稽古のしかた

岸田國士




 僕が先日都新聞に書いた感想のなかで、「新劇を面白くする」方法として、大ざつぱな個条をいくつか挙げた中に、「稽古は少くとも二ヶ月間ぶつ通しでやること」といふ一ヶ条がある。それについて、今更ではないが、そこここで疑問を抱く人があり、坪内士行氏なども、P・Cといふパンフレットでこの問題に触れてをられるのをみた。
 非常にお世辞のいい同氏の反駁を、僕が取立ててかれこれ云ふ筋合でもなし、殊に、演出に関する興味ある一家言は、僕を首肯せしめるに足るものであつた。僕も、さう云へば、数ヶ月前、本誌(「劇作」)上で「演出について」といふ一文を草し、坪内氏のお考へになつてゐるやうなことを、別の角度から、もつと堅苦しく述べておいたやうに思ふ。
 さて、演出の問題から、当然、稽古の問題にはひらねばならぬが、これは演出を論ずるよりも一層困難であつて、理由は、いふまでもなく僕に「俳優としての経験」がないからである。しかし、今日の日本の情勢では、やはり、作家が演出を引受け、心理学者が劇評をやり、翻訳家が戯曲史を説き、といふ風にでもしなければ、誰もなんにもしないことになりさうである。そこで、僕は、夙に、俳優の演技について論じ、劇団の経営について論じ、演出家の著作権について論ずることを、敢て憚らない次第であるが、序に、稽古について、僕の貧しい経験と、過去の貴重な見聞を土台に、若干、信じるところを述べてみようと思ふ。
 所謂演出法が、演出家の資質才能によつて、その根本的態度を異にするやうに、稽古の方法も亦、俳優の力量経験並びにそのテンペラメントに応じて、多種多様であらう。
 が、研究の便宜上、ここでは条件を限定して、日本の「新劇」が現在所有してゐる俳優のうち、比較的、素質も豊かで、比較的素直な成長を遂げてゐると思はれる若干の人々を集めて一劇団を結成したと仮定し、その劇団は、経済的に独立する必要と抱負の下に、少くとも一興行に一万人以上の観客を吸収する方針で万端の準備を整へる。
 演し物は一本立、都合によつては開幕劇を添へる。
 演出は、原則として僕の所謂「批評的演出」による。(勿論、場合により、個々の俳優に応じて、指導的乃至協議的演出の方法を並用すること)
 そこで、本読みによつて稽古を開く。
 配役を発表してから、一週間、台本たる戯曲の全般的研究。役々に関する必要なる解説及び各人物構成上の注意(モデル選択の方針又は職業的習癖の観察事項等を含む)――この期間は、毎日読み合せを一回づつ行ふ。
 第二週、第三週。主として、「白」の言ひ方。(このプログラムは演出家の目指す標準如何によつて決せられる。)
 第四週。立稽古開始。主として、動きの研究。一日一幕の割合。
 第五週。白、表情、科、動きの全体的統一。
 第六週。白、表情、科、動きの部分的工夫及び練磨。この間、演出家は主として、舞台のリズムを正確に測定し、演技のトオンを最高度に引上げる努力をする。
 第七週。部分的仕上げ――特に重要な場面、困難な場面の仕上げ。未熟な俳優の特別指導。音楽及音響効果との関係。
 第八週。メエキヤップ、コスチュウム、小道具しらべを兼ねて、本舞台を使用する稽古。
 第八週の終り、又は第九週目に舞台稽古。少くとも三回。
 稽古の時間は、一日三―五時間。但し、稽古の時間だけ「稽古」するのでないことは勿論である。俳優各自は、台詞を覚え込むばかりでなく、前日の稽古によつて到達したものへ、その翌日は、何物かを附加すべく稽古場へ出かけて行く覚悟が必要である。その附加すべきものは、演出者から与へられるものを期待する以外に、自ら何等かの新しい発見を用意して行かなくてはならぬ。これが稽古の根本要件である。即興とまぐれ当りは禁物である。
 この新しい発見は、如何にして得られるかといふと、先づ第一に、「テキストの理解」からであることは云ふまでもないが、その理解は、抑も教養と経験によつて広狭深浅の差を生ずるのである。が、演出家その他の協力指導が加はつて、ほぼ「完全な理解」に到達したら、その次は、その「人物」の立体的構成に必要な想像と観察を働かさなくてはならぬ。これがまた、俳優の教養と経験に俟つところが大であり、しかも、稽古中、最も多くの時間と努力を費さなければならぬ点である。さて、最後に、「自分の頭に描き得た」人物を、如何に表現するかといふ段になつて、はじめて、演出家の批判を必要とするのであるが、俳優の「頭に描かれた」人物といふものが、既に、その舞台全体のトオンを先づ決定することを忘れてはならぬ。しかも、未熟な、芸術的天分の少い俳優は、常に、その「人物」を、期せずして、調子の低い、類型的な、如何なる意味に於ても魅力のない人物として「頭に描いて」しまふのである。これを訂正することは、如何なる演出家と雖も困難至極である。これに反して、才能に富み、教養豊かなる俳優は、戯曲に描かれた人物を、最も正確に、最も溌剌と、しかも、時として、その戯曲が求めてゐる以上、「魅力ある」人物として自分の頭の中に描き出す能力を備へてゐるのである。
 芝居が「面白く」なるのは、多くこの秘密が土台になつてゐる。
 即ち、かういふ俳優ばかりなら、稽古は恐らく一週間で十分なのかもしれない。が、事実は、然らず。現在日本の新劇俳優諸君は、その才能と教養を補ふ意味に於て最少限二た月の稽古を必要とする。そして、せめて、脚本中の一役を「十分に」理解し、これを「演劇」が求めてゐる程度に「魅力づける」努力をしなければならぬ。
 今日までの新劇は、戯曲中の人物を、「消極的」に肉体化アンカルネしてゐたにすぎぬ。つまり、脚本と俳優とが手をつないで、辛うじて舞台の上を歩いてゐたのである。「面白い」芝居とは、少くとも、俳優が、独立して、舞台を闊歩せねばならぬ。脚本が、個々の人物に砕けて、俳優の中に融け込んでゐる状態から、「演劇」が始まるのである。脚本は俳優に人物Aを提供する。俳優は舞台に人物A'を運んで行くのである。AとA'との間には、文学から演劇に通ずる歴史の経過がある。即ち、作家的空想から俳優的空想への推移であり、発展である。戯曲の再現とはこのことを云ふのだ。過去の新劇は、畢竟、舞台より、この俳優的空想と、その表現の自発性を促すかの大切な感受性を排除してゐたのだ。芝居として面白くないのは当然である。同時に、日本の演出家が、常に俳優の指導者たらんとして、しかも真の俳優を作り得なかつた原因は、演劇論的にこの認識を欠いた結果に外ならぬ。
 そこでこの「俳優的空想」なるものであるが、これは、元来、事新らしく論じるまでもなく、俳優の演技を生み出す根元であつて、その「空想」の質によつて、舞台の色調と品位を決定するものである。歌舞伎には歌舞伎俳優的空想があり、新派には新派俳優的空想が、曾我乃家には曾我乃家的、エノケンにはエノケン的空想があつて、それぞれ、芝居を種々な意味で「面白く」してゐるが、一方、運命的に舞台を伝統と因襲と悪趣味の虜たらしめてゐるのである。新劇の成長には先づ、「新劇俳優的空想」の基礎から築き上げねばならぬ。今日の稽古に於ては、平生の修業は別として、この一点に研究熟練の重心をおくことが肝腎である。演出家も亦、現在に於ては、俳優相互の有機的関係を統一規整する一方、進んで、人物の構成を文学的解釈に委せず、俳優の「空想」を拡大させ、この感受性を助長させるために、あらゆる暗示と鞭撻を与へる用意がなくてはならぬ。
 二ヶ月は、かくの如くにして、瞬く間に過ぎ去るであらう。(一九三四・四)





底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第三巻第四号」
   1934(昭和9)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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