女順禮

三田村鳶魚




常憲院實紀を見ると、寶永元年八月の處に女順禮多く打むれ市街を徘徊し、かつ念佛講と稱し、緇素打まじはり、夜中人多く挑燈をかゞけ往來するよし聞ゆ、いとひがことなり、今より後停禁たるべし。
といふ禁令がある。更に寶永七年八月の禁令は同文で、『頃日また婦女順禮やまずと聞ゆ、もし此後徘徊せば、町奉行屬吏を巡行せしめ、きびしく沙汰あるべし』と附加してある。女巡禮の[#「女巡禮の」はママ]禁制は容易に行はれなかつたのであるが何故にそれほど盛だつたのか、又た如何なる弊害があつて斯く嚴重に禁制したのか。
 西國順禮、坂東順禮さては京順禮、江戸順禮など、それ/″\の處に定められたる觀音三十三所を巡拜するのだが足薪翁記には、
昔京順禮江戸順禮といふことありときけり、是は富家の婦女又茶屋物風呂屋物などゝなへし賣女の類衣裝に伊達を盡くし、笈摺胸板をかけて、實の順禮の如くいでたち、洛陽三十三所の觀音へまうづるを宮順禮と云なり、江戸順禮も又是におなじ、此事亦大阪にもあり、
といつて、例の古俳書其の他から優に旁證した上に、増補昔々物語の本文、
寛文の頃順禮と號し、笈摺をかけ、江戸中の觀音へ參詣せし事夥敷風行しとかや、其後川口善光寺へも右のごとく參詣せしが、是は開帳の内ばかりの事にて、早速止たるなり。
を引いてある。川口善光寺の開帳は明和度のことで、寶永の法令との交渉にない。又た寛文から女順禮が始まつたといふのも、沿革を知るまでゞあるか、正徳追善曾我は正徳六年の板行でもあり、殊に市川才牛十三年忌追善のものだけに、既往の光景が書いてある。其の中に寶永度に嚴禁された女巡禮の[#「女巡禮の」はママ]風姿が髣髴される。
頃日は女順禮、胸に木板のたゆるまもなく、爰の開帳、かしこの社の縁日、しやみせんに乘らぬばかり、つれふし歌、後生願ひのひる中、俗も坊主も秋ならねども、松蟲の鐘をちいさいしもくにて、手の内に鳴せ、孫四郎節のねんぶつ滿々みち/\て、後生願ひ願のさかんなる時なれば此等の聽受の多、にぎやかなるもことわり
 此の頃のは觀音巡りでなく、開帳縁日を押廻つた。のみならず物哀れな渠の御詠歌ではなく、大變賑に唄はぬばかりの念佛だつたと見える。それに附隨して俗も坊主も鉦を叩いて囃子してあるいた。禁令が女順禮と念佛講と一束に嚴制したのを、後々の巡禮が[#「巡禮が」はママ]念佛講と別々で、決して一處同時にないのを見慣れて、如何にも不審されたが、此處で漸く彼の法文が讀めた。まして、
女順禮多くして、十二文から蓮花に入事なれば、蓮臺ふさがりたり、
といふに至つて幾度も點頭した。比丘尼といふ私娼もあつたので見れば、女順禮が賣笑した處が同邊の話である。それが際立つて新しく騷しかつたから禁制もしたのであらう。
 女順禮が賣笑する迄には段々の經過はあらう。山東京山の近世女裝考には寛文の年號のある勝山の順禮姿の古畫を收め、近松の觀音巡りは茶屋女の好みを見た。それより念入りなのは三代男の、
十八番に六角堂、我が思ふ心の内は六つのかどと、田舍聲のつれぶし、南紀大和路札うちて、都へのぼる比は、初の秋の半、商人折を待て見世を構へ店を飾り、是おやかたと呼かけ、馬具はいらぬか、葛籠うらふといふ聲喧しく、木棉の金入を出して錦をかやれ、判木に押たる名號をば法然の御手じやの、岱中の筆じやのといへば、それにして唯下直物を專と求む、或は本願寺の庭砂を戴いて瘧をおとし、誓願寺の茶湯を呑みて腹の下りのとまるも、皆正直の心から、後に四國四十六所順禮同行何人と書いたる此殊勝なる中に、十八計なる女の加賀の單なる絹に猿猴が手して美しき男攫むさま、今樣染のはでを盡して顏容風俗、都にさへかゝる姿はと目を驚す、まゐて田舍人には如何なる方なればとゆかしく連の順禮の手を引て、彼の美しき女順禮はと、ゆへを問ふに、凡そ此順禮は國所によりて變る習もおはすべけれど、我國には六十六所の數多く、しうるものを以て、座の上につく事にして、姿よく情ありても、此勤せぬ者は宜しきものゝ嫁にも取らず、婿にもせねば、若きは戀のためと名利、年寄たるものは後の世の種に、年々かくは詣づ、夫が中に此御方は、陸奧の内にてさる百姓分の人ながら、少し由ある方の娘、わきて情の心深く、僧正遍昭が歌のさまにはあらで、畫にかける男繪を見て、このやうなる君に情かわしてこそと、思ひ入江の海士小船、こがれて物をおもへど、近き國にはかゝる男色なし、此上は名にしあふ花の都人こそゆかしけれと、順禮にはあらぬ男修行の君、みづからと今一人の女も召使はれの者にて、共に此の事に心を運ぶ。
 盛んなればこそ斯うしたのも飛び出して居る。縱しや富家の婦女のみが出たにしても、相應に風紀上の問題を拵へるのに骨は折れない。薩州の古譚を集めた倭文麻環に載せた頴娃郡仙田村の志多良踊の唄、
あらうつくしや、じゆんれいさまよ、やぶれし堂に、こし打掛て、笛尺八で夜をあかす、
 時勢は恐しい、女順禮は奧州から九州まで果ない流行物であつた。其の流れは怪しい女の賣笑に往き附いた。英一蝶の四條河原夕凉の圖には、川中の酒宴に招かれた女順禮が、踊つて興を添へて居る。江戸の女順禮の風儀も例の如く上方から運ばれたのであらうと思ふ。
 短い法令でも文字を讀んだゞけでは濟まされぬ。只だ片附きの好いやうに、一往の穿鑿さへせずに勝手の好いやうにばかり讀んで、さても其の後、轆轤首の反吐のやうな議論を聞かせられては、溜つたものぢやない。





底本:「合本江戸生活研究 第貳輯」春陽堂
   1929(昭和4)年7月23日発行
底本の親本:「江戸生活研究 彗星 三月號」春陽堂
   1927(昭和2)年7月15日発行
初出:「江戸生活研究 彗星 三月號」春陽堂
   1927(昭和2)年7月15日発行
※近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※著者名は底本では、「鳶魚」です。
入力:あたみ
校正:川山隆
2014年12月27日作成
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