物貰ひの話

三田村鳶魚




 今度は物貰のことを御話するつもりです。物貰には三種あるので、第一は非人から出るやつ、第二は乞胸ごうむねから出るやつ、第三は願人坊主、この三種からいろ/\なことになつて居ります。

せぶりと世間師


 先づ非人から出る物貰から申しますと、非人から出る物貰にも亦二種ある。一つは「せぶり」といふ、これはどんな字を書くか知りません。もう一つは世間師。これはどういふ違ひがあるかと云ひますと、「せぶり」といふのは代々の非人で、これは良民に還ることが出來ないものです。この「せぶり」は胸に袋を懸けて、袋の先を括つて三角形にするのがしるしになつてゐる。物貰の中では御歴々のわけです。この連中は野宿をしますから、一人前の「せぶり」になる頃は齒が白い。世間師の方は身を持崩しで、自分で乞食の群に落ちたやつで、足を洗へば何時でも良民に還れるのです。世間師の方は野宿が出來ない。若し野宿すれば「せぶり」がひどい目に遭はせる。私刑を加へるわけです。ですからおあしがあれば木賃宿に泊る。さもなければ堂とか、社とかいふものゝ下に行つて寢る。新非人だの、菰かぶり、宿なしだのといふのは世間師の方です。よく吾々の子供の時分に、そんな事をすると今にお菰になるよ、なんて云はれた。それもこの世間師の事なのです。
 非人の話は前にちよつとしたやうですが、非人小屋といふものは寛文以來ずつとある稱へで、文化三年頃の記録には御救小屋と書いてある。もう少し前を見ると、天明四年に小網町の米問屋の兵庫屋が粥施行をやつた。その時に小屋を二つ建てゝ、一つは非人小屋、一つは素人小屋と分けた。物貰でも腹からの者と、おちぶれた者との二つに分けたので、素人といふのもをかしな話ですが、素人と云つてゐます。窮民とか罹災民とかいふ意味なのでせう。勿論非人の仲間に入つてゐない、新非人といふのも一時の物貰といふ心持があるらしい。新非人といふ言葉が記録になくなつたことは實に喜ばしい。
 こゝで序に云つて置きますが、仲ヶ間六部といふものがある。本當の六十六部は納經の爲に歩くので、信心から起つたものです。六十六箇國に國分寺がありますから、それを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて御經を納める。千箇寺參りなどといふのも、やはり法華寺を千箇寺※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るからの名です。此等は本當に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)國するのですが、仲ヶ間六部の方は六十六部のなりをして物を貰ふ。江戸にゐながら※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)國するやうな顏をしてゐるやつで、いかさまものです。千箇寺參りでも本當に千軒※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るには、どうしても※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)國しなければなりませんが、さうでなしに、たゞ千箇寺參りと云つて物を貰つて歩くだけのがある。仲ヶ間六部と同じく、千箇寺參りの方にもいゝ加減ぶしのがありました。
 これがもう少し古くなりますと、はとかひといふやつがある。いゝ加減ぶしな人間のことを鳩の飼といふので、熊野の新宮、本宮の事を云ひ立てて、そこの鳩の飼料にするといふ名義で錢を貰ふ。その實ちつとも熊野へなんぞ行きはしない。いゝ加減ぶしのものなのです。護摩の灰と云ふと、今では泥坊の事のやうに思つてゐますが、元來はさうぢやない。大概眞言宗の坊主上りがやつたので、護摩を焚いた有難い灰だと稱して、それを丸藥に丸めて病人に呑ますとか、灰のまゝ振りかけると災難を逃れるとかいふわけで、怪しげな灰を授けて歩いた。いゝ加減ぶしの甚しいもので、今では泥坊のやうに思はれてゐるけれども、はじめは一種の乞食だつたのです。

足洗ひの法


 さういふいろ/\な乞食の中には、本當におちぶれて乞食の仲間に落ちてしまつたやつもありますが、乞食の仲間入をしますと、小屋者と云つて小屋頭の支配を受けることになる。これは小屋にゐてもゐなくても同じ事です。心中未遂で日本橋の曝し場に曝された人間なども、やはり非人の手下にする、といふ法律がありまして、曝されたあとで非人に渡される。此等は已むを得ず乞食にされるわけですが、かういふのは又貰ひ返しと云つて、金をやつてその人間どもを取戻す、足洗ひといふことがありました。この足洗ひの法式を書いたものがありますが、筋だけ申上げることにしませう。
 足洗ひをする手合の中には、今云つた心中未遂のもあれば、放蕩の爲に非人に落ちたのもありますが、その法式は先づその時分に相應な著物を二つ拵へる。褌まで二つ拵へる。さうしてその一つを著替へさせて、大盥二つ、手桶、穿物、大鍋一つ、剃刀、櫛、油、元結といふやうなものまで、悉く新しいのを用意する。それから町家の良民を三人ほど頼むのです。この足洗ひをするに就ては、小屋頭は勿論、仲間にもそれ/″\附渡りをしなければなりませんが、殊に町家の者はさういふ場所へ行くのを厭がつて、よほど貰はなければ行かなかつたさうです。併しその金額はどの位かわかりません。その町家の者が、小屋から五間ほど隔つたところの、綺麗に掃除した地面に鹽花を撒いて、そこへ荒菰を敷く。片方では切火を打つて、新しい薪を焚きつけ、用意の大鍋に湯を沸す。さうして一つの盥へ入れて當人を洗つてやる。これは小屋の者ではいけませんから、町家の者が洗つてやるのです。それから又もう一つの盥で再度身體を洗ふ。そのあとで著物を著替へて、鹽を振りかける。今までは髻を刎ねて居りますから、こゝではじめて用意の剃刀、櫛、油、元結によつて髮を結ひ直します。髮が出來上つて、二度目に著物を著替へて立上る。この時から良民になるので、立上つた時には小屋にゐた者が、一同に出て土下坐をする。此方はもう良民なのですから、その土下坐を受けて立去る。その後はどこで逢つても、挨拶するでもなければ口を利くことも無いのですが、その代り小屋頭などには足洗ひの時は五十兩、百兩位取られたさうです。この附渡りが惡いと、昨日まで一緒にゐたなんて、出合ひがしらに云はれては困りますから、よく行渡るやうに出すのです。足洗ひの金といふのも、究竟は口塞げ料なのです。

名物大金玉と感心な若い乞食物


 乞食に關する逸話の中には、大分をかしな話がありますから、そのうちいくつかを申上げることにします。第一番に面白いのは戸塚の大金玉、これは金玉が非常に大きいので有名であつた。その側に撞木と鉦とを持つて來て、鉦をチヤン/\敲いてゐる。東海道中でも有名な乞食で、皆が錢をくれたから、貰ひも大分あつたんでせう。この初代が元祿年間に居つたといふことで、その次のやつが明和、安永の頃になる。その金玉は米の二三斗も入れる袋位とありますが、面白いことには、朝から午後の四時頃までは大きいけれども、夕刻になると腹に揉込んで半分位の大きさにして歸つて行く。ごく朝早くは人の通りも少いので、さう大きくないが、丁度人の餘計通る時分には、評判の大金玉になる。この先生が二代目で、一九の「膝栗毛」の中にも書いてありますが、あれは三代目であらうと思ひます。
 この大金玉に就て面白い話は、オランダ人が江戸へ來る道中で、この乞食を見て、これは水が溜つてゐるのだから、療治してやらうといふことを通詞から當人に云はせた。乞食はそれを聞いて、大いに喜ぶかと思ふと、一向喜ばない。迷惑氣な顏をして、かういふ片輪者ですから、それをなほしていたゞけるのは嬉しうございますが、私は何も藝が無いので、この金玉がある爲にどうかかうか生きて居ります。若しこれを人並にして下さることになると、飯の種が無くなつてしまひますから、どうかこのまゝにして置いていたゞきたい、と云つて、なほして貰ふことを望まなかつたといふのです。片輪なところがあるのが飯の種になることは往々ある。療治をしてやらうと云つたのは、オランダ人だとも云ひ、杉田玄端だといふ説もありますが、何れにしても療治を斷つたといふ話には變りはありません。
 或金持の隱居が毎日寺參りをする。その寺參りの度に、寺の門前にゐる乞食に對して、一人七文づつくれるのが例になつて居りました。それが幾年となく續きましたが、或日のこと、その老人が云ふには、自分もだん/\年を取つて、杖をついても歩行が苦しくなつて來たから、遠からぬうちに日參をやめなければなるまい。年頃毎朝いさゝかなものをお前達に遣つて來たが、それも出來なくなるから、日參をやめる日には、今までのおあしでなしに、白銀を一つづゝやらうといふことでありました。大勢の乞食は皆之を聞いて喜んだが、中に若い乞食が一人涙をこぼした。今の御隱居さんの仰しやることは歎かはしい、少しも嬉しくない、おあしより白銀を貰ふ方が嬉しいから、早く老衰なさるやうにといふのが、當世の人情かも知れないが、年來毎朝錢を貰つてゐる御隱居樣のことだから、一日も餘計に御達者でおいでなさることが願はしい、一遍に澤山ものがいたゞけるからと云つて、御老衰を待つことは願はしくない、と云つたといふ話が、「眞木のかつら」の中に書いてある。その話は逸早く一九が六阿彌陀詣の中に取入れて居ります。寺の名も人の名も出て居りませんが、どうもこれは本當にあつた話だらうと思ふ。

貰ひの詩歌いろ/\


 寛延三年正月上旬、芝邊の寺町に行倒れの非人がありました。蓑笠の裏に詩と歌と書いてありましたが、どういふ人か全くわからない。その詩は、
漸去非人界、即今歸上天、破蓑與破笠、止置寺門前。
といふ五言絶句です。歌の方は、
くれ/\ぬうき嬉しさも今は又もとのはだかの花の身にして。
といふのです。嘉永五年七月中旬、上野廣小路の卜者四明堂といふ床店の傍に出てゐる六といふ乞食があつて、夜は床店の中に入れて貰つてゐたのですが、こいつが死んだ、その面桶の裏に詩が書付けてあつた。それは、
一鉢千家飯。孤身幾度秋。不空還不食。無樂亦無憂。日暖堤頭草。風凉橋下流。人如間此六。明月水中浮。
といふ五律です。此等はどんな身分の人間か知りませんが、とにかくこの位の事の出來る者が、昔の乞食の中にはゐたと見える。
 これは又ごく新しい、明治四十年頃の話で、徒士町の吉田といふ古本屋の親仁に聞いたのですが、山伏町の裏屋に、物貰に出る老人が首を縊つて死んだ。その柱に紙片が一つ貼付けてあつて「浮世にあきはて申候」と書いてあつた。洒落れた爺イぢやありませんか、と吉田が云つてゐましたが、かういふ人間が明治の末頃までは、まだ殘つてゐたらしいのです。
 詩を作つた乞食は時々あつたものと見えまして、「兎園小説」に延享五年――寛延と改元された年の正月十三日の明方、大坂の四ツ橋で金五十兩拾つたやつがある。その包紙に宇津屋とあるのによつて、その店まで屆けて來た。この非人に御禮を遣つても受けない。酒代といふことにして無理押付に三貫文遣つたところ、翌朝わざ/\持つて來て返した。それに詩と歌が添へてあります。
橋上路邊一二錢。往來終日幾千人。死生富貴任天命。昨日錦今日草莚。
たからぞとおもへば袖につゝみけり、ひろへばおもき障りなりけり。
乞食が物を拾つて返したとか、物を盜まなかつたとかいふことは、いくつも例があるのですが、詩まで作つてゐるのは珍しいと思ひます。石田梅巖の「都鄙問答」に、乞食が畠泥坊をした者を叱つて、乞食をするのは盜みをしたくないからだと云ひ、その者を仲間から追出した話がある。これは梅巖が實際見て書いたのですが、よほど意味のあることでありまして、かういふ筆法で行くと、「貧の盜みに戀の歌」などと云つて、情状酌量するのはどんなものかと思ふ。
 詩の話のついでにもう一つ申しますと、やはり「兎園小説」にある話で、豐後の地藏寺の門前で死んだ尼の辭世に、
漸出人間界。忽今上昊天。即捨敞蓑笠。夢覺寺門前。
といふのがある。これは前にあつた芝の寺門の行倒れの詩とよく似て居ります。同じやうな話がいろ/\あつたものでせう。

風流・正直・人氣


 文政頃の話だらうと思ひますが、十方庵といふ隱居坊さんの書いた「遊歴雜記」の中に、こんな話がある。十方庵は眞宗の坊さんなのですが、釜日に客をする爲に、庭へ水を撒いて居りますと、菰かぶりがそれを見て、御嗜みのほど恐入りました、まことに外から拜見致しましても御羨しい御境涯だと思ひます、人間に生れた果報にもいろ/\あつて、私どもには夢にも見られませんが、それは願ふべき事でないのかも知れません、と云つた。十方庵はその人柄に感心したものですから、薄茶を一服振舞はうと云つて庭先へ呼入れ、縁側で薄茶を飮ませました。これは有難う存じます、それでは恐入りますが、手水の水と新しい御手拭をいたゞきたい、と云つて、手を洗ひ淨めてから、くれた茶を飮んでゐる。坊さんもその樣子に感心しまして、三服まで飮ませますと、菰かぶりは大變喜んで、これで死ぬまでの思出になります。有難うございました、と云つて歸りましたが、その時縁側の隅に香包を殘して行つた。これは薄茶の御禮に置いて行つたものと見える。どんな香を持つてゐるのだらうかと思つてあけて見ると、上等の羅國なのです。試に一※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)焚いて見たら、火の末になると眞那加のやうな癖のある一手の銘香でありました。それを大事に取つて置いて、どうもあれは腹からの非人ではあるまい、重ねて來ることもあらうかと待つて居りましたが、何年たつても音沙汰無しで、どうしたものかわからなかつた。かういふ乞食もあつたのです。
 寶永七年に六道の辻から火事が出て大分燒けた。その時に傳通院の山内へ大分逃込んだ者があつて、彼處なら大丈夫のつもりだつたのが案に相違して大變燒死んだ。さうすると火事のあつた翌朝、山内の非人が門前の生藥屋大坂屋三右衞門――この店は維新の際まであつたとか聞いてゐます――の避難した先へやつて來た。門前の事だから、顏は毎日見て知つてゐたのでせう。家の者は何で非人がやつて來たかと不審してゐると、旦那は山内で燒死んでしまはれたが、氣がゝりなのはこの金の入つた財布である、これを家族に渡す爲に、昨夜から今朝へかけて、何處へ立退いたかといふことを尋ねて財布を持つて來たといふことであつた。この青山の火事に就ては、別に記録もありませんが、かういふ話が傳はつてゐるのです。
 それから明和、安永の頃に龜次坊主といふ物貰があつた。これは馬鹿で、何も藝はありませんでしたが、ひどく愛敬のある男で、龜次坊主が死ぬと間もなく、或御大名のところへ生れ替つた、といふ評判が立てられた。かういふ噂があつたといふだけでも、龜次坊主なる者がどの位人氣があつたか、想像出來るやうな氣が致します。

抱き付彌五郎その他


 又承應年中の江戸には抱き付彌五郎といふ乞食がありました。こいつは痛快な乞食で、往來で綺麗ななりでもして、反り返つて歩いてゐるやうな町人の女房とか娘とかを見ると、直ぐ行つて抱き付く。これには大抵誰でも困るが、容易に離れない。錢をどれだけくれゝば放す、と云ふので澁々錢を取られる。頻繁にさういふ事があつたけれども、他にひどい惡い事もしない。困り者だといふので町中の者から町奉行へ申出た。町奉行も處分して見たいやうな氣はするが適當な處分が無いので、或時家光將軍に申上げた。家光が何と云はれるかと思ふと、あゝさうか、それはめでたい、天下太平のしるしだ と云はれたといふ話が、酒井忠勝の事を書いた「仰景録」といふものに出て居ります。今日もこんな乞食が少し位あつてもよからうと思ふ。
 寶暦頃の話に、二人乞食が居るところへ士が通りかゝつた。早速「どうぞ旦那樣」とやる。あの聲が新内に似てゐると云ふので、新内は乞食から起つたといふ説がある位ですが、士はそれを聞くと錢一文投げて通り過ぎた。すると二人の乞食の中で年取つた方が、お前が先に云つたのだから、これはお前が取んなさいと云ふ。若いやつは若いやつで、いやさうぢやない、わしも云つたがお前も云つた、多少の先後はあつたにしても、これは年寄の方に上げていゝわけだ、お前が取んなさいと云ふ。年寄が若い者に恩をかけるのは當前だが、若い者から恩を受ける法は無い、と云ふので、互に讓り合つて何方もその錢を取らなかつた。乞食の間にもかういふ義理があるものか、と云つて感心した話が「澄江心覺」といふ隨筆に出て居ります。
 逸話は先づこの位にして置きますが、乞食の中には時々の評判者、流行物、を取入れて、錢貰ひの種にしたやつが色々ある。煩はしいからその一例を擧げますと、上野の戰爭が濟んで十日もたゝぬ頃に、四五歳の子供の首に札をかけて、これの親仁が上野で戰死して、何とも仕樣が無いから、といふ趣を書いて兩國橋へ出した。これが際物の大當りで大變貰ひが多かつた爲に、彼方にも此方にも同じやうなのが澤山出た。あまり澤山出た爲に、後には札をかけてゐるやつがあると、人が物をくれなくなつたので、遂に止んだといふことです。
 それから藝無しの乞食、これは私の幼年の頃見たのですが、頭は生えツ放しの男で、ホクチを糊でつけたやつが一軒々々這ひ込む。こいつが今から考へると可笑しくて堪らないのですが、篠で地面をたゝいて丹波の國から生捕の荒熊、生きて居ります、一つ鳴いて御目にかけます、といふと、ブルブル/\ツと脣を鳴らす。それが熊の鳴いてゐるのを聞かせるつもりなんでせう。ところが私の友達に松村琴莊といふ道化た人があつて、その先生の話だから、あまり信用も出來ないが、ある乞食で豹になつて大きな斑をつけたやつがある。これは對馬の國から生捕つた豹でござい、まではよかつたが豹の鳴聲といふものを知らない。仕方が無いからビヤアーと云つたといふ話をして、よく皆を笑はせたことがありました。かういふ藝無しの先生でも、一日百文、多い時は二百文位になつたさうです。
 盲や腰拔け、この連中は本當に「どうぞやお助け」で用を足すので、その中でも此頃あまり無くなつたのは躄です。車に乘つてゐるのは少いので、手に下駄を穿いて、兩膝に馬の沓を當てがつて歩いてゐる。急に夕立でも降つて來ると躄が立つて迯出すといふやうなことはいくらもありました。
 カツタヰ坊は傍へ寄られると困るやうなのが澤山ゐました。寄られては困るから、錢を遣ることにもなるのですが、それが最も多かつたのは堀ノ内道の鍋屋横町で、あいつは鍋屋横町だよ、といふやうなことをよく云つたものです。鍋屋横町もこの頃は立派になつて、そんなことは無くなりましたけれども、以前は東京中で彼處が一番多かつたやうに思ふ。

二人の支配者――松右衞門と善七


 今まで申上げたやうな連中は、皆フリに歩くのですが、物貰の中には時節のあるのがある。例へば厄拂とか、節季候とか、春駒とか、大黒舞とかいふやうなもので、このうち大黒舞は吉原だけのものです。非人のことを小屋者と云ひますが、物貰に出るやつは、非人ではあるけれども、小屋にゐないのが多い。野非人といふやつです。非人の話をするには、どうしても小屋の説明をしなければならないが、江戸には非人頭が四箇所に在つて、淺草の善七、品川の松右衞門、深山の善三郎、代々木の久兵衞、この四人の者が支配することになつてゐる。その中でも更に江戸を二つに大別して、南の半分を松右衞門、北半分を善七が支配するのですが、人數から云へば善七が一番多いので、非人を代表するのは善七といふことになつて居りました。今の四人の頭の中でも、善三郎は善七に附屬し、久兵衞は松右衞門に附屬してゐたのです。
 この四人の頭の下に小屋がありまして、小屋頭といふのが三四十人居る。小屋頭の下に又小屋があつて、その小屋には小頭といふ者が居る。江戸中の非人は四五千人も居つたわけでせう。非人は彈左衞門の配下といふことになつて居りますが、それは享保七年五月からのことで、その前は非人は獨立して居つたのです。彈左衞門の配下になつてから、髻を切つて髮を散らす、結つてはならぬといふことになつたのであります。
 非人にはそれ/″\分擔がありまして、罪人を護送するのは小屋者がやる。けれども磔柱にかゝつたやつを槍で突く段になると、非人は決してやらない。彈左衞門の手下の者がやるのです。曝し者の番人とか、曝し首の番人とかいふものも小屋者がやります。それから小屋頭になりますと、他の者は髷を結はないけれども、頭だけは結ふ。非人頭になれば勿論のことですが、たゞ白い元結は許されないので、黒い元結を使つて居りました。
 雪蹈直しのデイ/\、あれは非人に限つてゐる。雪蹈を拵へたり、革鼻緒を拵へたりする方は彈左衞門の配下で、小屋の方はデイ/\ときまつて居りました。デイ/\は肩から籠を掛けて笠を被つてゐる。それのみならず、笠の下に更に頬被をして居つた。紙屑拾ひは非人ですが、紙屑買はさうでない。同じ紙屑でも、買の方は良民なのです。
 それからもう一つ鳥追、女太夫といふものがある。これは春の初だけ鳥追になるので、元來は女太夫なのですが、これが小屋から出た。小屋頭になればもう女房や娘を女太夫にはしません。それ以下の者が出るのですが、これが門附をやる。小屋から出る門附はこれだけです。小屋者の女は、遊女になることが出來ない。白元結を掛けることも禁じてある。簪、笄、櫛を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)すことも許されない。外へ出る時は笠を被らなければいけない。天保改革以後は下駄も許さぬことになつて居りました。
 町家のどこかに何事かあると、吉凶慶弔とも非人が集つて來ます。店開をしたとか、御祝があるとかいふ時は殊に來る。あまり來られても困りますから、さういふ時には仕切札といふものを貼るのです。これは善七、松右衞門の兩方から出るので、仕切札と書いて、南ならば松右衞門、北ならば善七の黒い判が捺してある。これを門口に貼つて置きますと、小屋から出る乞食は來なくなる。但門附の方は參りました。
 非人のついでだから、もう一つ申して置きますが、町抱の非人といふものがありました。髮は結ふことが出來ないから、皆ザンギリ坊主にしてゐる。ザンギリは非人のあたまだから、昔はひどくザンギリをいやがつたものです。明和以來、この町抱の非人といふものがあつて、表の掃除をするとか、飮料水を汲ませるとか、路地の夜番をするとかいふことをやらして居りました。又その筋からの命令があつて、横目非人といふものが探偵の下働きをやつた。諸大名からも松右衞門、善七に頼んで、搜し物をして貰ふやうなことも隨分ありました。
 田舍で番太郎といふと、皆非人だつたやうですが、江戸では非人を番太郎に頼まなかつた。大抵甲州、信州邊の人がなつて居ました。

乞胸は仁太夫配下のめん/\


 それから面白いと思ふのは、鳥追笠一つに就て何程といふ役錢を、非人頭から乞胸仁太夫のところへ出してゐたことです。乞胸の配下には藝のある物貰が十二通りあつた。絹の著物を著て物貰に出る連中は、皆乞胸の方なのですが、その頭の仁太夫なる者は、やはり彈左衞門の配下になつてゐる。これは名字は中山氏で、山崎町に住んで居つた。お品のいゝ方のやつです。何か藝をして錢を貰ふやつに對しては、乞胸仁太夫から鑑札を出す。さうして揚錢を取立てゝ居つたのです。
 乞胸仁太夫の配下に屬する連中は、十二通り皆わかつて居りませんが、大方は記録したものがあります。第一は綾取、これは手に絲をかけて、いろ/\な形を拵へて見せる。今でも子供がやつてゐる、あれです。次は猿若、これは天保位までありましたらう。兩國の廣小路には仕方能といふものがあつて、河原崎權之助なんぞも、はじめこの中に入つて居つた。猿若といふのは檜舞臺の許可を得ない芝居なので、さういふものがあるから、三芝居の許可といふことが、大變やかましいものになるわけなのです。辻能といふのは眞面目な方、草芝居といふのは滑稽な方、と見れば間違は無い。それから江戸萬歳、これは今のと同じやうなものです。宮芝居といふものが九箇所もあつたのを、正徳四年に差止められた。その後宮芝居のあつたのは、芝の神明、湯嶋天神、市谷八幡、牛込赤城明神、小石川牛天神の五箇所ですが、それが又自然に減りまして、宮地三芝居といふ、芝、湯嶋、市谷の三箇所だけ殘つて居りました。その中には香具芝居と云つた、香具師の手でやる芝居――香具を賣る景物に芝居をやるのもありました。宮芝居と乞胸仁太夫との關係は大分面倒で、オデヽコ芝居なんていふのは非人の方のものでありますが、あれにも何か引からまつて居るやうです。
 辻淨瑠璃、辻説經、辻放下――放下といふのは、手妻とか、籠ぬけとかいふ類のものですが、天保少し前のところから、善七の手下の非人どもが多くやるやうになつて、乞胸とは筋が違ふことになつた。聲色、物眞似も非人がやる。豆藏の藝などは乞胸の方に屬すべきものであるのに、やる人間が非人が多かつたものですから、自然善七にくツつくやうになりました。
 それから辻講釋、辻ばなし、なんていふものがある。一體乞胸の方には門附がありません。居なりで物を貰つてゐるのですが、それには乞胸仁太夫の由緒書なるものがある。これはあまり信ぜられぬものですが、姑くそれによりますと、仁太夫の先祖が上方下りで、辻で藝をして暮してゐたのが、やがて葭簀張の小屋になり、木戸錢を取るやうになつて、遂にその筋目を支配するやうになつたのだ、と書いてあります。その年代から考へますと、慶安以來、浪人が江戸にゐるのを禁じられた、浪人も無商賣ではゐられないから、已むを得ず乞胸の配下になつたので、その時の樣子は西鶴の「永代藏」の中にも書いてあつたと思ひます。
 オデヽコ芝居、香具芝居、乞食芝居なんていふやうなものは、乞食の支配でなければならぬのに、役者に非人出が多かつたから、非人の方になつてしまつたのか、その間のことはよくわかりません。オデヽコ芝居は兩國の廣小路にあり、乞食芝居の方は淺草寺の境内にありました。葭簀張の小屋でありましたが、何方にしても繩衣裳、繩を編んで袖の形にする。鬘は大森鬘と云つて、椶櫚で拵へたやつ、それも大勢でするのではない、一人でやるのですから、顏を半分づつ男と女にして置いて、向きを換へてやる、といつたやうなものだつたのです。
 その外にあつたのが住吉踊、これは寛政頃からありました。それが安政以後になつて、カツポレといふものがはじまつた。アホダラ經は江戸では嘉永以來のものですが、大坂では文化頃からあつたやうです。江戸のは初は腰衣を著けてゐたけれども明治以後は良民になつたので、腰衣はやめました。明治以前は木魚だけだつたのが、明治になつてから三味線が入るやうになつた。この住吉踊、カツポレ、アホダラ經だけでも一晩位申上げる材料はありますが、こゝでは省略して置きます。

寺社奉行支配の願人坊主


 チヨンガレはアホダラ經の前からあるので、木魚を敲いて口拍子でしやべる。享保前後からあつたらしく、錫杖だけでもやつたやうです。もう一つ似寄つたのにチヨボクレといふのがあつて、錫杖を振つてやるのですが、これは節が少くて言葉が少い。チヨンガレは節が無くて言葉ばかりだが、チヨボクレは祭文をチヨボクルので、これから眞直に筋を引いたのが浪花節です。六代目などがやる浮れ坊主、錫杖を持つてやる、あれがチヨボクレの方なのです。
 これはどういふ者がやるかと云ひますと、例の願人坊主です。願人坊主も身分の調べが面倒ですが、それ以前にはオボクレ坊主と云つて、小さな紙片を持つて何かしやべるやつがある。考へ物と稱して、朝問題を配つて置いて、夕景にその答を書いたものを持つて來るやつがある。マカシヨ/\、ワイ/\天王なんてやつは、天狗の面を背中に背負つて、繪を書いた紙を子供に撒いてあるく、スタ/\坊主と云つて、たゞ方々歩くだけのやつがある。代待代參と稱して、何の神樣に御參りするとか、庚申樣を祭るとかいふことで、錢を貰つて歩くのもある。かういふものが廢れて、前に云つた住吉踊、カツポレ、アホダラ經の類になつたものと思ひます。
 ところでこの願人坊主なる者は、たな坊主と云つて家を持つてゐる。非人ならば善七、松右衞門の支配、乞胸ならば仁太夫の支配になるのですが、願人坊主は市街地に住んで、良民に雜居していゝのですから、寺社奉行の支配になつて居りました。これには二派あつて、藤澤派は日輪寺の支配に屬し、圓淨といふ者が頭でしたが、享保に絶えてゐる。鉦を鳴らして門念佛や和讃を唱へたり、腕香と云つて、腕の上に香を焚いて、錢を貰つたりしてゐたやつがある。もう一つは鞍馬派で、毘沙門樣のある大藏院といふ寺の配下に屬する。これが江戸へ參りましたのは、江戸が繁昌するにつれて、大藏院の末寺を作りたい爲であつたといひますが、實は隱密を頼むつもりで幕府が呼んだものらしい。毘沙門樣の御札を配ることは、幕府が公許して居りました。代參、代待、連念佛、説教といふやうなことをやつて居りましたが、これも享保度には二所に分れ、西月、一入の一派が馬喰町、春長といふのゝ配下が芝金杉の百間長屋に居ることになつた。後には芝金杉、四谷鮫橋、神田豐嶋町の三箇所に分れるやうになり、それも幕末頃には、アホダラ經やカツポレばかりで、外の事はしないやうになつてゐたのです。
 江戸の物貰に就ては、申上げなければならぬことは澤山ありますが、ごくざつと申せば大體こんなところです。最初に申した三種類に分れるといふことも、これでおわかりになつたらうと思ひます。





底本:「江戸ばなし 其二」大東出版社
   1943(昭和18)年10月20日初版発行
初出:「江戸読本 3号」
   1938(昭和13)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「物貰ひ」と「物貰」の混在は、底本通りです。
入力:あたみ
校正:川山隆
2014年12月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード