陳情書

西尾正




There are more things in heaven and earth, Horatius, Than are dreamt of in your philosophy.※(始め二重括弧、1-2-54)Shakspeare, Hamlet.※(終わり二重括弧、1-2-55)
ハムレット「――この天地の間にはな、所謂いわゆる哲学の思いも及ばぬ大事があるわい。……」
※(始め二重括弧、1-2-54)シェクスピア※(終わり二重括弧、1-2-55)

M警視総監閣下
 日頃一面識も無き閣下に突然斯様このような無礼な手紙を差し上げる段何卒なにとぞお許し下さい。俗間ぞくかん所謂いわゆる投書には既に免疫してしまわれた閣下は格別の不審も好奇心をも感ぜられず、御自身で眼を通すの労をすら御いといになる事かとも存じますが、私の是から書き誌す事柄は他人の罪悪をあばかんとする密告書でも無ければ、閣下の執政に対する不満の陳情でも御座いません。実は私は一人の女を撲殺した男でありまして、――と申しましても私自身その行動に就いては或る鬼魅きみの悪い疑問を持っているのでありますが、然も己が罪悪を認めるにいささかも逡巡しゅんじゅんする者でなく会う人ごとに自分は人殺しだと告白するにも拘わらず、市井しせいの人は申すに及ばず所轄警察署の刑事迄が私を一介の狂人扱いにして相手にしては呉れません。閣下の部下は、閣下は、我が日本国の捜査機関は、一人の殺人犯を見逃してそれで恬然てんぜんと行い済ませて居られるのでありましょうか? 私は私の苦しい心情を、殺人犯で有りながら其の罪を罰せられないと云う苦しさを、閣下に直接知って戴いた上其の罪に服しいとの希望を以て此度このたびうして筆を取った次第であります。一個の文化の民として、罪を犯し乍ら其の罰を受けないと云うのは、如何許いかばかり苦しい事でありましょうか?――。是は其の者に成って見なければ判らない煩悶はんもんでありましょう。何よりも私は世間の者より狂人扱いにされる事がたまらなく苦痛なのでありまして、此のまま此の苦痛が果し無く続くものであるならば、いっそ首でもくくって我と我が命を断つにかないと屡々しばしば思い詰めた事でありました。私が何故一人の女を、私自身の妻房枝を殺さなければならなかったか?――。其の理由を真先に述べるよりも、私が初めて妻の行動に疑惑を抱いた一夜の出来事から書きつづる事に致しましょう。※(始め二重括弧、1-2-54)斯く申し上げれば閣下は「お前の女房は焼け死んだのではないか」と反駁はんばくなさるかも知れませんが、私は他ならぬ其の誤謬ごびゅうを正し私と共々此の不気味ぶきみな問題を考えて頂き度いのでありますから、短気を起さずと何卒先を読んで下さいまし。※(終わり二重括弧、1-2-55)それは昨年の二月、日は判乎はっきりと記憶にはありませんが、何でも私の書いた原稿がM雑誌社に売れてたんまり稿料の這入った月初めの夜の事でありました。現在でも私は高円寺こうえんじ五丁目に住んで居りますが、其の頃も場所こそ違え同じ高円寺一丁目の家賃十六円の粗末な貸家を借りて、妻の房枝ふさえと二歳になるまもると共々に文筆業を営んで居たのであります。元々私の生家は相当の資産家で、私が学生で居る間は、と申しましても実際は一月に一時間位しか授業を受けず只単に月謝を払って籍を置いて居たに過ぎませんが、其の間は父から毎月生活費を受けて居たのでありますが、一度学校を卒えるや、其の翌日から、――前々から私の放蕩無頼ほうとうぶらいに業を煮やして居た父は、ぴたりと生活費の支給を止めてしまったのでありまして、そうなると否でも応でも自分から働かねばならず、幸か不幸か中学時代から淫靡いんびな文学に耽溺たんできして居た御蔭で芸が身を助くるとでもうのでありましょうか※(始め二重括弧、1-2-54)玉ノ井繁昌記※(終わり二重括弧、1-2-55)とか※(始め二重括弧、1-2-54)レヴュウ・ガァルの悲哀※(終わり二重括弧、1-2-55)とか云う低級なエロ読物を書く事に依ってかろうじて今日迄くちのりして参ったのであります。或る秘密出版社に頼まれて、所謂好色本の原稿を書き綴って読者に言外の満足を与えた事も再三でありました。……
 さてうして家庭が貧困のうちあえいで居乍らも、金さえ這入れば私は酒と女に耽溺する事を忘れませんでした。病的婬乱症ニムフォマニイ――此の名称が男子にも当て嵌るものであるならば、其の当時の私の如き正に其の重篤患者に相違ありませんでした。最早もはや二歳の児がある程の永い結婚生活は、水々しかった妻の白い肉体からすべての秘密を曝露し尽して了いまして、妻以外の女の幻影が私の淫らな神経を四六時中刺戟して居りまして、その為大事な理性フェルヌンフトを失って居た位であります。其の日、二月某日の夜は寒い刺す様な風が吹いて居りました。金を懐に七時頃家を飛び出し、其の頃毎夜の如く放浪する浅草あさくさの活動街に姿を現わしました。みやこバアで三本許りの酒を飲んでから、レヴュウ見物に玉木座たまきざの木戸を潜りました。婦人同伴席にそっと混れ込んで、――是は私の習癖で御座いまして、一時間余り痴呆の様になって女の匂いを嗅ぎ乍ら、猥雑わいざつなレヴュウを観て居る裡に、忽ちそんな場所に居る事が莫迦莫迦ばかばかしくなり一刻も早く直接女との交渉を持った方が切実だと謂う気になりまして直ぐさま其処を飛び出して了いましたものの、何分時間が早いので一応雷門かみなりもんの牛屋に上りまして鍋をつっ突き酒を加え乍ら、何方どっち方面の女にしようかと目論見を立てる事に致しました。飲む程に酔う程に、――※(始め二重括弧、1-2-54)と申しましても私は如何程酒精分を摂っても足許をすくわれる程所謂泥酔の境地はかつて経験した事無く、只幾分か頭脳が茫乎ぼんやりして来まして所謂軽度の意識溷沌こんとんに陥り追想力が失われる様で有ります。従って酔中の行動に就いては覚醒後全然記憶の無い場合が往々有ったのであります※(終わり二重括弧、1-2-55)――益々好色的な気分に成って未だあての定らない裡に最早や其の牛屋に坐って居る事にこらえられなく成り、歩き乍ら定めようと元の活動街の方へ引返して参りました。池之端いけのはたの交番を覗くと時間は意外に早く経過したものと見え時計は十一時半頃を示して居りました。閉館後の建物は消灯して仄暗い屋根を連ね人脚もばったり途絶えて、たまに摺れ違う者が有れば二重廻にじゅうまわしに凍え乍ら寒ざむと震えて通る人相の悪い痩せた人達許りで、空には寒月が皎々と照り渡って居りました。酔中の漫歩は自ら女郎屋に這入る千束町せんぞくちょうの通りを辿りまして、やがて薄暗い四辻に出た時です。――旦那、……もしもし、……旦那。……と杜切とぎれ杜切れに呼ぶ皺枯れた臆病想な声が私の耳の後で聞えました。私は立ち止って振り返る必要は無かった、と云うのは電柱の蔭に夫迄それまで身を潜めて居たらしい一人の五十格好の鳥打帽とりうちぼうにモジリを着た男が、素早やく私と肩を並べてあたかも私の連れの如くよそおい乍ら、ぶらりぶらりと歩調を合わせて歩き始めたからであります。私は其の男が春画売りか源氏屋に相違無い事を、屡々の経験からただちにさとる事が出来ました。案の定男は、相手の顔からいささかの好色的な影も逃すまじとの鋭い其の癖如才無い眼付きで、先生、十七八の素人は如何です?――と切り出して参りました。矢張り源氏屋だったのであります。私とて是迄彼等の遣口やりくちには疑い乍らも十度に一度は※(始め二重括弧、1-2-54)真物※(終わり二重括弧、1-2-55)に出喰わさない事も無かろうとわずかな希望を抱き、従って随分屡々其の方面の経験は有りましたが、其の範囲内では毎時いつもペテンを喰わされて居ました。三十過ぎにも見える醜い女が、小皺だらけの皮膚に白粉を壁の様に塗りたくり、ばらばらの毛髪をおさげに結って飛んでもない十七八の素人に成り済まし、比類稀なる素晴らしきグロテスクに流石さすがの私も匆々そうそうに煙を焚いた程の非道い目に会った事も有りまして、当時は一切其の方面の女には興味を失って居る時でしたが、其の夜は奇妙な事に、十七八の素人とう音が魔術のごとく私の婬心をたかぶらせたのであります。十七八の素人か、悪くは無いな、だけど君達の言う事は当にならないんでね、と私は平凡な誘惑に対して平凡な答をしますと、男は慌てて吃り吃り、と、と、飛んでもない、旦那、ほ、ほんものなんでさあ、デパアトの売子なんで、……堪りゃせんぜ、ったく、サァヴィス百パアセトですよ。と掻き立て乍ら相不変あいかわらずにやついて居ります。売子だとすると朝は早えな、と訊きますと、へえ、其処を一つ勘弁なすって、何ひょろ、もう一つ職業が有りますんで、と揉手をし乍ら答えます。忙しいこったね、と此方もにやにやし乍ら冷かしますと、男は頭を押えて、へへへへ、此奴も不景気故でさあ、お袋が病気で動きがとれねえんで、そう云う事でもしないてえと――と、答えます。私は益々乗気になって、まさか、お前さんの娘じゃあるまいね、と追及すると、相手は急に間誤間誤まごまごし出して、と、と、飛んでもねえ、と、ムキになって否定しましたが、不図ふとパセティックな調子となり、でも、沁々しみじみ考げえりゃあ他人事ひとごとじゃ御座んせん、とこぼしました。並んで歩き乍らこんな会話を交わして居ると、知らない裡に遊廓の横門の前迄出て了いましたが、気付いて立ち止った時には私の心は其の男の案内にまかせるく決って居りました。承託を受けると男は忽然こつぜん欣喜雀躍きんきじゃくやくとして、弱い灯を受けつつ車体をよこたえて客待ちして居る陰気な一台の円タクを指先で呼び寄せました。ああ、閣下よ、其の夜其の男の誘いに応じたが為に、其の行先の淫売宿で不可解な事実に遭遇し貞淑であった妻に疑惑の心を抱き始め、遂には彼女を撲殺しなければならない恐ろしい結果を導いて了ったので有ります。

 男は運転手に行先を命じはしましたが、小声である為に私には聞き取れず、遠方かい、と訊きますと、いいえ、直ぐ其処です、と答える許りで、自動車は十二時過ぎの夜半の街衢まちを千束町の電車停留所を左にカーヴし、合羽橋かっぱばし菊屋橋きくやばしを過ぎて御徒町おかちまちに出で、更に三筋町みすじまちの赤い電灯に向って疾走して行きました。遊廓付近はそれでもおでん立ち飲みの屋台が車を並べ、狭い横丁からカフェの女給仕の、此の儘別れてそれでよけりゃ、気強いお前は矢張り男よ、いえいえ妾は別れられぬ、別れられぬ――と音律も哀愁も無視した黄色い声が聞えて来、酔漢や嫖客が三々五々姿を彷徨さまよわせて居り、深い夜更けを想う為には時計を見る等しなければなりませんが、一度其の区域を外れ貧しい小売商家街に這入りますれば、深夜の気配が求めずして身に犇々ひしひしと感じられます。更けると共に月は益々冴え、アスファルトの道に降りた夜露は凍って其の青い光を吸い込んで居ります。自動車が三筋町の電停を一二町も過ぎ尚も疾走を続けようとした折に、夫迄それまで石の様に黙り続けて居た男が、運ちゃん、ストップ、と陰気なかすれ声を発しました。閣下に是非共其の場所の探索を命じて戴き度い為に地理的正確さを以て誌し続け度いとは存じますが、何分其の際軽度乍ら酔って居りましたし、酔えば必ず記銘力を失い、時間と地理の観念が極端に薄れて了うのが至極遺憾いかんで有ります。男の案内にいて上った問題の家と云うのは、電車街路に面した古本屋と果物屋、――多分斯うだったと思いますが、――の間の狭い路次を這入り、其の突き当りの二階家だったのであります。奥に二坪許りの空地が有りまして、共同水道が設置されてあり水の洩れて石畳の上に落ちる規則的な点滴の音が冷たそうに響いて居たのが私の耳に残って居ります。其の家は、――判乎はっきり記憶には在りませんが、其の貧相な路次の中では異彩を放つ粋な小造りの二階家で、男が硝子格子に口を押し付ける程近寄せて、今晩は、と声を懸けると、内部からはいと答える四十女らしい者の婀娜あだめいた声が聞えて来、夫迄消えていた軒灯にぽっと灯が這入りまして、私達の立って居る所が薄茫乎うすぼんやりと明るくなりました。と同時に、家の内部で人の動く気配がして誰かが階段を登る軋音が微かにミシリミシリと聞こえた様であります。少々お待ちを、と男は言って、私を戸外に待たせた儘するすると格子を開けて忍びやかに内部へ姿を消しましたが、それと同時に其の家の二階に雨戸を引く音が聞えたので思わず見上げますと、隣家の側面に向いた小窓から島田に結った真白い顔を覗かせ、柔軟な腕を現わしつつ雨戸を引き乍ら私の方を見下ろして嫣然えんぜんと流し目を送って来たのであります。閣下よ、女は悪くないものです。其の夜の一夜妻が其の小娘で有る事を直ちに悟り、期待した以上の上物なので情炎の更に燃え上るのを覚えました。稍々ややあって男が二三寸格子戸を開き、どうぞ、と声を掛けたので、いそいそと内部へ這入りましたが、男は私を玄関の三和土たたき上框あがりかまちに座布団を置いて坐わらせた丈で、何故か室内には招じ入れませんでした。まことに恐れ入りますが、もう少々お待ちを願います、と言われて見れば詮方無く、不承不承命じられた所に腰を下ろして、暫時合図を待つ事に致しました。斯う云う家が客を極端に警戒するものである事は、特に説明する必要も有りますまい。私の腰掛けた場所の右手の恰度眼の位置に丸く切り抜かれた小窓が有りまして、障子と障子の合わせ目が僅かに三四分程開いて、其の隙間から細い光線が流れて居ります。其の部屋は茶ノ間と覚しく凝乎じっと耳を澄ますと鉄瓶の沸る音がジィンジィンと聞え、部屋には最初の男を加えて三四人は居るものと想像され、時折大きな影法師がユラリユラリと其の丸窓に映るのであります。暫くの間私を案内した男は其の宿の内儀と、――多分斯う想像するのですが、――周旋料に就いて小声で秘鼠秘鼠ひそひそと相談し合って居る様子でありました。何事か符牒を用いて争って居るらしいので有ります。ややともすると両者の声の高まる所から想像すると、話が仲々妥協点に達しないらしく時折内儀の叩くらしいぽんぽんと響く煙管の音が癇を混えて聞えて参ります。私は所在無さに室内の空気に好奇心を覚え障子の隙間に片眼を当てて、ついふらふらと内部を覗いて了いました。私の想像した通り、隙間の正面には、長火鉢の傍らに四十格好の脂肪肥りにでっぷりした丸髷を結った内儀が煙管を弄び乍ら悠然と控えて居るのが見え、右手に坐って居る男、――是は見えませんでしたが内儀の視線の方向からそれと想像されます、――に向ってさかんにまくし立てて居るのであります。内儀の隣りに、即ち私の方から向って左手に、正しくもう一人の女が居る事が想像されました。彼女は南京豆でも噛って居るらしく時折ぽきんぽきんと殻を割る音を立て乍ら、内儀の云う言葉に賛同を示すらしく至極下品な調子で含み笑いをしつつ男に揶揄やゆ的な嘲笑を浴せて居ります。最初の裡こそ私は単なる好奇心を以てのぞいて居たのでありましたが、閣下よ、次の如き内儀の吐いた言葉を突如耳にして、ギクリと心臓の突き上げられる様な病的な驚愕を覚えたのであります。内儀は眉をキリキリとヒステリックに釣り上げ、首垂うなだれて居る男に向って斯う叫んだのでありました、――バラされない内に、へえ左様ですかと下手したてに出たらどうだい、女だからってお前さん方に舐められる様なあたしじゃないんだよ、ねえ、おふささん?……

 此の台詞せりふは、普通に聞いたのでは左程の意味も感ぜられますまい。陰惨なすさみ切った淫売宿の内儀が此の位の啖呵たんかを切ったからとて些も不思議は無いので、私とても是迄場数を踏んで居りまして所謂殺伐には馴れて居りますから、何事か血腥ちなまぐさい騒動が持ち上りそうな雰囲気に腰を浮かせた訳では有りません。私のギクリとしたと言うのは、其の言葉尻の、明らかに同席の今一人の女に賛同を求める為に吐いた※(始め二重括弧、1-2-54)ねえ、おふささん※(終わり二重括弧、1-2-55)と云う呼名を咄嗟とっさに聞いたからでありました。おふさ、房枝、おふさ、おふささん――言う迄も無く私自身の女房の名を連想したからで有ります。閣下は、同名異人が居るではないか?――と仰言るかも知れません。元より房枝などと云う平凡な名前は東京中にても何百となく在りましょう。乍然しかしながら、私があの場合ぎょッと衝動を受けたのは理屈ではありません。虫ノ知ラセと云うのは斯う云うのでありましょうか。普通の場合ならば平気で黙過する筈であるのに、異様な好奇心に燃えて其の女の顔を確め度いと云う衝動を覚えたのであります。私は腰をかしそっと息を殺して其の女の姿が視野に這入る様二尺許り位置をずらせました。そうする事に依って女の側面の一部を窺う事が出来たのであります。髪を真黒な丸髷に結い地味な模様の錦紗の纏いを滑らかに纏い、彼女が芸者上りの人妻らしい女で有る事が直ちに想像され、チラリチラリとほのかに視野に入る横顔の噛み付き度い程愛らしい鼻の上に淡褐色の色眼鏡が懸けられ、長火鉢の縁に肱を突き乍ら南京豆を噛じって居るのですが、其の為に袖口が捲れて太股の様な柔らかい肉付の腕が妖しい程真白い色に輝いて居ります。私は其の横顔を覗いて、思わずはあっと息を呑んで了いました。と云うのは、服装こそちがえそれがカフェ時代の房枝の再現だったからで有ります。閣下よ、よくお聞き下さい。私は其処で、其の魔性の家で、私自身の妻を発見したのであります。是は断じて錯覚でも無ければ、所謂関係妄想でも有りません。ましてや虚言を吐く必要が何処に在りましょう? が、次の瞬間、ふん、莫迦莫迦ばかばかしい、今夜はどうかしてるんだナ、ふん……と心中呟いて、自分の率直な認識を否定して了いました、と云うのは、現在の妻が其の女程美しく装い得る筈が無いからで、如何にも房枝は女給仕時代並びに同棲生活の当初に於いてこそ経済的にも裕福であり、たくましい程の肉体的魅力を全身から溢れさせて居りましたが、其の後の家庭的困窮疲憊ひへいは残らず彼女から若い女の持つ魅力を奪い去って了い、一として私に関心を起させる秘密を失って居るのであります。而も最も根強い理由は、世間からは遊戯女いたずらものの稼業の如く思われて居るカフェの女給仕を勤めた身ではあるが、女の中で是程貞淑な女は居まいと思い込んで居た房枝が、仮にも夜更けの淫売宿になど姿を現わす筈が無いと云う確信で有ります。妻房枝は、其の時刻ともなれば亭主の放蕩に女らしい愚痴ぐちこぼす事すら諦らめて了い、水仕事と育児労働と、――子供は生来の虚弱体質で絶えず腸カタルやら風邪に冒されて居て手の掛る事は並大抵で無く、更に内職の針仕事に骨の髄迄疲れ果ててぐらぐら高鼾たかいびきを掻いて前後不覚に寝入って居る筈であります。私は自分の莫迦らしい妄想を嘲笑わらい、何時の間にか眼の前で両手を確乎しっかり固めて居るので急いで其の拳を解き、ふう……と溜息を洩らしました。其の裡に室内の談合は旨くけりが付いたものと見え、しんと鎮まって居りました。女の事はどうしたんだろう。一つ催促でもして見ようか、と立ち上るなり悪く逆上して眼鏡が曇って居たので何心無く取り外し、二重廻しの袖でレンズを拭き始めた時に、私は再びはっと奇妙な一致に撃たれてふらふらと腰を落して了いました。室内のおふささんの懸けて居た淡褐色の金縁の日除眼鏡を反射的に思い泛べたからで、つまり、彼女の懸けて居る色眼鏡とそっくりの、而も金縁のそれを、私の学生時代新派役者や軟派のヨタモンにかぶれて常用して居た事があり、最近ではとんと顧ず壊れ箪笥の曳出ひきだしにでもしまい込んで、其の儘房枝の処置に委せて居た事実を思い出したのであります。私の眼は再び執拗に障子の隙間に吸い付かなければなりませんでした。室内のおふささんは最早や南京豆を噛じる事は止めて、小楊子をせせり乍ら敷島か朝日の口付煙草の煙を至極婀娜っぽい手付唇付で吹き出して居ましたが、何かの拍子に居住いずまいを[#「居住いずまいを」は底本では「居住いずまいいを」]組み直した瞬間――彼女の全貌を真正面から眺める事が出来ました。嗚呼、閣下よ、其のおふささんは、瓜二つ以上、双生児ふたご以上の、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)くどいようですが、――カフェ時代の房枝では有りませんか? して更に私の疑惑を深めた所作と言うのは、暫らく凝乎じっと彼女をみつめ続けて居ると彼女は時折眼鏡の懸具合が気になるらしく真白い指先で眼鏡の柄をいじくるのでありますが、――それは間違い無く眼鏡の故障を立証する所作であって、私の眼鏡も大分以前に其の柄が折れ掛った儘放置してあったので有ります。閣下は又しても、ふふん、救い難き関係妄想じゃ、とお嘲笑いに成るかも知れません。従ってここで、如何に私の衝動ショックが烈しいものであったかを説明申したとて無駄で有りましょう。私は其の宿に来た目的も打ち忘れて、不可解な一致に茫然自失した儘、襖が開いて男が現われ、どうぞお上りを、と掛けた言葉を夢の様な気持ちで聞いて居りました。一旦否定した疑惑が眼鏡を認めるに及んで更に深まったのであります。万が一に、其の女が私の女房であるとして、何の目的を以て夜半淫売宿なぞに姿を現わして居るので有りましょうか?――閣下よ、※(始め二重括弧、1-2-54)私の悲劇※(終わり二重括弧、1-2-55)は右の如き一夜に其の不気味な序幕を開けたのであります。干涸ひからび切った醜女があんなにも水々しい妖艶な女と変じ、貞淑一途の女が亭主に隠れた淫売婦であろうとは?――此の世にこんな不可思議な事実が有り得るであろうか? 私は自分が正気である事を確信する為に、一歩一歩脚に力を入れて案内をされた二階への階段を登って行きました。……

 相手の女は期待したより上タマでは有りましたが、私のこころには既に最前の色情気分エロティシズムは消えて階下の疑問の女に注意が惹かれる許りでありました。如何にして歓楽を尽したか、――に就いては記述の中心から離れる事ですし、或いは閣下は、精神病学的見地より私の性欲の詳しい説明を欲せられるかも知れませんが、是は此の場合遠慮して直接口頭にて御答えする事に致しましょう。相手の女は初々しい Spasmeスパズム を以て私を攻め立てて来ましたが、一方私は御義理一点張りの Ejaculationエジャキュレエション にてそれに応じる責を果したに過ぎません。其の労働部屋は四畳半で、枕許には桃色ピンクのシェエドを被うたスタンド・ランプが仄かな灯を放ち、薄汚ない壁には、わたしゃあなたにホーレン草、どうぞ嫁菜になり蒲公英たんぽぽ、云々の戯句ざれくが金粉模様の短冊に書かれて貼って有りました。私は外面何気無く粧い其の戯句を繰返し眺め乍ら、今迄階下したに居た眼鏡を懸けた丸髷の女も客をとるのか、と第一の質問を発して見ました。すると女の答えるには、其の眼鏡を懸けたおふささんには、う情人が付いて居て、其の夜も其の男の来るのを待って居るとの事で有りました。此の家で馴染に成ったのか、と重ねて訊きますと、ええそうよ、今はとても大熱々の最中よ、フリのお客なんかテンデ寄せ付けないわ、貴方、一眼惚れ?――と突込んで参りますので、いや飛んでもない、よしんば惚れた所で他人ひと情婦いろじゃ始まらない、只一寸気んなる事があったんでね、ととぼけますと、気んなる事って何あに、此方が却って気ンなるミタイダワ、と来ますので、名前はおふささんと云うんだろ、実はあのひとと同じ名前の、しかも顔から姿迄そっくりの女を知って居るんでね、何かい、あの人は丸髷を結って居たが、人の細君なのかい、旦那は何をして居るんだい?――とさり気無く追及して参りますと、相手は聊か此方の熱心に不審を抱いたものか、一寸の間警戒の色を示しましたが、生来がお喋りなので有りましょう、ええそうよ、お察しの通りよ、何でも御亭主って云う人が破落戸ならずもの見たいな人で、小説書きなんですって、文士って駄目ね、浮気もんが多くって、貴方、文士だったら御免なさい、と答えました。私の疑惑は茲に確定的なものと成りました。一時は恟ッと致しましたが表面は益々落着いて、あんな綺麗な女の色男になるなんて果報者だな、其の果報者は何処の何奴だと空呆そらとぼけて訊きますと、相手は一層調子に乗って来て、それはそれは綺麗な美男子なのよ、まるで女見たいな。貴方、浅草の寿座ことぶきざに掛って居る芝居見た事ある? 其の人は一座の女形おやまなんですって、今夜もう今頃はお娯しみの最中よ、そりゃ仲が良くって、妾達ける位だわ、と野放図も無く喋り立てます。最後に私の確信にとどめを刺す心算つもりで、おふささんは何処に住んで居るんだい、まさか高円寺じゃあるまいね、と大きく呼吸をし乍ら質しますと、あら、やっぱし高円寺よ、屹度きっとおんなじ女じゃない? 何でも男の子が一人有るんですって、でも御亭主が御亭主だからおふささんも大っぴらで好きな事をして居るらしいのよ、と淡々然と答えたので有ります。酒精アルコールの切れた時の私の心臓は非常に刺戟に弱いのでありまして、男の子が一人あると聞いた瞬間はドクドクと物凄い速力で暫しの間鳴って居りました。何故私が是程の動揺を受けたのかと申しますと、それは妻の不貞の事実よりも、――それはそれとしてさして問題にす可き事柄ではありませんし、――其の時高円寺の襤褸家ぼろいえで口を開け高鼾で眠って居る妻の姿を想像すると同時に、今其の家で別のもう一人の妻を発見したと言う、彼の恐ろしい DOPPELGAENGERドッペルゲエンゲル の神秘を想起したからで有りました。閣下は、茲で二重体ドッペルゲエンゲルを持ち出した事に、わっはわっはと呵々大笑なさる事でしょう。乍然しかしながら、閣下よ、是は古今東西に屡々実例を見る動かし難い事実で有りまして、其の実例を挙げる者が何々教授何々博士と、――無学文盲の徒に非ずして、謂わば最高の科学的智能を備えた学者達で有ると云うのは、何たる皮肉で御座いましょう。詳しい事は独逸の Dr.WERNER(Die Reflexion ※(ダイエレシス付きU小文字)ber dem Geheimnis神秘の省察)(Die Untersuchung f※(ダイエレシス付きU小文字)r die Geistes Welt心霊界の探求)の二書に就いてお知り下さいまし。閣下は、此の陳情書を閣下の御屋敷の豪華な書斎の暖炉に向いつつ、半ば嘲笑を混え乍ら御読みの事でありましょう。そうして居られる閣下が、別の場所、例えば新橋しんばし何々家で盃を嘗め乍ら芸者と歓を共にして居るもう一人の自分が居るなどと想像する事は、余り気味の好い話では有りますまい。私自身とて斯くの如き事実には全く信を措かざる者であります。が、前陳のおふささんと房枝の問題を、どう解釈したらいいのでありましょう? 私は形式的に女と同衾どうきんし乍ら、果してそれが同名異人であるのか、房枝の早業か、将又はたまたドッペルゲエンゲルの怪奇に由来するものであるか、――確めねば気の済まぬ気持に迄達して了ったのであります。それには女の言葉に依ればおふささんは同じ家で密夫と逢曳あいびきの最中との事であるから、夜の白むのを待たず高円寺の自宅に取って返し、房枝の存在を確める事が一番近道で有ります。私は斯う決心すると、矢も楯も堪らず女の不審がるのも耳にせず起き上って着物を着換えました。乍然、閣下よ、何と言う不運で有りましょう、私は階段の降り口で、十五歳の折一度経験してそれ以来更に見なかった硬直発作を起し、仰向けざまに泡を吹いて顛落し、其の儘意識を失い、其の夜は肝心の疑惑を晴らす事が不可能に終ったのであります。

 如右みぎのごとき、奇妙な経験が動因と成って、閣下よ、私は疑惑十日の後、遂に妻房枝を殺害して了ったのであります。以下、錯雑した記憶を辿り辿り、其の経路を出来る丈正確に叙述した上貴重なる閣下の御判断を仰ぎ度いと存じます。
 さて、それからの私は、妻の日常生活――些細な外出先から其の一挙手一投足に至る迄、萬遺漏無き注視の眼を向ける事を怠りませんでした。問題の眼鏡に就いて確めた事は云う迄もありません。所が、如何なる解釈を施す可きか、其の眼鏡は私が嘗て無造作に投げ込んで置いた通り、壊れ箪笥の曳出に元通り蔵って在るのでした。あの夜の妻の行動に就いて問い質した所、彼女は無論夜半外出した事も無く、近所の家から依頼された縫物を終ると其の儘朝まで寝入って居たとの返事を、何の憶する所無く淡々述るので有りました。若し房枝があの夜のおふささんで有るならば、私の硬直発作を目撃した筈でありまして、左様だとすれば到底斯くの如き平静な答弁は為し得る筈が無く、尚更、房枝の水仕事にかさかさに成った両手を見るに及んで、ややともすれば私の疑惑は晴れかかるので有りました。此の醜い手が、あのなよなよした真白い指に変わり得る事は不可能と考えねばなりません。閣下は、奇妙な一夜の出来事を逐一妻に語り聞かせて率直に返事を聞き取り、疑いを晴らそうとしなかった私の不注意をなじられる事で有りましょう。然し、私は私で、何としてもだにの様にこびり付いた猜疑の心を払い切る事が出来ず、聊も此方の心を悟られない様注意を配り、其の油断を見済せてのっぴきならぬ確証を掴んだ上出来る丈の制裁を加えてやろうと深く企らむ所があったのであります。
 御推察通り、房枝の生活には何の変哲も見られませんでした。其処で私は第二段の予定行動として、当夜の敵娼あいかたの言を頼り、毎夜終演迄の三十分間を、――浅草の寿座の楽屋裏に身を潜める事に致しました。即ち、偶には妻の方から誘いに出張る事もあろうと推察し、逢曳の現行犯を捉える可く企らんだ訳であります。其の月の寿座には御承知のクリエータア・ダンデイ・フオリイズ・レヴュウ団が公演され、相当の観客を呼んで居りました。劇場正面に飾られた“CREATER DANDY FOLLIES”のネオンサインが浅草の人気を独占して居たかの様であります。房枝の情夫が女形であると言うのはまことに解せない話であります。何故ならば此のレヴュウ団は、ドラマとしてよりもスペクタクルとしての絢爛華麗な効果を狙った見世物ショウを上演する団体であって、美男俳優やギャッグ専門の喜劇役者を始めそれぞれ一流の歌姫や踊児などを多数専属せしめ、絶対に女形を必要とする様なレベルトアールは組まないからで有ります。其処で私は、女形と云うのをあの夜の女の思い違いであると断定し、大勢の男優達の中から、房枝の情夫と考えて最も可能性のある美男のジャズ・シンガア三村千代三みむらちよぞうを選び出しました。と云うのも、彼が最も柄の小さく平素一見して女形の如き服装をして居る点を考えたからであります。御承知の通り、寿座の楽屋口は隣接の曙館あけぼのかんの薄暗い塀に面して居りまして、はすかいに三好野みよしの暖簾のれんが向い合いに垂れて居ります。或る晩は泥酔者を粧い曙館の塀にうずくまったり、或る晩は向いの三好野に喰い度くも無い汁粉の椀などを前に置いて、絶えず楽屋に出入する女に注視の眼を見張ったり、――斯う云う無為の夜が三日許り続きまして、遂に最後の夜、二月末の生暖い早くも春の前兆を想わせる無風の一夜――人眼を憚りつつ楽屋口に現われた妻房枝の、換言すればおふささんのまごう無き姿を発見する事が出来たのであります。……

 其の夜は、暖かい、――寧ろ季節外れの暖さでありまして、外套は勿論毛製のシャツなどかなぐり捨て度くなる様な不自然な暑いとでも謂い度い気温が、浅草中の歓楽街を包み、些も風の動かない為に凝乎じっとして居ても汗が滲み出る位で、さりとて何時寒く成るとも限らぬ不気味な天候なので、思い切り薄着になる事も出来ず、平素に増した人波に群集はむんむん溜息を吐き乍ら、人※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)いきれの中をぞろぞろ歩いて居るのでありました。妻は、雷門方面から伏眼加減に曙館の正面を通り危うく衝突しそうになる行人を巧みに避け乍ら、あたかも役者の楽屋を訪問する事なぞ少なくとも初めてでは無い事を証明する様に馴れ切った態度で、それでも流石一寸四囲に気を配ってから、軽く声を掛けると、首を出した楽屋番とも顔馴染らしく、其の儘するすると戸の内部に姿を消して了ったのであります。平素の身汚なさをことごとく払い落し、服装から姿態から眼鏡迄、あの水々しい淫売宿のおふささんに成り済ませて……。楽屋口から差す灯を微かに半面に受けて、真白い横顔を薄暗の中に浮び上らせた女が、閣下よ、私の古臭い女房なのでありましょうか? 予期した事とは云い乍ら其の予期通りの現実が腹立たしく、憎悪と嫉妬の片鱗を覚え乍ら他方出来る丈苛酷な処置を施してやろうと、狂い上る感情を押え押えともすれば失われ勝ちの冷酷さを呼び起そうと、懸命に努力して居りました。それから約二十分の間、私は曙館の塀に身を潜めて妻と其の相手の現われるのを凝乎じっと待って居たのであります。はやる心を抑えようとすればする程、口腔は熱し二重廻しの両袖が興奮から蝶の羽根の如く微かに震動して居りました。乍然、閣下よ、それから二十分の後に現われた妻の情夫は、情夫と思われる人物は、――意外にも三村千代三ではありませんでした。寔に色の真白な女の如き優男ではありましたが、五尺三寸にも足らぬ小柄な華奢な肢体を真黒なモジリで包み襟元から鼻の辺迄薄色のショオルで隠し灰色の軽々しいソフト帽子を眼深に冠った、一見して旧派の女形然たる千代三とは似ても似つかぬ別人物ではありませんか? そして全身から陰気な幽霊の如き妖しい魅力を漂わせて居る所は、孰方どちらかと云えば明朗な美男である千代三の溌剌性とは全く異った雰囲気であります。閉館はね時の群集の為に、ややともすれば二人の姿を見失い勝ちでありましたが、却って其の足繁き人波が屈強の隠れ蓑と成りまして、肩を並べ伏眼加減に人眼を憚りつつ足早やに歩み去る二人の跡を、或る時は走り或る時は立ち止りなどして辛うじて尾行して行く事が出来ました。二人は曙館萬歳座まんざいざの前を通って寿司屋横丁を過ぎ、田原町たわらまちの電車停留場迄脇眼も振らずに歩んで参りましたが、其処に客待ちして居る自動車を呼び寄て素早やく其の内に姿を隠して了いました。勿論私は、飽く迄も尾行する決心だったので、間髪を容れず同じく自動車に乗り込みあの前の自動車くるまを追え、と運転手に命じたのであります。先の自動車は、相当の速力で菊屋橋を過ぎ車坂くるまざかに現れ更に前進して上野広小路うえのひろこうじの角を右にカーブして、本郷ほんごう方面に疾走して行きました。ははあ、天神下てんじんしたの待合だな、――と彼等の行先をひそかに想像して居りますと、意外や自動車は運転手自身期待しなかったものか、キュキュ……っと急停車の悲鳴を挙げて、湯島天神ゆしまてんじん石段下で停った様でありました。私も反対側の車道で停車を命じ、席の窓から容子を窺って居りますと、二人は四辺に人無きを幸いに手に手を取って一段一段緩然ゆっくりと其の石段を上って行くのであります。上の境内には待合や料理屋の如きものは在る筈はありません。さては暖かいので散歩と洒落しゃれるのか、と思いつつ、私も急ぎ車を捨てて二人が上り切った頃を見計って石段を駈け上って行きました。

 私が斯うして尾行して居る裡に、異常な快感の胸に迫るのを覚えた事を告白しなければなりません。他人の弱点を抑え雪隠詰せっちんづめに追い詰めると云う事は気味の宜しい事で、ことに自分の女房が美しい女に成り済まし男との、RENDEZ-VOUSランデブー の現場を取押える事は、淫虐的サディスティックな興奮さえ予想させたので有ります。妻と其の誰とも判らぬ男は、人無き境内の御堂の傍のベンチに腰を下して、其の背後の樹立に私の潜んで居る事も知らずに、堅く手を組み合わせ肩と肩をもたれ合わせた儘、暫しは動きませんでした。高台であるが為に二人のもつれ姿が、ぽっかりと夜空に泛び上り、其の空の下には十一時過ぎの街衢まちが眠た気なイリュミネエションに瞬いて居ります。余程の馴染なので有りましょうか。二人はかなり永い間沈黙を続けて居りましたが、閣下よ、最初に彼等の口から洩れた音と云うのが、何と、哀調綿々たる歔欷すすりなきでは有りませんか?
 凝然じっと黙って居た二人は、同じ様に肩を顫わせてしくしくとき始めたのであります……。
 浮気な悪戯いたずらと思って居た私にとって、此の事は甚だ意外でありました。はっと息を呑んで其の儘注視して居りますと、先ず泣きんだ男が、鼻を鳴らし乍ら、泣くのよそう、ね、泣くのよそうよ、と妻の背をさすりつつ優しくいたわり始めたのであります。泣いたって仕様が無い、ね、一緒に死んだ方がいいよ、と妻の顔を覗き込んで呟きますと、妻は此の哀愁かなしみをどうなとしてくれと云った様な、いっそ自暴やけ半分の乱調子で、いやいや、私は死なないわ、死なない、死なない、だって……だって一緒に逃げれば、死ななくても済むんですもの、と逆襲して行きました。男が其の儘返事に詰って黙って居りますと、私だって役者位やれます、ね、そうして、一緒にどっかへ、遠い所へ逃げて了いましょうよ、と重ねて泪混りに男を口説いて居る様子なのであります。そして二人が黙ると、次第に胸が苦しく成って来るものか再びさめざめと声を揃えて歔欷を始めるのでありました。そう言う言葉の抑揚が、泪を混えた其の雰囲気が、何か夢の中の悲哀の場面の如く感ぜられて、其の二人が悲しみの裡にも其の境遇を享楽して居ると云ったような、或る種の芝居がかった余裕が判乎はっきりと分るので、却って逆に私の方ははっと現実的に返ったのであります。畜生、巫山戯ふざけてやアがると、思わず心の裡で呟きました。そうして泪を流す事が彼等の睦事なのではないのでしょうか? 続けて語られた密語は最早や記憶には有りません。思わずッとなってスティックを握った儘、二人の前へ飛び出たのであります。……
 閣下は、私が其の女を最早や決定的に「妻」と認定して居る事を、若しや早計と批難なさるかも知れません。醜悪な妻が有りもしない衣裳を何処からか引き出して来、まだらな髪を真点まんまるな丸髷に結い亭主の留守を見済ませて、密夫と逢曳を遂げるなどと云う事は、或いは不可能な又は奇蹟かも知れません。が、私は付け難い判別にさ迷うよりは、其の焦燥を捨てていっそ妻と決定して了った方が楽だったのであります。不時の闖入者ちんにゅうしゃを見て二人は、はっと身を退けましたが、私はむらむらと湧き起る憎念の抑え難く、房枝っ、と叫び態、握って居たスティックを右手に振り上げ呆気にとられて茫然たる妻の真向眼がけて、力委せにっ叩いたのであります。男は、何事か、私の無法を口の中で詰り乍ら、無手で私の体に打つかって来ましたが、私の右手は殆んど機械の如き正確さで第二の打撃を相手に加える事に成功しました。ッと面を押えて退った時に、今度は妻の方が再びもぞもぞと起き上る気配なので、我を忘れて駈け寄るが早いか、体と云わず顔と云わず滅多矢鱈めったやたらに殴りつけました。寔にそれは忘我の陶酔境でありまして、右手が疲れると左手に持ち直し、息の根絶えよと許りスティックの粉々に折れ尽きる迄殴り続けたので有ります。最初の裡くねくねと体をうごめかして居た妻も、軈ては気力尽きてぐったり動かなくなったのを見済まして、私は悠然と落ちた帽子を拾い着崩れた着物の襟を合わせ、是でいいんだ、ふん、是でいいんだ、と呟き乍ら、一歩一歩念を押す気持で石段を下り、来懸る円タクを留めようと至極呑気な気持で待って居りました。

 おかしな陽気だと思って居りましたよ、旦那、やっぱり風が出て来ましたね、と云うハンドルを握った運転手の声に、それ迄ウツラウツラ居眠って居た私ははっと気付いて窓の外を眺めますと、何処を通っているのか郊外の新開地らしく看板の並んだ商店街の旗や幟がパタパタ風に翻って居りました。車が動き出すと同時に私は苦痛に近い疲労を覚え、割れる様な頭痛と絞られる様な吐気に攻め立てられ、到底眼を開けて居る事に堪えられず其の儘崩折れる様に席の上に居眠って居たのであります。そしてそう云う肉体的変調が、閣下よ、持前の肉体痙攣――あの発作の前兆だったのであります。むん、そうの様だね、と曖昧に答え又ウトウト始めますと、運転手はとても寒くなりました、旦那、風邪を惹きますよ、と注意を促して居る様でしたが、後は耳に入らず其儘車の震動に身を委せて居眠りを続けて了いました。どの位経ったか全く憶えが有りませんが、旦那、火事ですよ、火事です、旦那、……と云う声にはっと眼をさましました。其処は高円寺駅付近の商家道路で、乗って居る自動車は其の隅の方に停車して居るので、どうしたんだ、と訊きますと、もう是以上這入れません、済みませんが降りて下さい、と云うので、火事では大変だと思いあわてて道路に駈け降りますと、外は烈風に加うるに肉のりとられる様な寒さで、寝巻の上にどてらを羽織った男女が大勢道路の両側に立って居て、火事だ、火事だ、何処だ、行って見ろ、等と口々に叫び乍ら脛を丸出しにして駈け去って行く人達の後から、ウ――ウ――と癇高い警笛を鳴らしつつ数台の消防車が砂塵を立てて疾走して行くので有りました。私も茫乎ぼんやり立って大勢の人の向いて居る方を眺めますと、南の空に火の粉がボーボー舞い上って、立って居る所は風上で有りましたが、折柄の烈風で南へ南へと焔が次第に拡大して行く様子なのであります。地勢から見て、私の借家は其の頃鉋屑かんなくずの如く他愛無く燃え落ちた時分なのでありましょう。子供の顔が眼先にちらついたのは憶えて居りますが、それから後の事は全く追想する事が出来ません。私は、道端の人達の間に其の儘意識を失って倒れて了ったらしいので有ります。……

 何時だかまるで見当も付きませんが、翌日眼をさました所が、閣下よ、A警察署なのであります。刑事部屋へ呼び出されますと、黒い服を着た男が茫乎して居る私に姓名と住所を訊き糺した上、御気の毒だね、昨夜ゆんべの火事で、あんたの奥さんと御子さんが逃げ遅れて焼け死んで了ったよ、と悔みの言葉を吐くではありませんか? 昨夜人事不省に陥って居た私は、其の警察署で保護を受けて居たらしいので有ります。有難い事です、至極有難い事です、が、――警察は昨夜湯島天神境内で私が妻を殴打した事実を知らないのでありましょうか? 恐らくあれ位殴れば息は切れた事と思います。それなのに、如何なる錯覚を起してか、子供は兎も角妻迄が、あのおふささん迄が焼け死んだと云うのは? 可笑しいので思わずニヤニヤし乍ら、嘘ですよ、嘘ですよ、私に女房は二人ありませんからね、何かの間違いでしょう、と言いますと、相手は私の顔を不思議想に凝乎黙って瞶めて居りましたが、多分此の頃から私を狂人扱いにしたらしいのです、――君は哀しくはないのかい、君は? 念の為にもう一度訊くが、君は高円寺一丁目の文士青地大六あおちだいろくさんでしょ? ふん、ふん、そんなら焼死体は、君の家主の好意で三丁目の大塚おおつか外科病院に収容して有るから、早やく行って始末をして来給え、と殊勝らしく注告するのであります。私は益々可笑しくなりまして、刑事さん、私の女房は姦婦でして、昨夜或る所で男との密会最中を発見し、私が此の手で撲殺して来たのですよ、一応取調べて下さい、と云いますと、相手はぐっと乗り気に成って、一体それは何時頃か、と追及して参りました。私は大体の時間を割り出して、十一時過ぎだったと思いますよ、と答えますと、相手は一寸の間考えて居たが、急にいやァな苦笑いをし、変に憐愍の眼眸を向け、ふふふふ……何を云ってるんだ、君は、昨夜の火事は十一時頃から熾え出して十二時過ぎ迄消えなかったんだぜ、君はどうかしているよ、君は、同じ奥さんが二人居るなんて、そんな馬鹿な事があるもんかい、ささ、帰り給え、行って早く始末をせにゃいかんよ、と到頭私を署外へ追い出して了ったので有ります。
 其の後の事は、多分閣下もよく御存知の事と思います。即ち其の日の朝刊は、二つの小事件を全然別個のものとして全市に報じて居たのであります。私は後々の為に其の二つの記事をスクラップして置きましたが、次に貼付して閣下の御眼に供する事に致します。
 高円寺の大火――昭和八年二月二十三日午後十一時頃、高円寺一丁目に居住する文士青地大六(30歳)の外出中の借家より発火し火の手は折柄の烈風に猛威を揮って留守居たりし大六氏の内妻房枝(29歳)及び一子守(2歳)は無惨にも逃げ遅れて焼死を遂げた。乳呑子を抱えた房枝さんの半焼の悶死体が鎮火後発見せられ、当の青地氏は屍体収容先三丁目大塚病院にて突然の不幸に意識が顛倒したものか屍体を前にして頑強にそれが房枝さんで無い、人違いだと主張し、俺の女房は綺麗な着物を着た美人だと叫んで居るが、屍体は裾の摺り切れたよれよれの銘仙を着した儘発見せられた。目下原因を精密に調査中である。

 昨夜十一時頃浅草寿座出演中のダンデイ・フオリイズ・レヴュウ団専属女優美貌の踊児ダンサー島慶子(25歳)が本郷湯島天神境内にて突如暴漢に襲われた。顔面其他に数個の打撲傷を負い、其場に昏倒して居るのを暁方になって境内の茶屋業主人成田作蔵さんが発見し、驚いて交番に駈けつけたものである。其夜慶子嬢は何故か大島の対、黒羅紗のモヂリを着し男装をして居た。現場に日本髪用のかんざしピン、女下駄等が捨てられてある所より、痴情怨恨から犯人は女性ならんとの見込みもあるが、現場に数片に裂けたステッキの遺棄ある所より主犯は矢張り男で、其の杖で殴打したものであろう。慶子嬢は意識を取戻したが、此の暴行事件に就いては単に女の介在して居る事を肯定せるのみで何故か其他の事情に就いては、口を緘して語らぬ。茫然自失、恐怖の表情を顔に表わし多く語るを避けて居る。因に同嬢は男装癖のある変態性欲者で異性には皆目興味を持たぬと謂われて居る。不気味な事件で、裏面に男女の情痴をめぐる複雑な事情が潜んで居るらしい。云々。
 閣下よ、――閣下は此の二つのスクラップから不可解な謎をお感じになりませんか? 即ち、此の世に同一人物である私の妻房枝が同時に二人存在して居たと云う結論に到達しなければならないので有ります。が、果して此んな不自然に近い奇蹟が有り得るで御座いましょうか? 迷いに迷った挙句、私はハタと次の如き過去の妻に関する一小事件を追想して、哀しくも私の結論は決定的と成ったのであります。――それは、焼死した守が一歳の頃でありました。梅雨のシトシト落ちる鬱陶しい一夜、妻と家計の遣り繰りに就いて相談して居りますと、隣室に臥て居た守が空腹の為か突然眼を覚し癇高い泣き声を立てて母を呼び始めました。私は向い合った妻に乳をやれと合図をしますと、妻も肯いて立ち上ったのでありますが、其の立ち上った瞬間、隣室の子供が不図泣きんだのであります。乳房をふくませてやらなければ絶対に泣き歇まぬ守が、其の場合急に静かになったので、何気無く好奇心を覚えて境目の襖を二尺程開き寝床を覗いたのであります。すると、閣下よ、其の部屋には既に妻が居て長々と寝そべり乍ら私に背を向けて守に乳を与えて居るではありませんか? 即ち傍らに立ち上った妻ともう一人隣室の妻とを、瞬時ではありましたが同時に目撃した訳であります。おや、変だぞ、と気付いた時には、既にもう一人の妻は消えて、消えたと同時に守は再び火のつく如く泣き立てたのであります。私以外に、無心の守迄がもう一人の母を見たに相違ありません。妻も自分の分身を発見した筈で有りまして、額に幾条かの冷汗を垂らし乍ら急いで守に乳房を啣ませる動作に移って了いましたので、其の事件は其の儘私の幻覚として忘れ去って了いました。妻の真蒼に成った顔色を今でも思い浮べる事が出来ます。閣下よ、妻は正しく不思議な病気、――若しそれが病気と呼び得るならば、――ドッペルゲエンゲルの重篤患者に相違ありません。嗚呼、閣下は又しても私を嘲笑して居られますね。小説家である私が別個の新聞記事を土台として、以上の如き実話風な物語を創り出したのであろうと? 私は真剣であります。其の為私の神経組織は病的な程、feebleフィブル に成って居ります。斯う云う私を嘲笑なさる事は一種の不徳で有り侮辱で有り、私は閣下に決闘を申し込まねばなりません。
 偖、閣下よ、以上で私の陳情の目的が何であるか御判りになった事と存じます。よしんばそれが二人の妻の片方で有ろうとも、私の殺人罪には変わりは御座いません。即刻私を召喚して下さい、其の用意は出来て居ります。狂人の名を付せられる位ならば、寧ろ私は死刑を選びます。妻の同性愛の相手島慶子と云う踊児をも、もっと厳重に訊問したならば、或いは此の事件は解決を見るかも知れません。慶子は己が所業に恐怖を感じて居た由では有りませぬか? 如何な秘密を、彼女は持っているのでありましょう? 殴打後私が立ち去ってから妻の屍体が紛失する迄の、慶子の行為こそ問題ではありませんか? 或いは今だに房枝は生きて居て、何処かに隠匿されて居るのかも知れません。それには茶屋業主人成田作蔵と云う男が共謀して居るかも知れぬではありませんか? 以来半歳――あの事件はあの儘埋没して了いました。私は閣下の怠慢を責めねばなりません。私の抗議プロテストが、全然出鱈目であるか或いは宇宙に於ける一片の真実であるか、厳密に究明すれば私自身にすら判りません。只私は微塵の作為も無く以上を綴った事を、断言する事が出来るのみであります。最後に、――私を飽く迄も妄想性精神病患者とお考えならば、何卒精神鑑定を施して下さる事をお願い致します。出頭の用意は既に出来て居ります。
 さようなら、閣下よ、閣下の繁栄を祈り居ります。
東京市杉並区高円寺五丁目
青地大六拝
M警視総監閣下
(一九三四年七月号)





底本:「幻の探偵雑誌1 「ぷろふいる」傑作選」光文社文庫、光文社
   2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」ぷろふいる社
   1934(昭和9)年7月号
入力:網迫、土屋隆
校正:川山隆
2006年7月27日作成
2016年2月20日修正
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