支那人心の新傾向

狩野直喜




 今晩何か茲に出てお話をして呉れと今村さんからのお頼みでありましたが、何分私は斯う云ふ席に出てお話する資格は無いのであります。併し折角の御依頼でありますから餘り御辭退するのは失禮と思ひまして講演の題目等も色々考へて見ましたが、矢張り私の專門と致しまする支那學の範圍に於て「支那人心の新傾向」と云ふことに就て暫くの間御清聽を願ふことにいたしたい。勿論支那人心の新傾向と申しましても夫が矢張り古來の支那の學術に關係を持つて居りますから、勢ひ經學者の學説に就てお話いたさなければならぬのであります。隨分お聽苦しいこともあらうと思ひますが其事は豫め御承引を願つて置きます。
 先年支那に於きまする革命、又之に伴うて共和政體が成立致しましたと云ふことに就ては、此の支那の人心に尠からざる影響變動を起したのであります。勿論秦漢以來革命と云ふものは御承知の通り幾度もありまして、長くて三百年短かくて五六十年の間で以て一姓が倒れ、他の姓が之に代つて天下の主となると云ふことは歴史の上に決して珍しくないのであります。併し是等の革命もたゞ御承知の通り主權者名字が變つた丈でありまして、支那人の思想即ち政治道徳に關する思想に於きましては何等の變化が無いのであります。即ち從來の革命と申しまするものは堯舜は禪讓でありましたが湯武以來は放伐といふものがあり結局君主の徳が衰へて之を行はなかつたから民心が離反し、別に聰明英智の人間が起つて、さうして前代を倒して別に位號を正しくする譯であるが、禮樂制度は革命によりて變るけれども天下を治むるの道は堯舜禹湯文武の道に相違ないので、革命の起る樣になるのは其道が廢れたからで、之を新主が興すのである。故に支那の革命と云ふことは同時に復古と云ふことを意味するものであります。漢人が天下を取りましても、或は蒙古或は滿洲から起つて天下を取りましても同じ事であります。現に前清には滿洲から起りました康煕とか乾隆の諸帝が如何に此の儒教を奬勵し如何に學問に骨を折つたか、如何に此の兩帝が文武の道を踏襲したかと云ふことは、康煕帝の教育に關する勅語を一覽しても直ぐに分るのであります。
 ところで此度の革命と申しまするものは之と全く違つたものであります。革命の結果として共和政府が出來ました。で是は支那歴史あつて以來最初の事であるのでありますが、勿論支那でも周の世に一時共和の政が行はれたと云ふことは史記や何かに見えて居る。「周の※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)王の時王※(「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1-84-28)にあり王位を同うする十四年共和といふ」と云ふことが見えて居ります。斯くの如き共和の文字は史記に見えて居るけれども、實際に於て今日亞米利加合衆國とか或は佛蘭西共和國を模型といたして作つた所の支那の共和政府とは全く關係のないことであります。此の政體が支那の從來の政體と違つたと云ふことは、是れは謂ふまでもなく西洋の思想を受けて斯う云ふ政體が出來たものであります。斯う云ふ政體の變動と云ふことは誠に非常な變動でありますが、是は詰り此の一部の支那人にありての思想の變動である。政體に關する變動と云ふことはたゞ其の一端に過ぎないのでありまして、從來儒教などで執り來つた所の政治道徳的の思潮に對して、近來一部支那人の間に懷疑の念を抱いて參つたのであります。此の政治道徳に關する思想から出來上つた所の數千年來の風俗習慣と云ふものは根柢から崩れ掛つて參つたのであります。勿論此事は今日に始つた事ではありません。丁度十年ばかり前に私が留學致しまして支那の南北に三年の間滯在して居りましたが、其時この支那の人心が變動を受けて居ると云ふことを當時感じましたのであります。隨分その時分には青年の間には儒教と云ふやうなものが迚も今日の時世に適せないのである、是からして舊道徳は廢れて新道徳が行はれなければならぬ、何うしても夫でなければ人心を滿足させることは出來ないと云ふことを唱へた青年があつたのであります。併し之は青年間に新しき空氣を吸つた一部分でありまして、當時の政治家學者の間には、まだそんな考はなかつた。例へば張之洞と云ふやうな人の考を聞きますと、形而下の學問と云ふものは何うしても西洋から採らなければならぬ、併しながら政治道徳の根本思想は支那に既に在るのであつて、決して西洋から採るに及ばない、詰り和魂漢才と云ふ言葉が日本にあれば、支那では漢魂洋才で往かうといふ考であつた。當時私は或人に對しまして今日の勢ひは西洋から形而下の學問ばかり採つて夫で事濟むと云ふやうな工合に考へることは出來ない、形而下の學問が支那に這入つたと同時に哲學、倫理、宗教と云ふやうな思想が是れは何うしても這入らなければならぬ。其時には支那の統一と云ふこと……支那人心の統一と云ふやうなことは何うなるであらうと云ふことを段々色々な人に話して見たけれども、當時支那の人はたゞ何等耳を傾けなかつたのでありますが、私が豫想致しました通り、此の形而上の思想がだん/\支那に這入つて參りまして儒教で以て統一された此の支那の人心と云ふものは段々統一を失ひ、支那の儒教を以て鼓吹した道徳を疑ふやうになり、また從來固く決つて居つた所の風俗習慣に對しても之を輕蔑するやうな事になつて來たのであります。例へば支那の婦人のやうな者でありましても、御承知の通り支那の婦人と云ふものは男女七歳にして席を同じうせずと云ふやうな事がありまして、是れまで支那の婦人は全く社會から殺されて居つたのであります。ところが此の頃は段々支那にも新しい女が出來まして、參政權の獲得を唱へると云ふやうな運動もやり兼ねない連中も隨分あるのであります。
 私は一昨年歐羅巴に參りました序に一寸支那に參りました。歸りにも一ヶ月ばかり支那に滯在して居りましたが、歸途に支那に參りました時には南清の方から來ました或支那人の話を直接に聽いたのではありませぬですが、其人に話を聞いた人から聽きますと、此の革命以來南清地方と申しましたが決して南清地方に限りませんが、南清は此の革命の元でありますから殊に左樣であるか知れませんが大變に社會上の變化がある。例へば離婚のやうな事があります。支那に離婚と云ふことは是まで非常に少ないのでありました。ところが其の離婚と云ふやうなことは此頃非常に起つて居る。夫から先年から新聞紙上にも見ることでありますが自由結婚と云ふ、自由と云ふことを穿き違へたか知れないが、是までの習慣に據らずに、親の命令に從はずに結婚する。其中には色々野合と云ふやうな事もありませうけれども、また正式の自由結婚と云ふものもあります。之を名づけて一名文明結婚と申します。文明とは餘程オカシナ熟字であります。
 それから商賣上に於きましても御承知の通り支那人は此の商賣人間の信義道徳と云ふものは隨分固く守つて居りましたが、商賣人間の信義道徳と云ふやうなものも革命以來非常に崩れて來たと慨嘆して居る人があります。夫から子供が親の言ふことを聽かない、弟が兄の言ふことを聽かぬと云ふやうなことは昔よりは非常に薄弱になつた。此點に於きまして心ある人は大變に心配をして居るのでありますが、此の心配をいたすことは當局者の間にも隨分心配をして居る人もあるし、また民間の人にも隨分あるのであります。私が昨年北京へ參りました時に向ふの教育部、即ち此方で申しまする文部省でありますが、文部の次官で會ひたいと云ふ人に一寸會ひましたのでありますが、將來此の道徳教育と云ふものは何う云ふ風にやつたら宜からうかと云ふやうな話もありました。
 支那人心が段々動搖をして居るに就ては之を維持して支那の國民の道徳を保つて行くかと云ふ問題であります。之に就ては矢張り支那人の考でありますと、矢張り支那在來の道徳或は宗教と云ふやうなものを無くしては何うしても支那人には適合しない。何が一番都合が好いかと申しますると、矢張り儒教と云ふことになるのであります。それで斯う云ふ工合でありまして、此頃は儒教の復興と云ふやうなことを唱へる人が隨分多いのであります。尤も然う云ふことを唱へる人には色々種類がありまして、昔の老儒とか云ふやうなものは昔の學問はえらい、何うしても之を保存して行かなければならぬと云ふやうな考の人もあります。夫から中には日本や亞米利加等に參つて西洋の教育も受け、夫から支那の教育も受けて居る者がです、何うしても此の支那を盛んにするには保存と云ふよりも寧ろ儒教の精神を發揮して大いに是で以て支那を盛んにしなければならぬと云ふ人も隨分あるのであります。
 ところで先年以來共和政體が出來まして、果してその政體が儒教と一致調和することが出來るか何うであるかと云ふ問題が起るのでありますが、儒教は專政時代の遺物である、今日共和時代になつた以上此の儒教は全く無用なものであると云ふ論者も隨分あるのであります。
 支那には御承知の通り文廟、即ち春秋に孔子を祀る所が各府州縣にあります。それが此頃は段々問題となつて文廟を毀してしまふとか、それに附いて居る田地を沒收することが始まり懸けたので、之に對して儒教復興の連中は躍氣になつて今騷いで居るのであります。丁度私が昨年北京に參りました時には是等の連中が集つて久しく廢されて居つた所の釋奠即ち孔子祭をやりました。私も案内を受けまして其のお祭りに參列致しました。衆議院議長が主祭者でありましたが、其發起人は廣東人で長く米國にあつて、コロムビヤ大學を卒業した陳煥章といふ人でありましたが、朝野の名士が皆之に贊成して出席者も非常に多かつたのであります。
 斯う云ふ工合に人心動搖を始めました際に儒教を盛んにしようと云ふ考は無理からぬことゝ思ひますが、今申し上げた通り共和制と儒教との調和如何と云ふことであります。言ひ換へて見ると云ふと、儒教で以て此頃支那人の民主思想を説明することが出來るかと云ふ問題に歸するのでありますが、儒教では御承知の通り五倫と云ふことを説いて居ります。五倫の中でも君臣と云ふものは大變重んぜられて居る。孔子が春秋を作つたのは所謂尊王の大義を發揮したと云ふことになつて居ります。何うしても如何に考へましても孔子は君主政體と云ふものを理想として居られたやうに思はれるのであります。孔子の教を尊重しようとすれば現今の政體或は民主思想に對して反對し、又た共和の趣意を發揮するには儒教を排斥しなければならぬのでありますが、此の儒教と申しましても漢學とか或は宋學とか、宋學の中でも朱子とか陽明とか色々の派があるのでありますが、此の復古論を盛んに言うて居る人達の中では儒教の中に公羊學派に屬する人、即ち公羊學を信奉する人があります。此の公羊學と云ふ立場からして儒教を説明し、さうして前に在りました儒教と現在思想との調和を圖らうと思つて居るのであります。此頃新聞でもお氣付きになつて居らうと思ひますが、政府及び議會に對しまして此の儒教を以て國教とすると云ふことを憲法の中に明記したいと云ふ請願をした連中があります。此の連中は前に申しました此の儒教復興と云ふことを唱道して居る所の其の連中であります。然らば此の公羊學と云ふものは一體何う云ふことを教へるものであるか、何う云ふ説を持つて居るかと云ふことを一寸お話して見ようと思ひます。
 一體此の儒教と孔子との關係に就て從來二つの觀方があるのであります。一つは孔子を作者として、夫からもう一つは孔子を述者とする、此の二つであります。其事は後で申し上げますが何方の觀方に致しましても、此の經書の中で春秋に就ては孔子が書かれたものとなつて居ります。一方の作者としての側から申しますと無論孔子が春秋の全體を書いたとしてある。また述者とする論者の方から見ても孔子が此の春秋に筆を入れて或部分を削られたものと見るので、孔子の教義と云ふものは最も能く春秋に顯はれて居ると謂はなければならぬ。それで孔子も「我志は春秋にあり」と唱へて居ります。孔子の理想と云ふものは春秋の中に含まれて居ると云ふことであります。孔子が春秋を作つて之を門人に授けられまた、門人達がこれを後世に傳へたと云ふことになつて居ります。さうして其中に三つの派があります。一つは左丘明と云ふ者の傳へたもので之を左氏傳と申します。夫から一つは公羊高と云ふものが傳へて居ります。夫からもう一つは穀梁赤の一家で以て傳へて居るものがあります。之を三傳と申すのであります。是はお聽難いか知れませんが、先きの事を申すのには一寸申して置かなければなりません。ところで此の公羊と穀梁と云ふものは漢の時分で前漢の時代には大變に盛んであつて、詰り政府から其の學問を認めて學校の教科書にされた。學校の教科書にすれば其の學問を傳へるところの所謂博士官と云ふものを置きまして其の學問を教授させたものであります。ところが左傳と云ふものは今でも漢學をやつた者は讀むものでありますが、當時は學官に立てられず、唯だ極く少數な人が讀んで居つた。前漢時代には出なかつたのであります。ところが前漢の末になつて王莽と云ふ惡い奴が居りますが、王莽の信用を得た劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)と云ふ學者が左傳を主唱して其の爲めに前漢の末後漢の世から此の學問が盛んになつた。後漢以來は此の左傳の學問が盛んになつて唐の時代になりますと公羊穀梁をやる者は殆んど無くなつて誰でも春秋と左氏傳とはくツ附き物のやうになつて居つて、何でも此の漢學が日本に這入りましたのも矢張り支那の眞似をしたものでありまして、日本の王朝時代に矢張り左傳と云ふものが流行つて居つた。尤も公羊學と云ふものもやつて居つた人も居つたやうであります。例へば重盛が清盛を諫めた言葉の「家事を以て王事を辭せず」と云ふやうな言葉はあれは公羊傳に有名な言葉であります。夫から惡左府頼長の日記を見ますとあの人は大變勉強家でありますが、あの人の日記を見ますと其の公羊傳を讀んだと云ふことが書いてあります。けれども日本でも支那と同じやうに左傳が流行つて來たのであります。
 ところで此の公羊は支那の唐の時には殆んど絶えて居たのでありますが、清朝に至り元明の學問の反動と致しまして漢學をやつた。漢の人の學問を復興して漢の人の註や何かに依つて孔子の説を欽慕すると云ふやうな遣り方であつた。それで此の公羊學と云ふやうなものも漢の時に盛んであつたものですから、勢ひ公羊學の研究と云ふやうなものも清朝では盛んでありまして、有名な公羊の專門家も居ました。現存する人でも湖南に王※(「門<豈」、第3水準1-93-55)運と云ふ人が居ります、四川に廖平と云ふ學者が居ります、夫から康有爲と云ふ人も公羊學の代表者のやうになつて居りますが此の人は殆んど廖平の説を奉じた樣に見えます。夫から司法大臣をして居りました梁啓超、之も康有爲の弟子でありますから公羊派に屬しております。又一方では公羊派に反對の學派も隨分あるのでありまして先年亡くなりました張之洞などゝ云ふ者も此の公羊派とは正反對の地位に居つた者であります。支那ではまた政治上の爭と學術上の爭とは殆んど同じものである。昔から支那では政治の爭を云ふものには必ず學問の爭がくツ附いて居つたのであります。
 公羊學と云ふのは夫では何う云ふことを主張するものであるかと云ふことを少しく申します。公羊學者は第一孔子の改制といふ事を申します。孔子が春秋を作られたのは孔子の新法を作る目的で書かれたもので、孔子は魯の歴史に據つて春秋二百四十二年間の歴史の事實に就て其の歴史を書き直し、其事に就て毀譽褒貶を加へ孔子の教義を其の春秋の中に含ませられたと申すのである。左傳の學者に言はせますと孔子は周公の法に據つて春秋を作つたと言ひます。公羊では夫に反對して孔子は自分で新教を書いたものだと云つて居りまして周法とは全く關係がないのみならず、孔子は春秋に依つて周の制度を改めたと云ふのであります。公羊學者に言はせますと孔子は周公などを理想としたものではない、孔子は孔子自身の理想がある、決して周公や何か昔の聖人のことを理想としたのではない、自身の教を立てたものである。
 夫からもう一つの考は孔子は儒教の教祖であると云ふ考である。普通の説では儒教は堯舜以來の道であつて孔子はこれを述べて後世に傳へられた、即ち別に孔子の道といふものはない事になる。孔子の偉い處は周季に詩書禮樂が崩壞したのを整理してさうして之を保存された事である。然るに公羊の方では結局孔子は六經を自身に作られて之を自分の經典とされたものであると斯う云ふ風に觀て居るのであります。
 夫から第三の點を申しますと孔子は天命を享けて法を作つたものであると申します。孔子は春秋を作つて新法を立てたのは上帝の命であると云ふ。此事は緯書に出て居ります。緯書と云ふものは漢の時分には大變盛んでありましたが此の公羊學者は此の緯書に依つて孔子の教義や何かを説いて居る。此の緯書に依りますと孔子が春秋を作るに就きましては天命があつた、天のお告げがあつたと云ふことが詳しく載つて居ります。詰り孔子は天の命を享けて春秋を作つた、夫に就いては如何にも不思議なる神祕的の記事が傳はつて居ります。夫からもう一つ極端になりますと孔子は人間の子ではない、孔子の母が黒龍の精靈に感じて孔子を産まれたとなつて居ります。詰り普通にいふ儒教は政治道徳に關する一つの教で宗教ではないが、公羊家の方では殆んど一つの宗教と之を觀るのであります、さうして孔子を其宗教の教祖にするのであります。で今申しました此の儒教復興論者達が議院や政府に對して孔子教を國教とし、之を憲法の中に入れたいと云ふ請願をしたのも要するに公羊學派の立場から申したので、孔子を一つの宗教と觀たからであります。去年北京に居りました時に此の議論を聽きましたが若し斯う云ふ工合に儒教を宗教と見ますると又色々の困難が起つて來るのであります。支那には佛教もありますし道教もありますし囘教もあります。基督教もあります。若し佛教儒教だけを國教として他の宗教を除外すると云ふやうなことになりますると、他の教徒の反感を來すことになる。殊に中華民國は漢滿蒙囘藏と云ふ五種族を併せて出來たものと謂はれて居るのでありますが、西藏の方には喇嘛教と云ふものがある。蒙古も喇嘛教でありますし、西北の方には囘教が非常に盛んである。また基督教の方も宣教師と云ふものが附いて居りますから是等の反對が怖いのである。それで丁度私が北京に居りました時に當局の間にいろ/\議論がありまして非常に躊躇したやうであります。此の請願が遂に却下されたと云ふやうなことを新聞で見ましたが、詰り爾う云ふ運動をすると云ふことも孔教を一つの宗教として觀る所から出て居るのであります。
 夫から第四の點を申しますると孔子は春秋を作つて周を退けて魯を王とすと云ふ考である。孔子は前に申す通り新法を立てたのでありますが、此の春秋に依つて天子でも或は諸侯大夫を勝手に褒貶黜陟してあります。孔子が匹夫の身を以て周の天子、諸侯、大夫と云ふやうなものを矢鱈に褒貶黜陟して居るのでありますが、若し孔子が匹夫であつて周の天子の時の人民であつたならば妄りに新しい法を作ることは出來ないのであります。公羊家の説に依りますと孔子は春秋に於て周の王を退けて周の主權者を認めず、さうして魯と云ふ孔子の居られた國の君を王と認めて居る、其の魯を王と立てゝ……夫を王と假想してさうして魯が新しい法を立てると云ふやうな工合に仕向けて居る。此點に至つては左傳學者と公羊學者と云ふものは大變違つて居る。「元年春王正月」と云ふことを春秋に書いてありますが、王と云ふものは孔子が春秋で以て革命を唱へたのである、周の主權者を取去つてしまつて今度新しく出來た主權者、即ち魯の王樣の正月であると云ふやうに公羊學者は論ずるのであります。また或極端なる公羊の方になると王とは孔子のことであると云ふ。孔子が天命を享けて王になつたのである、詰り王と云ふのは思想上の王である、冠を被らぬ所の帝王となつて孔子が新しく法を立てたと云ふ、斯う云ふやうに觀るのであります。それで張之洞などは前清時代に於て大變公羊學と云ふものを憎んで、斯る危險なる思想を鼓吹したら將來此の世道人心が何うなるであらうと云つて心配を致しました。北京で以て大學が出來た時分にても其中に公羊學を入れると云ふことは宜しくないと云ふ議論があると云ふことを言つて居るのであります。
 夫から第五の點は公羊學は大同小康と云ふ思想ありと爲す點であります。公羊家に言はせますと孔子の春秋は歴史を書いたものでない、即ち教法を書いたものである。孔子は春秋を三期に分つて居る。一番には衰亂の時代、第二には昇平時代、三番は泰平時代と斯う云ふ風に分けて居ります。無論歴史上の事實から申しますと、春秋の初めより後になりますと亂れて居りますが夫は歴史のことであります。孔子の假想したものは初めは衰亂の時代であつて、其次が昇平の時代、夫から泰平の時代と云ふことになつて居ります。衰亂の時代に於きまして孔子の教法は何うであるかと云ふと魯を大事にして居る、さうして他の國を魯と區別して居る。夫から昇平時代となりますと今度は支那と夷狄と云ふものに分つた。夫から泰平時代になりますともう世界が一つになつて詰り國の境が無くなる、支那人も夷狄も何にもない、即ち世界が統一された時代である、斯う云ふ風に觀て居る。隨つて衰亂時代、昇平時代、泰平時代で、第三期の泰平時代には孔子の教法が極點に達する時である。
 大同小康も同じ樣な事で禮記禮運によると孔子が門人に向つて大同小康の時代を述べて居る。小康時代に於ては天子が其の位を子孫に傳へ諸侯が其の位を子孫に傳へ、各々其國を國とし又人は其の勞力に依つて富を拵へるけれども、其の富を拵へた人が之を自分の物とする、夫から國と國との區別を立てゝ其間には城とか溝と云ふものを拵へて外敵を防ぎ、或は盜賊を防ぐ時代である。其の時代は治まつてはあるけれども未だ本當には治まつた完全な時代と云ふことは出來ない。完全な時代になると天子でも或は諸侯でもみな公選で仕なければならぬ。詰り前申しました天子が其の位を子孫に傳へることもなし、諸侯が其の位を子孫に傳へると云ふこともないと云ふのであります。で人間は天然の儘では可かぬ、其の天然を開發して富を作らなければならぬ、其の作つた富は自分の所有にする爲めであるかと云ふと必ずしも己れの爲めにすると云ふ事ではない、即ち働くと云ふことは人間の義務である、安逸に安んじて居つては可かぬ、それで其の勞力をすると云ふことは人間の義務であるから富でも何でも共通のものに仕なければならぬ。其の時代は詰り世界が一となつて世の中の人が皆公平になつて老人とか或は子供と云ふもの或は又鰥寡孤獨と云ふやうなものも夫れ/\幸福に一生涯を送ることが出來る、詰り上下君臣或は國と國との區別と云ふものもスッカリ無くなつて來る時代、是が大同時代と云ふ、孔子は今の言葉で申しますと此の大同時代に憧憬れて居つたと云ふことでありまして、我々が普通漢學で教はつて居る事とは餘程違つて參ります。此頃袁世凱や或は政府の當局などが世人に示したものを見ると此の意味がある。今は大同の時代に段々近づいて居る、帝王が無くなつて選擧に依つて大統領が出來ると云ふのは即ち孔子の大同時代に一歩を進めたものであると云ふ事であつて、孔子が其事を聞いたならば歡ぶであらうと考へて居りますが、どうも儒教では一般に受取られない。それは朱子學でも陽明學でも何うも共和政治のことを儒教の上から説くことは困難である。無論儒教の上で説明すると云ふやうな事になると公羊學と云ふやうなものは一番都合が好いかも知れません。私は先年まだ革命の起らぬ以前に大學で公羊學の學説を述べて置いた事もありますが、どうも私が最初に申述べた通り現在支那の共和政體を説明するに便利が宜い點から、公羊學と云ふものは非常に支那では流行して居るのであります。此の公羊學の批評と云ふことになりますと、全く學術の演説になりますから申し上げませんが、公羊學だつてたゞ頭から之を貶す譯には參りません。で是れはオカシナ點だけを今申したのでありまして、此中に今まで申し上げました外に隨分公羊學の惡いこともあるのでありますが、又一方左傳必ずしも孔子の眞意を傳へたものとは言はれません。各々長短得失がありますが其事は一切拔きに致しまして、此の公羊學と云ふものは果して今日の儒教復興論者の言ふ通りに眞に正しいものであつて、孔子の思想を正しく傳へたものであるかと云ふことは是は疑問であります。併しながら漢時代には流行つて居りましたが餘り其説が僻して居るので後には絶えて、又前清時代の後半期から流行したものであります。今日一時逃れに若し儒教を立てなければならぬと云ふことを前提と致しまして此の共和政體と矛盾のないやうに致しまして此の儒教を唱へることになると、此の公羊學と云ふものが一番差障りがないか知らぬと思ふのであります。けれども此の學問と云ふものは一時珍らしいからツヒ人が耳を傾けるやうな事でありますけれども、決して斯う云ふ説と云ふものは長く續きまするものではありません。儒教の眞實の思想を傳へたものでないと云ふことは直ぐに分るのであります。斯う云ふ思想があるのは二年三年五年六年ぐらゐは續くか知りませんが、其後には又支那の人心に於きまして新しい或物を求めると云ふやうな時代が出て來るか知れません。要するに支那人と申しまするものは御承知の通り色々の人種が集つたもので、人情風俗習慣みな國々に依つて違つて居りますから之を統一するは非常の困難であるが、兎も角儒教でもつて統一が出來て居つた。漢の武帝以來この新しい代が興りますと必ず儒教を奬勵したのは其爲めである、然るに今日かう云ふ時世になつて公羊學を主張して之れに依つて儒教を以て人心を統一せんとする企圖に同情はするが、それが果して出來るか否は頗る疑問と思ふのであります。
 もう少し申し上げたい事もありますが、要するに私の今申し上げましたのは此の革命以來支那の人心に斯う云ふ新しい傾向を持つて來たと云ふことを一寸お話した丈であります。甚だ前後不揃ひでありましたが是で止めて置きます。
(大正三年二月講演、京都經濟會講演集第三號)





底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
初出:「京都經濟會講演集第三號」京都經濟會
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2009年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について