服部先生の思出

狩野直喜




 先生と私は年齡の上では一歳しか違はないが、大學の年次は先生の方が五年も先輩で在學中から御盛名は承つて居た。殊に文部省から北京留學を命ぜられ、いろ/\な苦勞を倶にしてからは特に親密な交際をして戴くやうになつた。元來、文部省からの海外留學は例外なしに歐米行であり、又文科大學の方では外國文學の留學生は派遣しなかつたのであるが、どうした機運からか、明治三十二年に東西大學總長の推薦で最初の支那留學生として、先生と私の二人が選ばれたのである。先生は早速同年の冬に赴かれ、私は文部省の都合もあり、渤海灣の結氷のため翌年四月になつて出發した。天津について北京行の汽車に乘つたが、その終點といつて降ろされたとき、私はすつかり面喰つた。坦々として北京が何處か分らぬのである。そこは馬家堡といふ小村で、正陽門に辿りついたのは車で半時間以上も搖られた後のことであつた。當時の北京は道路も惡く衞生状態も行き屆かず、日常生活も極めて不自由であつたが、しかし近代化せず歐米の影響も現はれてゐぬ支那本來の姿が殘つてゐたのは、私達にとつては幸ひだつたと思ふ。正陽門までは先生がわざ/\お出迎へ下さつて、車をつらねて東西北六條胡同の宿舍に案内された。そこは以前に公使館のあつたところで、當時は武官室となり、柴中佐(後の大將)等がおられた。先生もそこを宿舍にしておられ、私にも一室を準備して下さつてゐたのである。尤も直接の紹介で東京で中佐に御願はして置いたが先生のお口添や御配慮のお蔭も大いにあつたのである。
 同じ屋根の下で起居を倶にするやうになつてからは、何分先生は四ヶ月も先に來ておられることであり、言葉もお達者なら事情にも通達しておられ、何かと御指導にあづかつた。當時の北京は近代化してゐぬ代りに不自由なことも夥しく、今では北京名物になつてゐる洋車もその頃は東單牌樓のあたりに交民巷を中心にしてボツ/\とあるだけ、郵便は一々交民巷内の海關まで通帳をもつて出向かねばならず、我々の日用品を賣る店は隆福寺街にたゞ一軒だけ、殊に面倒なのは通貨で、錢舖の基礎が薄弱なために折角換へた鈔票はいつ不通になるやら分らぬ上に、その流通範圍が極めて狹く、隆福寺で換えた票は琉璃廠では通らなかつた。且又當時は戊戌政變の後で、保守排外の風潮が濃く、夜の外出などは思もよらず、白晝でも一人歩きはせず、いつも二人で外出することが多かつた。すべてがそんな譯で學者を訪問したり又交際することなどはもとより望めず、漸くに語學の練習と、琉璃廠隆福寺の書肆行と、二人が特に留意してゐた歐米人の支那に關する著述を上海からとり寄せて閲讀することゝ、そして不自由な北京見物とが、二人の出來るすべてゞあつた。かうしたいろ/\と厄介なところにゐて、殆んど何の失敗もせずにすんだのは全く先生の御蔭であつて、學問上ではもとよりのこと、その常識に富み日常の瑣事に通じ、學識と常識二つながら圓滿な發達を遂げておられたことに心から敬服した次第である。
 苦勞や不自由を一緒にしたことはなか/\忘れられないものであるが、團匪事件の勃發は二人を更に一層緊密に結びつけ、實は其爲めに生涯の關係を生ずるにいたつたのである。私が北京に着いたのは四月であつたが、月が改まる頃から團匪の蔓延が次第に甚だしく、五月末頃には北京も餘程險惡になつて來た。遂に六月十日の薄暮、二人は騾車(蒲鉾馬車)に幌を深く垂れて身を潛め交民巷に難を避けた。途中東四牌樓の邊で一隊の騎兵に遇ひ、幌の中を窺き込まれて膽を冷やしたりしたが、幸ひに無事交民巷内台基廠の杉氏方に他の同胞達と集ることが出來た。それから八月十四日救援の聯合軍の入城するまで滿二ヶ月の間、飢餓か戰死かの最後の一線まで追いつめられた籠城が行はれたのである。その當時守備に就いた日本人は、さきの柴中佐等二三の將校と、廿四名の陸戰隊員と三十名足らずの義勇兵とそれだけで、しかも守備したのは交民巷にあつて防禦上尤も重要と認められて居た肅親王府であつた。尤も伊太利の兵隊も其公使館が哈達門の近い所にあつて早く陷落した爲め我等の處に來て居た。結局現在の帝國大使館と伊太利大使館を合せたものが肅親王府であつて、伊太利大使館内にも我等の陸戰隊が血を流した處がある筈だ。
 其上兵器や糧食は初から不足しており、總べての外國陸戰隊及び義勇隊を合せても數から言つて到底長期に度つて守りとぐることは不可能であり、待ちに待つて居た援軍も何時來るか分らぬといふやうな時には、到底生還は六かしいと思つた。當時私は水兵の間に厠はり普通の守備に當つてゐたが、先生は柴中佐のもとに傳令となり、或は我々の間を、或は外國軍隊との連絡に、彈丸と瓦礫の中を縱横に馳驅しておられた面影は目にすがつてゐる。先生は元來健脚であつた。又かうした危急の場合には人の性格がよく現はれるものである、先生の喜怒を表はさぬ落着きぶりは日常と一寸も變らず、沈勇の人といふ感を深くした。
 八月十四日聯合軍と共に日本軍も入城し、柴中佐等は順天府に警務衙門を設け、東四牌樓から北の治安と宣撫に當ることゝなり、籠城組から先生はじめ私達二三人も求められ參加することになつた。こゝでも先生の發達した常識とすぐれた見識とは屡々貴重な建議となつて柴中佐を助けてをられた。國子監の石鼓が無事に保護されたのも先生の逸早き御配慮に負ふところが多いのである。殊に愉快な想ひ出は、外國の軍隊を恐れて大門を鎖してゐる商人を一軒一軒二人で説いて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、四日目位からボツ/\店を開くやうにさせ、遂にロシヤ軍の管轄してゐた東四牌樓から南はまだ暴行掠奪止まず破壞が續いてゐる時に、牌樓の北では安民樂業の繁昌が現出し、露兵の眼を忍んで家も財産も棄てゝ逃げてくるものさへ出來たことである。九月初に文部省から歸朝命令に接し、鐵道は破壞されてゐたので船で下るべく通州へ向つた際、別れをおしんで支那人がわざ/\通州まで送つて來てくれた位である。
 二人は一旦歸朝して後、先生は獨逸に留學なされ、私は翌年に南支へ行つた。ついで先生は間もなく北京の高等師範學堂に教を垂れられ、二人は暫く相別れてゐたが、後には東西の大學に職を奉じて同一の學科を講じ、それのみならず均しく大學を退いた後にも二人が生死を共にした思ひ出深き團匪事件の賠償金による對支文化事業調査委員會及び支那に於ける東方文化事業委員會が成るにいたり、二人は倶に擧げられて委員となり、東西に研究所の設立されるや相並んでその所長となり、昨年まで十年の間一心同體の一方ならぬお世話を蒙つて來たのである。先年相携へて北京に行つた時、二人の古戰場を徘徊し、紀念碑の前で寫眞を撮した。その寫眞は今こゝにある。詩※(「北+おおざと」、第4水準2-90-9)風撃鼓の篇に「死生契闊、與子成説、執子之手、與子偕老」といふ一章がある。毛傳には「契闊勤苦也、説數也」とある。それによつて解すれば、戰に行きし兵士の言葉をうつせるもので、同じ隊伍にあつて苦勞をともにした。もし幸に生還を得ば、子の手をとつて老せんといふ意味であらうと思はれる。今より想へば丁度私と先生との事を歌ひしものゝやうである。籠城より三十餘年の後に、團匪賠償金によつて出來た事業を倶にしようと當時誰が想はうか。あのとき二人が幸に生命を完うし四十年も生き永へたから「執子之手、與子偕老」と歌うた詩人の願は充たされたといつても、先生の如きはまだ將來になすある方であり、東亞の新秩序建設の論議され、先生に待つもの彌多き時に先生を喪つたのは、國家にとつて惜しんで餘りあると同時に、四十餘年交遊の蹤を囘顧して身世の感に任えぬ次第である。
 先生の告別式は七月十七日築地本願寺別院に於て行はれた。其四日前即ち七月十四日は毎年北京天津籠城戰死者及北京籠城後死亡者の追弔法要をなす定日であつて、其場所も同じくこの別院である事亦奇縁と言はねばならぬ。私が先生の喪儀にまゐつた所が高壽八十の柴大將即ち往年の柴中佐が已に感慨深げに着坐して居られた。此れも或は四十年前の思出に耽つて居られることと想像して胸を擣つものがあつた。
(昭和十四年十一月五日發行 漢學會雜誌第七卷第三號所載)





底本:「讀書※(「纂」の「糸」に代えて「一/艮」、第4水準2-83-75)餘」みすず書房
   1980(昭和55)年6月30日発行
初出:「漢學會雜誌 第七年第三號」
   1939(昭和14)年11月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2011年3月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード