演劇漫話

岸田國士




     一、新劇と旧劇

 現今、芝居好きと称する人のうちで、旧劇はつまらないと云つて見に行かない人もあるでせう。しかし、それは極少数の「新しがり」に限られてゐると云つてよろしい。之に反して、新劇は見るに堪へないと公言して憚らない人のうちには、相当、見識のある芸術愛好者が、可なり多くあることは事実です。
 旧劇は一概につまらないと云ふ側の人々は、旧劇には優れた文学が無いからといふ理由を挙げるでせう。しかし、旧劇は、今日ではもう立派に文学の羈絆を脱してゐる完成品です。たゞ、旧劇俳優のうちには、その旧劇独自の存在理由に着眼せず、徒らに、「旧劇の文学」に心酔して自己の世界を狭め、自己の芸術を低調ならしめてゐる自称新人の多いことは遺憾であります、従つて、之等の旧劇界の新人等は、たまたま新劇に手を染るに当つても殆ど常に、最も旧劇的な新劇、云ひ換へれば常識的感情を基調とする作品にのみ向はうとする愚かさを繰返してゐます。
 新劇は見るに堪へないといふ連中は、新劇にとつて、必ずしも敵でありません。なぜなら、彼等のうちには、「よりよき新劇」の出現を待ち望んでゐる人もあるでせうから。殊に、今日、新劇団と称する如何はしい蜉蝣的存在を無視することは、決して、新劇そのものを無視することにはならないからです。
 新劇とは、云ふまでもなく、西洋劇の影響を受け、現代文学の思潮を根柢とする演劇運動を指してゐます。
 戯曲の方面では、最近、相当目星い作品を生んでゐますが、舞台的には、まだ新劇を演じるために必要な才能と教養とを兼ね備へた俳優がゐません。従つて、大部分は素人です。その上、彼等には、御手本がない。先生がない。絶えず同じことを繰り返してゐて進歩しないのも無理はありません。

     二、新劇と云へないもの

 新劇は現代劇でなければならないと限つてはゐません。しかし、現今、新作時代劇と云はれてゐるものゝうちに、新劇の名に応はしい作品、舞台が、いくつありませう。「藤十郎の恋」や、「坂崎出羽守」や、「お国と五平」や、「伊井大老の死」や、「息子」や、「大仏開眼」や、「生きてゐる小平次」や、「玄朴と長英」や、これら、現代の日本劇壇が生んだ評判の時代劇は、多少とも、旧劇にないものを含んではゐますが、之等は畢竟、旧劇の畑にみのり得る果実であると、私は信じてゐるのです。それで、かういふ種類の作品は、所謂新劇の将来にあまり多く寄与する処のない作品であります。
 それからまた、現代生活を取扱つてゐればなんでも新劇かと云へば、さうとも限つてはゐません。新派劇は別として、毎月発表される戯曲を見ても、これはどう演出をすれば新劇になるのかと思はれるやうな作品があります。それは何れも、芝居といふものゝ常識から一歩も脱け出てゐない作品だからです。それはたゞ、人物が類型的だと云ふに留まりません。「作者の観てゐる芝居」が、今迄何処かで観たことのある芝居の寄せ集めに過ぎないと云ふことになるのです。早く云へば、舞台的に何等創造のない芝居は、新劇とは云へません。何となれば、芝居は昔から型に陥り易いものであり、その型を踏襲することによつて旧劇が成立ち、その型を破ることによつて新劇が起つたのですから。そして、俗衆は、自分の観てゐる芝居の中に、自分の知つてゐる型を見出さなければ満足しないといふ恐ろしい習慣を失はずにゐるのです。新劇は、さういふ種類の観客に秋波を送つてはなりません。

     三、演劇の為めの演劇

「芸術の為めの芸術」といふ語は解釈のし方で、いろいろな攻撃を受けますが、「演劇の為めの演劇」と、私が云へば、これも、いろいろな方面から苦情が出ることゝ思ひます。
 今日、「少数好事家の為の演劇」がよくないといふので、「民衆の為めの演劇」が唱道せられ、「俳優の為の演劇」が幅を利かしてゐる時に「文学者の為めの演劇」が一向に振はないでゐるといふ様に……。また、或る時は「演出家の為めの演劇」が栄え、「舞台装置家の為めの演劇」が出現し、「右翼思想の為めの演劇」があると同時に「左傾思想の為めの演劇」が存在を主張するといふ有様です。
 そして、結局、「興行主の為めの演劇」「俗衆の為めの演劇」「人気俳優の為めの演劇」以外に何も残らないではありませんか。
 それならばまだしも、「演劇の為めの演劇」があつて、それをめいめいが勝手に利用するやうにした方がよくはないでせうか。
「演劇の為めの演劇」とは、つまり、「演劇を愛するものゝ為めの演劇」であります。演劇を、演劇以外のものゝ為めに愛する人々があると仮定すれば、さういふ人々は、真に演劇を愛するものとは云へません。役者を見たさに芝居に行くといふ人々さへも、それは、演劇の為めに演劇を愛するものではなく、演劇に取つては寧ろ有難くない味方であります。
 それならば、「演劇の為めの演劇」とはどういふものかと云へば、演劇の本質を発揮するためにあらゆる要件を具備した演劇であります。脚本も文学の他の部門より独立し、舞台装置も絵画や建築の後を追はず、俳優も物真似ににつかず、舞踊に走らず、演劇は、一個それ自身の美を以て芸術の一様式たる実を挙げることに努力するのです。演劇でなければ表現できないものが人生のうちにあることを発見した古人の純粋な感覚を、われわれはもつことができないのでせうか。

     四、劇を書くが故に劇作家なる劇作家

「詩を作るが故に詩人なる詩人」と「詩人なるが故に詩を作る詩人」とを区別した人が仏蘭西にあります。劇作家についても同じやうな区別ができさうに思はれます。
 此の区別、此のニユアンスはやがて、詩の本質、劇の本質を雄弁に語らうとするものです。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」が如何に多いことでせう。そして「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」が如何に少いことでせう。
「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」は、劇を生む人々です。「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は劇を製造する人々です。前者の作品は一つの有機的組織であるのに反して、後者のそれは、常に機械的構成であります。従つて、後者は「味」よりも「力」を、「香」よりも「刺激」を、「光り」よりも「色」を、「弾力」よりも「硬さ」を、「密度」よりも「重さ」を尊重する傾きがあります。一つは「生き」、一つは「動」くのであります。云ひ換れば、前者は、「生命」を与へることによつて「動き」をつけ、後者は「動き」をつけることによつて、「生命」の仮感を与へようとするのです。
「劇作家なるが故に劇を書く劇作家」中にも、「力」と「刺激」に富む作品を書いた人がないではありません。しかし、それは、常に、豊かな「味」と「香」とを伴つてゐます。
「劇を書くが故に劇作家なる劇作家」は、概ね、所謂「劇的シイン」のストツクをもつてゐます。戯曲とは、あらゆる「劇的シイン」の組合せだと思つてゐるからです。さういふ人々は、たまたま新しい着物を着てゐるかと思ふと、それは古い着物を裏返しに着てゐるのです。

     五、西洋劇と日本劇

 西洋の劇作家は言葉を活かすことを知つてをり、日本の作家は沈黙の価値を知つてゐると、嘗て武者小路氏が云はれたのに対して、私は言葉を活かすこと以外に沈黙の価値を活かす手段があり得ないだらうと言ひました。最も言葉を活かすことが――文学に於ては――最も沈黙を利用することであるといふ証拠は、西洋の優れた作品中にいくらでも例を挙げることができます。然るに、日本の劇作家の作品中、ほんとうに沈黙の尊さを知らしめるやうな作品がどこにあります。
 長田秀雄氏は、また、先月の新潮で、日本人の生活と西洋人の生活とを比較し、一つは、感情を表面に現さない生活であり、一つはすべての感情を、言葉やしぐさによつて表示する生活であるから、前者の生活から、歌舞伎式の楽劇が生れ、後者から文学的な科白せりふ劇が生れたのは当然である。故に、西洋の科白劇を、そのまゝ日本に遷すことは多少不自然であり、そこに新劇の行詰りを見る一原因があることを指摘してをられるが、これは慥に卓見だと思ひます。
 しかし、感情を表面に現さない生活、少くとも、感情を深く内に包んで容易に色に見せないといふ生活は、過去の生活であり、現在では、その習慣は漸次失はれつゝあるのです。殊に、舞台の生活は実人生の模写ではないのですから、実際ならば口に出さないやうな文句を、舞台上の人物が喋舌つたからとて、それが、「真」を伝へてゐないとは云へますまい。科も亦同様です。要するに、実生活に於ては内に秘められ、又は、かすかにしか現されないことが、舞台では表面に現され、明かに示され、しかもなほ、それが、内に秘められ、かすかに現されてゐるやうな印象を与へ得ればいゝのです。そこが芸術なのです。モリエールの「人間嫌ひ」は、主人公が独りで喋舌つてゐるやうな芝居ですが、その主人公は如何に無口な人間のやうに書けてゐるか、これなどは、よい例だと思ひます。
 日本人の生活が科白劇を生むに適してゐないといふのは、たゞ、さういふ生活が劇作家や俳優の才能を伸ばすに適しないといふだけで、又は、劇作家や俳優に霊感を与へにくいといふだけで、さういふ生活も、優れた作家、傑れた俳優の手にかゝれば、よい科白劇として表現されない筈はないのです。

     六、眼で聴き耳で観る芸術

「芝居を観る」といつて「芝居を聴く」と云はない理由を、芝居は眼にうつたへる方が主で、耳に愬たへる方が従であるといふやうに解釈するものがあるとすれば、それはあまり芝居の歴史にうとすぎます。
 こゝで演劇史を繰返すことはできませんが、要するに、「観る」だけでもなく、「聴く」だけでもなく、強て言葉を弄すれば「眼で聴き、耳で観る」といふやうな一種の境地にわれわれを惹入れるのが演劇本来の「美」であります。かの音楽が、屡々、聴覚を通して、一つの空間的なイメーヂを喚起させることは誰でも知つてゐることです。それとは、また稍異つた意味で、舞台の上を流れる生命の諸相は、殆ど何等の媒介なしに、直接われわれの魂に触れて来るやうに感じられなければなりません。
 かういふ印象は、勿論、傑れた演劇からのみ受け得られるのではありますが、今日まで畸形的に発達した演劇のある種の様式――例へばメロドラマなど――に依て特殊な鑑賞態度を習慣づけられた観客(此言葉が証明する通り)は、之と対蹠的な関係にある演劇の様式――例へば象徴的心理劇など――には親しみが薄い結果、事件を追ふことにのみ急で、台詞せりふの一語々々が醸し出すニユアンスの美を閑却し勝ちであります。
 メロドラマ、必ずしも芸術的に価値のないものだとは云ひません。また、高級な芝居が、常にせりふのみを生命とするものであるとは云ひませんが、舞台の動きも、台詞の意味も、共に、それを観る眼、聴く耳の単純な効果だけに頼つてゐるものであつてはならないのです。
 新しい演劇の鑑賞は、それ故、眼に見えるもの、耳に聞えるもの、さういふ区別をしないでも、丁度音楽の演奏を聴くやうな、あの虚心さ、あの注意深さ、あの心の澄まし方が必要なのです。
 但し、かういふ態度の鑑賞に値する演劇は、今日まで、日本にはまだ見当らないやうです。

     七、芸術的劇場

 芸術的劇場とは、営利の目的を離れて専ら芸術的舞台を創造することを存在理由とする劇場を云ふので、できるだけ多くの観客を吸収して、出来るだけ興行主の懐を肥やさうとする商業劇場に対立すべきものであります。
 芸術的に保たれた舞台が、十分見物を惹き得るといふのは理想で、実際は、低級な、卑俗な趣味が、最も多数者の興味を唆つてゐるわけなのです。
 処が、芸術的といふ言葉は、如何にも厳粛な響きを伝へるわが国の現状から云へば無理もないことですが、徒らに芸術的なる名の下に、ぎごちない、未完成な、時によると投げやりな舞台を公開し、苟くも芸術的演劇の観客が、退屈さうな顔をするのは不都合だと云はぬばかりに、シヤア/\としてゐるのは、慥に芸術を冒涜するものであるのみならず、これでは、永久に芸術的演劇は、商業劇場のうちに於てのみ、之を観得るといふ矛盾から脱することは出来ますまい。
 所謂芸術的演劇としてわれわれの鑑賞に堪へ得る歌舞伎劇のあるものは、実際、商業劇場の中に於て、之を観得るのみです。歌舞伎劇は営利の具たることによつて、次第に非芸術的となりつゝある事実を否むことはできません。
 そこで、私は、商業劇場以外に、例へば能楽の如く、歌舞伎劇の芸術的存在を保護するに足る純芸術的劇場の創設は、時代の急務であると思ひます。それと同時に、一般の商業劇場は、歌舞伎劇以外に新しい現代的通俗劇の樹立によつて興行成績の向上を計るべきです。新しい現代的通俗劇とは、民衆の趣味と生活に根ざす、あらゆる様式のスペクタクルです。メロドラマ可なり、ヴオオドヴイル可なり、ルヴイユウ可なり、フアルス可なり……。
 さうなつて始めて、新劇によつて立つ芸術的劇場の存在が意義あるものとなるのであります。
 今のやうな有様では、どんな劇場で、どんな俳優が演じても、新しい文芸劇でさへあれば、それは芸術的演劇と呼ばれ、劇場の格式、俳優の地位が極めて「好い加減」であります。これは、演劇の進化、芸術的純化の上に甚だ好ましくない結果を齎すことになります。

     八、新しい戯曲の読み方

 近頃は読み物としての戯曲がなかなか盛んになつて来ましたが、これらの戯曲は、何れも舞台にかけて見なくては、ほんとうの価値はわからぬなどゝ云ふ一部の人々の説は、私にはどうも受け取れません。戯曲の読めない人を標準にすれば勿論さうですが、それなら芝居のわからぬ人を標準にしたら、舞台にかけてもわからぬことになるのです。
 戯曲の読み方と云つても、別に理屈があるわけでもなく、たゞ、戯曲を読みながら、舞台のイメーヂが正しく浮ぶやうになれば、それで戯曲の読み方は卒業なのです。
 処が、劇作家は、戯曲を書く時、果して、実際の舞台をイメーヂとして描いてゐるのか、または、実人生の相を舞台といふ仲介なしに描いてゐるのか、これは問題ですが、これは、何れにしても、読者は読者で、その時の印象次第で、そのイメーヂを実人生の相と見てもよし、又は実際の舞台を仮想しても、それはどうでもかまひません。
 たゞ、戯曲中の人物を、作者が如何に観てゐるかといふこと、これがはつきりしないと、戯曲の価値は勿論、その面白さ、殊に、舞台の気分を捉へることができません。
 戯曲を読む時、最も注意しなければならないのは、自分が嘗て見た俳優によつて、その戯曲が演ぜられてゐるといふ一種の連想が、著るしく、その戯曲の印象を変へてしまふことであります。その俳優は、誰とはつきりわからない場台でも、自分の今迄に見た一般の俳優の表現能力が、新しい戯曲を読む場合、その中の人物の白、科、その他一切の「活き方」を決定し、瀟洒たる人物が、キザな人物に感ぜられ、愉快な喜劇味が下らない洒落にしか見えないといふやうな場合がないでもありません。勿論、此の場合、作者に罪のある場合もあるのです。それだけ表現にすきがあるのかも知れません。しかし、読者の連想は、意外に戯曲の人物を変形するといふことは、外国劇などを読む場合、特に注意すべきことだと思ひます。何となれば、西洋の傑れた俳優が演じてこそ味のある人物、場面を、現在の日本の俳優が演じるものとして、その人物、場面を頭に描かれては、実際やりきれないことが屡々あるのです。
 戯曲を読む場合、自分の今迄に見た一般俳優の表現能力が、その戯曲のイメーヂをさまざまに変形する以外に、在来の芝居といふものゝ型、詳しく云へば、台詞の言ひ方や、顔面の表情、類型的感情を現すしぐさなどが、頭にこびりついてゐて、新しい傾向の戯曲を読む場合にも、その戯曲中の人物を、在来の芝居に出て来る人物の型に嵌めて解釈する誤りに陥り易いものです。
 新らしい作家は、新らしい戯曲の文体を創造します。新らしい舞台の言葉を撰んでゐます。その新らしい台詞を、在来の台詞まはしで言はれては、その台詞の感じといふものは毀されてしまふことになります。此の台詞は、かういふ風に言ふべきであるといふ一つの「案」を有つてゐなければ、ほんとうの劇作家とは云へないのです。その台詞の言ひ方は、戯曲の読者にどうして伝へ得るかゞ問題ですが、それは、やはり、読者にそれだけの想像力がなければならないといふことになるのです。我国ではまだ写実的の台詞の訓練さへ十分にできてはゐないのですが、此の方は、器用でさへあれば相当の効果を挙げ得るものであることは証明されてゐますが、例へば少しリリカルな台詞になると、もう、何等の工夫がない。工夫をするにも、どうしていゝかわからない状態です。そのリリカルな台詞を、新派式に、又は写実的に言はうとすれば、滑稽であり、歯の浮くやうであり、キザであるのは当り前です。さうして見ると、戯曲の読者は、ある程度まで演出者であり、俳優であり、殊に作者である必要さへあるのであります。
 これからの新しい戯曲を読みこなす為めには、台詞の、象徴的な、詩的な表現を味はひ得た上で、それが最も暗示的に、音楽的に、肉声化された場合の心理的効果を判断し得る能力がなければなりません。それと同時に、科白に伴ふ顔面の――眼の、瞼の、小鼻の、口元の、頤の、そして、首の傾け方の、智的な、近代的表情が生むあらゆるニユアンスに敏感でなければなりません。
 早い話が、彼の旧劇や新派劇に於て屡々用ゐられる「思ひ入れ」の如き、新しい戯曲を読む上に、その連想がどれだけ邪魔をしてゐることでせう。

     九、喜劇大に出でよ

 喜劇と云つても、悲劇に対するそれと範囲を限る必要はありません。近代に於て、所謂コメデイと称せられるものは、必ずしも「笑」の分子をのみ含んではゐません。ニイヴエル・ド・ラ・シヨツセまで遡らずとも、また悲喜劇といふやうな特殊の名称を附けずとも、近代の懐疑精神は、演劇を通しても、涙のうちの笑、笑のうちの涙に多分の詩を見出しました。
 また、単に「笑劇」(フアルス)の名で呼ばれるものゝうちにも、文学的に傑れた作品があることを発見したのは、比較的最近のことであります。「代言人パトラン先生」は中世が生んだ文学的逸品であることも先代の史家は見遁してゐます。
 しかしながら、西洋では、兎に角、昔から、喜劇が卑俗なものであるといふやうな迷信は行はれてゐないやうです。勿論高級喜劇(オートコメデイイ)の名があるくらゐですから、同じ喜劇のうちにも低級なものがあることは事実ですが、それは、人を笑はせる動機がややもすれば心情の下劣さを暴露するやうなものである場合があるからで、其点、人を泣かせる方は、同じ動機でも、かの偽善者が世にはびこる如く、巧に対手の眼を瞞着し得るのです。
 それはさうと、日本では、何時の時代からか、喜劇が芸術の本道から除外されてゐる観があります。それは、何となく下品なもの、軽々しいもの、従つて正面から問題にすべき性質のものではないといふ偏見があるからでせう。此の傾向は、現代に於てすら、文学者の間に根を卸てゐる傾向であります。尤も、此の際、一人でも優れた喜劇作者が現れゝば、さういふ偏見は消えてしまふでせうが、今日、いろ/\な形で少しづゝ頭を出しつゝある喜劇の芽が、さういふ偏見の為めに早くも成長を阻まれつゝあるといふことは、誠に残念であります。
 私はこゝで、喜劇大いに出でよと叫ぶ前に、先づ、喜劇を正しく鑑賞せよと叫ばなければなりますまい。





底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「都新聞」
   1926(大正15)年8月17日〜26日発行
初出:「都新聞」
   1926(大正15)年8月17日〜26日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月19日作成
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