六つか七つの時分、
佐倉宗吾の芝居を通しで見たことがある。例の宗吾一家が
磔刑になった後の幕で、
堀田家の奥殿に宗吾親子の幽霊が出て堀田侯を悩ますところ、あんな芝居はここ二三十年来どこの田舎へ行っても上演されたという事を聞いた事もないが、六つ七つの私は
凄いと思われた。五六日以上も便所へ一人では行かれなくて弱った事を今でも覚えている。その事から思うと、今の小供にあんな芝居を見せたって、フフンといって冷笑するかも知れない。
嵯峨の
怪猫伝の講談をはじめて読んだのは十ぐらいの時であった。父が厳格で頑固の
為めに、講談小説の類を読む事を絶対禁止されていた。それゆえ、私は、その嵯峨の怪猫伝を二階へ持って行って一人隠れて読んだ。二階というのは、五六人もいる店の者の寝間にしてあった十二畳の間で、この十二畳の
襖紙の隅に寝そべって読む事にした。そこにいさえすれば、だしぬけに父が上って来るような事があっても、
楷子段のとっつきの四畳半、六畳、二間を越してでなければ十二畳へは達せないので、そこまで父が来るまではどうでもして本を隠す事が出来るという了見であった。その用意は正に成功したが、さて、いよいよ読みすすんで行く中に、怪猫が小森の母親を喰い殺すところや、腰元を喰い殺すところになると、寝そべった足がだんだんちぢまる。天井うらが気になる。襖紙の向うの廊下がふり
向れる、押入れの中などに至っては一層怖くてたまらなくなる。何しろ広い二階に只一人だと思ったら、身も世もあられなくなって、思わず知らず、お父さんと呼んだ。そして駈け上った父に我から見つかって本は取り上げられた上、半日ばかり土蔵に入れられて、この土蔵で又ぞろ、二重の怖い思いをした事がある。
夜半の怖さ淋しさというものより、
真昼間の怖さ淋しさは一層物凄いものだという事をしみじみ感じたその時からであった。二十歳の時であった。鈴鹿峠を只一人、歩いて越した事がある。雨のしょぼしょぼ降る午後の二時頃
菅笠をかぶり、
糸楯を着て、わらじがけでとぼとぼと峠を上ると、
鬱蒼として頭の上に茂った椎の木の梢で、男と女の声がする。仲よく話しているような声でそれがいつまでもいつまでも聞こえる。こちらが急ぎ足になっても、ゆっくり歩いても、いつも同じあたまの上から笠ごしに聞こえる。丁度七曲りの坂を四曲りほど上る間。その声のつきまとうのが気になった。その間、幾度前後をふりむいても人っ子一人通らない。私は気持がわるくなったので、うんと馬力をかけて五つ曲り目を駈け上ると、丁度六曲り目というところに、男と女が番傘一本を
相合傘にして、上ってゆくのを見た。この二人の話し声であった事はすぐに判ったが、ここに今
尚判らぬ事がある。というのは、この男女は私が坂を通る時に、坂下の
茶見せに休んでいたので、私はそれを横目に見ながらたしかに追いこしたのだ。一旦追いこした筈の男女が、いつどこで私を追いぬいたという事なしに、ちゃんと私より前方を悠々とあるいていたという事である。それが今だに解けない謎になっている。男は
藍微塵の素袷、三尺をしめて尻を七三に
端折り女は単衣の弁慶縞で唐米子の帯を引っかけに結んで、髪をいぼ尻巻にし、片腕を腕まくりしていた、
一寸与三郎と切られお富が相合傘であるいているという
形ち、
而もそれが近江路の鈴鹿峠なんだから、馬鹿馬鹿しいほど似つかわしからぬ人物である。
若しそれが夜中だったら、差程には思うまい。真昼間の初夏の雨の日だったから、
一際凄く感じている。
も一つ真昼間の凄味に慄え上った経験がある、それは二十五の年であった。支那の
営口にいる時の事私と同じ仕事をしている日本人が一人、支那人にだまされて北京へ行ったまま、音信不通になったので、その生死を見届ける為め、又探し出して助けてかえる為めに、私一人が北京へ出かけて行った。忘れもしない北京前門外で商人宿がずらっと並んで、表の狭い通りには荷物を背負った駱駝がのそのそと通って、支那人ばかりがおし合いへしあいするほど、雑踏している町へうろうろと私は進入した。そして、只一つの心当りにしている
客機(宿屋)をやっと見つけ出すとその
院内へずっと進んだ、すると院内にごろごろしていた
犢牛のような野良犬が一番に吠えながら私をとりまく、それをどうやらこうやら追散らして、院内の
房を一つ一つ覗いてあるいた。それがやっぱり真昼間のカンカン照りの午後二時という刻限、私の目は日光にぎらぎらしていたと云っても真冬の小春日の事である。
門を入って院内左右に軒を並べた小さな客房を幾つ覗いたろう、どの房にもどの房にも支那商人がごやごやしている。私は殆んどここで手蔓を失うのかと思いながら、最後の房を覗くと、この房は外の光線が通らないで
真暗がり真の闇という形ち、その
暗からの小さな房の真中に、青い青い火がちょろちょろちょろと燃えたり、消えたり息をついている。私はまずその火にぞっとした。午後二時で、私の立っているところはカンカン照りだのに、私の目の向うところは
斯くの如き真暗がり、それさえ不思議だのに、その不思議な闇の中に青い焔のちょろちょろ、それさえ不思議だのに更にその焔の上の方で朦朧として青い顔が一つ、私は思わず二三歩うしろへ下った、でも、やっと気をとりなおして、「宮崎さんじゃありませんか」と呼んでみた。青い顔は声がない、動きもしない。再び「宮崎さんでしょう」と呼んだ。
「ハイ」とかすかな声は正に日本語である。
「平山です、お迎いに来ました」という。
と、青い顔は又返事をしない。
「宮崎さん、どうしました」と三度云った。私は死んだ宮崎さんの忘念がここに残っているのではあるまいかとさえ思った。が三度目の私の呼び声で、青い顔はムクムク動いた、そして
宛ら、空中を飛ぶ生首のように暗い房にフワフワと浮いて、私の
面前へどっと飛んで来た。こうして、私は私の尋ねる人に逢う事が出来たのだが形ちは今だに目先にちらつくほど凄かった。但し、青い灯は
焜炉に焚いた
たどんの焔であった。そして宮崎さんは黒い洋服をカラなしで着て真暗な部屋にいた為めに青い顔だけが
宙に見えたのであった。
怪談会というものの発起人となって、都合三度ほどやった事がある。第一回は向島の
喜多の
家茶荘、第二回は井の頭の
翠紅亭、第三回は私の宅の二階で。
はじめの二回はいずれも
喜多村緑郎君や
松崎天民君、
花柳章太郎君、それに
泉鏡花氏をもお誘いして発起人に加わってもらったのだが、あまりに声がかりが大きかったのでまるで怪談祭りのような騒ぎになった。二回とも二百人以上の人が集まって凄みも何もなかったくらいである。
それを残念さに、私の宅の第三回目というのを
極く限られた少数で、
而も女ばかりを集めてやった。電灯を消して月のあかりで、話していると、月に照らされる私の顔と私の目の光りが凄いと云って女たちはキャッキャッと騒いだ。そしてこれは成功した。
この上怪談の凄味を出すには、お寺の本堂がよかろうという人もある、けれども私は、それよりは古い女郎屋の二階などがよくはないかと思っている、とはいえ、怪談会の会場に提供してくれるような奇特な女郎屋は今の東京にはあるまい。
何百となく聞いた怪談の中、私が凄いと思ったのは、
芥川龍之介氏に聞いた、西洋の怪談が一つ、それは、
紐育か
倫敦だったかの
尤も繁華な町の真昼間一寸の間、人通りの絶えた時、ある人が町角を何の気なしに曲ったら、曲り角でぱったり
出逢した人があった。
「や失礼」といいながらよく見ると、
打つかった人は、自分自身と寸分ちがわぬ男であって同じように「や失礼」と云い捨てフッと消えたという話。
それから
市川八百蔵が伊豆の大島で見たという話が一つ、それは、水死人の着物を物干竿にかけて置いたら、その着物ののばした両袖に手首がだらりと下って、襟かたのところに房々とした髪の毛が垂れて見えたという話。
それから新派の
英太郎君に聞いた話しで、病院の屍骸収容室で、真夏の頃、屍骸の腐敗を防ぐ為めにその室へ氷塊を持込む看護婦の耳へ、
「静かに静かに、落さないように落さないように」と云う声がどこからともなく聞こえたという話。
それから
市川左団次門下の人の話に吉原の
小見せへ
ふりの客で上ったら、
「寝ているんですかえ」と云いながら屏風の上から胸まで出して覗き込んで云ったという怪しい女郎の
語。
それから故人
歌六が大阪のお茶屋の便所で
出逢ったという怪談、これは、便所から出て手あらい場に待っている女中に向って「今何時だろうね」と云ったら、女中がまだ答えぬ中に、今出たばかりの便所の中に声あり「もう二時だよ」と云ったという話。
(平山蘆江『芸者繁昌記』一九三三[昭和八]年、岡倉書房、所収)