私の社交ダンス

久米正雄




 確かジムバリストの演奏会が在つた日の事だつたと思ふ。午後四時頃、それが済んで、帝劇を出た時は、まだ白くぼやけたやうな日が、快い柔かな光で、おほりの松の上にかゝつてゐた。
 音楽の技巧的鑑賞には盲目めくらだが、何となしに酔はされた感激から、急にまだ日の暮れぬ街路へ放たれた心持は、鳥渡ちよつと持つて行きどころがない感じだつた。「さて、どうしようか。」と、僕たち二三人は行きどころに迷つてゐた。そして、の興奮を抱いて、ムザ/\つまらない所へ行くのは、何だか惜しい気がするが、結局銀座でもぶら/\歩いて、時を消すほかないと思つてゐた。
 と、後から、追ひ越して来た松山君が、
「どうです。そんなら僕らのダンス場へ行つてみませんか」と誘つて呉れた。
 ジムバリストからダンスへ。何だか少しジムバリストの後味ナハシユマツクに対して済まないやうにも感じたが、生まれてまだ一度もダンス場なるものを見た事がないので、かう云ふ機会をはづしては、又わざ/\の為めに出かけでもしない限り、ダンス場なるものに近づけないと思つて、直ぐいてく事にした。音楽会からダンス場へ。――それは又所謂いはゆるかの「文化生活」とやらに誂へ向きな話だ。
「文化生活」と云ふものも、あじはつて置いて損はない。そんな一種皮肉な気持もあつて、例の微苦笑を湛へながら、兎も角も其の当時在つた江木えぎの楼上へ行つて見た。
 其処そこには其の頃研究座に出る女優さんが、二人来て居た。二人とも髪を短く切つて、洋服を着てゐたが、それが反感を持てぬくらゐ、よく似合つてゐた。私は急に何だか異つた世界へ、誘ひ込まれた小胆せうたんさで、隅の方で小さくなつて見物してゐた。
 やがて蓄音器をかけて、松山君と其の人たちが踊り始めた。其の踊りの第一印象は、「何だ、こんなものなら、俺にだつて直ぐ出来さうだ。」と云ふやうな心持こゝろもちだつた。音楽にあはして、歩いてゐれやあそれでいゝんぢやないか。と、そんな風に造作もなく思つた。それが病みつきのもとで、又間違ひの本だつた。――全く社交ダンス程、り易くて、達し難きものはない。がりいゝ事だけは確かだ。そして別にさううまくならなくても、みづから楽しみ得さへすれば、社交ダンスの目的は終るのだから、それだけでもいゝのだ。
 兎に角、私はかうして見て居る間に、直ぐ踊りたくなつたのは事実だつた。が、それと同時に、何だか気恥しいやうな、何ものにか済まないやうな気も起らないではなかつた。そして、それはやゝもすると、坊間ばうかんの「ブルヂヨアに対する反感」に似たものへ、迎合されさうな気さへした。
 一時間ほど居て、僕たちは其処を出た。
「どうだい。ダンスは?」僕は一緒に大人しく見てゐた、O君とS君とに云つてみた。
「うむ。新時代の女性も悪くないが、あゝいふのゝ仲間入りは少々恐入るね。僕には到底エトランゼエだ」
「ダンスなんて一種のぐわんみたいなもんぢやないですか。僕にはとても正視する事が出来ない位ゐですね。」
 O君とS君とは、そんなやうな事を口々に云つた。
「君たちは揃ひも揃つて天保時代だね。一概にさう反感をもつて、あゝ云ふ世界を頭から拒絶してしまふのは、むしろあゝ云ふものに敗ける事だよ。その点では僕はもつと勇敢だ。僕はこれからダンスを始めるよ。」
 それから半月ほど経つてからだつた。当時、家に居ると来客や雑用で、どうも原稿の書けなかつた私は、よく東京近郊の宿屋へ出かけて、其処で月々の仕事を片付ける事にした。そして其の一つの常用地として、長谷川時雨しぐれさんの妹さんがやつてゐる、鶴見つるみ花香苑はなかゑんがあつた。確か六月の事だつたが、いつもの通り其処へ出かけて行つてみると、生憎あいにく部屋が一ぱいだつた。で、平岡権ひらをかごんらう君との関係上少しは知つてゐる花月園の、ホテルの方へしばらく滞在する事にした。
 花月園内には京浜第一の、大舞踏場がある事は、兼々かね/″\知つてゐた。そして其処では水曜と土曜と日曜とに、いつもバンドが来て舞踏会が開かれてゐた。
 夕飯ゆふはん後など、原稿が書けないでゐると、風の加減で山の上から若葉越しに軽快なダンス・ミユージツクが、手に取るやうに聞えて来る。さうすると何となく、どうしても、見にだけでも、かずには居られなくなる。……さう云つた訳で、ボールのあるごとに、ちよい/\自分は其方そつちへ出かけて行つて、人々の踊るのを眺めてゐた。
 そしてたうとう、或時マダム平岡に舞踏場の中へ引き出された。此の園主夫人は、日本婦人中でも一二と云はれる、社交ダンスの名手であるが、前から熱心に私にもダンスをやるやう勧めてゐた。
「……ほんとにいゝ運動ですよ。わたしなどはダンスのおかげで、此頃は大変丈夫になりました。ダンスの後はほんとによく疲れて、夜もグツスリ寝られるやうになりますからね。」
 夫人は繰り返し繰り返し、さう云つた。
 ホテルに同宿してゐた、浅野造船に出てゐる英国人の技師も、頻りに good exercise だと云つて私に勧めた。
「まあ兎に角、私と一緒にボールの真ん中へ出て、勝手に歩いて御覧なさい。踏んだつてかまひませんから。」
 夫人にかう云はれると、私は思ひ切つて、踊つて見る気になつた。そしておづ/\と、なめらかに光つてゐる床の方へ、夫人と一緒に出て行つて向ひ合つた。そして見やう見真似と、松山君に鳥渡教へて貰つた通りの作法で、夫人の右手を自分の左手で取り、右手を既にたもとを少し掲げて、挿し入れるやうに用意してゐて呉れる夫人の腋下から、かゝへるやうに背へ当てた。何だか不安で、自分の腋下えきかに汗を掻くやうな気持だつた。そして身体からだも不安定だつた。それは平常対人関係において、握手とか抱擁とか云つたやうな、接触に少しも馴れてゐない日本人としては、誰しも無理のない事であらう。しかしそれでも、決して性的の気持とか、それに類した感じなどは、少しも起らなかつた。――それは相手が平岡夫人だつたから、と云ふ訳からではない。性的な事などを、考へる余裕もない程、如何いかに踊るべきかに就いて、焦慮し専念されてゐるのだ。
 それにつけても一体に、社交舞踏が一種の性的情緒を起すと云ふことが、一部の非難にはなつてゐるが、しかし私自身の経験から云へば、舞踏者それ自身に、なか/\、ほとんど決してと云つてもいゝ程、さう云ふ気持にはならないものである。それは私が、まだ芸道未熟で、それだけの余裕がないせゐもあらうが、事実他の人々に聞いても、踊つてゐる中は大抵誰でも……シミイとかチークとかいふ特殊なダンスでない限り、さうした欲情に捉はれる事などはないさうである。そしてしありとすれば、それは一種抽象的な、浄化された気分の醸製に過ぎなからう。かへつてさう云ふ感じを起すのは、踊らない、踊りを知らないで見てゐる、第三者のひま聯想れんそうのやうである。
 余談はき、かうして私は平岡夫人と、不安な足どりのまゝ、いざなふやうな音楽に連れて、曲りなりにも歩き出した。よた/\と、ひよこり/\と。……平岡夫人はしかし懸命に、此の何時いつ踏み間違ふか分らない私の足を、敏感に予知してうまく従いて来て呉れた。
 一と舞曲の間は永かつた。中途で早く止んで呉れゝばいゝと思ふ位ゐだつた。が、其のうちに不安のなかにも、何だか妙な快感が生じて来た。少しの間でも、自分のステツプが一人前らしくなだらかに行くと、何だか天地の音律リズムと合致したやうな、一種の愉悦の念を覚えて来た。……
 夫人と一回踊り終ると、もう私もすつかり大胆になつて了つた。そして今度は、丁度其の場へ谷崎令妹葉山三千子君や其の友達が来てゐたので、すきを見て一緒に踊つて貰つた。そして一と廻りのうち、少くとも三四回はステツプを間違へて、時々は相手の足を踏みつけた。
 其の頃、花月園へ、月曜と金曜とは、松田ラムプの社員たちが、二十人ほど揃つて、夫人からダンスを習ひに来てゐた。私は早速さつそく、其の人たちの中へ入れて貰つて練習した。其の人たちは皆、さう金持らしくない月給取りばかりだつたので、私も大変親しい気持で、仲間に入れて貰つた。さうなると私の凝り性で、廊下を歩いてゐても、散歩をしてゐても、思ひ出してはワンステツプ・ツウステツプだつた。おかげで連中の中では、やゝ上達の度が早かつた。
 そして其の次の週には、まだ足も腰もよくきまつては居なかつたが、丁度、鶴見の舞踏場拡張の祝賀ダンスだつたので、図々しく其の中に交つて、下手へたは下手なりに、踊つてやつた。相手の困るのも知らずに。
「舞踏は図々しくなくちや駄目ですよ。一体貴方がたは、少し図々しさが欠けてゐるんだから、その意味でももつと図々しくなる修養の積りで、おやりになるのが一番なんです。」
 それでも其の頃舞踏場で知り合になつた、或る音楽家みたいな新聞記者みたいな男から、さう忠告された位ゐだつた。
 併し私は矢つ張り、女の人に相手を申し込む時、鳥渡でもいやな顔をされると、すつかり悄気しよげて了ふのが常だつた。或時は、私が相手を申込むと、其の人が人身御供にでも上つたやうに、廻りの人が目交めまぜで笑ひ合ふのを見た。そして一生其人たちとは、踊るまいと決心したが、併し又、他の知つてゐる人もない時は、節を屈して、と云ふよりは自分の芸道が到らぬのを嘆きながら、止むを得ず申込む外なかつた。それを又舞踏場で知り合つた、或る紳士に笑ひながら訴へると、其の紳士も云つた。
「いや、併し誰でも、一度は断られたり、侮辱されたり、ひどい目に会はされて来たんですよ。僕なんぞも或る女に申込んで、疲れてゐるからつて断られたのに、ふいと見ると今現に断つた女が、うまい西洋人と一緒に踊つてゐるのを見て、腹を立てた事がありましたよ。が、さう云ふ目に会つてもどうしても、こればかりはやめられないから愉快ですね。何しろダンスを始めたら、中途でよす人がないさうですからね。貴方はどうですか。」
「さあ、僕もよせさうもありませんがね。なか/\うまくならないんで、癪にさはつて居ます。」
「だがどうです。ダンスをおやりになつてからの御感想は。――もつと若い中から、おやりにならなかつたのを、悔いるやうな気持はしませんか。僕なんぞはしきりにさう思ひますがね。これが二十代の頃からやつてゐたら、どんなに楽しかつたらうと。」
 其の人はこんな風に、それからダンスに関する雑感を僕にちようした。
「いや、併し其の点では、僕は此年から始めたのを、寧ろ幸福に思つてゐます。と云ふのは、僕らも此頃はすつかり老い込んで、引込み思案になりかゝつた時、急に是をやり始めたら、何だか青春を取返したやうな気がしましたからね。是が若しもつと早く始めたら、妙に上づゝて了つて、かう静かに楽しくないかも知れません。僕は西洋人の年寄りなぞが、孫娘を連れて踊りに来てゐるのなぞを見ると、非常に嬉しく涙ぐましいやうにさへなります。今日も一組来てゐますね。」
「老夫婦が踊つてゐるのなぞも、美しい図ですね。それから横浜から来る領事の子供とかで、十七八になる姉娘と十五六の弟の少年が、一緒に踊つてゐるのを見ましたが、是もようござんしたよ。」
 谷崎潤一郎氏も、其の頃、一家連れでよくやつて来た。そして此の悪魔主義の作家が可愛い鮎子ちやんの手を取つて、室の隅つこの方で、鮎子ちやんよりもたど/\しいステツプを踏みながら、踊つてゐるのを見るのも、決して悪い感じではなかつた。
 それから矢張り横浜の或る医師のお嬢さんで、必ず両親の中の誰かに附き添われながら、踊りに来て居る人があつたが、父なる人が、娘のかるやかに踊るのを、――その人は大抵品のいゝ西洋人とばかり踊つてゐた。――さも嬉しそうに眺めて、一晩中卓子てーぶるに坐つてゐるのも、決して悪い感じではなかつた。そして是からの人々は、決して社交ダンスと云ふものが、不良少年少女のものではない、生きた証拠のやうな気がするのだつた。
 世上には、ダンス流行の声が高い。が、事実はそれ程の事はない。常に同じ顔振れで、同じダンス場をぐる/\廻つてゐるに過ぎない。私の見る所では、此の広い京浜間でも、内外人取交ぜて五百人とは居ないやうな気がする。そして色々な非難もあらうが、谷崎君もつて云つた通り、明るく快活な気持で、一せきを過すと云ふ意味なら、もつと、寧ろ流行させたいやうな気がする。ダンスとプロレタリア! さう云ふ問題は、又おのづから別に存するだらう。が、ダンス其物が、必ずしもプロレタリアの思想と逆行するものでない事は、共産ロシアにもダンスが盛んでない事はないと云ふ一事で証明が付く。要は踊る『人』の問題だ。私は浅草あたりに、一つ民衆ダンス場をこしらへたいとさへ思ふ。ダンスは由来民衆的なものなのだから。……
 こゝに『私の社交ダンス』一篇をあへて草する所以ゆえんである。





底本:「日本の名随筆 別巻96 大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「久米正雄全集 第十三巻」平凡社
   1931(昭和6)年1月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年8月11日作成
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