アンリ・ルネ・ルノルマンについて

岸田國士




 仏蘭西の現代劇を通じて、「昨日の演劇」の余影と、「明日の演劇」の曙光とを、はつきり見分けることができるとすれば、前者は、観察と解剖の上に立つ写実的心理劇、並に、論議と思索とを基調とする問題劇であり、後者は、直感と感情昂揚エグザルタシヨン綜合サンテチザシヨンと暗示に根ざす象徴的心理劇乃至諷刺劇である。

 此の二つの流れは、それぞれ出発点を異にしてゐることは云ふまでもないが、前者が、後者の上に、何等の影響を与へてゐないといふ見方は誤りである。
 いろいろの意味に於て、「今日の演劇」は、写実よりの離脱に向ひつつあると同時に、象徴的手法の舞台的完成時代であると云へる。そして、「舞台的」と云ふ以上、写実時代が立派に完成した「劇的文体」から、少くとも有力な啓示を享けてゐることは明かである。「心理的飛躍に伴ふ言葉の暗示的効果」――これは、戯曲の存する限り、総べての劇作家が心血を注ぐべき一点である。様式の如何に拘らず、ラシイヌ、モリエールよりマリヴォオ、ボオマルシェを経てミュッセに至り、最近、ベック、ロスタン、ポルト・リシュを生むに至つた仏蘭西戯曲の本質的価値が、今また更に、第五期の頂点を占むべき作家によつて示されることは、恐らく遠い未来ではあるまい。

 現代の仏蘭西劇は――何時の時代に於てもさうであつた如く――外国の傑れた作家から多くの好ましい影響を受けてゐる。殊に、注意すべきは、それが、所謂近代の生んだ巨匠に限られてゐないと云ふ事である。
 希臘劇の復活、シェイクスピイヤの新研究は、今日の若い仏蘭西劇壇に於て見のがすことの出来ない現象である。
 浪漫派の名作家アルフレッド・ド・ミュッセの名が、新しい光彩と力をもつて甦りつゝあることを忘れてはならない。ミュッセは、最も真摯なるシェイクスピイヤ党であつた。
 イプセンとマアテルランク、此の近代劇の二明星は、固より此の運動から除外することはできない。

 かういふ憧憬と探究の渦巻から、「明日の演劇」が生まれるものとすれば、それは決して、「過去の演劇」と全く没交渉なものではなく、まして、「過去の演劇」に対する反抗がその主潮となつてゐる戦闘芸術であり得ないことは勿論である。

 然し、兎も角も、「新しいもの」が生れようとしてゐる。
「永遠の花」が、「新しい花瓶」に遷し盛られようとしてゐる――といふ少しアンファチックないひ方が許されないだらうか。

 三十年前、自由劇場の運動から生まれた多くの劇作家中、優れた天分を有つてゐたものも少くはなかつたが、真に生命の長かるべき作品を残した作家が幾人あつたか。それとても、まだ確乎たる文学史上の地位を築き得たとはいひ難い。ポルト・リシュ、ド・キュレルの二人を除いては、そして、ロスタンといふ彗星的作家を別にしては、古来天才と称せられる偉大な作家に比して、あまりにその距りの大なるを感じないわけに行かない。

 今日、所謂仏国の『先駆劇壇テアトル、ダヴアン、ギヤルド』を形造る幾多の有為な新進劇作家、その名を数へれば十指を屈してなほ余りがあるに違ひないが、その「力強さ」に於て、その「閃き」に於て一頭地を抜くものは、たしかにポオル・クロオデルとアンリ・ルネ・ルノルマンとであらう。
 ポオル・クロオデルが戯曲作家として、舞台の征服に特殊な戦略をめぐらしてゐる間に、ルノルマンは、舞台の伝統から本質的な何者かを捉へようとしてゐる。そして、クロオデルが、加特力教的信仰を基礎とする深刻な体験を犀利な人生批評に向け、簡素にして荘重、巧まずして香り高き詩劇の文体を完成しつつある間に、ルノルマンは、科学者的興味をもつて、魂の奥に潜む未知の世界を探ることに努力した。彼が好んで選ぶところの主題は、潜在意識の問題であり、「第二の魂」の反逆である。人間性の一種神秘的な盲動である。そこから、暗夜に聞く怪獣のせゝら笑ひに似た物凄さを感じさせ、やゝもすれば、メロドラマチックな感動をさへ強ひられることがある。
 ルノルマンは、その「重量」に於て、或はクロオデルに及ばないかもしれない。「裡に有つてゐるもの」の「力ある叫び」に於て、或は、クロオデルのそれと比較は出来ないかもわからない。これは、ルノルマンの開拓しようとする芸術の世界が、クロオデルのそれよりも「動き易い世界」であり、「暗い世界」であり、ある意味に於て「狭い世界」だからであると思ふ。
 クロオデルは、芸術家として、何と云つても既に「或る動かすべからざるもの」を有つてゐるやうに思はれる。
 ルノルマンは、将にさういふものを有たうとしてゐる作家である。
「憑かれたもの」「砂塵」「灼土」等の初期の作品は、一部の先見ある批評家をして、彼の未来を嘱目せしめたに過ぎなかつたが、戦後相ついで「落伍者の群」「時は夢なり」「熱風」「夢を啖ふもの」を発表して彼の声価は頓に著れた。殊に「落伍者の群」「時は夢なり」の二作は、たまたま名舞台監督ジョルジュ・ピトエフの手によりて完全に舞台化され、彼の戯曲家的手腕は、初めて遺憾なく巴里の劇壇に紹介された。
 その後「赤歯山レ・ダン・ルウジユ」「男とその幻」「悪の影」「卑怯者」等で、相当の成功を収めたと伝へられる。
 私はここで、ルノルマンを如何なる意味に於ても、誤つて伝へたくない。彼は、優れた天分と信頼すべき芸術的良心とを有つた新劇開拓者の一人であること――その数ある作品は、何れも、相当深い思索と、充分に鋭い感受性と、殊に、稀に見る表現の的確さによつて、彼が「大器」たるの素質を示してゐること――その主題の新鮮さ、結構の自由さ、弾力に富む文体の朗らかな、そして底力のあるメロディー、それは常に、興奮と凝視と瞑想の、極めて特殊な「心理的詩味」を醸し出し、最近の仏蘭西劇壇を通じて、最も異色ある作家の一人となつてゐること――先づこれだけのことを言つて置きたい。

 そして、わたくしは、かういふことをつけ加へる。
 彼の今日までの作品は、少くともその手法に於て、決して斬新奇抜と云ふほどのものではない。それどころか、わたくしの観る処では――恐らく誰でも気のつくことであらうが――彼には「幾人かの先生」がある。
 これは、前に述べた、現代仏国劇壇の傾向を物語る一つの好適例であるやうに思ふ。
 彼は、これらの「先生」から、「貰ふべきもの」と「一時借りたもの」とを、まだ同時にもつてゐるやうな気がする。
「借りたもの」を返してしまふ時機が早晩来なければならない。
 それから「貰つたもの」が、「自分で造つたもの」の中に、すつかり形を没してしまふ時機が来なければならない。

 此の意味で、今日、彼に「偉大なる天才」の名を冠することは、まだ早いやうに思ふ。

 彼の感受性は、しかく鋭敏であるに拘らず、その好奇心に、ややナイーヴなものがあることは否めない。その一つは、科学に対するそれであり、もう一つは、異国趣味に対するそれである。彼はアインシュタインの相対性原理(時は夢なり)とフロイドの精神分析(落伍者の群)とを通俗化し、和蘭と亜弗利加と南洋とを、運河と砂漠と竹藪によつて象徴させようとする。彼の描く人物は、概ね「考へる」以上に感じてゐる。しかしながら、時として、象徴的手法の失敗が、人物の性格を類型に陥れる場合がないでもない。之に反して、霊感一度到れば、その表現の鮮かさは、まさに、常人の企て及ばないものがある。
「大なる未来」を想はせる所以である。

 かう云ふと、彼の価値は、また法外に低く見られる恐れがある。わたくしが、日本ならば、老大家の列に加へらるべき年輩と閲歴ある彼を、仏国に於ける一新進作家として紹介し、あまつさへ日本ならば、一流の文人と比肩し得べき彼――ルノルマン君よ、何とでも云ひ給へ――の芸術を評するに、最大級の讃辞を用ひないその罪を、抑※(二の字点、1-2-22)何ものに帰すべきであらうか。
 くれぐれも私の罪ではない。ルノルマン君よ、君が、仏蘭西といふ国に生まれた罪だ。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「近代劇全集 第十八巻」第一書房
   1927(昭和2)年6月10日発行
初出:「演劇新潮 第一年第十二号」
   1924(大正13)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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