故郷

魯迅

佐藤春夫訳




 私はきびしい寒さを物ともせず、二千里の遠方から二十余年ぶりで故郷へ帰って来た。
 冬も真最中まっさいちゅうとなった頃、やっとのことで故郷へ近づいた折から、天気は陰気にうす曇り、冷たい風は船室の中まで吹き込んで来て、ぴゅうぴゅうと音を立てている。船窓から外をのぞいて見ると、どんよりとした空の下に、あちらこちらに横たわっているのはみじめな見すぼらしい村であった。活気なんてものはてんであったものではない。自分の心にはおさえ切れないうら悲しさがこみ上げて来た。
 ああ、二十年このかた忘れる日とてもなかった故郷はこんなものであったろうか。
 わが心に残っている故郷はまるでこんなところではなかった。故郷にはいいところがどっさりあったはず。その美しいところを思い出して見ようとし、その好もしい点を言って見ようとすると、私の空想は消えてしまい、現わす言葉も無くなってしまって、目の前に見るとおりのものになってしまう。そこで私は自分に言って聞かすには、故郷はもともとこんなところだったのだ。――昔より進歩したというのではないが、それかといって必ずしも私が感ずるようなうらさびしいところでもない。これはただ自分の心持が変ってしまっただけのことなのだ。というのは自分が今度このたび故郷へ帰って来たのは、決して上機嫌じょうきげんで来たのではないからだ。
 私は今度は故郷に別れを告げるために来たのである。私たちが何代かの間一族が寄り合って住んでいた古い屋敷が、もうみんなで他人に売り渡されてしまい、明け渡し期限は今年一杯だけで、是非とも来年の元旦にならないうちに私たちはこのなじみ深い古家に別れ、また住み馴れた故郷の地を離れ、家を引き払って、私が暮しを立てている土地へ引っ越してしまわなければならなかった。
 次の日の朝、私は自分の屋敷の門口に来た。屋根瓦の合せ目には多くの枯草の断茎が風に吹きさらされながら生えて、さながらにこの古家が持主を代えなければならない原因を説き明し顔であった。あちらこちらの部屋にいた親戚たちでは多分もう引っ越しがすんでしまったらしく、大へんひっそりとしていた。私は自分の住まいの部屋へ近づいたが、母は早くも私を待ち受けて出て来た。それにつづいて飛び出して来たのは八つになるおい宏児ホンルであった。
 母は大へん機嫌きげんがよかったが、それでも浮かぬげな気色けしきはありありと見えた。私に腰を下ろさせ、休ませ、お茶をくれて、しばらく家を片づける事の話もしなかった。宏児はまだ私を見たことがなかったものだから、そばへはよりつかずにまじまじと私の顔を見つめているのであった。
 さて、私たちはとうとう家を片づける話をはじめる段になった。私はもう住居は借りて置いてある、それからいくらかの家具は買ってあるが、そのほかは家にある木の道具類を売ってしまって、その金で買い足すといいと言った。母もそれがいいと言った。そして荷作りは大体すんでいるが、木の道具類で持ち運びに不便なものは、大方売ってしまった、だがまだお金をもらわないと言って、
「お前一二日体を休めたら、近しい親戚たちを一度お訪ねして来てね、その上で引き揚げることにしようよ」と母が言った。
「はい」
「それから閏土ルントウだがね。あれはうちへ来る度ごとに、いつもお前のことを聞くよ。大へんお前に会いたがってね。私はお前が帰って来る日取は知らせて置いてやっているからあれも今にすぐ来るだろうよ」
 この時、私の頭にはふと一幅いっぷくの神異的な書面が思い浮んで来たものである。紺青こんじょう色の空に一輪の金色こんじきまるい月が出てその下は海岸の沙地すなちで、一面に見渡すかぎり清々とした西瓜すいかが植っている。その中にひとり十一二の少年が、うなじには銀の頸飾くびかざりをかけて、手に一本の刺又さすまたをかまえて一ぴき※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)チャー(西瓜を食いに来るという獣、空想上の獣で、※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)の字は作者の造字)を目がけて精一杯で刺そうとしているのだが、※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)は身をひるがえして彼のまたの下からくぐり抜けて逃げてしまったのであった。
 この少年というのが、閏土ルントウであったが、私が始めて彼を知った頃にはまだ十かそこらであった。今からもう三十年もっているであろう。この頃は私の父親もまだ在世で、家も豊かにやっていて、私もまァ坊ちゃんであった。その年は私の家では一族の祖先の大祭をする年に当っていた。この祭というのは三十年以上もたってやっと一度めぐり合わすというもので、従って大へん丁重ていちょうにすべきもので、正月中に祖先の像を祭るのであった。お供えものもすこぶる多いし、祭器も頗る吟味する。お参りをする人もまた頗る多い。それで祭器も盗まれない用心が頗る必要であった。私の家には唯一人の忙月マンユエがいた。(一たい私の郷里では人に雇われる者は三通りに分れていて、まる一年一定の家で働く者を長年チャンネンと称するし、その日その日で働く者は短工トアンクンと言い、自分で耕作をするかたわら、年越し、節祝い及び小作米を集める時にだけ一定の家へ雇われて働くものを忙月マンユエと言うのである)あまり忙しいというので、この使用人が私の父に向かって自分の子の閏土を呼んで祭器の番をさせてはと申し出た。
 私の父も賛成をしたので、私も非常に喜んだ。私はかねがね閏土の名は聞いていた。年も私とほとんど同じ位だとも知っていた。うるうの月に生まれて、五行のうちの土が欠けていたというので、彼のお父さんが閏土と名づけたのであった。彼は※(「弓+京」、第3水準1-84-23)おとしをかけて小鳥を捉えるのが上手であった。
 私はこの日から毎日毎日新年を待ち遠しがった。新年が来れば、閏土も直ぐにやって来る。やっとの思いで年の暮になった。ある日のこと母が私に閏土が来たと話した。私は直ぐに飛んで行って見た。彼は台所にいた。紅い色の丸いほおをして、頭には小さなフェルトの帽子をかぶって、頸にはキラキラと光る銀の頸輪くびわをしている。これを見ても彼のおとっつあんが彼を十分に可愛がっていることはわかるのだが、彼が死なないようにというので、神や仏にがんをかけて、この頸輪をさせて彼を(未来の世界へ行かないようにと)引留めているのであった。彼はひどく人見知りをした。だが私だけにはこわがらないで、側に人のいない時に、私と口をいた、そして半日も経たないうちに、私たちは直ぐによくなじんでしまった。
 私たちがその時どんな話をしたものだったやら、ただ覚えているのは、閏土が、町へ来ていままで見たこともないさまざまなものを見たと言ってはしゃいでいたことだ。
 次の日、私は彼に鳥をってくれというと、彼が言うには、
「それは駄目だめだ。大雪の降った時でないといけない。おれたちの方の砂地に雪が降ったら、おれは雪をきわけて空地あきちを少しこしらえて、短い棒でもって大きな※(「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2-3-48)ひらざるを支えて置いて※(「禾+孚」、第3水準1-89-44)もみくのだ。そうして小鳥どもがいに来るのを少し離れたところから見張っていて、地面に立てている棒に結びつけてある糸をちょっと引くと、小鳥どもは竹※(「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2-3-48)のなかへ伏さってつかまってしまう。何んでもとれるぜ――うずらだの、椋鳥むくどりだの、藍背あおせだの……」
 そこで私はまた雪が降ってくれればいいとしきりに思った。
 閏土は私にむかって言う、
「今は寒いけれど、お前、夏おれたちの方へ来るといいな。おれたちは昼間は海辺へ行って貝殼をさがすのだぜ。紅いのやら青いのやらいろいろあるよ。『鬼おそれ』もあるし、『観音様かんのんさまの手』もあるし、夜になるとお父つあんにいて西瓜畑へ番に行くんだ。お前も行こうや。」
「泥棒の番するの?」
「うんにゃ、通りがかりの人が水気が欲しくなって瓜を一つ取って食うなんてのは、おらがの方じゃ泥棒のうちへはかぞえねえや。番をしなけりゃならぬのは穴熊や針鼠や※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)チャーだ。月の明るい時に、ガリガリガリガリいう音が耳に入ったら、そいつあ※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)の奴が西瓜を噛っているのさ。だからすぐに刺又さすまたをかまえて忍び足で進み寄ってさ、……」
 私はこの時この話にいう※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)というのはどんなものだか知らなかった――今日でも知ってはいない――ただ何となく小さな犬みたいなもので大へん凶猛なもののような気がしているけれども。
「そいつ人にみつかないの?」
刺又さすまたを持ってるじゃねえか。進んで行って、※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)チャーを見つけたら、すぐやっつけるのさ。あん畜生それや悧巧な奴だから、人間の方へ向って駈け出し、そして胯の下からすり抜けて逃げてってしまうのさ。あいつの毛はまるで滑っこくって油みたいだものなあ……」
 その日まで私は天下にこうもたくさんな珍らしい物事があろうとはまるで思いも及ばなかった。海辺にはそんなに五色の貝殼のあることや西瓜にそんな危っかしい経歴があろうなんて事は。私はその前までは西瓜はただ八百屋の店先みせさきに売りに出されているだけのものとばかり思っていた。
「おれたちの方の沙浜にゃ、潮がさして来ると『跳ね魚』がもうどっさり跳ねているぜ。みんな蛙みたいに足が二本あってね」
 ああ、閏土の心の中にはまあいくらでも無限に珍らしい事があるらしい。そうしてそれは皆私や私の友だちの誰でも知らないことなのだ。私らは皆、ほんのつまらないものばかりしか知らないのだ。閏土は海浜に住んでいるのに、私の友だちは皆私同様にただ邸の中に住んでいて高い塀の上の四角な空ばかり見ているだけだ。
 惜しくも正月は過ぎ去ってしまって、閏土はうちへ帰ってしまわなければならなくなった。私は悲しくなって大声を上げて泣き出した。彼も台所の内へ姿をかくしてしまっていて私の家から出ようとはしなかった。しかしおしまいに彼のお父つあんにつれられて行ってしまった。彼は帰ってからお父つあんにことづけて貝殼を一包みと大へん美しい鳥の羽根を幾本かとを私に送ってくれた。私も一二度彼にものを送ったことがあった。だがそれっきり二度と顔を合したことはなかった。
 今母が彼のことを言い出したものだから、私は子供のころのこの記憶が、不意にすっかり稲妻で照し出されたように心の中に浮び上って来た。そうして故郷も昔ながらの美しいものになって来た。そうして母に答えるのであった。
素的すてきだ。――それであれはその後どうですか」
「あれ? あれも景気がどうも思わしくないようで……」母はそう言ったが、外方そとを見ながら、「誰か人が来たようだな。道具を買おうと言うのだろうが、あわよくば持逃げするのさ。私は行って見て来るからね」
 母は立って出て行った。外には幾人かの女の声がしていた。私は宏児を招いて自分の前に来させてひまつぶしの相手にした。字は書けるかと問うてみた。他郷よそへ行くのはうれしいかどうか問うた。
「汽車へ乗って行くの?」
「汽車へ乗って行くのだよ」
「お船は?」
「はじめは船へ乗って……」
「おや! こんなにおなりで、ひげなんかこんなに長くやしてさ!」妙に鋭い金切声かなきりこえで不意に叫んだものがあった。
 私はびっくりして、あたりを見回すと目に入ったのは、頬骨の出っぱった唇の薄い五十歳前後の女が私の前に来て立っているのであった。両手を腰骨のところへ当てて裾は穿いていなくて、両脚を突張って、まるで、円を描こうとして拡げている時のコンパスのような細い脚をしている。
 私はおどろいてしまった。
「わしを見覚えていますかね? わしはよくお前さんを抱いてあげたんですよ」
 私は益々愕いたものだ。運よくも母が来てくれて、そばからあしらってくれた。
「これは永いこと他所よそへ出ていたので、何もかもみな忘れてしまったのですよ。お前おぼえているはずだが」と私に言うのであった「そらこれがすじ向いのヤン小母さんだよ。……お豆腐屋の店をしていた」
 や、私は思い出した。ほんの幼いころ、表のすじ向いの豆腐屋の店に一日中坐っていた楊小母さんという人が確かにあった。人々はこの人のことを「豆腐西施」豆腐屋小町と呼んでいたものであった。だが白粉を塗って、頬骨はこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなかった。そして一日中坐ってばかりいたので、私はこれまでこんなコンパスみたいな恰好かっこうを見かけたことはなかった。そのころ世間の人のうわさではこの豆腐屋が大へん商売繁昌するのは彼女のためだとのことであったが、しかし年齢の関係で、私は彼女から何の影響も受けてはいなかったものだから、すっかり見事に忘れてしまっていたものと見える。しかしコンパスの方では大へん不平で、軽蔑の表情を見せた。言わばフランス人でありながらナポレオンを知らず、アメリカ人でワシントンを知らないのをあざ笑うかのような有様をして、冷やかして言うには、
「忘れたって、全くご身分の高いお方は目が肥えていらっしゃるからね……」
「何そんなわけじゃないよ……、私は……」と私は恐れをなして、立ち上って言った。
「それでは、お願いがありますが、迅ちゃん、お前さん大へんエラクおなりだってね。持ち運びだって不便ですぜ。お前さんこんなガラクタ道具なんかどうしようっての。あたしに呉れてやって行きなさいよ、あたしたち貧乏人には間に合うのだからさ」
「私はエラクなんかならないよ、私はこんな物でも売らなきゃならないのですよ。そして…」
「おや、おや。お前さんは道台(大官)になっていながら、エラクないだって、お前さんは現に三人のお妾さんを持って、外へ出ると言えば八人かつぎのかごで出るくせに、エラクないだって、ふん、そんなことを言ってわたしをだますつもりですかい」
 私は言うべきこともないので口をつぐんで黙って立っていた。
「おやおや、本当に銭のある人になればなるほど益々一文だって粗末にしないものだね、一文も粗末にしないからいよ々お金持になるってわけだ……」コンパスはぷりぷりしながらくるりとうしろ向きになって、くどくどとしゃべりつづけながら、のそのそと外へ出て行ったが、そのついでに私の母の手袋をパンツの中へくすね込んで、出て行ったのである。
 つづいて又近い処にいる近しい親戚が私を訪ねて来た。私はその人たちに応対しながらも、そのひまひまには荷纒にまとめをした。こんなことで三四日った。
 ある日大へん寒い午後であったが、私はお昼ご飯をすませて、そこに坐ったままでお茶をすすっている時、誰やら表から家に入って来たような気がしたのでふりかえって見た。そして思わず大へん驚ろいて、あわてて立って迎えに出た。
 この時来たのがそれが閏土であった。私は一目見てわかりはしたけれども、自分の記憶に残っている閏土とは違っていた。彼の身のたけは倍にもなり、以前の紅く丸々とした頬は、もう灰だみた黄色に変って、おまけに大そう深い皺があった。目つきは彼のお父つあんによく似ていて、そのぐるりはれぼったく紅くなっている。これは海辺で耕作する人は終日潮風に吹かれて、大ていこんな風になるものだと自分も知っている。彼は頭にはフェルトのきたない帽子をかぶり、身には一枚のく薄い綿入れを着て、体はすっかりちゞこまっていた。手には一つの紙包と一本の長い煙管キセルとを持っていた。その手は、私の覚えているところでは血色のいい丸々と肥えたものであったが、今ではざらざらに荒れ、ひび破れて松の木の皮のようになってしまっている。
 私はこの時大へん興奮して、何と言っていいのかわからなかったので、ただ言った。
「や、閏さんか。――よく来たな……」
 私にはつづいて語り出したいことがたくさんあった。考えは珠数じゅずつなぎにあとからあとからとつづいて出て来る。鶉だの、跳ね魚だの、貝殼だの、※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)だの。……しかし何だか打ち解けるのをさまたげるものがあるような気がして、頭のなかで動いていながらも口にして言い出すことは出来なかった。
 彼は立ったままでいた。顔にはよろこばしさにまじって打ち解けない表情があった。唇を動かしてはいたが声には出さなかった。彼の態度は堅苦しいものになって、はっきりと叫んで言うには、
「旦那さま」
 私は身ぶるいが出た。私はすぐ悟ったが、我々の間にはすでに悲しむべき厚い障壁が出来てしまっているのであった。私も何も話し出さなかった。
 彼は振り返えって言うには「水生シュイションや旦那さまに頭を下げないかい」そこでうしろに身をかくしていた幼子をき出した。これはそつくり[#「そつくり」はママ]二十年前の閏土で、ただ少し顔色が悪く痩せて頸には銀の輪飾りがないだけであった。
「これは五番目の子供ですが、人前へ出たことがないものだから、びくびくしておどおどしています……」
 母と宏児とが二階から下りて来た。多分私たちの声を聞きつけて来たのであろう。
「大奥様、お便りは有難うございました。私はもううれしくて仕様がないのでございますよ、旦那様がお帰りだとうけたまわりましたものですから……」と閏土が言った。
「これお前さん何んでそんな他人行儀なことを。お前たちは以前には兄弟として話し合っていたではないか。迅ちゃん、と昔のとおりに呼べばいいではないの」
 母は愛想よくこう言った。
「おや、大奥様、とんでもない。……どうしてそんなことが出来ますものか。あの頃はほんの子供がきでしたので、何のわきまえもございませんでしたので……」閏土はこう言って、又も水生を呼んで私に会釈えしゃくをさせようとするのだけれど、この子はただはにかむだけで、しっかりとかじりついて彼の後へくっついていた。
「それが水生かい? 五番目の子供だね、みな見知らぬ人たちだもの、はずかしがるのは無理もないわけさ。これ宏児やあれをつれて行って外で遊んでおいで」と母が言った。
 言われて宏児は水生を招くと、水生はいそいそと宏児につれられて出て行った。
 母は閏土に坐をすすめたが、彼はただもじもじしていて、おしまいにやっと腰を下して長い煙管きせるをテーブルのわきにもたせかけ、紙包みをさしだして言うには、
「冬はこんなものきりしかございません。これは青豆を乾したものですがこれは自家うちでこしらえたものです。どうぞ、旦那様に……」
 私は彼に暮し向のことを問うた。彼はただ頭をふるだけであった。
「とてもひでえものです。六番目の子供がきまでが手助けをしてくれますが、それでもうまく食ってはいけません…………それに世の中もよくおさまっていないものだから……どの方面にも銭はとられるし、きまったおきてはないし、収穫はまた駄目だし、作物を売りに出れば、何度も税金を取立てられてもとは切れてしまい、といって売らないでは腐らしてしまうだけだし……」
 彼はただ頭を振るだけであった。顔には深い皺がいろいろに刻まれていたが、まるで動かず、石像か何かのようであった。彼は多分苦しさをしみじみと感じてはいるであろうが、しかしそれを言い現わすことも出来ないのか、しばらく黙っていた、そして煙管をとり上げ、黙々と煙をふかしていた。
 母が彼に問うと、うちには用事が沢山あるとかで明日は帰るという。又午飯を食べていないということなので、彼に自分で台所へ行って飯をこしらえて食べるようにいった。
 彼が出て行ってから、母と私とは彼の暮し向きをなげいた。子沢山で、不作つづき、税金はからい、軍人、掠賊ものとり、お役人がた、旦那衆、皆より集ってあの木偶でくの棒みたいな男ひとりを苦しませているのである。母は私に言うには、持って行くにも当らないようなものは、何でも彼にやるがいいから、欲しいものを彼にらせることにしよう。
 午後、彼は気に入ったものを幾つか択り出した、長いテーブルが二つ、椅子を四つ、一そろいの香炉こうろ燭台しょくだい、一桿のかつぎ斤量きんりょう、彼は又あらゆる藁灰を欲しいというのであった。(私どもの郷里では飯をたく時藁を燃すのだが、その灰が沙地の肥料になるのである)。私たちの出発する時が来たら、彼は船をまわして来て積んで帰ると言った。
 夜は、私どもはまたいろんな話をしたが、これは別に用もないことばかりであった。その翌日の朝早く彼は水生シュイションをつれて帰って行った。
 又九日ほど経った。この日が私たちの出発の日取りであった。閏土は朝早くから来た。水生はつれて来ないで、その代りに五つ位になる女の子をつれて来て船の番をさせていた。私たちは一日中大へん多忙で、もう話をしているひまもなかった。来客も少なくなかった。見送りの人もあったし物を取りに来た人もあった。見送りともの取りを兼ねているのもあった。夕方になって私どもが船に乗るころになったら、この古家のなかにあるありとあらゆる種類のがらくたものは、すでに一つ残らずきれいに片づいてしまった。
 私どもの船は進んで行った。両岸の山々は夕方の薄明のなかにあって青黒く、つぎつぎに現れ出て来ては船の後の方へ消えて行ってしまうのであった。
 宏児は私と一緒に船の窓によりかかって外のぼんやりとした風景を眺めていたが、不意に問うのであった。
「伯父さん、私たちは何時になったら帰って来るのでしょうね」
「帰って来るって? お前まだ行きもしないうちから何だって帰って来ることなどを考えているの」
「だって、水生にうちへ来て遊んでくれと言われているのですもの」彼は大きな黒い瞳をパッチリと見開いて、頑是がんぜなく考え込んでいるのであった。
 母と私とはすっかり疲れてぼんやりとしていたが、それを聞いてまた閏土が思い出されて来た。母が話すには、あの豆腐屋小町の楊小母さんは、うちで荷物こしらえをはじめて以来、毎日必ず来ぬ日とては無かったものだが、一昨日あの灰を積んであったところからわん※(「石+喋のつくり」、第4水準2-82-46)こざらなどを十あまりも出して来たものだ。口論の末に、これは閏土が埋めて置いたものに相違ない、彼は灰をはこぶ時にそれも一緒に家へ持って行くつもりだったに違いないと言った、楊小母さんはこれを見つけ出したのは自分の大へんな手柄だというので、それにつけて狗気殺いぬじらし(これは私の郷里の養鶏の道具で台板の上に柵欄さくらんがとりつけてあって、そのなかに食料を盛って置くと、鶏はくびを伸してそれをついばむが、犬には出来ないのでそれを見て犬はじれて死んでしまうというもの)を取って行ってしまった。飛ぶように逃げて行ってしまったが、何しろあの人は小さな脚に、高い底をつけた靴を穿いているのもおかまいなく、無茶苦茶に走って帰ったよ。
 古家は私からだんだん遠ざかって行ってしまう。故郷の山水もみな少しづつ私から遠退いてしまう。それだのに自分はそれをさえさほどに名残惜しいとも思わない。私はただ自分のぐるりを取囲んでいる目に見えぬ高いかき、それが自分をひとりぽっちにしていることに気づいてそれが少なからず私を悶えさせるものであった。あの西瓜畑の上に銀の頸輪をしていた小英雄の面影は私には十分はっきりしたものであったのに、今になっては急にぼんやりしたものになってしまった。これがまた私を非常に悲しくさせるのであった。
 母と宏児とはもう眠ってしまった。
 私は身を横たえて船底にじゃぶじゃぶと当る水音を聴きながら、私はひとり自分の行手を行きつゝあることを感じた。私は思った、私と閏土とはついにこんなにかけ隔てられてしまったのだ、だが私たちの後輩にしてもやはり同じようで、現に宏児はいま水生のことを思っているのだが私は再び彼らが私に似ないように、また、お互に隔膜へだてが出来ないようにと希望する…………けれども私はまた彼らが同じようになるとしても、決して私のような苦しみと放浪の生活をするようになることを願わないし、また決して閏土のような苦しみと麻痺まひとの生活をするようになることをも願わない。またその他の人々のような苦しみと我儘わがままとの生活をすればいいとも願わない。彼らは私たちがまだ見も知らないような新しい生活をしなければならないと思うのである。
 私は考えていて希望に到ったのであったが、忽ち恐ろしくなって来た。閏土が香炉に燭台しょくだいをそえて欲しいと言った時、彼は偶像を崇拝して、どんな時にも忘れることが出来ないものだと私ははらの中で彼をあざ笑っていたものであったが今私が希望と言っているものも、これも自分のお手製の偶像ではないだろうか。ただ彼のものは卑近なものであり、私のものは高遠な、とりとめのないものであるだけのことである。
 うつらうつらとしている時、目の前に打展けて来たのは海辺の青々とした沙地の一角であった。上には紺青の空に一輪の金色の円い月がかかっていた。想うに、希望というものは一体所謂「ある」とも言えないし、所謂「ない」とも言えないものだ。それはちょうど地上の路のようなものである。本当を言えば地上にはもともと路はあるものではない、行き交う人が多くなれば路はその時出来て来るのだ。





底本:「故郷・孤独者」新学社文庫、新学社教友館
   1973(昭和48)年5月1日発行
   1976(昭和51)年6月1日重版
初出:「中央公論」
   1932(昭和7)年1月1日発行
※「…」と「……」と「…………」の混在は、底本通りです。
※編集部による傍注は省略しました。
入力:大久保ゆう
校正:佐藤すだれ
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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