支那近世の國粹主義

狩野直喜




          一

 支那で國粹保存などいふ事を唱へ出したのは極めて近年のことで、以前には全く無かつたのである。一體かゝる思想は、他國の種類を殊にする文明が俄に侵入し來つて、自國固有の文明が其爲めに破壞されやうとし、或は破壞までは行かずとも、他國の文明の爲め自國の文明が、幾分か光輝を失ひ懸るといふやうな場合に起るものである。
 然るに支那は數千年の昔から自國固有の文明を持續し來つて、其根柢に變化を生ずるまで、他國文明の影響をうけた事はないから、國粹保存などいふ思想も、また從來なかつたのである。其證據には國粹といふ熟語は、今でこそ上諭奏摺或は通儒名士の文中に見えて、國内の通用語となつて居るけれども、經典は勿論近人の集までこれを使用したものはない。即ち光緒三十三年(我明治四十年)六月に當時湖廣總督であつた張之洞が存古學堂を立んことを請ふの疏に

竊惟今日環球萬國學堂。最重國文一門。國文者本國之文字語言。歴古相傳之書籍也。即間有時勢變遷不盡適用。亦必存而傳之。斷不肯聽※(「さんずい+斯」、第3水準1-87-16)。至本國最爲精美擅長之學術技能禮教風俗。則尤爲寶愛護持。名曰國粹。專以保存主。

とあるが、是を見ても國粹といふ熟語が、元來我國に來た支那留學生などが、本國に輸入したもので、支那にはこれに適當する言葉がないから、有名な新名詞嫌ひの張之洞さへ之を用ゐた事が分る。又近來の支那人に國寶などいふ語を用ゐるものがある。國寶の二字は古く經典に見え、『親仁善鄰國之寶也。』『口能言之身能行之國寶也。』など其例少なくない。又其中には今日我國に用ゐる語の意味と同じきものもあるが、矢張り是の語も我國より輸入したものに相違ない。
 さて支那人が國粹保存など唱ふるに至つたのは、近時西洋の文明が盛んに輸入され又歡迎さるゝやうになつてからの事である。勿論支那に西洋の學問技藝の傳つた起源をいへば決して新しい事でない。かの明萬暦より清雍正時代にかけて、利瑪竇(Matteo Ricci)龍華民(Nicolas Longobardi)湯若望(Adam Schaal)南懷仁(Ferdinand Verbiest)のゼシュイット僧等が支那に來て、宗門のことは勿論、天文暦算輿地機器の方面に關し、多くの著述をなし、西洋の文明を輸入した事は顯著な事實で、彼等の著述せし書目を見た丈でも、其熱心なのに驚くのである。又支那人の方でも、彼等が天文暦算に秀でた事を認め、清朝の官制にも欽天監監正即ち天文臺長ともいふべきものは、滿一人西洋一人を以て之れに充つることに規定され、殊に康熙帝の如きは西洋の學術に注意し拉丁文字迄に通じて居たといふ話である。併し當時の支那人が、西洋の文明に對する考へは、唯彼等が天文暦算等の技藝に秀でゝ居るから、其長處だけを利用するといふ位のことで、勿論西洋の文明が自國の文明より同等若しくは其以上のものであるなどいふ考は持たなかつた。又實際公平に論じても、當時西洋文明の程度が支那に優つて居たとも思へない。然るに其後西洋の文明は愈※(二の字点、1-2-22)進歩し來ても、又鴉片戰爭とか英佛同盟軍の北京侵入などあつて、種々の點に於て西洋文明の價値を知る機會に接し少なくとも其畏るべきことを知る機會に接したれど、支那人が自國の文明に對する自負心は、毫しも動搖することなく、以て近年に至つた。尤も近年の事ではあるが、曾國藩李鴻章一二達識の士は略※(二の字点、1-2-22)西洋の事情を解し其文明を輸入するの必要を唱へ、同治十年兩人連銜して聰頴なる子弟を選び、西洋に留學させんことを請うた。同治十年は我明治四年に當るから、我國初期の留學生が西洋へ往つて居た時代と餘り變りはない。又國中でも、福建の船政學堂、江南製造學堂、南北洋水師學堂など、西洋の學術を授くる處はあつたけれども、其數も極めて寡なく、新學を云々する人でも、其西洋の文明を喜ぶの程度は、到底我明治の西洋文明鼓吹者に及ぶべきものではなかつた。
 然るに日清戰爭となつて、中華を以て自誇つて居た支那が負けたから、漸く舊來の陋習を守つて居ては、列國競爭場裡に立つことは出來ぬ。果して富強の實を擧ぐるには、日本の如き態度を以て西洋文明を採用せねばならぬといふ考が盛んになつて變法自強の語が朝野到る處に唱道され、程なく獨逸の膠州灣占領となつてから彼等が國運に對する危懼の年は愈※(二の字点、1-2-22)甚しかつた。それから康有爲梁啓超等の新學派が是機に乘じて朝廷に用ゐられ官制の上から變法が行はれたけれども餘り過激であつたのと、康梁の學術、及び其資望が足らない種※(二の字点、1-2-22)の原因から反動が起り、一旦やりかけた改革も未だ幾ならずして中止され、中止されたのみならず、守舊派其勢力を恢復して排外熱盛んとなり北清事件に至つて極まつた。まだ此時代まで國粹などいふ語はなかつたけれども、要するに急激な西洋文明の侵入に對して、國粹主義が極端に發動したものと見ても差支ない。然れどもこれはホンの一時で、聯軍進城兩宮蒙塵等の事があつた爲め愈※(二の字点、1-2-22)古來の陋習を破り、西洋の文明を採つて富強を圖るの必要を感じ、從來康梁の議論には不贊成であつた人も、漸く穩健着實な改革意見を發表し、君臣一意、諸種の改革を實行した。が、時勢は彼等を驅つて益※(二の字点、1-2-22)其範圍を大ならしめた。單に教育の方面から云つても科擧を廢し學堂を興し又留學生を東西兩洋に派遣するなど、誠に盛んなものであつた。
 かく清國朝野が西洋の文物を尊重し、之れを採用するに汲々たる時に當り、古來自國の學術禮教に對して如何なる態度を取つて居たか。吾人は明に二の潮流を認むることが出來る。即ち一は極端な新學心醉者であつて、彼等は支那固有の學術は價値ないものだから、宜しく之れを全廢すべしといひ、聖經賢傳中にある中國の禮教に對して懷疑の立場にあつた。吾人は嘗つて支那新聞に或日本の倫理學教科書の飜譯が出た時の廣告文に今や支那に於て舊道徳已に衰へて新道徳將に興らんとしつゝあり、西洋の倫理學説に耳を傾けんと欲する人士は必ず一本を購ひ坐右に備へざるべからずといふ意味の文句があつたのを見た。また支那從來の風俗として女子は中饋を掌つて、外事に干與せざるを美徳としてあつたが、現今の女學生などは、中※(二の字点、1-2-22)そんな奴隷根性を持ぬと主張する。支那の新聞を見ると、近來は世界婦人會などを組織する女士があつて廣く世界の婦人と智識を交換し互ひに聯絡をとつて女權の擴張を圖るといふ樣な趣旨書を發表して居る。彼等は勿論從來の良妻賢母主義などには滿足せぬ。議會も開けぬ前から婦人參政權を得るの運動でも仕兼ねまじき權幕である。然るに政府の當局者で勿論均しく進歩的の傾向があつても支那の學問が根底となつて居る連中はこの風潮に對して危懼の念を抱き一方には種々の改革をして新政を布くと同時に國粹保存と云ふことを、矢釜敷言出した。即ち支那に於いて奇怪な現象といふべきは、此等の所謂進歩派、開通派の連中が同時に大なる國粹保存者であることで、之を我維新の初に、當路の諸公及び民間の識者が總べての舊物を破壞することを務めたのと比較したら大いな差異を發見するであらう。
 予輩は先づ教育の方面に就き、國粹主義が如何なる具合にあらはれたかを見よう。光緒二十九年五月即ち我明治三十六年、北清事件のあつてから僅四年目に、管學大臣張百熙、榮慶及び湖廣總督張之洞の三人が勅命を奉じて大學堂以下各省諸學堂の章程を釐定し十一月に裁可を得た。其後多少の變更はあつたかも知らぬが、現今支那の諸學堂は之に本づいて立てられて居ると見て差支ない。そして能くこの章程を見ると中々面白い事がある。即ち初めに全國學堂總要といふものがあつて學堂教育の心得を示してあるが、第一に學校では最徳育に重を置き、教員たるものは授業に當り隨時指導し、曉すに尊親の義を以てし、一切の邪説※[#「言+皮」、181-17]詞は極力排斥しなくてはならぬとある。又中小學は學問の根底を作る處だから、學科のうちにても殊に讀經に重を置き以て聖教を存すべしといひ、其説明に「外國學堂有宗教一門。中國之經書。即是中國之宗教。若學堂不經書。則是堯舜禹湯文武周公孔子之道。所謂三綱五常。盡行廢絶。中國必不國矣。學失其本則無學。政失其本則無政。其本既失。則愛國愛類之心。亦隨之改易矣。安有富強之望乎。」云々とある。それから文學の方面でも支那文學が五大洲文化の精華たることを述べ、之を保存するは國粹保存の一大端で、如何に新學に長じても、本國の文章を綴り自由に思想を發表することが出來ぬなら、學問は何等の役にも立たぬ。官吏となつて奏議公牘さへも書けなかつたら、どうであるといつて居る。支那は所謂文字の國であつて、文章に用ゐる語は雅馴を以て主とする。然るに新學が流行するに從ひ、我國で製造された生硬な熟字が盛んに支那に入り、新名詞といつて彼國人士に歡迎されて居る。眞正に新學をした事のないものでも、文章や談論中に此等の熟字を使用して如何にも新學家らしき顏をするものが非常に多い。支那で新名詞を使ふ人といふ言葉がある。是れは恰も我國の高襟ハイカラと同意義に用ゐられて居る。學堂總要には「外國の名詞を襲用することを禁じ、以て國文を存し、士風を端しくすべし」とある。これは重に張之洞の意見に本づいたものと思はれるが、其説に凡そ專門の熟語は、其本字に從つて之を用ゐるより外に致方はないけれど、日本に於ける通用名詞で、強いて用ゐるに及ばぬものを剿襲するのは、國文に害を及ぼし、又徒に輕佻浮薄なる少年の習氣を長ぜしめ、其害不少によつて、學堂に於て之を嚴禁すべしといふのである。少し話が横路にそれるけれど、其の下に所謂新名詞を列べて區別して居る。即ち第一は卑俗にして雅馴ならざるもので國體、國魂、膨脹、舞臺、代表等である、第二は支那でも從來使はないことはないが、意義が違ふもので犧牲、社會、影響、機關、組織、運動等は是である。第三は意味の分らぬ事はないけれども、必ず使用せぬとも宜しいもので、之は報告、困難、配當、觀念等の熟語である。學堂でかゝる禁令を出したけれども、中々實行は出來ぬ。又之を禁ずるなどいふ事は、抑々無理である。併し又一方より考ふれば「吾輩は應さに二十世紀の舞臺に活動して國家の膨脹を圖るべし」とか「生命を犧牲にして中國魂を發揮すべし」などいふ語の入つて居る文章を見せらるゝと、吾輩日本人でも支那古典的趣味の上から甚だ感心は出來ぬ。かゝる文章を讀むと誠に恐縮するが、支那の新學家は却て得意そうにやつて居る。これは熟字の使用に就いて言つたことだが、今一つは文章の構造で外國文と支那文の構造は全く違つたものであるのに、若し外國文直譯體など用ゐたら、それこそ大變で國文は其爲め純粹な形式を失ひ、中國の學術風教も亦將さに隨つて倶に亡ぶべしとある。要するに國粹保存の思想はこの總要に能く表はれて居る。
 次に述べたいのは學制である。前に申す如く張之洞等の奏定した學堂章程によると京師大學堂は經學科、政法科、文學科、醫科、格致科、農科、工科、商科の八分科大學より成立つのであるが、經學が一の分科大學をなし然かも首位に列して居る所などは、誠に支那の特色を發揮したものである。さうして其内亦た周易、尚書、毛詩、春秋左傳、春秋三傳、周禮、儀禮、禮記、論語、孟子、理學の十一門に分かれ、學生は其一を選んで專修する。全く西漢一經專門の學風を採つたものである。政法科は我法科大學に當り、西洋の法律政治經濟を授くる所なれど、矢張政治科には第一に大清會典要義といふ課目があり、又法律科にも大清律例要義がある。それから醫科大學にも、醫學科に中國醫學といふ課目があつて第一學年には毎週六時間、第二學年には同じく三時間となつて居るが、藥物學科にはまた中國藥材といふがあつて、第一學年、三時間課することに成つて居る。それから文科大學はどうであるか、第一我國の文科大學と違ひ、哲學科といふものは全くない。是れも恐らくは張之洞の意見で定められたものであらう。一體之洞の考へでは、哲學といふものは其説く所高遠にして實用に切ならざるもので、其上言はゞ中國諸子異端の學の如きもので、遣り樣によつては危險思想を養成するの虞があるから、置かぬ方がよいといふのである、而して文科の中にも矢張中國史學、中國文學などが重な學科となつて居る。我國の大學は蕃書取調所から漸次發達したもので、西洋の學問が主となり國語國文國史漢學などは寧ろ後に盛んとなつた。支那の大學は創立の時代から自國の學問を主として居る、是れは大なる差異である、茲に面白き談がある。支那新聞の記する所に據れば、經科大學が開始されたとき、東西洋人の入學を志望するものが段々あつて、それ/″\の公使館から學部に照會したら、學部では協議の上、經學は中國固有のものなれば、外國人でも希望の向は入學を許るすべし。但其他の大學は、草創の際、諸事不整頓なれば暫く拒絶すといふ囘答をしたとある。該報の記者は東漢明帝のとき經學が昌明で、匈奴の子弟まで遠く來つて入學したと云ふ談は史乘に見えて居るが、外國人の經科大學入學は明帝以後絶えてなかつた盛事である。若し張文襄(文襄は之洞の謚で此時は已に亡くなつて居た)が地下でこれを聞かれたら、斯ることが有らうと迄は思はなかつたといつて喜ぶだらうと得意さうに書いてある。それから優級及び初級師範及中學堂の課目を檢べて見ると、人倫道徳(初級學堂では修身といふ)といふものがあつて、支那の經典を本として實踐道徳を教ゆる外に、羣經源流(初級學堂では講讀經講經といふ)といふものがあり、又其上に中國文學がある、而して其時間は下級の學堂になればなる程多い。此等學制の點から見ても當局者の考が能く分るが、之を一層明白にしたものは光緒三十二年(明治三十九年)三月の教育宗旨に關する上諭である。
 それは學部の奏議に本づいて發せられた者であるが、原奏の趣意は學部が新に立てられたに就いては、先づ教育の宗旨を天下に宣示して、風氣を一にし人心を定むべしとて、其要目を擧げたのであるが、一は中國の固有する所にして益これを闡明すべきもの即ち忠君尊孔の二箇條である。他は中國の缺點で、今より宜しく戒めて其振作を圖るべきもの、即ち尚公、尚武、尚實の三箇條である。今唯忠君尊孔の二箇條に就いて見ると、例を獨逸と日本に取つて、「近世崛起之國。徳與日本最矣。徳之教育。重在帝國之統一。日本之教育。所切實表章者。萬世一系之皇統而已。」などといひ、又孔子の道の偉大なることを説き「日本之尊王倒幕。論者以爲漢學之功。其所謂漢學即中國聖賢之學也。」といつて居る。一體支那人が孔教を云々するときには、必ず我國を引合にして居る。同年に湖北按察使梁鼎芬が、聖人の郷たる曲阜に曲阜學堂を立てんことを請ふ疏にも、「日本講孔子之學。有會有書。其徒如雲。其書如阜。孔教至爲昌盛。我中國尊崇孔子數千年。不之。可耻可痛。」とある。其書如も餘り夸大に失す。而して其内にはポケツト論語式のものが多いと思へば、却つて此方から可耻可痛と言ひたい位であるが、先づ彼等の見る所はさうである。其外提學使等が我國を視察し歸つて出した奏摺を檢べて見ると、多く日本の孔教に就いて言つて居るが大同小異なれば此に略する。
 兎も角前に述べた樣な次第で、學部の上奏に本づき上諭が降り、教育の方針天下に宣布された。それから今一つ大切な事件は孔子を大祀に升ぼしたことである。一體支那で國家の祭祀は大祀、中祀、羣祀の三つに分れ、大祀は天地、太廟、社禝に限られ、孔子は中祀に列して居たのを、西太后の懿旨によつて大祀に升ぼした。從來孔子は萬世の師表として歴代より崇敬されて居たけれど、之を天地と同格に祭つた例を聞かぬ。これも孔教を尊び國粹を保存すると同時に、所謂邪説※[#「言+皮」、185-5]詞を排斥するといふ意思に出たものである。又同年十二月の上諭にも學問は中學(支那の學問のこと)を以て主とし西學を以て輔とすといふことを明言してある。國粹主義が教育の方面に於て如何に表はれてゐるかを見ることは先づ上述の通りである。
(明治四十四年七月、藝文第貳年第拾號)

          二

 予輩は本誌前々號に於て、支那最近の國粹主義が教育制度の上に顯はれた點を述べた。然るに學部などではかく危險思想の蔓延を防がんとして、教育宗旨に關する上諭を奏請したり、其他種々の方法を以て、舊來の禮教を維持しようとして居るのに、又一方法部では新法典の編纂に從事して居たが、光緒三十二年に刑事民事訴訟法、其翌年には刑法の草案が出來て上奏に及び、朝廷ではこれを督撫將軍に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はし、其意見を徴せられた。この法典は申す迄もなく、治外法權を撤去するのが目的で、實際人民の程度をも顧みず、又それが丸るで東西諸國の法律を飜譯したもので、中國固有の道徳や習慣に反對する事が多いといふので、各方面から非難の聲が高まつた。先づ刑事民事訴訟法に對する非難の點を二三擧げようなら、例せば第一百三十條にかういふ規定がある。即ち凡そ民事の裁判で、被告の敗訴となり、原告に交すべき金錢若しくは訴訟費用を出す能はざるときは、裁判所は原告の申請を經たる後、被告の財産を査封サシオサヘするを得。然れども左列の各項は査封備抵の限りにあらずとて、一、本人妻所有之物、二、本人父母兄弟姉妹、及各戚屬家人之物、三、本人子孫所自得之物を擧げて居る。これに就き、張之洞などの意見によれば、支那從來の道徳では親親といふ事が一番大切で、祖父母父母存生のうちに、其子孫なるものが、別に戸籍を立て、財産を分けるといふ如きは、非常に惡いことゝ考へられて居る。これは獨り道徳上許されざるのみならず、舊律では之を罪して居る。大清律例に十惡の條があつて、不孝は其一であるが、不孝といふ所の細注に分産を以て其一例としてある。然るに新法典によると、明に父子兄弟夫婦の異産を認めて居るは不都合極まる話であるし、又實際の處、今日支那の社會では、一家の財産中で、これは戸主のもの、これは父母のもの、妻のものと區別されて居ないから、此の規則は獨り數千年養成し來つた善良の風俗を破壞するのみならず、實際に行ふことは困難である。それから新法典には辯護士の規定があつて、凡律師倶准各公堂。爲人辨上レ案としてあれど、從來支那では一般に訴訟といふもの餘り善い事となつて居ない、又實際地方では人の爲め訴訟に干預するものは訟師若しくは訟棍など稱する公事師であつて、此等は無智な人民を煽動して訴訟を起させ、これに藉つて金錢を貪ぼり社會から蛇蝎の如く嫌はれて居る。東西文明諸國の律師は皆學校で專門の智識を養つたもので、又一定の試驗をして合格者より採用するから、何等の弊害はないけれど、支那現在の程度では、學問あり品格ある律師を得ることは到底不可能である。結局この制度を實行せんとせば、唯從來訟師、訟棍などいつて社會の擯斥をうけて居た無頼の劣紳に、種々の惡事を働く機會を與ふるに過ぎず、又兩造に貧者と富者とあつたら、富者は律師に依頼するを得れども、貧者は親ら公堂に到り口舌を以て之と爭はざるべからず、貧者は直にして敗れ、富者曲にして却て勝を得るに至らん。又新法典には陪審制度を採つて居るが、この制度は英吉利に※(「日+方」、第3水準1-85-13)まつたもので、英人は公徳を重んずる國民であるから、この制度も益あつて損ないかも知れぬが、法徳諸國のこれに※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)ふものは、已に流弊の多きに苦しむ次第で、日本さへまだ此の制度を用ゐるに至らぬ。況んや前に述ぶる通り、西洋人の如く法律思想が發達して居らず、訴訟を以て罪惡の如く考へ、公堂を以て紳士の妄に入るべき所にあらずとしてある支那で、この制度が理想通りに行はるゝ筈はない。體面を重んずる人士ならば、縱令責るに義務を以てし、科するに罰金を以てしても、寧ろ甘じて懲罰を受け、陪審員たるを承諾することなかるべしと論じて居る。張之洞の駁議は五十餘條に渉つて居るが、要するに法典は自國の民情風俗習慣歴史を參酌して實際に合する樣に編纂せねばならぬ。或論者は法典さへ東西洋諸國の通りのものが出來たら、治外法權は一朝にして撤せらるゝと思ふけれども、それは間違つた意見で治外法權の撤せらるゝと否とは一に國家兵力の強弱、戰守の成效如何の問題によるといつて居る。こんな議論は張之洞に限つた譯ではない。其他督撫將軍の多くからも意見書が出て居るが、要するに新法典中の多くの箇條は支那從來の民情習慣に違背して居るから、遽かに行ひ難いといひ、殊に父子兄弟の産を分つことを認めて居ることは、家族主義に本づいた支那の道徳と相容るゝ能はざる旨を論じて居る。
 それから新刑法の編纂についても、同樣の議論が出た。修訂法律大臣沈家本等の上奏文には「是編修訂大旨。折衷各國大同之良規。兼採近世最新之學説。而仍不乎我國歴世相沿之禮教民情。」云々と言つて居るけれども、この草案を憲政編査館から内外各衙門に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はし、其意見を徴した所が、種々な反對論が出た、而して尤辨難の鋒が強かつたのは學部であつた。學部の覆奏を見るとかうある。一體臣が部は教化を司どる所であるが、教化と刑律とは互ひに相因るものである。然るに新律を査べて見ると、我國の禮教と相反する所が甚多い。これは日本より招聘した起草委員の原文を其儘採用して漢文に飜譯した迄であるから、中國の情形に適合しない譯であるとて、不都合の點を指摘して居る。學部以外直隷、兩廣、安徽の督撫等の駁論も政治官報に掲載してあるが、一々述ぶるに及ばぬ、今唯學部所論の要點を擧ぐると、第一、中國舊法律では尤君臣の倫を重んじてある。故に謀反大逆等の大罪を犯すものは、首從を問はず凌遲の刑に處することになつて居たが、新刑法では政府を顛覆し、土地を僭竊し、或は國憲を紊亂するを目的とし暴動を起すものは、首魁は死刑又は無期徒刑に處すとある。即ちかゝる大罪でも必ずしも死刑と限つてない。又凡そ太廟宮殿等に侵入し、箭を射、彈を放つものは、三等或は四等の有期徒刑、或は壹千圓以下壹百圓以上の罰金に處すとあるが、其他帝室に關する犯罪でも、多く徒刑或ひは罰金若干と規定してある。即ち罪重く法輕き譯で、かくては君、臣の綱たる義と刺謬すること甚しい譯である。第二、舊法律では、父子の倫を重んじてある。故に祖父母父母を毆つたものは死に處することになつて居たが、新刑法では凡そ尊親屬を傷害し、因つて死或ひは篤疾に致すものと雖、必ずしも死刑に處せられず、是れまた父、子の綱たるの義に戻れり。第三、舊法律は夫婦の倫を重んじてある、故に妻夫を毆つときは杖に處し、夫妻を毆つときは折傷するに非ざれば罪を論ぜず。又妻夫を毆殺するときは斬に處すれども、夫妻に對し同一の罪を犯すときは絞に處す。而して條例中、婦人の犯罪は多く本人を罰せずして夫をして之に坐せしむ。是妻は夫に從ふものなれば、其責任を夫に負はしむるなり。然るに新刑法には妻妾夫を毆つの專條なく、之を普通人の例に等しくするは、夫、妻の綱たるの義に違へり。第四舊律では男女の別を重んじてある。然るに新刑法にては親屬の相姦、平人と別なく、又十二歳以下の男女に對し猥褻の行爲をなすものと、強姦に對する制裁のみありて其他の姦淫については何等の刑罰がない。又其説明に姦淫は社會國家の害を引起すと雖、社會國家の故を以て科するに重刑を以てするは、刑法の理論に於て未だ協はず。例せば法律を以て泥飮及び惰眠を制限すべからざるが如し云々とある。刑法已に和姦を寛宥して罰せずんば禮教又防範する能はざるに至らん。又多くの犯罪は徒刑又は罰金に處することになつて居れども、かくては貲に饒かなるものは法を輕んずるに至るべく、貨財を重んじて禮儀を輕んずるの風を生ぜん。是決して我彝倫攸敍の中國に行ふべき法にあらずと論じて居る。かゝる反對論が矢釜敷かつたから、折角出來た新刑法も再び修正を加ふることゝなり、遂に宣統元年正月を以て「惟是刑法之源。本乎禮教。中外各國。禮教不同。故刑法亦因之而異。中國素重綱常。故於犯名義之條。立法特爲嚴重。良以三綱五常。闡唐虞。聖帝明王。兢兢保守。實爲數千年相傳之國粹。立國之大本。(中略)但祗可彼所一レ長。益我所上レ短。凡我舊律義關倫常諸條。不率行變革。庶以維天理民彝於不一レ敝。該大臣等。務本此意。以爲修改宗旨。是爲至要。」云々の上諭を下された。これを見ても支那が東西洋の文明を採用し、從來の制度に變革を試みんとすると、直ぐに其反動が起り、他國の文明の侵入に對し國粹を主張する傾向を生ずることが分る。是れは我明治初年から二十一二年頃迄の有樣と大に趣を殊にする所で、我國で國粹論の起つたのは、朝野共に歐米の文明に心醉し、舊物は善いも惡いも一度盡く破壞した後の事である。今でこそ誰れも國家とか國體とか武士道とか口癖の樣に唱へて居るけれども、昔しは隨分これと反對の言論をやつた。即ち楠公の忠死を權助の首縊りに比した教育家もある、我國語を英語と定めんければならぬと唱へた經世家もあつた。或は慷慨義烈などいふことは消化器病者の心理状態であるといつた學者もあり、國粹保存どころか人種の改良を主張した論者もあつた。それから猶明治の初年に出た教育に關する御達を見ると「從來學問は士人以上の事として、農工商及び婦女子に至りては之を度外に置き、學問の何物たるを辨ぜず、又士人以上の稀れに學ぶものも、動もすれば國家の爲めにすと唱へ身を立つるの基たるを知らずして、或は詞章記誦の末に趨り、空理虚談の途に陷り、其論高尚に似たりと雖、之を身に行ひ事を施すこと能はざるもの少からず、是れ即ち沿襲の餘弊にして、文明普ねからず才藝長ぜずして貧乏破産喪家の徒多き所以也」とある。學問を國家の爲めにすと唱ふるの非を論じ、學問の目的を生活の爲めとし學問の方法を誤まつて、破産喪家に至るなきを戒しむる所など、今日から見ると中々面白い。高山彦九郎、吉田松陰、櫻田四十七士の事蹟などは、今日でこそ大切な教育の材料となつて居るけれども、御達の主意によると、餘り學ぶべきものでない事になる。この明治初年以來の舊物舊思想破壞は餘りに突飛で、又危險であつたけれども、是れも致方なき事で、かゝる猛烈な改革をやつたればこそ、僅四十餘年で、今日の國運隆盛を來した譯である。支那の如くまだ眞正に西洋の文物を採用せぬ先から、國粹などを唱ふるのは、早きに失しはしまいかと思はる。併しまた一方から考ふると、數千年以來の固有な文明があつて、根底が深く、一朝に破壞する事の出來ないのは、支那の誇りといつてよいかも知れぬ。物は見方である、支那の文明は借物ではない。
 我國の國粹は必ず帝室と關係を有して居る。學問技藝、其他あらゆる文化は一として間接直接に帝室の栽培護持をうけぬものはあるまい。支那の場合は之と違つて、支那の國粹は支那人が古昔から持つて居たもので現朝は異人種で支那人を征服しながら却て支那の文明に征服されて其恩惠に浴した譯である。自國の國粹を貴んだといつて、それが直ちに尊王心と結びつく譯にはいかぬ、右國粹の貴ぶべきを知つたら却つてこれを生じた支那民族の偉大なることを自覺し、愈※(二の字点、1-2-22)彼等の所謂民族主義を鼓吹するに至るかも知れぬ。前に述べた通り政府では國粹を主張し之によつて朝廷に對する忠義心を養成せんとして居るが、これは出來るかどうか分らぬのである。
(明治四十五年一月、藝文第參年第壹號)
此稿本年八月京都帝國大學開催夏期講習會に於ける特別講演の要を自記録したものに係る。當時清國禍機未だ發せず、是れ結末唯豫想の語をなす所以なり。十一月二十七日、寄稿者。





底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
初出:「藝文 第貳年第拾號」
   1911(明治44)年7月
   「藝文 第參年第壹號」
   1912(明治45)年1月
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2006年9月15日作成
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