本誌(「改造」)に時評を書くのは初めてだから、多少今まで云つたことと重複する点もあるが、私が現在、最も痛切に感じてゐることを、ここでも云はして貰ふことにする。
先づ、私が訊ねたいと思ふのは、本誌の読者で、「現在の芝居」を観に行く人が、どれだけあるかといふことだ。歌舞伎、新派、新劇を通じて、ある程度まで各人の好みがあることはあるだらうが、その何れでも、実際、時には観たいと思ひ、木戸銭を払つて観に行くといふ人があれば、余ほど「特別な事情」からではないかと思ふ。
歌舞伎の方で、菊五郎を観に行くとか、中車が好きだとかいふのは、まあよろしいとして、例へば何座で何々をやつてゐるから観に行くといふ好事家がゐたらお目にかかりたい。「某新劇団が今度亜米利加作家某の作品を上演するさうだ。その作品はまだ読んでないが、評判になつたものらしいから、どんなものかひとつ観て来てやらう」――そこで、生憎、その晩は雨だ。それでも観に行く元気があつたら、それはただ売りつけられた切符を無駄にしたくないためばかりではないか。
私は、決して、専門の批評家や、その道の研究者を揶揄する考へは毛頭ない。飽くまでも、「一般の読者」を標準にして云つてゐるのだ。
さて、なぜこんなことを云ひ出したかといへば、日本に生れ、多少新しい芸術的教養を受け、しかも、演劇といふものを何かの動機で好きになつた人、又は、娯楽の一つとして自分の趣味に適ふ芝居を求めてゐる人があつたら、それは実に不幸な人だといふ前提をしたいからだ。
幸ひに、今日では娯楽の種類も殖え、芝居でなければならんといふほどの人は殆どあるまいから、この不幸といふ言葉は、直ちにぴんと来ないかもしれない。それは仕方がない。しかし、いま、映画といふもの、野球といふもの、ダンスといふものまでが、不意に「禁止」にでもなつて、わが国から姿を消したら、当分は不幸を嘆ずる人が多からう。一度その味を占めたからだ。ところが、芝居だけは、少くとも、「現代の演劇」に限つて、わが国の人々は、多く、まだその「味」を識らずにゐる。味はせる人も、店もないせゐである。よその国にあるものならなんでもある今日の日本に、「芝居」――勿論時代と共に遷る芝居だけが、なぜないのか。
試みに仏蘭西に例をとらう。巴里には現在六十余りの芝居小屋があり、そのうち歌劇やレヴュウをやつてゐるものを除き、まづざつと三十の小屋で、芝居といへる芝居をやつてゐる。更に分けると、三つは国立劇場で、古典劇と当代の大家新進中芸術的ではあるが、晦渋でない作家の作品を厳選して上演し、これが一国演劇文化の本流を代表するものと見做されてゐる。また、
第一、古典劇をやるにしても、その割合は、巴里全体を通じて、一晩に、僅か二つ、多くて五つだ。その他は、悉く現代劇、しかも、わが国の新派劇程度のものは、どんなけちな劇場でも、決してやつてゐない。仮に、もう一層悪趣味なものがあつたにしろ、その悪趣味に交る「新鮮さ」を見逃してはならない。何が新鮮か。思ひつきがである。舞台の言葉がである。見た目がである。一歩譲つて、新鮮味更になしといふ奴でも、少くとも、旧くはないのだ。つまり、「現代の生活」から生れたものなのだ。
日本の芝居が、遅々として進まず、芸術的にも、風俗史的にも、旧態依然たる有様は、抑も何に基因するかといふ問題は、実に私も屡々――寧ろ常に――述べてゐるので、また今それを繰り返す気にはならぬが、結局、総ての劇場が、同一観客層――近代的教養とは没交渉な一階級――を相手に、いつまでも経営方針を立ててゐるからである。偶々新劇団と称するものがあつても、これは、その撰択する脚本の種類範囲からいつて、外国の前衛劇に近いものであるか、または、あまりに素人劇の幼稚さを出でないために、その観客層といふものは、甚だ狭く、且つ、安定してないのだ。
そこで、考へなければならぬことは、現在のままで行くと、日本の芝居は、早晩滅びるといふことだ。なぜなら、劇場に足を向けない人が次第に多くなり、劇場並に俳優は、その理由を正確に認識することができず、一時的の現象に目がくらんで、舞台は漸次堕落の方向をとり、遂に、「芝居でないもの」が劇場を占領することになることは明らかだからである。
これまでわが国で発表された脚本の種類を分けてみると、第一、芸術的純粋さのために、その出来栄は兎も角、現在の商業劇場では全く上演不可能と思はれるもの、第二に、芸術的要素はありながら、一般の劇場でもやつてやれないことはないと思はれるやうなもの、第三に、全く劇場側の註文に応じて、所謂興行価値(?)のみをねらつたものと、大体この三つであると思ふ。ところで、今日の状態から推せば、第一、第三のものだけが、違つた意味で存在理由を認められ、第二のものは、次第に書き手が少くなるのではないかと思ふ。なぜなら、これこそ、誰しも注意を払はず、従つて、需要も少く、これによつて「身を立てる」ことができない有様だからだ。然るに、また西洋の側であるが、「芸術的」であるといふことと、「興行価値」があるといふことを、今日、どう区別してゐるかといふに、決して、日本の興行者の区別するやうに、その二つを、全然反対なものと解してはゐないやうだ。だから、大ていの劇場主は、「興行価値」なるものを頭におく時、作品が相当「芸術的」であつても、一向苦にしないのである。要するに見物は、芸術的なものをも、舞台に求めてゐるのだし、元来、興行価値そのものも、作品の特殊な内容形式によつて生れるものだといふことを知つてゐるからだ。つまり、寧ろ、「芸術的」な要素に、何が加へられてあるかを問題として、上演脚本を選ぶのである。従つて、脚本作者は、自分の芸術的天分に応じ、精いつぱいの力で、調子を下げるなどといふことは露ほども考へず、ただ「面白いもの」を書かうとする。この場合、その作者にとつて、「面白い」といふことは、いふまでもなく、「芸術的であると同時に興行価値がある」といふ意味なのだ。
現在の日本では、「芸術的」といふことが、殆んど「六かしい」ことといふ意味に解され、また、実際、「面白くない」といふ意味にも解されすぎてゐる。さういふ「芸術的」も、あるにはあるであらうが、この誤解といへば誤解が、あらゆる方面から、今日の芝居を不振にし、下落させ、前途を暗くさせてゐる。商業劇場は、あまりに見物の「芸術慾」を無視し、新劇のグルウプが、昂然として見物の「疲労」を顧慮しない習慣はこれに原因するのだ。現在、その何れもが掴んでゐると信じる観客も、重ねて云ふが、近い将来に於て、劇場に背を向けるであらうし、新しい観客層は、断じて、現在の芝居に近づかうとはすまい。早く云へば、日本にも、改造、中央公論、乃至文芸春秋級の劇場が二つや三つあつても、もう今日では早くないと思ふがどうであらう。勿論、そこで、この三誌の創作欄に活字として発表されるやうな戯曲が、どしどし上演されなければならぬといふ意味ではない。恐らく、さういふ劇場向きの戯曲といふものは、今日まで現はれた戯曲の中、極めて少数であらうと思ふ。(一九三二・一)