すべてを得るは難し

岸田國士





 弘子ひろこはいま幸福の絶頂にあつた。
 夫の節蔵せつざうは奏任待遇になるし、一人息子のたゞしは麻疹を軽くすますし、恐る/\かけたパーマネントは自分ながらよく似合ふし、月八円ではじめて傭つた女中は田舎出のわりに気が利くし、家主は二つ返事で畳替をしてくれるし、まつたく、これで月給がもう二十円ほど余計であつたら、この世の中に何の不平もないくらゐであつた。
 彼女は、数へ年の二十六であつた。女学校を出るとすぐに、専門学校出の鉄道省属、生駒節蔵いこませつざう――当時二十七――と結婚した。もちろん見合結婚である。両親の選んでくれた夫といふ意味で、彼女は、この未知の青年に希望を投げかけた。写真を見せられた時よりも会つて話をした時の方が感じもよく、最初会つた時よりも、二度目に二人きりで好きなものゝ当つくらをした時の方がぐつと好意がもて、いよ/\式をあげて一しよになつてみると、男つてこんなにまで変るものかと思はれるほど、優しく頼もしく立派であつた。
 時々、そんな風に亭主を讃美する自分を、少し甘すぎやしないかと反省してみることもあるが、そんならといつて、ほかの男のどこが彼よりも優れてゐるか。収入の多いことや、官等の高いことは、女の幸福にどれほどのものを加へるであらう。かねて、実家の父がいつてゐたとほり、男の出世の蔭には、きつと細君の涙がかくされてゐるに違ひないのだ。
 さういへば、女学校の頃、よく友達と未来の夢を描きあつた頃、理想の夫の条件に、それも冗談めかして、風采云々といふことをつけ加へたものである。
 ところが、その風采の点で、彼はなか/\どうして、さう見つともなくない方である。写真では普通の男、まあ、どつちかといへば、武骨すぎるくらゐの印象を受けるが、当人をそばへおいてみると、動く表情から来るやはらか味がいくぶん角張つた骨格を目立たせないばかりか、全体として、知情意の均衡を示したつゝましい美しさの持主である。殊に細君として張合があるのは、役所の制服を着た時と、普段和服を着た時と、それ/″\同じくらゐ似合ふことである。同僚の誰彼を見るがいゝ。金釦きんぼたんに赤鉢巻の帽子が、なるほどスマートに見えることもあるが、たま/\日曜日におろしたてのセルなど着込んで来ると、襟を抜き衣紋に、兵児帯を高々と締め、気狂ひの殿様みたいな恰好で「生駒君、ゐるか。」などと得意になられてはまつたく可哀さうになるのである。
 さういふ時、彼女は、細君の心掛け乃至は嗜みといふことを考へる。亭主の見すぼらしい風采が、如何に細君を辱しめるものであるかをしみ/″\思ひ知るのである。
 それにしても、結婚後満四年、つきあひ酒の多少は飲めば飲む夫が、これまで、一度もこの自分に不安な思ひをさせたことがない点でも、彼女はまつたく感謝しなければならなかつた。それは当然なことだといへばいへるであらう。しかし、その当然なことが、世間の男たちには守れないのである。噂に聞けば、夜の一時、二時に、表の戸を叩く亭主は珍らしくないさうである。どうかすると、一晩ぢう何処をうろついてゐたか分らんやうなこともあるといふ。まあ、そんなことは罪の軽い方で、ちよつと油断をすると、妙な女から手紙を貰つたり、出張などと称して女事務員と温泉に行つたりする手合がゐるらしい。聞いただけでも胸のわるくなるやうな話である。夫は、あゝみえて、誘惑は相当あるであらうが、およそ、細君以外の女性といふものには興味がなさゝうである。これだけは断じて彼女の己惚れではなさゝうだ。その証拠に……証拠ならいくらでもある。彼女がお産をした時、しばらく寝泊りをしてゐた、あのにくらしいほど可愛らしい看護婦に、てんで眼もくれない様子であつた。無愛想にもほどがあるといひたいくらゐの応対ぶりを、彼女はよく眠つたふりをして聴いてゐた。
 さて、彼ら夫婦の間柄は、かういふ風であつたから、双方で荒い口を利きあふやうなことはまづなく、細君が信頼を籠めた調子で、月末の会計の報告をすれば、御亭主は、鷹揚にうん/\とうなづきながら、夕刊にまた今日も出てゐる閣僚某々の顔へ、朝日の煙を吹きかける。
「でも、ほんとによかつたわ。野溝のみぞさんがこつちへ出てらつしやるまでに、うちぢや大概のものが揃つたんですもの。あのひとつたら、それや見栄坊なのよ。何か少し高いものを買ふと、きつとそれとなしに値段をいはないぢやゐないの。お実家さとから補助があるつてことが、そんなに自慢になるか知ら……。」
「自慢になるもんか。そのあべこべだ。お前のやうに、おれの少い月給のなかゝら、十円づつも貯金をする方がどんなに偉いかわかりやしない。」
「あら、そんなこと褒められるなんて変だわ。あなたにも不自由を忍んでいたゞいてるんですもの。」
「別に不自由はしてないな。どうしてつて、お前は愛情を節約しないもの。」
「だつて……。」
 と、彼女は、そこで肩をくねらせ、胸をぐつとつまらせる。ほんたうに泣きたいのである。こんなことを、わざとらしくなく、むしろ、頭の蠅を追ふぐらゐの気易さでいつてのける亭主がまたとあらうか。彼女は、事実、そんな亭主はまたとないといふことさへ知らずに、それでゐて、なほかつ、感動するだけはするのであるから、これはよくできた夫婦である。


 梅雨晴れの、蒸し暑い日の午後であつた。弘子は朝から支度をして、旧友野溝和歌子のみぞわかこの来訪を待つてゐた。
 二人は学校を出ると、殆ど同時に結婚生活にはひつた。二人とも、希望どほり官吏を夫に選ぶことができたが、弘子が文字通りの媒妁結婚に甘んじたのに反し、和歌子の方はちよつぴりロマンスめいた許嫁いひなづけの期間といふものがあつたので、その当座は弘子の方で引け目を感じてゐたが、しばらくたつて、お互に新婚の打明け話をしあつてみると、案外、和歌子の方に不満が多く、こつちが慰め役に廻るといふ現象を、これは二人で笑つたことがあるのである。
 あれからもう三年たつた。和歌子の夫はこの間の官報でみると、もう高等官である。学校の関係もあるが、上役に対する態度がやはり物をいふのであらう。さういへば転任の時、停車場へ送つて行つて、一度挨拶をしたことがあるが、なるほど才子肌といふか、弁も達者だが、商人のやうに腰がひくゝ、当節の役人は半面においてあゝなくてはならぬと、尊敬はできないまでも、感服したことを覚えてゐる。
 ところが和歌子の方は、つい、入れ違つて弘子の夫に会つたことがないのである。
 で、座敷へあがる早々、
「つまんないの。今日みたいな日に、旦那さんをお役所なんかへやるつて法ないわ。友あり遠方より来る。あんたばかりに会ひに来やしないわよ。」
「あら、あら、そいつは気がつかなかつた。でも、よろしくつていつてたわ。今夜は生憎遅くなるのよ。でも、あんた、泊つてけない? こんなところでよけれや……。」
「なあに、それほど見たくもないさ、ひとの旦那さんなんか……。今年は転任だと思つたらまた駄目さ。役があがつただけ……。癪だから、ひとりで出て来てやつた。母さんがうるさく呼ぶんだもの。」
「よくそんなことできるわね。あとが心配ぢやない?」
「どつちさ? 亭主? 子供?」
「どつちにしろよ。」
「亭主はのろ/\してゐるし、子供はあたしよりパパの方が好きなんだもの。」
「相変らず、皮肉ね、あんたは……。世の中をさういふ風に見るのが、結局悧巧なのか知ら? 気持がかるいでせう?」
「なにいつてんの。あんただつて、ふさいでるみたいぢやないぜ。」
「鬱いでやしないわ。たゞ、このまゝでいゝのか知らと思ふだけよ。なんだか、先々のことを考へるのが怖いやうだわ。」
「あゝ、小鳩の如き彼女を、神よ、護り給へ。」
「二十六の小鳩か。これではやぶさの爪をもつてること、知らないでせう。あたし、時々、さう思ふわ。自分のほんとの力が試してみたいつて……。生きるか死ぬかの戦ひつて、一生になけれやならないわ。早いか晩いかよ、きつと……。」
 注文のすしが来たので、二人は食卓をはさんで食ひ、かつ喋つた。
「よさゝうなねえやさんね。あら、あんなに恥かしがつて……。いくつなの、いつたい?」
 女中の初代はつよは、お盆で顔をかくした。
「十九ですつて……田舎のひとは、年がちよいとわからないわね。」
「うぶなところもあるし、成熟したところもあるし……つまり、都会とあべこべなのよ。肉体が精神を追ひ越すつていふ理窟ぢやない?」
「理窟は知らないけれど、たしかに力はあるわ。なにしてたの、早くお茶を入れかへなさい。」
 温容と威厳を示しながら、弘子は、命令した。
「はい。」
 鼻にかゝつた、美しい声である。和歌子は耳をくすぐられてるやうに眼を細めた。
 息子のたゞしが手を泥だらけにして飛び込んできた。海苔巻を二つ貰つてお客さんの顔と見比べてゐる。
「これの小さい時の写真、おみせするわ。」
 綺麗に整理されたアルバムである。処女時代、新婚時代、母親時代と順に並べてあるらしい。もちろん、処女時代を除いて単独で写したものなどはない。これに反して、ところ/″\、子供と夫だけは、いろんな機会に一人で写したのがある。夫のは、同僚と写したのまではひつてゐる。
 和歌子は、あまり子供には興味を惹かれないとみえ、弘子が開けたところはいゝ加減に飛ばして、はじめから見直した。
「なるほど、彼氏の青年時代つていふとこね、見合の写真はこれぢやないの?」
「ふ、ふ、ふ。」
 と、弘子は、笑つた。
 食卓の上を片づけるふりをして、女中の初代が、ちらとその写真を横眼でみた。その眼の輝きには誰も気がつかなかつたが、そのあとで、ぼんやり、お客さんが飲みかけた茶碗を引かうとしたのが不覚であつた。
「それはまだよ。忠坊をあつちへ連れてつて遊ばしておくれ。あら、その足の裏はひどいね。早く拭いといでよ。」


 野溝和歌子は、夕方、もう晩の支度にかゝらねばと思ふころ、やつと腰をあげた。
「ねえ、はつや、後生だから奥さんのいふことを聴いてね。一日に三度は、きつと足の裏を拭くのよ。あんたは、割に綺麗ずきだからと思つて安心してたら、とんだ恥をかいちやつたわ。さ、こゝを片づけて、忠坊のお守してゝ頂戴。あたし、ちよつとひと走り、お惣菜を見つくろつて来るから……。」
 夫の節蔵は、八時少し前に帰つて来た。ぐつたり疲れてゐる様子であつた。それでも、風呂にはひつて膳に向ふと、血色のいゝ額に旺盛な食慾をのぞかせて、妻の手料理に舌つゞみを打つのである。
「なんぢや、これは……魚の卵か?」
「ムツ子ですわ。おいしいでせう。」
 お給仕をしながら、ふと思ひ出して、座敷の方へ起つて行つた。さつき和歌子に見せた写真帖を、久しぶりでゆつくりと見ようといふのである。
「初や、さつきのアルバム、どこへしまつたの?」
 初代は、女中部屋からのつそり出て来て、袋戸棚のいつもそれを入れてあるところから、ちやんと両手でおろした。
「おや、よくしまふところを知つてたのね。」
 さういひながら、彼女は、再び夫のそばへ来て坐つた。
「ご飯、お代り?」
「いや、ぬるいお茶くれ。」
「折角熱いんだけど、うめますか? 遠慮してらつしやるんぢやない?」
「熱いのか? うん、熱いんでもいゝ。」
「どつちがよろしいの、ほんとに……。」
「実は、ぬるい方がいゝ。」
「初や、これへおひや少し……。」
 こんなことはたび/\だから、どつちもなんとも感じてゐないが、そばで聴いてゐると、余計な手間をかけるものだと思ふ。初代も、だん/\それを感じて来たらしく、茶碗を受け取つてもすぐに起たうとはしない。また熱い方を奥さんがすゝめれば、旦那さんはその気になるかも知れないからである。
「おやツ。」
 と、この時、弘子は叫んだ。
 節蔵は夕刊から眼をはなした。
「どうしたい?」
「こゝへ貼つたつた写真がなくなつてるわ。こら、こんなに剥がした跡があるでせう。さつき、和歌子さんが来た時、見せたばつかりだのに……変ね……どうしたんでせう。」
「どんな写真だい?」
「どんなつて……あなたのお写真よ……。ほら、はじめて背広を新調なすつた時おうつしになつたつていふ、あれ……。いやだわ、一枚きりで、大事なのに……。」
「をかしいぢやないか。和歌子さんが持つて帰りやしないだらう……。」
「そんならさうでいゝわ。写真ですもの、そんなにほしけれや、やるわ。なんて……。そんな、この人黙つて持つてくはずないわ。第一、これ剥がすの、大変よ。」
 さういひながら、そつと夫の顔を見あげたが、その瞬間、それこそ、凄い眼つきをして台所の方を振り返つた。
 節蔵は、妻のたゞならぬ気配に、はつと何かを感じ取つたらしく、頤を突き出して一言発しようとしたとき、
「初や……。」
 弘子は、意外にも、おだやかな声で呼んだ。返事がない。
「初や……ちよつと来てごらん。」
 まだ答へがない。
「どうしたの、初や……呼んでるのが聞えないの?」
 それと、彼女が、弾機ばねのやうに飛びあがつたのと同時であつた。
 初代は、茶碗を抱へたまゝ、台所の板敷の上に蹲つてゐた。
「初や……。さ、あの写真を持つてるならお出し……。」
「あたくし、存じませんです。」
「存じませんことないわ。あんたよりほか、そんなことするものないのよ。」
「でも、あたくしぢやございません。」
「さ、そんなに強情張らないで、素直に返して頂戴……。さうしたら、怒らないわ、あたし……。」
 すると、奥から、
「弘子……弘子……。」
 と、自分の名を呼ぶ夫の声が聞えた。彼女は、なんともいひやうのない切なさで、胸がはち切れさうだつた。わツと彼の膝へ泣き伏したい衝動にかられながら、それをぢつとこらへ、一歩、一歩、初代のそばへにじり寄つた。
「どうしても渡さないつていふの? その懐へ入れてるの、なに?」
 慌てゝ押へる両手を、弘子は、ぐいとつかんで、力まかせに手許へ引いた。
 初代は重心を失つて、あふむけに転がつた。弘子は、その上へ折り重つた。手と手がつかみあひ、髪と髪がもつれあつた。
「おい、おい、どうしたんだ……。弘子……見つともないからよせよ……。」
 節蔵は、この光景に、唖然として、台所の入口に立ちすくんだ。
 それが耳にはひるはずはない。弘子は、息を弾ませ、歯を喰ひしばつて、やつと初代の懐へ片手を捻ぢ込んだ。が、もう遅かつた。写真は、揉みくちやになり初代の掌のなかに握りしめられてゐた。今度は、その掌を、無理矢理に開けさせて、弘子はちよつと舌打ちをした。戦闘は終つた。


「あなた、どうお思ひになる? あたしは、今、冷静に考へるなんてことできないの。とにかく、女中が旦那さんの写真を盗んで懐へしまつてゐるつていふ事実ね。とても曖昧だわ。不潔だわ。あなたがなんとおつしやつても、こればかりは、あたしに納得がいかないと思ふわ。どうしたらいゝんでせう?」
 弘子は、茶の間へ来て、夫とむかひあつた。
「君は、何か誤解してるね。僕に責任でもあるつていふのかい? 僕に後ろ暗い行為でもあるやうに疑つてるのかい?」
「さうはつきりおつしやらなくつてもいゝわ。誤解なら誤解だつていふことを、あたしに誰が知らしてくれるの? あなたがさうおつしやる時、なぜそんな風に、変な照れ方をなさるの? こんな真剣な問題を、どうして、わざと軽く扱はうとなさるの?」
「別に軽く扱はうとするわけぢやないが、僕もこれで国家の官吏だ。相手もあらうに……。」
「女中風情つておつしやるんでせう。さういへば人聞きはいゝけれど、あなたのことだから、それはわからないと思ふの。あなたは、ほかの男と、まるで違ふんですもの。まさかと思ふことが、かへつてさうなのかも知れないわ。」
「こゝでそんな押問答してゝもしやうがない。あれをこゝへ呼びなさい。僕が訊いてみてやらう。」
「ご自分とのことを訊いてみてやらうはないでせう。訊くなら、あたしが訊きますよ。」
 弘子が、二度、三度呼んでも返事をしないので、節蔵が、
「初……心配しないでいゝ。こゝへ来い。」
 と、改まつた声で呼んだ。
「僕から訊くがね、初、ありのまゝを、つゝみ匿さず返事をするんだよ。いゝかい。あの写真を手に入れて、どうするつもりだつた?」
「…………」
「旦那さまのお写真を、どうして黙つて取つたの? 旦那さまにさういへば、いつでも下さるぢやないの?」
「奥さんにいつたつていゝんだ。」
 節蔵はつけ足した。
「ところで、念のため、これだけ訊いとくが、おれは、今まで、お前のからだに指一本触れたことがあるかい?」
 弘子はキツとなつたが、初代は、そこで、かぶりを大きく振つてみせた。
「そんな訊き方つてあるもんですか。」
 どうだ、といふ夫の顔つきへ、弘子は素気ない一瞥を与へ、さて、今度は、自分で、
「それぢや、あたしが訊くけどね、あんたうちの旦那さまのどういふとこが好きなの? それ、はつきりいつてごらん。」
 節蔵は、思はず忙しい瞬きをした。初代は丸い頤を襟へ深く埋めて、肩で溜息をついた。
「ねえ、いゝこと、ほんとなら、さういふことはゆるせないのよ。」
 と、弘子は、もう、いくぶんの余裕をみせ、
「あたしだからかまはないわ。せめて写真でもと思ふ気持はわかつてよ。でも、おんなじ所にゐれば今にこれだけですまなくなるわよ。あんたも苦しいわ、きつと……。さういふ時、まづ、自分つていふものを考へなくつちやね。あんたがいくら想つたつて、うちの旦那さまがどうなるものぢやなし、こんなことをいふと可笑しいけど、あたしがゐるうちは駄目よ。」
「あら、奥さま……。」
 初代は、絶え入るやうに呻いた。
「ぢや、なんにもいふのはよさう。これ以上あんたを責めたつてしやうがないんだから……。その代り、こんなことがあつてから、あんたもこの家にはゐづらいだらうし、こつちも使ひにくいから、今夜つてわけにもいくまいが、明日から暇をあげるからね。新しいお家で、なにもかも忘れて、朗らかに働くといゝわ。そのうちに、あんたも、若い、いゝお婿さんでもみつけて、幸福な家庭を作るのね。」
 その言葉が終るか終らないうちに、初代はしく/\泣きだした。
 女中が暇を取る時は、荷物を一応しらべてから出すものだといふことを、どこかで誰かに聞いたことがあるので、弘子は、つか/\と女中部屋にはひつて行つて、たつた一つの柳行李をひつくり返した。
 着物は着替へが一枚しかはひつてゐなかつた。その代りたくさんの古雑誌と手紙の束が、下着類の間からこぼれ出した。手紙は、いづれも同じ女名前で国許から来たものであつた。
「これは誰? 友達?」
「はい。」
「見てもいゝ?」
 困つた風であつたが、それに頓着なく、弘子は、その一通の、なるだけ部厚なのを選り出して、中身をひろげた。
 お手紙ありがたう。もうすつかり東京に慣れたつて、ほんとかね。今ゐるうちは、そんな立派なうちなら、いつまでもゐるといゝわ。奥さんつていふひとどんなひとか一度みたいわ。東京のハイカラ奥さんなら、婦人倶楽部の口絵にのつてるやうな、あんなのか知ら。旦那様はあんたに直接口きかんなんて、ずゐぶんね。わしら、紡績へ行かんもんは、なにも楽しみないわ。田植がもうはじまるけど、うちの田は、また水でひと苦労だわ。処女会もあんたに行かれて淋しうなつたわ。お秀ちやん、先月赤ん坊生んだわ。女の子で、お秀ちやんによう似て、真つ白よ。あんまり早う子供こさへると、青春だいなしだつて、わしたち、かげで笑つてるの。相手が高卒以上でなければ、嫁に行かん、恋愛もせんていふ規約、わしらで作つたわ。それはさうと、あんた、もう、スイートハート出来たつて、あんまり運がよすぎはせん。うつかりすると、だまされるから気をつけなさいよ。東京は、みかけ倒しの男が多いていふ話、みなしつてるよ。大学生は九割まで不良だつてね。あんたのスイートハート、大学出つていふけど、調べてみたの。わし看護婦になりたいと思ふけど、手づるないか知ら。
 わし、人相見の本、鶴岡の友達から送つてもらつたの。面白いよ。あんたのスイートハート、どんな人相か、みてあげるから、写真送りなさい。迷信と違ふのよ。骨相学つていふ立派な学問よ。
 こゝまで読んで来て、弘子は、ぷつと噴き出しさうになつた。
「ちよつと……あんた、このひとんとこへ、うちの旦那さまのお写真送るつもりだつたのね。」
 初代は両手で顔を押しかくした。
「大学出のスイートハートに違ひないわ。さあ、さあ、この封筒ちやんとしまつて、早く流しの洗ひもの、洗つちまひなさい。」
 初代が起つて行つたあとで、ふと押入れの棚の上をみると、書簡箋に、ペンで手紙を書きかけてある。
 毎日雨ばかりで、東京も何処もないわ。この夏は多分、海岸へ避暑に行くことになるけど、手紙は出すわ。
 女中は、また一人ふえたから、あたしはまるで遊びよ。子供のお相手は、昼間だけだから、夜は自由なの。映画もみれるし、銀座にも時々散歩に出かけるわ。
 奥さんにお化粧のしかた習つたら、それやきゝめがあるのよ。でも、奥さんほど、そればかりにかゝつてゐられないから、まだ田舎のあかは取れないけど、彼氏に、会ふたんびに見ちがへるやうになつたつていはれるわ。お世辞もあるのよ。
 旦那さんと奥さんとは、東京でもちよつと類のないほど、キンシツ相和してるから、それは見ものよ。
 奥さんは、まづ九十点の美人、旦那さんは、青田先生をでこぼこにしたと思へば間違ひなしよ。さう/\、あんた人相見できるなんて人をだます気だらう。わたしのスイートハートどんな男かみてやらうと思つて、そんなこといつてるわ。東京ぢや夜店と並んで、しよんぼり立つてゐるのが人相見よ。誰も相手にしないわ。それより、彼氏の写真は、なかなか呉れつていつても呉れないのよ。会ひたい時会へるからいゝぢやないかつていはれると、そのとほりだもの。でも、今に、うまいこといつてもらつてみせるわ。
 二十六で、ちやんと明大卒の免状もつてるから間違なしよ。まだプラトニツクだから心配しないでおくれ。
 弘子は、ぽいと、その書簡箋を棚の上へ投げ出した。それから、
「あなた……あなた……。」
 と、充血した眼を軽く指でおさへ、片手で捜るやうに廊下を歩きながら、もう二階の寝室へあがつたらしい夫の後を追つた。
 やがて、その二階から、頓狂な夫の声で、
「おい、馬鹿、くすぐつたい……よせつたら。おれは、しばらくお前とは口を利かん……。可哀さうに、みろ、あの女。いまに死んでも、おれや知らんから……。」





底本:「岸田國士全集 9」岩波書店
   1990(平成2)年4月9日発行
底本の親本:「花問答」春陽堂
   1940(昭和15)年12月22日
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2019年10月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード