思いこんでおしまいになる。大多数の詩人がどんなようすをしているか、あなたはご存じですか? 十九世紀の初めに偶然三人の美貌の貴族がいたためにとんでもない混乱がおこつたじやありませんか――バイロンとゲーテとシェリー! まつたく、人間は自分が特に美貌でもないのに、『美の女神が燃ゆる唇をわが唇に寄せぬ』とかなんかいうようなことを書くのは、ごくふつうです。おまけに、人が世間で広く評判されるようになるころはたいていいくつくらいになつているか、おわかりですか? ワッツはスインバーンがふさふさした髪を後光のようにたらしている姿を描きましたが、スインバーンは、アメリカやオーストラリアの崇拝者連中にあのヒアシンス色の髪のうわさが伝わりきらないうちに、禿げ頭になつていました。イタリアの詩人ダヌンチオもそうでした。実は、ロマーニズはまだかなり立派な頭をしています……よくごらんになればおわかりになります。あの男は知的な顔をしていますし、事実知的です。不幸にして、ほかの多くの知的な人間同様に、あの男はバカです。消化不良だといつて大騒ぎしたりわがままほうだいにしていました。そこで野心家のアメリカ人のレデイは、詩人と駆け落ちすればミューズの神々と一緒にオリムポスの空高く舞いあがれるとでも思つていたのに、一日かそこらの道中でウンザリしてしまいました。そこでご主人が追いかけてきて、ホテルを襲撃すると、彼女は大喜びでご主人の胸に帰つたのです」
「だが、そのご主人というのは?」とロックは尋ねた。「わしはいまだにそれがよくわからないんだ」
「ああ、あなたは現代のエロチックな小説をあんまり読みすぎているんですわい」とブラウン神父は言つて、相手が抗議するようににらみつけたのに応じて半ば目を閉じた。「小説の中には、ひどく美しい婦人が年よりの株屋で豚のような男と結婚しているところから話がはじまつているのがたくさんあります。したが、なぜでしようか? その点では、たいていの事と同じに、現代の小説は現実とまるでアベコベなのです。そういうことが絶対にないとは言いませんが、いまどきそんなことがあれば、まずそれはその婦人自身の誤ちです。きよう日の娘さんは自分の好きな人と結婚します。ハイペシアのようにあまやかされた娘ならなおさらです。そこでどんな男と結婚するでしようか? そういう美しい金持の娘には一団の賛美者がつきまとうものです……その中からどんな男をえらぶでしようか? あまり若いうちにダンスやテニス会で会つた一番の美男子をえらんで結婚するような場合は百に一つもありません。ところで、平凡な実務家にも中には美男子がいます。若々しい彫像のような(ポターという)人物が現われたので、ハイペシアは相手が株屋だろうと泥棒だろうとかまわないという気になりました。したが、これだけの事情がわかれば、相手が株屋であるのはむしろけつこうなわけですし、ポターという名前もごく自然です。まつたくあなたは手がつけられないほどロマンチックなので、若々しい彫像のような顔をした男がポター(陶器師の意)という名前であるはずがないという考えを元にして全事件を作り上げたのです」
「ウム」とロックは、ちよつと間をおいてから言つた……「ではそれからどんなことになつたと思うのかね?」
 ブラウン神父はいままでへたばつていた腰掛けからかなりだしぬけに立ちあがつた。ロウソクの光が背の低い姿の影を壁や天井一面に投げかけたので、部屋のつり合いが狂つたような妙な印象をあたえた。
「ああ、それが悪魔みたいに手のつけられんところですわい。本物の悪魔です。こういうジャングルの中に昔からあるインディアンの邪神よりよほどたちが悪い。あなたはわしがこのラテンアメリカの連中のダラシない習慣から事件を判断しているだけだとお考えでしたな――ところがあなた方が変てこなのは――」そこでブラウンは相手を眼鏡越しに見て、フクロウのように目をパチクリさせた――「あなた方が一番変てこなところは或る点であなた方のおつしやるとおりだということです。
「あなたはロマンチックな小説などやめてしまえと言われる。わしはできるだけ本物のロマンスと戦つてみようというわけです――そういう物は、青春時代の第一の熱情的な時以外は、ごくまれですから、なおさらそうしたいのです。なあ――知的な友交などやめてしまいなさい……プラトニックな関係などやめてしまいなさい……高度の自己充足の法則だとかその他の物などやめてしまいなさい。すればわしがこの仕事をするにもあたりまえの危険をおかすだけですみます。愛でない愛――誇りやうぬぼれや宣伝や世間に評判を立てようとするだけの愛などやめてしまいなさい……すればわしらは肉慾と色情だけの愛に対するのと同じように、戦わねばならぬ場合には、愛である愛に対してもできるだけ戦つてみられます。医者が若い人のハシカにかかるのを知つているようにわしら坊主は若い人が情熱的になることがあるのを知つています。したがハイペシア・ポターは、得意の時代だとはいえもう四十です。ですから、あの小男の詩人を愛しているというより、むしろ自分の出版屋か宣伝係のように考えただけでしよう。それがまさに要点です――あの男は彼女の宣伝係でした。彼女を破滅させたのはあなた方の新聞というものです……新聞は明るいライトで照らし出します……自分が大見出しにあつかわれているのを見たいのです。十分精神的なもので優秀なものでありさえすれば、醜聞でもかまわないのです。ジョルジュ・サンドになつて、自分の名前をアルフレド・ド・ミュッセと永遠に結びつけたかつたのです。彼女のほんとうの青春のロマンスは終つていたので、彼女がとりつかれたのは中年の罪業――知的な野心の罪でした。あの女にはとり立てて言うほどの知性はありませんが、したが知識人が知性を持つている必要はありませんからな」
「むしろ或る意味ではかなり頭のいい女だと言える」とロックは思い返しながら批評した。
「さよう、或る意味でな」とブラウン神父は言つた。「たつた一つの意味だけ。ビジネスの意味でな。この辺でブラブラしているデイゴー連中に関係があるような意味はちつともありませんわい。あなたは映画スターの悪態をならべ立てて、ロマンスは大きらいだとおつしやる。あなたは映画スターが五回目の結婚をするのは、ロマンスに迷つたからだというお考えですか? ああいう連中は大へん実際的です……あなた方よりずつと実際的です。あなたは単純な固い実務家が大好きだとおつしやる。ルーデル・ロマーニズが実務家でないとお考えなのですか? あの男は、彼女とまつたく同じに、彼にとつて最後ともいうべき有名な美人とのこのすばらしい情事の宣伝価値を心得ていたのがおわかりになりませんか? それに相手を手に入れたといつてもかなり不たしかだということも大へんよく心得ていました……そこでドアに錠をかけろといつて騒ぎまわつたり、雇人を買収したりしたのでした。したがわしが全体として申しあげたいのは、もしみんなが罪業を理想化して罪人つみびとらしいポーズを取つたりしなければ、醜聞などはずつと少なくなるということですわい。ここの哀れなメキシコ人は時には野獣のような暮しをすることがあるかもしれませんし、あるいはむしろ人間らしい罪業をおかすかもしれませんが、しかし理想を求めたりはしません。少なくともその点では信用してやらねばなりませんわい」
 ブラウンは、立ちあがつたときと同じようにだしぬけに、また腰をおろして、言いわけするように声を挙げて笑つた。
「いや、ロックさん、わしのザンゲはこれですつかりです……わしがロマンチックな駆け落ちを手伝つたおそろしい物語のすべてです。あなたはお好きなようになすつてください」
「それだつたら、わたしは部屋へ行つて、原稿を多少書き直してこよう」とロックは立ちあがりながら、言つた。「だが何よりも先きに、わたしは社を呼び出して、さつき話したのはうそのかたまりだと言わなきやなるまい」

 ロックが最初電話をかけて坊さんが詩人を手伝つてポター夫人と駆け落ちさせたと報告した時間と、二度目に電話をかけて坊さんは詩人がそういう計画でいたのを防いだのだとつ[#「だとつ」はママ]報告した時間とのあいだには、せいぜい半時間ぐらいしかたつていなかつた。しかしそのわずかな時間のあいだに、自然に生まれて大きくなり風に乗つてまき散らされたのはブラウン神父の醜聞であつた。その真相はいまだにでたらめな中傷より半時間ずつおくれていて、いつどこで追いつくものかだれにも確信が持てない。新聞記者のおしやべりと敵側の熱心さから最初の話が、まだ新聞の活字にならないうちに、町中にまき散らされていた。その話は、すぐにロック自身が訂正し否認して、第二の通信で事件のほんとうの結末を知らせたのであるが、最初の話が取消されたかどうかはどうにもはつきりしなかつた。おそらく信じられないほど多くの読者が最初に発行された新聞を読んで、第二版を読んでいないらしかつた。くりかえしくりかえし、世界の隅々で、黒くなつた灰からパッと炎が立ちあがるように、ブラウンの醜聞とか、僧侶ポター家を破滅させるとかいう古い物語が現われるのであつた。坊さんの味方でたゆまずに言いわけしていた連中はそれを見はつていて、辛抱強くそのあとから反駁文や暴露や抗議文を持つて追いまわした。時にはそういう手紙が新聞に出ることもあつたし、出ないこともあつた。しかしいまだにだれにもわからないのは、最初の話を聞いただけで反駁文の内容を聞いていない人が、どのくらいたくさんいるかということであつた。あのメキシコの醜聞は火薬陰謀事件(一六〇五年英国議事堂を爆破しようとした有名な事件)のように歴史に記録されたふつうのでき事だと思つている、罪のない、無邪気な人がほとんど全部ではないかと考えられるくらいであつた。こうなつてからそういう単純な連中に事実を説明しても、その結果は、およそそんな話にはだまされそうもない、少数の十分教育を受けた連中のあいだにまで昔話が新しく再燃するだけのことである。そこで二人のブラウン神父がおたがいに世界をまわつて永久に追い駆け合つている……第一のブラウンは正義の手を逃れようとする恥知らずの悪党だし、第二のブラウンは雪辱の後光にかこまれている、中傷で傷ついた殉難者である。しかし両方とも本物のブラウン神父にはちつとも似ていない。本物は、ちつとも傷ついたりしないで、一生頑丈なこうもり傘をさげてトボトボと歩きながら、世の中のたいていの人を愛し、世界を自分の仲間として受け入れるだけで、自分が人を裁く者だなどとは夢にも思わずにいるのである。





底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
   1957(昭和32)年3月15日発行
※「ミーティア」と「ミーテイア」の混在は、底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※(ローマ数字1、1-13-21) ブラウン神父の醜聞」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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