計算は計算

岸田國士





 悪夢のやうな戦争がすんで、その悪夢の名残りとも思はれる重苦しい気分が、まだ続いてゐるいく年か後のことである。
 もう五十を二つ三つ越して、十年一日のやうな教師といふ職業に、すこし疲れをおぼえかけた守屋為助は、性来、ものごとにこだはらず、どこまでも善意をもつて人に接するといふ風な人物であつたにも拘はらず、近頃、ふとしたことに思ひ悩んで、めづらしく暗い顔を家のものにも見せるやうなことがある。
 A大学教授、といふ新しい肩書ですこし鼻を高くするほどの稚気はさらさらなく、昔ながらの高等学校教師でゐたいと、いつも口癖のやうに言ひ言ひするのを、妻の杉江は、それはさうあらうと、夫の言葉をそのまま信じ、別に俸給の率に関係さへなければ、その方が夫の人柄にふさはしいのにと、ひそかに、大学教授といふいかめしい肩書を恨んでゐるくらゐであつた。
 事実、守屋為助には、学問に対する情熱よりも、教育そのものに対する興味の方が大きいやうにみえた。専門の心理学は、いはば、概論の繰り返しに必要な新刊書に眼を通す程度に止め、特別に深い研究をつづける野心もなく、その代り、一個の教師として、受持の学生を指導する責任といふ点にかけては、彼ほど真剣に、かつ、周到に、そのことを考へてゐる教師は、稀だといひ得るのである。
 櫛をあてるのは、床屋へ行つた時だけといふ頭髪は、棕櫚箒のやうに左右に乱れ、上下いく本か残つてゐる歯は、煙草のヤニのために海岸の岩のやうに黒く、剃刀を極度にきらつて、ヒゲは必ずハサミで切らせることにしてゐるから、いつでも多少は伸びてゐる。九州人特有の骨格が、洋服を和服のやうに、和服を洋服のやうにみせるほか、風貌全体からいへば、これといつて人目をひくやうなところはない。いつも慎み深く、どこへ行つても片隅に座を占める習慣があるので、集りの場所などでは、気をつけて捜さなければ、彼のゐることをうつかり知らずにすごすこともあるくらゐである。
 ところが、この、一見、地味で目立たない存在が、家庭でも、学校でも、決して周囲からうとんぜられる存在ではなく、それどころか、彼の在るところ、常に春風駘蕩といひたいほどの、一種の温か味と爽やかさとを身につけてゐることが、それを感じるものにはみな感じられてゐた。
 彼の怒つた表情を誰も見たものはなく、さうかといつて、高笑ひの声を聞いたものもない。彼の眼は常にしづかに澄み、唇は、わづかにもの言ひたげに開いてゐる。口数は決して多くはないけれども、話しはじめると、なかなか能弁で、しかも、節度があつた。時に諧謔を弄するやうにみえることがあるけれども、それも、才気の迸りに類するものではむろんなく、淡々とした性情の自然の流露が、間髪をいれぬ素朴さで、急所を突いた応酬を生むのである。
 二男二女の父親である彼は、妻の杉江と共に、そろそろ、老後の心配をしはじめてゐるものの、幸ひに長女は、良縁を得て、終戦の年に北海道札幌に家を持ち、長男は、今年大学の経済部を卒へて某出版社に就職がきまつた。家からそれぞれ学校に通つてゐる次男と次女とは、まだ丁年に達せぬながら、なかなか親思ひなところがあり、次男の如きは、必要な書物は自分で買ふと称し、なにやら、アルバイトのやうなことをやつてゐる様子である。
 なにをやつてゐるのかを問うても、次男の達也はなかなか言はうとせぬので、彼はもう強ひて詮議はせぬつもりでゐるが、それでも、どうかすると、それが気がかりで、夜おそくまで帰らないやうなことがあると、妻の杉江に、「気をつけろ、大丈夫か」と、役にもたたぬ念をおしたりする。
 次女の志津子は、まだ至つて呑気な女学生で、口では倹約をすると言ひながら、少女雑誌をいく種類も買ひ込み、読んでしまふと、さつさと友達に貸すのが楽しみのやうである。
 この二人の息子と娘とをどう取扱つていいか、実は、守屋為助は、もう、それほど自信がもてなくなつてゐた。もともと、子供の教育などといふことは、親がどんなに力んでも、思ふやうになるものではないと、彼は、理論的にも、実際的にも、限度のあることを知つてはゐたが、上二人の場合は、それでも、又親として、かうさせようと思へばかうなるといふ、いくぶんの成算が立つやうだつたけれども、下二人になると、それがまつたくさうはいかぬことに、早くも気がついた。別に、彼の言ふことを聴かぬとか、あからさまに反抗を示すとかいふのではないにしても、どこか、上二人ほど手ごたへがなく、言ふことなすこと、およそ判断にあまることばかりで、つまるところ、なんのために父親がゐるのか、自分ながら得心のいかぬ場合がしばしばあるのである。彼は、さういふ不安とも不審ともつかぬ気持を、まだ子供たちに正面からぶつけてみたことはない。ただ、杉江に向つて、こんな風に切り出してみることがある。
「ねえ、君はどう思ふ? 達也や志津子は、いつたい、両親をいくぶんでも尊敬してゐるのかねえ?」
 妻の杉江は、夫の言葉の調子があまり穏かで、笑ひをさへ含んでゐるのに気をゆるして、
「さあ、特別に尊敬なんかしないでせう。だつて、尊敬なんかしてもらふ理由ないんですもの」
 と、思つたとほりを言ふ。
「うむ。それはそれに違ひないが、別に、封建的な意味ぢやなくさ、公平に考へて、普通の子供なら、普通の親を、いくぶん、親として認めてもよささうなもんぢやないか?」
 彼は、さういふ自分のなかに、まだまだ、家族制度を尊重する旧思想が根を張つてゐることを認めながら、それをいくぶんでも自分で否定するやうな身構へで言つた。
「あら、二人とも、親を親とも思はないやうなところは、ちつともありませんよ。やつぱり、なんでもかんでも、お父さん、お母さん、ですよ。ただ、お行儀つてものを、まるで知りませんね。あれで、当節は、通用するらしいんですよ。あたしたちも、戦争ですつかり、お行儀なんてこと、言つてられませんでしたからねえ」
「ふむ、お行儀か……君は、さう解釈するんだね。たしかに、さういふ一面もある。だが、行儀なんてものは、一軒の家で教へたつてダメだな。ぢや、万事、成行にまかせるか」
 この話はひとまづそこで打ち切られるが、守屋為助は、これで、さつぱりしたわけではない。
「お父さん、飯食つた?」
 学校からまつすぐに帰つて来たらしい次男の達也が、書斎の前を通りながら、彼に声をかける。
 彼は、返事をしようかしまいか、と、一瞬間ためらつた末、
「食はん」
 と、やる。足音はもう聞えない。
 また、次女の志津子が寝坊をして、やつと洗面所へ顔を洗ひに来る。彼は、もう口をすすぎ終つて、洗面器に水を溜めてゐるところである。
「急ぐのよ、早くどいてよ」
 娘の、いくぶん尖つた声を背中に浴びて、彼はうろたへる。そして、彼は、なるほど、と、思ふ。たしかに、妻の言ふとほり、親を親と思はぬわけではない。ただ、親を親としか思はぬか、或は、親と思ひすぎてゐるのである。平たく言へば、物事のけじめをわきまへぬだけの話である。彼は、なにか、ほつとして、笑顔を作りながら、後ろをふりむく。
「お早う、よく眠れたかい?」
「そんなことより、お父さん、学校の寄附どうするの? 早く決めてよ。お母さんになんべんも言つてるのに、待つて待つてつて、ばかり言ふのよ」
「よし、けふきめる。朝飯がすむまでにきめる」
 彼は、校舎増築の費用を生徒の父兄が負担する制度について、妻の杉江と、これ以上是非得失を論じてもラチがあかぬと肚を決めた。


 晴れた朝、学校の門をくぐる時ほど、彼にとつて生甲斐を感じる瞬間はなかつた。
 彼は、彼の講義に出る学生の顔と名前とは、学年の最初の数時間に悉く覚えてしまふおそるべき注意力と、記憶力とをもつてゐた。
 それらの学生は、彼と行きあつても、向うから挨拶をするものと、こつちから帽子へ手をかけるまで知らん顔をしてゐるものとがあつた。しかし、彼は、そのいづれにも、まつたく、おなじ科と、おなじ表情で会釈をし、古びた校舎の冷えびえとした建物のなかに、軽い靴音をひびかせながら、吸ひ込まれるやうにはいつていく。
 さて、講義の時間になると、彼は、ノート一冊を小脇に挟んで教室へ急ぐのであるが、この廊下の石畳を踏む数秒間、近頃の彼は、妙に足の重さを感じるのである。その理由は、簡単だ。出席率が、目に見えてわるいといふことである。
 ところが、これはどうしようもない事実で、学生の大多数が、経済的な事情で課業を休まぬわけにいかぬといふこと、しかも、そのうちの何割かが、学費を稼ぐために、例のアルバイトをやつてゐるといふことに外ならぬのである。
 守屋為助は、ある日、講義をはじめる前に、学生に向つて、かう言つた。
「わたしは、諸君がアルバイトによつて、若干の学費の補ひをすることに反対はしない。しかし、考へてみたまへ。一年間の大部分をアルバイトのために休学して、それで、学校に籍をおく必要がどこにある。大学の卒業免状を取るためだけに、大学に籍をおくといふんなら、むしろ、さういふ精神こそ軽蔑すべき精神だ。なぜ学校をやめて、ちやんと働かないんだ。もし、正規の課程をふんで、学問をしたいなら、なぜ、働いて金を溜めて、それから学校へはいる計画を立てないんだ」
 彼が、そこまで言ふと、一人の学生が、
「先生、その考へは現実を無視したもんだと思ひます。大学の卒業免状が、そもそも、われわれには先づ必要なんです。それは、比較的安全な生活の保証だからです。先生の時代には、さうぢやなかつたんですか?」
「伏見君、現実といふものを、さういふ風にばかりみてはいけない。なるほど、現実の一面はたしかに君の言ふとほりだ。しかし、わたしが言ひたいのは、大学の卒業免状を比較的安全な生活の保証だといふ風にだけ考へないで、もう少し、大学の精神と実質とに結びつけた見方をしてほしいのだ。わたしたちの時代には、少くとも、原則としてそれがあつた。今でも、諸君のうちに、きつと、いくらかはそれが残つてゐると、わたしは信じてゐる。君をして、公然とさういふ言をなさしめるのは、いつたい何か? 時代だといふのか? 否、断じて、否だ。敢て言ふが、それこそ、時代におもねり、時代に甘え、時代を見くびつてゐる者の軽薄な態度にすぎんと、わたしは思ふ」
 すると、また一人の学生が、ニヤニヤ笑ひながら、応じた。
「それなら、先生は、今日の大学といふもんを、頭から肯定してゐられますか? これが大学の在るべきすがたですか? 歴史的必然を無視して、徒らに資本主義の走狗を養成する大学になんの権威が認められるでせう。僕たちは、それなら、なぜ、さういふ大学へはいつたか、と、言はれるでせうが、それはただ、方便にすぎません。卒業免状は、いはば、入国困難な国へ足を踏み入れる、パスポートでしかないんです」
「講義をはじめる」
 と、守屋教授は、静かに、ノートのペーヂを繰つた。


 予定の分だけの講義を終ると、彼は、教室をひと渡り眺めまはし、いつでも熱心に彼の講義に聴き入り、敏捷にノートのペンを走らせてゐる聡明らしいいくつかの顔に、それとなく激励の眼ざしを投げ、そして、ゆつくり教壇を降りながら、だしぬけに、そのうちの一人の名を呼んだ。
「真鍋君、ちよつと……教官室へ来てくれたまへ」
 真鍋と呼ばれた学生は、ひ弱さうなからだつきをし、強い近視らしい眼を充血させて、おそるおそる彼の後について来た。
 廊下へ出ると、彼は、そつちを振り返りながら、かう言つた。
「しばらく顔をみせなかつたやうだが、どうしたの? 病気? アルバイト?」
「アルバイトが祟つて、しばらく医者にかかつてゐました」
 と、真鍋は、照れ臭さうに答へた。
「アブ蜂とらずとはそのことだ。アルバイトは、なにをしてゐたの?」
「僕には無理だと思つたんですが、船の荷役をやりました。条件がわりにいいもんですから……」
「ふむ、重労働ぢやないか。下宿代まで稼がなくつちやいけないの?」
「ええ、時々、おやぢからの送金が途絶えるもんですから……」
「まあ、かけたまへ」
 と、守屋為助は、教官室のあいてゐる椅子を真鍋に与へ、
「それで、からだの方は、どういふの? 胸ぢやあるまいね?」
「やつぱりさうらしいんです。でも、学校へ出るぐらゐ、注意をすれば差支ないつて、医者は言ひました」
「気胸でもやつたらいいんだらうな。僕から、医学部のだれかに話してみてあげようか。費用なんか、さうはかからない筈なんだ」
「僕はもう、それどころぢやありません。一日生きるつていふことで精いつぱいですから……。それに、そんなに生きてゐたくもないんです」
 守屋為助は、この青年の事もなげに言ひ放つた自暴自棄ともみえる言葉を、どう受けとるべきかに迷つた。
「おい、真鍋、君は、本気でそんなことを言つてるのか?」
 と、彼は、つとめて相手を刺戟しないやうに、ものやはらかに問ひかけた。
「いや、ただ、そんなことが言つてみたかつたんです。すべて、今の僕にはわからないことだらけで、しかも、そのわからないことが、疑問のかたちで自分に解決をせまつて来ないのが、むしろ、やりきれないんです。先生、ご用はそれだけですか?」
「ああ、別に用事といふわけではないんだが、君のやうな優秀な学生が、落ちついて勉強できない状態にゐるのを、わたしは黙つて見てゐられないんだ。なにか、わたしで役に立つことがあつたらと思つたんだが……まあ、十分健康に注意して、手遅れにならないやうに注意したまへ」
「ええ、けふ、教室で先生の言はれたことを、もう一度よく考へてみます」
 ぺこりと頭を下げて、真鍋は出て行つた。
 その日、守屋為助は、めつたに見せぬ暗い顔をして家に帰つた。
「どうかなすつたんですか?」
 と、さすがに妻の杉江は、すぐに夫の顔色に気がついて、かう訊ねたが、
「いや、なんでもない。どうだらうね、一人、学生を家へおいてやる余裕はあるまいな?」
 と、もう、平生の屈託のない表情にもどつて、彼は、外套をぬがせるために背中へまはつた妻に話しかけた。
「学生さんをですか? 部屋だけでせう?」
「うん、部屋も部屋だが、実は……」
 これこれのわけだがと、真鍋の事情を説明すると、妻の杉江は、
「でも、あなた、さういふ学生さんは、ほかにもたくさんゐるんでせう? なにか、特別の義理でもおありになるんですか?」
「ない。ただ、どこか見どころのある青年だといふだけだ」
「そんなら、なにも……」
「いや、わかつてるよ。一人でもなんとかならんかと思つてさ。が、まあ、諦めよう。力足らず、だ」
 着物を着かへをはると、妻は、一通の速達便を彼の手に渡す。
「へえ、珍しい男が出て来るぞ。ほら、一度家へもやつて来たぢやないか、あの八女陸郎だよ、九州のB大学にゐる……。あれからもう十年になるなあ。覚えてるだらう、年賀状だけは欠かさず寄越す男だから……」
「さうでしたつけ? さうおつしやれば、そんな気もしますわ。その方が、どうして出てらつしやるの?」
「だからさ、心理学会の総会が今月末にあるからさ。宿をしてやらう、宿を……。なにしろ、私費旅行は、今時、つらいだらう。あいつも、わたしとおんなじで、ほかに芸なしだから……」
 旧友八女陸郎を迎へる準備のために、なんとか無理をして、夜具ひと揃ひの綿の打ち直しが早速行はれた。


 十一月の末は、寒さがいくらかゆるんだかはりに、小雨のしよぼつく日がいく日もつづいた。
 公式の総会や研究発表が終つて、いくつかのやや私的な級友会のやうなものが、二晩ぶつ通しにあつたけれども、守屋為助も八女陸郎も、その方には顔を出さず、二人だけで勝手に飲み、食ひ、歩き、かつしやべる機会をつくつた。
 飲み食ひといつても、決して贅沢な場所へ出入りするわけではなく、最初の晩は、盛り場のビヤホールで一杯のヂョッキに陶然とし、そのあとはこれといつて行くあてもなく、七時そこそこにはもう家の門口に辿りついて、妻の杉江の手料理で晩飯をすました。今日はそれでも、八女陸郎が銀座裏のおでんやへ彼を誘ひ、熱い燗を所望したまではいいが、あまり日本酒をやらぬ守屋為助のことなどは問題にせず、ゆつくりみこしをすゑて、なかなか起ち上らうとしないのを、守屋為助は、腹がすいたといつて、無理に相手を引つ張り出し、有楽町まで来て、一軒のすし屋へ連れ込んだのである。
「はは、すしか。酒はないか、酒は?」
 と、八女陸郎は、いい機嫌である。
「酒もあるさ。君は、昔からそんなに飲んだか」
「昔は昔、今は今さ。しかし、愉快だよ、君とかうして、久しぶりに会へたのは……。今夜はうんと若返らう」
 若返るのはいいが、守屋為助は、この老学者の酔ひつぷりをしみじみ眺めながら、なんとなくそこに青春の亡霊のやうなものを感じ、われとわが身をふりかへらないわけにいかなかつた。
「おい、守屋、君はもう飲まんのか。そんならおれもこれくらゐにしとくよ。なに、適量はとつくに過ぎてゐるんだが、これくらゐ入れとかんと、はめを外すわけにはいかんからなあ。おれは、戦後の東京の夜なるものをちつとばかり見学しておきたいんだよ。君にその案内は無理かもしれんが、まあ、なんでもいいや、そのへんをぶらついて、いはゆる現代のデカダンスの匂ひを心ゆくばかり吸はうぢやないか」
 さういふ八女陸郎教授のもうろうとした瞳の奥には、しかし、すこしもみだらな慾望の如きものは見られず、例の昔の大言壮語に似た、空虚な英雄気取りがあるだけのやうに思はれた。
「よからう。案内役の不調法はゆるしてもらふとして、どこへでもお伴はする。さ、出かけよう」
 守屋為助は、満腹の腹をさすりながら、旧友の腕をとつた。
 二人は、地下鉄で浅草へ出た。
「なるほど、変つたといへば変つたし、変らんといへば変らん場所だな。ははあ、これが評判のストリップ・ショウか。はいつてみよう」
「なに? ここへはいるのか?」
 と、守屋教授は、いささかためらひ気味であつたが、その瞬間、彼の頭のなかでは、自分の行動を正当づけようとする奇怪な論理の争闘が火花を散らした。――いつたい、なにをためらふのか? 興味がないのか、あるのか? 興味が全然ないと言ひきれるか? 興味がいくらかあるとすれば、それはどんな種類の興味か? いや、それよりも、なにかを憚つてゐるのではないか? なにを惧れる必要があるか? その憚りおそれなければならぬものは、外部的なものか、それとも、自己内部にあるものか? いづれにせよ、おそらく、ただそれは、教育者といふ身分のゆゑにすぎないのではないか? しかも、それなら、単に、外聞を気にするといふだけの話で、本質的に、教育者なるが故に、それをしてはならぬといふ理由は毛頭成り立たぬわけである。教育者は、時代の風俗について、時代の倫理について、あらゆる現象の末端にまで誤らぬ認識をもつてゐなければならぬ筈である。八女陸郎は、さつき、たしかに、「見学」といふ言葉を使つたが、そこにはなんぴとの非難にもこたへ、自己の良心にもそむかぬ大義名分の旗がひるがへつてゐるのである。
「よし、おれが切符を買ふ」
 守屋為助は、決然として、紙入れから二枚の百円札を抜き出した。
 場内はどよめき、また鳴りをひそめ、異常な緊張と痴呆のやうな笑声との入り混つた、想像にあまる一つの世界であつた。
 二人の心理学者は、顔を見合はせて、「うむ」と唸つた。
「女のチャック」と銘うつたバレー風の猥雑な場面がくりひろげられてゐる。なるほど、全裸に近い女体が蠢動する。あらゆる官能的なポーズが惜しげもなく誇示される。そこでは、自尊心が傷つくことなく崩され、羞恥があくまで挑戦のかたちをとる。
 守屋為助は、この風景にしばらく冷たい視線を投げながら、一方、まぎらはしい動揺を皮膚の下に感じてゐた。
「つまらんぢやないか、案外……」
 と、だしぬけに八女教授が呟いた。
「変なもんだな、これや……」
 と、守屋為助は応じた。
「なにか、必要以上のものがあるね」
 八女教授が言つた。
「うん、だが、これでなくちやいかん連中もゐるんだらう」
「第一、裸体つていふもんは、君……」
 と、八女教授がつづけかけると、うしろから、
「やかましい、白毛ぢぢい」
 といふ若い男の罵声が、耳もとへ浴せかけられた。
 八女陸郎は、苦笑とともに、なるほど、さう言はれてもしかたがない自分の頭へ手をのせた。
「出ようか」
 と、守屋為助は、急にいたにつかぬ自分たちの存在に気がついたやうに、八女陸郎をかへりみた。
「うん、まあ、もうすこし……」


 やがて、二人の老教授は、後頭部をしびらせ、いくぶん眩暈めまいを催して外に出た。
「どうだい、感想は?」
 と、八女陸郎は、酔ひもさめたらしい眼つきを光らせながら、旧友の肱をつついた。
「曰く、複雑だね。見た瞬間、こいつはしまつたと思つたが、馴れてくると、いろいろの見方ができて面白かつた。人間はなんといつたつて、動物だよ」
「一言にして言へば、か。しかし、おれは旅の恥はかきずてのつもりだが、君を誘つたのは、いささか乱暴だつたかな。学生にみつかつたら、どうする?」
 八女陸郎は察しがよかつた。しかし、むろんそれは、半分冗談に自分にからかつてゐるのだと、守屋為助にはわかつてゐた。教師稼業をしてゐるものなら、一応、その心理を経験する筈だが、それをまた、愚劣な見栄として軽蔑し得る仲間もゐないわけではないのである。
 で、守屋為助は、それには答へず、ただ、笑ひながら、話をほかへもつていつた。
「学生つていへば、君の方なんかどうだい。ずゐぶん、戦前と気分が変つてきただらう」
「変つたといへば変つたが、変らんといへば変らんね」
 また、彼の癖が出たと、守屋為助は思つた。
「その変つた面について言ふんだが、地方ぢやアルバイトとかなんとかで、学校をサボる奴は少いわけだな」
「さうだ、比較的少い。東京はその点、昔から苦学生の本場みたいなもんだから……。かく言ふおれも、その一人だぜ、おい……」
「そこなんだよ、昔と今の違ひは……。昔の苦学生は、ほとんど例外なく、勉強家だつた」
「さうかもしれん。だが、そのうちの多くは、勉強倒れつてやつさ。おれも一時は、学問で身を立てるつもりでさ、こつこつやるにはやつたが、学校を出たらおしまひさ。ごらんの通り、碌々として、論文も書けずじまひだ」
「そんなことは、どうだつていいさ。おれも、教師の職分に徹する覚悟がやつとついた頃、もう、五十を過ぎてゐたよ。われわれは、なによりも次の世代に対して、償ひをしなけれやならんからなあ」
「それを、どういふかたちにおいてやるかだ」
「われわれのもつてゐるもののうち、なにが彼等のプラスになるかつていふことだらうが……むつかしい問題だ」
「おれは、絶対に弱音を吐かんことにしてるよ。なまじつか、自分の旧さなどを認めて、彼等を甘やかすことは、百害あつて一利なしだ」
「おれは、決して旧いとは思はない。しかし、なにか時代の責任みたいなものを感じるんだ、個人的な問題でなく……」
「そこが、君の盲点だよ。自縄自縛に陥る所以さ」
 この旧友の批判には痛いところもあつたが、「盲点」などといふ流行語を使つてみせる趣味には、同感しかねた。
 その夜、二人は、十時をすぎて家に帰りつき、三泊の予定にしてゐる最後の一夜を、八女陸郎は、懐しい旧友と、また枕を並べ、床についた。
 翌日は、ギリギリ講義の時間に間に合ふので、守屋為助は、東京駅まで八女陸郎を見送り、毎年一回の秋の学会には、必ず出て来るやうに言ひ、その足で、学校へ駈けつけた。
 学生の出席は、相変らずよくなかつた。
 しかし、そこに並んでゐる若々しい青年たちの顔には、反撥を感じさせるものはなにもなく、そのうちのいくつかがやや疲れの色をみせてゐるほか、大部分は、溌剌とした視線を彼の上に投げてゐた。
 彼はふと、なにか愛想のいい前置きの言葉で、今日の講義を始めたいと思つた。その時、咽喉まで出かかつたのは、――「君たちは、ストリップ・ショウなるものを見たことがあるかい」であつた。
 しかし、彼は、それを口に出す勇気がなかつた。いや、勇気がないといふのは正確でない。すぐにそれは、一種の秩序破壊であることに気がついた。なるほど、女子学生のすがたも目についた。しかし、それよりも、教師として、かかる経験を告白することは、目的はどうであれ、学生の歓心を買ふ態度以外の、なにものでもないやうに思はれた。
 そこで、咄嗟に、それに代る言葉を探さうとした。
「諸君、わたしが今日、ある程度の感動をもつて諸君にお伝へしておきたいことは、わたし自身がおそらく生涯を通じて、この数日間におけるほどの切実さをもつて経験したことのない友情なるものの実体についてであります。もちろん、わたしは、ここで倫理学の領域に踏み込むつもりはない。いはば、平凡人の平凡な感想を述べるにすぎませんが、幸ひにして、もし、少しでも諸君の共感を得られれば、わたしは満足するのです。まだ、ノートを取らなくてもよろしい」
 学生たちの表情は、みるみるうちに、やはらいできた。
「先刻ご承知かもしれんが、最近二日間に亙つて、日本心理学会の秋季総会と研究発表が学士会館で行はれました。それを機会として全国から心理学専攻の学者教授連が集つたのですが、そのなかに一人、はるばる九州から十年目に東京へ出て来たわたしの旧友がある。名前は申す必要もありませんが、わたしの高等学校以来の親友、無二の親友です。旧い言葉で、肝胆相照すといふ言葉がありますが、性格も趣味も可なり違つてゐる。生活態度も、学風も、ことによると、政治的な立場も相容れないところがあるかもしれない。しかも、それでゐて、二人は、類のない友情によつて結ばれることを妨げられないのです。相会ふことの愉しさ、互に幸福を祈り、不幸を悲しむ気持、少しでも相手の力になりたいと思ふ念願、更に一歩進んで、互に、いや、少くともわたしから言へば、相手がもつともつと、自分を頼りにしてほしいと思ふほどの軽い不満……」
 ここまでしやべつてきたとき、とつぜん、教室の一隅から、
「恋愛ぢやないか、それなら……」
 といふ、嘲るやうな声がした。
「相手が、どうかすると、自分から離れ去るのではないかといふ、かすかな不安……」
 彼は、頓着なく先へ進まうとしたが、それは、矢つぎ早やに起る弥次によつて、完全に封じられてしまつた。
「友情を信じない人たちが多いやうだから、ひとまづこの話は打ち切りませう。では、前回の続き……ヴントの学説の特色について……」
 ノートをめくる音が、顔を伏せた守屋教授の耳に、微風のそよぎのやうに聞えてゐた。このところ、念を入れて準備をしてある筈なのに、なんとなく舌の滑りがわるい。ちよつと息を入れるつもりで眼をあげた。すると、すぐ前の列に、例の蒼白い真鍋といふ学生の顔がみえる。まだ、しきりにペンを動かしてゐるのだが、それがどうやら、普通の万年筆ではなく、ノートも、みたところ、普通のノートではない。果して、いく枚かのカーボン紙を、手早く次のそれぞれの頁の間へ挟み込む動作までを、守屋為助は見届けたのである。
 最初は、なんのためにそんなことをするのか、彼にはピンとこなかつたけれども、ただ、こんなノートの取りかたをする学生を、今まで見たことがないだけに、彼は、不審に思つた。
 しかし、考へてみれば、その理由は簡単明瞭で、講義を終る頃には、彼にも、すべての合点がいつた。ところで、この行為は、いつたい、許さるべき行為であるか、どうか? そこだけが問題であつた。いはゆる「代返」なる習慣には、たまに眼をつぶることはあつても、この種の手の込んだ、或は合法的かもしれぬが、一方、教師として黙認すべからざる学生の協同謀議に対して、なんらかの手を打つべきではないかと、彼は考へた。
「真鍋君、あとで、そのノートをもつて、教官室へ来なさい」
 かう言ひ残して、彼は教室を出た。
 真鍋は、すぐに彼の前に現れた。
「おう、ちよつと訊ねるがね、君のノートは、それやどういふの? 複写をとつて、どうするの?」
 念のために、つとめて事もなげに、訊いた。
「は? これですか? へへ、アルバイトです、希望者に売るんです」
「友達から頼まれたんだね?」
「僕が考へついたんです」
「そんなものが、金になるのかい?」
「買はうといふやつがゐるんです」
「一回いくら、でね?」
「ええ、講義によつて違ひますけれど……」
「コピーは、いくつぐらゐとれる?」
「せいぜい四枚です。慣れませんから……」
「その思ひつきはまあいいとして、それから、君一人の場合は、仮にそれがゆるせるとしてだ、そんなことみんながやり出したら、学生はどの講義にも五分ノ一出席すればいいことになるね」
「さうです」
「さうですぢやないよ。それでもいいわけかねえ?」
「しかたがないと思ひます」
「うむ。さうなれば、もう、しかたがない。わたしは、教師として、どうもそいつは困ると思ふんだ。今すぐ、君にそれをやめろとは言はないが、すこし、研究させてくれたまへ。どら、そのコピーを一つ、見せてごらん」
 わりによくとつてある。
「参考に、これは一部だけもらつとくよ。いづれ、いいとかわるいとかいふ返事をする。帰つてよろしい」
 が、真鍋は、しばらくもぢもぢしてゐたと思ふと、一旦、部屋の外に出て、また戻つて来た。そして、守屋教授に言つた。
「先生、そのコピーの代をいただきます。それ、一部五十円です」
「え?」
 と、守屋教授は、そのコピーから眼をはなして、相手の顔を見あげた。なにか、腑に落ちぬところがあつた。
「あ、さう……五十円かね……?」
「計算は計算ですから……」
 真鍋は、事務的にそれを言つて、もう片手を出しかけてゐた。
 守屋為助は、頭がこんぐらかつた。そして、それはそうだ、と思ひ、機械的に内ポケットに手を入れた。十円紙幣を五枚数へて、相手の手に渡した。真鍋は、ペコリと頭をさげて出て行つた。
 守屋為助は、真鍋の姿がドアから消えると、やつと、これはなんとしても、すこしをかしくはないかと思つた。が、それでもまだ、自分の講義のコピー代が一回分五十円もするといふこと、そして、それを自分が学生から買はされることについて、どこに間違ひがあるかを正確に判断することはできなかつた。
「一回分、五十円……計算は計算か……」
 さう口のなかで呟きながら、問題のコピーを丁寧に折鞄のなかへしまひ込んだ。





底本:「岸田國士全集17」岩波書店
   1991(平成3)年11月8日発行
底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店
   1951(昭和26)年11月5日発行
初出:「別冊文芸春秋 第十九号」
   1950(昭和25)年12月25日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2021年2月26日作成
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