悪態の心理

岸田國士





 葉村ヨシエと佐原あつ子とは、いづれもある官庁の文書課に勤めてゐるタイピストで、二人は採用試験のあつた日にはじめて口をきき、希望がかなつていよいよ役所に顔を出すと、そこでもまたお互に幸運をよろこび合ひ、それ以来まる三年、机を並べて仕事をしてゐる間柄である。
 ヨシエの生れは北海道旭川で、父親は林檎と除虫菊の可なり大規模な農園を経営し、彼女が旧制女学校を終へると、東京に出て自分の好きな道へ進むことをゆるした。はじめ、音楽をやるつもりであつたが、家の経済事情が急にわるくなつたため、思ひきつて音楽修業を断念し、タイプライタアを習つて自活する決心をつけたのである。色の白い、からだのひきしまつた、早口となまりで、時々話は聴きとりにくいが、明るい、はづみのある声の持主であつた。
 一方、佐原あつ子は、名優某の落し種と自称して憚からぬ女子大卒業生で、時によると、事務官の英語の発音を直してやるほどのおせつかいだが、頼まれたことは決していやと言はず、誘はれれば、誰とでもどこへでも行く闊達自在な娘で、それでゐて、決して浮名を立てたことのないのは、必ずしも容姿風貌が美しすぎるからでも、まづすぎるからでもなく、ただ、妙にその点だけは、信用がおけさうな姐御肌のところがあるからであらう。
 年はといへば、ヨシエが今年の三月で満二十五歳、あつ子がこの十一月満二十三歳になつたばかりである。これは誰しも逆ではないかと思ふくらゐ、ヨシエは若くみえ、あつ子はふけてみえる。そこにもまた面白い気性や好みの対照があつて、この二人は、よく一緒に並んで歩き、よく誘ひ合つて屋上へあがり、仲よく笑ひ興じてゐるかと思ふと、急に口角泡を飛ばしかねない議論をおつぱじめるのである。そして、その挙句、二日間、口をきかないでゐて、三日目に、どちらからか、紙ぎれへ「無条件和平を提議す」とか、「面白くないわ」とか、タイプでたたいて、そつと相手の机の上へ投げてやる。
 さて、かういふ間柄であつたから、互に、相当のところまで底を割つて打ち明け話をしたり、前途の不安について微妙な言葉で語り合つたりするとはいふものの、それも、互にまつたく心をゆるしてといふのではなく、むしろ、かういふ話題においてこそ、もつとも、自ら恃むところのもの、教養と才気とを、女性らしく示し合ふことができると信じたからである。
 例へば、あつ子がある方面からの縁談について、自分の立場からの批判を加へ、更に相手の意見をそれとなく求めるとする。ヨシエはそれに対して、一応、突つ込んだ質問を試み、極めて素直らしく当りさはりのない感想をもらしてから、そもそも結婚の幸福とは、といふ風に問題をそらしてしまふ。が、実は、この一般論こそ、彼女の蘊蓄を傾ける場所で、過去何年間、読書を通じて得た知識のすべてが、そこに集中されるのである。
 それからまた、例へば、ヨシエの方から、貞操の価値について、ある一人の友人を実例にとり、具体的に煩悶の事実をあげたうへ、その裁決をもとめるとする。あつ子は、それにどう応へるかといふと、そんな問題は自分も経験ずみだと言ふ代りに、かかる煩悶を世俗的な道徳論と結びつけ、因襲の虜となる愚かさをあざわらふのである。そして、すました顔で、自分がもしさういふ境遇におかれたとしたら、それを繰り返すことによつて、罪悪感に悩まされないことを証明してみせるなどと、見栄を切る始末である。
 彼女らは、既にいはゆる婚期の過ぎようとする自分のすがたをかへりみて、実をいへば、すこしづつあせり気味であつた。しかし、さういふ気配は、互に露ほどもみせないつもりでゐた。ヨシエは、例の結婚に対する根本的な懐疑説によつて、あつ子は、現代の男性の非常識を理由に、いづれも独身の不自然さ、不自由さを意に介せぬ風を装ひ、ただ、わづかに、万一の場合を慮つて、恋愛の自由と、それ自身の独立を主張した。
 両者の意見はその点でたしかに一致はしてゐたが、いよいよ、その恋愛の対象といふことになると、どちらも、口を緘して語らなかつた。断じてそんなものはないと言ひきりもしないが、また、あるとしたらどんな人物か、むろん、それを暗示するやうなこともしやべりはしない。互の好奇心は、その真相を確めるにあつたけれども、つひに今日まで、いづれもそれに成功はしなかつた。
「けふは、いやに帰るのを急ぐぢやないの。だれかと約束でもあるの?」
「うん、弟を芝居に連れてく約束したの」
「弟のやうにみえる大学生でせう?」
「下品なこといふもんぢやないわ」
 こんな会話が、ひけ時の階段の中途で交はされることがある。
 さうかと思ふと、
「ちよつと、安倍さんのネクタイ見た? 変ね、男が新調のネクタイ締めた日の顔つて……」
「へえ、あたし気がつかなかつたわ。あんた、安倍さんのこといふの、今週、これで三度目よ。こんど言つたら、もう、怪しいわよ」
「うるさいつちやないわね。憚りながら、興味のもち方があんたと違ふのよ。と、言つたところで、男性の品定めぐらゐ、もう、おほぴらにしてもいい年ぢやないの、お互さまに……」
 どつちがどう言つてもいいやうなこの種の応酬は、だんだん度数が多くなつて、同室の男たちはむろんのこと、隣の会計課の課長以下、給仕に至るまで、ひと通りこの両女性の採点表に名をつらねる光栄に浴した。


 ところで、ある日のこと、それは三月にはいつてはじめての、春らしいうららかに晴れた日の昼休みに、弁当を食べ終つた二人は、久々で屋上へ出てみた。
 給仕が二人でキャッチボールをしてゐるのを尻目に、彼女らは、緑につつまれた日比谷公園を見おろす胸壁の方へ歩いて行つた。腰をおろす場所がない代り、厚い胸壁に両肱をついてゐれば、やや落ちついて話ができるのである。
「あんた、今度の大臣、どう思ふ?」
 と、佐原あつ子が突然、言つた。
「どう思ふつて、別にさしたる興味は起らないわ。ただ、見たとこ、野暮で、低脳みたいね」
「子供臭い威張り方するから、をかしいぢやないの」
「この前のひとは、そこへいくと、違つたわね。どつか、学者らしいとこがあつたわ」
 と、葉村ヨシエが言ふ。
「あたし、あんなのも嫌ひさ。もつと、笑つたらいいぢやないの、をかしい時は……」
 佐原あつ子がきめつけた。
 大臣はすこし歯が立たぬとみえ、下つて秘書官が槍玉にあがつた。秘書官は、たびたび、文書課へ姿を現す。
「結城秘書官と、あんた口をきいたことある?」
 佐原あつ子が、ヨシエにたづねる。
「ないこともないわ。どうして?」
「あたしも、一二度、口きいたけど、わりに丁寧な言葉使ひぢやない?」
「さうかしら?」
 と、ヨシエは、あまり関心がなささうに、顔をそむけた。
「さうかしらつて、あんたにはさうぢやないかしら? 学習院出ですつてね」
「そんなこと、どうだつていいぢやないの。あんな若造に、なにができるの?」
「あら、若造だつて、バカにならないわ。外交官の試験にも通つてるんですつて」
「どこで聞いて来るの、そんなこと……。そんなら、ここは畑違ひぢやないの」
「だからさ、大臣のお眼鏡で、是非つていふわけだつたのよ」
「ふうん、あんた好みの青年紳士だわ」
「あべこべ言つてるわ。ああいふタイプぢやないの、あんたがいつも憧れてるのは……」
 あつ子は、やり返した。すると、ヨシエは、ちよつと眉を寄せて、
「冗談、よしてよ。ああいふタイプの、どこがいいの? 現代青年のエチケットつて、あんな形式的なもんぢやないわ。なにが、――おそれ入ります、さ!」
 と、むきになるのを、あつ子が、笑つて、
「へえ、それを知つてるの? いいぢやない、おそれ入るものはおそれ入らしとけば……。だけど、いつたい、いつの間に、そんなこと言はしちまつたの、あんた?」
 意地わるく追及するあつ子の眼は、異常に光つた。
「だつて、なんかあると、さう言ふぢやない? 課長と話してるのを聞けばわかるわ。あんたは、また、いやに、からんでくるわね。結城と口をきいたから、どうだつていふの? をかしなひと……」
 ヨシエは、口惜しさうに、唇をかむ。
 あつ子は、それに頓着なく、
「そつちこそ、どうかしてるわ。あたしは、あんなマネキン・ボーイに用はないつていふだけよ」
「あたしだつて、あんなスヰート・メロンみたいなの、まつぴらだわ」
「わかつたわよ。なにもそんなにおこることないぢやないの」
「だつてさ、あんたの言ひ方が変だからよ。ひとをからかふのも、いい加減にしなさい」
「よし、両者の意見が一致したんだから、もう遠慮はいらないわ。ひとつ、ついでのことに、結城秘書官を完膚なきまでに批判しませうよ。あたしの方が、すこしはよけいに、あのひとに接してるつもりよ」
 と、あつ子は、ちらとヨシエの方をみた。
「さうかもしれないわ。あんたはリーディングがお得意だから、そつちのご用が多いわけね」
「あのひとの発音ときちや、なつてゐないのよ。それを自分ぢや、得意でゐるのよ」
「いつたいに、英語だかフランス語だかが多すぎやしない、あたり前の話をしてても……?」
 と、ヨシエは、感じたとほりを言つた。
「あたしたちには、ことにさうらしいわ。それと、不思議なのは、経済観念が、とても普通と違ふことよ」
「あら、どういふ風に?」
「ちよつとうまく言へないけど、鷹揚さとケチ臭さが、チャンポンになつて、バランスがとれてないの」
 あつ子も、実際に見たとほりを言つた。
「謙遜が、そのまま傲慢にみえるのとおんなじね。育ちのせゐだわ」
「よく見てるわね。その通りよ。熱があるやうで、どつか冷たいし、バカに気のつくわりに、我儘この上なしでせう」
 あつ子の言ひ分に賛成ではあつたが、どうして、この女が、そこまでの性格を見ぬいてゐるのか、どんな機会に、彼がそれを彼女に示したかに、ヨシエは大きな疑問を抱きながら、
「さうかもしれないわ。でも、それだけなら、ちよつと、男として魅力になるかもわからないけど、あたしなんか、さういふ面より、もつと、だれにでもすぐに気のつく、キザッポさが目についてしやうがないの。いきなり反撥を感じさせるんだから、もう、おしまひよ」
「それやさうよ。反撥を感じさせるけど、やつぱり、見てゐて、面白い男性の一典型だと思ふから、がまんしてつき合つてるだけよ」
「あたしは、個人的なつき合ひなんて、頼まれてもしたくないわ」
 と、ヨシエは、キッパリ言ひ放つた。
「個人的なつき合ひつたつて、そのへんでお茶を飲むくらゐよ。あたしは、その程度のことなら、だれだつて撰り好みはしないわ」
 あつ子は、それを自然に言へる特権をもつてゐた。
「あんたはさうだけどさ、第一、あのひとつたら、どことなく、ドン・ファン型ぢやない? 女の子に対する態度、見てごらんなさい。おまけにそれが、いやに安つぽいときてるから、鼻持ちがならないのよ」
 ヨシエは、唾を吐きたさうに、言つた。
 あつ子の方は、ヨシエのこの宣言に、ちよつと眼をみはつたが、もともと、女がある男をドン・ファン型などと批評する時、それは必ずしも否定的な意味ばかりを含むものでないことを知つてゐたから、見はつた眼をそのまま、大きな関心のなかに包んで、言つた。
「まあ、さう言ひなさんな。男はだれだつて、ドン・ファンに見えやしないんだから……」
「弁護なの、それ? 弁護の余地なんかありやしないわ。不潔よ、あんな表情……」
「それや、まあ、たしかに宗教的なもんぢやないけど、人間の上半身と下半身とが、別々のものでなければならないわけはないでせう?」
「そんなこと問題外よ。とにかく、聞いた話だけど、あのひと、評判の人妻荒しだつてさ」
「人妻荒し? ああ、さうか。それくらゐのことはするでせうよ。荒される方も、荒される方よ。それと、あんた、聞いた? 今までタイピストを、いくたり誘惑したかつていふこと?」
 あつ子のこの一言に、ヨシエは、虚をつかれたかたちで、
「いやだわ、人聞きのわるいこと……。仲間の恥ぢやないの」
「だつて、それや、ほんとらしいのよ。この役所ではどうだか知らないけど、今までゐたところでは、きつと二三人の被害者があつたらしいわ。参議院に勤めてるあたしの友達が、さう言つてたわ」
 ヨシエは、だしぬけに、腹をかかへて笑ひだした。
「それでわかつた。あんた用心しなきやダメよ。ねらはれてるわよ。さあ、面白くなつてきた」
 笑ひながら、かう言ふと、あつ子は、これも、笑ひながら、
「ちよつと、相手がわるかつた、か。いづれ、そのうち、結果を報告するわ」
 で、二人は、そろそろ、階下に降りた。


 それから、いく日かが過ぎた。
 土曜日の夜が、葉村ヨシエには待ち遠しかつた。目黒の奥のこんもりと茂つた森かげにある小ぢんまりしたしもたや風の旅館の玄関に、彼女は、九時きつかりに立つた。これがひとりで来る二度目である。胸がしめつけられるやうに、苦しく躍つた。
 座敷へ通された。この前の座敷ではなく、次の間づきの、しやれた八畳であつた。
 自動車の響が、やがて、表で止つた。
 大臣秘書官、結城茂夫が、いつものやうに、眼だけで笑つて、のつそりはいつて来た。今夜も、すこし酔つてゐる風であつた。
「食事、すんだ?」
「ええ。でも、あなたは?」
「茶漬ぐらゐ食へば食へるが、まあ、どうでもいいや。果物でもとりますか?」
 林檎と梨の、味の抜けたのが運ばれて来た。
「かう宴会つづきぢや、たまりませんよ。それに、大臣はあすの夜行で、関西へ発つつていふんだ。察しもなにもありやしませんよ」
 と、結城茂夫は、太い眉を寄せてみせた。
「あんまりお疲れになつちや、いやだわ」
 ヨシエは、からだをちよつとねぢ曲げて、低く、甘えるやうに言つた。
「はゝゝ。そんな年ぢやありませんよ。ところで、まだ、だれも気がついてやしないでせうね。なんだか、ちよつと、あぶない気がしてるんですがね」
 結城が、いつも、そのことばかり言ふので、ヨシエは大丈夫だといふ張合もないくらゐであつた。
「どうしてつて……それは、君、いろんなことから、ピンとくるんですよ。別に、君を信用しないわけぢやないんだが、ひとつ、疑問を晴らさしてもらへばですよ、たしかに君以外のだれでもないと思ふんだが、役所のある人物と、僕のことを噂にのぼせたことはありませんか?」
 かう訊ねられて、ヨシエは、ギクリとした。
「ええ、それやちよつとぐらゐございますけど……その方、女の方ですの?」
「はつきり言へば、さうです? おわかりでせう。しかも、君は、相当詳しく僕のことを知つてるやうな印象を、相手に与へましたね」
「さあ、それはどうですか……別にこれといつて……」
「いや、いや、隠さなくつてもようござんす。僕は、君がなにをしやべつたかを問題にしてゐるんぢやありません。あんまり、君が僕のことを知つてゐちや、実は、困るだけです。さうでせう? 知つてる筈はないんだから……表向きは……」
「でも、その女のひと以上に知つてなんかゐないんだから、かまはないと思ひますわ」
 ヨシエは、どうにでも取れるやうに、やや恨みをこめて言つた。
「ところが、さうぢやないんです。その女性は、君の名前なんかむろん、はつきり出しはしなかつたけれど、なんでも、僕のことについて、驚くべき観察をしてゐる同僚がゐるつていふ話をするんです。そして、本気だかどうだか知りませんが、僕をむやみにからかふんだ。うんとのろけを聴かされたなんて言ふんだ」
「うそです、それはうそですわ」
 ヨシエは、たまりかねて、叫んだ。
 結城茂夫は、手でその声を制するやうに、
「まあ、まあ、お聴きなさい。どんな言葉をおのろけと取つたか、それは向うの勝手ですが、なかなか、辛辣な批評がまじつてゐたことは事実らしい」
 さう言つて、結城は、にやにやと気味のわるい笑ひ方をした。
「だつて、それも、向うが先に言ひ出したからですわ。合槌をうつておかないと、却つて変だと思つたんですもの」
「それは、その通りだと思ひます。しかし、単に合槌を打つただけですか? 向うに言はせると、非常に熱心に、僕の特徴を指摘したさうぢやありませんか」
「まあ、なんて嘘ばつかり言ふんでせう。それはさうと、なんの必要があつて、そのひとはあなたに、そんなおしやべりをするんですの?」
「それは、事のはずみです。茶飲み話です。相手が愉快な女だから、僕の方もなれなれしい口のきき方をする。と、調子に乗つて、彼女はなんでもしやべるんです」
「どんなことをしやべつたか、それを先に伺はせていただくわ」
「さあ、いちいち覚えてはゐませんが、なんでも、君は、僕のことを、スヰート・メロンだつて……」
「いえ、いえ。それは、あのひとが、あなたのことをマネキン・ボーイだつて、言つたからですわ。まあ、ひどいわ……」
「それから、あなたは、たしか、僕のことを、ドン・ファンで、人妻荒しとかなんとか、言つたらしい」
「まあ、だつて、それは……」
「よろしい、よろしい……僕はそんなこと平気ですよ。どうして、そんなことになつたか、説明をきかなくつても、わかりますよ。君は、僕のことを糞味噌に言ひさへすれば、相手が二人の関係を気づかないですむだらうと思つたんでせう。その意図はわかります。ただ、それなら、もうすこし、でたらめな、見当違ひな悪態をついてほしかつただけです。ちつと、穿ちすぎてやしませんか?」
「あら、だつて、あたくし、ちつともそんな風に、あなたのこと思つてやしませんもの……」
「ほんとですか? そんならありがたい。しかし、あの女は僕のことを、なんて言つてますか? マネキン・ボーイだけですか?」
 どういふつもりで、そんなことを訊きたがるのか、ヨシエには腑におちかねた。
「それは、あたしの口から申しあげる必要ないと思ひますわ。向うがなんのために、あたしのことをそんな風に言ふのか、それはおわかりになるでせう?」
「まあ、わかります。それはわかるとして、君が、あの女の言つたことを、僕に話したくない理由を、僕は、君の慎み深さと、とつて差支へありませんか?」
「どうとでも、おとりになつてかまひませんわ。それはさうと、あなたは、あのひとのことをどうお思ひになつて? あたしのお友達としてでなく、公平にごらんになつて、どんなひとだとお思ひになるか、それを率直におつしやつてみてくださらない?」
「公平にみて、僕は、さつきも言つたとほり、面白い女性だと思ひます。面白いといふ意味は、友達としてよし、恋人としてよし、妻としてよし……ただ、長くはどうかと思ふだけです。だから、僕は君を選んだんです。正直なところ、僕には、現在、なんの興味もない婚約者がゐますが、いづれは妻にしないわけにいかんでせう。それまでに、なにか突発事件でも起つて、婚約の解消ができればこれは別です。さういふわけで、僕は、ほんとに好きになれる女性を求めてたんです。君と彼女とが、眼の前に現れた時、僕は、しばらく二人を比べてみてゐました。そして、あなたと決めたんです」
「そんなこと伺ふつもりはなかつたの。あのひとのことだけ、もつときかしてちやうだい」
「それだけですよ。ただ面白いの一語につきます。君より聡明ではないが、ひと通りの常識があり、君のやうに素直ではないが、その代り君とちがつた勘のよさと、派手な身ぶりがある。それに、あの調子を外さない受けこたへが、僕は好きだ」
「社交家だわ」
「うむ、いい意味のね。上ずつたところのない、ほんとにひとを楽しませるこつを心得てゐる珍しい女性の一人だ」
「やけてきたわ」
「だが、あのひとが、多くの男を楽しませるとすれば、君は、おそらく、これと思ふただ一人の男を、ほんとに楽しくさせてくれる女性かもしれません」
「お上手ね」
「あのひとの眼は、ちよつと類のないほど美しい眼だけれど、君の眼のやうに、静かに澄んではゐない。いつも波立つてゐる。そして、相手を落ちつかせない」
「おそろしい眼ね」
「それは、さう言へるだらう。君は、あのひとと、そんなに仲がいいの」
「まあ、仲のいい方だわ。でも、これから先、どうだかわからないつて気がするわ。けふのお話伺つて、あたし、考へてしまつたわ」
「どうして……? あの女は、君のことをいろいろ話して、なにかかぎ出さうとしたに違ひないさ。それも、結果はまづ、むだだと言つていいがね」
「あなたも、あたしの悪口をおつしやつた?」
「それほど、僕は単純ぢやないよ。第一、そんな時、君だなんてことは、気がつかないやうなふりをしてたもの」
「さうね、さうだわ……。あたしは、単純だわ。褒めちやいけないとばかり、思ひ込むなんて……」
 さう言ひつつ、彼女は、結城茂夫の横顔へ、ぢつと眼をやり、この男は、なるほど、単純ではなからうが、複雑だとさへ思はせぬところが、まことにスマートなものだと感心した。
 なぜなら、佐原あつ子のことを、不必要にけなさないばかりか、実に、ほどよく褒めておくではないか。これでは、いかに女の猜疑心を働かせようにも、働かせる余地がない。少しばかり、癪だとは思ひながら、それを帳消しにする思ひやりを、あんなに見せられてはなんにもなかつたより、こつちは、うれしくなつてしまふ。
 待て、待て! 褒めるのも臭いと、言へないことはない。が、彼女は、ちらとさう胸の奥で感じただけで、悪態の決定的な臭さに比べれば、讃辞はまだしも、罪の軽い未決定な危険を語るにすぎないと思ひ返した。
 まどらかな夢が、かうして、彼等二人の恋人に与へられた。





底本:「岸田國士全集17」岩波書店
   1991(平成3)年11月8日発行
底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店
   1951(昭和26)年11月5日発行
初出:「オール読物 第六巻第一号」
   1951(昭和26)年1月1日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2020年10月28日作成
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