時 処 人

――年頭雑感――

岸田國士




 芝居の脚本を書くのには、まず、標題のつぎに、その劇が行われる時と場所と登場人物とを、はつきり書きあげるのが定石である。
 私はいま、ここで脚本を書くつもりはないが、年々歳々、違つた場所で正月を迎えるのが例のようになつてしまつた私の年頭感は、まず、ああ今年は、こんなところで年をとることになつたか! である。
 いよいよ六十三回目の元日は、この小田原でということになると、第一回目の元日を東京四ツ谷で、両親と共に迎えて以来、よくもよくも生きたものかな! と思う。
 少年時代を東京と名古屋で、青年期を東京と九州で、二十台の終りから五年間をヨーロッパで過した関係で、いつの正月を、どこで、誰れと誰れとでしたかを、いちいち思い出すことは不可能だ。
 ただ、これが最後の元日だろうと思つたことは一度もなく、同じ元日は二度ないという事実を否定しようとしたこともない。
 ぼんやりとではあるが、小学生の頃の正月が一番胸のおどるような正月だつたことだけは記憶の底にある。
 おやじが近衛連隊に勤めていたから、一家の正月は、その正装のように、にぎやかなものだつた。
 おやじが馬に乗つて出掛けると、私は、学校の式へ友達を誘つて行く。
 家が今の信濃町の近所にあつて、学校から帰ると、かみ坂の横にある「乳屋の原」というのへ遊びにいつた。
 その原には、古池があつて、まわりに枯草が生い茂り、あぶなつかしいブランコが、子供の乗るのにまかせてあつた。
 乳牛が、たまに草を食つている。
 原つぱの隅に、破れた生垣を距ててボロ家が一軒、何をする家かはつきりは誰も知らない。ただ下手な三味線がそのへんから聞えて来た。
 ま新しい日の丸の旗が、門口に立ててある。この印象は、ちようどその頃、日清戦争が終つたのだということと関係がありそうだ。
 そうそう、そのブランコで怪我をした傷痕が、まだ私の額に残つている。その時、そばで紙風船をついていたおなじ年頃の少女が、いきなりついていた紙風船で私の額をおさえ、流れ出る多量の血を気にしながら、私の家まで送つてくれた。
 その少女のことを、私は「染物屋のチャーちやん」とだけしか覚えていない。

 元日が元日らしいためには、どんな条件が必要かといえば、門松・トソ・雑煮というような形式はさておき、私の経験によれば、まず何よりも、家族が多少改まつて勢ぞろいをするということである。
 家族の人数は多いほどよろしい。
 老人も子供もいるという風景が望ましい。それも、みな達者で、仲よくしているに越したことはない。
 そのうちの誰かが、遠方から馳せ参じたという事情があれば、これはもう、正月には持つて来いの景物である。
 そこで、今年の元日を最も元日らしく迎えたのは、言うまでもなく、ソ連や中共からの帰還者を交えた日本の何百かの家族だということになろう。
 私の両親は紀州生れであつたから、正月料理も関西流であつた。ところが、私の代になると、家内の実家の鳥取米子流にしてもよかつたのを、強いて習慣に拘泥しないわれわれ一流のやり方で、関東、関西をチャンポンにし、時には中国式や欧米風を交えた、珍無類の料理を正月の膳にのせた。
 十年前に母親を失つた娘たち二人は、毎年感心に正月を覚えていて、平生は別々に暮しているのを、元日の朝は、ちやんと私のところへ集つて来る。
 一昨年は北軽井沢、昨年は伊豆三津浜に、今年は、この小田原の仮寓に、親子三人、例の如く元日の朝の食卓に向つている。(筈である……)

 ただ今、私が住んでいる小田原の家というのは、隣りの缶詰工場の異臭と怪音を除けば、斎藤緑雨のいわゆる「海よし、山よし、天気よし」の三拍子そろつた恰好の住宅である。「天気よし」という表現は、緑雨らしくて私には面白い。
 緑雨といえば明治文壇の奇才で、その「あられ酒」は私の愛読書であつたから、彼が病を得て三年間こゝで療養生活を送つたことを聞くと、不思議な廻り合せという気もする。
 まつたく、小田原というところは、冬の晴れた日に、そのよさを発揮する土地である。病床にある緑雨が「海よし、山よし」とまず風景をたたえ、ついで一と息に、「天気よし」と、明るく暖かい太陽の恩恵に感謝の叫びをあげたところ、私も同感である。
 小田原は、今の私にとつて、実にぴつたりした申分のない土地である。
 この程度の小都市は、私に適度の休息と刺激とを与えてくれる。
 必要なものはほとんどなんでもあるが、余計なものはそれほどない。
 魚の新しいことはもちろん、海岸としては野菜も豊富である。外国兵がいないこと、女の化粧がつつましやかなこと、梅の花が美しく咲くことなど、私にはありがたい。
 ソクラテスの言葉として伝えられているのに、こんなのがある。曰く――「アテネの町は恋人の如くに人々から愛された。ここへ散歩に来ること、閑をつぶしに来ることを、人は愛した。が、何人も、これと結婚するほどには愛さなかつた。即ち、ここに移り住もうほどにはこれを愛さなかつた」と。
 アテネの町を小田原の町と置きかえてみたら不都合であろうか?
 山県有朋も伊藤博文も、ここに別荘を建て、それぞれ古稀庵、滄浪閣と名づけて、今もその跡が残つている。
 北原白秋も谷崎潤一郎も三好達治も、いずれもこの地を愛し、この地に何ものかをとどめ、そして遂にこの地を去つて帰らなかつた。
 しかし、これは小田原の罪ではなく、また誰の罪でもない。東京があまりに近く、かつ、人々が若すぎたというだけのことであろう。
 小田原という町は、ただ東京に近いだけでなく、日本国中のどこからでも、そんなに遠くないような気のする町である。おそらく、小田原の名を冠した「提灯」や「カマボコ」のおかげかもしれぬし、また、小田原評定などという言葉がどうやら緊迫した国際情勢を反映する、かのバーミュダ会談を連想させるからでもあろうか?
 郷土史家Nさんの説によれば「小田原評定」とは、とかく香ばしくない意味にとられがちだが、それもいわれのないことではないが、むしろ、これは、小田原の北条氏が鎌倉の北条氏よりも一層民主的な政治を行うために、下級武士をも含む代議制の評定衆なるものを設けたことに、もつと重要な意味があるのだそうだ。
 なるほど、こうなると、まことに進歩的な政治がこの小田原では早くから行われていたことになり、小田原こそは、ワシントンやモスクワとともに、世界の民主主義政治史に残る輝やかしい都市名となるであろう。

「名物にうまい物なし」というけれども、私はそんなことはないと思う。
 なるほど、土地のひとが自慢するほどにはうまくない、といえるものがたまにはあるが、概して、やはり名物はうまい。
 一番いけないのは、近頃、観光事業とやらの流行につれて、無理にでつちあげた「名物」である。
 私は断じて「美食家」とはいえないし、まちがつても「食通」ではないから、「味覚」や「料理」についてえらそうな口を利くつもりはない。しかし、人間の「食生活」についての、一人前の発言権だけは留保するものである。
 主食の不足が問題になつている時、悠長な「食談義」でもあるまいけれども、それとこれとはまた、話が別である。
 まつたくのところ、この小田原に余計なものは、それほどない、といつたがたつた一つ例外がある。「食べ物屋」の数が少しばかり多すぎることである。食べ物屋が必要以上に多いということは「無駄食い」という言葉を想い起こさせる現象で、大都会の盛り場ならいざ知らず、あまり日本の自慢にも小田原の自慢にもならぬ。
 それにつけても「食べ物」の話というやつは、多少度外れていても、そんなに実害がないばかりか、もし話し手にその人を得れば、けつこう「空腹」の足しになるという例が、今私の眼の前にある。
 これは最近、畏友関根秀雄君から贈られた同君訳の「美味礼讃」で、プリヤ・サヴァランというフランス人が今から二百年前に書いた世界的名著である。
「美味の生理学」という傍題をもつこの書物の不思議な面白さは、読者が知らず知らず楽しい食卓に連れて行かれるということである。
 そして、「うまい物」とは決して特別に金のかかるものではなく、どんなものでも、「上手に」食べることだと教えられ、誰でも、健康な感覚さえもつていれば、明日から「うまい物」が味えるという希望と自信とを与えられることである。
 さて、彼は、哲学者風にこういう――
君はどんなものを食べているかを言つてみたまえ。君がどんなひとであるかを私は言いあてよう、と。
 ところで、私は、彼の口真似をして、こういうことができそうだ。
――君の郷里の名物を私に食べさせてみたまえ。私は、君たちがどんなひとであるかを言いあてよう。
 彼は哲学者であつたばかりでなく、一世を風靡した名コックであるが、この書物のなかにこんな一節がある。
――チーズのないデザートは片眼のない美女の如きものである。
 するとわれわれは、東京でも大阪でも、ちやんと両眼をそなえた美人というものに出会つたことがないわけだ。
 彼の料理法の一例に――
よく肥えた小禽ことりをクチバシのところでつまんで少々塩にまぶし、砂嚢を抜き、上手に口の中に入れ、歯でおさえて、指のごく近くの所で噛み切り、そのまま勢よく噛むのである。すると、可なり豊富な汁が出て来て口中を一杯にする。そのうまさといつたら、とても風雅を解せぬ俗人どもには想像がつくまい。
 もう一つ、最後にこんな一節があるのを紹介しよう。
一八一五年十一月の条約(註=ナポレオン失脚後、フランスが英、独、露、墺、スエーデンなどと結んだ第二パリ講和条約)はフランスに対して、連合国に七億七千万フランの償金を支払えという条件を押しつけた。その上、連合国個別の要求がこれに加わり、かつ、各国の君主および将軍たちが、てんでに勝手な理由をつけて補償金を出せと強請し、結局、国としての賠償総額は十五億を上廻つた。(註=今の金にすれば、数千億というところであろう)
このような巨額の金を、毎日なしくずしに現金で支払わねばならぬということは、やがてフランスの財政を破綻にみちびくばかりでなく、国民その日その日の生活も極めて困難になるだろうというので、国をあげて心配した。
ところが、案に相違して、すべては、取越苦労であつた。財政家が眼をみはつているうちに、支払いはいともやすやすと行われ、国の信用は高まり、借款はあとからあとから出来た。実際に、フランスでは、出る金よりも入る金の方が多いという証拠がちやんと数字の上で示された。
いつたい、何がわれわれを救つたか? この奇蹟をやつてのけたのは、そもそも如何なる神か?
ほかでもない、「食いしん坊」という神である。
フランスを占領している連合国の軍隊、プルトン人も、ゲルマン人も、チュートン人も、ありとあらゆる侵入者たちは、みな一様に、フランス人の「舌の戦術」にひつかかつたのである。彼等は稀にみる食慾と、非凡な胃袋とをフランスに運んで来た。美食になれない外国人どもは、フランスの土を踏んで、生れてはじめて舌の正月をしたのである。彼等は料理店でも、食堂でも、居酒屋でも、カフェーでも、屋台店でも、しまいには、歩きながらでも、食い、かつ、飲んだ。
この時期は、フランスの飲食品販売業者の黄金時代であつた。
フランス大蔵省が今朝払い出した償金の額より多くの金を、彼等連合軍の兵士たちは、フランス商人の懐ろにねじ込んで行つたのである。
 冗談でなく、われわれ日本人の舌はフランス人のそれに毫も劣るものでないことを、私は保証する。
 国家の産業と、この事実とを結びつける有能な経済人や政治家が当今の日本にはいないものか?





底本:「岸田國士全集28」
   1992(平成4)年6月17日発行
初出:「日本経済新聞」
   1954(昭和29)年1月1日
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年12月11日作成
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