支那研究に就て

狩野直喜




 私は校長のお招きに應じて講演を致す爲めに罷り出ました。誠につまらないお話でありまして定めて皆樣お聞辛いであらうと考へますが暫らくの間御靜聽を煩します。私は今日支那研究に就てと云ふ題でお話を致さうと思ひます、最近我國[#「最近我國」は底本では「最我近國」]、朝野人士の間に支那研究の聲が段々高まつて來たやうに感じます、之は現今我國が歐米諸國と相對立して參りますには從來のやうに支那と反目して居つてはいけない、兩國提携して歐米諸國に當らなければならんと云ふ考へから起つたものかと考へる。相提携して之に當るには支那を理解する事が必要である、互に仲よくする事が必要であると云ふ事になると先づ支那を知らなければならんと云ふ所から支那研究が唱導せらるゝ譯であると思ひます。斯う云ふ議論を抱く人は主に現今の我日本と云ふ立場から考へる人であつて、政治家、外交家、財政家、實業家と云ふ方面の方に行はれると思ひます、今少しく進んだ方では東洋文化と云ふ樣な事に注意して、數千年來東西に興つて今日まで發達し來つた處の文化も宗教も道徳も政體、藝術、文學の類に至るまで全く東西性質を異にするのであつて、それが東洋西洋人の精神的生活、物質的生活を形造つて居るのである、處が今日に我東洋は西洋文化の爲めに壓迫せられて東洋文化が其光を失つて來た、而して元來東洋文化と云ふのは決して西洋文化に劣るべきではない、却而或點に於て之に優つて居る、それで我東洋人の立場としては其固有の文化を研究して之を世界に宣傳しなければならん、然るに東洋文明と云ふもそは先づ支那が代表的なものであると云ふ處から支那研究となる譯であります。今日我國の現状に對する或反動的の運動と見ても差支へないと思ふが、兎に角斯の如き其動機目的は之を唱へる人によつて一樣でないけれども、支那研究と云ふ聲の聞ゆる事は私共支那の學問を專攻する者にとつては少からず注意を引かされる事であります。さて此研究と云ふ事でありますが、之は口には云ひ易くして仲々之を實行し此の研究を爲し遂げると云ふことは頗る困難であります。一體我國と支那とは文字も見方によつては同一である又發音も少しは似通よつてゐる、又文章即ち漢文と云ふものは我國では御承知の通り中學校高等學校專門學校現に本校に於ても漢文があるやうに承つてゐるが、我國の學校で此の漢文を課して居るのはどう云ふ意味であるかといへば只支那を知ると云ふ意味でなく、徳性涵養人格養成と云ふ上から出て、それが主なる目的になつて居ると考へられる。兎も角或程度の漢文の知識は皆吾々が持つて居る、而て我國は、支那に極めて近い處でありますから邦人が澤山支那に入りこんで居る、從而支那に關する知識をより多く得る譯であります。若し支那に二三年も居ると實に大した所謂日本で云ふ支那通と云ふのが出來てくる。之は我國のみの有する便宜で、西洋人が羨やましがるのも無理はない。嘗て私が支那に居つた頃或西洋人から君達は支那人と直ぐに懇意になる、どうしてそんなに心易く出來るか如何にも羨やましいと云はれた。
 明治三十三年即ち北清事變の際、我軍隊が北京城内の北の方の半分を占領した時私は恰度留學生として支那に參つて居つたので、秩序恢復の委員に命ぜられましたが聯合軍が北京に入つてから二日間にして日本の占領區域内は忽ちにして秩序を恢復し人民をして安堵して商賣を營む事を得せしめた。當時露西亞の軍隊が日本の占領軍區域と隣り合せて居つたが、其れを見ると人民は皆白晝でも門戸を鎖ざし往來一人も人影を見ない、甚敷は其最も大切にする家財を捨て日本軍の占領區域内に集つて來るのであります。其時に露西亞の方では我日本に對し、非常な嫉妬の念を起した事がある。之も日本人はどう云ふ風にすれば人民が安堵するかと云ふ事を露西亞の軍隊よりも心得て居つたから容易に二日を出ずして秩序を恢復する事が出來たのである。斯う云ふ具合に日本人は西洋人よりも支那を知る事が容易な樣に云ふて居る、又容易いかもしれぬ。然し、實際考へると支那と云ふ國程解からない國はない。其解り難いと云ふ事になつたなれば西洋人でも日本人でも同一と云はなければならぬ。一寸言葉の出來ない人が支那に行つて漢字を知つて居る爲めに漢字を書いて意を通ずるとか、或は風俗習慣が幾分彼我似通つた點があるとか、或は顏の色が似てゐるとか、親しみ易いと云ふ事はあるが、苟しくも深く立ち入つて支那を理解し、支那人を理解し支那文化を理解せんとすれば、それは仲々困難であつて西洋人が支那を解する事の六ヶ敷いのと同じ程度に日本人に於ても六ヶ敷い事である。例へば支那の今の内亂に就いていつてもあれは第一何故にあゝ云ふ内亂が起つて居るか一寸解らん、新聞紙で御承知の通り南方では初め浙江軍が優勢と見えると程なく日本に大將が逃げて來る、北方で張作霖と呉佩孚とが戰つて居つたが何時の間にか馮玉祥が寢還へりをうち、呉佩孚が又頽勢を挽囘せむとし、或は成功するか分らぬと云ふ事が新聞に出てゐる。一體何の事だか解らん。併し斯う云ふ事は支那の歴史を見ると隨分昔から例のある事であります。初に或人物が舞臺に出て力強く向ふ處敵なく天下を一統するだらうと見てゐると、何時の間にか失脚して又新しい人物が擡頭して來る。夫れが又失脚する。トヾのつまりは思ひ掛けない人物が天下を一統すると云ふ例は支那二千餘年の歴史を見れば澤山ある、又た若し此戰爭に就ても、それが我國であり又は西洋諸國であつたと假定すれば國民全體が其事件に沒頭する。學問とか商業とか云ふものは一時中止するのである。然るに支那は必ずしもさうではない。戰爭をするものは少數の政治家、軍人が政治上に野心を持つて其の野心を充す爲めにやるもので、全體の國民とは關係がありません。實はどちらが勝つても負けても無關心の状態であります。學問をするものは無關心に學問し、商業する者は無關心に商業をする。勿論國内が安定を闕く間は學術とか商業とか云ふ樣な平和の事業が妨げられる事は云ふまでもないが、其爲めに他國に於て此場合妨害せらるゝ程甚敷はない。之は今日とてもさうであるだらうと想像するが、革命以來支那は常に不安定な状態を持つて居たけれども、矢張り學問もする、商業もやつて居る。私は商賣の方面に付極めて暗い人間でありますが、近年上海に於て出版業が盛んな事を見ても解る。豫約出版で一部千圓に近い本がある、それが出版者の損害とならず寧ろ利益となる事を考へて如何に支那に學問をする人が多いか、又同時に國内が不安定といひながら其文化が他國でかゝる場合に妨げらるゝやうにならないと云ふ事が解る。若し我國で内亂が一年もあつたと假定すれば中々そんな事が出來ないと思ふ。支那の歴史を見るとかゝる例は澤山あるが、其一例は昔南北朝といつて二百七十餘年間南北兩つに分れて居つた時代がありまして、南と北と相爭ふのみならず南だけに於ても内亂が行はれた、東晉、宋、齊、梁、陳と云ふ風に猫の眼を返へす如く朝廷が改まつて居る、之が若し我國であるなら文化が全く止り、我が元龜天正時代の樣に全く暗黒の時代となつた譯でありますが、其南北相爭つてゐる時代に於て、殊に南方に於て學問藝術其他のものが非常に發達して、それが唐の時代に立派な實を結んだのであります。支那の歴史に於て唐ほど文化の燦爛たるものを見た事はない。我國にも非常な影響を與へて居るが、それは南北相爭つて居つた其時代から培養せられた産物であります、決して唐に至つて俄かに出來たものではありません。つまり支那に於て戰爭があつても國民は皆之に沒頭する譯ではない。勿論太平の時代の樣な事はないかしらんが、矢張り學問は學問、商業は商業、工業は工業として進歩して、かう云ふ歴史を以つて居るから日本及び外國人の考へる樣に國家の統一と云ふ樣な事にはさほど熱心ではない、我國の新聞で支那の統一を云つて居るが之は日本人や歐米人が心配する事で、支那人自身がそれほど心配して居るかどうか解らん。而て支那に於ては時期を辨へず無理に武力などを以て統一をしようと思つて出て來る人物があると、却て人民の恨みを招き失敗した例が澤山ある。斯う云ふ事は西洋人にも理解が出來ず、我日本人にも理解出來ない事であります。一體支那の國民性はどうだとよく人は申します。西洋人の書いた本などを見ると一概に支那國民は保守的である、支那文明は保守的だと云ふが、果して支那人は保守的の國民だか斷言は出來ない。或一面には日本人よりも突飛な極端より極端にゆく傾向がある。今日の支那人の政體又は其思想を見ればあれが進歩だか退歩かしらんが、兎も角突飛なやり方である。あの儒教が長い間培つた支那でありながら、近頃になると孔孟を罵倒したり非孝説などいふものを公然唱導して一切の舊道徳を根底から覆さうとしてゐる者すらあります。
 又一概に支那人は人を欺ます、ずるいと云ふ事は西洋人の書いた本にも澤山あるが、一概に支那國民性はさう云ふ者であると斷定する事はそれは出來ないと思ふ。個人としては非常に律儀な義理堅い點も發見するのである。さういふ風で中々支那の事となつたら一言でかうと言ひ得ない。先日もある支那の學者で非常に保守的な傾向を持つた辜鴻銘と云ふ人が我國に來たので私も京都大學で遇ひました。其人の話に自分は久しく西洋に留學して十三から外國ばかりに九年居つた、頭が西洋人の樣な頭になつて支那に歸り其頭を以つて支那本國を見た處が初めは何にも解らなかつた。其處で自分の思ふには支那人として、假令タトヒ西洋に行つて西洋の學問が出來ても支那の仕事をする事が出來ない、矢張り支那の學問をしなければならんと思つて中年から初めて支那の學問を修め段々支那の事が解るやうになつた。此頃お國の人も(日本の事)西洋人が色眼鏡を以つて支那を見ると同一の態度で支那を視るから大變觀察を誤つて居つたと云はれた。一體辜氏の議論は少しく矯激に失する點もあるが支那を外國人が一種の色眼鏡をかけて見ては解らんと云ふは間違ひない言葉であらうと思ふ。
 それで支那研究と云ふ事になるが前に申しました通り我國の人は西洋人よりも支那を知る便宜を持つて居るし、實際支那通が非常に多いのでありますが、此等の人の知識は多少の例外を除いても只現在の支那、支那現在の事情を詳しく知つてゐるに止まるものが多いと思ふ。例へば支那人の政治上の問題に就いても我國の人は支那の人物例へば張作霖、段祺瑞、馮玉祥と呉佩孚、某と某と云ふ個人的關係を能く知り、誰れと誰れは結びつける可能性があるが誰れと誰れは結びつけられんと云ふやうな事には非常に興味を有し、又かゝる個人的關係は詳しく知つて居る。又商業の事に付ても(私は商業の事は全く存じませんが、)恐らく日本の人は西洋人よりも支那の實際の樣子、支那の某地には何といふ物産があるとか其地の商習慣がどうであるとか、斯の如き事柄は良く知つて居ると思ひます。併しながら尚一層進んで支那の宗教、道徳、政治、文學、或は支那の國民性支那文化の性質はどうかと云ふ樣な事、或は支那の動植物、鑛物、地理と云ふ事に付て、所謂學術的研究をする上に付て、どれだけ西洋人よりか我國の人が優つて居るか、西洋人の研究の結果より我國人の研究の結果の方がどれだけ優つてゐるかと云ふ事になると殘念ながらさうは優つて居ない、之は勿論私共支那を研究するものゝ恥辱であると云ふ事は申すまでもないが、一般の國民も惡いと思ひます。何でも今日の我國は西洋文化を有難がり西洋の事さへ知ればよろしい、てんで支那に興味を持つてゐない、我國の若い人達が漢文と云ふ事になると初めから嫌な感じを以つて迎へる。支那の事に付てどうして其智識を得るかと云ふと、支那の學者や日本の學者が研究したる者よりも、西洋人が研究したものであると、それを通じて支那の事情を知る。結局西洋人のかけた色眼鏡を拜借に及んで支那を見て居る、一體我國の支那に對する外交は自主的でなければならぬ、歐米の御先棒に使はれてはいかん歐米に追從してはいかんと云ふ議論を新聞で承る。誠にさうでなければならんが私は之と同時に支那を研究するには外交と同樣自主的でなければならんものであつて西洋人のやつた後を追つて支那を研究する態度を採らない。東洋人として日本人として學術的に支那文化を會得しなければならんと思ふ。我國の今日の學問は西洋人の後計りを追つて、支那方面の研究をするものは甚だ少い、支那と我國とは密接な關係を有し、支那文化の影響を過去に於て受けて居る事も多大なるに拘らず又實際の必要も非常に多いのでありますが、又我國に於て少數の學者が支那の研究をやつて居るけれども一般の國民としては支那に興味を持たない、之に就て私は西洋に於ては支那の事をどう云ふ具合に研究して居るかお話したい。私は十年以前の事でありますが歐洲に出掛け歐洲に於て支那學の研究がどう云ふ具合に行れて居るかと云ふ事を見たが、西洋に於ては、英、獨、佛、露、墺、伊の各國は皆大學に支那學の講座の無い處はない。又英獨露の如き實用を旨とする東洋語學校今日我國に於ける高等商業學校のやうなものが語學を主としてやつて居る、此状况を見て私はかう云ふ事を考へた。即ち歐洲で支那學を研究する態度は二つある、一つは何であるかと云ふと支那の文明は世界文明の一つである、印度、エジプト、希臘羅馬文明と並駕すべきもの即ち人類が過去に於て作つた驚嘆に値する産物であるとし、これを學者が智的對象として研究するものであつて其文明を研究する以外に何等目的はない、凡そ學問には申すまでもなく學問を目的としてするものと學問以外に他の目的があつて其目的の爲めに學問をする者との二つある、例へば支那の學問に就ても地質學者が支那に於て鑛山を調べる地理學者が支那に於て道路河水の交通を調べる其學問の立場より地質地理を調べるのと、又支那から鐵の材料を取りたい、石油を採りたいと云ふ目的があつて其目的を以てやるのとやり方が違ふ、勿論地質學者、地理學者の研究の結果を工業家商業家が利用する事は勝手であるが、學者自身が學者として自己の知識を滿足せしめる爲めにやるのがある。厚生利用も結構でありますが唯學問の役立つか否か、學問をして直接如何なる利益があるといふこと計り考へては、眞の學問の價値といふものは分らない。大きい意味より云ふ學問の發達文明の進歩は只實用實用と考へて進むものではありません、唯實用計りを目的とせず研究した結果が一般の人を利益する事があると同時に其學問進歩を辿るに純粹の學問と云ふ考へからやらなければならん、歐洲に於ける支那學問の研究に付ても純粹の學問と云ふ立場でやつて居る處の國は先づ佛國であらうかと思ひます。勿論お斷りをして置くが之は極めて概括的議論で純粹の學問をやりましてもそれら應用的部分が全く含まれて居らんと云ふ事もありません、應用的に研究しても其内に學問的の部分がないと云ふ事は云はれんが、概括して云へば先づ學問と實用との二つに分れるかと思ひます。どう云ふ譯で佛國に支那の學問が純粹の學問となつてゐるかと云ふとそれには長い歴史があります、時間の制限がありますので詳しく述べられませんが支那と佛國との關係は最も古かつたのであります、其關係と云ふ事は明の萬暦年間天主教が支那に這入つて天主教の内でもゼシュイット派の僧侶が支那に這入つた、彼等は支那で布教をしようとするのに支那は佛教國と聞かされて居つた、佛教國なれば僧侶の眞似をなすのが一番傳教に都合が良いと云ふので彼等佛教僧侶の着物を着、僧侶の姿をして人民の尊敬を得んとしたが、程なく支那には佛教以外に儒教と云ふものがあると云ふ事を聞いた、而して人民が尊敬して居るのは佛教の僧侶でなく儒者であると云ふ事を聞いた、そこで今度は僧服を脱ぎ儒者の着物を着た、天主教を宣傳するに支那固有の經典を知らなければならん、其道徳文學等も良く知る事が必要である、先づ第一に人民に布教するに自ら漢文を知らなければならんと云ふので支那學を勉強した、斯くする内に斯う云ふ問題が起つた、それは、天主教を宣傳するに神と云ふ名を支那では何んと云つたらよからうと云ふ問題である、支那の經書には神の事を上帝或は上天と云つて居る、それで神の代りに上帝或は上天と云ふ言葉を使ひ更らに支那の社會を見ると支那人は祖先を崇拜する、孔子を祀つて其神位の前に禮拜する。之は一體宗教であるか何んであるか若し之が宗教であつたなれば苟くも天主教に這入る者は此習慣を禁じなければならん、若し宗教でなければ天主教に這入つても此習慣を許しても差支へないと云ふ事から支那の本を讀んで支那人の宗教道徳思想を研究した、そこで彼等は之を解釋していふに之は孝道から來る、父母の生きて居る時には之を養ひ死んでから之を祭ると云ふ事は父母の生存して居る時の態度を死んだ後まで及ぼすので、父母に對する敬意をそれが死んだ後まで延長する意味に過ぎない、孔子に對する崇拜も然りで孔子が支那人の精神的生活の上に非常な功勞をして居られる、仁義、孝道を知つて居るのは全く孔子のおかげであると感謝する意味で之は誠に人間の美しい心の現れである決して宗教ではない、天主教の教義と違背するものでないと極めた、而して天主教に這入つても昔の習慣を守る事を許したのであります、それで暫らくの間に天主教に這入る者が澤山あつた、處がゼシュイット派以外にフランチスカン、ドミニカンと云ふ宗派の宣教師が支那の孔子崇拜祖先崇拜は一つの宗教である之をゼシュイットが許すのは怪しからんと云うて羅馬法王に訴へた、そこで羅馬法王は嚴令を下して之を禁止した。ゼシュイット派では又辯解して支那に於ける祖先崇拜は宗教的意味のものでないと云ふ事をいひ、其爲めに態々宣教師を羅馬に派遣した。さう云ふ事から其支那の事情が學者に注意せらるゝ樣になつたのであります、其時分まで天主教と云つても必ずしも佛國生れの宣教師が行つたと云ふ譯ではないが、清朝の初め康熙帝の時分に佛國の宣教師が澤山支那に參つて布教をする傍ら支那の學問をなし支那の書籍又は飜譯物なぞを佛國に送り巴里の圖書館に此等を備へ付けてゐる、それで支那の學問は歐洲でも佛國では最も早く起つた、其影響から天主教僧侶以外に佛國に於ける支那に一度も行つた事のないと云ふ學者の間にも支那の學問を學問的に研究するものが出來た、此時分から佛國に於ける支那學は單に實際の必要上からやる計りでなく、學者が其知識慾を充たす爲め純粹な學術的の立場から支那の經史言語等を研究する樣になつた。そこで佛國大學、即ち「コレツヂ・ド・フランス」に於て一千八百十五年即ち今より百年前其大學に於て支那文學の講座が出來て只今は支那方面の事を研究する講座は二つ出來てあります。教授も其大學に初めて教授になつた人から只今ゐる教授が已に五代を經て居ります、又此拾年以前佛國の教授のペリオと云ふ人が支那に學術探檢をして甘肅省の西北隅の敦煌に於て、千佛洞と云ふ處で宋の初めに兵火の難を免れる爲め寺の石壁の中に藏込み置た古い鈔本殆んど一萬通に達するものを發見した。それが只今巴里の圖書館に這入つて居るが其中には從來支那に於ても我國に於ても已に亡くなつて傳はらなかつたものが發見せられて支那學に非常な革命を來して居ります。又佛國に於ても佛領河内ハノイに於て、極東學院と云ふ名を附した學校があります、之は學校とは云ふが一つの研究所であります、學生は一人もありません、日本部支那部安南部と分れて專門の學者があつて宗教、文學、言語、歴史、美術と云ふ風に支那日本の事を研究して居る、私は支那部教授も日本部教授も皆知つて居るが日本部教授は二三年前亡くなりましたが、其日本通は實に驚くべきもので吾々よりもモツト文法的に正しい言葉を使つてゐました。能樂に興味を持つて居つてウタヒの間拍子まで良く心得てゐる程の人であつた。かゝる具合であるから佛國人は自ら誇つて西洋に於ける支那學は佛國が本家であると云ふやうな事を本に書いてある、あながち國自慢の言葉ではないかと思ひます。そこで之を我國に於て照らして考へて見ると、我國が從來如何に支那文明に負ふ處の大であつたかは今更申すまでもない事であります、過去に於て我日本の歴史文學美術工藝凡て何事も支那の影響を受けないものはない、支那の文明を知らずして我國過去の文明を理解する事の出來ないと云ふ事は申すまでもない。此點より見れば我國に於て支那文化の智識的、學術的研究が必要である事は言を待たない。然るに殘念な事には我國一般の人士は西洋の智識を得ることに計りに汲々として支那文化の研究は必要でない、學者の閑事業位に考へて居るから、日本人でありながら日本過去の文化も從つて分らない事となる。
 以上は純粹な學術的の立場から支那を研究する事のお話でありますが、第二段に於て政治上、貿易上、總べて實際の利害關係より支那を攻究すると云ふ立場、其國々は何處かと云ふと、英、獨、露であります。最も御斷りをして置くが私は十年以前の事を話してゐるのであります、米國へ私は參りませんが米國と支那の關係は深くなつて來たが、支那學研究といふ點からいへば歐洲諸國に及びません。尤米國にも只今二三名の支那學者が居て立派な研究の結果を出しては居るものゝそれは主として獨人、或は獨逸系の人であります、米國では餘り金儲が忙しいから支那の學問までする餘裕がないのであるか分りません。然るに英國はさうでない、支那學は昔から闢けて居てモリソン、スタウントンなどの學者も出た。一體英國と云ふ所は第一外國を非常に輕蔑する、自分が一番優秀な國民だと云ふ自惚れを持つて居るから、外國殊に東洋の事などを研究するに、其國人の頭になつて考へる事をしない。何時でも己が偉い、支那文化は一段劣つたものとの先入の見があり、又一種の色眼鏡をかけて判斷する。又英國人が支那に對する興味は貿易であるから、支那の研究でも或る必要といふ事から出發する、學究的に實用を主とせずして遣る傾向は少ない。而して其研究をするものは外交官とか、領事とか商人とかで、職務の傍ら色々の事を只物好きにやる所謂素人が多い。かゝるものが年を取るに隨つて大學の教授になる、或はそれが英國人の長所かしらんが又短所であります、支那の事に付て書いた本を讀んでも素人に解るやうに書いてある、極めて大きい問題をつかまへて概念を與へるやうに書いてある、一部刻みに細かく事實を考證するといふ風が乏しい。夫れから獨逸であります、獨逸は御承知の通り各般の學問の極めて盛んな國でありますが、其國と支那との關係が英佛の如く古くないから、或特殊の事柄を除き、支那文化の研究に就いて申さば將來はいざ知らず過去に於ては兎に角餘り進んではゐない。先年伯林大學の正教授で支那學を擔任したデホロートと云ふ人がありました。元來此人は和蘭人で獨逸人ではありません。元來ライデンの教授であつたのを獨逸皇帝が和蘭に懸合ひ無理に伯林へ引張つて來たのであります、私は先年伯林で此人を教室に訪ね、又客にも招かれて御馳走にもなつたが私は此人の話を聞いて驚いた、其人が話すのに自分は獨逸皇帝の招聘に應じて伯林に來たが皇帝が私にかう云ふ事を申された、朕は之から獨逸の大學に支那文學の講座を置きたいが殘念な事には獨逸には立派な支那學者がゐないから、お前どうか之から其教授の卵子を拵らへて貰ひたい其ためにお前を招聘したと云はれたといふ事であります。ホロート教授は支那學では造詣の深い人で、支那宗教大系と云ふ大きい著述をして居る方ですが、其人が話すには凡そ支那國民を理解するには、其宗教を知ることが必要である、然るに宗教といへば勿論佛教も必要であるが同時に道教も必要である、支那の民衆、殊に下層階級の風俗習慣等を理解するには道教が必要である。然るに其經典は收めて道藏にあるが、之を得ることが極めて困難である、幸ひ貴國の帝室の御文庫中に收まつて居る(之を知つて居つたのには私も驚いた)何故に貴國で此貴い經典を重刻して廣く學界に益する樣にしないかと云ふのである、そこで私は其困難な事情を述べた。それは何となれば御承知の通り佛教の藏經は我國に佛教各派の本山も澤山あるから其本山だけで買つても出版費が出るとして、道教と云ふものは元來宗旨として日本にはないので假令そんな大部なものを出版しても買手がない。本屋で到底引受けないと云ふ事を云つたが、ホ氏が云ふにそれなれば獨逸皇帝から日本皇帝陛下に親書を差し上げ、貴國皇帝陛下に御文庫内にある道經を出版する事を御勸め致したら、どんなものだらうと云ふから私は其返事に困つてそれは知らん併しさう云ふ事になつたなれば、我皇帝に於かせられても御出版になるか解らんと云ひますと、ホ氏は不日參内するから其節皇帝に奏上しようといひました。それによつて私はホ教授が時々皇帝から謁見を賜はり支那事情を御下問に應じて居る事を知つたが、歸り道で日本の大使館へよつて其事を話したら參事官から大變小言をいたゞいた。君は馬鹿な事を云ふから大使館として色々迷惑の事を仕なければならん、そんな事をなぜ言つたと云つてしかられましたが恰度幸ひ戰爭が起つて皇帝が退位をなして大使館參事官もどれだけかの手數が省ぶけた譯であります、又伯林圖書館に行つて支那部の書籍を見ました、館長が云ふのに今支那に關する圖書は餘り無いのでありますけれど盛んに蒐集中であると云ふ事で、どんな書籍を集めて居るかと云ふと、山東を中心として山東の地理歴史工業と云ふものに關する本から第一に並べてゐる、私は山東の聊城と云ふ所に楊と云ふ古い家がある、そこに古い本を持つてゐる、之は專門の學者がよく承知してゐるのであるが、伯林の圖書館長はまさかそれを知るまいと思つて知らんふりしてお前の國の占領してゐる青島から餘り遠くない所に非常な藏書家がある、學術上貴重な本を以つてゐる人がある、あなた知らんだらうと云つたら、先生ニツコと笑つてそれは、聊城の楊氏の事であらう、あれは中々金持で一寸賣らんので六ヶ敷と云つて居つた。支那から何千里も離れてゐる伯林で聊城の楊氏をチヤント知つて居るには驚いた。我國が青島を占領してより以來、日本の官吏實業家も澤山往つたと思ふが聊城の楊氏を御存じの方は殆んどなかつたらうと思ひます、西洋人の目の付け處は例へば實業家的立場から云つても支那を知るには學問をしなければならん、事實を知つたゞけではいけない、モツト深く立ち入つて知らなければならんといふ考が實に感心である。又伯林では東洋語學校と云ふのがあつて支那部に參つて見ると、語學以外に山東商業山東礦業工業と云ふ問題で山東を中心として講義をやつて居ました。それで伯林大學生が講義を聞き終つてからこの支那部に通ひ、支那に關する豫備知識を得て初めて支那に行くと云ふ事になつてゐる。今度は露西亞になりますが露國も亞細亞と特殊の關係ある處から大學中に東洋語學と云つたか文學と云つたか名を忘れたが東洋專門の一の學部がある、而して其支那部に行つて見ると教授助教授學生達が澤山居る。而して露西亞でどう云ふ本を集めてゐるかと云ふと、蒙古、滿洲、朝鮮、中央亞細亞等露西亞に接近した關係深い所の文獻に關する支那語の著述を集めてゐる。イワノフと云ふ教授があつて、私は此人と露西亞革命以前までは文通して居たが先年新聞で見るとヨッフエの顧問になつて滿洲へ參つたと云ふ事であります、矢張り支那學者であるから顧問として連れて來たのだと思はれます。詰り露西亞と支那の關係は實際の必要といふ所から、支那學といふものが起つて居る。さてこの實際の必要といふ所から我國と支那の關係は如何といふに、それは今更諸君の前で一言も申さずとも解ると思ふ。支那と日本は何處までも提携しなければならん、日本が損をする時分は支那も損をしなければならん、共存共榮と云ふ事は之は何人も云はない人はありません、而し支那に興味を持ちながら支那の研究は一般人が第二に置くと云ふ風では共存共榮もないと思はれます、私が諸君の前で貿易の事をお話するのは釋迦の前で何とかでありますが貿易の事だけ云つても支那は我國の一大市場であります、若しさうとすれば只支那の言語を知ることは必要であるが、其位で滿足せず、支那人を理解する、支那の文化を理解すると云ふ事は商賣の上より云つても極めて必要な事と思ひます、之は私が二十餘年前に支那に居た時の事で今日は左樣でないと思ふが支那の習慣として支那人は文字を大切にします、文字を書いた紙は粗末にしない、文字を粗末にするといけないと云ふ迷信を持つて居る。例へば煙草でも何でもレツテルに文字が書いたらのみさしを無暗に捨てる譯に往かぬ、それで文字のあるものは賣れないと云ふ話を聞いた、それはどうでもよろしいが支那の國民性と我が國民性とはどう云ふ處が違ふか、支那人と日本人は良く喧嘩をする、一所になれないやうな事があるが、之は實につまらん事から起る事が隨分あると思ふ。結局兩國民性の違ふ處がある。それで感情の働き具合が亦た違つて居る。道徳風俗習慣を比較しても我國民の最も重んずる處は彼之を重んぜず、彼重んずる處吾却て之を輕んずると云ふ事がある、それが知らず識らずの間に彼等の感情を害し又彼より輕蔑せらるゝ事となります。
 或時私は支那内地を旅行した。其時賢こさうな子供があつてそれをボーイに雇つて上海に連れて歸つた。上海では當時宿屋に居りましたから私と同じ食物を此ボーイに取らせる譯にいかんから日本の下女下男の居間に之を置いた處が其子供が私の室へ這入つて來て申しますのに私は豫てから日本は非常な文明國と聞いてあなたのボーイに雇つて貰つた事を誠に光榮に思ひます、そして日本へ連れて行つて貰ふ事と思つて居りました。處が今日宿の下男下女の室に居つた處が二人でふざけて男が女の背をたゝいて笑つて居る、全く禮儀がない、あれは一體どうした事ですかと云ふのですから私も一寸其返事に困つたが、實はあの下男下女は日本に居れないで上海に逃げて來た者である、あゝ云ふ者は凡て外國に逃亡してしまふのだ日本ではそんなつまらん事をする者は一人もないと云つてゴマかしたのであります。私は何も支那の肩を持つて支那の風俗は日本より良い、男女關係も日本より支那がよいと云ふのではありません、併し御承知の通り支那人は最も禮儀を貴ぶ者であります、殊に個人の禮儀を貴ぶ事は日本より強い。一體支那人は個人本位で個人の體面とか禮儀を重んずる事に於て鋭どい感じを持つてゐる之を缺くと非常な侮辱と感ずる、其代り國としては大した侮辱を感じない、例へば支那の人に向つてお前の國はいけないと云つても自分は其國民でありながら侮辱せられた感じを起さない、而し個人に對しお前の態度が惡いといつたら吾々日本人が他人よりさう云はれた場合の感じより一層ヒドイ感じを生ずる樣である。
 吾々は外交の事は薩張り知らんが二十一ヶ條と云ふ樣な事が排日の原因の一つであるが、然らば二十一ヶ條とは何かと支那人に尋ねたら其一ヶ條も知らん人間が澤山ある、而し只二十一ヶ條と云ふだけで吾々を侮辱したと云ふので名義と云ふ上より非常に惡い印象を與へてゐる。
 結局彼等は其所謂體面といふことに鋭どき感を有つて居るが、それが支那の國民性でありますが、此國民性と云ふものは一朝一夕で出來たものでなく、御承知の通り支那の歴史と云ふものは四千有余年以來續いて居るので支那の事を知らんとすれば其初に溯ぼつて研究しなければならん、云ひかへれば即ち古典は支那文明の結晶で、あれが基で今日の文明を來たしたのであります、例へば婚禮は支那風俗の一つの現象ですが其婚禮を學問的に調らべると經書の中の儀禮の中の士昏禮から始めねばならぬ。總べて今日吾々が見る樣な支那人の宗教思想、道徳思想、風俗習慣と云ふものがどう云ふ事から來たかと云ふ事を考へるには、勢、四千年の昔に溯ぼつて古典の研究より發せねばならぬ。而してそれをなすには種々な困難が伴つてゐる、第一先づ文字を知る事、支那の文章を讀むと云ふ事之は非常に六ヶ敷い事で、先にお話した伯林大學の教授が話した事がありますが、自分は希臘語ラテン語もヱジプトの文字も少し知つて居るが併し世界で一番學びにくいものは支那文であると申された。吾々日本人は昔から此漢字を祖先以來習つてゐたのであります、西洋人が支那文字を讀む事に困難を感ずる樣には今日漢文が假令衰へて居つてもそれほどまではない。其點から云つても支那の研究は日本人が率先して致さなければならん。而して之を日本人が西洋人に傳へると云ふ意氣込でなければならんと思ふのであります、我國の支那學者は勿論の事であります、只學者の事業にのみ委かさず凡ての國民が同樣の感じを持つ事が必要である、本校は或極まつた目的を持つて建てられた學校で私が特に希望するのは若し諸君の内支那の貿易と云ふ樣な事をやらうと云ふ人があつたらどうか支那文化の學術的研究と云ふ事は六ヶ敷としても、只實業の點から考へて見ても今日まで我國の人に考へられた支那智識より以上の支那智識を得て支那に於て仕事をせられん事を希望する、然らば其諸君の目的とせらるゝ處の商業其ものに就ても非常に利益する事ではあるまいかと思ひます。
 私は講演が極く拙劣で話を致しまする者も非常に苦しいので傾聽して下さる方は定めし更に御つらいと思ひます、極めて論點が支離滅裂で御解りにくい事と思ふのであります、一場の講演によつて私は責だけを塞ぐ事に致します。(拍手)
(大正十四年二月、和歌山高等商業學校パンフレツト、特別號)





底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
初出:「和歌山高等商業學校パンフレツト、特別號」
   1925(大正14)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「餘」と「余」の混在は底本通りにしました。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
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●表記について