一言二言三言

岸田國士




     誇大妄想狂

 幕末の志士は佳し。爾来ニキビ面の低脳児、袖をまくりて天下国家を論ずるの風、一時、奇観を呈せり。釈迦、基督はよし、ダントン、レエニンは佳し。今日、猫も杓子も、社会、人類を憂へて、騒然、喧然。
 東洋人、由来、悲憤慷慨の気に富む。
 ――俺は、どうしてかう意気地がないのか。
 ――きやつは、実に怪しからん。
 ――貴様は何といふ恥知らずだ。
 佳し、佳し。
 希くは、「死すとも」それ以上を言ふ勿れ。

     沈黙

 沈黙は金……云々といふ格言を、文芸の道に通用せんとする人あり。
 筆を折るに若かず。
 最も巧みに選ばれたる言葉、これが文芸作品の全部なり。言葉と言葉との間に、若し、何か在りとすれば、そは、何ものにも非ず、たゞ、言葉のイメエヂがもつ広さのみ。
 これを沈黙と名づくるは、言葉の命に無関心なる証拠。

 言葉のイメエヂがもつ広さ、これは文芸の本質的価値を左右するもの。
 含蓄、余韻、暗示的効果などの語、概ね、これを指す。
 沈黙は金と断ずる論者、意、果して其処に在りや。

     作者と作中の人物

 一つの作品を論ずる場合に、必ず、その中の人物に作者を結びつけて、その人格を云々せざれば承知せざる批評家あり。
 作品は巧みに書かれあるも、主人公の人物が気に食はず、故に、此の作品は面白くなしと云ふなり。
 主人公の人物が気に喰はず、その性格に同情がもてず、女を追ひ出すとは不都合なり、どうして、あゝ酒ばかり飲んでゐるのか、扨ては、資本主義的なるは時代遅れなり云々などゝ、さも、自分の子供か友人に対してゞも云ふやうなことを云つて、それを今度は、作者に持つて行き、此の作者はまだ人間的修養が足らず、風格が出来てゐず、オツチヨコチヨイなるべしなどゝ罵倒す。
 一寸、これ、困りたるものなり。
 なるほど、作品を通じて、作者の一面を窺ひ得ることは事実なり。作品種篇を通じて、作者の面影を、ほゞ察し得ることは事実なり。
 而も、作中の人物と、作者その人とは自ら区別あるのみならず、全然正反対の性格、気質、趣味を備へたる場合なかなか多し。作中の人物を通して作者その人を知るは、たゞ、その作中の人物が、如何に観られ、如何に取扱はれ、如何に描かれて在るかを知りたる上、かく観、かく取扱ひ、かく描く処の作者とは果して、如何なる「人間」ならんかと一考したる上なり。
 しかも、それを以て、直ちに、作者の「全人格」を早断するは当らず。まして、作者の「道徳」を批判するは当らず。何となれば、世にも唾棄すべき「人物」を描いて、作者は、何等之に「道徳的批判」を加へざるのみか、その人物の行動に一種の「魅力」をさへ与へんとせるが如き場合、之を以て、直ちに、作者が、此の人物に好意と同情をもち、此の人物の行動を是認せりと思ふは誤りなればなり。作者は、此の人物を、単に「芸術家として」観うればなり。描きうればなり。
 日本近来の批評家、動もすれば、此の消息を忘れて、芸術的作品を、より多く、人間的交渉の上に立ちて論じ、芸術家を、より多く社会的見地より月旦せんとする風あるが為めに、創作は日を追ふて生彩と香気を喪失し、自己弁護的調子と道学者流臭味とを盛らざれば小説に非ず、戯曲にあらずと思惟するに至れり。
 芸術的作品は、たゞ、芸術的であればよし、作家は、その中にて、たゞ、優れたる芸術家であればよし、それが、それだけであることさへ、誰にでも出来ることではなきなり。

 芸術的であることとは如何。
 芸術家であることゝは如何。
 面白き問題なり。
 諸君、今、新たに、之を論ずるの勇気ありや。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「文芸時代 第二巻第三号」
   1925(大正14)年3月1日発行
初出:「文芸時代 第二巻第三号」
   1925(大正14)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2009年1月20日作成
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