昭和二十四年十一月四日の諸新聞は、湯川秀樹博士が中間子の研究により、十二月十日ノーベル賞を受けらるゝ決議が、ストックホルム學士院で通過したことを傳えた。學界はもちろん日本國民は、この吉報に對して歡喜の聲を發せざるものはなかつたろう。
由來ノーベル賞は、世界で優秀な科學研究を蒐集檢討して授與するものであつて、研究としては粹の粹なるものを選拔するにより、賞を受くるものの名譽は論ずるに及ばず、またその半面には各國でノーベル賞を受けた學者を數えて、その國の文化程度に輕重を付するに至つた。
しかるにわが國では、未だ一人もその選に當つたものはなかつたから、或る日本人は、ノーベル賞は東洋人に與えないのか知らんとまで僻目で臆測した。まことに恥かしい邪推であつた。こんど湯川君が受賞者に當選されたのは、正しく人種の區別を離脱し、專ら論文の價値を標準となす方針を表示し、顏色の黄白を區別せざるを明確にした。殊に湯川君の攻究された中間子は、宇宙線や原子核に存在するもので、初めは單に理論的に演繹された。その研究方法は斬新にして、實驗的に原子核の構造を探求するに欠くべからざる知識をもたらすものであれば、その重要視さるゝはもちろんである。
科學朝日記者は、予が四十五年前に發表した土星原子模型は、初めて原子に核が存在するを明瞭にしたものであるから、いくらか湯川君のメソン(中間子)との關係があるによつて、その概略を書いて呉れと、しつこく予に迫つた。やむを得ず筆を執ることになつた。讀者は、好んでこれを記するのでないことを御了解あらんことを希う。
ギリシャの哲學者が、物體はどんな力を用いても破壞すべからざる微小な粒子から成立していることを、ドグマチックに宣傳してから、その考索は一般に信ぜられ、化學が開發せらるゝと共に、化學原子もその類に屬するものと信用せられた。即ちドルトン(Dalton)が原子論を發展するには、固體球を模型として、十分、間に合せた。しかしその不變性に對しては何たる實驗的證明は無かつた。たゞその反應性が專ら研究の的となつて、何たる不都合はなかつたから、原子の構造などを考究するのは野暮であるとけなされた。
しかしスペクトル分析の開けてからは、その構造は各元素とも趣を異にしていなければならぬと論ぜられ、こゝに一段の進歩を促した。
その頃は物理現象を説明するに模型を考案することが流行した。またエーテルなる不可思議な萬能性を帶びたものが宇宙に充滿している假説も、一般に信用された。これは光を傳える媒質であつて、壓縮すべからざるものと考えられたが、だん/\調べて行くと、短縮すべき性質をも無ければならなくなり、都合次第で性質を變化せられたから、遂に迷宮に入つた心地がした。
振動を傳える模型として提唱されたものには、球形の器内に滑稽にもスピロヘータ・パリダに酷似した發條を裝置したものもあつた。しかし實際と模型とは必ずしも一致しない。多くは單純な仕組を説明するを目的とするからやむを得ない。從つてマックスウェルの電磁關係を示すモデル。ヘルムホルツのモノサイクリック及びポリサイクリック系。これを轉化したボルツマンの熱力學第二原則を示す模型などは、簡單明瞭であつたが、ウイリヤム・トムソンのボルチモア講義に示されたものは、難解に終るおそれがある。即ち前記したものがその一例である。
こんな
しかして、この微子はどの元素より出るも同一にして、エレクトロンであることを確めたのは、J・J・トムソンであつた。されば哲學者が想像した球形の一丸では、化學原子を代表せしむることは不可能であり、必ずエレクトロン(電子)が伴つておらねばならない。電子の陰帶電はどの原子からも出るものであるから原子の相異なるはその内部の構造に求めねばならぬとは、前世紀の終りに判然した。
かくして澤山の探偵的試驗で暴露された状況に基づき原子の構造を案出せねばならない。一九〇〇年にプランクの量子論の端緒が發表された。これは原子固有の輻射を手鈎として探求すれば、目的を達し得べきも、輻射は不連續であつて、吸收は連續的に行わるゝ點に、疑惑が多くの人に存して、うかと使い損ずれば大怪我の源となりそうな危險があつたから、暫く停頓した。
これより先、氣體論を開發するにクラウジウスは氣體を多數の球より成り、縱横に紛飛する状態にあるものと考え、その行動を力學的に調査し、氣體の服從する諸原則を演繹し、概括的にこの單純にして把握し易き理論を發表したが、氣壓と温度が同じければ、分子速度は同一である結果に到達した。しかし、氣體の1cm3内の分子數は2.7×1019であるから、非常に多い。それ故公算的に算出すべきであることは、マックスウェルの主張するところであつて、遂に統計力學の基礎を築き、有理なる氣體論となつた。若し分子が球形であるならば兩比熱の比は5/3[#「5/3」は分数]になり、不規則であれば4/3[#「4/3」は分数]となるなど面白き結果を生ずるゆえ、多少は分子の形を察する資料に供せらる。
しかし漠として取止められないが、十九世紀の終りに發見された、放射能やX線は、最早化學原子が單純な哲學者の唱道した原子ではない事實を明るみへ出したのである。しからばその構造は如何と、物理學者は攻究を始めた。
ロード・ケルヴィンは陽電氣を帶びた球内に、電子が出入する簡單な仕組を考えた。J・J・トムソンもこれに類したものを提出したが、電子の數は數多あつて振動し特有な光を發する。即ちスペクトル線を現出する仕組であつた。なるほど、電離状態を生ずるは判明だが、陽球に入る電子は陰電氣を帶びているので陽球の一部は中和するのではないか、或は陽球内に入つておる電子が振動するのは、恰も眞空中におけるが如くなるか、何れにしても怪しむべく、疑念は全く陽球内に存在する電子の行動に集注されるのである。しかして假りにかような仕組が自然に構成せらるゝとすれば、陽球の質量は、電子の幾千倍にならねばならぬ。
トムソンは既にこれを測定しておるから申すまでも無いが、たゞ原子の安定性に對しては申分ない模型である。陽球とこれに包有せらるゝ電子との相互作用については、更に假説を設けねばならぬ。即ち電子の陰帶電は、陽球の陽帶電と接觸するも陰陽別々になつて、外に對しては中和していても、これにごく接近した所に行けば、帶電状況になると考えねばならない。
それゆえ陽球内の電子は腦裏に浮び難い構造であると、予はこれらの兩模型を批判したのである。しかのみならず、このような陽球は、あらかじめ自然がプラウトの假説に近いように製作して置かねば、化學原子の排列は不可能でなければならぬ。これを製作する機關はどんなであるかも調べねばならぬから、事頗る複雜になる。
兎も角も、その安定度はどうして決するであろうか。唯一の原子を考えるは易いが、地球上に在る澤山の元素を一律の下に作り出すは最も考慮を要する。しかも陽球内の電氣密度は、皆一樣であるが、その假説内に幾つも困難が包藏されてあるは論を俟たない。
予は一八九四年、ドイツのミュンヘン大學で氣體論の大家ボルツマン先生の講義を聽き、初めて互いに分離した氣體分子の行動につき、先生の明快な議論において公算の應用を詳かにする機會を得た。しかし氣體分子はあい變らず彈性球であり、内部の構造に關しては毫も得るところがなかつた。その時電子の存在は誰も知らなかつたから無理もない。たゞ先生はマックスウェル(今はニウトン第二世と尊敬されている)を祖述し議論鮮明であつた。
依つて留學費として支給せらるゝ年額一〇二〇圓を痛々しく割いて、マックスウェル論文集を手に入れ、日夕通讀し、氣體論の講義と照し合せ、大いに得るところがあつた。殊に稀薄なる氣體の議論は興味を感じた。更にアダムス賞を授與せられた土星の輪の安定性に關する議論は、模範的論文であるを覺えた。
歸朝後、磁歪(マグネトストリクション)のヒステレシスを研究していたが、一九〇〇年國際物理學會に招かれ、これを報告した際、キュリー夫妻のラジウム實驗を見て、原子構造の複雜なるを覺り、また數學者ポアンカレはその講演に原子の機構を論ずるは、スペクトル線の各原子に固有なる事實から進入するが捷徑であると、豫測を述べた。これによつて予の受けた刺激は甚大であつた。しかし當座如何に手懸りを付けるかは案出し得なかつた。
假りにケルヴィンやトムソンの如く、陽球内に電子を包擁している原子があると考うれば、この原子を電離するは非常にむずかしい。しかし原子は電氣性のものであることは間違いない。ヘルツの發見した光電作用もまたこれを明かにしていると思い、磁歪試驗を繼續しつゝ考えた。
こんな新しい事柄を發展するには、古い知識は反つて邪魔になる。デカルトが言つたことがある、「眞實に到達するには、既に受け入れた凡ての見解を放棄し、基礎から自得の組織に改造する必要がある。」今や光は電波である。化學原子は電氣構造であることは確かである。デカルトの教訓は、今日原子を論ずるに適用すべきである。即ち原子は一種の組織をもつ電磁場である。エーテルのような便宜に性質を假託し得る媒質は放葉せよ。たゞ陰陽とも距離の二乘に反比例する作用ある電氣のみに着眼せよと肚を据えた。
物體間に働く引力と、電氣間に働く力の法則は相似ておる。たゞ電氣間の力は斥力もあるから、類推を爲すには注意を要する。
假りに太陽の質量に比例する陽電氣と惑星の質量に比例する陰電氣とを、或る時太陽系内の惑星の運動に比例するように放置したならば、その假りの電場では、太陽系に似た運動を暫く見ることが可能であろうが、原子の微細な界隈では行われない。何となれば陰電氣間の斥力が相互に働き、運動を攪亂するからである。
それでちよつと考えると、原子は太陽系に似た組織であると説く人があるけれども、これは粗雜のそしりを免れない。
原子の大いさは億個を並列して僅かに1cmに過ぎざるを見れば、その部分を構成する電子の運動範圍は微細であること明瞭である。彗星のように動く電子は少かろう。從つて熱運動で紛飛するガス分子から離れる電子は數多ではないから、安定の大なる組織に構成されていなければならぬ。磁性も帶びておれば、廻轉運動もなければならない。しかし一個の獨樂では、種々の性質を表現し難い。
結局、氣體論を少しく變化して、高温度で氣化した諸元素を攻索するが便法であることを悟つたが、忽然思い出したのは、かつてのボルツマンの講義を聽くとき耽讀したマックスウェルの土星論であつた。土星の輪は數多の月が輪を構成せねば不安定であるという結論であつた。これを模型とするが上策であるを感じ、原子の月は電子であるとすれば、皆同一の質量と電量であるから、計算は簡單であつた。たゞその間の電氣斥力が、萬有引力とは違うけれども、軌道に切線的に働くから、影響は略して差支えないくらいである。安定度は均一な電子の月であるゆえ恐るゝに及ばず、たゞ不安な點は中心に陽電氣の大なる核あることを假定して議論を進めたのである。即ち原子はその核と、これを圍繞する電子若干が、その構成部分であつて、核については陽電氣を帶びてその質量は電子に比して大なるものであることに所見を止めて置いたのである。
かくしてケルヴィンとトムソンが同居させた陰陽電氣を隔離した點に特異性があるので、別に珍奇な趣向がある譯では無い。たゞ實驗と符合する結果を得るや否を立證するためである。
原子内に配置され、軌道に沿うて動く電子を少しく攪亂すれば振動する。その振動は軌道面に平行なるものと、直角なるものとに分れる。前者は線スペクトルに屬し、後者は帶(バンド)スペクトルとすれば、普通スペクトル分析に現われるものとの性質を帶びて、各原子核の電氣量は異なるにより、そのスペクトルは化學原子毎に異なるは明瞭である。また磁場に置けばゼーマン効果を示すべきである。
それゆえ謎となつていた化學原子に固有な性質は有核原子の方が有効に説明し得ると考えたけれども、更にこれらの原子で作られた固有の光の分散則を計算し、また熱體のヴィリヤルを演繹したが、從來と異なるところは見出さなかつた。當時プランク恆數hは、三年前に誕生し、世評未だ定まらざる時代であつたから、これを使用しなかつたのは殘念である。
前記の私案は一九〇三年の秋、土星が化學原子の模型であることを感知してから、二ヶ月間で概略を計算し、十二月の數學物理學會で報告し、聽衆の意見を問うた。
ケルヴィンやトムソンの雷名に驚かされている人は別に討論しなかつたが、多くは化學原子は強固であるが、今述べられたそんな危險な構造ではすぐ破壞されそうだ、氣體になつてお互いに衝突すれば、めちやめちやになりそうだと言うた。世評まち/\で取留めがつかないから、論文を Philosophical Magazine に送り出版してもらつた。
論文を直ちに批判した人は、英國ウエールズ・アベリストウエルス大學のショット(Schott)教授であつた。「貴下と同意見で起草中のところであつた」と記してネーチュア(Nature)誌に發表された。
ポアンカレは「科學の價値」(邦語では田邊元譯)と題する書中に批評を加えたが、實質には進入していない。その後七年間は音沙汰無しであつた。其間化學原子に核ありや否やは諸所で討議せられたようである。遂にその有無はラザフォードにより實驗的に解決された。答は核ありと證明された。予に實驗者から寄せられた書状は別掲の通りである(ラザフォード卿からの書簡參照)。
書中に「貴下の原子模型はまだ讀まない」との文句がある。フィロソフィカル・マガジンはラザフォードがその論文を大部分出版した雜誌であるから、甚だ了解に苦しむのである。七年間座右にある雜誌を讀まなかつたとは申譯にはなるまい。しかもその考え出したモデルはいくらも予の土星型と違わないから、その心中はこゝに讀者の賢察に委ねるより他はない。
化學原子に核ありと判明してから、翌年(一九一二年)ボーアは水素のスペクトル線の整列をプランク恆數を利用して見事に説明するを得た。これを端緒として、分光學は長足の進歩を遂げ、物理學の重要部分を占むるに至り、原子構造内の電子の動きを精細に探究し、併せて化學作用にも密接な關係あるを詳かにするを得た。その功績は沒すべからざるものである。
しからば原子核は如何であるかと、讀者は問わるゝであろう。分光學に從事した人はこれを探る方法を考えた。核全體の動きは多少實驗的に表われても、内部は暗黒界であつた。しかし湯川君は、昭和十年、突如推算的に原子核を探求すべき方法を發見せられ、電子の約一〇〇倍以上二〇〇倍ばかりの素粒子があるだろうと見當を付けたのである。
丁度その頃アメリカで宇宙線を觀測する際、初めてその程度の素粒子を捉え、日本でも同樣であつたが、觀測者はその質量の大なるに驚いた。湯川君の計算は、その時既に出版されてあつたから、東西その慧眼に敬服したのである。實に原子核探究の發端に燦爛たる光を放つ功績である。
(昭和二十五年一月 科學朝日)