或る批評
岸田國士
「わたしは、ヴイルドラツクが、海水服を着てゐるところを見たことがない」と、サヴイツキイ夫人は云ふ――「わたしは、また、『休んでゐる彼』を見たことがない。……彼は真面目である――しかし、模範学生の真面目さではなく、学校へ行くことは嫌ひだが、学校から帰つて来て、母親の笑顔を見るのがうれしくて堪らない小学生の真面目さである。」
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夫人は更に云ふ――「文学者又は芸術家の顔の中には、何かしら、一種抽象的な存在――それは常にいくらか女性的な――が伴つてゐるものである。よく見ると、それは、名誉、祖国、情熱、皮肉……などによつて象徴される姿である。ヴイルドラツクの場合は、それが、何んであるか、はつきり云ひ表はせない。恐らく、名のつかないものだらう。」
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「どんな人間でも、シネマで、眼だけ出した黒いマスクをつければ、悪漢の役に見えるだらう。ヴイルドラツクには、それが出来まい、彼は、赦す眼、与へる眼、愛する眼しか有つてゐない――奪ふ眼、捕へる眼、犯す眼を誰でも有つてゐるものだのに。」
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「露西亜の農民は、昔、『憐む』といふ語を、『愛する』といふ語の同義語に用ゐたさうである。ヴイルドラツクの芸術は、殊にその『愛の書』と戯曲とは、此の言葉のニユアンスを伝へてゐる。」
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「彼の戯曲は、明かにデモクラチツクな相を備へてゐる。それにも拘はらず、最もアリストラチツクな魂を動かすに足るものである。彼は民衆の指導者でも弁護者でもない。彼はたゞ民衆の友である。」
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「彼の戯曲は、乾いた土を待ち侘びてゐる豊かな、そして平和な雨の最初の滴である。……われわれは、永い間、清らかな水に渇してゐた。」
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「彼は、俳優の為めに、何等の粉飾をも用意しない。……彼と俳優との間、俳優と見物との間に、彼はコンヴエンシヨンの仲介を求めない。総てが直接である。……多くの見物は、まだ、舞台の上で、人間と云ふ材料が有つてゐる理解と感激の源、円滑とつゝましさの泉、それを殆ど知らずにゐるのである。」
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「演劇を邪道より救はうとすれば、完全な舞台監督ばかりでは足りない。その作品に何等の卑俗味を加へない作者が必要である。われわれは、ヴイルドラツクを有つてゐる。」
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サヴイツキイ夫人の讃辞はかう結んである。
私は、この批評の簡単な抜萃にさへ、最早、一句をも附け加へる資格がない。
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