私が或る特殊な縁故を
樹庵次郎蔵、――無論仮名ではあるが、現在この名前を覚えている者は
幼少時代から身寄り頼りのない生来の漂泊者樹庵は、その青年時代の大半をフランスで送った。皿洗い、コック、自動車運転の助手、職工、人夫、艶歌師、
かくて樹庵次郎蔵は、約一年間、フランシス・カルコばりの憂愁とチャアリイ・チャップリンばりの
私が訪れた夜は
三十分の後、樹庵と私とは往来は雑踏ではあったが比較的太鼓の音の響いて来ない、或る支那料理屋のがたがたテエブルに向い合った。彼の最も愛好する安酒が彼の五官に浸透するに

「――そんなにききたいならはなしてもいい。題して『放浪作家の冒険』てんだ。名前は勇ましいがなかみはナンセンスだ。さあ、お御酒がまわったから一気にしゃべるぞ!」
と云うわけで、以下はとりもなおさずその再録である。
但し、文中の地名は、或る必要から曖昧にした。
そう、あの晩はばかにむしゃくしゃした晩だった。もっとも、おれのようになんのあてもなく自堕落な生活をおくっているものに、むしゃくしゃしない日なんかありようがないが、あの晩はとくべつ、淋しく腹立たしい、いやな晩だった。でなければもはや、どんな空想の余地すらも、残っていないあんなところへ、だれがゆくものか。そのころおれは、Q街の陶物屋のあたまのつかえそうな屋根裏に寝起をしていたが、窓からそとをのぞいてみると、VホテルやN寺院やE門やの壮麗な建物の屋根々々や尖塔に、寒月が水晶のようにかたァく凍りついて、雲の断片さえもみえぬたかい夜空が白日のように皎々とかがやき、まるでね、陽気が日本の冬のように、音をたてずに肌をとおす底びえのする寒さだった。寒いとおれはきまって腹立たしくなるうえに、じつはめずらしくはいった詩の原稿料で、近所のカフェにはたらいている Lulu という女をつれだし、ひさしぶりでどこかのホテルでブルジョア気分でも味おうと思っていったのだが、リュリュのやつ、もみあげのながい赤いワイシャツをきた絵かきふうの、ロシヤ人らしい青二才とひっついていて、おれのほうはみむきもしないのだ。
どこのどんな文明国にも表があれば裏のあるのはあたりまえのはなしだ。そこはまあ、仮にX街の裏通りとよんでおくが、東京でいえば川向うの世界のようなところで、ひととおりは
着いたらすでに夜もおそく、どうしたわけかばかに不景気だ。なにしろ、めずらしい寒さではあるし、もうそんな遊び場に夢をもつような男はいなくなったのだろう、いっときのようにひやかしもながれていず、お茶っぴきがあっちの窓こっちの戸口にうろうろしていて、
そういう女たちを尻目にかけ、それとなく左右に眼をくばりながらあるいてゆくおれの足が、こつんとそれきり、ある小さな飲み屋ふうの家の戸口のところでとまってしまった。その家のまえにたってじっとおれの近づくのをまっている女が、なんと日本娘じゃないか。毛皮ではあったが、もはやところどころの抜けおちたみすぼらしい黒外套に、ふちのみじかい真赤な
「今夜はばかに不景気だな」
すると女は、にこりともせず、ただかさねていた脚をはずしすっくとたちなおるようにして、声だけはつくり声のいくぶんか訴えるような、かなしげな、そのくせ態度は淫売婦どくとくのふてぶてしい人をくった冷淡さをみせて、ささやくような日本語で応じた。
「あら、あんた日本人なのね。うれしいわ」
こうはいうものの少しもうれしそうではないのだ。
「――今夜はこんなに不景気だし、いつまでここにこうしてもいられないから、ね、おねがいするわ、ね」
「まえから、ここにいたのか」
「いいえ、ついさいきん」
「それまでどこにいた」
「ある絵かきさんのモデルをしてたんだけど、いろんなことがあってね、いまじゃこんなところではたらくようになったの」
女はさらに近より真白な両手をだしておれの右手をぎゅっとにぎりひきよせようとした。
「――ね、そんなことどうだっていいじゃないの。こうしてるとこをみつけられると
声も耳ざわりのいい東京弁だが、それにもましてすっくとたった姿かたちが、胸のふくらみからゆたかな腰の線へかけてくりくりしまった素敵な肉づきなのだ。ほのくらい色電気のながれた異国の暗黒街に、どういう過去をもつかしらぬが、ひとりの日本の淫売婦がたっている、むろん正常じゃないが、婬惨な、ダダ的な情欲がながれて、おれの脳神経をあまずっぱく刺戟した。女はおれの甘チャンぶりをはやくも洞察したのであろう。くるりと背中をむけると、相変らずその眼は不愛想でニヒリスティックではあったが、くいいるようなながしめをあたえつつ、小猫のように音もなくさきにたってあるきだした。おれがそのままずるずると女のあとにしたがったのはいうまでもない。しばらくはおれと女の靴音が虚無にひびいた。月は表通りの屋根にかくれ、ただたちならぶ娼家の不安気な色電気が路地から路地へさしこんでいるのみで、さきへゆく女のすがたが闇のなかにきえるかと思えばまたふうわりと浮びでて、みえつかくれつ、さいごにとある路地のあいだに吸われるようにかくれた。
上ってだいいちにおどろいたことは、その娼家が、やすぶしんではあるがとほうもなくひろいということだ。路地からみかけたところでは階下も二階も二間かせいぜい三間ぐらいだろうと思われたが、うすくらいなかにリノリュウムばりの廊下がにぶく光りながら前方にながくつづいていて、つきあたってなお右左にわかれている。その廊下の両側が女たちの居部屋であるらしく、時折、男のしわぶきやひそひそばなしが陰々としてきこえてくるところをみると、今がラッシュ・アワアであるらしい。このアパアトメントふうの家を女について二三間ゆくと、右手に階段があって、それをのぼりきると
部屋へはいると女は、さっきの水のようなつめたい態度とはうってかわって、わびしい異郷にあっておなじ日本人にであったというよろこびを誇張して、さもさもなつかしくてたまらぬといったあんばいで必要以上に濃厚なしなをしてまといついてくる。
「うれしいわ、うれしいわ、うれしいわ」
などといいながら部屋のまんなかで、首にだきついてぐるぐるまわったりするので、すくなからずおれは面喰った。
じいっと耳をすますと隣室やほうぼうの部屋々々の壁をとおして、えへんえへんとのどをきる音やぼそぼそいう会話がきこえてくる。のんきな人間にゃきこえないのだろうが、おれの聴覚はドビュッスイのように鋭敏だ。戸外が死のようにしずまりかえって、家がひろすぎたりして、なにかこうおっかない事件がおこりそうな、場所が場所だけにひどくぶきみな思いをした。
おれの体があまり健康でないということは説明するまでもないだろう。ひるよる逆のまるで
腹がさっぱりするまでかなりながい時間がかかった。さて部屋にかえろうと廊下をもどってゆくうちに、さっきまがった角がわからなくなってしまった。とにかくかんで、さいしょの階段ににかよったところまででたが、なにぶんひろい家なので、ここだと確信はできない。酔いがさめたためにかえって勝手のわからなくなることはよくある。まごまごすればよけいまよいこんでしまいそうなので、なんとかなるだろうという気で、眼のまえの階段をあがっていった。廊下をはさんでおなじような部屋がふたつ、むかいあってならんでいる。たしか左の部屋だったと、無造作にあけようとした瞬間、その部屋のなかから、
さあ、これからがはなしだ。
まさにあけようとしたおれの手ははっと息をころすと同時に、ドアのノブにひっついたまま動かなくなってしまった。なにか殺伐な事件がなかでおこりつつあるに相違ないと直感したのだ。もどろうか、そのまま様子をうかがっていようかと、ちょっとのま思案したが、そうこうしているうちにも苦悶の吐息は遠慮会釈もなく、おしつぶされたようにひびいてくる。おれの眼はほとんど本能的にドアの隙間に吸いついた。たてつけのわるい
なかは一瞥して自分の部屋でないことがわかった。というのは、そこは畳数にしていえば十二畳余のひろさで、つきあたりの壁まで約四間はあり、視野が隙間に応じて底辺三尺くらいの三角形にくりぬかれ、正面の壁際にベッドのなかばがみえ、そのうえで縄でしばられた女の真白な下半身が陸にあげられた魚のようにぴょんぴょんとびはねている。しかも、おれののぞいている鼻のさきにはひとりの黒服をきた男が、女の奇妙なありさまをじいっとみつめているらしく、二本の足が脚立のようにつったったまま微動だにしない。いったいなにごとがおこっているのだろうと、もちまえの好奇心が湧然とむらがりおこり、そっと体をずらせてななめに顔をおっつけ、女の顔をみるために必死の横目をつかったもんだ。ところがどうだ、そのベッドのうえでは殺人がおこなわれているではないか。
加害者は台上に膝をついて女の首にズボンのバンドをまき、ぐいぐいしめつけているので、確実な身長はわからなかったが、奇型といいたいほどの極端な小男で、しかも兇悪無惨な、おれはあんな人相のわるい男をみたことがない。ドストエフスキイの「死の家の記録」にでてくる兇暴無類の囚人ガアジンという男もかくやと思われるようなやつで、生得の殺人者とはああいう男のことをいうのだろう。眼がぎょろりとしていて、樽柿のようなししっぱなで、唇はあつく前方につんでていて、眉と生え際がつづいていると思われるほど額がせまく、しかも刑務所からでてきたばかりなのか、まだのびきらぬ頭髪を日本の職人のように角苅りにしていて、まことに不調和なことに、柄にもなく衣裳だけはりっぱな、ふとい棒縞のパジャマをまとうている。満面を
その女こそさっき迄おれの部屋にいたあいかたじゃないか。いったいこの部屋でなにがおこなわれているというのだ。むろん人殺しだ。眼のまえの脚立のようにつったっている男はだれだろう。どういう料簡で人を殺害させ、それを身動きもせず見物しているのだろう。そういえば部屋の模様もなんとなくへんだ。妙に古めかしい壁かけがさがっていたり、王朝ふうの蒼味をおびた椅子や花瓶がおいてあったりして、――などと、ばくぜんとこんなことを考えているうちに、自分がいま、いかにけんのんな状態にいるかに気がついた。こうしちゃあおられぬ。まごまごしているととんでもないとばっちりをくわねばならぬ。ながいは無用と腰をあげたとたん、部屋のすみからとつぜん男の陰気なバスがこういった。
「そうだ、もっとしめろ、もっともっと」
室内にはもうひとりの別人物がいたのだ。と同時に、それまでからくもささえられていたななめのドアが、身動きのために、かすかではあったが、――ことん……と音をたてて、五分以上もただしい位置にあいてしまった。しまったとばかり、ぴたりと息をころすと、それまでまばゆいくらいに煌々とかがやいていた電燈が、――ぱちいん……という暗示的なスウィッチの音とともに、まっくらになった。とりもなおさず、やつらはおれの隙見にかんづいたのだ。さあこまった、一刻もゆうよはしていられぬ。たんなる隙見だけでも、こういう家の風習として極端にいやがり、半ごろしにするくらいだから、おそるべき秘密をしられたやつらは、うむをいわせずおれの首にも魔手をのばしてくるに相違ない。よオし、くるならこいという身がまえで、しかし多分にびくつきながら、眼のまえのドアのひらかれるのを今か今かとまった。
だが、この家でこれ以上のさわぎをおこすことはやつらにとって不利だとでも思ったのか、しいんとしずまりかえって身動きのけはいすらきこえない。やつらも息をこらしているのだ。もはや天国にたびたったのか女のうめきもきえていた。にげればにげられるぞとかんづいたので、蟻ほどの音もたてぬよう全身をよつんばいに凝固させたまま、一進ごとに念をいれて廊下をはえずり、右手の部屋のドアをあけた。そこがおれの部屋だったのだ。気をつけてみると前後に階段があるので、右左が逆になっていたというわけなのだ。大急ぎでみじたくをととのえ、最初の階段をおりて出口へで、ネクタイもむすばずに戸外へとびでた。夜半はいまその高潮にたっしたのであろう、相変らず青水晶のような透明な月が魔窟のてっぺんにのぼって、きた時くらかった路地々々やはげおちた屋根々々をひるまのようにさえざえとてらしている。ああ、この妖街の一隅で、おれのあいかたがころされた、ころされるところをみてしまった、とこう思うと、ばかばかしいことだがぞオっとして、路地を足ばやにかけぬけ、こきざみに表の商店街のほうへはしっていった。
ところがどうしたことだろう、あながちにさっきの殺人事件と関係があるとは思えないのだが、客待ちのタクシーが一台もみあたらぬ。こうなったらあるいてかえるより道がない。あるいてかえったとて、おれの下宿まで二時間ばかりだからたかがしれているし、それに夜道はなれている。おれは頭のなかで、克明に道順をかんがえつつ、ねしずまった深夜の
まず、なぜあのじごくがあの家でころされなければならないかという理由だ。不愛想で、陰気で、みようによってはなんとなく秘密ありげな女だったが、ふっと、ああいう特殊な社会の脱走者にたいする刑罰が、いかに苛酷をきわめたものであるかに思いあたった。なるほどあの女は、他国にいて、ああいう社会には適さぬ、いかにも脱走すらしかねまじい反逆的な女だ。柔順につとめあげるためには、やけならやけなりに、もっとほがらかでなくてはいけない。脱走がぜったいといってもいいほど不可能なあの社会で、こっちから手をくだしてあやめるというのは損得からいっていかにもあわないはなしだが、同業の女たちへのみせしめから、さきざきあまりかせげそうもない女をことさらねむらせてしまうというはなしはきいたことがある。
現場に、加害者のほかにふたりの男がいて、なにやら指図をしていたという点からも、こうかんがえられないことはない。たぶん、抱主か土地ゴロに相違あるまい。ああ、とんでもない女にかかわってしまったもんだと、すくなからず腐りつつ夜の街をあるいていった。
やがて、みおぼえのあるS河にかかるM橋のたもとに、やっとたどりつくことができた。ここまでくればもうだいじょぶだと、おれの足はいっそうはずんできた。
夜半の洋々たるS河のながめは思ったよりよかった。鏡のようにすみわたった大空にはいつあらわれたのか丘のような白雲がのろのろとながれ、左岸にそびえる


ない、ないんだ、おれの万年ペンが。
おれはとんでもないしくじりをしでかしてしまった。というのは、ひと月ほどまえクリスチャンである友人の結婚記念に贈呈をうけたイニシアルJ・Jときざまれた総銀製大型の万年ペンを、問題の家におきわすれてきたことをその時はじめて気がついた。いや、おきわすれたのじゃない、それまでどこへゆくにもその万年ペンだけはしょっちゅうもちあるいていたのだが、部屋へおしこまれた時、くれくれとせがまれるのも煩さいと思ったから、相手の気づかぬうちにすばやくべつのポケットにうつしたつもりだったのが、そのぶきような動作がかえって女の注意をひいたらしく、よほどの貴重品と思いこんで故意にまといついたりして、そっとすりとってしまったのだ。場所が場所だけに、神聖な友人夫婦を冒涜したような気がし、こころからすまなく思われ、女にせんをこされたまぬけさ加減に身ぶるいするほど腹がたった。ざまあみろ、そういう手癖のわるいやつは殺されるのがあたりまえだと、はるかM橋の欄干からX街の屍体をむちうったが、こうなると、万年ペンから足がついておれが「その夜の男」にならぬともかぎらぬ。するともう、いてもたってもいられぬ気持で、足ばやに橋をわたり、もはやのんきに夜道をうろついている気分じゃない、タクシーはないかと前後をみすかすがまず絶望だ。あるけあるけと必死にあるいてゆくうちに、道がつきあたってふたまたにわかれ、右手に Postes & T

「おい……おい、ちょいとまちな」
おれはできるだけおだやかに答えた。
「なにか用か」
「…………」
「…………」
「――みたか」
男はやがて、おしつぶしたような、かさけのある
「みた」
おれがこう答えるのと、男の体がはやてのように体あたりにとびかかってくるのとが、ほとんど同時だった。おれは、まぶたの危険にとずるがごとく、ひらりと体をかわした。と、どすうん、というものすごい音とともに男ははずみをくらって、それまでおれがうしろだてにしていた工事場の材木に骨もくだけよとばかり、空をきって激突した。ふたりは瞬時にしてふたたび二間の距離をおいて相対した。男はいまの空撃でよほどまいったのであろう、とがった口から血をぽたりぽたりとたらしつつ真白な息をはき、胸が波のようにふくれたりちぢんだりしている。あたりは依然として死のような静寂、――十秒ばかりの沈黙があった。
おれの右手三尺のところに腐ったまるたんぼうがおちている。おれとしてはふたたびきりこんでくるであろう相手の切れものを、なんとかしてはらいおとさねばならぬ。はらえないまでもせめて相手の体の一部分でもうちこまねばならぬ。身をかがめてその棒きれをひろいあげる隙にやつはけもののように突進してくるに相違ないのだが、このままではよほど相手がうぶでなければいっそう敵しがたい。そのうちにもじりじりとせまってくる。もはや一刻のゆうよもない。おれはいちかばちかの
「かん……かんべん……だ、だんな、かんべん……」
よほどくるしい吐息のしたからきれぎれにこう哀願するやつを、俵でもかつぐようにもちあげて、
「勝手にゆけっ」
と、前方へつきとばした。男は二三度こけつまろびつ、あたかもはなたれた兎のごとくまたたくまに暗闇のなかへ吸いこまれた。
それから急遽表通りへで、Q街の屋根裏にかえったのはもはや夜明けにちかく、ほのぼのと白まってゆく空にそろそろ花の都パリがうごきだしていた。途中二度ばかり密行の不審訊問にあったが、どうしてもその夜の事件にふれることができなかったというのは、おれ自身のシチュエエションが非常にきわどいので、へたに口をわればとんだ災難にあわぬともかからぬと思ったからだ。
さて、その翌日から、おれの新聞をみる眼が局限されてきた。「X娼家街売笑婦殺人事件」という大見出しが社会面のトップにとびでるのではないかと、まいにちの配達がまちどおしいくらいひそかに気づかっていたのだが、どうしたわけか一向に表ざたにならぬ。あんなどじな、しろうとのおれにすら隙見されるような仕事なのだから屍体の始末などもふてぎわで、おそらく発覚されなければフランスの警察制度のこけんにかかわるというわけだが、そうこうして、なんの発展もみずに半月ばかり日がたってしまった。するうちにこんな考えがうかんだ。つまり、ああいう場所のああいう殺人事件は、手口が大っぴらであまりにだいたんであるがゆえにかえって人目にふれず、暗々裡にかずをかさねているのではないか、あるいはまた、当局はすでにかぎつけていて、記事さしとめをめいじているのではないか、という疑いだ。ところが自分がよわみをもっているだけ、どうもあとの場合のほうが可能性がありそうに思われ、いまごろはあそびにんや田舎もんに変装した何十人という刑事が、四ほう八ぽうに暗躍しているのではないかと思うと、じつにむじゅんしたはなしだが、自分が真犯人のような錯覚をおこして、きょうはのがれたがあしたは捕まるといったふうに、一種の強迫観念にせめられるじゃないか。この気持はおれとおなじい状態におかれたものでないとわからぬかもしれぬ。なあに、でるとこへでて逐一事実を陳述すればそうむちゃな結果になるとは思えぬ、とみずからなぐさめるのだが、どっこい、この世のなかにはいろいろな逆がおこなわれている、悪党が善人づらで通用するし、けちな野郎が大きなつらのできる世のなかだ、
その日はおれがめずらしくはやおきをして、といってもかれこれひるちかかったが、朝昼けんたいのめしをくっている時だった、みしりみしりと階段の音がして留守番のばあやが、
「ムッシュウ・じゅあん、お客さんですよ」
といい、よちよち一枚の名刺を眼のまえにさしだした。みるとQ署の刑事だ。きたなっ、と思ったとたん、虚脱された、晩秋のわびしい光をかんじ、いま胃袋におさまったばかりのやす油であげた豚肉のおくびが、すっぱい水といっしょにぐうっとのどもとへ逆もどりをしやあがった。くどくもいうとおり、この浮世はどんな逆でもおこなわれるところだ。ずらかれるだけずらかれ、――こいつはよたもののスロオガンだが、こう決心すると、すばやく寝巻をきかえて、トトトッと裏手のテラスへでた。ところが、哀しい曇影のよどんだ貧乏長屋のたてこむせまい路地々々のそれぞれのぬけ道のまえには、べつの刑事がつったっていて逃げ口をふさいでいる。もうこうなればどうってことはない。ゆうゆうと座にもどってくいかけのパンをむしゃくしゃほおばりはじめた。ところへ山高帽をかぶった黒服のでっぷりふとった男が、官服の巡査ともども、たいへん紳士的な、ものやわらかな物腰ではいってきて、巡査にみはらせておいて自分はなにをするかと思ったら、部屋じゅうの押入れをひっかきまわし、売っても値にならないために詮方なく鼠のかじるのにまかせっぱなしのわずかばかりのおれの蔵書を、てあたりしだいにひんめくった挙句
「ほかにもう隠し場所はありませんかね」
ときた。ないと答えると、まだ疑わしそうな顔をしていたが、
「食事を終えたら、ではそろそろ、でてくれたまえ」
といい、ポケットからふとい葉巻をつまみだしてぷいと口をかみきると、隅のがたがたベッドにずしんと腰をおろして、紫のけむりをはきながら、にやにやわらっている。こうしておれは至極順調に、Q署の留置場にほうりこまれてしまった。
留置場で、ごろつきや窃盗やよっぱらいといっしょに、取調べはまだかまだかといらいらしながらまっていると、官服私服の刑事や巡査がいれかわりたちかわり首をだして、
「じゅあん、君のロマンはおもしろいぞ。くだらんものはかくのをやめにして、ひとつ本格的にいったらどうですかね」
と、人をばかにしたようなことをいうのだ。こっちとしたらはやく本格的に取調べてもらいたいところだが、なかなか順番がまわってこない。そのままぽかあんとしてまたされたっきり、いったいどうなることかとひやひやしながら小半時もまっているとね、とつぜん、いきおいよくドアがあいて、官服のあからがおをしたえらそうな人がはいってきた。
「やあ、失敬々々、ムッシュウ・じゅあん」
かれは意外にもてれくさそうな、すまないといった顔つきでいうのだ「――人ちがいでしたよ。真犯人がつかまったのだ。とんだ迷惑をおかけした。だが、君もわるいんだぜ。これからはせいぜい、疑われんようにするんだな。さあさあ、かえってもいいですよ、大威張りでね」
――こういうわけで、おれが無事に放免されたというのは、客観的にみて、あたりまえのはなしなんだが、なにしろ狐につままれたようなあんばいで署の廊下をつたってゆくと、こんどはもうすこしなまなましい光景に直面してしまった。というのは、前方におおぜいの人たちがたちどまって、よほどのもてあましものなのだろう、うぉううぉうと虎のようにわめきながらあばれ放題あばれくるっているひとりの男を七八人の巡査がよってたかっておさえつけている、それらの一団をせんとうにうしろからじゅずつなぎで、髪をぺったりわけたジョオジ・ラフトのような伊達者やアルベエル・プレエジャンばりのよっぱらいやアネスト・タレンスのような暴漢が、つまりあの夜の共犯者なのであろう、この三人がこっちにむかっておしこまれてくる。すれちがいざま、せんとうのあばれ坊主をみた時、そいつが例の角苅りの、くらやみでおれとわたりあった「真犯人」なのだ。やつらがおれとおなじ管轄の署内で再会したのも思わぬ偶然だった。やつらにもとうとう年貢のおさめどきがきたのだ、とおれはなるべくふれないようにすばやくはしりぬけて、
翌日と翌々日の新聞は、それぞれふたつのちがった結末を報じておれをおどろかせた。というのは、翌日の朝刊は下段にちっぽけな活字で、これらの逮捕された一団が暗黒街にねじろをもつ大規模なある種の、いかがわしい書籍出版の結社であるとつげているのみで、おれはしばしあっけにとられた。
「なんだばかばかしい、殺人じゃなかったのか」
と思わずつぶやき、あの一夜の場景が殺人にしてはいかにも不自然だというふしぶしをまとめてみた。だいいち殺人にしてはあまりに不用意だ。脱走者に処罰をくわえるのだったら、なにも客のいる時をえらぶ手はない。室内の電気がやけに煌々とかがやいていたことや蒼古なかざりのほどこしてあったのも、写真撮影がほんらいの目的であったと思えばうなずけるし、はたして万年ペンから足がついたのかどうかわからぬが、おれがひっぱられたというのも平常から素行が不良で、おれが日本のポオル・ド・コックだと疑われたわけだ。刑事が蔵書をひっくりかえしたり、本格的なものをかけとからかったのも、あとで考えればうなずける。事実この Pornographie は、“Biblioth


結末として写真に思わぬ凄味が烈々として、もりあがっているのはぶきみだが、殺人のいままさにおこなわれつつあるれっきとした証拠物など、ちょっとめずらしいものだと思ってみた。いま考えると、おれもあぶないところで命びろいをしたわけだが、いい退屈しのぎにはなった。もういちどこういう目にもあってみたいと思うが、健全な日本ではとうていおこりっこはないから、つまらぬ、つまらぬ。
こう語り
(一九三六年十二月)