髪の毛と花びら

岸田國士





「もつと早く読んでいゝよ」
 机の上におつかぶさるやうな姿勢で、夫は点字機を叩いてゐた。
 美津子は、コタツにあたりながら、文庫版のメリメの短篇「マテオ・ファルコオネ」を、区切り区切り、調子をつけて読みあげてゐる。
 結婚このかた、美津子は、かうして、夫が打ちこんでゐる仕事を助けて来た。夫の念願は、世の失明者のために点字図書館を作ることであつた。中学を終へて、高等学校の受験を前にひかへ、彼は、突然、眼をわづらひ、医療の効なく、まつたく視力を失つてしまつたのである。
 一時は、絶望のあまり、自暴自棄に陥りかけたが、戦争の勃発が、彼に新しい生き方を発見させた。友人の多くは召集され、生死の巷に身を投げ出して行くのをみて、彼は、考へた。兵役免除といふ特権に甘えてはならないと。そこで、盲人が身につけ得る技術をひと通り習ひおぼえる決心をした。琴を除いて、彼は、盲学校の全課程をむさぼるやうにをさめた。
 六年の年月がたつた。ハリ、マッサージ、揉療治、それだけは国家試験をパスしたが、彼は、すぐにそれで生活したいとは思はなかつた。幸ひ、両親はまだぴんぴんしてゐた。革具と靴の店を出してゐる父は、不憫な息子のために、食ふ心配だけはさせないつもりでゐたから、彼は比較的のんきに、自分の好きな道を撰ぶことができた。
 彼が思ひついたのは、同じ境遇にある人々のために、点字の書物をたくさん作ることであつた。ことに、彼は、面白い小説や読み物を失明者がひとりで読める幸福を想ひ描いて、誰かゞそれを与へなければならぬと思つた。
「今日はこれくらゐにしとかう。メリメがすんだら、久生十蘭をやらう。いつか読んでもらつた、そら、チベットへ行く話さ、あれを是非やらう」
「まだ、おなかおすきにならない?」
「すいた。いまなん時だらう?」
「五時半です。夕食の支度はもうできてるのよ。ちよつと温めさへしたらいゝんだから……」
「カレーはうんと辛くしてくれよ」
「あら、もうご存じなの?」
 妻の美津子は、夫の嗅覚と聴覚にはいつも驚嘆するばかりである。ときどき、それを試してみたくなるくらゐである。あるとき、勝手で洗ひものをしながら、奥の座敷へは聴えまいと思ふほどの声で、わざと、相手に話しかけるやうな調子で、お喋りをしてみた。
 ――うちぢや、そんなもの、いらないのよ。またこのつぎにしてちやうだい。どうせ買はないもの、見たつてしやうがないわ。ほんとに、ムダな時間つぶしだわ。えゝ、せつかくだけど……はい、さよなら……戸をしつかり締めてつてちやうだい。風が強いから……。
 あとで、夫のそばへ素知らぬ顔で茶を汲んでいくと、
「いま、なんだつて、あんな独り芝居をしてたんだい?」
 と、鮮やかに突つこまれ、彼女は、つい、吹きだしてしまつた。
 彼女は、たしかに、不幸ではなかつた。非常に幸福だと思へる瞬間さへあつた。それゆゑ、彼女は、この結婚を決して失敗とは考へてゐない。たゞ、問題は、自ら望んで、失明者を配偶に撰んだ理由が、そのまゝ、今日通用するかどうかといふことであつた。
 商売上の用件で、銀行員である美津子の父と時々顔を合はせてゐた佐伯某といふのが、今の夫の父親であつた。その佐伯某から聴かされた息子の話を父が家に帰つて母に話してゐるのを、美津子はふと耳にはさんだことがある。
 その頃、彼女は二十四で、結婚といふ問題が絶えず頭にあり、父や母が、折にふれて話題にする彼女の嫁入り口について、自分にまかせておいてくれ、などと言ひ切つたものである。
 父の知人関係の会社へ事務員として勤めるやうになつてゐたので、そんなチャンスもあらうかと高をくゝつてはゐたものゝ、彼女には、どうしても男性といふものが信じられなくなりはじめてゐた。
 なるほど、彼女は、特に美貌を誇るほどの自信はなかつた。しかし、同僚の女たちにけ目を感じるほどの器量だとは思つてゐなかつた。むしろ、精神的なもので、けつかう豊かにされてゐる表情の魅力は、これで、出るところへ出れば、相当人目を惹くに足るものと、ひそかに、たのむところがあつたくらゐである。彼女の周囲を取りまく男たちは、そこへいくと、きまつて浅薄な娼婦型の女のあとを追ひまはし、小綺麗につくろつた人形のやうな女にばかりちやほやするやうにみえた。
 それでも、たまには、物ほしげに彼女に近づいて来る男たちがなくはなかつた。しかし、彼等は、申し合せたやうに「アプレた男」のすがたをしてゐた。つまり、なんの取柄もなささうな、毒にも薬にもならぬたぐひの連中と相場がきまつてゐた。
 彼女は、もう、異性との交際にうんざりしてしまつた。いはゞ恋愛結婚の理想は、この現実の前では、一片の他愛もない夢にすぎぬことを覚つたのである。
 たまたま、そこへ、彼女の感傷をみたすに足る天来の妙案が浮んだ。
 ――さうだわ、眼の見えない男のひとで、心の美しさだけで、あたしを愛してくれるんだつたら、どんなに、あたしはその男のひとを幸福にしてあげられるだらう。戦争でめくらになつた兵隊さんだつて、いゝわ。さういふひとなら、あたしの顔かたちだつて、ほんたうに美しいつてことがわかつてくれるかも知れないわ。さて、さうきめるとして、どこにさういふひとがゐるだらう……?
 こゝにゐる、といはぬばかりに、父の口から、佐伯某の息子の存在を聞かされたのである。
「もう二十七になるんださうだ。そろそろ嫁を貰つてやりたいのだが、これがまた、頭痛の種だつて、おやぢさん、嘆いてゐたよ」
 父の言葉にかぶせて、母が引きとつた。
「いくら秀才でも、眼が不自由では、さきざきが困りますね。按摩さんなら、よく、眼のわるい同志が一緒になつてますけどねえ……」
「いや、それが、ちやんと眼の見えるお嫁さんがほしいらしいんだ。本を読んでもらふといふことが、一番大事な条件なんだから……」
 その話はそれきりでぷつりと切れてしまつたが、ひと月ばかりたつて、また、父が、その話をむしかへした。
「佐伯がまた今日店へやつて来ての話に、息子の見合ひに立ち合つて、実に困つたといふんだよ。相手は看護婦をしてゐた娘ださうだが、ふた眼とは見られない器量で、口だけはなかなか達者なんだとさ。息子は、はじめのうちはおとなしかつたが、しまひに、だんだん図々しくなつて露骨にメンタルテストをやりだすんだつて……。――あんたは女学校を出てるといふ話だが、それぢや、教室で居眠りばかりしてたんでせう……なんて、やるんださうだ」
「まあ、変なお見合ひだこと……。眼のわるいひとは、癇が強いつていひますからね。気むづかしいでせうよ、きつと……。まあ、さういふひとのお世話は、あたしたち、したくないわね」
 ところが、その晩、美津子は、母にそつと、その佐伯の息子と見合をさせてくれと申し出たのである。


 両親を説き伏せるのは容易でなかつた。
 彼女は、それが冷静な判断と、道徳的な信念に基いた希望であることを、縷々述べたのち、女の幸福は、偶然を待つことではなく、自分の努力で築きあげるものだと言ひ張り、自分の手で、夫と名のつく男性に、小さくともひとつの新しい光明が与へられるよろこびを、どうか奪はないでくれと嘆願した。
 佐伯歳男は、思ひがけない奇篤な女性の出現に、はじめて青春の血を湧き立たせ、神妙に、見合ひとわかつた音楽会への誘ひに応じた。そして、その晩、ふた言、三言、言葉を交へただけで、二人はすつかり、意気投合した。
 彼女は母と二人であつた。向ふは父親が附き添つてゐた。帰りは、反対の方角なので、日比谷の角で別れたのだが、美津子は、彼等の乗つたタクシイが走り出すと、急に胸をつまらせて、母の手にすがつた。
「あたし、やつぱり間違つてなかつたわ。立派な方だと思ふわ」
「まあ、お待ち……あちらさんがどうおつしやるか……」
「うゝん、もう、お返事はちやんとわかつてるわ。イエスよ。だつて、そんなことぐらゐ、すぐわかるわ」
「おや、おや、たいへんな自信だこと……。でも、あゝいふひととしては、品はわるくないね」
「さうよ、ベートーヴェンだつて、めくらになつたのよ」
 かういふ風にして、美津子は、現在の夫、歳男と結ばれたのである。
 夫婦としての日常生活には、人知れぬ苦労はあつたけれども、また同時に、しみじみとした味はひもあつて、こまかい心遣ひは、そのまゝ、情愛の直接の表示となり、夫にとつてこれほど必要な自分だといふほこりを、つゝましく胸の底にかくすことも、彼女には快い自己満足であつた。
 一年はまたゝくうちに過ぎた。
 そして、最初の約束どほり、彼ら夫婦のための新居が与へられ、生活はいちだんと張りのあるものとなつた。引き移つたばかりの阿佐ヶ谷の家から、歳男は、一週に三日、中野の盲唖学校へ点字を教へに出かけた。その他の日は、午前中だけ、自宅ではりとマッサージを申しわけのやうにやつた。そして、残りの時間は、ラジオのニュースを聴く以外、悉く、妻の美津子に朗読させながら、数多くの小説を点字化する仕事に没頭した。
 美津子は夫をよろこばすことなら、それこそ、なににでも身を入れた。花瓶には季節の花を絶やさぬやうにし、料理の知識を得るために婦人雑誌を二種類もとつた。
 が、ある朝、鏡に向つて化粧しながら、彼女は、こんな疑問にぶつかつた。
 ――めくらには、どの程度まで女の美醜がわかるのだらう? あのひとは、あたしを美しいと思つてゐるだらうか? それとも、醜いからこそ、自分のところへなんぞ来る気になつたんだときめてかゝつてやしないか知ら? そばから両親やなにかゞ、あたしのことをどういふ風に話したかそれはわからないけれども、どうせ、それをそのまゝ受けとる筈はない。なにかのはずみに、誰かの口から、それとなく聞かされたあたしの容貌のことが、きつと、あのひとの頭にこびりついてゐて、勝手な想像をしてゐるにちがひない。いちど、そのことをたしかめてみよう。
 その晩、彼女は、夫の愛撫にすこし逆らふやうな身構へで、かうたづねた。
「ねえ、あなた、あたし、ちよつとうかゞひたいことがあるの。よくつて……あたしは、あたしがあなたを愛してるやうに、あなたからも愛されてゐると信じてるわ。それはそれでいゝのよ。たゞ、あなたは、あたしを、どういふふうに愛してゐてくださるの?」
「妙な質問だね。かういふふうにぢや、いけないのかい?」
「かういふふうぢやわからないわ。女は、やつぱり、美しいから愛されるんだつていふ自信がもちたいのよ。美しいつていふ意味は、それやいろいろだけれど、それが、肉体的にもつていふことなの? あたしを、まあ、まあ、綺麗だと、思つてゐてくださる?」
「そんな返事は僕にはできないよ。僕の求めるものを、みんな君がもつてゐれば、それでいゝぢやないか。実のところ、君は、女として、普通の人間の眼に、美しいか、どうか、僕には想像がつかない。多分、美しい方の部類だと、信じてはゐるけれども、さう信じる理由は、僕の視覚以外のもの、つまり、自分の眼以外のものが、さう信じさせるにすぎないんだ。君の肌は弾力があつて、なめらかだ。君の声はやさしく、澄んでゐる。君は趣味のいゝ香料を使つてゐる。君の寝呼吸ねいきは静かだ。そして、君は、女としての自尊心をもつてゐる。それだけで、僕には十分なんだ。君が天下の美人だなんていふ評判を一度もきかなくつたつて、僕は、ちつとも悲観しやしないよ」
「でも、あなたのいまおつしやつたやうなことは、あたしが、世にも稀な不美人ぢやないつていふ証拠にはならないわ」
「え? なんだつて? 不美人ぢやないつていふ証拠? そんな証拠が必要かねえ?」
「それごらんなさい。あなたは、むしろ、あたしが不美人だつていふ証拠をみせられやしないかと思つてびくびくしてらつしやるんでせう……ひとの噂が気になつてしやうがないのね?」
「ひとの噂とはなんだい? 僕がいつ、そんなものを気にしたことがある?」
「だつて、たつたいま、一度も美人だつていふ評判をきいたことがないつて、おつしやつたぢやないの」
「たとへばつていふ話さ、それは……。お袋なんか、くどいほど、君がどんなに可愛らしい娘かつていふことを、僕に話したよ」
「お母さまは、それや、いろんな点からいゝ縁談だとお思ひになつたかも知れないわ。だからあなたもまあまあ及第点をおつけになつたのよ。あなたは、まさか、それを、言葉どほりにお取りにならなかつたでせう?」
「もう、よさうよ、そんな話は……。僕がめくらで、せつかくの君の美しさがわかるまいといふ、君の不満も、一応、尤ものやうだが、しかし、考へやうによつては、君がどれほど美人であつたにしても、僕は、君を、それ以上美しいひととして心に描く力、或は、権利をもつてゐるんだぜ。それに抗議するほど、君も、己惚うぬぼれてはゐないだらう」
「えゝ、己惚れてはゐないわ。ごめんなさい、うるさいこといつて……」
 彼女は、夫の愛の無限にひろいことを知つて感動した。そして、身もだえるやうに、夫の胸に胸をすりよせた。


 別に商売の看板をかけてゐるわけではなかつたから、治療を頼みに来るものは、めつたになかつたけれど、人からきいたといつて、やれ肩がこるとか、腰が痛むとかいつて来る様々な客が、一日に一人や二人はあつた。時間によつてはもとめに応じはしたが、出張治療は絶対に断ることにしてゐた。さうまでして金を稼がなくてもいゝといふ理由のほかに、この職業に対する世間の無理解、といふよりもむしろ、彼自身、普通の按摩として取扱はれるのが、なんとなく業腹だつたのである。さういふ点で、夫の歳男は、不思議なほど見栄坊だつた。しかし、妻の美津子にしても、それをわらふ資格はなかつた。彼女もまた、――「こちらでせうか、接摩さんのお宅は」などと、いきなり見知らぬひとからたづねられると、決して、素直に、「はい、さうです」とは答へられないのである。「宅は按摩ぢやございませんけれども、マッサージか鍼なら、特別なお方にだけ、してさしあげてをります」――「すると、特別なつていふのは、どういふ資格がいるんです?」――「いゝえ、資格といふわけぢやないんですけれど、特別にお頼まれして、時間の都合さへつけば、自宅で治療をしてさしあげるんですの。学校の勤めがございますものですから……」
 さういふわけで、それを承知で通つて来るいくたりかの男女がゐるにはゐた。料金もさう安くはないし、気楽にこゝを揉め、そこを揉め、ともいへない窮屈さを我慢して、やはり、彼でなければならぬやうに通つて来るのは、この一風変つた按摩に、専門外科医のやうな信頼感がもてるせゐであらう。事実、佐伯歳男は、治療にとりかゝる前に、まづ、脈搏をとり、どうかすると体温を計る。極めて無口だが、興に乗ると、解剖学や病理学のひと通りの知識はもちろん、更に進んで人生哲学にも似た彼一流の理論を弁じ立てるので、ちかごろは、誰からともなく、「先生」の称号で彼を呼ぶやうになつた。
「先生は眼さへ不自由でなかつたら、どえらい学者か政治家になつてござるね」
 近所の花屋の主人で、区会議員をやつたことのあるおやぢさんも患者の一人であつた。
「いや、僕は、芸術家になりたかつたんです」
「ふむ、芸術家か、おんなじ芸術家でも、お花の先生だね、ちかごろ、とんと楽でないらしいのは……」
「いま、温室の花では、なにがいちばん出盛つてゐるんですか?」
「さあ、このへんぢや、まあ、桜草だね。値段も手頃だしね」
「桜草もいゝな。おい、美津子、あとで、おぢさんのところから、桜草を一鉢、もらつて来てくれたまへ。お金はちやんと払つてね」
「なに、そんなことは、どつちだつて……」
 そんな話をしながら、花屋のおやぢさんの腰へ鍼を打つてゐるところへ、玄関で、「ごめん」といふ声がした。
 美津子は、すぐに出てみた。
 若い警官がひとり立つてゐる。
「どういふご用事で……?」
 彼女は、すこし気味わるさうにたづねた。
「あの、僕、右脚を捻挫したんですが、マッサージをやつてみろつて、言はれましたので……こちらで、してもらへるでせうか?」
「はあ、ちよつとお待ちください」
 彼女は奥へ引つ込んで、その旨を夫に取りついだ。
「警官か。……どんな警官だい?」
「若い、おとなしさうな方よ」
「ちよつと拝見しませうつて……。応接でしばらく待たしておきたまへ」
 こゝで、この家の間取りを簡単に説明しておく必要があらう。
 まづ、階下は、十畳の洋風応接間のほかに、八、六、四半の畳敷の部屋があり、その八畳に治療用のベッド一台、消毒のための手洗器、それに、脱衣籃、小テーブルと椅子二脚、瓦斯ストーブがおいてある。
 六畳は、夫歳男の居間兼任事部屋で、点字板をのせた机と、掘ゴタツと、書棚とがあり、縁側には籐の寝椅子がいつぱいに場所を占めてゐる。四畳半は、茶の間であるが、妻の美津子の居間でもある。そこから、廊下で湯殿と台所へ通じてゐる。
 二階は、洋室が二間になつてゐて、その一つを夫婦の寝室にあて、ダブルベッドがおいてあるほか、飾戸棚には、人形、花瓶、オルゴールなどがおいてあり、別に、洋服ダンスと三枚開きの化粧鏡がほどよくあしらつてある。
 その隣りの一室は、いはゞ、まだ使ひみちのない部屋で、現在は物置きとも空部屋ともつかず、鞄やボール箱などが片隅にちらかしてあるが、夫妻の間では、これを将来の子供部屋にあてる方針が定まつてゐる。
 さて、階下の応接間であるが、これはまだ、ひととほりのセットを入れたといふだけで、夫歳男の父が買ひ与へたテーブル、椅子のほか、カーテンさへも、臨時間に合せのものしかついてゐず、壁は塗りたてといふだけで、なんの色彩もなく、日当りはわるくないかも知れぬが火の気はみぢんもないから、真冬の今日この頃は、手足が凍りつくやうな寒さである。
 玄関は板敷で、そこから二階への階段が通じ、応接へのドアもそこについてゐる。玄関から真つすぐ奥へ廊下がのび、左手に、例の八畳と六畳、右手に四畳半と勝手その他が続いてゐる。
 別に、応接間一つと八畳とをつなぐドアがあつて、つまり、普通の医院などで、待合室と診療室とがドア一つで仕切られてゐるのがある、あれ式になつてゐる。
 ところが、佐伯歳男の場合は、患者がさう込み合ふことなどあるわけはないから、待合室を必要とするのはまづまづ、たまのことである。
 このめつたにない機会に、〇〇署勤務の警官はぶつかつたわけである。


 やがて、その順番が来た。
「どうぞ……」
 と、佐伯歳男は、一つの椅子を指した。
 警官の顔にはありありと当惑の色が浮んだ。なにか、場所を間違へたのではないか、といふ躊躇の風もみえた。
「どこがおわるいですか? あ、脚の捻挫でしたね」
「はあ、パトロール中に不審尋問をしてゐた相手が、いきなり逃走を企てましたので、その後を夢中で追ひかけました。そのとき、石につまづいて転んだんですが、あとで、気がついてみると、膝つぷしがバカに痛むんです……」
「ちよつと、ズボンを脱いで、こゝへおやすみになつてください」
「ズボン下も脱ぎますか?」
「脱げるものはみんな脱いでください」
「医者にみせたんですが、医者のいふことがどうもあてにならんのです。レントゲンの結果は、別に異状ないといふんですが……とにかく、マッサージが一番いゝと思ふから、毎日病院へ通つて来れば……」
「わかりました。医者の見たてはべつに参考にはなりません。僕が拝見して、どうすればよいかきめませう。かうすると痛みますか」
「痛みます」
「かうすると……?」
「それほどでもありませんが……」
「よろしい。捻挫といふほどのものではありません。一種の打撲です。二週間もたてばなほります」
「ひとつ、なにぶんお願ひします」
「時間のご都合はどうですか? 僕は、月水金は今ごろの時間にしてほしいんです。火木土は、午後七時から八時頃までにいらしつてください。日曜は休みます」
「けつかうです」
「勤務には差支へありませんね。なんなら、証明書を書きませうか?」
「いえ、それより、費用はどれくらゐかゝりませうか?」
「僕は保険医ぢやありませんが、あなたの収入と相談といふことにしませう。一回五十円はつらいですか?」
「さうすると約六百円ですな。なんとかなるでせう」
「普通は一回二百円もらつてゐます。公務のための傷害ですから、特別にしませう」
「自発的に、さういふ手心を加へてくれる按摩さんは、これや珍しいですな」
「僕は按摩ぢやありません」
「これは失礼、マッサージ屋さんですか」
「屋といひません。師です。これもいゝ名ぢやないけれど……」
「商売にいゝ名は少いですよ。警官なんていふのも、いやな名ですな」
「お巡りさんといへば、親しみがあつていゝぢやないですか?」
「――そら、お巡りさんに連れていかれるよ、これや子供をおどかす文句です」
「いつから警察の方へはいられましたか?」
「はゝ、まだやつと一年になつたばかりです。僕は、かうみえて、終戦直前に海兵を出たんです。軍人といふ名も、現在ではぞつとしませんな」
「へえ、それぢや、世が世なら、君は海軍青年士官か。今より威張つてたらうな。問答無用の口ぢやありませんか」
「僕はたゞ、おしやれがしたくつて、海兵を志願したんですよ。警官の制服ももうちつとスマートならいゝんですがねえ、ハヽヽヽ」
 こんな雑談を交しながら、一時間近く、警官は膝を揉んでもらひ、一方が手を洗つてゐる間に、こつちはズボンをはき、そして、装具の拳銃をつけ終つた。
「美津子!」
 と、その時、夫の歳男は奥に声をかけた。
「はい」
 出て来た妻に、
「すんだから、カルテに書き込みをしなさい」
 妻美津子は、あらためて警官の方に腰をかゞめた。
「おそれ入りますが、お名前とご住所を……」
「藤岡重信です。住所は……勤め先でいゝですな。〇〇警察署としといてください。生年月日、大正十年六月二十日、本籍はいらんですか?」
「いえ、それはよろしうございます。では、病名は?」
 と、彼女は夫の方を振り返つた。
「右膝関節打撲、微量の内出血、淋巴腺肥大」
 佐伯歳男は、それを、自信ありげに、言つた。
「局部マッサージ、一時間ですね」
 返事がない。それでいゝのである。
 かうして、新患者藤岡重信は、翌日も、その翌日も、きめられた時間に、ちやんと佐伯家の治療室に姿を現はした。
 一週間はすぎた。非常に楽になつたと、藤岡は満足げに礼を述べた。
 二週間目の終り、ちやうどその日は木曜日であつたが、藤岡は、すこし早い目にやつて来た。ところが、その日に限つて、夫の歳男は帰りが遅く、もういくぶん馴染の顔といふので、妻の美津子は気を利かし、応接室は寒からうといつて、治療室へいきなり通した。それからストーブをつけながら、
「お加減はいかゞでいらつしやいますか?」
 などと、お愛想を言つた。
「おかげで、もうすつかりいゝと思ふんですが、なんだか、これつきり、お宅へ来られなくなると思ふと、ちよつと淋しいんです、実は……」
「あら、どうしてですの? そんなおめでたいことつてないと思ひますわ。いつまでも痛いところがおありになつたら、それこそ、お困りでせう?」
 相手のしみじみとした述懐を、彼女は、電流のやうに背筋に感じはしたが、わざと、的をそらせるつもりで、さう言つた。
「いえ、脚の痛みは我慢できますが、我慢のできない痛みが、今の僕にはあるんです。先生にそれを言へば叱られるでせうがね」
「あたくしには、なんのことだか、わかりませんわ。ごめんあそばせ……もうぢき、帰つて来ると思ひますわ」
 あたふたと、彼女は、自分の居間へ駈け込んだ。そして、鏡台の前に坐つた。
 これは、彼女にとつて、まつたく思ひがけない出来ごとであらうか? 彼女には、なにひとつ責任のないことであらうか?


 彼女は、胸に手を当てゝ考へてみるまでもないことであつた。藤岡重信なる人物は、現在まで彼女の眼の前に現はれた男のうち、ずばぬけてキリヽとした男であつた。スポーツ選手のやうな体格、アメリカの性格俳優のやうな容貌、それに加へて、どこか育ちのよさを思はせる慇懃さがあつた。
 彼女は、初対面の瞬間にわれ知らずドキッとしたくらゐである。決して、それは心の動揺といふほどのものではなかつたにせよ、毎日彼の姿をみることがなんとなく楽しく、ついその時間になると、うきうきしてゐる自分を発見するのである。それだけなら、まだいい。彼女は、きまつて、鏡に向ひながら、彼のことを想ひうかべる。彼が自分をどんな眼でみるかを、まづ考へる。醜いと思はれたくない、さう思ふ。彼にとつて、自分といふ女が、物の数でないとしたら、どんなに屈辱だらうと、そんなことまで気になる。自分がもつと美しくて、彼の眼をみはらせることができたら、それだけで、どんなに幸福だらう、痛快だらう、そこまで彼女の自尊心が募つて来ると、彼女の化粧は、すさまじく念入りになる。
 彼の声が玄関で聞える。いや、彼の跫音が門口でする。彼女は、ぢつと耳をすます。すこし間をおいて、ゆつくり起ちあがる。彼を迎へる笑顔を、鏡の中で一度試してみる。卑しいびにならぬほどの気品のある愛嬌を、自分の表情の限界のなかで、作りあげる。そして、そのまゝの笑顔で、彼女は玄関にたち現はれる。
「いらつしやいまし……どうぞ……」
 が、その効果について、彼女は、自信らしいものがもてることもあり、ほとんど失望を感じることもあつた。
 そして、今日といふ今日は、その効果があまり大きすぎたことを後悔せずにはゐられないのである。
 夫が時間ちやうどに帰つて来た。
「今日で、だいたい、いゝと思ひますが……」
「念のために、もう、少しつゞけていたゞけたらどうでせう?」
「他覚的には、もう、全治とみて差支ないんですが……ご希望ならあと一週間もつゞけませうか」
 美津子は、この会話を、ドアのかげで聴いてゐた。なにか重大なことが取り決められたやうな胸さわぎを感じた。
 その夜、彼女は、夫のいびきを聞きながら、こんなことを考へた。――この夫を裏切るやうなことは決してすまい。たゞ、自分が、ある美丈夫の心を惹きつけたといふことだけ、彼になんとかして知らせておく方法はないか知ら……。それも、不必要に嫉妬をかき立てるやうな方法でなく、たゞ、それによつて、自分といふ女が、そのへんにざらにゐる女とは違ふのだ、といふことを気づかせればいゝのだ。
 藤岡は、それから、夫の学校へ行く日に限つて、決まつた時刻よりも一時間、あるひは二時間も早くやつて来て、美津子を相手におしやべりをするやうになつた。
 あれ以上べつにぶしつけなことを言ふではなく、ごく自然に、自分の生ひ立ちを語つたあげく、誰にでも青春の美しい想ひ出となるやうな異性との交渉があるものだが、自分には、不幸にして、それがない。もうすでに、青春は過ぎ去らうとしてゐる。どんなにあわくても、今、一人の輝くやうな女性の面影を心の奥に印象づけることができたら、もつて瞑すべしと思つてゐる。自分が一週間治療をつゞける希望を申出たのはたゞそのためだ、といふやうなことを、さほどいや味でなく、述べたてた。
 彼女は、さすがに応待に困つたけれども、なるべく当りさはりのない返事をした。
「あたくしなんか、そんな値打あるもんですか。でも、あなたの気まぐれをとがめる資格も、あたくしにはないわ。たゞそれだけのことでしたら、誰の迷惑にも、損害にもならないことですもの。あたくしは、今のお言葉を伺つて、わざとお礼は申しあげません。それはもう、人妻として、ふたしなみなこと、危険なことですから……」
「お礼なんか言つてほしくありませんよ。でも、不愉快だとはおつしやらないでせう? さうですよ、僕の察するところ、あなたのご主人は、あなたがどんなに美しい方かといふことを、自分で判断されることはできないでせうからね」
 この一言は、たしかに、彼女の心臓を突き刺した。すると、彼は、おつかぶせるやうに、
「それごらんなさい。あなたは、そのことをひそかに悔んでゐられる。あなたが美しいといふことは、誰かのためでなければならないのだ。それをちやんと知つてゐる誰かのためでなければならないのだ。さうでせう?」
「いゝえ」
 と、美津子は、眼がしらに涙を溜めて、言つた。
「いゝえ、主人は、あたくしを、実物以上に美しいと思つてゐてくれるんです。さう、自分で申しましたわ」
 すると、藤岡は、
「美しさをはかる物差は一つぢやありません。どう美しいか、それがはつきりわからなければ、なんにもならないぢやありませんか」
 と言ひながら、彼女の顔に見惚みとれるやうな視線を据ゑながら、パチパチと大きなまたゝきをした。
 彼女は、もう酔ひしれたやうに、藤岡の視線に、うつとりと視線を合はせた。
 が、その時、彼女は、玄関の開く音を耳にした。救はれたやうに起ちあがつた。夫が靴をぬぎながら、
「もう来てるの……」
 とたづねた。
「えゝ、たつたいま……」
 彼女は口の中で答へた。
 その一週間も、事なくすんだ。しかし、藤岡は、それからも、夫の留守をめがけて、しげしげと顔をみせ、彼女も、それを玄関で追ひ払ふ気はしなかつた。
 さういふある日、彼女は、ふと思ひついて、夫の飲み残した葡萄酒をグラスに注いで、藤岡の前においた。
 彼はすぐに眼のふちを赤くし、この部屋は暑いのか知らと言ひ、上着のボタンを外した。
 彼女は、葡萄酒など飲ませたことになんとなく気がとがめて、すぐにグラスを片づけ、
「そんなに暑いか知ら?」
 と言ひ言ひ、ガスの栓を細めた。そして、腰をあげようとすると、藤岡の見あげるやうなからだが、すぐうしろに近づいてゐた。彼は、彼女の肩を抱くやうに腕を差し伸べ、
「一度だけ、ね、一度だけ……」
 唇をゆるせといふしぐさで、ぐつと迫つて来たのである。
「いけないわ、そんなこと……ほんとに、それだけはゆるして……」
 さう云ひながら、彼女は彼の腕から逃れ、唐紙からかみを開けて奥の部屋へ姿を消した。が、それはなんにもならなかつた。ほかに誰もゐないことがわかつてゐた。彼は、大胆に、彼女の後を追つた。部屋から部屋へ、子供のやうに、二人は、追ひつ追はれつした。
 彼女は二階へかくれようと思つたが、それでは却つて事が面倒になると思ひなほし応接間のドアを開けて、中から、錠をおろさうとした。が、それも、もう遅かつた。ドアは押し返された。そして、その部屋のソファの上で、彼女は、遂に、抵抗を断念した。
「わるいかた……」
 と、彼女は、ほんとに口を尖らせて、呟いた。
 一瞬、しんとした、その時、玄関の外で、靴をバタバタいはせる音がした。
 彼女が、ふと顔をあげると、窓のカーテンの隙間から、杖の先で靴の泥を落してゐる夫の姿が眼にはいつた。いけないツ、と、思つた。が、咄嗟に、なにを考へる暇もない。からだを急に起すといつしよに、藤岡の眼へ、早くどこかへかくれろといふ合図をして、そのまゝ、玄関へ出て行つた。
「あら、どうして、こんなにお早かつたの?」
「午後の授業が休みになつたんだ。生徒をどこかへ見学に連れてくつていふんだ。誰か来てるの?」
「いゝえ」
 と、彼女は、反射的に打ち消して、夫の手を取つた。
 夫は、いつもすぐに二階へあがつて着替へをするのに、今日に限つて、さうしようとはしなかつた。
「あら、どこへいらつしやるの?」
「寒いからちよつと火にあたりたいんだ。ストーヴをつけてくれ」
 治療室へつかつかとはいると、天井ぐるみ部屋の中をひとわたり見廻すやうな、例の盲人独特のしぐさをして、
「火がついてゐるのか、こいつは有りがたいや。今日はしかし、誰も来る日ぢやないだらう?」
「えゝ、さつき、あたしが、ちよつと……」
「あゝ、さうか。しかし、変だな。アルコールを使つたかい、この部屋で?」
「あゝ、さつき、葡萄酒の瓶をふいた雑巾でこのテーブルを拭いたんです」
「美津子、ダメだよ、嘘をついちや……この家のなかに、もう一人人間がゐるよ」
「まあ、変なことおつしやつちや、いやだわ。誰がゐるんですの、いつたい?」
「それをはつきり知りたいんだ、僕は……。教へたつていゝだらう?」
「誰もゐないのに、お教へするわけにいかないわ。あなたは、今日は、どうかしてらつしやるわ」
「君もどうかしてる」
 さう言ひながら、夫の歳男は、テーブルの周囲をひとまはりしたと思ふと、いきなり、片手を伸ばして、そのテーブルの上を探りはじめた。そこには、さつき、藤岡が革具ぐるみ投げ出した拳銃がおいてある。
 美津子の顔色は、さつと変つた。そして、思はず、アツと声を立てようとした。
 が、もう、夫の手は、その拳銃のサックに触れて動かなくなつてゐた。


 夫も無言、妻も無言であつた。
 夫は、拳銃を引き寄せて、サックから、それを出した。そして、ひと通り、その形を指先であらためると、引金を引くばかりの持ち方で、銃先つゝさきを二三度上下に振り動かした。それから、ゆつくり、彼は歩きだした。
「ねえ、美津子、僕はどうしたらいゝんだ? 僕の愚かさが作り出した不幸なら、僕は、いくらでも堪へ忍んでみせる。しかし、僕は、理由もなく、人に愚弄されるのは、いやだ。まして、僕がめくらだからといつて、僕を愚弄するやつは、ゆるすわけにいかんのだ。さあ、その男を、僕は、きつと探し出してみせるからね」
 さう言つたと思ふと、いきなり、応接間のドアを開けて、
「窓から逃げ出さうといふのか? さうはさせない。動いたら、撃つぞ!」
 銃先は、ちやんと、窓ぎはにからだをすくめてゐる藤岡の背に向けられてゐた。
 美津子は、夫のうしろから、忍び足でついて来てゐた。藤岡の眼が、彼女の眼に、なにか囁いてゐる。彼女は、夫に飛びかゝつて、拳銃を握つた手にすがりついた。が、それは無益な試みであつた。彼女は、突きのけられ、ぐつたりとソファの上に倒れかゝつた。
 その隙に、藤岡は、足音を立てぬやうに、次の窓にひ寄つた。すると、銃先は、正確に、彼の移動する線に添つて、なめらかに、左から右へ廻転した。
 窓からの脱出が困難だといふことがわかると、藤岡は、素早く、反対側の玄関に面したドアの方に身をかはした。さうしておいて、銃先が自分を追つて来るのを待つて、今度は、急にからだをかゞめ、片手を差しあげてハンドルを廻した。
 ドアがパッと開くといつしよに、突然、拳銃は鳴りひゞいた。
 低くうづくもつた藤岡のからだが、のめるやうに廊下を逼つて、そのまゝ、長く伸びた。
 美津子は両手で顔をおさへた。
「美津子、警察へ電話をかけなさい。あとのことは、君にまかせる。僕は、眼あきにだけはなりたくない」
 さう言つて、彼は、拳銃を床の上に投げ出した。
 その床の上には、さつきの爆音の、そのあふりを食つて、台にのせた鉢植の桜草の咲ききつた花びらが、ほの白く、いくつか散つてゐた。そしてまつたく動かない藤岡の、こつてりとポマードでかためた黒い髪の毛がひとすぢ、ぷつつりと根もとからちぎれて、階段の上り口に落ちてゐた。





底本:「岸田國士全集18」岩波書店
   1992(平成4)年3月9日 発行
底本の親本:「オール読物 第七巻第四号」
   1952(昭和27)年4月1日発行
初出:「オール読物 第七巻第四号」
   1952(昭和27)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2011年10月13日作成
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