ノーベル小傳とノーベル賞

長岡半太郎




 ノーベル賞の存在は、昨年湯川秀樹君の受賞により、汎く、我邦人に傳わつた。しかしその賞を發案したノーベル Alfred Bernard Nobel の事績については、知る人稀にして、いかなる動機により、その資産一部を割き優秀なる研究者に與うるようになつたかを明かにするもの少きは、まことに遺憾である。こゝにその一端を記すは無用であるまい。
 ノーベルの父は工業家で、ストックホルムに住居し、ロシヤ政府の用達を勤め、首都ペトログラードの入口に設けられた、クロンスタット要塞を堅固にする設計を委託されてあつた。しかして家業としては、工業藥品、特に爆藥ニトログリセリンの製造に從事していた。二子があつたが、兄ルドウィヒは一八三一年(天保二年)に生れ、弟アルフレッドは一八三三年(天保四年)に生れた。兄弟共性格相似て、終始互いに提携して家運を興した。兄は父の職を繼いで、「ロシヤ」に出入し、海軍船艦を築造するドックを築き、製鐵所を設けて、軍器製造所を建てた。また河川改修に從事し、數多の河川の航路を開き、舟運の便を※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、166-2]り、二十隻の川蒸汽隊を組み、各河にこれを配置して、運送に停滯なからしめた。ロシヤ農民が、バク産石油を、至る所燃料として使用するを得たのは、この施設あつてからである。かくして兄がロシヤに盡した功勞は、甚大なものがあつた。
 弟は十七歳で米國に遊び、居ること四年、其間何をしたかは判然しないが、明敏な觀察力を諸方面に働かせた。當時米國の工業は長足の發達を遂げんとする時期に遭遇し、自らその状勢を洞觀したものと思われる。二十一歳にしてスウェデンに歸り、大學に入つたが、遂に兄の蹤跡を蹈まず、父と共に家業に從事した。即ち工業爆藥ニトログリセリンの製造、並びに利用等に、その研究を集注したのである。その頃この爆藥は「ノーベル油」として知られたが、發煙硝酸、濃硫酸、グリセリン等を使用して製造したもので、過程は、複雜なるのみならず、最もその弱點として、これを製造する人も利用する人も、困却していたのは、些少の衝撃で、爆發の危惧あることに集注していた。これは直接人命に關係するから、一刻も等閑に付すべからざる難關であつた。
 しかるに天は禍を轉じて福となす機會を彼に與えた。或る日工人は過つてこの危險なノーベル油を砂上にこぼした。工人はその掃除に周章狼狽したが、彼は落付いて、その一片を取り、靜かにこれに點火して見たが、不思議にも何の爆發の兆も無く、徐ろに燃えた。更に試驗を施し、衝激的に火を放つたところが、爆發して從前の性質を失わなかつた。かくして謎は解けた。ノーベル油は、砂に浸みれば動搖しても安全だ。これに急激な發火栓を添加すれば、主眼である爆發を支障なく行わしむることが可能である。それゆえ運搬して遠地に頒布するも可能となり、行く行くは軍用にも供せられ、たゞに土木工業の如きものに用いられるのみならず、また鑛業、殊に炭坑に大なる需用あるを覺つた。彼は喜びの餘り、「世界平和は之で企※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、167-6]せらるゝ」と叫んだという話が殘つている。恰も目下原子爆彈を創造して、夢幻的に世界平和を祈願していると同調である。しかして彼は不斷世界平和を唱え軍備縮小を強調しているが、何所でこの思想を涵養したか不明である。恐らく彼が米國に滯在した青年時代に感化されたものであろう。
 ニトログリセリンを砂に浸み込ませたものは、ダイナマイトと新たに命名され、爆藥として大飛躍を遂げたのは、彼が二十九歳の時からである。しかし念には念を入れなければ、眞に有効な物は得られない。砂には粒に大小があり、またその成分は所在地により違つている。その次に改善を加うべき點は、どんな砂が最もダイナマイト製造に適しその原料は豐富にあるかが、彼の取上げた問題であつた。この解題には數年を要したようである。製造品が平等でなければ、使用者は困る。從つて賣行も順調でないから、汎く世界に行き渡らぬ。彼は研究者であつたけれども、また商賣にも拔け目はなかつた。その爲め彼は旅行癖もあつた。或る日ドイツのチューリンゲンを通過したとき、汽車の窓から覗けば、砂とは違うが、ニトログリセリンを浸み込ませるに、最好適と考えらるゝ珪藻土が、レールの兩側に堆積するを觀察し、直ちにこれを採取して實驗して見ると、藥を浸み込ませるに於ても、平等なる點に於ても、原料の饒多なるに於ても、從來の原料に優越せるを覺り、遂に製造所をドイツに遷し、大なる爆藥工場を十五ヶ所に經營するに至り、世界各國に手を擴げ、ダイナマイトの用途を擴張したのは、一八六五、六年(慶應年間)頃であつた。しかして此の如く世界を股にかけて事業を營むことになると、矢張り世界の中心と目せらるゝ都市に居らなければ、殷盛を期し難く、彼は四十歳にして居をパリに移し、更に研究所をも新設し、爆藥研究に腐心した。
 その頃から世界の軍部を聳動した研究は無烟火藥であつた。これに對し彼は注意を傾け數種の火藥を發明し、中には或る國で用いられたバリスタイト、コルダイトと同樣なものがあつて、前後の爭いがあつたそうだが、戰爭を忌避する我邦でその詳細を發表するは無意味であるから筆を擱く。
 前に記する如く、兄のルドウィヒはロシヤの爲めにバクの石油を配布するに盡瘁したが、彼は兄と共同して、バクの石油精錬を攻究した。この方面の專門家に知らるゝ通り、此所の石油は多量にナフサを含み、その精錬は困難である。彼はこれを連續的精錬する方法を發明し、兄が石油配布に努力した縁りがあるので、その方法を實施し、バクに兄弟連名で巨大な精錬所を建設したのが、一八八四年(明治十七年)である。ベデッカーのロシヤ案内記にその位置は載せてあるが、當時バクの一名所であつた。しかし今は政體が改まつているから變つているだろう。
 彼は晩年(一八九一年)パリよりイタリヤのフランス國境に近き海水浴場サン・レモに移り、一八九六年(明治二十九年)十二月十日に歿した、享年六十三。
 兄は一八八八年に既に歿していた。

 爆藥の研究に一生を犧牲に供したアルフレッド・ノーベルは、その研究題目より推せば、恰も軍備擴張に努力した科學者でゝもあつたかと想像される。しかるに、その遺言を[#「遺言を」は底本では「遣言を」]讀めば、心中大いに平和を熱望していた證據を發見するのである。彼は當時各國が盛んに武備を講ずるを憤慨し、常備軍の兵數増加を排斥して、國際鬪爭を仲裁々判で黒白を決めようと※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、169-11]つたのは、現今國際連盟の行動を推奬するに近い卓見であつた。彼は一私人でありながら、此の如き國際關係に對しても、先見の明ありしは賞嘆に値いする。
 彼は生涯を爆藥攻究に終始したが、その費用は自ら稼いで、他にこれを求めなかつた。この點に於てはエジソンもまた彼に酷似していた。獨立獨行で、他人の拘束を離れるから、思う儘に行動される。從つて成績も早く擧る、眞に最上の研究方法である。研究事項によつては、この行動を決行するを得るが、研究者の人柄によることが多大であるから、虎を畫いて猫に似たる謗りを受けるものがないでもない、謹むべきである。
 科學研究の一角から工業の芽が出ることは、周知の事實である。彼は爆藥研究に幾多の科學研究を利用したであろう。これは多くアカデミックであつて、研究者は貧苦を忍び、時には日光にも照されず、自然の眞理を窮明するのであるから、社會とは殆ど沒交渉である。とても自ら稼いで研究資材を集めるようなことはできない。しかしその探求した眞理は、尋常人には不可解であつても、金玉の價値あり、人智の啓發に資するは論ずる必要がない。工業研究はこれ等の基礎的結果を利用して進捗するのであるから、そのありがた味を納得するものは、僅かにノーベルその人の如きである。これ等の深窓内に呻吟して、世離れした人を援けるは、彼の心中に湧き立つていたから、優秀なる研究者を奬勵せんが爲め、遺言してその資産の一部を割き、賞を與えることにした。特に著眼すべきは遺言に、賞を受くる人は國籍の如何を問わずと記してあり、その博愛の精神が言外に浮動している。彼は實に世界の人であつた。
 彼の遺産は幾何あつたか、知るに由ないが、その建てた多數の製造所と、諸國に設けられた商社の數より推せば、巨額に上つたであろう。死後これを九分して各方面に分割したが、親族縁故者に爭議があつて、漸く五年を經て、賞金授與が行われた。即ち基金三千五百萬マルクの利子約七十五萬マルクを、毎年五個の賞に分配したのである。遺言には、授賞の年より一年半間に仕遂げた、重要なる研究に對して與えるよう認めてあつた。しかし學問の趨進は緩急測り難きがゆえに、この條文は事實上行われていない。
 賞の種類は左の通りである。
第一、物理學賞 ストックホルム學士院審査、並びに授與。
第二、化學賞 同上。
第三、生理學及び醫療學賞 カロリン醫學研究所審査、ストックホルム學士院授與。
第四、文學賞 國語の如何を問わず、高尚な理想的傾向に顯著である文學。ストックホルム學士院審査、並びに授與。
第五、平和賞 世界一般の親和を※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、171-14]るに、最も有効に努力して、常備軍を削減し、若しくは廢止し、各國間に仲裁々判所を設くるに協力したものに授く。ノルウェイ國議會(Storting)審査、並びに授與。
 授賞の調査は、複雜にして、公平に審議せねばならぬ。それゆえストックホルムに「ノーベル・インスチチュート」と稱する館を建て、そこで文獻を集め、調査を爲し、學士院の審議に付する仕組になつており、第一より第四に至る賞に限られる。第五はノルウェイ國の議會ストルチングに國際公法の文獻が豐富に輯集されてあるから、こゝで調査し、且つ授賞することになつている。殊に一九〇四年には、第五賞をストルチングに與えてこれを強化し、遺漏なからしめた。しかして毎年授賞の日を、十二月十日と定めたのは、ノーベルの命日を記念する爲めである。
 最初の授賞式は、一九〇一年に擧行された。その後適當な研究者が無いときは與えられなかつた。かゝる場合は第一第二世界大戰中に起つたが、翌年これを與えられたこともあつた。また受賞の人數は二人まで可能になつているから、二人に分與されたこともしば/\あつた。しかしてヒトラーはノーベル賞を受けとるなと命令したから、賞に當選しても、これを受けなかつた人があつた。しかし當選した研究項目は、その方面の粹を拔いたものであるから、ノーベル賞の表を熟覽すれば、歴然として當該科學の進歩過程と方向とを覺ることが可能である。これは研究者を世界一般に詮索し、漏洩なく論評するからである。ノーベル賞がいつも冠頭に置かるゝのは當然の成行であろう。將來に於ても永くこの選擇方法を維持されんことを期待するのである。
 人智の啓發にはその進歩に遲速がある。學界に先覺者出でて名論卓説を吐き、これを實驗に照して檢證すれば、羣小これを開發し、その結果を實用に供するに至り、遂に世界の面貌を刷新し、文化の根基を強固にするは、歴史の證明するところである。
 試みにノーベル賞を與えられた研究の類例を擧げてみよう。
 電波の存在が理論上説明されてより、その實在を證明し、今日はこれを利用して、地球表面上、一瞬にして音信を傳え、話を交換するに至つた。
 今世紀の始め、小麥を主食とする民衆は餓死するであろう、肥料にあてられている智利硝石は遠からず掘り盡して、小麥は育たなくなるだろうと警告された。しかし大氣中の窒素固定法の發明により、難關を切拔け、歐米人の危惧は全く一掃された。
 昔から懼れられた、肺炎やようちようの如き腫物は、黴を原料として製造せらるゝペニシリンにより、易く治療さるゝに至つたのは素人を驚かした。
 放射性物質の發見は、原子構造の大略を發き、その内部の構造まで概觀するに至つた。しかしてその核心の構造は、目下討究中であるが、物理學者は、一日千秋の思いを以つて研究成果の速かに揚らんことを望んでいる。しかし可なりの年數がかゝるだろう。愉快なことに、湯川秀樹君の研究は、これに密接に關係している。五十年間近く諸賢に與えられたノーベル賞の研究を評價すれば、大分差等があるけれども、君の創始された中間子論は優秀な位置を占めている。受賞につき、國民が祝意を表するに、この點を明かにしなかつたのは遺憾であつた。
 物理學賞と化學賞とを受けた研究者の中で、原子關係の攻究に從事した學者が最も多い。從つてこれ等の人々の多くは、原子爆彈の發案構造等を協議して終にこれを實現するに至つた。その過程を調べれば、發明の功績は、多分にこれらの諸賢に歸せねばならぬ。更に目下懸案中の原子動力機の發展も、均しくこれらの人々の協力を藉らざれば、實用の領域に進まぬであろう。一朝平和工業にこれを活用するに至らば、如何に世界の状況を變化するであろうか、一言にして盡すべからざるものがある。敢て豫想を畫けば、原爆の製造能力を辨えずして、その使用による結果を論ずるは無鐵砲である。ノーベルは、ダイナマイトを發見して世界平和をこれによつて決すべしと論じたそうだが、それは早まつていた。原爆とダイナマイトとは、その威力に於て雲泥の差がある。しかしその製造には時日を要する。原爆は打ち盡せば暫く待たねばならぬ。此間の微妙な呼吸がある。若し原爆が砲彈の製造速度で供給さるゝならば、世界民衆と都市の潰滅も憂慮されるけれども、原料の豐富でない點より打算すれば、戰わずして勝敗は決するであろう。人類絶滅とは極端論者の誇張に過ぎまい。しかし優勝劣敗は自然の數で致方ないが、人智の進歩は絶間なく、たとえ原爆戰で一頓挫を來しても、時を經て人間は繁殖し、文化は向上するから、時代の變遷を逐うて世界は平和親睦の風に吹捲かれるであろう。また加速度的に進歩する科學界に於て、原子動力機の端緒を捉えるを得ば、その工業的に發展するは論をまたず、山岳を平坦にし、河流を都合好く變更し、更に天然の形勢を利用せず、人爲的に港灣河川を築造するに至らば、世界は別天地を出現するであろう。斯くして國際的の呑噬どんぜい行動を[#「呑噬行動を」は底本では「呑筮行動を」]絶滅し、互いに相融和するに至らば、ユートピアならざるも、これに近き安樂國を出現するは疑いを容れず、巨大なる威力を獲得して、これを恐れるよりも、寧ろこれを善用するが得策である。今日の科學研究は、專らこの針路を辿りつゝある。現今危機一髮の恐怖に迷わされて、神經を尖らしているから、世界平和を信ずるもの少いが、一足飛びにこゝに至らざるも、波瀾は幾回か曲折を經て終にこゝに收まるであろう。蓋しこの證左を得るには、少くも半世紀を要するは必然である。
(昭和二十五年十月 心)





底本:「長岡半太郎隨筆集 原子力時代の曙」朝日新聞社
   1951(昭和26)年6月20日発行
初出:「心」
   1950(昭和25)年10月
入力:しだひろし
校正:染川隆俊
2013年11月18日作成
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●表記について

「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」    166-2、167-6、169-11、171-14


●図書カード